【水橋パルスィ】
「おうおう、豪勢だねえ」
「全くだ。流石豪奢と噂の星熊様。花見一つでも豪勢であられる」
家の前で妖怪の二人組が喋っているのが聞こえる。二人とも顔見知りだ。出て顔を負わせると会釈し、私は前を向いた。
それはまさに豪勢という言葉を絵にしたような光景だった。金銀で彩られた籠には美女が乗っているのだろう。山海の珍味を集めた車は見ているだけで垂涎モノだ。そしてその中に置いても何より観衆の目を奪うのは、参列の真ん中、四人の鬼が担ぐ輿に乗った女性だった。
輿の上で胡坐をかきつつ徳利を傾ける姿は、それだけで浮世絵のネタになるような艶かしさを放っている。しかしそんな雰囲気を醸しつつもどこか親しみやすさを感じる笑顔で周囲の観衆に手を振っている。星熊勇儀はそんな鬼であった。
大した人気だこと、そんな皮肉じみた事を思う自分が何か少しおかしい。嫉妬深いと方々で言われる私でも溜息を吐くことしか出来ないほど星熊勇儀は美しかった。否、扇情的と言うべきか。背も高く身体つきも良く、おまけにあの美形だ。時折見せる少年のような純粋さを感じる表情もとても魅力的、ああなんて妬ましい。
あらあら、やっぱり妬んでしまったわ。と笑った時、たまたま目の前を星熊勇儀の輿が通った。目が合ったのも、たまたまだった。
少し頬を緩めて笑った。それをしたのもたまたまなら、星熊が呆けた表情をしたのも、たまたまだったのだろう。
私こと水橋パルスィは旧都のとある店を手伝っている。現世にまだ残っていた際は、それこそ朝から晩まで私を捨てた男を恨みつくしていたものだったが今ではおとなしいものだ。時折愛想笑いもするし、あのころとは違うのだろう。
花見とやらは大盛況だったようだ。私は未参加だったが、酒好きの妖怪たちのどんちゃん騒ぎは長く続いたようで道行く妖怪たちの中には頭を押さえているものが多い。
「すみません」
声が表から聞こえる。どうやら準備中の看板が見えないらしい。こういった輩は無視するに限る。
「無視しないでください。無論準備中に声をお掛けする御無礼は存じております」
見透かされたような質問に面食らう。仕方なく外に出ると、一人の少女がいた。
小さい、小柄といわれる私よりもさらに。これでは少女というより子供だ。
「失礼な」
見透かされる。これは失礼。
「どうも。あなたは水橋パルスィさんですね?」
「ええ、そうね。なぜ貴女がここに居るのか聞いていいかしら?古明地さとりさん」
この旧都で一番の顔役で地霊殿のトップである悟り妖怪。無論私のような一山幾らの妖怪と違い、れっきとした妖怪だ。姿かたちは可愛げのない子供だが、彼女を怒らせた日には私など消し炭にされてしまうだろう。
「失礼な、あなたの私のイメージは野蛮すぎます」
「ごめんなさい。でも分かってくれないかしら。怖いのよ」
「……まあ良いです。少しお話しできますか?」
「ええ、いいわよ。どうせダメと言っても無理に聞かせるでしょうし」
この旧都の主とも管理官ともいえる妖怪に誰が文句をつけるだろうか。どうせ大した用ではあるまい。そうでなくては私のような妖怪にこの大物が関わるわけがない。
「随分卑屈ですね」
「控えめなのよ、長生きするコツかもね。あなたより若いけど」
「訂正しましょう。失礼な方ですね」
そういう事を言う割には最初から大して表情を変えていない辺り、こういう中傷には慣れているのかもしれない。
さとり妖怪というのは、とかく嫌われ者なのだ。考えてみれば当然で、下手な考えも彼女の前では出来ない。その上痛くもない腹を自然に探られるのだから、好かれるわけがない。
「優しいところもある、のかしら……?」
「さあ?」カフェテラスでそんな会話をするとどうにも味気ない。
しかし、要件は何なのか気になる。早いところ切り出してほしいものだ。
「それではご希望に答えて。この旧都の外れに何があるかご存知でしょうか?」
「古ぼけた橋があるわね。そこがどうかしたの?」
「そしてあなたは橋姫です。なら私が何を言わんとするか分かるはずですが」
「ええ、分かるわ。そしてお断り。回れ右して帰ってくれる?」
無茶を言うな、なんでそんな冷や飯食いを回されなけりゃならんのだ。とてもじゃないが御免である。このガキ、人の都合をなんだと思っているのか。
「消し炭になりますか?私はどちらでも構いませんけど」
「ちょっと。どうにもな話じゃない。いきなり職場に押しかけて、閑職に左遷だなんて。それが地底管理の権限を握る古明地さとりのやることかしら?」
「仕方ないんですよ。今、橋は管理者がいません。このままではチンピラ妖怪の巣窟になるかもしれないんです」
「知った事じゃないわ」
「こっちだってあなたの都合なんて知るものですか。管理者としての命令です。あなたは橋の守護者です。もう決めたのです、はい決まり決まり‼」
荒っぽい声で強引に話を終わらせ、さとりは肩で息をつく。どうにもおかしい。確かに橋はチンピラの集いになるかもしれないが、だからどうしたというのだ。むしろ騒ぎを起こすチンピラが町はずれにいるなら臭い物に蓋でちょうどいいではないか。
「ああ、はいはい。分かった分かった。やりますよ、橋の守護。で、それはどうするの?住み込み?通い?」
「住み込みです、前任者が使っていた小屋がありますから。それではまた。橋姫」
さとりは走って去って行った。
私はトボトボ歩いた。これから店に行き退職の旨を話さなければならない。
【星熊勇儀】
モノを考えるのは少し苦手だ。頭が痒くなる。とはいえこの頃の出来事は少々考えなくてはならない事が多いのだ。
考える事はもっぱらあの時の緑色の眼の少女の事だ。あの僅かな微笑みが頭から離れない。その後深く酒を飲み、翌日になってもあの微笑みが頭から離れなかった。
「ああ、あれは橋姫ですよ。変わり者です」
そう言ったのは私の屋敷で働く黒谷ヤマメだった。家が近く、よく話すらしい。
「変わり者ってなんだい?」
「あいつは元々人間だったのですよ。それが人を恨みに恨んで妖怪になった、と聞きます。こういう手合いはそういませんからね」
ヤマメはそういうと笑って、でもイイやつですが、とだけ付け加えた。
「ふむぅ。成程」
あの緑眼の妖怪はそれなりに認知されているらしい。どうにも心がざわつく。
欲しい、心で一つ考えがまとまった。
あの笑顔を自分だけのものにしたい。
独り占めにしたい。
そのためには根回しが必要だ。そう考えた私は、ヤマメに留守番を任せ、外に出た。向かうは地霊殿だ。
【古明地さとり】
さて、そろそろ寝ようか。
そんな考えは突然の来訪者の登場で消えてなくなった。
「邪魔したかな?」低い声。
「まあ、こう夜更けに来られると困るのは確かですね」
大柄な身体、金髪、それを二つに分ける額から伸びる赤いツノ、星熊勇儀だった。
応接室で机を挟んで座った。使用人代わりのお燐は気を利かせて紅茶を入れてくれた。うむ、悪くない。
「何か用ですか?」
「うむ。この旧都で、橋姫と呼ばれる奴がわかるか?」
「ええ、あなたの思考の中に居る方は存じていますよ」
「話が早くて助かるよ。それでだ、そいつを私の妾にしたい。協力してくれ」
ドン引きだった。紅茶を吹き出しそうになったがそれは懸命にこらえる。驚いた事に勇儀は真顔だった。新手の冗談、なら良いのだが。
「ええ、と。冗談、ですよね」
