アルコールを口にしている時の私に燐は近づかない。
酒が嫌いなのではない、酔っ払いが嫌いなのだ。過去に無体を働かれたというトラウマは見えないから、単に嫌っているだけだろう。
本人は気にならないむせかえるようなアルコール臭も、素面だと不快感ばかりが鼻につくものだ。体温で温められているのか、杯の中にあるときよりも存在を主張してくる。獣の嗅覚なら鼻が曲がりかねない拷問だ。
それでいて酔っ払いは馴れ馴れしい。遠慮という字に爪をたて、自制心に屁をこく生き物だ。
しっぽをつかまれ、至近距離で酒臭い息を吐かれでもしたらたまったものじゃないというのが彼女の言い分だろう。
猫撫で声を出しても、またたびで釣ろうとしても、髭を垂れ下げたまま一瞥されて終わり。
「灼熱地獄の様子をみてこないと……」
などと適当な理由をつけ、足早に去っていく。
普段はにゃーごにゃーご鳴いて足元にまとわりついてくるというのに、とんだ手のひら返しである。
アルコールを口にしている時の私に燐は近づかない。
それでも今日も私は酒を飲む。
台所にいけばいくらでもおあつらえ向きの切子グラスや瀬戸物の器が転がっているが、そこは横着をして、引き出しのなかのウィスキーと一緒に仕舞っていたグラスを使った。
琥珀の変わりに踊る透明の液体を横に置いて、鬼が手土産に置いて行った焼酎を口にする。何年前に貰ったものかも覚えていないが、味は悪くはない。慣れない酒だと敬遠していたせいで、今日まで残してしまったが、一度封をあげると止められない止まらない。ついつい杯を重ねてしまう。一人酒の悪いところだ。おしゃべりに口を休ませる暇がないから、手持無沙汰な口に酒やつまみを押し込むしかなかった。
「っぐふっぇ!ぶっへ!」
杯の傾きが悪かったらしい。アルコールが舌の上を滑るように流れ、喉に叩きこまれる。ゲホゴホとむせると、鼻に入ったのかツンと痛かった。少女らしからぬ声をあげて咳き込む。見咎める人間も妖もいないのだから気楽なものだ。
酒に脳みそをぐずぐずに溶かされているような心地がする。
一口含むごとに鼻を抜けていくアルコールに鼻はとうに馬鹿になっていた。ついでに舌も馬鹿になっていた。普段なら大事に齧る干し肉は二口で消え、川魚の煮つけはグラス一杯ももたなかった。味わうという選択肢がすっぽり抜け落ちて、身体が塩分を欲するままに貪ったのだった。
酒瓶にはまだまだアルコールは詰まっている。これはゆゆしき事態だった。
熱を帯びて鈍くなった二つの目で部屋を見回すが、つまみになりそうなものはない。
「だれかいるー?」
扉に向かって叫んでみたが、答えるものはなかった。週末この時間帯に私が酒を口にするのは地霊殿では周知の事実だった。よっぱらいを嫌うのは燐に限った話ではなかったようだ。シンとした静寂が耳に痛い。
ペット達のそっけなさにぷりぷりしつつ、次の一杯を注ぐ。
冷たい世間に呑まずにはいられない。尻は床下暖房でぽかぽかだけれども。
ウィスキーグラスに焼酎を注いで、ぐびりと一息で呷った。口がますます固形物を欲して寂しくなる。悪循環。
「ふむ」
誰もいやしないのに、気取って顎を撫でた。
私自らうってでるしかあるまい。つまみを求めて凱旋だ。酔っ払いがつまみを求めて徘徊することくらい地底では常識なのだから。
「おんや」
台所でしけったせんべいと乾燥しいたけを睨みつけていると、第三の目がばつの悪そうな声を拾った。
さとりさま。
振り向かなくてもそこに誰がいるのかわかった。声帯を使わない思念の凛とした声に私はにんまりと笑った。
私のお気に入り。まっ黒のかわいこちゃん。
舌を喜ばせるだけが酒肴ではない。飛んで火にいる夏の虫とはこのことだ。
夏の夜の柳のように人恋しくて、誰かを抱き締めたかった。愛でたかったのだ。
「りん、りん、お燐ー」
唇を舐めて湿らせた声に、黒猫の背がびくりと強張った。
「喉が乾いたのですか?水を飲みに来たのですねえ」
「さとり様のお邪魔はいたしません、すぐ部屋にもどり……」
「まあまあそう言わず」
踵を返そうとした燐の後ろ脚を掴んで引きとめた。しっぽを掴まなかったのは一欠片残った理性のたまものだが、彼女はきっと褒めてはくれないだろう。
さとりさま、やめてやめて。
拒絶の声が聞こえるが気にしない。いつもは手の届く範囲からするりと逃げてしまう彼女の見せた隙を最大限に活用していく所存である。もふもふの刑である。
そっけないペットの後ろ脚を引きずり腕の中に無理やり納めた。
袖から出た露出部分に触れるふわふわした毛が心地よかった。
燐を不吉な黒猫と忌み嫌う馬鹿はいるが、刮目して見よ!この艶やかなビロードの毛並みを!
