第四話 変異の怪童
古明地さとりの創作に対する意欲は決して尽きることがなかった。登場人物の心情を考え、人物同士の関係性を元にして心情の変遷を組み立て、原稿用紙の上に文字として反映していく。その作業はさとりにとって、他者の心を読むのと同じほど興奮するものだった。
執筆が一段落し、一息入れようとして顔を上げる。すると、寝間着姿のこいしが部屋に入って来て、さとりには見向きもせずに部屋の隅の箪笥に近づいていった。そして、おもむろに一番下の引き出しを引くと、中に入っている洋服を片っ端から引っ張り出して部屋中に散らかした。彼女が着替えるときは大抵こんな風に箪笥の中を全部ひっくり返して絨毯の上に並べ、それから着たいと思う服を選ぶのだ。
そんな大騒ぎをしても、結局いつも同じ服を彼女は選ぶのだが……。
なぜさとりの部屋にこいしの着替えがあるかと言えば、さとりがペットに言いつけて持ち込ませたのだ。彼女は、そうまでしてでも、こいしの出入りを把握したかった。こいしはそれを嫌がるどころか、自分の部屋が広くなると言って喜んでいのだから、世話はない。
大量の服を前にうんうんと悩んでいるような姿を見せるこいしに対し、さとりは落ち着き払った声で話しかけた。
「こいし、今日もおでかけ?」
「うん!」
「今日はどちらまで?」
「お寺!」
「えっ!? 今日も?」
「うん! ぬえちゃんと遊ぶの!」
「ちょ……待ちなさい、こいし!」
いつも通りにいつもの普段着を来て出て行こうとするこいしを呼び止めるが、こいしはさとりの声なぞ聞かずに颯爽と部屋を出て行った。
後に残されたさとりは机の上で頭を抱える。ここのところ、こいしは毎日命蓮寺に遊びに行っている。入門こそ確かに許したものの、せいぜいがひと月に一日か二日遊びに行く程度で済むと思っていた。
今はまだ良い。寺の妖怪と遊んでいるだけならば、あの住職の精神に影響を受けることは少ないだろう。
だが、頻繁に寺通いを続けて行くうちに、いつかあの住職の色に頭から染まってしまうかもしれない。
さとりは、こいしが外の刺激を受けることは大いに結構だと思っていたし、それを望んで入信を許可したわけだが、本物の信者になってほしくはなかった。
白蓮の宗教は仏教を基礎として妖怪のためにアレンジされた彼女独自の教えであり、その宗教を信じるということは、白蓮本人を信じることと同義だ。
さとりは白蓮を心から信じることができずにいた。
白蓮が善意でこいしを勧誘して来たことはよくわかっていた。だが、他者の善意が必ずしも良い結果をもたらすとは限らない。そして、未来のことはさとりにも与り知らぬところだった。
さとりは決然と顔を上げ、悲鳴じみた声でペットの名を呼んだ。
「お燐!」
「はーい。何でしょう、さとり様」
「今日もこいしが寺に向かったわ。悪いけど、またあの子の様子を見て来て頂戴」
「了解しました! 早速行って参ります(こいし様が毎日寺に通ってくれるおかげで、毎日アユにありつける……。仏様のご加護、ありがたや、ありがたや……)」
そんなお燐の心を読み取った途端、さとりの顔がみるみるうちに紅潮する。気づいた時には、さとりは机を叩いて立ち上がり、ヒステリックにお燐を罵っていた。
「お燐、貴女はどっちの味方なの!?」
「にゃにゃっ!? どうしたんですか急に!?」
主人が突然怒り出したので、お燐はびくりと毛を逆立てる。
さとり妖怪を相手に会話しようとすると、時折このように会話にならなくなる。特に意識せずにふと思いついたことでも、さとりには筒抜けになってしまうから、会話の前後関係がおかしくなってしまうのだ。
「いいからさっさと行きなさい! こいしを見失っちゃうでしょ!」
「は〜い……(あーあ、これだからさとり様と話すのは嫌なんだよなあ)」
けだるそうに机から飛び降り、お燐はのそのそと部屋を出て行く。さとりは喉元に出かかる悪態を必死にこらえながらそれを見送った。
このようなやりとりは、地霊殿ではいつものことだった。さらに言えば、地霊殿に住み着く前、地上にいた頃から延々と、彼女はこのようなやりとりを他者と続けて来たのだ。
さとりは何度も深呼吸をして心を落ち着かせようとした。だが、すこし落ち着いたと思って机に座り、執筆に戻ろうとすると、頭の中に先ほどのお燐の言葉が蘇ってきて、彼女の心を乱暴にかき乱す。とてもではないが、集中できたものではなかった。
空元気で執筆を続けようとしたものの、どうやっても集中力を取り戻すことができないと分かると、さとりは椅子から立ち上がり部屋のベッドの上に突っ伏した。
目を閉じる。瞼の裏に広がる暗闇が心の雑音を打ち消すのは一瞬だけで、すぐにその暗闇の中に妄執が広がり始める。虚空の中にぽつりと、白い目が浮かぶ。目は最初は一つ、しばらくすると二つと、次第に数を増していく。
眼球の漂う先の闇から、声が聞こえる。
――嫌な奴が来たなあ。近づかないでおこう。
――うわあ、面倒くさい奴が来た。
――恥かかせやがって……死ね!
――知り合いヅラして近づいてくるなよ……迷惑だから。
地上にいた頃、何度となく向けられて来た拒絶の声だった。その目が一つ増える度に、さとりはベッドの上で低く長く呻いた。
呻けども誰一人として側に居てくれる者はいない。ペットでさえもだ。それは当然のことではあった。彼らは本当は、心の中でさとりを恐れているのだ。
こいしが心を閉ざす前は、彼女だけが唯一の理解者だった。そのこいしも、今はもう変わり果て、己の側にいることはなくなった。
トラウマという言葉を、さとりは最近知った。己の心を苛むこの妄執の正体を知ろうと探る中で見つけた言葉だった。和語で言えば『心的外傷』というらしい。
一度トラウマを受けてしまうと、ことあるごとに過去の辛い記憶がフラッシュバックし、己の行動に制限をかけてしまうという。
それはまさしく、地上にいた頃からさとりを悩ませ続けてきた症状そのものだった。
瞼をさらにかたく閉じる。すると、さとりを冷たく見つめていた妄執の瞳は、片端から沈黙して闇の底に沈んでいった。
さとりは意識的に闇の中に没入する。何も見えず、何も聞こえない、心の底を目指して。
心の底は、何者にも邪魔されない、さとりにとっての最後の安らぎの場所だった。虚無のごとき静寂の中で、さとりはようやく手に入れた安寧を胸に抱いてまどろみ始めていた。
声が聞こえたのはそんな時だった。
一条の光が静寂を切り裂きさとりを照らす。その光の先から、何者かの心の声が聞こえてきたのだ。
――貴女も私と同じよ。
それは、つい先日、己が白蓮に対して向けた言葉だった。だが、声の主は自分ではない。自分の心の声を読むことはできないのだから。では、誰の声か。
聖白蓮の声だった。
さとりはベッドからがばりと起き上がり、文机の前に座り直した。そして、再び原稿用紙の上に万年筆を滑らせ始める。
文字で埋められてゆく原稿用紙。その上に、何かが滴り落ちて文字が滲んだ。
***
夜もふけ、人間向けの酒場からも灯が消えた頃、未だ煌々と光の漏れる軒先があった。
人里の中央に位置する、葛城左之助の邸宅。その一間に明かりが灯り、障子の陰に薄ぼんやりと二つの人影が揺れていた。
部屋の中には、二人の男が机を挟んで対面に座していた。一人はこの家の主人である葛城左之助で、もう一人は彼の友人の佐伯吾郎である。
彼らは机の上に乱雑にうち広げられた書籍を敷物代わりにして、手酌で酒を吞んでいた。
左之助は小盃をあおって中身を飲み干すと、その刃のような切れ長の目を、机の上に広げられた本の上に落とす。
彼らが読む本は、全て、妖怪に関する書籍だった。彼らは長い時間をかけて、それらを里の書店から購ってきては、また長い時間をかけてそれらを読み込んできた。
二人は、『人間至上主義者』と呼ばれる者たちだった。
人里には、公に存在を知られていない組織や集団が少なからず存在する。彼らの目的は多種多様だが、概ね、人里において暗黙的に守られている規律、不文律といったものを意識的に逸脱する者たちと見て差支えはない。幻想郷全体でもその傾向はあるものの、人里における本音と建前の乖離は末期的様相を呈していたのだ。
そうした組織の中で、最近になって注目を集めるようになったのが、『秘密結社』と呼ばれる者たちだった。結社の正式名称は不明だが、天狗の新聞の単独取材に応じたことでその存在が明るみになった組織だ。新聞の取材に対し彼らの幹部がほのめかした組織の目的は、『人間による幻想郷の支配』という穏やかならざるものだった。しかし、その手段については目的に釣り合うほど過激ではなく、ひたすらに幻想郷中を走り回り調査を行うというものだった。
妖怪の手によってベールを脱いだ『秘密結社』だったが、彼らは里に存在する秘密組織の中の一つでしかなかった。実際は、前述のような組織が人里の中には無数に存在していたのだ。
『人間至上主義者』というのは、そうした秘密結社の中でも特に過激な人間同士で寄り集まって自然発生的に生まれた集団だった。彼らの主な目的は、実力行使による幻想郷からの妖怪の撲滅。実現すれば幻想郷自体の破壊に繋がりかねない危険思想ではあるのだが、実際のところ人間が暴力に訴えて妖怪に対抗するというのは非現実的な考え方だったため、彼らの存在は妖怪のみならず人間からも黙殺されていた。だが、当の本人たちは自分らの無謀ともいえる悲願がいずれ成就することを疑っていなかった。その証拠が、この『勉強会』だった。
書物の文字を熱心に追っていた吾郎が、ふと目を上げて、左之助を見やった。
「そういえば、左之助。お前、あの妖怪寺の住職をやりこめたそうじゃないか」
彼が話題に上げたのは、先日の人里の騒動のことだった。数日前、人間が化け物に変化するという騒ぎが起きたが、左之助が機転をきかせて騒動の元凶をつきとめたのだ。
話題を向けられた左之助は、にこりともせずに鼻を鳴らした。
「ふん。妖怪なぞ、他愛もない。叩けばいくらでも埃が出てくる。だがまあ今回の一件、寺への良い牽制になっただろう。連中は近頃、妖怪の分際ででかい顔しくさっていたから、溜飲も下がるというものだ」
言って、再び手酌で盃をあおる。
その時、左之助は己の背後から僅かな衣擦れの音がするのを聞いた。つっと背後の障子を開け放つと、そこには息子の圭太が、おののいた表情を顔に張り付けて立ちすくんでいた。
左之助は憤然と立ち上がると、ずかずかと足を鳴らして圭太に歩み寄り、物も言わずに息子の横顔を引っ叩いた。それは一度では済まず、二度、三度と続いた。
くずおれる圭太の口から血が糸を引いて廊下に滴った。それを見て、左之助はますます怒り、雷鳴のような怒号を息子の頭に向ける。
「馬鹿者! きちんと掃除しておけ!」
言い捨てると、彼は叩き付けるように障子を閉じた。
後に残された圭太は、着物の袖で廊下を拭いつつ、懲りもせずに部屋の中の声に耳をそばだてた。
障子の向こうから、吾郎の声が聞こえる。
「おい、左之助、やり過ぎじゃないか?」
「人の家庭のことに口を出すな。これは教育だ」
「なら俺の居ない所でやってくれ。人間が人間に手を上げるのを見るのは好きじゃない」
その言葉を、左之助の細い目が意味深げにますます薄く閉じた。「……いけしゃあしゃあと」なじるような左之助の声を、吾郎は薄ら笑いで受け流した。
「時に、次の会合の議題は何だ?」左之助が問うた。
「『人間に妖怪は殺せるか』」吾郎が横柄に答える。
「何かネタが手に入ったのか?」
「これを見ろ。数代前の御阿礼の子が著した幻想郷縁起の草稿だ。賢者の検閲が入る前のものだな」
「……『妖怪は、忘れ去られると、死ぬ』……?」
「こちらが正本の幻想郷縁起だ。草稿にあったこの項が丸々、正本では削り取られている。抜粋して読むぞ。『幻想郷では、人間と妖怪は共存関係にある。その共存関係が崩れた先に、互いの破滅が待っていることは想像するに容易だろう』『また、妖怪は精神的な攻撃に弱い。特に一般的かつ強力な対抗策として、言霊が挙げられる』『相手を忘れ去ったふりを続けたり、相手を恐れない旨伝える言葉をくどいほど何度も投げかけた結果、妖怪の存在が消滅したという事例が何件か報告されている』……。どうだ、左之助。妖怪の賢者の検閲が入って削られた項目となれば、それは妖怪にとって真に都合の悪い事柄だと思わないか?」
「素晴らしいぞ、吾郎。我らの悲願達成に向けて、大いなる前進だ」
「ああ。妖怪駆逐――。それこそが我らが秘密結社の悲願。我らが、この幻想郷に第二の維新を起こすのだ」
息を殺して盗み聞きしていた圭太の目は、話の進むに従い爛々と輝きを増していった。
彼は足音を忍ばせてその場を抜け出すと、早足で自宅の門を出た。
圭太の面差しが、冷たい月明かりに晒され、僅かに陰って見えた。その彫り深く見える顔貌に、僅か妖気を湛えた二つの瞳が、ちらちらと光っていた。
***
圭太は、一日の間、ずっと、夜が来るのを待っていた。
夜になると、ある種の力が身体の中に増してくるのだ。
幻想郷には、不思議な力を持った人間が幾人も居る。空飛ぶ巫女や、魔法使い、時間を操作するメイドまでいる。闘いに特化した能力でなければ、先祖の記憶を今も受け継いでいる人間や、どんな文字でもその意味を理解できる能力を持った人間までいる。
幻想郷は妖怪が跋扈する世界であり、そこに生きる人間たちは、幼い頃から日常的に彼ら妖怪と触れ合って育って来た。
先に並べたような特殊能力を持つ人間たちは、皆なにがしかの妖怪の力の影響を受け、その能力を身につけて来たふしがある。例えば、空飛ぶ巫女は空間を転移する能力も持っているが、それは幻想郷の支配者たる八雲の力の影響が大きいと思われるし、人間の魔法使いについても普段交友関係のある妖怪は、生粋の魔法使いであったり人間から魔法使いに転生した者であったりする。
圭太も彼らと同じように、不可思議な力をその身に宿した人間の一人だった。
彼は今、ただの一人で妖怪の山を疾駆していた。相当に長いこと、道から外れた急勾配を駆けていた筈だが、不思議と息は全く切れていない。これもまた己の身の内に宿った力の作用なのかもしれないと頭の片隅で思っていたが、正直圭太にとってそんなことはどうでもよかった。
彼は走りながら待っていた。何をか。知れたことだ。妖怪が現れることを、あるいは、哨戒の天狗に発見されることをだ。
正気の沙汰ではない。尋常な人間ならばそう思うだろう。
だが、彼には自信があった。
彼は既に山の天狗を二匹も血祭りに上げていたのだ。
圭太が己の力を知り、夜な夜な山の中で妖精相手に弾幕勝負をしていた折、運が良いのか悪いのか、彼は哨戒の天狗に見つかった。
天狗の身のこなしの速さについて伝え聞いていた圭太は、逃げることが出来ないと腹を決め、彼らにスペルカード戦を挑んだ。
いざ戦ってみれば、拍子抜けだった。あれだけ人里で恐れられていた天狗の弾幕は、圭太の身体を最後まで捉えることはできず、反対に天狗の自慢の機動力は、圭太の見よう見まねの霊撃数発にあっさりと封殺された。
勝負は水物だ。まぐれだったのか、完全な実力だったのかは分からない。ただ、河童や野良神程度の妖怪ではなく、下っ端とはいえ天狗を完膚なきまで圧倒したという経験は、圭太を増長させた。
この『事件』は、当初、山の妖怪たちの間ではほとんど話題に上らなかった。というのも、天狗組織内で徹底した箝口令が敷かれていたためだ。
仮にも天狗ともあろうものが、全く名前も聞かない人里の子供に遅れをとったと公に知れれば、山の支配者としての沽券に関わる。
天狗たちは他の妖怪たちに知られぬよう、仲間内だけでこのような号令を出した。
『山を彷徨く霊力の高い子供には手を出さず逃げること。彼に関する一切は同族以外に語るべからず』
この号令は天狗内にのみ伝えられた筈だったのだが、数日後にはその禁はあっさり破られていた。河童が天狗の巣に仕掛けた盗聴器からこの情報を知り、眷属やら友達やらに伝えた結果、圭太のことは妖怪の山のほぼ全ての妖怪たちの知る所となったのだ。
そういう訳で、今こうして山を駆ける圭太の気配を察した妖怪がいても、彼らは空気でも見るように扱った。
今や妖怪の山の住人の中で、圭太のことを知らぬ者はほとんどおらず、よしんばいたとしても一匹狼を気取る小物ばかりだったのだ。
そんな小物が一匹、木陰から圭太の前に躍り出た。見るとそれは、全身が毛に覆われた、小柄な妖怪だった。おおかた、人肉を食らって妖怪化した獣の成れの果てだろう。彼はだらしなく涎をたらしつつ、その口元に下卑た笑いを浮かべていた。
「人間の匂いがすると思って近づいてみれば、これはなかなか美味そうな童っぱだ」
圭太はしめたと思い、心の中で舌なめずりをした。目の前の妖怪の一挙手一投足は無駄が多く、どう見ても天狗より二三段劣る。先刻聞いた『妖怪を殺す方法』を試すにはうってつけの相手だった。
圭太は顎の上からその妖怪を見て、せせら笑った。
「なんだ。河童でもなければ天狗でもない、妖怪の山の社会にすら入れない鼻つまみ者じゃないか。どうせ、餌取りもろくにできなくて年中腹を空かせているんだろ」
「童っぱ。妖怪を侮ると後悔するぞ」
妖怪は獣のように低く唸る。
「本当は怖いんだろ? 妖怪を恐れない人間に会っちゃってさ」
圭太はそう言いながら、ちらと周囲に視線を投げた。どうも、木々の陰からこちらを伺う気配がしたのだ。
天狗か河童か。いずれにせよ、己の存在を知っている妖怪だろう。
――丁度良いや。妖怪が死ぬ瞬間ってのを見せつけてやる。
圭太はもはや口元に広がる笑みを隠そうともしなくなっていた。
妖怪はそれを見た瞬間、瞳を赤く燃やして圭太に躍りかかっていった。
***
日没後間もなく。こいしは忍び足で命蓮寺の参道を歩いていた。
白蓮に見つかるのは嫌だったが、もう一度ぬえと一緒に遊びたくて、気配を消しつつここまでやってきたのだ。
彼女の頭の中は、ぬえと一緒にどんな悪戯をしようかということだけで一杯になっていた。
本堂にたどり着くと、こいしは門の陰から中の様子を伺い見た。
本堂の中には大小様々な妖怪が集まっていた。彼らは皆一様に不景気な顔をぶら下げて、ひそひそと何事か囁き合っている。
こいしが見知らぬ妖怪たちの間をすり抜けて行くと、壇上に見知った面子を見かけた。一輪と雲山を除く命蓮寺の高弟たちが、白蓮を長として円座していたのだ。
彼女らは一様に緊張した面持ちで、真剣に、かつ激しく言葉を交わしている。そんな座の中に、こいしは素っ頓狂な一声とともに割り入っていく。
「みんな、怖い顔して、何してるの?」
皆が一斉にこいしの顔を見る。眉間に皺を寄せた彼らの顔を一つずつ見るにつけ、こいしは自分だけが明らかに場違いな存在だと感じたが、微塵も意に留めなかった。
珍しく真面目くさった表情のぬえが近づいて来て、こいしの隣に座った。
他の面々が各々に議論を再開するのを見ながら、ぬえは抑えた声でこいしに対して説明を始めた。
「ちょっと面倒なことになってるんだ」
「面倒なこと?」
「ああ。人里の人間の中に恐ろしく霊力の強い子供が現れたんだ。それでそいつが山の妖怪を無差別に退治してるんだとさ。で、こいつは噂なんだが、どうも妖怪が一匹殺されたらしい」
「妖怪が……?」
こいしは息を吞む。妖怪が死ぬというのは余程のことがない限り起こりえない。少なくとも、力勝負で人間が妖怪を殺すことはまず不可能だった。
もしそれが起こりえるとすれば、強力な精神攻撃に晒された可能性が高い。
ぬえは頷いて話を続けた。
「そいつがあんまり調子に乗ってるもんだから、面子を潰された天狗がカンカンに怒っちゃってさ。人里を攻撃するとか息巻いてるらしい。それで……」
ぬえは本堂に集まる妖怪の方に目をやった。
「それで、争いを望まない山の妖怪たちが寺に集まってきてるんだ。聖に助けを求めてね」
ぬえがそこまで説明したあたりで、本堂にたむろしていた妖怪たちからざわめきが起こった。
見ると、門の外の参道に、雲山に乗った一輪が今まさに降り立っているところだった。一輪は雲山から飛び降りると、一目散にこちらに向かって駆けてくる。
彼女は白蓮の側まで寄ると、額から玉の汗をこぼしつつ、報告を始めた。
「葛城様の邸宅を伺いましたが、どうにもいけません。妖怪に話すことはないといって、取りつく島もありませんでした。ただ、近所の人間の話によると、あの家の息子さんが夜な夜な一人で出歩いているのを度々見かけたそうです」
「そうですか……。やはり、ここに来た妖怪たちの話と辻褄が合いますね」
「どうします? 手をこまねいていると妖怪の山の天狗たちが暴動を起こしかねません。かといって、人間相手に争っては……」
そこまで言ってから、一輪ははっとして口を閉ざした。白蓮の表情が明らかに暗くなるのを見て取ったのだ。
白蓮は一輪の眼を真っ直ぐに見据えつつ、問うた。
「……時に、その人間の子供の名はなんといいますか? この中に、もしかしたらその子のことを知っている者が居るかもしれません」
「圭太という名だそうです。葛城圭太」
「ケイタ……? あれ、なんだろ。どっかで……」
「ぬえ、知っているの?」
ぬえはこめかみに指を押しつけ、必死に記憶の糸を手繰った。聞き覚えがあるような、ないような、曖昧な記憶だったが、何か心に引っかかるものがあったのだ。
ふいに、こいしの声が頭の中に響く。
『けいちゃん!』
(あの時の人間の子供か……!)