「いや、至極正気だが。ああ、妾ってのはな……」
「いえ、それは知ってます。あのですね、何故私にそれを相談するのです?」
「何のことはない。あいつは旧都に居るんだろ?なら、私以外の奴の眼に触れるじゃないか」
「…………は?」
意味が分からない。独り占めにしたい、そんな感情が勇儀の思考から読み取れる、しかしそれ以上の感情が読めない。ただただ真黒などす黒いナニカが見えた。
「だからさ、協力しておくれよ。あの娘を私のものにしたいんだ」
「あの、それ本気でいってます?」
「ああ、そうだとも。お前の力でちょちょっと、どっか孤立している閑職とかに移動させてくれよ。あるだろ?橋守とか」
「ふざけないで。くだらない、そんな事に手を貸す気には」
最後まで言えなかった。勇儀が机をたたき割ったからだ。生憎鬼の剛力に耐えれるほど頑丈ではない。
勇儀は顔を赤くしていた。どうにもいう事を聞かない事が腹だたしいようだ。考えてみればこの鬼に反論できるものは私を含めてもそうは多くないかもしれない。顔から血の気が引くのが分かる。昔から感じていたがこの鬼は深いところでは幼稚なのだ。純粋すぎるとも言える。
「なあ。古明地の。二つだけ選ばせてやる。一つは素直に私のいう事を聞くこと。もう一つは⋯⋯そうだね、断ること。ただ、それがどういった結果をもたらすかわからないわけじゃあないだろう?」
遠回しでも何でもない。ただの脅迫だった。もし断れば彼女の拳は私を穿つだろう。その結果私は二目と見れない姿になるのは目に見えている。交渉の余地があれば少なからず譲歩してくれはしないものか。背筋が冷たく震える。
「答えてほしいな。古明地。なあ、お前にとってくだらなくても私に取っちゃ大事なんだ。なあ早く、速く、ハヤク。頼むよ」
ゾッとした。何なのだろうこの執着は。
黒いナニカの正体は執着だった。
勇儀の手が指が私の首を掴む。冷やりとした感触に鳥肌が立つ。流れ込んでくるナニカが私の足腰から力を奪っていく。
「わかっ、分かりました‼だ、だからっ、はなしっ!」
もはや口がまともに動いてくれない。震えた声が情けないが、どうしようもない。
勇儀が笑った。私の首を離し、肩に手をかけ、鼻先まで顔を近づける。
「こーしょうせーりつ、だな」
心のこもらない軽薄な声が耳元で聞こえた。勇儀の低い声が背中を這い回っていた。
【水橋パルスィ】
橋守の仕事なんぞ碌なものではない。そんなことは現世の頃でいやというほど感じていた。しかし久々にやるとなんだかんだで懐かしさがあり、これはこれで悪くないという気がする。
「おはよう橋姫」
よく通る声であいさつをしてくれたのは黒谷ヤマメだ。くすんだ金髪や、何処となく愛嬌のある顔立ちが印象的で、私が旧都に居た頃でも仲良くしていた。彼女も何故か橋の近くの縦穴という場所の管理をしているらしい。というかこの旧都にそんなにチンピラがいるのかしら。
「おはようヤマメ。またサボり?」
「おお厳しい。せっかく会いに来たんだ、歓迎頼むよ」
「残念、昨日でお茶請け切らしちゃったわ」
「なら清水でも頼むかな。綺麗な水には目がないんだよ」
のんきな事をいうこいつもまた妖怪である。それも土蜘蛛という一級危険妖怪だ。怒らせれば怖い。精々怒らせないようにするのが得策だ。持ち場を離れるわけにも、といって清水は持ってこない。面倒だ。
「そうかい、悲しいなあ」
「仕事熱心なの、私」
「そうは」
ヤマメはそこで言葉を切り、せき込んだ。後ろに気配がした。
振り返る。目の前には豊満な丘が二つあった。
「やあ、お疲れさま」
「……ええ、お疲れ様」
星熊勇儀だった。何がおかしいのかにやにやとしている。なんとなくむかついた。
どうやら朝だというのに既に酒が回っているらしい。頬がほんのり赤くなっていてそれがどことなく童のようだった。見下ろす両眼の真ん中には鬼の象徴であるツノが反り立っている。
「水橋パルスィだね。私は星熊勇儀という。以後お見知りおきを」
目の前の丘が金髪に変わる、会釈をしたことにかなり驚いた。鬼というのは誰も彼も傲岸不遜だと思っていたからだ。
「ええ、はい。存じております。お会いできて光栄です。出来れば橋姫と呼んでいただければ」
自分なりの敬意を示したつもりである。最敬礼とまではいかないが普通の礼儀を尽くしたはずなのだ⋯⋯⋯なのだが。
「あ?」
空気が変わる、そばにいたヤマメが震えてるのが分かる。え、なんで?特に何をしたわけじゃないでしょ?地雷?なんか私地雷ふんだ?
「いえ、あの、その……」
分からない、何が地雷だったのか、それ以上に何が癇に障ったのかがさっぱり分からない
。
「なんだい、その慇懃な口調は、ええ?」
ああ、それは確かにイラつくかもしれない、剛直な鬼の種族として当然だ。勇儀の顔をまともに見れない。きっと凄くイライラしているのだろう。怖くてとても見れたものではない。
「ほ、星熊様。こいつは緊張しているんです、な、そうだろ」
震える声を精一杯張り上げ、ヤマメがかばってくれている。とはいえ私は顔を上げることすら出来なかったからその二人がどんな表情でそのやり取りを交わしていたのかは分からなかったが。
「ほう、成程。それなら仕方ないな、パルスィ」
空気が弛緩する、助かった。もし一人でいたなら腰を抜かしていたほどの安堵の空気が場に流れる。ようやく顔を上げ、周りを見渡すことが出来た。勇儀が手を差し伸べている。
「すまんね、パルスィ。私はどうにも慇懃な言い方が気にくわなくてね。まあ初対面だが仲良くしてくれ。よろしく頼むよ」
勇儀の手を握り返す、大きな手は私のちっぽけな手をすっぽり包んでしまう。案外あったかくて離すのが惜しかった。
【星熊勇儀】
橋のたもとに彼女はいた。小柄な体躯、ひっつめにした金髪、透き通るような白い肌に、綺麗な翡翠の眼。そのすべてが愛おしくて危うくて、精巧なガラス細工のような完成された流麗さを漂わせていた。
「やあ。お疲れさま」
声をかけると彼女は私に向かって振り向く。翡翠の眼が大きくなった。綺麗だ、私の持つ宝石などこれに比べればガラス玉も同然のガラクタだろう。
「……ええ、お疲れ様」
彼女は、少し硬い顔で私に挨拶をする。目の前の彼女は私にとっては取るに足らない存在には違いない。なのに何でこんなに彼女の一挙手一投足にこれほど惹かれるのだろう。
「水橋パルスィだね。私は星熊勇儀という。以後お見知りおきを」
少々気取った挨拶をしたな、そんな事を私は考えていた。彼女が、パルスィが口を動かす。
「ええ。はい、存じております。お会いできて光栄です。出来れば橋姫と呼んでいただければ」
私以上にパルスィは慇懃だった。私ははっきりモノを言う奴は好きだが本音を慇懃な敬語で隠す奴は大嫌いだ。嫌いになりたくない、だがただイラついた。なぜこんなあからさまに距離を取りたがるんだ。私はただパルスィを自分のものにしたいだけなのに。
「あ?」
思わず声が出てしまい、頭の中で思っていたこともついつい出てしまった。
「なんだい、その慇懃な口調は、ええ?」
あ、いけない、いけない。パルスィが怖がっている、顔を伏せてしまうなんてもったいないな。私はいつまでだってパルスィの顔を見ていたいのに。
「ほ、星熊様。こいつは緊張しているんです、な、そうだろ」
