物には思い出が宿る。
物を見た者が過去を想起するだけでなく、その物自体もまた過去を想起する。
その想起は、人のそれと同じ様に、思念の中だけの事象であり、表に出て来る事はまれにしか無い。だから外から物を見ても、本当に過去を思い出しているのか、確認する事は難しい。人が慌ただしい生活の中では過去を思い出す暇が無いのと同じ様に、周りに人が居て己の役割に従事している物達もまた思い出に浸る事は出来無いのだから、見掛ける事は少ないだろう。
しかし確かに物は過去に思いを馳せる。
例えば引き出しの中に仕舞われている文具、誰も居ない居間に鎮座する家具、人の引けたオフィス街に立ち並ぶビル、役目を終え地球に帰還する前の人工衛星、そういった役割の終わりから役割の始まりまでの隙間の時間に、物達は思い出に耽っている。
先程からずっと、何処からか響いてくる音に頭を悩ませている。
足音の様に聞こえる。足音であるならば、きっと上の階から聞こえてきているんだろうと思った。
がたがたがたと。
きっと真上の部屋の住人が走り回っているのだろう。
子供だろうか。
それにしてはやけに重たい足音だ。
声は聞こえてこない。
ただ足音だけががたがたと響いてくる。
私は我慢して、音楽を聞いて気を紛らわそうとしたが、幾ら耳を塞いでも響いてくる足音には無駄だった。しばらくして我慢できなくなった私は、蓮子に電話を掛ける。
何の解決にならなくても、蓮子の声を聞いて、蓮子に愚痴を吐いて、安心したかった。
だが繋がらない。
幾ら待っても蓮子が出てくれない。
そもそも蓮子は何処に行ったのだろう。
出掛けるなんて一言も無かった。
それどころか朝から居たかどうかもあやふやだ。
大学に行ったのか。
それとも何処かで遊び呆けているのか。
私は蓮子を探しに行く事にした。
立ち上がり、準備を整えて、玄関を出る。
当てなんて何も無いが、蓮子が出歩く場所なんて大体分かる。歩いていればいずれ蓮子に出くわすだろう。
そうでなくても、いつかは電話が繋がるだろうし。
何にせよ、もう部屋に一人で居るのは嫌だった。
うるさすぎて狂ってしまいそうだった。
外に出ると、身を切る様な凍える風が吹いていた。
何処かで食事をしようと蓮子にメッセージを送り、私は夜風に身を震わせつつ、エレベータに乗り込む。扉が閉まった時にガラス戸の向こうを誰かが歩いていった。考え事で気を散らしていた為、ぼんやりとしか認識出来なかったが、金色の髪をなびかせた女性は、左から現れ、そして右へ消えた。
エレベータが下降を開始した。
突然額に痛みが走る。
入り口の扉を開かずに中に入ろうとしてドアに頭をぶつけたのだと遅れて分かる。
大分酔っている。上階の騒音に追い出されたメリーに誘われて、夕方からずっと、日付が変わるまで飲んでいたのだから、仕方が無い。未だに騒音が鳴っているかもしれないと怯えるメリーを引き連れて何とかマンションまで戻ってくる事が出来たが、いよいよ酔いが回って世界が揺らめいている。
マンションの入り口の鍵を開けると、丁度誰かがマンションから出てきた。慌てて道を譲ると、私の横を誰かが通り過ぎていった。一瞬メリーが横切ったのかと思った。その誰かは何となくメリーを思わせる印象があった。とはいえ、メリーである筈が無い。何がメリーを思い起こさせたのだろう。考えようとしても酩酊に妨げられた。後ろ姿だけでも確認したかったが、酔いに眩めいて振り返る事すら出来無い。
酷く酔っている。
早く部屋に戻ろうと入り口をくぐる。壁に手をつきながら廊下を歩いて行く。エレベータを待つ事すらもどかしい。ふらつきながら乗り込むと、間もなくしてエレベータは上昇していく。扉が開いたので外に出る。廊下を歩き、部屋にようやく辿り着く。
