あなたは地霊殿の地下に監禁されました。
目を覚ます。俺はごつごつした岩でできた地面の上で目を覚ました。体を起こす。全身が痛い。岩場の上で寝てたのだから当然か。まだ定まらない視界の中で辺りを見渡す。
色彩に乏しい世界だった。
四角形にくり抜かれた岩の箱の中。ただ一面、鉄の棒が並んでいる。
「ようは牢屋に入れられたわけだ」
鉄の棒の外にある、燭台から放たれる光が唯一の光源だ。ゴウゴウと不気味な音がして、やたら暑かった。
「俺の人生ここまでかな」
突然届いた地霊殿からの招待状。日常に飽き飽きしていた俺は、妖怪の巣窟であることを知りながら地底に向かい、地霊殿を訪れた。そして背後からの一撃を受け、意識を失った。
鉄の棒と岩盤に閉ざされた世界で溜め息をついた。
俺は妖怪に食われるのだろうか。
「このまま死んじゃっていいの?」
「いいもんか」
なんの違和感もなく俺は問いに答えていた。しゃれこうべすらない檻の中で。その異常性に気付く。
「お、お前は誰だ!? いつからそこに!?」
「私は古明地こいし。今来たばっかりだよ」
人形のように白い肌。それに透き通るような緑色をした瞳。黒い帽子と、落ち着いた色合いの衣服を纏った少女が、いつの間にか俺の隣にしゃがみこんでいた。彼女の体には青いロープのような物がまとわり付いている。それをたどっていけば、やがてまぶたを閉じた三つ目の瞳に行き着いた。
この灰色に染まった世界で、こいしは目立つ。入ってきたら俺が気付かないはずはなかった。
「どうやって入ってきたんだ?」
「おかしな問いだね? でもまぁ、あえて返すなら、私妖怪だから」
悪戯っぽくこいしは口をゆがめた。
「古明地……。妖怪……。ああ、さとり妖怪か。俺を招待した。ってことはもう食われるわけだな……」
「違うちがーう! おにいさんを招待したのはお姉ちゃん。私はおにいさんを助けに来たんだよ? あと、言っておくけど、私はさとり妖怪だけど心読めないよ」
「助けに?」
「そう、助けに。このままだとおにいさん、お姉ちゃんのペットの餌になっちゃうよ」
「それだけは勘弁して欲しい……」
「そっか。なら簡単! 地霊殿から脱出しよう!」
ありがとう、ありがとう。俺はそう言おうとした。
その前にこいしが「でもね」とおかしそうに肩を揺らす。しゃがみこんでいるこいしのスカートが危うい位置で揺れた。
「私は道案内しかできないよ」
「え?」
「まず牢屋から。頑張って出てね」
ろうそくの火を吹き消すかのように、こいしの姿が消えた。
「おにいさーん! はやく出てきてー!」
かと思えばこいしは檻の外に居る。
「どうやって!? 俺はどうすればいい!?」
「知らないよー」
「知らないよって!」
こいしは再びしゃがみこむ。かごの中の虫でも観察するかのような視線を、俺に送ってきていた。
どうやって出ろって言うんだよ!? 俺は妖術なんか使えないただの人間だぞ!
辺りを見回す。なにか使えるものはないか。檻の中にはなにもない。牢屋の外に目をやる。鍵が目の届くところにあって、それを知恵を使って取る。
なんてことはなかった。
そもそも、この牢屋には扉がなく、鍵という概念すらなかった!
「まーだーおにーさーん」
無邪気な少女を睨みつける。
お前は変な妖術を使えるから良いんだろう!
「ふぁーあ、こういう時お姉ちゃんがうらやましいな。人がどんなこと考えてるかすっごく気になるよ」
俺は人間だ。どうあがいても鉄の棒で閉ざされた檻を出ることはできない。
「出ることはできない――?」
思考を言葉にし、再考する。
「なら、どうやって入ったんだ?」
一度体を解体して牢屋に入れたとでも言うのか?