ヤマメだ。良い具合に空気を読んでくれる奴ではあるのだがいかんせんフォローの仕方が下手くそな奴だ。震える声を聴く限り、奴なりに少ない時間で考えた精いっぱいの言い分だったのだろう。ごめんよヤマメ、もう少しだけ私の見栄に付き合ってくれ。
「ほう、成程。それなら仕方ないな、パルスィ」
パルスィが顔を上げてくれる、困惑に揺れる瞳をまた魅力的だった。
「すまんね、パルスィ。私はどうにも慇懃な言い方が気にくわなくてね。まあ初対面だが仲良くしてくれ。よろしく頼むよ」
困惑しきったパルスィの眼がいくらかの安堵に包まれる。手を差し出すと握り返してくれる。私の手に包まれた手は酷く冷たかった。
【古明地さとり】
……眠れない。ベッドにくるまり、いざ夢の世界に、と思ったまでは良かったがそこから深い眠りにつくことが出来ない。
あの鬼のせいだ。目をつぶるたび瞼の裏にあの愉悦に満ちた笑みが浮かぶ。はっきり言えば橋姫には犠牲になってもらうつもりだ。あの愉悦の笑みが何処に向かうにせよ私に矛先が向かないならそれでいいのだから。
「橋姫……ごめんなさいね」
心にもない謝罪を口にする。
しかし勇儀は橋姫を独占したいらしいがどうするのだろう。食べる?馬鹿馬鹿しい。酒の肴に向いてるものは他にもあるだろう。じゃあ何故?橋姫に惚れた?ならもっと直接的に行くはずだ、怪力乱神、力の勇儀の通り名にふさわしくないみみっちいやり方である。
……いや、もしや⋯⋯あの勇儀が実は勇儀の演技で実際はもっと………。
寝れないからと変な場所に思考が行っている。空想にしろ馬鹿馬鹿しい、大体私の能力である程度分かるが勇儀はそこまで捻くれてはない。全く馬鹿な考えは止そう、明日も早い。寝ることが大事だ。
【水橋パルスィ】
あの一幕があってというもの勇儀は頻繁に橋を訪ねるようになった。いつも手には大きな徳利を携えて、顔を赤らめてやってくる。楽しそうで何よりだが、酒に強くない私にとっては彼女が愛飲する大吟醸は喉が焼けそうなのでいつも少なめで許してもらっている。
「もう結構」
そういうと、勇儀は少し惜しそうな顔をするが、徳利の注ぎ先を自分の口に変更する。
「よくもそう飲めるわね」
勇儀がジュースのようにがぶ飲みする酒は、地底でも一、二を争う高価なものだ。私なら強い酒という理由以上にその値段を惜しんで、飲まないだろう。
「酒ってのはね、私にとって飯だよ。無いと死ぬ」
「そう」
徳利の口を覗き込み、残念そうに笑った。酒が切れたらしい。
「帰らないと死ぬわねえ」
我ながら、実に嫌味な一言だ。ただ、それを勇儀は寂しげに笑うだけ。遊び場から、一人先に帰る童のような物足りない子供みたいな顔。背丈なんて私よりよっぽど高いのに、こうも表情が顔に出るのは地底の顔役の一人としてはあまり好ましい訳ではあるまい。
「今日はこれまでかね。やれやれ、今度は酒樽を持ってこようかな」
「あら、面白いこと言うわね。でもそれを飲み終わる頃には、私は寝てるわよ」
表情がやや呆けたように変わる。彼女は見ていて飽きない。雲の上の存在に見えた鬼は案外人懐こく、それでいて面白い。旧都に居た頃より、今の方が充実している気さえする。
「また来るよ、今度は軽い酒を持ってくる。パルスィも飲めるような奴を」
「そう、それならこの訪問も楽しみだわ」
勇儀は足早に去って行った。私にとっては嬉しい話だ。彼女の飲みっぷりは豪快だが、見ているだけなのは少し物悲しい。弱くても嫌いになれないのが酒の魔力だろうか。
【星熊勇儀】
生まれてこの方、それこそ産湯に使った時から酒とは切っても切れぬ縁があるらしい。
鬼に生まれた奴はどいつもこいつも酒なら何でもいいと言わんばかりに、とにかく飲む。
私も最初、その口だった。しかしあの橋姫と話しながら飲む酒、こいつのうまさにかなう奴は今のところない。
橋姫はどうも酒が弱いらしく、私の酒に付き合えるのはせいぜい二口ほどだ。しかしその後の私の話に対する相槌の上手さが、場を上手く調整してくれて私の酒の口当たりを浴してくれている。心地いい空間、酒を飲むのにこれに勝る上等なものはない。
「思ってたのとは違うな」
何度目かの相伴で私はそう言った。橋姫は橋の欄干にもたれ掛りながら、首を捻った。
「何が?」
「聞いていた話と随分違うと思ってね。いわく橋姫は不幸自慢の鬱陶しい奴と聞いていたから」
もっともこれは旧都での風聞で、それ以来しばらく経った現在はまた違った話もあるのだろうが。
目の前の橋姫は少し笑った。どうにもこの橋姫は綺麗ではあるが、喜怒哀楽の幅が狭いというか酷く慌てふためくという事も、高らかに大笑いという事も無いので何となく私には物足りない。
「ええ、まあ不幸自慢もいいのだけれど。商売をしていた以上したいことばかりするわけにもいかないでしょう?あなたのように何でもかんでも開けっ広げなのは珍しいわよ」
むむむ、何か馬鹿にされている気がするぞ。
「後は橋姫の本分の妬みか?」
「それはあるけど、表面化するほど幼くないわ」
緑の眼が少し細まり、口元を抑えながら、橋姫は笑った。私にとってはそんな所作の一つにも現れる女性らしさが、何処となくモヤモヤした。ガサツな私には全く縁のない香の香り、白魚のような細くて艶かしい指。
彼女を。
彼女の全てを私のものにしたい。
欲しい、欲しい。
あの白磁の肌を真っ赤になるまで締め付けたい。ほそっこい喉元を締めて、ぐちゃぐちゃになった彼女の歪んだ顔を見たい。
端正なすまし顔を、多少崩しても彼女は綺麗だろう。
橋姫はキョトンとしていた、おっとと、いけない、いけない。ひょっとして顔に表れていたろうか。だとすると、さぞや気持ち悪い顔をしていたに違いない。
「どうしたの、酷く考え込んだ顔して」
ああ、優しい優しいパルスィ。でもね、私は優しくないんだ。本音はお前を閉じ込めて、私専用にしたいんだ。
「ああ、いや。ちょっとね」
「へえ、あなたでも考え込む事あるのね」
「おいおい、私はどんなイメージなのさ」
「酒豪、直情、ずうずうしい、あとはそうね、なんでも力任せに突き進む」
本当にそうだと言えるのは、最初の一つくらいだ。あとは皆、鬼のイメージで、星熊勇儀という存在の説明になっていない。
「ありゃりゃ・……案外大雑把な奴みたいだね。私は」
「ええ、まあ私は嫌いじゃないし、妬ましいけれどね」
「なんで?」
「なんでって……例えば表でどんな良い風に振る舞っていても心の中では何を考えてるか分からない人がいるでしょう?でもその人たちは好きでそうしてるわけじゃないの。そうする人は結局のところ心と現実のギャップについていけてないからそういう振る舞いをするの」
「だから?」
話が見えない。何が言いたいんだ。
「……あなたからすると醜く感じるかもしれないけど、私もそれはあるの。でもあなたは、違う。好きなことをいうし、やる。裏表がないっていうのかしらね。それが、妬ましいかしら」
橋姫は溜息をついた。
ちがう、橋姫。
私なんだ。私がそうなんだ。醜いのは私なんだ。
顔を伏せたまま、帰ると一言言って、私は橋の上を駆けた。後ろで橋姫の声が聞こえていたが、止まる気にはなれなかった。
橋姫、ああ、橋姫。
嫌わないでおくれ。それでも私は―――お前を独占したくて堪らないんだ。
【古明地さとり】
一度、とんでもない光景を目にしたことがある。旧都の大通りで行われた星熊勇儀の見世物だった。