ぬえは、こいしと初めて遊んだ日、人里から離れるようにして歩み去って行く人間の少年がいたのを思い出した。
あの時、少年は、妖怪退治に向かっている所だったのだ。
こいしなら彼のことを詳しく知っているかもしれない。そう思い、ぬえは隣に座るこいしに声をかけようとした。
「こい……あれ? こいしどこいった? さっきまでそこにいなかったっけ」
「あら、そういえば……」
「こいしちゃんなら、さっき出て行きましたよ?」
白蓮の言葉に雲山がうなずく。寺の面子の中ではこの二者だけが、こいしの気配を察知できていたようだ。ぬえは白蓮の言葉を聞くと呆れ返って、自然と口をぽかんと開いてしまった。
(なーんでこのタイミングでいなくなるのかね? 無意識の妖怪ってのはホントに……。……ん? いや、待てよ……)
思考の途中で、ぬえはあることに気づいた。彼女は眉を寄せ、更に詳細なこいしの言動を思い出そうとする。
白蓮は、そんなぬえの表情の変化を注意深く見守っていた。
(こいしはあの時、圭太のことを友達だと言っていた。その圭太の名前を聞いて出て行ったとすると、それは)
嫌な予感がぬえの胸をかすめる。それと同時に、白蓮も何かを察して息を吞んだ。
ぬえと白蓮の目が合う。
「聖! こいしがその人間のこと、知ってる! あいつ、もしかすると、一人で……!」
ぬえの短い叫びに、白蓮は素早く頷いた。
「済まないけれど、皆は相談にきた妖怪たちの相手をお願い。私とぬえは、こいしを探しに行ってきます……!」
星、村紗、響子の三者がめいめいに是の意を示す。
そんな中、一輪はちらと雲山に目配せをしてから、白蓮の前に進み出た。
「聖様、私と雲山とで、葛城様のお屋敷を見張りに向かっても宜しいでしょうか。雲山と二人で見張っていれば、屋敷に出入りする者全てを把握できるでしょう」
白蓮はほんの僅かの時間黙考した後、小さく頷いて一輪を見た。
「確かに、今あの方の邸宅を放っておくのはまずいわね。一輪、雲山、お願いできますか?」
「お任せください。では早速参ります。……雲山!」
「聖! 早く!」
雲山を従えた一輪と、ぬえを従えた白蓮は、それぞれに本堂を飛び出して行く。
こうして、妖怪たちの長い夜が始まった。
***
「あの入道め、また戻って来おった……!」
左之助は廊下から夜空を仰ぎ、忌々しげに呟いた。
軒の陰から見上げる空は、重い雲に覆われていた。その雲の切れ目から時折、鋭い光が現れては地上を睨んでくる。
左之助とともに空を見上げていた家政婦が、おっとりした調子で呟いた。
「雪雲でしょうか。あ、あれは雷かしら」
「違う、莫迦。あれは妖怪だ」
先刻追い返したばかりの妖怪入道雲が、再び舞い戻って来たかと思えば今度は己らを監視しようとしている様子。噛み締められた左之助の奥歯が鳴る。
左之助は傍らの圭太に目をやり、断然とした語調で釘を刺した。
「圭太、お前は絶対に外に出るなよ。何の因縁か知らんが、お前は妖怪共に目をつけられているようだからな」
「……はい」
素直な答えとは裏腹に不服そうな色が圭太の顔に出る。その表情を疑念と捉えたのか、左之助は安心させるように表情を緩めて圭太の肩に手を置いた。
「大丈夫だ、この家にいる限り手出しはさせん」
――それじゃだめなんだよ。
圭太は心の中で毒づく。
彼は一刻も早く屋敷から抜け出して、妖怪の山に駆けて行きたかった。
このまま屋敷に釘付けにされてしまっては、妖怪を殲滅するという自らの目的は果たせなくなる。
かといって、父親の見ている前で例の力を使うことも憚られた。己の力は少なからず妖の力に恃むところがあり、それを父親に知られるわけにはいかなかったのだ。
打つ手なしと見て、圭太は深いため息をついた。そして、悔し紛れにではあるが、上空の妖怪に対し僅かばかりの賞賛を贈っていた。
妖怪を殺す人間がいると知っていながら、なおその住処を監視しようというのだ。その大胆さには感心せざるを得なかった。
「圭太、部屋に入っていなさい」
父に言われてしぶしぶ自室に戻った圭太は、部屋に入るなりそこに信じられないものを見て叫声をあげた。
「こいし!?」
部屋の中には、どこから忍び込んだのか、里でよく見かける妖怪の姿があった。彼女は唇に人差し指を近づけて沈黙を乞うてくる。
この場で力を振るえない以上、活路無しと判断した圭太は、黙って部屋の障子を閉めた。
「よかった。私のこと、覚えていてくれたんだ」
妖怪は圭太の顔を真っ直ぐに見ながら、満足そうに微笑んだ。
「……なにしに来たんだ?」
圭太の質問には応えず、こいしは部屋の中を彷徨き始めた。彼女は興味深そうに欄間を眺めたり、部屋の隅の小机の上に出しっぱなしになっている書物をぱらぱらと捲ったりしていた。よく見ると、彼女は土足のまま畳の上に上がり込んでいる。
「人間の部屋って、私たちのとそんなに変わらないね。でも、思ってたよりは貧相かも。木と草の色ばっかりで地味だし……」
「おい、質問に答えろ」
苛立ちのこもった声で圭太が唸ると、その声に呼応するようにこいしは首を捻って圭太の方に顔を向けた。その表情には笑顔が張り付いたままで、何を考えているのか皆目見当がつかなかった。
やはり妖怪は妖怪であり、人間には理解出来ない存在なのだ。
こいしはからくり人形のような不自然な動きで圭太の眼前まで歩み寄ると、彼の視野一杯に不敵な笑みを見せつけた。
花の香りが圭太の鼻孔をくすぐる。妖怪の分際で人の娘を気取っているように思えて、圭太は露骨に顔をしかめて見せた。
「貴方、ここを抜け出したいんでしょ? でも、空には入道がいるし、親御さんの目もあるわ。これじゃあ、そう簡単には外に出られそうもないね」
「嘲りに来たのか」
「違うわ。私の力があれば、貴方の望みが叶うって言ってるの」
「お前の力……?」
圭太の脳裏をかすめたのは、この妖怪少女と一緒に遊んだ時の景色だった。
――たしか、気配を消す不思議な力を使うのだったか。
この部屋に忍び込むにも、おそらくはその力を使ったのだろう。
「お前の力を使えば、誰にも気づかれずに外に出られるってことか?」
「そう! だあれにも気づかれずにね」
「狙いはなんだ?」
「狙いがあるように見えるの? なら、ちょっと嬉しいかも。なんだか私、大妖怪になったみたい」
こいしは無邪気に笑いながら、意味不明なことを口走る。
この妖怪とこれ以上会話を続ける事は、どうにも不毛に思えた。
人里から離れてしまえば、このような妖怪はどうとでも料理できると圭太は踏んでいた。
だが、少年の心の中では未だ警鐘が鳴り止まずにいた。
「……寺か山の差し金か? 俺を人里の外におびき出してから大勢で袋だたきにしようって腹じゃないのか。……まあその方が願ったり叶ったりだけどな。まとめて返り討ちにしてや、る……?」
圭太の強がりは、途中で行方をくらましていた。
目の前の妖怪の表情から、ここに来て初めて、笑顔が消えたのだ。
彼女は燃えるような瞳で圭太を睨みつけていた。殺意に似た重い気迫が圭太の肌を圧する。
押し殺した声が、妖怪少女の細い喉から漏れ出た。
「白蓮と私を一緒にしないでよ。私はあんな奴とは違う。あいつは、私の力を馬鹿にする奴なんだ。そんな奴……!」
圭太は彼女の瞳の中に、純粋に妖怪らしい凶暴性の片鱗を見て取った。圭太の身体を廻る血流が、その瞳に煽られるようにざわつく。
何が少女の逆鱗に触れたのかは知れないが、ともかくこの妖怪と寺との間に良好な繋がりがないらしいことだけは判った。
それで、圭太は最後と決めて訊ねた。
「断ればどうなる?」
訊くとこいしは再びにこやかな顔に戻る。彼女は花摘みにでも出かけるような気軽さでこう答えた。
「この場で貴方を殺すわ」
***
二人の子供が、夜の山道を駆けていた。
道の脇に咲くガマズミの花弁が、二人の走る勢いに煽られ、大きくそよいだ。
人一人が通れるかどうかという獣道の両脇には、天を衝くほど成長した広葉樹が立ち居並び、空に向けて枝を腕のように伸ばしている。
夜の帳が落ちた山道は闇の底に沈んで暗かった。だが、二人の子供の目は道を覆う落ち葉の一枚一枚まではっきりと捉えていた。彼らにとっては、葉陰から差し込む僅かな星の光だけで十分だったのだ。
人里を脱出したこいしと圭太は、妖怪の山の麓まで足を伸ばしていた。
ここにたどり着くまでに多くの人妖の姿を見かけたが、二人の姿に気づいた者は一人としていなかった。こいしが細心の注意を払って気配を消していたためだ。
二人はしばらくの間無言で山中を駆けていたが、やがて圭太の方がしびれを切らし、こいしに向かって声をかけた。
「おい、もう気配なんか気にしなくて良いだろ?」
圭太はこいしの手を振りほどき、道の上に足を止める。彼は、衣服の裾で汚らわしそうにその手を拭いた。
こいしは少しずつ歩を緩め、五、六歩先まで進んだところで歩みを止めた。
不自然に置かれた彼我の距離。圭太は一目でそれが弾幕戦のための間合いと見切った。
圭太の口元に自然と笑みが浮かぶ。向こうも己と考えていることは同じらしい。それは圭太にとり、多分に好都合なことだった。
こいしは道の先で圭太に向かってゆっくりと振り向いた。彼女の唇が開くと、その声が冷たい夜風に乗って耳に届く。
「そうね、もういいかな。この辺りまでくれば、あいつだってそう簡単に見つけられないよ、きっと」
彼女は目を細めて圭太を見ていた。闇の中では微笑んでいるのか、すがめているのか判然としない。妖しげな表情だった。
細く伸びた路上の闇に、柳の葉のように細く切れ上がった眼が二つ、ゆらゆらと浮かぶ。
圭太は果然とこいしを見返した。妖怪は精神的な存在だ。動揺しないことこそが、妖怪に対抗する最も有効な方策なのだ。
以前、何度か一緒に遊んだ時は、まったく人畜無害に見えていたものだった。だが、今、夜の闇の中で改めて彼女の姿を見ると、確かに彼女は人間に恐れを催させる存在に相違ないと思えた。
彼は唸るようにして、ごく短くこう問うた。
「……何を考えてる?」
こいしはその問いに答えず、ただじっと圭太を見つめていた。
圭太の胸に苛立ちが募る。折角の好機なのだ。彼としてはさっさとこの妖怪に始末をつけて、山の妖怪狩りを始めたかった。
彼がたまらず二の句を継ごうとした瞬間、やっとのこと、こいしの口が開いた。
「ねえけいちゃん、妖怪を殺したって本当?」
「……ああ。それがどうしたのさ?」
予想していた通りの質問に、圭太は鼻を鳴らす。
それに対し、こいしは全く底意のない声で訊き返した。純粋な興味からくる質問だった。
「どうして妖怪を殺すの? ……人間のくせに」
圭太の眉が神経質に跳ね上がった。彼にしてみればそれは、耳を穢す聞き捨てならない言葉だった。叶うなら、己が耳をもぎ取ってこの妖怪の喉奥に突っ込んでやりたいという衝動に駆られる。
「……人間のくせに? 人間のくせに、だ?」
ふつふつと胃の腑から沸き上がる怒りに、圭太の全身が震え出した。それとともに、彼の頭頂部とそれから背中から、ぬめりけのある妖気が立ち上る。
怒りとは裏腹に、圭太の顔には笑みが浮かんでいた。歯をむき出しにし、目を吊り上げて見せる笑み。笑みのようななにか。真の戦慄を覚えた人間の顔に自然と浮かぶ表情だった。
「おい、よく聞けよ、妖怪。お前知ってるか? 外の世界じゃ人間の方が偉いんだぜ。親父から聞いたんだ。妖怪なんて、人間から恐れられなければ、存在すらできない他愛もない存在だって。そんな寄生虫の分際で、お前らは人間と対等どころか人間を超えてると勘違いしていやがる。今までは我慢してきたけど、もうそれも終わりだよ。妖怪なんて、僕がまとめて地獄にぶち込んでやる」
一言一言に強い感情と意思の感じられる声だった。だが、その声には、どこか子供じみた思い込みのような気色も多分に含まれていた。
厳格な親の下に育った子供は、親を神聖視する傾向がある。彼の言葉は、おそらくは左之助の受け売りでしかないのだろう。
一方のこいしは、圭太の事情などに一切興味がなかった。彼女の心づもりはただ一つ、己を虚仮にした白蓮の鼻を空かすことだけだった。
皆から頼りにされる白蓮を差し置いて自分がこの問題を見事に解決して見せれば、白蓮の面子も丸つぶれになるだろう。そうすれば、先日受けた辱めに関しても少しは溜飲が下がると思ったのだ。
幸い犯人とおぼしき人間は知り合いだったし、ちょっと弾幕で脅したうえで諭してやれば言うことを聞くだろうと高を括っていた。
ところが、案に相違して今度は彼にまで侮られ、虚仮にされたのだ。
これではこいしの気分のよくなる筈もなかった。彼女は眼を赤々と燃やして圭太を睨みつけると、怒り狂った猫のように毛を逆立て、乾いた声で恫喝した。
「ずいぶんと偉そうな口をきくのね、弱っちい人間のくせに。今日はね、遊びに来たんじゃないの。貴方を懲らしめに来たのよ、けいちゃん!」
――そうして、白蓮に私の力を認めさせてやるんだ。
こいしの野心は、妖気の奔流となって空気中を迸った。
両者の妖気がぶつかり合い、怪鳥の悲鳴のごとき、この世ならざる音が辺りに響きわたる。
「懲らしめるなんて、舐められたもんだな……。こいし、お前、前から目障りだったんだよ。妖怪のくせに人間と仲良くしくさって……。決めた! 次はお前を殺してやる!」
「やれるもんならやってみなよ! もう二度と私に向かってそんな口聞けないようにしてやるわ!」
こいしの言葉が終わらぬ間に、圭太の両の掌が一分の迷いも無く差し伸ばされ、その掌から自身の身の丈を遥かに超える巨大な光弾が吐き出された。
それが戦いの合図だった。圭太の放った光弾は周囲の樹々を枯れ草のように薙ぎ倒しながらこいしの身に迫る。こいしはすんでのところでそれをかわすと、反撃の弾幕を展開した。
スペルカードルールに則った手慣れた攻撃だった。避けどころが用意され、魅せることにこだわった弾の配列。
圭太はこいしの攻撃を見ると、心底うんざりした顔で舌打ちした。
「まだ弾幕なんてヌルい攻撃しくさるかよ!」
彼が右腕を大きく振りかぶると、右翼から放射状に光の線が迸った。光条はこいしの眼前に隙間なく展開され、避けるいとまも与えてはくれない。光線は彼女の右目と右脚を捉え、容赦無く刺し貫いた。
「あっ!」
こいしは思わず身を引いていた。目元の傷は傷というよりはもはや風穴であり、血の塊がその穴の縁からどくどくと流れ出てきた。
それで死なないのは、身体の強い妖怪だからこそだった。
目元の傷を手で抑え、こいしはうろたえたように抗議する。
「卑怯よ! 避けようのない攻撃をするなんて! スペルカードルールを無視する気!?」
圭太は哀れな妖怪を見下ろしてせせら笑う。
「スペルカードルールなんて、知ったこっちゃないよ、なあ。殺すつもりでやってんだからさあ」
「妖怪がこの程度で死ぬもんか!」
「どうかな!」
勝手知ったる弾幕戦のルールを逸脱したこの戦いは、こいしにとって明らかに不利な流れになっていた。
圭太は明確にこいしを殺す気で一撃一撃を仕掛けているが、一方のこいしとしては圭太の命を取るつもりにはどうしてもなれなかった。
その意識の差が、攻撃の深さに微妙な差を生む。
こいしには、何度となく圭太の命を奪うチャンスがあった。だが、その機会が訪れるたびに、彼女の脳裏に圭太と遊んだ時の記憶が蘇り、こいしに攻撃を手控えさせていた。
そうして手をこまねいている間にも、圭太の攻撃は容赦無く続き、こいしの身に重大な瑕疵を与えていく。
手加減して勝てる相手でない事は、初撃の時点で既に十分すぎるほど思い知らされている。
彼女の攻撃は明らかに精彩を欠くようになっていた。その切っ掛けは、彼女が自らの敗北を現実的な可能性として見据え始めたことにあった。
旗色が悪くなるにつれ、こいしの心の中に雑念が沸き起こってくる。感情にしても、最初は単なる焦りだったものが、やがて不安に、そして、最後には恐怖へと変容する。
もしかすると、自分はこの闘いに負けるかもしれない。
そして、負ければ、圭太は自分を殺すだろう。
人間に妖怪を殺すことができるのだろうか。
自分ほどの妖怪でも死ぬことはあるのだろうか。
命乞いをすれば許してくれるだろうか。それとも、彼は本当に自分を虫けらのようなものだと思っているのだろうか。
虫けらのように死ぬ。
そも、死ぬとは何なのだろう。
妖怪にとっての死とは何か。
妖怪は死んだ後どうなるのか。
考えれば考えるほど焦燥の汗に身体を冷やされ、彼女の攻撃は散漫になる。
一体なぜこんな事になってしまったのか、もはやこいしには思い出すことができなかった。
敗れれば己の死。負けないためにはどうすればいいのか。闘いの中で必死に頭を廻らせた挙げ句、二つの考えしか浮かばなかった。
悲鳴を上げて助けを求めながら逃げるか、さもなくば、弾幕を捨て、圭太の命を奪うことも厭わず攻勢に転じるか。
逃げることなど論外だった。偉大な妖怪を目指そうという者が、少しばかり強い人間を前にしたからといって惨めに逃げ回ることなど、プライドの許すところではない。
他方、圭太を殺して生き延びるという案は実に妖怪らしいものであり、こいしとしても、こちらのやり方の方が逃げ回るより余程マシであることは疑いようもなかった。
これはもう、ごっこ遊びではないのだ。
こいしは決然と顔を上げ、残された瞳で圭太を見据えた。
「けいちゃん……。懲らしめるなんて生半可な考えじゃ、けいちゃんには勝てそうもないね……」
「何を今更……!」
「私、けいちゃんを殺しちゃうかもしれない。でも、怖がらなくて良いからね。けいちゃんの魂は私が地霊殿に連れて行ってあげる。そうしたら、永遠に私やペットたちと遊んでいられるわ……」
彼女の言葉はその途中から、霧の中に飲まれたようにぼやけていった。そして、声と同様、その姿もまた、雑木林の闇の中に溶けるようにして消えてゆく。
「無意識の力か!」
圭太の足は本能的にその場から離れるための動きをとっていた。間髪置かず、それまで圭太が立っていた辺りに無数の弾幕が突き刺さる。
彼は滑り込むようにして一本のミズナラの幹に背をつけ身を潜めた。ひと呼吸置き、先ほどまで居た場所の様子を伺おうと首を出す。
それが無意味な行動だと知った時には、手遅れだった。想定外の方向――真正面から、大量の弾幕が飛び出してくる。圭太はそれを胸に受け、ミズナラもろともなぎ倒されていた。
吹き飛ばされた圭太の身体が、倒れた樹の枝の上に落ちた。固い枝が圭太の全身を切り裂き、無数の傷を与える。
「……っく」
弾を受けた胸元に激痛が走り、圭太は思わず悲鳴を上げて眼を閉じた。骨は折れていないようだったが、激しい打ち身により呼吸の度に胸がズキズキと痛んだ。
命は残っていた。だが、不利な状況に変わりはない。相手から自分の姿は丸見えだが、自分からは相手の姿を見ることができない。恐るべき無意識の力の、その底力を今まさに垣間みていた。
ならば――。
圭太の頭の切り替えは早かった。敵の姿を目視できないなら、見えなくても当たる攻撃をすればいい。
即ち、霊撃だ。
哨戒天狗を血祭りに上げた霊撃は、圭太の周囲に妖気の爆発を起こすという至って素朴な攻撃だった。だが、こと破壊力に関しては並ならぬものがあった。
次に相手が攻撃を仕掛けて来るタイミングを最後のチャンスと決めた圭太は、樹の枝の上でじっと息を潜めながら、相手の動きを待った。
他方、こいしは折れた樹の根の側にしゃがみ、圭太の様子を伺っていた。当然、気配は断ったままだ。
先ほどの攻撃は確かに手応えがあった。こいしの放った散弾は見事に圭太の小さな胸板を捉えていた。並の人間なら一週間は立ち上がれない筈だ。
彼女は上空に舞い上がり、圭太を見下ろした。彼は倒れたミズナラの枝の上に引っかかったまま動こうとしない。動けないのか、動かないのか、遠くから眺めるだけでは判然としなかった。
こいしは決して油断していなかった。己の身体に二つも風穴を開ける程の腕の持ち主を相手にとっているのだから、余裕などあるはずがない。
傷口に手をかざすと、妖力がひどい勢いで身体から流れ出ているのを感じ取れた。
意識が混濁する。
妖力によって強引に制御してきた無意識の力。それが、妖力の減少した今、自我を食い潰さんと首をもたげ始めているのが嫌でも分かった。
早く勝負を決めなければ、本当に己の存在が危うくなる。こいしの背筋に冷たいものが伝った。
――ゴメンね、けいちゃん……!
