「子供の頃ね、暗いのが怖かったのよ」
「あら、それは意外ね」
「子供は大抵暗闇を怖がるものじゃない。それに暗いことそのものが怖いっていうのもあったんだろうけど、暗いとその奥に何かがいそうで怖いっていうのが大きかったように思うわね。ほら、悪者は大抵暗がりの中に潜むものだしね」
「漫画やアニメではそうかもね」
「実際の現実でもそうじゃない? 私今でも暗い道は怖いわ。この大都会酉京都の暗がりだなんてどんな悪漢盗人が潜んでいるかわかったもんじゃないからね」
「そう言われれば確かにそうね。普段そういった犯罪的なことにあんまり巻き込まれないから意識していないけれど、この広い酉京都の街では毎晩どこかで何かは起こっているんでしょうね。物騒な話だわ。怖い怖い」
「あんまり怖くはなさそうね」
「それなりに住むのにも慣れてきたからね」
「怖いといえば、暗がりの中で、昔は目をつむっていると怖いのが薄らいだのに、今では目を開けている方が怖くないのよね。昔は見なくて済めばそれでよかったけれど、今は見えない方が怖いってことね。いつからこうなっちゃったのかしらね?」
「というと?」
「いつから目の前のものしか見えなくなってしまったんだろうってことよ」
「あら、そんなの決まってるじゃない。神様じゃなくなってからよ」
「七つまでは神のうちってか。はー、もう覚えてないくらい前だわ」
「蓮子の行動原理はあんまり変わってなさそうだけどねえ」
「面白そうなことをする。いつでも単純明快よ」
「いいんじゃない。あなたらしいわ」
そんな会話を思い出しては、真夜中の帰り道の怖さを和らげさせていた。
怖さと言っても怯えて足を速めるような類のものではない。
知らない街を歩く時特有の、どこで何があるかわからないといった怖さである。
宇佐見蓮子の所属する研究室は昨日から開催されている超統一物理学会に参加するため、連れ立って九州北部までやってきたのだ。
幸い蓮子の発表は初日で終わり、あとは人の発表を聞き自分の研究の参考になるものを探すだけの、ある意味気楽な期間であった。
連日飲み会が行われ、学生は半強制的に参加させられているが、何も毎晩夜を徹して酒盛りを行うわけではない、と思う。
開催期間中は毎日発表を行う人がいるわけだし、その発表を聞くために参加している建前である。
少なくとも蓮子は、終電が出る直前に抜けることに成功したのだった。
しかし料理の少ない飲み会だった、と蓮子は独り言ちる。
別にお淑やかに自分の前にやってきたものだけをつまんでいたわけではない。
むしろ食べたい料理が運ばれてきたときには積極的に席を移動し、並み居るはらぺこ学生の一人として盛んに箸で戦っていた。
気付けば「酉京都の宇佐見は強い」などと不名誉な言説が聞こえてきたほどである。
それでも大量の学生と食べ盛りのおっさん教授どもを賄いきれず、結果として蓮子は店に食べにいくほどでもないがこのまま寝るのは惜しいという微妙な空腹感とともに歩いているのだった。
着慣れないスーツと慣れない作り笑顔で疲れたのは自覚している。
宿まで帰ってしまうと恐らくベッドに倒れこむことになるだろう。
甘いものはなんだか太りそうだし、油っぽいものはニキビが出来そうで遠慮したい。
この空腹には、そう……。
魚肉ソーセージ。
それだ。それがいいわ。
電車の座席でそう思い立った蓮子は、駅前のコンビニで首尾よく魚肉ソーセージを一本手に入れることに成功したのだった。
深夜のコンビニで魚肉ソーセージを一本買うスーツの女という、哀愁漂う自分の姿には気付かないふりをした。
コンビニを出て早速袋を開け、一口かじって歩き出す。
噛みしめるほどに口に広がる安っぽくどこか懐かしい味。
こういうのもなかなか乙なものね。
蓮子はまぶしいコンビニの明かりから離れて、宿へと向かうことにした。
空を見上げる。
新月なので月はなく、薄曇りだがまだ星は見える。
午後十一時三十二分四十八秒。