勇儀は手元を白い糸で縛っていた。それを観衆に見せた後、皆の衆、さあさあ御覧じろ、と勇儀は威勢よくその糸をぶちぎったのだ。
だからなんだという話―――にはならなかった。
それに使われた糸は、黒谷ヤマメによって精製されたものだったのだ。一般的な何処にでもある蜘蛛の巣、それですら鋼鉄の五倍強の強度を持つ。土蜘蛛の妖怪であるヤマメの糸の強度は無論それの比ではない。実際、旧都に居た怪力自慢の鬼達でも勇儀と同じ事が出来たものはいなかった。
この一件は、星熊勇儀の怪力を語られる時に、必ず一席持たれるほどの逸話だ。
そんな伝説を持つ女性が、いま私の目の前で泣いている。目は真っ赤になり、流れる涙を拭おうとして、目を擦っている。
「どうなさったのです」
いつもの勇儀ではない。呆れるほど真っ直ぐな思考を持つ鬼とは思えない。
「なあ、私は、さ。ど、どんな奴、だい」
しゃくり上げながら私に問いかける勇儀は、どうしようもなく脆い存在に見えた。
「何のことです。もっと落ち着いてくださいよ」
勇儀くらい妖怪としての格が高いと、読心が出来ない。さとり妖怪の私のアイデンティティがなくなるが、こればかりは仕方ない。
⋯⋯どんな奴かだって?そんなの決まってるではないか。怪力乱神、直情径行型の鏡。そうに決まって。
⋯⋯いや違う。あの橋姫に対する態度は、それを装った別なナニカだ。
「分かりません」
そう答えた、そうとしか答えようがない。
「橋姫でしょう、泣いてる原因は」
ピクリと肩が動き、思考がますます乱雑になっていく。当たりのようだ。
「あなた、実は大ウソつきではないですか?」
つい、思っていた事がするりと口から出てくる。勇儀の思考が、大きく揺らいだ。これは―――怒りだ。
「あなたはただ、誤魔化してるだけです。ほしい、奪いたい。そんな感情を持ちながらも、どこかあの橋姫に対して遠慮をしている。自分の感情を読まれて、あの橋姫に軽蔑されるのが怖いのでしょう」
勇儀が俯いていた顔を上げる。そこにはさっきまでのしおらしさがまるでない、一人の鬼がいた。襟を掴まれる。構うものか、鋼鉄の何倍の強度のものを軽々引きちぎる鬼、だから何なのだ。
「殴りたいなら、どうぞ。だからどうなるわけでもないでしょうけど」
「黙れ」
暴力が声を持つなら、今の勇儀の声はまさにそれだ。
「橋姫に執着するのはもう止めなさい。あなたと彼女はさまざまなものが違いすぎる」
「五月蠅い、黙れ」
「あなたには協力できませんよ。いや、したくありませんね」
頬が爆発した。否、殴られたのだ。幸いにも勇儀が襟元から手を離してくれたおかげで、吹っ飛んで受け身を取ることが出来た。とはいえ、痛いことには違いない。
「もう相談しない。夜遅くに邪魔したね」
勇儀が背を向ける。とっさに袖を掴んだ。
「待ちなさい。逃げるつもりですか。大ウソつき」
勇儀は振り返らない。それは肯定なのか、それとも黙秘なのか背中からは覗けない。
「……黙ってくれ」
「自分が何者かってさっき聞きましたよね?答えてあげますよ。あなたは大ウソつきです。自分の精神的弱さを棚に上げて、誤魔化す。結局あなたは成長しない子供なのです。おこちゃまです。自分の思い通りに事が運ばないとむしゃくしゃしていく。こんなところですかね」
そこまで言うと、勇儀は振り向いて私の首を締め上げる。気道が狭まり脳に酸素が行かない。苦しいが近づいて勇儀の精神がぶれていたためか、心を少しだけ読めた。
―――分かって、いるんだ、これを、認め―――
そこまでよんで、わたしの私の意識は途絶えた。
【星熊勇儀】
どうやら気絶しているだけらしい。さとりの体をソファに投げだし、外に出る。
「お休み、だ」
外は夜だ。夜の闇の中で、夜店や飲み屋の灯りだけが目立っている。
「やあ、姐さん。一杯どうっすか」
「良い酒が入ったんすよ」
「姐さん、一緒に飲みましょうや」
若い鬼達が私に声をかけてくる。やめてくれ、今日ばかりは乗り気ではない。
それにしても、ハッ、笑える話だ。
私は慕われている、間違いないことだ。
ならこの私はその信頼に足る行動をしているのだろうか。いいや、違うだろう。私はさとりの言う通り、私は子供、なのだろう。生まれの能力で後々の生き方までが大体決まってしまう妖怪は、努力というものに縁がない。私だって、さとりだって、ヤマメだってそうだ。
彼女は、違う。橋姫は、パルスィは、人間の時、どんな努力をしたのだろう。
私の、この地位も、怪力乱神の能力も、全ては、代々受け継がれてきたものだ。
パルスィの細い身体には、嫉妬を操る能力があるらしい。そうだとするなら、私は操られていたのか?彼女の何かに嫉妬したのだろうか。
「パルスィ」
愛しいあの名前を、呟いて頭の中で反芻する。
分からない、私の頭では何も。
「パルスィ」
もう一回、呟く。
駄目だ。
掴みかけてはいる気がしなくはない。でも、それは掴む前に消え去る泡沫だ。
ああ、もう分からない。
「パルスィ」
あはははは。もう、いいや。パルスィは大好きだ、それだけ分かっているなら、それでいい。
ヤマメに、伝えないと。腹は括ったよ。
【水橋パルスィ】
もうすぐだ、もうすぐ今日の勤務時間の終わりである。
私がここの橋守になったばかりのころは、わざわざ書類を書き込み、それを地霊殿の使いが取りに来るという、なんとも非効率的なやり方だったのだが、ここ最近はモールス無線というものが出来て、特定のコードを打ちこんで勤務終了、というようになっている。こっちとしてもコードの暗記は面倒だが、もう慣れたもの。慣れてしまえば、これほど便利なモノはない。
こんな便利な機械を作ったモールスさんとやらには、感謝がやまない。といっても作ったのは河童どもだけれど。
「ふう」
慣れた手つきで、ツートントン。今日も何一つ問題なし。
あとは、地霊殿側から了解を告げる打電があれば今日の仕事は終わり。終わりなのだが⋯⋯
「何よ……えらく遅いわね」
いつもなら即座に返される返答が、やけに遅い。何か起きたのだろうか。いや、考え過ぎだろう。
ふと橋を見る。欄干の傍で、ヤマメと勇儀が何か話しているようだ。でも⋯⋯なにかおかしい。いつも何処となくだらけた顔を崩さないヤマメの顔が歪んでいる。
何かあったのかしら?橋の近くは取りあえず私の管轄下にあるものだから、反射的に玄関から飛び出していた。
私の小屋から橋までは近い。まあ管理小屋というくらいだから近くないと、その役割に応じる事が出来ないだろうから、道理である。
声が聞こえる。両方ともハスキーな低音だが若干勇儀の声の方が低い。
「わかったな」
「ええ、まあ。気乗りはしませんがね」
どうにも何かしらの論争をしていたらしい。勝ち負けは明白だが、問題は何が論題だったか、だ。
「ねえ、ちょっと。勇儀?久々ね。何、話していたの?」
ぎょっとした、なんて表現がぴったりな顔でこちらを見ている。何か嫌ね。いきなり声をかけた私も悪いけれど。
「あ、パルスィ」
しかし、勇儀のそんな顔は一瞬だった。ぎょっとした顔をした一瞬の後は、口角を上げた笑顔になった。でも⋯⋯何かが違う。いつものような忌憚のない少年のような笑顔ではない。打算と計画を秘めた大人の笑みだ。
勇儀の後ろに居るヤマメが、私を歪んだ顔のまま見ていた。彼女のように勇儀と付き合いが長いなら、この勇儀の笑みの意味の理解が出来ているのだろうか。