こいしは僅かの逡巡と共に、上空から駄目押しの一撃を放った。心の形を模した弾丸が、圭太の心臓を穿たんと空を疾る。
その一撃を、しかし、圭太は待っていた。
彼はこいしの攻撃が己の霊撃の射程内から発せられたと見るや、がばと上体を起こした。そして、裂帛の気合いとともに、その身の内に蓄えられた妖力を解き放った。
「……ぁ……!」
こいしの悲鳴は、膨大な量の音の怒濤に呑み込まれ消えていった。圭太の身体から渦巻くように溢れ出た光が一瞬だけこいしの視界を占有したが、直後、こいしの意識は途切れた。
圭太の放った霊撃は激しい閃光とともに凄まじい爆風を巻き起こした。大地はめくり上げられ、周囲一帯の草樹を根こそぎにする。圭太の傍に立っていた樹々は文字通り木っ端微塵に粉砕され、それより遠くにあるものは爆風により容赦無く薙ぎ倒された。倒れゆく樹々の太い幹が他の樹を巻き込んで将棋倒しにしていく。
こいしは爆風の直撃を受け、宙を舞った。放物線を描きながら長々と滞空した後、彼女の身体は冷たい土の上に叩き付けられた。そこから鞠のように二、三回跳ね上がった後、彼女は半ば土の中に埋まり込むようにして倒れた。意識を失ったこいしは今やその姿を隠すことなくさらけ出していた。
無惨なもので、彼女の下半身は圭太の霊撃によって引きちぎられ、いずこかに吹き飛ばされていた。切断された胴体の端から流れ出た血液で、枯れ落ち葉の上に血だまりができていた。
それでも彼女は生きていた。人間の型を模した姿など、妖怪の彼女にとってはかりそめの器でしかない。肉体の破壊によって妖怪が即死することはまずないのだ。
だが、その器から漏れる妖気はさらにその量を増していた。それこそ、取り返しのつかないほどの量の妖気が、既に彼女の身体から流れ出てしまっていた。
彼女の自我をつなぎ止めるために最低限必要な妖気すらも、もはや彼女の身体には残されていなかった。
圭太はこいしに近づくと、その小さな脚で彼女の上体を強く踏みつけた。こいしの腕が、死に際の昆虫のようにバタバタと動く。首が狂ったように痙攣する。しかし、彼女の瞼は固く閉じたまま動かなかった。
血と泥に塗れてぼろ雑巾のようになった妖怪の成れの果てを、圭太はなおも執拗に踏みにじった。
彼はその行為の中に勝利の愉悦を見つけたかのように、酷薄な笑みを浮かべていた。
「おい、残念だったな。無意識の力も僕には効かなかったみたいだぜ。こんな技が奥の手だって言うんならお笑いだね」
悪意と共に、彼はそんな言葉を繰り出した。
圭太は、闘いを締めにかかっていた。妖怪の命を奪う為の言葉で、こいしを追いつめようとしていたのだ。それは、先日、一匹の妖怪を殺したのと同じやり方だった。
だが、圭太の声は、その時こいしには届いていなかった。
こいしは、自らの内面世界での闘いを強いられていた。彼女の心の中は強迫観念の嵐に見舞われており、その猛烈な力に彼女の自我は木の葉のように翻弄され、平衡を失っていた。
今、彼女の周囲を豪然と取り巻くものには、純粋な観念もあれば、悪意のある言葉もあった。それまで彼女の中に抑圧されていたあらゆる負の要素が、濁流となって渦巻いていた。耳を塞ぎたくなるようなおぞましい声や、目を覆いたくなるような悲惨な光景、忘れていた辛い記憶などが、こいしに向かって猛然と近づいてきては、彼女の裸の精神を嬲った。
それらは全て、こいしが無意識の中に押し込めてきたものたちだった。それらが、今、こいしの心の中で氾濫を始めたのだ。
このような無意識の氾濫は、普段の生活でも、こいしを度々襲ってきた。その結果は発作という形で外世界に現出してきたが、いつもならば彼女の有り余る妖気によって鎮められていた。
しかし、今のこいしは圭太との戦いで妖気を使い果たし、無意識の力を制御することができなくなってしまっていたのだ。
こいしは、混濁する意識の中で、無意識の放つ醜い言葉を、観念を、ただ呆然と受け入れるしかなかった。
言葉が、波濤となってなだれ込んでくる。
『誰だっけ、お前』『その力は無の力、それは貴女を破滅に導く力』『妖怪は忘れ去られたら死ぬんだって』『辛いことや悲しいことがあると、貴女はいつも私に押し付けてきたよね。それで忘れたフリをしてた。最低だよ。最低のクズだよ、貴女は』『こいし? そんな妹、いたかしら?』『嫌な奴らが来たなあ。特に妹の方……。近づかないでおこう』『うわあ、面倒くさい奴が来た』『知り合いヅラして近づいてくるなよ……迷惑だから』……。
圭太の見ている前で、こいしが不意に動きを止めた。不審に思って顔を覗き込むと、彼女は口を小さく動かし、ブツブツと何ごとか囁いているようだった。
圭太はわずかに顔を近づけて、その声に耳を傾けた。
「忘れ去られるくらいなら、いっそ……」
突然、圭太に踏みつけられていたこいしの身体が、宙に跳ね上がった。足をすくわれた圭太は、平衡を失ってたたらを踏む。
こいしの半身が、宙に浮かんでいた。胴の下から内臓が垂れ、口や鼻から血が滴り落ちる。
その目元を見た途端、圭太は息を呑んだ。彼女の目元だけが、まるで靄がかかったように認識できないのだ。
わずかな吐き気を催し圭太は目をそらせる。
こいしの上体は振り子のようにゆらゆらと揺れながら、亡霊のように闇に浮かんでいた。
やがて、血の泡の張り付いた唇がゆっくりと動き、その喉の奥から低い呻き声が漏れ出てきた。
「死ねば良いんだ」『死ねば良いんだ』「死ねば良いんだ」『死ねば良いんだ』『「みんな、死んじゃえばいいんだ」』
一度聞けば二度と忘れることのできない、粘りつくような怨嗟の声だった。
「正体を現しやがったな、化け物……!」
圭太は顔をしかめ、呻くようにそう言った。
胸の奥にわずかに湧いた恐怖を振り払いつつ、彼は手を伸ばしてこいしの上着を掴み、彼女の身体を地面に向かって乱暴に叩きつけた。そうしてさらに彼女の胸の上に馬乗りになり、その頭部を破壊しようと掌をかざす。
圭太の手から光弾が放たれると、それは即座に地面に激突し、土の塊が空中に舞い上がった。
圭太の口元に満足気な笑みが浮かぶ。だが、それは一瞬で消え失せ、驚きの表情にすり替った。
「な……にっ!」
彼の股ぐらに押し抱かれていたはずのこいしは、忽然と姿を消していた。
「ちっ……!」
圭太は動揺を隠すため舌打ちをしてみせた。
完全に視界に収め、身体を拘束していたにも関わらず、彼女はその状況から脱出して消えたのだ。この世に存在する生き物に、そんなことが可能なのか疑問だった。
彼は注意深く辺りの様子を伺ってみたものの、気配を消すことを旨とする妖怪を、夜の雑木林の中で探し出し見つけることは困難だった。
と、ふいに圭太は首元から揺さぶられ、こらえる間もなく前のめりに倒れた。
気配もなく背後から近づいたこいしが、両の手で圭太の首を掴み、残された全体重を任せて押しかぶさってきたのだ。
こいしの細い指が彼の二本の頸動脈を正確に締めあげる。
「死ね……シネ……」
こいしは圭太に身を張り付け、なおもうわごとのような呟きを彼の首元に吹きかける。
指には、少女とは思えない凄まじい力が込められていた。圭太は細い息を懸命に繰り返しながら、首にからみついた指を一本一本引き剥がす。
右手の指を全て引き剥がすと、彼は両手でこいしの腕を取り、両足に力を込めて立ち上がった。そして、そのまま二、三歩駆けると、上体を折って背中でこいしの身体を跳ね上げた。こいしの身体は一回転して地面に叩きつけられる。
すかさず、掴んだ腕の根本に光弾を打ち込む。木の枝の折れるような音がして、こいしの肩が奇妙な形に潰れた。
身体を足で踏みつけ、今度はもう片方の腕に光弾を打つ。こいしの肘にそれは当たり、跳ね上がった腕がおかしな方向に曲がって倒れた。
ようやくのこと動かなくなったこいしを見下ろしていると、その眼の中に、徐々に生き物らしい光が戻ってくるのが見て取れた。
「てこずらせやがって……」
圭太は肩で息をしながらそう吐き捨てた。
足元に横たわるこいしは、もう抵抗する気力もないようだった。彼女はただ、焦点の合わない眼で圭太の方を見上げるばかりだった。
「……私……どうしちゃったの……? たしか、けいちゃんの霊撃で……」
圭太は顔をしかめた。
――こいつ、自覚がないのか。僕を殺そうとしたくせに……。
彼は憎悪に燃えた眼でこいしを睨め下ろし、押し殺した声を吐き出した。
「黙れよ、化け物が。……もうお前なんか絶対に生かしておけない。……絶対に……」
こいしの眼が――残された方の左眼が、怯えたように見開かれた。彼女の喉の奥から、震えた声が漏れる。
「……わ、私は……死なないよ……。私は……立派な妖怪になるんだ……」
「いや、お前は死ぬよ……」
額の汗を袖で拭いながら、圭太は言った。
「お前は今日、ここで死ぬんだ。もう、お前の事を怖がる人間なんか誰もいないんだから」
「……そ、そんなの、嘘だよ……し、死なないよ……私、死なないよ……」
圭太は足の裏からこいしの身体の震えが伝わってくるのを感じていた。
なおも彼は言う。
「お前は死ぬんだ。誰からも忘れ去られて。この妖怪の山の片隅で、この世にいた事すら忘れ去られて死ぬ。それがお前だ」
こいしの眼にみるみる涙が溜まり、瞼の端から溢れて落ちた。
「……い、嫌……。……そんなの……やだよ……。死にたくないよ……怖いよ……助けてよ…………」
圭太の胸が、ちくと傷む。
彼は大きく息を吐くと、腹に力を込め、更に強い声で言葉を継いだ。
「お前は死ぬ。お前みたいな弱い妖怪は、未来永劫、世間の物笑いの種さ。もう、お前は生きていちゃいけないんだ」
「……たす……けて…………お姉ちゃん……」
こいしの声は次第に小さくなり、ついには聞こえなくなった。彼女の瞼がゆっくりと閉じていき、最後にもう一筋、大粒の涙がこぼれた。
圭太は気を失っていくこいしを黙って見ていた。そして、とうとう動かなくなったと見るや、その身体を思い切り蹴飛ばした。
「ふん、一丁あがりだ。ざまあないや」
彼は鼻を鳴らすと、景気付けとばかりにもう一度こいしの身体を蹴りつけた。
壊れた人形のように動かないこいしを無表情でしばらく眺めた後、圭太は踵を返して山の斜面に向かって駆け出していった。
暗闇が、急速に静寂で埋められていく。その中に、こいしの残骸が、ぽつねんと転がっていた。
***
二つの妖怪が、幻想郷の夜空を切り裂いて飛んでいた。
先頃まで人里で左之助と押し問答をしていた白蓮とぬえは、今はもう里から遠く離れた空の上に移動していた。
地上から離れたところに吹く圧のある風が、真っ向から二人を押し返してくる。彼女らはそれをこじ開けるようにして、ただ一心に、まっすぐに翔んだ。
白蓮にやや遅れてついて飛ぶぬえが、前方をゆく白蓮に向け、風に負けぬよう声を張り上げて尋ねた。
「どうしたの、突然!? そっちは、妖怪の山だよ! そこに、こいしがいるの!?」
「ええ! 先ほど魔人経巻がこいしの魔力に反応しました! あの子は妖怪の山にいます!」
妖怪の山は、二人の進む先に黒い威容を横たえていた。幻想郷の外にあるという富士の山。その富士よりも高いと言われる妖怪の山の裾野が、その両腕を地平線いっぱいに広げて二人を待ち構えている。
その黒い影の一点からほんの一瞬だけ光が閃いたのを、二人の眼が捉えた。彼女らは反射的に空中で停止して、光の発せられた方を見る。数秒後、甲高い爆発音と共に、樹々の倒れる乾いた音が、冷たい夜の空気の中に鈍く響き渡った。
山はにわかに騒がしくなる。野鳥が怯えたように羽ばたき逃げる音の向こうに、もっと大きな風切音も聞こえた。それに続いて、山に棲む妖怪たちの騒ぎ立てる声が四方八方から飛び交い始める。
ぬえは泡を食って白蓮の袖を掴んだ。
「聖! 今の!」
「ええ! 行ってみましょう!」
二人は弾かれるようにして、再び空を走りはじめた。数瞬のうちに、二人は風を追い越す速さまで加速する。
白蓮は飛びながら、手に持った魔人経巻を振りかざした。すると、経巻はまばゆい光が放って一帯を照らし始め、黒一色の視界の中に、鬱蒼と繁る樹々の姿を亡霊のように浮かび上がらせた。樹々の合間には、光に気づいてこちらを見上げる地上の妖怪たちの姿がちらほら見える。
里から出てこのかた、白蓮は己の胸の中にざわめきのようなものを感じていた。それは第六感に似た感覚であり、長く生きた者の経験からくる勘のようなものだった。
そのざわめきは告げる。今の状況は決して楽観的なものではない、急げ、と。
弾幕戦など幻想郷では日常茶飯事だが、それはいつだって、どこか余興的な適当さを含んでいた。だが、先ほど放たれた閃光の向こうから感じられたのは、ひりつく緊張感、そして、肌に粘着する黒々とした殺意だけだった。
そのような気構えで臨む戦いの果てに待つのは、陰惨な結末だけだ。その呪われた舞台に立つ役者の中には、おそらくこいしの姿もあるだろう。
白蓮は身の底からくる震えを振り払うように、自らの内にある妖気を解放した。風と共に飛行していた白蓮の身体が、更に亜音速まで加速する。追随していたぬえは、遅れまいと懸命に彼女の速度にくらいつく。
やがて、大地を被覆する樹々の中に明らかな変化が現れた。根本から枝の折れたものや、完全に幹の途中から裂けて白い断面をさらけ出しているものが見え始めたのだ。それらの傷跡は、先ほどの閃光と爆音によってもたらされたものに間違いなかった。そして、先に進むにつれ、破壊の様相が広範囲にわたっていることが知れた。
「あそこだ!」
夜眼の利くぬえが一点を指して叫んだ。
指し示された先に光を掲げると、壮烈な光景が白蓮の眼に飛び込んできた。
樹々の葉の暗緑色を押し退けるようにして、大地の赤い肌が剥き晒されて横たわっていた。中心には爆発によって生じたと思われるすり鉢状の孔が巨大な口を開けており、孔の周囲には根こそぎにされた樹々が乱雑に積み重なっていた。
二人はゆっくりと孔の縁に降り立った。辺りには、混じり気のない陰の空気が沈殿していた。山の妖怪たちの姿は見えない。だが、樹々の陰からこちらをひそやかに伺う気配だけは感じられた。いつもどおりのお祭り騒ぎなら、このような雰囲気になることはない。――ここで忌まわしい出来事が起きたのだ。白蓮はそう察した。
「聖!」
ぬえの切迫した声が飛ぶ。その悲鳴にも似た響きから、白蓮は己の中にあった不快な予感が現実のものになりつつあることを感じ取った。
ぬえは孔の縁から少し離れたところに跪いていた。彼女の背中の羽根の先端が、地面に触れるほど垂れ下がっている。その向こうに見える腕は、地面の上にある何かをしきりに揺すっていた。
彼女は何事かひたすら叫んでいたが、その声がひどく遠くに聞こえる。全力で駆けているにも関わらず、何故か一向にぬえの傍に近づくことができない。足が重い。もどかしさが焦りを駆り立てる。
ようやくにしてぬえの許にたどりついた白蓮は、彼女の手元に眼を落とした。
果たしてそこに、探していた少女が、変わり果てた姿で横たわっていた。
下半身は引きちぎれてどこかに消えており、残された上半身から内臓がだらしなくはみ出ていた。両腕はそれぞれおかしな方向に折れ曲がり、右の眼のあった所にはぽっかりと風穴が開いていた。そして、彼女はぴくとも動かず、息もしていなかった。その姿は、壊れて打ち捨てられた操り人形のようにしか見えなかった。
想像していた中でも最悪に近い状況を眼前に晒され、重い目眩が白蓮を襲った。だが、想定の範囲内ならまだ行動の余地は十分にある。白蓮は小さく首を振って気持ちを繋ぎ止めた。
「聖……! こいしの……こいしの妖力が……」
白蓮を見上げるぬえの両目から、大粒の涙が落ちた。
白蓮はぬえの頭を一度優しく撫でた後、素早くこいしの傍らに跪いた。そして、冷たくなったこいしの半身を腕に抱きかかえ、きつく眼を閉じた。すると、ややもしないうちに白蓮の腕から妖気が霧のように湧き出し、こいしの身体に流れ込み始めた。白蓮の妖気を受けたこいしの全身の輪郭が、ほのかに発光する。
こいしの肉体の損傷は著しいが、それ以上に深刻なのは彼女の身体から妖力が全く感じられないことだった。
もしも、完全に妖気が肉体から離れてしまっていては、もはや取り返しがつかない。だが、彼女の妖気が僅かでも身体に残されているならば、外からつぎ込まれた妖気を媒介にして意識を取り戻せるかもしれない。
白蓮にとって、このような事態は初めてではなかった。人間に封印されるより以前から、彼女は多くの傷ついた妖怪たちをこれと同じやり方でもって救ってきた。だが、それと同じくらい多くの妖怪が、彼女の努力の甲斐無くこの世から消えていった。
これまでの実績で考えれば、こいしが息を吹き返すかどうかは五分五分といったところだった。だが、白蓮は確信に近い気持ちでこいしの回復を信じ、妖気を送り続けた。
妖怪が生命の危機に瀕している時、一番大切なことはなにか。
それは、その妖怪の生を信じることだ。周囲がその妖怪の生や存在を心から信じることができるならば、その思いは直接の活力となって妖怪の身を満たし、ひいてはその生命を繋ぎ止めることができる。
しかし、その逆に少しでも妖怪の生存に疑念を抱いてしまえば、その妖怪の精神は敏感にその疑念を感じ取り、ますます弱っていくことになるだろう。そして、精神の虚弱化は直接、妖怪の命を削ることに繋がる。
白蓮は信じた。こいしの妖怪としての強さ、偉大さを。そして、彼女の笑顔のある明日が必ず来ることを。
ふいに、こいしの身体から自分以外の妖気が立ち上ってくるのを感じ、白蓮は眼を開けた。視界の端で二つの小さな手が、こいしの手を包んでいるのが見えた。
それは、ぬえの手だった。彼女は眼を固く閉じ、唇を真一文字に引き絞りつつ、祈るようにして胸元でこいしの手を握りしめていた。彼女の両瞼の端からは未だに涙が落ちるままになっており、またその喉からは時折嗚咽のような声が漏れていた。だが、彼女の掌から放たれる妖気は決して途切れる事なく、確かな圧をもってこいしの身体の中に注ぎ込まれていた。
胸の締め付けられるような感覚に襲われ、白蓮は思わず腕を伸ばしていた。その腕で彼女はぬえの身体を引き寄せ、こいしと共に胸の中に掻き抱いた。
ぬえの熱い体温が腕の中に感じ取れる。それと己の温度とが伝わり、氷のように冷たかったこいしの身体が次第にぬくもりを帯びてゆく。
「……ヶホ……」
白蓮の耳に、小さく咳の音が届いた。とっさに顔を上げると、同じく面をもたげたぬえと目が合う。
二人は、同時にこいしに視線を移した。その視線がこいしの喉、口元を撫で、次いで目元に至ったところでぬえの歓声が飛んだ。
「こいし!」
ぴたりと閉じられていたこいしの瞼がうっすらと持ち上がり、その隙間から潤んだような輝きが垣間見えていた。彼女の瞳は彷徨うように二、三度宙を舐めた後、白蓮の顔を捉えて止まった。
「……あ……白蓮……おねえちゃん……それに……ぬえちゃんも……」
こいしのかすれた声が耳に届く。白蓮は緊張した面持ちのまま、片方の手でこいしの切断された胴の端に手をかけた。
「じっとしてて。今癒しの法を施すわ」
こいしの身体に添えられた白蓮の手から、柔らかな光が滲む。すると、光に照らされたこいしの傷口が、ぐづぐづと泡を吹いて沸き立ち始めた。肉体復旧の準備として施される滅菌法の作用だった。
こいしの身体が、ざわりと波打つように震えた。
「……寒いよ……おねえちゃん……。私、死んじゃう……?」
こいしがか細く震える声で囁く。彼女が先ほど流した涙の跡をつたって、再び幾粒もの涙が溢れ落ちた。
白蓮は毅然として眼を見開き、こいしを叱咤した。
「気をしっかり持ちなさい、こいし! 貴方たちみたいな妖怪はね、絶望した瞬間に死ぬの。もうこれ以上人間を恐れさせることができない、そう観念してしまった時に時に死ぬのよ。貴女は立派な妖怪よ、こいし。だから、大丈夫!」
妖怪の自信を鼓舞する言葉だった。たとえ周囲の者が信じても、当の妖怪自身が自らの生を信じ切れなければ、助かる命も助かるものではない。
こいしは暫くの間戸惑ったように視線を彷徨わせていたが、やがて腹を決めたように瞼を閉じた。そうしてから、二度、三度と大きく深呼吸をする。喉元からヒューヒューと空恐ろしい音が聞こえたが、狼狽えることなく呼吸を続けていくと、次第に彼女の表情は和らいできた。
彼女は僅かに首を傾げて白蓮の胸の先に頬を当てた。柔らかい感触の向こうに、白蓮の心臓の鼓動が感じられた。
「白蓮お姉ちゃんの身体……あったかい……」
うわ言のようにそう呟くと、こいしは再び深い眠りの中に落ちていった。
***
沈黙の支配する部屋の中に、万年筆の滑る音だけが響いていた。
心理描写の多いシーンを書き始めると、古明地さとりの筆は止まらなくなる。彼女は瞬きも忘れて執筆に耽っていた。
筆が乗っている時、さとりの集中力は極限まで研ぎ澄まされる。集中力が高まれば、自然と執筆に不要な感覚が閉じていく。それは、人間も妖怪も同じだった。
ただでさえ気配の薄いこいしが部屋に入ってきて、いそいそと着替えをしていても、今のさとりには気づく由もなかった。
ようやっと一つのシーンを書き終えて一息つこうと顔を上げた時、さとりの眼に飛び込んできたのは、部屋を出ていこうとするこいしの姿だった。
さとりは今日初めて見る妹の背中に声をかけた。
「あらこいし、今日もおでかけ?」
「うん! 今日から修行するの!」
「えっ!?」
扉の前で振り向くなり笑顔でそう言ってのけるこいしに向けて、さとりの素っ頓狂な声が飛ぶ。想像だにしていなかった返答だった。
こいしは姉の当惑など意にも介さなかった。溌剌とした声で「行ってきまーす!」と挨拶すると、踵を返して部屋を出ようとする。
「ちょ……待ちなさい、こいし!」
「?」
不思議そうな表情を浮かべて、こいしが再び振り返る。その姿を、さとりは苦々しげに見つめていた。
地上から白蓮の弟子がやってきて平伏する勢いで詫びを入れてきたのは、もう一週間以上前のことだった。
本来は住職が出向いて申し開きするのが筋ではあるが、如何にしても手が離せない故、代理として罷り越した云々、尼僧の姿をしたその妖怪はまず前置きした。その後、非常に言いづらそうな様子で彼女がしどろもどろ語った内容を端的に纏めると、こいしが地上の人間と闘い瀕死の重傷を負ったということだった。そして、彼女の蘇生のために白蓮が介抱にあたっていることを尼僧は付け加えた。
その報告を聞いた直後から翌日までの記憶がさとりにはない。気を失ってそのまま寝込んでしまったのだ。
翌日になって、白蓮が連れてきたこいしは、衣服こそ違えど五体は満足に揃っており、さとりを心底安堵させた。だが、意識は未だ混濁した状態であり、安静を必要としていた。
白蓮は引き続き地霊殿でこいしの介抱を続けたいと願ったが、さとりはにべもなくその申し出を断った。正直なところ、もう一秒たりとも白蓮の顔を見たくなかったのだ。
こいしが意識を取り戻したのはそれから一日過ぎた頃で、さらに一日も経つと、もうすっかり元気になって部屋の中を走り回るようになった。そして今では、地底のどこやらで遊びまわっては泥だらけになって帰ってくる、普段通りのこいしの姿に戻っていた。
ようやくにして平穏な日常が戻ってきたと思った矢先の、こいしのこの発言である。さとりが仰天するのも無理なかった。
だが、さとりはそのような心中を気取られないよう、努めて冷静に振る舞おうとしていた。彼女は机の上でその小さな手を組むと、真っ直ぐ威圧的な眼でこいしを見据えた。
「ねえこいし、お願いだから、もう地上に行くのは止めて」
押しこむような物言いだった。しかし、どのような心理的圧力もこいしには暖簾に腕押しというものだった。
「どうして?」
さも不思議そうにこいしは尋ねてくる。
「どうして……って……。貴女、この前死にかけたばっかりでしょう!」
「ああ、そのこと? 大丈夫だよー。もう危ないことはしないから」
「貴女が危ないことをしなくても、向こうから危ないことがやってくるかもしれないでしょ!」
「大丈夫だって。その時は白蓮お姉ちゃんとかぬえちゃんが守ってくれるよ。そんなこと気にしてたら、地上じゃ生きていけないよ」
人差し指を左右に振りながら、こいしは諭すようにそう言った。歯噛みするさとりを他所に、こいしは落ち着き払って話を続ける。
「……お姉ちゃん、私、今ね、早く修行したくて仕方ないんだ。もうウズウズしちゃって。私ね、白蓮お姉ちゃんみたいに立派な妖怪になりたいの」
「ダメよ!」
姉のヒステリックな声に、こいしの肩がビクリと震える。さらに、間も悪く扉の隙間から顔を出したお燐も、さとりの叫び声を聞いて慌てて首を引っ込めてしまった。さとりはばつの悪そうな顔で咳払いを一つすると、努めて穏やかに言い直した。
「あんな女を見倣っちゃダメよ、こいし……!」
「どうして? 私もあんなふうにやさしくて強い妖怪になりたいの。それがいけないことなの?」
さとりにはなぜか、妹の姿がひどく真っ直ぐに見えた。彼女はおずおずと眼をそらすと、蚊の鳴くような声で呟く。
「……貴女には私と同じになってほしくないの」
「? 言ってる意味がわからないよ。どうしてお寺に行くと、お姉ちゃんと同じになるの? どうしてお姉ちゃんと同じになることが悪いことなの?」
「それは……」
――貴女も私と同じよ。
