「うーん……さて、今日も一日頑張りますか」
よく晴れた朝。
陽の光が雲や竹林に遮られることなく永遠亭に降り注いでいた。
その永遠亭の門前にて、朝食を終えた鈴仙・優曇華院・イナバを大きく背伸びをすると、「よしっ!」と手にした竹箒で掃除を始める。今日は薬売りの日ではなく、永琳の診察を予約している人もいない日。
「今日はゆっくりできるなぁ……てゐと一緒にお出かけ、できるかな?」
顔をほんのり赤く染めて、そんな事を呟きながら鈴仙は箒を動かしていた。
すると、竹林の向こうから小さな人影が。
ありゃ? 急患かな?
少し残念そうな顔をする鈴仙。しかし八意永琳の弟子として気を緩めてはいけない。すぐに真剣な眼差しに戻り、人影を見つめる。
やがて近づいてきたその人影が、よく知る人物だと気が付き、また鈴仙の顔から緊張がなくなる。
「よう、鈴仙」
「あ、妹紅さんでしたか」
やって来たのは紙袋をぶら下げた藤原妹紅。この半年くらいの間に、よく永遠亭に遊びにやって来るようになった顔なじみである。鈴仙は笑顔を浮かべて妹紅に話しかけた。
「おはようございます。姫様に用事でしょうか?」
「あ、ああ! まぁ、そうなんだけど……」
赤くなる頬を照れくさそうに掻く妹紅に鈴仙は優しく微笑むと、後ろに振り返り永遠亭の屋敷に向かって大声で呼びかけた。
「姫様ー! 妹紅さんが来られましたよー!!」
しばらくして、バタバタと慌ただしい足音が外まで聞こえてくる。
やがて飛び出すように顔を現したのは、永遠亭の主である蓬莱山輝夜。
妹紅のところまで走ってきた輝夜は息を切らして、やはり顔を赤くして妹紅に向き合った。
「お、おはよう妹紅……ど、どうしたの? こんな朝早く?」
「おはよう、輝夜。あ、あのだな。これを輝夜に届けたくて……」
視線をキョロキョロ彷徨わせながら妹紅は紙袋を輝夜に差し出す。紙袋には人里で有名な甘味屋の名前が書かれてあった。輝夜の目が輝く。
「これ……松本堂の饅頭じゃない!? もしかして?」
「あぁ。お前が食べたいって言ってた、あの人気の兎の形した饅頭」
「でも、まだお店は開いたばかりの時間じゃない。どうしたの?」
「え? あの、それはだな……店主に無理言って、早めに買わさせてもらったんだ」
顔を真っ赤にしながら紙袋を差し出す妹紅。それを受け取る輝夜も顔が真っ赤だ。
「馬鹿……そこまでして買わなくてもいいのに」
「時間を守っていたら、何時間も並ばなくちゃいけないだろう? そしたらお前と一緒にいれる時間がなくなるし……」
俯きながら言葉を交わす二人の横で、鈴仙は微笑んで見守っていた。
妹紅と輝夜。二人はこの竹林で長い間、終わりが見えない殺し合いを続けていた。
しかし、『ある出来事』がきっかけで二人は殺し合いをしなくなり、今では恋人同士の仲である。そんな二人を鈴仙は温かい目で見守った。
「さぁ姫様、妹紅さん。よろしければお茶をお淹れしますよ」
鈴仙の言葉に、もじもじとしていた二人がはっと気が付いたように鈴仙に向いた。
「そ、そうね! せっかく妹紅が買ってきてくれたんですもの! 早く召し上がらないといけないわ!!」
「そうだな! れ、鈴仙がお茶を淹れてくれるんなら、す、少しお邪魔しようかな!!」
顔を赤くする二人に、鈴仙は手の平を永遠亭へ向ける。
誘われて妹紅と輝夜が肩を並べて歩き出す。
そっと、二人の手が結ばれようとしていた。
「おっ! 妹紅じゃないか? お前も永遠亭に用か?」
後ろから投げかけられた言葉。
その声に妹紅も輝夜も、鈴仙もびくっと体が一つ震える。そして恐る恐る後ろへ振り返る。
そこにはニコニコと笑う、上白沢慧音。
妹紅たちを見て、彼女はゆっくりと近づいてくる。その分、妹紅たちの首筋に冷や汗がどんどん流れる。妹紅が意を決したように慧音に話しかける。
「け、慧音!? どうしてここにっ!?」
「なんだ妹紅。まるで私がここに来たらいけないみたいじゃないか?」
慧音に突っ込まれて妹紅が返す言葉を失う。今度は輝夜が口を開く。
「きょ、今日はなんの用かしら? 要件なら私が聞くわ」
「いや……私が用があるのは永琳だ。案内してくれるか、鈴仙?」
急に話を振られて「ひっ!?」と体を固くする鈴仙。
困惑を隠せない三人。しかしニコニコと笑う慧音に誤魔化す手は見つからなくて、やがて慧音を永遠亭へと招き入れてしまった。
※
永遠亭の一室。
そこで妹紅と慧音は行儀よく正座をしていた。
そんな二人と向き合う形で輝夜が鎮座する。
その両脇を永琳ともう一人のイナバ、因幡てゐが固めていた。鈴仙は妹紅たちの後ろ、襖の近くに腰を下ろしていた。
部屋の中に重苦しい緊張が漂っていた。
その沈黙を押し破るように輝夜が妹紅に話しかける。
「妹紅。改めてお礼を言うわ。ありがとう」
「いや……別に気にしないで」
一言、言葉を交わしただけで、また部屋の中に沈黙が圧し掛かる。鈴仙も息を飲んで座を正していた。輝夜は次に、恐る恐る慧音に話しかける。
「け、慧音……あ、貴女も朝早くから、よく来てくれたわね」
「いや、大したことじゃない」
「で、でも人里からわざわざ来てくれて、お疲れでしょう?」
「そんなことないさ。これくらいの距離なら――」
「汚い口で姫様に話しかけないでもらえるかしら!?」
突然、慧音の話をぶった切るように永琳が大きな声で口を挟む。慧音が口を閉ざして永琳を睨むと、彼女は冷ややかな目でくすくすと笑う。
「貴女。妹紅に飽き足らず、我らの姫様も口説こうとする気かしら。ひどい教師ね。反面教師っていうのかしら?」
「口説く、か。月の天才はずいぶん汚い話をするものだな。この地上の空気と合わないのだろう、さっさと月へ帰るがいい」
「……なんですって?」
「……なにがだ?」
互いに睨み合いながら慧音と永琳はゆっくりと立ち上がる。二人の間で火花が散った。
「半獣ごときが、私に喧嘩を売るなんて……覚悟はあるみたいね、慧音!!」
「私を甘く見るなよ……お前の歴史をなかったことにしてやろう、永琳!!」
鼻と鼻が触れる程、顔を近づけて睨み合う二人。一触即発の状況。
妹紅は俯いてため息を漏らす。
輝夜は片手で両目を覆って天井を仰ぐ。
鈴仙が両目から諦めの涙を流す。
てゐはいつの間にか本を読んでいた。日本書紀おもしれー。
「ほら見なさい……貴女みたいな野蛮な猛獣に姫様が怯えているわ。可哀そうに」
「ふん、野蛮なのはお前だろう。妹紅が困っているじゃないか」
「……貴女とは別室でゆっくり話をする必要があるようね」
「そのつもりで来たんだ。話し合いで済めばいいのだがな」
再び「なによ!?」「なんだ!?」と睨み合う二人。今すぐにでも掴み合いを始めそうだ。
「ちょっと落ち着いて! ね、落ち着いてよ!」
そこへ輝夜が立ち上がって二人を宥め始める。妹紅も二人の間に立って、諭すように話しかけた。
「二人とも、そもそも喧嘩はよろしくない。うん、まったくよろしくない。きょ、今日はゆっくり話しあって仲直りを――いえなんでもありませんでしたすみません」
仲直り、という言葉を聞いて、目が血走った二人に睨まれた妹紅が黙り込む。そもそも妹紅に言われたところで何の説得力もないのだが。
※
それはまだ永夜異変が起きる前の事である。
閉ざされた迷いの竹林にて輝夜と妹紅は、終わりの見えない殺し合いを続けていた。
「さぁ、これで終わりよ! 妹紅!」
「ふん! そんなの効くか! 輝夜!」
そんな二人を永琳はただ静かに見守っていた。この殺し合いの果てを見届ける為に。
やがて妹紅に慧音という親友が出来たのだが、それでも二人は血で血を洗う闘いを終えようとしない。慧音もまた永琳と同じく、彼女たちの闘いを見つめるばかりであった。
いったい、いつ二人の殺し合いが終わるのか。その時、誰も想像がつかなかっただろう。
しかし。その日は突然やってきた。
妹紅も輝夜も、まったく予期しない出来事によって。
その日も妹紅と輝夜は激しい攻撃を繰り出し合っていた。
「くらいなさい!」
輝夜の攻撃を防ぎきれず、真正面から受けた妹紅が地に堕ちていく。
「ふふ! いい気味ね! 永琳、今の見た!? 私けっこう――あれ?」
得意げになって下で見守っているだろう永琳に笑いかける輝夜。しかし、そこに永琳の姿はなかった。
「油断したな……くたばれ!」
キョロキョロと永琳の姿を探す輝夜の背後から、いつの間にか周り込んでいた妹紅が攻撃をしかける。今度は輝夜が地へと堕ちていく。
「はは! 世間知らずのお嬢様め! 慧音見たか!? 私の攻撃――あれ?」
得意げになって下で見守っているだろう慧音に笑いかける妹紅。しかし、そこに慧音の姿はなかった。
「ちょっと! 不意打ちとか卑怯よ! 永琳が見当たらなくて、それどころじゃないのよ!!」
「そんなこと言えた義理か! こっちこそ慧音が見当たらねぇんだよ!!」
目の前まで戻ってきた輝夜と妹紅が睨み合う。しかしすぐにその表情に不安が浮かぶ。輝夜にとって永琳は優しく包んでくれる母親のような存在。一方、妹紅にとって慧音は自分を理解してくれるお姉さんのような存在。それぞれの保護者の不在に、二人は迷子になった子供のような顔になる。
「……いったん中断しないかしら?」
「奇遇だな。私も同意見だ」
殺し合いを中断して、二人は永琳と慧音を探し始めた。
数分後。二人は肩を並べて迷いの竹林の中を飛んでいた。
「永琳ー? どこ行ったのー?」
「慧音ー? 返事しろー?」
顔をあちらこちら向けて、やがて輝夜と妹紅は竹林の中で見慣れた二人の姿を見つけた。
「あ、永琳。おーい、何かあったのー?」
「慧音、どうしたんだー? ……ん?」
二人の影を見つけた輝夜と妹紅。輝夜はほっと一息吐いて傍へ寄るが、妹紅は二人の様子を不審に思った。
永琳と慧音は互いに見つめ合うように、かなり近い距離で向き合っていた。
その表情はまだ遠くて見えない。
妹紅と輝夜が再び声をかけようとした時だった。
「貴女があの子をそそのかしているからよ!!」
「いや、お前があの姫の教育を怠っているからだ!!」
耳に入ってくる罵り合う声。
その声に輝夜と妹紅は目を丸くして、その場で固くなってしまう。たしかに永琳と慧音の声だった。
「え、永琳?」
「け、慧音?」
驚く二人など目に入らないのか、永琳と慧音は罵倒を続ける。
「こんな闘いが無意味なことくらい、貴女にもわかるでしょう!? とんだ石頭ね、貴女!?」
