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#01 Prologue
炙り焼きで雑味を落として、山椒を加えた特製の“たれ”に浸し、出汁を煮込んだ野菜スープと一緒に味わってもらう。お客さんが笑顔を見せたら、次は雀酒の出番となる。
ミスティア・ローレライは徳利から竹筒に酒を注いで、友人達へ手渡す。宵闇に溶けるは談笑、秋の始まりを告げる蟲の声。ほろ酔いにはうってつけの夜。
「もう無いの?」皿を差し出しながら、ルーミアが云う。「ちゃんと持ってきてるよ、代金なら」
「切らしちゃったのよ、ごめんなさいね」
「そうかぁ」
彼女は肩をすくめてから、串の先で“たれ”をすくっては舐めることを繰り返した。隣に腰かけたリグル・ナイトバグが、手の甲に乗せた鈴虫の背をなでながら云う。
「ミスティア、また補充に?」
「痩せっぽちしか見つからないけど」
「おまけに腐ってる」
「そうね」
「酸っぱいし、固い」
「うん」
「……諦めきれないなぁ」ルーミアが身を乗り出す。「ね、缶詰で好いから何か作ってよ」
「厭よ。前に試したら苦情が出たし」
「お願い、お願い」
彼女は手を合わせて、小首を傾げた。紅い瞳は潤んでいて、覗いた犬歯から肉片がぶら下がっている。
「分かったわよ、もう」溜め息をついて、三角巾を締め直す。「でもね、ルーミア。素材が駄目ならそれでお仕舞なのよ。誰が調理しても、結果は同じだわ」
屋台の下に蹴り込んでいた風呂敷を広げて、小憎らしい奴をつかみ取る。ペースト状になった食材は、まるで血抜きを済ませた赤身魚のように見える。木のスプーンでかき出し、丸めて団子にしてから、同じ手順で炙り焼きにする。立ち昇ってくる臭いに、ミスティアは顔をしかめた。
夜風が吹いて、暖簾をなびかせる。リグルが二の腕をさするのが見えた。また曇り始めたようだ。遠くから雷鳴が黒雲の下を這いずり、山影を踏み越えて近づいてくる。潮が引くように蟲の調べが縮んでゆき、潰れて消えてしまう。
「お待ちどおさま」
「頂きます」
ルーミアが“たれ”に浸けた団子を頬張った。咀嚼を始めたと思ったらすぐに飲み込んでしまい、続いてお冷を喉に流し込んだ。飯台にうつ伏せになって、唸り声を立て始めた少女の背中を、リグルが柔らかに叩いた。
「……大丈夫?」
「だから云ったじゃない」まな板を念入りに洗いながら、横目で見据える。「できれば手をつけたくないの。非常食なんだから」
ルーミアが涙の浮かんだ両眼を上げる。「同じ肉なんだよね。なんで缶詰にしただけでこんな味になるの」
「知らないわよ」
「外来のは脂身が多いよね」とリグル。「こっちで穫れるのは淡白って云うか、身が締まってると云うか――」
「ヘルシィ」
「そうそれ。食べてる物の違いかな」
「霜がたんまり降ってるのも美味しいよ」ルーミアが云う。「とろっとろに乗ってるの、食べてみたいな。一度で好いから」
「昼間は襲えないし、夜は境界の外に出てこないし」頬杖を突くリグル。「出てくるのは、どれも骨と皮ばかり。大半は犬やカラスに横取りされてる」
「諦めて新しい食材でも見つけるべきかしらね」
「そんな!」
ルーミアの悲痛な叫び声に、耳を塞ぎながら頷いてやった。
「分かってる。何とかしてみるよ」
「私も協力するから」
「ええ」
「困った時は遠慮なく頼ってね」
「ありがとう」
「美味しいの作ってよ、ミスティア」
宵闇の中でも、ルーミアの眼はきらきらと輝いていた。
ミスティアとリグルは、顔を見合わせて笑った。
#02
空気の最後のひと雫(しずく)まで吐き尽くしたかのような、永い断末魔だった。手間どってしまったせいか、切断面は喰い込んだ皮と肉とで潰れている。脈動に合わせて血潮が吹き出し、やがて弱まっていった。男は舌打ちをこぼしてから、刃の汚れを拭き取り、解体の続きを始める。里からそう離れていない一角、定められた境界のライン際、傍の茂みに身を潜めて、ルーミアは屠殺の光景を見守っている。
男の頬は痩せこけていて、眼の周りが青黒く染まっているためか、眼球が異様に大きく見える。彼は“美味しくない人間”の特徴をフルコースで備えていた。不味い連中ほど風貌が妖怪に近づいてゆくことを、ルーミアは以前から不思議に思っている。男は両手にごっそりと赤いのやら白いのやらを抱えて小屋の中に入ってゆき、遂に姿を見せることはなかった。
唇に人差し指を当てて、しばらく考え込んでから、立ち上がってその場を後にする。その日も天候は不順だった。噴火の黒煙かと見紛うほどに濃い雲の絨毯が空に敷かれていて、冬の夕暮れのように薄暗い。春から始まって以来、見慣れてしまったこの空模様には、太陽の光も、月の明かりも、星のきらめきでさえも、踏み込む余地などないだろう。
「――“牧畜”?」
ルーミアが問い返してきたので、リグル・ナイトバグは蟲達の食事から視線を離した。ここ数日はまともな獲物にありつけなかった分だけ、彼らの喰いっぷりは見ていて気持ちが好かった。
「考えてみてよ、ルーミア。小さいうちから食べてしまったら肉が勿体ないでしょ」
「私は子供も大好きだけど、柔らかいし」
リグルは額に中指を当てる。「……好みの問題はともかく、食べ頃になるまで育ててやった方が、結果的にはより多くの肉を頂けるってわけ。横取りにだけは注意しないといけないけれど。まあ、人間なら何処でもやってることだよ」
「ふぅん」
ルーミアは切り株から飛び降りて、空き地の端を歩き始めた。視線は蟲達に留まったまま。あるいは力尽きた屍を見つめているのかもしれない。
「でもさ、それなら食べ物を分けっこしないと育てられないんじゃないかな。そっちの方が勿体ない気がする」
「人間には摂取できない食物でも、家畜の動物なら消化して栄養素に変えることができるから。例えば草とか、葉っぱとか。だから餌の取り合いにはならないってわけ」咳払いして続ける。「云ってみればさ、人間は家畜を介することで、本来は食べられない物を“間接的に”身体の中に取り込むことに成功しているんだよ」
「成程なぁ」ルーミアは振り返って、子供のように笑った。「私が人間だったら、我慢できなくて食べちゃうかも」
「それくらいの方が向いてるんじゃない、むしろ」
「なんでさ」
「愛着が湧かなくて済むから」
「ん、“愛着”って何?」
リグルは、蟲に喰い散らかされてゆく餓死者の遺体を、――溶け崩れた腐肉や、真っ黒に濁った血が大地に還ってゆく過程を見守った。指の先で触覚の根本に触れながら、苦笑混じりに答える。
「……ごめん、私にも分からないや。説明できない」
骸はやがて、骨と皮、僅かにこびり付いた肉片ばかりとなった。食事を終えた蟲達が解散してゆく。手を振って彼らを見送り、欠伸を漏らして振り向く。友人がお坊さんのように手のひらを合わせている。
「どうしたの、ルーミア」唇の端が歪んだ。「合掌なんかしちゃって、人間の真似事?」
彼女は何度か頷いてみせた。「うん、ちょっと始めてみる」
#03
万が一の可能性を考えて交渉してみたが、結果は予想通りだった。少女が首を縦に振ることはなかった。あまりに横に素早く動かすものだから、アマゾンの熱帯雨林みたいに生え放題の黒髪がタンゴを踊った。
「どうしても駄目?」
「駄目に決まってます。そんなことをしたら、今度は私が焼却炉に放り込まれてしまいます」
「じゃあさ、腕の一本だけでも好いから。それならバレないでしょ」
「お断りします」
「他に家族や親戚はいないんでしょ? 誰も見送りに来ないじゃない」
「仏に縁も無縁もありません!」
とうとう激昂してしまったので、流石に諦めざるを得なかった。彼女は、変わり果てた両親にしがみついていた男の子の肩を叩いてから、遺体を炉の中に運び込む。火が点けられると泣き声が高まったので、ミスティアは思わず舌で唇を濡らしていた。野辺の煙は、いつも何度でも妖怪を魅了して止まないのだ。
最後に子供を調理したのは、いつ頃のことだったか。
「……それで、この子はどうするの」
火葬屋の少女は、こちらを睨みつけながら答える。「引き取り手がいないんです。私に押しつけて、みんな帰っちゃいました」
「“孤児(みなしご)は里のみんなで育てよう”みたいな決まりになってたんじゃなかったっけ。ましてや心中と来たら――」
「事情が複雑なんです」
湿った地面に四つん這いになっている男の子の頭を、少女はなでる。彼の脚は、落下の衝撃で完全に使い物にならなくなっているようだった。どうして身体の脆い息子だけが生き残ってしまったのか、ミスティアには不思議だった。
「この子は、私と同じなんだと思います」
「同じ?」首を傾げる。「男と女、全然違うよ」
「そういう意味ではなく」
「貴方、オスだったのね」
「違います!」彼女は喚いた。「……ただ、私達は他のひとと同じような生活をしてはいけないんです。そういう風になっている。だから、この子を誰も引き取ろうとしなかったんです」
「意味が分からない。皆が皆、生きるのに精いっぱいで、貴方達を養う余裕が無かったってこと?」
「――……もう好いです」
「そう」
男の子は泣き続けていた。野辺の煙は曇り空に吸い込まれるように消えていった。焼かれた人間の灰が空に昇って、雨雲に化けたかのように濁りのある小雨が降り始めた。
#04
少女の住まう荒ばら屋に雨宿りする。男の子が眠れるようにと、少女は歌って欲しいなんて頼み事をしてきた。いつもみたいにと言葉を添えて。屋台の時分でないと興が乗らないと断ったが、重ねて手を合わせてきたので、ミスティアは望み通りにした。脚の痛みが酷く、彼が眠ることはできなかったが、耳を澄ませてくれているのは確かだった。囲炉裏の熾火(おきび)と、屋根を打つ雨足が伴奏を務めてくれた。小さな唄を、小さな家に。トンネルに浮かび上がった灯火のような声で、ミスティアは歌い終えた。
火葬屋の少女が肩に頭を預けてきた。
「今ここで」彼女の声は乾いていた。「“殺して下さい”ってお願いしたら、ミスティアさんは私を美味しく調理してくれますか」
「しないと思う」
「どうして」
「不味そうだから」
少女は胸を膨らませて深呼吸する。「何もかも全部、やり直したいって思ったことは」
「ないわ、……多分」
「毎日のように、ご遺体が運ばれてくるんです」彼女は男の子の方を振り返った。「半分近くのひとは、腿の肉が削がれていました。中には、頭蓋に穴が空けられたご遺体もありました。内臓の代わりに泥が詰め込まれていました。厭でも眼に入るんです。沢山のひとが餓えて死んだんだって。食べられるものは全部、食べ尽くしてしまったんだって」
「妖怪も似たようなものよ。どいつもこいつも殺気だってる。それで決まって無茶をやらかす奴が出てきて、お偉いさんに叩きのめされる」天井を見上げて、思いつくままに話す。「参ってんのよ、どいつもこいつも。缶詰ばかり与えられて、鬱憤晴らしの殺し合い。空気の抜けた紙風船みたいにさ、陰気な顔ばかり眼についちゃう」
少女が顔を離すのを待ってから、ミスティアは呟いた。
「――それで、本当にどうするの、この子」
「分かりません」
「貴方も余裕は無いんでしょう?」
「……はい」
「今年の冬もまた、水にさらした彼岸花の球根を食べてやり過ごす気? それも子供と二人で」
「…………」
ゆっくりと視線を戻す。囲炉裏の火が弾けて合図する。「新しい親が見つかるまで、こいつの面倒、見てあげよっか」
少女が顔を上げて、こちらを見つめてきた。
「ああ、云っとくけどさ、捌いたりないからね。それだけは約束する」
「なんで、どうして」
「いつも私の唄を褒めてくれるから。それだけ」
顔を背けて、三本の指で瞼をつまむ。自分でも、自分の云ったことが信じられなかった。か細い声で、火葬屋の少女が「ありがとう」と呟いてからも、振り返ることができなかった。
#05
ここしばらくはご無沙汰だったが、手が震えることはなかった。用意されていた刃物は、まるでプリンに刺し込まれたナイフのように、易々と肉を断ち切った。ひと通りの解体を済ませると、調理台の向かいに立っている紅美鈴が頷いた。
「覚えが早くて感心しました」彼女は云う。「先ずは腐敗の早い内臓から調理します。空気にさらしていると、あっと云う間に傷みますからね。場合によっては廃棄することも選択肢に入れておいて下さい」
十六夜咲夜は一礼して指示に従った。仕込みを続ける間、先輩は何度もこちらに話しかけては、大げさなジェスチャーを交えて微笑んでみせるのだった。二人の間には、頭と四肢を切り落とされた二脚の羊。個人を特定する要素を取り除いてしまえば、それは直ちに貴重な蛋白源に変わる。
「今更なのですが」手を止めて、美鈴は声を落とした。「辛かったら、いつでも中断しますよ。お嬢様にも了解は取ってありますし、こういうのは、――そう、時間をかけて慣れていくことが大切ですから」
咲夜はまた頭を下げて、大丈夫という意味を込めて包丁を振ってみせる。先輩の真似をして微笑んでみようと思ったけれど、引きつったような歪んだ笑みが浮かぶだけだった。
「前に云ったと思うけど」パチュリー・ノーレッジは本から眼を離さずに云う。「食事なんて必要ない。貴方が食べなさいよ」
「大事な時に貧血になっては困ると、お嬢様が」
魔女は溜め息をついて、読みかけの本を閉じる。ホール・ケーキみたいに分厚いその魔導書を、彼女は軽々と浮かせてみせた。空いたスペースに湯気の立ち昇る食器を置いて、脇の暗がりに控える。眉ひとつ動かさずに食事を進める彼女を見て、美鈴は肩の力を抜くことができた。言葉と態度の割には、パチュリーはけっこう楽しげにスープやらローストやらを口に運んでいるように見えた。
「……貴方が来る前のことだけど、食事に誘われたことがあったの」
「お嬢様に?」
「ええ」
「応じられたのですか」
「居候だから。それで付き合ってやったら、怒られた。食事中に本を読むなって。せめて話しかけたら返事くらいしてくれって」
そりゃそうだと思ったが、口には出さない。
「知ったこっちゃないのに、契約に上乗せされてしまったわ。テーブル・マナーを守ること。あるいは覚えること」
「その見返りに何を要求されたのですか」
魔女は質問に答えない。「だから、レミィと食事するのは今も苦手。態度はフランクな癖に、やたらと形式にこだわるから」
食事を終えた彼女に紅茶を給仕する。
「如何でしたか」
「悪くないわね」
「今日、初めて実際にやらせてみました」
パチュリーが顔を上げた。しばらく眼を合わせてから、また視線を落とした。「そう。……うん、上出来なんじゃない? レミィのお気に召すかは分からないけど。完璧を求めるからね、あいつは。これから苦労するでしょう」
頭を下げる。「すみません。教育に付きっきりで、こちらまで手が回り切らなくて」
「好いのよ。そろそろ司書を雇う頃合いだと思っていたから」
「司書、ですか」
「ここも本が増えたし、整理と管理とを請け負ってくれる手合いが必要なのよ。二人だけじゃ、こっちまで手が回らないでしょ」
「それは重畳ですね」
魔女は頷いて、独り言のように呟いた。
「ちょっと大がかりな魔法の仕度もあるからね。そのための下準備も整えないと」
#06
給仕を終えて図書室から出ると、エントランスの入り口で咲夜が待機していた。腰のところで抱えている木製のトレイは、彼女の背丈のために必要以上に大きく見えた。
美鈴は手を挙げて云う。「首尾は如何でしたか」
咲夜は黙ったまま、うつむいた。好く見なければ分からないほど微かに、彼女の眉間には皺が寄っている。今にも波に呑み込まれてしまいそうな、出来損ないの砂城のような脆さが、痩せた身体から滲んでいた。
言葉を注意深く選ぶ。「お嬢様は、小食です。日によっては何も受けつけないことだってあります。始めのうちは戸惑うことがあるかもしれませんが――」
「ごめんなさい」
彼女が口を開いた。今日、初めて。
「ごめんなさい。……次は失敗しません」
「気にしないで下さい。何度も云いますが、最初は誰でも上手くいかないものです。私も、そうでしたから」
それでも少女が謝り続けたので、肩を柔らかく叩いてやった。骨の浮き上がったその身体は震えている。
彼女は指で目尻を拭う。「失敗したくない。完璧なひとになりたいんです。ご機嫌を損ねてしまったら、追い出されるから。他に行き場がないんです。お願いします、美鈴さん。見捨てないで下さい」
見捨てないで下さい、と咲夜は繰り返す。美鈴は震える肩の感触を受け止めながら、彼女の言葉がもたらした重みについて考えた。自分と同じ動物の肉を調理し、悪魔たる主人に給仕することよりも、この館を追い出されることの方が、彼女にとっては深刻な事態なのだろうか。
咲夜を落ち着かせて、厨房の片づけに向かわせてから、美鈴は主人の寝室のドアをノックした。レミリア・スカーレットは窓辺の椅子に腰かけて、変わることのない夜景を眺めている。月明かりがドレスに青と白のグラデーションを投げかけ、部屋の暗がりに漆黒の翼が同化している。
カベルネ・ソーヴィニヨンの赤ワインが注がれたグラスをテーブルに置いてから、主人は小さく息をつく。
「……身体が重い」
「食欲も落ちているようですが。気づかれましたか?」
レミリアはこめかみに指を置いた。「お前が教えたんだろう。それなら問題は無いよ。血が足りてないだけさ。美味い血が飲めないと、食も進まないんだ」
「近頃は眼が厳しくなってきましたからね」
「そう、それで思い出した」吸血鬼がこちらを向く。「昼間の銃声はいったい何だ。こちとら天の王国から急転直下、寝台から転がり落ちる羽目になったんだぞ」
「ああ……」後ろ髪を指で梳く。「聞こえてましたか。ちょっと、ヘマをしたんです。流石に散弾銃は予想外でした」
レミリアは口を閉ざして、テーブルに広げられていた手紙に視線を落とした。美鈴の知らない言語で書かれたその知らせを、悪魔は睨みつけている。血文字かと見紛う、赤いインクが使われた羊皮紙。
「……どう、あの子は。順調?」
深呼吸してから答える。「率直に申し上げますが、まだ不安定です。仕事を完璧にこなそうと意気込むあまり、手が回り切らないことがあります。もっと気を楽にしてくれると、私も疲れずに済むのですが」
「お前は気を抜きすぎなんだ」
「ごもっともで」
レミリアは笑ってワインを舐めた。「変な話だな。妖怪の私達が人間の真似事をして、子供を一人前に育てるなんて」
「家族のようなものですかね」
「それは云いすぎだよ。あくまでも契約の延長線。履行ができないんなら、それ相応の結末を迎えさせるまでさ。残念だけど」
レミリア・スカーレットは葡萄酒を飲み干して、椅子に身体を沈める。寝息が紫煙のように部屋の中空をたゆたう。美鈴はシーツを整え、主人を寝かしつけてから、ワイン・ボトルとグラスを持って退室した。静まり返った廊下を歩きながら、先ほどの咲夜の言葉を思い返した。見捨てないで下さいと繰り返していた、彼女の姿を。場合によっては、自分が彼女の肉を調理することになるかもしれないと、ふと考えた。追い出されるだけでは済まないかもしれない、と。
少女の血は、主人の好物だから。
この館で悪魔の従者を続けるか。外の街で路地裏の獣に還るのか。どちらがより幸せな生き方なのかは分からなかったが、どちらの生活も、他の人間から決して理解されないことだけは確かだった。
#07
男の子は屋台の車輪にもたれかかって、呆然と空を見上げていた。ぜんまいの切れたからくり人形のようだった。足は奇妙な方向にねじ曲がったまま、完全に固まってしまっている。リグル・ナイトバグは、仕込みに忙しいミスティアと、座り込んで解体用の鉈を研いでいるルーミアを交互に見つめた。
「やっぱり、マズいんじゃないかな」
ルーミアが顔を上げる。「何が?」
「あれって里の人間でしょう。バレたらどうするの」
「追い出されたらしいよ。それなら問題ないでしょ」
「だからって、まさか本当に実行するなんて……」
ルーミアは犬歯を剥き出して笑ってみせた。
「リグルは食べたくないの? 自分達で育てた、新鮮な肉」
「それは、まあ」
「決まりだね」
「ミスティアの了解は?」
「まだ。でも何日も生かしてるってことは、そういうことなんじゃない? 私達でサポートすれば、腕の一本くらいは頂けると思うよ」
青いシートにずらりと並べられた刃物は、ルーミアの大切な仕事道具だった。手入れが行き届いていて、毎日のように使っているのに錆(さび)の付着はない。太陽は雲に隠れているが、刃の放つ輝きは凶悪だった。
残暑の欠片も香らないほどに気温は低く、木々は葉を散らし始めている。森では獣や蟲、そして妖怪が方々で骸をさらす。里では今日も炊事の煙が上がっていない。世界全体が衰退期に入っているかのように、鳥の唄も止んでいた。
空から視線を離して、腰に手を当てる。
「餌はどうするの、ルーミア。人間の食べ物なんて、もう何処にも残ってないと思うんだけど」
「あるじゃない」彼女は淡々と答えた。「栄養満点の逸品が」
「肉骨粉」という飼料の存在は、リグルも耳にしたことがある。形を変えた共喰い、――いわゆる“使えない肉”を乾燥させて、粉末状にしてから他の飼料に混ぜ込んだ物だと聞いた。それを家畜に喰わせるのだという。ミスティアが例の缶詰から中身をかき出すところを、男の子は目を見開いて見つめていた。食べやすい大きさに丸めて、炙り焼きにして、“たれ”に浸して、仕上げに紫蘇の葉で巻く。ミスティアは顔をしかめていたが、子供の口は半開きだった。
「これ、何?」
彼が初めて口を開いた。思っていたよりも利発そうな声だ。
「これは、そうね……」
答えに窮するミスティアに、ルーミアが助け船を出す。「豆料理だよ。昔から大豆は“畑の肉”って云うじゃない、あれ」
無理があるだろと思ったが、男の子は納得したようだった。
「食べても好いの?」
「ええ」
「お姉さんは?」
「私達はいいから」
ミスティアの返事に、二人は深く頷いて同意した。
彼は「いただきます」と手を合わせてから、“肉骨粉のような代物”を口に含んだ。いつになったら飲み込むのだろう、と疑ってしまうくらいに好く咀嚼する。手渡された水を飲んでから、ぎこちない笑みを浮かべる。
「ああ、美味しい」
「水が?」
「ううん、大豆が」
リグルは、ミスティアとルーミアの顔を見た。三人の視線が交錯し、同時に伏せられる。彼が実に美味しそうに料理を平らげてゆく様子を、言葉もなく見守っている。
「ありがとう、ごちそうさまでした」
山菜のスープも併せて完食し、彼は深々と頭を下げる。
「もうすぐお客さんも来る頃合いだし、先にこの子を送って行くわ」
ミスティアは男の子の手を引いて森の中に分け入り、やがて姿が見えなくなった。彼は夜雀の腰にぴったりと引っついていた。
「ほら、云ったでしょ」ルーミアが上機嫌に頭のリボンを揺らす。「お腹が空いていたんだもん。美味しいなら、それで好いじゃない」
「だからって、私は妖怪の肉を食べようとは思わないけどね」
