昼間に突然降ってきた大雨はすっかり上がっていた。まだ少し地面が湿っているが、上空に雲はぽつぽつと見えるだけだった。
秋の夕空はちょうど青色から橙色へと移り変わる頃だった。雨上がりの夕暮れは綺麗だということを私は知っていた。
講義を全て終えて帰宅する途中、私はしきりに空を眺めていた。傍から見れば、上ばかり見ているのんきな人間だと思われているかもしれない。しかし私はそんな視線よりも空のほうがよっぽど気になっていた。
11月にもなると日は随分と短くなる。4限を終えて講義棟から出る頃にはだいぶ日が傾いている。それでも10月のころはまだ空が青かったが、今はもう色が変わり始めていた。
空の色が変わる瞬間というのは、なかなか見られるものではない。私が気づいたときには空は橙に染まっているし、ぼーっとしているとそんな夕焼けも夜空に変わってしまう。今日はまさにグッドタイミングで、この空の色が変わる瞬間をお目にできるチャンスだった。
青色が徐々に薄くなり、西のほうからだんだん橙色を帯びてくる。まだ残っている雲は宝石が光を反射するように輝き始める。
ああ、綺麗だなあ。そんなありきたりな感想しか出てこなかった。そこでふと我に返り、メリーにもこの光景を見せたいと思い、連絡を入れた。
『メリー、夕焼けが綺麗よ。もし時間があったら見てみて』
シンプルにまとめたメッセージを送信した。メリーは今どこで何をしているだろう。下宿でお昼寝でもしているだろうか。
秋は夕暮れ、というフレーズをふと思い出した。確か枕草子だったか。1000年以上前の言葉なのに今でも通じるなんて素敵なことだと思った。
1000年前の日本人も、この光景を綺麗だと思う心を持っていたのだ。
信号待ちで足を止めると、少し息苦しいことに気付いた。感動で息が詰まるのとは少し違う感覚だった。私は夕焼けの橙色に、切なさや悲しさという負の感情を抱いていた。すうっと深呼吸してみると、この感情の原因は夕焼けだけではないということが分かった。
徐々に冷たくなってきた風、色づき始めた木々の葉、弱まっていく太陽の熱。秋を象徴するそれらが、私をメランコリーにさせる。
私は秋という季節が持つ独特の雰囲気に対して、こんな感情を抱いているのだ。終わりへと少しずつ進んでいくかのような寂しさが、秋の空気には含まれていた。私はこの空気が苦手だった。
春は始まり、冬は終わり。私たち日本人の四季感の中には、そうした意識が漠然と組み込まれている。その終わりの象徴である冬に向かっていく季節である秋は、終末感や閉塞感といったものを私に感じさせた。
私は秋が苦手なんだ。そう自覚した。十数年生きてきて初めて気が付いたことだった。
大きく息を吸い、体内に空気を少し留め、ふうと吐き出した。雨の匂いが残るひんやりとした空気が、肺の中を循環した。
突然強い風が私を襲った。帽子を押さえて風が止むのを待っていると、10秒ほどでおさまった。が、前を見ると信号は赤になっていた。
なんだか秋に翻弄されているような気がしてきた。秋のばーか、と心の中で悪態をつき、信号が変わるなり早足で下宿へと急いだ。もう夕焼けを見ることすら忘れていた。
下宿のドアを開けると、すっかり暗く冷たくなった部屋が私を迎えてくれた。荷物を置き、ホットカーペットの電源を入れようか迷い、結局やめておいた。仕送りは有限であるから、我慢できるうちは節約しなければならない。
あったかい部屋着に着替えようとしていると、携帯が震えた。見るとメリーから返信があった。
『見たわ。綺麗ね』
たった七文字の返信だった。それでも、メリーと同じものを見られたというのは嬉しかった。
メリーも私も、一般人とは違う不思議な目を持っている。だから、お互い見ているものが違うのではないかと不安になることがある。こうして同じものを見て同じ感想を抱けるというのは、とても嬉しいことなのだ。
『それはよかったわ。ところでメリー、明日予定空いてる?』
返事はすぐにきた。
『空いてるわ』
『じゃあ明日、朝からメリーの部屋行ってもいい?』
『いいわよ』
携帯を手から離し、ふうと息を吐いた。カーペットの上に仰向けに転がると、空気に接しているお腹側がひどく寒く感じられた。私はとっさにクッションを抱きしめたが、寒い部屋に放置されていたクッションは思いのほか冷たく、求めていた暖かみは得られなかった。
翌日、私は朝からメリーの下宿へと向かった。朝から雲一つない快晴で、放射冷却による冷えがひどかった。冬物のコートを着ようかと迷ったが、マフラーを巻いて秋用のトレンチコートで我慢しようと決めた。
メリーの下宿へは歩いて10分ほど。私の下宿から大学を挟んで向かい側にある、10階建ての高級マンションである。マンションの玄関には、大仰にも住民用の網膜認証装置がある。その隣に来客用のインターホン。私がメリーの部屋番号を入力すると、メリーはすぐに出てどうぞと言い、しばらくしてからドアが開いた。エントランスは高級ホテルのように広く、警備員が入り口前、エレベーター前に一人ずつ立っている。フロントのような場所にも警備員や管理人らしき人がおり、本当にホテルではないかと錯覚してしまう。
どう考えても学生が下宿で使うマンションではない。しかもメリーは最上階の角部屋に住んでいるというのだから驚きだ。家賃はいくら聞いてもメリーは教えてくれないが、20万円程度じゃ足りないだろうというのが私のおおよその計算だ。愛する娘のためにセキュリティのしっかりしたマンションを選んだとメリーから聞いた。メリーの実家は相当なお金持ちらしい。
エレベーターに乗って10階に上がり、角部屋のインターホンを鳴らすと、パジャマ姿のメリーが目をこすりながら出てきた。紫色の普段着とは違って、淡い水色のパジャマだった。目元に手を当てる仕草も相まってメリーが少し幼く見えた。
「今起きたの?」
「うん……どうぞ」
ふわあ、と大あくびをしながらメリーは部屋の中へ戻っていく。それに続いて私は靴を脱ぎ、カーペットの敷かれた廊下をリビングの方へと進んだ。
「着替えるから待ってて」
メリーはそう言い残して寝室へと戻っていった。私はテレビの正面に置かれたソファに座った。
間取りは3LDKらしいが、メリーは寝室とリビング以外は普段使っていない。それもそのはず、リビングはキッチンを除いても12畳ほどあるし、寝室だって10畳ほどの大きさだ。一人暮らしのスペースとしては十分すぎる。私のワンルームマンションは10畳とバスとトイレだけなのに。
お風呂は洗い場も浴槽も、二人で使用できるくらい広い(勿論メリーと二人で入ったことはない)。学生にとっては豪邸と言っても差し支えないほどの豪華さだ。
でも、私はこの部屋に憧れはするものの、住みたいとは思わなかった。こんな広いスペースを与えられても、実際に使うスペースは少しだけだ。実際にメリーも使っていない部屋が二つある。私は誰もいない部屋というのがひどく苦手だった。空白のスペースというのは、いるべき誰かがいないというような感覚を持ってしまうからだ。そこにあるはずのものがないといったような不完全さを、私の繊細な心は認めてしまう。そんな時、私はきっととても寂しい思いをするだろう。心が苦しくなって、外に飛び出してしまうかもしれない。だから、こうして友達の家に遊びに来る感覚で訪れるくらいがちょうどよかった。
皮のソファの触り心地を楽しんでいるうちに、メリーがいつもの服に着替えてやって来た。自宅だからか、あの白い帽子は被っていない。
「朝から来るとは言っていたけど、こんなに早いとは思わなかったわ。何か用事でもあるの?」
「ないわ。ただ、私が珍しく早起きしたから、いつも遅刻している分を還元しようと思って早く来たのよ」
「まあ、蓮子ってば優しいのね」
笑いながらメリーが頭に軽くチョップしてきた。あはは、と少し乾いた笑い声を返す。ちょっと怒ってるのかも。
「私、朝ごはんも朝風呂も、洗顔もまだなんだけど」
「メリーはすっぴんでも可愛いね」
「ご機嫌取ろうとしてる」
じとりと私を見てからメリーは洗面所に行って洗顔を始めた。寝起きのメリーの顔を見られるのは、世界広しと言えどもメリーの家族と私くらいだろう。そんな優越感が胸の内で膨らんでいた。底冷えの中歩いてきた私の身体も、徐々に温まっていくのを感じた。
テレビの上に掛けられた時計は午前8時半を指していた。休日に他人の家へ来る時間ではない。それでも快く私を上げてくれたメリーは優しい。すうっと鼻を鳴らすと、人の家の独特な香りを感じて、私は優しさに包まれているような気がしてきた。
洗顔を終えたメリーは戻ってくると朝食の準備を始めた。私はソファに座ったまま朝の情報番組を見ることにした。同じ場所にいながら二人とも違うことをしているというのは、私たちにしてみれば少し珍しい。しかし、そこに違和感はない。時間は淀みなくさらさらと流れていく。砂時計の砂がさらりと滑らかに落ちていくように。毎週、こんな休日の朝を迎えているかのような自然な雰囲気が私たちの間にあった。
「ねえ蓮子。本当に用も無く来たの? もちろんそれでも全然構わないのだけど」
「うん。何となく、メリーの家に行きたいなあって思っただけ。メリーはずっと住んでるから分からないだろうけど、私にとってはこんな豪邸、非日常と言っても過言ではないわ。だからここにいるだけで私は十分楽しいよ」
「非日常とか言う割にはくつろいでるし、部屋に馴染んでるような気がするけど」
「そうかな?」
それでも、人の家の匂いを嗅ぐだけでも気分が違ってくるものだ。自分の部屋でじっとしていると、私は停滞しているような気がしてくる。車が走る音や、子どもの声が窓から入ってきて、周りは動いているのに自分だけ止まっているような感じがするのだ。その感覚は私を不安にさせる。
メリーは冷蔵庫からレタスを出し、洗って水切りをしていた。次にフライパンを温めて目玉焼きとベーコンを焼き始めた。キッチンから香ばしい香りが漂ってくる。私は情報番組そっちのけでメリーの調理を見ることにした。
トーストを焼いているうちに今度はトマトを切り始めるメリー。そこでふと手が止まり、私の視線を見つけて首を傾げた。
「蓮子は朝ごはん食べたの?」
「食べてない。起きて着替えてすぐに来たから」
「じゃあ蓮子の分も作ってあげるわ。トマト一人で食べきれないの」
改めてトマトに包丁を入れ、くし切りにされたトマトは二枚の皿に移された。