「だったら裏で糸を引くのは止めろ! お前のせいであの二人はこんなことをするんだろう!?」
「なんですって!?」
「なんだ!?」
そして永琳と慧音の手が互いに伸びたかと思うと、お互いの髪の毛を引っ張り合う。
「痛いじゃないの!? この暴力教師!!」
「お前こそ、その手を放したらいいだろう!!」
しばらく互いの髪の毛を掴み合ったまま睨み合って、今度は服までも引っ張り合う始末だ。
「ちょ、ちょっと永琳!?」
「や、止めろよ慧音!!」
慌てて輝夜と妹紅が二人の間に割って入る。しかし永琳と慧音の険悪な空気は収まらない。
「ほら見なさい! 輝夜が心配そうな顔をしているじゃないの!?」
「そうだな! お前がそうさせているんだから仕方がないな!!」
「言うわね!!」
「お前こそ!!」
掴み合ったせいで髪の毛と服を乱しながらも、二人の視線はぶつかり合って火花を散らす。普段こんな乱暴な真似をしない永琳と慧音の姿に、先ほどまで殺し合いをしていた輝夜と妹紅が必死に食い止める。
「永琳! 落ち着いて! 私が悪かったから!」
「もう喧嘩なんてしないから! 慧音も落ち着いて」
しかし二人が落ち着くことはない。妹紅と輝夜はしばらく説得を試みたが、二人はまったく聞く耳を持ってくれない。とうとう妹紅と輝夜がわんわんと泣き出してしまい、ようやく睨み合いを止めてくれたのだった。
妹紅と輝夜の殺し合いは、こうして幕を引いたのだった。
だが、その代わりに新たな争いが生まれてしまった。
霊夢たちによって永夜異変が解決され、妹紅も輝夜も人里や妖怪たちと交流を深めようとしていた。それでも永琳と慧音の険悪な関係は収まらない。
「あら? 誰かと思えば物分りが鈍い先生じゃない? よく教師を続けられるわね?」
「おや、誰かと思えば腹黒い藪医者じゃないか? 毒薬でも配っているのか?」
人里でも、迷いの竹林でも、宴会の席でも顔を合わせれば睨み合い、互いを罵り合う。下手をすればまた掴み合いの喧嘩をしそうな勢いである。
「ほ、ほら永琳! このお酒美味しいよ! 霊夢のおすすめですって! あはは……」
「慧音! チ、チルノたちが面白いことを教えてくれって! 慧音の博学なところを見たいなぁ。あはは……」
その度に輝夜と妹紅は二人を宥め、深い深いため息を重ねてきたのだった。
※
「……入りなさいよ」
「…………」
妹紅と輝夜の説得に耳を貸さないまま、永琳は慧音を連れ出して別の一室の前に立っていた。二人の顔は未だに険しいままだ。
「怖いのかしら?」
「言ってくれるな」
永琳の挑発に慧音はふん、と鼻を鳴らすと目の前の部屋へ入る。
そこは永遠亭の屋敷内にある離れの一室。永遠亭で宴会が開かれる時に使われる部屋だ。
慧音が入ると永琳も続き、背中で襖をパタンと閉じてしまう。閉ざされた部屋の中で、二人はしばらく無言で立っていた。重い空気が沈んでいく。
やがて永琳が動いた。ゆっくりと設けられた床の間へと向かう。
月と竹が描かれた掛け軸の裏。そこには輝夜も存在を知らない隠し棚があり、永琳は鍵を差し込んで錠を開ける。慧音はじっと見つめていた。
そこから永琳が取り出したもの。
お手製のえーりん人形と、けーね人形(ハクタクVer)だった。
「永琳っ!!」
大事そうに人形を抱える永琳に、もう我慢が出来ないと慧音が飛びつく。そのまま抱きついて、勢い余ってその場で回ってしまう二人。
「きゃっ!? もう慧音ちゃん、危ないわよ」
「永琳、永琳、えーりん!」
甘えるようにすりすりと永琳に頬ずりをする慧音。くすぐったそうにしながら、永琳は笑顔を浮かべている。
先ほどの重い空気はどこへやら。
二人とも険しい顔つきから一変、頬がだらけてニヤついた表情になっている。
あっという間に甘い甘い匂いが部屋の中を包む。
閉ざされた部屋の中で二人は抱きしめ合った。
「さ、さっきはすまなかった! 永琳に酷い事を言ってしまって!」
「ううん、いいのよ慧音ちゃん。私もごめんなさい。でも、本心から出た言葉じゃないからね?」
永琳の言葉に慧音は頬ずりを止めると、永琳の顔を見つめる。その顔には嬉しさが満面している。
見つめ合って二人はにっこりと笑い合った。
「永琳、大好きだ!!」
「私も慧音ちゃんが大好き!!」
今度は永琳の胸に抱きつく慧音。勢いで押される形になり、その場で二人は座り込んでしまう。
「もう、慧音ちゃんったら! 甘えん坊さんなんだから」
「永琳だから甘えられるんだ。今日は二人きりで過ごそうな」
自分の胸に頭を押し付ける慧音に「まったく」と永琳は呟きながら、抱えていた二体の人形を床に優しく座らせると両手で慧音の頭を優しく包んだ。
※
さて、何故こうなったのか。
話は再び妹紅と輝夜が殺し合っていた時期に遡る。
「輝夜ー! 今日こそ父の仇をとらせてもらうぞ!」
「ふん! あのいやらしい親父の娘のくせに!」
宙で互いに傷つけ合う二人。そんな二人を永琳は悲しそうに見つめていた。
(……こんなことでしか、この世と繋がれないあの子たち。これほど悲しいことはないわ。でも、私は輝夜の従者。口を出すこともできない)
――私と妹紅の闘いに口を出さないで。
そう主に言い渡された忠実な従者は、歯がゆい思いをしながら見守るしかなかったのだ。しかし、もう見ていられなかった。永琳の心に生まれていた傷が深くなっていく。
そんな永琳に声をかけた者がいた。
「……貴女があのかぐや姫の付き人なのか」
永琳が振り向くと、そこには真面目な性格が表に出ている端正な顔つきの女性が立っていた。
「貴女は……?」
「申し遅れてすまない。上白沢慧音だ。あの白髪の子と親しくしている者だ」
名前を告げると慧音は永琳の横に立ち、宙で殺し合いを続ける二人を見つめた。その表情が悲しいものだと永琳はすぐに気づいた。
「どうしたら二人を止められるのかしら?」
「あの二人には深い憎悪が根付いている。中々解決できるものじゃないな」
慧音の言葉に永琳が俯く。永琳も二人の争いがすぐに終わるものだと思っていない。顔に諦めに近いものが浮かんでしまう。
だが、そんな永琳に慧音は笑いかける。
「いつ二人の争いが終わるのか……それは私にもわからない。でも二人の為に――二人が仲良く幸せでいられるように、出来ることは尽くしたい。貴女も協力してくれないか?」
にっこり笑ってみせる慧音に、永琳の心臓が一つ高鳴った。
(この人……終わりが見えない二人の争いを前にしながら、なんて温かい包容力なの。本当に優しい人なのね――私も温かく包まれたいな)
長い間、心が傷ついていた永琳は、慧音の言葉に頬を赤くして頷いた。慧音の顔を見つめていると、その心の傷が温かく癒されるように感じた。
その時、永琳は恋に落ちていた。
いわゆる、一目惚れである。
「ん? どうかしたか?」
心臓をドキドキさせている永琳に、慧音は首を傾げた。
「な、なんでもないわ! ええ、私も二人の仲を取り持ちたいわ! 協力するわ!」
「貴女も苦労をしていたんだな……私もいい加減、疲れてしまってな」
「え?」
慧音は視線を妹紅と輝夜に向けると、悲しい表情を浮かべる。
彼女もまた、二人の争いで心に傷を負っていたのだ。
(二人とも歴史に囚われ過ぎている……こんなことを続けても未来を切り開けないままだ)
苦々しい顔をする慧音の手を、永琳は優しく握った。
「慧音。これから二人で解決策を探しましょう……貴女と一緒なら、きっと二人の仲はよくなると思うわ」
「あ、あぁ。そうだな」
急に握られた永琳の手に、慧音は胸が高鳴るのを覚えた。誤魔化すように永琳に話しかける。
「ところで、貴女の名前を教えてもらってもいいだろうか?」
「あ、まだ名乗っていなかったわね。ごめんなさい――永琳。八意永琳よ」
目に涙を浮かべながら、にっこりと微笑む永琳。
その顔を見て、慧音の心臓が一つ高鳴った。
(この人……ずっと二人の争いを見守ってくれていたんだな。辛かっただろうな。でもその優しい性格だからこそ、ずっと耐えてこられたんだな――今日からは私が傍にいるからな)
永琳に頷いてみせると慧音は顔が赤くなるのを感じた。永琳の顔を見つめていると、心の傷が温かく癒されるように感じた。
その時、慧音は恋に落ちていた。
いわゆる、一目惚れである。
次の日から、永琳と慧音の顔に笑顔が浮かぶようになっていた。
「ぐやぐやぐやぐや!!」
「もこもこもこもこ!!」
相変わらず宙で殺し合いを続ける二人。その下で永琳と慧音は傍に寄り添って仲睦まじく笑顔を交わしていた。
「慧音。今日は永遠亭で作ったお餅を持ってきたの」
「ほぉ、これは美味しそうだな――うん、美味しい」
もはや妹紅と輝夜をそっちのけで仲が深まる二人。
やがてその日がやって来た。
「慧音ちゃん……貴女に大事な話があるの」
そう言って永琳は妹紅たちから離れた場所に慧音を連れ出した。
「だ、大事な話って?」
やがて足を止めて振り返る永琳に、慧音は顔を赤らめて訊ねた。
永琳が一つ深呼吸をする。
「あのね……私、貴女のことが好きみたいなの……よかったら、私とお付き合いしてくれないかしら?」
顔を真っ赤にしながら俯く永琳。目を丸くする慧音。しばらくして、慧音は返事をした。
「わ、私も……お前のことが好きだ! 私と付き合ってくれ!」
お互いに告白し合う二人。
笑い合って、お互いの両肩に手をのせる。そっと寄り添う。
「慧音ちゃん……」
「永琳……」
顔を寄せて、お互いの唇が重なり合おうとしていた。
「あ、永琳。おーい、何かあったのー?」
「慧音、どうしたんだー? ……ん?」
聞こえてきた声。永琳と慧音は唇がもう少しで重なり合う前に、そのまま固まってしまう。
そぉーっと横目で視線を向けると、向こうから輝夜と妹紅が飛んで来ていた。
(マ、マズイ)
二人の顔に冷や汗がだらだらと流れる。とりあえず二人は肩から手を離したが、かなり近い距離で向き合っていたのは誤魔化しようがない。鈍感じゃない限り、傍から見たら誰でも二人の仲を窺うだろう。
もし、二人の関係が妹紅たちに知られたらどうなることか……。
「そう、永琳……慧音とそういう仲だったのね。私たちが殺し合っている下で隠れてイチャイチャユリユリしていたのね」
「慧音。私たちのことなんて本当はどうでもよかったんだ……もういい、輝夜を殺して殺して殺しまくってやる」