日付が変わるまでには宿に戻りたいところだ。
他の大学の人たちの話を聞いていると、普通学会に参加する教授や学生はまとめてホテルをとるらしい。
その方が団体割引のお世話になれるのだとか、連絡が早く済むだとか色々メリットがあるとのことだ。
確かにそれは真理であろうが、学会とはいえ出先でくらい研究室の面子からは離れていたい、がうちの研究室の総意である。
教授が自由人だと似たような学生が揃うのだ。
したがって蓮子は自分で宿を選ぶ必要があったし、逆に言えばそのおかげで好きなように泊まる場所を決めることが出来た。
学会会場にはそれなりに近く、繁華街からは離れていて静かで、なにより安いところ。
そもそも教授だなんだというのは見栄か立場か知らないけれど、やけに高級なホテルに泊まることを前提にしているきらいがある。
いくら宿泊費に補助金が出るとはいっても、あんなところに泊まっていては帰ってからもやししか食べられない生活になってしまう。
交通費も含めて補助金で収まるような、そんな宿が見付かったのは僥倖だった。
駅からは緑地公園沿いに少し歩くが、そうは言っても十五分もかからないのだし。
そんなわけで、蓮子は見知らぬ町の夜道に幾許かの不安を覚えながら、魚肉ソーセージ片手に歩いているのだった。
蓮子がその気配に気付いたのは、コンビニを出て五分ほども歩いたときだった。
暗い夜道で、何が見えるわけでもないが、何かが後をつけてきているような気がしたのだ。
何かが息を殺して窺っているような。
あるいは、誰かが。
今まで歩いてきた道に人影はない。
まばらにある街灯がこれほどありがたいと思ったことはない。
けれど、ずっと横を歩いている公園の、生け垣の中に、何かが潜んでいるような気配があるのだ。
何もいるはずはない、と自分に言い聞かせるけれど、本当に何もいないという確証はない。
メリーとの会話が思い出される。
暗い夜道に、どんな悪意を持った人間が潜んでいるかなんてわかったもんじゃない。
暗い夜道に。
暗い暗い生け垣の中で、何かが光を反射してきらめいた気がした。
それは、なぜか人間の目を思わせた。
蓮子は我知らず公園から遠ざかっていた。
道の逆側には塀に囲まれた住宅が並んでいる。
蓮子は今や塀に沿って歩いていた。
少し歩調を緩める。
背後の気配が勢いを殺したような、より強く息をのんだような、そんな気がする。
少し足を速めてみた。
それでも何かがついてきている気がする。
もちろん気の迷いかもしれないのだ。
酔っ払いの勘違いかもしれない。
後ろには何もいないのかもしれない。
実際、今まで歩いてきた道には誰もいない。
けれど、公園の生け垣の中に、何もいないと確認したわけではない。
やけに暗い。
蓮子はその時初めて、空が曇ってきていることに気付いた。
星が見えない。
時間もわからない。
そのことは蓮子をなんだか随分と不安にさせた。
不意に、生け垣の方からがさっと紛れもない足音がした。
蓮子の足が自然と止まる。
ゆっくりと、振り向く。
誰か、いる。
蓮子は生唾を飲んだ。
自分の喉が動くのをやけにゆっくりと感じる。目を凝らしても相変わらず何も見えない。けれどあの生け垣の中には、確実に何かがいるのだ。まだ宿までは少しある。さっきも見たようなきらめきが生け垣の中にある。本当に人間の目なのだろうか。それにしては輝き過ぎているような。生け垣の低くに。人間だったとして、何が目的なのだろうか。通り魔とか。この酔っ払い状態で逃げられるとは思えない。戦えるとも思えないけれど。何秒経った? いやもっと経っているかもしれない。人間じゃなかったとしたら。果たして何がいるというのだろう? 幼いころに感じた怖さが、暗いことそのものへの怖さが、私を竦ませる。大人になって忘れていただなんて嘘だ。暗闇に身を置くことがなかったから、気付かなかっただけだ。
