第三話 妖怪寺
朝は、太陽の持つ霊力が一日で最も強い時間だ。特に日の出は、いかなる邪な力をも打ち払う強力な輝きを放つ。靄の深く立ちこめる中、その朝の陽の光が参道に差し込み、闇の帳を霞の彼方に追いやっていく。
境内には、白蓮の帰還を聞きつけ、寺の門弟たちが集まっていた。彼らは地底から帰って来た白蓮と、その白蓮に連れられたこいしを囲み、わいわいがやがやと賑わっている。
わけても賑やかさ抜群の響子などはこいしを見るなり駆け寄っていって、小さな尻尾をこれでもかと振りながら新参者に愛想を振りまいていた。
「あなたがこいしちゃん!? 私、幽谷響子! よろしくね! わー、またお仲間が増えるのねー! うれしいわ!」
テンションの上がったヤマビコ妖怪の声は遠慮などとは無縁で、人里まで届くかというほどの大音量がそこら中に響き渡った。至近距離でその声を聞くこいしはたまったものではない。
こいしは思わず指で耳を塞ぎ、助けを求めるように白蓮を見上げる。
「聖お姉ちゃん、この子うるさい」
「なっ! 会って早々、私の存在意義を否定するの!?」
響子はこいしの言葉に少なからずショックを受けたようで、小さな肩をますます小さく萎めてうなだれてしまった。
早くも気まずい雰囲気を見せ始めた両者の間に白蓮がゆっくり分け入って、優しく二人の頭を撫でた。
「この子はヤマビコの妖怪でね、元気なのが取り柄なの。仲良くしてあげてね」
白蓮に頭を撫でられると、響子は嬉しそうに笑って小さな尻尾をはたはたと振る。
こいしはその様子を見て何事か思いついたように目を輝かせ、そしてやにわに「お手!」と叫んで響子に向かって右手を差し出した。すると、響子は反射的に「お手!」と叫びながら左手をこいしの掌にさっと差し出してしまった。
「きゃあ! かわいい! うちに持って帰ってペットにしても良い!?」
「私で遊ぶなーっ!」
怒りもあらわに箒をぶんぶんと振り回す響子から、こいしは嬌声をあげてのらりくらりと逃げ回る。
そんなじゃれ合いを少し離れた場所から見ていた星が、苦りきった顔で白蓮に歩み寄った。
「本当に入信させてしまったのですか……」
「ええ、苦労しました」
そう言いつつ満足げに白蓮は微笑む。良く見てみると白蓮の服は至る所が刃物で切り裂かれたように破けている。おそらく力だけが法の地底で壮烈な弾幕戦を繰り広げて来たのだろうと容易に想像がつく。だが……。
――そういう意味じゃないのに……。
ずれた発言をする主人に対し、星は内心でため息をつく。
しかし、こういう所は昔から変わっておらず、逆にほっとするところでもあった。基本的に、弟子の言葉を肯定的に受け取るのが、星の主人の昔からの癖だった。それが良いことなのか悪いことなのかは分からないが、少なくともそれによって星が損をしたことはなかった。
が、今回は少し悪い予感が星の胸の端を翳めていた。
星の傍らに控えていた一輪がずいと進み出て口を差し挟む。
「姐さん。お言葉ですが、あの子はまずいです。地底に居た頃は彼女にずいぶんと辛酸をなめさせられましたし……」
「そうでしょうか? 私の見た限りでは、とても素直で良い子でしたよ」
白蓮の贔屓目がいかに盲目的かを知っている一輪と星は、互いに顔を見合わせて肩をすくめた。
「あっ! 入道のおじさんだ! 貴方も入門してたの?」
おすわりを覚えさせようとして響子に組み付いていたこいしは、一輪の脇にこぢんまりと収まっている雲山を目に留めるや、響子のことはほっぽり出して彼の元に駆け寄って行った。
突然こいしに話しかけられた雲山は哀れなほど目をうろうろさせたあと、小さくしていた姿をさらに小さく縮めて一輪の陰に隠れ、一輪に何事かぼそぼそと呟いた。
一輪はうんざりしたようにその雲山の様子を一瞥した後、大きくため息をついてこいしに向き直った。
「私と雲山は千年以上前から聖様の弟子をやってるわ。雲山もそう言いたがってる」
「……どうして貴女が間に入って通訳してるの? 地底では話したことなかったけど、もしかしてその入道のおじさん、異国の方なの?」
もっともな疑問である。話しかけている相手は入道なのに、なぜか傍らにいる人間っぽい通訳妖怪が代わりに話を始めるのだから、不思議に思わない方がおかしい。
「失礼ね、生粋の日本妖怪よ。雲山は人見知りが激しくてね。親しくない人とはうまく話ができないの」
「ふーん、シャイなおじさまなのね」
こいしはぐるりと回り込んで一輪の背後に隠れる雲山に近づくと、正面から彼の目を見つめた。至近距離から見つめられた雲山の眼球運動はさらに激しくなる。
なかなか自分を見てくれない雲山に業を煮やしたこいしは、彼の頬を両手で引っ掴んで無理矢理自分の方に向けた。そしてやおらその両腕を雲山の首に巻き付けると、鼻も触れ合うかというほど顔を近づけ、とろけるような甘い声で雲山に囁きかけた。
「おじさまはもっと恋をした方が良いよ。……ほら、例えば……、私なんてどうかしら? ね、お・じ・さ・ま」
こいしの腕の中で動転の絶頂に達した雲山は、塩をかけられたナメクジのようにどんどん身体を萎めていって最後には消えてしまった。
「こらこらこらっ! 何、雲山を誘惑してるの! あんたのせいで彼、逃げちゃったじゃない!」
「あれえ? ……残念だわ。結構タイプだったんだけどなあ。私、生真面目な性格の方、好きよ」
そう言うと、彼女はきょろきょろと忙しなく周囲を見回して何かを探し始めた。
「雲山を探してるの?」
「ううん、そうじゃなくて、水蜜は? いつも貴女と一緒にいたんだから、あの子もお寺にいるんでしょ?」
彼女の興味の対象は既に別のものに移っていた。気まぐれに見えるが、その実は何も考えていないだけだった。彼女は心を閉ざして以来、ずっとそういう気質なのだ。
一輪は心の中で雲山に同情しつつ、辛抱強くこいしの相手を続けた。
「ムラサならあんたの姿を見てとっくに逃げたわよ」
「えー? ショックだなあ。友達だと思ってたのに」
こいしはそう言うと、不機嫌そうに頬を膨らませた。
地底にいる頃から彼女を知っている一輪は、それが無意識の演技であることを知っていた。相手との関係を壊さない為に、感情を持っているように見せかける演技だ。
彼女は本当は少しもショックを受けていないし、雲山のことを好みだと言ったのもその場のノリでしかない。本心は誰にも分からないし、下手をすれば本心というもの自体が存在しないかも知れない。
彼女と話をしているうちに、一輪は底のない暗く巨大な穴の中を見ているような気持ちになってきた。会話はちゃんと成立するし、意思の疎通もできている筈なのだが、なぜかいつの間にか一人で奈落に向かって話をしているような錯覚に囚われる。
二人が話していると、その輪の中に、白蓮が興味深そうな顔をして加わって来た。
「あら、こいしちゃんはムラサとも知り合いなの?」
「うん! 彼女が地底にいる頃は、よく一緒に遊んだものよ。血の池地獄で溺れる水蜜がかわいかったなー。こう、あの子の絶望の表情を見てるとなんだか胸がドキドキしちゃうの」
胸に手を当ててうっとりと身体をよじるこいしを見て、すかさず一輪がたしなめる。
「あれはあんたが突き落としたんでしょ。覚えてないの?」
「あれ? そうなの? ごめんね、私が気づいたときはいつも溺れてる水蜜しか目に入らなかったから良く覚えてないの」
「おおかた、血の池地獄で妖怪たちが船遊びしていたところを、ムラサが襲っていたのでしょう」
二人の話を注意深く聞いていた白蓮がにべもなくそう言うと、一輪は言葉に詰まる。
「ええまあ……、お察しの通りです」
「ならば自業自得というものです」
白蓮は決然とした表情でそう言い放った。その目に一切の笑みはない。一輪としては返す言葉もなく黙るしかなかった。
白蓮は少し冷たい物言いだったのではないかと胸の内で日和ったが、すぐにその甘い気持ちを心から振り払った。彼女は、件の鼎談以来弟子に対して努めて厳しく接しようと心に決めていた。
だが、入門したばかりのこいしは例外である。白蓮はこいしに向き直ると、打って変わって甘やいだ表情で彼女に話しかける。
「こいしちゃん。折角お寺にいらしたのだから、座学をして行かない?」
「座学?」
「お堂の中で、私と一緒に仏の教えを学ぶのです」
「あっ、わかった。まずはリロンってことね! いいよ、やろうやろう!」
二人はすっかり意気投合したように互いに手を取り合うと、軽やかに跳ねるように参道を歩き始めた。
浮かれ上がった二人の去り行く後ろ姿を、一輪は思案げな表情で見つめていた。
「ねえ星。自分の師匠がもうすぐ深い落胆を味わうことになると分かっていながら、敢えて黙っているのは罪だと思う?」
白蓮に目を向けたまま、一輪は星に対し、独り言のような口調でそう訊ねた。
星もまた、白蓮の後ろ姿を見据えながら答える。
「それは罪ではなく罰なのでは?」
「……」
罰とは言い得て妙だった。一輪は苦しげに眉を寄せ、物言いたげに星を見た。星は一輪に目を向けず、ただ一点白蓮の去った方を見ながら、穏やかに言葉を継いだ。
「行動で意思を示そうという聖を、どんな言葉で動かそうというのですか? 元はと言えば私たちの不心得が生んだ顛末なのだから、甘んじるしかないでしょう」
「……姐さん……すみません……。もうお酒は飲ま……」
そこまで言って一輪の言葉は途切れた。彼女は腕を組んでうーんうんと唸りつつ先の言をひり出そうとするも、その声に含まれる意思はみるみる不確かになっていった。
「いや、四分の一くらい? ……いや、半分くらいに減らします……」
「結局飲むんですねえ……」
ヤマビコ妖怪にしみじみとそう言われ、一輪の頬にさっと赤みが差した。
「う、うるさいなあ! ほら、朝の勤行! 疎かにしてはだめよ!」
一輪にけしかけられ、響子はしぶしぶ境内の掃除に向かった。
けしかけた方の一輪は、星や響子に背を向けると、大股で門の方へと歩いて行く。
「あら? どこ行くの、一輪?」
てっきり一輪もお勤めに入るとばかり思っていた星は、驚いて一輪の背中に声をかけていた。
一輪は首だけで星に振り返り、悪びれもせず、
「呑む! 嫌なことはまず呑んで忘れる! 雲山、いらっしゃい!」
そう言い放った。
呆れ果てて言葉を失う星を尻目に、一輪は参道のど真ん中を歩いて去っていく。その後ろから、恐縮というよりむしろ自らを圧縮しきった雲山が、意志を持った風船のように一輪の背中を追いかけていった。
幻想郷の朝はまだ始まったばかりだった。
***
しかつめらしい顔をした大日如来像の見守る下で、白蓮とこいしは向き合って座っていた。
白蓮は膝下に小机を据え、その上に紙の経巻を広げて仏の世の法を滔々と説いている。
がらんとしたお堂の中に白蓮の涼やかな声が響く。その声は、凛とした朝の空気と、どこやらに聞こえる小雀の声とに彩られ、廉潔な堂の壁の中に染み渡ってゆく。
法の力の充満した本堂の空気は、しかし、妖怪にとっては居心地悪いことこの上ない。
こいしはしきりに身をもじもじと揺すりながら、ちらちらと傍らの如来像を見上げようとする。しかし、こいしにはどうしてもその像の膝下までしか目をやれない。その手元、その顔を見ようとしても、如何にしても見ることができないのだ。
こいしが大日如来と静かな闘いを繰り広げているのに目もくれず、白蓮は経巻を一心に目で追いながら説法を続けていた。
「……従って、空の境地というのは色、即ちこの世の万物に潜む精神性を認識することにあると……」
白蓮の説法なぞ、こいしの耳には一切入っていなかった。ただひたすらに傍らの仏像の姿をその目の中に収めようと懸命に視線を彷徨わせる。
彼女が何故そこまで大日如来像を意識するのかは、彼女自身はっきりとはわかっていなかった。ただ、なんとなく、この偶像に込められた精神性が、今の自分の存在を脅かすもののように感じられたのだ。
一方で、こいしの理性は、この像を視界に収めることを望んでいた。半ば意地である。仏の力とやらを手に入れようというのに、たかが塑像の一体すら己の自由にできないなどということは、彼女のプライドが許さなかった。
血が滲むほど唇を噛む。滑らかな眉間に深い皺が寄る。額からこめかみから、滝のように汗が流れ出す。
妖気を振り絞って傍らに視線を投げていたこいしの目から、ふいに光が消えた。虹彩の色が墨で塗りつぶしたように真っ黒く染まる。
傍らを睨んで瞼の端に寄っていたこいしの瞳がゆっくりと動き、説法中の白蓮の姿を捉えた。
「……この空の境地に至ることこそが即ち我々の目指す悟りの境地であり……」
説法も佳境に入り、自論に至ろうとして目を上げた白蓮のその目と、こいしの目が合う。
「つまんない!」
突然、こいしが声を張り上げ、拳で木目の床を激しく叩いた。きょとんとしている白蓮の目の前で、こいしは仰向けに寝転がって手足をジタバタと動かしながら喚き散らし始めた。
「つまんない、つまんない、つまんなーい!」
白蓮は、今までおとなしく話を聞いていたこいしが突如として暴れ始めたことに戸惑いを隠せなかった。おろおろと手をやる方なく動かしながら立ち上がり、暴れ回るこいしに近づく。
「ど、どうしちゃったというの、こいしちゃん」
こいしは白蓮が近づくとぱたりと暴れるのを止め、何事もなかったかのようにいそいそと元の場所まで戻って座り直した。怪訝に思いながら表情を覗き込むが、こいしの顔にはいつも通りの笑顔が張り付いたままだった。
……何を考えているのか分からない。
頭の上にクエスチョンマークを何個も浮かべながら、白蓮も再び小机の前に戻り、座り直す。
すると、こいしは目元に薄い笑いを見せながら口を開いた。
「……白蓮お姉ちゃん、小難しいリクツばっかり言ってるけどさ、そんなムズカシく考えてたら、何時まで経っても無意識を操ることなんてできないよ」
白蓮は、ふむ、と小さく頷く。こいしの言葉にも一理あると考えたのだ。
白蓮とて悟りの境地には至っていない一僧侶にすぎない。机上の空論など、実体験の前では何の価値もない。
そもそも、白蓮は何故苦労してまでこいしを入信に導いたのかといえば、ひとえにこいしが感得していると思われる空の境地について、彼女から直接話を聞きたいと思ったからだ。
白蓮は長いこと僧をやっているが、実際に涅槃の境地に至った者に出会ったことがなかった。白蓮は高鳴る胸の鼓動を深呼吸で落ち着けると、居住まいを正し、神妙な面持ちでこいしに問うた。
「……では問いましょう。こいし、あなたが無意識を操っているとき、あなたの心の中には何が見えているのですか?」
「なんにもないよ」
「……?」
あっけらかんと答えるこいしに、白蓮は怪訝そうな表情を向けた。
「なんにもない。なーんにもない!」
こいしは楽しそうに笑う。だが、白蓮は難しい顔だ。口元に指をやり、しばしの間黙考する。
白蓮は、これからこいしに対し、悟りの境地へ至る心の機微を詳しく聞きたいと思っていた。どのような心構え、どのような精神状態を入り口として空を知るのか、という点を、体験談から学びたかったのだ。だが、こいしの一言によって、そもそもの前提からして白蓮の認識と異なる可能性が出て来た。
つまり、こいしの操る無意識の境地が、空の境地とは全く別物であるという可能性だ。
白蓮は慎重に言葉を選びつつ、こいしに再び訊ねた。
「……何もない、それは『虚無』ではありませんか? 『虚無』と『空』は一見似ていますが本質は全く異なるものです。『空』とは万物のありようの本質であり、それはあらゆる存在の中に見いだすことができるものと言われています。そして、『虚無』とはそれとは真逆のもの。この世の全ての本質から遮断され、関係性を失った状態を指すのです」
「よくわかんないけど、私が無意識を操ってる時は、バンブツノアリヨウとか言うのを感じたりはしないよ。なーんにもないんだもの。そもそも、無意識を操っている間のことは私自身もよく覚えていないんだ」
話を聞く白蓮の背中が、明らかな落胆によってみるみる萎んだ。
こいしの説明は決定的だった。まず間違いなく、こいしの能力は空とは異なる。空は雑念を排した先にある知覚の極致であり、宇宙すら含めた総体としての世界を、その感覚の中に収めることができるものと言われている。しかし、こいしの説明を聞く限り、彼女の能力は彼女自身からあらゆる知覚を奪う代物のようだ。
雑念が排される点で『空』と『虚無』は似ている。だが、行き着く結果は完全に真逆だ。
白蓮の目論見は、どうやら呆気なく破綻したようだった。だが、それだけならば彼女の落胆はそれほど大きくはなかっただろう。実は、この『虚無』の力は、もっと大きな別の問題を孕んでいたのだ。
厄介なことに、この『虚無』の力というのは妖怪の命を脅かす非常に危険な力だった。