耳の奥で、再びあの声が囁く。
さとりの両眼がにわかに落ち着きを失い、きょどきょどとあちらこちらに視線が移ろい始めた。その手も胸元を押さえたかと思えば唇に触れたり、髪に触れたりとせわしない。今や彼女は哀れなほどの動揺を見せていた。
今にも泣き出しそうな声が彼女の喉から漏れる。
「私は、私のことが……」
「私は、お姉ちゃんのことが大好きだよ」
さとりの言葉を遮って、こいしはそう言い放った。さとりが当惑して目を上げると、真摯な眼で見返すこいしの視線とぶつかった。
「私はさとりお姉ちゃんみたいにやさしくて、立派な妖怪になりたい。でも、白蓮おねえちゃんも、さとりお姉ちゃんと同じくらいやさしくて、立派な妖怪なんだ。さとりお姉ちゃんと白蓮おねえちゃんは、すごく良く似てる――。だから、お寺で修行すれば、きっとさとりお姉ちゃんみたいになれると思うの」
さとりはただじっとうなだれてこいしの言葉を聞いていた。見下ろす原稿用紙の上に、眼から溢れた雫が一つ、二つと落ちる。それまでおろおろと二人の少女のやりとりを見ていたお燐が、それを見るや、弾かれたようにさとりの元に駆け寄っていった。
一方のこいしは、ひどく落ち着いた声で「いってきます」とだけ言い残し、ゆるりと部屋を出て行った。
部屋の扉が閉まると同時に、さとりは糸の切れた人形のように椅子の上に崩れ落ちた。その膝に、お燐が飛び乗る。
こいしが去り静けさの戻った部屋には、さとりの嗚咽だけが響いていた。
「さとり様……」
膝の上から主人の顔を覗き込むと、額や鼻に温かい涙がぽつぽつと落ちてくる。ぼんやりと見開かれた目から涙が一粒溢れるたびに、さとりの中身が一粒ずつ抜けていくような感じがした。お燐はいたたまれなくなって、主人の腹にその小さな頭を何度も何度も擦り付けていた。
そのうちに、さとりの手がゆるゆるとお燐の背中を撫で始めた。時間をかけて、ゆっくりと繰り返し、毛並みに沿って指が滑る。さらにしばらくすると、彼女はお燐の身体を両手で抱え上げ、腕の中にふわりと包み込んだ。さとりのふくよかな頬が、お燐の首元にあてがわれる。
お燐はただ黙ってさとりのなすがままにされていた。今なら、いくら心を読まれようと構わなかった。むしろ遠慮無く読んでほしいとすら思えていた。己の胸の内にあるものが、主人の心を少しでも癒すことができるのなら、それはきっととても嬉しいことだ。
どれだけの時間が経っただろう。さとりはもう幾分落ち着いたようだ。整った呼吸によって、お燐の身体はさとりの胸の上でゆっくりと上下する。
さとりはお燐の脇に手を入れると、そっと床に下ろした。名残惜しそうにお燐の頭を撫でながら、彼女はやや掠れた声で言った。
「お燐、こいしを、お願い……」
「でも……」
口ごもるお燐。さとりにはその心の裡が、はっきりと判っていた。
(今はさとり様の側に居てあげたい……)
さとりは己の意志が揺らぎそうになるのを必死で堪え、絞りだすように一言発した。
「……お願い……」
お燐は喉を低く鳴らし、じっと主人の眼を見ていた。憔悴こそしていたが、もはやその眼の中に動揺の色はなかった。一瞬、お燐の前脚がさとりに向けて伸びたが、すぐに思い直したようにその脚は降ろされた。
諦めたようにお燐は力なく項垂れる。
「……わかりました……行ってきます」
そう一言言い残し、お燐はとぼとぼとさとりの許から離れ、部屋の扉に向かって歩いて行った。時折、気遣わしげにさとりの方を振り返りながら。
「……ありがとう、お燐……」
部屋を出て行くお燐を見守りながら、さとりは小さな声でそう呟いていた。
***
木の枝に括りつけられた布片が、圭太の頭の上にぶら下がっている。先刻着物の袖を破って目印として定めたものだ。もうその絵面を何度見たかわからない。
悪夢ではない筈だったが、そう圭太が錯覚するのも詮なかった。
圭太は道に迷っていた。勝手知ったる妖怪の山でだ。
歩けど歩けど、回廊を巡るかの如く何度も同じ場所に戻ってくる。狐狸妖怪のまやかしならすぐにそれと知れる筈だが、それらしい妖気は感じられない。空間そのものが輪のように歪められていて、その中に封じられているとしか思えなかった。
なぜこんなことになってしまったのか。圭太は下生えを踏み分けながら、記憶を過去へと遡り始めた。
一週間前にこいしを滅ぼしてからこのかた、圭太は屋敷に釘付けにされていた。寺の妖怪の執拗な監視があったためだ。しかし、つい先日人里の名士が身罷ったことを受け、寺では葬儀の準備に手を回さざるを得なくなった。すると、それまで一時も失せることのなかった監視がにわかに途切れたのだ。
寺の者が来れないのなら、代わりに山の妖怪が来るのではないかと危惧したが、それは全くの杞憂だった。少なくとも、その時は杞憂だと思っていた。それで、圭太は無邪気に喜び勇んで妖怪の山まで繰り出してきたわけだが、それがこのザマである。
今にして思えば。、監視が薄かったのは自分を山におびき出す罠だったのだろう。まんまとしてやられたことへの悔しさに、圭太はきつく歯噛みした。
しかし、そうだとすれば次に気になるのは、この策を講じたのが誰かということだ。今引っかかっている罠が空間操作の術だと仮定して、山の妖怪の中にそのような技を使う者がいるという話を圭太は聞いたことがなかった。そもそも、この幻想郷でそのような力を操る者といえば一人しか思いつかない。
「ご明察」
突然、背後から幼い娘の声が聞こえた。圭太は慌てて振り返る。
一瞬だけ、視界の端に人の形をした姿が映ったかと思ったが、視線が定まってから目に入ったのは文目も知れぬ闇ばかりだった。
文字通り、闇ばかり。明らかにおかしい。今さっき歩きながら見ていた筈の樹々の姿も下生えも見えないというのは。
眼をすがめると、闇の奥に何かが浮かんでいるのがかすかに見えた。
無数の巨大な眼だった。それらは、感情もなく一斉に圭太を注視していた。
「活きのいい人間がいるって聞いたから久しぶりにこちらに来てみたけど、驚いたわ。まだ子供じゃない」
再び背後から声がする。
振り向いた先も闇だった。今や圭太は完全に闇に取り囲まれていた。そして、闇の中に張り付くように並ぶ無数の眼。
その眼を背負うようにして、二匹の妖怪の姿がおぼろげに浮かび上がっていた。一方は無数に分かれた立派な尾を持つ妖獣。もう片方は、闇に紛れる紫色の服を着た少女だった
少女の方が圭太を見てにっこりと笑う。
人間が見てはならない類の笑顔だった。美しいが、何かが決定的な過不足を起こしている笑顔だ。胃の腑を掴まれるような戦慄が走る。
「はじめまして。八雲紫と申します」
丁寧なお辞儀をして、少女は顔を上げる。その眼には妖しげな光が満ち満ちていた。
圭太の喉が鳴る。心臓が早鐘を打ちはじめ、全身の毛穴が開き汗が吹き出す。
幻想郷の支配者、八雲紫。
幻想郷の人間の中で、その姿を見た者は殆どいない。その存在は幻想郷縁起に明記されており、妖怪や一部の人間の口を通じて人里でも認知されてきた。
圭太も、この妖怪のことはおぼろながら知っていたが、実際に目にするのは当然のことながら初めてだった。
風貌を見れば、たしかに伝え聞く通り。異人の如き金色の髪を靡かせる、美しい少女の姿をした妖怪。だが、かつて誰一人としてその幼い姿に惑わされた者はいなかった。彼女の藤色の瞳を一目見れば、彼女がただの少女でも、ただの妖怪でもないことが知れた。
傍らに立つ妖獣の方は、圭太も人里で時折見かけることがあった。八雲藍。彼女は八雲紫の式神で、遥か昔に三国を窮地に陥れた九尾の狐と呼ばれる大妖怪の生き残りだった。その種の名が表す通り、金色に輝く九つの尾を持つ妖獣だ。
圭太は身の震えを抑えつけつつ、足元から己を覗きこむ目玉に向かって唾を吐きかけ粋がってみせた。
「幻想郷最強の妖怪のお出ましか……。さっきから同じ所をぐるぐる回らされてたの、あんたの仕業か?」
「ええ。楽しんでもらえたかしら?」
「……。何を楽しめばよかったのか教えて欲しいんだけど」
「あら。子供にはちょっと難しかったかしらね」
この妖怪の思考は常人には全く理解できない。圭太は余計な返しをしたことを後悔し、今度は単刀直入に尋ねてみた。
「……何しに来た?」
「私にそれを言わせるの? 野暮な子ね。貴方が答えなさいな。何しに来たと思います?」
「殺しに来たのか」
紫は答えずに静かに微笑んだ。それから、傍らに立つ妖獣に顔を向ける。
「藍、この子のこと、どう思う?」
「どうと言われましても……。自分の立場をわかっているようですし、それなりに血の巡りは良い方なんじゃないですか? あと、ムダのない彼みたいな話し方、私は好きですね」
藍は困惑した風に眉を曲げながら、そんな答えをひり出した。式の緊張感のない答えに、紫はたまらず吹き出してしまう。それから彼女は大げさに首を振って、いつものようにたしなめにかかった。
「……まったく、貴方のその合理主義的な頭はいつまで経っても変わらないわねえ。ムダなものこそ美しいのに、それがわからないなんて。……つまらないわ、二人ともね」
「はあ」
気の抜けそうになる会話だった。彼らの目的は己の命ではないのではないか、そんな考えが一瞬だけ圭太の頭の片隅をよぎった。
だが、その考えはただちに改めなければならなくなった。
空気の重さすら変えるほどの殺気と、匂い立つ蜜のような妖気が紫の全身から放たれ、圭太の肌を圧し始めたのだ。重い妖気を思い切り肺に吸い込んでしまい、圭太は思わず二、三度咳き込む。
紫は手に持っていた扇子を開くと、それで口元を隠した。扇の端から覗く二つの眼が、妖艶な光を放ちながら圭太を射抜く。
「さて……。これまでずいぶんと貴方、妖怪をコケにしてくれたわけだけれど、そろそろ借金を返してもらわないといけないわね」
「借金?」
「今迄のツケってことよ。幻想郷に生きる影響でたまたま手に入れた力に奢って妖怪への恐れを怠って来たそのツケ、そろそろ返してもらわないと困るのよね」
「妖怪を恐れる? バカ言うな。僕はもう妖怪なんか怖くないんだ。そうとも。ここでアンタ等をぶっつぶせば親父たちの夢が叶うんだ。飛んで火に入る夏の虫ってやつだ」
圭太はなおも強がる。彼を見る紫の瞼が、柳の葉のように細くすぼまった。
「それは貴方が本当の妖怪の恐さを知らないだけ。だから今から教えて差し上げるわ」
「妖怪なんてどれも一緒さ!」
「ふふ……、そう思う?」
紫の言葉が終わるより前に、唐突な衝撃が圭太の横っ面を叩き、彼の身体を弾き飛ばした。圭太は受け身も取れず、無様に地面に這いつくばった。
何が起きたのかわからず目を上げると、妖獣が鋭い爪をむき出しにして己に向かって飛び込んでくるのがほんの一瞬眼に映る。その段になってようやく、すでに事は始まっているのだと圭太の頭は理解した。
藍が圭太の身体を跳ね上げようと脚を出した瞬間、圭太は身を翻して難を逃れる。彼は退きざまに立ち上がり、ただちに敵との距離を置く。すると、休む間もなく藍の手から放たれた波状の弾幕が襲い掛かってきた。
初撃で口の中に溜まった血反吐を吐き捨てる暇もない。しかも、恐るべきことに、眼の端に映る八雲紫は二人の戦いを腕を組んで見守るばかりで、まだその本領を一切発揮していないのだ。
と、その紫の姿が視界の端から消えた。折しも、圭太が早々と一発目の霊撃を放とうとした時だった。
「せっかちねえ」
三度、背後からの声。振り向く暇もない。灼くような衝撃が圭太の背中を迸る。空に跳ね上がった圭太の身体を、上空で待ち構えていた藍が毬のように蹴飛ばす。
背中から地に叩きつけられたが、不思議と痛みは薄かった。
すぐさま立ち上がろうとする。しかし、身体が言うことを聞かなかった。首を巡らして見ると、闇の中から伸びた真っ黒な髪の毛のような何かが、己の腕やら脚やらを縛り上げていた。
二人の妖怪が両脇に立ち、一片の感情も含まない眼で圭太を見下ろす。
圭太は血の混じった唾をまき散らしながら喚いた。
「くそっ! ひ、卑怯だぞ! オマエら幻想郷最強なんだろ!? なのにスペルカードルールを無視するなんて……!」
「スペルカードルールなんて知ったこっちゃないわよ、ねえ。それが貴方の望みなのだから」
紫は手に持った傘の先端で圭太の鼻先を小突いた。
「……くそ、くそ! 上等だ!」
圭太の悪態はすぐに悲鳴に取って代わった。紫の傘の先から放たれた光弾が、圭太の肘を穿ったのだ。骨の折れる乾いた音がする。悲痛な叫び声が闇の中に虚しく響き渡る。
四肢を縛っていた戒めが解けた。圭太はそれを気取るや、すかさず残された方の腕で空を横ざまに薙ぎ払った。
妖気の波動が至近距離に立つ紫の身体に衝突し、火花を散らして炸裂する。圭太は遮二無二腕を振り回して目眩ましの弾幕を大量にばら撒きつつ、両足を使ってじりじりと後じさった。
折れた腕の痛みが、やかましいほどに死を連想させる。
妖気の煙がもうもうと立ち込め、周囲の視界を遮る。このような攻撃は通常なら煙幕がわりにできるものだが、この空間の中では全く有効でなかった。せいぜい、寿命を数秒後倒しにする程度の効果しかない。分かり切ったことだ。ここは、今相手している隙間妖怪が作り出した、彼女のための空間なのだから。
妖煙の向こうから二妖怪の会話が聞こえてくる。案の定、いかなる動揺も感じていない声だった。
「ほら、紫様、お伝えした通りでしょう。この少年は本当に活きが良い」
「全くね。でも、昔はこんな人間が沢山いたのよ。いつの間にか皆、根性がなくなってしまって」
煙が退き、闇の中に再び妖怪の佇まいが浮かび上がる。彼女らは先ほど圭太を見下ろしていた場所から一歩たりとも動いていないが、生傷どころかその着り物にすら綻び一つついていない。
紫は優美な笑顔を湛えつつ、圭太に向かって小首を傾げて見せた。
「でも貴方は運がいいわ。現代ではもう誰も知ることの無くなった真の妖怪の恐怖を味わえるのだから」
無数の眼の浮かぶ暗闇の中に、妖狐の目と、隙間妖怪の目が、ひときわ強い光を放って揺らめく。
これは戦いではない。私刑だ。
そんなことはこの空間に誘われた当初から薄々感づいてはいたものの、彼女らの眼のうちに潜む厳然たる光を目の当たりにして、圭太の中でその思いはようやく確信に変わった。
圧倒的な力量を持つ者が、一切の油断なく罠を張り、間違いのないよう式まで従えて一人の人間を監禁しにかかったのだ。逃げる術などないと見るべきだったし、また、例えあったとしても圭太の持つ知識では如何にすれば良いかなど思い浮かびもしなかった。
しかし、残された選択肢はまだある。命乞いなど、まだ試していない手段ではあった。
だが、圭太はそんな手段に目もくれず、別の目標に狙いを決めた。
この私刑を、どうにかして戦いと呼べるものにまで発展させる。それが、圭太が心に定めた目標だった。
妖怪に対して恐れを抱いた時、その時こそ、人間は妖怪に敗北する。
圭太は片腕で身体を支えながらよろよろと立ち上がる。そして、目を上げる。
二人の妖怪の姿が消えていた。
「――で、誰を殺すって?」
耳元で聞こえる声。温かい吐息が耳にかかる。飛び退って周囲を見回すが、姿が見えない。
ふと、下腹部の辺りに違和感を覚えて眼を落とす。
鮮やかな桃色の管が眼に収まる。それは服の裾からはみ出して、太ももに向かってどろりとぶら下がっていた。性器でも露出したのかと思い、圭太は慌ててそれを掴む。生暖かい感触が掌を滑る。
「う、うわ、うああああああっ!」
「初めて見るでしょう。それは貴方の小腸です。肉体の境界を、少しばかりいじりました。痛みで恐怖を喚起するというのも芸がありませんから」
圭太は恐慌に陥ったまま、転がるように駈け出した。逃げる場所などないことも忘れて、脚が動く限りに走った。
全力で駆けているにもかかわらず、距離を無視した声が耳に届く。
「私、他にも色々と面白い芸を持ってるのよ。今夜は特別にその一部をご覧に入れましょう」
それから先は、圭太にとって長い悪夢でしかなかった。
数刻後、横たわっていたのは生きた肉塊と成り果てた圭太の姿だった。内臓の半分以上が外気にさらされて体液が滲み出ており、巨大なナメクジのごとき生き物に成り果てていた。残された元の面影はほんの僅かしかなく、ただ二つの眼と、声帯から漏れる呻き声のみが圭太のそれと判る程度だった。
圭太はそのような状態になっても、まだ生きていた。彼自身の意識は鮮明であるし、肉体に感じる痛みも最初の骨折からくる鈍痛のみ。だが、隙間の力で各器官を限界まで弄くり倒された結果、肉体は平衡を完全に失っており、もはやとてもではないが自発的に動くことはできなかった。
ぐずぐずと痙攣する肉塊を見下ろす藍の眼には、困惑の色が浮かんでいた。
「お戯れが過ぎますね、紫様。殺しましょう。この人間をこのまま生かしておくのは危険です」
「何を言ってるの、殺してしまったらむしろ詰むわよ。生かしておいた方が都合が良いのよ」
己の式を小馬鹿にしたような眼で見ながら、紫は肩をすくめた。藍はなおも食い下がる。
「しかし、万が一、里の人間に徒党を組まれては、幻想郷の存在も危うくなります」
藍の言葉を最後まで聞くと、紫は大仰にため息をつき、芝居がかった所作で首を左右に振った。
「読みが甘いわ、藍。貴女にはまだまだ教育(プログラミング)が必要ね。ま、良いわ。帰って高みの見物としゃれこみましょう」
言うと、彼女は踵を返して闇の中に溶けて消えていった。藍もそれに続く。
後に残された圭太もまた、暫くすると闇の底に向かってずるずると飲み込まれてゆき、ついには完全に姿を消した。
そうして紫の創りあげた異空間には静寂が訪れる。後に残された無数の目玉は、無表情に虚空を凝視していた。
***
積もるほどの静寂で満たされた部屋の中に、書物のページを捲る音だけが響く。部屋の片隅に据えられた座卓の上に書物を開き、左之助は今夜も読書に勤しんでいた。
左之助は妖怪に立ち向かうことを決意して以来、妖怪についての調査を一日も欠かしたことがない。一日に一行でも妖怪について新たな知見を得なければ気が済まなかったのだ。
彼はもはや、人間より妖怪についての方が詳しいとさえ言えた。
彼がなぜそうまで偏執的に情報蒐集を行うかといえば、ひとえに妖怪撲滅という目標を達成するためだ。彼を突き動かすものは、妖怪に対する静やかなる憎悪のみだった。
なぜそうまで妖怪を憎むのかについては、彼の心の中に尋ねてみるより他はない。彼は他人に対し決して自分の本心を伝えることのない男だったし、家族に対してすら多くは語らない性格だった。
彼の両親は外界からこの幻想郷にやってきた者たちで、その両親は彼が幼い頃に亡くなっている。そのことが関係しているのではないかと噂する者もいるが、その実際は、本人以外の誰も知らない。
彼にとって、少なくとも幻想郷の妖怪に関して言えば、知らない種類のものは皆無だった。一人一種族の妖怪であろうと、一目見ればその妖怪の名を言い当てることができた。
その左之助の知識を総動員しても、この時見た化け物の種の名を呼ぶことはできなかった。
突如、彼が読む書物の上に、鮮やかな桜色をした巨大な物体が、派手な音を立てて落下した。さすがの左之助もこれには肝を冷やし、尻もちをつきながら後退った。彼は即座に気を取り戻すと、床の間に据えてあった刀の鞘を引っ掴んで、躊躇いなく抜刀した。
抜きざまに斬ろうと振りかぶった時、その物体から低く長い呻き声が発せられるのを左之助は聞いた。
落ちてきた物体は、よく見てみると肉の塊だった。それは明らかに生きている様子で、全身にびっしりと張り付いた血管が不気味に脈動している。人間でいう内臓にあたる器官のようなものが、身体の外側を包み込むようにへばりついているように見えた。
その生き物からは強烈な臭気が放たれていた。その匂いについては明確で、糞の匂いだった。この生き物には肛門括約筋が存在しないのか、直腸らしき器官から止めどなく褐色の塊がひり出されている。
そして、先ほどの呻き声は、肛門とは真逆の位置にある穴――おそらくはそれが口なのだろうが、そこから聞こえてきた。その口らしき穴から、再び声が漏れる。
「お、親父……」
その声を聞いた途端、左之助の顔色が死人のごとく青ざめた。
聞き覚えがあるどころではない。今朝の食卓でも聞いた声だ。
「け、圭……太……?」
芋虫のようにのたうち回るその醜い肉塊の名を、左之助は呼んだ。
古明地さとりの創作に対する意欲は決して尽きることがなかった。登場人物の心情を考え、人物同士の関係性を元にして心情の変遷を組み立て、原稿用紙の上に文字として反映していく。その作業はさとりにとって、他者の心を読むのと同じほど興奮するものだった。
執筆が一段落し、一息入れようとして顔を上げる。すると、寝間着姿のこいしが部屋に入って来て、さとりには見向きもせずに部屋の隅の箪笥に近づいていった。そして、おもむろに一番下の引き出しを引くと、中に入っている洋服を片っ端から引っ張り出して部屋中に散らかした。彼女が着替えるときは大抵こんな風に箪笥の中を全部ひっくり返して絨毯の上に並べ、それから着たいと思う服を選ぶのだ。
そんな大騒ぎをしても、結局いつも同じ服を彼女は選ぶのだが……。
なぜさとりの部屋にこいしの着替えがあるかと言えば、さとりがペットに言いつけて持ち込ませたのだ。彼女は、そうまでしてでも、こいしの出入りを把握したかった。こいしはそれを嫌がるどころか、自分の部屋が広くなると言って喜んでいのだから、世話はない。
大量の服を前にうんうんと悩んでいるような姿を見せるこいしに対し、さとりは落ち着き払った声で話しかけた。
「こいし、今日もおでかけ?」
「うん!」
「今日はどちらまで?」
「お寺!」
「えっ!? 今日も?」
「うん! ぬえちゃんと遊ぶの!」
「ちょ……待ちなさい、こいし!」
いつも通りにいつもの普段着を来て出て行こうとするこいしを呼び止めるが、こいしはさとりの声なぞ聞かずに颯爽と部屋を出て行った。
後に残されたさとりは机の上で頭を抱える。ここのところ、こいしは毎日命蓮寺に遊びに行っている。入門こそ確かに許したものの、せいぜいがひと月に一日か二日遊びに行く程度で済むと思っていた。
今はまだ良い。寺の妖怪と遊んでいるだけならば、あの住職の精神に影響を受けることは少ないだろう。
だが、頻繁に寺通いを続けて行くうちに、いつかあの住職の色に頭から染まってしまうかもしれない。
さとりは、こいしが外の刺激を受けることは大いに結構だと思っていたし、それを望んで入信を許可したわけだが、本物の信者になってほしくはなかった。
白蓮の宗教は仏教を基礎として妖怪のためにアレンジされた彼女独自の教えであり、その宗教を信じるということは、白蓮本人を信じることと同義だ。
さとりは白蓮を心から信じることができずにいた。
白蓮が善意でこいしを勧誘して来たことはよくわかっていた。だが、他者の善意が必ずしも良い結果をもたらすとは限らない。そして、未来のことはさとりにも与り知らぬところだった。
さとりは決然と顔を上げ、悲鳴じみた声でペットの名を呼んだ。
「お燐!」
「はーい。何でしょう、さとり様」
「今日もこいしが寺に向かったわ。悪いけど、またあの子の様子を見て来て頂戴」
「了解しました! 早速行って参ります(こいし様が毎日寺に通ってくれるおかげで、毎日アユにありつける……。仏様のご加護、ありがたや、ありがたや……)」
そんなお燐の心を読み取った途端、さとりの顔がみるみるうちに紅潮する。気づいた時には、さとりは机を叩いて立ち上がり、ヒステリックにお燐を罵っていた。
「お燐、貴女はどっちの味方なの!?」
「にゃにゃっ!? どうしたんですか急に!?」
主人が突然怒り出したので、お燐はびくりと毛を逆立てる。
さとり妖怪を相手に会話しようとすると、時折このように会話にならなくなる。特に意識せずにふと思いついたことでも、さとりには筒抜けになってしまうから、会話の前後関係がおかしくなってしまうのだ。
「いいからさっさと行きなさい! こいしを見失っちゃうでしょ!」
「は〜い……(あーあ、これだからさとり様と話すのは嫌なんだよなあ)」
けだるそうに机から飛び降り、お燐はのそのそと部屋を出て行く。さとりは喉元に出かかる悪態を必死にこらえながらそれを見送った。
このようなやりとりは、地霊殿ではいつものことだった。さらに言えば、地霊殿に住み着く前、地上にいた頃から延々と、彼女はこのようなやりとりを他者と続けて来たのだ。
さとりは何度も深呼吸をして心を落ち着かせようとした。だが、すこし落ち着いたと思って机に座り、執筆に戻ろうとすると、頭の中に先ほどのお燐の言葉が蘇ってきて、彼女の心を乱暴にかき乱す。とてもではないが、集中できたものではなかった。
空元気で執筆を続けようとしたものの、どうやっても集中力を取り戻すことができないと分かると、さとりは椅子から立ち上がり部屋のベッドの上に突っ伏した。
目を閉じる。瞼の裏に広がる暗闇が心の雑音を打ち消すのは一瞬だけで、すぐにその暗闇の中に妄執が広がり始める。虚空の中にぽつりと、白い目が浮かぶ。目は最初は一つ、しばらくすると二つと、次第に数を増していく。
眼球の漂う先の闇から、声が聞こえる。
――嫌な奴が来たなあ。近づかないでおこう。
――うわあ、面倒くさい奴が来た。
――恥かかせやがって……死ね!