けれど私に何が出来るだろう。走って逃げるか。だから足が動かないだろうと言っているのに。立ち向かうっていったって何が出来る。私は非力な女でしかない。だけどそれでも、何も出来ないっていうんなら、せめてまっすぐ向き合っていよう。
いや、向き合うっていうんなら、座して待つより向かっていった方がいいかもしれない。別に体を向かわせるって意味じゃなくって、こっちから言葉で接触してみるのだ。不用意だろうか。けれど私がとれる選択肢はそう多くはない。それなら出来る限りのことはしたいだろう。もしかしたら言葉の通じる何かかもしれないし、大声で話せば周りの家の人が気付くかもしれない。そうだ。やれるだけのことはやろう。私は結界暴きの秘封倶楽部だ。超常現象はむしろ望むところじゃないか。悪人ならば人を呼ぶに越したことはない。大きく息を吸って。
「出てこいやー!」
自分でも意外なほど大きい声が出た。
これが酔っ払いか。
私が叫んだあと、一瞬辺りは静まり返った。
最早世界には私しかいないんじゃないかっていうくらいだ。
それから周囲の家から窓を開ける音がした。
多分まだ日付が変わる前のはずだし、起きてる人もいっぱいいるんだろう。
そして生け垣の中からは、相変わらずこちらを窺っている気配がする。
もちろん、私の妄想でなければ、だけど。
そして、西部劇の決闘のような、誰かが最初に動くのを待っているかのような静けさが流れて、不意に。
「にゃぁあああああああああああお」
と、鳴き声がした。
そして、生け垣からゆっくりと、真っ黒な、それはもう真っ黒な黒猫が一匹、姿を現したのだった。
目は爛々と光っている。
毛並みは鮮やかなまでに黒だ。
そして、よく見ると、なんだかしっぽが太い。そういう種類かもしれない。
全身から力が抜けるのを感じた。
本当に、もう、人騒がせな。
「あーもうなんだ、驚かせないでよ……」
幽霊の正体見たり枯れ尾花、とはこのことか。
気恥ずかしくてたまらない。
近隣住民の方々に迷惑をかけてしまった。
黒猫はなおもこちらに近寄ってくる。
なんだなんだやけに人懐っこいぞ、と驚いていると、黒猫は私の右手にちょこんと座って、輝く目でこちらを見つめてくるのだった。
その視線の先には、握りしめられて少し潰れてしまった魚肉ソーセージが。
「なんだ、これが欲しかったからついてきてたのか……。全く、現金なやつね。しょうがないなあ……」
潰れていない先っぽの方を一口かじって、包装のビニールを剥きぼとりと地面に落とした。
本当はちぎって落とすつもりだったのだが、やはり結構酔っぱらっているらしい。
細かな動きが出来ない。
かじった部分をもぐもぐやっているうちに、黒猫ははぐはぐと落とした部分にくらいついてきた。
足元二十センチ。
どうやらよっぽどおなかが空いていたらしい。
左耳にピアスのようなものがついているところを見ると、どこかの飼い猫なのかもしれない。
黒猫は勢いよく魚肉ソーセージにくらいついている。
その食べっぷりに思わずかわいくなって、なでるために腰を下ろした。
黒猫の背中に手を伸ばす。
魚肉ソーセージに夢中なのか、それとも元から人懐っこいのか、黒猫は嫌がる素振りも見せずされるがままになっている。
先だけが白いしっぽの先が、地面に垂れながらも時折返事をするようにぱたりぱたりと動く。
もちろん魚肉ソーセージを食べる勢いは全く衰えない。
その背中はまるで高級毛皮製品のように滑らかで、温かく、なんていうか幸せだった。
「かわいいなあ……」
そのままひとしきりなでていた。
魚肉ソーセージを食べ終わると、黒猫は一回にゃおんとまた鳴いて、それから生け垣の方へと戻って行った。
こちらも膝を払って立ち上がる。
「さあて、私も帰って寝ますかね……」
まだ雲で星空は見えない。
けれどなんだか、心は晴れやかだった。
マエリベリー・ハーンは公園の生け垣の中で息を殺していた。
なんてことはない。
宇佐見蓮子にいつものストーキングがばれそうになっただけである。
非常に幸運なことに黒猫が出ていったおかげでばれずに済んだが。