良く言われることだが、妖怪は恐れられなくなった時と忘れ去られた時、その命を失う。妖怪は、いわば他者との関連性、すなわち『縁』を糧として命を繋いでいるのだ。
だが、『虚無』の力は、その他者との関係性を失わせる。
彼女がこれから妖怪として成長するに従い、『虚無』の力が増大していくとしたら、彼女の妖怪としての存在は次第に希薄になり、いずれこの世から消えてしまうかもしれない。
仏陀に最も近いと思われた妖怪は、その実、滅びに最も近い妖怪だったのだ。
白蓮は大きくため息をついてこいしの顔を見た。こいしは、にこにこと笑いながら白蓮の言葉を待っている。
この無邪気な妖怪に現実を告げるのは、双方に取って酷なことだった。
話をこれで切り上げるべきか、白蓮はよくよく迷った。だが、放っておけば目の前のいたいけな妖怪は破滅の道に向かってしまうかも知れない。
それよりは、彼女に現実を知ってもらい、共に生き延びる術を探す方が安全と思われた。
白蓮は意を決してこいしに自分の見解を告げることにした。
「……こいし、おそらく貴女が操っているのは『虚無』の力。『虚無』はとても危険な力です。それは滅びの力。みだりに使えば他者だけでなく自らすらも滅ぼす力です」
白蓮は真摯な表情でこいしの目をまっすぐに見据え、一言一言に強い意志を含ませながら言を継いだ。
「非常に言い難いことですが、貴女はその力を使うべきではないと思います」
「……えっ?」
思ってもみなかった白蓮の言葉に、こいしは目を丸くした。彼女は戸惑いの表情を浮かべ、白蓮に向かって身を乗り出す。
「なに? それって、つまり、私の力を認めてくれないってこと?」
「……。貴女の力を認める訳には行きません。虚無の力は他者はおろか、自分自身との関係性すら失わせてしまう。それは妖怪にとって、致命的なことなのです。妖怪は、存在を忘れられた時、その命を失います。無意識の力に乗っ取られ、あるいは無意識の力が暴走し、自分自身からも永遠に忘れられてしまえば、貴女はもうこの世に留まることができなくなる……」
白蓮の物言いを聞くうちに、こいしの目つきが明らかに険しいものに変化した。
「なにそれ。なによ、それ」
ぶつぶつとつぶやくこいし。
「せっかく面白いことがあると思って地上までやってきたのにさ、つまんないお説教聞かされるなんて思わなかったよ。そのお説教だってさ、いかにもお為ごかしに言ってるけどさ、私の力が思っていたのと違うから負け惜しみ言ってるだけにしか聞こえないよ!」
喋っているうちにだんだんと感情を抑え切れなくなったらしく、最後の方は怒声とも涙声とも取れる声でこいしは喚いていた。
彼女は手でお堂の床を叩いて乱暴に立ち上がると、入り口に向かって一目散に駆け出した。
「こいし!」
慌てて立ち上がった白蓮に向かってこいしは肩越しに振り返り、鼻息一つ吹くと、下まぶたを人差し指でめくり下げてみせた。
「べーだ! あんたなんか大ッキライ!」
こいしは白蓮に背を向けると、お堂の入り口から飛び出して行く。
足をもつれさせながらも、聖はこいしに追いすがろうとしたが、お堂を出た所で途方に暮れて立ち尽くした。
広々とした境内を見回しても、既にこいしの姿は見当たらなかった。
――言い方を間違えてしまっただろうか。
白蓮は落胆して肩を落とす。
しょんぼりと俯く白蓮の足下を、悠然と横切る生き物があった。腹の毛だけが赤く、それ以外の毛が黒色で、尾が二股に分かれている妖怪猫だった。
猫は白蓮の顔を見上げ、馬鹿にしたような鳴き声で一つだけ鳴いた後、足取りも軽やかに参道を走り去って行った。
***
昼飯前の命蓮寺境内は、普段なら読経の声が聞こえる程度で、それもない時はせいぜい木々の葉擦れの音か鳥の鳴き声くらいしか聞こえない、静かなものだった。
だが今日は普段とは大分様子が違っていた。祭り囃子と呼ぶにはあまりに騒々しく、かつ風変わりな音色が、境内を越えて人里まで届き聞こえていたのだ。
その音色も、美しい旋律からはほど遠く、所々で調子っ外れな音を出したり、いきなり謎の変拍子が挟み込まれたり、時々思い出したかのように恐ろしげな奇声が発せられたりする。
当初、人里の人間は、お寺でまたお祭りでも始まったのかと思っていた。だが、特に予め告知もなかったし、先に言ったような様子だったので、大体の人間はこう思った。またぞろ寺のヤマビコ妖怪がおかしなことを始めたのだろう、と。
彼らは命蓮寺の妖怪には理解があったので、皆心の中で生暖かく見守る算段だった。
実際、大方の予想は当たっていた。その騒音の発生源は、境内の片隅で行われている、ロックバンド鳥獣伎楽とプリズムリバー楽団の音合わせだったのだ。
人里からやって来た子供たちが興味深そうに見守る中、彼女らは互いの音が聞こえるように円陣を組んで練習していた。が、一小節終わる度になにがしかの理由で演奏は止まる。そして、音が止まる度に誰かの怒声が飛ぶのだった。
「ちがうちがう! そこハ長調でしょうが! 全然音が外れてる!」
大仰なドラムセットの後ろからリリカが顔を覗かせ怒鳴る。その脇では、ルナサがベースのネックを腕に抱えて下生えの上に三角座りし始めた。彼女は聞こえるか聞こえないかという声でブツブツと呟く。
「あー……テンション下がって来た……音は外れまくるしリズムも全然合わないし……テンション下がって来たわー」
「あっ、ほらあ。あんたたちのせいでルナサ姉さんのテンションだだ下がりじゃないの!」
煩わしそうにリリカの声を聞きながら、ミスティアは小指で耳を掻いた。
「知らんがな。ていうか、何よ爬蝶々って……。音楽に小難しい理屈なんて必要ないでしょ?」
ミスティアがそう言うと、相方の響子は何度も頷いて賛同した。
「そうよ! 重要なのはパッションなのよ!」
「同調してんじゃないわよヤマビコ妖怪! あんたはアドリブかまし過ぎ! そーいうのはもうちょっと上手くなってからやんなさい!」
「えー、だって同じ調子でずっとやってたらつまんないじゃん」
「どこが同じ調子なのよ! ていうか、あんたたち、楽譜どこやったの?」
「楽譜? ああ、あの紙切れのこと? 見ても分かんないから炭火焼きの着火材に使っちゃった」
悪びれもせずそう言い放つミスティアの笑顔は爽やかだ。口元から白い歯がキラリと光る。
リリカは肩をわなわなと震わせて、今しも噴火しそうな勢いだったが、実際に爆発したのは傍で黙って聞いていたメルランだった。教育役をリリカに任せようと今までは黙っていたが、とうとう己の中の躁の気性をおさえられなくなったのだ。
「なってなあーい! 貴女たち全然なってないわ! ちょっとそこになおれ! 座学から始めるわよ!」
姦しい彼女らの練習の様子を、少し離れた木の上で見守る姿があった。彼女は退屈そうに一つ欠伸を放った後、目をこすりこすり、誰に聞かせるともなく呟いた。
「あいつら、全然進歩しないなあ……」
黒いワンピースに赤い靴、背中からは羽根なのか触手なのかわからないものが伸びる妖怪。寺一番の問題児、封獣ぬえだった。
寺の弟子たちにはそれぞれに決められた仕事があるのだが、彼女がそんなものを律儀にこなすはずもなく、普段から仕事をサボっては気の向くままあちこちに顔を出してちょっかいをかけているのだった。
今日は寺の境内で何やら面白そうなことをやっていたので、ちょっと邪魔をしてやろうと近づいてみたものの、邪魔するまでもなく終始グダグダな練習風景を見ているとなんだか馬鹿馬鹿しくなってきてしまった。それで、馬鹿共の練習風景を木の上で眺めながら、今日の予定を立て直そうと思っていたところなのだ。
丁度そんな折、本堂の方から駆けてくる姿が視界に入って来た。
今朝、ムラサと共に遠巻きに眺めていたから、ぬえは彼女のことを知っていた。白蓮が連れて来た新しい入信者だ。
ムラサいわく、悪逆非道の血も涙もない妖怪とのことだったが、ぬえの目から朝の様子を見る限り、何の変哲もない普通の妖怪としか思えなかった。
足下でやっている下手糞な練習をこのまま眺めているよりは、彼女と話をしていた方が楽しそうだ。そう思ったぬえは、それまで座っていた木の枝から参道の石畳の上に飛び降り、こいしがやってくるのを待った。
行く先に突然現れた妖怪が自分に向かって手招きしているのを見ると、こいしは駆けるのを止めて彼女に歩み寄る。
近づいて来たこいしの表情を見ると、どうもあまり穏やかな気分ではないようだ。口をへの字に曲げ、目元にも何やら険がある。
(聖と、なんぞやらかしたかな?)
ぬえはこいしに友好的に笑いかけ、努めてリラックスさせようと穏やかな声で話しかけた。
「……どうしたのさ? 不機嫌なツラしちゃって」
「白蓮のクソババアなんか死んじゃえばいいんだ」
開口一番、剣呑な物言いに、ぬえは思わず苦笑してしまった。
「……なんだお前、さっき来たばっかなのに、もう聖と喧嘩したの? 短気にも程があるだろ」
「だって、あいつ、私の力を馬鹿にしたんだもん」
こいしはぷくっと頬を膨らませて見せる。
「あー、……だいたい想像はつくよ。まあ、言わんこっちゃ無いよなあ。妖怪に悟りの境地なんてどだい無理だっての」
ぬえはそう言ってせせら笑った。この段になってこいしはようやくぬえに興味を持ったようで、ぬえに顔を近づけてまじまじとその目の中を覗き込んだ。こいしの身体から立ち上る甘い花の香りに鼻孔をくすぐられ、ぬえはちょっとだけどぎまぎして、知らずのうちに目をそらしていた。
「……あなたもあいつの弟子よね? あいつの言うとおり修行してるの?」
「んなもん、してるわけ無いでしょ」
「じゃあ、あなたはなんでここにいるの?」
改めて問われると、答えに窮する質問だった。
「うーん。なんでだろ。いや、まあ確かに聖は説教臭いところがあるけどさ、一度仲間と認めたらすごい勢いで守ってくれるからね。居心地がいいんだ」
「ふーん。なんだかヤクザの親分みたい。ホントにここお寺なの?」
こいしはそう言って傍を一瞥する。彼女の視線の先では、プリズムリバー姉妹による音楽講座が始まっており、鳥獣伎楽の二名は言うに及ばず、里の人間やらそこらを彷徨いていた妖怪までもが、下生えの上に座り込んで熱心に姉妹の話に耳を傾けていた。
その様子だけ見ていると、ここが仏道を極める為の場所とは到底思えなくなってくる。
ぬえとしては返す言葉もなく、力なく笑う他なかった。
「まあ、聖の説教さえ話半分に聞いてりゃ、ここは妖怪に優しい良い所さ。あんまり短気おこさないで気楽にいこうよ」
そこまで言ってから、名案でも浮かんだのか、ぬえの目に意地の悪い光が宿った。といってもそれはこいしに向けられた悪意ではなく、悪巧みへの同調を誘う目つきだった。
「……そうだ、気晴らしにさ、これからその辺りにいる人間を脅かしに行かない?」
思いがけない提案に、それまでむっつりと捻れていたこいしの表情がにわかに綻ぶ。
「えっ! なにそれ、面白そう! 行く!」
「よし、決まりだ!」
ぬえが言うが早いか、こいしの方からぬえの手を引っ掴み、寺の門の外に駆け出していた。スキンシップが苦手なぬえは一瞬ひるんで手を引こうとしたが、折角仲良くなりかけているのだから相手の好きにさせようと思い直し、こいしに引かれるまま寺の門をくぐる。
(よっぽど寺の中にいるのが嫌だったんだなあ)
一刻も早くこの場から遠ざかりたいとでも言うように一目散に駆けるこいしの背中を、ぬえは半ば呆れながら見ていた。
彼女はこいしと共に駆けながら、繋いだ手に目を落とす。こいしの小さくふくよかな手は、ぬえの細い手をしっかり掴んで離そうとしない。
久々に触れた他者の体温が、ぬえにはなんだかずいぶんと暖かく感じられた。
***
陽光の降り注ぐ街道を、ぬえとこいしは二人並んで悠然と歩んでいた。
命蓮寺から人里に続く道は、里から伸びる街道の中でも比較的人間が良く通る。人目をを避けたいぬえは敢えて遠回りをして、妖怪の山に続く道から人里に入ることにしていた。
実際、二人が歩く道すがらすれ違うのは妖怪ばかりだった。寺に良く参拝にくる顔と出くわすこともあり、そんな時は相手の方が気を使って丁寧な挨拶をしてくる。
平和的な妖怪の間で絶対的な支持を集める命蓮寺。その門徒であり、なおかつ上代の大妖怪であるぬえは、妖怪の間ではそれなりに畏敬の対象となっていた。
ぬえ本人としてはそういった扱いには良くも悪くも慣れっこになっていて、面倒くさそうに手をひらつかせて相手の礼儀に応えるだけだった。
人里まで一町ほどのところで、ぬえはおもむろに立ち止まり、こいしの目の前に片方の拳をつきだした。その握られた手の中から、手品のように一匹の蛇が這い出てくる。
「それは?」
「こいつは正体不明の種だ。こいつをくっつければ、どんなものでも正体を無くしてしまうんだ」
「??? それってどういう意味があるの?」
頭の上にたくさんの疑問符を浮かべて、こいしが小首を傾げる。
そんなこいしを見て、ぬえは不敵に笑った。
「意味を無くすことに意味があるのさ。まあすぐにわかるって。それよりお前の能力は気配を消すこともできるんだよな」
「そうだよ」
「そいつは素敵だ。面白くなってきた」
くつくつとぬえの喉が鳴る。
「じゃあさ、折角だから今すぐやってみせてよ。気配を消したまま人里に入りたいからさ」
「お易い御用よ!」
こいしはにっこりと笑うと、やにわにぬえの腕に抱きついた。
こいしの突然の行動に、ぬえは少なからずうろたえてしまい、思わず身を引きそうになる。こいしはそんなぬえの気持ちなどつゆ知らず、自慢げに輝く目でぬえを見据える。
「これでおしまい。簡単でしょ?」
ぬえは疑い深げに呻いた。己の手の甲やら胴やらをつぶさに観察してみるものの、とりたてて自分の身に変化があるようには感じられなかったからだ。
「……お前……ひっついただけじゃないか。これで、本当に気配が消えてるの?」
「うん、そのはずだよー」
丁度その時、会話する二人の足下を黒猫が横切った。猫は、何かを追いかけるように猛然と人里に向かって駆けて行く。
僅かの瞬間にぬえの目が捉えた猫の尾は、二股に分かれているように見えた。
「ありゃ妖怪猫だな。あんな調子で人里に走って行ったら危ないなあ。下手すりゃ人間に退治されちゃうよ」
駆け去る猫の後ろ姿を見ながら、ぬえは呟いた。さして心配している風でもなければ、好き好んで呼び止めて注意をしようという訳でもないようだった。
その横で、こいしもまた猫の後ろ姿を追っていたが、彼女の方は「んー」と喉からの声を出し、何事か思案している様子だった。
ぬえが問いかける。
「どうしたの?」
「うん、あのね、あの猫。うちのペットに良く似てるなーって」
「地底の猫が地上にやってくるの?」
「時々ね。でも今のはどうかな。速かったからよくわかんないや」
「ふーん」
さして興味もなさそうに鼻を鳴らすぬえ。
「まあそれより、早速人里に潜入してみようよ。気配が消えたことを確かめたいからさ」
「そうだね!」
二人は勇んで人里の入り口の門の下まで駆け寄り、門柱の側に身を滑り込ませた。
柱の陰から人里の中を覗き込むと、里の入り口付近に、妖怪を含む外来者を客に取る露店やら酒場やらが軒を連ねているのが見えた。店子をやっているのはおしなべて人間だったが、彼らは妖怪に対しても全く物怖じせず商売に精を出している。
ぬえは手近にいた露天商に目をつけると、こいしに目配せをしてみせた。二人は頷き合って、思い切りも良く人里の門をくぐる。
露天商は人相の悪い中年の男だった。道ばたに麻布を敷き、その上に使い古しのキセルやらがま口やらを並べて売っている。扱う品目はバラバラだしその品質もバラバラ。どう見ても盗品かそれに類するモノを売るいかがわしい店だった。
門柱に寄生するようにして営まれているその露天商人の前に、ぬえとこいしは仲良く腕を組み堂々と立ちふさがって見せた。
ところが、二人の妖怪が視界に入っているにも関わらず、商人は全く何の反応も見せないどころか、退屈そうに欠伸なぞ放っている。
ぬえとこいしは商人の鼻先で手を振ったり、槍の切っ先を目前に突きつけてみたり、フォークダンスを踊ってみせたりしてみせたが、瞬き一つしやしない。あまりにも反応がないので、マミゾウ辺りが先手を打って丸太を人間に化けさせたのではないかとすら思えて来たぬえは、試しに商人の鼻の穴に思い切り指を突っ込んでみた。
「ふが! んご、んな、な、なんだあ!?」
途端に、商人は泡を食って飛び退る。彼は目を白黒させながら、背後や周囲を見回した末、困惑顔でしきりに鼻の下を撫でるのだった。
鼻の穴の中から感じる体温は間違いなく人間のものだった。ぬえは商人が混乱している隙に、地面に敷かれた麻布で指を丹念に拭くと、こいしに向かって親指を立てて見せた。
(上出来だ!)