「いやいや、聞いておくれ。実はさ、私にも好きな人が出来てね。ところが私と来たら、その手の知識はとんと無くてねえ。さあ、そこでだ。何せヤマメ大先生ときたら絡め取りの達人だからねえ。なーあ、ヤマメせんせー」
ヤマメの肩に勇儀が手を回す。少しだけヤマメの顔が強張った。
「ええ、そうですね。ええ」
「ホントに、そうなの?」
ヤマメの顔がますます歪んだ。もうすでに泣きそうだ。
「なあ、パルスィもどうだい?乙女トークと行こうじゃないか。なあ」
嘘、ではないのだろう。少なくとも勇儀の信条として嘘を吐くという事はない。問題は本音の裏にある、彼女の考えだ。
「じゃあ、私も混ぜてくれるかしら。あなたは誰を落としたいのかしら、素敵な殿方?」
とはいえ、二人がどんな論争をしようが、どうだっていいことだ。勇儀の考えは気になるけれど、私に関係がないなら、それは私の首を突っ込む話ではない。
「あまり外面で判断しない方がいいわよ。殿方は、ね」
私の少ない経験が役に立つかどうかは分からないが、私が契りを結んだ男性はどうしようもない男だった。
優柔不断で、自分で何も決めることが出来ない弱弱しい男。彼は世間からすれば、気弱で優しい貴族だったが、私という一人の人間からすれば、ただの世間知らずだった。御所の外の、腐乱死体や野良犬と食べ物の取り合いをする人間を見ながら、歌を詠む男。
ついには私だけでは飽き足らず、浮気を繰り返し、最後に嫌がる私は捨てられた。
「なあに、私を飽くような奴は、むしろ骨があるだろうよ」
まあ、それは確かにだ。旧都一の大富豪である星熊勇儀を袖にする奴がいるなら、大したものだ。
「まあ、あなたの場合、相手が男とは限らないでしょうけど」
妖怪は人間のような性別には拘らない。男色趣味に走るものもいれば、百合じみた関係を好むものもいる。だがまあ、元が人間というせいか、私はその手の方に興味がない。
「アー、確かに。パルスィは鋭いなあ。正解さ。どちらも好きだよ私は」
「へえ、守備範囲広いわね」
この剛毅な鬼に好かれるというのは、幸運なのか不運なのか。興味は持てないが、面白い話でもある。
勇儀は欄干に手を回して、溜息をついた。
「だが、あっちは、そうでもないらしいなあ」
「あら、ならあなたの好みかもしれないわね。まんざらでもない?」
ぎろり、とこちらを向いた。勇儀の切れ長の眼が、酷く怖い。
「いや、そうでもないよ。好きな人に袖にされるのは、辛いものだよ」
ヤマメが、勇儀から離れる。私はともかく、ヤマメも力が強いとはいえ勇儀と比べるのは酷だ。そのためか、勇儀の視線に対しての感想は、私と同じく怖いという事らしい。
しかし、勇儀が好きな人。どうにも予想がつかない。それこそ私のような嫌われ者に、そこそこ尊重したような話しぶりをしてくれるし、物好きという点ではそれを面白がる旦那が旧都にはいるのだろう。
【星熊勇儀】
どの口がぬかしてるんだか⋯⋯この元人間は、ひたすら私という存在を揺さぶってくれる。
ヤマメは反対していた。最後の最後、パルスィが現れる寸前まで。
私は説き伏せた。というよりは、強引な説得だったが。納得は出来てないみたいだが、それでもいい。私だって、もう少しじっくり手を掛けたかった。でも⋯⋯私はそんな器用な真似が出来ない。器用な奴なら、贈り物をするとか、甘い優しい言葉を贈るとかするはずだ。
ヤマメは器用な奴だ。そういった手を、十や二十すぐに考え付くはずなのだ。そうすべき手が思いついている彼女なら、止めようとすることが当然なのだろう。私はそうではない。
私は、もう戻れない。さとりに迷惑をかけ、ヤマメを強引に巻き込んだ。それは全て、この目の前の女性を自分のものにしたいという願いの為だ。
「私が好きな奴。どんな奴だと思う?」
「さあ?できれば御教授してもらいたいわね」
パルスィが答える。いつもの、彼女はいつも通りの薄い笑みを浮かべて。
ああ、そうか。私がしたいのはこれだった。このいつも余裕のある薄笑みを、全てぶち壊してやりたかったんだ。
「おうとも。まずはぁ、私より小さい」
「そうねえ、あなたより大きい人、少ないもの。妥当ね」
ヤマメ、後ろに回れ。頼むぜ。
「もひとつ、そのうえで、めちゃくちゃどえらく綺麗だ。可愛いじゃなくてさ、綺麗なんだよ。ぬいぐるみじゃなくて、蝶々てな具合」
「凄いものね。釣り合いを考えれば、それも妥当かもしれないけど」
こいつ、自分だとは考えてはないみたいだ。仕方ないか。何せ私からのアプローチなんてしてないわけだからな。言っとくが、この前述の形容は間違いじゃないよ。嘘でもない。
「それで?大体こういった類のものは三つくらい理由付けがあるものだけど」
案外、いや勘が鋭いのも、彼女は妥当とでもいうのかもしれない。
「そうさね。三つめは……」
指を擦る。弾けた音がして、ヤマメの糸が彼女の手を後ろ手で縛る。驚いたのだろう。目を見開き、唖然とした顔でこちらを見る。
「そいつが橋姫、だってことさ」
「そんな。冗談辞めてよ」
「……ヤマメ」
ヤマメが後ろから布をパルスィの顔に押し当てる。くろろほるむ、とかいう薬らしい。最初は足をばたつかせていたパルスィも、次第に大人しくなり、やがて完全に脱力した。なんだかよく分からん薬だ。気絶させる薬みたいだが、そんなもの何につかうのだろう。
ヤマメがパルスィの体を寝かせる。脱力しきり、小さな寝息を立てているパルスィは何というか、とても扇情的だ。細身で、いわゆるそそる身体つき。たとえるなら蝶々というのは、我ながらよく言ったものだと思う。
「もうこんなことは御免ですよ」
ヤマメがあきれ返るように、そう言った。
「この後、どうするおつもりですか、星熊様。少なくとも、この手の歓迎を喜ぶのは碌な手合い以外いませんよ」
「分かってるさ。まあ、お前が手伝うことは、パルスィを屋敷まで運ぶことだけだよ」
「それはどうも」
ヤマメが気にくわないようなのも当然か。元々友人同士のこいつからすれば、私はろくでもない手合いなのかもしれない。いや、それ以上かもな。
【水橋パルスィ】
ここは、何処だ。
記憶が、酷く、曖昧だ。
目の前に見えるのは、蝋燭の火。それ以外は何も見えない。
「あ⋯⋯あ⋯」
ようやく思考が追い付いてくる。そうだ、私は、勇儀とヤマメに、眠らされて。
ここは何処だろう。ゆらゆら揺れる蝋燭が、酷く艶めかしい異彩を放っている。廓のような雰囲気だ。それを意識してやってるかどうかは、分からないが。
蝋燭の柔らかな明るさが照らしている一本の燭台の周り以外は、まるで何も見えない暗闇だ。夜目の利く他の妖怪なら、こんな思いはしないだろう。やはり元が人間というのは不便だ。
それにしても可笑しな事があるものだ。こんな事になるなんて思ってもなかった。取りあえず、身体は動く。ヤマメの糸に縛られたままというわけではないらしい。とはいえ下手に動きまわろうにも、燭台付近以外はまるっきり視界がないと来ていては動く気になれない。
それにしても広い部屋だ。私の家など燭台を置けば、四方の壁が軽く見渡せるがこの部屋はそうでもない。人間だった頃、連歌に興じた部屋を思い出す。
がらり、何かが開く音がして、心臓が早鐘を打つ。暗いせいで音に敏感になってるのだろう。それにしても恐らく襖が開いたのだろうに光が漏れないのは、もう夜だからなのだろうか。