「そう? 私はリグルも美味しそうだと思うなぁ」
「勘弁してよ、もう!」
「褒めてるつもりなんだけど」
ルーミアは回収用の袋に使用済みの缶詰を放り込んだ。
「そう云えば、あの子の名前、聞いてなかったなぁ」
「――名前は知らない方が好いと思うよ、ルーミア」
「どうして?」
「だって、最終的には食べるんでしょ。だったら、名前で呼んだらいけないんだよ」
#08
月の見えない夜は気が塞ぐのか、屋台の客足は疎らだった。あるいは素材の質の低下が見抜かれているのか。ミスティアは溜め息をこらえて店を閉め、リグルやルーミアと別れた。
「落ち込まないで、ミスティア」リグルが慰めるように云った。「みんな、缶詰を持ってないんだよ。全部食べてしまうから、ミスティアに支払う分が足りなくなってるんだと思う」
「私みたいに材料を持ち込めば好いのに」とルーミア。「ミスティアの料理はいつも通り、美味しいよ。それはこの私が保証する」
二人にお礼を云って、住居である穴ぐらに帰ってきた。男の子は麻布にくるまり、捨てられた子猫のように震えていた。石油ランプに火を灯して、彼の顔を見つめる。橙色に照らされた頬には、底の見えない淵に立たされているかのような不安が閉じ込められている。
「お、お帰りなさい」
「ただいま。どうしたの?」
「すっごいうなり声が聞こえた。すぐそこまで来てた」
「妖怪のなり損ないね」冷め切った焙じ茶を湯呑みに注ぎながら、簡潔に答える。「こういう時期になると増えるの。腐肉ばかり漁ってるせいで、変化が半端になる。あんなのに成り果てるくらいなら、退治された方がまだマシ」
「襲ってきたらどうすれば好い?」
「自分より強い奴の縄張りは、臭いですぐに分かる。入ってこれないわよ。何度も云うけど、絶対に外へ出ないようにね」
彼は素直に頷いた。ミスティアは小さなキャビネットに並んだカセット・テープから一本を抜き取り、電池駆動式のラジオ・カセット・レコーダーにセットした。擦り切れるようなノイズの後、イントロのピアノが流れ出した。
「それって、蓄音機?」男の子が布から這い出てきた。「貸本屋さんで見たことある。すぐに追い出されたけど」
「似たようなものよ」
「里で買ったの?」
「まさか」笑い声が漏れた。「河童の市で買ったのよ。店の売り上げを使って、こつこつと集めてきたの」
「聴いたことのない歌、不思議」
「海の向こうの音楽だもの。題名しか知らない、歌詞の意味も分からない。でも好きな曲なの。毎晩、聴いてる」
サイモン&ガーファンクルの「明日に架ける橋」だった。メロディに合わせて歌っていると、不意に男の子が泣き出した。越流の兆しもなく、まったく突然に決壊したダムのように。歌を中断する。何を思い出したのだろうと疑いながら。
「泣くのは止めて。お願いだから。気が滅入るの」
無理な相談のようだった。ランプの淡い明かりに包まれて、彼は泣き続けていた。
こういう時、人間の親は、と考えを巡らせる。
「……仕方ないわね」
彼を抱き上げて、赤ん坊をあやすように揺らしてやった。それでも嗚咽が止まらなかったので、「明日に架ける橋」のメロディを口ずさみながら、頭をなでてやる。何度か母親を呼ぶ呟きが聞こえた。小鳥のような心臓の鼓動が、遠くから伝わってくる。穴ぐらの外からは、例のなり損ないの唸り声が転がってくる。盛りのついた猫のように放たれていたその叫びが、今夜に限っては、変わり果てた身の上を嘆くような悲痛の訴えに聞こえる。
頭が痛くなってきた。金槌で殴られたみたいに。
「新しい親御さん、早く見つかると好いわね」
男の子は眠りに就いた。すがりつくように細い吐息が昇ってきた。ミスティアは彼の寝顔を見下ろしている。好く考えてみれば、生きている人間の顔を間近に眺めるのは、これが初めてだった。
#09
上白沢慧音は、眉間に寄った皺を隠すかのように額に手を当てた。
「……事の大筋は聞いた」顔を上げないままに云う。「だが、人づての話を鵜呑みにして、間違った判断を下したくない。貴方の口から直接聞きたいんだ」
雑居牢に入れられた女は、格子越しに頷いた。ぼろ布を被って顔を隠し、視線を合わせようとはしない。椅子から立ち上がりたくなるのをこらえて、口吻を抑えながら訊ねる。
「本当に喰ったのか」
「はい」
「貰い受けた嬰児を」
「ええ」
「どのように」
「鍋で煮込んで……」
「――いや、いい。どういった経緯で引き取ったのか聞かせてくれ」
「育てる余裕が無かったんだと思います。食い扶持を減らすために、お金と一緒に渡してくれるんです」
「以前から続けていたのか」
「年に数回ほど。去年の秋頃から増えました。月に三、四人は」
「間引きの請負は禁じられていたはずだ」
「知っていました。でも、内職で細々とやっていくには限界だったんです。まとまったお金が必要でした。夫も亡くなりましたし、縁故の者もいません」
「配られた米はどうした。救荒の蓄えは」
「とうに食べ尽くしてしまいました」
慧音は姿勢を変えた。「……だからと云って、子供を」
「お腹が空いて空いて仕方がなかったんです。私はどうすれば好かったんでしょう。自殺しろとでも? 妖怪に喰われろと?」
最後の“妖怪”の件(くだり)で、女は慧音の眼をまともに見た。落ち窪んだ瞳には、これまで幾度か目にした、奇妙なほどに研ぎ澄まされたぎらつきが宿っている。彼女の視線を受け止めながら、慧音は立ち上がった。
「貴方の云いたいことは分かる。だがこれだけは伝えておきたい。私はこれまでに、人間を喰らったことは一度もない」
ただの一度も。
女は顔を下げ、幾つかの呟きを乾いた地面に落っことした。恨み言のようにも、謝罪のようにも聞こえた。
引き戸を開けて、屋内の様子を確かめた。米櫃には蜘蛛の巣が張っており、床の間に供えられていた花は枯れている。既に大方は片づけられていたが、囲炉裏の傍に転がっていた茶碗の中に、小さな骨が入っていた。しばらく見つめてからその骨を拾い上げると、慧音は合掌してから屋外に出た。自警の衆がひとり、家の前で待っていた。
「処遇はどうされます」挨拶もなく、最初に慧音は訊ねた。「生きるか死ぬか、酌量の余地はあるように思いますが」
「餓えているのは何処も同じですよ」
中指と人差し指の欠けた右手で、彼は里の方々を指す。
「近隣の者が納得しません。追放が妥当でしょう」
「――“追放”?」慧音は繰り返した。「“死ね”と云うようなものではないですか」
「これまでにも人喰いは追放の処分にしてきたのですから、今回だけ例外にするわけにはいかんでしょう。考えてもみて下さい。赤ん坊ですよ。恐らくあの女だけではない。ここで示しをつけておかなければ」
慧音は立ち尽くしていた。反論の言葉は浮かんでこなかった。
彼は呟くように続ける。「……まぁ、妖怪のような所業を犯した輩は、妖怪の巣穴に放り込むのが妥当だとは思いませんか」
慧音は相手を見つめた。二人の眼が合った。背筋に電流を流されたかのように、彼は姿勢を正した。
「――すみません、そのようなつもりで云ったのでは」
「いえ、お気になさらず。仰りたいことは好く分かります」
頭を下げて、彼は云った。「とにかく、私は追放に票を投じるつもりです。他の衆も同じでしょう。慧音さんも、好く考えて結論をお出しください。それでは」
#10
労いの言葉を述べた後、主人はしばらく無言で給仕されたクッキーやスコーンを吟味していた。それから紅茶をひと口だけ啜り、カップを置いてからは、独り沈黙の湖に漕ぎ出してしまった。小鳥が窓から室内に影を投げかけ、遅れて風に乗った囀(さえず)りが転がり込んでくるような、好く晴れた早朝のことだった。
「咲夜」レミリア・スカーレットが云った。「この紅茶、ちゃんと血は入れておいたのか」
「はい、教わりました通り、お料理の際に絞ったものを」
そう、とレミリアは首を振る。「私の舌が肥えたってことか。やっぱり、ただの人間じゃ駄目だな。咲夜には分からんだろうが、死体の血って驚くほど簡単に壊れちゃうんだ。何でそんなデリケートな代物を好んで飲まなくちゃならないのか、悩む奴も昔はいたな」主人は天井を見つめた。「……そういう“異端”は、他の吸血鬼に姿を見られないように、何処か暗い場所に閉じこめられたり、自分から引きこもったりするんだ」
レミリアの思い出話に、咲夜は相槌を打つことしかできない。主人もやがて会話を断ち切り、紅色の爪でこめかみを掻いた。
「そうだ、咲夜。唄は歌えるか」
「申し訳ございません」
「楽器はどうだ。ピアノとか、ヴァイオリンとか」
「申し訳ございません、お嬢様」
「何か面白い話はないかな。お前自身の昔話でも好いし、密かに暖めておいた、とっておきのジョークでも好い」
「…………」
頭を巡らせたが、主人を喜ばせるような話の持ち合わせなど、胸にしまい込んでいるはずがなかった。
「……うん、分かってる。退屈しのぎだよ。話を振ってみただけ」レミリアは微笑みながら云う。「こんな冗談があるんだ。ある吸血鬼が泣きながら友人の吸血鬼に云った。“息子が誤って猫の血を飲んでしまったんだが、大丈夫だろうか”と。友人は答える。“僕も昔飲んだことがあるが、この通りぴんぴんしているよ”――だが、彼は泣き止まない。友人は“どうした、何が問題なんだ”と訊ねる。彼は嘆く。“人間の血よりも、猫の方が美味しいと息子は云うんだ”――すると友人は笑って云った。“息子さんに教えてやれ。犬の血はもっと美味しいぞって”」
咲夜は、笑おうと努力した。例の引きつったような笑みが唇を歪ませるだけだった。レミリアは紅茶をひと息に飲み干すと、もうこちらを顧みることはなかった。
#11
咲夜の願いを聞かされたパチュリー・ノーレッジは、おぞましいほどに古ぼけた書物から顔を上げた。
「レミィの何を知りたいって?」
「何でも好いんです。ご友人のパチュリー様なら、お嬢様のこと、いろいろお聞かせ頂けるのではないかと思いまして」
「そんなこと聞いてどうするの」
顔をうつむけて、エプロンの裾を握る。「レミリア様と、ちゃんとお話ができるようになりたいんです。相槌ばかりでは、退屈なさってしまわれますから」
ライティング・デスクの上で、ラクト・ガールは指を組み合わせる。「つまり、私の友人の、それも自分の主人のプライヴェートな話を聞かせろと、そういうことね」
咲夜は縮みこまった。マッチ箱にでもなりたい心境だった。
「……冗談よ」魔女は微笑んで云う。「本当は、私もレミィの生い立ちは知らないの。興味が無いと云っても好い。それは向こうも同じだと思う。友人だからと云って、契約相手だからと云って、互いのことを根ほり葉ほり知る必要があるとは思わない。人間なら必要かもしれないけれど、私とレミィはそうじゃない。知らなくたって、相手を受け容れることくらいはできるから」
返事らしい返事は舌の上で溶けて散る。どんな時でも親しいひとが側にいるという感覚が、どうしても理解できない。
「ねぇ、咲夜」パチュリーは本を閉じて云った。「無理もないことだとは思うけど、そんなに急いでも仕方がないんじゃないかしら。どれだけ互いの過去を探り合っても、悪魔と人間、そこには絶対的な隔たりがある。レミィと私は、互いにやりたいことをやって、協力する時には協力する。その距離感を保つために生まれたシステムが、つまりは契約なのよ。悪魔との付き合い方のコツね」魔女は勇気づけるように言葉を紡いだ。「……多分、今の貴方には信じられないと思うけど、世の中には悪いものだけじゃなくて、綺麗で透明なものもあるのよ。私としては貴方に、そうした好いものをできるだけ早く見つけて、自信を持ってもらいたいわね。今のままでは、私もレミィも息苦しいから」
そう結んでから、彼女は給仕された紅茶を口に含んだ。そして盛大に噴き出した。紅い液体がデスクから絨毯にかけて飛び散り、前衛的なアートを描いた。
「――咲夜っ」魔女は咳き込みながらこちらを睨む。「どうして私の紅茶にまで血がしこたま入ってるのよ!」
「す、すみません。てっきりパチュリー様もご入り用なのかと」
「……貴方の魔女に対する考え方が大体分かったわ」
唇の端を痙攣させながら、彼女は云った。
「貴方って、けっこう天然なところがあるのね、……咲夜」
#12
亡者のように森をさまよっていたその人間が、他の妖怪や獣に襲われなかったのは奇跡と云えた。ミスティア・ローレライが穴ぐらに戻ってきた時にはもう落ち着いていて、足の潰れた例の男の子と話をしていた。眠りに就ける場所を探していたら、偶然穴ぐらを見つけたのだと云う。魂が抜けてしまったみたいに女の言葉は虚ろで、こちらの姿を見ても恐れもしない。身体は衰弱していて、質の好い食材とはとても云えなかった。ある考えが浮かんだので、夜が明けてから火葬屋の少女の元に連れてゆき、知り合いかどうか確認を取ってみた。
「ええ、知っています」少女は答えた。「ご家族を亡くされて、独りで暮らしていた方です。今までにも何度か仕事を下さいました」
「火葬の?」
「はい、それとご供養も。育てられない赤ちゃんを引き取って、できるだけ苦しまないよう楽にしてあげるんです。ご遺体を手頃な桶に入れて、ここまで運んで来られました」
「で、そいつが何で森をほっつき歩いていたわけ?」
少女は囲炉裏に顔を伏せた。「……多分、露見して追放されたのだと思います。お金を貰ってひとを殺したのですから。あれは口止め料も兼ねているんです。発覚したら最後、全ての責任を押しつけられます」
「解せないわね」ミスティアは腕を組んだ。「育てられないことが分かりきっているのに、どうして子供を産んだりするのよ」
「産みたくないのに身ごもってしまう時もあるんです、人間には」
ミスティアには理解ができなかった。少女はうな垂れたまま微動だにしない。件の女は、部屋の隅で男の子に膝枕をしてやりながら、彼の頭をなでていた。里から爪弾きにされた三人の様子を眺めていると、彼女達が人間なのか妖怪なのか分からなくなりそうだった。
「――ま、これで厄介事は解決しそうね」
「どういうことですか?」
男の子を指差して云う。「だって、こいつの新しい親が見つかったじゃない。好く懐いてるみたいだし、私も子守なんてもう懲り懲りだし、丁度好いと思わない?」
火葬屋の少女は信じられないという顔でこちらを見た。
「……ご冗談でしょう?」
「何よ」
「この二人だけで、里の外で暮らしていけるわけないじゃないですか」
「現に貴方は上手くやってるじゃない」
「私は別です。里の一員として、こうして仕事を頂いていますから」
「果たしてそうかしら」ミスティアは身を乗り出した。「掟なんて知ったこっちゃないって輩が、今も貴方の肉を虎視眈々と狙っているかもしれないのよ。ここは里から離れているしね」
「その時はその時です。死んでも構いませんから」
へぇ、と吐息を弾ませて、囲炉裏を回り込み、彼女の首に爪の先端を喰い込ませた。動脈を流れる血潮の紅が、振動と共に指先に伝わってくる。半開きになった少女の口から、言葉にならない言葉が壊れたオルゴールのように漏れ出している。
「……あまり意気込むんじゃないよ、人間」ミスティアは唸った。「殺ろうと思えば、私達は里の一つや二つくらい、簡単に滅ぼすことができるんだからね。生かされてるってことを少しは弁えなさいよ」
「に、人間が皆殺しにされたら」少女は喘ぎながら答える。「妖怪も共倒れになるんでしょう。それくらい、私だって知ってます。所詮、同じ穴の狢(むじな)ですよ。私も、――ミスティアさんも」
彼女は瞳に涙を浮かべていたが、吐き出された言霊には精一杯の気持ちが込められていた。ミスティアは横っ面を思いきり殴りつけられたような気持ちになった。少女の首から爪を引き、付着した血を舌で舐め取る。
「今日は帰るわ」吐き捨てるように云う。「とにかく、そいつらのこと頼んだからね」
「お姉さん」
男の子が震えた声で呼びかけてきた。ミスティアは彼の訴えを無視して、引き戸を開けて外に出た。
#13
「盗み聞きとは趣味が悪いわね」
「聞きたくもない話を蟲はいつも聞かされるものだよ」
リグル・ナイトバグが木から飛び降りて、目の前に着地した。静まり返った荒ばら屋に眼をやり、続いて曇り空に視線を移してから、溜め息混じりに云う。
「勢い余って殺しちゃったら、取り返しがつかなくなるよ。お願いだから、頭に血が昇っても手だけは出さないで」
「分かってるわよ」
ミスティアは歩きながら答えた。二人は無言で林の中を進み続けた。鳥の鳴き声はなく、白骨となった動物や人間の死骸ばかりが目についた。煮込んで食べたのかどうか知らないが、皮を剥がされた木が至るところで痛々しい姿を晒していた。林を抜けると、そこは里の共同墓地だった。男がひとり、周囲を窺いながら墓をスコップで掘り返しては、埋葬されたばかりの遺体を貪り喰っていた。鴉がおこぼれに預かろうと、数羽ほど墓石に留まっている。腐肉を漁っていた男は、当然の帰結のように胃の中の物を全て吐き戻した。飢餓の状況下で、胃腸系の疾患は致命的だ。その場に倒れた彼の身体は痙攣を始め、二度と起き上がることはなかった。喉からは麺棒で無理やり引き延ばしたかのような奇妙な唸り声が吐き出されていた。
カラスが鳴いて、雲の向こうの陽が陰る。
「……こんなに弱くなるなんて思わなかった」墓石に腰かけてミスティアは云う。「笑っちゃうよね、人間の小娘ひとりさえ満足に襲えないどころか、逆に云い負かされるなんて」
リグルは黙って耳を傾けていた。
「妖怪は殺し合い、人間は共喰い。どっちもどっちよ。こんなのどうかしてるわ。何から何まで間違ってる。楽園だって? ――冗談。終着駅よ、ここは。幻想の掃き溜め、空想のゴミ捨て場よ」
「そういう云い方は無いんじゃないかな」リグルは地面を走るムカデやらダンゴムシやらを眺めていた。「どうせ他に行き場は無いんだから、もっと前向きに考えようよ」
「そうよ、何もかも誘いに乗ったのが間違いの元だった」
「とにかくさ、早くあの男の子を取り返さないと」
ミスティアは、友人の顔を凝視した。「……なんで、意味が分からない」
「ルーミアが哀しむからね」
「どうしてよ」
今度は彼女がこちらの眼を真っ直ぐに見返してきた。
「じゃあ、何? ミスティアは本当に善意であの子を預かったの? 新しい親が見つかるまで、人間の子供を妖怪の貴方が?」
「何も善意って訳じゃないけれど――」どう答えれば好いのか、頭が混乱している。「い、生きている人間に、ちょっと興味があったの。それだけ。ほら、今までは食材としてしか見ていなかったじゃない。人間を知るには丁度好い機会だなって思っただけよ」
片方の眉を上げて、リグルは腹の前で腕を組んだ。ミスティアは、急に目の前の友人に尋問されているような気分に襲われた。
「いけない傾向だと思うよ、それは。しばらく屋台を閉めて、身体を休めた方が好いんじゃない?」
不安定だよ、本当に。
「放っといて」ミスティアは墓石を蹴り倒した。「大きなお世話よ」
「ちょっと駄目だってば、見つかったら――」
リグルの警告を振り払って、事切れた男の遺骸に手をかけた。鴉達の抗議さえも無視する。こんな、このような、食材とも云えない死骸にさえ今は頼らざるを得ない。叫び出したい気持ちを抑えつけ、爪を尖らせ振り降ろす。がりがりと、呪いをかけるかのように皮膚を切り裂いて、ミスティアは獲れたての肉を毟り取った。
#14
遠くからでも、肉を焼いていることは臭いで分かった。鼻を鳴らしてから、上白沢慧音は小屋に近づく。薄暗い竹林では彼女の白髪は好く目立つ。焚き火に照らされて橙色に化粧をしている。
「藤原さん」慧音は声をかけた。「それ、何の肉なんですか」
「猪。食料を探しに山から降りてきたみたい」藤原妹紅は顔を上げずに答えた。「逆にさ、何の肉だと思ったわけ」
「すみません。近頃は、本当に血生臭い出来事が多すぎて」
「食べる?」
「遠慮しておきます。肉は食べたくないんです」
向かいの切り株に腰かける。彼女はちらと顔を上げただけで何も云わず、猪の肉や、雑穀を炊いたもの、筍の味噌漬け等を口に運んでいた。慧音の眼には、里のほとんどの人びとよりも余程豪勢な食事に見えた。
「ご馳走さん」妹紅は合掌し、ようやくこちらを見返した。「で、こんな辺鄙なところまで何の用」
「様子を見に来たんです。藤原さんが餓えていないか気になって」
「じゃあ、心配はご無用だって分かったでしょ。さっさと帰ったらどうかな」竹筒の水を彼女はひと息に飲み干す。「私なんかに会いに来るから、あらぬ疑いをかけられるんだ。こういう時はね、異質な特徴を持つ奴から真っ先に排除されるもんだよ」
「実際に見てきたような口振りですね」
「見てきたんじゃない、個人的な経験から物を云ってる」
「私なら大丈夫です。こういう時だからこそ、人間、互いに助け合っていかなければ」
妹紅は慧音の言葉を笑うでもなく、また呆れるような溜め息をつくでもなく、眼を細めて淡々と話した。「ねえ、半妖さん。人間の本性は暴力的なものだよ。時として、妖怪よりもずっと残酷になる。人間であるべきか、妖怪であるべきか、もし迷っているのなら、悪いことは云わないから里を出ていくべきだね。寝込みを襲われてからでは遅いんだからさ」
反論はしなかった。何をどう云ったところで、この蓬莱人との距離を縮めることはできないと分かっていた。水滴が石に穴を穿つかのように、時間をかけて、少しずつ言葉を届けてゆく他には。
「それで――」妹紅は云う。「その女はどうなったわけ」
慧音は焚き火の跡を見つめながら答えた。「追放されました。罰という名の、体の好い口減らしです」
「合理的だね」
「もう何人目なのか分かりません。信じられないことです。骨と皮ばかりになった人びとを、ろくに立って歩けないような人びとを、妖怪だらけの森に追い立てるんですよ」
「腹が減ってる以上は、そいつらはまた同じことを繰り返すよ。一度でも味を覚えてしまったら、引き返せないんだ。妖怪も餌の方から飛び込んでくるんだから大喜びだろうさ。食べがいは無さそうけど」
深紅の瞳を視界に捉える。「酷いとは思わないのですか?」
「何百回も見てきたもの。群れが生き残るためには、弱い奴から順番に切り捨てていくしかないんだ。時には囮としてわざと生かしておくことだってある。生存のための知恵だよ。酷いかどうかを考えるのは、あまり意味がないと思うな」
追放された女の言葉、自警の衆の言葉、そして往来で擦れ違う人びとの奇妙な視線のことを、慧音は思い返した。以前までは大して気にも留めていなかった視線の意味、それを考えざるを得ない瞬間が、夜になる度に訪れる。
「しかし、それでは……」
言葉は形を成さずに、舌の上で絡まった。話せば話すほどに声が萎んでゆく慧音とは逆に、妹紅は唇を歪めて笑い声を立てていた。
「どうしましたか」
「いやさ、何でそんなに苦しむのかな、と思って」
「これが悩まずにいられますか」