こいしは白い歯をむき出しにして、初めて妖怪らしい笑顔をぬえに見せた。
***
「お、見えてきたぞ。あの家だ」
ぴったりとこいしに寄り添いながら歩くぬえが、本通りから外れた処にあるとある長屋の戸口の一つを指で差し示す。
二人がいそいそと戸口に近づくと、部屋の中から荒々しい怒号が聞こえてきた。開け放たれた戸口の陰からそろり部屋の中を覗く。すると、畳敷きの部屋のど真ん中で、ぬえたちに背を向けて堂々と寝そべる人間の姿が見えた。
どうやら怒号の主はこの人間らしく、しきりに部屋の隅に向かって悪態をついている。
その人間の男が畳の上でごろりと身体を転がし、ぬえたちのいる戸口に顔を向けた。ぬえはとっさに身を隠そうとしたが、思い返してみれば自分たちは気配を消しているのだから、その必要もないことに気づいてもう一度部屋の中に視線を戻す。
男は苛立ったような目を戸口の辺りに向け、口から唾を飛ばす。
「おい、おかあ! 家の中にネズミが出てるじゃねえか! こんなに太ってやがるのは、きっと家の食べ物を食っているからに違いねえ。お前がちゃんと管理しねえからだ、聞いてんのかおい!」
「無駄口叩いてる暇があったら追い出すなり何なりすりゃいいじゃないのさ! きょうび猫だってあんたよりはしっかり働くよ!」
「なんだとクソババア!」
ぬえとこいしが部屋の入り口に首を突っ込んで脇を見ると、へっついの前に堂々たる体躯の女の姿が見えた。こいしは一目見て、この長屋の主人は部屋の真ん中で寝そべっているあの男ではなく、この肥った女の方だと直感した。
人間の男はこの女とひとしきり口論した末、なんだかんだで結局言い負かされてしまい、ついにはふてたように身体を丸めて向こうを向いてしまった。
ぬえとこいしは戸口から首を引っ込める。
「……あの二人、夫婦なのにいっつも喧嘩してんだ。早く別れりゃいいのにっていっつも思ってたんだよ。今日はそのお手伝いをしてやろうと思ってな」
「さっきの正体不明の種を使うのね」
「そゆこと」
二人は悠々と戸口から長屋の中に入り、部屋の主人であるところの女の方に近づいた。そして、そっと彼女の背中に正体不明の種を貼りつけると、いそいそと入り口から出て再び部屋の中を覗き込む。
二人がしばらく黙って見ていると、男の方が寝そべったまま喚き散らし始めた。
「おい、おかあ! 飯まだかよ!」
「ああん? 甲斐性なしのくせに飯だけは一人前に食うのかい! ちょいとは外に出て働いてきな! それまでコメの一粒だって食わせてやらないよ」
「なんだとこの……」
男が身をよじってこちらを向いた。その表情が、一瞬にして凍り付く。
「う、うわああああ! 化け物!」
男は叫んで畳の上を後じさった。男の目に何が映っているのかと思い、こいしがへっついの方を覗き込むが、女の方は別段先ほどと変わらない恰幅の良い姿で土間に立っているだけにしか見えない。
女の方が、明らかに憤慨した様子で手に持っていたお玉を振り上げる。
「ついに化け物呼ばわりかい! これまで随分と色々こらえてきたが、もう堪忍ならん! 出て行きな! 二度と帰ってくんな!」
「た、助けてくれえっ!」
男はしばらくの間畳の上を指で掻いていたが、ようやくもって立ち上がると、履物も履かずに入り口を飛び出して行った。
腰の抜けかけた男の走る様は見事なまでに滑稽で、思わず二人の妖怪は吹き出し、そして、たまらず大声を上げて笑ってしまった。
「うん? 誰かそこにいるのかい?」
長屋の奥から先ほどの女の声が聞こえる。ぬえは慌ててこいしの手を引き、通りを駆け出していた。
通りを走りながら、二人の妖怪は大いに笑った。笑って笑って、息が切れるまで笑った頃に、ようやく二人の足は止まった。
人通りの少ない路地裏に身を寄せ、迫り上がってくる呼吸を整えながら、こいしはぬえに訊ねた。
「ねえ、それって変身の種なの? さっきのおじさんは化け物って言ってたけど、私にはあのおばさんがそういう風には見えなかったよ」
こいしの質問を待っていたかのように、ぬえは得意げに鼻を膨らませた。彼女は手の中から再び正体不明の種を取り出すと、こいしの目の前にちらつかせながら彼女に説明を始めた。
「種明かしすると、この種はただの変化の種じゃない。正体をなくすって言うのも茶を濁す方便だよ。この種の本質は、人間の心に作用して、その心象風景の一部を具現化して見せることにある」
「心の中に思っていることが、そのまま現実に見えるってこと?」
「そう! 飲み込みが良いな。例えばこいつを夜中の柳につけてやれば、人間にはどれだけ近づいて見てもその柳が幽霊のように見えてしまうのさ。さっきの旦那さんもおおかた、かみさんのことをずっと化け物だと思ってたんじゃないかな」
ぬえの説明を聞いて、こいしの顔に笑顔が弾けた。
「へえ! すごいすごい! おもしろーい!」
「だろ? じゃあどんどんいこう! この種さえあれば絶対に退屈なんかしないんだから」
二人の妖怪は互いに頷くと、路地裏から表通りに躍り出た。
通りに出ると、多くの人間の姿が二人の視界に入る。蕎麦屋の前で順番待ちをしている人間、花屋の店先にしゃがみ花を眺める人間、井戸端で水待ちをしている人間、談笑しながら通りを歩く人間、肩で風を切りながら歩く人間。
ぬえはそれらの人間たちを撫でるように眺めると、楽しそうに舌なめずりをした。
「いいかい、こいし。これから、こいつら全員に正体不明の種をくっつけてやるんだ。一人や二人じゃない、全員だ。人間全員を正体不明にしてやるんだ」
「そしたら、どうなるの?」
「さあね。やったことがないから、私にもわからないよ。こんなこと、気配を消しでもしない限りできやしないからね。でも、さっきの夫婦の様子を見る限り、とっても楽しいことになるのは請け合いさ」
「うん、よし! やろうやろう!」
その日の出来事は、天狗の手によって後に幻想郷中に知れ渡るほどの大騒動に発展した。特に射命丸文が発行する『文々。新聞』の号外は飛ぶように売れたという。
号外の見出しは『白昼の人里の怪! 人間に恐怖する人間!?』というキャッチーなものだったが、その記事の内容は主に人間の証言を元に書かれ、事実関係は不明瞭なものだった。そうなった原因は、人間たちがそれぞれ微妙に異なる証言をしたことにある。
唯一の共通項は、里の人間同士が、お互いの姿を見ては驚愕し、互いを化け物と呼んだことだった。新聞の見出しが先のようなものになったのは、このような事実を反映してのことだ。
たが、具体的な出来事を述べさせると各人各様てんでバラバラで、ある人間は、他の人間全てが足の生えた財布に見えたと言い、またある人間は他の人間の一部が二枚舌を持った妖怪に見えたと言った。友人同士が互いを怪物だと恐れ合い、悲鳴を上げながら逃げ惑う。その逃げ惑う姿をを見た人間は、人里に妖怪が攻めて来たと勘違いし腰をぬかしたという。
ぬえとこいしはそんな人間たちの姿を、騒動の間中ずっと空から指さし笑っていた。ことにぬえなどは目に涙を浮かべながら空中で足をジタバタさせて笑い狂った。
「あっはは! 可笑しいの。人間同士であんなに恐がっちゃってさ! 案外、人間にとって一番怖いのは人間なのかもね」
人間の一部が刃傷沙汰を起こしそうになって慌てて正体不明の種を外しにかかったものの、それまでの間、二人の妖怪は大いにこの騒動を笑い、楽しんでいた。
***
同じ頃、人里の酒処。
先日般若湯を偽装して白蓮に見破られ首根っこを掴まれた時に呑んでいたのと同じ店、同じ座席で、一輪と雲山は性懲りもなく飲んだくれていた。雲山の方はどちらかと言うと付き合わされているだけではあったが。
朝方から店に入ってからこの方、もう日も落ちようかという現在に至るまで、休むことなく彼らは呑み続けていた。ざるの雲山は全く酔いを見せていなかったが、一輪の方は既に完全に出来上がっていた。
給仕にやってきた顔なじみの店主も、さすがに呆れ果てた顔で二名の妖怪の姿を見下ろしていた。
「あんたらこの間お師匠さんに見つかったってのに、本当、いい度胸してるね」
「あーん? 読経ぅー? 読経は坊主の専売特許じゃーい」
座布団からずり落ち、雲山の身体の一部を枕代わりに半分寝そべった状態の一輪が、猪口を掲げながらゲラゲラと笑う様を見て、これは敵わんと思ったか、店主は配膳だけ手早くすませてそそくさと店の奥に引っ込んでいった。
店内には仕事を終えて一献傾けようという人間たちがちらほらと集い始めているところだった。彼らは店の隅の座敷で正体をなくしている二匹の妖怪の姿を見ないようにしつつ、慎ましやかに互いに酒を酌み交わしていた。
そうした人間の群れのなかから、ついと一人の男が抜け出てきて、一輪のいる座敷のへりに腰掛けた。
彼は人懐っこい笑みを一輪に向け、猪口を持つ手を軽く掲げると、その中身を一気に煽って空にする。それを契機に男の舌は滑らかに回り出した。
「あんたら、妖怪か。すごいな。妖怪の、しかも坊さんが堂々と人里で酒なんか呑んじゃって。最近じゃ人里でもよくよく妖怪の姿を見かけるようになったけど、これも時代の移り変わりってやつなのかね。まあ店主としちゃ人間だろうが妖怪だろうが金さえ落としてくれりゃ構やしないだろうけどさ。あの親父ときたら最近ちょっと肉付き良くなってきてるだろ? 駄目だよあんたもちょっとは自重しなきゃ、あの親父を左団扇にさせたら碌なことにならないぜ」
「あん? 私に話しかけてんの? あんた誰?」
しばらくのこと焦点の定まらない視線を泳がせていた一輪は、やっとのことで自分に語りかける男に視線を留めることができた。彼女は据わった目で男を見る。
男は軽快に笑った。
「見ての通り人間だよ。それよりさ、一つ聞いていいかい? あんたんとこの住職、妖怪如来を目指してるらしいって聞いたんだけど本当?」
「本気みたいね、どうやら」
苦虫を噛み潰したような顔で一輪が呟く。酩酊とともに記憶の彼方に葬り去りかけていたことを、よもやこの場で思い出すことになるとは思っていなかったため、その苦渋たるやひとしおだった。
男の方はそんな一輪の心中など察する由もなく質問を続ける。
「でもさ、実際のとこ、そんなことできるのかい? 人間の心から生まれた存在であるところの妖怪がだよ、神様仏様になろうなんてさ」
「んなもん、無理に決まってるでしょ」
「えっ?」
憮然とした表情でさらに酒を煽る一輪の返答は、どうやら男にとって想定外のものだったらしい。いましも酒を啜ろうとしていた男は、思わず猪口から唇を離して一輪を見る。その目元には、明らかな驚きの色が浮かんでいた。
一輪は非難がましい目で男の顔を見やり、ぼやく。
「えっ、じゃないわよ。あんたが聞いたんじゃない」
「い、いや、だが……。あんたはあの住職の弟子じゃなかったのか?」
「弟子には弟子なりの考えってもんがあるのよ。仏教なんて所詮人間の為に編み出された教えなんだから、それをそのまま妖怪の生き方に当てはめたって必ずどっかで破綻するに決まってる」
話すうちに頭も冴えてきたのか、淀んでいた一輪の目の中にだんだんと光が戻ってきた。
彼女は何かを言いたげに唇を開いたり閉じたりしていたが、ついに自制のタガが外れたらしい。
「……あーもう! ぶっちゃけて言えばね!」
景気良く酒を飲み干すと、猪口を勢い良く卓の上に叩きつける。
「うちの姐さんは人妖の平等なんてのを謳ってるんだけどさ、それこそどだい無理ってもんよ。例えば、お経一つとってみてもそうだわ。人間にとっては精神を清める有り難い言葉なのかもしれないけどさ、ある種の妖怪にしてみればあんな有害で恐ろしい呪詛の言葉は他に無いわよ。人間にとって良いものと妖怪にとって良いものは全く違う。それこそ正反対と言ったっていい。それを同じ枠組みの中で、同じ方法で、同じ力をかけて、それで同じような結果に至るなんてあり得ないと私は思うわけよ」
誰にも言えずに胸の中に溜め込まれていた言葉ほど、語るに気持ち良いものはない。酒の助けもあり一輪の舌はよく回った。
一輪の饒舌を黙って聞いていた男は、何度も頷いて彼女の言葉に肯う。
「いいこと言うじゃないか。俺も全く同感だね。人間には人間らしい、妖怪には妖怪らしい生き方がある。個々の種族の意思と性質を尊重した教えこそが、結果的に最善の道に到れるものだと俺も思うのよ」
そこまで言って、男はふと疑問に思ったらしく、他意のない調子で一輪にその疑問を投げかけた。
「時に、あんた、なんであの住職の下についてるんだよ」
「そりゃ、あんた、決まってるじゃない! 惚れた目にはあばたもえくぼって言うでしょうが!」
「なるほどね」
男はそう一言呟いて薄い笑みを浮かべる。一瞬だけ、その目元に何かが揺れたように見えたが、酩酊した一輪の目ではその感情を捉えることができなかった。
彼の表情は見ている内にころころと変わる。不思議な男だった。一輪の目がもう一度焦点を取り戻した時、彼の顔には満面の笑みが広がっていた。
「あんた、面白いなあ。妖怪にも面白い奴がいるもんだ。あんた、名前は?」
「私は一輪。雲居一輪っていうのよ。こっちで寝てるのは雲山」
「俺は佐伯。佐伯吾郎」
屈託のない笑顔を見せてそう名乗った男は、一輪に銚子を差し向ける。
「今日の出会いに乾杯といこうぜ。あんたの言葉を聞いて、俺も自分の考えに自信を持てた。このお銚子一本、こいつは俺に奢らせてくれ」
一輪は腕だけ伸ばして男の酌を受ける。もはや泥酔どころか昏睡しかけているものの、僅かに残った意識は、完全にこの佐伯という男を信用に足る人物とみなしていた。
彼女はとろんとした目を額の筋肉でようやく持ち上げつつ、首だけで感謝の意思を示す。
「こっちこそ、話を聞いてもらってありがとう。ほんとにさ、お寺勤めは大変なのよ」
それからまた一輪の愚痴が始まったが、男の方は完全に聞き役に徹することにしたようで、目を細めて彼女の一言一言に時に相槌を打っていた。
今しも酔いつぶれるかと思われた一輪だったが、彼女の場合泥酔に入ってからがやたらと長い。結局、彼女は夜が明けるまで延々、男に向かって管を巻いていたのだった。
その間に、店の外では二匹の少女妖怪が人里を混乱の渦に陥れていたのだが、当然のことながら、一輪はそのことを知る由もなかった。
***
「楽しかったあ! ぬえちゃんの能力、最高!」
「いやいや、お前の能力のお陰で、今までしたくても出来なかったイタズラが沢山できたよ」
ぬえとこいしの二人はすこぶる上機嫌で人里から伸びる街道を歩んでいた。
夢中で遊んでいたので人里にいる間は気づかなかったが、陽はすでにずいぶんと傾き、山の端にその片足を差し掛けている。
これから先は闇の刻、妖怪の時間だ。体力気力共に有り余っているぬえは、これからが本番といった意気で鼻を鳴らす。そんなぬえとは対照的に、こいしはその横で憚らずに大きなあくびをして、むにゃむにゃ言いながら眼を擦っていた。
珍しく気遣わしげな様子で、ぬえはこいしを見やった。
「なんだ、眠いの?」
「うん、昨日の朝から寝てないからさすがに疲れちゃった」
こいしは気恥ずかしそうに笑う。
「そっか。じゃあ、もう家に帰ったほうが良いかな」
そうだね、と言うこいしの笑顔は、こころなしか寂しそうに見えた。彼女は宵闇の空をぼんやりと見上げ、独り言のよう声で呟いた。
「ぬえちゃんは、明日になったら私のこと忘れてないかなあ?」
突然訳のわからないことを言い出す相棒を、ぬえは不思議に思って訝しげに見やる。
「あー? バカ言うな。忘れるわけないだろ?」
ぬえの言葉を聞いているのかいないのか、こいしは突然に駆け出した。そうして少し先まで行って立ち止まると、振り返りもせず、語気も強めにこう言うのだ。
「皆、そう言うんだ。みーんな」
あっけらかんとしていたが、その実、どこか諦めに似た空しさのようなものを感じさせる声だった。
彼女はゆっくり顔を上げて空に目をやった。紺青の天の原に一番星が瞬き始めている。彼女はそれをじっと見つめているようだった。
ぬえの心がざわつく。薄冥い予感が胸を翳める。根拠も由来も分からない妖怪としての直感だった。
死を恐れる必要が殆ど無い妖怪にとって、明日などまず間違いなく来るものだ。
だが、この目の前の妖怪はどうだろう。
ぬえは何故か、彼女が明日にも消えてしまうような気がしていた。それは彼女の妖怪としての能力のせいかもしれない。
明日の覚束ない日々を自分が送ることになったらという考えが心によぎった時、ぬえの胸はひどく締め付けられていた。
「……あ、あのさ、明日も絶対、寺に来なよ。きっと、今日より楽しいからさ」
衝動的にぬえの唇からそんな言葉が漏れた。
だが、言ってから、それがなんだか自分の台詞じゃないような気がして、ぬえは首を傾げた。
――ガラじゃない。一言で言えばそういうことだった。だけれども、それほど悪い気持ちはしなかった。
ぬえは千年間、いつだって基本一人でやって来た。友達と呼べる妖怪はほとんどいやしなかったし、それを辛いと思ったことも全くなかった。
なぜなら、自分は既に人間の記憶と記録に永久に残り続ける存在であるという自負があったからだ。
だが、幻想郷に来てからの彼女はいつだって孤独だった。妖怪が妖怪として現在進行形で恐れられている幻想郷では、大妖怪としてのプライドなど道化衣装でしかなかった。
かつて恐れられていたことをどんなに誇張したところで、今誰かを脅かしている妖怪がいる限り、そいつの方が偉いに決まっている。
もうそろそろ、この衣装を脱いだって良いんじゃないか。ぬえはそう感じていた。だが、一度他人に与えた印象をわざわざ覆して回る気にもなれなかった。
今ならそれが出来る気がする。前を歩くあの妖怪の子になら、偉大な妖怪『ではない』自分の姿を見せても良い気がしていた。
ぬえはこいしが振り向くのを待っていた。振り向いて、笑顔でうなずいてくれるのを。
果たして、こいしは振り返った。ぬえの口元に不器用な笑顔が浮かぶ。薄闇の中で表情がおぼつかないが、こいしは笑っているように見えた。
「あ! けいちゃん!」
こいしが嬉々とした声を上げる。その視線はぬえではなくその背後に向けられていた。
振り返ると、街道の先から一人の少年が近づいてくるのが見えた。人間の少年だった。
こんな時間に里から離れるように歩く人間がいることを、ぬえは不審に思った。だが、こいしは全く意に介さず、ぬえの脇を抜けその少年に駆け寄っていく。
ぬえの口元から笑みが消え、代わりにふてくされたようなへの字口が姿を見せる。
少年は、人里のどこにでもいそうな特徴のない容貌をしていた。ただ、目つきだけはやけに鋭く妖怪じみていて、ぬえはそこがどうにも気に食わなかった。
こいしが近づくと、何の変哲もない少年の顔に、一瞬、驚いたような色が見えたが、すぐにそれは怪訝そうな表情に変わった。
何事か話しかけようとこいしが口を開いた瞬間、少年はこいしの口を封じるように言葉をかぶせてきた。
「……誰だよ、オマエ。何で俺の名前知ってんの?」
「……」
「用がないなら構ってくるなよ。俺、忙しいんだよね」
こいしと少年の会話はそれきりだった。少年は言い捨てると、ぬえの脇を抜け走り去って行く。
ぬえはよっぽどその少年を引き止めて因縁をつけてやりたい衝動に駆られたが、かろうじて思いとどまった。正体を見せながら相手を脅かすなどというのは三下妖怪のすることだ。
少年の姿は街道の先の闇に消えていった。眼を上げると、広大な地平の帆布一杯に、黒々と妖怪の山の威容が見えた。
自殺志願かもしれないな、などと頭をかすめる。気にはなるが、夜に人里から出る方が悪いのだと結論づけてぬえは少年の姿を頭の片隅に追いやった。
もう一度こいしに目をやると、彼女は道の真ん中に地蔵のように突っ立って、先ほどまで少年の立っていたあたりを未だに見つめていた。まるで、そこにまだあの人間の子供が残っているかのように。
――妖怪より人間の方が大事かね。
そんないじけた思いを払拭するようにため息をつきつつ、ぬえはこいしに近づく。
近づくうちに、ぬえは異常に気づいた。
こいしが、腕をだらんとおろし、何もない宵闇に向かって一人で何事か喋っているのだ。
おかしいのは、その声が、いつもの小笛のような可愛らしい声ではなく、一言一言が異なる周波数を持つ形容しがたく不気味な声だったことだ。
曰く。
「妖怪が死んじゃう時っていうのはね、誰からも怖がられなくなった時と、誰からも忘れられた時なの」
「みんな、私のこと忘れちゃうんだ。みんな。大丈夫、私は慣れてるから大丈夫」
「わかっちゃいるんだ。言われなくったって……。そんなの、わざわざ言わなくったって……」
「でも、もしも誰も私のこと忘れないでいてくれるなら、そっちの方が……」
「……何、ブツブツ言ってんの?」
こいしの顔を覗き込んだぬえは、息を吞む。
こいしの滑らかな肌の上、薄く開かれた瞼の奥が、『認識出来ない』。
眼窠の奥に収まっているのは眼球ではなかった。何かがある筈の場所に、何もないのだ。空洞すらも存在しない。視覚ですらそこに何物も認識できず、脳が何らかの補完を試みようとするも、頭の中でその部分だけ砂嵐に巻かれたようになっていた。
(これが無意識の能力か……?)