――知り合いヅラして近づいてくるなよ……迷惑だから。
地上にいた頃、何度となく向けられて来た拒絶の声だった。その目が一つ増える度に、さとりはベッドの上で低く長く呻いた。
呻けども誰一人として側に居てくれる者はいない。ペットでさえもだ。それは当然のことではあった。彼らは本当は、心の中でさとりを恐れているのだ。
こいしが心を閉ざす前は、彼女だけが唯一の理解者だった。そのこいしも、今はもう変わり果て、己の側にいることはなくなった。
トラウマという言葉を、さとりは最近知った。己の心を苛むこの妄執の正体を知ろうと探る中で見つけた言葉だった。和語で言えば『心的外傷』というらしい。
一度トラウマを受けてしまうと、ことあるごとに過去の辛い記憶がフラッシュバックし、己の行動に制限をかけてしまうという。
それはまさしく、地上にいた頃からさとりを悩ませ続けてきた症状そのものだった。
瞼をさらにかたく閉じる。すると、さとりを冷たく見つめていた妄執の瞳は、片端から沈黙して闇の底に沈んでいった。
さとりは意識的に闇の中に没入する。何も見えず、何も聞こえない、心の底を目指して。
心の底は、何者にも邪魔されない、さとりにとっての最後の安らぎの場所だった。虚無のごとき静寂の中で、さとりはようやく手に入れた安寧を胸に抱いてまどろみ始めていた。
声が聞こえたのはそんな時だった。
一条の光が静寂を切り裂きさとりを照らす。その光の先から、何者かの心の声が聞こえてきたのだ。
――貴女も私と同じよ。
それは、つい先日、己が白蓮に対して向けた言葉だった。だが、声の主は自分ではない。自分の心の声を読むことはできないのだから。では、誰の声か。
聖白蓮の声だった。
さとりはベッドからがばりと起き上がり、文机の前に座り直した。そして、再び原稿用紙の上に万年筆を滑らせ始める。
文字で埋められてゆく原稿用紙。その上に、何かが滴り落ちて文字が滲んだ。
***
夜もふけ、人間向けの酒場からも灯が消えた頃、未だ煌々と光の漏れる軒先があった。
人里の中央に位置する、葛城左之助の邸宅。その一間に明かりが灯り、障子の陰に薄ぼんやりと二つの人影が揺れていた。
部屋の中には、二人の男が机を挟んで対面に座していた。一人はこの家の主人である葛城左之助で、もう一人は彼の友人の佐伯吾郎である。
彼らは机の上に乱雑にうち広げられた書籍を敷物代わりにして、手酌で酒を吞んでいた。
左之助は小盃をあおって中身を飲み干すと、その刃のような切れ長の目を、机の上に広げられた本の上に落とす。
彼らが読む本は、全て、妖怪に関する書籍だった。彼らは長い時間をかけて、それらを里の書店から購ってきては、また長い時間をかけてそれらを読み込んできた。
二人は、『人間至上主義者』と呼ばれる者たちだった。
人里には、公に存在を知られていない組織や集団が少なからず存在する。彼らの目的は多種多様だが、概ね、人里において暗黙的に守られている規律、不文律といったものを意識的に逸脱する者たちと見て差支えはない。幻想郷全体でもその傾向はあるものの、人里における本音と建前の乖離は末期的様相を呈していたのだ。
そうした組織の中で、最近になって注目を集めるようになったのが、『秘密結社』と呼ばれる者たちだった。結社の正式名称は不明だが、天狗の新聞の単独取材に応じたことでその存在が明るみになった組織だ。新聞の取材に対し彼らの幹部がほのめかした組織の目的は、『人間による幻想郷の支配』という穏やかならざるものだった。しかし、その手段については目的に釣り合うほど過激ではなく、ひたすらに幻想郷中を走り回り調査を行うというものだった。
妖怪の手によってベールを脱いだ『秘密結社』だったが、彼らは里に存在する秘密組織の中の一つでしかなかった。実際は、前述のような組織が人里の中には無数に存在していたのだ。
『人間至上主義者』というのは、そうした秘密結社の中でも特に過激な人間同士で寄り集まって自然発生的に生まれた集団だった。彼らの主な目的は、実力行使による幻想郷からの妖怪の撲滅。実現すれば幻想郷自体の破壊に繋がりかねない危険思想ではあるのだが、実際のところ人間が暴力に訴えて妖怪に対抗するというのは非現実的な考え方だったため、彼らの存在は妖怪のみならず人間からも黙殺されていた。だが、当の本人たちは自分らの無謀ともいえる悲願がいずれ成就することを疑っていなかった。その証拠が、この『勉強会』だった。
書物の文字を熱心に追っていた吾郎が、ふと目を上げて、左之助を見やった。
「そういえば、左之助。お前、あの妖怪寺の住職をやりこめたそうじゃないか」
彼が話題に上げたのは、先日の人里の騒動のことだった。数日前、人間が化け物に変化するという騒ぎが起きたが、左之助が機転をきかせて騒動の元凶をつきとめたのだ。
話題を向けられた左之助は、にこりともせずに鼻を鳴らした。
「ふん。妖怪なぞ、他愛もない。叩けばいくらでも埃が出てくる。だがまあ今回の一件、寺への良い牽制になっただろう。連中は近頃、妖怪の分際ででかい顔しくさっていたから、溜飲も下がるというものだ」
言って、再び手酌で盃をあおる。
その時、左之助は己の背後から僅かな衣擦れの音がするのを聞いた。つっと背後の障子を開け放つと、そこには息子の圭太が、おののいた表情を顔に張り付けて立ちすくんでいた。
左之助は憤然と立ち上がると、ずかずかと足を鳴らして圭太に歩み寄り、物も言わずに息子の横顔を引っ叩いた。それは一度では済まず、二度、三度と続いた。
くずおれる圭太の口から血が糸を引いて廊下に滴った。それを見て、左之助はますます怒り、雷鳴のような怒号を息子の頭に向ける。
「馬鹿者! きちんと掃除しておけ!」
言い捨てると、彼は叩き付けるように障子を閉じた。
後に残された圭太は、着物の袖で廊下を拭いつつ、懲りもせずに部屋の中の声に耳をそばだてた。
障子の向こうから、吾郎の声が聞こえる。
「おい、左之助、やり過ぎじゃないか?」
「人の家庭のことに口を出すな。これは教育だ」
「なら俺の居ない所でやってくれ。人間が人間に手を上げるのを見るのは好きじゃない」
その言葉を、左之助の細い目が意味深げにますます薄く閉じた。「……いけしゃあしゃあと」なじるような左之助の声を、吾郎は薄ら笑いで受け流した。
「時に、次の会合の議題は何だ?」左之助が問うた。
「『人間に妖怪は殺せるか』」吾郎が横柄に答える。
「何かネタが手に入ったのか?」
「これを見ろ。数代前の御阿礼の子が著した幻想郷縁起の草稿だ。賢者の検閲が入る前のものだな」
「……『妖怪は、忘れ去られると、死ぬ』……?」
「こちらが正本の幻想郷縁起だ。草稿にあったこの項が丸々、正本では削り取られている。抜粋して読むぞ。『幻想郷では、人間と妖怪は共存関係にある。その共存関係が崩れた先に、互いの破滅が待っていることは想像するに容易だろう』『また、妖怪は精神的な攻撃に弱い。特に一般的かつ強力な対抗策として、言霊が挙げられる』『相手を忘れ去ったふりを続けたり、相手を恐れない旨伝える言葉をくどいほど何度も投げかけた結果、妖怪の存在が消滅したという事例が何件か報告されている』……。どうだ、左之助。妖怪の賢者の検閲が入って削られた項目となれば、それは妖怪にとって真に都合の悪い事柄だと思わないか?」
「素晴らしいぞ、吾郎。我らの悲願達成に向けて、大いなる前進だ」
「ああ。妖怪駆逐――。それこそが我らが秘密結社の悲願。我らが、この幻想郷に第二の維新を起こすのだ」
息を殺して盗み聞きしていた圭太の目は、話の進むに従い爛々と輝きを増していった。
彼は足音を忍ばせてその場を抜け出すと、早足で自宅の門を出た。
圭太の面差しが、冷たい月明かりに晒され、僅かに陰って見えた。その彫り深く見える顔貌に、僅か妖気を湛えた二つの瞳が、ちらちらと光っていた。
***
圭太は、一日の間、ずっと、夜が来るのを待っていた。
夜になると、ある種の力が身体の中に増してくるのだ。
幻想郷には、不思議な力を持った人間が幾人も居る。空飛ぶ巫女や、魔法使い、時間を操作するメイドまでいる。闘いに特化した能力でなければ、先祖の記憶を今も受け継いでいる人間や、どんな文字でもその意味を理解できる能力を持った人間までいる。
幻想郷は妖怪が跋扈する世界であり、そこに生きる人間たちは、幼い頃から日常的に彼ら妖怪と触れ合って育って来た。
先に並べたような特殊能力を持つ人間たちは、皆なにがしかの妖怪の力の影響を受け、その能力を身につけて来たふしがある。例えば、空飛ぶ巫女は空間を転移する能力も持っているが、それは幻想郷の支配者たる八雲の力の影響が大きいと思われるし、人間の魔法使いについても普段交友関係のある妖怪は、生粋の魔法使いであったり人間から魔法使いに転生した者であったりする。
圭太も彼らと同じように、不可思議な力をその身に宿した人間の一人だった。
彼は今、ただの一人で妖怪の山を疾駆していた。相当に長いこと、道から外れた急勾配を駆けていた筈だが、不思議と息は全く切れていない。これもまた己の身の内に宿った力の作用なのかもしれないと頭の片隅で思っていたが、正直圭太にとってそんなことはどうでもよかった。
彼は走りながら待っていた。何をか。知れたことだ。妖怪が現れることを、あるいは、哨戒の天狗に発見されることをだ。
正気の沙汰ではない。尋常な人間ならばそう思うだろう。
だが、彼には自信があった。
彼は既に山の天狗を二匹も血祭りに上げていたのだ。
圭太が己の力を知り、夜な夜な山の中で妖精相手に弾幕勝負をしていた折、運が良いのか悪いのか、彼は哨戒の天狗に見つかった。
天狗の身のこなしの速さについて伝え聞いていた圭太は、逃げることが出来ないと腹を決め、彼らにスペルカード戦を挑んだ。
いざ戦ってみれば、拍子抜けだった。あれだけ人里で恐れられていた天狗の弾幕は、圭太の身体を最後まで捉えることはできず、反対に天狗の自慢の機動力は、圭太の見よう見まねの霊撃数発にあっさりと封殺された。
勝負は水物だ。まぐれだったのか、完全な実力だったのかは分からない。ただ、河童や野良神程度の妖怪ではなく、下っ端とはいえ天狗を完膚なきまで圧倒したという経験は、圭太を増長させた。
この『事件』は、当初、山の妖怪たちの間ではほとんど話題に上らなかった。というのも、天狗組織内で徹底した箝口令が敷かれていたためだ。
仮にも天狗ともあろうものが、全く名前も聞かない人里の子供に遅れをとったと公に知れれば、山の支配者としての沽券に関わる。
天狗たちは他の妖怪たちに知られぬよう、仲間内だけでこのような号令を出した。
『山を彷徨く霊力の高い子供には手を出さず逃げること。彼に関する一切は同族以外に語るべからず』
この号令は天狗内にのみ伝えられた筈だったのだが、数日後にはその禁はあっさり破られていた。河童が天狗の巣に仕掛けた盗聴器からこの情報を知り、眷属やら友達やらに伝えた結果、圭太のことは妖怪の山のほぼ全ての妖怪たちの知る所となったのだ。
そういう訳で、今こうして山を駆ける圭太の気配を察した妖怪がいても、彼らは空気でも見るように扱った。
今や妖怪の山の住人の中で、圭太のことを知らぬ者はほとんどおらず、よしんばいたとしても一匹狼を気取る小物ばかりだったのだ。
そんな小物が一匹、木陰から圭太の前に躍り出た。見るとそれは、全身が毛に覆われた、小柄な妖怪だった。おおかた、人肉を食らって妖怪化した獣の成れの果てだろう。彼はだらしなく涎をたらしつつ、その口元に下卑た笑いを浮かべていた。
「人間の匂いがすると思って近づいてみれば、これはなかなか美味そうな童っぱだ」
圭太はしめたと思い、心の中で舌なめずりをした。目の前の妖怪の一挙手一投足は無駄が多く、どう見ても天狗より二三段劣る。先刻聞いた『妖怪を殺す方法』を試すにはうってつけの相手だった。
圭太は顎の上からその妖怪を見て、せせら笑った。
「なんだ。河童でもなければ天狗でもない、妖怪の山の社会にすら入れない鼻つまみ者じゃないか。どうせ、餌取りもろくにできなくて年中腹を空かせているんだろ」
「童っぱ。妖怪を侮ると後悔するぞ」
妖怪は獣のように低く唸る。
「本当は怖いんだろ? 妖怪を恐れない人間に会っちゃってさ」
圭太はそう言いながら、ちらと周囲に視線を投げた。どうも、木々の陰からこちらを伺う気配がしたのだ。
天狗か河童か。いずれにせよ、己の存在を知っている妖怪だろう。
――丁度良いや。妖怪が死ぬ瞬間ってのを見せつけてやる。
圭太はもはや口元に広がる笑みを隠そうともしなくなっていた。
妖怪はそれを見た瞬間、瞳を赤く燃やして圭太に躍りかかっていった。
***
日没後間もなく。こいしは忍び足で命蓮寺の参道を歩いていた。
白蓮に見つかるのは嫌だったが、もう一度ぬえと一緒に遊びたくて、気配を消しつつここまでやってきたのだ。
彼女の頭の中は、ぬえと一緒にどんな悪戯をしようかということだけで一杯になっていた。
本堂にたどり着くと、こいしは門の陰から中の様子を伺い見た。
本堂の中には大小様々な妖怪が集まっていた。彼らは皆一様に不景気な顔をぶら下げて、ひそひそと何事か囁き合っている。
こいしが見知らぬ妖怪たちの間をすり抜けて行くと、壇上に見知った面子を見かけた。一輪と雲山を除く命蓮寺の高弟たちが、白蓮を長として円座していたのだ。
彼女らは一様に緊張した面持ちで、真剣に、かつ激しく言葉を交わしている。そんな座の中に、こいしは素っ頓狂な一声とともに割り入っていく。
「みんな、怖い顔して、何してるの?」
皆が一斉にこいしの顔を見る。眉間に皺を寄せた彼らの顔を一つずつ見るにつけ、こいしは自分だけが明らかに場違いな存在だと感じたが、微塵も意に留めなかった。
珍しく真面目くさった表情のぬえが近づいて来て、こいしの隣に座った。
他の面々が各々に議論を再開するのを見ながら、ぬえは抑えた声でこいしに対して説明を始めた。
「ちょっと面倒なことになってるんだ」
「面倒なこと?」
「ああ。人里の人間の中に恐ろしく霊力の強い子供が現れたんだ。それでそいつが山の妖怪を無差別に退治してるんだとさ。で、こいつは噂なんだが、どうも妖怪が一匹殺されたらしい」
「妖怪が……?」
こいしは息を吞む。妖怪が死ぬというのは余程のことがない限り起こりえない。少なくとも、力勝負で人間が妖怪を殺すことはまず不可能だった。
もしそれが起こりえるとすれば、強力な精神攻撃に晒された可能性が高い。
ぬえは頷いて話を続けた。
「そいつがあんまり調子に乗ってるもんだから、面子を潰された天狗がカンカンに怒っちゃってさ。人里を攻撃するとか息巻いてるらしい。それで……」
ぬえは本堂に集まる妖怪の方に目をやった。
「それで、争いを望まない山の妖怪たちが寺に集まってきてるんだ。聖に助けを求めてね」
ぬえがそこまで説明したあたりで、本堂にたむろしていた妖怪たちからざわめきが起こった。
見ると、門の外の参道に、雲山に乗った一輪が今まさに降り立っているところだった。一輪は雲山から飛び降りると、一目散にこちらに向かって駆けてくる。
彼女は白蓮の側まで寄ると、額から玉の汗をこぼしつつ、報告を始めた。
「葛城様の邸宅を伺いましたが、どうにもいけません。妖怪に話すことはないといって、取りつく島もありませんでした。ただ、近所の人間の話によると、あの家の息子さんが夜な夜な一人で出歩いているのを度々見かけたそうです」
「そうですか……。やはり、ここに来た妖怪たちの話と辻褄が合いますね」
「どうします? 手をこまねいていると妖怪の山の天狗たちが暴動を起こしかねません。かといって、人間相手に争っては……」
そこまで言ってから、一輪ははっとして口を閉ざした。白蓮の表情が明らかに暗くなるのを見て取ったのだ。
白蓮は一輪の眼を真っ直ぐに見据えつつ、問うた。
「……時に、その人間の子供の名はなんといいますか? この中に、もしかしたらその子のことを知っている者が居るかもしれません」
「圭太という名だそうです。葛城圭太」
「ケイタ……? あれ、なんだろ。どっかで……」
「ぬえ、知っているの?」
ぬえはこめかみに指を押しつけ、必死に記憶の糸を手繰った。聞き覚えがあるような、ないような、曖昧な記憶だったが、何か心に引っかかるものがあったのだ。
ふいに、こいしの声が頭の中に響く。
『けいちゃん!』
(あの時の人間の子供か……!)
