里を離れ、歩いて一刻ほど。川を越えて、ガサガサと獣道をかき分けて歩いていくと、うっすらと明かりが見えてくる。その明かりが見えるなら、知らず知らずのうちにそこまでの道が明らかになる屋台。
それこそが——ミスティア・ローレライの屋台である。
**
「いらっしゃーい」
(その声を聞きながら屋台の前に誂えられた椅子に座る。なかなかしっかりとした作りでこんな狭い屋台には少しもったいない気もする)
取り敢えず
(とまで言った段でもう店主が準備しているようで、何とも言えない気分になる)
熱燗を。あ、後適当に何か一品
「はーい」
(特に意味のない注文に、特に意味のない返答。悪くない)
「お、んー、ああ、人間かい。また来たのか」
(鬼がいる。これは一興)
「あらー、食べられに来たのー」
(妖怪がいる。これもまた、一興)
「だめですよー」
(そう店主が軽く釘を刺してくれる。元々人間が来れるような場所ではないのだけれど、妙な不文律があっていざこざが起こらないようになっている。不思議だ)
「はい、どうぞー」
(徳利を受けっ取った手からじんわりとした温かさが広がる。僕は軽く一杯呷ると、あり得ない量を自分の瓢箪から一気に飲んでいる鬼の方を眺めることに決めた)
「で、最近調子はどうなんだい」
(と、視線を向けられた鬼が話掛けてきた。たしか、以前伊吹萃香と名乗っていた気がする)
ま、そこそこですよ。この秋に倒壊した物件もほとんど修理が終わったようですよ。釘の注文が減りました
「へぇ、そうかい。まあ、人間もよろしくやってるようで何より」
(この屋台で聞いた所だと、下手人は本人らしい。これが鬼たる所以なのだろうか。そう思っていると妖怪の方が話し掛けてくる)
「あら、倒壊させたのはあなたじゃない。まあ、どうでも良いけれど。ところで、これを買わない?」
(何やら紫色のどろどろとしたものがはいったガラス瓶を振りながら、八雲紫と名乗っていた妖怪が薄い笑いを浮かべている)
なんですかそれ
「飲むと元気になる薬よぉ」
ふむ。面白そうですね
「でしょう。通常一一〇文の所、大負けに負けて一貫文よぉ」
言うほど負けてませんよね、それ
(答えて、酒をあおる。美味だ)
「お、酒の類いかい?」
(とは鬼の弁。この鬼の頭の九割九分は酒で出来ているに違いない)
「似たような物よ? 飲む?」
「いいね。少しくれるかい」
「はい」
(そういいつつ、得体の知れない無限に物がはいっている謎の空間から瓶をもう一つ妖怪が取り出して、鬼に渡す。金は取らないみたいだ)
「はい、八目鰻の蒲焼きだよー」
いいですね。またこれですか
「む、文句があると?」
いえ、気に入ってますよ?
「まあ、ちゃんと注文してくれれば、注文に沿ったものを作りますよー」
(そういって、手を動かす店主。その横で鬼が先ほどの液体を煽っている。見るからにドロドロとしていてまずそう、もとい、かなり前衛的だ)
「っくはー。何だこれ。なんだか、金属のような、酒のような、樹液のような、よくわからん味だな」
「そりゃそうよ。特製よ」
(何が”そりゃそう”なのかは分からないが、みるみる鬼の角が紫色になっていっているあたり、碌でもなさそうだ)
「それで、結局、あなたはいるの?」
僕は、あー、遠慮しておきます
「あら、残念」
「あろ、なんろか、おかしいな。酔っぱらえ、ってことはないはずなんらけろ」
(鬼の呂律がまるでまわっていない。鬼でなくて人間が飲んでいたなら、一体どうなることやら)
「ふぎゃー」
あ。キクラゲでなんか作って下さい
「はいよー」
(鬼が高く低く怪しい声を出し続けている。たまにあるこういった不可思議さがこの屋台の面白さだと僕は思っている)
「これは八意さんを呼んだ方が良いかしらね」
またですか……
(とは店主の言。いつも通りになりつつあるので、諦めた方がきっと胃には良い、そう思うのは僕にとっては他人事だからか)
「じゃあ、ちょっと呼ぶわね」
(そういって顔だけを例の空間に突っこむ。顔と空間の境が黒がかっていて、向こう側がどうなっているのか興味深くなる色になっている)
「これで良しっと」
相変わらずそれ、どうなってるんですか?