ぎしりぎしり、踏みしめるたびに板敷の床が軋んでいく。怖い、やめて、来ないで。
「パルスィ」
燭台の灯りで、その声の主がヤマメだと分かった。
ヤマメは疲れた顔をしていた。目を合わせて、少し安堵する。良かった、いつものあの友人の顔だ。
「ああ、良かった。まだいてくれたか。パルスィ」
「いてくれた、じゃないわ⋯⋯ここ、何処?」
「星熊様のお屋敷だよ。お前さんは要するに、連れ去られたんだよ」
「……神隠し、ってわけ?天狗の仕業かしら?」
「そいつは私たちの本分じゃあないよ。でも、似たようなものかね。で、私が助けに来たってわけ」
ヤマメの顔はしんどそうであった。多分、物凄い悩んだ結論なのだろう。
「あなた、大丈夫なの?」
「……もういいんだ。最近の星熊様にはついて行けないよ。お前さんは知らないだろうが、旧都ではさとり様に手を出したり、暇潰しで店をつぶされた旦那がいたりして奇行が目立ってるんだ」
「それは……」
勇儀らしからぬ奇行である。これが大吟醸を三升一気飲み、なんてことであれば笑い話なのだが。
ヤマメが肩を貸してくれる。フラフラの足には有難い限りだ。背こそ小柄な私と大差ないが、勇儀の屋敷で働いていただけあって、非力な私とは違って体力がある。
「ところで、どうするかな?このまま家に帰れば一発でばれちまうし⋯⋯地上でも行」
そこまで言うと、ヤマメは口をつぐんだ。どうした、なんて言わなくても分かる。
襖の向こうで、どんな言葉よりも明確な、気配がしたのだ。それは言うなら、どんな大声よりも明瞭で大きな存在だ。
「ふふふふふふ」
少女のような笑い声、しかしそれに似合わない低い声。暗い部屋の中では、酷く恐ろしく聞こえた。
「ヤァ~マァメェ。横取りかい?上等な真似をするじゃあないか。ふふふ」
含むような笑い声の間に、歯ぎしりの音が混じる。夜目の利くヤマメには、勇儀の顔が見えているのだろう、顔には焦りの色が浮かんでいる。
「星熊様。それでは今回の一手は、上策とでもおっしゃるおつもりですか?」
「ああ?」
冷え冷えとする不機嫌な声が部屋に響く。それ一つで、私の背中に蛆虫が這い回ったような怖気がした。
「っ……‼」
ヤマメの顔が青くなる。床がギシギシなって、ようやく勇儀の顔が見えた。
そこにいた勇儀は、私の知らない鬼だった。少年のような面影を感じさせる八重歯からは血が流れ、これでもかと眉間にしわが寄り、目が狂気に満ち満ちていた。怪力乱神―――そんな言葉が頭によぎった。
「上策⋯⋯ははは、そんなの知らんさ。私は、鬼だよ。それこそ、そこらの悪がき以上に我儘が許されるわけさ。例えば、橋姫を私のものにするとかね。ヤマメ。人のものを横取りするなんて、お前も大層な悪ガキだねえ⋯⋯⋯」
勇儀が、私の方を向く。目じりが下がっているところを見るあたり、安心とか安堵といった感情が見える。
「ははは、パルスィ。そんなに怯えなくてもいいよ。別に取って食おうってわけじゃない。今はね」
「……ふ、ふざけ、ないでよ。何、なんなの?意味わかんない。いきなり気絶させて、屋敷に取り込んで⋯⋯あ、揚句に心配するな、だなんて、どの口が……」
自分の舌が回ることに少し関心すらしてしまった。そんな控えめ過ぎる罵倒に対して、勇儀は楽しそうに首を回す。
「うーん、これは失礼。でもさ、私がこうしたいと、望んだことだからさ。私が欲しいといやあ、私のもの。そんな怒るなよ、私のパルスィ」
肩を掴まれる。怖い、誰だ、こいつは。勇儀、のはずがない。
しかしこいつは、間違いなく鬼なのだ。気に入らないおもちゃはすぐ捨てる、力を持ったガキ。今の勇儀は、それ以外の何物でもない。
「さーてと……ヤマメ」
勇儀がヤマメの方を向く。先ほどまでの、緩やかに下がっていた目じりはこれ以上なく険しくなり、ヤマメの肩が跳ね,怯えているのがこちらにも伝わってくる。
「どういう風の吹き回しかな。良い子の代名詞のヤマメが、こんなことをするとはね」
「く、くくく。はっはは」
気でも触れたのか、ヤマメは笑い始めた。楽しげではない、何かの鬱屈を吐き出すような、そんな中身スカスカな笑い声だ。
「理由、ですって?そんなのあなたが一番分かっているでしょう?星熊様」
「名前で呼ばないでほしいね。怖気がする」
「では、貴女と呼びましょう。いえ、こんな事、どうでもよいのです」
ヤマメが私の顎を持つ。近くで久々に見たヤマメの顔には、勇儀と同じようなナニカにあてられたような目をしていた。
「幸運でしたよ、貴女にこの子の監視を命ぜられるなんてね」
蜘蛛の巣にからめとられたように、ヤマメの顔から眼を逸らすことが出来ない。そんな。まさかヤマメまでが、こんな茶番みたいな真似をするわけ――
「貴女が、この子に目を付ける、ずっとずっとずぅーっと前から、私がモノにしたいなあ。と思っていました。私は、土蜘蛛である前に画家でもあるんです。私の蜘蛛の巣に橋姫の彩を加えれば、一世一代の作品ですよ」
信じられなかった。開いた口が塞がらないとは、この事だ。
ヤマメとの付き合いは長い。お互い旧都に住んでいた頃から、良き隣人、良き理解者であったし、どこでも明瞭な態度を取る人気者の彼女の事を私は羨望を覚えていた、それなのに。
もし、ヤマメの言い分が事実なら、それはなんだったのだ。撒き餌とでも言うつもりか。ふざけやがって。
「あ、パルスィ。誤解しないでよ。この変態鬼みたいに閉じ込めたりしないから。ただ、私以外の奴と喋る時は許可取ってね。あとは――」
ヤマメの姿が消えた。いや視界から外れた。勇儀がぶん殴ったのだろう。
「こひゅ……っ」
肺から息の洩れる音が聞こえた。ヤマメのだ。
「随分、舐められたもんだよ。優しくなりすぎた。力の勇儀ともあろうものが、呆れるよ。我ながら」
つかつかと、何の感情もない無表情で、ヤマメの息の洩れた方に歩み寄る。暗がりで見えない事が、余計に怖かった。
重々しい殴打の音が聞こえる。蝋燭の灯り以外の光源がない空間では、勇儀とヤマメが一体どうしているのかを知る方法が、音しかない。
「貴女に何が分かるのさ‼このクソガキ‼好きなら好きといえばよかったじゃないか‼それをこんな箍の外れた事して‼」
「五月蠅い‼」
「何が五月蠅いだ‼そうやって怒鳴ってばかりだから、ダメなんだろうが‼」
「この……っ」
売り言葉に買い言葉、そしてその間に響く殴打音が凄まじい。ヤマメも丁寧な口調が一転して、素のヤマメに近い声色で、なんだか可笑しかった。
「こんな事をして手に入れたって、どうするつもりさ。股でも開かせて鳴かせるのか」
その言葉は最後まで言えなかった。余程癇に障ったのか、勇儀の殴打によって唐突に言葉が止まった。見えはしなかったが。
「黙れってんだよ……」
燭台の近くに戻ってきた勇儀は血まみれだった。恐らく返り血だろう。
「お前さんに分かるかい。苦しくて、我慢してきたんだ。お前さんを傷付けずに、私のものにする。気を使ったよ。酒瓶みたく、いい加減に扱うって訳にゃいかないからね」
所々主語の抜けた言葉遣いでも、言いたいであろう意味くらいは理解できる。要するに、私を手籠めにしたいが故の行動なのだろう。虫唾が走るとはこの事だ。鬼とは思えない遠回りをした上にこんな具合では、どれ程執心されたって靡き様がない。