黒猫がこちらへ戻ってくると、蓮子は陽気に宿の方へと歩いて行った。
暫く追いかけるのは待った方がいいだろう。
しかし、途中では少しはしゃぎすぎた。
蓮子が怯え始めてからついつい楽しくなっちゃって、気配を殺すのを忘れて思いっきり見つめてしまった。
意外と、人は自らを見つめる視線には気付くものなのだ。
お酒が入ってふらふらしながらも夜道への恐怖を隠し切れない蓮子がかわいすぎたのが悪い。
黒猫は本当に人懐っこいらしく、こちらに寄って来るや否やメリーの靴に体をこすりつけ始めた。
マーキングすべき対象だとでも思っているのだろうか。
「ありがとうね……。おかげでばれずに済んだわ。煮干しでも買ってあげましょう」
黒猫はそれを聞くとどこか嬉しそうににゃあと鳴いた。
よく見てみると、なんだか尾が太い。
どこかで見たことがある、というか家の近くに住み着いていて、よく餌をやっている猫じゃないか。
道理で人懐っこいわけである。
普段餌をやっている人間を覚えているのだろう。
座り込んで背中をなでる。
「よーしよし、えらい子だねー」
その感触もいつも通りだ。
野生にしてはいい毛並みである。
まったく、酉京都からこんなところまでついてきたのだろうか。
健気なものである。
……いや待て。なにかおかしい。
ここは九州だ。
酉京都からは優に五百キロは離れている。
他猫の空似だと考えるべきだ。
けれどこの猫は普段餌をやっている猫とあんまりに似ている。
尋常じゃなく太い尾、墨を落としたような黒さに、尾の先だけ目立つ白。
かつてどこかで飼われていたのか、片耳に小さなピアスがついている。
どこからどう見ても普段家の近くで見る猫だ。
一体何が起こったというのか。
「ちょっと待ってあなたどうしてここにいるの」
尾の太い黒猫はにゃおんと鳴いた。
「あら、それは意外ね」
「子供は大抵暗闇を怖がるものじゃない。それに暗いことそのものが怖いっていうのもあったんだろうけど、暗いとその奥に何かがいそうで怖いっていうのが大きかったように思うわね。ほら、悪者は大抵暗がりの中に潜むものだしね」
「漫画やアニメではそうかもね」
「実際の現実でもそうじゃない? 私今でも暗い道は怖いわ。この大都会酉京都の暗がりだなんてどんな悪漢盗人が潜んでいるかわかったもんじゃないからね」
「そう言われれば確かにそうね。普段そういった犯罪的なことにあんまり巻き込まれないから意識していないけれど、この広い酉京都の街では毎晩どこかで何かは起こっているんでしょうね。物騒な話だわ。怖い怖い」
「あんまり怖くはなさそうね」
「それなりに住むのにも慣れてきたからね」
「怖いといえば、暗がりの中で、昔は目をつむっていると怖いのが薄らいだのに、今では目を開けている方が怖くないのよね。昔は見なくて済めばそれでよかったけれど、今は見えない方が怖いってことね。いつからこうなっちゃったのかしらね?」
「というと?」
「いつから目の前のものしか見えなくなってしまったんだろうってことよ」
「あら、そんなの決まってるじゃない。神様じゃなくなってからよ」
「七つまでは神のうちってか。はー、もう覚えてないくらい前だわ」
「蓮子の行動原理はあんまり変わってなさそうだけどねえ」
「面白そうなことをする。いつでも単純明快よ」
「いいんじゃない。あなたらしいわ」
そんな会話を思い出しては、真夜中の帰り道の怖さを和らげさせていた。
怖さと言っても怯えて足を速めるような類のものではない。
知らない街を歩く時特有の、どこで何があるかわからないといった怖さである。
宇佐見蓮子の所属する研究室は昨日から開催されている超統一物理学会に参加するため、連れ立って九州北部までやってきたのだ。
幸い蓮子の発表は初日で終わり、あとは人の発表を聞き自分の研究の参考になるものを探すだけの、ある意味気楽な期間であった。
連日飲み会が行われ、学生は半強制的に参加させられているが、何も毎晩夜を徹して酒盛りを行うわけではない、と思う。