ぬえは、初めて味わう感覚に悪酔いのような不快をもよおし、片手で頭を抑えて小さく頭を振った。
再びこいしに目をやると、彼女の瞼の中には、つややかに輝く瞳が戻っていた。その目がくりくりと動いて、ぬえの姿を捉えた所でぴたりと止まる。
こいしはきょとんとして、小首をかしげた。
「あれっ? 私、今何か話してた?」
「いや、今……」
言いかけて、ぬえの喉が詰まった。こいしの先ほどの独り言の内容や、あの薄気味悪い眼窩の様子を思い出す。それらを逐一こいしに伝えるのは、ぬえにはなんとなく憚られた。
彼女は咳払い一つして、繕うように言い直す。
「……やっぱりお前、変わった奴だよなあ」
「えへへ。そう?」
照れたように頬を緩めるこいし。
「褒めてないよ。それよりさっきの奴、なんだよ。人間の分際で妖怪様を舐めくさってさあ」
ぬえは街道の先に視線を投げて吐き捨てるように言った。半ば嫉妬紛れだったが、大妖怪たる自分が人間の小僧ごときに嫉妬していることを認めたくないぬえは、その思いを舌打ちで誤摩化した。
そんなぬえの肘を、こいしの手がそっと引いた。振り返って見ると、こいしは柔らかな微笑みをぬえに向けて見せていた。その声は、先ほどとは打って変わって穏やかだ。
「良いよ。今はたくさん人を驚かせて気分がいいの。それに、けいちゃんだって一緒に遊んでくれる私の友達だから。友達は大切にしなさいって、おねえちゃんが言ってた」
「ふーん……」
ぬえの目元に蔭が落ちる。何気なさを装おうとするものの、目は口ほどに物を言う。
そんなぬえに、こいしは屈託なく満面の笑みを向ける。
「ぬえちゃんも、今日から私の友達! ね、そうでしょ?」
「えっ! う、うん」
心を読めない筈の妖怪に見透かされ、ぬえの耳元がみるみる赤くなる。
恥ずかし紛れにこいしの手をとると、僅かどもりながらぬえは顎で道の先を指した。
「ち、地底の入り口まで送るよ。悪い奴らや天狗に絡まれたりしたら面倒だろ?」
「ありがとう!」
目にしみるほどの笑顔を見せつけられ、ぬえの全身がかすかに火照った。
――らしくないや。
ぬえはまんざらでもなさそうに口元を緩めて、心の中でそう呟いていた。
***
ぬえとこいしが人里で暴れ回った翌日の深夜、命蓮寺にて緊急の会合が催された。人里から一人の人間が来客としてやって来たのだ。
突然の来訪者は寺の客間に通され、丁重なもてなしを受けていた。
人間の用件は他でもない、昨日里で起きた一連の騒動についてだった。彼はその騒動の主犯が寺の妖怪であることを示す決定的な証拠を見つけたと述べ、早急に住職に合わせろと迫ったのだ。
深夜の命蓮寺は妖怪の楽園であり、そこを訪れる者の中には危険な妖怪も混じっている。そのような場所に単身で乗り込んでくるこの人間が、尋常を超える胆力の持ち主であることは明らかだった。
男が葛城左之助と名乗ると、世話を引き受けた一輪は心中穏やかでなくなった。彼は人里で名に負う豪商だが、また別の隠れた異名を持っていたからだ。
その異名とは『嫌妖の左之助』。彼の妖怪嫌いは相当なもので、口さがない妖怪や情報通の一部天狗の間で、彼は里に存在する種族差別的な秘密結社の一員ではないかと噂されているほどだ。
その妖怪にとっての危険人物が、今初めてこうして妖怪寺である命蓮寺に訪れ、その姿をさらしている。
部屋の中央には質素ではあるが品の良い和座卓が据えられている。その机の一方に座るのは、寺の中でも比較的人間に近く、普段から実務をこなしている聖白蓮と雲居一輪だ。そして、問題の人間は彼女らと対面して一人座していた。両者は会合の始めに名乗り合ったきり、今の今まで沈黙を続けている。
人間一人に対し妖怪が二人で相対するのは失礼にあたるのではないか。そう思い、白蓮は初め一人で応対しようとしたが、一輪のたっての希望で彼女も同席することになった。
その一輪が、横目で白蓮を見る。
膝の上で重ねられた白蓮の手が、小刻みに震えているのが分かった。
両者の間に立ち込めてる張り詰めた空気を破ったのは、人間である左之助の方だった。彼は白蓮の目を真っ直ぐに見ながら、机の上に一匹の蛇の玩具を放り投げた。
「単刀直入に問いましょう。これは正体不明の種というものではありませんかな?」
蛇はしばらくじっと息を潜めていたが、白蓮の視線を受けている内に堪え難くなったのか突として動き出し、空に向かって逃げ去っていった。
「確かにその通りです。何処でこれを?」
「里の者たちが被害に遭いましてな。被害に遭った者たちが、人里の人間の中では比較的妖怪に詳しい私に助けを求めに来た。その際、私は一目あの蛇のようなものを見て、あるいはこれは貴女の寺の妖怪の仕業ではないかと思いましてな。急ではありますがこうしてお伺いした次第」
表情も変えず淡々と語る男の話を聞いているうちに、白蓮の顔に苦渋の表情が広がっていく。
「そうですか……。これは何を隠そう、私の弟子の能力に相違ありません」
「左様ですか。では、どのように申し開きされるおつもりですかな?」
「……ひとえにこれまでの指導の甘さによるものと存じます。今後は教育を徹底して参りますので、どうか」
白蓮は座卓に手をつき、深々と頭を下げた。白蓮の隣に座る一輪は、一言も発しなかったものの、呼吸や衣擦れの中に明らかな動揺の気配を見せる。
一方の左之助はここに来てからこの方、その気配の中に微塵も動揺らしきものを見せなかった。切れ上がった一重瞼の奥の瞳には、一定不変の冷たい光が宿ったまま揺れることがない。白蓮の奥の襟を見ながら増長も激高もせず、ただ淡々と言葉を継いだ。
「このところ、寺の妖怪による人間への被害が多い。寺の管理の杜撰さは昨日今日に始まったことではない。貴女の今の言葉が只の口約束に終わらぬよう願いたいものですな」
彼はそこで言葉を切ると、懐から薄汚い紙切れを取り出し、机の上に広げてみせた。白蓮は顔を上げてその紙に視線を落とす。
紙の上には活版印刷された字と共に、一枚の写真が掲載されていた。その写真には、封獣ぬえの姿がはっきりと写っている。
「しかしまあ、妖怪ごときの新聞でも役に立つものですな。以前読んだ天狗の新聞にあれの効果に似た内容が載っていたので、よもやと思い探してみたのです。敵情を知るというのはけだし大切なことですよ」
「敵情……? 敵、と仰りましたか?」
白蓮の眉がピクリと動く。左之助は射抜くような目で白蓮を見つつ、顎を引いて小さく頷いた。
「左様。妖怪は敵です。いたずらに人心を乱し、中には人を喰う者もいる。人間にとってこれほど有害な存在は他にない。加えて今回のこの騒動だ。本音を言えば、貴女たちが人里の傍に拠点を構えていること自体、私には虫酸が走る」
白蓮は机の上に載せた手を、固く握りしめる。
今、目の前にいる人間は、その眼の中に理性的な光が多分に残されている。
ならば、まだ安心できる。本当に恐ろしいのは、感情に巻かれて正常な思考ができなくなった人間だ。
白蓮はすうと一つ息を吸うと、努めて冷静に反論を始めた。
「妖怪は敵ではありません。付き合い方さえ気をつければ、人間と妖怪は共存できるのです」
「笑止! それは貴女のように妖怪に抗する力のある者が往々にして振りかざす強者の論理だ。貴女の眼には確かに妖怪は大人しいもののように見えるかも知れん。だが、それは貴女の力を恐れているがために、貴女の前だけでおとなしくしているだけだ。貴女の眼の届かない処で、どれほど多くの妖怪が人間を傷つけているか、貴女は知らないのだ」
「幻想郷では人間も妖怪も一定の規則に従っており、その規則の中で生きる限り安全は保証されています。私の眼とて節穴ではありません。私の知る限り、被害に遭った人間たちは皆、人里から離れた妖怪の住処に脚を踏み入れたがために襲われているのです。ルールを無視して行動すれば、相応の結果に至っても仕方ないと思います」
「そのようなルールの存在自体が私には不愉快極まりない。なぜ妖怪主導で創りあげたルールに人間が従わなければならないのか」
「多種族が共存する世界では、かようなルールは如何にしても必要になります。それを誰が作ったかなどは到底問題にすべきではありません。また、大多数の人間の合意があったからこそ、このルールは今日まで存続し得た。それはつまり、このルールには人間に益する面もあるということです。そのことも忘れてはならないと思います」
左之助はふっと口元に皮肉めいた笑みを浮かべ、居住まいを正した。それは、これ以上の議論は無用という意思表示だった。
「そのルールから益を感じぬ者もいるということですよ、妖怪寺の魔住職殿。人間も妖怪も、十あれば十の色がありますゆえ、な。無論、貴方のことを快く思わない者とて、人妖問わず少なからず居ることでしょう。そのこと、ゆめゆめお忘れなきよう」
そう言い捨てると、左之助は立ち上がった。二人の妖怪も、客人を玄関まで見送ろうと慌てて立ち上がったが、「見送りは結構」の一言で押しとどめられてしまった。
廊下を歩み去る人間の後ろ姿を、一輪は険しい目つきで見つめていた。やげて来客の姿が見えなくなり、白蓮に視線を戻す。その表情を見た途端、一輪は、思わず悲鳴を上げた。
「姐さん!」
一輪が見た白蓮の顔の色は、死人のようにうす白く変わっていた。彼女の指は震え、彷徨うように卓上を掻いた後、何かを抑えるように己の胸元を掴む。
それは、一輪が最も恐れていたことだった。これを恐れたからこそ、白蓮と同席することを彼女は望んだのだ。
慌てて白蓮の元に駆け寄った一輪は、その背中にそっと手を載せた。
「姐さん、大丈夫ですか!? お顔色が優れません……!」
気遣わしげに白蓮の顔を覗き込む。その額から大粒の汗が滑り落ちるのを見て、一輪は懐から手ぬぐいを取り出した。それを額にあてがってやると、白蓮は朦朧とした視線を一輪に寄越す。
申し訳なさそうに己を見る白蓮に、一輪の胸は締め付けられる。
「……ええ、大丈夫です、一輪。ありがとう」
白蓮がそう言って弱々しく頭を下げたので、一輪は慌てて首を横に振った。
「あれは人里の中でも妖怪嫌いとして知られているお方。御仁の仰られるとおり、人も妖怪も十人十色。あまりお気になさらないことです」
気休め程度の言葉だったが、白蓮の心に届いたと信じたかった。精神的な問題から来る症状ならば、精神を落ち着かせることで快復もするだろうと考えたのだ。
その一輪の思惑通り、少しすると白蓮の顔色に赤みが戻ってきた。
彼女は弱々しく一輪に向かって微笑みかける。
「おかしいですか、一輪? 私は人間が怖いのです。地底のサトリ妖怪にも見抜かれてしまいましたよ。……私は、人間に封印されたあの日以来、人間が怖くてたまらないのです」
一輪は傷ましげな表情で白蓮の言葉に頷いた。
「……決しておかしくなどありません。人間は妖怪以上の凶暴性を秘めた生き物です。なにより恐ろしいのは、そのことに彼らの多くが無自覚なことでしょう」
白蓮はひとつ大きく息を吐くと、気を取り直して笑顔を作った。
「……ごめんなさいね、取り乱してしまって。……それより、悪さをした子たちを早急に戒めなければ。ぬえと……それから、こいしを呼んでください」
「こいしもですか?」
一輪は怪訝そうな顔をして問い返した。
「はい。彼女も間違いなく今回の件に絡んでいます」
「わかりました」
やがて、白蓮の前に渋面のぬえと、ふてくされた顔のこいしが並んでやってきた。
彼女らは和座卓を挟んで白蓮に向かい合って座った。その頃にはもう白蓮の顔色は普段と同じ程度には戻っていた。
白蓮はおもむろに口を開く。
「何故呼ばれたか、わかりますね?」
「はい……」
「……」
頭を垂れて素直に返事をするぬえとは対照的に、こいしはふくれっ面をぶら下げながら押し黙っていた。
「こいし、貴女はどうですか? 自分がなぜ呼び出されたかわかりますか?」
むっつり黙りながら、こいしはぷいとそっぽを向く。どうやら、だんまりを決め込むつもりらしい。
すかさず、ぬえが助け舟を出す。
「あ、あの、聖。私もさ、こいしがなんで呼び出されたかわからないんだけど……。今回、その、里でいたずらしたのは、その、私だけで、こいつは全然関係ないよ……」
上目遣いでしどろもどろにのたまうぬえの様子を、白蓮は目を細め、黙って観察していた。
ぬえは言葉に真実味を持たせるために、真っ直ぐに白蓮を見ようとする。だが、白蓮の強い眼に真っ向から見返されると、たちまちその視線はするすると脇に逸れてしまう。
嘘と騙しで鳴らすぬえも、白蓮の前ではどうしても嘘を吐き続けることができなかった。
白蓮はため息を一つつくと、目を上げてぬえに視線を定めた。
「……そうですか。ではぬえ、貴女はなぜ里でいたずらをしようと思ったのです?」
「ね、ねえ、こいしはもう帰してやってもいいんじゃない?」
「質問に答えなさい」
「……はい。……ええと、何で里でいたずらしようと思ったか? うーん……そりゃ、いつもいつも顔見知りばかり驚かせていても飽きますし……。時々、たらふくごちそうを食べたくなるんですよ。いつも我慢してるし、たまには自分へのご褒美が欲しいなーとか」
「……自分へのご褒美、ですか」
「えへへ」
「えへへ、じゃありませんよ、ぬえ。私がいつも言っている言葉を覚えていますか? 人里にはなるべく近づかないようにしなさいと」
「はい……」
「いくら幻想郷といえど、人間の中にはまだ妖怪を恐れる者もいます。そして、彼らをいたずらに恐れさせては、結果的に私たち自身が不利益を被ることになるのです」
「あいすみません……」
「とかく人間は己の利益のみに邁進し、身持ちを崩してしまうものですが、それは妖怪とて同じことです。己の利益だけを求めて行動することの弊害については……」
「はい。はい、すみません……」
平身低頭してひたすらに謝るぬえ。その姿を歯がゆそうに見ていたこいしが、その手で座卓を強く叩いて喚きだした。
「なんでぬえちゃんが頭を下げなきゃいけないの? ぬえちゃんは立派な妖怪なのに、なんでぬえちゃんが怒られなきゃいけないのよ!?」
「……貴女は関係ないのではないですか、こいし?」
白蓮はあくまで冷静に尋ねる。そんな白蓮に対し、こいしは挑みかかるような眼を向ける。
「いけしゃあしゃあと言ってくれるね。お察しのとおりよ、私もぬえちゃんのいたずらに加担したわ。これで満足?」
高慢ちきにこいしは顎を持ち上げてみせた。その傍らで、目論見の外れたぬえが手で顔を覆う。
白蓮は続けて訊く。
「そうですか。それでは、なぜ、人に迷惑を掛けるようなことをしたのです?」
徹底して感情を抑えた声だった。瞳は微動だにせずこいしの両の目を射抜いている。
その態度がますますこいしの癇に障ったらしく、彼女は白い歯を軋らせながら低く長く呻いた。
「あんたはそういう風におすまししながら私に説教ばっかりして、ちっとも私の力を高めようとしてくれないじゃない! ぬえちゃんと一緒に人を驚かせてた時の方が、ずっと力が高まる感じがしたわ!」
「それではただ獣のように本能に従って生きているだけです。それを仏教では畜生道と呼びますが、その道に生きる限り、悟りに至ることは困難なのです。こいし、貴女は……」
「うるさい! 黙れ!」
こいしは白蓮の話を遮って勢い良く立ち上がった。彼女は憤怒の表情をで白蓮を見下ろし、傲然と言い放つ。
「私は立派な妖怪になりたいの! へりくつばかり言って何もしないあんたみたいになんか、なりたくない!」
そう言い捨てると、彼女は足音荒く部屋を駆け出て行った。
後に残されたぬえは、しばらく呆気にとられてこいしの去っていったあとを眺めていた。
横では、白蓮が深々とため息をつく。その息遣いを聞いて、ぬえはそろそろと気まずそうに彼女の顔を覗きこんだ。
「……この間もこんな感じで喧嘩したの?」
白蓮はそれには答えず、険しい顔でぬえに向き直る。
「……ぬえ、そんなことより、貴女の素行についてのお話を続けましょう」
とんだ藪蛇だった。どさくさに紛れて部屋を出て行けば良かったと後悔したが後の祭り。その後、ぬえは数刻もの間、白蓮のお説教を聞かされるはめになった。
***
「あの住職は寺に着くや否や、こいし様を本堂に連れ込みましたので、私はすわ洗脳が始まるのかと思い慌てて二人の後を尾けたのです。本堂の入り口からこっそり中の様子を伺うと、二人は堂の真ん中で向かい合って座っていました」
お燐はさとりの文机の上に行儀よく座り、椅子に座るさとりに今日見てきたことを多少尾ひれをつけて報告していた。
紅茶の甘い香りが満ちた部屋の中に、滔々と話すお燐の声だけが響く。
さとりは汗ばんだ手で机の端をつかみ、お燐の言葉を身を乗り出して聞いていた。
「そ、それで、どうなったの……?」
先を促すさとりを尻目に、お燐は言葉を切って、わざとらしく舌で手の甲を舐め始めた。
「……(おなかすいたなぁ)」
「……ほら、鰹節をあげるから……」
さとりはもどかしそうに引き出しを開けると、小袋を一つ取り出し、中から細かく砕かれたかつお節を二、三掴んでお燐の足元に投げやった。
「にゃにゃ! これはどうも、ありがとうございます!」
いささかあこぎな手段でおやつをせしめたお燐は、鰹節の欠片にしゃぶりつきながら、心のなかで自分の手腕を誇ってほくそ笑んだ。
情報に不安を煽るような味付けをして相手の財布の紐を緩めるやり口は、地上でその道のプロである天狗から教わったものだったが、存外効果的だった。
もちろん、心の読めるさとりにはそんなこすい企みは全てお見通しだった。彼女は敢えて辛抱してお燐に乗ってやっているだけなのだ。