自分たちを余所にしてラブラブしていたと知ったら、次の日から輝夜にも妹紅にも冷たい目で見られるだろう。そればかりか自棄になって増々激しい殺し合いを始めるかもしれない。
頭が賢い故にそんな事を考える二人。
だが妹紅と輝夜はもうそこまで来ている。
必死に考え、考え、考えた策。二人は同時に思いつく。そしてアイ・コンタクト。この間、五秒。
「……貴女があの子をそそのかしているからよ!!」
「……いや、お前があの姫の教育を怠っているからだ!!」
こうして妹紅たちを誤魔化す作戦、『実は私たち険悪でした作戦』が開始されたのだった。
さて、この作戦。無事に妹紅たちを誤魔化すことに成功した。
そればかりか大きなおまけまで付いてきた。妹紅と輝夜の和解である。日に日に親しくなる二人に、永琳も慧音も手を挙げて喜びたかった。
しかし永琳と慧音には成功と同等の代価を払わなければいけなかった。
それは妹紅たちの前では、『実は私たち険悪でした』を演じなければいけないということ。
というのもあの日、演技をやり過ぎたのである。妹紅と輝夜が泣き出してしまうくらい、『永琳と慧音は私たち以上に仲が悪くてどうしようもない』というイメージが付いてしまったのだ。これでは次の日『急に仲直りをする二人』を演じることが難しかった。「実は私たち、仲がいいのよ」と演技であったことを告白しようものなら、やはり妹紅たちが自棄になるかもしれない。
そうして長い間、自分たちの本当の関係を打ち明けることができず、人前では大好きな相手の悪口を言い、時には掴み合いをしなければいけない羽目になったのだった。その間にも『永琳と慧音の仲はどうしようもない』という噂がどんどん広がり、増々打ち明けることができないでいた。
永琳と慧音は、二人きりで誰にも邪魔されない僅かな時だけ、恋人同士でいられるのだった。
※
「さて、あの二人をどうしたものかね? 輝夜?」
「なんとかしないといけないんだけどねぇ?」
「……何やっているんですか?」
永琳たちが出て行った後の部屋。妹紅と輝夜、鈴仙、そしててゐの四人は重苦しい空気が去り、呼吸しやすくなった部屋の中にいたままだ。
「何って、見ればわかるじゃない。イナバ」
「輝夜にヒザまくらしてもらってる」
輝夜のヒザの上に頭を乗せて、妹紅は気持ちよさそうに目を閉じていた。すぐにでも昼寝しそうだ。そんな妹紅の顔を上から輝夜が微笑む。
顔を見合すたびに喧嘩する永琳と慧音。その度にこの二人は協力して宥めてきた。そのうちに親しくなり、ついには恋人同士にまで発展したのだ。
そんな二人を見て、鈴仙が「はぁ……」とため息を吐く。それは輝夜たちがのんびり過ぎるのに呆れているのもあるが、一方で羨望の感も覚えていた。
(私もてゐにしてあげたいな……)
ちらりと振り返れば、てゐは二つ折りにした座布団を枕にして、涼しい顔で仰向けに本を読んでいた。古事記おもしれー。
「お師匠様と慧音さんをそろそろ仲直りさせないと……あの二人ほど険悪な関係を見ていられないのもないですよ」
「うーん、そうは言うけどねぇ。ね、妹紅?」
「私らも色々手を尽くしたからなぁ。ね、輝夜」
輝夜の首に両手をまわして微笑みを交わす。完全に二人だけの世界に入っていた。鈴仙が二度目のため息を吐く。今度は呆れている。
「そうだ! 妹紅が買ってきてくれたお饅頭を食べましょうよ!」
思い出したように輝夜が両手をポンッと合わせると、妹紅が起き上って紙袋に手を伸ばす。
「お、そうだな。食べよう、食べよう」
「はぁ……私、お茶を淹れてきますね」
鈴仙がゆっくりと立ち上がって台所へ行こうとする。その背中で「あ」と輝夜が声を上げる。
「……永琳たちにも差し入れしないといけないよね?」
途端に部屋の空気が零点下まで下がり、四人とも固まってしまう。皆、永琳たちの争いに巻き込まれたくないと思っているのだ。
「鈴仙……」
「な、なんですか!? 姫様! もしかして、私に行けとおっしゃるのですか?」
「あら、荒事は全て貴女の仕事でしょ? ここは任せたわ」
「お任せください、なんて言うと思いましたか!?」
誰が差し入れに行くか。部屋の中で漫才を始める輝夜と鈴仙。そこへボソッとてゐが呟く。
「なーんにも心配する必要はないよ。まったく鈴仙は考えすぎなんだよ。もっと前向きに考えなくちゃ」
鈴仙が振り向くと、てゐは本から視線を離していないままだった。楽観的に構えているように見えるが、鈴仙はむっと険しい表情になる。
(何よ、この一大事なのに余裕かましちゃって。てゐのそういう所あんまり好きじゃないなぁ……私の気持ちなんて、知らないくせに)
やがて鈴仙は決心したように拳を固める。
「わかりました! 私が差し入れに行きます! それからお二人を説得してきます!」
妹紅と輝夜が目を丸くする。てゐはと言うと「やれやれ」と呆れたような顔をしていた。
そんなてゐを前に、鈴仙は増々勢い込む。
※
「永琳の髪。本当に綺麗だな」
「そう? 慧音ちゃんの髪の方が、私好きよ」
永遠亭の離れ。
永琳と慧音は壁にもたれるように座っていた。慧音のヒザ上にはえーりん人形、永琳のヒザ上にはけーね人形が笑って座っていた。それぞれ両手で人形を大事に持ちながら、二人は顔を寄せて楽しい会話をしていた。
「そう言えばいつも三つ編みにしているが、これは誰が編んでいるんだ?」
「ああ、うどんげよ。朝起きるときにいつも編んでくれるの。たまに輝夜がしてくれたりもするわ」
「ふーん」
永琳の髪を眺めながら慧音は面白くなさそうな顔を浮かべる。永琳がくすりと笑った。
「焼きもち?」
「ああ、焼いているよ」
ぶすっと不機嫌になる慧音に永琳はますます笑顔になる。そしてヒザ上のけーね人形から両手を放すと、ゆっくり髪の三つ編みを解いていく。やがて長く、光に反射する綺麗な白髪が宙に舞った。
「これでどうかしら? 私のかわいい恋人さん?」
「ああ……綺麗だ」
初めて見る三つ編み以外の永琳の姿。慧音は胸をときめかして見つめていた。
腰の辺りまである永琳の髪。慧音は片手を伸ばして、そっとその先を優しく手にした。
「すごいさらさらだな……ずっと触っていたい」
「慧音ちゃんならいっぱい触って欲しいわ。私も慧音ちゃんの髪で遊びたい」
「それにしても長くて綺麗だ。散髪とかはどうしているんだ?」
「あら? 私、失恋するまでは髪を切らないと決めているの」
「それじゃあ、ずっと伸ばしっぱなしだな」
永琳が堪えきれず吹き出した。慧音は目を細めたまま、恋人を見つめていた。そして永琳の髪から手を離す。
「永琳」
「ん?」
永琳が再び慧音に向き合うと、慧音はえーりん人形を両手で胸の高さに上げていた。視線はけーね人形に向けている。永琳もけーね人形を両手で持ち上げた。
慧音は手にしたえーりん人形をけーね人形に近づけていく。
やがて二体の人形の顔が重なり合い、口づけを交わした。
二人の顔が真っ赤になる。
実は付き合ってから、まだキスをしたことがないのだ。
「永琳」
慧音がゆっくりと永琳に顔を寄せる。少し戸惑ってから、永琳は目を閉じて慧音の唇を待った。
「慧音ちゃん……」
「お師匠様! 慧音さん! 失礼いたします! お饅頭とお茶を用意しまし――」
襖がガラリと開けられ、お盆を手にした鈴仙が部屋の中へ入ってきた。
「うぉりゃー!!」
その目の前で永琳に思いきり頭突きをかます慧音。永琳が背中を仰け反らして倒れ込む。
「け、慧音さん!?」
「どうだ! 人里のハクタク先生を舐めるなよ!」
手で赤くなった額を押さえながら涙目で慧音を睨む永琳。
「本当に貴女は暴力教師ね! あー、子どもたちが可哀そう!」
「お前だからしてやってんだよ! 馬鹿にはつける薬がないって言葉を知らないのか!?」
「ば、馬鹿って……このっ!!」
今度は永琳が慧音の胸元を掴み、その服を思いきり引っ張る。その手を慧音がバシバシと大きな音を立てて叩く。
鈴仙はその勢いに呆気にとられて、二人から視線を離すことが出来ないでいた。
「あ、あのぉ……」
「服を脱がそうだなんて、お前はやっぱり下品だな!」
「貴女みたいな原始人には裸で十分よ!」
二人の仲介をしようと勢い込んできた鈴仙。しかし目の前で醜い掴み合いをする二人の気迫に押されて、早くも心が折れてしまう。しかし、ここで諦めたら次の機会を失ってしまう。
首をぶるぶる振って、心の勇気を突貫工事で立ち直す。そして再び二人に向き合った鈴仙だったが。
「お、お二人とも……実は話があるのですが……」
「今この馬鹿を教育し直すのに忙しいから後にしてくれ!!」
「今この馬鹿を治療するのに忙しいから後にしてくれる!?」
「……はい」
あわれ鈴仙。突貫工事の勇気も瞬く間に瓦解し、涙目になってしまう。
その場にお盆を置いて、逃げるように部屋を出て行ってしまう。
足音が遠くなって行くのを確認して、二人の動きが完全に止まる。やがて足音が聞こえなくなった。
「慧音ちゃん!!」
永琳が慧音に飛びつく。そのまま慧音を押し倒す格好になる。
「ごめんなさい! ごめんなさい!」
「いいんだ! 永琳、気にしないでくれ。それより頭突きをしてすまなかった。痛かっただろう? 本当にすまない」
涙を零す永琳に、慧音は赤くなった永琳のおでこを何度も何度も優しく撫でる。しばらくして永琳は慧音の胸から顔を上げると、涙目で小さく笑った。慧音も笑顔で応えた。
「慧音ちゃん……うどんげには後で優しくしてあげないと」
「そうだな。私からも謝らないとな……永琳?」
今度は永琳の方から目を閉じてキスを催促する。
しかし、いくら待っても慧音の唇が近づく気配はない。
永琳がゆっくり目を開けると、目の前の押し倒された慧音は首を横に向けていた。
「ど、どうしたの? 慧音ちゃん?」
拒まれた、と思い込んで永琳がまた涙目になる。
「永琳……バレたかもしれないぞ」
「え?」
慧音の視線の先を辿ると――畳の上に転がっているえーりん人形とけーね人形が笑っていた。
※
「はい、妹紅。あーん」
「あーん。うん、美味しい!」
再び妹紅たちがいる部屋。
輝夜が差し出した饅頭を口に入れて、満面の笑みを浮かべる妹紅。今度は妹紅が饅頭を手にする。
「ほら輝夜。あーん」
「あー……ん!」
差し出された饅頭を妹紅の指ごと口に咥える輝夜。そのまま妹紅の指をちゅっちゅっと吸ってから、口を離して饅頭を咀嚼する。
「へへ。妹紅の指も食べちゃった」