開催期間中は毎日発表を行う人がいるわけだし、その発表を聞くために参加している建前である。
少なくとも蓮子は、終電が出る直前に抜けることに成功したのだった。
しかし料理の少ない飲み会だった、と蓮子は独り言ちる。
別にお淑やかに自分の前にやってきたものだけをつまんでいたわけではない。
むしろ食べたい料理が運ばれてきたときには積極的に席を移動し、並み居るはらぺこ学生の一人として盛んに箸で戦っていた。
気付けば「酉京都の宇佐見は強い」などと不名誉な言説が聞こえてきたほどである。
それでも大量の学生と食べ盛りのおっさん教授どもを賄いきれず、結果として蓮子は店に食べにいくほどでもないがこのまま寝るのは惜しいという微妙な空腹感とともに歩いているのだった。
着慣れないスーツと慣れない作り笑顔で疲れたのは自覚している。
宿まで帰ってしまうと恐らくベッドに倒れこむことになるだろう。
甘いものはなんだか太りそうだし、油っぽいものはニキビが出来そうで遠慮したい。
この空腹には、そう……。
魚肉ソーセージ。
それだ。それがいいわ。
電車の座席でそう思い立った蓮子は、駅前のコンビニで首尾よく魚肉ソーセージを一本手に入れることに成功したのだった。
深夜のコンビニで魚肉ソーセージを一本買うスーツの女という、哀愁漂う自分の姿には気付かないふりをした。
コンビニを出て早速袋を開け、一口かじって歩き出す。
噛みしめるほどに口に広がる安っぽくどこか懐かしい味。
こういうのもなかなか乙なものね。
蓮子はまぶしいコンビニの明かりから離れて、宿へと向かうことにした。
空を見上げる。
新月なので月はなく、薄曇りだがまだ星は見える。
午後十一時三十二分四十八秒。
日付が変わるまでには宿に戻りたいところだ。
他の大学の人たちの話を聞いていると、普通学会に参加する教授や学生はまとめてホテルをとるらしい。
その方が団体割引のお世話になれるのだとか、連絡が早く済むだとか色々メリットがあるとのことだ。
確かにそれは真理であろうが、学会とはいえ出先でくらい研究室の面子からは離れていたい、がうちの研究室の総意である。
教授が自由人だと似たような学生が揃うのだ。
したがって蓮子は自分で宿を選ぶ必要があったし、逆に言えばそのおかげで好きなように泊まる場所を決めることが出来た。
学会会場にはそれなりに近く、繁華街からは離れていて静かで、なにより安いところ。
そもそも教授だなんだというのは見栄か立場か知らないけれど、やけに高級なホテルに泊まることを前提にしているきらいがある。
いくら宿泊費に補助金が出るとはいっても、あんなところに泊まっていては帰ってからもやししか食べられない生活になってしまう。
交通費も含めて補助金で収まるような、そんな宿が見付かったのは僥倖だった。
駅からは緑地公園沿いに少し歩くが、そうは言っても十五分もかからないのだし。
そんなわけで、蓮子は見知らぬ町の夜道に幾許かの不安を覚えながら、魚肉ソーセージ片手に歩いているのだった。
蓮子がその気配に気付いたのは、コンビニを出て五分ほども歩いたときだった。
暗い夜道で、何が見えるわけでもないが、何かが後をつけてきているような気がしたのだ。
何かが息を殺して窺っているような。
あるいは、誰かが。
今まで歩いてきた道に人影はない。
まばらにある街灯がこれほどありがたいと思ったことはない。
けれど、ずっと横を歩いている公園の、生け垣の中に、何かが潜んでいるような気配があるのだ。
何もいるはずはない、と自分に言い聞かせるけれど、本当に何もいないという確証はない。
メリーとの会話が思い出される。
暗い夜道に、どんな悪意を持った人間が潜んでいるかなんてわかったもんじゃない。
暗い夜道に。
暗い暗い生け垣の中で、何かが光を反射してきらめいた気がした。
それは、なぜか人間の目を思わせた。
蓮子は我知らず公園から遠ざかっていた。
道の逆側には塀に囲まれた住宅が並んでいる。