放っておけばすぐ食欲と死体に関する雑念に囚われるお燐から情報を引き出すには、口頭で報告させて意識をそちらに向けさせるのが結局一番確実で手っ取り早い。
「ね、それで……早く続きを……」
「コリコリ……最初は住職が一方的に何やら話していましたが、その最中にこいし様が例の発作を起こしまして……ピチャピチャ」
「何を考えているのかよくわからなくなるアレね……。ただでさえこいしの心は私にも読めないのに、アレが起きると手がつけられなくなるのよ」
「ええ。それで、発作はすぐに収まったのですが、その直後から始まった問答で、無意識に関する見解の相違で住職と口論になり、こいし様は本堂を飛び出して行きました。その後は寺にいる鵺という妖怪と共に人里を荒らして一日を過ごしていました」
自信満々に報告したものの、後半は実はお燐の想像だった。実際の所、彼女は人里近くの街道で二人の姿を見失ってしまったのだ(晩ご飯の妄想をしている隙を突かれた)。ただ、人里の至る所で騒ぎが起きていたし、それが気配を消したこいしの仕業と見て、ほぼ間違いないだろうと思ったのだ。
さとりはそんないい加減なペットのために、一つ大きなため息をついた。
「……それじゃ、こいしは初日から住職と喧嘩して、そのまま修行もせずに寺の妖怪と遊び呆けてたというわけね」
「はい、さとり様」
「そう……」
さとりの目に安堵の表情が浮かぶ。
少しばかり心配のしすぎだったのかもしれない。
このまま大過なく日々が過ぎていけばいい。その中で、こいしが妖怪として生き永らえる術を少しずつ身につけてくれれば。さとりはそう願っていた。
それは、しかし、地上で育ちつつある一つの脅威を前にしては、ひどく儚い願いでしかなかった。
朝は、太陽の持つ霊力が一日で最も強い時間だ。特に日の出は、いかなる邪な力をも打ち払う強力な輝きを放つ。靄の深く立ちこめる中、その朝の陽の光が参道に差し込み、闇の帳を霞の彼方に追いやっていく。
境内には、白蓮の帰還を聞きつけ、寺の門弟たちが集まっていた。彼らは地底から帰って来た白蓮と、その白蓮に連れられたこいしを囲み、わいわいがやがやと賑わっている。
わけても賑やかさ抜群の響子などはこいしを見るなり駆け寄っていって、小さな尻尾をこれでもかと振りながら新参者に愛想を振りまいていた。
「あなたがこいしちゃん!? 私、幽谷響子! よろしくね! わー、またお仲間が増えるのねー! うれしいわ!」
テンションの上がったヤマビコ妖怪の声は遠慮などとは無縁で、人里まで届くかというほどの大音量がそこら中に響き渡った。至近距離でその声を聞くこいしはたまったものではない。
こいしは思わず指で耳を塞ぎ、助けを求めるように白蓮を見上げる。
「聖お姉ちゃん、この子うるさい」
「なっ! 会って早々、私の存在意義を否定するの!?」
響子はこいしの言葉に少なからずショックを受けたようで、小さな肩をますます小さく萎めてうなだれてしまった。
早くも気まずい雰囲気を見せ始めた両者の間に白蓮がゆっくり分け入って、優しく二人の頭を撫でた。
「この子はヤマビコの妖怪でね、元気なのが取り柄なの。仲良くしてあげてね」
白蓮に頭を撫でられると、響子は嬉しそうに笑って小さな尻尾をはたはたと振る。
こいしはその様子を見て何事か思いついたように目を輝かせ、そしてやにわに「お手!」と叫んで響子に向かって右手を差し出した。すると、響子は反射的に「お手!」と叫びながら左手をこいしの掌にさっと差し出してしまった。
「きゃあ! かわいい! うちに持って帰ってペットにしても良い!?」
「私で遊ぶなーっ!」
怒りもあらわに箒をぶんぶんと振り回す響子から、こいしは嬌声をあげてのらりくらりと逃げ回る。
そんなじゃれ合いを少し離れた場所から見ていた星が、苦りきった顔で白蓮に歩み寄った。
「本当に入信させてしまったのですか……」
「ええ、苦労しました」
そう言いつつ満足げに白蓮は微笑む。良く見てみると白蓮の服は至る所が刃物で切り裂かれたように破けている。おそらく力だけが法の地底で壮烈な弾幕戦を繰り広げて来たのだろうと容易に想像がつく。だが……。
――そういう意味じゃないのに……。
ずれた発言をする主人に対し、星は内心でため息をつく。
しかし、こういう所は昔から変わっておらず、逆にほっとするところでもあった。基本的に、弟子の言葉を肯定的に受け取るのが、星の主人の昔からの癖だった。それが良いことなのか悪いことなのかは分からないが、少なくともそれによって星が損をしたことはなかった。
が、今回は少し悪い予感が星の胸の端を翳めていた。
星の傍らに控えていた一輪がずいと進み出て口を差し挟む。
「姐さん。お言葉ですが、あの子はまずいです。地底に居た頃は彼女にずいぶんと辛酸をなめさせられましたし……」
「そうでしょうか? 私の見た限りでは、とても素直で良い子でしたよ」
白蓮の贔屓目がいかに盲目的かを知っている一輪と星は、互いに顔を見合わせて肩をすくめた。
「あっ! 入道のおじさんだ! 貴方も入門してたの?」
おすわりを覚えさせようとして響子に組み付いていたこいしは、一輪の脇にこぢんまりと収まっている雲山を目に留めるや、響子のことはほっぽり出して彼の元に駆け寄って行った。
突然こいしに話しかけられた雲山は哀れなほど目をうろうろさせたあと、小さくしていた姿をさらに小さく縮めて一輪の陰に隠れ、一輪に何事かぼそぼそと呟いた。
一輪はうんざりしたようにその雲山の様子を一瞥した後、大きくため息をついてこいしに向き直った。
「私と雲山は千年以上前から聖様の弟子をやってるわ。雲山もそう言いたがってる」
「……どうして貴女が間に入って通訳してるの? 地底では話したことなかったけど、もしかしてその入道のおじさん、異国の方なの?」
もっともな疑問である。話しかけている相手は入道なのに、なぜか傍らにいる人間っぽい通訳妖怪が代わりに話を始めるのだから、不思議に思わない方がおかしい。
「失礼ね、生粋の日本妖怪よ。雲山は人見知りが激しくてね。親しくない人とはうまく話ができないの」
「ふーん、シャイなおじさまなのね」
こいしはぐるりと回り込んで一輪の背後に隠れる雲山に近づくと、正面から彼の目を見つめた。至近距離から見つめられた雲山の眼球運動はさらに激しくなる。
なかなか自分を見てくれない雲山に業を煮やしたこいしは、彼の頬を両手で引っ掴んで無理矢理自分の方に向けた。そしてやおらその両腕を雲山の首に巻き付けると、鼻も触れ合うかというほど顔を近づけ、とろけるような甘い声で雲山に囁きかけた。
「おじさまはもっと恋をした方が良いよ。……ほら、例えば……、私なんてどうかしら? ね、お・じ・さ・ま」
こいしの腕の中で動転の絶頂に達した雲山は、塩をかけられたナメクジのようにどんどん身体を萎めていって最後には消えてしまった。
「こらこらこらっ! 何、雲山を誘惑してるの! あんたのせいで彼、逃げちゃったじゃない!」
「あれえ? ……残念だわ。結構タイプだったんだけどなあ。私、生真面目な性格の方、好きよ」
そう言うと、彼女はきょろきょろと忙しなく周囲を見回して何かを探し始めた。
「雲山を探してるの?」
「ううん、そうじゃなくて、水蜜は? いつも貴女と一緒にいたんだから、あの子もお寺にいるんでしょ?」
彼女の興味の対象は既に別のものに移っていた。気まぐれに見えるが、その実は何も考えていないだけだった。彼女は心を閉ざして以来、ずっとそういう気質なのだ。
一輪は心の中で雲山に同情しつつ、辛抱強くこいしの相手を続けた。
「ムラサならあんたの姿を見てとっくに逃げたわよ」
「えー? ショックだなあ。友達だと思ってたのに」
こいしはそう言うと、不機嫌そうに頬を膨らませた。
地底にいる頃から彼女を知っている一輪は、それが無意識の演技であることを知っていた。相手との関係を壊さない為に、感情を持っているように見せかける演技だ。
彼女は本当は少しもショックを受けていないし、雲山のことを好みだと言ったのもその場のノリでしかない。本心は誰にも分からないし、下手をすれば本心というもの自体が存在しないかも知れない。
彼女と話をしているうちに、一輪は底のない暗く巨大な穴の中を見ているような気持ちになってきた。会話はちゃんと成立するし、意思の疎通もできている筈なのだが、なぜかいつの間にか一人で奈落に向かって話をしているような錯覚に囚われる。
二人が話していると、その輪の中に、白蓮が興味深そうな顔をして加わって来た。
「あら、こいしちゃんはムラサとも知り合いなの?」
「うん! 彼女が地底にいる頃は、よく一緒に遊んだものよ。血の池地獄で溺れる水蜜がかわいかったなー。こう、あの子の絶望の表情を見てるとなんだか胸がドキドキしちゃうの」
胸に手を当ててうっとりと身体をよじるこいしを見て、すかさず一輪がたしなめる。
「あれはあんたが突き落としたんでしょ。覚えてないの?」
「あれ? そうなの? ごめんね、私が気づいたときはいつも溺れてる水蜜しか目に入らなかったから良く覚えてないの」
「おおかた、血の池地獄で妖怪たちが船遊びしていたところを、ムラサが襲っていたのでしょう」
二人の話を注意深く聞いていた白蓮がにべもなくそう言うと、一輪は言葉に詰まる。
「ええまあ……、お察しの通りです」
「ならば自業自得というものです」
白蓮は決然とした表情でそう言い放った。その目に一切の笑みはない。一輪としては返す言葉もなく黙るしかなかった。
白蓮は少し冷たい物言いだったのではないかと胸の内で日和ったが、すぐにその甘い気持ちを心から振り払った。彼女は、件の鼎談以来弟子に対して努めて厳しく接しようと心に決めていた。
だが、入門したばかりのこいしは例外である。白蓮はこいしに向き直ると、打って変わって甘やいだ表情で彼女に話しかける。
「こいしちゃん。折角お寺にいらしたのだから、座学をして行かない?」
「座学?」
「お堂の中で、私と一緒に仏の教えを学ぶのです」
「あっ、わかった。まずはリロンってことね! いいよ、やろうやろう!」
二人はすっかり意気投合したように互いに手を取り合うと、軽やかに跳ねるように参道を歩き始めた。
浮かれ上がった二人の去り行く後ろ姿を、一輪は思案げな表情で見つめていた。
「ねえ星。自分の師匠がもうすぐ深い落胆を味わうことになると分かっていながら、敢えて黙っているのは罪だと思う?」
白蓮に目を向けたまま、一輪は星に対し、独り言のような口調でそう訊ねた。
星もまた、白蓮の後ろ姿を見据えながら答える。
「それは罪ではなく罰なのでは?」
「……」
罰とは言い得て妙だった。一輪は苦しげに眉を寄せ、物言いたげに星を見た。星は一輪に目を向けず、ただ一点白蓮の去った方を見ながら、穏やかに言葉を継いだ。
「行動で意思を示そうという聖を、どんな言葉で動かそうというのですか? 元はと言えば私たちの不心得が生んだ顛末なのだから、甘んじるしかないでしょう」
「……姐さん……すみません……。もうお酒は飲ま……」
そこまで言って一輪の言葉は途切れた。彼女は腕を組んでうーんうんと唸りつつ先の言をひり出そうとするも、その声に含まれる意思はみるみる不確かになっていった。
「いや、四分の一くらい? ……いや、半分くらいに減らします……」
「結局飲むんですねえ……」
ヤマビコ妖怪にしみじみとそう言われ、一輪の頬にさっと赤みが差した。
「う、うるさいなあ! ほら、朝の勤行! 疎かにしてはだめよ!」
一輪にけしかけられ、響子はしぶしぶ境内の掃除に向かった。
けしかけた方の一輪は、星や響子に背を向けると、大股で門の方へと歩いて行く。
「あら? どこ行くの、一輪?」
てっきり一輪もお勤めに入るとばかり思っていた星は、驚いて一輪の背中に声をかけていた。
一輪は首だけで星に振り返り、悪びれもせず、
「呑む! 嫌なことはまず呑んで忘れる! 雲山、いらっしゃい!」
そう言い放った。
呆れ果てて言葉を失う星を尻目に、一輪は参道のど真ん中を歩いて去っていく。その後ろから、恐縮というよりむしろ自らを圧縮しきった雲山が、意志を持った風船のように一輪の背中を追いかけていった。
幻想郷の朝はまだ始まったばかりだった。
***
しかつめらしい顔をした大日如来像の見守る下で、白蓮とこいしは向き合って座っていた。
白蓮は膝下に小机を据え、その上に紙の経巻を広げて仏の世の法を滔々と説いている。
がらんとしたお堂の中に白蓮の涼やかな声が響く。その声は、凛とした朝の空気と、どこやらに聞こえる小雀の声とに彩られ、廉潔な堂の壁の中に染み渡ってゆく。
法の力の充満した本堂の空気は、しかし、妖怪にとっては居心地悪いことこの上ない。
こいしはしきりに身をもじもじと揺すりながら、ちらちらと傍らの如来像を見上げようとする。しかし、こいしにはどうしてもその像の膝下までしか目をやれない。その手元、その顔を見ようとしても、如何にしても見ることができないのだ。
こいしが大日如来と静かな闘いを繰り広げているのに目もくれず、白蓮は経巻を一心に目で追いながら説法を続けていた。
「……従って、空の境地というのは色、即ちこの世の万物に潜む精神性を認識することにあると……」
白蓮の説法なぞ、こいしの耳には一切入っていなかった。ただひたすらに傍らの仏像の姿をその目の中に収めようと懸命に視線を彷徨わせる。
彼女が何故そこまで大日如来像を意識するのかは、彼女自身はっきりとはわかっていなかった。ただ、なんとなく、この偶像に込められた精神性が、今の自分の存在を脅かすもののように感じられたのだ。
一方で、こいしの理性は、この像を視界に収めることを望んでいた。半ば意地である。仏の力とやらを手に入れようというのに、たかが塑像の一体すら己の自由にできないなどということは、彼女のプライドが許さなかった。
血が滲むほど唇を噛む。滑らかな眉間に深い皺が寄る。額からこめかみから、滝のように汗が流れ出す。
妖気を振り絞って傍らに視線を投げていたこいしの目から、ふいに光が消えた。虹彩の色が墨で塗りつぶしたように真っ黒く染まる。
傍らを睨んで瞼の端に寄っていたこいしの瞳がゆっくりと動き、説法中の白蓮の姿を捉えた。
「……この空の境地に至ることこそが即ち我々の目指す悟りの境地であり……」
説法も佳境に入り、自論に至ろうとして目を上げた白蓮のその目と、こいしの目が合う。
「つまんない!」
突然、こいしが声を張り上げ、拳で木目の床を激しく叩いた。きょとんとしている白蓮の目の前で、こいしは仰向けに寝転がって手足をジタバタと動かしながら喚き散らし始めた。
「つまんない、つまんない、つまんなーい!」
白蓮は、今までおとなしく話を聞いていたこいしが突如として暴れ始めたことに戸惑いを隠せなかった。おろおろと手をやる方なく動かしながら立ち上がり、暴れ回るこいしに近づく。
「ど、どうしちゃったというの、こいしちゃん」
こいしは白蓮が近づくとぱたりと暴れるのを止め、何事もなかったかのようにいそいそと元の場所まで戻って座り直した。怪訝に思いながら表情を覗き込むが、こいしの顔にはいつも通りの笑顔が張り付いたままだった。
……何を考えているのか分からない。
頭の上にクエスチョンマークを何個も浮かべながら、白蓮も再び小机の前に戻り、座り直す。
すると、こいしは目元に薄い笑いを見せながら口を開いた。
「……白蓮お姉ちゃん、小難しいリクツばっかり言ってるけどさ、そんなムズカシく考えてたら、何時まで経っても無意識を操ることなんてできないよ」
白蓮は、ふむ、と小さく頷く。こいしの言葉にも一理あると考えたのだ。
白蓮とて悟りの境地には至っていない一僧侶にすぎない。机上の空論など、実体験の前では何の価値もない。
そもそも、白蓮は何故苦労してまでこいしを入信に導いたのかといえば、ひとえにこいしが感得していると思われる空の境地について、彼女から直接話を聞きたいと思ったからだ。
白蓮は長いこと僧をやっているが、実際に涅槃の境地に至った者に出会ったことがなかった。白蓮は高鳴る胸の鼓動を深呼吸で落ち着けると、居住まいを正し、神妙な面持ちでこいしに問うた。
「……では問いましょう。こいし、あなたが無意識を操っているとき、あなたの心の中には何が見えているのですか?」
「なんにもないよ」
「……?」
あっけらかんと答えるこいしに、白蓮は怪訝そうな表情を向けた。
「なんにもない。なーんにもない!」
こいしは楽しそうに笑う。だが、白蓮は難しい顔だ。口元に指をやり、しばしの間黙考する。
白蓮は、これからこいしに対し、悟りの境地へ至る心の機微を詳しく聞きたいと思っていた。どのような心構え、どのような精神状態を入り口として空を知るのか、という点を、体験談から学びたかったのだ。だが、こいしの一言によって、そもそもの前提からして白蓮の認識と異なる可能性が出て来た。
つまり、こいしの操る無意識の境地が、空の境地とは全く別物であるという可能性だ。
白蓮は慎重に言葉を選びつつ、こいしに再び訊ねた。
「……何もない、それは『虚無』ではありませんか? 『虚無』と『空』は一見似ていますが本質は全く異なるものです。『空』とは万物のありようの本質であり、それはあらゆる存在の中に見いだすことができるものと言われています。そして、『虚無』とはそれとは真逆のもの。この世の全ての本質から遮断され、関係性を失った状態を指すのです」
「よくわかんないけど、私が無意識を操ってる時は、バンブツノアリヨウとか言うのを感じたりはしないよ。なーんにもないんだもの。そもそも、無意識を操っている間のことは私自身もよく覚えていないんだ」