鍵を開ける為に、取っ手に触れる。いつもであれば電子錠の開く音が聞こえる筈なのに聞こえない。何故鍵が開かないのかと苛立ちながら扉を引くと、開いた。鍵が掛かっていなかった。
鍵を掛けずに出てきたのか。
メリーに文句を言いつつ、中に踏み込むと、いきなり饐えた臭いが立ち上った。思わず鼻を手で覆う。一気に酔いが覚める程の強烈な臭いだった。何が何だか分からない。ずっと私達二人の住んでいた部屋からどうしてこんな臭いが漂ってくるのか。
酷く不気味な予感を覚えた。何か不吉めいた想像が頭の中に浮かんだ。あまりにも荒唐無稽な、けれどあまりにも鮮明な想像。玄関から続く廊下の向こう、暗がりの中で微かに見える居間へ繋がる扉の奥に、見てはいけないものが、私の事を待っている気がする。
それが何かは想像もつかない。
そして想像がつかないからこそ、奥にあるものが何なのか気になった。
臭いから正体を判別出来ないかと、鼻を覆っていた手を離して、臭いを吸い込む。
空気が鼻の奥を通った瞬間、埃がざらついて、思わず咳き込んだ。あまりにも辺りが埃っぽい。まるで空気が埃で満たされているかの様だった。もうずっと人が住んでいない様な空気だった。
私とメリーが住んでいる部屋である筈なのに、どうしてこの部屋はこんな死んだ様な有り様なのか。
全く分からない。
理解が出来無い。
何か夢の様で現実の事と思えなかった。
だが事実としてこの部屋には、明らかに人が住めない量の埃が舞い、生活等感じさせない臭いに満ちている。
そして、扉の向こうには。
死体?
あるいは何かもっとおぞましい。
分からない。
考える事が恐ろしかった。
これ以上考えを深めれば、その答えを探る為に、うっかり乗り込んでしまいそうだ。未知への好奇心が、私を殺してしまいそうだ。
逃げないと。
ようやくそれに思い当たった私は、何かが出てきやしないかと廊下の奥を見つめながら、ゆっくり外へ出る事にした。
一歩後ずさり、自分の足が動いた事に安堵する。同時に足音が立って、扉の向こうの存在に気が付かれたかもしれないと、冷や汗が流れる。
二歩後ろにさがり、後ろ手で扉を開ける。慎重に音が立たない様に。
そっと体を滑らせて、外に出る。
そっと扉を閉めて、表札を見る。
そこには何も書かれていなかった。
私達の部屋の玄関には、メリーの作った手作り表札が掛かっている。
そしてこの部屋にはその表札が掛かっていない。
という事は、今入ったのはまるで知らない人の部屋で。
もう一度、今度は部屋の番号を見ると、丁度私達の真上の部屋だった。
一階間違えたのか。
私達の部屋じゃなかった。
それが分かって、安堵して溜息を吐く。
どうして今まで住んでいた部屋が目を離した隙に荒れ果ててしまったのか分からなかったが、全く別の部屋であるなら納得だ。何も不思議な事等無い。
そんな間の抜けた事を思い、そしてすぐに、何も解決していない事に気が付いた。
メリーは真上の部屋から足音が聞こえると言っていた。
それなのに、今入った部屋は、長らく人が入った形跡の無い荒れ具合だった。
ならば足音の正体は?
鼠か何かだとは、どうしても思えなかった。
さっき感じた扉の向こうから感じたおぞましい予感がどうしても拭えない。
寒風が吹いた。
身を切る様な冷たさに驚いて、思わず体が跳ねた。
途端に曖昧模糊とした思考が吹き飛んで、明確な恐怖が襲ってきた。自分は理解出来無い気味の悪い部屋の前で、無防備に立っている。それが酷く恐ろしい事だと気が付いた。
身を翻し、エレベータに駆ける。
ふと嫌な事に気が付いた。
メリーが居ない。
辺りを見回し、今までを思い出す。何処で逸れたか。
考えてみれば、あの埃染みた部屋に入った時には既に居なかった気がする。
ならばその前のエレベータに乗った時か?