「こいつー。こんなことするの幻想郷でお前だけだぞ、食いしん坊め」
未だに二人きりの世界に閉じこもる輝夜と妹紅。
そんな二人を見つめながら鈴仙はすごく落ち込んでいた。
「まったく、あれだけ勢い込んでいたのに、結局は尻尾巻いて帰ってきたの?」
てゐが横から口を出すと、鈴仙はさらに肩を落とす。
永琳たちの剣幕に押されて、畳に転がっていた人形に鈴仙は気が付かず、二人がすでに恋仲であることを見抜けないままだった。ただ何もすることが出来なくて、そんな自分に歯がゆい気持で胸がいっぱいなのだ。「やれやれ」とてゐは本を閉じると、上半身を起こして鈴仙を見つめた。
「まぁ鈴仙じゃ、あの二人を仲良くさせるなんて無理だよ。どんまい」
「っ!」
てゐの言葉に鈴仙の体が固まる。しかしそんなことを知らないてゐは視線を逸らせて頬を赤くしていた。
(そもそもあの二人を仲良くさせる必要なんてない。お師匠様が夜な夜な裁縫して人形を作っているのを見たからねぇ。向こうがカミングアウトするのを待てばいいのさ。だから鈴仙がこんなことに苦労かける必要はないよ。そ、そんな暇があったら、わ、私にかまって欲しいなぁ……)
心の奥で想い人のことを想う素直じゃないてゐ。しかし、その性格が仇となってしまう。
「なんですって?」
「え?」
てゐの耳に飛び込んできたのは重く、怒りに満ちた鈴仙の声。慌てて振り向くと、鈴仙が涙目になりながらてゐを睨み付けていた。
「私だって……私だって役に立ちたいもん。二人を仲良くさせたいんだもん」
「れ、鈴仙?」
「何もしようとしないてゐに言われたくないよ!!」
部屋の中に響く鈴仙の声。
ようやく二人の世界から戻ってきた輝夜と妹紅が驚いて鈴仙に視線を向ける。
「イ、イナバ?」
「どうしたんだ、おい?」
二人の声掛けにも応じず、鈴仙は肩で大きく息をしながらてゐを睨み付けていた。突然、怒りだした鈴仙にてゐが目を丸くする。
「鈴仙……?」
「なんにも知らないくせに! なんにもわかってないくせに、私のこと、馬鹿にして!」
「え? あ、ごめん……言い過ぎちゃった。ごめん」
てゐがしゅんとなって鈴仙に謝る。それでも鈴仙の勢いは止まらない。溜まっていたてゐへの想いが怒りとなって爆発してしまった。
「てゐ、貴女はいつも私に厄介事を任せて、影で私のことを嗤っているんでしょう!?」
「そ、そんなことないよ! れ、鈴仙の事を一度も影で馬鹿になんてしてないよ! 本当だよ! さっきは軽はずみだったよ、ごめん」
「ふん、どうだか。貴女のことだから、それも嘘に決まっているでしょ?」
「……鈴仙。今なんて言ったの?」
てゐの体がぴくりと震えて、鈴仙を睨み付ける。
あ、これあかんヤツや。また部屋に充満していく息苦しい空気に、妹紅と輝夜の顔が引きつる。
「鈴仙こそ……私のことなんにも知らないくせに!!」
「知らないに決まっているでしょう! 知っていたら怒ったりなんかしないわよ!」
「そうやって肝心なところで無責任になるよね!? 私のこと知ろうとした事あるの!?」
「そう言うてゐこそ私の気持ちを知ろうとしないよね!? だから酷い事を平気で言えるんでしょう!?」
むむむと、睨み合う鈴仙とてゐ。
そんな二人の間に立つように、妹紅と輝夜が宥め始める。その顔には「おいおい。勘弁して」と大きく書かれてあった。
「お、落ち着けよ。二人とも」
「そうよ。喧嘩はよして、ね?」
しかし涙目の鈴仙とてゐは火花を散らしたまま、そして大声で叫んだ。
「てゐなんて!!」
「鈴仙なんて!!」
――大っ嫌い!!
※
「はい、慧音ちゃん。あーん」
「あーん。うん、やはり松本堂の饅頭は美味しいな」
離れでは永琳と慧音が再び愛し合っていた。永琳が差し出した饅頭を口に入れる慧音。その表情がだらけ切っている。
慧音は饅頭を手にすると、永琳の口へ差し出す。
「永琳。あーん」
「あー……ん!」
差し出された饅頭を慧音の指ごと口に咥える永琳。慧音の指をちゅっちゅっと吸ってから、口から離して咀嚼する。
「うん、美味しいわ。慧音ちゃんの指も」
「まったく食いしん坊だな、永琳は。こんなことするのは幻想郷でお前だけだぞ」
慧音はそう言って永琳に笑いかける。つい先ほど、同じ屋敷の違う部屋で同じことをしていた二人がいたのだが。
顔を見合わせて、声を上げて笑う二人。
やがて永琳はそっと慧音の肩に寄り添った。慧音も腕を回して永琳を抱き寄せる。
「ねぇ、慧音ちゃん?」
「なんだ、永琳?」
顔を俯かせる永琳に慧音が顔を覗かせる。永琳は迷っているようだったが、意を決して慧音に話した。
「あのね……もうそろそろ、私たちの事。輝夜たちに話してもいいんじゃない?」
「え?」
慧音の顔から笑顔が消える。永琳も慧音から体を離すと、真顔になって慧音を見つめた。
「まぁ、これの事もあるんだけど」
そう言って、畳の上で仲良く手を繋いで座る人形たちをちらりと見た。
「もう輝夜たちにはバレているころね」
鈴仙は二人の争う姿に気を取られて、まったく気が付いていなかったのだが、永琳たちはそんな事は知らないまま。
「……今頃妹紅たち、怒っているだろうか?」
「たぶん、ね。仕方がないもの。ずっと輝夜たちを騙していたんだから」
そして意を決した永琳が慧音の手を優しく握る。少しして慧音も握り返した。
「あ、あのね。慧音ちゃん。また妹紅と輝夜が喧嘩をするかもしれない。ううん、喧嘩はしなくても私たちのことを嫌い、って言うかもしれない。それでも私は、慧音ちゃんとずっと傍にいたい! 片時も慧音ちゃんから離れたくない! もう、こうやってこそこそするのは嫌なのよ!」
途中から涙声になって、今まで溜めていた想いを慧音にぶつける永琳。
嗚咽を漏らす永琳に、慧音は「うん」と頷いて頭を撫でた。
「私も、同じ事を思っていた。永琳、私たちの事を言おう。それで妹紅たちが私たちの事を嫌いになっても、ずっと私が永琳の傍にいてやる。これから先、永琳が傷ついたなら私が癒してあげよう。永琳が絶望に負けないくらいに私が幸せにしてやる」
「慧音ちゃん……」
永琳が涙を零しながら慧音の顔を見つめる。慧音はじっと永琳を見つめ返していた。
やがて二人の顔が近づいて、一つに重なる。
そんな二人を、人形たちはやはり笑って見守っていた。
※
「……いいな? 永琳」
「うん、覚悟はしているわ慧音ちゃん」
離れから出た永琳と慧音。
互いの手が指を絡ませて繋がっていた。
二人は廊下をゆっくり歩き、もうすぐ妹紅たちがいる部屋に差し掛かろうとしていた。
「永琳、大丈夫か? 私から言ってもいいんだぞ」
「もう慧音ちゃんたら、そんな事言っちゃやだ。これは私たち二人の事なのだから。私からも話すわ」
互いに顔を見つめ合って、微笑む。
心から愛し合えて、支え合う者を手に入れた者には怖いものなどない。どんなに辛いことがあっても、手を取り合い乗り越えていくだろう。
やがて妹紅たちがいる部屋に到着した。
そこで何やら様子がおかしいことに二人は気が付いた。中から四人がギャーギャーと言葉にならない声を上げていたのだ。
「ん? なんだ、この声は?」
「まさか……輝夜たち、喧嘩しているのかしら?」
二人の顔に不安がよぎる。だが互いに手を握り合っていると、すぐに落ち着きを取り戻す。
覚悟はとうに決めた。
「妹紅! いきなりだが話があるんだ! ……ってあれ?」
「輝夜! 急で悪いけど私たちの話を聞いて! ……ってあれ?」
勢いよく部屋の襖を開ける慧音と永琳。
しかし部屋の中では二人の予想を大きく超えた事態が発生していた。
「……あ、慧音……なんとかしてよ」
「永琳……もう私たちじゃ疲れたよ」
振り向いた妹紅と輝夜はすっかりやつれ果て、永琳たちの手が繋がり合っている事に何の疑いも持つことなく、助けを求めるようにふらふら近づいてきた。
その向こうでは――。
部屋の中が滅茶苦茶になっていた。
畳にはいくつもの焦げた跡。
襖には無数の穴という穴。
天井には座卓が突き刺さっている。
そして。
「ひっく……ぐすっ! て、てゐの馬鹿ー!」
「うぅ、鈴仙なんて、ひっく……鈴仙の馬鹿ー!」
泣きじゃくりながら部屋の中で、へなへなの弾幕を打ち合う鈴仙とてゐの姿があった。
「あー……何がどうなっているんだ?」
「ふ、二人ともどうしちゃったのかしら?」
目を丸くする慧音と永琳。
そんな二人に妹紅と輝夜が声を揃えて叫ぶ。
「慧音のせいだ!!」
「永琳のせいよ!!」
状況が呑み込めずおろおろとする二人を見て、妹紅たちががくりと肩を下ろす。
「……慧音が永琳と喧嘩ばっかりしているせいで、あのざまだよ。はぁ」
「もー、私たちじゃ無理。じゃ永琳、後は頑張ってねー」
必死に二人のイナバを宥めたのだろう。すっかり疲れ切ってしまった妹紅と輝夜はふらふらと慧音たちの横を通り、背中で手を振りながら部屋から出ようとする。
「ちょ、ちょっと妹紅! 大事な話があるんだ!」
「輝夜も待って! 私たちの話を聞いて!」
呼び止めようとする慧音と永琳だが、妹紅たちはお構いなしに出て行ってしまう。後ろから何かが割れる音がした。
「知らない! もうてゐのことなんか知らない! わーん!」
「もう鈴仙の勝手にしたらいいよ! うわーん!」
泣きながら床に転がっていた湯呑やら皿やらお盆やらを投げつけ合う二人。
しばらく、そんな様子を見つめて慧音と永琳は顔を見合わせる。
「て、てゐ! 落ち着け! こんな事をしてもなんの解決にもならないぞ!」
「うどんげも! 私たちが悪かったから! もう喧嘩なんてしないから落ち着いて!」
こうして永琳と慧音の形だけの喧嘩は終焉を迎えたのだった。
晴れて二人は恋人同士である事を、誰にも気兼ねすることなく宣言する事が出来る。
しかし、永遠亭には素直じゃない恋を火種とした新たな争いが生まれてしまったのだった。
よく晴れた朝。
陽の光が雲や竹林に遮られることなく永遠亭に降り注いでいた。
その永遠亭の門前にて、朝食を終えた鈴仙・優曇華院・イナバを大きく背伸びをすると、「よしっ!」と手にした竹箒で掃除を始める。今日は薬売りの日ではなく、永琳の診察を予約している人もいない日。
「今日はゆっくりできるなぁ……てゐと一緒にお出かけ、できるかな?」
顔をほんのり赤く染めて、そんな事を呟きながら鈴仙は箒を動かしていた。
すると、竹林の向こうから小さな人影が。
ありゃ? 急患かな?