手伝おうかとメリーに声をかけたが、いいとメリーは断った。私は母親がごはんを作るのを待っている子供のように手持ち無沙汰でメリーの様子を見ていた。レタスとトマトが盛り付けられたお皿と、目玉焼きとベーコンが乗せられたお皿、そしてトーストのお皿と、それぞれ二枚ずつが食卓に並んだ。てきぱきと調理をこなし、お皿に盛り付けていくメリーは主婦のようにも見えた。
トマトが食べきれないなら、トマトだけもらってもよかったのだけど、と調理途中で言いかけたが、ぐっと飲み込んで正解だった。こんなに素敵な朝食をメリーと食べられるなんて。早起きすればいいことがあるという諺はあながち間違っていないのかもと思った。
二人で向き合って食卓に座り、手を合わせた。まるで新婚の夫婦のようだと思った。もし私たちが結婚したら、こんな風になるのだろうか。
メリーはトーストに何も塗らない。そのままさくりとかじっていた。私は客人でありながら図々しくもいちごジャムを所望し、トーストに乗せて食べた。メリーは快くジャムのビンを差し出してくれたし、私も遠慮せずに言えた。そんな関係に私は「ああ、いいな」と思った。何となく、呼吸が合っている。合わせようという気持ちを持たなくていい相手なのだ。
朝の日差しがメリーの後ろの窓から部屋に入ってきていた。窓際の日向のフローリングは日光の熱を浴びて温かそうだ。後であそこに寝ころびたいと思った。暖房という人工的な熱ではない、天然の熱。作られたものではない暖かさに私は惹かれていた。
食べ物を口にしているせいかメリーはあまり喋らない。その表情にはイライラなどという様子はなく、ただ安らぎがあった。微妙に下がった目尻、まだ少し重みを感じていそうな瞼は、穏やかな印象を私に与えてくれる。
「食べたあとはどうしようか」
メリーがトーストの最後の欠片を飲み込んで言った。
「とりあえず食器を片づける」
「それはもちろん。その後は?」
「うーん。考えてないんだけど」
「そう。どこかに出かけたいわけではないのね?」
「うん。どちらかと言えばゆっくりしたいかな」
「アウトドア派の蓮子にもそういう日があるのね」
「うん。そういう日もある」
私が繰り返すと、メリーはくすりと笑った。メリーの笑顔に私も釣られて笑った。メリーはとても愉快そうに笑う。声は抑えているけど、目元や口元から溢れだしそうな笑いを感じ取れる。
静かで落ち着いていて、だけど心が躍るような雰囲気。こんなのはメリーといるときしか味わえない。
ありがとう。そして、ごちそうさま。
食事が終わるとメリーは食洗器にお皿やフライパンを突っ込んだ。これからの時期、手洗いしなくていいというのは非常に羨ましい。悲しいことにうちの下宿には食洗器なんてものはない。
メリーの寝室に行きたいと言うといいわよと返事をもらった。私ははしゃぐ子どものように一目散にメリーの寝室に入ると、すぐにベッドにダイブした。スプリングがきしんで音を立て、私の身体を宙へと跳ね返す。ポンポンと二三回と跳ね、それからシーツに思い切り顔を埋めた。
「ちょっと、何やってるの」
「私ベッドって好きなのよねー。実家にいたころから布団だったから、何だか特別な感じがするの」
枕を抱きしめようかと思ったけど、さすがに気持ち悪がられるから自重した。私はメリーのベッドの上でゴロゴロと転がり、うつ伏せになったり仰向けになったりしてはしゃいでいた。
「へんな蓮子」
「メリーのシーツいい匂い」
「恥ずかしいから嗅がないで」
メリーに顔を引きはがされた。メリーは耳が心なしか赤くなっているように見えた。私はにしし、と子どもっぽい笑い方をした。
はあ、と溜息を一つ落としたメリーはベッドに腰掛け、うつ伏せの私の背中あたりを見てくる。何かついてるのかと確認しても何もない。ただ考え込んでいるだけらしい。
「蓮子といるのに予定がないって何だか不思議な気分だわ」
「二人でいるときはいつだって予定がみっちりだもんね」
「そうね。たまにはのんびりする日があっていいわね」
「今日は秘封倶楽部の休日よ」
私はこっそりとメリーのベッドの香りを嗅ぎながら、休日のまったりした空気と友達の家のわくわくする空気を楽しんでいた。メリーはカバンから文庫本を取り出して読み始めた。
各々が思い思いの過ごし方をする。だけど二人は同じ部屋にいる。そんな状況に違和感を覚えないことがとても嬉しかった。仰向けになったまま見慣れない天井を見上げていると、メリーがページをめくる音が聞こえてくる。さらに耳を澄ますとメリーの静かな息遣いまで聞こえた。まるで子守唄のような心地よさを私は感じた。
ベッドに腰掛けていたメリーが突然ごろんと転がってくる。座っているのが疲れたのか、私の身体を少し押しのけて横向きで続きを読み始めた。シングルベッドに二人並ぶとかなり狭い。幸いベッドの片方は部屋の壁にくっつけられていたので、私が落ちる心配はなかった。
メリーは肩をゆっくりと上下させ呼吸をしている。シーツの上に散らばった金色の髪が私のすぐそばまで来ていた。私はメリーに気づかれないように、その綺麗な金髪の毛先を指先でいじって時間を潰した。
「私も何か本読みたいわ。メリーなんでもいいから貸して」
「じゃあこれ」
本棚の一番とりやすい位置にあったそれを私に渡してくる。それは私の知らない日本人女性作家の短編集だった。読み進めていると、何とも淡い青春を送る女の子たちが書かれていた。メリーったら純情なのね。
メリーと二人、ベッドの上で同じポーズで本を読んだ。若い女の子の繊細な心理描写を味わうようにゆっくり読んでいたので、読み終えて顔を上げると既に正午近くになっていた。
メリーはまだ読み終えていないようで、相変わらず同じ姿勢を維持していた。すごい集中力だ。私が読み終えてメリーの横顔をじっと見ていることにも気づいていなかった。日本人よりも彫りの深いメリーの顔を見ていると、メリーが外国人であるということを改めて認識させられる。あまりにも私の目が馴染んでしまっているせいで普段は何とも思わないが、彼女はとても綺麗な顔立ちをしている。髪だってサラサラだし、何より日本人には絶対にありえない天然のブロンドが、いつも周囲の目を惹きつけていた。
メリーに恋人はいないらしい。いてもおかしくない容姿と性格をしていると思うけど。日本の男は高嶺の花だと思って踏み出せないのか、あるいはメリーが言い寄る男を次々と振っているのだろうか。言語による壁はないから後者の可能性が高いと思った。メリーのお眼鏡にかなう男は日本にはいないらしい。
それとも日本に恋人がいないだけで、実は祖国に置いてきた男がいるとか。メリーの帰りを待ち続ける男がいても私は不思議には思わない。
私はと言えば、告白されたことはあっても交際したことはない。あれ、私たちって実は浮いた話がない悲しい二人組なのかな。
一人で考え事をしているうちにメリーが本を読み終えたらしい。横になったまま背伸びをしてからメリーはこちらに身体を向けた。
「なに見てたの?」
「メリーの顔」
「もう、なんでそんなもの見てるのよ」
「メリーってなんで恋人いないのかなあと思って」
「いないとおかしい? そんなのは個人の自由よ」
「うん。でも、見てみたい気もする。メリーが好きになる人っていうのを」
「あいにくだけど、恋人はできそうにないわ」
「どうして?」
メリーは露骨に溜息をつき、身体を起こした。
「必要性を感じないからよ」
そう言うとメリーは本を本棚に置き、私の返事を待たずに寝室を出ていってしまった。
必要性を感じないとはどういうことだろう。恋人がいることで得られるメリットに惹かれないということだろうか。よく分からない。そもそも恋というものはそういう打算的な行為だろうか。恋愛経験の少ない私には分からなかった。
もっと具体的な、例えば、性的な行為を必要としていないという意味だろうか。もしかしたらメリーには身体だけを許す相手がいるのかもしれない。メリーの容姿ならそんな人がいてもおかしくない。
キッチンに立ったメリーは大きな鍋でお湯を沸かしていた。パスタを作ってくれるらしい。二食もご馳走になるなんて申し訳ない気持ちになる。今度外食したときはおごってあげようと思った。
「メリーの手料理を二回も食べられるなんてね」
「手料理って言っても、ソースは既製品よ」
「それでも、誰かが作ってくれたものって嬉しいよ」
一人暮らしをするようになって、毎日ご飯を作ってくれていた母親のありがたみが分かった。自分じゃない誰かの分までご飯を作るというのは、それだけで愛のある行為なのだと私は知った。だから少なくとも、メリーは私に愛を持ってくれているのだ。
朝よりも少し気温が上がったリビングは寝室よりもはるかに居心地がよかった。南向きの窓のおかげで日光の暖かさが部屋の中に広がっていた。お昼からはこっちで過ごそうかな。
お皿に盛られた麺に既製品のミートソースがかけられる。その上からメリーは粉チーズとバジルを振りかけた。
「いただきます」
「召し上がれ」
本日二回目のメリーとの食事。二回もメリーの家の食卓で、しかも手料理を食べるなんて、なんだか同棲を始めたような気分だ。
既製品のソースは十分美味しいし、何よりメリーのパスタの茹で加減が絶妙だった。私は時間にルーズで家で作る時はよく柔らかくなってしまうのだけど、この麺は固さを残しつつ歯で噛みきれる柔らかさを持っていた。
「メリーって料理上手ね。きっといいお嫁さんになるわ」
「麺茹でてソースかけただけじゃない。まさか蓮子は全部コンビニ弁当で済ませてるの?」
「そんなことないわよ。私だってパスタ作るし、チャーハンやカレーも作るよ。ただ、毎回味が違うんだけどね」
「どうせ調味料の分量とか時間とか適当にやってるんでしょ」
「だって面倒じゃん」
「はあ……蓮子の結婚相手は苦労しそうね」
「でも、私たちってお互い浮いた話が無いよね」
「む……。言われてみればそうかも」
「まあメリーは可愛いから売れ残ることはないと思うけど、私は独身街道かもね」
「蓮子だって可愛いわよ」
お世辞か本音かは判断しづらい言い方だった。仮に本音だったとしても、それはメリーの主観であり、日本人男性の大多数の意見と一致するかはまた別の話だ。
私は自分が結婚した後のことを想像してみた。誰だかは知らないけど、そこには夫がいて、新婚生活を送っているとしよう。
その夫に私は一体何を求めるのだろう。いやそもそも何を思って結婚するのだろう。恋愛経験の乏しい私は、男女が交際する中で何を得て何を求めるのかがイマイチ分かっていない。また夫は私に何を求めるのだろう。身体を求められるのは当然だろうけど、その他には? 家事や出納の管理?
