今日のハレの日に相応しく、穏やかな晴天だった。
折しも秋口に差し掛かりアキアカネの群れを泳がせる風は涼しいが、妖怪の山の向こうにはまるで夏の忘れ物のように、入道雲が所在なく佇んでいる。手巻き煙草に火を付けながら、僕は夏と秋の入り混じったような不思議な光景を感慨深く眺めていた。
命蓮寺の空気は慌ただしい。寺での結婚式はそう珍しいことでもないらしいが、どこか浮付いたような喧騒がこの場所、本殿の裏手の庭でさえも感ぜられる。それは、あれやこれやと働く寺の信徒のほとんどが少女であることに起因するのかもしれないし、あるいは僕自身が落ち着いていないからそう感じるだけかもしれない。
「――あなた、こんなところにいたのですか」
そびえる雲を眺めながら唇についた刻み葉を指でつまんで捨てていると、縁側の方の襖が開いて妻のそんな声が聞こえてくる。あぁ、なんて生返事をすると、跳ねるような彼女の笑い声が聞こえてきた。
「そろそろ式が始まりますよ。父親のあなたが居ないと、始まる物も始まらないではありませんか」
「――判ってるよ、ハツ」
まだ半分も吸っていない煙草の火を消して、革造りの携帯灰皿に捨てる。振り返ると、礼装に身を包んだ妻が頬の辺りに皺を寄せながら僕を見ていた。
互いにめっきり年を取ってしまったが、ハツの笑顔は昔と変わらない。彼女は笑う時、顔の全体で笑みを表現するのだ。その皺は若い時分と比べても見劣りしない魅力を湛えており、そこに年月の無情な重さを見ることはできなかった。
「小春はどうしてるかね」
「何だかぼうっ、としてるみたいですよ。あの子には緊張感がないのかしら」
「君に似たのだろう。昔を思い出すな」
「昔ですか? ちょうど私も思い出していたところです。あなたったら、歯の根も合わないくらいに緊張していましたものねぇ」
ほほほ、とハツは目を細め、口元をワザとらしく隠しながら笑う。僕らの結婚式などもう二十年も前の話だというのに、まるで昨日のことのように鮮明な記憶が蘇る。僕は酷く赤面する自分を認識する。
「まるで妖怪に食べられる直前の子供みたいでしたもの。はて、いつ自分は恐ろしい人喰いになってしまったのかしらん? と首を傾げずには居られませんでしたよ」
「僕のことは良いだろう……」
「そういう意味では、良一くんも似たようなものでしたわねぇ。先ほどチラと様子を見に行きましたら、彼も湯呑からほうじ茶を零してしまうんじゃないか、と心配になるほどに手が震えていましたから」
「そうか」
良一くん。里の金物屋で働く青年であり、今は若頭にまで出世している。仕事をしている時の彼はきっと父親に似たのだろう快活な好青年で、緊張なぞとは無縁なように思えたのだが、まあ男というのは概してそんなものだろう。
しかし山本さんのところの生意気なハナタレ坊主が、よもや僕の娘と結婚することになろうとは。つくづく、人生というのは判らないものだ。
「さて、待たせたね。小春の部屋はどっちだったか」
「こちらですよ。さっきも行ったばかりでしょうに。まだまだ耄碌するほどの歳ではないでしょう?」
「そう揚げ足を取らないでくれ。会話の契機みたいなものだったのだから」
「はいはい」
縁石の上で履物を脱ぎ、歩き始めていた妻の背中を追って命蓮寺の廊下を進んでいく。
――人生というものは、判らないものだ。
まさか自分のような人間がこうして妻を迎え、子供を設け、あまつさえ自分の娘の結婚式に親父として参加するだなんて、昔の僕には想像もできなかった。
だってそうだろう。部屋いっぱいの同人誌に囲まれ、美少女フィギュアを愛で、部屋に引き籠ってゲームばかりしていたオタクニートが、幸せについて本気出して考えてみることなんてできる訳がない。高校を中退して大学にも通わず、社会が悪い政治が悪いこの世の中は間違っている、と責任転嫁ばかりしていた『昔』の僕には、未来について建設的に考える余地なんて皆無だった。
廊下の角を曲がると、小春が待機している部屋の襖が見えてくる。襖の向こうから、浮かれた少女の声が聞こえて来て、一瞬だけ僕の身体に要らぬ緊張が走る。
意図的に息を大きく吐きながら、やれやれと思う。この部屋は親族専用の待機部屋だと聞いていたというのに。
「小春? 入るわよ」
言うや否や、妻はほとんど小春の「はーい」という返事を待たずに襖を開ける。思春期の男子が怒髪天を突く行為だ。ハツのこの癖を見る度に、僕は息子が居なくて良かったと思ってしまう。家庭内不和の原因を作りかねない。
部屋の中へ入る妻の後に続くと、部屋の中では白無垢に身を包んで化粧も済ませた僕の娘が、一人の少女と向かい合って談笑していた。
もちろん、僕は娘の友達であるその少女を知っている。
……何なら娘が生まれる前、僕が妻と結婚する前、今の仕事を始める前、里の住人になる前から知っている。
「おばさん! おじさん! 本日は小春ちゃんの結婚式をお祝いに来ました!」
「まぁまぁ、相変わらず、妖夢ちゃんは元気一杯ね」
ハツが少女――魂魄妖夢を見て微笑むのが判った。その声音が微かに憧憬の香りを内包していることに僕は気付く。女性の身なれば、昔からほとんど変わらない若さを保ち続けている少女に対して思うことがあるのは無理もなかろう。特にこうした結婚式というシチュエーションにおいては、なおさら時間についての感慨が湧くに違いない。そう思った。
僕は何も言わない。この少女は苦手だ。嫌いだから、という理由ではない。むしろその正反対だからこそ、僕は彼女に対して距離を取らざるを得ないのだ。それはずっと前から、自分に課した不文律だった。
「それにしても小春ちゃんが結婚かぁ……いいなぁ。私もカッコいい男の人と結婚したいなぁ」
「その内できるわよ」
角隠しを被った娘が、妖夢の肩にポンと手を置いた。
「私だって妖夢の結婚式に参加したいよ。だから早く成長しなさいな。友人代表の挨拶をする時に、よぼよぼのおばあちゃんになってたら嫌だもんね。そうでしょ?」
成長という言葉をまるきり感じさせず十代中盤の見た目と精神を維持し続ける妖夢は、むくれたように唇を尖らせながら「しょうがないじゃない。生まれつきなんだし」と返す。本当に、昔からまったく変わらないなと僕は思う。小さかった娘と遊んでくれていた時から。僕が直接見た訳じゃない、春雪異変の時から。
そう。僕は妖夢のことを知っている。知っていた。僕がいわゆる『幻想入り』をするよりも前から。
東方projectのキャラクター。初出は東方妖々夢。その後も永夜抄、萃夢想、花映塚……etc.etc.多くの作品に登場し、人気の高いキャラとして多くの人々から愛されていた彼女のことを。
そんな彼女が何の因果か小春の友達として、小春の結婚式に出席するとは、つくづく人生というものは判らない。
「それじゃ、そろそろ式も始まりそうですし、もう私は行きますね」
「うん、また後でね妖夢。大人しくしてるのよ?」
「もう、子ども扱いしないでよ。私は小春よりもお姉さんなんだからね」
「はいはい」
妻と僕とに頭を下げてから、妖夢は小走りで部屋を後にする。隣に立っていたハツが、小春からは見えない角度でそっと僕の手に触れるのが判った。
渡来人である僕が、この幻想郷についてあらかじめ知っていたということは、ハツにしか言っていない。
だからハツのこの手は、ある種の慰めなのだと思う。彼女は聡く、勘も良い。僕のことを隅から隅まで見通している。僕がこの場面で何も思わず、何も感じずには居られないと知っているのだ。そんな彼女の気遣いがありがたくもあり、それ以上に申し訳なくて堪らない。気遣われる僕の心は、どう見積もっても家族への裏切りに他ならないから。
相変わらず、僕は何も言わない。静かに妻から距離を置き、妻の温もりから一歩分離れる。妻と娘から離れたい。この浅ましい気分を、僕の家族から遠ざけてしまわなければならない。そんな僕の罪悪感も、きっとハツにはお見通しだろう。
――僕は昔、本気で妖夢を愛していた。
いや……『好きだった』と訂正しよう。
その気持ちは憧れであって所有欲であって、家族に向ける愛情とは根本的に異なると知っている。手を取り合って共に生きていく覚悟を決められるような、そんな『本気』とは比較にすらならないと知っている。
なのに僕は、今になってもその下らない憧憬から逃げきれていないのだ。
罪悪感の一つも湧かないと妻や娘に合わせる顔もない。
「……綺麗よ、小春」
感嘆のため息に乗せるようにして妻が言う。心の所在があいまいになっていた僕も、ハッとしてから同じ言葉を口にする。娘の婚礼に際する父親然として。ぶっきらぼうに。
「ありがとう、お母さん……お父さん」
小春は一瞬だけ感極まったような泣き顔を見せた後に、まるで大輪の花みたいな満面の笑顔を見せる。同じだ。この笑い方は、ハツにそっくりだ。小春の顔を見ながら、僕は胸の詰まるような思いがする。
妻に感謝している。娘を愛している。
全身全霊で僕は家族を想っている。絶えることのない幸福を願っている。
この気持ちに嘘はない。
なのにあの少女を――妖夢を見るとどうしても、僕の時間はほんの少しだけ止まってしまう。まるで十六夜咲夜が、何気ない所作で懐中時計を弄るみたいに。
……僕の時間、僕の半生、僕の歴史。
望んだ世界に来れたところで、望んだ人生が送れるとは限らない。
僕は能天気なラノベの主人公でもなければ、大舞台で華麗に立ち振る舞う主役でも無かった。未来の僕は常に過去の中にあり、世界線を飛び越えたところで僕という個人の連続性が失われることはない。
僕には新しくて発展性があって応用の利くようなスゴい能力が目覚めたりしなかった。何の脈絡もなく空が飛べるようにも、オッドアイになることも、ちょっと不思議でエッチな女の子が前触れも意味もなく僕を奪い合うこともなかった。
僕は最初から最後まで僕であって、それは『外の世界』だろうが『幻想郷』だろうが何も変わらない。神様が自己投影できるような、格好の良くてご都合主義なキャラクターなんて僕という存在のカテゴリーには最初から含まれていなかったのだ。
娘の結婚式。僕の人生における大きな節目。
改めて僕は、僕の半生を振り返ってみようと思う。
僕の人生は奇跡も魔法もあって、不思議な女の子が沢山いる異世界モノとしてはまったく成立しない。僕のライフログをプロットとして出版社に持って行ったところで、門前払いをくらう程度には変わり映えがないと自負している。
けれど確かに、何一つとして変化がなかったと言えばそれは誇張だ。僕は年を取ったし、妻も子供もできた。お酒は相変わらず飲めないけれど、手巻き煙草を吸うようになったし、人の目を見て話せるようにもなった。仕事を始めて自分の店を持つようにもなった。
まぁ、そんな一人の男のちっぽけな成長は、『異変』と呼べるような大きな出来事とは全く違うなんてことは、判っているのだけど。
◆◆◆
駅前にある雑居ビルの屋上から飛び降りて死のうと思ったのは、僕が23歳の誕生日を迎えた日の夜10時のことだった。本当は引きこもりになる原因を作った僕の出身高校の屋上から校庭へとダイブしたかったのだけど、昨今の社会情勢には23歳無職の引きこもりを校内へ入れてくれるだけの優しさなんてなかったし、僕の方もガードマンに向かって「あのぅ、すみませんが、屋上から飛び降り自殺をしたいので入校許可証をくれませんか?」と言うだけの度胸はなかった。
自殺を思い付いた理由は至極単純。人生と社会に疲れてしまったからだ。
もうちょっと具体的に言うと、大学にも行かずバイトもしない穀潰しの僕を、酔って帰って来た父親が勘当したことだった。しこたま怒鳴られ、ぶん殴られ、「テメェみたいなクズは俺のガキじゃねえからとっとと消え失せろ」と唾を吐かれることが、父から賜った23歳の誕生日プレゼントだった。肉親からそこまでされて自殺せずに立ち直れるような人間がいるなら、是非ともお目に掛かりたい物だ。そして僕は立ち直れる人間じゃなかった。だから死のうとした。それだけの話。
私立の高校に比べれば、駅ビル屋上への侵入なんか簡単だ。雀荘やパブの詰め込まれた汚い雑居ビルに、セキュリティの概念なんか皆無だった。なんせ屋上へ至る扉には、鍵すら掛かっていなかったのだから。転落防止の措置だって錆の浮いた手すりぐらいだったし、現に僕はそれを乗り越えてビルの縁に立っているのだ。
そんなわけで僕は父に殴られた頬に手を当てながら、足元の道路で輝くネオンや車のヘッドライトを見ていた。雑居ビルは8階建てで、死ぬには充分な高さを誇っている。歩道を行きかう人々はまるで蟻のように小さく見え、微かに見える点の一つ一つに人生という物語が詰まっているなんて悪い冗談のようだった。
酷く熱を持った左頬を擦りながら、僕が考えていたのは母のことだった。会社で面白くないことでもあったのだろう、酒臭い息を吐きつつ千鳥足で帰って来た父は今日が僕の誕生日だったなんて忘れてたに違いないが、母はコージーコーナーのケーキを買って来てくれて、「アナタの人生は、きっと良くなるから」と僕の手を握ってくれたのだ。その言葉を鵜呑みにできるほど、僕が純粋じゃなくなってしまっていたのはさておき。
僕が父から罵声を浴びせられているとき、母は泣いていた、と思う。僕の胸ぐらを掴む父から逃げるようにして離れ、キッチンの角に蹲ったのを僕は見た。母は優しい人だったが、優しさゆえの厳しさとは無縁の人だった。母からきつく叱られた記憶はなかったが、父が僕を罵る時に僕を庇ってくれた記憶もなかった。父が居ない隙を見計らうように、そっと僕を慰めたくらいだ。イジメられて不登校になった時も、部屋から出なくなった時も、大検に落ちた時も。