蓮子は今や塀に沿って歩いていた。
少し歩調を緩める。
背後の気配が勢いを殺したような、より強く息をのんだような、そんな気がする。
少し足を速めてみた。
それでも何かがついてきている気がする。
もちろん気の迷いかもしれないのだ。
酔っ払いの勘違いかもしれない。
後ろには何もいないのかもしれない。
実際、今まで歩いてきた道には誰もいない。
けれど、公園の生け垣の中に、何もいないと確認したわけではない。
やけに暗い。
蓮子はその時初めて、空が曇ってきていることに気付いた。
星が見えない。
時間もわからない。
そのことは蓮子をなんだか随分と不安にさせた。
不意に、生け垣の方からがさっと紛れもない足音がした。
蓮子の足が自然と止まる。
ゆっくりと、振り向く。
誰か、いる。
蓮子は生唾を飲んだ。
自分の喉が動くのをやけにゆっくりと感じる。目を凝らしても相変わらず何も見えない。けれどあの生け垣の中には、確実に何かがいるのだ。まだ宿までは少しある。さっきも見たようなきらめきが生け垣の中にある。本当に人間の目なのだろうか。それにしては輝き過ぎているような。生け垣の低くに。人間だったとして、何が目的なのだろうか。通り魔とか。この酔っ払い状態で逃げられるとは思えない。戦えるとも思えないけれど。何秒経った? いやもっと経っているかもしれない。人間じゃなかったとしたら。果たして何がいるというのだろう? 幼いころに感じた怖さが、暗いことそのものへの怖さが、私を竦ませる。大人になって忘れていただなんて嘘だ。暗闇に身を置くことがなかったから、気付かなかっただけだ。
けれど私に何が出来るだろう。走って逃げるか。だから足が動かないだろうと言っているのに。立ち向かうっていったって何が出来る。私は非力な女でしかない。だけどそれでも、何も出来ないっていうんなら、せめてまっすぐ向き合っていよう。
いや、向き合うっていうんなら、座して待つより向かっていった方がいいかもしれない。別に体を向かわせるって意味じゃなくって、こっちから言葉で接触してみるのだ。不用意だろうか。けれど私がとれる選択肢はそう多くはない。それなら出来る限りのことはしたいだろう。もしかしたら言葉の通じる何かかもしれないし、大声で話せば周りの家の人が気付くかもしれない。そうだ。やれるだけのことはやろう。私は結界暴きの秘封倶楽部だ。超常現象はむしろ望むところじゃないか。悪人ならば人を呼ぶに越したことはない。大きく息を吸って。
「出てこいやー!」
自分でも意外なほど大きい声が出た。
これが酔っ払いか。
私が叫んだあと、一瞬辺りは静まり返った。
最早世界には私しかいないんじゃないかっていうくらいだ。
それから周囲の家から窓を開ける音がした。
多分まだ日付が変わる前のはずだし、起きてる人もいっぱいいるんだろう。
そして生け垣の中からは、相変わらずこちらを窺っている気配がする。
もちろん、私の妄想でなければ、だけど。
そして、西部劇の決闘のような、誰かが最初に動くのを待っているかのような静けさが流れて、不意に。
「にゃぁあああああああああああお」
と、鳴き声がした。
そして、生け垣からゆっくりと、真っ黒な、それはもう真っ黒な黒猫が一匹、姿を現したのだった。
目は爛々と光っている。
毛並みは鮮やかなまでに黒だ。
そして、よく見ると、なんだかしっぽが太い。そういう種類かもしれない。
全身から力が抜けるのを感じた。
本当に、もう、人騒がせな。
「あーもうなんだ、驚かせないでよ……」
幽霊の正体見たり枯れ尾花、とはこのことか。
気恥ずかしくてたまらない。
近隣住民の方々に迷惑をかけてしまった。
黒猫はなおもこちらに近寄ってくる。
なんだなんだやけに人懐っこいぞ、と驚いていると、黒猫は私の右手にちょこんと座って、輝く目でこちらを見つめてくるのだった。
その視線の先には、握りしめられて少し潰れてしまった魚肉ソーセージが。