こんなことを考えるには経験が不足しすぎている気がする。
「ねえ、メリーは恋愛経験、あるわよね?」
「その聞き方、無かったら私相当ショックなんだけど」
「ああ、ごめん。でも、あるんでしょ? 聞かせてよ」
「うん。後でね」
二回目の後片付けもメリーに任せ、リビングのソファに深く腰掛けた。秋晴れの外をぼんやりと見ていると、食べた後だからか眠気を感じ始めた。キッチンのほうから聞こえる水音が徐々に遠くなっていくのを感じた。閉じるまいと頑張る瞼は、下まで落ちては戻ってきてを繰り返していた。
何とか睡魔に耐えていると片付けを終えたメリーがソファにやってきて隣に座った。
「おかえり。また任せちゃった」
「いいのよ。蓮子はお客だから」
「ありがと」
二人用のソファなので、メリーとの距離は結構近い。肩や手が触れそうで触れないくらいの距離だった。顔は30センチくらいしか離れていない。息がかかりそうだ。
「眠いの?」
「ああ、うん。ごめん。ちょっとね」
「寝るなら寝室で寝なさいよ。風邪引くから」
「うん。大丈夫。それより、メリーの恋愛話を聞かせて」
メリーは中学3年の頃の話を始めた。当時クラスでも人気だった男の子から告白されたそうだ。断ると女子達からのブーイングは免れないという理由で付き合い始めたらしい。よくある話だ。
何度か一緒に出かけた頃、男の子はメリーを家に呼んだらしい。
「それで、行ったんだ」
「うん。あの頃の私はそれはもう純粋な女の子だったわ」
「今もそうじゃない?」
メリーは首を傾げている。
男の子の部屋に行くと、メリーはすぐに押し倒されたそうだ。気の早い奴だ。でも、メリーが泣き始めると男の子は押さえつける手を離したらしい。
「きっと、私が求めていたものと相手が求めていたものが違っていたのね。いや、求めていたものは同じだったかもしれないけど、それを求める方法が違っていたのね」
「どういうこと?」
「つまり、彼は身体を交えることで何かを得ようとしていたのよ。でも、私にとってそれは、別の方法でも手に入るようなものだったのよ」
「うーん。よく分からないなあ」
「蓮子も恋をすれば分かるわよ。私も彼のことは好きだったわ。でも、私が彼に求めたものは、身体の交わりがなくても得られるものだったの。もしかしたら彼もそうだったのかもしれないけど、きっと彼は私を押し倒す以外の方法を知らなかったのよ」
「メリーは知ってたってこと?」
「知ってたというか、気づいていたというか、自然にできていたの」
ふう、とメリーが長めの息を吐いた。それから背中をソファに預けて、手をだらりと身体の横に垂らした。その時メリーの左手が私の右手に触れた。さっき大きな鍋を洗っていたからか、とても冷たかった。ついさっきまで水につけていたかのような冷たさだった。
私はメリーの手を両手で包み込んであげた。ちらと私の顔を見たメリーは、ありがとう、と言って私に左手を委ねてくれた。すべすべの白い手に自分の体温を分け与えるように、強く握った。やがてメリーの手が暖かくなってきた。私は包んでいた手を片方だけ放して、片方はそのままメリーの手に重ねていた。
「結局メリーは、彼に何を求めていたの?」
「安らぎとか、静寂とか、穏やかな時間とか、そういう曖昧なものよきっと」
「ふうん……」
私も恋人ができたら、その人にそういうものを求めるようになるのだろうか。寂しい夜に抱きしめてもらうのだろうか。恋人って大仰に考えていたけど、何だかそこまで特別なものではないのかな、と思った。
いつの間にかメリーの手が私の手よりも熱を帯びていた。じわじわと手のひらに伝わる熱で、メリーがリラックスしていることが伝わってくる。少しだけ握る力を強くすると、メリーも返事代わりに握り返してきた。それでも目は合わせない。私は窓の外を見て、メリーは天井を見つめていた。もしかしたら目を閉じているかもしれない。
お互い何も話さないでいると再び眠気が戻ってきた。メリーは寝るならベッドでと言っていたけど、リビングの方が暖かいし、何よりソファの座り心地がよすぎて動きたくなかった。右手はまだ重ねられている。静かな部屋に私とメリーが溶けていくようだ。私は瞼を閉じて眠気に身体を預けた。
ソファと毛布の間で私は目を覚ました。見慣れぬテレビや壁や窓が目の前に広がり、一瞬自分がどこにいるのか分からなかった。そうだ。私はメリーの部屋のソファで眠ってしまったのだった。
日が随分傾いていた。ちょうど昨日の帰宅時と同じ時間帯だった。西の空が橙に染まり始めるあの時間。本来暖かみのあるその暖色に、私は不安や焦燥を感じた。メリーはどこにいるのだろう。
寝室や他の部屋にもメリーの姿はなかった。もちろんトイレやバスルームの中にも。家の中は徐々に気温が下がりつつあった。私の心の中の不安はどんどん大きくなっていく。ここは本当にメリーの部屋だろうか。寝る前と後で、何かが変わってしまったのではないかと思った。メリーの家の中の光景を全て把握しているわけではない私は、そこは元いた場所だという確信を持てなかった。
メリーはどこにいる?