「こいし! お前の仲間に人間をこの出入り口がない牢屋に入れる妖術を使えるやつはいるのか?」
「おかしな問いだね」
またもこいしは口をゆがめる。そこからは退屈の色が飛んでいた。
「いないよ」
「じゃあもう一つ。誰ならこの牢屋に俺を入れれるんだ?」
「えーおにいさんイケズー。もう答えわかって聞いてるでしょ。誰でも入れれるよ」
こいしの答えを聞いて俺は踏み出す。
そして、牢屋から脱出した。
背後を見れば、並ぶ鉄の棒。その鉄の棒は人一人優に通れる間隔をあけて設置されていた。
俺はどういうことか牢屋という概念から、無意識にねずみがようやく通れるくらいの間隔を想像していた。
「ようやく来たね。さぁ、上に行こう」
「ああ――」
立ち上がったこいしはスキップするかのように歩みだす。そんな彼女の肩を俺は掴んだ。
「その前に、どうして教えてくれなかった。脱出方法を」
「ただ出すだけじゃつまんないからだよ。知ってるよね? 私達妖怪は気まぐれなんだ」
地下から出る階段を上った。地底のさらに奥に閉じ込められていたわけだ。
生きて、地霊殿を脱出する。
俺は心に誓う。
木目の並ぶ廊下を進む。両わきの壁が妙に圧迫感をあおる。造り自体は洋館だが、和も混じっているようだ。
「おにいさん、私から離れたらだめだよ。味方の私以外の妖怪が現れて、いつおにいさんを食べちゃうかわからないんだから」
「お、おう」
とは言うものの他の生き物の気配が感じられない。地下で鳴っていた音はいつの間にかなくなっている。廊下はやけに静かだった。不気味。古明地こいしも妖怪で、いつ俺を食べてしまうかわからない。
けれど、味方でいると言ってくれているうちは信じるしかない。信じる以外の選択肢はもとより用意されてなかった。
ただ、こいしの見た目は幼い。まだ寺子屋に通う子供となんら変わらない。
「なぁこいし。いざ妖怪と戦うとなれば俺のほうが強い――」
んじゃないか?
そう言おうとした。
そのときにはすでに俺はこいしに組み伏せられていた。
木の感触が俺の背中に。やわらかみのない胸が俺の胸に。板ばさみ。まるで俺がベットであるかのようにこいしは俺の上でうつぶせになっていた。緑の瞳が俺を射抜いている。
「妖怪を見た目で判断しちゃだめだよ?」
「は、はひ。今後気をつけまふ……」
「よろしい」
立ち上がったこいしは手を貸してくれた。
これでも喧嘩は強いほうだと自負している。けれどそれは人間基準らしい。
ますますこいしから離れられなくなった。
再び歩き出したこいしの後を追う。
曲がり角をこいしが曲がる。俺も曲がる。曲がった先。
そこにこいしの姿はなかった――。
「こいし!?」
振り返る。いない。こいしの姿はどこにもなかった。
こいしは消えてしまった。
どうすれば良い。途方に暮れる。
こいしは、妖怪は、きまぐれ。けれど、つい数十秒前に私から離れるなと言ったばかり。彼女が意図的に姿を消したのならば、むしろ怒りを覚える。
「良いよ! 俺一人の力で脱出してやる!」
自分を鼓舞する。
構うもんか。俺は進んだ。廊下を進み、行き着いたドア。外に向かうドアだろうか。ノブを掴んで捻る。押す。開かない。鍵がかかっているのだろうか。
「別の道を探すか……」
ギシギシギシ――。
誰かが歩いている。それはじょじょに俺の方に近づいていた。
こいし?
そう思うのは甘えだ。俺は気付く。ここは妖怪の巣窟なのだから。足音はどんどん近づいてくる。壁に挟まれた廊下。曲がり角まで戻るとしたら十メートルはある。間に合わない。直感的に悟る。
「くそっ!」
小声で毒づいた。ドアノブに手をかけ、なんとか開けようとする。ドアは固い感触しか返さない。ざっとドアを観察する。ドアノブに鍵穴や、ドアを固定する仕掛けはない。つまり、このドアは開くはずなのだ。
ギシギシギシギシ――。
次第に足音が大きくなっていく。押しても引いてもドアは開かない。
「落ち着け、落ち着け」
俺はさっき牢屋での出来事を思い出す。さっきの牢屋では無意識の思い込みがあった。だから出れなかった。
なら、このドアにもあるんじゃないのか――?
閃く。
押しても引いても駄目なら――。
ギシギシギシギシギシ!
その足音の正体が現れた。巨大な鳥だ。鴉を何倍にも大きくしたかのような。
その鳥が俺を見つけるか否かの一瞬。俺はドアを開け、そこに飛び込んだ。そしてすぐさまドアを閉める。
ギシギシギシギシギシギシ!
気付かれてたか?