話を聞く白蓮の背中が、明らかな落胆によってみるみる萎んだ。
こいしの説明は決定的だった。まず間違いなく、こいしの能力は空とは異なる。空は雑念を排した先にある知覚の極致であり、宇宙すら含めた総体としての世界を、その感覚の中に収めることができるものと言われている。しかし、こいしの説明を聞く限り、彼女の能力は彼女自身からあらゆる知覚を奪う代物のようだ。
雑念が排される点で『空』と『虚無』は似ている。だが、行き着く結果は完全に真逆だ。
白蓮の目論見は、どうやら呆気なく破綻したようだった。だが、それだけならば彼女の落胆はそれほど大きくはなかっただろう。実は、この『虚無』の力は、もっと大きな別の問題を孕んでいたのだ。
厄介なことに、この『虚無』の力というのは妖怪の命を脅かす非常に危険な力だった。
良く言われることだが、妖怪は恐れられなくなった時と忘れ去られた時、その命を失う。妖怪は、いわば他者との関連性、すなわち『縁』を糧として命を繋いでいるのだ。
だが、『虚無』の力は、その他者との関係性を失わせる。
彼女がこれから妖怪として成長するに従い、『虚無』の力が増大していくとしたら、彼女の妖怪としての存在は次第に希薄になり、いずれこの世から消えてしまうかもしれない。
仏陀に最も近いと思われた妖怪は、その実、滅びに最も近い妖怪だったのだ。
白蓮は大きくため息をついてこいしの顔を見た。こいしは、にこにこと笑いながら白蓮の言葉を待っている。
この無邪気な妖怪に現実を告げるのは、双方に取って酷なことだった。
話をこれで切り上げるべきか、白蓮はよくよく迷った。だが、放っておけば目の前のいたいけな妖怪は破滅の道に向かってしまうかも知れない。
それよりは、彼女に現実を知ってもらい、共に生き延びる術を探す方が安全と思われた。
白蓮は意を決してこいしに自分の見解を告げることにした。
「……こいし、おそらく貴女が操っているのは『虚無』の力。『虚無』はとても危険な力です。それは滅びの力。みだりに使えば他者だけでなく自らすらも滅ぼす力です」
白蓮は真摯な表情でこいしの目をまっすぐに見据え、一言一言に強い意志を含ませながら言を継いだ。
「非常に言い難いことですが、貴女はその力を使うべきではないと思います」
「……えっ?」
思ってもみなかった白蓮の言葉に、こいしは目を丸くした。彼女は戸惑いの表情を浮かべ、白蓮に向かって身を乗り出す。
「なに? それって、つまり、私の力を認めてくれないってこと?」
「……。貴女の力を認める訳には行きません。虚無の力は他者はおろか、自分自身との関係性すら失わせてしまう。それは妖怪にとって、致命的なことなのです。妖怪は、存在を忘れられた時、その命を失います。無意識の力に乗っ取られ、あるいは無意識の力が暴走し、自分自身からも永遠に忘れられてしまえば、貴女はもうこの世に留まることができなくなる……」
白蓮の物言いを聞くうちに、こいしの目つきが明らかに険しいものに変化した。
「なにそれ。なによ、それ」
ぶつぶつとつぶやくこいし。
「せっかく面白いことがあると思って地上までやってきたのにさ、つまんないお説教聞かされるなんて思わなかったよ。そのお説教だってさ、いかにもお為ごかしに言ってるけどさ、私の力が思っていたのと違うから負け惜しみ言ってるだけにしか聞こえないよ!」
喋っているうちにだんだんと感情を抑え切れなくなったらしく、最後の方は怒声とも涙声とも取れる声でこいしは喚いていた。
彼女は手でお堂の床を叩いて乱暴に立ち上がると、入り口に向かって一目散に駆け出した。
「こいし!」
慌てて立ち上がった白蓮に向かってこいしは肩越しに振り返り、鼻息一つ吹くと、下まぶたを人差し指でめくり下げてみせた。
「べーだ! あんたなんか大ッキライ!」
こいしは白蓮に背を向けると、お堂の入り口から飛び出して行く。
足をもつれさせながらも、聖はこいしに追いすがろうとしたが、お堂を出た所で途方に暮れて立ち尽くした。
広々とした境内を見回しても、既にこいしの姿は見当たらなかった。
――言い方を間違えてしまっただろうか。
白蓮は落胆して肩を落とす。
しょんぼりと俯く白蓮の足下を、悠然と横切る生き物があった。腹の毛だけが赤く、それ以外の毛が黒色で、尾が二股に分かれている妖怪猫だった。
猫は白蓮の顔を見上げ、馬鹿にしたような鳴き声で一つだけ鳴いた後、足取りも軽やかに参道を走り去って行った。
***
昼飯前の命蓮寺境内は、普段なら読経の声が聞こえる程度で、それもない時はせいぜい木々の葉擦れの音か鳥の鳴き声くらいしか聞こえない、静かなものだった。
だが今日は普段とは大分様子が違っていた。祭り囃子と呼ぶにはあまりに騒々しく、かつ風変わりな音色が、境内を越えて人里まで届き聞こえていたのだ。
その音色も、美しい旋律からはほど遠く、所々で調子っ外れな音を出したり、いきなり謎の変拍子が挟み込まれたり、時々思い出したかのように恐ろしげな奇声が発せられたりする。
当初、人里の人間は、お寺でまたお祭りでも始まったのかと思っていた。だが、特に予め告知もなかったし、先に言ったような様子だったので、大体の人間はこう思った。またぞろ寺のヤマビコ妖怪がおかしなことを始めたのだろう、と。
彼らは命蓮寺の妖怪には理解があったので、皆心の中で生暖かく見守る算段だった。
実際、大方の予想は当たっていた。その騒音の発生源は、境内の片隅で行われている、ロックバンド鳥獣伎楽とプリズムリバー楽団の音合わせだったのだ。
人里からやって来た子供たちが興味深そうに見守る中、彼女らは互いの音が聞こえるように円陣を組んで練習していた。が、一小節終わる度になにがしかの理由で演奏は止まる。そして、音が止まる度に誰かの怒声が飛ぶのだった。
「ちがうちがう! そこハ長調でしょうが! 全然音が外れてる!」
大仰なドラムセットの後ろからリリカが顔を覗かせ怒鳴る。その脇では、ルナサがベースのネックを腕に抱えて下生えの上に三角座りし始めた。彼女は聞こえるか聞こえないかという声でブツブツと呟く。
「あー……テンション下がって来た……音は外れまくるしリズムも全然合わないし……テンション下がって来たわー」
「あっ、ほらあ。あんたたちのせいでルナサ姉さんのテンションだだ下がりじゃないの!」
煩わしそうにリリカの声を聞きながら、ミスティアは小指で耳を掻いた。
「知らんがな。ていうか、何よ爬蝶々って……。音楽に小難しい理屈なんて必要ないでしょ?」
ミスティアがそう言うと、相方の響子は何度も頷いて賛同した。
「そうよ! 重要なのはパッションなのよ!」
「同調してんじゃないわよヤマビコ妖怪! あんたはアドリブかまし過ぎ! そーいうのはもうちょっと上手くなってからやんなさい!」
「えー、だって同じ調子でずっとやってたらつまんないじゃん」
「どこが同じ調子なのよ! ていうか、あんたたち、楽譜どこやったの?」
「楽譜? ああ、あの紙切れのこと? 見ても分かんないから炭火焼きの着火材に使っちゃった」
悪びれもせずそう言い放つミスティアの笑顔は爽やかだ。口元から白い歯がキラリと光る。
リリカは肩をわなわなと震わせて、今しも噴火しそうな勢いだったが、実際に爆発したのは傍で黙って聞いていたメルランだった。教育役をリリカに任せようと今までは黙っていたが、とうとう己の中の躁の気性をおさえられなくなったのだ。
「なってなあーい! 貴女たち全然なってないわ! ちょっとそこになおれ! 座学から始めるわよ!」
姦しい彼女らの練習の様子を、少し離れた木の上で見守る姿があった。彼女は退屈そうに一つ欠伸を放った後、目をこすりこすり、誰に聞かせるともなく呟いた。
「あいつら、全然進歩しないなあ……」
黒いワンピースに赤い靴、背中からは羽根なのか触手なのかわからないものが伸びる妖怪。寺一番の問題児、封獣ぬえだった。
寺の弟子たちにはそれぞれに決められた仕事があるのだが、彼女がそんなものを律儀にこなすはずもなく、普段から仕事をサボっては気の向くままあちこちに顔を出してちょっかいをかけているのだった。
今日は寺の境内で何やら面白そうなことをやっていたので、ちょっと邪魔をしてやろうと近づいてみたものの、邪魔するまでもなく終始グダグダな練習風景を見ているとなんだか馬鹿馬鹿しくなってきてしまった。それで、馬鹿共の練習風景を木の上で眺めながら、今日の予定を立て直そうと思っていたところなのだ。
丁度そんな折、本堂の方から駆けてくる姿が視界に入って来た。
今朝、ムラサと共に遠巻きに眺めていたから、ぬえは彼女のことを知っていた。白蓮が連れて来た新しい入信者だ。
ムラサいわく、悪逆非道の血も涙もない妖怪とのことだったが、ぬえの目から朝の様子を見る限り、何の変哲もない普通の妖怪としか思えなかった。
足下でやっている下手糞な練習をこのまま眺めているよりは、彼女と話をしていた方が楽しそうだ。そう思ったぬえは、それまで座っていた木の枝から参道の石畳の上に飛び降り、こいしがやってくるのを待った。
行く先に突然現れた妖怪が自分に向かって手招きしているのを見ると、こいしは駆けるのを止めて彼女に歩み寄る。
近づいて来たこいしの表情を見ると、どうもあまり穏やかな気分ではないようだ。口をへの字に曲げ、目元にも何やら険がある。
(聖と、なんぞやらかしたかな?)
ぬえはこいしに友好的に笑いかけ、努めてリラックスさせようと穏やかな声で話しかけた。
「……どうしたのさ? 不機嫌なツラしちゃって」
「白蓮のクソババアなんか死んじゃえばいいんだ」
開口一番、剣呑な物言いに、ぬえは思わず苦笑してしまった。
「……なんだお前、さっき来たばっかなのに、もう聖と喧嘩したの? 短気にも程があるだろ」
「だって、あいつ、私の力を馬鹿にしたんだもん」
こいしはぷくっと頬を膨らませて見せる。
「あー、……だいたい想像はつくよ。まあ、言わんこっちゃ無いよなあ。妖怪に悟りの境地なんてどだい無理だっての」
ぬえはそう言ってせせら笑った。この段になってこいしはようやくぬえに興味を持ったようで、ぬえに顔を近づけてまじまじとその目の中を覗き込んだ。こいしの身体から立ち上る甘い花の香りに鼻孔をくすぐられ、ぬえはちょっとだけどぎまぎして、知らずのうちに目をそらしていた。
「……あなたもあいつの弟子よね? あいつの言うとおり修行してるの?」
「んなもん、してるわけ無いでしょ」
「じゃあ、あなたはなんでここにいるの?」
改めて問われると、答えに窮する質問だった。
「うーん。なんでだろ。いや、まあ確かに聖は説教臭いところがあるけどさ、一度仲間と認めたらすごい勢いで守ってくれるからね。居心地がいいんだ」
「ふーん。なんだかヤクザの親分みたい。ホントにここお寺なの?」
こいしはそう言って傍を一瞥する。彼女の視線の先では、プリズムリバー姉妹による音楽講座が始まっており、鳥獣伎楽の二名は言うに及ばず、里の人間やらそこらを彷徨いていた妖怪までもが、下生えの上に座り込んで熱心に姉妹の話に耳を傾けていた。
その様子だけ見ていると、ここが仏道を極める為の場所とは到底思えなくなってくる。
ぬえとしては返す言葉もなく、力なく笑う他なかった。
「まあ、聖の説教さえ話半分に聞いてりゃ、ここは妖怪に優しい良い所さ。あんまり短気おこさないで気楽にいこうよ」
そこまで言ってから、名案でも浮かんだのか、ぬえの目に意地の悪い光が宿った。といってもそれはこいしに向けられた悪意ではなく、悪巧みへの同調を誘う目つきだった。
「……そうだ、気晴らしにさ、これからその辺りにいる人間を脅かしに行かない?」
思いがけない提案に、それまでむっつりと捻れていたこいしの表情がにわかに綻ぶ。
「えっ! なにそれ、面白そう! 行く!」
「よし、決まりだ!」
ぬえが言うが早いか、こいしの方からぬえの手を引っ掴み、寺の門の外に駆け出していた。スキンシップが苦手なぬえは一瞬ひるんで手を引こうとしたが、折角仲良くなりかけているのだから相手の好きにさせようと思い直し、こいしに引かれるまま寺の門をくぐる。
(よっぽど寺の中にいるのが嫌だったんだなあ)
一刻も早くこの場から遠ざかりたいとでも言うように一目散に駆けるこいしの背中を、ぬえは半ば呆れながら見ていた。
彼女はこいしと共に駆けながら、繋いだ手に目を落とす。こいしの小さくふくよかな手は、ぬえの細い手をしっかり掴んで離そうとしない。
久々に触れた他者の体温が、ぬえにはなんだかずいぶんと暖かく感じられた。
***
陽光の降り注ぐ街道を、ぬえとこいしは二人並んで悠然と歩んでいた。
命蓮寺から人里に続く道は、里から伸びる街道の中でも比較的人間が良く通る。人目をを避けたいぬえは敢えて遠回りをして、妖怪の山に続く道から人里に入ることにしていた。
実際、二人が歩く道すがらすれ違うのは妖怪ばかりだった。寺に良く参拝にくる顔と出くわすこともあり、そんな時は相手の方が気を使って丁寧な挨拶をしてくる。
平和的な妖怪の間で絶対的な支持を集める命蓮寺。その門徒であり、なおかつ上代の大妖怪であるぬえは、妖怪の間ではそれなりに畏敬の対象となっていた。
ぬえ本人としてはそういった扱いには良くも悪くも慣れっこになっていて、面倒くさそうに手をひらつかせて相手の礼儀に応えるだけだった。
人里まで一町ほどのところで、ぬえはおもむろに立ち止まり、こいしの目の前に片方の拳をつきだした。その握られた手の中から、手品のように一匹の蛇が這い出てくる。
「それは?」
「こいつは正体不明の種だ。こいつをくっつければ、どんなものでも正体を無くしてしまうんだ」
「??? それってどういう意味があるの?」
頭の上にたくさんの疑問符を浮かべて、こいしが小首を傾げる。
そんなこいしを見て、ぬえは不敵に笑った。
「意味を無くすことに意味があるのさ。まあすぐにわかるって。それよりお前の能力は気配を消すこともできるんだよな」
「そうだよ」
「そいつは素敵だ。面白くなってきた」
くつくつとぬえの喉が鳴る。
「じゃあさ、折角だから今すぐやってみせてよ。気配を消したまま人里に入りたいからさ」
「お易い御用よ!」
こいしはにっこりと笑うと、やにわにぬえの腕に抱きついた。
こいしの突然の行動に、ぬえは少なからずうろたえてしまい、思わず身を引きそうになる。こいしはそんなぬえの気持ちなどつゆ知らず、自慢げに輝く目でぬえを見据える。
「これでおしまい。簡単でしょ?」
ぬえは疑い深げに呻いた。己の手の甲やら胴やらをつぶさに観察してみるものの、とりたてて自分の身に変化があるようには感じられなかったからだ。
「……お前……ひっついただけじゃないか。これで、本当に気配が消えてるの?」
「うん、そのはずだよー」
丁度その時、会話する二人の足下を黒猫が横切った。猫は、何かを追いかけるように猛然と人里に向かって駆けて行く。
僅かの瞬間にぬえの目が捉えた猫の尾は、二股に分かれているように見えた。
「ありゃ妖怪猫だな。あんな調子で人里に走って行ったら危ないなあ。下手すりゃ人間に退治されちゃうよ」
駆け去る猫の後ろ姿を見ながら、ぬえは呟いた。さして心配している風でもなければ、好き好んで呼び止めて注意をしようという訳でもないようだった。
その横で、こいしもまた猫の後ろ姿を追っていたが、彼女の方は「んー」と喉からの声を出し、何事か思案している様子だった。
ぬえが問いかける。
「どうしたの?」
「うん、あのね、あの猫。うちのペットに良く似てるなーって」
「地底の猫が地上にやってくるの?」
「時々ね。でも今のはどうかな。速かったからよくわかんないや」
「ふーん」
さして興味もなさそうに鼻を鳴らすぬえ。
「まあそれより、早速人里に潜入してみようよ。気配が消えたことを確かめたいからさ」
「そうだね!」
二人は勇んで人里の入り口の門の下まで駆け寄り、門柱の側に身を滑り込ませた。
柱の陰から人里の中を覗き込むと、里の入り口付近に、妖怪を含む外来者を客に取る露店やら酒場やらが軒を連ねているのが見えた。店子をやっているのはおしなべて人間だったが、彼らは妖怪に対しても全く物怖じせず商売に精を出している。
ぬえは手近にいた露天商に目をつけると、こいしに目配せをしてみせた。二人は頷き合って、思い切りも良く人里の門をくぐる。
露天商は人相の悪い中年の男だった。道ばたに麻布を敷き、その上に使い古しのキセルやらがま口やらを並べて売っている。扱う品目はバラバラだしその品質もバラバラ。どう見ても盗品かそれに類するモノを売るいかがわしい店だった。
門柱に寄生するようにして営まれているその露天商人の前に、ぬえとこいしは仲良く腕を組み堂々と立ちふさがって見せた。
ところが、二人の妖怪が視界に入っているにも関わらず、商人は全く何の反応も見せないどころか、退屈そうに欠伸なぞ放っている。
ぬえとこいしは商人の鼻先で手を振ったり、槍の切っ先を目前に突きつけてみたり、フォークダンスを踊ってみせたりしてみせたが、瞬き一つしやしない。あまりにも反応がないので、マミゾウ辺りが先手を打って丸太を人間に化けさせたのではないかとすら思えて来たぬえは、試しに商人の鼻の穴に思い切り指を突っ込んでみた。
「ふが! んご、んな、な、なんだあ!?」
途端に、商人は泡を食って飛び退る。彼は目を白黒させながら、背後や周囲を見回した末、困惑顔でしきりに鼻の下を撫でるのだった。
鼻の穴の中から感じる体温は間違いなく人間のものだった。ぬえは商人が混乱している隙に、地面に敷かれた麻布で指を丹念に拭くと、こいしに向かって親指を立てて見せた。
(上出来だ!)