「あら、聞いちゃう?」
いや、前々から不思議ではあったんですが、聞いたことなかったですし
「これはねー、茶菓子を無限に取り出せる空間なのよ」
じゃあ、ちょっと季節外れな桜餅が欲しいんですが
「色、形、種類はご指定になれません」
どこの河童ですか。というか、まともに言う気はないんですね
「勿論」
(そうこうしていると、遠くから大人数の足音が近づいてきた)
「それにしてもこうなるなんてね」
(そういって暖簾をくぐってきたのは医者だ。最近は人里でもこの人に世話になることがあるとかないとか。まあ、人里の医者とは、いつの間にか師弟みたいになって上手くやっているらしい)
「いらっしゃい」
こんばんは
「こんばんは。これは私の方で回収しておきますね。……はぁ、鬼でもいけると思ったんだけど。ひょっとして、これも成功の一形態だったりするのかしら。鈴仙!」
(パン、と手を叩くと兎耳の少女が暖簾をめくってもう一匹の兎耳少女と鬼を担架に積み込む。以前酷く酔いつぶれた客が出たときに彼女らが呼ばれていたことがあったが、鮮やかな手際には驚かされる)
(少女は若干おどおどしながらこちらに会釈すると暖簾を払って闇に消えていった。薬を売っているときにはあまり感じなかったけれど、あるいは、人見知りなのかもしれない)
「なにか注文あったりします?」
「ああ、じゃあ、一杯頂いていこうかな」
「はいな」
「あれ? あなたはアレを飲んでないの?」
(騒ぎの間に出された鶏とキクラゲを合わせた料理を摘んでいた僕に気づいた竹林の医者が声をかけてくる)
飲んでませんが?
「飲みなさい」
いや、お高いんでしょう?
「え? ……なるほど。八雲さん」
「はいはい、分かったわよご免なさいね。騙してみるのも面白いかと思ったのに」
「ちなみにいくらだって?」
一貫文だそうです
「なるほど。売る段になったら、私もそれで売ろうかしら。ぼろ儲けね」
原価はいかほどで?
「秘密。まあ、今回はただで良いって言っておいたんだけどね。いくら在庫の管理が楽になるからって、任せるべきじゃなかったかしら」
「あら、失礼ね。これ以外にはそんなことしないわよぉ」
(人を物扱いとは恐れ入る。いや、本来恐るべき大妖怪なのだろうが)
今となっては、いくらただでも、飲むのには抵抗がありますがね
「大丈夫。何かあったら責任持って原状復帰はさせるから」
あはは、そうは言いますがね
「分かったわ。無理矢理飲まされるのと、自分から飲むのと、そっぽを向いた隙に飲み物に混入させられるのから選びなさい」
……どうあっても飲めと?
「飲んでもらわなくても大丈夫よ?」
なら、
「無理矢理飲ませる、って言ったじゃない」
っ。いいでしょう。飲んでやろうじゃないですか
「あら、ありがと」
(ちょっとした抗議のつもりで軽く睨め付ける。尤も、その昔村でこの人に声をかけた男がどうなったか、を考えれば、仮令取っ組み合いでも勝てはしないのだろうが)
もし、何かあったら、妹には伝えといて下さい
「え、いや、ちょっと? そんな役目はご免なんですけど」
「大丈夫。一両日での原状復帰を約束するから」
(店主を眼力で或いは諦観で押さえつけて、笑顔で瓶を差し出してくる)
「じゃあ、どうぞ。死なないでね」
冗談でも言って良いことと悪いことがある気がしますよ……
(これ以上色々と考えないように、やけっぱちな心持ちで一気に喇叭飲みする。あんかけの様などろりとした感触の青臭さと鉄っぽい香りを併せ持った液体をのどの奥に押し込む)
ふう。意外とすんなり飲めましたね。身体も特に変化もない、気がしますよ? 少なくともおいしくはなかったですが。
「わたしから見ても大丈夫ね。意外なことに」
「意外とは失礼な。これでも医者ですよ? それに、薬に文句を言わない。良薬は口に苦し、と言うでしょう」
「さっきのあれを見ても、なおそう言えると?」
「鬼と人は違います」
(さっきまで同じ効果が出ると思っていた、と言っていた口が言うとは思えない台詞だ。全く、と声に出さずに悪態をつく)
「さて、じゃあ、薬が効いているかどうかのテストをするわね。9匹の妖精が999発弾を出す弾幕ごっこを99999戦したとすると、弾は累計で何発?」
簡単ですね。899091009発です
(ん? 簡単?)