ドアの向こうの廊下。あの大きな鴉がこちらに近づいてきている。
「今こっちから音がした気が……。ドアだ!」
鴉が人語を話している。妖怪のことなので今更おどろかない。
猛烈な勢いで鴉がドアに近づいてきているのがわかる。この場から逃げなくてはいけない。わかっていた。それでも俺は、恐怖でドアの前から動けなかった。
「うにゅ!?」
ゴツン、という音と共にそいつはドアにぶつかった。
「うにゅ? 開かない。このドア押しても引いても開かないよ。うわぁあああああああああああん! さとり様あああああああああああああああどこおおおおおおおおおおおおお!」
別の出口を探すためか、妖怪の足音が遠ざかっていく。
なんだろう、ちょっとかわいそうだ。
このドアに鍵はかかっていない。けれど、押しても引いても開かない。
開けるには横にスライドする必要がある。障子のような開け方をするドアなのだ。ドアだからノブを捻って押し引きで開けると、無意識のうちに勘違いしていた。
「……あの妖怪ここの住民だよな? なら、このドアの開け方くらい知ってるはずじゃ?」
もしかして鳥頭だから忘れやすいのだろうか。
なんにせよ、助かった。
そう思うと同時に俺はちょっぴり罪悪感を覚えたのだった。
一難去った。俺は少しの間放心していた。
「にゃーん」
鳴き声が響く。
「にゃーん」「にゃーん」「にゃーん」
それはいくつも重なっていく。俺は部屋を見渡す。少しかびたところもある白壁。そこには猫や狐、熊、様々な仮面が並んでいる。四畳半の和室。畳の上にはコタツがある。地下牢は暑かったが、今は寒くもなく暑くもない。
だが、寒気を覚えた。
無数の瞳が俺を射抜いていた。普段はかわいらしいが、数が多いと不気味。俺はドアの反対側の襖から部屋を出た。
また廊下だった。迷路のような屋敷だなと俺は肩を落とす。
周りの気配を手繰りながら俺は地霊殿の出口を目指した。
「にゃーん」
びくっと肩を揺らす。
「なんだ。ついてきたのか。驚かせやがって」
ついてきたのは一人だけ。多いと気味悪いが、単体なら問題ない。頭をなでてやる。
そいつは真っ赤なお口を開く。大きなあくびだ。
そのまま俺の顔に近づいてきてないか? いやいや、まさかそのままぱくっ、とか。ありえない。どうしてそんなことを。
認識の誤り。
さっきからずっとこれの続きじゃないか! 思い至る。
「ひっ」
とっさに身を引いた。カチン、と閉じられた口は空を噛む。
そこにいたのは一人の少女。猫ではない。二又の黒い尻尾と、三つ編みが残念そうに揺れる。
「惜しかった。あたいも久しぶりに人間を食べれると思ったんだけど」
俺は駆け出す。
「化け猫のあたいと追いかけっこか。お兄さんじゃちょいと勝てないかな」
スタートダッシュでつけた差はみるみる詰まっていく。
もうだめか――。
そう思ったとき、忘れかけていた黒い帽子が視界に現れた。
「もーだめだよお燐。食べちゃだーめ」
可愛らしい言葉を吐きながら、強烈なボディブローを化け猫に叩き込んだ。容赦ない一撃。猫の妖怪は地面に沈んだ。
「もう、おにいさん私から離れちゃ駄目って言ったじゃん」
「それはお前が急に――」
「うるさーい! えーい」
「うごぉ!?」
猫の妖怪を倒した拳が、俺にも叩き込まれた。床に沈み、痙攣する。ビクンッビクンッ。よく死ななかったなオレェ。
「とりあえずさ、お姉ちゃん探しに行くよ。牢屋から出ますってちゃんと言わないと」
なんとも馬鹿らしいことだったが、今の俺にそれを突っ込む気力はない。小さな女の子に担がれて、俺は移動を開始したのだった。
「お姉ちゃんにお世話になりました、出て行きますって言ったらきっと外に出れるよ」
やはりそれは牢屋を管理する主に脱獄しますと宣言するようなものではないか。
「ばからしいと思ってもマナーだよマナー」
「……そんなもんなのか?」
妖怪たちの間ではきっと大事なことなのだろう。人間の俺には理解不能なだけなんだ。
強引に自分を納得させた。