少し残念そうな顔をする鈴仙。しかし八意永琳の弟子として気を緩めてはいけない。すぐに真剣な眼差しに戻り、人影を見つめる。
やがて近づいてきたその人影が、よく知る人物だと気が付き、また鈴仙の顔から緊張がなくなる。
「よう、鈴仙」
「あ、妹紅さんでしたか」
やって来たのは紙袋をぶら下げた藤原妹紅。この半年くらいの間に、よく永遠亭に遊びにやって来るようになった顔なじみである。鈴仙は笑顔を浮かべて妹紅に話しかけた。
「おはようございます。姫様に用事でしょうか?」
「あ、ああ! まぁ、そうなんだけど……」
赤くなる頬を照れくさそうに掻く妹紅に鈴仙は優しく微笑むと、後ろに振り返り永遠亭の屋敷に向かって大声で呼びかけた。
「姫様ー! 妹紅さんが来られましたよー!!」
しばらくして、バタバタと慌ただしい足音が外まで聞こえてくる。
やがて飛び出すように顔を現したのは、永遠亭の主である蓬莱山輝夜。
妹紅のところまで走ってきた輝夜は息を切らして、やはり顔を赤くして妹紅に向き合った。
「お、おはよう妹紅……ど、どうしたの? こんな朝早く?」
「おはよう、輝夜。あ、あのだな。これを輝夜に届けたくて……」
視線をキョロキョロ彷徨わせながら妹紅は紙袋を輝夜に差し出す。紙袋には人里で有名な甘味屋の名前が書かれてあった。輝夜の目が輝く。
「これ……松本堂の饅頭じゃない!? もしかして?」
「あぁ。お前が食べたいって言ってた、あの人気の兎の形した饅頭」
「でも、まだお店は開いたばかりの時間じゃない。どうしたの?」
「え? あの、それはだな……店主に無理言って、早めに買わさせてもらったんだ」
顔を真っ赤にしながら紙袋を差し出す妹紅。それを受け取る輝夜も顔が真っ赤だ。
「馬鹿……そこまでして買わなくてもいいのに」
「時間を守っていたら、何時間も並ばなくちゃいけないだろう? そしたらお前と一緒にいれる時間がなくなるし……」
俯きながら言葉を交わす二人の横で、鈴仙は微笑んで見守っていた。
妹紅と輝夜。二人はこの竹林で長い間、終わりが見えない殺し合いを続けていた。
しかし、『ある出来事』がきっかけで二人は殺し合いをしなくなり、今では恋人同士の仲である。そんな二人を鈴仙は温かい目で見守った。
「さぁ姫様、妹紅さん。よろしければお茶をお淹れしますよ」
鈴仙の言葉に、もじもじとしていた二人がはっと気が付いたように鈴仙に向いた。
「そ、そうね! せっかく妹紅が買ってきてくれたんですもの! 早く召し上がらないといけないわ!!」
「そうだな! れ、鈴仙がお茶を淹れてくれるんなら、す、少しお邪魔しようかな!!」
顔を赤くする二人に、鈴仙は手の平を永遠亭へ向ける。
誘われて妹紅と輝夜が肩を並べて歩き出す。
そっと、二人の手が結ばれようとしていた。
「おっ! 妹紅じゃないか? お前も永遠亭に用か?」
後ろから投げかけられた言葉。
その声に妹紅も輝夜も、鈴仙もびくっと体が一つ震える。そして恐る恐る後ろへ振り返る。
そこにはニコニコと笑う、上白沢慧音。
妹紅たちを見て、彼女はゆっくりと近づいてくる。その分、妹紅たちの首筋に冷や汗がどんどん流れる。妹紅が意を決したように慧音に話しかける。
「け、慧音!? どうしてここにっ!?」
「なんだ妹紅。まるで私がここに来たらいけないみたいじゃないか?」
慧音に突っ込まれて妹紅が返す言葉を失う。今度は輝夜が口を開く。
「きょ、今日はなんの用かしら? 要件なら私が聞くわ」
「いや……私が用があるのは永琳だ。案内してくれるか、鈴仙?」
急に話を振られて「ひっ!?」と体を固くする鈴仙。
困惑を隠せない三人。しかしニコニコと笑う慧音に誤魔化す手は見つからなくて、やがて慧音を永遠亭へと招き入れてしまった。
※
永遠亭の一室。
そこで妹紅と慧音は行儀よく正座をしていた。
そんな二人と向き合う形で輝夜が鎮座する。
その両脇を永琳ともう一人のイナバ、因幡てゐが固めていた。鈴仙は妹紅たちの後ろ、襖の近くに腰を下ろしていた。
部屋の中に重苦しい緊張が漂っていた。
その沈黙を押し破るように輝夜が妹紅に話しかける。
「妹紅。改めてお礼を言うわ。ありがとう」
「いや……別に気にしないで」
一言、言葉を交わしただけで、また部屋の中に沈黙が圧し掛かる。鈴仙も息を飲んで座を正していた。輝夜は次に、恐る恐る慧音に話しかける。
「け、慧音……あ、貴女も朝早くから、よく来てくれたわね」
「いや、大したことじゃない」
「で、でも人里からわざわざ来てくれて、お疲れでしょう?」
「そんなことないさ。これくらいの距離なら――」
「汚い口で姫様に話しかけないでもらえるかしら!?」
突然、慧音の話をぶった切るように永琳が大きな声で口を挟む。慧音が口を閉ざして永琳を睨むと、彼女は冷ややかな目でくすくすと笑う。
「貴女。妹紅に飽き足らず、我らの姫様も口説こうとする気かしら。ひどい教師ね。反面教師っていうのかしら?」
「口説く、か。月の天才はずいぶん汚い話をするものだな。この地上の空気と合わないのだろう、さっさと月へ帰るがいい」
「……なんですって?」
「……なにがだ?」
互いに睨み合いながら慧音と永琳はゆっくりと立ち上がる。二人の間で火花が散った。
「半獣ごときが、私に喧嘩を売るなんて……覚悟はあるみたいね、慧音!!」
「私を甘く見るなよ……お前の歴史をなかったことにしてやろう、永琳!!」
鼻と鼻が触れる程、顔を近づけて睨み合う二人。一触即発の状況。
妹紅は俯いてため息を漏らす。
輝夜は片手で両目を覆って天井を仰ぐ。
鈴仙が両目から諦めの涙を流す。
てゐはいつの間にか本を読んでいた。日本書紀おもしれー。
「ほら見なさい……貴女みたいな野蛮な猛獣に姫様が怯えているわ。可哀そうに」
「ふん、野蛮なのはお前だろう。妹紅が困っているじゃないか」
「……貴女とは別室でゆっくり話をする必要があるようね」
「そのつもりで来たんだ。話し合いで済めばいいのだがな」
再び「なによ!?」「なんだ!?」と睨み合う二人。今すぐにでも掴み合いを始めそうだ。
「ちょっと落ち着いて! ね、落ち着いてよ!」
そこへ輝夜が立ち上がって二人を宥め始める。妹紅も二人の間に立って、諭すように話しかけた。
「二人とも、そもそも喧嘩はよろしくない。うん、まったくよろしくない。きょ、今日はゆっくり話しあって仲直りを――いえなんでもありませんでしたすみません」
仲直り、という言葉を聞いて、目が血走った二人に睨まれた妹紅が黙り込む。そもそも妹紅に言われたところで何の説得力もないのだが。
※
それはまだ永夜異変が起きる前の事である。
閉ざされた迷いの竹林にて輝夜と妹紅は、終わりの見えない殺し合いを続けていた。
「さぁ、これで終わりよ! 妹紅!」
「ふん! そんなの効くか! 輝夜!」
そんな二人を永琳はただ静かに見守っていた。この殺し合いの果てを見届ける為に。
やがて妹紅に慧音という親友が出来たのだが、それでも二人は血で血を洗う闘いを終えようとしない。慧音もまた永琳と同じく、彼女たちの闘いを見つめるばかりであった。
いったい、いつ二人の殺し合いが終わるのか。その時、誰も想像がつかなかっただろう。
しかし。その日は突然やってきた。
妹紅も輝夜も、まったく予期しない出来事によって。
その日も妹紅と輝夜は激しい攻撃を繰り出し合っていた。
「くらいなさい!」
輝夜の攻撃を防ぎきれず、真正面から受けた妹紅が地に堕ちていく。
「ふふ! いい気味ね! 永琳、今の見た!? 私けっこう――あれ?」
得意げになって下で見守っているだろう永琳に笑いかける輝夜。しかし、そこに永琳の姿はなかった。
「油断したな……くたばれ!」
キョロキョロと永琳の姿を探す輝夜の背後から、いつの間にか周り込んでいた妹紅が攻撃をしかける。今度は輝夜が地へと堕ちていく。
「はは! 世間知らずのお嬢様め! 慧音見たか!? 私の攻撃――あれ?」
得意げになって下で見守っているだろう慧音に笑いかける妹紅。しかし、そこに慧音の姿はなかった。
「ちょっと! 不意打ちとか卑怯よ! 永琳が見当たらなくて、それどころじゃないのよ!!」
「そんなこと言えた義理か! こっちこそ慧音が見当たらねぇんだよ!!」
目の前まで戻ってきた輝夜と妹紅が睨み合う。しかしすぐにその表情に不安が浮かぶ。輝夜にとって永琳は優しく包んでくれる母親のような存在。一方、妹紅にとって慧音は自分を理解してくれるお姉さんのような存在。それぞれの保護者の不在に、二人は迷子になった子供のような顔になる。
「……いったん中断しないかしら?」
「奇遇だな。私も同意見だ」
殺し合いを中断して、二人は永琳と慧音を探し始めた。
数分後。二人は肩を並べて迷いの竹林の中を飛んでいた。
「永琳ー? どこ行ったのー?」
「慧音ー? 返事しろー?」
顔をあちらこちら向けて、やがて輝夜と妹紅は竹林の中で見慣れた二人の姿を見つけた。
「あ、永琳。おーい、何かあったのー?」
「慧音、どうしたんだー? ……ん?」
二人の影を見つけた輝夜と妹紅。輝夜はほっと一息吐いて傍へ寄るが、妹紅は二人の様子を不審に思った。
永琳と慧音は互いに見つめ合うように、かなり近い距離で向き合っていた。
その表情はまだ遠くて見えない。
妹紅と輝夜が再び声をかけようとした時だった。
「貴女があの子をそそのかしているからよ!!」
「いや、お前があの姫の教育を怠っているからだ!!」
耳に入ってくる罵り合う声。
その声に輝夜と妹紅は目を丸くして、その場で固くなってしまう。たしかに永琳と慧音の声だった。
「え、永琳?」
「け、慧音?」
驚く二人など目に入らないのか、永琳と慧音は罵倒を続ける。
「こんな闘いが無意味なことくらい、貴女にもわかるでしょう!? とんだ石頭ね、貴女!?」
「だったら裏で糸を引くのは止めろ! お前のせいであの二人はこんなことをするんだろう!?」
「なんですって!?」
「なんだ!?」
そして永琳と慧音の手が互いに伸びたかと思うと、お互いの髪の毛を引っ張り合う。
「痛いじゃないの!? この暴力教師!!」