もしかしたらメリーだけが本来の階で降りていたのだろうか。
メリーは部屋に居るのだろうか。
考えている間に、エレベータへと辿り着いた。
とにかく私達の部屋に戻ろうとエレベータを呼ぶ。
エレベータを待つが、中中来ない。
今来た廊下を振り返る。
エレベータを待っている間にも、あの部屋から何かが這い出してくる気がする。
怖くて怖くて仕方が無かった。
恐ろしさが極まって、立ち止まっていられなくなって、階段を使う為にエレベータの前から駆け出した。すぐ近くの非常階段に逃げ込み、メリーが待っているであろう自分達の部屋を目指す。階段を飛ばしながら降りて、踊り場から廊下に飛び出し、息を切らして表札の掛かった部屋の前に辿り着く。
そこには手作りの表札が掛かっていた。
表札には私とメリーの名前が書かれていた。
私達の部屋だ。
助かった。
取っ手に手を掛けると、電子錠が開く音は鳴らなかった。メリーが鍵を掛け忘れたのか。不思議に思いつつも、とにかく助かった一心で、メリーの名を呼びながら駆け込み、扉を開いて居間に入る。
しかしメリーが居なかった。
それどころか何も無い。
家具も何も。ただの伽藍堂がそこにあった。
その部屋はいやに埃っぽかった。息をすると喉が詰まりそうになる程、埃が舞っていた。
もしかしてまた部屋を間違えたのだろうかと、外に飛び出して確認する。
玄関に表札は掛かっていなかった。
私達の部屋の玄関にはメリーの作った表札が掛かっている筈なのに、何処にも見当たらない。
やっぱり部屋を間違えたのかと、部屋の番号を見た。
私達の部屋の番号だった。
もしかしたらマンションの棟を間違えたのかもしれない。
自分でも信じられなかったが、そうとしか考えられない。
それが明らかにおかしい事は自分でも分かっていた。
何か嫌な渦の中に巻き込まれている感覚があった。
それが恐ろしかった。
訳の分からない恐怖に突き動かされてエレベータに向かう。
その途中で、ふと気になる事があって足が止まった。
何故私はここに居るのだろう、と。
自分がここに居る理由が見出だせない。
私はこんな場所知らない。
こんなぼろぼろの廃墟、私のマンションでは断じて無い。
何かおかしい。
齟齬がある。
もっと嫌な事に気が付いた。
さっきから思い浮かべていたメリーとは誰の事か分からない。
そんな人物と一緒に住んでいた覚えは無い。
夕方には蓮子という人物に電話を掛け、会いに行こうとしたが、それもまた誰なのか分からない。私はそんな奴等知らない。
体中から冷や汗が流れてくる。
怖気が、背筋に起こって、全身に行き渡った。
このマンションも、蓮子とメリーという謎の人物の事も分からない。
そしてそれどころか、私は、自分が誰だかも分からなかった。
自分の名前を思い出そうとしても思い出せなかった。
自分が今までどんな風に生活していたのか、自分の人生を思い出せなかった。
このマンションに来るまでの自分が全く思い描けない。
この場所も、私という存在も何かが食い違っている。
私は一体誰だ。
分からない。
とにかくこのマンションから出ないといけない。
エレベータを呼ぶ。
待っていると、背後から足音が聞こえてきた。
恐ろしい何かが後ろから近付いて来る。
振り返ってはならない事を直感した。
そうすれば恐ろしい事が起こると分かってしまった。
だが背後から迫る私を脅かす存在を見ずには居られない。
未知への好奇心が私を殺す。
足音が背後に立った。
私は、振り返る。
エレベータの到着を知らせる音が軽やかに鳴った。
金色の髪をたなびかせた妖怪は、誰も居ないマンションの中でくすりと笑うと、到着したエレベータに乗り、そして消える。
何処からか廃墟となったマンションを解体する音が響いてきた。
物を見た者が過去を想起するだけでなく、その物自体もまた過去を想起する。
その想起は、人のそれと同じ様に、思念の中だけの事象であり、表に出て来る事はまれにしか無い。だから外から物を見ても、本当に過去を思い出しているのか、確認する事は難しい。人が慌ただしい生活の中では過去を思い出す暇が無いのと同じ様に、周りに人が居て己の役割に従事している物達もまた思い出に浸る事は出来無いのだから、見掛ける事は少ないだろう。
しかし確かに物は過去に思いを馳せる。
例えば引き出しの中に仕舞われている文具、誰も居ない居間に鎮座する家具、人の引けたオフィス街に立ち並ぶビル、役目を終え地球に帰還する前の人工衛星、そういった役割の終わりから役割の始まりまでの隙間の時間に、物達は思い出に耽っている。