「効いているようで何より」
「へえ、たいした効果ね。尤も実際問題、十万戦近くも弾幕ごっこをしたことがある妖精なんていないでしょうけど」
「まあ、問題なんてえてしてそういったものでしょう」
にしても、よく考えてみると凄い桁数ですね。これが出来るようになると言うのは、確かに面白い効果ですね
(同時に大妖怪が宣っていた、元気になる薬、というのも適当な嘘だ、と言うことだ。けれど、はぐらかされる)
「もう少し難しい問題を試してみても良いかもしれないけど、問題を急に考えるのも骨ね。今度うちまで来てくれたりするかしら」
お断りです
「他力本願で頭が良くなる気分をもう一度味わってみたくはない?」
(興味がない、といえば嘘になる。危険度に対して十分に恩恵があるなら、いいかとも思う)
ふむ。ちなみに効果の持続時間はいかほどですか
「そうね。鬼のこともあるし、何とも言えないけれど、5分くらいじゃないかしら」
(やはり、というべきか大して長続きはしないようだ。割と長時間に及ぶ仕事が多い僕にとって、利益がある、とは言いがたい)
じゃあやっぱりお断りです
「持続時間を長くしすぎるとただの村八分生産薬になっちゃうから仕様がないのよ」
「それはその通りね。簡単な物事は人を駄目にしてしまうから」
「妖怪が飲んだ場合でも同じなんですかねぇ」
(ふと、こぼれるように店主が口にする)
「あら、試してみます?」
「えっと、いえ。あ、そうだ、お代は要らないので、こちらをどうぞ」
(何か思い出したかのように新たに皿を店主が置いていく。医者が当たり前のように、皿から豆をひょいと取り、手で玩ぶ)
「鬼にとってはむしろ利発こそが酩酊なのかもね」
と、言いますと?
「あの種族はいつも半ば酔っている様な物じゃない……」
(話が切れてしまって、湿気た空気が広がる。僕は自分からどうこうと話にいく質ではないから、この空気を変えることも出来ない。ただ静寂の向こうに、最近見かけなくなった妖精達の騒がしい様を幻視する)
「蛙焼きって今日はまだあるのかしら?」
「大丈夫ですよー」
(大妖怪が場の雰囲気が落ち着いたのを見てとったのか注文にかかる。蛙は皮をむいて、火を通したものが里にもある。この店では店主が店主なので、とり肉を扱わない。その為か、里の店に入ったときに比べて見かけることが多い注文だ)
(どこからか鴉に似た濁った印象の鳴き声、食器がふれあう軽妙な音、ざわめく木々、きしむ屋台。それらだけの環境を医者が立ち上がって崩す)
「じゃあ、ごちそうさま。私はもう帰るわ。八雲さんは、残りの分をよろしく御願いします」
「はいはい、分かっておりますわ」
(分かっている、と言う返事の仕方ではない。が、それに頷いて、医者は小さく手を振った)
「ありがとうございましたー」
(和やかな声と、暖簾を捲る音を最後に、またあたりは静かになる。出されたものも一通りなくしてしまった)
(その折、洗いものがなくなったのか、店主の手が止まった。ちょうどいい頃合いだろう、と席を立つ)
じゃあ、そろそろ帰ります
「ありがとうございました」
(「はいはい。じゃあねー」等という、いつもの軽い返事を期待していた節もあったのに、今日はそうではなかった。気分なのだろうか)
「また来なさい。あなたは面白いから」
はは、光栄です
(大妖怪の方も帰り際にはしたことのないからかいを仕掛けてくる。一歩親しくなれた、そんな気がして気分が上向く)
(そして、僕は、暖簾をくぐった)
**
家路につく。誰と関わることもない家に向かう路に。
家族? そんなものはとうの昔に消え去った。僕にそれがあるとするなら、酒の席での冗談か、或いは、狂気の賜物か。
明日もまた、誰とも関わることがない日が始まる。里人は私の家に誂えた受け口に注文書やら、修理する品物と代金を投げ込み、僕はそれを作ったり、直したりして主に夜間に届けにいく。