「そんなこだわりを持つほど、人間ってのは立派な存在じゃないってことだよ。さっさと切り捨てて楽になった方が好い。あらゆるものから等しく距離を取ること。そうすれば心と心の摩擦はなくなる。慣れれば楽しいもんだよ、独りで生きるってのもさ」
沼の底から立ち昇ってくる気泡のような笑い声だった。真っ暗に濁っていて、弾ける度に腐臭が飛び散るような。慧音が黙して見つめていると、その笑みは消えてゆき、いつもの無表情に戻った。
#15
筍を求めてさまよい歩いているうちに、竹林の奥深くまで踏み入ってしまうことがある。気がついた時には、腰に手を当てて仁王立ちになった彼女が目前にいた。夕暮れの迫る迷いの竹林には斜陽の光が届かない。自分と同じ紅い瞳が、薄闇のなかで人魂のように浮かんで見える。
「久しぶり。何か用、邪魔なんだけど」
「好く云うわ。この疫病神」今泉影狼が吠えた。「この前、散々うちの近くでドンパチやらかしやがったくせに。危うく尻尾に火が点くところだったのよ」
「あれは向こうが勝手に仕掛けてきたんだ」
「嘘をつきなさい。嬉々として迎え撃ってたじゃないの。子供みたいに眼を輝かせて殺し合い、正気じゃないわよ」
妹紅は籠を地面に置いて、両手を挙げてみせた。「――分かった。迷惑をかけたのは謝る。今度からは場所を変えるよ。これで好い?」
「聞き分けが好いのね」
「腹が減っては戦ができないから。あまり体力を使いたくないんだ」
「そう、そうなの」影狼はドレスの生地をつまんで、こちらをじっと見つめてきた。「……見たところ、今日は不作みたいね」
「仰る通り、ご覧の通り」
「穴場を知ってるのよ。まさに雨後の筍、ぽこじゃか生えてたわよ」
「ほう」
「場所を教えてあげる代わりにさ、ちょびっとだけ、お肉を分けてくれないかしら。交換条件よ、悪くないでしょ」
「どさくさに紛れて私を食べるつもり?」
彼女の耳が兎のように跳ねた。「少しは信用してくれても好いじゃない。お腹が空いてるのよぅ。私、狩りが下手だから」
「成程。狩猟の代わりに話術で釣る作戦に出たってことか」
影狼が涙目になったので、妹紅は仕方なく了承した。
「分かった分かった。手頃なのがあるからさ、好かったら食べていきな」
#16
妹紅の荒ばら屋に電灯はない。囲炉裏の炎だけが唯一の照明だ。狼女の色白の肌に、波のように満ち引きを繰り返す熾きの明かりが投げかけられている。行儀好く正座して料理を待つ佇まいは、意外と様になっていた。蟲の奏でる調べさえもが遠い、静まり返った夜だった。部屋に鍋を持ち込むと、ドレスからはみ出た彼女の尻尾が揺らめくのが見えた。せわしく耳を動かしては、喉仏を上下させる。
「……分かりやすいんだね」
影狼は居住まいを正した。「ずっと何も食べてないのよ。どう、ちゃんと大人しく待ってたでしょ?」
「そうだね、余計に気味が悪くなった」
「泣いちゃうわよ」
「どうぞご勝手に」
肉や筍を塩と味噌で味付けし、柔らかく煮込んだ代物だ。妹紅は自分の食べる分を粟や稗のお粥に炊き上げて、別の小鍋に取っていた。涎を垂らした影狼が、妹紅の手にした小鍋をじっと見つめる。
「貴方はお肉、食べないの?」
「そうそう贅沢できないよ。私のことは気にしないで」
「じゃあ、遠慮なく頂くわね」
ご丁寧に手を合わせてから、影狼は木のスプーンを不器用に動かして汁をすくう。
「出汁が染みて美味しい。筍って凄いのね」
妹紅は答えずに、影狼の様子を観察していた。
「これがお肉ね。柔らかそう」
珍しく打ち解けた笑顔を見せて、彼女は肉を口に放り込んだ。咀嚼するうちに動き回っていた耳は落ち着きを見せ、微笑みは引っ込み、尻尾は干からびたミミズの死骸みたいに板敷に横たわった。茶碗とスプーンがスロー・モーションで床に下ろされ、何かしら言葉を紡ごうとした唇が、芋虫のように蠢いた。
「うん、……うん」妹紅は何度か頷いた。「やっぱり気づくよね。流石は妖怪だ」
熱病にうなされているかのように震え出した影狼を余所に、妹紅はお粥を食べ始めた。飲み込んでから、顔を上げて付け加える。「断っておくけどさ、それは里の人間じゃないから安心して。私のだから。もし不味かったらごめんね。あまり好いもんは喰ってないんだ」
影狼がうつむいた。
「どうして」
「だって、肉が欲しかったんでしょう」
「何もこんなのを欲しいって云ったんじゃない」
「妖怪じゃないか。猪の肉なんて出してもしょうがない」
彼女の瞳が潤んだように見えた。「これは頂けないわ」
「せっかく痛い思いを我慢したのに」
影狼は立ち上がって云う。「それじゃあ貴方は、親しいひとの大切な身体を喜んで食べられるってわけ? ――狂ってるわ、そんなの」
妹紅の箸の動きが止まった。茶碗を下げて、中身を見下ろす。
「ああ、……確かにね。その発想は無かった」
「不老不死だからって、自分の命を粗末にして好いってことにはならないわよ。ねえ、――そうでしょう、ねえ?」
答えを返すことはできなかった。影狼は肩を震わせながら、それでも毅然と睨みつけると、背中を向けて出ていこうとした。乾いた呟きに、彼女の足が止まった。
「分からないんだ」妹紅は云った。「こんな形でしかさ、私は他のひとの役に立てないんだ。与えられるものなんて何もない。ねぇ、誰かと心を通わせるってどうすれば好かったんだっけ。忘れてしまったんだよ、何もかも。気遣いも、思いやりも、真心も」
ごめん、と付け加えて、その後は貼りついたように唇が動かなくなった。影狼が振り向いて、永い間、妹紅の横顔を見つめていた。視線を頬に感じていた。無言で向かいに座り直した彼女は、再び茶碗を手に取った。妹紅は顔を上げずに、咀嚼の音を聞いている。
「ご馳走様。お代わりは、あるかしら」
目の前に茶碗が差し出された。肉だけを残して、綺麗に完食されていた。妹紅はようやく顔を上げた。
眼をそらしながらも、影狼は云う。「今度は、貴方と同じものを食べさせて。私は好きよ、人間の食べ物も」
茶碗を受け取る。指が触れ合う。微かな温もりが伝わる。
「うん、沢山あるよ。ゆっくり食べて」肩の力を抜いて、彼女のはにかんだ笑みを見つめ返す。「こんな時には、お酒があると好いんだけどね。久しぶりに飲みたくなってきたよ。久しぶりに、ね」
#17
その日も主人は、ディナーにほとんど手をつけずに食事を終えた。今にも溜め息をつきそうな、物憂げな表情を浮かべた主人に出くわす度に、十六夜咲夜はその日の仕事の出来映えを反芻しては、曖昧な頷きで結ぶことを繰り返していた。レミリア・スカーレットはバルコニーで月明かりを浴びながら、カベルネ・フランが注がれたグラスを傾けている。氷水に浸かったワイン・ボトルが、容器の縁に寂しく立てかけられている。ディナーの口直しでもするかのように、主人は何杯もグラスを空ける。
「そう云えば、咲夜」夜景に顔を向けたまま、レミリアが云った。「今朝は何があったんだ。随分騒がしかったな」
「ご安心下さい、お嬢様。美鈴さんが追い返しました」
茶化すように悪魔は笑う。「お前を給仕長にしたのは私なんだから、美鈴のことも呼び捨てで好いんだぞ」
「そんな」思わず背筋が伸びていた。「畏れ多いです。ここまで育てて頂いたのですから」
「育てる。育てるね……」
ナイト・キャップを膝に乗せて、レミリアは椅子の背もたれに身体を沈めた。空色の髪が月の雫のように輝いている。
「覚えているか、咲夜? この前、パチェに私のことを訊ねていただろう。“何でも好いからお嬢様のことを教えて欲しい”って」
咲夜は返事ができなかった。唇が半開きになり、エプロンの前で重ねた手に瞬間的に力が篭もった。首を絞められたように喉が塞がり、嗚咽のような呻き声が口から零れ出る。
レミリアは姿勢を変えない。「紅魔館のシャンデリアは私の眼、紅い煉瓦は私の耳なんだよ、咲夜。私がこれまで歩んできた道に、お前は底の尖ったブーツで新しい足跡をつけようとしたのか?」
金縛りが解けて、ようやく咲夜はその場に膝を突くことができた。頭を下げて、必死に言葉を並べ立てた。主人が立ち上がって歩み寄り、髪に幼い手を置いてくれるまで。
「……冗談だよ。同じ手に引っかかったな」柔らかな声が瞼を滑り降りた。「何だろうね。お前のそういう姿を見ていると、くすぐったいというか、いじらしい気持ちになってくるよ。人間の親が子に対して抱く気持ちってこんな感じなのかな。どうなんだ、――どうなの、咲夜?」
「お嬢様、ごめんなさい。覚えてないんです。思い出せないんです」
「知ってるよ。知らないことなんてないよ。みんな似たようなものだよ。似た者同士で、この館でひっそりと暮らしているんだから」
両手を握りしめられた。翼を広げて主人が浮き上がり、自分を連れて今にも夜空に飛び出していきそうに見えた。咲夜は爪先立ちになって、主人の小さな手にしがみついた。
「そう、この館でね。――パチェから話は聞いた?」
「いいえ、何も」
「近いうちに、ここを引き払おうと思っているんだ。準備はパチェが整えてくれている。行き先は訊いてくれるなよ。私だってどんな場所なのか、まだ詳しくは知らないんだ」
咲夜は云った。「お供いたします」
「うん、そう云ってくれると思った。でも好いのか。この世界には二度と戻って来れないかもしれない。直前になって未練を抱いてもらっては困るからね。お前だけ中途半端な抜け方をされたら、本当に悲惨なことになるんだ、私達全員が」
「大丈夫です。もう諦めています。未練など――」
牙を見せつけて彼女は微笑んだ。「悪魔は契約の際にはね、かならず証拠を必要とするものだよ。お前がそれを差し出してくれたら、話はぐっと早くなる。でも、――うん、今回は好い。咲夜を信じるよ。それくらいの譲歩はしてみせるさ」
主人の手は離れていった。地面に降り立った吸血鬼は、何度か頷いてみせてから、席に座り直して赤ワインを飲み始めた。次の一杯を催促されるその時まで、咲夜は胸の前で手を重ね合わせている。痛いくらいに力を込めて、瞬(まばた)きさえも挟まずに、彼女が与えてくれた暖かみを逃がさないようにと。
#18
餓えによる衰弱か、元々病弱な身体だったのか、里を追い出されたショックのためなのか。女は火葬屋の少女の荒ばら屋で寝たきりになっていた。ミスティア・ローレライは少女の懇願に応じて、看病を手伝い、食べられそうな木の実を見つけてきてやった。人間が死に向かって一直線に駆け降りてゆく様を間近で眺めるのは初めてで、ミスティアは幾分の興味を持って女の経過を見守り続けた。
足の潰れた男の子は、女の傍から離れなかった。まるで本当の母親の枕元に寄り添っているかのように。高蛋白の缶詰を食べ続けたおかげなのか、出会った頃に比べて見違えるくらい健康になっていた。一方の女は、缶詰の中身をひと口食べただけで吐き出してしまった。仕方ないので、リグルやルーミアにも手伝ってもらって、食料を探し続けた。ただ延命のために。
「どうしてあんなに脆いんだろうね、いつも思うけど」
ルーミアの言葉に、ミスティアは云い返す。「私達だって脆いわよ。脆いからこそ、ここで生きてるんだから」
女が血を吐いた日、ミスティアらは揃って荒ばら屋の前で待機していた。ルーミアは退屈そうに曇り空を見上げ、リグルは無表情で蟻の行列を見守り、ミスティアは落ち着けずに身体を動かしていた。
「ミスティアさん」少女が顔を出す。「呼ばれてますよ」
頭陀袋の上に横たわって、女は土気色の顔を天井に向けていた。男の子の隣に腰を落ち着けて、彼女の遺言を待つ。女は感謝の言葉を述べ続けた。拾ってくれたこと、看病してくれたこと、獣や妖怪から守ってくれたこと。
「私だって妖怪よ。妖怪なのよ」
虚ろな瞳が動くことはなかった。聞こえていない。
彼女は男の子の方に首を傾ける。握りしめ合った手に、力がこもったように見えた。血の一滴を言葉に精製するかのように、女は苦しげに云う。「ありがとうございます。最期に人間に戻ることができて好かった。最期に人間らしく往くことができて、……この子のこと、どうか宜しくお願い申し上げます」
やがて女は意識を失った。男の子は戸惑うように、訴えかけるかのようにこちらを見上げてきた。
「止めてよ」ミスティアは立ち上がって云う。「そんな眼で見られても、困るわよ。何が“宜しく”なんだか、筋違いよ」
男の子の手を振り払って、息苦しい屋内から離脱した。
家の壁にもたれかかった。リグルとルーミアは視線を向けるだけで、何も訊ねてはこなかった。家の中から男の子の咽(むせ)ぶような泣き声が聞こえて、それが辺りを包む音響の全てだった。
「蟲の知らせ」リグルが呟く。「お経を唱えないとね」
「死体はどうするの」とルーミア。「あまり美味しそうじゃないけど」
「止めなさいよ、食べることばかり考えて」
ミスティアは顔を上げずに云った。髪に突き刺さる二人の視線が痛いほどに感じられる。
「……どうしたの、ミスティア。いつものことじゃない」
「違うわよ。いつもと、全然違うわ」
「分からないなぁ」
「何でこんなことしてるんだろうね、私達」リグルが指で触角を弄りながら云う。「とにかく、ここは人間の流儀に従うとしようよ。ちょうどその道の熟練者もいることだしね」
ミスティアは頷いた。ルーミアも遅れて同意した。
#19
大事な燃料を多量に消費して、貴重な蛋白源を骨だけ残して焼いてしまう。無駄の極みだと常々感じていたが、ミスティア達は今日、野辺の煙が空に溶けるのを最初から最後まで見守っていた。彼女の人生とは何だったのだろう、と考えかけては、首を振ることを繰り返した。人間らしく往ける、女の言葉が浮かんでは沈んでゆく。
人間らしくなければ、駄目なのか。
生きているだけでは、いけないのか。
私達は……。
考えが続かなかったので、また首を振って想いを打ち消す。頭が痛かった、金具で締めつけられているみたいに。
骨壺を抱えて泣きじゃくる男の子を、リグルとルーミアが宥める。リグルは歩けない彼の身体を抱いてやり、ルーミアは頭をなでてやっていた。二度も親を亡くした少年は、何処にも行き場が無さそうに弱々しく見えた。
「私達で送っていくよ」リグルは彼の背中をさすりながら云う。「ミスティアも早めに帰った方が好いよ。雨が降らないうちにさ」
「ええ」
「近づきすぎちゃったんだよ、私達」ルーミアの口調は慰めるかのようだった。「また明日になったら、いつものミスティアに戻れるよ。好く分かんないけど、ミスティアには元気になってもらいたいな、私は」
声が詰まって伝えることができなかった。哀しいわけじゃないと。それは絶対に違うと。何を云えば好いのか分からないこの気持ちが、ただもどかしいのだ、と。
リグル達が森の中に姿を消してからしばらくして、火葬屋の少女が炉の灰を掻き出し終えた。
「……里のお墓には、納められないでしょうね。厭がられます」
「死んだらどいつもこいつも同じよ。骨と灰だけ」
彼女は首を振る。「生きているひとが厭がるんです。家族や先祖の眠っている場所に、そんな奴の骨を入れるなって」
「意味が」ミスティアは地面を蹴った。「意味が分からない」
「前も云いましたが、同じような生活をしてはいけないんです。私も、あの子も、――彼女も」
少女は併設された納屋へと器具を片づけてから、ミスティアと同じように家の壁に寄りかかる。横目で彼女を見据えた。無表情だった。
「久しぶりに、お母さんのことを思い出しました」
「亡くなったの?」
「ええ。それで、焼きました。私が初めて焼いたのは、両親だったんです。でも、失敗しちゃいました。やり方は教わっていたはずなんですけどね。雲にしがみついたみたいな格好で、二人とも真っ黒になってしまって」
「ウェルダンね」
「それから、二度と失敗しないって心に誓ったんです。次からは成功してみせるって。いつの日か、完璧なひとになりたいと思いました」
「上手に焼けたとして、何が変わるの」
「完璧なひとになれば、里の皆さんは私を受け容れてくれるって思ったんです。お役に立てれば、私だってもっと人間らしく暮らせて――」少女は息を継いだ。「――……もちろん、そんなのは、ただの夢でした」
「人間らしい。人間らしく」ミスティアは少女を見据えた。「そんなに縋(すが)りつかなければならないほど、人間ってのは素晴らしい存在なの? 貴方だってあの有様は知ってるでしょう? 互いに奪い合って、殺し合って、挙げ句の果てには共喰いまで始める――」
自分が云い放った言葉の全てが、自分の心臓に向かって打ち込まれているように感じた。妖怪らしい暮らしを営むということ。妖怪らしく生きてゆくということ……。
「だって」彼女は嗚咽混じりに云う。「寂しくはならないんですか、ミスティアさんは。独りの夜、独りの季節、独りの時間が」
少女はその場にしゃがみ込んだ。両肩に鉄の塊でも降ってきたみたいに突然に、脚から力が抜け落ちていた。憤りたい気持ちをこらえて、衝動の全てを吐息に変えて投げ出し、ミスティアは壁から身体を離した。
「寂しいって気持ちも好く分かんないのよ」ミスティアは云った。「誤解しないでね。感情というものが無いわけじゃないの。妖怪だって笑うし、怒りもする。ただね、誰かのために涙を流すって感覚が、どうしても理解できないのよ」不意に虚脱感に襲われて、足を踏み替える。「だから、貴方はその涙を大切にしなければならないと思う。その涙がある限りは、何処で暮らしていようと、貴方はまだ人間なんだって私は思ってるから」
#20
穴ぐらに男の子は戻っていなかった。いつもの空き地で遊ばせているのだろうか。夕刻が近づいており、そろそろ屋台の準備に取り掛からなければならない。手を動かすのも億劫で、頭痛が続いている。今夜は休もうと心に決めて、住み処から外に出た。空き地ではいつも通り、リグルとルーミアが待っていてくれた。蟲を操る妖怪は指定席の切り株に腰かけて、友人の作業を見守っている。闇を操る妖怪はビニール・シートに座り込み、自慢の道具を器用な手つきで動かしている。
ミスティアは腰に手を当てて、深々と溜め息をついた。
「二人とも」歩きながら呼びかける。「悪いけどさ、料理したい気分じゃないの。仕込みと片づけだけ済ませて、今日は店を閉めるから――……」
ルーミアの肩越しにシートの上を覗き込んだ。異物が挟まった歯車みたいに舌の回転が停止し、腰に当てていた手がだらりと垂れ下がった。眼をつむってからもう一度開き、左右を見回してから、再び芸術的なまでに整然と並べられた代物を見下ろした。
ルーミアが振り向かずに云う。「そろそろ頃合いだと思って」
「……何の」舌がもつれる。「何の頃合いだって?」
「もちろん“食べ頃”ってこと。これ以上は固くなっちゃうからね。本当はもう少し太らせるんだろうけど、ミスティアも何だか辛そうだったし、これ以上負担をかけるのも悪いと思って。だから、今すぐやるのが好いんだよ」
リグルは黙って作業を見守っていた。ミスティアは本当に善意であの子を預かったの、――彼女の言葉を思い返して、そして、これまで献身的に世話を手伝っていた姿を思い出して、ようやくミスティアは、二人が始めからそのつもりであったことを知った。
素材さえ揃ってしまえば、後は調理人の腕次第だ。
「骨は、後で私が火葬屋さんまで届けに行くよ」リグルが云う。「せめてもの感謝の印にね。きちんと焼いてもらって、何処かに埋めれば好い。彼女に伝えておくよ。ご提供ありがとうございます。美味しく頂きましたって」
首から上は見当たらなかった。何処かに隠されたのだろうか。個人を特定する要素を取り除いてしまえば、そこには食材しか残らない。硬直を終えていてもなお、肉の柔らかさは逸品だった。それは同時に、彼が最期まで消すまいとしていた温もりの名残でもあった。毎日のように繰り返してきたことだから、包丁を操る手は機械のように自動的に動いてくれる。ミスティアにはそれが有り難かった。ただ、心臓を捌く直前の一瞬だけ、手が止まった。いつかの夜に、カセット・テープで音楽を聴きながら抱いていた時分に、小鳥のような鼓動を伝えてきた臓器だった。
これは素材であり、食材なのだと自分に云い聞かせる必要さえなかった。全ては日常の延長線として処理され、肉塊は次々と元の形を失い、魔法のように料理に化けてゆく。味見をせずとも、香りだけでその違いは明白だ。ミスティア・ローレライは表情を消したままに、丁寧に調理を進めながら、手応えにも似た感覚を胸の中で転がしていた。
その夜は盛況だった。誰もが持ち合わせに余裕はないはずなのに、いつもより代金を弾んでくれた。ルーミアは有り金を叩(はた)いてお代わりまでしてくれた。そこには長らく失われていた笑顔があり、感謝の言葉があり、家族のような団欒の光景があった。極上の料理と雀酒を振る舞われた客達は、その時、確かに妖怪に戻っていた。
食材はひと晩で食べ尽くされた。後には骨と皮しか残らなかった。
#21
「ミスティア、起きてる?」
カセット・テープの再生を止めて、ミスティアは耳を澄ませた。リグル・ナイトバグが穴ぐらの入り口に立って、こちらの様子をじっと窺っていた。
「何も出せないわよ。在庫も空っぽ」
「違う違う。顔色が悪そうだけど、大丈夫なの?」
「ええ。売り上げの最高記録よ。こんなに嬉しいことはないわ」
沈黙が立ちこめた。背に差し込んだ月明かりが逆光となり、彼女の姿は好く見えなかった。月が出ているということは、空が晴れているということだ。ミスティアは半身を起こした。
「……どうして何も云ってくれなかったの」訊ねる声は掠れていた。「ううん、違う。どうしてルーミアを止めなかったの」
「あの子は里から見棄てられたんだよ。なら、後をどうするかは私達の自由じゃないか。決まりに従ったんだよ、ルーミアは」
「“私が”あの子の世話を引き受けたのよ」
「“もうこいつらと関わりたくない”って、放棄したのはミスティアじゃないのさ。あのまま放っておいて、森で野垂れ死んで、他の妖怪や獣に貪り喰われる方が好いって云うなら――」
「もう好い」
キャビネットに拳を叩きつける。
「もう、聞きたくない」
「――……そうだね、ごめん」
リグルが中に入ってきた。散らばったテープを踏みつけないように気を払いながら、隣に腰を下ろす。
「あれはさ」彼女は感情を抑えた声で云う。「あれは、ルーミアなりの優しさだったんじゃないかって思うんだ。これ以上、ミスティアがあの子に情を移さないようにしてくれたんだと思う。あの子の肉が固くなってしまうのが問題なんじゃない、ミスティアの心が固くなってしまうのを、ルーミアは心配したんだよ。だから、いちばん辛いことを済ませてくれたんだ。友達として、妖怪として」
それともさ、本当にあのままずっと、代わりの親が見つかるまで育てるつもりだったの? それこそ、ミスティアが壊れちゃうよ。私も、ルーミアも、貴方のそんな姿は見たくない。
「あとね、もう一つ。あの子は苦しまなかったよ。まったくね。一瞬だったから。ルーミアが綺麗にやってくれた。痛みを感じる暇も無かったんじゃないかな」
「“人道的だった”って、そう云いたいの?」
「“人間の流儀に従った”んだよ、ミスティア。元々人間の真似事で始めたことだから、仕上げもきちんとやり遂げなくちゃ」