携帯電話を取り出してメリーに電話をかけた。しかし一定のコール音が響くだけで、メリーの声は聞こえてこない。そわそわしながら家の中を歩き回っていると、寝室の洋服掛けのところにメリーがいつもかぶっている白い帽子を発見した。どうしてこれがここにあるのだろう。外出しているならかぶっていっているはずなのに。まさか、誰かに連れ去られた? さすがに考えすぎだろうか。
もう一度窓の外を見ると、空は西からだんだん橙色へと変化していた。時間の経過を私に見せつけるかのような変化に私は少し苛立った。
秋、そして夕暮れは終焉の象徴。今まさに、何かが終わりに向かっているような気がした。花びらがはらはらと落ちて散っていくように、大事なものがこの手からこぼれ落ちていくような感覚に陥った。
「メリー。メリー? どこにいるの?」
とにかくメリーの姿が見たかった。声が聞きたかった。私は玄関から飛び出してメリーを探しに行こうとした。リビングから玄関を目指して走ろうとしたその時、ただいまーというメリーの声が聞こえた。
「メリー!」
「蓮子?」
「メリー? 本物よね?」
買い物袋を提げたメリーが玄関に立っていた。私はメリーの肩や腕に触れて、幻でないことを確かめた。
「何言ってるの蓮子。もしかして寝起きで寝ぼけてるんじゃないの」
よかった。メリーはいつものメリーだ。ちゃんと実体はあるし、声も聞こえる。私は安心して大きく息を吐いた。
「買い物に行ってたの。一週間分の食料を買いにね」
メリーはそう言ってスーパーの袋に入れられた野菜やお肉やお魚を見せてくれた。その姿に自分の母親の姿を重ね合わせてしまい、私は思わずメリーに抱き付きそうになった。
よく見るとメリーはちゃんと白い帽子をかぶっている。私が見つけたものは予備のものだったのだろう。そもそも洗濯するんだから1枚だけのはずがないのに、あの時の私はすっかり失念していた。
「蓮子どうしたの? 魂が抜けたみたいな表情してるわよ」
「あう、ごめん、取り乱して」
「いいのよ」
メリーは柔らかい笑顔を私にくれる。買ってきたものを冷蔵庫に移し替える様子を、私は黙って見つめて待っていた。母の帰宅を待ち続けていた子どものような気分だった。
「ねえ、ちょっとこっち来て」
私はメリーを寝室に呼び出し、ベッドに座らせた。私も隣に座り、先ほどソファに座っていた時のように手を握った。
「どうしたの?」
「嫌だったら離して」
「んー。別に嫌じゃないわよ」
私は手を繋いだまま顔を伏せた。とてもみっともない顔をしていると思っていたから、メリーに見せたくなかった。メリーは私の変な行動に何一つ文句を言わずに付き合ってくれる。
「メリー、嫌だったらちゃんと言ってね」
「うん? だから嫌じゃないってば」
「じゃあ、もう一つお願い」
「なあに?」
「その……ぎゅってしてほしい」
メリーの言葉が止まる。身体が止まる。
寝室の空気が一瞬凍りついた。
辞めておけばよかったと思った。
「女同士でこういうことするのはおかしいよね。ごめんね」
「いいのよ蓮子」
繋いでいたメリーの手が動いた。メリーはベッドから立ち上がり、私の身体を引き寄せ、抱きしめてくれた。頭を撫でられながら背中をさすられると、堪えていた思いが溢れ出してきて泣きそうになった。
自分のものじゃない体温を感じ、身体中がポカポカと温まっていく。胸の中で渦巻いていた不安が徐々に溶けていった。呼吸がゆっくりになる。ずっと働いていた頭が休まるのを感じた。
「私、秋が苦手なの」
メリーの耳元で静かに囁いた。メリーは私の髪を二回撫でてから口を開いた。
「センチメンタルになるから?」
「うん。何だか分かんないんだけど、何かが終わっていく感覚が、とてもとても怖いの。命が終わるわけでも、メリーとの関係が終わるわけでもないのに。決して抗えない大きな運命によって、私の中の、あるいは私の周囲の何かが終わりに向かっているような気がするの。とくに夕暮れが、そんな不安や恐怖をかき立てるの。だから、秋の夕暮れどきはいつも苦手なの」
きっとメリーには理解されないだろう。日本にしか四季が無いなんていうのは嘘だけど、日本人が独特の四季観を持っているのは事実なはずだ。それは私たち日本人のDNAに刻まれた、決して逃れられない感覚なのだ。
「蓮子はもっと甘えていいのよ」
「……ありがとう」
メリーの言葉が頭の中でゆっくりと響いては溶けていった。もっと甘えてもいいのよ。いつも遅刻とかで結構甘えているのに、メリーはそんなことを言ってくれる。
「実は今日メリーの家に来たのも、一人で家にいるのが怖かったからなの」
「なるほど」
「家にいると不安や焦燥に駆られて、そわそわしちゃうの。何かしなきゃいけないという気持ちがいっぱいで、心が休まらないの。だから、メリーと一緒にいたかった。メリーと一緒なら不安にはならないし、安心できるから」
「そう」
優しい声で私の不安の言葉を受け止めてくれる。私はやっぱりメリーがいないとだめだ。
「もうちょっとだけ、このままでいて」
「うん」
メリーはいつまでも背中をさすってくれた。母親が子どもをあやすときのような慈悲深い手つきだった。私はメリーの仕草に度々母親の姿を思い返していた。母親が子供に向ける無償の愛や安らぎのようなものを私は求めていた。
私が身体を離すと、背中をさすっていた手も離れていった。私たちは再びベッドに並んで腰掛け、目を合わせない会話が始まった。
「もっと甘えていいって言った」
「言ったわね」
「じゃあ……また寂しくなったら、メリーに抱きしめてもらう」
「それくらいお安い御用よ。ただし人目のないところでね」
「うん。何だかメリーにお願いしてばっかりね。私もメリーに何かしてあげられることないかな」
「蓮子は今のままで十分よ。私は蓮子からたくさんのものをもらってるわ」
「そんなことない」
「蓮子にあげているという自覚がなくても、私はちゃんともらってるの。それは蓮子が気づいていないだけ」
メリーはたまに不可解な言い回しをする。それが日本語の不自由によるものなのか、わざとなのか私には分からない。とにかく、含みのありそうな曖昧な言葉を使いたがることがたまにある。私も真意について聞くことが何度かあったが、いつもちゃんとは教えてくれなかった。
「私が気づいていないってどういうこと?」
「そのままの意味よ。恋人の必要性を感じないって言ったでしょ」
メリーが私のほうを見て笑いかけてきた。後は自分で考えてね、と言いたげに。昼間の曖昧な言葉が出てきて私は更に意味が分からなくなった。私が首を捻っているとメリーは、晩ご飯作るわね、とキッチンの方へ行ってしまった。
私は仕方なくベッドに寝転び、メリーの言葉を思い出していた。お昼前に言った言葉、ソファでメリーの恋愛話を聞いたときの言葉。
そのとき、私はようやくメリーの言葉を理解した。私はああと叫んだけどもう遅かった。寝室を飛び出してメリーを問いただそうとしたけど、メリーは素知らぬ顔でキッチンに立って調理を始めていた。私は何と声をかけていいか分からず、リビングであたふたするばかりだった。
「ねえ、メリー。さっきのはつまり、そういうことだよね?」
「二回も同じこと言わないわよ」
「うん。えっと、だから、私といるから」
「恥ずかしいから説明しないで!」
「ああ、ごめん」
「……」
メリーは顔を赤らめたまま無言でジャガイモを洗っていた。ずっとメリーの顔を見ているのも恥ずかしくなった私は、ソファに座って気持ちを落ち着けようとした。しかし、どうしても意識してしまう。メリーの告白まがいの言葉は、頭の中で何度も響いていた。
野菜を刻む音がキッチンから聞こえてくる。結局三食ともメリーにまかせてしまっていた。何か手伝いたいとは思うものの、今はメリーに近づくのも恥ずかしかった。
また、目を合わせない会話。
「メリー、何作ってるの?」
「カレーよ。蓮子好きでしょ」
違う、そうじゃない。私が言いたいのはそういうことではないのだ。こんなに離れて、顔も合わせていないのに、どうしてこんなに照れくさいのだろう。心臓が高鳴り、私の身体をドクンドクンと揺らす。口の中が乾いて気持ち悪かった。
今言わなきゃいけない。そうじゃないと私はいつまでも先送りにしてしまう。そんな風に思った。
「メリー、あのね」
「……」
「その……私も、メリーといる間は、恋人、いらないかな……なんて」
告白ではない。決して告白ではないと自分に言い聞かせた。好きだとか付き合ってほしいと言っているわけではない。あくまでもメリーがいれば恋人は必要ないという意味であって、と誰にも聞こえない言い訳を自分の中で繰り返した。
「ありがと……」
本当に小さな声が、調理の音に紛れて聞こえてきた。恐らく、ありがとうと言ってくれた。私は顔も合わせていないのに、恥ずかしくなって火照る顔を両手で覆ってしまった。今メリーに顔を覗かれたらきっと真っ赤になってるだろうな。
トントンと包丁が野菜を切る音が聞こえる。それからの私はメリーの調理を手伝うことなく、ずっとソファで恥ずかしさに悶えていた。できたカレーを向かい合って食べる時も、二人は終始無言だった。いただきます、とごちそうさま、だけが、食卓で発せられた言葉だった。
メリーが食器類を片づけ、本日三度目の食後の時間がやってきた。私たちはソファに並んで座っていた。未だにメリーのありがとうから一言も言葉を交わしていなかった。横目でメリーの様子を見ると、金髪の隙間から赤くなった耳たぶが見えた。やはりメリーも照れているようだ。
お昼の空気とはまた少し違う。あの時は気の合う友人同士の穏やかな空気が二人の間に流れていた。しかし今はどちらかと言えば恋人チックな、バレンタインやクリスマスのような雰囲気だった。私たちは女同士なのに。
いくら仲がいい友達とはいえ、キスやそれ以上のことはしない。友達として許される範囲のスキンシップに留めておくべきだと私は思っていた。それなのに私たちは、まるで初めての夜を迎える初々しいカップルのような空気を醸し出していた。二人の間に漂う空気を採取して匂いを嗅いでみると、甘い香りがしそうだ。
「蓮子、足元寒くない? 床暖房つける?」
先に口を開いたのはメリーだった。
「え、うん。じゃあお願い」
私は精一杯ぎこちなくならないように返事をした。メリーは立ち上がって壁に取り付けられている機械をいじっていた。そしてソファに戻ってくると、背もたれにかけっぱなしだった毛布を私にかぶせ、自分の身体も毛布の内側に入れた。
毛布に入るためにメリーは先ほどよりも少しだけ私のほうへ近づいてきていた。肩はほとんど触れていて、メリーの手はすぐに握れるくらいの距離だった。
テレビは電源が入っていない。窓の外は京都の夜景が広がっていた。忘れていたけど、ここは10階だから夜になるととても綺麗な夜景が見られる。
「ねえ、窓際まで行っていい?」
「いいけど。って、まさか、毛布にくるまったまま?」
「うん。メリーも来て」
「仕方ないわね……」
私はくるくると毛布を持ったまま回転した。360度毛布が身体を覆うようにすると、必然的にメリーに身体を密着させることになった。メリーの肩や首や髪が目の前にまで来ていた。