担がれて俺がやってきたのは、大きな扉の前。奥にラスボスが潜んでいるかのような造りだ。俺を招待して牢獄に閉じ込めた主がいるのだから、あながち間違いではないだろう。
その扉を俺は押した。結構重い。けれど、またスライド式の扉、というわけではなかった。素直に開く。
「お姉ちゃんの部屋にようこそ」
俺は踏み出した。三つのイスに、一つのテーブル。警戒を解かずに俺は進む。次の瞬間には意識が途切れているかもしれない。
「さぁ、私は座って待ってよっと」
三つのイス。今一つが埋まった。俺と古明地姉妹の分? テーブルの上ではティーカップが湯気をたてている。ちゃんと三つある。歓迎されているのだろうか? それとも、俺を油断させる為の罠……。
「お姉ちゃんはそんなことはしないよ。もともと、おにいさんをここに呼び寄せたのは遊ぶためなんだから。でもね、シャイなお姉ちゃんはこの部屋の中に隠れちゃったの」
牢屋に閉じ込めておいて遊ぶためとは。なんとまぁスリリングな遊びだ。
「ようはお姉ちゃんを見つけてここを出て行きますって言えばいいんだな」
もうやけくそだった。馬鹿らしいとわかっていながらルールを確認する。それがこの魔館から脱出する唯一の手段なら、信じよう。
「そうだね。はやく見つけてあげてよ」
指先でくるくると黒い帽子が回っている。
「……部屋を勝手にいじくって良いのか?」
俺は辺りを見渡す。タンスにベッド。机に山積みにされた人形。他にも隠れられそうな場所がいくつかある。もともと無造作に置かれている感じではある。けれど、やはり勝手にいじるのには抵抗がある。
それに、お姉ちゃんということは一応女。
タンスを探せば――。
「良い、良いから! あと、変な期待はよした方がいいよ」
「……わかったよ」
そう言いつつ、俺はたくましくタンスに向かう。人サイズの妖怪だとしたら、隠れるには十分な大きさ。そう、これは妖怪探し。それ以外の目的は一切ない。勢い良く開く。
……空だった。やはり落胆が隠せない。
「変態さんだね」
「……」
それから俺はもくもくとお姉ちゃんとやらを探す。ベッドの下、人形の山の中、机の引き出し。一通り隠れられそうな場所は探しただろう。が、いない。
「お姉ちゃんはゴキブリサイズだったり、妖術で姿消したりできるのか?」
「と、とても失礼な例えだね。ううん。できないよ。大きさも私と同じくらい」
「そうか」
なら、答えを手繰る方法は一つ。
また、無意識に思い込まされている。
くるり、くるり、黒い帽子が回る。
「はん、この部屋にはもう人が隠れられる場所はない。姿を消せれるならお手上げ。だが、そうじゃないってことなら――」
俺はイスの上の少女を指す。
「お前は誰だ?」
イスに座る少女は黒い帽子を被る。
「こいしは、さとり妖怪のくせに心が読めないんだよな」
なのにお前はあきらかに俺の心を読んでいた。そうだろう?
お姉ちゃん。
ふふふ、とイスの上の少女は愉快そうに笑った。
「ご名答。私は地霊殿の主、古明地さとりよ」
俺の目は明確に古明地さとりの姿を映し取る。たしかにこいしと似た顔立ち。けれど、着るもの、髪の色は対照的。ネガとポジを反転させている。桃色の髪。体に巻きつく赤いロープのようなもの。その先にあるのは、まぶたが開ききった三つ目の瞳。
さとりは被っていた帽子を空いている席に放り投げる。帽子は宙で帰るべき場所におさまった。そこには、いつの間にか、古明地こいしが座っていた。
「お疲れ様、おにーさん」
俺の知るこいしは、頭に戻ってきた黒い帽子をなでながら言った。
「さぁ、面子は揃ったわ。お茶会にしましょう」
さとりの視線に促され、俺は残った席に着く。
「どうして俺を地霊殿に呼んだんだ?」
「言ったでしょう。遊ぶためよ」
精一杯の気迫を込めて、さとりを睨みつける。
「ちゃんと地霊殿から出してくれるんだろうな」
「あは、おにいさんやっぱり面白い」
「そうね」
古明地姉妹はくすくす笑う。それでようやく俺は悟った。
「ああ、そういえば、ここにだけ、壁がなかったな」