「お前こそ、その手を放したらいいだろう!!」
しばらく互いの髪の毛を掴み合ったまま睨み合って、今度は服までも引っ張り合う始末だ。
「ちょ、ちょっと永琳!?」
「や、止めろよ慧音!!」
慌てて輝夜と妹紅が二人の間に割って入る。しかし永琳と慧音の険悪な空気は収まらない。
「ほら見なさい! 輝夜が心配そうな顔をしているじゃないの!?」
「そうだな! お前がそうさせているんだから仕方がないな!!」
「言うわね!!」
「お前こそ!!」
掴み合ったせいで髪の毛と服を乱しながらも、二人の視線はぶつかり合って火花を散らす。普段こんな乱暴な真似をしない永琳と慧音の姿に、先ほどまで殺し合いをしていた輝夜と妹紅が必死に食い止める。
「永琳! 落ち着いて! 私が悪かったから!」
「もう喧嘩なんてしないから! 慧音も落ち着いて」
しかし二人が落ち着くことはない。妹紅と輝夜はしばらく説得を試みたが、二人はまったく聞く耳を持ってくれない。とうとう妹紅と輝夜がわんわんと泣き出してしまい、ようやく睨み合いを止めてくれたのだった。
妹紅と輝夜の殺し合いは、こうして幕を引いたのだった。
だが、その代わりに新たな争いが生まれてしまった。
霊夢たちによって永夜異変が解決され、妹紅も輝夜も人里や妖怪たちと交流を深めようとしていた。それでも永琳と慧音の険悪な関係は収まらない。
「あら? 誰かと思えば物分りが鈍い先生じゃない? よく教師を続けられるわね?」
「おや、誰かと思えば腹黒い藪医者じゃないか? 毒薬でも配っているのか?」
人里でも、迷いの竹林でも、宴会の席でも顔を合わせれば睨み合い、互いを罵り合う。下手をすればまた掴み合いの喧嘩をしそうな勢いである。
「ほ、ほら永琳! このお酒美味しいよ! 霊夢のおすすめですって! あはは……」
「慧音! チ、チルノたちが面白いことを教えてくれって! 慧音の博学なところを見たいなぁ。あはは……」
その度に輝夜と妹紅は二人を宥め、深い深いため息を重ねてきたのだった。
※
「……入りなさいよ」
「…………」
妹紅と輝夜の説得に耳を貸さないまま、永琳は慧音を連れ出して別の一室の前に立っていた。二人の顔は未だに険しいままだ。
「怖いのかしら?」
「言ってくれるな」
永琳の挑発に慧音はふん、と鼻を鳴らすと目の前の部屋へ入る。
そこは永遠亭の屋敷内にある離れの一室。永遠亭で宴会が開かれる時に使われる部屋だ。
慧音が入ると永琳も続き、背中で襖をパタンと閉じてしまう。閉ざされた部屋の中で、二人はしばらく無言で立っていた。重い空気が沈んでいく。
やがて永琳が動いた。ゆっくりと設けられた床の間へと向かう。
月と竹が描かれた掛け軸の裏。そこには輝夜も存在を知らない隠し棚があり、永琳は鍵を差し込んで錠を開ける。慧音はじっと見つめていた。
そこから永琳が取り出したもの。
お手製のえーりん人形と、けーね人形(ハクタクVer)だった。
「永琳っ!!」
大事そうに人形を抱える永琳に、もう我慢が出来ないと慧音が飛びつく。そのまま抱きついて、勢い余ってその場で回ってしまう二人。
「きゃっ!? もう慧音ちゃん、危ないわよ」
「永琳、永琳、えーりん!」
甘えるようにすりすりと永琳に頬ずりをする慧音。くすぐったそうにしながら、永琳は笑顔を浮かべている。
先ほどの重い空気はどこへやら。
二人とも険しい顔つきから一変、頬がだらけてニヤついた表情になっている。
あっという間に甘い甘い匂いが部屋の中を包む。
閉ざされた部屋の中で二人は抱きしめ合った。
「さ、さっきはすまなかった! 永琳に酷い事を言ってしまって!」
「ううん、いいのよ慧音ちゃん。私もごめんなさい。でも、本心から出た言葉じゃないからね?」
永琳の言葉に慧音は頬ずりを止めると、永琳の顔を見つめる。その顔には嬉しさが満面している。
見つめ合って二人はにっこりと笑い合った。
「永琳、大好きだ!!」
「私も慧音ちゃんが大好き!!」
今度は永琳の胸に抱きつく慧音。勢いで押される形になり、その場で二人は座り込んでしまう。
「もう、慧音ちゃんったら! 甘えん坊さんなんだから」
「永琳だから甘えられるんだ。今日は二人きりで過ごそうな」
自分の胸に頭を押し付ける慧音に「まったく」と永琳は呟きながら、抱えていた二体の人形を床に優しく座らせると両手で慧音の頭を優しく包んだ。
※
さて、何故こうなったのか。
話は再び妹紅と輝夜が殺し合っていた時期に遡る。
「輝夜ー! 今日こそ父の仇をとらせてもらうぞ!」
「ふん! あのいやらしい親父の娘のくせに!」
宙で互いに傷つけ合う二人。そんな二人を永琳は悲しそうに見つめていた。
(……こんなことでしか、この世と繋がれないあの子たち。これほど悲しいことはないわ。でも、私は輝夜の従者。口を出すこともできない)
――私と妹紅の闘いに口を出さないで。
そう主に言い渡された忠実な従者は、歯がゆい思いをしながら見守るしかなかったのだ。しかし、もう見ていられなかった。永琳の心に生まれていた傷が深くなっていく。
そんな永琳に声をかけた者がいた。
「……貴女があのかぐや姫の付き人なのか」
永琳が振り向くと、そこには真面目な性格が表に出ている端正な顔つきの女性が立っていた。
「貴女は……?」
「申し遅れてすまない。上白沢慧音だ。あの白髪の子と親しくしている者だ」
名前を告げると慧音は永琳の横に立ち、宙で殺し合いを続ける二人を見つめた。その表情が悲しいものだと永琳はすぐに気づいた。
「どうしたら二人を止められるのかしら?」
「あの二人には深い憎悪が根付いている。中々解決できるものじゃないな」
慧音の言葉に永琳が俯く。永琳も二人の争いがすぐに終わるものだと思っていない。顔に諦めに近いものが浮かんでしまう。
だが、そんな永琳に慧音は笑いかける。
「いつ二人の争いが終わるのか……それは私にもわからない。でも二人の為に――二人が仲良く幸せでいられるように、出来ることは尽くしたい。貴女も協力してくれないか?」
にっこり笑ってみせる慧音に、永琳の心臓が一つ高鳴った。
(この人……終わりが見えない二人の争いを前にしながら、なんて温かい包容力なの。本当に優しい人なのね――私も温かく包まれたいな)
長い間、心が傷ついていた永琳は、慧音の言葉に頬を赤くして頷いた。慧音の顔を見つめていると、その心の傷が温かく癒されるように感じた。
その時、永琳は恋に落ちていた。
いわゆる、一目惚れである。
「ん? どうかしたか?」
心臓をドキドキさせている永琳に、慧音は首を傾げた。
「な、なんでもないわ! ええ、私も二人の仲を取り持ちたいわ! 協力するわ!」
「貴女も苦労をしていたんだな……私もいい加減、疲れてしまってな」
「え?」
慧音は視線を妹紅と輝夜に向けると、悲しい表情を浮かべる。
彼女もまた、二人の争いで心に傷を負っていたのだ。
(二人とも歴史に囚われ過ぎている……こんなことを続けても未来を切り開けないままだ)
苦々しい顔をする慧音の手を、永琳は優しく握った。
「慧音。これから二人で解決策を探しましょう……貴女と一緒なら、きっと二人の仲はよくなると思うわ」
「あ、あぁ。そうだな」
急に握られた永琳の手に、慧音は胸が高鳴るのを覚えた。誤魔化すように永琳に話しかける。
「ところで、貴女の名前を教えてもらってもいいだろうか?」
「あ、まだ名乗っていなかったわね。ごめんなさい――永琳。八意永琳よ」
目に涙を浮かべながら、にっこりと微笑む永琳。
その顔を見て、慧音の心臓が一つ高鳴った。
(この人……ずっと二人の争いを見守ってくれていたんだな。辛かっただろうな。でもその優しい性格だからこそ、ずっと耐えてこられたんだな――今日からは私が傍にいるからな)
永琳に頷いてみせると慧音は顔が赤くなるのを感じた。永琳の顔を見つめていると、心の傷が温かく癒されるように感じた。
その時、慧音は恋に落ちていた。
いわゆる、一目惚れである。
次の日から、永琳と慧音の顔に笑顔が浮かぶようになっていた。
「ぐやぐやぐやぐや!!」
「もこもこもこもこ!!」
相変わらず宙で殺し合いを続ける二人。その下で永琳と慧音は傍に寄り添って仲睦まじく笑顔を交わしていた。
「慧音。今日は永遠亭で作ったお餅を持ってきたの」
「ほぉ、これは美味しそうだな――うん、美味しい」
もはや妹紅と輝夜をそっちのけで仲が深まる二人。
やがてその日がやって来た。
「慧音ちゃん……貴女に大事な話があるの」
そう言って永琳は妹紅たちから離れた場所に慧音を連れ出した。
「だ、大事な話って?」
やがて足を止めて振り返る永琳に、慧音は顔を赤らめて訊ねた。
永琳が一つ深呼吸をする。
「あのね……私、貴女のことが好きみたいなの……よかったら、私とお付き合いしてくれないかしら?」
顔を真っ赤にしながら俯く永琳。目を丸くする慧音。しばらくして、慧音は返事をした。
「わ、私も……お前のことが好きだ! 私と付き合ってくれ!」
お互いに告白し合う二人。
笑い合って、お互いの両肩に手をのせる。そっと寄り添う。
「慧音ちゃん……」
「永琳……」
顔を寄せて、お互いの唇が重なり合おうとしていた。
「あ、永琳。おーい、何かあったのー?」
「慧音、どうしたんだー? ……ん?」
聞こえてきた声。永琳と慧音は唇がもう少しで重なり合う前に、そのまま固まってしまう。
そぉーっと横目で視線を向けると、向こうから輝夜と妹紅が飛んで来ていた。
(マ、マズイ)
二人の顔に冷や汗がだらだらと流れる。とりあえず二人は肩から手を離したが、かなり近い距離で向き合っていたのは誤魔化しようがない。鈍感じゃない限り、傍から見たら誰でも二人の仲を窺うだろう。
もし、二人の関係が妹紅たちに知られたらどうなることか……。
「そう、永琳……慧音とそういう仲だったのね。私たちが殺し合っている下で隠れてイチャイチャユリユリしていたのね」
「慧音。私たちのことなんて本当はどうでもよかったんだ……もういい、輝夜を殺して殺して殺しまくってやる」