「ちょっと蓮子」
「これくらいいいでしょ。ハグよりもよっぽど軽いじゃない」
私は窓から見える夜景をありきたりな言葉で褒めた。本当は夜景は二の次で、メリーとこうして密着したかっただけだった。メリーはそのことを知ってか知らずか、私の行動に素直に従ってくれた。
私は毛布の中をまさぐり、メリーの手を発見して掴んだ。昼間とは打って変わってメリーの手は火傷しそうなくらい熱を帯びていた。
窓際は外からの冷たい空気のせいか少しだけ寒い。私はその寒さに、秋から冬にかけて変化していく季節を連想した。何かが終わっていく季節。花びらや葉が散っていく季節。大切な何かを失ってしまうような気がする。けど、今は大丈夫だ。私の大切なものは、この手の中にちゃんとある。
秘封倶楽部は、終わりなんかしない。
「しばらく握ってていい?」
「うん……」
メリーの体温や実体を改めて感じ、確かめる。私の大切なものはここにある。なくなりはしない。私は未だ不安を心の片隅に残す自分にそう言い聞かせた。またあの夕暮れを見てしまっても大丈夫なように。
「これからもよろしくね、メリー」
メリーは返事の代わりに私の手を強く握ってくれた。この暖かさと感触を、いつまでも覚えていたいと思った。
秋の夕空はちょうど青色から橙色へと移り変わる頃だった。雨上がりの夕暮れは綺麗だということを私は知っていた。
講義を全て終えて帰宅する途中、私はしきりに空を眺めていた。傍から見れば、上ばかり見ているのんきな人間だと思われているかもしれない。しかし私はそんな視線よりも空のほうがよっぽど気になっていた。
11月にもなると日は随分と短くなる。4限を終えて講義棟から出る頃にはだいぶ日が傾いている。それでも10月のころはまだ空が青かったが、今はもう色が変わり始めていた。
空の色が変わる瞬間というのは、なかなか見られるものではない。私が気づいたときには空は橙に染まっているし、ぼーっとしているとそんな夕焼けも夜空に変わってしまう。今日はまさにグッドタイミングで、この空の色が変わる瞬間をお目にできるチャンスだった。
青色が徐々に薄くなり、西のほうからだんだん橙色を帯びてくる。まだ残っている雲は宝石が光を反射するように輝き始める。
ああ、綺麗だなあ。そんなありきたりな感想しか出てこなかった。そこでふと我に返り、メリーにもこの光景を見せたいと思い、連絡を入れた。
『メリー、夕焼けが綺麗よ。もし時間があったら見てみて』
シンプルにまとめたメッセージを送信した。メリーは今どこで何をしているだろう。下宿でお昼寝でもしているだろうか。
秋は夕暮れ、というフレーズをふと思い出した。確か枕草子だったか。1000年以上前の言葉なのに今でも通じるなんて素敵なことだと思った。
1000年前の日本人も、この光景を綺麗だと思う心を持っていたのだ。
信号待ちで足を止めると、少し息苦しいことに気付いた。感動で息が詰まるのとは少し違う感覚だった。私は夕焼けの橙色に、切なさや悲しさという負の感情を抱いていた。すうっと深呼吸してみると、この感情の原因は夕焼けだけではないということが分かった。
徐々に冷たくなってきた風、色づき始めた木々の葉、弱まっていく太陽の熱。秋を象徴するそれらが、私をメランコリーにさせる。
私は秋という季節が持つ独特の雰囲気に対して、こんな感情を抱いているのだ。終わりへと少しずつ進んでいくかのような寂しさが、秋の空気には含まれていた。私はこの空気が苦手だった。
春は始まり、冬は終わり。私たち日本人の四季感の中には、そうした意識が漠然と組み込まれている。その終わりの象徴である冬に向かっていく季節である秋は、終末感や閉塞感といったものを私に感じさせた。
私は秋が苦手なんだ。そう自覚した。十数年生きてきて初めて気が付いたことだった。
大きく息を吸い、体内に空気を少し留め、ふうと吐き出した。雨の匂いが残るひんやりとした空気が、肺の中を循環した。
突然強い風が私を襲った。帽子を押さえて風が止むのを待っていると、10秒ほどでおさまった。が、前を見ると信号は赤になっていた。
なんだか秋に翻弄されているような気がしてきた。秋のばーか、と心の中で悪態をつき、信号が変わるなり早足で下宿へと急いだ。もう夕焼けを見ることすら忘れていた。
下宿のドアを開けると、すっかり暗く冷たくなった部屋が私を迎えてくれた。荷物を置き、ホットカーペットの電源を入れようか迷い、結局やめておいた。仕送りは有限であるから、我慢できるうちは節約しなければならない。
あったかい部屋着に着替えようとしていると、携帯が震えた。見るとメリーから返信があった。
『見たわ。綺麗ね』
たった七文字の返信だった。それでも、メリーと同じものを見られたというのは嬉しかった。
メリーも私も、一般人とは違う不思議な目を持っている。だから、お互い見ているものが違うのではないかと不安になることがある。こうして同じものを見て同じ感想を抱けるというのは、とても嬉しいことなのだ。
『それはよかったわ。ところでメリー、明日予定空いてる?』
返事はすぐにきた。
『空いてるわ』
『じゃあ明日、朝からメリーの部屋行ってもいい?』
『いいわよ』
携帯を手から離し、ふうと息を吐いた。カーペットの上に仰向けに転がると、空気に接しているお腹側がひどく寒く感じられた。私はとっさにクッションを抱きしめたが、寒い部屋に放置されていたクッションは思いのほか冷たく、求めていた暖かみは得られなかった。
翌日、私は朝からメリーの下宿へと向かった。朝から雲一つない快晴で、放射冷却による冷えがひどかった。冬物のコートを着ようかと迷ったが、マフラーを巻いて秋用のトレンチコートで我慢しようと決めた。
メリーの下宿へは歩いて10分ほど。私の下宿から大学を挟んで向かい側にある、10階建ての高級マンションである。マンションの玄関には、大仰にも住民用の網膜認証装置がある。その隣に来客用のインターホン。私がメリーの部屋番号を入力すると、メリーはすぐに出てどうぞと言い、しばらくしてからドアが開いた。エントランスは高級ホテルのように広く、警備員が入り口前、エレベーター前に一人ずつ立っている。フロントのような場所にも警備員や管理人らしき人がおり、本当にホテルではないかと錯覚してしまう。
どう考えても学生が下宿で使うマンションではない。しかもメリーは最上階の角部屋に住んでいるというのだから驚きだ。家賃はいくら聞いてもメリーは教えてくれないが、20万円程度じゃ足りないだろうというのが私のおおよその計算だ。愛する娘のためにセキュリティのしっかりしたマンションを選んだとメリーから聞いた。メリーの実家は相当なお金持ちらしい。
エレベーターに乗って10階に上がり、角部屋のインターホンを鳴らすと、パジャマ姿のメリーが目をこすりながら出てきた。紫色の普段着とは違って、淡い水色のパジャマだった。目元に手を当てる仕草も相まってメリーが少し幼く見えた。
「今起きたの?」
「うん……どうぞ」
ふわあ、と大あくびをしながらメリーは部屋の中へ戻っていく。それに続いて私は靴を脱ぎ、カーペットの敷かれた廊下をリビングの方へと進んだ。
「着替えるから待ってて」
メリーはそう言い残して寝室へと戻っていった。私はテレビの正面に置かれたソファに座った。
間取りは3LDKらしいが、メリーは寝室とリビング以外は普段使っていない。それもそのはず、リビングはキッチンを除いても12畳ほどあるし、寝室だって10畳ほどの大きさだ。一人暮らしのスペースとしては十分すぎる。私のワンルームマンションは10畳とバスとトイレだけなのに。
お風呂は洗い場も浴槽も、二人で使用できるくらい広い(勿論メリーと二人で入ったことはない)。学生にとっては豪邸と言っても差し支えないほどの豪華さだ。
でも、私はこの部屋に憧れはするものの、住みたいとは思わなかった。こんな広いスペースを与えられても、実際に使うスペースは少しだけだ。実際にメリーも使っていない部屋が二つある。私は誰もいない部屋というのがひどく苦手だった。空白のスペースというのは、いるべき誰かがいないというような感覚を持ってしまうからだ。そこにあるはずのものがないといったような不完全さを、私の繊細な心は認めてしまう。そんな時、私はきっととても寂しい思いをするだろう。心が苦しくなって、外に飛び出してしまうかもしれない。だから、こうして友達の家に遊びに来る感覚で訪れるくらいがちょうどよかった。
皮のソファの触り心地を楽しんでいるうちに、メリーがいつもの服に着替えてやって来た。自宅だからか、あの白い帽子は被っていない。
「朝から来るとは言っていたけど、こんなに早いとは思わなかったわ。何か用事でもあるの?」
「ないわ。ただ、私が珍しく早起きしたから、いつも遅刻している分を還元しようと思って早く来たのよ」
「まあ、蓮子ってば優しいのね」
笑いながらメリーが頭に軽くチョップしてきた。あはは、と少し乾いた笑い声を返す。ちょっと怒ってるのかも。
「私、朝ごはんも朝風呂も、洗顔もまだなんだけど」
「メリーはすっぴんでも可愛いね」
「ご機嫌取ろうとしてる」
じとりと私を見てからメリーは洗面所に行って洗顔を始めた。寝起きのメリーの顔を見られるのは、世界広しと言えどもメリーの家族と私くらいだろう。そんな優越感が胸の内で膨らんでいた。底冷えの中歩いてきた私の身体も、徐々に温まっていくのを感じた。
テレビの上に掛けられた時計は午前8時半を指していた。休日に他人の家へ来る時間ではない。それでも快く私を上げてくれたメリーは優しい。すうっと鼻を鳴らすと、人の家の独特な香りを感じて、私は優しさに包まれているような気がしてきた。
洗顔を終えたメリーは戻ってくると朝食の準備を始めた。私はソファに座ったまま朝の情報番組を見ることにした。同じ場所にいながら二人とも違うことをしているというのは、私たちにしてみれば少し珍しい。しかし、そこに違和感はない。時間は淀みなくさらさらと流れていく。砂時計の砂がさらりと滑らかに落ちていくように。毎週、こんな休日の朝を迎えているかのような自然な雰囲気が私たちの間にあった。
「ねえ蓮子。本当に用も無く来たの? もちろんそれでも全然構わないのだけど」
「うん。何となく、メリーの家に行きたいなあって思っただけ。メリーはずっと住んでるから分からないだろうけど、私にとってはこんな豪邸、非日常と言っても過言ではないわ。だからここにいるだけで私は十分楽しいよ」
「非日常とか言う割にはくつろいでるし、部屋に馴染んでるような気がするけど」
「そうかな?」
それでも、人の家の匂いを嗅ぐだけでも気分が違ってくるものだ。自分の部屋でじっとしていると、私は停滞しているような気がしてくる。車が走る音や、子どもの声が窓から入ってきて、周りは動いているのに自分だけ止まっているような感じがするのだ。その感覚は私を不安にさせる。
メリーは冷蔵庫からレタスを出し、洗って水切りをしていた。次にフライパンを温めて目玉焼きとベーコンを焼き始めた。キッチンから香ばしい香りが漂ってくる。私は情報番組そっちのけでメリーの調理を見ることにした。