今日も家に帰り着いたら、二軒の家に品物を届けにいく。それから、少し仕事を片付けて、朝方に寝る。
僕は人と話すこと好まない。だから、これでいいのだ。こんな生活を続けて五年も経ったろうか。里の寄り合いにも暫く出ないでいたら、来る必要はない、と明記した書状がいつだったか届いたのを思い出す。そのときが里にとって僕が機能になった瞬間だったのだろうか。思えばあの屋台を見つけたのもその頃だったかもしれない。
薬の所為だろうか。頭が熱い。しかし、いわゆる体温が上がった感覚ではない。熱いのは口の上辺りだろうか。普段は決して感じない感覚に戸惑う。
そんな頭を抱えながら、家に帰り、品物を届け、再び家に帰った頃には鶏がやかましくなる頃合いだった。今や、熱は全身に広がっている。震える指先で家の扉を開け、地に張り付きそうなほどに重い足を前に出す。後ろ手に扉を閉め、床に倒れ臥す。
もう大きくは見開けない目の前に黒がかった空間が現れて、曰く、
「はずれたあなたはこっち側。いらっしゃい」
意識が霧散するまでの僅かな間によぎったのは、人がいなかったあの屋台のことと、作り出してきたけれど、どこへ行ったのかも知らない物達へのただならない愛情だった。
それこそが——ミスティア・ローレライの屋台である。
**
「いらっしゃーい」
(その声を聞きながら屋台の前に誂えられた椅子に座る。なかなかしっかりとした作りでこんな狭い屋台には少しもったいない気もする)
取り敢えず
(とまで言った段でもう店主が準備しているようで、何とも言えない気分になる)
熱燗を。あ、後適当に何か一品
「はーい」
(特に意味のない注文に、特に意味のない返答。悪くない)
「お、んー、ああ、人間かい。また来たのか」
(鬼がいる。これは一興)
「あらー、食べられに来たのー」
(妖怪がいる。これもまた、一興)
「だめですよー」
(そう店主が軽く釘を刺してくれる。元々人間が来れるような場所ではないのだけれど、妙な不文律があっていざこざが起こらないようになっている。不思議だ)
「はい、どうぞー」
(徳利を受けっ取った手からじんわりとした温かさが広がる。僕は軽く一杯呷ると、あり得ない量を自分の瓢箪から一気に飲んでいる鬼の方を眺めることに決めた)
「で、最近調子はどうなんだい」
(と、視線を向けられた鬼が話掛けてきた。たしか、以前伊吹萃香と名乗っていた気がする)
ま、そこそこですよ。この秋に倒壊した物件もほとんど修理が終わったようですよ。釘の注文が減りました
「へぇ、そうかい。まあ、人間もよろしくやってるようで何より」
(この屋台で聞いた所だと、下手人は本人らしい。これが鬼たる所以なのだろうか。そう思っていると妖怪の方が話し掛けてくる)
「あら、倒壊させたのはあなたじゃない。まあ、どうでも良いけれど。ところで、これを買わない?」
(何やら紫色のどろどろとしたものがはいったガラス瓶を振りながら、八雲紫と名乗っていた妖怪が薄い笑いを浮かべている)
なんですかそれ
「飲むと元気になる薬よぉ」
ふむ。面白そうですね
「でしょう。通常一一〇文の所、大負けに負けて一貫文よぉ」
言うほど負けてませんよね、それ
(答えて、酒をあおる。美味だ)
「お、酒の類いかい?」
(とは鬼の弁。この鬼の頭の九割九分は酒で出来ているに違いない)
「似たような物よ? 飲む?」
「いいね。少しくれるかい」
「はい」
(そういいつつ、得体の知れない無限に物がはいっている謎の空間から瓶をもう一つ妖怪が取り出して、鬼に渡す。金は取らないみたいだ)
「はい、八目鰻の蒲焼きだよー」
いいですね。またこれですか
「む、文句があると?」
いえ、気に入ってますよ?