「なんだ、これが欲しかったからついてきてたのか……。全く、現金なやつね。しょうがないなあ……」
潰れていない先っぽの方を一口かじって、包装のビニールを剥きぼとりと地面に落とした。
本当はちぎって落とすつもりだったのだが、やはり結構酔っぱらっているらしい。
細かな動きが出来ない。
かじった部分をもぐもぐやっているうちに、黒猫ははぐはぐと落とした部分にくらいついてきた。
足元二十センチ。
どうやらよっぽどおなかが空いていたらしい。
左耳にピアスのようなものがついているところを見ると、どこかの飼い猫なのかもしれない。
黒猫は勢いよく魚肉ソーセージにくらいついている。
その食べっぷりに思わずかわいくなって、なでるために腰を下ろした。
黒猫の背中に手を伸ばす。
魚肉ソーセージに夢中なのか、それとも元から人懐っこいのか、黒猫は嫌がる素振りも見せずされるがままになっている。
先だけが白いしっぽの先が、地面に垂れながらも時折返事をするようにぱたりぱたりと動く。
もちろん魚肉ソーセージを食べる勢いは全く衰えない。
その背中はまるで高級毛皮製品のように滑らかで、温かく、なんていうか幸せだった。
「かわいいなあ……」
そのままひとしきりなでていた。
魚肉ソーセージを食べ終わると、黒猫は一回にゃおんとまた鳴いて、それから生け垣の方へと戻って行った。
こちらも膝を払って立ち上がる。
「さあて、私も帰って寝ますかね……」
まだ雲で星空は見えない。
けれどなんだか、心は晴れやかだった。
マエリベリー・ハーンは公園の生け垣の中で息を殺していた。
なんてことはない。
宇佐見蓮子にいつものストーキングがばれそうになっただけである。
非常に幸運なことに黒猫が出ていったおかげでばれずに済んだが。
黒猫がこちらへ戻ってくると、蓮子は陽気に宿の方へと歩いて行った。
暫く追いかけるのは待った方がいいだろう。
しかし、途中では少しはしゃぎすぎた。
蓮子が怯え始めてからついつい楽しくなっちゃって、気配を殺すのを忘れて思いっきり見つめてしまった。
意外と、人は自らを見つめる視線には気付くものなのだ。
お酒が入ってふらふらしながらも夜道への恐怖を隠し切れない蓮子がかわいすぎたのが悪い。
黒猫は本当に人懐っこいらしく、こちらに寄って来るや否やメリーの靴に体をこすりつけ始めた。
マーキングすべき対象だとでも思っているのだろうか。
「ありがとうね……。おかげでばれずに済んだわ。煮干しでも買ってあげましょう」
黒猫はそれを聞くとどこか嬉しそうににゃあと鳴いた。
よく見てみると、なんだか尾が太い。
どこかで見たことがある、というか家の近くに住み着いていて、よく餌をやっている猫じゃないか。
道理で人懐っこいわけである。
普段餌をやっている人間を覚えているのだろう。
座り込んで背中をなでる。
「よーしよし、えらい子だねー」
その感触もいつも通りだ。
野生にしてはいい毛並みである。
まったく、酉京都からこんなところまでついてきたのだろうか。
健気なものである。
……いや待て。なにかおかしい。
ここは九州だ。
酉京都からは優に五百キロは離れている。
他猫の空似だと考えるべきだ。
けれどこの猫は普段餌をやっている猫とあんまりに似ている。
尋常じゃなく太い尾、墨を落としたような黒さに、尾の先だけ目立つ白。
かつてどこかで飼われていたのか、片耳に小さなピアスがついている。
どこからどう見ても普段家の近くで見る猫だ。
一体何が起こったというのか。
「ちょっと待ってあなたどうしてここにいるの」
尾の太い黒猫はにゃおんと鳴いた。
でもストーカーは犯罪行為ですので厳重注意ですね、怯えちゃった蓮子に対して責任をとる必要があるでしょう
とは行きませんでしたねw面白かったです。
てかメリーさんマジで電話が付く人になっちゃってますよ
面白かったです。
普段歩き慣れない道や知らない土地を夜歩くのってけっこう怖いですよね
あとメリーさん何してはるんですかwww