二人は並んで宵闇に溶け込んだ。満月が顔を覗かせたのは何ヶ月ぶりのことなのだろう。眼に痛いくらい輝きを続ける星々が、晩秋の夜空に散りばめられている。いつになく見通しが好く、空気の澄んだ夜だった。不安になってしまうくらいに。
「これからどうなるのかしら。妖怪も、人間も」
ミスティアは空を見上げながら云った。
「これ以上、悪いことにはならないと思うよ」リグルが励ますように答える。「いつの日か、ちょっぴり形が変わってしまうかもしれないけれど、昔のような私達に戻れるよ、きっと」
「いつから歪んでしまったのかしらね、私達。いつから道を踏み外してしまったんだろ」
「関わり合いにならざるを得ないよ。妖怪も、人間も。住み分けさえできていれば好いってわけじゃない。私達はその手順を、少しばかり間違えちゃったんだ、それだけだよ。だから皆が皆、苦しい想いをしてる」
流れ星が墜ちていった。あまりに一瞬のきらめきだった。
「でも、いつかはそれも終わる。新しい毎日が始まるよ。こんな馬鹿げた状態がずっと続くはずないもの。私はそれを希望に生きてる。ルーミアもそう。考えてるほど悪いことにはならないよ」
ミスティアは静かに首を振った。リグルと別れてからも、夜空を眺め続けていた。傍らに古いラジカセを置いて、繰り返し、サイモン&ガーファンクルの「明日に架ける橋」を口ずさんでいた。東の方の空より、太陽が昇るその時まで。
#22
陽射しは平等に差し込む。人間の住まう集落にも、妖怪の巣くう山野にも。上白沢慧音は、空の青さを噛みしめている人びとが散らばる往来を抜けて、里の外れに向かった。小さな箱を携えて。呪符の貼られた木々を目印に、まるで命綱を辿るようにして、林の奥を進んでいった。
無造作に切り拓かれた一角に佇んだ小屋。呼びかけたが返事はなく、格子から覗いた屋内は無人だった。火葬場に回ってみると、目的の人物が炉の前でしゃがみ込んでいた。藺草の筵(むしろ)に並べられた小さな骨を見つめながら。
声を掛けると、彼女の肩が跳ねた。
「――すまない、驚かせてしまった」
少女は慌てて立ち上がって、深々と頭を下げた。その拍子に、口の中から骨の欠片が零れ落ちた。彼女の顔が青ざめて、言葉を紡ごうと唇が震えた。
慧音は白い欠片を拾い上げた。「失礼だが、何方の御骨なんだ」
火葬屋の少女は呟いた。「弟のです」
「君に家族はいないと聞いていたが」
「でも、弟のような存在でした。この子は私と同じでした」
「焼いていないのか。まだ新しいようだが」
「喰われました、……妖怪に」
もう一度、骨を見下ろす。妖怪が喰い漁ったにしては、驚くほどに綺麗な遺骨だった。頭蓋骨が見当たらないことを別にすれば。
「家族に、なれそうな気がしたんです。私がもっとお金とか、食べ物に恵まれていれば」彼女は骨に触れながら云う。「人間として生きるってこういうことなんだなって、この子の笑顔を見ると思い出せたんです。忘れたままの方が好かったんじゃないかって、今は思いますけれど」
慧音は何度か、噛みしめるように頷いた。それから小箱を差し出して云った。
「この骨も焼いてもらえないだろうか。本当に僅かばかりだが」
「はい、何方でしょう」
「産まれて間もない赤ん坊だ。この子も餓えから食べられてしまった」
「また、妖怪ですか」
「人間に喰われたんだよ。きちんと焼いて、埋めてやりたい」
少女は目尻を拭って頷く。
#23
煙が青空に吸い込まれてゆく様子を見送りながら、慧音は火葬屋の少女といくつか話をする。里の近況のこと。散発的に起きる、妖怪による捨て身の襲撃のこと。各地で起こった殺人や食人のこと。
「あの子達を棄ててしまったひとのことを、あるいは食べてしまったひとのことを、私は一方的に責めることができないんだ」慧音は火葬屋の少女に語った。「私も半分は妖怪だからね。今なら距離を置いて考えることができるよ。これは、手を差し伸べてあげられなかった私達全員の責任なのかもしれない。ひとりに全てを押しつけて、全員が平等に背負うべき責任を蔑ろにしてしまった」
慧音は腰を屈めて、少女と目線の高さを合わせる。
「それは君に対しても同じだ。辛い仕事をずっと君のような女の子に任せてしまっていた。人間という人間を、君は心の底から信じられなくなっているかもしれない。私も、知り合いにこう云われたよ。人間というのはそんなに立派な存在じゃないって」息を継いで、青空を見上げる。「でもね、それでも私は信じているんだよ。……昔、君くらいの年の、本当に惨(むご)い方法で命を奪われた女の子が、日記に書いていたんだ。“なぜならいまでも信じているからです――たとえいやなことばかりでも、人間の本性はやっぱり善なのだということを”とね」
少女は答えなかった。顔を下げて、視線を逸らしていた。
「君は人間として生きたいと云ったね。だが、大勢の人間と一緒に暮らしていれば、それだけで人間らしいと云えるのだろうか。私はそれは違うと思ってる。人間らしくありたいと願えば、誰でも他の人間以上に人間らしくなれるものだよ。君はもう充分に立派な人間なんだ」
生き続けるんだよ、と慧音は云う。
「“夢はきっと叶う”と私が云っても、君は信じないかもしれない。でも、私達はたとえ可能性が低くても、――そう、世の中の大抵のことはそうなのだけど、可能性が僅かなりともあれば、それに対してやれるだけのことをやるしか道を開く方法はないんだよ。人事を尽くして天命を待つ、それ以外に私達人間ができることはないんだ。残酷なことだが」
少女の瞳は不安そうに揺れ動いていた。慧音は姿勢を戻して、彼女の肩に両手を置いた。「なら、こうしよう。私も、君が強くなる手伝いをするよ。読み書きはできるか? 算盤の計算は?」
「いえ……」
「うん、じゃあそこから始めようか。週に一度、かならずここに来るよ。こう見えて、ひとに物を教えるのは得意なんだ。歴史にも詳しいぞ。知識は後になればなるほど役に立つ。先立つ物を、大人になるまでに養っておいた方が好い」
少女は微かに頷いた。陽の光を浴びてきらきらと輝いている潤んだ瞳を、こちらへ真っ直ぐに向けて答えた。
「よろしく、お願いします。先生」
「こちらこそ」
「私、花を売るお仕事がしたかったんです。彼岸花だけじゃなくて、沢山の、色とりどりの花を育てるお仕事を。命を見送るのではなくて、命を見守るような、そんなお仕事に就きたいんです」
「ああ、任せてくれ」
野辺送りの後始末を手伝いながら、慧音は、彼女の唇から零れ出た“先生”という言葉に、胸が騒ぐのを感じていた。先生、先生、そう、先生も好いかもしれない。里の守護だけでも、まだまだ忙しない日々が続くだろう。時間はかかる。でも、……そう、いつかきっと。――いつか、きっと……。
#24
「前から云おうと思ってたんだけどね、レミィ」パチュリー・ノーレッジは本から眼を上げた。「あの子は子供なのよ、ご覧の通り。しかも人間、無理を強いればたちまち壊れるわ。分かってるの?」
談話室でコウモリの背を小突きながら、椅子に沈んでいたレミリア・スカーレットは、力が抜けてしまいそうな大欠伸をした。
「何も無理強いしてるわけじゃない。咲夜は私との契約に同意した。不正は無かった。なら、後はその通りに履行してもらうだけだよ」付け加えるように呟く。「……私は悪魔だ。取引相手だ。育て親じゃないんだよ」
「そうやって強情を張って、今まで何度も使い物にならなくしてるじゃない。調理をさせられる美鈴の身にもなりなさいよ」
レミリアは横目で親友を見据えた。
「忠告なんて要らないよ。いつもは傍観してるのに、今回に限って突っかかってくるんだな。本当に気まぐれなのはどっちなんだかね」
パチュリーの眼が見開かれ、血流が急速に変わるのを感じて、一瞬だけ身構えた。友人は吐息に感情を溶かしてから、渋々と語った。「同じ屋根の下で、悪魔と人間が暮らすことの危険性を、レミィは好く分かってない。深い関わりを持ってしまって、身を滅ぼした悪魔は枚挙に暇がないわ。遊び相手じゃないのよ」
レミリアはパチュリーの顔を見つめてから、吹き出した。「なんだよパチェ、心配してるのなら素直にそう云えば好いのに」
友人はそっぽを向く。「――だから、云いたくなかったのよ」
「物語の読み過ぎだよ。意外にロマンチストだったんだな、うちの魔女様は」
「何を」
「ずっと前にも、パチェったら小説を書いていたな。勝手に読ませてもらったけど、あの最後に再会するシーンは流石に無理が――」
痛烈な電撃をまともに喰らって、レミリアは椅子から転げ落ちた。コウモリが悲鳴を上げて飛び去っていった。
「まあ、あれだね」椅子の背をつかんで起き上がる。「契約の好いところは、余計な感情を差し挟まないで相手と関われるところだよ。ドライでいられる。規約に反しない限りは、自由でいられる」あの子は、と静かに語る。「咲夜は、とびっきりのドライだよ。そこらの人間よりもよっぽどね。それこそ人間よりも悪魔に近いくらいにさ。だから、誰からも人間らしく扱われなかったんだ。時間を操る能力なんて、ひとつの要素に過ぎない。あの子は、――好いか、咲夜は居るべくしてこの館に居るんだ」
魔女は片眉を上げて、問いただすようにこちらを見ていた。書物は閉じられていた。
レミリアは説き伏せるでもなく、淡々と言葉を結んだ。「そりゃ、最初のうちは苦労もあるだろうよ。手慣れていたとはいえ、同族を調理するわけだからね。でも、私達は何だかんだで、きっと上手くやっていけると思うんだよ。これまでのお伽話で語られてきた、どの悪魔と人間よりもね」
#25
レミリアが談話室のドアに振り向いたのを合図としたかのように、ノックの音が飛び込んできた。給仕用の台車に紅茶の用意を整えて、十六夜咲夜が入ってきた。ドアの外では紅美鈴が控えて、後輩の様子を見守っていた。
「お嬢様」
「ん、ご苦労」
咲夜が蒸らした紅茶をカップに注ぐ。レミリアは持ち上げて香りを楽しんだ。しばらく間を置いてから、瞳を閉じて、紅い色の飲み物を口に含んだ。喉を鳴らして、ほっと息をつく。
「うん。……うん、上出来だ」レミリアは微笑んだ。「完璧だよ、咲夜。パーフェクトだ。試用期間はお仕舞と云ったところかな」
パチュリーが椅子から立ち上がり、膝に置いていた本が絨毯に滑り落ちた。咲夜に歩み寄り、左腕をつかんで持ち上げる。
「レミィ」彼女は呟く。「何をしたの?」
「話をしただけだよ。命令でもない。力も使ってない。咲夜の意思だ」
同意を求めるように顧みると、咲夜も微笑んで頷いた。出血こそ止まっていたが、手首には生々しい傷跡が走っていた。パチュリーは傷跡と、レミリアが手にしているカップを交互に見つめる。それから視線は銀製のナイフのように鋭くなり、レミリアの顔を切り刻んだ。
「ご安心ください、パチュリー様」咲夜は云う。「ちゃんと“普通の”紅茶もご用意しておりますから」
「…………もう」魔女は脱力し、椅子に崩れ落ちてしまった。「知らないわよ。勝手になさい。私も勝手にやらせてもらうから」
追加の本を中空から呼び出して、テーブルの上に広げ、貪るように読み始める。
「おい、行儀が悪いぞ。約束したじゃないか」
「知るもんですか!」
肩をすくめてみせると、従者は首を傾げて困ったように笑う。両手はエプロンに柔らかく重ねられていて、疲労と緊張の滲んだ表情にも僅かな余裕が芽生えていた。春先にやっと顔を覗かせて、太陽の光を浴びる新芽のように。
「それで、心は決まったのか」
「はい」
「引き返すことはできない。人間の輪には加われない。逆さの十字架を背負って生きてゆくことになるんだ。死ぬまでね」
「好いのです。諦めています」
「それじゃ、長い話は止めにしよう。これからも私のために、美味しい紅茶と食事を用意してくれ」
「はい、お嬢様」
「期待してるよ、咲夜」
彼女はスカートの裾をつまんで、お辞儀をしてみせた。ドアの陰で美鈴が頷いてから、親指を立てて背中を向けるのが見えた。顔を上げた銀髪の少女は、穏やかな笑みを浮かべていた。例の引きつったような歪んだ笑みは山の向こうに去っている。思い出したように手首からひと筋の血が流れ伝い、爪の先から零れ落ちていった。それはレミリアには涙のように見えた。訣別の涙、――もう“普通の人間”には戻れないことを確かめる、かつての自分に別れを告げるための涙のように、レミリアの瞳には映っていた。
#26
迫りつつある春の気配が、山の端から現れようとしている晩冬の夕暮れ。カセット・テープに録音された洋楽が絶えることなく流れ続ける屋台で、ミスティア・ローレライは仕込みの準備を進めている。まな板の上で捌かれているのは八目鰻。癖のある味だが、眼の保養になり、上手く扱えば逸品に化ける。メロディを口ずさみながら、食材の準備を進めてゆく。
リグル・ナイトバグが訪れたのは、もう陽も隠れようとしていた時分だった。天狗の新聞と包みを携えて、彼女は手を振りながら地面に降り立つ。
「ミスティア、久しぶり」
「ええ、本当に久々ね」
「遂に決まったらしいよ」
ミスティアはまな板に包丁を置いた。リグルが差し出した新聞を受け取り、記事の見出しを眼でさらった。
「どう読むの、これ」
「命名決闘法。スペルカード・ルールって名前」
「スペルカード、ねぇ……」
「賢者様と博麗の巫女が考案したんだって。疑似的に妖怪退治がどうとか。後は妖怪同士が喧嘩する際にも使えるようにするらしいよ」
「随分長く話し合ってたみたいだけど、要はごっこ遊びね」
まぁね、とリグルは頷く。「吸血鬼も納得して、一件落着」
ミスティアは、新聞を何度も丹念に読み返した。記事には命名決闘法案の写しが解説付きで掲載されていた。妖怪同士の決闘は小さなこの世界を崩壊させてしまう恐れがある。しかし、決闘のない生活が続けば妖怪の力は失われてしまう、と。
完全な実力主義を否定する、――と。
新聞を返して、深呼吸した。この法案がどのような結果をもたらすのか、ミスティアには想像もつかなかった。今よりも悪くなってしまう可能性だってある。ただ、これから妖怪と人間の新しい関係が始まることだけは確かなようだった。
「あと、これ。ミスティアの分」
リグルから包みを受け取ったミスティアは、もう中身を検めることはしなかった。足元に無造作に置いて、再び包丁を手に取った。まな板に横たわった鰻のひょろりとした胴体が、一瞬、痩せ細った人間の腕のように見えた。
リグルが呟くように云う。「最近、ルーミアに会った?」
「いいえ、異変の間はずっと隠れていたから」
「会いたがってたよ。久しぶりにミスティアの料理が食べたいって」
「鰻ではなくて?」
彼女は頷く。「鰻じゃなくて」
「そう。じゃあ、当分は食べられないって伝えておいて」
「分かった。でも本当を云うとさ、私も……」
リグルは云いかけて、ごまかすように笑ってみせた。
「ああ、私、――次のとこに回らないと。またね」
中空に浮き上がった友人に呼びかける。「リグル。私はね、決してルーミアのことが嫌いになったわけじゃないの」
「もちろん」リグルは微笑みを崩さずに答える。「ルーミアだって同じだよ。今でも友達。ただ、なるべくしてなった、それだけだよ」
日没と同時に風が吹いた。身の凍るような冷たい風。
「血生臭いことが沢山あったけど」ミスティアは云う。「でも、あの頃は、誰もが自分のために純粋に生きるしかなかった。ルーミアもそのひとりだった。妖怪も人間も生き残ることだけが全てだった。私はそういうのを否定したいんじゃない。それだけは違うわ。ただ、私の中にある何かが変わってしまったんだって」うつむいて、言葉を結ぶ。「……そう、ルーミアに伝えておいて」
リグルが去った後、宵闇が忍び寄ってきた。仕込みを終えたミスティアは客を待っている間、屋台の下に隠していた骨を両腕に抱えながら、洋楽のメロディを口ずさみ続けた。それは小さな頭蓋骨だった。古びているけれど、埃は被っていない。唄い続けながら、ミスティアは考えている。これから世界は好くなっていくのだろうか。どれだけの物事が変わり果ててしまうのだろうか。あの子が笑って暮らせるような世界を、私は過ごすことができるのだろうか。妖怪と人間が元のような姿に戻って……。
ミスティアは首を振る。頭蓋骨を元の場所に戻す。全ての考えは詮無いこと。夜風のひと吹きで溶けてしまうような想い。変わってしまった自分を受け容れて、変わらないものだけを胸の奥で暖め続けている。奔流のような時間の川に逆らいながら、遺された命が再びきらめきを取り戻す日が来るまで、じっと息を潜めて。
#27 Eastern Project
氾濫した河の流れに架けられた橋のように、それでも世界は、人びとを結びつけてゆく。
#28 Epilogue
炙り焼きで雑味を落として、山椒を加えた特製の“たれ”に浸し、出汁を煮込んだ野菜スープと一緒に味わってもらう。お客さんが笑顔を見せたら、次は雀酒の出番となる。
その夜は二人、――それも客としては初めて見る顔だった。二人は面識があったらしく、互いの顔を指さして、あれこれと云い合いを始めそうな雰囲気だった。間に入って諍いを止め、席に着いてもらった。
「明日は寺子屋が休みでね」上白沢慧音が云った。「久々に静かな場所で飲みたいと思って、女将さんの屋台のことを思い出したんだ」
「私もお嬢様から休暇を頂きまして」十六夜咲夜が続けて云う。「途方に暮れていたのですが、里の食事処には入れませんし、天狗の新聞を頼りに探したところ……」
ミスティア・ローレライは火の加減を見守りながら答える。「それじゃ、今夜はたらふく食べていけるってことね」
二人は揃って肩をすくめてみせた。
「そうそう、女将さんに手土産を持ってきたよ」
慧音が提げていた袋から数本の筍を取り出す。明日には成長して青く茂っていそうなくらいに新鮮な筍だった。受け取りながら、ミスティアは顔がほころぶのを感じた。
「凄いわね。焼いても好いし、煮物にも」
「妹紅から貰ったんだ。竹林の蓬莱人。今年は沢山採れたそうだよ」
「あの焼き鳥屋さんね」
「それは自称だろう」慧音が微笑む。「焼き鳥云々はともかく、あれでも昔に比べれば成長したんだよ。本当に成長したんだ」
「どうだか……」
さらに続いて、ハクタクの先生は袋から花束を取り出した。秋の植物が色とりどりに咲いた、実りの象徴とも云うべき花々だった。優しい紫を咲かせたコスモスから、可愛らしく香るキンモクセイ、ドレスのように着飾ったサルスベリ。その中に、まるで場違いのように紅く紅く華やいだ彼岸花。歌に彩りを添える際には、花が大きな役割を果たしてくれる。ミスティアは喜んで受け取った。
「里で花屋を営んでいる教え子が居てな」慧音は云うのだ。「決して大きな店ではないかもしれないが、見ての通り、とても大事に育てているよ」
咲夜が身を乗り出す。「素敵じゃない。うちも取り寄せようかしら」
「女将さんの話をしたら、是非とも渡して欲しいと頼まれたんだ」
ミスティアは首を傾げる。「花屋の常連さんなんて居たかしら」
「いや、訪れたことはないそうだよ。ただ、渡して欲しいと。それだけで好いんだと云っていたよ。私には何のことだか」
「そう。……うん、大切に飾っておくわ。本当に素敵ね、これは」
二人に許可を得て調理の手を止め、花を手頃な空き瓶に活ける。月明かりを浴びた花には、観る者を吸い込むような美しさがある。いつかは枯れてしまう命。風となって過ぎ去りゆく想い。それを見つめていた咲夜が、やがて思い出したように呟いた。
「私も、何か差し上げないと心苦しいですね」
「好いんだよ。私が勝手に持参したんだしな」
悪魔の従者はしばらく考え込んでから、顔を輝かせてミスティアの眼を見上げた。「そうだわ。今度、お時間が空きましたら、紅魔館の特別料理を包んで持ってきましょうか。自慢のレシピとご一緒に」
「ええ、ありがとう」ミスティアは笑みを崩さずに答える。「でも、悪いけど遠慮しておくわ。特別な料理は作らないことにしているの」
「そうですか。残念ですね」
咲夜は本当に残念そうに云った。慧音は意味が分からなかったのか、隣で首を傾げていた。
「その代わりにさ、お菓子の作り方を教えてよ。前から挑戦してみたかったのよね」
「お安い御用ですわ」
炙られる八目鰻の香りと、ミスティアの唄と、サイモン&ガーファンクルの「明日に架ける橋」と。さらに雀酒を飲み交わして、二人は不思議なほどに打ち解けたようだった。仕事の疲れが少しでも癒されただろうか、ミスティアは客人を見つめながら想った。
上白沢慧音は、半妖の身でありながら人里に住まい、子供達に教育を授けている。十六夜咲夜は、人間であるはずなのに悪魔の館で働き、主人のために特別な料理を振る舞い続けている。――そして、私は純粋な妖怪ではあるけれど、屋台で出しているのは里の人間だって舌鼓を打つような鰻料理だ。
秋の星空を見上げる。矛盾だらけだ、と思う。私達はそれぞれに、産まれてからずっと辿ってきた道の途中で拾ってしまった矛盾を、今も大事に抱えている。それは、どうしようもないくらいに間違っていると云えるだろう。明らかに、他の妖怪や人間の方が正しい。誰にも分かってもらえないに違いない。
――私達は、間違っている。
でも、ひとつ確かに云えることは、どんなに矛盾だらけでも、どんなに間違っていようとも、今もこうして生きている、ということ。変わりつつある世界の中で、変わらないものを抱きしめながら、この場所で生きている、ということ。
命を奪いながら、命を育みながら……。
何杯目かの酒を飲み終えて、慧音が呂律の回らない口調で云った。
「今年は豊作になるよ」彼女は繰り返し呟いた。「お腹いっぱい食べられるよ。大人も、子供達もね……」
飯台に突っ伏してしまった先生に毛布を掛けてやると、彼女はお礼の言葉を零してから眠りに落ちた。
咲夜は涼しい顔で鰻と酒をお代わりしたが、いつしか口調はフランクになっていた。「病みつきになるわね。機会があったら、またお邪魔しても構わないかしら」
「どうぞどうぞ、人間でも妖怪でも歓迎するよ」
「とびっきり上等のヴィンテージを持って来るわ。もちろん、血は入ってない私のコレクション。きっと気に入るわよ」
「楽しみね。とても、何もかも」
美味しそうに食事を続ける少女を見守りながら、ミスティア・ローレライは秋の夜長に耳を澄ませている。屋台に慈雨のように降り注ぐ蟲の鳴き声、その合唱は彼らを操る少女からの祝福のように聴こえる。そして、屋台を包み込んでくれている、この世界の優しさを湛えているかのように暖かな闇は、過ぎ去りし日に往ってしまった友人、――彼女が、和解の印に差し出してくれた贈り物のようにも思えるのだ。
(引用元)
John Irving:The Hotel New Hampshire, E.P.Dutton, 1981.
中野圭二 訳(邦題『ホテル・ニューハンプシャー』)新潮文庫、1989年。
(原題)
Die ungeschickte Räuberin des Lebens
.