「まあ、ちゃんと注文してくれれば、注文に沿ったものを作りますよー」
(そういって、手を動かす店主。その横で鬼が先ほどの液体を煽っている。見るからにドロドロとしていてまずそう、もとい、かなり前衛的だ)
「っくはー。何だこれ。なんだか、金属のような、酒のような、樹液のような、よくわからん味だな」
「そりゃそうよ。特製よ」
(何が”そりゃそう”なのかは分からないが、みるみる鬼の角が紫色になっていっているあたり、碌でもなさそうだ)
「それで、結局、あなたはいるの?」
僕は、あー、遠慮しておきます
「あら、残念」
「あろ、なんろか、おかしいな。酔っぱらえ、ってことはないはずなんらけろ」
(鬼の呂律がまるでまわっていない。鬼でなくて人間が飲んでいたなら、一体どうなることやら)
「ふぎゃー」
あ。キクラゲでなんか作って下さい
「はいよー」
(鬼が高く低く怪しい声を出し続けている。たまにあるこういった不可思議さがこの屋台の面白さだと僕は思っている)
「これは八意さんを呼んだ方が良いかしらね」
またですか……
(とは店主の言。いつも通りになりつつあるので、諦めた方がきっと胃には良い、そう思うのは僕にとっては他人事だからか)
「じゃあ、ちょっと呼ぶわね」
(そういって顔だけを例の空間に突っこむ。顔と空間の境が黒がかっていて、向こう側がどうなっているのか興味深くなる色になっている)
「これで良しっと」
相変わらずそれ、どうなってるんですか?
「あら、聞いちゃう?」
いや、前々から不思議ではあったんですが、聞いたことなかったですし
「これはねー、茶菓子を無限に取り出せる空間なのよ」
じゃあ、ちょっと季節外れな桜餅が欲しいんですが
「色、形、種類はご指定になれません」
どこの河童ですか。というか、まともに言う気はないんですね
「勿論」
(そうこうしていると、遠くから大人数の足音が近づいてきた)
「それにしてもこうなるなんてね」
(そういって暖簾をくぐってきたのは医者だ。最近は人里でもこの人に世話になることがあるとかないとか。まあ、人里の医者とは、いつの間にか師弟みたいになって上手くやっているらしい)
「いらっしゃい」
こんばんは
「こんばんは。これは私の方で回収しておきますね。……はぁ、鬼でもいけると思ったんだけど。ひょっとして、これも成功の一形態だったりするのかしら。鈴仙!」
(パン、と手を叩くと兎耳の少女が暖簾をめくってもう一匹の兎耳少女と鬼を担架に積み込む。以前酷く酔いつぶれた客が出たときに彼女らが呼ばれていたことがあったが、鮮やかな手際には驚かされる)
(少女は若干おどおどしながらこちらに会釈すると暖簾を払って闇に消えていった。薬を売っているときにはあまり感じなかったけれど、あるいは、人見知りなのかもしれない)
「なにか注文あったりします?」
「ああ、じゃあ、一杯頂いていこうかな」
「はいな」
「あれ? あなたはアレを飲んでないの?」
(騒ぎの間に出された鶏とキクラゲを合わせた料理を摘んでいた僕に気づいた竹林の医者が声をかけてくる)
飲んでませんが?
「飲みなさい」
いや、お高いんでしょう?