勇儀が近づいてくる、なんだってあんな気さくな笑みを浮かべていたあの鬼が、こうも醜悪な顔が出来るんだろう。もうあの旧都の気さくな鬼は還ってこない。ここに居るのは、怪談話の鬼だった。
【星熊勇儀】
煽情的な――こんな表現を使うとするなら、今のパルスィを除いて他はない。
いつだって飄々、大きな表情の変化のないパルスィの顔。それが今では、目尻に溜まった涙と、怯えた相貌。私から逃げようと、力の抜けた腕を動かそうとし、腰の抜けた身体に歯噛みしている。
嗚呼、綺麗だよ。汚い土蜘蛛の返り血なんか浴びちゃった私なんかよりゃ、数千倍。緑の双眸も、鶴みたいな身体も。
「こ」
パルスィが口元を歪めて、言葉を発する。あの唇に化粧でも施したいものだ。
「来ないで」
燭台に縋るように、パルスィは後ずさりをする。もしもこの部屋が、灯りに満たされていたなら、パルスィは壁際まで行きたかっただろう。でも出来ない。してくれるならしてほしい。そうすればパルスィは汚い私を見ずに、夜目の利く私だけが綺麗なパルスィを独り占めできる。いや、そんなことも無いか。出来るなら、綺麗な顔ははっきり見たい。
「怖がるなよ。何もしない」
「嘘」
パルスィは、怯えていた。心の底では言いたいことがいくらでもあるのだろうが、恐怖にさえぎられているようだ。現に、私が腕を上げただけで、喉の奥から悲鳴を上げて、頭の上で庇うように両手を交差させた。
「な、なん……なんっ、で」
しゃくり上げた童のように、パルスィは声を上げた。
「私を、こ、こん、なに気にする、のよ、お。私が、なに、したって」
右手で、床板を打ち抜く。乾いた音に、ヒイと悲鳴を上げてパルスィは縮こまる。
何回かそれを繰り返すと、パルスィは頭を抱えてぶるぶると震えだした。これ以上の非日常的な様々を全て忌避するかのように、顔を伏せていた。
「や、やめて……家に、かえ、帰し」
ひっつめにして後ろで結んだ髪を引っ張る。
「やあっ……いやあ、嫌よぅ……助け……」
泣いていた。パルスィの双眸から、止め処ない涙が頬に流れて道を作っていた。
「大丈夫だよ」
「やだァ⋯⋯もう、やめてよ⋯⋯」
頬に手を当てて、涙を掬い取る。ああ、いいな。こんな可愛い顔を、私のものに出来るなんて最高だとは思わないか。
【古明地さとり】
お燐に、起こされてようやく目が覚めた。ホッとした顔をするお燐に、慌てて問いただす。なにか橋姫の周りで変わった事がなかったか。
すぐに異変が分かった。パルスィ宅のモールス通信はきちんと打電されていたが、お燐の返電がなかったせいか、急かす打電が相次いでいる。そのくらいだったが。しかし、この胸騒ぎは、ただ事ではない。
そしてそれが確信に変わるのは、旧都の鬼の証言だった。星熊勇儀が橋姫を屋敷に拉致ったという告げ口だった。元来鬼はこの手の告げ口を好むという事はないが、余程ろくでもない事らしく、当の告げ口した鬼自体もどことなくサバサバしていて、自分の行為に後悔など無いようである。
「ありがとうございました。お礼はまた後日させていただきます」
「いらんよ。こんな事しとうなかったが。礼などもらいとうない」
さとりは急いだ。勇儀の屋敷はこの旧都指折りの豪邸であるし、さとりの家からは近い。
「お燐。ついてきて。少し急ぐわ」
お燐が支度を整えようとしていたが、それを制してさとりは急かした。ここまで僅かな時間であったものの、さとりの頭の中ではある考えがまとまりつつあった。
【水橋パルスィ】
苦しい、苦しい、苦しい。
勇儀の胡坐の上に座れるというのは、並大抵の事ではないのだろうが、私はさっきから喉元の酸っぱい物をぶちまけないようにするのに必死だった。
「どうしたのさパルスィ?あ、あれかな、厠なら出てすぐのとこだよ」
「い、いや、違う。あ、あの、もう離して」
「やだ」
笑ってはいるのに、この問いに関しては全く駄目だ。
「あのさ、さっき助けてとか言ってたけどさ。私から逃げようとか考えない方がいいよ。誰かがパルスィを連れてったとしても渡さないから」
ある意味、ここまでのキチガイじみた行為をするまで愛されるというのは光栄なことかもしれないが、こんなのごめんだ。
「なあ、パルスィ。私はな、お前にいくら蔑まれても手放すつもりはないぞ。大好きだからな」
「大好きなら」
口が震える、一言いうのに重労働だ。
「私を尊重して、自由にしてよ」
「やだ」
「ちょっ……」
さっきまでの体位をやめ、押し倒すようにして勇儀が私の手首を抑えつける。
「きゃっ……」
らしくない声を上げる。勇儀は楽しげに笑っている。くそッ、顔が熱くなるのを感じた。
背中が床に付き、勇儀が覆い被さる。顔がすぐそこにあるが、特に何もできない。頭突きをしても、にやつきながら見下ろしている勇儀を想像するのは、むつかしいことではなかった。
「もうさ、受け入れてよ」
「はあ?」
「だからさ、もういいだろ。私を受け入れてよ、認めてよ。ダメか。なあ、私じゃダメか」
さっきまでの箍の外れた勇儀ではない。笑ってはいるのに楽しげではなかった。悪戯がばれたときに子供が見せる自嘲的な笑みによく似ていた。
「私の事、好きか?」
「ちょっと」
「じゃあ嫌いか?」
「いや、だから」
「はっきりしてよ。曖昧に誤魔化すなよ。なあ、なあ」
ああ、そうか。
こいつは、子供だったんだ。図体は大きいのに、それに心はおっついていない。いや、おっつく必要なんかなかったんだ。
今回だってそうだ。ヤマメのいうように、どうにもしようがあった。それをしなかったのは、こいつらしくなく遠慮して、遠回りして、そして怖くなって。
だから無理にでも、絡めとりたかった。そんな具合なのだろう。
「私は」
そこまで言った時、勇儀が急に前のめりに倒れた。
【古明地さとり】
間にあった、というべきか。橋姫は寝転んで、手足をばたつかせている。大柄な勇儀が覆い被さって、身動きが出来ないらしい。
「ぷあっ」
顔を表して、橋姫は目を丸くしていた。
「助けに来ました。それとも手遅れですか」
「あ、さと、り?」
「ええ、まあ、その。あ、お燐。彼女を担いで。鬼の寝るまに退散と行きましょう」
案外平気そうだったので拍子抜けだ。まあ、何事もなく目出度しなのかもしれない。
暗かったせいで見えなかったが、あそこにはヤマメもいたらしい。私としては橋姫に対しては、それなりの責任を感じていたから助けに行ったが、はっきり言ってあの土蜘蛛には一切興味がなかったので、素で見落としていた。
「どうでもいいです。それにあの鬼もそこまでしませんよ」
私の屋敷で、しょぼくれながら対面のソファに座って向き合っている橋姫に声をかける。
「どうでもいいって、そんな」
「第一、そうだとしてそれを助ける理由がありませんよ。あ、お燐ありがとう」
お燐が、いいタイミングで茶を淹れてくれて間が出来た。
まあ、言ってしまえば奥手どもの壮大な茶番といえなくもない。とはいえあの土蜘蛛が、こうも面倒な考えを抱いていたとは考えもつかなかった。いや、疑心が確信に変わった、ともいえる。
「橋姫」
「はあ」
「貴女、あの二人と、どのくらい居ましたか」
「は?」
「いました?」
橋姫がしどろもどろになりながら、指を折り始める。まあそれなりに長かろうはずだ。その折った指の分だけ、私が保身に走っていたともいえるが。