丁寧に梳かれた毛はノミダニしらず。毎日ちゃんと食べているから毛には程よい油がのって輝いている。
濡羽色と言うのだろうか。夜闇の僅かな明かりさえも反射して主張する黒以上の美しい色を私は知らない。
「お燐りんはほんっと綺麗ですねぇ!」
引き寄せた手の中のぬくもりに口づけた。毛の何本かが唇にくっついたけど気にはならなかった。
ふぎゃ!と踏まれた時のような声を燐はだした。
まったく失礼な猫である。
酔ってる!さとりさま、酔ってる!嫌!
「嫌って何がですかー?」
酒臭いからか!と燐の毛に顔を埋めて左右に振った。声にならない悲鳴があがった。
じたばた抵抗するが、私にがっしりと腹を押さえつけられて、彼女の前足は空を駆けただけだった。
「嫌も嫌も好きのうちよねえ」
普段は地面についていて、眺めることのできない肉きゅうを堪能する。
まっ黒の子、赤茶色の子、色々いるが、燐のは綺麗なピンク色。毛並みとのコントラストが美しい。温かく弾力のある感触に、ささくれ立った心が癒される。
よっぱらい!このよっぱらい!
罵倒されるが気にならない。彼女は心の声さえも鈴を転がしたようで、第三の目に心地よかった。
「かわいいわ、お燐」
平時では恥ずかしくってできない猫可愛がりも、褒め言葉も、今は怖くない。思ったまま、心のままに。至らない主人である私を愛してくれる彼女に好意を示せる。
燐を床に転がして、仰向けにさせた。動物の嫌う無防備で屈辱的な格好だったが、飼い主の私なら許される。お腹の薄い毛をわしゃわしゃと撫でた。
さらなるぷにぷにを求め、彼女の身体をまさぐった。
指先が探り当てた猫のおっぱいを摘む。ハムスターのしっぽみたいな弾力があって、そこだけ毛が生えていなかった。つるっとした肌。ぷにぷにといくら触っていても飽きることがない。
親指と人差し指の腹で潰せばきゅうきゅう愛猫が鳴いた。
やだやだ!
「ただのスキンシップよ」
ここにいるのは一人の呑んだくれ。地霊殿の主にして、ペット達を第三の目で尊敬される厳格なさとり妖怪は休業中だ。私が贔屓しない公平な人物などとは口が裂けても言えないが、なんの後ろめたさもなくただ一匹を愛でるのは脳が溶けてでもいないと私には無理だ。
「好きよ、私の可愛いお燐」
濡れた鼻先をぞろりと舐めあげると、黒猫の細い腰が震えた。
パン!と乾いた音が室内に響いた。
一瞬の間をおいて火のように火照る頬を手のひらでおさえると、赤いおさげが視界に飛び込んでくる。彼女は怨霊を飲み込んで消化不良を起こしたように、ぶるぶると身体を震わせていた。いつもは弧を描いている口元はへの字に曲げられていて、噛んでいるのか唇は半分しか見えない。
「さとり様は」
廃墟のような切なさを湛えた瞳が私を見上げていた。
「さとり様は心が読めるのにちっともあたいの気持ちをわかってくれない」
あたいがいつ、酒臭いからという理由でさとり様を嫌がりましたか?馴れ馴れしさを厭いましたか?