僕が死んだら、母は変わるだろうか。一言はおろか視線でさえも父に歯向かうことのなかった母は、父に詰め寄るだろうか。「アナタがあの子を殺した」と叫ぶだろうか。案外、いつものようにキッチンの角で蹲るだけかもしれない。
どうしてこうなったのだろう。それまで掴んでいた手すりから手を離しながら僕は思う。
いざ死のうと決心すると、不思議なことに浮かんでくるのは楽しかった思い出ばかりだった。幼稚園のかけっこで一等を取ったこと。菓子作りが得意だった母と初めて一緒に作ったクッキーの味。お小遣いで洋菓子のレシピを買い、父と母にケーキを作ったこと。母はもちろん、父でさえも「美味しい、美味しい」と笑いながら僕のケーキを食べてくれた。
――そして、自分の部屋に閉じ籠ってから好きになった、東方projectのこと。
コンティニューを目いっぱいに使い切って、初めてEasyをクリアしたのは地霊殿だった。ノーコンでNormalをクリアしたのは妖々夢だ。永夜抄ではやっとの思いでExボスの妹紅を倒した記憶も蘇った。数多くのキャラクターの中で妖夢が好きになったのは、その時だ。妹紅の蓬莱人形を打破したのは幽々子ではなくて妖夢の一撃だった。
死んだら妖夢に会えるのか――なんて考えたところで、あまりの情けなさに自嘲の笑みがこぼれた。そんなのは流石に、23歳の男が心から信じことのできるおとぎ話じゃない。
人は死んだらそれまでだ。
死後の世界も、輪廻転生もない。僕の死は僕の世界の終わりでしかなく、僕の人生にコンティニューはない。そして僕に、これ以上自分の人生を続ける意思もまた、なかった。
さぁ、もう終わらせよう。エンド・クレジットだ。空を飛べない僕の命は、ここから何気なく一歩を踏み出すことで呆気なく終わる。
僕は目を閉じる。流石に目を開けたまま自分が落ちて行く光景を見るのは怖い。大したことじゃない。ここが普通の道だと思えば良い。足を前に踏み出せば、そこにあるのは虚空なんかじゃなくて、ただのアスファルトなんだと。
どこかで車がクラクションを鳴らしている。ビル風が僕のTシャツをはためかせる。今日が新月だから見ることの叶わない月の陰影を思う。都会の真っ只中だからロクに見えやしない星空を思う。僕はなんてちっぽけな存在なんだろうと思う。思えた。そして右足を一息に前へと踏み出し――。
僕は取り返しのつかない領域へ、一線を越えて落ちて行く。
目を固く瞑る。自分が重力に従って地面へ引き寄せられていくのが判る。恐怖。僕は死ぬ。その事実が今更のように僕の心を強く握りしめた。死にたくないと思ったけれど、ここからどうやって生還すれば良いと言うのだろう。そもそも自殺を思いとどまったりしないように、ビルの屋上から飛び降りることを選んだのだ。その目論見は、見事に成功を収めていた。僕はもう助からない。
地面に頭蓋を砕かれるまでの時間間隔が引き伸ばされている。まだ着かない。まだ死なない。早くこの怖さが終わってしまえばいいと思った。きっと僕は大声で叫んでいたけれど、聴覚は暴力的なまでの風の音ばかりを拾って、僕の悲鳴なんか聞こえやしない。
どこまで落ちて行くんだ。
まさかこの落下は永遠に引き伸ばされるのか。
そう思ったけれど、ここで目を開けて自分を叩き割ってくれる道路までの距離を確認しようと奮起することはなかった。そこまで豪胆なら自殺なんてしないし、そもそも不登校にもならない。
けれど、どんなものにも終わりはある。
落下があるなら、その終着点も当然ある。
――『ザブン』、と。
僕は冷たい水の中に落ちた。
「ッ!?」
鉄の板で頭を思いきり殴られたような痛みがあった。その次に自分の意識が終わっていなくて、頭が痛いと感じる僕としての意識の主体が存続していることに疑問を感じる。
そして最後に、水の中に居る自分は息ができないことを思い出した。
「っ!? んっ!? っぐ!?」
そこからは反射だ。とっさに目を開けた僕はやっぱり水の中に居て、息苦しさから我武者羅に泳ぎだす。水温は冷たく、水を吸った服が重い。けれど僕はかすかな明かりが揺らめく方へと向かった。今の今まで死のうとしてた癖に、死なないために酸素を欲するのは馬鹿みたいだったけれど、僕はあくまで墜落死をしたかったのであって、溺死は御免被りたかった。自殺志願者にだって、理想の死に方くらいはあるってことだ。
「――ぶはっ!」
望んでいた酸素を思いきり肺へと取り込む僕は、自分が満天の星空の下、どこともしれない小さ目な湖の只中に居ることを知る。湖はそれなりに深いようで、足なんか届きそうもない。そもそもそんな浅瀬だったら、僕は望んだとおりに頭蓋を砕かれて死ねている。着水したらしい頭は痛く、身体は重くて、水面に顔を上げているのが精一杯だった。
辛うじて周囲を見渡す。電灯なんてどこにも見当たらない。湖はグルリと先の見通せない暗闇に沈んだ木々に囲まれていた。それだけ確認した僕はとりあえず、何とか自分に一番近い岸へと泳ぎだす。服は悪意を持って僕を湖の底へと引きずり込もうとしていたし、スニーカーを履いたまま泳ぐのは至難だったけれど、衣服や靴を手放す訳にはいかなかったし、水の中で溺死せずに服を脱ぐ訓練なんていったい誰が積むと言うのだろう。
つまるところ、この時点でもう僕に死ぬつもりなんてなくなってしまっていたということだ。
僕は生きようとしていた。助かろうとしていた。このまま冷たい湖の底で窒息死することが恐ろしかった。僕の脳内からは、父に殴られたことも、唾を吐き掛けられて勘当されたことも、今日が僕の誕生日だということも消えてしまっていた。
つたない平泳ぎの形で、僕は何とか自分の足が着く浅瀬まで辿り着いた。慣れない水泳で息は上がっていたけれど、身体は冷え切って関節が強張っていた。寒くて仕方がなかった。身体を抱くようにしてガチガチと歯を鳴らしながら、僕は手近な木の根元へ倒れ込むように座る。
「……生きてる……?」
かどうか、自身は持てなかった。なんせ僕は大都会東京の街に居て、ビルから投身自殺を実行した筈だったのだ。それがどうしてこんなワケの判らない湖で濡れ鼠になる結果に至るのか、さっぱり見当もつかない。
ここは、死後の世界なんだろうか。
そう考えるのが、最も合理的な判断のように思えた。
僕はきっと予定通りにアスファルトに叩き付けられて即死し、そのまま天国かどこかに送られたに違いない。死んだらそれまでだ、という持論は撤回せざるを得ないだろうけど、湖に叩き付けられた頭が痛むし、びしょ濡れで凍えているので、極楽浄土のイメージとは程遠い。
周囲に人気はなく、天使も閻魔も姿を見せない。明かりと言えば都会とは比べ物にならないほどの量を誇る星屑ばかりで、湖面は墨でも流したように黒い。いっそ月でも出ていればもうちょっと周囲の様子が判っただろうに、そう言えば今日は新月だったのでそれも望めない。天国にも現世と同じ月が出ているかどうかはしらないけれど。それにしても、手を伸ばせば自分の指の形すら判らなくなってしまうほどの暗闇だった。
日が昇るまで、ここから動けそうもない。
せめてもの前向きな行動として、まず濡れた服を乾かすことにした。と言ってもシャツやボトムス、下着なんかを脱ぎ、それらを雑巾のように絞るくらいが関の山だった。野外で裸になるなんて初めての経験で、それは少しだけ僕の気持ちを解放感でもって高揚させた。昔からボーイスカウトみたいなアウトドア派とは相容れなかったけれど、それは野外で服を脱ぐという行為が、喧しい連中の本能らしきものを掻きたてるせいだったのかもしれない。
水を絞った下着とボトムスを履くと、さっきに比べれば随分と寒さがマシになった。完全に乾かすのは無理だとしても、びしょ濡れの状況なんかとは比べ物にならない。
こういう時は、焚き火でもするもんなんだろうな。
絞ったシャツで身体をサッと拭き、それをまた絞っていそいそと身に付けながら、僕はよくアニメなんかで見る遭難の風景を思ってため息を吐く。大抵、可愛い女の子が毛布を掛けられて体育座りをしている、アレだ。けれどいざ遭難して濡れ鼠になってみると、アニメの遭難風景がどれほど恵まれた環境なのかを知る羽目になった。僕には傍に居てくれる可愛い二次元の女の子はおろか、毛布も着火器具もないのだ。こんなことなら喫煙者にでもなっておくんだった。臭いから、と煙草の煙を意味もなく嫌悪するのではなく。
「ふぅ……」
何度目か判らないため息を吐いて、僕は草の上に座り込んだ。周囲に広がる闇の中から、虫の音は幾重にも折り重なって聞こえてくる。フクロウと思しき鳴き声も聞こえる。ここが天国なのか何なのかは知らないけれど、少なくとも相応に深い森の中なのは確かだ。
これから僕はどうなるのだろう。
僕が落ちた湖の上に広がる星空を眺めながら、僕はようやくまっとうに先行きを不安がることのできる精神まで落ち着いた。水面に打ち付けた頭はまだ残響のように痛んでいるけれど、少しずつその痛みも和らいでいる。
しかしそもそも、痛みがあるというのはどういうことなんだろうか。
死ぬ瞬間に思い当たる節がないとはいえ、ビルの屋上から身を投げたことは確かなのだ。それは今更、疑う余地なんてない。なら僕はきちんと死んでいる筈なのに、僕の意識や記憶は終わることなく続いている。死後の世界というのはそういうものだと解釈するにしても、何というか、あまりにも自分の連続性が損なわれてなさ過ぎて、死んだという実感がまるで湧かない。
ビルから落ちる途中で、湖の上にワープしてしまったと考える方がよっぽど自然だ。
けれど常識的に考えて、そんなわけもない。Natureでワープ技術が完成したという情報を目にした記憶はないし、そもそもそんなSFチックな技術を、しがない自殺者の命を長らえるために使うようなお人好しがいるはずもない。死んだなら死んだで、きちんと自分が死んだことを実感させてほしい。そう思った。自殺者は年間で3万人も居ると聞くし、あの世もてんてこ舞いで僕なんかに気を留める時間がないのだろうか。それとも彼岸の連中は、時間外労働をしない主義なのかもしれない。お役所仕事もいいところだ。
宇佐美蓮子みたいに星空を眺めて時間や位置が判ればよかったのだけど、生憎僕にはそんな奇妙な眼はない。それどころかあまりにも星屑の数が多過ぎて、僕は見知った星座を見つけることすらできずにいた。死後の世界にも星が浮いているのは判ったけれど、それが僕の居た現世の星と同じなのかどうかを知ることはできそうもなかった。
こんなことになると知っていたなら、天文部にでも入っておくべきだった。
そんな風に無理のある後悔の念に苛まれながら、星空を眺めることをやめて視線を戻す。
すると、ちょうど前方の木立の奥の方で、微かな明かりがあるのを目の当たりにした。
「――ッ!」
ハッと息を呑む。ずっと暗渠の中に居て目が慣れたからか、はたまた星空を眺めている時間が長かったせいかは判らないけれど、それでも確かにさっきまでは見当たらなかった明かりが、ずっと遠くの方で僅かに揺らめいているのを見た。
思わず立ち上がり、目を細めて前方を注視する。見間違いじゃない。確かに明かりが窺える。それは電灯やライトのような無機質な光じゃなくて、温かそうなオレンジ色をしてゆらゆらと形を変える火のようだった。
誰かが焚き火をしているのだろう。
僕は夏宵に電灯へと集まる蛾のように、フラフラとその明かりの方へと歩いて行く。湖の畔をグルリと迂回し、木の幹に手を当てながら藪の中へと分け入った。人の手が入っていないからだろう、木々の間を埋め尽くす藪は太ももの辺りまで繁茂していて、歩くのに酷く骨を折らされた。けれど、そんな苦労なんて僕はまるで気にならなかった。間違いなくあの火の近くには誰かが居る。そのことが不安に押し潰されそうだった僕の足を迷いなく前へと推し進めた。
明かりが近付くに連れて、パチパチ、と火の粉が上がる音に加えて、何か香ばしい匂いがした。きっと何かの肉を焼いているのだろう。するとこの辺りは、キャンプ場のような施設が近いのかもしれない。何にせよ、悪夢のように黒い湖の畔でうずくまっているよりも百倍マシだ。そんな風にして僕はようやく、焚き火が上がっている区画まで辿り着くことができた。
焚き火をしていたのは幼女の人喰い妖怪で、僕はあっさりと捕まった。
なんてことが現実に起こるはずもなく、ちょうど僕に背を向ける格好で火に向かっていたのは、随分と古風な蓑を羽織った男だった。はて、と思いつつ無遠慮に一歩距離を詰めた。
すると藪を掻き分ける音を聞き付けたか、男は傍らに置いていた猟銃を手に取り機敏に振り返る。
銃口が自分に向けられたと気付くまでの数秒間、僕はまるで凍りついたみたく、男のいた広場に一歩足を踏み入れた格好で固まった。
猛禽類のように鋭い視線で僕を射抜いた男は、小首を傾げたかと思うと構えていた銃を降ろす。そこでやっと、僕は自分が射殺される寸前だったことに気付いて背筋が寒くなった。
「――なんだ兄ちゃん。見ねえ顔だな?」
酒焼けでもしているのか、酷く低くて不明瞭な声で男は言った。彼が蓑の下に着ているのは鼠色をした和服と黒いもんぺのようなズボンだった。焚き火に照らされる顔は浅黒く焼けていて、よく見れば右頬の辺りに傷跡があった。男は僕の父よりもずっと歳を取っているように見える。短く刈り込まれた髪の毛はたわしのようだったが、およそ半分ほどの髪が白くなっていた。