ぬえは、こいしと初めて遊んだ日、人里から離れるようにして歩み去って行く人間の少年がいたのを思い出した。
あの時、少年は、妖怪退治に向かっている所だったのだ。
こいしなら彼のことを詳しく知っているかもしれない。そう思い、ぬえは隣に座るこいしに声をかけようとした。
「こい……あれ? こいしどこいった? さっきまでそこにいなかったっけ」
「あら、そういえば……」
「こいしちゃんなら、さっき出て行きましたよ?」
白蓮の言葉に雲山がうなずく。寺の面子の中ではこの二者だけが、こいしの気配を察知できていたようだ。ぬえは白蓮の言葉を聞くと呆れ返って、自然と口をぽかんと開いてしまった。
(なーんでこのタイミングでいなくなるのかね? 無意識の妖怪ってのはホントに……。……ん? いや、待てよ……)
思考の途中で、ぬえはあることに気づいた。彼女は眉を寄せ、更に詳細なこいしの言動を思い出そうとする。
白蓮は、そんなぬえの表情の変化を注意深く見守っていた。
(こいしはあの時、圭太のことを友達だと言っていた。その圭太の名前を聞いて出て行ったとすると、それは)
嫌な予感がぬえの胸をかすめる。それと同時に、白蓮も何かを察して息を吞んだ。
ぬえと白蓮の目が合う。
「聖! こいしがその人間のこと、知ってる! あいつ、もしかすると、一人で……!」
ぬえの短い叫びに、白蓮は素早く頷いた。
「済まないけれど、皆は相談にきた妖怪たちの相手をお願い。私とぬえは、こいしを探しに行ってきます……!」
星、村紗、響子の三者がめいめいに是の意を示す。
そんな中、一輪はちらと雲山に目配せをしてから、白蓮の前に進み出た。
「聖様、私と雲山とで、葛城様のお屋敷を見張りに向かっても宜しいでしょうか。雲山と二人で見張っていれば、屋敷に出入りする者全てを把握できるでしょう」
白蓮はほんの僅かの時間黙考した後、小さく頷いて一輪を見た。
「確かに、今あの方の邸宅を放っておくのはまずいわね。一輪、雲山、お願いできますか?」
「お任せください。では早速参ります。……雲山!」
「聖! 早く!」
雲山を従えた一輪と、ぬえを従えた白蓮は、それぞれに本堂を飛び出して行く。
こうして、妖怪たちの長い夜が始まった。
***
「あの入道め、また戻って来おった……!」
左之助は廊下から夜空を仰ぎ、忌々しげに呟いた。
軒の陰から見上げる空は、重い雲に覆われていた。その雲の切れ目から時折、鋭い光が現れては地上を睨んでくる。
左之助とともに空を見上げていた家政婦が、おっとりした調子で呟いた。
「雪雲でしょうか。あ、あれは雷かしら」
「違う、莫迦。あれは妖怪だ」
先刻追い返したばかりの妖怪入道雲が、再び舞い戻って来たかと思えば今度は己らを監視しようとしている様子。噛み締められた左之助の奥歯が鳴る。
左之助は傍らの圭太に目をやり、断然とした語調で釘を刺した。
「圭太、お前は絶対に外に出るなよ。何の因縁か知らんが、お前は妖怪共に目をつけられているようだからな」
「……はい」
素直な答えとは裏腹に不服そうな色が圭太の顔に出る。その表情を疑念と捉えたのか、左之助は安心させるように表情を緩めて圭太の肩に手を置いた。
「大丈夫だ、この家にいる限り手出しはさせん」
――それじゃだめなんだよ。
圭太は心の中で毒づく。
彼は一刻も早く屋敷から抜け出して、妖怪の山に駆けて行きたかった。
このまま屋敷に釘付けにされてしまっては、妖怪を殲滅するという自らの目的は果たせなくなる。
かといって、父親の見ている前で例の力を使うことも憚られた。己の力は少なからず妖の力に恃むところがあり、それを父親に知られるわけにはいかなかったのだ。
打つ手なしと見て、圭太は深いため息をついた。そして、悔し紛れにではあるが、上空の妖怪に対し僅かばかりの賞賛を贈っていた。
妖怪を殺す人間がいると知っていながら、なおその住処を監視しようというのだ。その大胆さには感心せざるを得なかった。
「圭太、部屋に入っていなさい」
父に言われてしぶしぶ自室に戻った圭太は、部屋に入るなりそこに信じられないものを見て叫声をあげた。
「こいし!?」
部屋の中には、どこから忍び込んだのか、里でよく見かける妖怪の姿があった。彼女は唇に人差し指を近づけて沈黙を乞うてくる。
この場で力を振るえない以上、活路無しと判断した圭太は、黙って部屋の障子を閉めた。
「よかった。私のこと、覚えていてくれたんだ」
妖怪は圭太の顔を真っ直ぐに見ながら、満足そうに微笑んだ。
「……なにしに来たんだ?」
圭太の質問には応えず、こいしは部屋の中を彷徨き始めた。彼女は興味深そうに欄間を眺めたり、部屋の隅の小机の上に出しっぱなしになっている書物をぱらぱらと捲ったりしていた。よく見ると、彼女は土足のまま畳の上に上がり込んでいる。
「人間の部屋って、私たちのとそんなに変わらないね。でも、思ってたよりは貧相かも。木と草の色ばっかりで地味だし……」
「おい、質問に答えろ」
苛立ちのこもった声で圭太が唸ると、その声に呼応するようにこいしは首を捻って圭太の方に顔を向けた。その表情には笑顔が張り付いたままで、何を考えているのか皆目見当がつかなかった。
やはり妖怪は妖怪であり、人間には理解出来ない存在なのだ。
こいしはからくり人形のような不自然な動きで圭太の眼前まで歩み寄ると、彼の視野一杯に不敵な笑みを見せつけた。
花の香りが圭太の鼻孔をくすぐる。妖怪の分際で人の娘を気取っているように思えて、圭太は露骨に顔をしかめて見せた。
「貴方、ここを抜け出したいんでしょ? でも、空には入道がいるし、親御さんの目もあるわ。これじゃあ、そう簡単には外に出られそうもないね」
「嘲りに来たのか」
「違うわ。私の力があれば、貴方の望みが叶うって言ってるの」
「お前の力……?」
圭太の脳裏をかすめたのは、この妖怪少女と一緒に遊んだ時の景色だった。
――たしか、気配を消す不思議な力を使うのだったか。
この部屋に忍び込むにも、おそらくはその力を使ったのだろう。
「お前の力を使えば、誰にも気づかれずに外に出られるってことか?」
「そう! だあれにも気づかれずにね」
「狙いはなんだ?」
「狙いがあるように見えるの? なら、ちょっと嬉しいかも。なんだか私、大妖怪になったみたい」
こいしは無邪気に笑いながら、意味不明なことを口走る。
この妖怪とこれ以上会話を続ける事は、どうにも不毛に思えた。
人里から離れてしまえば、このような妖怪はどうとでも料理できると圭太は踏んでいた。
だが、少年の心の中では未だ警鐘が鳴り止まずにいた。
「……寺か山の差し金か? 俺を人里の外におびき出してから大勢で袋だたきにしようって腹じゃないのか。……まあその方が願ったり叶ったりだけどな。まとめて返り討ちにしてや、る……?」
圭太の強がりは、途中で行方をくらましていた。
目の前の妖怪の表情から、ここに来て初めて、笑顔が消えたのだ。
彼女は燃えるような瞳で圭太を睨みつけていた。殺意に似た重い気迫が圭太の肌を圧する。
押し殺した声が、妖怪少女の細い喉から漏れ出た。
「白蓮と私を一緒にしないでよ。私はあんな奴とは違う。あいつは、私の力を馬鹿にする奴なんだ。そんな奴……!」
圭太は彼女の瞳の中に、純粋に妖怪らしい凶暴性の片鱗を見て取った。圭太の身体を廻る血流が、その瞳に煽られるようにざわつく。
何が少女の逆鱗に触れたのかは知れないが、ともかくこの妖怪と寺との間に良好な繋がりがないらしいことだけは判った。
それで、圭太は最後と決めて訊ねた。
「断ればどうなる?」
訊くとこいしは再びにこやかな顔に戻る。彼女は花摘みにでも出かけるような気軽さでこう答えた。
「この場で貴方を殺すわ」
***
二人の子供が、夜の山道を駆けていた。
道の脇に咲くガマズミの花弁が、二人の走る勢いに煽られ、大きくそよいだ。
人一人が通れるかどうかという獣道の両脇には、天を衝くほど成長した広葉樹が立ち居並び、空に向けて枝を腕のように伸ばしている。
夜の帳が落ちた山道は闇の底に沈んで暗かった。だが、二人の子供の目は道を覆う落ち葉の一枚一枚まではっきりと捉えていた。彼らにとっては、葉陰から差し込む僅かな星の光だけで十分だったのだ。
人里を脱出したこいしと圭太は、妖怪の山の麓まで足を伸ばしていた。
ここにたどり着くまでに多くの人妖の姿を見かけたが、二人の姿に気づいた者は一人としていなかった。こいしが細心の注意を払って気配を消していたためだ。
二人はしばらくの間無言で山中を駆けていたが、やがて圭太の方がしびれを切らし、こいしに向かって声をかけた。
「おい、もう気配なんか気にしなくて良いだろ?」
圭太はこいしの手を振りほどき、道の上に足を止める。彼は、衣服の裾で汚らわしそうにその手を拭いた。
こいしは少しずつ歩を緩め、五、六歩先まで進んだところで歩みを止めた。
不自然に置かれた彼我の距離。圭太は一目でそれが弾幕戦のための間合いと見切った。
圭太の口元に自然と笑みが浮かぶ。向こうも己と考えていることは同じらしい。それは圭太にとり、多分に好都合なことだった。
こいしは道の先で圭太に向かってゆっくりと振り向いた。彼女の唇が開くと、その声が冷たい夜風に乗って耳に届く。
「そうね、もういいかな。この辺りまでくれば、あいつだってそう簡単に見つけられないよ、きっと」
彼女は目を細めて圭太を見ていた。闇の中では微笑んでいるのか、すがめているのか判然としない。妖しげな表情だった。
細く伸びた路上の闇に、柳の葉のように細く切れ上がった眼が二つ、ゆらゆらと浮かぶ。
圭太は果然とこいしを見返した。妖怪は精神的な存在だ。動揺しないことこそが、妖怪に対抗する最も有効な方策なのだ。
以前、何度か一緒に遊んだ時は、まったく人畜無害に見えていたものだった。だが、今、夜の闇の中で改めて彼女の姿を見ると、確かに彼女は人間に恐れを催させる存在に相違ないと思えた。
彼は唸るようにして、ごく短くこう問うた。
「……何を考えてる?」
こいしはその問いに答えず、ただじっと圭太を見つめていた。
圭太の胸に苛立ちが募る。折角の好機なのだ。彼としてはさっさとこの妖怪に始末をつけて、山の妖怪狩りを始めたかった。
彼がたまらず二の句を継ごうとした瞬間、やっとのこと、こいしの口が開いた。
「ねえけいちゃん、妖怪を殺したって本当?」
「……ああ。それがどうしたのさ?」
予想していた通りの質問に、圭太は鼻を鳴らす。
それに対し、こいしは全く底意のない声で訊き返した。純粋な興味からくる質問だった。
「どうして妖怪を殺すの? ……人間のくせに」
圭太の眉が神経質に跳ね上がった。彼にしてみればそれは、耳を穢す聞き捨てならない言葉だった。叶うなら、己が耳をもぎ取ってこの妖怪の喉奥に突っ込んでやりたいという衝動に駆られる。
「……人間のくせに? 人間のくせに、だ?」
ふつふつと胃の腑から沸き上がる怒りに、圭太の全身が震え出した。それとともに、彼の頭頂部とそれから背中から、ぬめりけのある妖気が立ち上る。
怒りとは裏腹に、圭太の顔には笑みが浮かんでいた。歯をむき出しにし、目を吊り上げて見せる笑み。笑みのようななにか。真の戦慄を覚えた人間の顔に自然と浮かぶ表情だった。
「おい、よく聞けよ、妖怪。お前知ってるか? 外の世界じゃ人間の方が偉いんだぜ。親父から聞いたんだ。妖怪なんて、人間から恐れられなければ、存在すらできない他愛もない存在だって。そんな寄生虫の分際で、お前らは人間と対等どころか人間を超えてると勘違いしていやがる。今までは我慢してきたけど、もうそれも終わりだよ。妖怪なんて、僕がまとめて地獄にぶち込んでやる」
一言一言に強い感情と意思の感じられる声だった。だが、その声には、どこか子供じみた思い込みのような気色も多分に含まれていた。
厳格な親の下に育った子供は、親を神聖視する傾向がある。彼の言葉は、おそらくは左之助の受け売りでしかないのだろう。
一方のこいしは、圭太の事情などに一切興味がなかった。彼女の心づもりはただ一つ、己を虚仮にした白蓮の鼻を空かすことだけだった。
皆から頼りにされる白蓮を差し置いて自分がこの問題を見事に解決して見せれば、白蓮の面子も丸つぶれになるだろう。そうすれば、先日受けた辱めに関しても少しは溜飲が下がると思ったのだ。
幸い犯人とおぼしき人間は知り合いだったし、ちょっと弾幕で脅したうえで諭してやれば言うことを聞くだろうと高を括っていた。
ところが、案に相違して今度は彼にまで侮られ、虚仮にされたのだ。
これではこいしの気分のよくなる筈もなかった。彼女は眼を赤々と燃やして圭太を睨みつけると、怒り狂った猫のように毛を逆立て、乾いた声で恫喝した。
「ずいぶんと偉そうな口をきくのね、弱っちい人間のくせに。今日はね、遊びに来たんじゃないの。貴方を懲らしめに来たのよ、けいちゃん!」
――そうして、白蓮に私の力を認めさせてやるんだ。
こいしの野心は、妖気の奔流となって空気中を迸った。
両者の妖気がぶつかり合い、怪鳥の悲鳴のごとき、この世ならざる音が辺りに響きわたる。
「懲らしめるなんて、舐められたもんだな……。こいし、お前、前から目障りだったんだよ。妖怪のくせに人間と仲良くしくさって……。決めた! 次はお前を殺してやる!」
「やれるもんならやってみなよ! もう二度と私に向かってそんな口聞けないようにしてやるわ!」
こいしの言葉が終わらぬ間に、圭太の両の掌が一分の迷いも無く差し伸ばされ、その掌から自身の身の丈を遥かに超える巨大な光弾が吐き出された。
それが戦いの合図だった。圭太の放った光弾は周囲の樹々を枯れ草のように薙ぎ倒しながらこいしの身に迫る。こいしはすんでのところでそれをかわすと、反撃の弾幕を展開した。
スペルカードルールに則った手慣れた攻撃だった。避けどころが用意され、魅せることにこだわった弾の配列。
圭太はこいしの攻撃を見ると、心底うんざりした顔で舌打ちした。
「まだ弾幕なんてヌルい攻撃しくさるかよ!」
彼が右腕を大きく振りかぶると、右翼から放射状に光の線が迸った。光条はこいしの眼前に隙間なく展開され、避けるいとまも与えてはくれない。光線は彼女の右目と右脚を捉え、容赦無く刺し貫いた。
「あっ!」
こいしは思わず身を引いていた。目元の傷は傷というよりはもはや風穴であり、血の塊がその穴の縁からどくどくと流れ出てきた。
それで死なないのは、身体の強い妖怪だからこそだった。
目元の傷を手で抑え、こいしはうろたえたように抗議する。
「卑怯よ! 避けようのない攻撃をするなんて! スペルカードルールを無視する気!?」
圭太は哀れな妖怪を見下ろしてせせら笑う。
「スペルカードルールなんて、知ったこっちゃないよ、なあ。殺すつもりでやってんだからさあ」
「妖怪がこの程度で死ぬもんか!」
「どうかな!」
勝手知ったる弾幕戦のルールを逸脱したこの戦いは、こいしにとって明らかに不利な流れになっていた。
圭太は明確にこいしを殺す気で一撃一撃を仕掛けているが、一方のこいしとしては圭太の命を取るつもりにはどうしてもなれなかった。
その意識の差が、攻撃の深さに微妙な差を生む。
こいしには、何度となく圭太の命を奪うチャンスがあった。だが、その機会が訪れるたびに、彼女の脳裏に圭太と遊んだ時の記憶が蘇り、こいしに攻撃を手控えさせていた。
そうして手をこまねいている間にも、圭太の攻撃は容赦無く続き、こいしの身に重大な瑕疵を与えていく。
手加減して勝てる相手でない事は、初撃の時点で既に十分すぎるほど思い知らされている。
彼女の攻撃は明らかに精彩を欠くようになっていた。その切っ掛けは、彼女が自らの敗北を現実的な可能性として見据え始めたことにあった。
旗色が悪くなるにつれ、こいしの心の中に雑念が沸き起こってくる。感情にしても、最初は単なる焦りだったものが、やがて不安に、そして、最後には恐怖へと変容する。
もしかすると、自分はこの闘いに負けるかもしれない。
そして、負ければ、圭太は自分を殺すだろう。
人間に妖怪を殺すことができるのだろうか。
自分ほどの妖怪でも死ぬことはあるのだろうか。
命乞いをすれば許してくれるだろうか。それとも、彼は本当に自分を虫けらのようなものだと思っているのだろうか。
虫けらのように死ぬ。
そも、死ぬとは何なのだろう。
妖怪にとっての死とは何か。
妖怪は死んだ後どうなるのか。
考えれば考えるほど焦燥の汗に身体を冷やされ、彼女の攻撃は散漫になる。
一体なぜこんな事になってしまったのか、もはやこいしには思い出すことができなかった。
敗れれば己の死。負けないためにはどうすればいいのか。闘いの中で必死に頭を廻らせた挙げ句、二つの考えしか浮かばなかった。
悲鳴を上げて助けを求めながら逃げるか、さもなくば、弾幕を捨て、圭太の命を奪うことも厭わず攻勢に転じるか。
逃げることなど論外だった。偉大な妖怪を目指そうという者が、少しばかり強い人間を前にしたからといって惨めに逃げ回ることなど、プライドの許すところではない。
他方、圭太を殺して生き延びるという案は実に妖怪らしいものであり、こいしとしても、こちらのやり方の方が逃げ回るより余程マシであることは疑いようもなかった。
これはもう、ごっこ遊びではないのだ。
こいしは決然と顔を上げ、残された瞳で圭太を見据えた。
「けいちゃん……。懲らしめるなんて生半可な考えじゃ、けいちゃんには勝てそうもないね……」
「何を今更……!」
「私、けいちゃんを殺しちゃうかもしれない。でも、怖がらなくて良いからね。けいちゃんの魂は私が地霊殿に連れて行ってあげる。そうしたら、永遠に私やペットたちと遊んでいられるわ……」
彼女の言葉はその途中から、霧の中に飲まれたようにぼやけていった。そして、声と同様、その姿もまた、雑木林の闇の中に溶けるようにして消えてゆく。
「無意識の力か!」
圭太の足は本能的にその場から離れるための動きをとっていた。間髪置かず、それまで圭太が立っていた辺りに無数の弾幕が突き刺さる。
彼は滑り込むようにして一本のミズナラの幹に背をつけ身を潜めた。ひと呼吸置き、先ほどまで居た場所の様子を伺おうと首を出す。
それが無意味な行動だと知った時には、手遅れだった。想定外の方向――真正面から、大量の弾幕が飛び出してくる。圭太はそれを胸に受け、ミズナラもろともなぎ倒されていた。
吹き飛ばされた圭太の身体が、倒れた樹の枝の上に落ちた。固い枝が圭太の全身を切り裂き、無数の傷を与える。
「……っく」
弾を受けた胸元に激痛が走り、圭太は思わず悲鳴を上げて眼を閉じた。骨は折れていないようだったが、激しい打ち身により呼吸の度に胸がズキズキと痛んだ。
命は残っていた。だが、不利な状況に変わりはない。相手から自分の姿は丸見えだが、自分からは相手の姿を見ることができない。恐るべき無意識の力の、その底力を今まさに垣間みていた。
ならば――。
圭太の頭の切り替えは早かった。敵の姿を目視できないなら、見えなくても当たる攻撃をすればいい。
即ち、霊撃だ。
哨戒天狗を血祭りに上げた霊撃は、圭太の周囲に妖気の爆発を起こすという至って素朴な攻撃だった。だが、こと破壊力に関しては並ならぬものがあった。
次に相手が攻撃を仕掛けて来るタイミングを最後のチャンスと決めた圭太は、樹の枝の上でじっと息を潜めながら、相手の動きを待った。
他方、こいしは折れた樹の根の側にしゃがみ、圭太の様子を伺っていた。当然、気配は断ったままだ。
先ほどの攻撃は確かに手応えがあった。こいしの放った散弾は見事に圭太の小さな胸板を捉えていた。並の人間なら一週間は立ち上がれない筈だ。
彼女は上空に舞い上がり、圭太を見下ろした。彼は倒れたミズナラの枝の上に引っかかったまま動こうとしない。動けないのか、動かないのか、遠くから眺めるだけでは判然としなかった。
こいしは決して油断していなかった。己の身体に二つも風穴を開ける程の腕の持ち主を相手にとっているのだから、余裕などあるはずがない。
傷口に手をかざすと、妖力がひどい勢いで身体から流れ出ているのを感じ取れた。
意識が混濁する。
妖力によって強引に制御してきた無意識の力。それが、妖力の減少した今、自我を食い潰さんと首をもたげ始めているのが嫌でも分かった。
早く勝負を決めなければ、本当に己の存在が危うくなる。こいしの背筋に冷たいものが伝った。
――ゴメンね、けいちゃん……!