意識した瞬間、無意識にそらされていた視界が晴れる。後ろを見れば、部屋に入ってくるときに開いたはずの大きな扉に、巨大な洋館。その洋館は、間違いなく地霊殿。俺達のいるテーブルの周りには、ただ無造作に置かれたタンスや机にベッド。
遊ぶために呼んだ。なるほど。たしかに遊ばれていたみたいだ。
俺はとっくに地霊殿を出ていた。
目を覚ます。俺はごつごつした岩でできた地面の上で目を覚ました。体を起こす。全身が痛い。岩場の上で寝てたのだから当然か。まだ定まらない視界の中で辺りを見渡す。
色彩に乏しい世界だった。
四角形にくり抜かれた岩の箱の中。ただ一面、鉄の棒が並んでいる。
「ようは牢屋に入れられたわけだ」
鉄の棒の外にある、燭台から放たれる光が唯一の光源だ。ゴウゴウと不気味な音がして、やたら暑かった。
「俺の人生ここまでかな」
突然届いた地霊殿からの招待状。日常に飽き飽きしていた俺は、妖怪の巣窟であることを知りながら地底に向かい、地霊殿を訪れた。そして背後からの一撃を受け、意識を失った。
鉄の棒と岩盤に閉ざされた世界で溜め息をついた。
俺は妖怪に食われるのだろうか。
「このまま死んじゃっていいの?」
「いいもんか」
なんの違和感もなく俺は問いに答えていた。しゃれこうべすらない檻の中で。その異常性に気付く。
「お、お前は誰だ!? いつからそこに!?」
「私は古明地こいし。今来たばっかりだよ」
人形のように白い肌。それに透き通るような緑色をした瞳。黒い帽子と、落ち着いた色合いの衣服を纏った少女が、いつの間にか俺の隣にしゃがみこんでいた。彼女の体には青いロープのような物がまとわり付いている。それをたどっていけば、やがてまぶたを閉じた三つ目の瞳に行き着いた。
この灰色に染まった世界で、こいしは目立つ。入ってきたら俺が気付かないはずはなかった。
「どうやって入ってきたんだ?」
「おかしな問いだね? でもまぁ、あえて返すなら、私妖怪だから」
悪戯っぽくこいしは口をゆがめた。
「古明地……。妖怪……。ああ、さとり妖怪か。俺を招待した。ってことはもう食われるわけだな……」
「違うちがーう! おにいさんを招待したのはお姉ちゃん。私はおにいさんを助けに来たんだよ? あと、言っておくけど、私はさとり妖怪だけど心読めないよ」
「助けに?」
「そう、助けに。このままだとおにいさん、お姉ちゃんのペットの餌になっちゃうよ」
「それだけは勘弁して欲しい……」
「そっか。なら簡単! 地霊殿から脱出しよう!」
ありがとう、ありがとう。俺はそう言おうとした。
その前にこいしが「でもね」とおかしそうに肩を揺らす。しゃがみこんでいるこいしのスカートが危うい位置で揺れた。
「私は道案内しかできないよ」
「え?」
「まず牢屋から。頑張って出てね」
ろうそくの火を吹き消すかのように、こいしの姿が消えた。
「おにいさーん! はやく出てきてー!」
かと思えばこいしは檻の外に居る。
「どうやって!? 俺はどうすればいい!?」
「知らないよー」
「知らないよって!」
こいしは再びしゃがみこむ。かごの中の虫でも観察するかのような視線を、俺に送ってきていた。
どうやって出ろって言うんだよ!? 俺は妖術なんか使えないただの人間だぞ!
辺りを見回す。なにか使えるものはないか。檻の中にはなにもない。牢屋の外に目をやる。鍵が目の届くところにあって、それを知恵を使って取る。
なんてことはなかった。
そもそも、この牢屋には扉がなく、鍵という概念すらなかった!
「まーだーおにーさーん」
無邪気な少女を睨みつける。
お前は変な妖術を使えるから良いんだろう!
「ふぁーあ、こういう時お姉ちゃんがうらやましいな。人がどんなこと考えてるかすっごく気になるよ」
俺は人間だ。どうあがいても鉄の棒で閉ざされた檻を出ることはできない。
「出ることはできない――?」
思考を言葉にし、再考する。
「なら、どうやって入ったんだ?」
一度体を解体して牢屋に入れたとでも言うのか?