「お燐」
「酔っ払いなんて嫌いです」
あたいが嫌だったのは酔った時だけさとり様が――。
力の抜けた腕を振り払い、彼女は床に丸まると小さな身体を揺らす。
自分の腕に顔をうずめて、嗚咽を漏らした。床にこぼれる水滴。
湖面の月をすくい上げた子供のように手にしたものの儚さを嘆いていた。
「あたいの気持ちをわかってくれない酔っ払いなんて大嫌いです」
いつも好きと言ってくれる声で彼女は正反対のことを口にした。
酒が嫌いなのではない、酔っ払いが嫌いなのだ。過去に無体を働かれたというトラウマは見えないから、単に嫌っているだけだろう。
本人は気にならないむせかえるようなアルコール臭も、素面だと不快感ばかりが鼻につくものだ。体温で温められているのか、杯の中にあるときよりも存在を主張してくる。獣の嗅覚なら鼻が曲がりかねない拷問だ。
それでいて酔っ払いは馴れ馴れしい。遠慮という字に爪をたて、自制心に屁をこく生き物だ。
しっぽをつかまれ、至近距離で酒臭い息を吐かれでもしたらたまったものじゃないというのが彼女の言い分だろう。
猫撫で声を出しても、またたびで釣ろうとしても、髭を垂れ下げたまま一瞥されて終わり。
「灼熱地獄の様子をみてこないと……」
などと適当な理由をつけ、足早に去っていく。
普段はにゃーごにゃーご鳴いて足元にまとわりついてくるというのに、とんだ手のひら返しである。
アルコールを口にしている時の私に燐は近づかない。
それでも今日も私は酒を飲む。
台所にいけばいくらでもおあつらえ向きの切子グラスや瀬戸物の器が転がっているが、そこは横着をして、引き出しのなかのウィスキーと一緒に仕舞っていたグラスを使った。
琥珀の変わりに踊る透明の液体を横に置いて、鬼が手土産に置いて行った焼酎を口にする。何年前に貰ったものかも覚えていないが、味は悪くはない。慣れない酒だと敬遠していたせいで、今日まで残してしまったが、一度封をあげると止められない止まらない。ついつい杯を重ねてしまう。一人酒の悪いところだ。おしゃべりに口を休ませる暇がないから、手持無沙汰な口に酒やつまみを押し込むしかなかった。
「っぐふっぇ!ぶっへ!」
杯の傾きが悪かったらしい。アルコールが舌の上を滑るように流れ、喉に叩きこまれる。ゲホゴホとむせると、鼻に入ったのかツンと痛かった。少女らしからぬ声をあげて咳き込む。見咎める人間も妖もいないのだから気楽なものだ。
酒に脳みそをぐずぐずに溶かされているような心地がする。
一口含むごとに鼻を抜けていくアルコールに鼻はとうに馬鹿になっていた。ついでに舌も馬鹿になっていた。普段なら大事に齧る干し肉は二口で消え、川魚の煮つけはグラス一杯ももたなかった。味わうという選択肢がすっぽり抜け落ちて、身体が塩分を欲するままに貪ったのだった。
酒瓶にはまだまだアルコールは詰まっている。これはゆゆしき事態だった。
熱を帯びて鈍くなった二つの目で部屋を見回すが、つまみになりそうなものはない。
「だれかいるー?」
扉に向かって叫んでみたが、答えるものはなかった。週末この時間帯に私が酒を口にするのは地霊殿では周知の事実だった。よっぱらいを嫌うのは燐に限った話ではなかったようだ。シンとした静寂が耳に痛い。
ペット達のそっけなさにぷりぷりしつつ、次の一杯を注ぐ。
冷たい世間に呑まずにはいられない。尻は床下暖房でぽかぽかだけれども。
ウィスキーグラスに焼酎を注いで、ぐびりと一息で呷った。口がますます固形物を欲して寂しくなる。悪循環。
「ふむ」
誰もいやしないのに、気取って顎を撫でた。
私自らうってでるしかあるまい。つまみを求めて凱旋だ。酔っ払いがつまみを求めて徘徊することくらい地底では常識なのだから。
「おんや」
台所でしけったせんべいと乾燥しいたけを睨みつけていると、第三の目がばつの悪そうな声を拾った。
さとりさま。
振り向かなくてもそこに誰がいるのかわかった。声帯を使わない思念の凛とした声に私はにんまりと笑った。
私のお気に入り。まっ黒のかわいこちゃん。
舌を喜ばせるだけが酒肴ではない。飛んで火にいる夏の虫とはこのことだ。
夏の夜の柳のように人恋しくて、誰かを抱き締めたかった。愛でたかったのだ。
「りん、りん、お燐ー」
唇を舐めて湿らせた声に、黒猫の背がびくりと強張った。
「喉が乾いたのですか?水を飲みに来たのですねえ」
「さとり様のお邪魔はいたしません、すぐ部屋にもどり……」
「まあまあそう言わず」
踵を返そうとした燐の後ろ脚を掴んで引きとめた。しっぽを掴まなかったのは一欠片残った理性のたまものだが、彼女はきっと褒めてはくれないだろう。
さとりさま、やめてやめて。
拒絶の声が聞こえるが気にしない。いつもは手の届く範囲からするりと逃げてしまう彼女の見せた隙を最大限に活用していく所存である。もふもふの刑である。
そっけないペットの後ろ脚を引きずり腕の中に無理やり納めた。
袖から出た露出部分に触れるふわふわした毛が心地よかった。
燐を不吉な黒猫と忌み嫌う馬鹿はいるが、刮目して見よ!この艶やかなビロードの毛並みを!