「え? ……なるほど。八雲さん」
「はいはい、分かったわよご免なさいね。騙してみるのも面白いかと思ったのに」
「ちなみにいくらだって?」
一貫文だそうです
「なるほど。売る段になったら、私もそれで売ろうかしら。ぼろ儲けね」
原価はいかほどで?
「秘密。まあ、今回はただで良いって言っておいたんだけどね。いくら在庫の管理が楽になるからって、任せるべきじゃなかったかしら」
「あら、失礼ね。これ以外にはそんなことしないわよぉ」
(人を物扱いとは恐れ入る。いや、本来恐るべき大妖怪なのだろうが)
今となっては、いくらただでも、飲むのには抵抗がありますがね
「大丈夫。何かあったら責任持って原状復帰はさせるから」
あはは、そうは言いますがね
「分かったわ。無理矢理飲まされるのと、自分から飲むのと、そっぽを向いた隙に飲み物に混入させられるのから選びなさい」
……どうあっても飲めと?
「飲んでもらわなくても大丈夫よ?」
なら、
「無理矢理飲ませる、って言ったじゃない」
っ。いいでしょう。飲んでやろうじゃないですか
「あら、ありがと」
(ちょっとした抗議のつもりで軽く睨め付ける。尤も、その昔村でこの人に声をかけた男がどうなったか、を考えれば、仮令取っ組み合いでも勝てはしないのだろうが)
もし、何かあったら、妹には伝えといて下さい
「え、いや、ちょっと? そんな役目はご免なんですけど」
「大丈夫。一両日での原状復帰を約束するから」
(店主を眼力で或いは諦観で押さえつけて、笑顔で瓶を差し出してくる)
「じゃあ、どうぞ。死なないでね」
冗談でも言って良いことと悪いことがある気がしますよ……
(これ以上色々と考えないように、やけっぱちな心持ちで一気に喇叭飲みする。あんかけの様などろりとした感触の青臭さと鉄っぽい香りを併せ持った液体をのどの奥に押し込む)
ふう。意外とすんなり飲めましたね。身体も特に変化もない、気がしますよ? 少なくともおいしくはなかったですが。
「わたしから見ても大丈夫ね。意外なことに」
「意外とは失礼な。これでも医者ですよ? それに、薬に文句を言わない。良薬は口に苦し、と言うでしょう」
「さっきのあれを見ても、なおそう言えると?」
「鬼と人は違います」
(さっきまで同じ効果が出ると思っていた、と言っていた口が言うとは思えない台詞だ。全く、と声に出さずに悪態をつく)
「さて、じゃあ、薬が効いているかどうかのテストをするわね。9匹の妖精が999発弾を出す弾幕ごっこを99999戦したとすると、弾は累計で何発?」
簡単ですね。899091009発です
(ん? 簡単?)
「効いているようで何より」
「へえ、たいした効果ね。尤も実際問題、十万戦近くも弾幕ごっこをしたことがある妖精なんていないでしょうけど」
「まあ、問題なんてえてしてそういったものでしょう」
にしても、よく考えてみると凄い桁数ですね。これが出来るようになると言うのは、確かに面白い効果ですね
(同時に大妖怪が宣っていた、元気になる薬、というのも適当な嘘だ、と言うことだ。けれど、はぐらかされる)
「もう少し難しい問題を試してみても良いかもしれないけど、問題を急に考えるのも骨ね。今度うちまで来てくれたりするかしら」
お断りです
「他力本願で頭が良くなる気分をもう一度味わってみたくはない?」
(興味がない、といえば嘘になる。危険度に対して十分に恩恵があるなら、いいかとも思う)
ふむ。ちなみに効果の持続時間はいかほどですか
「そうね。鬼のこともあるし、何とも言えないけれど、5分くらいじゃないかしら」
(やはり、というべきか大して長続きはしないようだ。割と長時間に及ぶ仕事が多い僕にとって、利益がある、とは言いがたい)
じゃあやっぱりお断りです
「持続時間を長くしすぎるとただの村八分生産薬になっちゃうから仕様がないのよ」
「それはその通りね。簡単な物事は人を駄目にしてしまうから」
「妖怪が飲んだ場合でも同じなんですかねぇ」
(ふと、こぼれるように店主が口にする)
「あら、試してみます?」
「えっと、いえ。あ、そうだ、お代は要らないので、こちらをどうぞ」
(何か思い出したかのように新たに皿を店主が置いていく。医者が当たり前のように、皿から豆をひょいと取り、手で玩ぶ)
「鬼にとってはむしろ利発こそが酩酊なのかもね」
と、言いますと?