先程からずっと、何処からか響いてくる音に頭を悩ませている。
足音の様に聞こえる。足音であるならば、きっと上の階から聞こえてきているんだろうと思った。
がたがたがたと。
きっと真上の部屋の住人が走り回っているのだろう。
子供だろうか。
それにしてはやけに重たい足音だ。
声は聞こえてこない。
ただ足音だけががたがたと響いてくる。
私は我慢して、音楽を聞いて気を紛らわそうとしたが、幾ら耳を塞いでも響いてくる足音には無駄だった。しばらくして我慢できなくなった私は、蓮子に電話を掛ける。
何の解決にならなくても、蓮子の声を聞いて、蓮子に愚痴を吐いて、安心したかった。
だが繋がらない。
幾ら待っても蓮子が出てくれない。
そもそも蓮子は何処に行ったのだろう。
出掛けるなんて一言も無かった。
それどころか朝から居たかどうかもあやふやだ。
大学に行ったのか。
それとも何処かで遊び呆けているのか。
私は蓮子を探しに行く事にした。
立ち上がり、準備を整えて、玄関を出る。
当てなんて何も無いが、蓮子が出歩く場所なんて大体分かる。歩いていればいずれ蓮子に出くわすだろう。
そうでなくても、いつかは電話が繋がるだろうし。
何にせよ、もう部屋に一人で居るのは嫌だった。
うるさすぎて狂ってしまいそうだった。
外に出ると、身を切る様な凍える風が吹いていた。
何処かで食事をしようと蓮子にメッセージを送り、私は夜風に身を震わせつつ、エレベータに乗り込む。扉が閉まった時にガラス戸の向こうを誰かが歩いていった。考え事で気を散らしていた為、ぼんやりとしか認識出来なかったが、金色の髪をなびかせた女性は、左から現れ、そして右へ消えた。
エレベータが下降を開始した。
突然額に痛みが走る。
入り口の扉を開かずに中に入ろうとしてドアに頭をぶつけたのだと遅れて分かる。
大分酔っている。上階の騒音に追い出されたメリーに誘われて、夕方からずっと、日付が変わるまで飲んでいたのだから、仕方が無い。未だに騒音が鳴っているかもしれないと怯えるメリーを引き連れて何とかマンションまで戻ってくる事が出来たが、いよいよ酔いが回って世界が揺らめいている。
マンションの入り口の鍵を開けると、丁度誰かがマンションから出てきた。慌てて道を譲ると、私の横を誰かが通り過ぎていった。一瞬メリーが横切ったのかと思った。その誰かは何となくメリーを思わせる印象があった。とはいえ、メリーである筈が無い。何がメリーを思い起こさせたのだろう。考えようとしても酩酊に妨げられた。後ろ姿だけでも確認したかったが、酔いに眩めいて振り返る事すら出来無い。
酷く酔っている。
早く部屋に戻ろうと入り口をくぐる。壁に手をつきながら廊下を歩いて行く。エレベータを待つ事すらもどかしい。ふらつきながら乗り込むと、間もなくしてエレベータは上昇していく。扉が開いたので外に出る。廊下を歩き、部屋にようやく辿り着く。
鍵を開ける為に、取っ手に触れる。いつもであれば電子錠の開く音が聞こえる筈なのに聞こえない。何故鍵が開かないのかと苛立ちながら扉を引くと、開いた。鍵が掛かっていなかった。
鍵を掛けずに出てきたのか。
メリーに文句を言いつつ、中に踏み込むと、いきなり饐えた臭いが立ち上った。思わず鼻を手で覆う。一気に酔いが覚める程の強烈な臭いだった。何が何だか分からない。ずっと私達二人の住んでいた部屋からどうしてこんな臭いが漂ってくるのか。
酷く不気味な予感を覚えた。何か不吉めいた想像が頭の中に浮かんだ。あまりにも荒唐無稽な、けれどあまりにも鮮明な想像。玄関から続く廊下の向こう、暗がりの中で微かに見える居間へ繋がる扉の奥に、見てはいけないものが、私の事を待っている気がする。
それが何かは想像もつかない。
そして想像がつかないからこそ、奥にあるものが何なのか気になった。
臭いから正体を判別出来ないかと、鼻を覆っていた手を離して、臭いを吸い込む。
空気が鼻の奥を通った瞬間、埃がざらついて、思わず咳き込んだ。あまりにも辺りが埃っぽい。まるで空気が埃で満たされているかの様だった。もうずっと人が住んでいない様な空気だった。
私とメリーが住んでいる部屋である筈なのに、どうしてこの部屋はこんな死んだ様な有り様なのか。
全く分からない。
理解が出来無い。
何か夢の様で現実の事と思えなかった。
だが事実としてこの部屋には、明らかに人が住めない量の埃が舞い、生活等感じさせない臭いに満ちている。
そして、扉の向こうには。
死体?