トーストを焼いているうちに今度はトマトを切り始めるメリー。そこでふと手が止まり、私の視線を見つけて首を傾げた。
「蓮子は朝ごはん食べたの?」
「食べてない。起きて着替えてすぐに来たから」
「じゃあ蓮子の分も作ってあげるわ。トマト一人で食べきれないの」
改めてトマトに包丁を入れ、くし切りにされたトマトは二枚の皿に移された。
手伝おうかとメリーに声をかけたが、いいとメリーは断った。私は母親がごはんを作るのを待っている子供のように手持ち無沙汰でメリーの様子を見ていた。レタスとトマトが盛り付けられたお皿と、目玉焼きとベーコンが乗せられたお皿、そしてトーストのお皿と、それぞれ二枚ずつが食卓に並んだ。てきぱきと調理をこなし、お皿に盛り付けていくメリーは主婦のようにも見えた。
トマトが食べきれないなら、トマトだけもらってもよかったのだけど、と調理途中で言いかけたが、ぐっと飲み込んで正解だった。こんなに素敵な朝食をメリーと食べられるなんて。早起きすればいいことがあるという諺はあながち間違っていないのかもと思った。
二人で向き合って食卓に座り、手を合わせた。まるで新婚の夫婦のようだと思った。もし私たちが結婚したら、こんな風になるのだろうか。
メリーはトーストに何も塗らない。そのままさくりとかじっていた。私は客人でありながら図々しくもいちごジャムを所望し、トーストに乗せて食べた。メリーは快くジャムのビンを差し出してくれたし、私も遠慮せずに言えた。そんな関係に私は「ああ、いいな」と思った。何となく、呼吸が合っている。合わせようという気持ちを持たなくていい相手なのだ。
朝の日差しがメリーの後ろの窓から部屋に入ってきていた。窓際の日向のフローリングは日光の熱を浴びて温かそうだ。後であそこに寝ころびたいと思った。暖房という人工的な熱ではない、天然の熱。作られたものではない暖かさに私は惹かれていた。
食べ物を口にしているせいかメリーはあまり喋らない。その表情にはイライラなどという様子はなく、ただ安らぎがあった。微妙に下がった目尻、まだ少し重みを感じていそうな瞼は、穏やかな印象を私に与えてくれる。
「食べたあとはどうしようか」
メリーがトーストの最後の欠片を飲み込んで言った。
「とりあえず食器を片づける」
「それはもちろん。その後は?」
「うーん。考えてないんだけど」
「そう。どこかに出かけたいわけではないのね?」
「うん。どちらかと言えばゆっくりしたいかな」
「アウトドア派の蓮子にもそういう日があるのね」
「うん。そういう日もある」
私が繰り返すと、メリーはくすりと笑った。メリーの笑顔に私も釣られて笑った。メリーはとても愉快そうに笑う。声は抑えているけど、目元や口元から溢れだしそうな笑いを感じ取れる。
静かで落ち着いていて、だけど心が躍るような雰囲気。こんなのはメリーといるときしか味わえない。
ありがとう。そして、ごちそうさま。
食事が終わるとメリーは食洗器にお皿やフライパンを突っ込んだ。これからの時期、手洗いしなくていいというのは非常に羨ましい。悲しいことにうちの下宿には食洗器なんてものはない。
メリーの寝室に行きたいと言うといいわよと返事をもらった。私ははしゃぐ子どものように一目散にメリーの寝室に入ると、すぐにベッドにダイブした。スプリングがきしんで音を立て、私の身体を宙へと跳ね返す。ポンポンと二三回と跳ね、それからシーツに思い切り顔を埋めた。
「ちょっと、何やってるの」
「私ベッドって好きなのよねー。実家にいたころから布団だったから、何だか特別な感じがするの」
枕を抱きしめようかと思ったけど、さすがに気持ち悪がられるから自重した。私はメリーのベッドの上でゴロゴロと転がり、うつ伏せになったり仰向けになったりしてはしゃいでいた。
「へんな蓮子」
「メリーのシーツいい匂い」
「恥ずかしいから嗅がないで」
メリーに顔を引きはがされた。メリーは耳が心なしか赤くなっているように見えた。私はにしし、と子どもっぽい笑い方をした。
はあ、と溜息を一つ落としたメリーはベッドに腰掛け、うつ伏せの私の背中あたりを見てくる。何かついてるのかと確認しても何もない。ただ考え込んでいるだけらしい。
「蓮子といるのに予定がないって何だか不思議な気分だわ」
「二人でいるときはいつだって予定がみっちりだもんね」
「そうね。たまにはのんびりする日があっていいわね」
「今日は秘封倶楽部の休日よ」
私はこっそりとメリーのベッドの香りを嗅ぎながら、休日のまったりした空気と友達の家のわくわくする空気を楽しんでいた。メリーはカバンから文庫本を取り出して読み始めた。
各々が思い思いの過ごし方をする。だけど二人は同じ部屋にいる。そんな状況に違和感を覚えないことがとても嬉しかった。仰向けになったまま見慣れない天井を見上げていると、メリーがページをめくる音が聞こえてくる。さらに耳を澄ますとメリーの静かな息遣いまで聞こえた。まるで子守唄のような心地よさを私は感じた。
ベッドに腰掛けていたメリーが突然ごろんと転がってくる。座っているのが疲れたのか、私の身体を少し押しのけて横向きで続きを読み始めた。シングルベッドに二人並ぶとかなり狭い。幸いベッドの片方は部屋の壁にくっつけられていたので、私が落ちる心配はなかった。
メリーは肩をゆっくりと上下させ呼吸をしている。シーツの上に散らばった金色の髪が私のすぐそばまで来ていた。私はメリーに気づかれないように、その綺麗な金髪の毛先を指先でいじって時間を潰した。
「私も何か本読みたいわ。メリーなんでもいいから貸して」
「じゃあこれ」
本棚の一番とりやすい位置にあったそれを私に渡してくる。それは私の知らない日本人女性作家の短編集だった。読み進めていると、何とも淡い青春を送る女の子たちが書かれていた。メリーったら純情なのね。
メリーと二人、ベッドの上で同じポーズで本を読んだ。若い女の子の繊細な心理描写を味わうようにゆっくり読んでいたので、読み終えて顔を上げると既に正午近くになっていた。
メリーはまだ読み終えていないようで、相変わらず同じ姿勢を維持していた。すごい集中力だ。私が読み終えてメリーの横顔をじっと見ていることにも気づいていなかった。日本人よりも彫りの深いメリーの顔を見ていると、メリーが外国人であるということを改めて認識させられる。あまりにも私の目が馴染んでしまっているせいで普段は何とも思わないが、彼女はとても綺麗な顔立ちをしている。髪だってサラサラだし、何より日本人には絶対にありえない天然のブロンドが、いつも周囲の目を惹きつけていた。
メリーに恋人はいないらしい。いてもおかしくない容姿と性格をしていると思うけど。日本の男は高嶺の花だと思って踏み出せないのか、あるいはメリーが言い寄る男を次々と振っているのだろうか。言語による壁はないから後者の可能性が高いと思った。メリーのお眼鏡にかなう男は日本にはいないらしい。
それとも日本に恋人がいないだけで、実は祖国に置いてきた男がいるとか。メリーの帰りを待ち続ける男がいても私は不思議には思わない。
私はと言えば、告白されたことはあっても交際したことはない。あれ、私たちって実は浮いた話がない悲しい二人組なのかな。
一人で考え事をしているうちにメリーが本を読み終えたらしい。横になったまま背伸びをしてからメリーはこちらに身体を向けた。
「なに見てたの?」
「メリーの顔」
「もう、なんでそんなもの見てるのよ」
「メリーってなんで恋人いないのかなあと思って」
「いないとおかしい? そんなのは個人の自由よ」
「うん。でも、見てみたい気もする。メリーが好きになる人っていうのを」
「あいにくだけど、恋人はできそうにないわ」
「どうして?」
メリーは露骨に溜息をつき、身体を起こした。
「必要性を感じないからよ」
そう言うとメリーは本を本棚に置き、私の返事を待たずに寝室を出ていってしまった。
必要性を感じないとはどういうことだろう。恋人がいることで得られるメリットに惹かれないということだろうか。よく分からない。そもそも恋というものはそういう打算的な行為だろうか。恋愛経験の少ない私には分からなかった。
もっと具体的な、例えば、性的な行為を必要としていないという意味だろうか。もしかしたらメリーには身体だけを許す相手がいるのかもしれない。メリーの容姿ならそんな人がいてもおかしくない。
キッチンに立ったメリーは大きな鍋でお湯を沸かしていた。パスタを作ってくれるらしい。二食もご馳走になるなんて申し訳ない気持ちになる。今度外食したときはおごってあげようと思った。
「メリーの手料理を二回も食べられるなんてね」
「手料理って言っても、ソースは既製品よ」
「それでも、誰かが作ってくれたものって嬉しいよ」
一人暮らしをするようになって、毎日ご飯を作ってくれていた母親のありがたみが分かった。自分じゃない誰かの分までご飯を作るというのは、それだけで愛のある行為なのだと私は知った。だから少なくとも、メリーは私に愛を持ってくれているのだ。
朝よりも少し気温が上がったリビングは寝室よりもはるかに居心地がよかった。南向きの窓のおかげで日光の暖かさが部屋の中に広がっていた。お昼からはこっちで過ごそうかな。
お皿に盛られた麺に既製品のミートソースがかけられる。その上からメリーは粉チーズとバジルを振りかけた。
「いただきます」
「召し上がれ」
本日二回目のメリーとの食事。二回もメリーの家の食卓で、しかも手料理を食べるなんて、なんだか同棲を始めたような気分だ。
既製品のソースは十分美味しいし、何よりメリーのパスタの茹で加減が絶妙だった。私は時間にルーズで家で作る時はよく柔らかくなってしまうのだけど、この麺は固さを残しつつ歯で噛みきれる柔らかさを持っていた。
「メリーって料理上手ね。きっといいお嫁さんになるわ」
「麺茹でてソースかけただけじゃない。まさか蓮子は全部コンビニ弁当で済ませてるの?」
「そんなことないわよ。私だってパスタ作るし、チャーハンやカレーも作るよ。ただ、毎回味が違うんだけどね」
「どうせ調味料の分量とか時間とか適当にやってるんでしょ」
「だって面倒じゃん」
「はあ……蓮子の結婚相手は苦労しそうね」
「でも、私たちってお互い浮いた話が無いよね」
「む……。言われてみればそうかも」
「まあメリーは可愛いから売れ残ることはないと思うけど、私は独身街道かもね」
「蓮子だって可愛いわよ」
お世辞か本音かは判断しづらい言い方だった。仮に本音だったとしても、それはメリーの主観であり、日本人男性の大多数の意見と一致するかはまた別の話だ。
私は自分が結婚した後のことを想像してみた。誰だかは知らないけど、そこには夫がいて、新婚生活を送っているとしよう。
その夫に私は一体何を求めるのだろう。いやそもそも何を思って結婚するのだろう。恋愛経験の乏しい私は、男女が交際する中で何を得て何を求めるのかがイマイチ分かっていない。また夫は私に何を求めるのだろう。身体を求められるのは当然だろうけど、その他には? 家事や出納の管理?