「おーい、兄ちゃん? 聞こえてるかい?」
「あ、ど、ど、どうも……」
そこでようやく、僕は男の発している言葉が紛うことなき日本語だということに気付く。銃の取り扱いが厳しく制限されている現代日本で育った僕が、生まれて初めて銃を向けられてすぐに、意味のある言葉を発せられただけでも勲章ものだ。男は銃を右手で担ぐように持つと、不審げに眉根を歪めながらゆっくりと近づいて来て、
「こんな夜中に何してんだ? 武器もねぇみてぇだし、いくら今日が新月だからってそんな格好で出歩いて、あっさり死んじまっても知らんぜ」
「あの、僕……えっと……」
「んあ? お前さん、その服……」
僕が何かを口走るよりも早く、男は僕が着ていたシャツとボトムスを見て、ふむ、と呟きながら左手の指先で顎の辺りを擦る。そして何事か得心がいったように、ははーん、と僕の目を見てニヤリと笑うと、
「……兄ちゃん、外の人か」
「へ?」
外、と言われて僕はとっさに空を眺めてしまう。ここが屋外なのは言うまでもない。けれど男が言ったのは、きっと村や集落といったコミュニティの外、という意味なのだろう。僕が苦労してそう理解している内に、男は腕組みをして訳知り顔で、
「そこの湖に落ちたんだな?」
「え、えぇ……」
「だろうな。服が濡れてら……兄ちゃん、アンタ、若ぇ身空だってぇのに、飛び降りなんざするもんじゃないぜ」
「――え?」
どうして知っているのだろう。僕は思わずマジマジと男の顔を見てしまう。やれやれと言った具合に懐へと手を突っ込んだ男は、煙管を取り出して咥えると、
「……ま、俺が言えた義理じゃねぇわな。どいつにだって、切実な事情って奴があるだろうしよぅ。年喰っちまうと、どうも説教臭くなっちまっていけねぇな」
「ちょ、ちょ、ちょっと待って下さい……どうしてアナタは――」
「源次郎だ」
「げ、源次郎さん……」
刻み葉を煙管の先端に詰める男のささやかな訂正を受けて、僕はきちんと彼の名前を呼んでから、緊張で暴れる心臓を落ち着かせるために唾を飲む。まさかこの猟師然とした男が、僕を導く天使だとでもいうのだろうか。だとすれば人選に難があり過ぎる。
「源次郎さんは、どうして僕が飛び降りたって知ってるんですか……?」
「なに、大したことじゃねえ。俺もそうだったのよ」
源次郎はそこで銃を置き、焚き火の方へと歩み寄ったかと思うと、火の中にサッと煙管の先端をくぐらせて煙草に火を点けてから咥え、肺の中に煙を流入させる。そうしてもうもうと紫煙を吐き出しながらどこか遠い目をして、
「二、三十年前だったか……俺の親父から任された会社が潰れちまってよぅ、借金も返せねぇ、女房も子供連れて逃げちまった、ってな具合で、もう生きてても仕方ねェと思ったもんで、飛び降りたのよ。そしたら、道路に叩き潰されるんじゃなく、今の兄ちゃんみてぇにそこの湖に落ちてなぁ」
「だとすると――ここはやっぱり、あの世なんでしょうか……?」
「さぁて、どっちだろうなぁ」
その言葉は僕を焦らすというよりはむしろ、源次郎にさえも判っていないような若干の困惑を乗せた独白に近い響きを持っていた。
「まぁ、たぶん俺は死んでねぇんじゃねぇか? こんな爺になるまで生きてるしよぅ……だが『ここ』がそれまで俺が生きてた世界とは、だいぶ違ぇ世界なのは確かだしよ。それに俺がビルから飛び降りたのもまた確かなんだし、何とも言えねぇんだよなぁ」
そう言って煙管の火皿から灰を落とし、火種を踏み消した源次郎さんは「ところで」と矢庭に口にすると、
「お前さん、服、濡れてんだろ」
「え、あ、はい……」
「風邪、引いちまうぞ。そこの火に当たっとけ」
「あ、ありがとう、ございます……」
「それと今な、猪の燻製肉を炙って喰ってたんだ。腹減ってるようだったら遠慮なく喰え」
言うと彼は焚き火で焼いていた串を一本取り、僕に手渡してくれた。串に刺さった肉からは食欲をそそる香りのする煙が立ち上っていて、その香りを嗅いだ途端に僕は急激に空腹を覚える。
「すみません……頂きます……」
「なーに、困った時はお互いさまって奴よ」
朗らかに笑った源次郎さんに何度も何度も頭を下げてから、僕は焚き火の傍に座って猪の肉を食べた。豚肉よりも遥かに弾力があって噛みちぎるのに苦労したけれど、今まで食べたどんな焼肉よりも美味しかった。噛めば噛むほど味が出てくるのだ。まるでグレードの高いホテルの朝食なんかに出てきそうなベーコンの旨味を、ギュッとコンパクトに凝縮させたようだと思った。
「ありがとうございます……美味しい、です……」
「なら何よりだ」
再び煙管に刻み葉を詰めていた源次郎さんは、唇の端に自慢げな笑みをほんの少しだけ携えて、ワザとらしく肩を竦める。本当は自分の作った燻製肉を褒められることが、こそばゆいのかもしれない。串に残った僅かな脂身も丹念に舐めとりながら、そんなことを考えていた。
「それにしても兄ちゃんは本当に運が良かったんだなぁ。飛び降りた日が新月でよぅ」
「へ?」
独白のように呟かれた源次郎さんの言葉に僕は首を傾げた。
そういえばさっきも、彼は今日が新月どうこうと言っていたような気がする。
確かに、ワケの判らないまま大都会東京から得体のしれない森の湖へとワープさせられた僕が、たまたま源次郎さんの野営と巡り合うことができたのは僥倖だ。これは間違いない。けれどそんな僕の幸運に新月がどう噛んでくるのか、当たり前のように月が見えないことの恩恵を語られたところで僕にはさっぱり判らない。
「その、新月が、どうしたんですか……?」
「新月のときは化けモン共が鳴りを潜めるからな」
「――ば、化け物、ですか……?」
よくよく言葉の意味すら把握できていないまま反射的に鸚鵡返しをした僕に、腕組みをした源次郎さんはウンウン、とどこか感慨深そうに頷くと、
「確かにな。こっちに来たばかりじゃ、そう言われても戸惑うだろうさ……だが、化けモンは居る。これは確かだ。満月の時なんかが一番良くねぇ。どいつもこいつも興奮してて、普通の人間じゃまず太刀打ちできねえからな。コイツがあっても」
煙管を咥えたまま、顎をしゃくるようにして源次郎さんが地面に置かれた猟銃を指す。僕はと言えば彼の御高説を至極ごもっとも、と拝聴することなんてできる筈もなく、目の前の初老の男性の正気を疑っていた。
だってそうだろう。
当たり前のような顔で『この世界には化け物が居ます』と言われたところで、いったいどこの誰がそれを頭から信じることができると言うのだろう。僕だって人より何倍も漫画やゲームやラノベに傾倒しているが、そんな僕をして化け物の存在を鵜呑みにできる奴なんて脳が小学生以下の馬鹿か、さもなきゃ病気を疑う他にない。世の中の識者たちが、声高に主張する漫画やゲームの悪影響というやつだ。現実と妄想の区別くらい、引きこもりの僕だってきちんとつけられる。
しかしながら化け物の存在を当然顔で語るこの老人は、僕に焚き火と猪の燻製肉を提供してくれた恩人にして、猟銃の所有者でもある。そんな彼がどんな荒唐無稽なことを語ろうとも、それを頭ごなしに否定する権利や資格なんて僕の方にはない。
仮に僕が、
『あっはっはーッ! 化け物なんかこの世に存在する訳ないじゃないですか! 脅し言葉にしたってチャチ過ぎて鼻で笑っちゃいますよーう!』
なんて言ってみろ。最悪、構え、狙え、撃て、という三段活用によって呆気なく死亡ということだって有り得るのだ。いまこの瞬間、僕の身に起きていることがどれほど常識外れで馬鹿馬鹿しいとしても、源次郎さんの猟銃に殺傷能力がないことを疑う理由はない。
なので僕は、
「新月の時なら、安全なんですか……?」
と、取り敢えず話を合わせることにする。仮に源次郎さんが化け物の存在を主張する色々と危ない人だとしても、刺激しない限りは良い人なのは間違いなかろうと思ったからだ。
僕の返答を聞いた彼は結構意外そうな表情をしてから煙管の灰を地面に落とすと、
「何だい兄ちゃん、疑わねえのかい? アンタの他にも何人かの渡来人の相手をしてやったことがあるが、誰もがヘラヘラ笑って『妖怪なんかこの世に居ねえ』ってなことを言うもんだったんだがなぁ……」
「疑わないと言うか、そりゃ、俄かには信じがたい話だとは思うのですが……」
源次郎さんの応答が思っていたよりもずっとまともだったので、とりあえず彼が自分独自の世界に引き籠っちゃう系の激ヤバ老人ではないと悟り、僕は少し安心してから言う。適当に話を合わせようとした、というのもあまり心証が良くないだろうと思ったので、つたないにも程があるコミュニケーション能力を何とか駆使して、
「僕の身に何が起きてるか、その、判らない状況ですし……源次郎さんが、ぼ、僕と同じような経験をしてらっしゃるなら、素直に聞いておくべきだと、思って……」
「そっかそっか。そりゃ、賢い判断だ。兄ちゃん、アンタなかなかオツムの出来が良いんだなぁ」
そう言って源次郎さんはニカっと歯を見せて笑う。よく見ると左上顎の方の犬歯がなかった。その抜けた歯の部分に、煙管の吸い口がすっぽりと嵌っている。
「で、何だったか……あー、何か聞いたよな、兄ちゃん、な? 俺に」
「新月、ですね」
「そうそう、新月だったな。ウン、そうさなぁ。新月の時だとな、妖怪共が普段に比べりゃ大人しいのよ。他の時は、危害を加えられても文句言えねえんだがな」
「危害を加える、というのは、その……『妖怪』は、人間を食べる、のですか?」
「らしいな」
煙管を和装の袂に仕舞い込んだ源次郎さんが、先ほどから一定の火柱を上げて燃え上がる焚き火をジッと眺めながら言う。
「少しでも月が出てるとダメだ。妖怪の行動が活発になるからって、夜間に里から離れるのは許されねぇ。だが今日は新月だから、俺もまぁマタギの仕事をずっとやってるし、特別に出歩かせて貰ってる。この辺の獣道に幾つか罠を仕掛けてんだ。日が昇るまで待つと、罠をぶっ壊されて取り逃がしちまうことがあるんでな。ひと月に一回とは言え、仕事が捗ってるって寸法だ」
「里、があるんですか……?」
「ん、あぁ。あるぞ。人間たちが寄り集まって暮らしてるんだ。里の中に居る人間に危害を加えんなってルールが、妖怪連中にあるらしい。だから、里に居りゃ安全って奴よ」
「『里の人間に、危害を加えないルール』……ですか」
なんだろう。
どこか、どこかでそんな文言を目にしたような気がする。
そんなに昔の記憶じゃない。つい最近だ。けれども、いったい自分がどうしてそんな文言に引っかかっているのか、僕は上手く思い出すことができずにいた。投身自殺を経てどことも知れない森の中に転送された現状と、その引っ掛かりはあまりにも互いに離れすぎていて、うろ覚えの知識と現実をリンクさせることができない。
「おう。だから、里ん中にも時々妖怪が来てるなぁ」
「え……? 危なくないんですか?」
「いんや? 誰も人間に危害を加えたりしねえからな。里の連中も、きちんとルールを守る妖怪相手には、懇意にしてるみてぇだぜ」
――また、だ。
源次郎さんの語る言葉は、さっきから一々僕の脳裏にある既視感を揺さぶってくる。デジャビュというやつだろうか。脳の誤作動によって、かつて体験したことがあると判断してしまうという現象。僕は源次郎さんとさっき初めて会った筈なのに、なにか僕の脳内に溜め込まれた知識と摩擦を起こしている。そう思った。
けれど、それはいったいどんな知識だと言うのだろう。
どこかの神話か何かだっただろうか。それとも民俗学的な街談巷説の類だっただろうか。どちらも近いような気がするし、それと同時にそのどちらでもないという判断もまたあった。めくるめくデジャビュに幻惑される僕の脳内は、ジェットコースターにでも乗った後のように揺さぶられ、乗り物酔いにも似た感覚で僕を遠慮なく苛んでいた。現実感のまるで無い物事が、僕が今存在している現実へ侵食しようとしているような気配を感じる。
渡来人、妖怪、里、ルール。
これらに僕は何かしらの共通点を感じずには居られなかった。どこかで聞いたのだ。そうした言葉が頻出する概念を。けれどそれは喉元まで出掛っている癖に、断固として僕の現実と混じり合うことを拒絶している。そんなもどかしい感情を抱いた。
「……ところで兄ちゃん」
「え、あ、はい?」
僕の脳髄で喚き立てる何かの正体を必死で探っていた僕の耳に、どこか労わるような口調で発せられた源次郎さんの声が届いた。慌てて彼の方を見ると、彼は僕から視線を逸らすような表情で、どうにも歯切れ悪く、
「元の世界に戻れるっつったら、アンタは戻るか?」
と、言う。
――元の世界。つまり、いま僕や源次郎さんが存在して、妖怪やら里やらという概念が跋扈する時空とは異なる、僕がまがりなりにも僕としての現実を生きていた世界のこと。
もちろん、その言葉にも既視感があった。なんなら源次郎さんの表情を見て、そんな風な意味のことを口走るんじゃないかと予測できたくらいに。
それと同時に、僕の脳裏に微かな心象風景がサッと過る。ハードカバーの本。様々な『設定』が練り込まれた豪奢な参考書。キャラクターや舞台についての情報を、紹介絵巻としてのコンテクストで綴られた書籍――。
……東方求聞史紀。
そんな馬鹿な、と僕は思う。あれはフィクションだ。神主、とファンから親しまれる一人の男性が作り上げた架空の世界についての物語だ。少しばかり似ているからと言って何でもかんでも『それ』とタグ付けて考えてしまうのは、オタクと呼ばれる人種に等しく備わっている悪癖だ。