こいしは白い歯をむき出しにして、初めて妖怪らしい笑顔をぬえに見せた。
***
「お、見えてきたぞ。あの家だ」
ぴったりとこいしに寄り添いながら歩くぬえが、本通りから外れた処にあるとある長屋の戸口の一つを指で差し示す。
二人がいそいそと戸口に近づくと、部屋の中から荒々しい怒号が聞こえてきた。開け放たれた戸口の陰からそろり部屋の中を覗く。すると、畳敷きの部屋のど真ん中で、ぬえたちに背を向けて堂々と寝そべる人間の姿が見えた。
どうやら怒号の主はこの人間らしく、しきりに部屋の隅に向かって悪態をついている。
その人間の男が畳の上でごろりと身体を転がし、ぬえたちのいる戸口に顔を向けた。ぬえはとっさに身を隠そうとしたが、思い返してみれば自分たちは気配を消しているのだから、その必要もないことに気づいてもう一度部屋の中に視線を戻す。
男は苛立ったような目を戸口の辺りに向け、口から唾を飛ばす。
「おい、おかあ! 家の中にネズミが出てるじゃねえか! こんなに太ってやがるのは、きっと家の食べ物を食っているからに違いねえ。お前がちゃんと管理しねえからだ、聞いてんのかおい!」
「無駄口叩いてる暇があったら追い出すなり何なりすりゃいいじゃないのさ! きょうび猫だってあんたよりはしっかり働くよ!」
「なんだとクソババア!」
ぬえとこいしが部屋の入り口に首を突っ込んで脇を見ると、へっついの前に堂々たる体躯の女の姿が見えた。こいしは一目見て、この長屋の主人は部屋の真ん中で寝そべっているあの男ではなく、この肥った女の方だと直感した。
人間の男はこの女とひとしきり口論した末、なんだかんだで結局言い負かされてしまい、ついにはふてたように身体を丸めて向こうを向いてしまった。
ぬえとこいしは戸口から首を引っ込める。
「……あの二人、夫婦なのにいっつも喧嘩してんだ。早く別れりゃいいのにっていっつも思ってたんだよ。今日はそのお手伝いをしてやろうと思ってな」
「さっきの正体不明の種を使うのね」
「そゆこと」
二人は悠々と戸口から長屋の中に入り、部屋の主人であるところの女の方に近づいた。そして、そっと彼女の背中に正体不明の種を貼りつけると、いそいそと入り口から出て再び部屋の中を覗き込む。
二人がしばらく黙って見ていると、男の方が寝そべったまま喚き散らし始めた。
「おい、おかあ! 飯まだかよ!」
「ああん? 甲斐性なしのくせに飯だけは一人前に食うのかい! ちょいとは外に出て働いてきな! それまでコメの一粒だって食わせてやらないよ」
「なんだとこの……」
男が身をよじってこちらを向いた。その表情が、一瞬にして凍り付く。
「う、うわああああ! 化け物!」
男は叫んで畳の上を後じさった。男の目に何が映っているのかと思い、こいしがへっついの方を覗き込むが、女の方は別段先ほどと変わらない恰幅の良い姿で土間に立っているだけにしか見えない。
女の方が、明らかに憤慨した様子で手に持っていたお玉を振り上げる。
「ついに化け物呼ばわりかい! これまで随分と色々こらえてきたが、もう堪忍ならん! 出て行きな! 二度と帰ってくんな!」
「た、助けてくれえっ!」
男はしばらくの間畳の上を指で掻いていたが、ようやくもって立ち上がると、履物も履かずに入り口を飛び出して行った。
腰の抜けかけた男の走る様は見事なまでに滑稽で、思わず二人の妖怪は吹き出し、そして、たまらず大声を上げて笑ってしまった。
「うん? 誰かそこにいるのかい?」
長屋の奥から先ほどの女の声が聞こえる。ぬえは慌ててこいしの手を引き、通りを駆け出していた。
通りを走りながら、二人の妖怪は大いに笑った。笑って笑って、息が切れるまで笑った頃に、ようやく二人の足は止まった。
人通りの少ない路地裏に身を寄せ、迫り上がってくる呼吸を整えながら、こいしはぬえに訊ねた。
「ねえ、それって変身の種なの? さっきのおじさんは化け物って言ってたけど、私にはあのおばさんがそういう風には見えなかったよ」
こいしの質問を待っていたかのように、ぬえは得意げに鼻を膨らませた。彼女は手の中から再び正体不明の種を取り出すと、こいしの目の前にちらつかせながら彼女に説明を始めた。
「種明かしすると、この種はただの変化の種じゃない。正体をなくすって言うのも茶を濁す方便だよ。この種の本質は、人間の心に作用して、その心象風景の一部を具現化して見せることにある」
「心の中に思っていることが、そのまま現実に見えるってこと?」
「そう! 飲み込みが良いな。例えばこいつを夜中の柳につけてやれば、人間にはどれだけ近づいて見てもその柳が幽霊のように見えてしまうのさ。さっきの旦那さんもおおかた、かみさんのことをずっと化け物だと思ってたんじゃないかな」
ぬえの説明を聞いて、こいしの顔に笑顔が弾けた。
「へえ! すごいすごい! おもしろーい!」
「だろ? じゃあどんどんいこう! この種さえあれば絶対に退屈なんかしないんだから」
二人の妖怪は互いに頷くと、路地裏から表通りに躍り出た。
通りに出ると、多くの人間の姿が二人の視界に入る。蕎麦屋の前で順番待ちをしている人間、花屋の店先にしゃがみ花を眺める人間、井戸端で水待ちをしている人間、談笑しながら通りを歩く人間、肩で風を切りながら歩く人間。
ぬえはそれらの人間たちを撫でるように眺めると、楽しそうに舌なめずりをした。
「いいかい、こいし。これから、こいつら全員に正体不明の種をくっつけてやるんだ。一人や二人じゃない、全員だ。人間全員を正体不明にしてやるんだ」
「そしたら、どうなるの?」
「さあね。やったことがないから、私にもわからないよ。こんなこと、気配を消しでもしない限りできやしないからね。でも、さっきの夫婦の様子を見る限り、とっても楽しいことになるのは請け合いさ」
「うん、よし! やろうやろう!」
その日の出来事は、天狗の手によって後に幻想郷中に知れ渡るほどの大騒動に発展した。特に射命丸文が発行する『文々。新聞』の号外は飛ぶように売れたという。
号外の見出しは『白昼の人里の怪! 人間に恐怖する人間!?』というキャッチーなものだったが、その記事の内容は主に人間の証言を元に書かれ、事実関係は不明瞭なものだった。そうなった原因は、人間たちがそれぞれ微妙に異なる証言をしたことにある。
唯一の共通項は、里の人間同士が、お互いの姿を見ては驚愕し、互いを化け物と呼んだことだった。新聞の見出しが先のようなものになったのは、このような事実を反映してのことだ。
たが、具体的な出来事を述べさせると各人各様てんでバラバラで、ある人間は、他の人間全てが足の生えた財布に見えたと言い、またある人間は他の人間の一部が二枚舌を持った妖怪に見えたと言った。友人同士が互いを怪物だと恐れ合い、悲鳴を上げながら逃げ惑う。その逃げ惑う姿をを見た人間は、人里に妖怪が攻めて来たと勘違いし腰をぬかしたという。
ぬえとこいしはそんな人間たちの姿を、騒動の間中ずっと空から指さし笑っていた。ことにぬえなどは目に涙を浮かべながら空中で足をジタバタさせて笑い狂った。
「あっはは! 可笑しいの。人間同士であんなに恐がっちゃってさ! 案外、人間にとって一番怖いのは人間なのかもね」
人間の一部が刃傷沙汰を起こしそうになって慌てて正体不明の種を外しにかかったものの、それまでの間、二人の妖怪は大いにこの騒動を笑い、楽しんでいた。
***
同じ頃、人里の酒処。
先日般若湯を偽装して白蓮に見破られ首根っこを掴まれた時に呑んでいたのと同じ店、同じ座席で、一輪と雲山は性懲りもなく飲んだくれていた。雲山の方はどちらかと言うと付き合わされているだけではあったが。
朝方から店に入ってからこの方、もう日も落ちようかという現在に至るまで、休むことなく彼らは呑み続けていた。ざるの雲山は全く酔いを見せていなかったが、一輪の方は既に完全に出来上がっていた。
給仕にやってきた顔なじみの店主も、さすがに呆れ果てた顔で二名の妖怪の姿を見下ろしていた。
「あんたらこの間お師匠さんに見つかったってのに、本当、いい度胸してるね」
「あーん? 読経ぅー? 読経は坊主の専売特許じゃーい」
座布団からずり落ち、雲山の身体の一部を枕代わりに半分寝そべった状態の一輪が、猪口を掲げながらゲラゲラと笑う様を見て、これは敵わんと思ったか、店主は配膳だけ手早くすませてそそくさと店の奥に引っ込んでいった。
店内には仕事を終えて一献傾けようという人間たちがちらほらと集い始めているところだった。彼らは店の隅の座敷で正体をなくしている二匹の妖怪の姿を見ないようにしつつ、慎ましやかに互いに酒を酌み交わしていた。
そうした人間の群れのなかから、ついと一人の男が抜け出てきて、一輪のいる座敷のへりに腰掛けた。
彼は人懐っこい笑みを一輪に向け、猪口を持つ手を軽く掲げると、その中身を一気に煽って空にする。それを契機に男の舌は滑らかに回り出した。
「あんたら、妖怪か。すごいな。妖怪の、しかも坊さんが堂々と人里で酒なんか呑んじゃって。最近じゃ人里でもよくよく妖怪の姿を見かけるようになったけど、これも時代の移り変わりってやつなのかね。まあ店主としちゃ人間だろうが妖怪だろうが金さえ落としてくれりゃ構やしないだろうけどさ。あの親父ときたら最近ちょっと肉付き良くなってきてるだろ? 駄目だよあんたもちょっとは自重しなきゃ、あの親父を左団扇にさせたら碌なことにならないぜ」
「あん? 私に話しかけてんの? あんた誰?」
しばらくのこと焦点の定まらない視線を泳がせていた一輪は、やっとのことで自分に語りかける男に視線を留めることができた。彼女は据わった目で男を見る。
男は軽快に笑った。
「見ての通り人間だよ。それよりさ、一つ聞いていいかい? あんたんとこの住職、妖怪如来を目指してるらしいって聞いたんだけど本当?」
「本気みたいね、どうやら」
苦虫を噛み潰したような顔で一輪が呟く。酩酊とともに記憶の彼方に葬り去りかけていたことを、よもやこの場で思い出すことになるとは思っていなかったため、その苦渋たるやひとしおだった。
男の方はそんな一輪の心中など察する由もなく質問を続ける。
「でもさ、実際のとこ、そんなことできるのかい? 人間の心から生まれた存在であるところの妖怪がだよ、神様仏様になろうなんてさ」
「んなもん、無理に決まってるでしょ」
「えっ?」
憮然とした表情でさらに酒を煽る一輪の返答は、どうやら男にとって想定外のものだったらしい。いましも酒を啜ろうとしていた男は、思わず猪口から唇を離して一輪を見る。その目元には、明らかな驚きの色が浮かんでいた。
一輪は非難がましい目で男の顔を見やり、ぼやく。
「えっ、じゃないわよ。あんたが聞いたんじゃない」
「い、いや、だが……。あんたはあの住職の弟子じゃなかったのか?」
「弟子には弟子なりの考えってもんがあるのよ。仏教なんて所詮人間の為に編み出された教えなんだから、それをそのまま妖怪の生き方に当てはめたって必ずどっかで破綻するに決まってる」
話すうちに頭も冴えてきたのか、淀んでいた一輪の目の中にだんだんと光が戻ってきた。
彼女は何かを言いたげに唇を開いたり閉じたりしていたが、ついに自制のタガが外れたらしい。
「……あーもう! ぶっちゃけて言えばね!」
景気良く酒を飲み干すと、猪口を勢い良く卓の上に叩きつける。
「うちの姐さんは人妖の平等なんてのを謳ってるんだけどさ、それこそどだい無理ってもんよ。例えば、お経一つとってみてもそうだわ。人間にとっては精神を清める有り難い言葉なのかもしれないけどさ、ある種の妖怪にしてみればあんな有害で恐ろしい呪詛の言葉は他に無いわよ。人間にとって良いものと妖怪にとって良いものは全く違う。それこそ正反対と言ったっていい。それを同じ枠組みの中で、同じ方法で、同じ力をかけて、それで同じような結果に至るなんてあり得ないと私は思うわけよ」
誰にも言えずに胸の中に溜め込まれていた言葉ほど、語るに気持ち良いものはない。酒の助けもあり一輪の舌はよく回った。
一輪の饒舌を黙って聞いていた男は、何度も頷いて彼女の言葉に肯う。
「いいこと言うじゃないか。俺も全く同感だね。人間には人間らしい、妖怪には妖怪らしい生き方がある。個々の種族の意思と性質を尊重した教えこそが、結果的に最善の道に到れるものだと俺も思うのよ」
そこまで言って、男はふと疑問に思ったらしく、他意のない調子で一輪にその疑問を投げかけた。
「時に、あんた、なんであの住職の下についてるんだよ」
「そりゃ、あんた、決まってるじゃない! 惚れた目にはあばたもえくぼって言うでしょうが!」
「なるほどね」
男はそう一言呟いて薄い笑みを浮かべる。一瞬だけ、その目元に何かが揺れたように見えたが、酩酊した一輪の目ではその感情を捉えることができなかった。
彼の表情は見ている内にころころと変わる。不思議な男だった。一輪の目がもう一度焦点を取り戻した時、彼の顔には満面の笑みが広がっていた。
「あんた、面白いなあ。妖怪にも面白い奴がいるもんだ。あんた、名前は?」
「私は一輪。雲居一輪っていうのよ。こっちで寝てるのは雲山」
「俺は佐伯。佐伯吾郎」
屈託のない笑顔を見せてそう名乗った男は、一輪に銚子を差し向ける。
「今日の出会いに乾杯といこうぜ。あんたの言葉を聞いて、俺も自分の考えに自信を持てた。このお銚子一本、こいつは俺に奢らせてくれ」
一輪は腕だけ伸ばして男の酌を受ける。もはや泥酔どころか昏睡しかけているものの、僅かに残った意識は、完全にこの佐伯という男を信用に足る人物とみなしていた。
彼女はとろんとした目を額の筋肉でようやく持ち上げつつ、首だけで感謝の意思を示す。
「こっちこそ、話を聞いてもらってありがとう。ほんとにさ、お寺勤めは大変なのよ」
それからまた一輪の愚痴が始まったが、男の方は完全に聞き役に徹することにしたようで、目を細めて彼女の一言一言に時に相槌を打っていた。
今しも酔いつぶれるかと思われた一輪だったが、彼女の場合泥酔に入ってからがやたらと長い。結局、彼女は夜が明けるまで延々、男に向かって管を巻いていたのだった。
その間に、店の外では二匹の少女妖怪が人里を混乱の渦に陥れていたのだが、当然のことながら、一輪はそのことを知る由もなかった。
***
「楽しかったあ! ぬえちゃんの能力、最高!」
「いやいや、お前の能力のお陰で、今までしたくても出来なかったイタズラが沢山できたよ」
ぬえとこいしの二人はすこぶる上機嫌で人里から伸びる街道を歩んでいた。
夢中で遊んでいたので人里にいる間は気づかなかったが、陽はすでにずいぶんと傾き、山の端にその片足を差し掛けている。
これから先は闇の刻、妖怪の時間だ。体力気力共に有り余っているぬえは、これからが本番といった意気で鼻を鳴らす。そんなぬえとは対照的に、こいしはその横で憚らずに大きなあくびをして、むにゃむにゃ言いながら眼を擦っていた。
珍しく気遣わしげな様子で、ぬえはこいしを見やった。
「なんだ、眠いの?」
「うん、昨日の朝から寝てないからさすがに疲れちゃった」
こいしは気恥ずかしそうに笑う。
「そっか。じゃあ、もう家に帰ったほうが良いかな」
そうだね、と言うこいしの笑顔は、こころなしか寂しそうに見えた。彼女は宵闇の空をぼんやりと見上げ、独り言のよう声で呟いた。
「ぬえちゃんは、明日になったら私のこと忘れてないかなあ?」
突然訳のわからないことを言い出す相棒を、ぬえは不思議に思って訝しげに見やる。
「あー? バカ言うな。忘れるわけないだろ?」
ぬえの言葉を聞いているのかいないのか、こいしは突然に駆け出した。そうして少し先まで行って立ち止まると、振り返りもせず、語気も強めにこう言うのだ。
「皆、そう言うんだ。みーんな」
あっけらかんとしていたが、その実、どこか諦めに似た空しさのようなものを感じさせる声だった。
彼女はゆっくり顔を上げて空に目をやった。紺青の天の原に一番星が瞬き始めている。彼女はそれをじっと見つめているようだった。
ぬえの心がざわつく。薄冥い予感が胸を翳める。根拠も由来も分からない妖怪としての直感だった。
死を恐れる必要が殆ど無い妖怪にとって、明日などまず間違いなく来るものだ。
だが、この目の前の妖怪はどうだろう。
ぬえは何故か、彼女が明日にも消えてしまうような気がしていた。それは彼女の妖怪としての能力のせいかもしれない。
明日の覚束ない日々を自分が送ることになったらという考えが心によぎった時、ぬえの胸はひどく締め付けられていた。
「……あ、あのさ、明日も絶対、寺に来なよ。きっと、今日より楽しいからさ」
衝動的にぬえの唇からそんな言葉が漏れた。
だが、言ってから、それがなんだか自分の台詞じゃないような気がして、ぬえは首を傾げた。
――ガラじゃない。一言で言えばそういうことだった。だけれども、それほど悪い気持ちはしなかった。
ぬえは千年間、いつだって基本一人でやって来た。友達と呼べる妖怪はほとんどいやしなかったし、それを辛いと思ったことも全くなかった。
なぜなら、自分は既に人間の記憶と記録に永久に残り続ける存在であるという自負があったからだ。
だが、幻想郷に来てからの彼女はいつだって孤独だった。妖怪が妖怪として現在進行形で恐れられている幻想郷では、大妖怪としてのプライドなど道化衣装でしかなかった。
かつて恐れられていたことをどんなに誇張したところで、今誰かを脅かしている妖怪がいる限り、そいつの方が偉いに決まっている。
もうそろそろ、この衣装を脱いだって良いんじゃないか。ぬえはそう感じていた。だが、一度他人に与えた印象をわざわざ覆して回る気にもなれなかった。
今ならそれが出来る気がする。前を歩くあの妖怪の子になら、偉大な妖怪『ではない』自分の姿を見せても良い気がしていた。
ぬえはこいしが振り向くのを待っていた。振り向いて、笑顔でうなずいてくれるのを。
果たして、こいしは振り返った。ぬえの口元に不器用な笑顔が浮かぶ。薄闇の中で表情がおぼつかないが、こいしは笑っているように見えた。
「あ! けいちゃん!」
こいしが嬉々とした声を上げる。その視線はぬえではなくその背後に向けられていた。
振り返ると、街道の先から一人の少年が近づいてくるのが見えた。人間の少年だった。
こんな時間に里から離れるように歩く人間がいることを、ぬえは不審に思った。だが、こいしは全く意に介さず、ぬえの脇を抜けその少年に駆け寄っていく。
ぬえの口元から笑みが消え、代わりにふてくされたようなへの字口が姿を見せる。
少年は、人里のどこにでもいそうな特徴のない容貌をしていた。ただ、目つきだけはやけに鋭く妖怪じみていて、ぬえはそこがどうにも気に食わなかった。
こいしが近づくと、何の変哲もない少年の顔に、一瞬、驚いたような色が見えたが、すぐにそれは怪訝そうな表情に変わった。
何事か話しかけようとこいしが口を開いた瞬間、少年はこいしの口を封じるように言葉をかぶせてきた。
「……誰だよ、オマエ。何で俺の名前知ってんの?」
「……」
「用がないなら構ってくるなよ。俺、忙しいんだよね」
こいしと少年の会話はそれきりだった。少年は言い捨てると、ぬえの脇を抜け走り去って行く。
ぬえはよっぽどその少年を引き止めて因縁をつけてやりたい衝動に駆られたが、かろうじて思いとどまった。正体を見せながら相手を脅かすなどというのは三下妖怪のすることだ。
少年の姿は街道の先の闇に消えていった。眼を上げると、広大な地平の帆布一杯に、黒々と妖怪の山の威容が見えた。
自殺志願かもしれないな、などと頭をかすめる。気にはなるが、夜に人里から出る方が悪いのだと結論づけてぬえは少年の姿を頭の片隅に追いやった。
もう一度こいしに目をやると、彼女は道の真ん中に地蔵のように突っ立って、先ほどまで少年の立っていたあたりを未だに見つめていた。まるで、そこにまだあの人間の子供が残っているかのように。
――妖怪より人間の方が大事かね。
そんないじけた思いを払拭するようにため息をつきつつ、ぬえはこいしに近づく。
近づくうちに、ぬえは異常に気づいた。
こいしが、腕をだらんとおろし、何もない宵闇に向かって一人で何事か喋っているのだ。
おかしいのは、その声が、いつもの小笛のような可愛らしい声ではなく、一言一言が異なる周波数を持つ形容しがたく不気味な声だったことだ。
曰く。
「妖怪が死んじゃう時っていうのはね、誰からも怖がられなくなった時と、誰からも忘れられた時なの」
「みんな、私のこと忘れちゃうんだ。みんな。大丈夫、私は慣れてるから大丈夫」
「わかっちゃいるんだ。言われなくったって……。そんなの、わざわざ言わなくったって……」
「でも、もしも誰も私のこと忘れないでいてくれるなら、そっちの方が……」
「……何、ブツブツ言ってんの?」
こいしの顔を覗き込んだぬえは、息を吞む。
こいしの滑らかな肌の上、薄く開かれた瞼の奥が、『認識出来ない』。
眼窠の奥に収まっているのは眼球ではなかった。何かがある筈の場所に、何もないのだ。空洞すらも存在しない。視覚ですらそこに何物も認識できず、脳が何らかの補完を試みようとするも、頭の中でその部分だけ砂嵐に巻かれたようになっていた。
(これが無意識の能力か……?)