The Life Reaver, The Life Shaper
なぜぼくが泣き出したか、父さんには知りようがなかったけれど、父さんの言ったことはすべて当を得ていた。「考えてるほど悪いことにはなるまいよ」彼はぼくを力づけた。「人間というのはすばらしいもんだ――どんなことでも折り合って暮して行けるようになる」父さんはぼくに言った。「われわれが何かを失ってもそこから立ち直って強くなれないんだったら、そしてまた、なくて淋しく思っているものや、欲しいけれど手に入れるのは不可能なものがあっても、めげずに強くなれないんだったら」父さんは言う、「だったら、われわれはお世辞にも強くなったとは言えないんじゃあるまいかね。それ以外にわれわれ人間を強くするものがあるかね?」
――ジョン・アーヴィング『ホテル・ニューハンプシャー』より。
#01 Prologue
炙り焼きで雑味を落として、山椒を加えた特製の“たれ”に浸し、出汁を煮込んだ野菜スープと一緒に味わってもらう。お客さんが笑顔を見せたら、次は雀酒の出番となる。
ミスティア・ローレライは徳利から竹筒に酒を注いで、友人達へ手渡す。宵闇に溶けるは談笑、秋の始まりを告げる蟲の声。ほろ酔いにはうってつけの夜。
「もう無いの?」皿を差し出しながら、ルーミアが云う。「ちゃんと持ってきてるよ、代金なら」
「切らしちゃったのよ、ごめんなさいね」
「そうかぁ」
彼女は肩をすくめてから、串の先で“たれ”をすくっては舐めることを繰り返した。隣に腰かけたリグル・ナイトバグが、手の甲に乗せた鈴虫の背をなでながら云う。
「ミスティア、また補充に?」
「痩せっぽちしか見つからないけど」
「おまけに腐ってる」
「そうね」
「酸っぱいし、固い」
「うん」
「……諦めきれないなぁ」ルーミアが身を乗り出す。「ね、缶詰で好いから何か作ってよ」
「厭よ。前に試したら苦情が出たし」
「お願い、お願い」
彼女は手を合わせて、小首を傾げた。紅い瞳は潤んでいて、覗いた犬歯から肉片がぶら下がっている。
「分かったわよ、もう」溜め息をついて、三角巾を締め直す。「でもね、ルーミア。素材が駄目ならそれでお仕舞なのよ。誰が調理しても、結果は同じだわ」
屋台の下に蹴り込んでいた風呂敷を広げて、小憎らしい奴をつかみ取る。ペースト状になった食材は、まるで血抜きを済ませた赤身魚のように見える。木のスプーンでかき出し、丸めて団子にしてから、同じ手順で炙り焼きにする。立ち昇ってくる臭いに、ミスティアは顔をしかめた。
夜風が吹いて、暖簾をなびかせる。リグルが二の腕をさするのが見えた。また曇り始めたようだ。遠くから雷鳴が黒雲の下を這いずり、山影を踏み越えて近づいてくる。潮が引くように蟲の調べが縮んでゆき、潰れて消えてしまう。
「お待ちどおさま」
「頂きます」
ルーミアが“たれ”に浸けた団子を頬張った。咀嚼を始めたと思ったらすぐに飲み込んでしまい、続いてお冷を喉に流し込んだ。飯台にうつ伏せになって、唸り声を立て始めた少女の背中を、リグルが柔らかに叩いた。
「……大丈夫?」
「だから云ったじゃない」まな板を念入りに洗いながら、横目で見据える。「できれば手をつけたくないの。非常食なんだから」
ルーミアが涙の浮かんだ両眼を上げる。「同じ肉なんだよね。なんで缶詰にしただけでこんな味になるの」
「知らないわよ」
「外来のは脂身が多いよね」とリグル。「こっちで穫れるのは淡白って云うか、身が締まってると云うか――」
「ヘルシィ」
「そうそれ。食べてる物の違いかな」
「霜がたんまり降ってるのも美味しいよ」ルーミアが云う。「とろっとろに乗ってるの、食べてみたいな。一度で好いから」
「昼間は襲えないし、夜は境界の外に出てこないし」頬杖を突くリグル。「出てくるのは、どれも骨と皮ばかり。大半は犬やカラスに横取りされてる」
「諦めて新しい食材でも見つけるべきかしらね」
「そんな!」
ルーミアの悲痛な叫び声に、耳を塞ぎながら頷いてやった。
「分かってる。何とかしてみるよ」
「私も協力するから」
「ええ」
「困った時は遠慮なく頼ってね」
「ありがとう」
「美味しいの作ってよ、ミスティア」
宵闇の中でも、ルーミアの眼はきらきらと輝いていた。
ミスティアとリグルは、顔を見合わせて笑った。
#02
空気の最後のひと雫(しずく)まで吐き尽くしたかのような、永い断末魔だった。手間どってしまったせいか、切断面は喰い込んだ皮と肉とで潰れている。脈動に合わせて血潮が吹き出し、やがて弱まっていった。男は舌打ちをこぼしてから、刃の汚れを拭き取り、解体の続きを始める。里からそう離れていない一角、定められた境界のライン際、傍の茂みに身を潜めて、ルーミアは屠殺の光景を見守っている。
男の頬は痩せこけていて、眼の周りが青黒く染まっているためか、眼球が異様に大きく見える。彼は“美味しくない人間”の特徴をフルコースで備えていた。不味い連中ほど風貌が妖怪に近づいてゆくことを、ルーミアは以前から不思議に思っている。男は両手にごっそりと赤いのやら白いのやらを抱えて小屋の中に入ってゆき、遂に姿を見せることはなかった。
唇に人差し指を当てて、しばらく考え込んでから、立ち上がってその場を後にする。その日も天候は不順だった。噴火の黒煙かと見紛うほどに濃い雲の絨毯が空に敷かれていて、冬の夕暮れのように薄暗い。春から始まって以来、見慣れてしまったこの空模様には、太陽の光も、月の明かりも、星のきらめきでさえも、踏み込む余地などないだろう。
◆ ◆ ◆
「――“牧畜”?」
ルーミアが問い返してきたので、リグル・ナイトバグは蟲達の食事から視線を離した。ここ数日はまともな獲物にありつけなかった分だけ、彼らの喰いっぷりは見ていて気持ちが好かった。
「考えてみてよ、ルーミア。小さいうちから食べてしまったら肉が勿体ないでしょ」
「私は子供も大好きだけど、柔らかいし」
リグルは額に中指を当てる。「……好みの問題はともかく、食べ頃になるまで育ててやった方が、結果的にはより多くの肉を頂けるってわけ。横取りにだけは注意しないといけないけれど。まあ、人間なら何処でもやってることだよ」
「ふぅん」
ルーミアは切り株から飛び降りて、空き地の端を歩き始めた。視線は蟲達に留まったまま。あるいは力尽きた屍を見つめているのかもしれない。
「でもさ、それなら食べ物を分けっこしないと育てられないんじゃないかな。そっちの方が勿体ない気がする」
「人間には摂取できない食物でも、家畜の動物なら消化して栄養素に変えることができるから。例えば草とか、葉っぱとか。だから餌の取り合いにはならないってわけ」咳払いして続ける。「云ってみればさ、人間は家畜を介することで、本来は食べられない物を“間接的に”身体の中に取り込むことに成功しているんだよ」
「成程なぁ」ルーミアは振り返って、子供のように笑った。「私が人間だったら、我慢できなくて食べちゃうかも」
「それくらいの方が向いてるんじゃない、むしろ」
「なんでさ」
「愛着が湧かなくて済むから」
「ん、“愛着”って何?」
リグルは、蟲に喰い散らかされてゆく餓死者の遺体を、――溶け崩れた腐肉や、真っ黒に濁った血が大地に還ってゆく過程を見守った。指の先で触覚の根本に触れながら、苦笑混じりに答える。
「……ごめん、私にも分からないや。説明できない」
骸はやがて、骨と皮、僅かにこびり付いた肉片ばかりとなった。食事を終えた蟲達が解散してゆく。手を振って彼らを見送り、欠伸を漏らして振り向く。友人がお坊さんのように手のひらを合わせている。
「どうしたの、ルーミア」唇の端が歪んだ。「合掌なんかしちゃって、人間の真似事?」
彼女は何度か頷いてみせた。「うん、ちょっと始めてみる」
#03
万が一の可能性を考えて交渉してみたが、結果は予想通りだった。少女が首を縦に振ることはなかった。あまりに横に素早く動かすものだから、アマゾンの熱帯雨林みたいに生え放題の黒髪がタンゴを踊った。
「どうしても駄目?」
「駄目に決まってます。そんなことをしたら、今度は私が焼却炉に放り込まれてしまいます」
「じゃあさ、腕の一本だけでも好いから。それならバレないでしょ」
「お断りします」
「他に家族や親戚はいないんでしょ? 誰も見送りに来ないじゃない」
「仏に縁も無縁もありません!」
とうとう激昂してしまったので、流石に諦めざるを得なかった。彼女は、変わり果てた両親にしがみついていた男の子の肩を叩いてから、遺体を炉の中に運び込む。火が点けられると泣き声が高まったので、ミスティアは思わず舌で唇を濡らしていた。野辺の煙は、いつも何度でも妖怪を魅了して止まないのだ。
最後に子供を調理したのは、いつ頃のことだったか。
「……それで、この子はどうするの」
火葬屋の少女は、こちらを睨みつけながら答える。「引き取り手がいないんです。私に押しつけて、みんな帰っちゃいました」
「“孤児(みなしご)は里のみんなで育てよう”みたいな決まりになってたんじゃなかったっけ。ましてや心中と来たら――」
「事情が複雑なんです」
湿った地面に四つん這いになっている男の子の頭を、少女はなでる。彼の脚は、落下の衝撃で完全に使い物にならなくなっているようだった。どうして身体の脆い息子だけが生き残ってしまったのか、ミスティアには不思議だった。
「この子は、私と同じなんだと思います」
「同じ?」首を傾げる。「男と女、全然違うよ」
「そういう意味ではなく」
「貴方、オスだったのね」
「違います!」彼女は喚いた。「……ただ、私達は他のひとと同じような生活をしてはいけないんです。そういう風になっている。だから、この子を誰も引き取ろうとしなかったんです」
「意味が分からない。皆が皆、生きるのに精いっぱいで、貴方達を養う余裕が無かったってこと?」
「――……もう好いです」
「そう」
男の子は泣き続けていた。野辺の煙は曇り空に吸い込まれるように消えていった。焼かれた人間の灰が空に昇って、雨雲に化けたかのように濁りのある小雨が降り始めた。
#04
少女の住まう荒ばら屋に雨宿りする。男の子が眠れるようにと、少女は歌って欲しいなんて頼み事をしてきた。いつもみたいにと言葉を添えて。屋台の時分でないと興が乗らないと断ったが、重ねて手を合わせてきたので、ミスティアは望み通りにした。脚の痛みが酷く、彼が眠ることはできなかったが、耳を澄ませてくれているのは確かだった。囲炉裏の熾火(おきび)と、屋根を打つ雨足が伴奏を務めてくれた。小さな唄を、小さな家に。トンネルに浮かび上がった灯火のような声で、ミスティアは歌い終えた。
火葬屋の少女が肩に頭を預けてきた。
「今ここで」彼女の声は乾いていた。「“殺して下さい”ってお願いしたら、ミスティアさんは私を美味しく調理してくれますか」
「しないと思う」
「どうして」
「不味そうだから」
少女は胸を膨らませて深呼吸する。「何もかも全部、やり直したいって思ったことは」
「ないわ、……多分」
「毎日のように、ご遺体が運ばれてくるんです」彼女は男の子の方を振り返った。「半分近くのひとは、腿の肉が削がれていました。中には、頭蓋に穴が空けられたご遺体もありました。内臓の代わりに泥が詰め込まれていました。厭でも眼に入るんです。沢山のひとが餓えて死んだんだって。食べられるものは全部、食べ尽くしてしまったんだって」
「妖怪も似たようなものよ。どいつもこいつも殺気だってる。それで決まって無茶をやらかす奴が出てきて、お偉いさんに叩きのめされる」天井を見上げて、思いつくままに話す。「参ってんのよ、どいつもこいつも。缶詰ばかり与えられて、鬱憤晴らしの殺し合い。空気の抜けた紙風船みたいにさ、陰気な顔ばかり眼についちゃう」
少女が顔を離すのを待ってから、ミスティアは呟いた。
「――それで、本当にどうするの、この子」
「分かりません」
「貴方も余裕は無いんでしょう?」
「……はい」
「今年の冬もまた、水にさらした彼岸花の球根を食べてやり過ごす気? それも子供と二人で」
「…………」
ゆっくりと視線を戻す。囲炉裏の火が弾けて合図する。「新しい親が見つかるまで、こいつの面倒、見てあげよっか」
少女が顔を上げて、こちらを見つめてきた。
「ああ、云っとくけどさ、捌いたりないからね。それだけは約束する」
「なんで、どうして」
「いつも私の唄を褒めてくれるから。それだけ」
顔を背けて、三本の指で瞼をつまむ。自分でも、自分の云ったことが信じられなかった。か細い声で、火葬屋の少女が「ありがとう」と呟いてからも、振り返ることができなかった。
#05
ここしばらくはご無沙汰だったが、手が震えることはなかった。用意されていた刃物は、まるでプリンに刺し込まれたナイフのように、易々と肉を断ち切った。ひと通りの解体を済ませると、調理台の向かいに立っている紅美鈴が頷いた。
「覚えが早くて感心しました」彼女は云う。「先ずは腐敗の早い内臓から調理します。空気にさらしていると、あっと云う間に傷みますからね。場合によっては廃棄することも選択肢に入れておいて下さい」
十六夜咲夜は一礼して指示に従った。仕込みを続ける間、先輩は何度もこちらに話しかけては、大げさなジェスチャーを交えて微笑んでみせるのだった。二人の間には、頭と四肢を切り落とされた二脚の羊。個人を特定する要素を取り除いてしまえば、それは直ちに貴重な蛋白源に変わる。
「今更なのですが」手を止めて、美鈴は声を落とした。「辛かったら、いつでも中断しますよ。お嬢様にも了解は取ってありますし、こういうのは、――そう、時間をかけて慣れていくことが大切ですから」
咲夜はまた頭を下げて、大丈夫という意味を込めて包丁を振ってみせる。先輩の真似をして微笑んでみようと思ったけれど、引きつったような歪んだ笑みが浮かぶだけだった。
◆ ◆ ◆
「前に云ったと思うけど」パチュリー・ノーレッジは本から眼を離さずに云う。「食事なんて必要ない。貴方が食べなさいよ」
「大事な時に貧血になっては困ると、お嬢様が」
魔女は溜め息をついて、読みかけの本を閉じる。ホール・ケーキみたいに分厚いその魔導書を、彼女は軽々と浮かせてみせた。空いたスペースに湯気の立ち昇る食器を置いて、脇の暗がりに控える。眉ひとつ動かさずに食事を進める彼女を見て、美鈴は肩の力を抜くことができた。言葉と態度の割には、パチュリーはけっこう楽しげにスープやらローストやらを口に運んでいるように見えた。
「……貴方が来る前のことだけど、食事に誘われたことがあったの」
「お嬢様に?」
「ええ」
「応じられたのですか」
「居候だから。それで付き合ってやったら、怒られた。食事中に本を読むなって。せめて話しかけたら返事くらいしてくれって」
そりゃそうだと思ったが、口には出さない。
「知ったこっちゃないのに、契約に上乗せされてしまったわ。テーブル・マナーを守ること。あるいは覚えること」
「その見返りに何を要求されたのですか」
魔女は質問に答えない。「だから、レミィと食事するのは今も苦手。態度はフランクな癖に、やたらと形式にこだわるから」
食事を終えた彼女に紅茶を給仕する。
「如何でしたか」
「悪くないわね」
「今日、初めて実際にやらせてみました」
パチュリーが顔を上げた。しばらく眼を合わせてから、また視線を落とした。「そう。……うん、上出来なんじゃない? レミィのお気に召すかは分からないけど。完璧を求めるからね、あいつは。これから苦労するでしょう」
頭を下げる。「すみません。教育に付きっきりで、こちらまで手が回り切らなくて」
「好いのよ。そろそろ司書を雇う頃合いだと思っていたから」
「司書、ですか」
「ここも本が増えたし、整理と管理とを請け負ってくれる手合いが必要なのよ。二人だけじゃ、こっちまで手が回らないでしょ」
「それは重畳ですね」
魔女は頷いて、独り言のように呟いた。
「ちょっと大がかりな魔法の仕度もあるからね。そのための下準備も整えないと」
#06
給仕を終えて図書室から出ると、エントランスの入り口で咲夜が待機していた。腰のところで抱えている木製のトレイは、彼女の背丈のために必要以上に大きく見えた。
美鈴は手を挙げて云う。「首尾は如何でしたか」
咲夜は黙ったまま、うつむいた。好く見なければ分からないほど微かに、彼女の眉間には皺が寄っている。今にも波に呑み込まれてしまいそうな、出来損ないの砂城のような脆さが、痩せた身体から滲んでいた。
言葉を注意深く選ぶ。「お嬢様は、小食です。日によっては何も受けつけないことだってあります。始めのうちは戸惑うことがあるかもしれませんが――」
「ごめんなさい」
彼女が口を開いた。今日、初めて。
「ごめんなさい。……次は失敗しません」
「気にしないで下さい。何度も云いますが、最初は誰でも上手くいかないものです。私も、そうでしたから」
それでも少女が謝り続けたので、肩を柔らかく叩いてやった。骨の浮き上がったその身体は震えている。
彼女は指で目尻を拭う。「失敗したくない。完璧なひとになりたいんです。ご機嫌を損ねてしまったら、追い出されるから。他に行き場がないんです。お願いします、美鈴さん。見捨てないで下さい」
見捨てないで下さい、と咲夜は繰り返す。美鈴は震える肩の感触を受け止めながら、彼女の言葉がもたらした重みについて考えた。自分と同じ動物の肉を調理し、悪魔たる主人に給仕することよりも、この館を追い出されることの方が、彼女にとっては深刻な事態なのだろうか。
咲夜を落ち着かせて、厨房の片づけに向かわせてから、美鈴は主人の寝室のドアをノックした。レミリア・スカーレットは窓辺の椅子に腰かけて、変わることのない夜景を眺めている。月明かりがドレスに青と白のグラデーションを投げかけ、部屋の暗がりに漆黒の翼が同化している。
カベルネ・ソーヴィニヨンの赤ワインが注がれたグラスをテーブルに置いてから、主人は小さく息をつく。
「……身体が重い」
「食欲も落ちているようですが。気づかれましたか?」
レミリアはこめかみに指を置いた。「お前が教えたんだろう。それなら問題は無いよ。血が足りてないだけさ。美味い血が飲めないと、食も進まないんだ」
「近頃は眼が厳しくなってきましたからね」
「そう、それで思い出した」吸血鬼がこちらを向く。「昼間の銃声はいったい何だ。こちとら天の王国から急転直下、寝台から転がり落ちる羽目になったんだぞ」
「ああ……」後ろ髪を指で梳く。「聞こえてましたか。ちょっと、ヘマをしたんです。流石に散弾銃は予想外でした」
レミリアは口を閉ざして、テーブルに広げられていた手紙に視線を落とした。美鈴の知らない言語で書かれたその知らせを、悪魔は睨みつけている。血文字かと見紛う、赤いインクが使われた羊皮紙。
「……どう、あの子は。順調?」
深呼吸してから答える。「率直に申し上げますが、まだ不安定です。仕事を完璧にこなそうと意気込むあまり、手が回り切らないことがあります。もっと気を楽にしてくれると、私も疲れずに済むのですが」
「お前は気を抜きすぎなんだ」
「ごもっともで」
レミリアは笑ってワインを舐めた。「変な話だな。妖怪の私達が人間の真似事をして、子供を一人前に育てるなんて」
「家族のようなものですかね」
「それは云いすぎだよ。あくまでも契約の延長線。履行ができないんなら、それ相応の結末を迎えさせるまでさ。残念だけど」
レミリア・スカーレットは葡萄酒を飲み干して、椅子に身体を沈める。寝息が紫煙のように部屋の中空をたゆたう。美鈴はシーツを整え、主人を寝かしつけてから、ワイン・ボトルとグラスを持って退室した。静まり返った廊下を歩きながら、先ほどの咲夜の言葉を思い返した。見捨てないで下さいと繰り返していた、彼女の姿を。場合によっては、自分が彼女の肉を調理することになるかもしれないと、ふと考えた。追い出されるだけでは済まないかもしれない、と。
少女の血は、主人の好物だから。
この館で悪魔の従者を続けるか。外の街で路地裏の獣に還るのか。どちらがより幸せな生き方なのかは分からなかったが、どちらの生活も、他の人間から決して理解されないことだけは確かだった。
#07
男の子は屋台の車輪にもたれかかって、呆然と空を見上げていた。ぜんまいの切れたからくり人形のようだった。足は奇妙な方向にねじ曲がったまま、完全に固まってしまっている。リグル・ナイトバグは、仕込みに忙しいミスティアと、座り込んで解体用の鉈を研いでいるルーミアを交互に見つめた。
「やっぱり、マズいんじゃないかな」
ルーミアが顔を上げる。「何が?」
「あれって里の人間でしょう。バレたらどうするの」
「追い出されたらしいよ。それなら問題ないでしょ」
「だからって、まさか本当に実行するなんて……」
ルーミアは犬歯を剥き出して笑ってみせた。
「リグルは食べたくないの? 自分達で育てた、新鮮な肉」
「それは、まあ」
「決まりだね」
「ミスティアの了解は?」
「まだ。でも何日も生かしてるってことは、そういうことなんじゃない? 私達でサポートすれば、腕の一本くらいは頂けると思うよ」
青いシートにずらりと並べられた刃物は、ルーミアの大切な仕事道具だった。手入れが行き届いていて、毎日のように使っているのに錆(さび)の付着はない。太陽は雲に隠れているが、刃の放つ輝きは凶悪だった。
残暑の欠片も香らないほどに気温は低く、木々は葉を散らし始めている。森では獣や蟲、そして妖怪が方々で骸をさらす。里では今日も炊事の煙が上がっていない。世界全体が衰退期に入っているかのように、鳥の唄も止んでいた。
空から視線を離して、腰に手を当てる。
「餌はどうするの、ルーミア。人間の食べ物なんて、もう何処にも残ってないと思うんだけど」
「あるじゃない」彼女は淡々と答えた。「栄養満点の逸品が」
「肉骨粉」という飼料の存在は、リグルも耳にしたことがある。形を変えた共喰い、――いわゆる“使えない肉”を乾燥させて、粉末状にしてから他の飼料に混ぜ込んだ物だと聞いた。それを家畜に喰わせるのだという。ミスティアが例の缶詰から中身をかき出すところを、男の子は目を見開いて見つめていた。食べやすい大きさに丸めて、炙り焼きにして、“たれ”に浸して、仕上げに紫蘇の葉で巻く。ミスティアは顔をしかめていたが、子供の口は半開きだった。
「これ、何?」
彼が初めて口を開いた。思っていたよりも利発そうな声だ。
「これは、そうね……」
答えに窮するミスティアに、ルーミアが助け船を出す。「豆料理だよ。昔から大豆は“畑の肉”って云うじゃない、あれ」
無理があるだろと思ったが、男の子は納得したようだった。
「食べても好いの?」
「ええ」
「お姉さんは?」
「私達はいいから」
ミスティアの返事に、二人は深く頷いて同意した。
彼は「いただきます」と手を合わせてから、“肉骨粉のような代物”を口に含んだ。いつになったら飲み込むのだろう、と疑ってしまうくらいに好く咀嚼する。手渡された水を飲んでから、ぎこちない笑みを浮かべる。
「ああ、美味しい」
「水が?」
「ううん、大豆が」
リグルは、ミスティアとルーミアの顔を見た。三人の視線が交錯し、同時に伏せられる。彼が実に美味しそうに料理を平らげてゆく様子を、言葉もなく見守っている。
「ありがとう、ごちそうさまでした」
山菜のスープも併せて完食し、彼は深々と頭を下げる。
「もうすぐお客さんも来る頃合いだし、先にこの子を送って行くわ」
ミスティアは男の子の手を引いて森の中に分け入り、やがて姿が見えなくなった。彼は夜雀の腰にぴったりと引っついていた。
「ほら、云ったでしょ」ルーミアが上機嫌に頭のリボンを揺らす。「お腹が空いていたんだもん。美味しいなら、それで好いじゃない」
「だからって、私は妖怪の肉を食べようとは思わないけどね」
「そう? 私はリグルも美味しそうだと思うなぁ」
「勘弁してよ、もう!」
「褒めてるつもりなんだけど」
ルーミアは回収用の袋に使用済みの缶詰を放り込んだ。
「そう云えば、あの子の名前、聞いてなかったなぁ」