あるいは何かもっとおぞましい。
分からない。
考える事が恐ろしかった。
これ以上考えを深めれば、その答えを探る為に、うっかり乗り込んでしまいそうだ。未知への好奇心が、私を殺してしまいそうだ。
逃げないと。
ようやくそれに思い当たった私は、何かが出てきやしないかと廊下の奥を見つめながら、ゆっくり外へ出る事にした。
一歩後ずさり、自分の足が動いた事に安堵する。同時に足音が立って、扉の向こうの存在に気が付かれたかもしれないと、冷や汗が流れる。
二歩後ろにさがり、後ろ手で扉を開ける。慎重に音が立たない様に。
そっと体を滑らせて、外に出る。
そっと扉を閉めて、表札を見る。
そこには何も書かれていなかった。
私達の部屋の玄関には、メリーの作った手作り表札が掛かっている。
そしてこの部屋にはその表札が掛かっていない。
という事は、今入ったのはまるで知らない人の部屋で。
もう一度、今度は部屋の番号を見ると、丁度私達の真上の部屋だった。
一階間違えたのか。
私達の部屋じゃなかった。
それが分かって、安堵して溜息を吐く。
どうして今まで住んでいた部屋が目を離した隙に荒れ果ててしまったのか分からなかったが、全く別の部屋であるなら納得だ。何も不思議な事等無い。
そんな間の抜けた事を思い、そしてすぐに、何も解決していない事に気が付いた。
メリーは真上の部屋から足音が聞こえると言っていた。
それなのに、今入った部屋は、長らく人が入った形跡の無い荒れ具合だった。
ならば足音の正体は?
鼠か何かだとは、どうしても思えなかった。
さっき感じた扉の向こうから感じたおぞましい予感がどうしても拭えない。
寒風が吹いた。
身を切る様な冷たさに驚いて、思わず体が跳ねた。
途端に曖昧模糊とした思考が吹き飛んで、明確な恐怖が襲ってきた。自分は理解出来無い気味の悪い部屋の前で、無防備に立っている。それが酷く恐ろしい事だと気が付いた。
身を翻し、エレベータに駆ける。
ふと嫌な事に気が付いた。
メリーが居ない。
辺りを見回し、今までを思い出す。何処で逸れたか。
考えてみれば、あの埃染みた部屋に入った時には既に居なかった気がする。
ならばその前のエレベータに乗った時か?