丁寧に梳かれた毛はノミダニしらず。毎日ちゃんと食べているから毛には程よい油がのって輝いている。
濡羽色と言うのだろうか。夜闇の僅かな明かりさえも反射して主張する黒以上の美しい色を私は知らない。
「お燐りんはほんっと綺麗ですねぇ!」
引き寄せた手の中のぬくもりに口づけた。毛の何本かが唇にくっついたけど気にはならなかった。
ふぎゃ!と踏まれた時のような声を燐はだした。
まったく失礼な猫である。
酔ってる!さとりさま、酔ってる!嫌!
「嫌って何がですかー?」
酒臭いからか!と燐の毛に顔を埋めて左右に振った。声にならない悲鳴があがった。
じたばた抵抗するが、私にがっしりと腹を押さえつけられて、彼女の前足は空を駆けただけだった。
「嫌も嫌も好きのうちよねえ」
普段は地面についていて、眺めることのできない肉きゅうを堪能する。
まっ黒の子、赤茶色の子、色々いるが、燐のは綺麗なピンク色。毛並みとのコントラストが美しい。温かく弾力のある感触に、ささくれ立った心が癒される。
よっぱらい!このよっぱらい!
罵倒されるが気にならない。彼女は心の声さえも鈴を転がしたようで、第三の目に心地よかった。
「かわいいわ、お燐」
平時では恥ずかしくってできない猫可愛がりも、褒め言葉も、今は怖くない。思ったまま、心のままに。至らない主人である私を愛してくれる彼女に好意を示せる。
燐を床に転がして、仰向けにさせた。動物の嫌う無防備で屈辱的な格好だったが、飼い主の私なら許される。お腹の薄い毛をわしゃわしゃと撫でた。
さらなるぷにぷにを求め、彼女の身体をまさぐった。
指先が探り当てた猫のおっぱいを摘む。ハムスターのしっぽみたいな弾力があって、そこだけ毛が生えていなかった。つるっとした肌。ぷにぷにといくら触っていても飽きることがない。
親指と人差し指の腹で潰せばきゅうきゅう愛猫が鳴いた。
やだやだ!
「ただのスキンシップよ」
ここにいるのは一人の呑んだくれ。地霊殿の主にして、ペット達を第三の目で尊敬される厳格なさとり妖怪は休業中だ。私が贔屓しない公平な人物などとは口が裂けても言えないが、なんの後ろめたさもなくただ一匹を愛でるのは脳が溶けてでもいないと私には無理だ。
「好きよ、私の可愛いお燐」
濡れた鼻先をぞろりと舐めあげると、黒猫の細い腰が震えた。
パン!と乾いた音が室内に響いた。
一瞬の間をおいて火のように火照る頬を手のひらでおさえると、赤いおさげが視界に飛び込んでくる。彼女は怨霊を飲み込んで消化不良を起こしたように、ぶるぶると身体を震わせていた。いつもは弧を描いている口元はへの字に曲げられていて、噛んでいるのか唇は半分しか見えない。
「さとり様は」
廃墟のような切なさを湛えた瞳が私を見上げていた。
「さとり様は心が読めるのにちっともあたいの気持ちをわかってくれない」
あたいがいつ、酒臭いからという理由でさとり様を嫌がりましたか?馴れ馴れしさを厭いましたか?
「お燐」
「酔っ払いなんて嫌いです」
あたいが嫌だったのは酔った時だけさとり様が――。
力の抜けた腕を振り払い、彼女は床に丸まると小さな身体を揺らす。
自分の腕に顔をうずめて、嗚咽を漏らした。床にこぼれる水滴。
湖面の月をすくい上げた子供のように手にしたものの儚さを嘆いていた。
「あたいの気持ちをわかってくれない酔っ払いなんて大嫌いです」
いつも好きと言ってくれる声で彼女は正反対のことを口にした。
お燐は泣いていい
お燐に幸あれ