「――名前は知らない方が好いと思うよ、ルーミア」
「どうして?」
「だって、最終的には食べるんでしょ。だったら、名前で呼んだらいけないんだよ」
#08
月の見えない夜は気が塞ぐのか、屋台の客足は疎らだった。あるいは素材の質の低下が見抜かれているのか。ミスティアは溜め息をこらえて店を閉め、リグルやルーミアと別れた。
「落ち込まないで、ミスティア」リグルが慰めるように云った。「みんな、缶詰を持ってないんだよ。全部食べてしまうから、ミスティアに支払う分が足りなくなってるんだと思う」
「私みたいに材料を持ち込めば好いのに」とルーミア。「ミスティアの料理はいつも通り、美味しいよ。それはこの私が保証する」
二人にお礼を云って、住居である穴ぐらに帰ってきた。男の子は麻布にくるまり、捨てられた子猫のように震えていた。石油ランプに火を灯して、彼の顔を見つめる。橙色に照らされた頬には、底の見えない淵に立たされているかのような不安が閉じ込められている。
「お、お帰りなさい」
「ただいま。どうしたの?」
「すっごいうなり声が聞こえた。すぐそこまで来てた」
「妖怪のなり損ないね」冷め切った焙じ茶を湯呑みに注ぎながら、簡潔に答える。「こういう時期になると増えるの。腐肉ばかり漁ってるせいで、変化が半端になる。あんなのに成り果てるくらいなら、退治された方がまだマシ」
「襲ってきたらどうすれば好い?」
「自分より強い奴の縄張りは、臭いですぐに分かる。入ってこれないわよ。何度も云うけど、絶対に外へ出ないようにね」
彼は素直に頷いた。ミスティアは小さなキャビネットに並んだカセット・テープから一本を抜き取り、電池駆動式のラジオ・カセット・レコーダーにセットした。擦り切れるようなノイズの後、イントロのピアノが流れ出した。
「それって、蓄音機?」男の子が布から這い出てきた。「貸本屋さんで見たことある。すぐに追い出されたけど」
「似たようなものよ」
「里で買ったの?」
「まさか」笑い声が漏れた。「河童の市で買ったのよ。店の売り上げを使って、こつこつと集めてきたの」
「聴いたことのない歌、不思議」
「海の向こうの音楽だもの。題名しか知らない、歌詞の意味も分からない。でも好きな曲なの。毎晩、聴いてる」
サイモン&ガーファンクルの「明日に架ける橋」だった。メロディに合わせて歌っていると、不意に男の子が泣き出した。越流の兆しもなく、まったく突然に決壊したダムのように。歌を中断する。何を思い出したのだろうと疑いながら。
「泣くのは止めて。お願いだから。気が滅入るの」
無理な相談のようだった。ランプの淡い明かりに包まれて、彼は泣き続けていた。
こういう時、人間の親は、と考えを巡らせる。
「……仕方ないわね」
彼を抱き上げて、赤ん坊をあやすように揺らしてやった。それでも嗚咽が止まらなかったので、「明日に架ける橋」のメロディを口ずさみながら、頭をなでてやる。何度か母親を呼ぶ呟きが聞こえた。小鳥のような心臓の鼓動が、遠くから伝わってくる。穴ぐらの外からは、例のなり損ないの唸り声が転がってくる。盛りのついた猫のように放たれていたその叫びが、今夜に限っては、変わり果てた身の上を嘆くような悲痛の訴えに聞こえる。
頭が痛くなってきた。金槌で殴られたみたいに。
「新しい親御さん、早く見つかると好いわね」
男の子は眠りに就いた。すがりつくように細い吐息が昇ってきた。ミスティアは彼の寝顔を見下ろしている。好く考えてみれば、生きている人間の顔を間近に眺めるのは、これが初めてだった。
#09
上白沢慧音は、眉間に寄った皺を隠すかのように額に手を当てた。
「……事の大筋は聞いた」顔を上げないままに云う。「だが、人づての話を鵜呑みにして、間違った判断を下したくない。貴方の口から直接聞きたいんだ」
雑居牢に入れられた女は、格子越しに頷いた。ぼろ布を被って顔を隠し、視線を合わせようとはしない。椅子から立ち上がりたくなるのをこらえて、口吻を抑えながら訊ねる。
「本当に喰ったのか」
「はい」
「貰い受けた嬰児を」
「ええ」
「どのように」
「鍋で煮込んで……」
「――いや、いい。どういった経緯で引き取ったのか聞かせてくれ」
「育てる余裕が無かったんだと思います。食い扶持を減らすために、お金と一緒に渡してくれるんです」
「以前から続けていたのか」
「年に数回ほど。去年の秋頃から増えました。月に三、四人は」
「間引きの請負は禁じられていたはずだ」
「知っていました。でも、内職で細々とやっていくには限界だったんです。まとまったお金が必要でした。夫も亡くなりましたし、縁故の者もいません」
「配られた米はどうした。救荒の蓄えは」
「とうに食べ尽くしてしまいました」
慧音は姿勢を変えた。「……だからと云って、子供を」
「お腹が空いて空いて仕方がなかったんです。私はどうすれば好かったんでしょう。自殺しろとでも? 妖怪に喰われろと?」
最後の“妖怪”の件(くだり)で、女は慧音の眼をまともに見た。落ち窪んだ瞳には、これまで幾度か目にした、奇妙なほどに研ぎ澄まされたぎらつきが宿っている。彼女の視線を受け止めながら、慧音は立ち上がった。
「貴方の云いたいことは分かる。だがこれだけは伝えておきたい。私はこれまでに、人間を喰らったことは一度もない」
ただの一度も。
女は顔を下げ、幾つかの呟きを乾いた地面に落っことした。恨み言のようにも、謝罪のようにも聞こえた。
引き戸を開けて、屋内の様子を確かめた。米櫃には蜘蛛の巣が張っており、床の間に供えられていた花は枯れている。既に大方は片づけられていたが、囲炉裏の傍に転がっていた茶碗の中に、小さな骨が入っていた。しばらく見つめてからその骨を拾い上げると、慧音は合掌してから屋外に出た。自警の衆がひとり、家の前で待っていた。
「処遇はどうされます」挨拶もなく、最初に慧音は訊ねた。「生きるか死ぬか、酌量の余地はあるように思いますが」
「餓えているのは何処も同じですよ」
中指と人差し指の欠けた右手で、彼は里の方々を指す。
「近隣の者が納得しません。追放が妥当でしょう」
「――“追放”?」慧音は繰り返した。「“死ね”と云うようなものではないですか」
「これまでにも人喰いは追放の処分にしてきたのですから、今回だけ例外にするわけにはいかんでしょう。考えてもみて下さい。赤ん坊ですよ。恐らくあの女だけではない。ここで示しをつけておかなければ」
慧音は立ち尽くしていた。反論の言葉は浮かんでこなかった。
彼は呟くように続ける。「……まぁ、妖怪のような所業を犯した輩は、妖怪の巣穴に放り込むのが妥当だとは思いませんか」
慧音は相手を見つめた。二人の眼が合った。背筋に電流を流されたかのように、彼は姿勢を正した。
「――すみません、そのようなつもりで云ったのでは」
「いえ、お気になさらず。仰りたいことは好く分かります」
頭を下げて、彼は云った。「とにかく、私は追放に票を投じるつもりです。他の衆も同じでしょう。慧音さんも、好く考えて結論をお出しください。それでは」
#10
労いの言葉を述べた後、主人はしばらく無言で給仕されたクッキーやスコーンを吟味していた。それから紅茶をひと口だけ啜り、カップを置いてからは、独り沈黙の湖に漕ぎ出してしまった。小鳥が窓から室内に影を投げかけ、遅れて風に乗った囀(さえず)りが転がり込んでくるような、好く晴れた早朝のことだった。
「咲夜」レミリア・スカーレットが云った。「この紅茶、ちゃんと血は入れておいたのか」
「はい、教わりました通り、お料理の際に絞ったものを」
そう、とレミリアは首を振る。「私の舌が肥えたってことか。やっぱり、ただの人間じゃ駄目だな。咲夜には分からんだろうが、死体の血って驚くほど簡単に壊れちゃうんだ。何でそんなデリケートな代物を好んで飲まなくちゃならないのか、悩む奴も昔はいたな」主人は天井を見つめた。「……そういう“異端”は、他の吸血鬼に姿を見られないように、何処か暗い場所に閉じこめられたり、自分から引きこもったりするんだ」
レミリアの思い出話に、咲夜は相槌を打つことしかできない。主人もやがて会話を断ち切り、紅色の爪でこめかみを掻いた。
「そうだ、咲夜。唄は歌えるか」
「申し訳ございません」
「楽器はどうだ。ピアノとか、ヴァイオリンとか」
「申し訳ございません、お嬢様」
「何か面白い話はないかな。お前自身の昔話でも好いし、密かに暖めておいた、とっておきのジョークでも好い」
「…………」
頭を巡らせたが、主人を喜ばせるような話の持ち合わせなど、胸にしまい込んでいるはずがなかった。
「……うん、分かってる。退屈しのぎだよ。話を振ってみただけ」レミリアは微笑みながら云う。「こんな冗談があるんだ。ある吸血鬼が泣きながら友人の吸血鬼に云った。“息子が誤って猫の血を飲んでしまったんだが、大丈夫だろうか”と。友人は答える。“僕も昔飲んだことがあるが、この通りぴんぴんしているよ”――だが、彼は泣き止まない。友人は“どうした、何が問題なんだ”と訊ねる。彼は嘆く。“人間の血よりも、猫の方が美味しいと息子は云うんだ”――すると友人は笑って云った。“息子さんに教えてやれ。犬の血はもっと美味しいぞって”」
咲夜は、笑おうと努力した。例の引きつったような笑みが唇を歪ませるだけだった。レミリアは紅茶をひと息に飲み干すと、もうこちらを顧みることはなかった。
#11
咲夜の願いを聞かされたパチュリー・ノーレッジは、おぞましいほどに古ぼけた書物から顔を上げた。
「レミィの何を知りたいって?」
「何でも好いんです。ご友人のパチュリー様なら、お嬢様のこと、いろいろお聞かせ頂けるのではないかと思いまして」
「そんなこと聞いてどうするの」
顔をうつむけて、エプロンの裾を握る。「レミリア様と、ちゃんとお話ができるようになりたいんです。相槌ばかりでは、退屈なさってしまわれますから」
ライティング・デスクの上で、ラクト・ガールは指を組み合わせる。「つまり、私の友人の、それも自分の主人のプライヴェートな話を聞かせろと、そういうことね」
咲夜は縮みこまった。マッチ箱にでもなりたい心境だった。
「……冗談よ」魔女は微笑んで云う。「本当は、私もレミィの生い立ちは知らないの。興味が無いと云っても好い。それは向こうも同じだと思う。友人だからと云って、契約相手だからと云って、互いのことを根ほり葉ほり知る必要があるとは思わない。人間なら必要かもしれないけれど、私とレミィはそうじゃない。知らなくたって、相手を受け容れることくらいはできるから」
返事らしい返事は舌の上で溶けて散る。どんな時でも親しいひとが側にいるという感覚が、どうしても理解できない。
「ねぇ、咲夜」パチュリーは本を閉じて云った。「無理もないことだとは思うけど、そんなに急いでも仕方がないんじゃないかしら。どれだけ互いの過去を探り合っても、悪魔と人間、そこには絶対的な隔たりがある。レミィと私は、互いにやりたいことをやって、協力する時には協力する。その距離感を保つために生まれたシステムが、つまりは契約なのよ。悪魔との付き合い方のコツね」魔女は勇気づけるように言葉を紡いだ。「……多分、今の貴方には信じられないと思うけど、世の中には悪いものだけじゃなくて、綺麗で透明なものもあるのよ。私としては貴方に、そうした好いものをできるだけ早く見つけて、自信を持ってもらいたいわね。今のままでは、私もレミィも息苦しいから」
そう結んでから、彼女は給仕された紅茶を口に含んだ。そして盛大に噴き出した。紅い液体がデスクから絨毯にかけて飛び散り、前衛的なアートを描いた。
「――咲夜っ」魔女は咳き込みながらこちらを睨む。「どうして私の紅茶にまで血がしこたま入ってるのよ!」
「す、すみません。てっきりパチュリー様もご入り用なのかと」
「……貴方の魔女に対する考え方が大体分かったわ」
唇の端を痙攣させながら、彼女は云った。
「貴方って、けっこう天然なところがあるのね、……咲夜」
#12
亡者のように森をさまよっていたその人間が、他の妖怪や獣に襲われなかったのは奇跡と云えた。ミスティア・ローレライが穴ぐらに戻ってきた時にはもう落ち着いていて、足の潰れた例の男の子と話をしていた。眠りに就ける場所を探していたら、偶然穴ぐらを見つけたのだと云う。魂が抜けてしまったみたいに女の言葉は虚ろで、こちらの姿を見ても恐れもしない。身体は衰弱していて、質の好い食材とはとても云えなかった。ある考えが浮かんだので、夜が明けてから火葬屋の少女の元に連れてゆき、知り合いかどうか確認を取ってみた。
「ええ、知っています」少女は答えた。「ご家族を亡くされて、独りで暮らしていた方です。今までにも何度か仕事を下さいました」
「火葬の?」
「はい、それとご供養も。育てられない赤ちゃんを引き取って、できるだけ苦しまないよう楽にしてあげるんです。ご遺体を手頃な桶に入れて、ここまで運んで来られました」
「で、そいつが何で森をほっつき歩いていたわけ?」
少女は囲炉裏に顔を伏せた。「……多分、露見して追放されたのだと思います。お金を貰ってひとを殺したのですから。あれは口止め料も兼ねているんです。発覚したら最後、全ての責任を押しつけられます」
「解せないわね」ミスティアは腕を組んだ。「育てられないことが分かりきっているのに、どうして子供を産んだりするのよ」
「産みたくないのに身ごもってしまう時もあるんです、人間には」
ミスティアには理解ができなかった。少女はうな垂れたまま微動だにしない。件の女は、部屋の隅で男の子に膝枕をしてやりながら、彼の頭をなでていた。里から爪弾きにされた三人の様子を眺めていると、彼女達が人間なのか妖怪なのか分からなくなりそうだった。
「――ま、これで厄介事は解決しそうね」
「どういうことですか?」
男の子を指差して云う。「だって、こいつの新しい親が見つかったじゃない。好く懐いてるみたいだし、私も子守なんてもう懲り懲りだし、丁度好いと思わない?」
火葬屋の少女は信じられないという顔でこちらを見た。
「……ご冗談でしょう?」
「何よ」
「この二人だけで、里の外で暮らしていけるわけないじゃないですか」
「現に貴方は上手くやってるじゃない」
「私は別です。里の一員として、こうして仕事を頂いていますから」
「果たしてそうかしら」ミスティアは身を乗り出した。「掟なんて知ったこっちゃないって輩が、今も貴方の肉を虎視眈々と狙っているかもしれないのよ。ここは里から離れているしね」
「その時はその時です。死んでも構いませんから」
へぇ、と吐息を弾ませて、囲炉裏を回り込み、彼女の首に爪の先端を喰い込ませた。動脈を流れる血潮の紅が、振動と共に指先に伝わってくる。半開きになった少女の口から、言葉にならない言葉が壊れたオルゴールのように漏れ出している。
「……あまり意気込むんじゃないよ、人間」ミスティアは唸った。「殺ろうと思えば、私達は里の一つや二つくらい、簡単に滅ぼすことができるんだからね。生かされてるってことを少しは弁えなさいよ」
「に、人間が皆殺しにされたら」少女は喘ぎながら答える。「妖怪も共倒れになるんでしょう。それくらい、私だって知ってます。所詮、同じ穴の狢(むじな)ですよ。私も、――ミスティアさんも」
彼女は瞳に涙を浮かべていたが、吐き出された言霊には精一杯の気持ちが込められていた。ミスティアは横っ面を思いきり殴りつけられたような気持ちになった。少女の首から爪を引き、付着した血を舌で舐め取る。
「今日は帰るわ」吐き捨てるように云う。「とにかく、そいつらのこと頼んだからね」
「お姉さん」
男の子が震えた声で呼びかけてきた。ミスティアは彼の訴えを無視して、引き戸を開けて外に出た。
#13
「盗み聞きとは趣味が悪いわね」
「聞きたくもない話を蟲はいつも聞かされるものだよ」
リグル・ナイトバグが木から飛び降りて、目の前に着地した。静まり返った荒ばら屋に眼をやり、続いて曇り空に視線を移してから、溜め息混じりに云う。
「勢い余って殺しちゃったら、取り返しがつかなくなるよ。お願いだから、頭に血が昇っても手だけは出さないで」
「分かってるわよ」
ミスティアは歩きながら答えた。二人は無言で林の中を進み続けた。鳥の鳴き声はなく、白骨となった動物や人間の死骸ばかりが目についた。煮込んで食べたのかどうか知らないが、皮を剥がされた木が至るところで痛々しい姿を晒していた。林を抜けると、そこは里の共同墓地だった。男がひとり、周囲を窺いながら墓をスコップで掘り返しては、埋葬されたばかりの遺体を貪り喰っていた。鴉がおこぼれに預かろうと、数羽ほど墓石に留まっている。腐肉を漁っていた男は、当然の帰結のように胃の中の物を全て吐き戻した。飢餓の状況下で、胃腸系の疾患は致命的だ。その場に倒れた彼の身体は痙攣を始め、二度と起き上がることはなかった。喉からは麺棒で無理やり引き延ばしたかのような奇妙な唸り声が吐き出されていた。
カラスが鳴いて、雲の向こうの陽が陰る。
「……こんなに弱くなるなんて思わなかった」墓石に腰かけてミスティアは云う。「笑っちゃうよね、人間の小娘ひとりさえ満足に襲えないどころか、逆に云い負かされるなんて」
リグルは黙って耳を傾けていた。
「妖怪は殺し合い、人間は共喰い。どっちもどっちよ。こんなのどうかしてるわ。何から何まで間違ってる。楽園だって? ――冗談。終着駅よ、ここは。幻想の掃き溜め、空想のゴミ捨て場よ」
「そういう云い方は無いんじゃないかな」リグルは地面を走るムカデやらダンゴムシやらを眺めていた。「どうせ他に行き場は無いんだから、もっと前向きに考えようよ」
「そうよ、何もかも誘いに乗ったのが間違いの元だった」
「とにかくさ、早くあの男の子を取り返さないと」
ミスティアは、友人の顔を凝視した。「……なんで、意味が分からない」
「ルーミアが哀しむからね」
「どうしてよ」
今度は彼女がこちらの眼を真っ直ぐに見返してきた。
「じゃあ、何? ミスティアは本当に善意であの子を預かったの? 新しい親が見つかるまで、人間の子供を妖怪の貴方が?」
「何も善意って訳じゃないけれど――」どう答えれば好いのか、頭が混乱している。「い、生きている人間に、ちょっと興味があったの。それだけ。ほら、今までは食材としてしか見ていなかったじゃない。人間を知るには丁度好い機会だなって思っただけよ」
片方の眉を上げて、リグルは腹の前で腕を組んだ。ミスティアは、急に目の前の友人に尋問されているような気分に襲われた。
「いけない傾向だと思うよ、それは。しばらく屋台を閉めて、身体を休めた方が好いんじゃない?」
不安定だよ、本当に。
「放っといて」ミスティアは墓石を蹴り倒した。「大きなお世話よ」
「ちょっと駄目だってば、見つかったら――」
リグルの警告を振り払って、事切れた男の遺骸に手をかけた。鴉達の抗議さえも無視する。こんな、このような、食材とも云えない死骸にさえ今は頼らざるを得ない。叫び出したい気持ちを抑えつけ、爪を尖らせ振り降ろす。がりがりと、呪いをかけるかのように皮膚を切り裂いて、ミスティアは獲れたての肉を毟り取った。
#14
遠くからでも、肉を焼いていることは臭いで分かった。鼻を鳴らしてから、上白沢慧音は小屋に近づく。薄暗い竹林では彼女の白髪は好く目立つ。焚き火に照らされて橙色に化粧をしている。
「藤原さん」慧音は声をかけた。「それ、何の肉なんですか」
「猪。食料を探しに山から降りてきたみたい」藤原妹紅は顔を上げずに答えた。「逆にさ、何の肉だと思ったわけ」
「すみません。近頃は、本当に血生臭い出来事が多すぎて」
「食べる?」
「遠慮しておきます。肉は食べたくないんです」
向かいの切り株に腰かける。彼女はちらと顔を上げただけで何も云わず、猪の肉や、雑穀を炊いたもの、筍の味噌漬け等を口に運んでいた。慧音の眼には、里のほとんどの人びとよりも余程豪勢な食事に見えた。
「ご馳走さん」妹紅は合掌し、ようやくこちらを見返した。「で、こんな辺鄙なところまで何の用」
「様子を見に来たんです。藤原さんが餓えていないか気になって」
「じゃあ、心配はご無用だって分かったでしょ。さっさと帰ったらどうかな」竹筒の水を彼女はひと息に飲み干す。「私なんかに会いに来るから、あらぬ疑いをかけられるんだ。こういう時はね、異質な特徴を持つ奴から真っ先に排除されるもんだよ」
「実際に見てきたような口振りですね」
「見てきたんじゃない、個人的な経験から物を云ってる」
「私なら大丈夫です。こういう時だからこそ、人間、互いに助け合っていかなければ」
妹紅は慧音の言葉を笑うでもなく、また呆れるような溜め息をつくでもなく、眼を細めて淡々と話した。「ねえ、半妖さん。人間の本性は暴力的なものだよ。時として、妖怪よりもずっと残酷になる。人間であるべきか、妖怪であるべきか、もし迷っているのなら、悪いことは云わないから里を出ていくべきだね。寝込みを襲われてからでは遅いんだからさ」
反論はしなかった。何をどう云ったところで、この蓬莱人との距離を縮めることはできないと分かっていた。水滴が石に穴を穿つかのように、時間をかけて、少しずつ言葉を届けてゆく他には。
「それで――」妹紅は云う。「その女はどうなったわけ」
慧音は焚き火の跡を見つめながら答えた。「追放されました。罰という名の、体の好い口減らしです」
「合理的だね」
「もう何人目なのか分かりません。信じられないことです。骨と皮ばかりになった人びとを、ろくに立って歩けないような人びとを、妖怪だらけの森に追い立てるんですよ」
「腹が減ってる以上は、そいつらはまた同じことを繰り返すよ。一度でも味を覚えてしまったら、引き返せないんだ。妖怪も餌の方から飛び込んでくるんだから大喜びだろうさ。食べがいは無さそうけど」
深紅の瞳を視界に捉える。「酷いとは思わないのですか?」
「何百回も見てきたもの。群れが生き残るためには、弱い奴から順番に切り捨てていくしかないんだ。時には囮としてわざと生かしておくことだってある。生存のための知恵だよ。酷いかどうかを考えるのは、あまり意味がないと思うな」
追放された女の言葉、自警の衆の言葉、そして往来で擦れ違う人びとの奇妙な視線のことを、慧音は思い返した。以前までは大して気にも留めていなかった視線の意味、それを考えざるを得ない瞬間が、夜になる度に訪れる。
「しかし、それでは……」
言葉は形を成さずに、舌の上で絡まった。話せば話すほどに声が萎んでゆく慧音とは逆に、妹紅は唇を歪めて笑い声を立てていた。
「どうしましたか」
「いやさ、何でそんなに苦しむのかな、と思って」
「これが悩まずにいられますか」
「そんなこだわりを持つほど、人間ってのは立派な存在じゃないってことだよ。さっさと切り捨てて楽になった方が好い。あらゆるものから等しく距離を取ること。そうすれば心と心の摩擦はなくなる。慣れれば楽しいもんだよ、独りで生きるってのもさ」
沼の底から立ち昇ってくる気泡のような笑い声だった。真っ暗に濁っていて、弾ける度に腐臭が飛び散るような。慧音が黙して見つめていると、その笑みは消えてゆき、いつもの無表情に戻った。
#15
筍を求めてさまよい歩いているうちに、竹林の奥深くまで踏み入ってしまうことがある。気がついた時には、腰に手を当てて仁王立ちになった彼女が目前にいた。夕暮れの迫る迷いの竹林には斜陽の光が届かない。自分と同じ紅い瞳が、薄闇のなかで人魂のように浮かんで見える。
「久しぶり。何か用、邪魔なんだけど」
「好く云うわ。この疫病神」今泉影狼が吠えた。「この前、散々うちの近くでドンパチやらかしやがったくせに。危うく尻尾に火が点くところだったのよ」
「あれは向こうが勝手に仕掛けてきたんだ」
「嘘をつきなさい。嬉々として迎え撃ってたじゃないの。子供みたいに眼を輝かせて殺し合い、正気じゃないわよ」
妹紅は籠を地面に置いて、両手を挙げてみせた。「――分かった。迷惑をかけたのは謝る。今度からは場所を変えるよ。これで好い?」
「聞き分けが好いのね」