もしかしたらメリーだけが本来の階で降りていたのだろうか。
メリーは部屋に居るのだろうか。
考えている間に、エレベータへと辿り着いた。
とにかく私達の部屋に戻ろうとエレベータを呼ぶ。
エレベータを待つが、中中来ない。
今来た廊下を振り返る。
エレベータを待っている間にも、あの部屋から何かが這い出してくる気がする。
怖くて怖くて仕方が無かった。
恐ろしさが極まって、立ち止まっていられなくなって、階段を使う為にエレベータの前から駆け出した。すぐ近くの非常階段に逃げ込み、メリーが待っているであろう自分達の部屋を目指す。階段を飛ばしながら降りて、踊り場から廊下に飛び出し、息を切らして表札の掛かった部屋の前に辿り着く。
そこには手作りの表札が掛かっていた。
表札には私とメリーの名前が書かれていた。
私達の部屋だ。
助かった。
取っ手に手を掛けると、電子錠が開く音は鳴らなかった。メリーが鍵を掛け忘れたのか。不思議に思いつつも、とにかく助かった一心で、メリーの名を呼びながら駆け込み、扉を開いて居間に入る。
しかしメリーが居なかった。
それどころか何も無い。
家具も何も。ただの伽藍堂がそこにあった。
その部屋はいやに埃っぽかった。息をすると喉が詰まりそうになる程、埃が舞っていた。
もしかしてまた部屋を間違えたのだろうかと、外に飛び出して確認する。
玄関に表札は掛かっていなかった。
私達の部屋の玄関にはメリーの作った表札が掛かっている筈なのに、何処にも見当たらない。
やっぱり部屋を間違えたのかと、部屋の番号を見た。
私達の部屋の番号だった。
もしかしたらマンションの棟を間違えたのかもしれない。
自分でも信じられなかったが、そうとしか考えられない。
それが明らかにおかしい事は自分でも分かっていた。
何か嫌な渦の中に巻き込まれている感覚があった。
それが恐ろしかった。
訳の分からない恐怖に突き動かされてエレベータに向かう。
その途中で、ふと気になる事があって足が止まった。
何故私はここに居るのだろう、と。
自分がここに居る理由が見出だせない。
私はこんな場所知らない。
こんなぼろぼろの廃墟、私のマンションでは断じて無い。
何かおかしい。
齟齬がある。
もっと嫌な事に気が付いた。
さっきから思い浮かべていたメリーとは誰の事か分からない。
そんな人物と一緒に住んでいた覚えは無い。
夕方には蓮子という人物に電話を掛け、会いに行こうとしたが、それもまた誰なのか分からない。私はそんな奴等知らない。
体中から冷や汗が流れてくる。
怖気が、背筋に起こって、全身に行き渡った。
このマンションも、蓮子とメリーという謎の人物の事も分からない。
そしてそれどころか、私は、自分が誰だかも分からなかった。
自分の名前を思い出そうとしても思い出せなかった。
自分が今までどんな風に生活していたのか、自分の人生を思い出せなかった。
このマンションに来るまでの自分が全く思い描けない。
この場所も、私という存在も何かが食い違っている。
私は一体誰だ。
分からない。
とにかくこのマンションから出ないといけない。
エレベータを呼ぶ。
待っていると、背後から足音が聞こえてきた。
恐ろしい何かが後ろから近付いて来る。
振り返ってはならない事を直感した。
そうすれば恐ろしい事が起こると分かってしまった。
だが背後から迫る私を脅かす存在を見ずには居られない。
未知への好奇心が私を殺す。
足音が背後に立った。
私は、振り返る。
エレベータの到着を知らせる音が軽やかに鳴った。
金色の髪をたなびかせた妖怪は、誰も居ないマンションの中でくすりと笑うと、到着したエレベータに乗り、そして消える。
何処からか廃墟となったマンションを解体する音が響いてきた。
最初の部分に種明かしがされているのに、最後までドキドキしながら読めました。
人の記憶の痕跡と誰もいなくなった現在の建物、そしてそこを徘徊する妖怪八雲紫が交わり、独特の味が出ていると思いました。
幻想郷も過去の人間たちがみた幻想の痕跡の集合体と言えなくもないと思うので、廃墟巡りってゆかりんの趣味にも合ってそうな気がします。
ノスタルジーも含めて、とても好きな雰囲気の作品です。
蓮子視点のシーンは本当に怖かった……。
ゆーれいの正体は、物に宿った思い出達なのかもしれませんね。
とても面白かったです。
紫によってこういうことが起こったのか、こういうことが起こるから紫が惹かれたのか
一つの建物に複数の思い出を内包するマンションっていうのは建造物の中でも特異な存在なのかもしれませんね