「こいし! お前の仲間に人間をこの出入り口がない牢屋に入れる妖術を使えるやつはいるのか?」
「おかしな問いだね」
またもこいしは口をゆがめる。そこからは退屈の色が飛んでいた。
「いないよ」
「じゃあもう一つ。誰ならこの牢屋に俺を入れれるんだ?」
「えーおにいさんイケズー。もう答えわかって聞いてるでしょ。誰でも入れれるよ」
こいしの答えを聞いて俺は踏み出す。
そして、牢屋から脱出した。
背後を見れば、並ぶ鉄の棒。その鉄の棒は人一人優に通れる間隔をあけて設置されていた。
俺はどういうことか牢屋という概念から、無意識にねずみがようやく通れるくらいの間隔を想像していた。
「ようやく来たね。さぁ、上に行こう」
「ああ――」
立ち上がったこいしはスキップするかのように歩みだす。そんな彼女の肩を俺は掴んだ。
「その前に、どうして教えてくれなかった。脱出方法を」
「ただ出すだけじゃつまんないからだよ。知ってるよね? 私達妖怪は気まぐれなんだ」
地下から出る階段を上った。地底のさらに奥に閉じ込められていたわけだ。
生きて、地霊殿を脱出する。
俺は心に誓う。
木目の並ぶ廊下を進む。両わきの壁が妙に圧迫感をあおる。造り自体は洋館だが、和も混じっているようだ。
「おにいさん、私から離れたらだめだよ。味方の私以外の妖怪が現れて、いつおにいさんを食べちゃうかわからないんだから」
「お、おう」
とは言うものの他の生き物の気配が感じられない。地下で鳴っていた音はいつの間にかなくなっている。廊下はやけに静かだった。不気味。古明地こいしも妖怪で、いつ俺を食べてしまうかわからない。
けれど、味方でいると言ってくれているうちは信じるしかない。信じる以外の選択肢はもとより用意されてなかった。
ただ、こいしの見た目は幼い。まだ寺子屋に通う子供となんら変わらない。
「なぁこいし。いざ妖怪と戦うとなれば俺のほうが強い――」
んじゃないか?
そう言おうとした。
そのときにはすでに俺はこいしに組み伏せられていた。
木の感触が俺の背中に。やわらかみのない胸が俺の胸に。板ばさみ。まるで俺がベットであるかのようにこいしは俺の上でうつぶせになっていた。緑の瞳が俺を射抜いている。
「妖怪を見た目で判断しちゃだめだよ?」
「は、はひ。今後気をつけまふ……」
「よろしい」
立ち上がったこいしは手を貸してくれた。
これでも喧嘩は強いほうだと自負している。けれどそれは人間基準らしい。
ますますこいしから離れられなくなった。
再び歩き出したこいしの後を追う。
曲がり角をこいしが曲がる。俺も曲がる。曲がった先。
そこにこいしの姿はなかった――。
「こいし!?」
振り返る。いない。こいしの姿はどこにもなかった。
こいしは消えてしまった。
どうすれば良い。途方に暮れる。
こいしは、妖怪は、きまぐれ。けれど、つい数十秒前に私から離れるなと言ったばかり。彼女が意図的に姿を消したのならば、むしろ怒りを覚える。
「良いよ! 俺一人の力で脱出してやる!」
自分を鼓舞する。
構うもんか。俺は進んだ。廊下を進み、行き着いたドア。外に向かうドアだろうか。ノブを掴んで捻る。押す。開かない。鍵がかかっているのだろうか。
「別の道を探すか……」
ギシギシギシ――。
誰かが歩いている。それはじょじょに俺の方に近づいていた。
こいし?
そう思うのは甘えだ。俺は気付く。ここは妖怪の巣窟なのだから。足音はどんどん近づいてくる。壁に挟まれた廊下。曲がり角まで戻るとしたら十メートルはある。間に合わない。直感的に悟る。
「くそっ!」
小声で毒づいた。ドアノブに手をかけ、なんとか開けようとする。ドアは固い感触しか返さない。ざっとドアを観察する。ドアノブに鍵穴や、ドアを固定する仕掛けはない。つまり、このドアは開くはずなのだ。
ギシギシギシギシ――。
次第に足音が大きくなっていく。押しても引いてもドアは開かない。
「落ち着け、落ち着け」
俺はさっき牢屋での出来事を思い出す。さっきの牢屋では無意識の思い込みがあった。だから出れなかった。
なら、このドアにもあるんじゃないのか――?
閃く。
押しても引いても駄目なら――。
ギシギシギシギシギシ!
その足音の正体が現れた。巨大な鳥だ。鴉を何倍にも大きくしたかのような。
その鳥が俺を見つけるか否かの一瞬。俺はドアを開け、そこに飛び込んだ。そしてすぐさまドアを閉める。
ギシギシギシギシギシギシ!
気付かれてたか?