しかし源次郎さんは僕のそんな困惑を、元の世界に戻るという選択肢を開示された故だと誤認したのか、「そうだろうなぁ……」と頭を振りながら呟く。僕は彼の残念そうな声音の真意が判らない。それよりももっと大きな混沌が僕の思考に捻じ込まれていたからだ。
そして彼は小さくため息をついて。
決定的な言葉を口走る。
それはやはり、僕の予想を裏切らないものだった。
とてつもなく残酷な悪夢のように。
「――この『幻想郷』から出たいなら、博麗神社の巫女さんに頼めば元の世界に戻れるぜ」
「霊夢……のこと、ですか……?」
幻想郷。
博麗神社。
紅白の巫女、霊夢――。
――僕は東方projectの舞台、幻想郷に居る。
馬鹿げた話だと思う。
そしてそれ以上に、もしかしたら僕は今まさに、目の前の男性から騙されそうになっているのかもしれないと思った。よくあるドッキリの類。現実では到底起こり得ない可能性を提示して、一も二も無く飛びついた愚か者を嘲笑う悪趣味な遊び。だいたい源次郎さんがこの世界に来たのは二、三十年前で、その時には流石に幻想郷なんて概念は無かった筈だ。そんな矛盾だってある。
けれどそれで説明してしまうことができない事柄が、あまりにも多すぎる。
僕はビルの屋上から飛び降りた。アスファルトに叩き付けられて終わる筈だった僕の意識は、シームレスに湖へと移行し、今もなお稼働している。眠らされて運ばれた訳でもなく、僕は東京の街並みから森の中へと瞬間移動している。そして僕のような親から勘当されたばかりのニートを騙すメリットなんて何一つない。
これは夢なのだろうか。
それとも、死ぬ間際の時間が遠大に引き伸ばされて、その最中に見ている幻覚なのだろうか。
けれど湖面に叩き付けられた痛みや、濡れ鼠になった寒さ、源次郎さんから貰った猪肉の美味しさは、どこどこまでも現実的だった。これが妄想の産物だったとしたら、僕はニートなんかじゃなく作家か何かになるべきだ。
そんな混乱のるつぼに叩き落されたせいで、僕は源次郎さんが気色ばんでいることに気付くのが遅れた。ハッとした時には既に、眼光鋭く僕を睨み付けるマタギの視線が僕を訝しげに検分していた。
「――おい」
「え、は……?」
一段低くなった源次郎さんの声に僕が驚かされるや否や、彼は置き捨てていた猟銃を機敏な動作で拾い上げる。彼の行動に迷いはなく、僕から目を離すまいとする彼の目付きは敵意と不信をなみなみと湛えていた。
「兄ちゃん、何で知ってんだよ。博麗の巫女さんの名前をよぅ……」
「え、だ、だって……その……」
「ちょっと立ちな」
取りつく島もなく、源次郎さんは僕へと銃口を向けてそう命じる。僕は両手を挙げて無抵抗の意志を表明するが、彼の敵意は微塵も薄まらない。
「俺に背中を向けろ」
「え、え、いや、ちょっと、待って下さいって……」
「早く!」
一喝され、僕はビクリと身体を震わせてから、大人しく彼に背中を向ける。
このまま撃ち殺されるかもしれない。
そう思うと、生きた心地がまったくしなかった。
だいたい、どうして源次郎さんは突然僕に敵意を向けなくてはならなかったというのだろう。霊夢の名前を知っていたから? そんなの不条理にも程があるじゃないか。東方の主人公たる彼女は同人ゲームの枠を超えて、テレビや何やらでも広く紹介されている。そんな有名なキャラクターの名前を知っていたからと言って、ここまで不審がられる理由が判らない。
動くなよ、と言いながら源次郎さんがゆっくりと僕に近づいて来る足音が聞こえた。僕の両膝は滑稽なほどに震え、歯の根も合わない。ビルから飛び降りる寸前だって、こんなに怖くはなかった。一度は捨てたはずの命だと言うのに、それが呆気なく失われるかもしれない分水嶺にあって、僕は心から死にたくないと思った。
源次郎さんは僕のすぐ真後ろに立つと、どうやら僕のTシャツの裾を掴んだようだった。それをそのまま、僕の了解を得ることもなく腰の辺りまで強引に引き上げる。
「……ふむ」
彼は何をしようとしているのだろう。拍子抜けした、とでも言わんばかりの声音で呟くと、「悪かったな、もういいぞ」と柔らかく宣言した。両手を上げながら振り返ると源次郎さんは僕から銃口を離して笑っており、そこでようやく僕は死なずに済んだことを悟り、安心のあまりその場に崩れ落ちてしまう。
「い、いったい……何だったんですか……?」
「ああ、渡来人が巫女さんの名前を知ってる訳がねぇからな、てっきり狐狸の類が兄ちゃんに化けて、俺を騙くらかそうとしてんのかと思ってよぅ……だが、尻尾がなかったもんだから、やっぱり兄ちゃんは人間だって確認したってわけよ」
そう言って源次郎さんは肩を竦める。ジワジワと湧いていた厭な汗が、髪の毛の生え際から滝のように流れていくのが判った。
――何の因果か、僕が確かにいま幻想郷に居ると仮定しよう。
もちろん僕はまがりなりにも東方projectのファンだから、幻想郷の事情について一通り知っている。博麗神社、人間の里、妖怪や様々なキャラクター。しかしそうした外部からの観測者が存在しているなんて、この世界の住民は夢にも思っていないのだ。
それは例えるなら、転校生が初日からクラスメート全員を知っているような現象なのだろう。君は山本さんだよね。君の生活は全部知ってるよ。そんなことを滔々と語る奴は、傍目から見ればどう考えても異様で奇妙で気持ち悪いに決まってる。
現に源次郎さんは僕のことを猛烈に疑った。
場合によっては射殺をも辞さないような厳しい態度で、僕のことを糾弾して来た。それはこの幻想郷についての情報なんて何一つ持っていない筈、という前提条件を僕が破ってしまったからだ。
同じことは多分、僕が良く知っているキャラクターたちにも適応される。
君は霊夢だね。魔理沙だ、こんにちは。咲夜さん、素敵です。妖夢ちゃん、やっぱり可愛いね。初対面の成人男性からそんな風に親しげに話し掛けられたら、少女たちはどんな気分になるだろう。外の世界なら即座に通報されて新聞記事を飾ること請け合いだ。
つまるところ僕は幻想郷について、何一つ『知っていてはいけない』のだ。
僕が迂闊なことを口走れば、大好きなキャラクターから汚物でも見るような目で気持ち悪がられるかもしれない。そう考えると酷くゾッとした。残念なことに、僕は人から蛇蝎のように嫌われることに興奮できるような鋼のメンタルなんて持ち合わせていない。
「……にしても兄ちゃん、お前さん、どうして博麗の巫女さんの名前を知ってたんだい? アンタは幻想郷にいまさっき来たばかりだろう? お前さんが人間なのは判ったが、その点が俺にはどうしても判らねぇ」
「ああ、いや、えっとですね……」
見つけたばかりの前提条件を念頭に置いて、僕はこの場を何とか言い逃れるための術を考え始める。正直に全部説明してしまおうかとも思ったけれど、引き籠っていた僕のコミュニケーション能力でそれが可能だとは到底思えなかったし、信じて貰えるとも思えなかった。あなたたちの生きている世界は、実はゲーム化されています。そんなことを口走って、いったいどこの誰が、ああそうですか、と納得してくれると言うのか。
「あ、博麗神社、という場所に聞き覚えがあって、参拝したことがあるんです……えっと、そこには、巫女さんの名簿、みたいなのがあって……そこに、霊夢……さんって方の名前があったのを、咄嗟に思い出して……」
少し苦しい言い訳だとは思ったけれど、整合性はあるはずだ。博麗神社は外の世界にも同じ物があるというのは公式設定なのだから。幻想郷内部から、外の博麗神社に干渉できない以上、そこに名簿があるかどうかなんて判るわけがない。
「へぇ……」
案の定、源次郎さんはあまり納得できなかった様子だったけれど、とりあえず僕の言い分を飲みこんでしまうことに決めたらしい。うん、と小さく頷いてから、また猟銃を自分の足元に置いた。
「まあ……名前なんて大した問題じゃねぇわな。うん、兄ちゃんが人間なのは俺がきっちり確認したし、それなら良いんだ。で、どうするよ?」
「どうする、とは?」
「だから、アレだよ。兄ちゃんは元の世界に戻りたいのかって話」
「あぁ……」
そうだった。元はと言えば、その話からあんな剣呑な展開へと転がり込んでしまったのだ。なるほど、確かに外の世界から迷い込んだ渡来人は、運よく死ななければ博麗神社から外へと戻れるというのもまた、公式設定だった。
けれど、と僕は考える。
元の世界に戻って、僕はいったいどうするというのだろう。
父から勘当されて、人生に絶望して死ぬことを選んだ僕に、元の世界に対する未練があるのだろうか。元の世界に戻って、家に帰って、それからの僕の人生に、希望の存在する余地なんてあるのだろうか。
断言する。そんなものはない。
のこのこと戻ったところで、僕はまた父から追い出されるのがオチだ。母は匿ってくれるかもしれない。けれどそんなものは長続きしない。高校すら満足に卒業できなかった僕が、これから独力で生きていける自信なんて全然ないのだ。
僕は強い人間じゃない。家から追い出されたくらいで自殺を選ぶような弱い人間だ。そして僕はどういうわけか、心のどこかで憧れていた世界への移住を果たした。
元の世界に戻らなくてはいけない理由が、どこにあるのか知りたいくらいだ。
「僕は、戻りたくないです……」
拳を握りしめながら言うと、源次郎さんは意外そうな表情を向けてきた。
「戻ったところで、僕がきちんと生きていける可能性なんてほとんどありません。僕は、いままできちんと生きることができませんでした。それで父から勘当されて、そんな絶望でビルから飛び降りたんです……元の世界での僕は、もうその時に死にました。これから新しい人生を始めるにせよ何にせよ、それは幻――いえ、この世界の方が良いような、気がするんです……それまでの自分を捨てて、新しい自分として……」
「そうか」
柔和な微笑みを浮かべた源次郎さんは、僕の肩をポンと叩いて言う。彼の手は力強かった。僕と同じくそれまでの自分の世界に絶望して、この世界に渡り、そこから独力で生きてきた大先輩の手だ。
「俺みたいな渡来人の連中はよぅ――」
少しはにかむようにして後頭部を掻きながら、源次郎さんがポツリポツリと語り出す。
「生き延びた奴は、だいたいが元の世界に戻りたがるもんなんだ。妖怪が当たり前に居る世界なんか怖くて仕方ねぇ。元の世界のがマシだっつってな……そんな奴らを見る度に、俺は幻想郷に残ると決めた自分が変な奴なんじゃねぇか、俺が捨てた世界は、俺が思ってたよりもずっと良い世界なんじゃねぇか、って思っちまうもんなんだよなぁ……」
「そんなことないですよ……僕だって、外の世界がそんなに素晴らしいものだとは思いませんから」
「うん、俺と同じ風に思ってくれる奴がいるってのは、なんか心強いなぁ」
にっこりと笑った源次郎さんが、僕の背中をバシバシと叩いて来た。少し痛かったけれど、その行動の源泉にある彼の喜びを感じて、僕もまた彼と同じく笑ってしまう。
「よし、兄ちゃんの服が乾いたら、里まで連れてってやろう。身の振り方が決まるまでは、俺の家に居な。甘やかしてやることはできねぇが、できるかぎりの面倒は見てやっからよ。渡来人の先輩としてな」
「あ、ありがとうございます……助かります」
「うんうん、良い返事だ。外みてぇに便利な生活ってわけにゃいかねぇから、気張れよ」
朗らかに笑ってまた一つ僕の背中を叩く源次郎さんを見ながら、人生というのは、判らないものだと僕は思った。
異世界に旅立つなんて、現実逃避のフィクションに過ぎないと思って居たはずなのに、僕はこうしてどうやら東方projectの世界にいる。自分が変わったような気はまったくしない。きっと空も飛べないだろうし、魔法も奇怪な能力も使えるなんて思えない。けれど僕の人生は、確かに変わった。これまでのどうしようもなかった自分から決別して、新しい世界で新しい身の振り方を考えなくてはいけない。
ここから僕は、幻想郷で自分がどう生きていくかを、編み出して行かなくてはいけないのだ。
「そうだ兄ちゃん」
「何でしょう?」
「名前、なんて言うんだ?」
焚き火を挟んで切株に腰掛けながら、源次郎さんが思い出したように言う。ああ、と僕は今更のように自己紹介の機を逸していたことに気付いた。
何の変わり映えもなく、たまたま幻想入りしてしまった僕の名前。
大好きなキャラクターたちが大活躍する世界で、この世界について知らない振りをしながら、一般人としてひっそりと自分自身の生活を作り上げていく僕という個人の名称。
僕は多くを望まない。ただ自分が、好きな作品の世界の片隅にいるという自覚を胸にして、本編に決して絡むことのないモブキャラとして生きていければ、それで良いと思う。嫌われない為に関わることを放棄して、できれば遠目から自分の憧憬の対象を眺めるだけの身分として。
だからこそ。
あくまで普通の人間であり続ける僕の名前なんて、変わり映えのするような物じゃないのだ。
「僕の名前は、田村俊明です」
続く
折しも秋口に差し掛かりアキアカネの群れを泳がせる風は涼しいが、妖怪の山の向こうにはまるで夏の忘れ物のように、入道雲が所在なく佇んでいる。手巻き煙草に火を付けながら、僕は夏と秋の入り混じったような不思議な光景を感慨深く眺めていた。
命蓮寺の空気は慌ただしい。寺での結婚式はそう珍しいことでもないらしいが、どこか浮付いたような喧騒がこの場所、本殿の裏手の庭でさえも感ぜられる。それは、あれやこれやと働く寺の信徒のほとんどが少女であることに起因するのかもしれないし、あるいは僕自身が落ち着いていないからそう感じるだけかもしれない。