ぬえは、初めて味わう感覚に悪酔いのような不快をもよおし、片手で頭を抑えて小さく頭を振った。
再びこいしに目をやると、彼女の瞼の中には、つややかに輝く瞳が戻っていた。その目がくりくりと動いて、ぬえの姿を捉えた所でぴたりと止まる。
こいしはきょとんとして、小首をかしげた。
「あれっ? 私、今何か話してた?」
「いや、今……」
言いかけて、ぬえの喉が詰まった。こいしの先ほどの独り言の内容や、あの薄気味悪い眼窩の様子を思い出す。それらを逐一こいしに伝えるのは、ぬえにはなんとなく憚られた。
彼女は咳払い一つして、繕うように言い直す。
「……やっぱりお前、変わった奴だよなあ」
「えへへ。そう?」
照れたように頬を緩めるこいし。
「褒めてないよ。それよりさっきの奴、なんだよ。人間の分際で妖怪様を舐めくさってさあ」
ぬえは街道の先に視線を投げて吐き捨てるように言った。半ば嫉妬紛れだったが、大妖怪たる自分が人間の小僧ごときに嫉妬していることを認めたくないぬえは、その思いを舌打ちで誤摩化した。
そんなぬえの肘を、こいしの手がそっと引いた。振り返って見ると、こいしは柔らかな微笑みをぬえに向けて見せていた。その声は、先ほどとは打って変わって穏やかだ。
「良いよ。今はたくさん人を驚かせて気分がいいの。それに、けいちゃんだって一緒に遊んでくれる私の友達だから。友達は大切にしなさいって、おねえちゃんが言ってた」
「ふーん……」
ぬえの目元に蔭が落ちる。何気なさを装おうとするものの、目は口ほどに物を言う。
そんなぬえに、こいしは屈託なく満面の笑みを向ける。
「ぬえちゃんも、今日から私の友達! ね、そうでしょ?」
「えっ! う、うん」
心を読めない筈の妖怪に見透かされ、ぬえの耳元がみるみる赤くなる。
恥ずかし紛れにこいしの手をとると、僅かどもりながらぬえは顎で道の先を指した。
「ち、地底の入り口まで送るよ。悪い奴らや天狗に絡まれたりしたら面倒だろ?」
「ありがとう!」
目にしみるほどの笑顔を見せつけられ、ぬえの全身がかすかに火照った。
――らしくないや。
ぬえはまんざらでもなさそうに口元を緩めて、心の中でそう呟いていた。
***
ぬえとこいしが人里で暴れ回った翌日の深夜、命蓮寺にて緊急の会合が催された。人里から一人の人間が来客としてやって来たのだ。
突然の来訪者は寺の客間に通され、丁重なもてなしを受けていた。
人間の用件は他でもない、昨日里で起きた一連の騒動についてだった。彼はその騒動の主犯が寺の妖怪であることを示す決定的な証拠を見つけたと述べ、早急に住職に合わせろと迫ったのだ。
深夜の命蓮寺は妖怪の楽園であり、そこを訪れる者の中には危険な妖怪も混じっている。そのような場所に単身で乗り込んでくるこの人間が、尋常を超える胆力の持ち主であることは明らかだった。
男が葛城左之助と名乗ると、世話を引き受けた一輪は心中穏やかでなくなった。彼は人里で名に負う豪商だが、また別の隠れた異名を持っていたからだ。
その異名とは『嫌妖の左之助』。彼の妖怪嫌いは相当なもので、口さがない妖怪や情報通の一部天狗の間で、彼は里に存在する種族差別的な秘密結社の一員ではないかと噂されているほどだ。
その妖怪にとっての危険人物が、今初めてこうして妖怪寺である命蓮寺に訪れ、その姿をさらしている。
部屋の中央には質素ではあるが品の良い和座卓が据えられている。その机の一方に座るのは、寺の中でも比較的人間に近く、普段から実務をこなしている聖白蓮と雲居一輪だ。そして、問題の人間は彼女らと対面して一人座していた。両者は会合の始めに名乗り合ったきり、今の今まで沈黙を続けている。
人間一人に対し妖怪が二人で相対するのは失礼にあたるのではないか。そう思い、白蓮は初め一人で応対しようとしたが、一輪のたっての希望で彼女も同席することになった。
その一輪が、横目で白蓮を見る。
膝の上で重ねられた白蓮の手が、小刻みに震えているのが分かった。
両者の間に立ち込めてる張り詰めた空気を破ったのは、人間である左之助の方だった。彼は白蓮の目を真っ直ぐに見ながら、机の上に一匹の蛇の玩具を放り投げた。
「単刀直入に問いましょう。これは正体不明の種というものではありませんかな?」
蛇はしばらくじっと息を潜めていたが、白蓮の視線を受けている内に堪え難くなったのか突として動き出し、空に向かって逃げ去っていった。
「確かにその通りです。何処でこれを?」
「里の者たちが被害に遭いましてな。被害に遭った者たちが、人里の人間の中では比較的妖怪に詳しい私に助けを求めに来た。その際、私は一目あの蛇のようなものを見て、あるいはこれは貴女の寺の妖怪の仕業ではないかと思いましてな。急ではありますがこうしてお伺いした次第」
表情も変えず淡々と語る男の話を聞いているうちに、白蓮の顔に苦渋の表情が広がっていく。
「そうですか……。これは何を隠そう、私の弟子の能力に相違ありません」
「左様ですか。では、どのように申し開きされるおつもりですかな?」
「……ひとえにこれまでの指導の甘さによるものと存じます。今後は教育を徹底して参りますので、どうか」
白蓮は座卓に手をつき、深々と頭を下げた。白蓮の隣に座る一輪は、一言も発しなかったものの、呼吸や衣擦れの中に明らかな動揺の気配を見せる。
一方の左之助はここに来てからこの方、その気配の中に微塵も動揺らしきものを見せなかった。切れ上がった一重瞼の奥の瞳には、一定不変の冷たい光が宿ったまま揺れることがない。白蓮の奥の襟を見ながら増長も激高もせず、ただ淡々と言葉を継いだ。
「このところ、寺の妖怪による人間への被害が多い。寺の管理の杜撰さは昨日今日に始まったことではない。貴女の今の言葉が只の口約束に終わらぬよう願いたいものですな」
彼はそこで言葉を切ると、懐から薄汚い紙切れを取り出し、机の上に広げてみせた。白蓮は顔を上げてその紙に視線を落とす。
紙の上には活版印刷された字と共に、一枚の写真が掲載されていた。その写真には、封獣ぬえの姿がはっきりと写っている。
「しかしまあ、妖怪ごときの新聞でも役に立つものですな。以前読んだ天狗の新聞にあれの効果に似た内容が載っていたので、よもやと思い探してみたのです。敵情を知るというのはけだし大切なことですよ」
「敵情……? 敵、と仰りましたか?」
白蓮の眉がピクリと動く。左之助は射抜くような目で白蓮を見つつ、顎を引いて小さく頷いた。
「左様。妖怪は敵です。いたずらに人心を乱し、中には人を喰う者もいる。人間にとってこれほど有害な存在は他にない。加えて今回のこの騒動だ。本音を言えば、貴女たちが人里の傍に拠点を構えていること自体、私には虫酸が走る」
白蓮は机の上に載せた手を、固く握りしめる。
今、目の前にいる人間は、その眼の中に理性的な光が多分に残されている。
ならば、まだ安心できる。本当に恐ろしいのは、感情に巻かれて正常な思考ができなくなった人間だ。
白蓮はすうと一つ息を吸うと、努めて冷静に反論を始めた。
「妖怪は敵ではありません。付き合い方さえ気をつければ、人間と妖怪は共存できるのです」
「笑止! それは貴女のように妖怪に抗する力のある者が往々にして振りかざす強者の論理だ。貴女の眼には確かに妖怪は大人しいもののように見えるかも知れん。だが、それは貴女の力を恐れているがために、貴女の前だけでおとなしくしているだけだ。貴女の眼の届かない処で、どれほど多くの妖怪が人間を傷つけているか、貴女は知らないのだ」
「幻想郷では人間も妖怪も一定の規則に従っており、その規則の中で生きる限り安全は保証されています。私の眼とて節穴ではありません。私の知る限り、被害に遭った人間たちは皆、人里から離れた妖怪の住処に脚を踏み入れたがために襲われているのです。ルールを無視して行動すれば、相応の結果に至っても仕方ないと思います」
「そのようなルールの存在自体が私には不愉快極まりない。なぜ妖怪主導で創りあげたルールに人間が従わなければならないのか」
「多種族が共存する世界では、かようなルールは如何にしても必要になります。それを誰が作ったかなどは到底問題にすべきではありません。また、大多数の人間の合意があったからこそ、このルールは今日まで存続し得た。それはつまり、このルールには人間に益する面もあるということです。そのことも忘れてはならないと思います」
左之助はふっと口元に皮肉めいた笑みを浮かべ、居住まいを正した。それは、これ以上の議論は無用という意思表示だった。
「そのルールから益を感じぬ者もいるということですよ、妖怪寺の魔住職殿。人間も妖怪も、十あれば十の色がありますゆえ、な。無論、貴方のことを快く思わない者とて、人妖問わず少なからず居ることでしょう。そのこと、ゆめゆめお忘れなきよう」
そう言い捨てると、左之助は立ち上がった。二人の妖怪も、客人を玄関まで見送ろうと慌てて立ち上がったが、「見送りは結構」の一言で押しとどめられてしまった。
廊下を歩み去る人間の後ろ姿を、一輪は険しい目つきで見つめていた。やげて来客の姿が見えなくなり、白蓮に視線を戻す。その表情を見た途端、一輪は、思わず悲鳴を上げた。
「姐さん!」
一輪が見た白蓮の顔の色は、死人のようにうす白く変わっていた。彼女の指は震え、彷徨うように卓上を掻いた後、何かを抑えるように己の胸元を掴む。
それは、一輪が最も恐れていたことだった。これを恐れたからこそ、白蓮と同席することを彼女は望んだのだ。
慌てて白蓮の元に駆け寄った一輪は、その背中にそっと手を載せた。
「姐さん、大丈夫ですか!? お顔色が優れません……!」
気遣わしげに白蓮の顔を覗き込む。その額から大粒の汗が滑り落ちるのを見て、一輪は懐から手ぬぐいを取り出した。それを額にあてがってやると、白蓮は朦朧とした視線を一輪に寄越す。
申し訳なさそうに己を見る白蓮に、一輪の胸は締め付けられる。
「……ええ、大丈夫です、一輪。ありがとう」
白蓮がそう言って弱々しく頭を下げたので、一輪は慌てて首を横に振った。
「あれは人里の中でも妖怪嫌いとして知られているお方。御仁の仰られるとおり、人も妖怪も十人十色。あまりお気になさらないことです」
気休め程度の言葉だったが、白蓮の心に届いたと信じたかった。精神的な問題から来る症状ならば、精神を落ち着かせることで快復もするだろうと考えたのだ。
その一輪の思惑通り、少しすると白蓮の顔色に赤みが戻ってきた。
彼女は弱々しく一輪に向かって微笑みかける。
「おかしいですか、一輪? 私は人間が怖いのです。地底のサトリ妖怪にも見抜かれてしまいましたよ。……私は、人間に封印されたあの日以来、人間が怖くてたまらないのです」
一輪は傷ましげな表情で白蓮の言葉に頷いた。
「……決しておかしくなどありません。人間は妖怪以上の凶暴性を秘めた生き物です。なにより恐ろしいのは、そのことに彼らの多くが無自覚なことでしょう」
白蓮はひとつ大きく息を吐くと、気を取り直して笑顔を作った。
「……ごめんなさいね、取り乱してしまって。……それより、悪さをした子たちを早急に戒めなければ。ぬえと……それから、こいしを呼んでください」
「こいしもですか?」
一輪は怪訝そうな顔をして問い返した。
「はい。彼女も間違いなく今回の件に絡んでいます」
「わかりました」
やがて、白蓮の前に渋面のぬえと、ふてくされた顔のこいしが並んでやってきた。
彼女らは和座卓を挟んで白蓮に向かい合って座った。その頃にはもう白蓮の顔色は普段と同じ程度には戻っていた。
白蓮はおもむろに口を開く。
「何故呼ばれたか、わかりますね?」
「はい……」
「……」
頭を垂れて素直に返事をするぬえとは対照的に、こいしはふくれっ面をぶら下げながら押し黙っていた。
「こいし、貴女はどうですか? 自分がなぜ呼び出されたかわかりますか?」
むっつり黙りながら、こいしはぷいとそっぽを向く。どうやら、だんまりを決め込むつもりらしい。
すかさず、ぬえが助け舟を出す。
「あ、あの、聖。私もさ、こいしがなんで呼び出されたかわからないんだけど……。今回、その、里でいたずらしたのは、その、私だけで、こいつは全然関係ないよ……」
上目遣いでしどろもどろにのたまうぬえの様子を、白蓮は目を細め、黙って観察していた。
ぬえは言葉に真実味を持たせるために、真っ直ぐに白蓮を見ようとする。だが、白蓮の強い眼に真っ向から見返されると、たちまちその視線はするすると脇に逸れてしまう。
嘘と騙しで鳴らすぬえも、白蓮の前ではどうしても嘘を吐き続けることができなかった。
白蓮はため息を一つつくと、目を上げてぬえに視線を定めた。
「……そうですか。ではぬえ、貴女はなぜ里でいたずらをしようと思ったのです?」
「ね、ねえ、こいしはもう帰してやってもいいんじゃない?」
「質問に答えなさい」
「……はい。……ええと、何で里でいたずらしようと思ったか? うーん……そりゃ、いつもいつも顔見知りばかり驚かせていても飽きますし……。時々、たらふくごちそうを食べたくなるんですよ。いつも我慢してるし、たまには自分へのご褒美が欲しいなーとか」
「……自分へのご褒美、ですか」
「えへへ」
「えへへ、じゃありませんよ、ぬえ。私がいつも言っている言葉を覚えていますか? 人里にはなるべく近づかないようにしなさいと」
「はい……」
「いくら幻想郷といえど、人間の中にはまだ妖怪を恐れる者もいます。そして、彼らをいたずらに恐れさせては、結果的に私たち自身が不利益を被ることになるのです」
「あいすみません……」
「とかく人間は己の利益のみに邁進し、身持ちを崩してしまうものですが、それは妖怪とて同じことです。己の利益だけを求めて行動することの弊害については……」
「はい。はい、すみません……」
平身低頭してひたすらに謝るぬえ。その姿を歯がゆそうに見ていたこいしが、その手で座卓を強く叩いて喚きだした。
「なんでぬえちゃんが頭を下げなきゃいけないの? ぬえちゃんは立派な妖怪なのに、なんでぬえちゃんが怒られなきゃいけないのよ!?」
「……貴女は関係ないのではないですか、こいし?」
白蓮はあくまで冷静に尋ねる。そんな白蓮に対し、こいしは挑みかかるような眼を向ける。
「いけしゃあしゃあと言ってくれるね。お察しのとおりよ、私もぬえちゃんのいたずらに加担したわ。これで満足?」
高慢ちきにこいしは顎を持ち上げてみせた。その傍らで、目論見の外れたぬえが手で顔を覆う。
白蓮は続けて訊く。
「そうですか。それでは、なぜ、人に迷惑を掛けるようなことをしたのです?」
徹底して感情を抑えた声だった。瞳は微動だにせずこいしの両の目を射抜いている。
その態度がますますこいしの癇に障ったらしく、彼女は白い歯を軋らせながら低く長く呻いた。
「あんたはそういう風におすまししながら私に説教ばっかりして、ちっとも私の力を高めようとしてくれないじゃない! ぬえちゃんと一緒に人を驚かせてた時の方が、ずっと力が高まる感じがしたわ!」
「それではただ獣のように本能に従って生きているだけです。それを仏教では畜生道と呼びますが、その道に生きる限り、悟りに至ることは困難なのです。こいし、貴女は……」
「うるさい! 黙れ!」
こいしは白蓮の話を遮って勢い良く立ち上がった。彼女は憤怒の表情をで白蓮を見下ろし、傲然と言い放つ。
「私は立派な妖怪になりたいの! へりくつばかり言って何もしないあんたみたいになんか、なりたくない!」
そう言い捨てると、彼女は足音荒く部屋を駆け出て行った。
後に残されたぬえは、しばらく呆気にとられてこいしの去っていったあとを眺めていた。
横では、白蓮が深々とため息をつく。その息遣いを聞いて、ぬえはそろそろと気まずそうに彼女の顔を覗きこんだ。
「……この間もこんな感じで喧嘩したの?」
白蓮はそれには答えず、険しい顔でぬえに向き直る。
「……ぬえ、そんなことより、貴女の素行についてのお話を続けましょう」
とんだ藪蛇だった。どさくさに紛れて部屋を出て行けば良かったと後悔したが後の祭り。その後、ぬえは数刻もの間、白蓮のお説教を聞かされるはめになった。
***
「あの住職は寺に着くや否や、こいし様を本堂に連れ込みましたので、私はすわ洗脳が始まるのかと思い慌てて二人の後を尾けたのです。本堂の入り口からこっそり中の様子を伺うと、二人は堂の真ん中で向かい合って座っていました」
お燐はさとりの文机の上に行儀よく座り、椅子に座るさとりに今日見てきたことを多少尾ひれをつけて報告していた。
紅茶の甘い香りが満ちた部屋の中に、滔々と話すお燐の声だけが響く。
さとりは汗ばんだ手で机の端をつかみ、お燐の言葉を身を乗り出して聞いていた。
「そ、それで、どうなったの……?」
先を促すさとりを尻目に、お燐は言葉を切って、わざとらしく舌で手の甲を舐め始めた。
「……(おなかすいたなぁ)」
「……ほら、鰹節をあげるから……」
さとりはもどかしそうに引き出しを開けると、小袋を一つ取り出し、中から細かく砕かれたかつお節を二、三掴んでお燐の足元に投げやった。
「にゃにゃ! これはどうも、ありがとうございます!」
いささかあこぎな手段でおやつをせしめたお燐は、鰹節の欠片にしゃぶりつきながら、心のなかで自分の手腕を誇ってほくそ笑んだ。
情報に不安を煽るような味付けをして相手の財布の紐を緩めるやり口は、地上でその道のプロである天狗から教わったものだったが、存外効果的だった。
もちろん、心の読めるさとりにはそんなこすい企みは全てお見通しだった。彼女は敢えて辛抱してお燐に乗ってやっているだけなのだ。
放っておけばすぐ食欲と死体に関する雑念に囚われるお燐から情報を引き出すには、口頭で報告させて意識をそちらに向けさせるのが結局一番確実で手っ取り早い。
「ね、それで……早く続きを……」
「コリコリ……最初は住職が一方的に何やら話していましたが、その最中にこいし様が例の発作を起こしまして……ピチャピチャ」
「何を考えているのかよくわからなくなるアレね……。ただでさえこいしの心は私にも読めないのに、アレが起きると手がつけられなくなるのよ」
「ええ。それで、発作はすぐに収まったのですが、その直後から始まった問答で、無意識に関する見解の相違で住職と口論になり、こいし様は本堂を飛び出して行きました。その後は寺にいる鵺という妖怪と共に人里を荒らして一日を過ごしていました」
自信満々に報告したものの、後半は実はお燐の想像だった。実際の所、彼女は人里近くの街道で二人の姿を見失ってしまったのだ(晩ご飯の妄想をしている隙を突かれた)。ただ、人里の至る所で騒ぎが起きていたし、それが気配を消したこいしの仕業と見て、ほぼ間違いないだろうと思ったのだ。
さとりはそんないい加減なペットのために、一つ大きなため息をついた。
「……それじゃ、こいしは初日から住職と喧嘩して、そのまま修行もせずに寺の妖怪と遊び呆けてたというわけね」
「はい、さとり様」
「そう……」
さとりの目に安堵の表情が浮かぶ。
少しばかり心配のしすぎだったのかもしれない。
このまま大過なく日々が過ぎていけばいい。その中で、こいしが妖怪として生き永らえる術を少しずつ身につけてくれれば。さとりはそう願っていた。
それは、しかし、地上で育ちつつある一つの脅威を前にしては、ひどく儚い願いでしかなかった。
まっすぐな好意にも弱い所を見ると、大妖怪には見えないんやな
ぱっと見て まずはロリコンと読んでしまったのは私だけじゃないよね?
二か所 腑に落ちなかった
・白蓮がたった一問答だけでこいしの在り様を断じた部分
・ぬえが地底に帰るこいしを見送ったのが夕方、嫌妖の佐之助が命蓮寺を訪ねたのが夜、しかしその夜の説教の場面でこいしも一緒に居る、帰らなかったのかな?