ドアの向こうの廊下。あの大きな鴉がこちらに近づいてきている。
「今こっちから音がした気が……。ドアだ!」
鴉が人語を話している。妖怪のことなので今更おどろかない。
猛烈な勢いで鴉がドアに近づいてきているのがわかる。この場から逃げなくてはいけない。わかっていた。それでも俺は、恐怖でドアの前から動けなかった。
「うにゅ!?」
ゴツン、という音と共にそいつはドアにぶつかった。
「うにゅ? 開かない。このドア押しても引いても開かないよ。うわぁあああああああああああん! さとり様あああああああああああああああどこおおおおおおおおおおおおお!」
別の出口を探すためか、妖怪の足音が遠ざかっていく。
なんだろう、ちょっとかわいそうだ。
このドアに鍵はかかっていない。けれど、押しても引いても開かない。
開けるには横にスライドする必要がある。障子のような開け方をするドアなのだ。ドアだからノブを捻って押し引きで開けると、無意識のうちに勘違いしていた。
「……あの妖怪ここの住民だよな? なら、このドアの開け方くらい知ってるはずじゃ?」
もしかして鳥頭だから忘れやすいのだろうか。
なんにせよ、助かった。
そう思うと同時に俺はちょっぴり罪悪感を覚えたのだった。
一難去った。俺は少しの間放心していた。
「にゃーん」
鳴き声が響く。
「にゃーん」「にゃーん」「にゃーん」
それはいくつも重なっていく。俺は部屋を見渡す。少しかびたところもある白壁。そこには猫や狐、熊、様々な仮面が並んでいる。四畳半の和室。畳の上にはコタツがある。地下牢は暑かったが、今は寒くもなく暑くもない。
だが、寒気を覚えた。
無数の瞳が俺を射抜いていた。普段はかわいらしいが、数が多いと不気味。俺はドアの反対側の襖から部屋を出た。
また廊下だった。迷路のような屋敷だなと俺は肩を落とす。
周りの気配を手繰りながら俺は地霊殿の出口を目指した。
「にゃーん」
びくっと肩を揺らす。
「なんだ。ついてきたのか。驚かせやがって」
ついてきたのは一人だけ。多いと気味悪いが、単体なら問題ない。頭をなでてやる。
そいつは真っ赤なお口を開く。大きなあくびだ。
そのまま俺の顔に近づいてきてないか? いやいや、まさかそのままぱくっ、とか。ありえない。どうしてそんなことを。
認識の誤り。
さっきからずっとこれの続きじゃないか! 思い至る。
「ひっ」
とっさに身を引いた。カチン、と閉じられた口は空を噛む。
そこにいたのは一人の少女。猫ではない。二又の黒い尻尾と、三つ編みが残念そうに揺れる。
「惜しかった。あたいも久しぶりに人間を食べれると思ったんだけど」
俺は駆け出す。
「化け猫のあたいと追いかけっこか。お兄さんじゃちょいと勝てないかな」
スタートダッシュでつけた差はみるみる詰まっていく。
もうだめか――。
そう思ったとき、忘れかけていた黒い帽子が視界に現れた。
「もーだめだよお燐。食べちゃだーめ」
可愛らしい言葉を吐きながら、強烈なボディブローを化け猫に叩き込んだ。容赦ない一撃。猫の妖怪は地面に沈んだ。
「もう、おにいさん私から離れちゃ駄目って言ったじゃん」
「それはお前が急に――」
「うるさーい! えーい」
「うごぉ!?」
猫の妖怪を倒した拳が、俺にも叩き込まれた。床に沈み、痙攣する。ビクンッビクンッ。よく死ななかったなオレェ。
「とりあえずさ、お姉ちゃん探しに行くよ。牢屋から出ますってちゃんと言わないと」
なんとも馬鹿らしいことだったが、今の俺にそれを突っ込む気力はない。小さな女の子に担がれて、俺は移動を開始したのだった。
「お姉ちゃんにお世話になりました、出て行きますって言ったらきっと外に出れるよ」
やはりそれは牢屋を管理する主に脱獄しますと宣言するようなものではないか。
「ばからしいと思ってもマナーだよマナー」
「……そんなもんなのか?」
妖怪たちの間ではきっと大事なことなのだろう。人間の俺には理解不能なだけなんだ。
強引に自分を納得させた。
担がれて俺がやってきたのは、大きな扉の前。奥にラスボスが潜んでいるかのような造りだ。俺を招待して牢獄に閉じ込めた主がいるのだから、あながち間違いではないだろう。