自分たちを余所にしてラブラブしていたと知ったら、次の日から輝夜にも妹紅にも冷たい目で見られるだろう。そればかりか自棄になって増々激しい殺し合いを始めるかもしれない。
頭が賢い故にそんな事を考える二人。
だが妹紅と輝夜はもうそこまで来ている。
必死に考え、考え、考えた策。二人は同時に思いつく。そしてアイ・コンタクト。この間、五秒。
「……貴女があの子をそそのかしているからよ!!」
「……いや、お前があの姫の教育を怠っているからだ!!」
こうして妹紅たちを誤魔化す作戦、『実は私たち険悪でした作戦』が開始されたのだった。
さて、この作戦。無事に妹紅たちを誤魔化すことに成功した。
そればかりか大きなおまけまで付いてきた。妹紅と輝夜の和解である。日に日に親しくなる二人に、永琳も慧音も手を挙げて喜びたかった。
しかし永琳と慧音には成功と同等の代価を払わなければいけなかった。
それは妹紅たちの前では、『実は私たち険悪でした』を演じなければいけないということ。
というのもあの日、演技をやり過ぎたのである。妹紅と輝夜が泣き出してしまうくらい、『永琳と慧音は私たち以上に仲が悪くてどうしようもない』というイメージが付いてしまったのだ。これでは次の日『急に仲直りをする二人』を演じることが難しかった。「実は私たち、仲がいいのよ」と演技であったことを告白しようものなら、やはり妹紅たちが自棄になるかもしれない。
そうして長い間、自分たちの本当の関係を打ち明けることができず、人前では大好きな相手の悪口を言い、時には掴み合いをしなければいけない羽目になったのだった。その間にも『永琳と慧音の仲はどうしようもない』という噂がどんどん広がり、増々打ち明けることができないでいた。
永琳と慧音は、二人きりで誰にも邪魔されない僅かな時だけ、恋人同士でいられるのだった。
※
「さて、あの二人をどうしたものかね? 輝夜?」
「なんとかしないといけないんだけどねぇ?」
「……何やっているんですか?」
永琳たちが出て行った後の部屋。妹紅と輝夜、鈴仙、そしててゐの四人は重苦しい空気が去り、呼吸しやすくなった部屋の中にいたままだ。
「何って、見ればわかるじゃない。イナバ」
「輝夜にヒザまくらしてもらってる」
輝夜のヒザの上に頭を乗せて、妹紅は気持ちよさそうに目を閉じていた。すぐにでも昼寝しそうだ。そんな妹紅の顔を上から輝夜が微笑む。
顔を見合すたびに喧嘩する永琳と慧音。その度にこの二人は協力して宥めてきた。そのうちに親しくなり、ついには恋人同士にまで発展したのだ。
そんな二人を見て、鈴仙が「はぁ……」とため息を吐く。それは輝夜たちがのんびり過ぎるのに呆れているのもあるが、一方で羨望の感も覚えていた。
(私もてゐにしてあげたいな……)
ちらりと振り返れば、てゐは二つ折りにした座布団を枕にして、涼しい顔で仰向けに本を読んでいた。古事記おもしれー。
「お師匠様と慧音さんをそろそろ仲直りさせないと……あの二人ほど険悪な関係を見ていられないのもないですよ」
「うーん、そうは言うけどねぇ。ね、妹紅?」
「私らも色々手を尽くしたからなぁ。ね、輝夜」
輝夜の首に両手をまわして微笑みを交わす。完全に二人だけの世界に入っていた。鈴仙が二度目のため息を吐く。今度は呆れている。
「そうだ! 妹紅が買ってきてくれたお饅頭を食べましょうよ!」
思い出したように輝夜が両手をポンッと合わせると、妹紅が起き上って紙袋に手を伸ばす。
「お、そうだな。食べよう、食べよう」
「はぁ……私、お茶を淹れてきますね」
鈴仙がゆっくりと立ち上がって台所へ行こうとする。その背中で「あ」と輝夜が声を上げる。
「……永琳たちにも差し入れしないといけないよね?」
途端に部屋の空気が零点下まで下がり、四人とも固まってしまう。皆、永琳たちの争いに巻き込まれたくないと思っているのだ。
「鈴仙……」
「な、なんですか!? 姫様! もしかして、私に行けとおっしゃるのですか?」
「あら、荒事は全て貴女の仕事でしょ? ここは任せたわ」
「お任せください、なんて言うと思いましたか!?」
誰が差し入れに行くか。部屋の中で漫才を始める輝夜と鈴仙。そこへボソッとてゐが呟く。
「なーんにも心配する必要はないよ。まったく鈴仙は考えすぎなんだよ。もっと前向きに考えなくちゃ」
鈴仙が振り向くと、てゐは本から視線を離していないままだった。楽観的に構えているように見えるが、鈴仙はむっと険しい表情になる。
(何よ、この一大事なのに余裕かましちゃって。てゐのそういう所あんまり好きじゃないなぁ……私の気持ちなんて、知らないくせに)
やがて鈴仙は決心したように拳を固める。
「わかりました! 私が差し入れに行きます! それからお二人を説得してきます!」
妹紅と輝夜が目を丸くする。てゐはと言うと「やれやれ」と呆れたような顔をしていた。
そんなてゐを前に、鈴仙は増々勢い込む。
※
「永琳の髪。本当に綺麗だな」
「そう? 慧音ちゃんの髪の方が、私好きよ」
永遠亭の離れ。
永琳と慧音は壁にもたれるように座っていた。慧音のヒザ上にはえーりん人形、永琳のヒザ上にはけーね人形が笑って座っていた。それぞれ両手で人形を大事に持ちながら、二人は顔を寄せて楽しい会話をしていた。
「そう言えばいつも三つ編みにしているが、これは誰が編んでいるんだ?」
「ああ、うどんげよ。朝起きるときにいつも編んでくれるの。たまに輝夜がしてくれたりもするわ」
「ふーん」
永琳の髪を眺めながら慧音は面白くなさそうな顔を浮かべる。永琳がくすりと笑った。
「焼きもち?」
「ああ、焼いているよ」
ぶすっと不機嫌になる慧音に永琳はますます笑顔になる。そしてヒザ上のけーね人形から両手を放すと、ゆっくり髪の三つ編みを解いていく。やがて長く、光に反射する綺麗な白髪が宙に舞った。
「これでどうかしら? 私のかわいい恋人さん?」
「ああ……綺麗だ」
初めて見る三つ編み以外の永琳の姿。慧音は胸をときめかして見つめていた。
腰の辺りまである永琳の髪。慧音は片手を伸ばして、そっとその先を優しく手にした。
「すごいさらさらだな……ずっと触っていたい」
「慧音ちゃんならいっぱい触って欲しいわ。私も慧音ちゃんの髪で遊びたい」
「それにしても長くて綺麗だ。散髪とかはどうしているんだ?」
「あら? 私、失恋するまでは髪を切らないと決めているの」
「それじゃあ、ずっと伸ばしっぱなしだな」
永琳が堪えきれず吹き出した。慧音は目を細めたまま、恋人を見つめていた。そして永琳の髪から手を離す。
「永琳」
「ん?」
永琳が再び慧音に向き合うと、慧音はえーりん人形を両手で胸の高さに上げていた。視線はけーね人形に向けている。永琳もけーね人形を両手で持ち上げた。
慧音は手にしたえーりん人形をけーね人形に近づけていく。
やがて二体の人形の顔が重なり合い、口づけを交わした。
二人の顔が真っ赤になる。
実は付き合ってから、まだキスをしたことがないのだ。
「永琳」
慧音がゆっくりと永琳に顔を寄せる。少し戸惑ってから、永琳は目を閉じて慧音の唇を待った。
「慧音ちゃん……」
「お師匠様! 慧音さん! 失礼いたします! お饅頭とお茶を用意しまし――」
襖がガラリと開けられ、お盆を手にした鈴仙が部屋の中へ入ってきた。
「うぉりゃー!!」
その目の前で永琳に思いきり頭突きをかます慧音。永琳が背中を仰け反らして倒れ込む。
「け、慧音さん!?」
「どうだ! 人里のハクタク先生を舐めるなよ!」
手で赤くなった額を押さえながら涙目で慧音を睨む永琳。
「本当に貴女は暴力教師ね! あー、子どもたちが可哀そう!」
「お前だからしてやってんだよ! 馬鹿にはつける薬がないって言葉を知らないのか!?」
「ば、馬鹿って……このっ!!」
今度は永琳が慧音の胸元を掴み、その服を思いきり引っ張る。その手を慧音がバシバシと大きな音を立てて叩く。
鈴仙はその勢いに呆気にとられて、二人から視線を離すことが出来ないでいた。
「あ、あのぉ……」
「服を脱がそうだなんて、お前はやっぱり下品だな!」
「貴女みたいな原始人には裸で十分よ!」
二人の仲介をしようと勢い込んできた鈴仙。しかし目の前で醜い掴み合いをする二人の気迫に押されて、早くも心が折れてしまう。しかし、ここで諦めたら次の機会を失ってしまう。
首をぶるぶる振って、心の勇気を突貫工事で立ち直す。そして再び二人に向き合った鈴仙だったが。
「お、お二人とも……実は話があるのですが……」
「今この馬鹿を教育し直すのに忙しいから後にしてくれ!!」
「今この馬鹿を治療するのに忙しいから後にしてくれる!?」
「……はい」
あわれ鈴仙。突貫工事の勇気も瞬く間に瓦解し、涙目になってしまう。
その場にお盆を置いて、逃げるように部屋を出て行ってしまう。
足音が遠くなって行くのを確認して、二人の動きが完全に止まる。やがて足音が聞こえなくなった。
「慧音ちゃん!!」
永琳が慧音に飛びつく。そのまま慧音を押し倒す格好になる。
「ごめんなさい! ごめんなさい!」
「いいんだ! 永琳、気にしないでくれ。それより頭突きをしてすまなかった。痛かっただろう? 本当にすまない」
涙を零す永琳に、慧音は赤くなった永琳のおでこを何度も何度も優しく撫でる。しばらくして永琳は慧音の胸から顔を上げると、涙目で小さく笑った。慧音も笑顔で応えた。
「慧音ちゃん……うどんげには後で優しくしてあげないと」
「そうだな。私からも謝らないとな……永琳?」
今度は永琳の方から目を閉じてキスを催促する。
しかし、いくら待っても慧音の唇が近づく気配はない。
永琳がゆっくり目を開けると、目の前の押し倒された慧音は首を横に向けていた。
「ど、どうしたの? 慧音ちゃん?」
拒まれた、と思い込んで永琳がまた涙目になる。
「永琳……バレたかもしれないぞ」
「え?」
慧音の視線の先を辿ると――畳の上に転がっているえーりん人形とけーね人形が笑っていた。
※
「はい、妹紅。あーん」
「あーん。うん、美味しい!」
再び妹紅たちがいる部屋。
輝夜が差し出した饅頭を口に入れて、満面の笑みを浮かべる妹紅。今度は妹紅が饅頭を手にする。