「――あなた、こんなところにいたのですか」
そびえる雲を眺めながら唇についた刻み葉を指でつまんで捨てていると、縁側の方の襖が開いて妻のそんな声が聞こえてくる。あぁ、なんて生返事をすると、跳ねるような彼女の笑い声が聞こえてきた。
「そろそろ式が始まりますよ。父親のあなたが居ないと、始まる物も始まらないではありませんか」
「――判ってるよ、ハツ」
まだ半分も吸っていない煙草の火を消して、革造りの携帯灰皿に捨てる。振り返ると、礼装に身を包んだ妻が頬の辺りに皺を寄せながら僕を見ていた。
互いにめっきり年を取ってしまったが、ハツの笑顔は昔と変わらない。彼女は笑う時、顔の全体で笑みを表現するのだ。その皺は若い時分と比べても見劣りしない魅力を湛えており、そこに年月の無情な重さを見ることはできなかった。
「小春はどうしてるかね」
「何だかぼうっ、としてるみたいですよ。あの子には緊張感がないのかしら」
「君に似たのだろう。昔を思い出すな」
「昔ですか? ちょうど私も思い出していたところです。あなたったら、歯の根も合わないくらいに緊張していましたものねぇ」
ほほほ、とハツは目を細め、口元をワザとらしく隠しながら笑う。僕らの結婚式などもう二十年も前の話だというのに、まるで昨日のことのように鮮明な記憶が蘇る。僕は酷く赤面する自分を認識する。
「まるで妖怪に食べられる直前の子供みたいでしたもの。はて、いつ自分は恐ろしい人喰いになってしまったのかしらん? と首を傾げずには居られませんでしたよ」
「僕のことは良いだろう……」
「そういう意味では、良一くんも似たようなものでしたわねぇ。先ほどチラと様子を見に行きましたら、彼も湯呑からほうじ茶を零してしまうんじゃないか、と心配になるほどに手が震えていましたから」
「そうか」
良一くん。里の金物屋で働く青年であり、今は若頭にまで出世している。仕事をしている時の彼はきっと父親に似たのだろう快活な好青年で、緊張なぞとは無縁なように思えたのだが、まあ男というのは概してそんなものだろう。
しかし山本さんのところの生意気なハナタレ坊主が、よもや僕の娘と結婚することになろうとは。つくづく、人生というのは判らないものだ。
「さて、待たせたね。小春の部屋はどっちだったか」
「こちらですよ。さっきも行ったばかりでしょうに。まだまだ耄碌するほどの歳ではないでしょう?」
「そう揚げ足を取らないでくれ。会話の契機みたいなものだったのだから」
「はいはい」
縁石の上で履物を脱ぎ、歩き始めていた妻の背中を追って命蓮寺の廊下を進んでいく。
――人生というものは、判らないものだ。
まさか自分のような人間がこうして妻を迎え、子供を設け、あまつさえ自分の娘の結婚式に親父として参加するだなんて、昔の僕には想像もできなかった。
だってそうだろう。部屋いっぱいの同人誌に囲まれ、美少女フィギュアを愛で、部屋に引き籠ってゲームばかりしていたオタクニートが、幸せについて本気出して考えてみることなんてできる訳がない。高校を中退して大学にも通わず、社会が悪い政治が悪いこの世の中は間違っている、と責任転嫁ばかりしていた『昔』の僕には、未来について建設的に考える余地なんて皆無だった。
廊下の角を曲がると、小春が待機している部屋の襖が見えてくる。襖の向こうから、浮かれた少女の声が聞こえて来て、一瞬だけ僕の身体に要らぬ緊張が走る。
意図的に息を大きく吐きながら、やれやれと思う。この部屋は親族専用の待機部屋だと聞いていたというのに。
「小春? 入るわよ」
言うや否や、妻はほとんど小春の「はーい」という返事を待たずに襖を開ける。思春期の男子が怒髪天を突く行為だ。ハツのこの癖を見る度に、僕は息子が居なくて良かったと思ってしまう。家庭内不和の原因を作りかねない。
部屋の中へ入る妻の後に続くと、部屋の中では白無垢に身を包んで化粧も済ませた僕の娘が、一人の少女と向かい合って談笑していた。
もちろん、僕は娘の友達であるその少女を知っている。
……何なら娘が生まれる前、僕が妻と結婚する前、今の仕事を始める前、里の住人になる前から知っている。
「おばさん! おじさん! 本日は小春ちゃんの結婚式をお祝いに来ました!」
「まぁまぁ、相変わらず、妖夢ちゃんは元気一杯ね」
ハツが少女――魂魄妖夢を見て微笑むのが判った。その声音が微かに憧憬の香りを内包していることに僕は気付く。女性の身なれば、昔からほとんど変わらない若さを保ち続けている少女に対して思うことがあるのは無理もなかろう。特にこうした結婚式というシチュエーションにおいては、なおさら時間についての感慨が湧くに違いない。そう思った。
僕は何も言わない。この少女は苦手だ。嫌いだから、という理由ではない。むしろその正反対だからこそ、僕は彼女に対して距離を取らざるを得ないのだ。それはずっと前から、自分に課した不文律だった。
「それにしても小春ちゃんが結婚かぁ……いいなぁ。私もカッコいい男の人と結婚したいなぁ」
「その内できるわよ」
角隠しを被った娘が、妖夢の肩にポンと手を置いた。
「私だって妖夢の結婚式に参加したいよ。だから早く成長しなさいな。友人代表の挨拶をする時に、よぼよぼのおばあちゃんになってたら嫌だもんね。そうでしょ?」
成長という言葉をまるきり感じさせず十代中盤の見た目と精神を維持し続ける妖夢は、むくれたように唇を尖らせながら「しょうがないじゃない。生まれつきなんだし」と返す。本当に、昔からまったく変わらないなと僕は思う。小さかった娘と遊んでくれていた時から。僕が直接見た訳じゃない、春雪異変の時から。
そう。僕は妖夢のことを知っている。知っていた。僕がいわゆる『幻想入り』をするよりも前から。
東方projectのキャラクター。初出は東方妖々夢。その後も永夜抄、萃夢想、花映塚……etc.etc.多くの作品に登場し、人気の高いキャラとして多くの人々から愛されていた彼女のことを。
そんな彼女が何の因果か小春の友達として、小春の結婚式に出席するとは、つくづく人生というものは判らない。
「それじゃ、そろそろ式も始まりそうですし、もう私は行きますね」
「うん、また後でね妖夢。大人しくしてるのよ?」
「もう、子ども扱いしないでよ。私は小春よりもお姉さんなんだからね」
「はいはい」
妻と僕とに頭を下げてから、妖夢は小走りで部屋を後にする。隣に立っていたハツが、小春からは見えない角度でそっと僕の手に触れるのが判った。
渡来人である僕が、この幻想郷についてあらかじめ知っていたということは、ハツにしか言っていない。
だからハツのこの手は、ある種の慰めなのだと思う。彼女は聡く、勘も良い。僕のことを隅から隅まで見通している。僕がこの場面で何も思わず、何も感じずには居られないと知っているのだ。そんな彼女の気遣いがありがたくもあり、それ以上に申し訳なくて堪らない。気遣われる僕の心は、どう見積もっても家族への裏切りに他ならないから。
相変わらず、僕は何も言わない。静かに妻から距離を置き、妻の温もりから一歩分離れる。妻と娘から離れたい。この浅ましい気分を、僕の家族から遠ざけてしまわなければならない。そんな僕の罪悪感も、きっとハツにはお見通しだろう。
――僕は昔、本気で妖夢を愛していた。
いや……『好きだった』と訂正しよう。
その気持ちは憧れであって所有欲であって、家族に向ける愛情とは根本的に異なると知っている。手を取り合って共に生きていく覚悟を決められるような、そんな『本気』とは比較にすらならないと知っている。
なのに僕は、今になってもその下らない憧憬から逃げきれていないのだ。
罪悪感の一つも湧かないと妻や娘に合わせる顔もない。
「……綺麗よ、小春」
感嘆のため息に乗せるようにして妻が言う。心の所在があいまいになっていた僕も、ハッとしてから同じ言葉を口にする。娘の婚礼に際する父親然として。ぶっきらぼうに。
「ありがとう、お母さん……お父さん」
小春は一瞬だけ感極まったような泣き顔を見せた後に、まるで大輪の花みたいな満面の笑顔を見せる。同じだ。この笑い方は、ハツにそっくりだ。小春の顔を見ながら、僕は胸の詰まるような思いがする。
妻に感謝している。娘を愛している。
全身全霊で僕は家族を想っている。絶えることのない幸福を願っている。
この気持ちに嘘はない。
なのにあの少女を――妖夢を見るとどうしても、僕の時間はほんの少しだけ止まってしまう。まるで十六夜咲夜が、何気ない所作で懐中時計を弄るみたいに。
……僕の時間、僕の半生、僕の歴史。
望んだ世界に来れたところで、望んだ人生が送れるとは限らない。
僕は能天気なラノベの主人公でもなければ、大舞台で華麗に立ち振る舞う主役でも無かった。未来の僕は常に過去の中にあり、世界線を飛び越えたところで僕という個人の連続性が失われることはない。
僕には新しくて発展性があって応用の利くようなスゴい能力が目覚めたりしなかった。何の脈絡もなく空が飛べるようにも、オッドアイになることも、ちょっと不思議でエッチな女の子が前触れも意味もなく僕を奪い合うこともなかった。
僕は最初から最後まで僕であって、それは『外の世界』だろうが『幻想郷』だろうが何も変わらない。神様が自己投影できるような、格好の良くてご都合主義なキャラクターなんて僕という存在のカテゴリーには最初から含まれていなかったのだ。
娘の結婚式。僕の人生における大きな節目。
改めて僕は、僕の半生を振り返ってみようと思う。
僕の人生は奇跡も魔法もあって、不思議な女の子が沢山いる異世界モノとしてはまったく成立しない。僕のライフログをプロットとして出版社に持って行ったところで、門前払いをくらう程度には変わり映えがないと自負している。
けれど確かに、何一つとして変化がなかったと言えばそれは誇張だ。僕は年を取ったし、妻も子供もできた。お酒は相変わらず飲めないけれど、手巻き煙草を吸うようになったし、人の目を見て話せるようにもなった。仕事を始めて自分の店を持つようにもなった。
まぁ、そんな一人の男のちっぽけな成長は、『異変』と呼べるような大きな出来事とは全く違うなんてことは、判っているのだけど。
◆◆◆
駅前にある雑居ビルの屋上から飛び降りて死のうと思ったのは、僕が23歳の誕生日を迎えた日の夜10時のことだった。本当は引きこもりになる原因を作った僕の出身高校の屋上から校庭へとダイブしたかったのだけど、昨今の社会情勢には23歳無職の引きこもりを校内へ入れてくれるだけの優しさなんてなかったし、僕の方もガードマンに向かって「あのぅ、すみませんが、屋上から飛び降り自殺をしたいので入校許可証をくれませんか?」と言うだけの度胸はなかった。
自殺を思い付いた理由は至極単純。人生と社会に疲れてしまったからだ。
もうちょっと具体的に言うと、大学にも行かずバイトもしない穀潰しの僕を、酔って帰って来た父親が勘当したことだった。しこたま怒鳴られ、ぶん殴られ、「テメェみたいなクズは俺のガキじゃねえからとっとと消え失せろ」と唾を吐かれることが、父から賜った23歳の誕生日プレゼントだった。肉親からそこまでされて自殺せずに立ち直れるような人間がいるなら、是非ともお目に掛かりたい物だ。そして僕は立ち直れる人間じゃなかった。だから死のうとした。それだけの話。
私立の高校に比べれば、駅ビル屋上への侵入なんか簡単だ。雀荘やパブの詰め込まれた汚い雑居ビルに、セキュリティの概念なんか皆無だった。なんせ屋上へ至る扉には、鍵すら掛かっていなかったのだから。転落防止の措置だって錆の浮いた手すりぐらいだったし、現に僕はそれを乗り越えてビルの縁に立っているのだ。
そんなわけで僕は父に殴られた頬に手を当てながら、足元の道路で輝くネオンや車のヘッドライトを見ていた。雑居ビルは8階建てで、死ぬには充分な高さを誇っている。歩道を行きかう人々はまるで蟻のように小さく見え、微かに見える点の一つ一つに人生という物語が詰まっているなんて悪い冗談のようだった。
酷く熱を持った左頬を擦りながら、僕が考えていたのは母のことだった。会社で面白くないことでもあったのだろう、酒臭い息を吐きつつ千鳥足で帰って来た父は今日が僕の誕生日だったなんて忘れてたに違いないが、母はコージーコーナーのケーキを買って来てくれて、「アナタの人生は、きっと良くなるから」と僕の手を握ってくれたのだ。その言葉を鵜呑みにできるほど、僕が純粋じゃなくなってしまっていたのはさておき。
僕が父から罵声を浴びせられているとき、母は泣いていた、と思う。僕の胸ぐらを掴む父から逃げるようにして離れ、キッチンの角に蹲ったのを僕は見た。母は優しい人だったが、優しさゆえの厳しさとは無縁の人だった。母からきつく叱られた記憶はなかったが、父が僕を罵る時に僕を庇ってくれた記憶もなかった。父が居ない隙を見計らうように、そっと僕を慰めたくらいだ。イジメられて不登校になった時も、部屋から出なくなった時も、大検に落ちた時も。
僕が死んだら、母は変わるだろうか。一言はおろか視線でさえも父に歯向かうことのなかった母は、父に詰め寄るだろうか。「アナタがあの子を殺した」と叫ぶだろうか。案外、いつものようにキッチンの角で蹲るだけかもしれない。
どうしてこうなったのだろう。それまで掴んでいた手すりから手を離しながら僕は思う。