「あの種族はいつも半ば酔っている様な物じゃない……」
(話が切れてしまって、湿気た空気が広がる。僕は自分からどうこうと話にいく質ではないから、この空気を変えることも出来ない。ただ静寂の向こうに、最近見かけなくなった妖精達の騒がしい様を幻視する)
「蛙焼きって今日はまだあるのかしら?」
「大丈夫ですよー」
(大妖怪が場の雰囲気が落ち着いたのを見てとったのか注文にかかる。蛙は皮をむいて、火を通したものが里にもある。この店では店主が店主なので、とり肉を扱わない。その為か、里の店に入ったときに比べて見かけることが多い注文だ)
(どこからか鴉に似た濁った印象の鳴き声、食器がふれあう軽妙な音、ざわめく木々、きしむ屋台。それらだけの環境を医者が立ち上がって崩す)
「じゃあ、ごちそうさま。私はもう帰るわ。八雲さんは、残りの分をよろしく御願いします」
「はいはい、分かっておりますわ」
(分かっている、と言う返事の仕方ではない。が、それに頷いて、医者は小さく手を振った)
「ありがとうございましたー」
(和やかな声と、暖簾を捲る音を最後に、またあたりは静かになる。出されたものも一通りなくしてしまった)
(その折、洗いものがなくなったのか、店主の手が止まった。ちょうどいい頃合いだろう、と席を立つ)
じゃあ、そろそろ帰ります
「ありがとうございました」
(「はいはい。じゃあねー」等という、いつもの軽い返事を期待していた節もあったのに、今日はそうではなかった。気分なのだろうか)
「また来なさい。あなたは面白いから」
はは、光栄です
(大妖怪の方も帰り際にはしたことのないからかいを仕掛けてくる。一歩親しくなれた、そんな気がして気分が上向く)
(そして、僕は、暖簾をくぐった)
**
家路につく。誰と関わることもない家に向かう路に。
家族? そんなものはとうの昔に消え去った。僕にそれがあるとするなら、酒の席での冗談か、或いは、狂気の賜物か。
明日もまた、誰とも関わることがない日が始まる。里人は私の家に誂えた受け口に注文書やら、修理する品物と代金を投げ込み、僕はそれを作ったり、直したりして主に夜間に届けにいく。
今日も家に帰り着いたら、二軒の家に品物を届けにいく。それから、少し仕事を片付けて、朝方に寝る。
僕は人と話すこと好まない。だから、これでいいのだ。こんな生活を続けて五年も経ったろうか。里の寄り合いにも暫く出ないでいたら、来る必要はない、と明記した書状がいつだったか届いたのを思い出す。そのときが里にとって僕が機能になった瞬間だったのだろうか。思えばあの屋台を見つけたのもその頃だったかもしれない。
薬の所為だろうか。頭が熱い。しかし、いわゆる体温が上がった感覚ではない。熱いのは口の上辺りだろうか。普段は決して感じない感覚に戸惑う。
そんな頭を抱えながら、家に帰り、品物を届け、再び家に帰った頃には鶏がやかましくなる頃合いだった。今や、熱は全身に広がっている。震える指先で家の扉を開け、地に張り付きそうなほどに重い足を前に出す。後ろ手に扉を閉め、床に倒れ臥す。
もう大きくは見開けない目の前に黒がかった空間が現れて、曰く、
「はずれたあなたはこっち側。いらっしゃい」
意識が霧散するまでの僅かな間によぎったのは、人がいなかったあの屋台のことと、作り出してきたけれど、どこへ行ったのかも知らない物達へのただならない愛情だった。
もう少し評価されても良いと思うのですが。