こんなことを考えるには経験が不足しすぎている気がする。
「ねえ、メリーは恋愛経験、あるわよね?」
「その聞き方、無かったら私相当ショックなんだけど」
「ああ、ごめん。でも、あるんでしょ? 聞かせてよ」
「うん。後でね」
二回目の後片付けもメリーに任せ、リビングのソファに深く腰掛けた。秋晴れの外をぼんやりと見ていると、食べた後だからか眠気を感じ始めた。キッチンのほうから聞こえる水音が徐々に遠くなっていくのを感じた。閉じるまいと頑張る瞼は、下まで落ちては戻ってきてを繰り返していた。
何とか睡魔に耐えていると片付けを終えたメリーがソファにやってきて隣に座った。
「おかえり。また任せちゃった」
「いいのよ。蓮子はお客だから」
「ありがと」
二人用のソファなので、メリーとの距離は結構近い。肩や手が触れそうで触れないくらいの距離だった。顔は30センチくらいしか離れていない。息がかかりそうだ。
「眠いの?」
「ああ、うん。ごめん。ちょっとね」
「寝るなら寝室で寝なさいよ。風邪引くから」
「うん。大丈夫。それより、メリーの恋愛話を聞かせて」
メリーは中学3年の頃の話を始めた。当時クラスでも人気だった男の子から告白されたそうだ。断ると女子達からのブーイングは免れないという理由で付き合い始めたらしい。よくある話だ。
何度か一緒に出かけた頃、男の子はメリーを家に呼んだらしい。
「それで、行ったんだ」
「うん。あの頃の私はそれはもう純粋な女の子だったわ」
「今もそうじゃない?」
メリーは首を傾げている。
男の子の部屋に行くと、メリーはすぐに押し倒されたそうだ。気の早い奴だ。でも、メリーが泣き始めると男の子は押さえつける手を離したらしい。
「きっと、私が求めていたものと相手が求めていたものが違っていたのね。いや、求めていたものは同じだったかもしれないけど、それを求める方法が違っていたのね」
「どういうこと?」
「つまり、彼は身体を交えることで何かを得ようとしていたのよ。でも、私にとってそれは、別の方法でも手に入るようなものだったのよ」
「うーん。よく分からないなあ」
「蓮子も恋をすれば分かるわよ。私も彼のことは好きだったわ。でも、私が彼に求めたものは、身体の交わりがなくても得られるものだったの。もしかしたら彼もそうだったのかもしれないけど、きっと彼は私を押し倒す以外の方法を知らなかったのよ」
「メリーは知ってたってこと?」
「知ってたというか、気づいていたというか、自然にできていたの」
ふう、とメリーが長めの息を吐いた。それから背中をソファに預けて、手をだらりと身体の横に垂らした。その時メリーの左手が私の右手に触れた。さっき大きな鍋を洗っていたからか、とても冷たかった。ついさっきまで水につけていたかのような冷たさだった。
私はメリーの手を両手で包み込んであげた。ちらと私の顔を見たメリーは、ありがとう、と言って私に左手を委ねてくれた。すべすべの白い手に自分の体温を分け与えるように、強く握った。やがてメリーの手が暖かくなってきた。私は包んでいた手を片方だけ放して、片方はそのままメリーの手に重ねていた。
「結局メリーは、彼に何を求めていたの?」
「安らぎとか、静寂とか、穏やかな時間とか、そういう曖昧なものよきっと」
「ふうん……」
私も恋人ができたら、その人にそういうものを求めるようになるのだろうか。寂しい夜に抱きしめてもらうのだろうか。恋人って大仰に考えていたけど、何だかそこまで特別なものではないのかな、と思った。
いつの間にかメリーの手が私の手よりも熱を帯びていた。じわじわと手のひらに伝わる熱で、メリーがリラックスしていることが伝わってくる。少しだけ握る力を強くすると、メリーも返事代わりに握り返してきた。それでも目は合わせない。私は窓の外を見て、メリーは天井を見つめていた。もしかしたら目を閉じているかもしれない。
お互い何も話さないでいると再び眠気が戻ってきた。メリーは寝るならベッドでと言っていたけど、リビングの方が暖かいし、何よりソファの座り心地がよすぎて動きたくなかった。右手はまだ重ねられている。静かな部屋に私とメリーが溶けていくようだ。私は瞼を閉じて眠気に身体を預けた。
ソファと毛布の間で私は目を覚ました。見慣れぬテレビや壁や窓が目の前に広がり、一瞬自分がどこにいるのか分からなかった。そうだ。私はメリーの部屋のソファで眠ってしまったのだった。
日が随分傾いていた。ちょうど昨日の帰宅時と同じ時間帯だった。西の空が橙に染まり始めるあの時間。本来暖かみのあるその暖色に、私は不安や焦燥を感じた。メリーはどこにいるのだろう。
寝室や他の部屋にもメリーの姿はなかった。もちろんトイレやバスルームの中にも。家の中は徐々に気温が下がりつつあった。私の心の中の不安はどんどん大きくなっていく。ここは本当にメリーの部屋だろうか。寝る前と後で、何かが変わってしまったのではないかと思った。メリーの家の中の光景を全て把握しているわけではない私は、そこは元いた場所だという確信を持てなかった。
メリーはどこにいる?
携帯電話を取り出してメリーに電話をかけた。しかし一定のコール音が響くだけで、メリーの声は聞こえてこない。そわそわしながら家の中を歩き回っていると、寝室の洋服掛けのところにメリーがいつもかぶっている白い帽子を発見した。どうしてこれがここにあるのだろう。外出しているならかぶっていっているはずなのに。まさか、誰かに連れ去られた? さすがに考えすぎだろうか。
もう一度窓の外を見ると、空は西からだんだん橙色へと変化していた。時間の経過を私に見せつけるかのような変化に私は少し苛立った。
秋、そして夕暮れは終焉の象徴。今まさに、何かが終わりに向かっているような気がした。花びらがはらはらと落ちて散っていくように、大事なものがこの手からこぼれ落ちていくような感覚に陥った。
「メリー。メリー? どこにいるの?」
とにかくメリーの姿が見たかった。声が聞きたかった。私は玄関から飛び出してメリーを探しに行こうとした。リビングから玄関を目指して走ろうとしたその時、ただいまーというメリーの声が聞こえた。
「メリー!」
「蓮子?」
「メリー? 本物よね?」
買い物袋を提げたメリーが玄関に立っていた。私はメリーの肩や腕に触れて、幻でないことを確かめた。
「何言ってるの蓮子。もしかして寝起きで寝ぼけてるんじゃないの」
よかった。メリーはいつものメリーだ。ちゃんと実体はあるし、声も聞こえる。私は安心して大きく息を吐いた。
「買い物に行ってたの。一週間分の食料を買いにね」
メリーはそう言ってスーパーの袋に入れられた野菜やお肉やお魚を見せてくれた。その姿に自分の母親の姿を重ね合わせてしまい、私は思わずメリーに抱き付きそうになった。
よく見るとメリーはちゃんと白い帽子をかぶっている。私が見つけたものは予備のものだったのだろう。そもそも洗濯するんだから1枚だけのはずがないのに、あの時の私はすっかり失念していた。
「蓮子どうしたの? 魂が抜けたみたいな表情してるわよ」
「あう、ごめん、取り乱して」
「いいのよ」
メリーは柔らかい笑顔を私にくれる。買ってきたものを冷蔵庫に移し替える様子を、私は黙って見つめて待っていた。母の帰宅を待ち続けていた子どものような気分だった。
「ねえ、ちょっとこっち来て」
私はメリーを寝室に呼び出し、ベッドに座らせた。私も隣に座り、先ほどソファに座っていた時のように手を握った。
「どうしたの?」
「嫌だったら離して」
「んー。別に嫌じゃないわよ」
私は手を繋いだまま顔を伏せた。とてもみっともない顔をしていると思っていたから、メリーに見せたくなかった。メリーは私の変な行動に何一つ文句を言わずに付き合ってくれる。
「メリー、嫌だったらちゃんと言ってね」
「うん? だから嫌じゃないってば」
「じゃあ、もう一つお願い」
「なあに?」
「その……ぎゅってしてほしい」
メリーの言葉が止まる。身体が止まる。
寝室の空気が一瞬凍りついた。
辞めておけばよかったと思った。
「女同士でこういうことするのはおかしいよね。ごめんね」
「いいのよ蓮子」
繋いでいたメリーの手が動いた。メリーはベッドから立ち上がり、私の身体を引き寄せ、抱きしめてくれた。頭を撫でられながら背中をさすられると、堪えていた思いが溢れ出してきて泣きそうになった。
自分のものじゃない体温を感じ、身体中がポカポカと温まっていく。胸の中で渦巻いていた不安が徐々に溶けていった。呼吸がゆっくりになる。ずっと働いていた頭が休まるのを感じた。
「私、秋が苦手なの」
メリーの耳元で静かに囁いた。メリーは私の髪を二回撫でてから口を開いた。
「センチメンタルになるから?」