「腹が減っては戦ができないから。あまり体力を使いたくないんだ」
「そう、そうなの」影狼はドレスの生地をつまんで、こちらをじっと見つめてきた。「……見たところ、今日は不作みたいね」
「仰る通り、ご覧の通り」
「穴場を知ってるのよ。まさに雨後の筍、ぽこじゃか生えてたわよ」
「ほう」
「場所を教えてあげる代わりにさ、ちょびっとだけ、お肉を分けてくれないかしら。交換条件よ、悪くないでしょ」
「どさくさに紛れて私を食べるつもり?」
彼女の耳が兎のように跳ねた。「少しは信用してくれても好いじゃない。お腹が空いてるのよぅ。私、狩りが下手だから」
「成程。狩猟の代わりに話術で釣る作戦に出たってことか」
影狼が涙目になったので、妹紅は仕方なく了承した。
「分かった分かった。手頃なのがあるからさ、好かったら食べていきな」
#16
妹紅の荒ばら屋に電灯はない。囲炉裏の炎だけが唯一の照明だ。狼女の色白の肌に、波のように満ち引きを繰り返す熾きの明かりが投げかけられている。行儀好く正座して料理を待つ佇まいは、意外と様になっていた。蟲の奏でる調べさえもが遠い、静まり返った夜だった。部屋に鍋を持ち込むと、ドレスからはみ出た彼女の尻尾が揺らめくのが見えた。せわしく耳を動かしては、喉仏を上下させる。
「……分かりやすいんだね」
影狼は居住まいを正した。「ずっと何も食べてないのよ。どう、ちゃんと大人しく待ってたでしょ?」
「そうだね、余計に気味が悪くなった」
「泣いちゃうわよ」
「どうぞご勝手に」
肉や筍を塩と味噌で味付けし、柔らかく煮込んだ代物だ。妹紅は自分の食べる分を粟や稗のお粥に炊き上げて、別の小鍋に取っていた。涎を垂らした影狼が、妹紅の手にした小鍋をじっと見つめる。
「貴方はお肉、食べないの?」
「そうそう贅沢できないよ。私のことは気にしないで」
「じゃあ、遠慮なく頂くわね」
ご丁寧に手を合わせてから、影狼は木のスプーンを不器用に動かして汁をすくう。
「出汁が染みて美味しい。筍って凄いのね」
妹紅は答えずに、影狼の様子を観察していた。
「これがお肉ね。柔らかそう」
珍しく打ち解けた笑顔を見せて、彼女は肉を口に放り込んだ。咀嚼するうちに動き回っていた耳は落ち着きを見せ、微笑みは引っ込み、尻尾は干からびたミミズの死骸みたいに板敷に横たわった。茶碗とスプーンがスロー・モーションで床に下ろされ、何かしら言葉を紡ごうとした唇が、芋虫のように蠢いた。
「うん、……うん」妹紅は何度か頷いた。「やっぱり気づくよね。流石は妖怪だ」
熱病にうなされているかのように震え出した影狼を余所に、妹紅はお粥を食べ始めた。飲み込んでから、顔を上げて付け加える。「断っておくけどさ、それは里の人間じゃないから安心して。私のだから。もし不味かったらごめんね。あまり好いもんは喰ってないんだ」
影狼がうつむいた。
「どうして」
「だって、肉が欲しかったんでしょう」
「何もこんなのを欲しいって云ったんじゃない」
「妖怪じゃないか。猪の肉なんて出してもしょうがない」
彼女の瞳が潤んだように見えた。「これは頂けないわ」
「せっかく痛い思いを我慢したのに」
影狼は立ち上がって云う。「それじゃあ貴方は、親しいひとの大切な身体を喜んで食べられるってわけ? ――狂ってるわ、そんなの」
妹紅の箸の動きが止まった。茶碗を下げて、中身を見下ろす。
「ああ、……確かにね。その発想は無かった」
「不老不死だからって、自分の命を粗末にして好いってことにはならないわよ。ねえ、――そうでしょう、ねえ?」
答えを返すことはできなかった。影狼は肩を震わせながら、それでも毅然と睨みつけると、背中を向けて出ていこうとした。乾いた呟きに、彼女の足が止まった。
「分からないんだ」妹紅は云った。「こんな形でしかさ、私は他のひとの役に立てないんだ。与えられるものなんて何もない。ねぇ、誰かと心を通わせるってどうすれば好かったんだっけ。忘れてしまったんだよ、何もかも。気遣いも、思いやりも、真心も」
ごめん、と付け加えて、その後は貼りついたように唇が動かなくなった。影狼が振り向いて、永い間、妹紅の横顔を見つめていた。視線を頬に感じていた。無言で向かいに座り直した彼女は、再び茶碗を手に取った。妹紅は顔を上げずに、咀嚼の音を聞いている。
「ご馳走様。お代わりは、あるかしら」
目の前に茶碗が差し出された。肉だけを残して、綺麗に完食されていた。妹紅はようやく顔を上げた。
眼をそらしながらも、影狼は云う。「今度は、貴方と同じものを食べさせて。私は好きよ、人間の食べ物も」
茶碗を受け取る。指が触れ合う。微かな温もりが伝わる。
「うん、沢山あるよ。ゆっくり食べて」肩の力を抜いて、彼女のはにかんだ笑みを見つめ返す。「こんな時には、お酒があると好いんだけどね。久しぶりに飲みたくなってきたよ。久しぶりに、ね」
#17
その日も主人は、ディナーにほとんど手をつけずに食事を終えた。今にも溜め息をつきそうな、物憂げな表情を浮かべた主人に出くわす度に、十六夜咲夜はその日の仕事の出来映えを反芻しては、曖昧な頷きで結ぶことを繰り返していた。レミリア・スカーレットはバルコニーで月明かりを浴びながら、カベルネ・フランが注がれたグラスを傾けている。氷水に浸かったワイン・ボトルが、容器の縁に寂しく立てかけられている。ディナーの口直しでもするかのように、主人は何杯もグラスを空ける。
「そう云えば、咲夜」夜景に顔を向けたまま、レミリアが云った。「今朝は何があったんだ。随分騒がしかったな」
「ご安心下さい、お嬢様。美鈴さんが追い返しました」
茶化すように悪魔は笑う。「お前を給仕長にしたのは私なんだから、美鈴のことも呼び捨てで好いんだぞ」
「そんな」思わず背筋が伸びていた。「畏れ多いです。ここまで育てて頂いたのですから」
「育てる。育てるね……」
ナイト・キャップを膝に乗せて、レミリアは椅子の背もたれに身体を沈めた。空色の髪が月の雫のように輝いている。
「覚えているか、咲夜? この前、パチェに私のことを訊ねていただろう。“何でも好いからお嬢様のことを教えて欲しい”って」
咲夜は返事ができなかった。唇が半開きになり、エプロンの前で重ねた手に瞬間的に力が篭もった。首を絞められたように喉が塞がり、嗚咽のような呻き声が口から零れ出る。
レミリアは姿勢を変えない。「紅魔館のシャンデリアは私の眼、紅い煉瓦は私の耳なんだよ、咲夜。私がこれまで歩んできた道に、お前は底の尖ったブーツで新しい足跡をつけようとしたのか?」
金縛りが解けて、ようやく咲夜はその場に膝を突くことができた。頭を下げて、必死に言葉を並べ立てた。主人が立ち上がって歩み寄り、髪に幼い手を置いてくれるまで。
「……冗談だよ。同じ手に引っかかったな」柔らかな声が瞼を滑り降りた。「何だろうね。お前のそういう姿を見ていると、くすぐったいというか、いじらしい気持ちになってくるよ。人間の親が子に対して抱く気持ちってこんな感じなのかな。どうなんだ、――どうなの、咲夜?」
「お嬢様、ごめんなさい。覚えてないんです。思い出せないんです」
「知ってるよ。知らないことなんてないよ。みんな似たようなものだよ。似た者同士で、この館でひっそりと暮らしているんだから」
両手を握りしめられた。翼を広げて主人が浮き上がり、自分を連れて今にも夜空に飛び出していきそうに見えた。咲夜は爪先立ちになって、主人の小さな手にしがみついた。
「そう、この館でね。――パチェから話は聞いた?」
「いいえ、何も」
「近いうちに、ここを引き払おうと思っているんだ。準備はパチェが整えてくれている。行き先は訊いてくれるなよ。私だってどんな場所なのか、まだ詳しくは知らないんだ」
咲夜は云った。「お供いたします」
「うん、そう云ってくれると思った。でも好いのか。この世界には二度と戻って来れないかもしれない。直前になって未練を抱いてもらっては困るからね。お前だけ中途半端な抜け方をされたら、本当に悲惨なことになるんだ、私達全員が」
「大丈夫です。もう諦めています。未練など――」
牙を見せつけて彼女は微笑んだ。「悪魔は契約の際にはね、かならず証拠を必要とするものだよ。お前がそれを差し出してくれたら、話はぐっと早くなる。でも、――うん、今回は好い。咲夜を信じるよ。それくらいの譲歩はしてみせるさ」
主人の手は離れていった。地面に降り立った吸血鬼は、何度か頷いてみせてから、席に座り直して赤ワインを飲み始めた。次の一杯を催促されるその時まで、咲夜は胸の前で手を重ね合わせている。痛いくらいに力を込めて、瞬(まばた)きさえも挟まずに、彼女が与えてくれた暖かみを逃がさないようにと。
#18
餓えによる衰弱か、元々病弱な身体だったのか、里を追い出されたショックのためなのか。女は火葬屋の少女の荒ばら屋で寝たきりになっていた。ミスティア・ローレライは少女の懇願に応じて、看病を手伝い、食べられそうな木の実を見つけてきてやった。人間が死に向かって一直線に駆け降りてゆく様を間近で眺めるのは初めてで、ミスティアは幾分の興味を持って女の経過を見守り続けた。
足の潰れた男の子は、女の傍から離れなかった。まるで本当の母親の枕元に寄り添っているかのように。高蛋白の缶詰を食べ続けたおかげなのか、出会った頃に比べて見違えるくらい健康になっていた。一方の女は、缶詰の中身をひと口食べただけで吐き出してしまった。仕方ないので、リグルやルーミアにも手伝ってもらって、食料を探し続けた。ただ延命のために。
「どうしてあんなに脆いんだろうね、いつも思うけど」
ルーミアの言葉に、ミスティアは云い返す。「私達だって脆いわよ。脆いからこそ、ここで生きてるんだから」
女が血を吐いた日、ミスティアらは揃って荒ばら屋の前で待機していた。ルーミアは退屈そうに曇り空を見上げ、リグルは無表情で蟻の行列を見守り、ミスティアは落ち着けずに身体を動かしていた。
「ミスティアさん」少女が顔を出す。「呼ばれてますよ」
頭陀袋の上に横たわって、女は土気色の顔を天井に向けていた。男の子の隣に腰を落ち着けて、彼女の遺言を待つ。女は感謝の言葉を述べ続けた。拾ってくれたこと、看病してくれたこと、獣や妖怪から守ってくれたこと。
「私だって妖怪よ。妖怪なのよ」
虚ろな瞳が動くことはなかった。聞こえていない。
彼女は男の子の方に首を傾ける。握りしめ合った手に、力がこもったように見えた。血の一滴を言葉に精製するかのように、女は苦しげに云う。「ありがとうございます。最期に人間に戻ることができて好かった。最期に人間らしく往くことができて、……この子のこと、どうか宜しくお願い申し上げます」
やがて女は意識を失った。男の子は戸惑うように、訴えかけるかのようにこちらを見上げてきた。
「止めてよ」ミスティアは立ち上がって云う。「そんな眼で見られても、困るわよ。何が“宜しく”なんだか、筋違いよ」
男の子の手を振り払って、息苦しい屋内から離脱した。
家の壁にもたれかかった。リグルとルーミアは視線を向けるだけで、何も訊ねてはこなかった。家の中から男の子の咽(むせ)ぶような泣き声が聞こえて、それが辺りを包む音響の全てだった。
「蟲の知らせ」リグルが呟く。「お経を唱えないとね」
「死体はどうするの」とルーミア。「あまり美味しそうじゃないけど」
「止めなさいよ、食べることばかり考えて」
ミスティアは顔を上げずに云った。髪に突き刺さる二人の視線が痛いほどに感じられる。
「……どうしたの、ミスティア。いつものことじゃない」
「違うわよ。いつもと、全然違うわ」
「分からないなぁ」
「何でこんなことしてるんだろうね、私達」リグルが指で触角を弄りながら云う。「とにかく、ここは人間の流儀に従うとしようよ。ちょうどその道の熟練者もいることだしね」
ミスティアは頷いた。ルーミアも遅れて同意した。
#19
大事な燃料を多量に消費して、貴重な蛋白源を骨だけ残して焼いてしまう。無駄の極みだと常々感じていたが、ミスティア達は今日、野辺の煙が空に溶けるのを最初から最後まで見守っていた。彼女の人生とは何だったのだろう、と考えかけては、首を振ることを繰り返した。人間らしく往ける、女の言葉が浮かんでは沈んでゆく。
人間らしくなければ、駄目なのか。
生きているだけでは、いけないのか。
私達は……。
考えが続かなかったので、また首を振って想いを打ち消す。頭が痛かった、金具で締めつけられているみたいに。
骨壺を抱えて泣きじゃくる男の子を、リグルとルーミアが宥める。リグルは歩けない彼の身体を抱いてやり、ルーミアは頭をなでてやっていた。二度も親を亡くした少年は、何処にも行き場が無さそうに弱々しく見えた。
「私達で送っていくよ」リグルは彼の背中をさすりながら云う。「ミスティアも早めに帰った方が好いよ。雨が降らないうちにさ」
「ええ」
「近づきすぎちゃったんだよ、私達」ルーミアの口調は慰めるかのようだった。「また明日になったら、いつものミスティアに戻れるよ。好く分かんないけど、ミスティアには元気になってもらいたいな、私は」
声が詰まって伝えることができなかった。哀しいわけじゃないと。それは絶対に違うと。何を云えば好いのか分からないこの気持ちが、ただもどかしいのだ、と。
リグル達が森の中に姿を消してからしばらくして、火葬屋の少女が炉の灰を掻き出し終えた。
「……里のお墓には、納められないでしょうね。厭がられます」
「死んだらどいつもこいつも同じよ。骨と灰だけ」
彼女は首を振る。「生きているひとが厭がるんです。家族や先祖の眠っている場所に、そんな奴の骨を入れるなって」
「意味が」ミスティアは地面を蹴った。「意味が分からない」
「前も云いましたが、同じような生活をしてはいけないんです。私も、あの子も、――彼女も」
少女は併設された納屋へと器具を片づけてから、ミスティアと同じように家の壁に寄りかかる。横目で彼女を見据えた。無表情だった。
「久しぶりに、お母さんのことを思い出しました」
「亡くなったの?」
「ええ。それで、焼きました。私が初めて焼いたのは、両親だったんです。でも、失敗しちゃいました。やり方は教わっていたはずなんですけどね。雲にしがみついたみたいな格好で、二人とも真っ黒になってしまって」
「ウェルダンね」
「それから、二度と失敗しないって心に誓ったんです。次からは成功してみせるって。いつの日か、完璧なひとになりたいと思いました」
「上手に焼けたとして、何が変わるの」
「完璧なひとになれば、里の皆さんは私を受け容れてくれるって思ったんです。お役に立てれば、私だってもっと人間らしく暮らせて――」少女は息を継いだ。「――……もちろん、そんなのは、ただの夢でした」
「人間らしい。人間らしく」ミスティアは少女を見据えた。「そんなに縋(すが)りつかなければならないほど、人間ってのは素晴らしい存在なの? 貴方だってあの有様は知ってるでしょう? 互いに奪い合って、殺し合って、挙げ句の果てには共喰いまで始める――」
自分が云い放った言葉の全てが、自分の心臓に向かって打ち込まれているように感じた。妖怪らしい暮らしを営むということ。妖怪らしく生きてゆくということ……。
「だって」彼女は嗚咽混じりに云う。「寂しくはならないんですか、ミスティアさんは。独りの夜、独りの季節、独りの時間が」
少女はその場にしゃがみ込んだ。両肩に鉄の塊でも降ってきたみたいに突然に、脚から力が抜け落ちていた。憤りたい気持ちをこらえて、衝動の全てを吐息に変えて投げ出し、ミスティアは壁から身体を離した。
「寂しいって気持ちも好く分かんないのよ」ミスティアは云った。「誤解しないでね。感情というものが無いわけじゃないの。妖怪だって笑うし、怒りもする。ただね、誰かのために涙を流すって感覚が、どうしても理解できないのよ」不意に虚脱感に襲われて、足を踏み替える。「だから、貴方はその涙を大切にしなければならないと思う。その涙がある限りは、何処で暮らしていようと、貴方はまだ人間なんだって私は思ってるから」
#20
穴ぐらに男の子は戻っていなかった。いつもの空き地で遊ばせているのだろうか。夕刻が近づいており、そろそろ屋台の準備に取り掛からなければならない。手を動かすのも億劫で、頭痛が続いている。今夜は休もうと心に決めて、住み処から外に出た。空き地ではいつも通り、リグルとルーミアが待っていてくれた。蟲を操る妖怪は指定席の切り株に腰かけて、友人の作業を見守っている。闇を操る妖怪はビニール・シートに座り込み、自慢の道具を器用な手つきで動かしている。
ミスティアは腰に手を当てて、深々と溜め息をついた。
「二人とも」歩きながら呼びかける。「悪いけどさ、料理したい気分じゃないの。仕込みと片づけだけ済ませて、今日は店を閉めるから――……」
ルーミアの肩越しにシートの上を覗き込んだ。異物が挟まった歯車みたいに舌の回転が停止し、腰に当てていた手がだらりと垂れ下がった。眼をつむってからもう一度開き、左右を見回してから、再び芸術的なまでに整然と並べられた代物を見下ろした。
ルーミアが振り向かずに云う。「そろそろ頃合いだと思って」
「……何の」舌がもつれる。「何の頃合いだって?」
「もちろん“食べ頃”ってこと。これ以上は固くなっちゃうからね。本当はもう少し太らせるんだろうけど、ミスティアも何だか辛そうだったし、これ以上負担をかけるのも悪いと思って。だから、今すぐやるのが好いんだよ」
リグルは黙って作業を見守っていた。ミスティアは本当に善意であの子を預かったの、――彼女の言葉を思い返して、そして、これまで献身的に世話を手伝っていた姿を思い出して、ようやくミスティアは、二人が始めからそのつもりであったことを知った。
素材さえ揃ってしまえば、後は調理人の腕次第だ。
「骨は、後で私が火葬屋さんまで届けに行くよ」リグルが云う。「せめてもの感謝の印にね。きちんと焼いてもらって、何処かに埋めれば好い。彼女に伝えておくよ。ご提供ありがとうございます。美味しく頂きましたって」
首から上は見当たらなかった。何処かに隠されたのだろうか。個人を特定する要素を取り除いてしまえば、そこには食材しか残らない。硬直を終えていてもなお、肉の柔らかさは逸品だった。それは同時に、彼が最期まで消すまいとしていた温もりの名残でもあった。毎日のように繰り返してきたことだから、包丁を操る手は機械のように自動的に動いてくれる。ミスティアにはそれが有り難かった。ただ、心臓を捌く直前の一瞬だけ、手が止まった。いつかの夜に、カセット・テープで音楽を聴きながら抱いていた時分に、小鳥のような鼓動を伝えてきた臓器だった。
これは素材であり、食材なのだと自分に云い聞かせる必要さえなかった。全ては日常の延長線として処理され、肉塊は次々と元の形を失い、魔法のように料理に化けてゆく。味見をせずとも、香りだけでその違いは明白だ。ミスティア・ローレライは表情を消したままに、丁寧に調理を進めながら、手応えにも似た感覚を胸の中で転がしていた。
その夜は盛況だった。誰もが持ち合わせに余裕はないはずなのに、いつもより代金を弾んでくれた。ルーミアは有り金を叩(はた)いてお代わりまでしてくれた。そこには長らく失われていた笑顔があり、感謝の言葉があり、家族のような団欒の光景があった。極上の料理と雀酒を振る舞われた客達は、その時、確かに妖怪に戻っていた。
食材はひと晩で食べ尽くされた。後には骨と皮しか残らなかった。
#21
「ミスティア、起きてる?」
カセット・テープの再生を止めて、ミスティアは耳を澄ませた。リグル・ナイトバグが穴ぐらの入り口に立って、こちらの様子をじっと窺っていた。
「何も出せないわよ。在庫も空っぽ」
「違う違う。顔色が悪そうだけど、大丈夫なの?」
「ええ。売り上げの最高記録よ。こんなに嬉しいことはないわ」
沈黙が立ちこめた。背に差し込んだ月明かりが逆光となり、彼女の姿は好く見えなかった。月が出ているということは、空が晴れているということだ。ミスティアは半身を起こした。
「……どうして何も云ってくれなかったの」訊ねる声は掠れていた。「ううん、違う。どうしてルーミアを止めなかったの」
「あの子は里から見棄てられたんだよ。なら、後をどうするかは私達の自由じゃないか。決まりに従ったんだよ、ルーミアは」
「“私が”あの子の世話を引き受けたのよ」
「“もうこいつらと関わりたくない”って、放棄したのはミスティアじゃないのさ。あのまま放っておいて、森で野垂れ死んで、他の妖怪や獣に貪り喰われる方が好いって云うなら――」
「もう好い」
キャビネットに拳を叩きつける。
「もう、聞きたくない」
「――……そうだね、ごめん」
リグルが中に入ってきた。散らばったテープを踏みつけないように気を払いながら、隣に腰を下ろす。
「あれはさ」彼女は感情を抑えた声で云う。「あれは、ルーミアなりの優しさだったんじゃないかって思うんだ。これ以上、ミスティアがあの子に情を移さないようにしてくれたんだと思う。あの子の肉が固くなってしまうのが問題なんじゃない、ミスティアの心が固くなってしまうのを、ルーミアは心配したんだよ。だから、いちばん辛いことを済ませてくれたんだ。友達として、妖怪として」
それともさ、本当にあのままずっと、代わりの親が見つかるまで育てるつもりだったの? それこそ、ミスティアが壊れちゃうよ。私も、ルーミアも、貴方のそんな姿は見たくない。
「あとね、もう一つ。あの子は苦しまなかったよ。まったくね。一瞬だったから。ルーミアが綺麗にやってくれた。痛みを感じる暇も無かったんじゃないかな」
「“人道的だった”って、そう云いたいの?」
「“人間の流儀に従った”んだよ、ミスティア。元々人間の真似事で始めたことだから、仕上げもきちんとやり遂げなくちゃ」
二人は並んで宵闇に溶け込んだ。満月が顔を覗かせたのは何ヶ月ぶりのことなのだろう。眼に痛いくらい輝きを続ける星々が、晩秋の夜空に散りばめられている。いつになく見通しが好く、空気の澄んだ夜だった。不安になってしまうくらいに。
「これからどうなるのかしら。妖怪も、人間も」
ミスティアは空を見上げながら云った。
「これ以上、悪いことにはならないと思うよ」リグルが励ますように答える。「いつの日か、ちょっぴり形が変わってしまうかもしれないけれど、昔のような私達に戻れるよ、きっと」
「いつから歪んでしまったのかしらね、私達。いつから道を踏み外してしまったんだろ」
「関わり合いにならざるを得ないよ。妖怪も、人間も。住み分けさえできていれば好いってわけじゃない。私達はその手順を、少しばかり間違えちゃったんだ、それだけだよ。だから皆が皆、苦しい想いをしてる」
流れ星が墜ちていった。あまりに一瞬のきらめきだった。
「でも、いつかはそれも終わる。新しい毎日が始まるよ。こんな馬鹿げた状態がずっと続くはずないもの。私はそれを希望に生きてる。ルーミアもそう。考えてるほど悪いことにはならないよ」
ミスティアは静かに首を振った。リグルと別れてからも、夜空を眺め続けていた。傍らに古いラジカセを置いて、繰り返し、サイモン&ガーファンクルの「明日に架ける橋」を口ずさんでいた。東の方の空より、太陽が昇るその時まで。
#22
陽射しは平等に差し込む。人間の住まう集落にも、妖怪の巣くう山野にも。上白沢慧音は、空の青さを噛みしめている人びとが散らばる往来を抜けて、里の外れに向かった。小さな箱を携えて。呪符の貼られた木々を目印に、まるで命綱を辿るようにして、林の奥を進んでいった。
無造作に切り拓かれた一角に佇んだ小屋。呼びかけたが返事はなく、格子から覗いた屋内は無人だった。火葬場に回ってみると、目的の人物が炉の前でしゃがみ込んでいた。藺草の筵(むしろ)に並べられた小さな骨を見つめながら。
声を掛けると、彼女の肩が跳ねた。
「――すまない、驚かせてしまった」
少女は慌てて立ち上がって、深々と頭を下げた。その拍子に、口の中から骨の欠片が零れ落ちた。彼女の顔が青ざめて、言葉を紡ごうと唇が震えた。