こいしは僅かの逡巡と共に、上空から駄目押しの一撃を放った。心の形を模した弾丸が、圭太の心臓を穿たんと空を疾る。
その一撃を、しかし、圭太は待っていた。
彼はこいしの攻撃が己の霊撃の射程内から発せられたと見るや、がばと上体を起こした。そして、裂帛の気合いとともに、その身の内に蓄えられた妖力を解き放った。
「……ぁ……!」
こいしの悲鳴は、膨大な量の音の怒濤に呑み込まれ消えていった。圭太の身体から渦巻くように溢れ出た光が一瞬だけこいしの視界を占有したが、直後、こいしの意識は途切れた。
圭太の放った霊撃は激しい閃光とともに凄まじい爆風を巻き起こした。大地はめくり上げられ、周囲一帯の草樹を根こそぎにする。圭太の傍に立っていた樹々は文字通り木っ端微塵に粉砕され、それより遠くにあるものは爆風により容赦無く薙ぎ倒された。倒れゆく樹々の太い幹が他の樹を巻き込んで将棋倒しにしていく。
こいしは爆風の直撃を受け、宙を舞った。放物線を描きながら長々と滞空した後、彼女の身体は冷たい土の上に叩き付けられた。そこから鞠のように二、三回跳ね上がった後、彼女は半ば土の中に埋まり込むようにして倒れた。意識を失ったこいしは今やその姿を隠すことなくさらけ出していた。
無惨なもので、彼女の下半身は圭太の霊撃によって引きちぎられ、いずこかに吹き飛ばされていた。切断された胴体の端から流れ出た血液で、枯れ落ち葉の上に血だまりができていた。
それでも彼女は生きていた。人間の型を模した姿など、妖怪の彼女にとってはかりそめの器でしかない。肉体の破壊によって妖怪が即死することはまずないのだ。
だが、その器から漏れる妖気はさらにその量を増していた。それこそ、取り返しのつかないほどの量の妖気が、既に彼女の身体から流れ出てしまっていた。
彼女の自我をつなぎ止めるために最低限必要な妖気すらも、もはや彼女の身体には残されていなかった。
圭太はこいしに近づくと、その小さな脚で彼女の上体を強く踏みつけた。こいしの腕が、死に際の昆虫のようにバタバタと動く。首が狂ったように痙攣する。しかし、彼女の瞼は固く閉じたまま動かなかった。
血と泥に塗れてぼろ雑巾のようになった妖怪の成れの果てを、圭太はなおも執拗に踏みにじった。
彼はその行為の中に勝利の愉悦を見つけたかのように、酷薄な笑みを浮かべていた。
「おい、残念だったな。無意識の力も僕には効かなかったみたいだぜ。こんな技が奥の手だって言うんならお笑いだね」
悪意と共に、彼はそんな言葉を繰り出した。
圭太は、闘いを締めにかかっていた。妖怪の命を奪う為の言葉で、こいしを追いつめようとしていたのだ。それは、先日、一匹の妖怪を殺したのと同じやり方だった。
だが、圭太の声は、その時こいしには届いていなかった。
こいしは、自らの内面世界での闘いを強いられていた。彼女の心の中は強迫観念の嵐に見舞われており、その猛烈な力に彼女の自我は木の葉のように翻弄され、平衡を失っていた。
今、彼女の周囲を豪然と取り巻くものには、純粋な観念もあれば、悪意のある言葉もあった。それまで彼女の中に抑圧されていたあらゆる負の要素が、濁流となって渦巻いていた。耳を塞ぎたくなるようなおぞましい声や、目を覆いたくなるような悲惨な光景、忘れていた辛い記憶などが、こいしに向かって猛然と近づいてきては、彼女の裸の精神を嬲った。
それらは全て、こいしが無意識の中に押し込めてきたものたちだった。それらが、今、こいしの心の中で氾濫を始めたのだ。
このような無意識の氾濫は、普段の生活でも、こいしを度々襲ってきた。その結果は発作という形で外世界に現出してきたが、いつもならば彼女の有り余る妖気によって鎮められていた。
しかし、今のこいしは圭太との戦いで妖気を使い果たし、無意識の力を制御することができなくなってしまっていたのだ。
こいしは、混濁する意識の中で、無意識の放つ醜い言葉を、観念を、ただ呆然と受け入れるしかなかった。
言葉が、波濤となってなだれ込んでくる。
『誰だっけ、お前』『その力は無の力、それは貴女を破滅に導く力』『妖怪は忘れ去られたら死ぬんだって』『辛いことや悲しいことがあると、貴女はいつも私に押し付けてきたよね。それで忘れたフリをしてた。最低だよ。最低のクズだよ、貴女は』『こいし? そんな妹、いたかしら?』『嫌な奴らが来たなあ。特に妹の方……。近づかないでおこう』『うわあ、面倒くさい奴が来た』『知り合いヅラして近づいてくるなよ……迷惑だから』……。
圭太の見ている前で、こいしが不意に動きを止めた。不審に思って顔を覗き込むと、彼女は口を小さく動かし、ブツブツと何ごとか囁いているようだった。
圭太はわずかに顔を近づけて、その声に耳を傾けた。
「忘れ去られるくらいなら、いっそ……」
突然、圭太に踏みつけられていたこいしの身体が、宙に跳ね上がった。足をすくわれた圭太は、平衡を失ってたたらを踏む。
こいしの半身が、宙に浮かんでいた。胴の下から内臓が垂れ、口や鼻から血が滴り落ちる。
その目元を見た途端、圭太は息を呑んだ。彼女の目元だけが、まるで靄がかかったように認識できないのだ。
わずかな吐き気を催し圭太は目をそらせる。
こいしの上体は振り子のようにゆらゆらと揺れながら、亡霊のように闇に浮かんでいた。
やがて、血の泡の張り付いた唇がゆっくりと動き、その喉の奥から低い呻き声が漏れ出てきた。
「死ねば良いんだ」『死ねば良いんだ』「死ねば良いんだ」『死ねば良いんだ』『「みんな、死んじゃえばいいんだ」』
一度聞けば二度と忘れることのできない、粘りつくような怨嗟の声だった。
「正体を現しやがったな、化け物……!」
圭太は顔をしかめ、呻くようにそう言った。
胸の奥にわずかに湧いた恐怖を振り払いつつ、彼は手を伸ばしてこいしの上着を掴み、彼女の身体を地面に向かって乱暴に叩きつけた。そうしてさらに彼女の胸の上に馬乗りになり、その頭部を破壊しようと掌をかざす。
圭太の手から光弾が放たれると、それは即座に地面に激突し、土の塊が空中に舞い上がった。
圭太の口元に満足気な笑みが浮かぶ。だが、それは一瞬で消え失せ、驚きの表情にすり替った。
「な……にっ!」
彼の股ぐらに押し抱かれていたはずのこいしは、忽然と姿を消していた。
「ちっ……!」
圭太は動揺を隠すため舌打ちをしてみせた。
完全に視界に収め、身体を拘束していたにも関わらず、彼女はその状況から脱出して消えたのだ。この世に存在する生き物に、そんなことが可能なのか疑問だった。
彼は注意深く辺りの様子を伺ってみたものの、気配を消すことを旨とする妖怪を、夜の雑木林の中で探し出し見つけることは困難だった。
と、ふいに圭太は首元から揺さぶられ、こらえる間もなく前のめりに倒れた。
気配もなく背後から近づいたこいしが、両の手で圭太の首を掴み、残された全体重を任せて押しかぶさってきたのだ。
こいしの細い指が彼の二本の頸動脈を正確に締めあげる。
「死ね……シネ……」
こいしは圭太に身を張り付け、なおもうわごとのような呟きを彼の首元に吹きかける。
指には、少女とは思えない凄まじい力が込められていた。圭太は細い息を懸命に繰り返しながら、首にからみついた指を一本一本引き剥がす。
右手の指を全て引き剥がすと、彼は両手でこいしの腕を取り、両足に力を込めて立ち上がった。そして、そのまま二、三歩駆けると、上体を折って背中でこいしの身体を跳ね上げた。こいしの身体は一回転して地面に叩きつけられる。
すかさず、掴んだ腕の根本に光弾を打ち込む。木の枝の折れるような音がして、こいしの肩が奇妙な形に潰れた。
身体を足で踏みつけ、今度はもう片方の腕に光弾を打つ。こいしの肘にそれは当たり、跳ね上がった腕がおかしな方向に曲がって倒れた。
ようやくのこと動かなくなったこいしを見下ろしていると、その眼の中に、徐々に生き物らしい光が戻ってくるのが見て取れた。
「てこずらせやがって……」
圭太は肩で息をしながらそう吐き捨てた。
足元に横たわるこいしは、もう抵抗する気力もないようだった。彼女はただ、焦点の合わない眼で圭太の方を見上げるばかりだった。
「……私……どうしちゃったの……? たしか、けいちゃんの霊撃で……」
圭太は顔をしかめた。
――こいつ、自覚がないのか。僕を殺そうとしたくせに……。
彼は憎悪に燃えた眼でこいしを睨め下ろし、押し殺した声を吐き出した。
「黙れよ、化け物が。……もうお前なんか絶対に生かしておけない。……絶対に……」
こいしの眼が――残された方の左眼が、怯えたように見開かれた。彼女の喉の奥から、震えた声が漏れる。
「……わ、私は……死なないよ……。私は……立派な妖怪になるんだ……」
「いや、お前は死ぬよ……」
額の汗を袖で拭いながら、圭太は言った。
「お前は今日、ここで死ぬんだ。もう、お前の事を怖がる人間なんか誰もいないんだから」
「……そ、そんなの、嘘だよ……し、死なないよ……私、死なないよ……」
圭太は足の裏からこいしの身体の震えが伝わってくるのを感じていた。
なおも彼は言う。
「お前は死ぬんだ。誰からも忘れ去られて。この妖怪の山の片隅で、この世にいた事すら忘れ去られて死ぬ。それがお前だ」
こいしの眼にみるみる涙が溜まり、瞼の端から溢れて落ちた。
「……い、嫌……。……そんなの……やだよ……。死にたくないよ……怖いよ……助けてよ…………」
圭太の胸が、ちくと傷む。
彼は大きく息を吐くと、腹に力を込め、更に強い声で言葉を継いだ。
「お前は死ぬ。お前みたいな弱い妖怪は、未来永劫、世間の物笑いの種さ。もう、お前は生きていちゃいけないんだ」
「……たす……けて…………お姉ちゃん……」
こいしの声は次第に小さくなり、ついには聞こえなくなった。彼女の瞼がゆっくりと閉じていき、最後にもう一筋、大粒の涙がこぼれた。
圭太は気を失っていくこいしを黙って見ていた。そして、とうとう動かなくなったと見るや、その身体を思い切り蹴飛ばした。
「ふん、一丁あがりだ。ざまあないや」
彼は鼻を鳴らすと、景気付けとばかりにもう一度こいしの身体を蹴りつけた。
壊れた人形のように動かないこいしを無表情でしばらく眺めた後、圭太は踵を返して山の斜面に向かって駆け出していった。
暗闇が、急速に静寂で埋められていく。その中に、こいしの残骸が、ぽつねんと転がっていた。
***
二つの妖怪が、幻想郷の夜空を切り裂いて飛んでいた。
先頃まで人里で左之助と押し問答をしていた白蓮とぬえは、今はもう里から遠く離れた空の上に移動していた。
地上から離れたところに吹く圧のある風が、真っ向から二人を押し返してくる。彼女らはそれをこじ開けるようにして、ただ一心に、まっすぐに翔んだ。
白蓮にやや遅れてついて飛ぶぬえが、前方をゆく白蓮に向け、風に負けぬよう声を張り上げて尋ねた。
「どうしたの、突然!? そっちは、妖怪の山だよ! そこに、こいしがいるの!?」
「ええ! 先ほど魔人経巻がこいしの魔力に反応しました! あの子は妖怪の山にいます!」
妖怪の山は、二人の進む先に黒い威容を横たえていた。幻想郷の外にあるという富士の山。その富士よりも高いと言われる妖怪の山の裾野が、その両腕を地平線いっぱいに広げて二人を待ち構えている。
その黒い影の一点からほんの一瞬だけ光が閃いたのを、二人の眼が捉えた。彼女らは反射的に空中で停止して、光の発せられた方を見る。数秒後、甲高い爆発音と共に、樹々の倒れる乾いた音が、冷たい夜の空気の中に鈍く響き渡った。
山はにわかに騒がしくなる。野鳥が怯えたように羽ばたき逃げる音の向こうに、もっと大きな風切音も聞こえた。それに続いて、山に棲む妖怪たちの騒ぎ立てる声が四方八方から飛び交い始める。
ぬえは泡を食って白蓮の袖を掴んだ。
「聖! 今の!」
「ええ! 行ってみましょう!」
二人は弾かれるようにして、再び空を走りはじめた。数瞬のうちに、二人は風を追い越す速さまで加速する。
白蓮は飛びながら、手に持った魔人経巻を振りかざした。すると、経巻はまばゆい光が放って一帯を照らし始め、黒一色の視界の中に、鬱蒼と繁る樹々の姿を亡霊のように浮かび上がらせた。樹々の合間には、光に気づいてこちらを見上げる地上の妖怪たちの姿がちらほら見える。
里から出てこのかた、白蓮は己の胸の中にざわめきのようなものを感じていた。それは第六感に似た感覚であり、長く生きた者の経験からくる勘のようなものだった。
そのざわめきは告げる。今の状況は決して楽観的なものではない、急げ、と。
弾幕戦など幻想郷では日常茶飯事だが、それはいつだって、どこか余興的な適当さを含んでいた。だが、先ほど放たれた閃光の向こうから感じられたのは、ひりつく緊張感、そして、肌に粘着する黒々とした殺意だけだった。
そのような気構えで臨む戦いの果てに待つのは、陰惨な結末だけだ。その呪われた舞台に立つ役者の中には、おそらくこいしの姿もあるだろう。
白蓮は身の底からくる震えを振り払うように、自らの内にある妖気を解放した。風と共に飛行していた白蓮の身体が、更に亜音速まで加速する。追随していたぬえは、遅れまいと懸命に彼女の速度にくらいつく。
やがて、大地を被覆する樹々の中に明らかな変化が現れた。根本から枝の折れたものや、完全に幹の途中から裂けて白い断面をさらけ出しているものが見え始めたのだ。それらの傷跡は、先ほどの閃光と爆音によってもたらされたものに間違いなかった。そして、先に進むにつれ、破壊の様相が広範囲にわたっていることが知れた。
「あそこだ!」
夜眼の利くぬえが一点を指して叫んだ。
指し示された先に光を掲げると、壮烈な光景が白蓮の眼に飛び込んできた。
樹々の葉の暗緑色を押し退けるようにして、大地の赤い肌が剥き晒されて横たわっていた。中心には爆発によって生じたと思われるすり鉢状の孔が巨大な口を開けており、孔の周囲には根こそぎにされた樹々が乱雑に積み重なっていた。
二人はゆっくりと孔の縁に降り立った。辺りには、混じり気のない陰の空気が沈殿していた。山の妖怪たちの姿は見えない。だが、樹々の陰からこちらをひそやかに伺う気配だけは感じられた。いつもどおりのお祭り騒ぎなら、このような雰囲気になることはない。――ここで忌まわしい出来事が起きたのだ。白蓮はそう察した。
「聖!」
ぬえの切迫した声が飛ぶ。その悲鳴にも似た響きから、白蓮は己の中にあった不快な予感が現実のものになりつつあることを感じ取った。
ぬえは孔の縁から少し離れたところに跪いていた。彼女の背中の羽根の先端が、地面に触れるほど垂れ下がっている。その向こうに見える腕は、地面の上にある何かをしきりに揺すっていた。
彼女は何事かひたすら叫んでいたが、その声がひどく遠くに聞こえる。全力で駆けているにも関わらず、何故か一向にぬえの傍に近づくことができない。足が重い。もどかしさが焦りを駆り立てる。
ようやくにしてぬえの許にたどりついた白蓮は、彼女の手元に眼を落とした。
果たしてそこに、探していた少女が、変わり果てた姿で横たわっていた。
下半身は引きちぎれてどこかに消えており、残された上半身から内臓がだらしなくはみ出ていた。両腕はそれぞれおかしな方向に折れ曲がり、右の眼のあった所にはぽっかりと風穴が開いていた。そして、彼女はぴくとも動かず、息もしていなかった。その姿は、壊れて打ち捨てられた操り人形のようにしか見えなかった。
想像していた中でも最悪に近い状況を眼前に晒され、重い目眩が白蓮を襲った。だが、想定の範囲内ならまだ行動の余地は十分にある。白蓮は小さく首を振って気持ちを繋ぎ止めた。
「聖……! こいしの……こいしの妖力が……」
白蓮を見上げるぬえの両目から、大粒の涙が落ちた。
白蓮はぬえの頭を一度優しく撫でた後、素早くこいしの傍らに跪いた。そして、冷たくなったこいしの半身を腕に抱きかかえ、きつく眼を閉じた。すると、ややもしないうちに白蓮の腕から妖気が霧のように湧き出し、こいしの身体に流れ込み始めた。白蓮の妖気を受けたこいしの全身の輪郭が、ほのかに発光する。
こいしの肉体の損傷は著しいが、それ以上に深刻なのは彼女の身体から妖力が全く感じられないことだった。
もしも、完全に妖気が肉体から離れてしまっていては、もはや取り返しがつかない。だが、彼女の妖気が僅かでも身体に残されているならば、外からつぎ込まれた妖気を媒介にして意識を取り戻せるかもしれない。
白蓮にとって、このような事態は初めてではなかった。人間に封印されるより以前から、彼女は多くの傷ついた妖怪たちをこれと同じやり方でもって救ってきた。だが、それと同じくらい多くの妖怪が、彼女の努力の甲斐無くこの世から消えていった。
これまでの実績で考えれば、こいしが息を吹き返すかどうかは五分五分といったところだった。だが、白蓮は確信に近い気持ちでこいしの回復を信じ、妖気を送り続けた。
妖怪が生命の危機に瀕している時、一番大切なことはなにか。
それは、その妖怪の生を信じることだ。周囲がその妖怪の生や存在を心から信じることができるならば、その思いは直接の活力となって妖怪の身を満たし、ひいてはその生命を繋ぎ止めることができる。
しかし、その逆に少しでも妖怪の生存に疑念を抱いてしまえば、その妖怪の精神は敏感にその疑念を感じ取り、ますます弱っていくことになるだろう。そして、精神の虚弱化は直接、妖怪の命を削ることに繋がる。
白蓮は信じた。こいしの妖怪としての強さ、偉大さを。そして、彼女の笑顔のある明日が必ず来ることを。
ふいに、こいしの身体から自分以外の妖気が立ち上ってくるのを感じ、白蓮は眼を開けた。視界の端で二つの小さな手が、こいしの手を包んでいるのが見えた。
それは、ぬえの手だった。彼女は眼を固く閉じ、唇を真一文字に引き絞りつつ、祈るようにして胸元でこいしの手を握りしめていた。彼女の両瞼の端からは未だに涙が落ちるままになっており、またその喉からは時折嗚咽のような声が漏れていた。だが、彼女の掌から放たれる妖気は決して途切れる事なく、確かな圧をもってこいしの身体の中に注ぎ込まれていた。
胸の締め付けられるような感覚に襲われ、白蓮は思わず腕を伸ばしていた。その腕で彼女はぬえの身体を引き寄せ、こいしと共に胸の中に掻き抱いた。
ぬえの熱い体温が腕の中に感じ取れる。それと己の温度とが伝わり、氷のように冷たかったこいしの身体が次第にぬくもりを帯びてゆく。
「……ヶホ……」
白蓮の耳に、小さく咳の音が届いた。とっさに顔を上げると、同じく面をもたげたぬえと目が合う。
二人は、同時にこいしに視線を移した。その視線がこいしの喉、口元を撫で、次いで目元に至ったところでぬえの歓声が飛んだ。
「こいし!」
ぴたりと閉じられていたこいしの瞼がうっすらと持ち上がり、その隙間から潤んだような輝きが垣間見えていた。彼女の瞳は彷徨うように二、三度宙を舐めた後、白蓮の顔を捉えて止まった。
「……あ……白蓮……おねえちゃん……それに……ぬえちゃんも……」
こいしのかすれた声が耳に届く。白蓮は緊張した面持ちのまま、片方の手でこいしの切断された胴の端に手をかけた。
「じっとしてて。今癒しの法を施すわ」
こいしの身体に添えられた白蓮の手から、柔らかな光が滲む。すると、光に照らされたこいしの傷口が、ぐづぐづと泡を吹いて沸き立ち始めた。肉体復旧の準備として施される滅菌法の作用だった。
こいしの身体が、ざわりと波打つように震えた。
「……寒いよ……おねえちゃん……。私、死んじゃう……?」
こいしがか細く震える声で囁く。彼女が先ほど流した涙の跡をつたって、再び幾粒もの涙が溢れ落ちた。
白蓮は毅然として眼を見開き、こいしを叱咤した。
「気をしっかり持ちなさい、こいし! 貴方たちみたいな妖怪はね、絶望した瞬間に死ぬの。もうこれ以上人間を恐れさせることができない、そう観念してしまった時に時に死ぬのよ。貴女は立派な妖怪よ、こいし。だから、大丈夫!」
妖怪の自信を鼓舞する言葉だった。たとえ周囲の者が信じても、当の妖怪自身が自らの生を信じ切れなければ、助かる命も助かるものではない。
こいしは暫くの間戸惑ったように視線を彷徨わせていたが、やがて腹を決めたように瞼を閉じた。そうしてから、二度、三度と大きく深呼吸をする。喉元からヒューヒューと空恐ろしい音が聞こえたが、狼狽えることなく呼吸を続けていくと、次第に彼女の表情は和らいできた。
彼女は僅かに首を傾げて白蓮の胸の先に頬を当てた。柔らかい感触の向こうに、白蓮の心臓の鼓動が感じられた。
「白蓮お姉ちゃんの身体……あったかい……」
うわ言のようにそう呟くと、こいしは再び深い眠りの中に落ちていった。
***
沈黙の支配する部屋の中に、万年筆の滑る音だけが響いていた。
心理描写の多いシーンを書き始めると、古明地さとりの筆は止まらなくなる。彼女は瞬きも忘れて執筆に耽っていた。
筆が乗っている時、さとりの集中力は極限まで研ぎ澄まされる。集中力が高まれば、自然と執筆に不要な感覚が閉じていく。それは、人間も妖怪も同じだった。
ただでさえ気配の薄いこいしが部屋に入ってきて、いそいそと着替えをしていても、今のさとりには気づく由もなかった。
ようやっと一つのシーンを書き終えて一息つこうと顔を上げた時、さとりの眼に飛び込んできたのは、部屋を出ていこうとするこいしの姿だった。
さとりは今日初めて見る妹の背中に声をかけた。
「あらこいし、今日もおでかけ?」
「うん! 今日から修行するの!」
「えっ!?」
扉の前で振り向くなり笑顔でそう言ってのけるこいしに向けて、さとりの素っ頓狂な声が飛ぶ。想像だにしていなかった返答だった。
こいしは姉の当惑など意にも介さなかった。溌剌とした声で「行ってきまーす!」と挨拶すると、踵を返して部屋を出ようとする。
「ちょ……待ちなさい、こいし!」
「?」
不思議そうな表情を浮かべて、こいしが再び振り返る。その姿を、さとりは苦々しげに見つめていた。
地上から白蓮の弟子がやってきて平伏する勢いで詫びを入れてきたのは、もう一週間以上前のことだった。
本来は住職が出向いて申し開きするのが筋ではあるが、如何にしても手が離せない故、代理として罷り越した云々、尼僧の姿をしたその妖怪はまず前置きした。その後、非常に言いづらそうな様子で彼女がしどろもどろ語った内容を端的に纏めると、こいしが地上の人間と闘い瀕死の重傷を負ったということだった。そして、彼女の蘇生のために白蓮が介抱にあたっていることを尼僧は付け加えた。
その報告を聞いた直後から翌日までの記憶がさとりにはない。気を失ってそのまま寝込んでしまったのだ。
翌日になって、白蓮が連れてきたこいしは、衣服こそ違えど五体は満足に揃っており、さとりを心底安堵させた。だが、意識は未だ混濁した状態であり、安静を必要としていた。
白蓮は引き続き地霊殿でこいしの介抱を続けたいと願ったが、さとりはにべもなくその申し出を断った。正直なところ、もう一秒たりとも白蓮の顔を見たくなかったのだ。