いざ死のうと決心すると、不思議なことに浮かんでくるのは楽しかった思い出ばかりだった。幼稚園のかけっこで一等を取ったこと。菓子作りが得意だった母と初めて一緒に作ったクッキーの味。お小遣いで洋菓子のレシピを買い、父と母にケーキを作ったこと。母はもちろん、父でさえも「美味しい、美味しい」と笑いながら僕のケーキを食べてくれた。
――そして、自分の部屋に閉じ籠ってから好きになった、東方projectのこと。
コンティニューを目いっぱいに使い切って、初めてEasyをクリアしたのは地霊殿だった。ノーコンでNormalをクリアしたのは妖々夢だ。永夜抄ではやっとの思いでExボスの妹紅を倒した記憶も蘇った。数多くのキャラクターの中で妖夢が好きになったのは、その時だ。妹紅の蓬莱人形を打破したのは幽々子ではなくて妖夢の一撃だった。
死んだら妖夢に会えるのか――なんて考えたところで、あまりの情けなさに自嘲の笑みがこぼれた。そんなのは流石に、23歳の男が心から信じことのできるおとぎ話じゃない。
人は死んだらそれまでだ。
死後の世界も、輪廻転生もない。僕の死は僕の世界の終わりでしかなく、僕の人生にコンティニューはない。そして僕に、これ以上自分の人生を続ける意思もまた、なかった。
さぁ、もう終わらせよう。エンド・クレジットだ。空を飛べない僕の命は、ここから何気なく一歩を踏み出すことで呆気なく終わる。
僕は目を閉じる。流石に目を開けたまま自分が落ちて行く光景を見るのは怖い。大したことじゃない。ここが普通の道だと思えば良い。足を前に踏み出せば、そこにあるのは虚空なんかじゃなくて、ただのアスファルトなんだと。
どこかで車がクラクションを鳴らしている。ビル風が僕のTシャツをはためかせる。今日が新月だから見ることの叶わない月の陰影を思う。都会の真っ只中だからロクに見えやしない星空を思う。僕はなんてちっぽけな存在なんだろうと思う。思えた。そして右足を一息に前へと踏み出し――。
僕は取り返しのつかない領域へ、一線を越えて落ちて行く。
目を固く瞑る。自分が重力に従って地面へ引き寄せられていくのが判る。恐怖。僕は死ぬ。その事実が今更のように僕の心を強く握りしめた。死にたくないと思ったけれど、ここからどうやって生還すれば良いと言うのだろう。そもそも自殺を思いとどまったりしないように、ビルの屋上から飛び降りることを選んだのだ。その目論見は、見事に成功を収めていた。僕はもう助からない。
地面に頭蓋を砕かれるまでの時間間隔が引き伸ばされている。まだ着かない。まだ死なない。早くこの怖さが終わってしまえばいいと思った。きっと僕は大声で叫んでいたけれど、聴覚は暴力的なまでの風の音ばかりを拾って、僕の悲鳴なんか聞こえやしない。
どこまで落ちて行くんだ。
まさかこの落下は永遠に引き伸ばされるのか。
そう思ったけれど、ここで目を開けて自分を叩き割ってくれる道路までの距離を確認しようと奮起することはなかった。そこまで豪胆なら自殺なんてしないし、そもそも不登校にもならない。
けれど、どんなものにも終わりはある。
落下があるなら、その終着点も当然ある。
――『ザブン』、と。
僕は冷たい水の中に落ちた。
「ッ!?」
鉄の板で頭を思いきり殴られたような痛みがあった。その次に自分の意識が終わっていなくて、頭が痛いと感じる僕としての意識の主体が存続していることに疑問を感じる。
そして最後に、水の中に居る自分は息ができないことを思い出した。
「っ!? んっ!? っぐ!?」
そこからは反射だ。とっさに目を開けた僕はやっぱり水の中に居て、息苦しさから我武者羅に泳ぎだす。水温は冷たく、水を吸った服が重い。けれど僕はかすかな明かりが揺らめく方へと向かった。今の今まで死のうとしてた癖に、死なないために酸素を欲するのは馬鹿みたいだったけれど、僕はあくまで墜落死をしたかったのであって、溺死は御免被りたかった。自殺志願者にだって、理想の死に方くらいはあるってことだ。
「――ぶはっ!」
望んでいた酸素を思いきり肺へと取り込む僕は、自分が満天の星空の下、どこともしれない小さ目な湖の只中に居ることを知る。湖はそれなりに深いようで、足なんか届きそうもない。そもそもそんな浅瀬だったら、僕は望んだとおりに頭蓋を砕かれて死ねている。着水したらしい頭は痛く、身体は重くて、水面に顔を上げているのが精一杯だった。
辛うじて周囲を見渡す。電灯なんてどこにも見当たらない。湖はグルリと先の見通せない暗闇に沈んだ木々に囲まれていた。それだけ確認した僕はとりあえず、何とか自分に一番近い岸へと泳ぎだす。服は悪意を持って僕を湖の底へと引きずり込もうとしていたし、スニーカーを履いたまま泳ぐのは至難だったけれど、衣服や靴を手放す訳にはいかなかったし、水の中で溺死せずに服を脱ぐ訓練なんていったい誰が積むと言うのだろう。
つまるところ、この時点でもう僕に死ぬつもりなんてなくなってしまっていたということだ。
僕は生きようとしていた。助かろうとしていた。このまま冷たい湖の底で窒息死することが恐ろしかった。僕の脳内からは、父に殴られたことも、唾を吐き掛けられて勘当されたことも、今日が僕の誕生日だということも消えてしまっていた。
つたない平泳ぎの形で、僕は何とか自分の足が着く浅瀬まで辿り着いた。慣れない水泳で息は上がっていたけれど、身体は冷え切って関節が強張っていた。寒くて仕方がなかった。身体を抱くようにしてガチガチと歯を鳴らしながら、僕は手近な木の根元へ倒れ込むように座る。
「……生きてる……?」
かどうか、自身は持てなかった。なんせ僕は大都会東京の街に居て、ビルから投身自殺を実行した筈だったのだ。それがどうしてこんなワケの判らない湖で濡れ鼠になる結果に至るのか、さっぱり見当もつかない。
ここは、死後の世界なんだろうか。
そう考えるのが、最も合理的な判断のように思えた。
僕はきっと予定通りにアスファルトに叩き付けられて即死し、そのまま天国かどこかに送られたに違いない。死んだらそれまでだ、という持論は撤回せざるを得ないだろうけど、湖に叩き付けられた頭が痛むし、びしょ濡れで凍えているので、極楽浄土のイメージとは程遠い。
周囲に人気はなく、天使も閻魔も姿を見せない。明かりと言えば都会とは比べ物にならないほどの量を誇る星屑ばかりで、湖面は墨でも流したように黒い。いっそ月でも出ていればもうちょっと周囲の様子が判っただろうに、そう言えば今日は新月だったのでそれも望めない。天国にも現世と同じ月が出ているかどうかはしらないけれど。それにしても、手を伸ばせば自分の指の形すら判らなくなってしまうほどの暗闇だった。
日が昇るまで、ここから動けそうもない。
せめてもの前向きな行動として、まず濡れた服を乾かすことにした。と言ってもシャツやボトムス、下着なんかを脱ぎ、それらを雑巾のように絞るくらいが関の山だった。野外で裸になるなんて初めての経験で、それは少しだけ僕の気持ちを解放感でもって高揚させた。昔からボーイスカウトみたいなアウトドア派とは相容れなかったけれど、それは野外で服を脱ぐという行為が、喧しい連中の本能らしきものを掻きたてるせいだったのかもしれない。
水を絞った下着とボトムスを履くと、さっきに比べれば随分と寒さがマシになった。完全に乾かすのは無理だとしても、びしょ濡れの状況なんかとは比べ物にならない。
こういう時は、焚き火でもするもんなんだろうな。
絞ったシャツで身体をサッと拭き、それをまた絞っていそいそと身に付けながら、僕はよくアニメなんかで見る遭難の風景を思ってため息を吐く。大抵、可愛い女の子が毛布を掛けられて体育座りをしている、アレだ。けれどいざ遭難して濡れ鼠になってみると、アニメの遭難風景がどれほど恵まれた環境なのかを知る羽目になった。僕には傍に居てくれる可愛い二次元の女の子はおろか、毛布も着火器具もないのだ。こんなことなら喫煙者にでもなっておくんだった。臭いから、と煙草の煙を意味もなく嫌悪するのではなく。
「ふぅ……」
何度目か判らないため息を吐いて、僕は草の上に座り込んだ。周囲に広がる闇の中から、虫の音は幾重にも折り重なって聞こえてくる。フクロウと思しき鳴き声も聞こえる。ここが天国なのか何なのかは知らないけれど、少なくとも相応に深い森の中なのは確かだ。
これから僕はどうなるのだろう。
僕が落ちた湖の上に広がる星空を眺めながら、僕はようやくまっとうに先行きを不安がることのできる精神まで落ち着いた。水面に打ち付けた頭はまだ残響のように痛んでいるけれど、少しずつその痛みも和らいでいる。
しかしそもそも、痛みがあるというのはどういうことなんだろうか。
死ぬ瞬間に思い当たる節がないとはいえ、ビルの屋上から身を投げたことは確かなのだ。それは今更、疑う余地なんてない。なら僕はきちんと死んでいる筈なのに、僕の意識や記憶は終わることなく続いている。死後の世界というのはそういうものだと解釈するにしても、何というか、あまりにも自分の連続性が損なわれてなさ過ぎて、死んだという実感がまるで湧かない。
ビルから落ちる途中で、湖の上にワープしてしまったと考える方がよっぽど自然だ。
けれど常識的に考えて、そんなわけもない。Natureでワープ技術が完成したという情報を目にした記憶はないし、そもそもそんなSFチックな技術を、しがない自殺者の命を長らえるために使うようなお人好しがいるはずもない。死んだなら死んだで、きちんと自分が死んだことを実感させてほしい。そう思った。自殺者は年間で3万人も居ると聞くし、あの世もてんてこ舞いで僕なんかに気を留める時間がないのだろうか。それとも彼岸の連中は、時間外労働をしない主義なのかもしれない。お役所仕事もいいところだ。
宇佐美蓮子みたいに星空を眺めて時間や位置が判ればよかったのだけど、生憎僕にはそんな奇妙な眼はない。それどころかあまりにも星屑の数が多過ぎて、僕は見知った星座を見つけることすらできずにいた。死後の世界にも星が浮いているのは判ったけれど、それが僕の居た現世の星と同じなのかどうかを知ることはできそうもなかった。
こんなことになると知っていたなら、天文部にでも入っておくべきだった。
そんな風に無理のある後悔の念に苛まれながら、星空を眺めることをやめて視線を戻す。
すると、ちょうど前方の木立の奥の方で、微かな明かりがあるのを目の当たりにした。
「――ッ!」
ハッと息を呑む。ずっと暗渠の中に居て目が慣れたからか、はたまた星空を眺めている時間が長かったせいかは判らないけれど、それでも確かにさっきまでは見当たらなかった明かりが、ずっと遠くの方で僅かに揺らめいているのを見た。
思わず立ち上がり、目を細めて前方を注視する。見間違いじゃない。確かに明かりが窺える。それは電灯やライトのような無機質な光じゃなくて、温かそうなオレンジ色をしてゆらゆらと形を変える火のようだった。
誰かが焚き火をしているのだろう。
僕は夏宵に電灯へと集まる蛾のように、フラフラとその明かりの方へと歩いて行く。湖の畔をグルリと迂回し、木の幹に手を当てながら藪の中へと分け入った。人の手が入っていないからだろう、木々の間を埋め尽くす藪は太ももの辺りまで繁茂していて、歩くのに酷く骨を折らされた。けれど、そんな苦労なんて僕はまるで気にならなかった。間違いなくあの火の近くには誰かが居る。そのことが不安に押し潰されそうだった僕の足を迷いなく前へと推し進めた。
明かりが近付くに連れて、パチパチ、と火の粉が上がる音に加えて、何か香ばしい匂いがした。きっと何かの肉を焼いているのだろう。するとこの辺りは、キャンプ場のような施設が近いのかもしれない。何にせよ、悪夢のように黒い湖の畔でうずくまっているよりも百倍マシだ。そんな風にして僕はようやく、焚き火が上がっている区画まで辿り着くことができた。
焚き火をしていたのは幼女の人喰い妖怪で、僕はあっさりと捕まった。
なんてことが現実に起こるはずもなく、ちょうど僕に背を向ける格好で火に向かっていたのは、随分と古風な蓑を羽織った男だった。はて、と思いつつ無遠慮に一歩距離を詰めた。
すると藪を掻き分ける音を聞き付けたか、男は傍らに置いていた猟銃を手に取り機敏に振り返る。
銃口が自分に向けられたと気付くまでの数秒間、僕はまるで凍りついたみたく、男のいた広場に一歩足を踏み入れた格好で固まった。
猛禽類のように鋭い視線で僕を射抜いた男は、小首を傾げたかと思うと構えていた銃を降ろす。そこでやっと、僕は自分が射殺される寸前だったことに気付いて背筋が寒くなった。
「――なんだ兄ちゃん。見ねえ顔だな?」
酒焼けでもしているのか、酷く低くて不明瞭な声で男は言った。彼が蓑の下に着ているのは鼠色をした和服と黒いもんぺのようなズボンだった。焚き火に照らされる顔は浅黒く焼けていて、よく見れば右頬の辺りに傷跡があった。男は僕の父よりもずっと歳を取っているように見える。短く刈り込まれた髪の毛はたわしのようだったが、およそ半分ほどの髪が白くなっていた。
「おーい、兄ちゃん? 聞こえてるかい?」
「あ、ど、ど、どうも……」
そこでようやく、僕は男の発している言葉が紛うことなき日本語だということに気付く。銃の取り扱いが厳しく制限されている現代日本で育った僕が、生まれて初めて銃を向けられてすぐに、意味のある言葉を発せられただけでも勲章ものだ。男は銃を右手で担ぐように持つと、不審げに眉根を歪めながらゆっくりと近づいて来て、