慧音は白い欠片を拾い上げた。「失礼だが、何方の御骨なんだ」
火葬屋の少女は呟いた。「弟のです」
「君に家族はいないと聞いていたが」
「でも、弟のような存在でした。この子は私と同じでした」
「焼いていないのか。まだ新しいようだが」
「喰われました、……妖怪に」
もう一度、骨を見下ろす。妖怪が喰い漁ったにしては、驚くほどに綺麗な遺骨だった。頭蓋骨が見当たらないことを別にすれば。
「家族に、なれそうな気がしたんです。私がもっとお金とか、食べ物に恵まれていれば」彼女は骨に触れながら云う。「人間として生きるってこういうことなんだなって、この子の笑顔を見ると思い出せたんです。忘れたままの方が好かったんじゃないかって、今は思いますけれど」
慧音は何度か、噛みしめるように頷いた。それから小箱を差し出して云った。
「この骨も焼いてもらえないだろうか。本当に僅かばかりだが」
「はい、何方でしょう」
「産まれて間もない赤ん坊だ。この子も餓えから食べられてしまった」
「また、妖怪ですか」
「人間に喰われたんだよ。きちんと焼いて、埋めてやりたい」
少女は目尻を拭って頷く。
#23
煙が青空に吸い込まれてゆく様子を見送りながら、慧音は火葬屋の少女といくつか話をする。里の近況のこと。散発的に起きる、妖怪による捨て身の襲撃のこと。各地で起こった殺人や食人のこと。
「あの子達を棄ててしまったひとのことを、あるいは食べてしまったひとのことを、私は一方的に責めることができないんだ」慧音は火葬屋の少女に語った。「私も半分は妖怪だからね。今なら距離を置いて考えることができるよ。これは、手を差し伸べてあげられなかった私達全員の責任なのかもしれない。ひとりに全てを押しつけて、全員が平等に背負うべき責任を蔑ろにしてしまった」
慧音は腰を屈めて、少女と目線の高さを合わせる。
「それは君に対しても同じだ。辛い仕事をずっと君のような女の子に任せてしまっていた。人間という人間を、君は心の底から信じられなくなっているかもしれない。私も、知り合いにこう云われたよ。人間というのはそんなに立派な存在じゃないって」息を継いで、青空を見上げる。「でもね、それでも私は信じているんだよ。……昔、君くらいの年の、本当に惨(むご)い方法で命を奪われた女の子が、日記に書いていたんだ。“なぜならいまでも信じているからです――たとえいやなことばかりでも、人間の本性はやっぱり善なのだということを”とね」
少女は答えなかった。顔を下げて、視線を逸らしていた。
「君は人間として生きたいと云ったね。だが、大勢の人間と一緒に暮らしていれば、それだけで人間らしいと云えるのだろうか。私はそれは違うと思ってる。人間らしくありたいと願えば、誰でも他の人間以上に人間らしくなれるものだよ。君はもう充分に立派な人間なんだ」
生き続けるんだよ、と慧音は云う。
「“夢はきっと叶う”と私が云っても、君は信じないかもしれない。でも、私達はたとえ可能性が低くても、――そう、世の中の大抵のことはそうなのだけど、可能性が僅かなりともあれば、それに対してやれるだけのことをやるしか道を開く方法はないんだよ。人事を尽くして天命を待つ、それ以外に私達人間ができることはないんだ。残酷なことだが」
少女の瞳は不安そうに揺れ動いていた。慧音は姿勢を戻して、彼女の肩に両手を置いた。「なら、こうしよう。私も、君が強くなる手伝いをするよ。読み書きはできるか? 算盤の計算は?」
「いえ……」
「うん、じゃあそこから始めようか。週に一度、かならずここに来るよ。こう見えて、ひとに物を教えるのは得意なんだ。歴史にも詳しいぞ。知識は後になればなるほど役に立つ。先立つ物を、大人になるまでに養っておいた方が好い」
少女は微かに頷いた。陽の光を浴びてきらきらと輝いている潤んだ瞳を、こちらへ真っ直ぐに向けて答えた。
「よろしく、お願いします。先生」
「こちらこそ」
「私、花を売るお仕事がしたかったんです。彼岸花だけじゃなくて、沢山の、色とりどりの花を育てるお仕事を。命を見送るのではなくて、命を見守るような、そんなお仕事に就きたいんです」
「ああ、任せてくれ」
野辺送りの後始末を手伝いながら、慧音は、彼女の唇から零れ出た“先生”という言葉に、胸が騒ぐのを感じていた。先生、先生、そう、先生も好いかもしれない。里の守護だけでも、まだまだ忙しない日々が続くだろう。時間はかかる。でも、……そう、いつかきっと。――いつか、きっと……。
#24
「前から云おうと思ってたんだけどね、レミィ」パチュリー・ノーレッジは本から眼を上げた。「あの子は子供なのよ、ご覧の通り。しかも人間、無理を強いればたちまち壊れるわ。分かってるの?」
談話室でコウモリの背を小突きながら、椅子に沈んでいたレミリア・スカーレットは、力が抜けてしまいそうな大欠伸をした。
「何も無理強いしてるわけじゃない。咲夜は私との契約に同意した。不正は無かった。なら、後はその通りに履行してもらうだけだよ」付け加えるように呟く。「……私は悪魔だ。取引相手だ。育て親じゃないんだよ」
「そうやって強情を張って、今まで何度も使い物にならなくしてるじゃない。調理をさせられる美鈴の身にもなりなさいよ」
レミリアは横目で親友を見据えた。
「忠告なんて要らないよ。いつもは傍観してるのに、今回に限って突っかかってくるんだな。本当に気まぐれなのはどっちなんだかね」
パチュリーの眼が見開かれ、血流が急速に変わるのを感じて、一瞬だけ身構えた。友人は吐息に感情を溶かしてから、渋々と語った。「同じ屋根の下で、悪魔と人間が暮らすことの危険性を、レミィは好く分かってない。深い関わりを持ってしまって、身を滅ぼした悪魔は枚挙に暇がないわ。遊び相手じゃないのよ」
レミリアはパチュリーの顔を見つめてから、吹き出した。「なんだよパチェ、心配してるのなら素直にそう云えば好いのに」
友人はそっぽを向く。「――だから、云いたくなかったのよ」
「物語の読み過ぎだよ。意外にロマンチストだったんだな、うちの魔女様は」
「何を」
「ずっと前にも、パチェったら小説を書いていたな。勝手に読ませてもらったけど、あの最後に再会するシーンは流石に無理が――」
痛烈な電撃をまともに喰らって、レミリアは椅子から転げ落ちた。コウモリが悲鳴を上げて飛び去っていった。
「まあ、あれだね」椅子の背をつかんで起き上がる。「契約の好いところは、余計な感情を差し挟まないで相手と関われるところだよ。ドライでいられる。規約に反しない限りは、自由でいられる」あの子は、と静かに語る。「咲夜は、とびっきりのドライだよ。そこらの人間よりもよっぽどね。それこそ人間よりも悪魔に近いくらいにさ。だから、誰からも人間らしく扱われなかったんだ。時間を操る能力なんて、ひとつの要素に過ぎない。あの子は、――好いか、咲夜は居るべくしてこの館に居るんだ」
魔女は片眉を上げて、問いただすようにこちらを見ていた。書物は閉じられていた。
レミリアは説き伏せるでもなく、淡々と言葉を結んだ。「そりゃ、最初のうちは苦労もあるだろうよ。手慣れていたとはいえ、同族を調理するわけだからね。でも、私達は何だかんだで、きっと上手くやっていけると思うんだよ。これまでのお伽話で語られてきた、どの悪魔と人間よりもね」
#25
レミリアが談話室のドアに振り向いたのを合図としたかのように、ノックの音が飛び込んできた。給仕用の台車に紅茶の用意を整えて、十六夜咲夜が入ってきた。ドアの外では紅美鈴が控えて、後輩の様子を見守っていた。
「お嬢様」
「ん、ご苦労」
咲夜が蒸らした紅茶をカップに注ぐ。レミリアは持ち上げて香りを楽しんだ。しばらく間を置いてから、瞳を閉じて、紅い色の飲み物を口に含んだ。喉を鳴らして、ほっと息をつく。
「うん。……うん、上出来だ」レミリアは微笑んだ。「完璧だよ、咲夜。パーフェクトだ。試用期間はお仕舞と云ったところかな」
パチュリーが椅子から立ち上がり、膝に置いていた本が絨毯に滑り落ちた。咲夜に歩み寄り、左腕をつかんで持ち上げる。
「レミィ」彼女は呟く。「何をしたの?」
「話をしただけだよ。命令でもない。力も使ってない。咲夜の意思だ」
同意を求めるように顧みると、咲夜も微笑んで頷いた。出血こそ止まっていたが、手首には生々しい傷跡が走っていた。パチュリーは傷跡と、レミリアが手にしているカップを交互に見つめる。それから視線は銀製のナイフのように鋭くなり、レミリアの顔を切り刻んだ。
「ご安心ください、パチュリー様」咲夜は云う。「ちゃんと“普通の”紅茶もご用意しておりますから」
「…………もう」魔女は脱力し、椅子に崩れ落ちてしまった。「知らないわよ。勝手になさい。私も勝手にやらせてもらうから」
追加の本を中空から呼び出して、テーブルの上に広げ、貪るように読み始める。
「おい、行儀が悪いぞ。約束したじゃないか」
「知るもんですか!」
肩をすくめてみせると、従者は首を傾げて困ったように笑う。両手はエプロンに柔らかく重ねられていて、疲労と緊張の滲んだ表情にも僅かな余裕が芽生えていた。春先にやっと顔を覗かせて、太陽の光を浴びる新芽のように。
「それで、心は決まったのか」
「はい」
「引き返すことはできない。人間の輪には加われない。逆さの十字架を背負って生きてゆくことになるんだ。死ぬまでね」
「好いのです。諦めています」
「それじゃ、長い話は止めにしよう。これからも私のために、美味しい紅茶と食事を用意してくれ」
「はい、お嬢様」
「期待してるよ、咲夜」
彼女はスカートの裾をつまんで、お辞儀をしてみせた。ドアの陰で美鈴が頷いてから、親指を立てて背中を向けるのが見えた。顔を上げた銀髪の少女は、穏やかな笑みを浮かべていた。例の引きつったような歪んだ笑みは山の向こうに去っている。思い出したように手首からひと筋の血が流れ伝い、爪の先から零れ落ちていった。それはレミリアには涙のように見えた。訣別の涙、――もう“普通の人間”には戻れないことを確かめる、かつての自分に別れを告げるための涙のように、レミリアの瞳には映っていた。
#26
迫りつつある春の気配が、山の端から現れようとしている晩冬の夕暮れ。カセット・テープに録音された洋楽が絶えることなく流れ続ける屋台で、ミスティア・ローレライは仕込みの準備を進めている。まな板の上で捌かれているのは八目鰻。癖のある味だが、眼の保養になり、上手く扱えば逸品に化ける。メロディを口ずさみながら、食材の準備を進めてゆく。
リグル・ナイトバグが訪れたのは、もう陽も隠れようとしていた時分だった。天狗の新聞と包みを携えて、彼女は手を振りながら地面に降り立つ。
「ミスティア、久しぶり」
「ええ、本当に久々ね」
「遂に決まったらしいよ」
ミスティアはまな板に包丁を置いた。リグルが差し出した新聞を受け取り、記事の見出しを眼でさらった。
「どう読むの、これ」
「命名決闘法。スペルカード・ルールって名前」
「スペルカード、ねぇ……」
「賢者様と博麗の巫女が考案したんだって。疑似的に妖怪退治がどうとか。後は妖怪同士が喧嘩する際にも使えるようにするらしいよ」
「随分長く話し合ってたみたいだけど、要はごっこ遊びね」
まぁね、とリグルは頷く。「吸血鬼も納得して、一件落着」
ミスティアは、新聞を何度も丹念に読み返した。記事には命名決闘法案の写しが解説付きで掲載されていた。妖怪同士の決闘は小さなこの世界を崩壊させてしまう恐れがある。しかし、決闘のない生活が続けば妖怪の力は失われてしまう、と。
完全な実力主義を否定する、――と。
新聞を返して、深呼吸した。この法案がどのような結果をもたらすのか、ミスティアには想像もつかなかった。今よりも悪くなってしまう可能性だってある。ただ、これから妖怪と人間の新しい関係が始まることだけは確かなようだった。
「あと、これ。ミスティアの分」
リグルから包みを受け取ったミスティアは、もう中身を検めることはしなかった。足元に無造作に置いて、再び包丁を手に取った。まな板に横たわった鰻のひょろりとした胴体が、一瞬、痩せ細った人間の腕のように見えた。
リグルが呟くように云う。「最近、ルーミアに会った?」
「いいえ、異変の間はずっと隠れていたから」
「会いたがってたよ。久しぶりにミスティアの料理が食べたいって」
「鰻ではなくて?」
彼女は頷く。「鰻じゃなくて」
「そう。じゃあ、当分は食べられないって伝えておいて」
「分かった。でも本当を云うとさ、私も……」
リグルは云いかけて、ごまかすように笑ってみせた。
「ああ、私、――次のとこに回らないと。またね」
中空に浮き上がった友人に呼びかける。「リグル。私はね、決してルーミアのことが嫌いになったわけじゃないの」
「もちろん」リグルは微笑みを崩さずに答える。「ルーミアだって同じだよ。今でも友達。ただ、なるべくしてなった、それだけだよ」
日没と同時に風が吹いた。身の凍るような冷たい風。
「血生臭いことが沢山あったけど」ミスティアは云う。「でも、あの頃は、誰もが自分のために純粋に生きるしかなかった。ルーミアもそのひとりだった。妖怪も人間も生き残ることだけが全てだった。私はそういうのを否定したいんじゃない。それだけは違うわ。ただ、私の中にある何かが変わってしまったんだって」うつむいて、言葉を結ぶ。「……そう、ルーミアに伝えておいて」
リグルが去った後、宵闇が忍び寄ってきた。仕込みを終えたミスティアは客を待っている間、屋台の下に隠していた骨を両腕に抱えながら、洋楽のメロディを口ずさみ続けた。それは小さな頭蓋骨だった。古びているけれど、埃は被っていない。唄い続けながら、ミスティアは考えている。これから世界は好くなっていくのだろうか。どれだけの物事が変わり果ててしまうのだろうか。あの子が笑って暮らせるような世界を、私は過ごすことができるのだろうか。妖怪と人間が元のような姿に戻って……。
ミスティアは首を振る。頭蓋骨を元の場所に戻す。全ての考えは詮無いこと。夜風のひと吹きで溶けてしまうような想い。変わってしまった自分を受け容れて、変わらないものだけを胸の奥で暖め続けている。奔流のような時間の川に逆らいながら、遺された命が再びきらめきを取り戻す日が来るまで、じっと息を潜めて。
#27 Eastern Project
氾濫した河の流れに架けられた橋のように、それでも世界は、人びとを結びつけてゆく。
#28 Epilogue
炙り焼きで雑味を落として、山椒を加えた特製の“たれ”に浸し、出汁を煮込んだ野菜スープと一緒に味わってもらう。お客さんが笑顔を見せたら、次は雀酒の出番となる。
その夜は二人、――それも客としては初めて見る顔だった。二人は面識があったらしく、互いの顔を指さして、あれこれと云い合いを始めそうな雰囲気だった。間に入って諍いを止め、席に着いてもらった。
「明日は寺子屋が休みでね」上白沢慧音が云った。「久々に静かな場所で飲みたいと思って、女将さんの屋台のことを思い出したんだ」
「私もお嬢様から休暇を頂きまして」十六夜咲夜が続けて云う。「途方に暮れていたのですが、里の食事処には入れませんし、天狗の新聞を頼りに探したところ……」
ミスティア・ローレライは火の加減を見守りながら答える。「それじゃ、今夜はたらふく食べていけるってことね」
二人は揃って肩をすくめてみせた。
「そうそう、女将さんに手土産を持ってきたよ」
慧音が提げていた袋から数本の筍を取り出す。明日には成長して青く茂っていそうなくらいに新鮮な筍だった。受け取りながら、ミスティアは顔がほころぶのを感じた。
「凄いわね。焼いても好いし、煮物にも」
「妹紅から貰ったんだ。竹林の蓬莱人。今年は沢山採れたそうだよ」
「あの焼き鳥屋さんね」
「それは自称だろう」慧音が微笑む。「焼き鳥云々はともかく、あれでも昔に比べれば成長したんだよ。本当に成長したんだ」
「どうだか……」
さらに続いて、ハクタクの先生は袋から花束を取り出した。秋の植物が色とりどりに咲いた、実りの象徴とも云うべき花々だった。優しい紫を咲かせたコスモスから、可愛らしく香るキンモクセイ、ドレスのように着飾ったサルスベリ。その中に、まるで場違いのように紅く紅く華やいだ彼岸花。歌に彩りを添える際には、花が大きな役割を果たしてくれる。ミスティアは喜んで受け取った。
「里で花屋を営んでいる教え子が居てな」慧音は云うのだ。「決して大きな店ではないかもしれないが、見ての通り、とても大事に育てているよ」
咲夜が身を乗り出す。「素敵じゃない。うちも取り寄せようかしら」
「女将さんの話をしたら、是非とも渡して欲しいと頼まれたんだ」
ミスティアは首を傾げる。「花屋の常連さんなんて居たかしら」
「いや、訪れたことはないそうだよ。ただ、渡して欲しいと。それだけで好いんだと云っていたよ。私には何のことだか」
「そう。……うん、大切に飾っておくわ。本当に素敵ね、これは」
二人に許可を得て調理の手を止め、花を手頃な空き瓶に活ける。月明かりを浴びた花には、観る者を吸い込むような美しさがある。いつかは枯れてしまう命。風となって過ぎ去りゆく想い。それを見つめていた咲夜が、やがて思い出したように呟いた。
「私も、何か差し上げないと心苦しいですね」
「好いんだよ。私が勝手に持参したんだしな」
悪魔の従者はしばらく考え込んでから、顔を輝かせてミスティアの眼を見上げた。「そうだわ。今度、お時間が空きましたら、紅魔館の特別料理を包んで持ってきましょうか。自慢のレシピとご一緒に」
「ええ、ありがとう」ミスティアは笑みを崩さずに答える。「でも、悪いけど遠慮しておくわ。特別な料理は作らないことにしているの」
「そうですか。残念ですね」
咲夜は本当に残念そうに云った。慧音は意味が分からなかったのか、隣で首を傾げていた。
「その代わりにさ、お菓子の作り方を教えてよ。前から挑戦してみたかったのよね」
「お安い御用ですわ」
炙られる八目鰻の香りと、ミスティアの唄と、サイモン&ガーファンクルの「明日に架ける橋」と。さらに雀酒を飲み交わして、二人は不思議なほどに打ち解けたようだった。仕事の疲れが少しでも癒されただろうか、ミスティアは客人を見つめながら想った。
上白沢慧音は、半妖の身でありながら人里に住まい、子供達に教育を授けている。十六夜咲夜は、人間であるはずなのに悪魔の館で働き、主人のために特別な料理を振る舞い続けている。――そして、私は純粋な妖怪ではあるけれど、屋台で出しているのは里の人間だって舌鼓を打つような鰻料理だ。
秋の星空を見上げる。矛盾だらけだ、と思う。私達はそれぞれに、産まれてからずっと辿ってきた道の途中で拾ってしまった矛盾を、今も大事に抱えている。それは、どうしようもないくらいに間違っていると云えるだろう。明らかに、他の妖怪や人間の方が正しい。誰にも分かってもらえないに違いない。
――私達は、間違っている。
でも、ひとつ確かに云えることは、どんなに矛盾だらけでも、どんなに間違っていようとも、今もこうして生きている、ということ。変わりつつある世界の中で、変わらないものを抱きしめながら、この場所で生きている、ということ。
命を奪いながら、命を育みながら……。
何杯目かの酒を飲み終えて、慧音が呂律の回らない口調で云った。
「今年は豊作になるよ」彼女は繰り返し呟いた。「お腹いっぱい食べられるよ。大人も、子供達もね……」
飯台に突っ伏してしまった先生に毛布を掛けてやると、彼女はお礼の言葉を零してから眠りに落ちた。
咲夜は涼しい顔で鰻と酒をお代わりしたが、いつしか口調はフランクになっていた。「病みつきになるわね。機会があったら、またお邪魔しても構わないかしら」
「どうぞどうぞ、人間でも妖怪でも歓迎するよ」
「とびっきり上等のヴィンテージを持って来るわ。もちろん、血は入ってない私のコレクション。きっと気に入るわよ」
「楽しみね。とても、何もかも」
美味しそうに食事を続ける少女を見守りながら、ミスティア・ローレライは秋の夜長に耳を澄ませている。屋台に慈雨のように降り注ぐ蟲の鳴き声、その合唱は彼らを操る少女からの祝福のように聴こえる。そして、屋台を包み込んでくれている、この世界の優しさを湛えているかのように暖かな闇は、過ぎ去りし日に往ってしまった友人、――彼女が、和解の印に差し出してくれた贈り物のようにも思えるのだ。
~ おしまい ~
(引用元)
John Irving:The Hotel New Hampshire, E.P.Dutton, 1981.
中野圭二 訳(邦題『ホテル・ニューハンプシャー』)新潮文庫、1989年。
(原題)
Die ungeschickte Räuberin des Lebens
.
みすちーが友好度悪なわりに屋台をやって人妖が集まるとうい裏にはこんなみすちーの心の変遷があったんですなw
細かい話ですがメインはみすちー達だからタグとかその他入ってないのかな?
皆が苦しんでいる病者があるのに、刺々しくないのはきっと書いた人が優しいからでしょう。
とても良かったです。こういう作品大好きです。
読了感がとても良い心地です。ありがとうございました
納得できるところと納得できないところ、色々あったのですが、それら踏まえてなお、彼女たちの生きる姿を感じられました。
一度目はただひたすらに重く、苦しかった。二度目から少し俯瞰できるようになり、三度目は作品全体を眺め、適切な距離からキャラクターたちと接することが出来ました。それでも重苦しさが抜けませんが。
激しく印象に残る作品であったことは間違いないです。
一作品で終わらせるには惜しい作風だと思いました
気になったのは「明日に架ける橋」の必要性です
自分も好きな曲ですが、何故この曲が?、というのが正直な感想です
歌詞の捉え方は人それぞれなので的外れな意見かもしれませんが・・・
驚いたり怒ったりするパチュリーも可愛らしい
読み応えのある作品でした。
少なくとも、皆が皆、生きる事に懸命だからだ
皆懸命で美しく醜かった
ただ、仕方がないとはいえ彼女らはクズだったと思いたい
決して賞賛されるべきじゃないと思う
優しいしいい人かも知れないけどそう思っちゃいけない気がする
素晴らしい作品だけどあくまでくだらない話と思わなきゃいけない気がする
忘れちゃいけないことはそういうクズにならなきゃ生きれない状況を避ける気持ちだと思う
手放しの賞賛は結局人喰いやこのような悲惨な状況を肯定することに繋がる気がする
決して優しいともいいやつともいい話だとも思わない 例え真実はそうだとしても
大作お疲れ様です
それ以外の言葉は呑み込んで、自分で咀嚼する。そんな作品でした。
生きる事の美も醜も真正面から見詰めた残酷で、そして作者氏らしい優しいお話。私たちの世界は死も無情もともすれば忘却しがちですが、幻想郷ではそれが少しばかり手近いのでしょう。それだけに私たちと家畜の関係よりも妖怪と人間の関係は根深い。理不尽と死の象徴で有りながら、隣人で有り、時には愛憎さえ抱く。
時代背景に合わせて語彙に気を遣ってたのが感じられる。完成度は高い。
(幻想郷であればこそ28番さんの様にガッチリ「人」の線引きする者が、人間の里には絶対必要かも知れません)
普段の生活からすれば考えもしないことですが国や時代が違えば飢餓などによる食人はありますしその世界の住人がある程度割り切って考えてしまっていたりもするのかな…
テーマがテーマですし覚悟して読んでいましたが後味の良い何度も読み返したくなる作品でした。
特に美鈴が胸糞悪いわ
忠義だろうが契約なんだろうが今迄育ててきた子供達を殺してきたのは事実なんだから
ルーミアもコメ欄も狂っていて気持ち悪い
ミスティアの為を思ってふたりは子供を食べたんですよね
ルーミアは食欲の方が勝ってたかもしれないですが
妖怪として危ういのは影狼ちゃんなんだろうなあ でも可愛い
最期が救われる終わりですっきり 火葬場の少女に幸あれ!