「うん。何だか分かんないんだけど、何かが終わっていく感覚が、とてもとても怖いの。命が終わるわけでも、メリーとの関係が終わるわけでもないのに。決して抗えない大きな運命によって、私の中の、あるいは私の周囲の何かが終わりに向かっているような気がするの。とくに夕暮れが、そんな不安や恐怖をかき立てるの。だから、秋の夕暮れどきはいつも苦手なの」
きっとメリーには理解されないだろう。日本にしか四季が無いなんていうのは嘘だけど、日本人が独特の四季観を持っているのは事実なはずだ。それは私たち日本人のDNAに刻まれた、決して逃れられない感覚なのだ。
「蓮子はもっと甘えていいのよ」
「……ありがとう」
メリーの言葉が頭の中でゆっくりと響いては溶けていった。もっと甘えてもいいのよ。いつも遅刻とかで結構甘えているのに、メリーはそんなことを言ってくれる。
「実は今日メリーの家に来たのも、一人で家にいるのが怖かったからなの」
「なるほど」
「家にいると不安や焦燥に駆られて、そわそわしちゃうの。何かしなきゃいけないという気持ちがいっぱいで、心が休まらないの。だから、メリーと一緒にいたかった。メリーと一緒なら不安にはならないし、安心できるから」
「そう」
優しい声で私の不安の言葉を受け止めてくれる。私はやっぱりメリーがいないとだめだ。
「もうちょっとだけ、このままでいて」
「うん」
メリーはいつまでも背中をさすってくれた。母親が子どもをあやすときのような慈悲深い手つきだった。私はメリーの仕草に度々母親の姿を思い返していた。母親が子供に向ける無償の愛や安らぎのようなものを私は求めていた。
私が身体を離すと、背中をさすっていた手も離れていった。私たちは再びベッドに並んで腰掛け、目を合わせない会話が始まった。
「もっと甘えていいって言った」
「言ったわね」
「じゃあ……また寂しくなったら、メリーに抱きしめてもらう」
「それくらいお安い御用よ。ただし人目のないところでね」
「うん。何だかメリーにお願いしてばっかりね。私もメリーに何かしてあげられることないかな」
「蓮子は今のままで十分よ。私は蓮子からたくさんのものをもらってるわ」
「そんなことない」
「蓮子にあげているという自覚がなくても、私はちゃんともらってるの。それは蓮子が気づいていないだけ」
メリーはたまに不可解な言い回しをする。それが日本語の不自由によるものなのか、わざとなのか私には分からない。とにかく、含みのありそうな曖昧な言葉を使いたがることがたまにある。私も真意について聞くことが何度かあったが、いつもちゃんとは教えてくれなかった。
「私が気づいていないってどういうこと?」
「そのままの意味よ。恋人の必要性を感じないって言ったでしょ」
メリーが私のほうを見て笑いかけてきた。後は自分で考えてね、と言いたげに。昼間の曖昧な言葉が出てきて私は更に意味が分からなくなった。私が首を捻っているとメリーは、晩ご飯作るわね、とキッチンの方へ行ってしまった。
私は仕方なくベッドに寝転び、メリーの言葉を思い出していた。お昼前に言った言葉、ソファでメリーの恋愛話を聞いたときの言葉。
そのとき、私はようやくメリーの言葉を理解した。私はああと叫んだけどもう遅かった。寝室を飛び出してメリーを問いただそうとしたけど、メリーは素知らぬ顔でキッチンに立って調理を始めていた。私は何と声をかけていいか分からず、リビングであたふたするばかりだった。
「ねえ、メリー。さっきのはつまり、そういうことだよね?」
「二回も同じこと言わないわよ」
「うん。えっと、だから、私といるから」
「恥ずかしいから説明しないで!」
「ああ、ごめん」
「……」
メリーは顔を赤らめたまま無言でジャガイモを洗っていた。ずっとメリーの顔を見ているのも恥ずかしくなった私は、ソファに座って気持ちを落ち着けようとした。しかし、どうしても意識してしまう。メリーの告白まがいの言葉は、頭の中で何度も響いていた。
野菜を刻む音がキッチンから聞こえてくる。結局三食ともメリーにまかせてしまっていた。何か手伝いたいとは思うものの、今はメリーに近づくのも恥ずかしかった。
また、目を合わせない会話。
「メリー、何作ってるの?」
「カレーよ。蓮子好きでしょ」
違う、そうじゃない。私が言いたいのはそういうことではないのだ。こんなに離れて、顔も合わせていないのに、どうしてこんなに照れくさいのだろう。心臓が高鳴り、私の身体をドクンドクンと揺らす。口の中が乾いて気持ち悪かった。
今言わなきゃいけない。そうじゃないと私はいつまでも先送りにしてしまう。そんな風に思った。
「メリー、あのね」
「……」
「その……私も、メリーといる間は、恋人、いらないかな……なんて」
告白ではない。決して告白ではないと自分に言い聞かせた。好きだとか付き合ってほしいと言っているわけではない。あくまでもメリーがいれば恋人は必要ないという意味であって、と誰にも聞こえない言い訳を自分の中で繰り返した。
「ありがと……」
本当に小さな声が、調理の音に紛れて聞こえてきた。恐らく、ありがとうと言ってくれた。私は顔も合わせていないのに、恥ずかしくなって火照る顔を両手で覆ってしまった。今メリーに顔を覗かれたらきっと真っ赤になってるだろうな。
トントンと包丁が野菜を切る音が聞こえる。それからの私はメリーの調理を手伝うことなく、ずっとソファで恥ずかしさに悶えていた。できたカレーを向かい合って食べる時も、二人は終始無言だった。いただきます、とごちそうさま、だけが、食卓で発せられた言葉だった。
メリーが食器類を片づけ、本日三度目の食後の時間がやってきた。私たちはソファに並んで座っていた。未だにメリーのありがとうから一言も言葉を交わしていなかった。横目でメリーの様子を見ると、金髪の隙間から赤くなった耳たぶが見えた。やはりメリーも照れているようだ。
お昼の空気とはまた少し違う。あの時は気の合う友人同士の穏やかな空気が二人の間に流れていた。しかし今はどちらかと言えば恋人チックな、バレンタインやクリスマスのような雰囲気だった。私たちは女同士なのに。
いくら仲がいい友達とはいえ、キスやそれ以上のことはしない。友達として許される範囲のスキンシップに留めておくべきだと私は思っていた。それなのに私たちは、まるで初めての夜を迎える初々しいカップルのような空気を醸し出していた。二人の間に漂う空気を採取して匂いを嗅いでみると、甘い香りがしそうだ。
「蓮子、足元寒くない? 床暖房つける?」
先に口を開いたのはメリーだった。
「え、うん。じゃあお願い」
私は精一杯ぎこちなくならないように返事をした。メリーは立ち上がって壁に取り付けられている機械をいじっていた。そしてソファに戻ってくると、背もたれにかけっぱなしだった毛布を私にかぶせ、自分の身体も毛布の内側に入れた。
毛布に入るためにメリーは先ほどよりも少しだけ私のほうへ近づいてきていた。肩はほとんど触れていて、メリーの手はすぐに握れるくらいの距離だった。
テレビは電源が入っていない。窓の外は京都の夜景が広がっていた。忘れていたけど、ここは10階だから夜になるととても綺麗な夜景が見られる。
「ねえ、窓際まで行っていい?」
「いいけど。って、まさか、毛布にくるまったまま?」
「うん。メリーも来て」
「仕方ないわね……」
私はくるくると毛布を持ったまま回転した。360度毛布が身体を覆うようにすると、必然的にメリーに身体を密着させることになった。メリーの肩や首や髪が目の前にまで来ていた。
「ちょっと蓮子」
「これくらいいいでしょ。ハグよりもよっぽど軽いじゃない」
私は窓から見える夜景をありきたりな言葉で褒めた。本当は夜景は二の次で、メリーとこうして密着したかっただけだった。メリーはそのことを知ってか知らずか、私の行動に素直に従ってくれた。
私は毛布の中をまさぐり、メリーの手を発見して掴んだ。昼間とは打って変わってメリーの手は火傷しそうなくらい熱を帯びていた。
窓際は外からの冷たい空気のせいか少しだけ寒い。私はその寒さに、秋から冬にかけて変化していく季節を連想した。何かが終わっていく季節。花びらや葉が散っていく季節。大切な何かを失ってしまうような気がする。けど、今は大丈夫だ。私の大切なものは、この手の中にちゃんとある。
秘封倶楽部は、終わりなんかしない。
「しばらく握ってていい?」
「うん……」
メリーの体温や実体を改めて感じ、確かめる。私の大切なものはここにある。なくなりはしない。私は未だ不安を心の片隅に残す自分にそう言い聞かせた。またあの夕暮れを見てしまっても大丈夫なように。
「これからもよろしくね、メリー」
メリーは返事の代わりに私の手を強く握ってくれた。この暖かさと感触を、いつまでも覚えていたいと思った。
苦手なものは信頼できる人に言っておきたいよね
人目のつかないところで、といったメリーがどうにも蓮子よりおとなだと感じられとても良い塩梅でした
そういったメリーの精神性(というと大袈裟に響いてしまいますが)がすごく素敵でした。また、それを生む二人の関係がすこし羨ましいです。