「こんな夜中に何してんだ? 武器もねぇみてぇだし、いくら今日が新月だからってそんな格好で出歩いて、あっさり死んじまっても知らんぜ」
「あの、僕……えっと……」
「んあ? お前さん、その服……」
僕が何かを口走るよりも早く、男は僕が着ていたシャツとボトムスを見て、ふむ、と呟きながら左手の指先で顎の辺りを擦る。そして何事か得心がいったように、ははーん、と僕の目を見てニヤリと笑うと、
「……兄ちゃん、外の人か」
「へ?」
外、と言われて僕はとっさに空を眺めてしまう。ここが屋外なのは言うまでもない。けれど男が言ったのは、きっと村や集落といったコミュニティの外、という意味なのだろう。僕が苦労してそう理解している内に、男は腕組みをして訳知り顔で、
「そこの湖に落ちたんだな?」
「え、えぇ……」
「だろうな。服が濡れてら……兄ちゃん、アンタ、若ぇ身空だってぇのに、飛び降りなんざするもんじゃないぜ」
「――え?」
どうして知っているのだろう。僕は思わずマジマジと男の顔を見てしまう。やれやれと言った具合に懐へと手を突っ込んだ男は、煙管を取り出して咥えると、
「……ま、俺が言えた義理じゃねぇわな。どいつにだって、切実な事情って奴があるだろうしよぅ。年喰っちまうと、どうも説教臭くなっちまっていけねぇな」
「ちょ、ちょ、ちょっと待って下さい……どうしてアナタは――」
「源次郎だ」
「げ、源次郎さん……」
刻み葉を煙管の先端に詰める男のささやかな訂正を受けて、僕はきちんと彼の名前を呼んでから、緊張で暴れる心臓を落ち着かせるために唾を飲む。まさかこの猟師然とした男が、僕を導く天使だとでもいうのだろうか。だとすれば人選に難があり過ぎる。
「源次郎さんは、どうして僕が飛び降りたって知ってるんですか……?」
「なに、大したことじゃねえ。俺もそうだったのよ」
源次郎はそこで銃を置き、焚き火の方へと歩み寄ったかと思うと、火の中にサッと煙管の先端をくぐらせて煙草に火を点けてから咥え、肺の中に煙を流入させる。そうしてもうもうと紫煙を吐き出しながらどこか遠い目をして、
「二、三十年前だったか……俺の親父から任された会社が潰れちまってよぅ、借金も返せねぇ、女房も子供連れて逃げちまった、ってな具合で、もう生きてても仕方ねェと思ったもんで、飛び降りたのよ。そしたら、道路に叩き潰されるんじゃなく、今の兄ちゃんみてぇにそこの湖に落ちてなぁ」
「だとすると――ここはやっぱり、あの世なんでしょうか……?」
「さぁて、どっちだろうなぁ」
その言葉は僕を焦らすというよりはむしろ、源次郎にさえも判っていないような若干の困惑を乗せた独白に近い響きを持っていた。
「まぁ、たぶん俺は死んでねぇんじゃねぇか? こんな爺になるまで生きてるしよぅ……だが『ここ』がそれまで俺が生きてた世界とは、だいぶ違ぇ世界なのは確かだしよ。それに俺がビルから飛び降りたのもまた確かなんだし、何とも言えねぇんだよなぁ」
そう言って煙管の火皿から灰を落とし、火種を踏み消した源次郎さんは「ところで」と矢庭に口にすると、
「お前さん、服、濡れてんだろ」
「え、あ、はい……」
「風邪、引いちまうぞ。そこの火に当たっとけ」
「あ、ありがとう、ございます……」
「それと今な、猪の燻製肉を炙って喰ってたんだ。腹減ってるようだったら遠慮なく喰え」
言うと彼は焚き火で焼いていた串を一本取り、僕に手渡してくれた。串に刺さった肉からは食欲をそそる香りのする煙が立ち上っていて、その香りを嗅いだ途端に僕は急激に空腹を覚える。
「すみません……頂きます……」
「なーに、困った時はお互いさまって奴よ」
朗らかに笑った源次郎さんに何度も何度も頭を下げてから、僕は焚き火の傍に座って猪の肉を食べた。豚肉よりも遥かに弾力があって噛みちぎるのに苦労したけれど、今まで食べたどんな焼肉よりも美味しかった。噛めば噛むほど味が出てくるのだ。まるでグレードの高いホテルの朝食なんかに出てきそうなベーコンの旨味を、ギュッとコンパクトに凝縮させたようだと思った。
「ありがとうございます……美味しい、です……」
「なら何よりだ」
再び煙管に刻み葉を詰めていた源次郎さんは、唇の端に自慢げな笑みをほんの少しだけ携えて、ワザとらしく肩を竦める。本当は自分の作った燻製肉を褒められることが、こそばゆいのかもしれない。串に残った僅かな脂身も丹念に舐めとりながら、そんなことを考えていた。
「それにしても兄ちゃんは本当に運が良かったんだなぁ。飛び降りた日が新月でよぅ」
「へ?」
独白のように呟かれた源次郎さんの言葉に僕は首を傾げた。
そういえばさっきも、彼は今日が新月どうこうと言っていたような気がする。
確かに、ワケの判らないまま大都会東京から得体のしれない森の湖へとワープさせられた僕が、たまたま源次郎さんの野営と巡り合うことができたのは僥倖だ。これは間違いない。けれどそんな僕の幸運に新月がどう噛んでくるのか、当たり前のように月が見えないことの恩恵を語られたところで僕にはさっぱり判らない。
「その、新月が、どうしたんですか……?」
「新月のときは化けモン共が鳴りを潜めるからな」
「――ば、化け物、ですか……?」
よくよく言葉の意味すら把握できていないまま反射的に鸚鵡返しをした僕に、腕組みをした源次郎さんはウンウン、とどこか感慨深そうに頷くと、
「確かにな。こっちに来たばかりじゃ、そう言われても戸惑うだろうさ……だが、化けモンは居る。これは確かだ。満月の時なんかが一番良くねぇ。どいつもこいつも興奮してて、普通の人間じゃまず太刀打ちできねえからな。コイツがあっても」
煙管を咥えたまま、顎をしゃくるようにして源次郎さんが地面に置かれた猟銃を指す。僕はと言えば彼の御高説を至極ごもっとも、と拝聴することなんてできる筈もなく、目の前の初老の男性の正気を疑っていた。
だってそうだろう。
当たり前のような顔で『この世界には化け物が居ます』と言われたところで、いったいどこの誰がそれを頭から信じることができると言うのだろう。僕だって人より何倍も漫画やゲームやラノベに傾倒しているが、そんな僕をして化け物の存在を鵜呑みにできる奴なんて脳が小学生以下の馬鹿か、さもなきゃ病気を疑う他にない。世の中の識者たちが、声高に主張する漫画やゲームの悪影響というやつだ。現実と妄想の区別くらい、引きこもりの僕だってきちんとつけられる。
しかしながら化け物の存在を当然顔で語るこの老人は、僕に焚き火と猪の燻製肉を提供してくれた恩人にして、猟銃の所有者でもある。そんな彼がどんな荒唐無稽なことを語ろうとも、それを頭ごなしに否定する権利や資格なんて僕の方にはない。
仮に僕が、
『あっはっはーッ! 化け物なんかこの世に存在する訳ないじゃないですか! 脅し言葉にしたってチャチ過ぎて鼻で笑っちゃいますよーう!』
なんて言ってみろ。最悪、構え、狙え、撃て、という三段活用によって呆気なく死亡ということだって有り得るのだ。いまこの瞬間、僕の身に起きていることがどれほど常識外れで馬鹿馬鹿しいとしても、源次郎さんの猟銃に殺傷能力がないことを疑う理由はない。
なので僕は、
「新月の時なら、安全なんですか……?」
と、取り敢えず話を合わせることにする。仮に源次郎さんが化け物の存在を主張する色々と危ない人だとしても、刺激しない限りは良い人なのは間違いなかろうと思ったからだ。
僕の返答を聞いた彼は結構意外そうな表情をしてから煙管の灰を地面に落とすと、
「何だい兄ちゃん、疑わねえのかい? アンタの他にも何人かの渡来人の相手をしてやったことがあるが、誰もがヘラヘラ笑って『妖怪なんかこの世に居ねえ』ってなことを言うもんだったんだがなぁ……」
「疑わないと言うか、そりゃ、俄かには信じがたい話だとは思うのですが……」
源次郎さんの応答が思っていたよりもずっとまともだったので、とりあえず彼が自分独自の世界に引き籠っちゃう系の激ヤバ老人ではないと悟り、僕は少し安心してから言う。適当に話を合わせようとした、というのもあまり心証が良くないだろうと思ったので、つたないにも程があるコミュニケーション能力を何とか駆使して、
「僕の身に何が起きてるか、その、判らない状況ですし……源次郎さんが、ぼ、僕と同じような経験をしてらっしゃるなら、素直に聞いておくべきだと、思って……」
「そっかそっか。そりゃ、賢い判断だ。兄ちゃん、アンタなかなかオツムの出来が良いんだなぁ」
そう言って源次郎さんはニカっと歯を見せて笑う。よく見ると左上顎の方の犬歯がなかった。その抜けた歯の部分に、煙管の吸い口がすっぽりと嵌っている。
「で、何だったか……あー、何か聞いたよな、兄ちゃん、な? 俺に」
「新月、ですね」
「そうそう、新月だったな。ウン、そうさなぁ。新月の時だとな、妖怪共が普段に比べりゃ大人しいのよ。他の時は、危害を加えられても文句言えねえんだがな」
「危害を加える、というのは、その……『妖怪』は、人間を食べる、のですか?」
「らしいな」
煙管を和装の袂に仕舞い込んだ源次郎さんが、先ほどから一定の火柱を上げて燃え上がる焚き火をジッと眺めながら言う。
「少しでも月が出てるとダメだ。妖怪の行動が活発になるからって、夜間に里から離れるのは許されねぇ。だが今日は新月だから、俺もまぁマタギの仕事をずっとやってるし、特別に出歩かせて貰ってる。この辺の獣道に幾つか罠を仕掛けてんだ。日が昇るまで待つと、罠をぶっ壊されて取り逃がしちまうことがあるんでな。ひと月に一回とは言え、仕事が捗ってるって寸法だ」
「里、があるんですか……?」
「ん、あぁ。あるぞ。人間たちが寄り集まって暮らしてるんだ。里の中に居る人間に危害を加えんなってルールが、妖怪連中にあるらしい。だから、里に居りゃ安全って奴よ」
「『里の人間に、危害を加えないルール』……ですか」
なんだろう。
どこか、どこかでそんな文言を目にしたような気がする。
そんなに昔の記憶じゃない。つい最近だ。けれども、いったい自分がどうしてそんな文言に引っかかっているのか、僕は上手く思い出すことができずにいた。投身自殺を経てどことも知れない森の中に転送された現状と、その引っ掛かりはあまりにも互いに離れすぎていて、うろ覚えの知識と現実をリンクさせることができない。
「おう。だから、里ん中にも時々妖怪が来てるなぁ」
「え……? 危なくないんですか?」
「いんや? 誰も人間に危害を加えたりしねえからな。里の連中も、きちんとルールを守る妖怪相手には、懇意にしてるみてぇだぜ」
――また、だ。
源次郎さんの語る言葉は、さっきから一々僕の脳裏にある既視感を揺さぶってくる。デジャビュというやつだろうか。脳の誤作動によって、かつて体験したことがあると判断してしまうという現象。僕は源次郎さんとさっき初めて会った筈なのに、なにか僕の脳内に溜め込まれた知識と摩擦を起こしている。そう思った。
けれど、それはいったいどんな知識だと言うのだろう。
どこかの神話か何かだっただろうか。それとも民俗学的な街談巷説の類だっただろうか。どちらも近いような気がするし、それと同時にそのどちらでもないという判断もまたあった。めくるめくデジャビュに幻惑される僕の脳内は、ジェットコースターにでも乗った後のように揺さぶられ、乗り物酔いにも似た感覚で僕を遠慮なく苛んでいた。現実感のまるで無い物事が、僕が今存在している現実へ侵食しようとしているような気配を感じる。
渡来人、妖怪、里、ルール。
これらに僕は何かしらの共通点を感じずには居られなかった。どこかで聞いたのだ。そうした言葉が頻出する概念を。けれどそれは喉元まで出掛っている癖に、断固として僕の現実と混じり合うことを拒絶している。そんなもどかしい感情を抱いた。
「……ところで兄ちゃん」
「え、あ、はい?」
僕の脳髄で喚き立てる何かの正体を必死で探っていた僕の耳に、どこか労わるような口調で発せられた源次郎さんの声が届いた。慌てて彼の方を見ると、彼は僕から視線を逸らすような表情で、どうにも歯切れ悪く、
「元の世界に戻れるっつったら、アンタは戻るか?」
と、言う。
――元の世界。つまり、いま僕や源次郎さんが存在して、妖怪やら里やらという概念が跋扈する時空とは異なる、僕がまがりなりにも僕としての現実を生きていた世界のこと。
もちろん、その言葉にも既視感があった。なんなら源次郎さんの表情を見て、そんな風な意味のことを口走るんじゃないかと予測できたくらいに。
それと同時に、僕の脳裏に微かな心象風景がサッと過る。ハードカバーの本。様々な『設定』が練り込まれた豪奢な参考書。キャラクターや舞台についての情報を、紹介絵巻としてのコンテクストで綴られた書籍――。
……東方求聞史紀。
そんな馬鹿な、と僕は思う。あれはフィクションだ。神主、とファンから親しまれる一人の男性が作り上げた架空の世界についての物語だ。少しばかり似ているからと言って何でもかんでも『それ』とタグ付けて考えてしまうのは、オタクと呼ばれる人種に等しく備わっている悪癖だ。
しかし源次郎さんは僕のそんな困惑を、元の世界に戻るという選択肢を開示された故だと誤認したのか、「そうだろうなぁ……」と頭を振りながら呟く。僕は彼の残念そうな声音の真意が判らない。それよりももっと大きな混沌が僕の思考に捻じ込まれていたからだ。
そして彼は小さくため息をついて。
決定的な言葉を口走る。
それはやはり、僕の予想を裏切らないものだった。
とてつもなく残酷な悪夢のように。