こいしが意識を取り戻したのはそれから一日過ぎた頃で、さらに一日も経つと、もうすっかり元気になって部屋の中を走り回るようになった。そして今では、地底のどこやらで遊びまわっては泥だらけになって帰ってくる、普段通りのこいしの姿に戻っていた。
ようやくにして平穏な日常が戻ってきたと思った矢先の、こいしのこの発言である。さとりが仰天するのも無理なかった。
だが、さとりはそのような心中を気取られないよう、努めて冷静に振る舞おうとしていた。彼女は机の上でその小さな手を組むと、真っ直ぐ威圧的な眼でこいしを見据えた。
「ねえこいし、お願いだから、もう地上に行くのは止めて」
押しこむような物言いだった。しかし、どのような心理的圧力もこいしには暖簾に腕押しというものだった。
「どうして?」
さも不思議そうにこいしは尋ねてくる。
「どうして……って……。貴女、この前死にかけたばっかりでしょう!」
「ああ、そのこと? 大丈夫だよー。もう危ないことはしないから」
「貴女が危ないことをしなくても、向こうから危ないことがやってくるかもしれないでしょ!」
「大丈夫だって。その時は白蓮お姉ちゃんとかぬえちゃんが守ってくれるよ。そんなこと気にしてたら、地上じゃ生きていけないよ」
人差し指を左右に振りながら、こいしは諭すようにそう言った。歯噛みするさとりを他所に、こいしは落ち着き払って話を続ける。
「……お姉ちゃん、私、今ね、早く修行したくて仕方ないんだ。もうウズウズしちゃって。私ね、白蓮お姉ちゃんみたいに立派な妖怪になりたいの」
「ダメよ!」
姉のヒステリックな声に、こいしの肩がビクリと震える。さらに、間も悪く扉の隙間から顔を出したお燐も、さとりの叫び声を聞いて慌てて首を引っ込めてしまった。さとりはばつの悪そうな顔で咳払いを一つすると、努めて穏やかに言い直した。
「あんな女を見倣っちゃダメよ、こいし……!」
「どうして? 私もあんなふうにやさしくて強い妖怪になりたいの。それがいけないことなの?」
さとりにはなぜか、妹の姿がひどく真っ直ぐに見えた。彼女はおずおずと眼をそらすと、蚊の鳴くような声で呟く。
「……貴女には私と同じになってほしくないの」
「? 言ってる意味がわからないよ。どうしてお寺に行くと、お姉ちゃんと同じになるの? どうしてお姉ちゃんと同じになることが悪いことなの?」
「それは……」
――貴女も私と同じよ。
耳の奥で、再びあの声が囁く。
さとりの両眼がにわかに落ち着きを失い、きょどきょどとあちらこちらに視線が移ろい始めた。その手も胸元を押さえたかと思えば唇に触れたり、髪に触れたりとせわしない。今や彼女は哀れなほどの動揺を見せていた。
今にも泣き出しそうな声が彼女の喉から漏れる。
「私は、私のことが……」
「私は、お姉ちゃんのことが大好きだよ」
さとりの言葉を遮って、こいしはそう言い放った。さとりが当惑して目を上げると、真摯な眼で見返すこいしの視線とぶつかった。
「私はさとりお姉ちゃんみたいにやさしくて、立派な妖怪になりたい。でも、白蓮おねえちゃんも、さとりお姉ちゃんと同じくらいやさしくて、立派な妖怪なんだ。さとりお姉ちゃんと白蓮おねえちゃんは、すごく良く似てる――。だから、お寺で修行すれば、きっとさとりお姉ちゃんみたいになれると思うの」
さとりはただじっとうなだれてこいしの言葉を聞いていた。見下ろす原稿用紙の上に、眼から溢れた雫が一つ、二つと落ちる。それまでおろおろと二人の少女のやりとりを見ていたお燐が、それを見るや、弾かれたようにさとりの元に駆け寄っていった。
一方のこいしは、ひどく落ち着いた声で「いってきます」とだけ言い残し、ゆるりと部屋を出て行った。
部屋の扉が閉まると同時に、さとりは糸の切れた人形のように椅子の上に崩れ落ちた。その膝に、お燐が飛び乗る。
こいしが去り静けさの戻った部屋には、さとりの嗚咽だけが響いていた。
「さとり様……」
膝の上から主人の顔を覗き込むと、額や鼻に温かい涙がぽつぽつと落ちてくる。ぼんやりと見開かれた目から涙が一粒溢れるたびに、さとりの中身が一粒ずつ抜けていくような感じがした。お燐はいたたまれなくなって、主人の腹にその小さな頭を何度も何度も擦り付けていた。
そのうちに、さとりの手がゆるゆるとお燐の背中を撫で始めた。時間をかけて、ゆっくりと繰り返し、毛並みに沿って指が滑る。さらにしばらくすると、彼女はお燐の身体を両手で抱え上げ、腕の中にふわりと包み込んだ。さとりのふくよかな頬が、お燐の首元にあてがわれる。
お燐はただ黙ってさとりのなすがままにされていた。今なら、いくら心を読まれようと構わなかった。むしろ遠慮無く読んでほしいとすら思えていた。己の胸の内にあるものが、主人の心を少しでも癒すことができるのなら、それはきっととても嬉しいことだ。
どれだけの時間が経っただろう。さとりはもう幾分落ち着いたようだ。整った呼吸によって、お燐の身体はさとりの胸の上でゆっくりと上下する。
さとりはお燐の脇に手を入れると、そっと床に下ろした。名残惜しそうにお燐の頭を撫でながら、彼女はやや掠れた声で言った。
「お燐、こいしを、お願い……」
「でも……」
口ごもるお燐。さとりにはその心の裡が、はっきりと判っていた。
(今はさとり様の側に居てあげたい……)
さとりは己の意志が揺らぎそうになるのを必死で堪え、絞りだすように一言発した。
「……お願い……」
お燐は喉を低く鳴らし、じっと主人の眼を見ていた。憔悴こそしていたが、もはやその眼の中に動揺の色はなかった。一瞬、お燐の前脚がさとりに向けて伸びたが、すぐに思い直したようにその脚は降ろされた。
諦めたようにお燐は力なく項垂れる。
「……わかりました……行ってきます」
そう一言言い残し、お燐はとぼとぼとさとりの許から離れ、部屋の扉に向かって歩いて行った。時折、気遣わしげにさとりの方を振り返りながら。
「……ありがとう、お燐……」
部屋を出て行くお燐を見守りながら、さとりは小さな声でそう呟いていた。
***
木の枝に括りつけられた布片が、圭太の頭の上にぶら下がっている。先刻着物の袖を破って目印として定めたものだ。もうその絵面を何度見たかわからない。
悪夢ではない筈だったが、そう圭太が錯覚するのも詮なかった。
圭太は道に迷っていた。勝手知ったる妖怪の山でだ。
歩けど歩けど、回廊を巡るかの如く何度も同じ場所に戻ってくる。狐狸妖怪のまやかしならすぐにそれと知れる筈だが、それらしい妖気は感じられない。空間そのものが輪のように歪められていて、その中に封じられているとしか思えなかった。
なぜこんなことになってしまったのか。圭太は下生えを踏み分けながら、記憶を過去へと遡り始めた。
一週間前にこいしを滅ぼしてからこのかた、圭太は屋敷に釘付けにされていた。寺の妖怪の執拗な監視があったためだ。しかし、つい先日人里の名士が身罷ったことを受け、寺では葬儀の準備に手を回さざるを得なくなった。すると、それまで一時も失せることのなかった監視がにわかに途切れたのだ。
寺の者が来れないのなら、代わりに山の妖怪が来るのではないかと危惧したが、それは全くの杞憂だった。少なくとも、その時は杞憂だと思っていた。それで、圭太は無邪気に喜び勇んで妖怪の山まで繰り出してきたわけだが、それがこのザマである。
今にして思えば。、監視が薄かったのは自分を山におびき出す罠だったのだろう。まんまとしてやられたことへの悔しさに、圭太はきつく歯噛みした。
しかし、そうだとすれば次に気になるのは、この策を講じたのが誰かということだ。今引っかかっている罠が空間操作の術だと仮定して、山の妖怪の中にそのような技を使う者がいるという話を圭太は聞いたことがなかった。そもそも、この幻想郷でそのような力を操る者といえば一人しか思いつかない。
「ご明察」
突然、背後から幼い娘の声が聞こえた。圭太は慌てて振り返る。
一瞬だけ、視界の端に人の形をした姿が映ったかと思ったが、視線が定まってから目に入ったのは文目も知れぬ闇ばかりだった。
文字通り、闇ばかり。明らかにおかしい。今さっき歩きながら見ていた筈の樹々の姿も下生えも見えないというのは。
眼をすがめると、闇の奥に何かが浮かんでいるのがかすかに見えた。
無数の巨大な眼だった。それらは、感情もなく一斉に圭太を注視していた。
「活きのいい人間がいるって聞いたから久しぶりにこちらに来てみたけど、驚いたわ。まだ子供じゃない」
再び背後から声がする。
振り向いた先も闇だった。今や圭太は完全に闇に取り囲まれていた。そして、闇の中に張り付くように並ぶ無数の眼。
その眼を背負うようにして、二匹の妖怪の姿がおぼろげに浮かび上がっていた。一方は無数に分かれた立派な尾を持つ妖獣。もう片方は、闇に紛れる紫色の服を着た少女だった
少女の方が圭太を見てにっこりと笑う。
人間が見てはならない類の笑顔だった。美しいが、何かが決定的な過不足を起こしている笑顔だ。胃の腑を掴まれるような戦慄が走る。
「はじめまして。八雲紫と申します」
丁寧なお辞儀をして、少女は顔を上げる。その眼には妖しげな光が満ち満ちていた。
圭太の喉が鳴る。心臓が早鐘を打ちはじめ、全身の毛穴が開き汗が吹き出す。
幻想郷の支配者、八雲紫。
幻想郷の人間の中で、その姿を見た者は殆どいない。その存在は幻想郷縁起に明記されており、妖怪や一部の人間の口を通じて人里でも認知されてきた。
圭太も、この妖怪のことはおぼろながら知っていたが、実際に目にするのは当然のことながら初めてだった。
風貌を見れば、たしかに伝え聞く通り。異人の如き金色の髪を靡かせる、美しい少女の姿をした妖怪。だが、かつて誰一人としてその幼い姿に惑わされた者はいなかった。彼女の藤色の瞳を一目見れば、彼女がただの少女でも、ただの妖怪でもないことが知れた。
傍らに立つ妖獣の方は、圭太も人里で時折見かけることがあった。八雲藍。彼女は八雲紫の式神で、遥か昔に三国を窮地に陥れた九尾の狐と呼ばれる大妖怪の生き残りだった。その種の名が表す通り、金色に輝く九つの尾を持つ妖獣だ。
圭太は身の震えを抑えつけつつ、足元から己を覗きこむ目玉に向かって唾を吐きかけ粋がってみせた。
「幻想郷最強の妖怪のお出ましか……。さっきから同じ所をぐるぐる回らされてたの、あんたの仕業か?」
「ええ。楽しんでもらえたかしら?」
「……。何を楽しめばよかったのか教えて欲しいんだけど」
「あら。子供にはちょっと難しかったかしらね」
この妖怪の思考は常人には全く理解できない。圭太は余計な返しをしたことを後悔し、今度は単刀直入に尋ねてみた。
「……何しに来た?」
「私にそれを言わせるの? 野暮な子ね。貴方が答えなさいな。何しに来たと思います?」
「殺しに来たのか」
紫は答えずに静かに微笑んだ。それから、傍らに立つ妖獣に顔を向ける。
「藍、この子のこと、どう思う?」
「どうと言われましても……。自分の立場をわかっているようですし、それなりに血の巡りは良い方なんじゃないですか? あと、ムダのない彼みたいな話し方、私は好きですね」
藍は困惑した風に眉を曲げながら、そんな答えをひり出した。式の緊張感のない答えに、紫はたまらず吹き出してしまう。それから彼女は大げさに首を振って、いつものようにたしなめにかかった。
「……まったく、貴方のその合理主義的な頭はいつまで経っても変わらないわねえ。ムダなものこそ美しいのに、それがわからないなんて。……つまらないわ、二人ともね」
「はあ」
気の抜けそうになる会話だった。彼らの目的は己の命ではないのではないか、そんな考えが一瞬だけ圭太の頭の片隅をよぎった。
だが、その考えはただちに改めなければならなくなった。
空気の重さすら変えるほどの殺気と、匂い立つ蜜のような妖気が紫の全身から放たれ、圭太の肌を圧し始めたのだ。重い妖気を思い切り肺に吸い込んでしまい、圭太は思わず二、三度咳き込む。
紫は手に持っていた扇子を開くと、それで口元を隠した。扇の端から覗く二つの眼が、妖艶な光を放ちながら圭太を射抜く。
「さて……。これまでずいぶんと貴方、妖怪をコケにしてくれたわけだけれど、そろそろ借金を返してもらわないといけないわね」
「借金?」
「今迄のツケってことよ。幻想郷に生きる影響でたまたま手に入れた力に奢って妖怪への恐れを怠って来たそのツケ、そろそろ返してもらわないと困るのよね」
「妖怪を恐れる? バカ言うな。僕はもう妖怪なんか怖くないんだ。そうとも。ここでアンタ等をぶっつぶせば親父たちの夢が叶うんだ。飛んで火に入る夏の虫ってやつだ」
圭太はなおも強がる。彼を見る紫の瞼が、柳の葉のように細くすぼまった。
「それは貴方が本当の妖怪の恐さを知らないだけ。だから今から教えて差し上げるわ」
「妖怪なんてどれも一緒さ!」
「ふふ……、そう思う?」
紫の言葉が終わるより前に、唐突な衝撃が圭太の横っ面を叩き、彼の身体を弾き飛ばした。圭太は受け身も取れず、無様に地面に這いつくばった。
何が起きたのかわからず目を上げると、妖獣が鋭い爪をむき出しにして己に向かって飛び込んでくるのがほんの一瞬眼に映る。その段になってようやく、すでに事は始まっているのだと圭太の頭は理解した。
藍が圭太の身体を跳ね上げようと脚を出した瞬間、圭太は身を翻して難を逃れる。彼は退きざまに立ち上がり、ただちに敵との距離を置く。すると、休む間もなく藍の手から放たれた波状の弾幕が襲い掛かってきた。
初撃で口の中に溜まった血反吐を吐き捨てる暇もない。しかも、恐るべきことに、眼の端に映る八雲紫は二人の戦いを腕を組んで見守るばかりで、まだその本領を一切発揮していないのだ。
と、その紫の姿が視界の端から消えた。折しも、圭太が早々と一発目の霊撃を放とうとした時だった。
「せっかちねえ」
三度、背後からの声。振り向く暇もない。灼くような衝撃が圭太の背中を迸る。空に跳ね上がった圭太の身体を、上空で待ち構えていた藍が毬のように蹴飛ばす。
背中から地に叩きつけられたが、不思議と痛みは薄かった。
すぐさま立ち上がろうとする。しかし、身体が言うことを聞かなかった。首を巡らして見ると、闇の中から伸びた真っ黒な髪の毛のような何かが、己の腕やら脚やらを縛り上げていた。
二人の妖怪が両脇に立ち、一片の感情も含まない眼で圭太を見下ろす。
圭太は血の混じった唾をまき散らしながら喚いた。
「くそっ! ひ、卑怯だぞ! オマエら幻想郷最強なんだろ!? なのにスペルカードルールを無視するなんて……!」
「スペルカードルールなんて知ったこっちゃないわよ、ねえ。それが貴方の望みなのだから」
紫は手に持った傘の先端で圭太の鼻先を小突いた。
「……くそ、くそ! 上等だ!」
圭太の悪態はすぐに悲鳴に取って代わった。紫の傘の先から放たれた光弾が、圭太の肘を穿ったのだ。骨の折れる乾いた音がする。悲痛な叫び声が闇の中に虚しく響き渡る。
四肢を縛っていた戒めが解けた。圭太はそれを気取るや、すかさず残された方の腕で空を横ざまに薙ぎ払った。
妖気の波動が至近距離に立つ紫の身体に衝突し、火花を散らして炸裂する。圭太は遮二無二腕を振り回して目眩ましの弾幕を大量にばら撒きつつ、両足を使ってじりじりと後じさった。
折れた腕の痛みが、やかましいほどに死を連想させる。
妖気の煙がもうもうと立ち込め、周囲の視界を遮る。このような攻撃は通常なら煙幕がわりにできるものだが、この空間の中では全く有効でなかった。せいぜい、寿命を数秒後倒しにする程度の効果しかない。分かり切ったことだ。ここは、今相手している隙間妖怪が作り出した、彼女のための空間なのだから。
妖煙の向こうから二妖怪の会話が聞こえてくる。案の定、いかなる動揺も感じていない声だった。
「ほら、紫様、お伝えした通りでしょう。この少年は本当に活きが良い」
「全くね。でも、昔はこんな人間が沢山いたのよ。いつの間にか皆、根性がなくなってしまって」
煙が退き、闇の中に再び妖怪の佇まいが浮かび上がる。彼女らは先ほど圭太を見下ろしていた場所から一歩たりとも動いていないが、生傷どころかその着り物にすら綻び一つついていない。
紫は優美な笑顔を湛えつつ、圭太に向かって小首を傾げて見せた。
「でも貴方は運がいいわ。現代ではもう誰も知ることの無くなった真の妖怪の恐怖を味わえるのだから」
無数の眼の浮かぶ暗闇の中に、妖狐の目と、隙間妖怪の目が、ひときわ強い光を放って揺らめく。
これは戦いではない。私刑だ。
そんなことはこの空間に誘われた当初から薄々感づいてはいたものの、彼女らの眼のうちに潜む厳然たる光を目の当たりにして、圭太の中でその思いはようやく確信に変わった。
圧倒的な力量を持つ者が、一切の油断なく罠を張り、間違いのないよう式まで従えて一人の人間を監禁しにかかったのだ。逃げる術などないと見るべきだったし、また、例えあったとしても圭太の持つ知識では如何にすれば良いかなど思い浮かびもしなかった。
しかし、残された選択肢はまだある。命乞いなど、まだ試していない手段ではあった。
だが、圭太はそんな手段に目もくれず、別の目標に狙いを決めた。
この私刑を、どうにかして戦いと呼べるものにまで発展させる。それが、圭太が心に定めた目標だった。
妖怪に対して恐れを抱いた時、その時こそ、人間は妖怪に敗北する。
圭太は片腕で身体を支えながらよろよろと立ち上がる。そして、目を上げる。
二人の妖怪の姿が消えていた。
「――で、誰を殺すって?」
耳元で聞こえる声。温かい吐息が耳にかかる。飛び退って周囲を見回すが、姿が見えない。
ふと、下腹部の辺りに違和感を覚えて眼を落とす。
鮮やかな桃色の管が眼に収まる。それは服の裾からはみ出して、太ももに向かってどろりとぶら下がっていた。性器でも露出したのかと思い、圭太は慌ててそれを掴む。生暖かい感触が掌を滑る。
「う、うわ、うああああああっ!」
「初めて見るでしょう。それは貴方の小腸です。肉体の境界を、少しばかりいじりました。痛みで恐怖を喚起するというのも芸がありませんから」
圭太は恐慌に陥ったまま、転がるように駈け出した。逃げる場所などないことも忘れて、脚が動く限りに走った。
全力で駆けているにもかかわらず、距離を無視した声が耳に届く。
「私、他にも色々と面白い芸を持ってるのよ。今夜は特別にその一部をご覧に入れましょう」
それから先は、圭太にとって長い悪夢でしかなかった。
数刻後、横たわっていたのは生きた肉塊と成り果てた圭太の姿だった。内臓の半分以上が外気にさらされて体液が滲み出ており、巨大なナメクジのごとき生き物に成り果てていた。残された元の面影はほんの僅かしかなく、ただ二つの眼と、声帯から漏れる呻き声のみが圭太のそれと判る程度だった。
圭太はそのような状態になっても、まだ生きていた。彼自身の意識は鮮明であるし、肉体に感じる痛みも最初の骨折からくる鈍痛のみ。だが、隙間の力で各器官を限界まで弄くり倒された結果、肉体は平衡を完全に失っており、もはやとてもではないが自発的に動くことはできなかった。
ぐずぐずと痙攣する肉塊を見下ろす藍の眼には、困惑の色が浮かんでいた。
「お戯れが過ぎますね、紫様。殺しましょう。この人間をこのまま生かしておくのは危険です」
「何を言ってるの、殺してしまったらむしろ詰むわよ。生かしておいた方が都合が良いのよ」
己の式を小馬鹿にしたような眼で見ながら、紫は肩をすくめた。藍はなおも食い下がる。
「しかし、万が一、里の人間に徒党を組まれては、幻想郷の存在も危うくなります」
藍の言葉を最後まで聞くと、紫は大仰にため息をつき、芝居がかった所作で首を左右に振った。
「読みが甘いわ、藍。貴女にはまだまだ教育(プログラミング)が必要ね。ま、良いわ。帰って高みの見物としゃれこみましょう」
言うと、彼女は踵を返して闇の中に溶けて消えていった。藍もそれに続く。
後に残された圭太もまた、暫くすると闇の底に向かってずるずると飲み込まれてゆき、ついには完全に姿を消した。
そうして紫の創りあげた異空間には静寂が訪れる。後に残された無数の目玉は、無表情に虚空を凝視していた。
***
積もるほどの静寂で満たされた部屋の中に、書物のページを捲る音だけが響く。部屋の片隅に据えられた座卓の上に書物を開き、左之助は今夜も読書に勤しんでいた。
左之助は妖怪に立ち向かうことを決意して以来、妖怪についての調査を一日も欠かしたことがない。一日に一行でも妖怪について新たな知見を得なければ気が済まなかったのだ。
彼はもはや、人間より妖怪についての方が詳しいとさえ言えた。
彼がなぜそうまで偏執的に情報蒐集を行うかといえば、ひとえに妖怪撲滅という目標を達成するためだ。彼を突き動かすものは、妖怪に対する静やかなる憎悪のみだった。
なぜそうまで妖怪を憎むのかについては、彼の心の中に尋ねてみるより他はない。彼は他人に対し決して自分の本心を伝えることのない男だったし、家族に対してすら多くは語らない性格だった。
彼の両親は外界からこの幻想郷にやってきた者たちで、その両親は彼が幼い頃に亡くなっている。そのことが関係しているのではないかと噂する者もいるが、その実際は、本人以外の誰も知らない。
彼にとって、少なくとも幻想郷の妖怪に関して言えば、知らない種類のものは皆無だった。一人一種族の妖怪であろうと、一目見ればその妖怪の名を言い当てることができた。
その左之助の知識を総動員しても、この時見た化け物の種の名を呼ぶことはできなかった。
突如、彼が読む書物の上に、鮮やかな桜色をした巨大な物体が、派手な音を立てて落下した。さすがの左之助もこれには肝を冷やし、尻もちをつきながら後退った。彼は即座に気を取り戻すと、床の間に据えてあった刀の鞘を引っ掴んで、躊躇いなく抜刀した。
抜きざまに斬ろうと振りかぶった時、その物体から低く長い呻き声が発せられるのを左之助は聞いた。
落ちてきた物体は、よく見てみると肉の塊だった。それは明らかに生きている様子で、全身にびっしりと張り付いた血管が不気味に脈動している。人間でいう内臓にあたる器官のようなものが、身体の外側を包み込むようにへばりついているように見えた。
その生き物からは強烈な臭気が放たれていた。その匂いについては明確で、糞の匂いだった。この生き物には肛門括約筋が存在しないのか、直腸らしき器官から止めどなく褐色の塊がひり出されている。
そして、先ほどの呻き声は、肛門とは真逆の位置にある穴――おそらくはそれが口なのだろうが、そこから聞こえてきた。その口らしき穴から、再び声が漏れる。
「お、親父……」
その声を聞いた途端、左之助の顔色が死人のごとく青ざめた。
聞き覚えがあるどころではない。今朝の食卓でも聞いた声だ。
「け、圭……太……?」
芋虫のようにのたうち回るその醜い肉塊の名を、左之助は呼んだ。
(才能はありそうなガキだが)
左之助氏の志向は日本の事を良く知って日本から搾取を行おうと画策する、所謂「知日派」のやり口に近いね