「まあ、大まかに見積もっても、相当⋯⋯馴染みだし」
「ええ、その通り。そしてもう一つ、あなたの能力。嫉妬を操る、でしたね」
「そうね。とはいっても名目よ。操れた試しがないわ。なにせ嫉妬は醜い感情として扱われている。わざわざ見せる奴もいないわよ」
「ええ。それも確かなのです。ですが、もしあの二人があなたに嫉妬を弄られていたとしたら、どうです」
橋姫が唖然とした表情を見せる。珍しく―――もないか。時計を見ればもうとっくに零時を回っていた。橋姫にとってみれば、今日に起きたことに勝る驚きなんかないだろう。
「まさか。格が違うわよ。嫉妬ってのはね、格下が格上に歯噛みするから起こる感情よ。ないない」
橋姫は笑っていたが口角は引き攣っていた。まるっきり心当たりがない訳ではない事を露見しているようなものだ。
「案外、分からなくもないですがね。白雪姫、知っていますよね。あの物語だって、別にあの悪女は白雪姫なんかほっとけばよいでしょう。でも出来ない、何故か。簡単です。城に住む富豪の彼女は、森で小人と何とか共同生活を送っているような、格下の貧乏な小娘に『嫉妬』していたからではありませんか?」
「まさか⋯⋯そんな」
「もういいでしょう。はっきりさせといた方がいいですよ。どっちにしてもね」
橋姫はポカンとしていた。心を覗きこんでも、成程、ポカンとしている以上の事はない。
私からすれば、両者のもどかしい茶番が、ややもすれば面倒な擦れ違いであることが俯瞰して分かるから、てっきり飄々面の橋姫も、あの鬼の好意以上のナニカに気付いているものだろうと考えていたのだが勘違いだったようだ。
「それで、貴女はどうします?あの鬼の――まあ何というか醜態は割合素でもありますよ。まるっきり貴女の能力の所為というわけでもない」
「え、あ、いや、待ってよ。だって、可笑しくない?なんで私?だって星熊よ?私みたいな非力な元人間なんか引っ掛けるわけ――」
「元人間だから、では?」
橋姫の話に口を挟み、続ける。お燐がいそいそとクッキーを持ってきた。長くなってきた話の、良い口休めになるかもしれない。
「私だってそうですが――どんな芸術品にも、脆さや、不気味さ、といった要素があります。出来のいい氷細工は美しさもさることながら、見る人にスリルを与えるような不安定さがあるものなのです」
「だから、何よ」
「あなたもそれと同じ、というわけです。元人間という不安定な美しさに、あの鬼は惹かれたんじゃないですか。まあ、推測ですがね」
橋姫が唸るように考え込んでしまった。悩んでいるみたいだが、別段勇儀に対して嫌悪感はそれ程ないらしい、ただ怯えてはいるみたいだがそれも然りだろう。あんなことをされたのだし。
「じゃあ、どうすればよかったの?」
「そこは、貴女が考える事ですよ。私の仲介は要らないでしょう」
もちろん、下手に首を突っ込んで、火の粉をかぶるのは御免だというのもある。
「それは――」
「言っときますけど。鬼はもう屋敷にはいませんよ。多分、橋に居ます。貴女は結局、あそこに帰るしかありませんからね」
多分、私の顔は酷く醜いことだっただろう。保身に走り、自己的な事しか考えない、クソみたいなちんけな妖怪でしかないように見えたはずだ。
「⋯⋯そう、なの。じゃあ、その、とりあえず、行ってくるわ」
部屋から出ようとして、ドアを開けると、パルスィは振り返って、口を開いた。
「ありがとう、さとり」
背筋に怖気が走った。パルスィに、ではなく、彼女に礼を言われた自分の汚さを改めて自覚してしまったからだった。
「あ⋯⋯あああああ」
もう駄目だった、酷く汚い自分に吐き気がする。お燐が、私に手を伸ばす。
その手に、白くて綺麗な手に、赤毛の艶やかさに、私は『嫉妬』した。
【星熊勇儀】
最悪、だ。一世一代、まるっきり、らしくない告白をしたけど大失敗に終わってしまった。パルスィは逃げ、腹心だった土蜘蛛も、私から逃げるだろう。
全く今日ほど、自分のダメさ加減に嫌気がさしたことはない。
「なんなんだろうねえ……」
たら、れば、なんて言っても、仕方ないこととは分かっている。でも、自分でも思う。もっと上手く出来たんじゃないか。もっと素直な告白もあっただろう、とは思う。
気づいたら私は橋の上に居た。何のことはない、パルスィの近くに居たがっただけだ。
パキリと音がした。後ろを向くと、橋姫がいた。
会いたい、そんな願いをしていたのに、今度は隠れたいと思った。
「勇儀」
「……何、かな」
パルスィの手は震えていた。怖いのか、私が。当然か。それだけの事はしただろう。
「わ、私は」
パルスィが口を開く。どうしてかな、こんな時でもパルスィは綺麗だと感じる自分がいる。
「なんていうか、その、人の好意が分かんない、っていうか⋯⋯あの、勇儀は、私をどうしたいの」
「モノにしたい。いや、違うな。隣に居て、いつでも視界に置きたい」
もっと言い様がありそうなものだが仕方ない。正直に言えば、こうなるのだ。
「……それくらいなら、いいわ」
耳を疑った。監禁されたあと、そこに戻る。そんなの犬でもあるまいし。
「随分、寛容だね」
「ふふふ、私は元人間よ。そんなのは、慣れてるの」
パルスィが、鼻先まで顔を近づけて微笑む。
ああ、でもやっぱりそうだ。この顔の方が、パルスィらしくて素敵なのかもしれない。
「あ、でもね、それなら条件があるわ」
「なんだって?」
「条件。二人でね、明日ヤマメに謝りに行きましょう」
条件は、やさしかった。
【水橋パルスィ】
病院で、ヤマメに会い、謝罪をした。勇儀は土下座をせんばかりだったが、流石に二人がかりで止めたが。
勇儀に頼んで、席を外してもらった。ベットに座り包帯だらけのヤマメと向き合う。
「それなりの、大団円かね。まあ私もクビではないようだし、代金も星熊様持ちだから、助かるよ」
「ヤマメ」
「何かな」
ヤマメは煙草を咥えて火をつけた。一応禁煙のはずだが、個室ならばれないから安心という事か。
「あの時の言葉は、本当?」
「あの時の⋯⋯ああ、あれか。どうだかね。アンタの解釈で良いんじゃないか?」
どうにもはぐらかされて、それを覆すことは出来そうになかった。
「それよりさ、これから星熊様を頼むよ」
「それはまあ……」
「それならいいや。それならそろそろ帰りなよ。待ちわびているだろうから」
ヤマメはそれ以上話す気はないようだった。病室を出て、地底では珍しい白色基調の建物は、少し目に痛い。
「え……ちょ……さと」
「綺麗……羨ましい」
別の病室でも病人はいるらしい。
病院の前で勇儀は足で地面を馴らしながら立っていた。
「もういいのかい?」
「ええ、じゃあ帰りましょう。どっちに帰ればいいかしら?」
勇儀に向けて、悪戯じみた問いかけをする。
「ああ、じゃあ家に来なよ。茶くらいは出す。嘘じゃないよ」
「分かってるわよ」
勇儀の手を取る。身長差を感じさせるが、この前と違った柔らかい握り心地だった。
心の中はともかく、表面はまともな対応をしているパルパルは口授の設定ぽくて好きです
丁寧に接したら不機嫌になったりする、怒りのポイントがおかしな姐さんもなんとなく妖怪っぽいし、萎縮しながら応対するヤマメが良いです
しかしこいつら三人とも、元は人間が妖怪として認知された連中である事を考えると、地底1〜3ボスにはおかしな縁がありますな