「――この『幻想郷』から出たいなら、博麗神社の巫女さんに頼めば元の世界に戻れるぜ」
「霊夢……のこと、ですか……?」
幻想郷。
博麗神社。
紅白の巫女、霊夢――。
――僕は東方projectの舞台、幻想郷に居る。
馬鹿げた話だと思う。
そしてそれ以上に、もしかしたら僕は今まさに、目の前の男性から騙されそうになっているのかもしれないと思った。よくあるドッキリの類。現実では到底起こり得ない可能性を提示して、一も二も無く飛びついた愚か者を嘲笑う悪趣味な遊び。だいたい源次郎さんがこの世界に来たのは二、三十年前で、その時には流石に幻想郷なんて概念は無かった筈だ。そんな矛盾だってある。
けれどそれで説明してしまうことができない事柄が、あまりにも多すぎる。
僕はビルの屋上から飛び降りた。アスファルトに叩き付けられて終わる筈だった僕の意識は、シームレスに湖へと移行し、今もなお稼働している。眠らされて運ばれた訳でもなく、僕は東京の街並みから森の中へと瞬間移動している。そして僕のような親から勘当されたばかりのニートを騙すメリットなんて何一つない。
これは夢なのだろうか。
それとも、死ぬ間際の時間が遠大に引き伸ばされて、その最中に見ている幻覚なのだろうか。
けれど湖面に叩き付けられた痛みや、濡れ鼠になった寒さ、源次郎さんから貰った猪肉の美味しさは、どこどこまでも現実的だった。これが妄想の産物だったとしたら、僕はニートなんかじゃなく作家か何かになるべきだ。
そんな混乱のるつぼに叩き落されたせいで、僕は源次郎さんが気色ばんでいることに気付くのが遅れた。ハッとした時には既に、眼光鋭く僕を睨み付けるマタギの視線が僕を訝しげに検分していた。
「――おい」
「え、は……?」
一段低くなった源次郎さんの声に僕が驚かされるや否や、彼は置き捨てていた猟銃を機敏な動作で拾い上げる。彼の行動に迷いはなく、僕から目を離すまいとする彼の目付きは敵意と不信をなみなみと湛えていた。
「兄ちゃん、何で知ってんだよ。博麗の巫女さんの名前をよぅ……」
「え、だ、だって……その……」
「ちょっと立ちな」
取りつく島もなく、源次郎さんは僕へと銃口を向けてそう命じる。僕は両手を挙げて無抵抗の意志を表明するが、彼の敵意は微塵も薄まらない。
「俺に背中を向けろ」
「え、え、いや、ちょっと、待って下さいって……」
「早く!」
一喝され、僕はビクリと身体を震わせてから、大人しく彼に背中を向ける。
このまま撃ち殺されるかもしれない。
そう思うと、生きた心地がまったくしなかった。
だいたい、どうして源次郎さんは突然僕に敵意を向けなくてはならなかったというのだろう。霊夢の名前を知っていたから? そんなの不条理にも程があるじゃないか。東方の主人公たる彼女は同人ゲームの枠を超えて、テレビや何やらでも広く紹介されている。そんな有名なキャラクターの名前を知っていたからと言って、ここまで不審がられる理由が判らない。
動くなよ、と言いながら源次郎さんがゆっくりと僕に近づいて来る足音が聞こえた。僕の両膝は滑稽なほどに震え、歯の根も合わない。ビルから飛び降りる寸前だって、こんなに怖くはなかった。一度は捨てたはずの命だと言うのに、それが呆気なく失われるかもしれない分水嶺にあって、僕は心から死にたくないと思った。
源次郎さんは僕のすぐ真後ろに立つと、どうやら僕のTシャツの裾を掴んだようだった。それをそのまま、僕の了解を得ることもなく腰の辺りまで強引に引き上げる。
「……ふむ」
彼は何をしようとしているのだろう。拍子抜けした、とでも言わんばかりの声音で呟くと、「悪かったな、もういいぞ」と柔らかく宣言した。両手を上げながら振り返ると源次郎さんは僕から銃口を離して笑っており、そこでようやく僕は死なずに済んだことを悟り、安心のあまりその場に崩れ落ちてしまう。
「い、いったい……何だったんですか……?」
「ああ、渡来人が巫女さんの名前を知ってる訳がねぇからな、てっきり狐狸の類が兄ちゃんに化けて、俺を騙くらかそうとしてんのかと思ってよぅ……だが、尻尾がなかったもんだから、やっぱり兄ちゃんは人間だって確認したってわけよ」
そう言って源次郎さんは肩を竦める。ジワジワと湧いていた厭な汗が、髪の毛の生え際から滝のように流れていくのが判った。
――何の因果か、僕が確かにいま幻想郷に居ると仮定しよう。
もちろん僕はまがりなりにも東方projectのファンだから、幻想郷の事情について一通り知っている。博麗神社、人間の里、妖怪や様々なキャラクター。しかしそうした外部からの観測者が存在しているなんて、この世界の住民は夢にも思っていないのだ。
それは例えるなら、転校生が初日からクラスメート全員を知っているような現象なのだろう。君は山本さんだよね。君の生活は全部知ってるよ。そんなことを滔々と語る奴は、傍目から見ればどう考えても異様で奇妙で気持ち悪いに決まってる。
現に源次郎さんは僕のことを猛烈に疑った。
場合によっては射殺をも辞さないような厳しい態度で、僕のことを糾弾して来た。それはこの幻想郷についての情報なんて何一つ持っていない筈、という前提条件を僕が破ってしまったからだ。
同じことは多分、僕が良く知っているキャラクターたちにも適応される。
君は霊夢だね。魔理沙だ、こんにちは。咲夜さん、素敵です。妖夢ちゃん、やっぱり可愛いね。初対面の成人男性からそんな風に親しげに話し掛けられたら、少女たちはどんな気分になるだろう。外の世界なら即座に通報されて新聞記事を飾ること請け合いだ。
つまるところ僕は幻想郷について、何一つ『知っていてはいけない』のだ。
僕が迂闊なことを口走れば、大好きなキャラクターから汚物でも見るような目で気持ち悪がられるかもしれない。そう考えると酷くゾッとした。残念なことに、僕は人から蛇蝎のように嫌われることに興奮できるような鋼のメンタルなんて持ち合わせていない。
「……にしても兄ちゃん、お前さん、どうして博麗の巫女さんの名前を知ってたんだい? アンタは幻想郷にいまさっき来たばかりだろう? お前さんが人間なのは判ったが、その点が俺にはどうしても判らねぇ」
「ああ、いや、えっとですね……」
見つけたばかりの前提条件を念頭に置いて、僕はこの場を何とか言い逃れるための術を考え始める。正直に全部説明してしまおうかとも思ったけれど、引き籠っていた僕のコミュニケーション能力でそれが可能だとは到底思えなかったし、信じて貰えるとも思えなかった。あなたたちの生きている世界は、実はゲーム化されています。そんなことを口走って、いったいどこの誰が、ああそうですか、と納得してくれると言うのか。
「あ、博麗神社、という場所に聞き覚えがあって、参拝したことがあるんです……えっと、そこには、巫女さんの名簿、みたいなのがあって……そこに、霊夢……さんって方の名前があったのを、咄嗟に思い出して……」
少し苦しい言い訳だとは思ったけれど、整合性はあるはずだ。博麗神社は外の世界にも同じ物があるというのは公式設定なのだから。幻想郷内部から、外の博麗神社に干渉できない以上、そこに名簿があるかどうかなんて判るわけがない。
「へぇ……」
案の定、源次郎さんはあまり納得できなかった様子だったけれど、とりあえず僕の言い分を飲みこんでしまうことに決めたらしい。うん、と小さく頷いてから、また猟銃を自分の足元に置いた。
「まあ……名前なんて大した問題じゃねぇわな。うん、兄ちゃんが人間なのは俺がきっちり確認したし、それなら良いんだ。で、どうするよ?」
「どうする、とは?」
「だから、アレだよ。兄ちゃんは元の世界に戻りたいのかって話」
「あぁ……」
そうだった。元はと言えば、その話からあんな剣呑な展開へと転がり込んでしまったのだ。なるほど、確かに外の世界から迷い込んだ渡来人は、運よく死ななければ博麗神社から外へと戻れるというのもまた、公式設定だった。
けれど、と僕は考える。
元の世界に戻って、僕はいったいどうするというのだろう。
父から勘当されて、人生に絶望して死ぬことを選んだ僕に、元の世界に対する未練があるのだろうか。元の世界に戻って、家に帰って、それからの僕の人生に、希望の存在する余地なんてあるのだろうか。
断言する。そんなものはない。
のこのこと戻ったところで、僕はまた父から追い出されるのがオチだ。母は匿ってくれるかもしれない。けれどそんなものは長続きしない。高校すら満足に卒業できなかった僕が、これから独力で生きていける自信なんて全然ないのだ。
僕は強い人間じゃない。家から追い出されたくらいで自殺を選ぶような弱い人間だ。そして僕はどういうわけか、心のどこかで憧れていた世界への移住を果たした。
元の世界に戻らなくてはいけない理由が、どこにあるのか知りたいくらいだ。
「僕は、戻りたくないです……」
拳を握りしめながら言うと、源次郎さんは意外そうな表情を向けてきた。
「戻ったところで、僕がきちんと生きていける可能性なんてほとんどありません。僕は、いままできちんと生きることができませんでした。それで父から勘当されて、そんな絶望でビルから飛び降りたんです……元の世界での僕は、もうその時に死にました。これから新しい人生を始めるにせよ何にせよ、それは幻――いえ、この世界の方が良いような、気がするんです……それまでの自分を捨てて、新しい自分として……」
「そうか」
柔和な微笑みを浮かべた源次郎さんは、僕の肩をポンと叩いて言う。彼の手は力強かった。僕と同じくそれまでの自分の世界に絶望して、この世界に渡り、そこから独力で生きてきた大先輩の手だ。
「俺みたいな渡来人の連中はよぅ――」
少しはにかむようにして後頭部を掻きながら、源次郎さんがポツリポツリと語り出す。
「生き延びた奴は、だいたいが元の世界に戻りたがるもんなんだ。妖怪が当たり前に居る世界なんか怖くて仕方ねぇ。元の世界のがマシだっつってな……そんな奴らを見る度に、俺は幻想郷に残ると決めた自分が変な奴なんじゃねぇか、俺が捨てた世界は、俺が思ってたよりもずっと良い世界なんじゃねぇか、って思っちまうもんなんだよなぁ……」
「そんなことないですよ……僕だって、外の世界がそんなに素晴らしいものだとは思いませんから」
「うん、俺と同じ風に思ってくれる奴がいるってのは、なんか心強いなぁ」
にっこりと笑った源次郎さんが、僕の背中をバシバシと叩いて来た。少し痛かったけれど、その行動の源泉にある彼の喜びを感じて、僕もまた彼と同じく笑ってしまう。
「よし、兄ちゃんの服が乾いたら、里まで連れてってやろう。身の振り方が決まるまでは、俺の家に居な。甘やかしてやることはできねぇが、できるかぎりの面倒は見てやっからよ。渡来人の先輩としてな」
「あ、ありがとうございます……助かります」
「うんうん、良い返事だ。外みてぇに便利な生活ってわけにゃいかねぇから、気張れよ」
朗らかに笑ってまた一つ僕の背中を叩く源次郎さんを見ながら、人生というのは、判らないものだと僕は思った。
異世界に旅立つなんて、現実逃避のフィクションに過ぎないと思って居たはずなのに、僕はこうしてどうやら東方projectの世界にいる。自分が変わったような気はまったくしない。きっと空も飛べないだろうし、魔法も奇怪な能力も使えるなんて思えない。けれど僕の人生は、確かに変わった。これまでのどうしようもなかった自分から決別して、新しい世界で新しい身の振り方を考えなくてはいけない。
ここから僕は、幻想郷で自分がどう生きていくかを、編み出して行かなくてはいけないのだ。
「そうだ兄ちゃん」
「何でしょう?」
「名前、なんて言うんだ?」
焚き火を挟んで切株に腰掛けながら、源次郎さんが思い出したように言う。ああ、と僕は今更のように自己紹介の機を逸していたことに気付いた。
何の変わり映えもなく、たまたま幻想入りしてしまった僕の名前。
大好きなキャラクターたちが大活躍する世界で、この世界について知らない振りをしながら、一般人としてひっそりと自分自身の生活を作り上げていく僕という個人の名称。
僕は多くを望まない。ただ自分が、好きな作品の世界の片隅にいるという自覚を胸にして、本編に決して絡むことのないモブキャラとして生きていければ、それで良いと思う。嫌われない為に関わることを放棄して、できれば遠目から自分の憧憬の対象を眺めるだけの身分として。
だからこそ。
あくまで普通の人間であり続ける僕の名前なんて、変わり映えのするような物じゃないのだ。
「僕の名前は、田村俊明です」
続く
23歳の身空にしては頭の回りが悪いというか、自身の敷いた現実感に束縛され過ぎてるというか、
尤もそんな小さな世界しか見ようとしなかったから簡単に自殺するのだろうけど。
物語としては彼の成長話となるのかしら? オリキャラ幻想入り且つ連載物。茨の道です。
逆に言えば作者の腕の見せ所かも? 無謀過ぎる作者の門出を祝して!
(一応誤字報告)
>23歳の男が心から信じことのできるおとぎ話じゃない
途中困難とかあっても死ぬことはないのは約束されてますし
オリ主幻想入りは賛否あるかもしれませんが自分はこの類なら見ていられるので次回もがんばってください
前向きだと「おとなしい奴はキレるとヤバい」とか言われるアレです
主人公のような口下手でコミュニケーション苦手な人間だと知ってる知識を元に喋りたくなっちゃうのでなおさらそうだろうな
次回も期待させていただきます
次回も楽しみにしてます。
幻想郷の一般人になった彼がどんな生活していくのか楽しみです。