「ほら輝夜。あーん」
「あー……ん!」
差し出された饅頭を妹紅の指ごと口に咥える輝夜。そのまま妹紅の指をちゅっちゅっと吸ってから、口を離して饅頭を咀嚼する。
「へへ。妹紅の指も食べちゃった」
「こいつー。こんなことするの幻想郷でお前だけだぞ、食いしん坊め」
未だに二人きりの世界に閉じこもる輝夜と妹紅。
そんな二人を見つめながら鈴仙はすごく落ち込んでいた。
「まったく、あれだけ勢い込んでいたのに、結局は尻尾巻いて帰ってきたの?」
てゐが横から口を出すと、鈴仙はさらに肩を落とす。
永琳たちの剣幕に押されて、畳に転がっていた人形に鈴仙は気が付かず、二人がすでに恋仲であることを見抜けないままだった。ただ何もすることが出来なくて、そんな自分に歯がゆい気持で胸がいっぱいなのだ。「やれやれ」とてゐは本を閉じると、上半身を起こして鈴仙を見つめた。
「まぁ鈴仙じゃ、あの二人を仲良くさせるなんて無理だよ。どんまい」
「っ!」
てゐの言葉に鈴仙の体が固まる。しかしそんなことを知らないてゐは視線を逸らせて頬を赤くしていた。
(そもそもあの二人を仲良くさせる必要なんてない。お師匠様が夜な夜な裁縫して人形を作っているのを見たからねぇ。向こうがカミングアウトするのを待てばいいのさ。だから鈴仙がこんなことに苦労かける必要はないよ。そ、そんな暇があったら、わ、私にかまって欲しいなぁ……)
心の奥で想い人のことを想う素直じゃないてゐ。しかし、その性格が仇となってしまう。
「なんですって?」
「え?」
てゐの耳に飛び込んできたのは重く、怒りに満ちた鈴仙の声。慌てて振り向くと、鈴仙が涙目になりながらてゐを睨み付けていた。
「私だって……私だって役に立ちたいもん。二人を仲良くさせたいんだもん」
「れ、鈴仙?」
「何もしようとしないてゐに言われたくないよ!!」
部屋の中に響く鈴仙の声。
ようやく二人の世界から戻ってきた輝夜と妹紅が驚いて鈴仙に視線を向ける。
「イ、イナバ?」
「どうしたんだ、おい?」
二人の声掛けにも応じず、鈴仙は肩で大きく息をしながらてゐを睨み付けていた。突然、怒りだした鈴仙にてゐが目を丸くする。
「鈴仙……?」
「なんにも知らないくせに! なんにもわかってないくせに、私のこと、馬鹿にして!」
「え? あ、ごめん……言い過ぎちゃった。ごめん」
てゐがしゅんとなって鈴仙に謝る。それでも鈴仙の勢いは止まらない。溜まっていたてゐへの想いが怒りとなって爆発してしまった。
「てゐ、貴女はいつも私に厄介事を任せて、影で私のことを嗤っているんでしょう!?」
「そ、そんなことないよ! れ、鈴仙の事を一度も影で馬鹿になんてしてないよ! 本当だよ! さっきは軽はずみだったよ、ごめん」
「ふん、どうだか。貴女のことだから、それも嘘に決まっているでしょ?」
「……鈴仙。今なんて言ったの?」
てゐの体がぴくりと震えて、鈴仙を睨み付ける。
あ、これあかんヤツや。また部屋に充満していく息苦しい空気に、妹紅と輝夜の顔が引きつる。
「鈴仙こそ……私のことなんにも知らないくせに!!」
「知らないに決まっているでしょう! 知っていたら怒ったりなんかしないわよ!」
「そうやって肝心なところで無責任になるよね!? 私のこと知ろうとした事あるの!?」
「そう言うてゐこそ私の気持ちを知ろうとしないよね!? だから酷い事を平気で言えるんでしょう!?」
むむむと、睨み合う鈴仙とてゐ。
そんな二人の間に立つように、妹紅と輝夜が宥め始める。その顔には「おいおい。勘弁して」と大きく書かれてあった。
「お、落ち着けよ。二人とも」
「そうよ。喧嘩はよして、ね?」
しかし涙目の鈴仙とてゐは火花を散らしたまま、そして大声で叫んだ。
「てゐなんて!!」
「鈴仙なんて!!」
――大っ嫌い!!
※
「はい、慧音ちゃん。あーん」
「あーん。うん、やはり松本堂の饅頭は美味しいな」
離れでは永琳と慧音が再び愛し合っていた。永琳が差し出した饅頭を口に入れる慧音。その表情がだらけ切っている。
慧音は饅頭を手にすると、永琳の口へ差し出す。
「永琳。あーん」
「あー……ん!」
差し出された饅頭を慧音の指ごと口に咥える永琳。慧音の指をちゅっちゅっと吸ってから、口から離して咀嚼する。
「うん、美味しいわ。慧音ちゃんの指も」
「まったく食いしん坊だな、永琳は。こんなことするのは幻想郷でお前だけだぞ」
慧音はそう言って永琳に笑いかける。つい先ほど、同じ屋敷の違う部屋で同じことをしていた二人がいたのだが。
顔を見合わせて、声を上げて笑う二人。
やがて永琳はそっと慧音の肩に寄り添った。慧音も腕を回して永琳を抱き寄せる。
「ねぇ、慧音ちゃん?」
「なんだ、永琳?」
顔を俯かせる永琳に慧音が顔を覗かせる。永琳は迷っているようだったが、意を決して慧音に話した。
「あのね……もうそろそろ、私たちの事。輝夜たちに話してもいいんじゃない?」
「え?」
慧音の顔から笑顔が消える。永琳も慧音から体を離すと、真顔になって慧音を見つめた。
「まぁ、これの事もあるんだけど」
そう言って、畳の上で仲良く手を繋いで座る人形たちをちらりと見た。
「もう輝夜たちにはバレているころね」
鈴仙は二人の争う姿に気を取られて、まったく気が付いていなかったのだが、永琳たちはそんな事は知らないまま。
「……今頃妹紅たち、怒っているだろうか?」
「たぶん、ね。仕方がないもの。ずっと輝夜たちを騙していたんだから」
そして意を決した永琳が慧音の手を優しく握る。少しして慧音も握り返した。
「あ、あのね。慧音ちゃん。また妹紅と輝夜が喧嘩をするかもしれない。ううん、喧嘩はしなくても私たちのことを嫌い、って言うかもしれない。それでも私は、慧音ちゃんとずっと傍にいたい! 片時も慧音ちゃんから離れたくない! もう、こうやってこそこそするのは嫌なのよ!」
途中から涙声になって、今まで溜めていた想いを慧音にぶつける永琳。
嗚咽を漏らす永琳に、慧音は「うん」と頷いて頭を撫でた。
「私も、同じ事を思っていた。永琳、私たちの事を言おう。それで妹紅たちが私たちの事を嫌いになっても、ずっと私が永琳の傍にいてやる。これから先、永琳が傷ついたなら私が癒してあげよう。永琳が絶望に負けないくらいに私が幸せにしてやる」
「慧音ちゃん……」
永琳が涙を零しながら慧音の顔を見つめる。慧音はじっと永琳を見つめ返していた。
やがて二人の顔が近づいて、一つに重なる。
そんな二人を、人形たちはやはり笑って見守っていた。
※
「……いいな? 永琳」
「うん、覚悟はしているわ慧音ちゃん」
離れから出た永琳と慧音。
互いの手が指を絡ませて繋がっていた。
二人は廊下をゆっくり歩き、もうすぐ妹紅たちがいる部屋に差し掛かろうとしていた。
「永琳、大丈夫か? 私から言ってもいいんだぞ」
「もう慧音ちゃんたら、そんな事言っちゃやだ。これは私たち二人の事なのだから。私からも話すわ」
互いに顔を見つめ合って、微笑む。
心から愛し合えて、支え合う者を手に入れた者には怖いものなどない。どんなに辛いことがあっても、手を取り合い乗り越えていくだろう。
やがて妹紅たちがいる部屋に到着した。
そこで何やら様子がおかしいことに二人は気が付いた。中から四人がギャーギャーと言葉にならない声を上げていたのだ。
「ん? なんだ、この声は?」
「まさか……輝夜たち、喧嘩しているのかしら?」
二人の顔に不安がよぎる。だが互いに手を握り合っていると、すぐに落ち着きを取り戻す。
覚悟はとうに決めた。
「妹紅! いきなりだが話があるんだ! ……ってあれ?」
「輝夜! 急で悪いけど私たちの話を聞いて! ……ってあれ?」
勢いよく部屋の襖を開ける慧音と永琳。
しかし部屋の中では二人の予想を大きく超えた事態が発生していた。
「……あ、慧音……なんとかしてよ」
「永琳……もう私たちじゃ疲れたよ」
振り向いた妹紅と輝夜はすっかりやつれ果て、永琳たちの手が繋がり合っている事に何の疑いも持つことなく、助けを求めるようにふらふら近づいてきた。
その向こうでは――。
部屋の中が滅茶苦茶になっていた。
畳にはいくつもの焦げた跡。
襖には無数の穴という穴。
天井には座卓が突き刺さっている。
そして。
「ひっく……ぐすっ! て、てゐの馬鹿ー!」
「うぅ、鈴仙なんて、ひっく……鈴仙の馬鹿ー!」
泣きじゃくりながら部屋の中で、へなへなの弾幕を打ち合う鈴仙とてゐの姿があった。
「あー……何がどうなっているんだ?」
「ふ、二人ともどうしちゃったのかしら?」
目を丸くする慧音と永琳。
そんな二人に妹紅と輝夜が声を揃えて叫ぶ。
「慧音のせいだ!!」
「永琳のせいよ!!」
状況が呑み込めずおろおろとする二人を見て、妹紅たちががくりと肩を下ろす。
「……慧音が永琳と喧嘩ばっかりしているせいで、あのざまだよ。はぁ」
「もー、私たちじゃ無理。じゃ永琳、後は頑張ってねー」
必死に二人のイナバを宥めたのだろう。すっかり疲れ切ってしまった妹紅と輝夜はふらふらと慧音たちの横を通り、背中で手を振りながら部屋から出ようとする。
「ちょ、ちょっと妹紅! 大事な話があるんだ!」
「輝夜も待って! 私たちの話を聞いて!」
呼び止めようとする慧音と永琳だが、妹紅たちはお構いなしに出て行ってしまう。後ろから何かが割れる音がした。
「知らない! もうてゐのことなんか知らない! わーん!」
「もう鈴仙の勝手にしたらいいよ! うわーん!」
泣きながら床に転がっていた湯呑やら皿やらお盆やらを投げつけ合う二人。
しばらく、そんな様子を見つめて慧音と永琳は顔を見合わせる。
「て、てゐ! 落ち着け! こんな事をしてもなんの解決にもならないぞ!」
「うどんげも! 私たちが悪かったから! もう喧嘩なんてしないから落ち着いて!」
こうして永琳と慧音の形だけの喧嘩は終焉を迎えたのだった。
晴れて二人は恋人同士である事を、誰にも気兼ねすることなく宣言する事が出来る。
しかし、永遠亭には素直じゃない恋を火種とした新たな争いが生まれてしまったのだった。
てゐんげ可愛い 「なれそむト」を彷彿とさせる