その扉を俺は押した。結構重い。けれど、またスライド式の扉、というわけではなかった。素直に開く。
「お姉ちゃんの部屋にようこそ」
俺は踏み出した。三つのイスに、一つのテーブル。警戒を解かずに俺は進む。次の瞬間には意識が途切れているかもしれない。
「さぁ、私は座って待ってよっと」
三つのイス。今一つが埋まった。俺と古明地姉妹の分? テーブルの上ではティーカップが湯気をたてている。ちゃんと三つある。歓迎されているのだろうか? それとも、俺を油断させる為の罠……。
「お姉ちゃんはそんなことはしないよ。もともと、おにいさんをここに呼び寄せたのは遊ぶためなんだから。でもね、シャイなお姉ちゃんはこの部屋の中に隠れちゃったの」
牢屋に閉じ込めておいて遊ぶためとは。なんとまぁスリリングな遊びだ。
「ようはお姉ちゃんを見つけてここを出て行きますって言えばいいんだな」
もうやけくそだった。馬鹿らしいとわかっていながらルールを確認する。それがこの魔館から脱出する唯一の手段なら、信じよう。
「そうだね。はやく見つけてあげてよ」
指先でくるくると黒い帽子が回っている。
「……部屋を勝手にいじくって良いのか?」
俺は辺りを見渡す。タンスにベッド。机に山積みにされた人形。他にも隠れられそうな場所がいくつかある。もともと無造作に置かれている感じではある。けれど、やはり勝手にいじるのには抵抗がある。
それに、お姉ちゃんということは一応女。
タンスを探せば――。
「良い、良いから! あと、変な期待はよした方がいいよ」
「……わかったよ」
そう言いつつ、俺はたくましくタンスに向かう。人サイズの妖怪だとしたら、隠れるには十分な大きさ。そう、これは妖怪探し。それ以外の目的は一切ない。勢い良く開く。
……空だった。やはり落胆が隠せない。
「変態さんだね」
「……」
それから俺はもくもくとお姉ちゃんとやらを探す。ベッドの下、人形の山の中、机の引き出し。一通り隠れられそうな場所は探しただろう。が、いない。
「お姉ちゃんはゴキブリサイズだったり、妖術で姿消したりできるのか?」
「と、とても失礼な例えだね。ううん。できないよ。大きさも私と同じくらい」
「そうか」
なら、答えを手繰る方法は一つ。
また、無意識に思い込まされている。
くるり、くるり、黒い帽子が回る。
「はん、この部屋にはもう人が隠れられる場所はない。姿を消せれるならお手上げ。だが、そうじゃないってことなら――」
俺はイスの上の少女を指す。
「お前は誰だ?」
イスに座る少女は黒い帽子を被る。
「こいしは、さとり妖怪のくせに心が読めないんだよな」
なのにお前はあきらかに俺の心を読んでいた。そうだろう?
お姉ちゃん。
ふふふ、とイスの上の少女は愉快そうに笑った。
「ご名答。私は地霊殿の主、古明地さとりよ」
俺の目は明確に古明地さとりの姿を映し取る。たしかにこいしと似た顔立ち。けれど、着るもの、髪の色は対照的。ネガとポジを反転させている。桃色の髪。体に巻きつく赤いロープのようなもの。その先にあるのは、まぶたが開ききった三つ目の瞳。
さとりは被っていた帽子を空いている席に放り投げる。帽子は宙で帰るべき場所におさまった。そこには、いつの間にか、古明地こいしが座っていた。
「お疲れ様、おにーさん」
俺の知るこいしは、頭に戻ってきた黒い帽子をなでながら言った。
「さぁ、面子は揃ったわ。お茶会にしましょう」
さとりの視線に促され、俺は残った席に着く。
「どうして俺を地霊殿に呼んだんだ?」
「言ったでしょう。遊ぶためよ」
精一杯の気迫を込めて、さとりを睨みつける。
「ちゃんと地霊殿から出してくれるんだろうな」
「あは、おにいさんやっぱり面白い」
「そうね」
古明地姉妹はくすくす笑う。それでようやく俺は悟った。
「ああ、そういえば、ここにだけ、壁がなかったな」
意識した瞬間、無意識にそらされていた視界が晴れる。後ろを見れば、部屋に入ってくるときに開いたはずの大きな扉に、巨大な洋館。その洋館は、間違いなく地霊殿。俺達のいるテーブルの周りには、ただ無造作に置かれたタンスや机にベッド。
遊ぶために呼んだ。なるほど。たしかに遊ばれていたみたいだ。
俺はとっくに地霊殿を出ていた。
パプリカ思い出した。