相手の思考の模索は、私にとってはほぼ無意味に近かった。限りなく無意識的に心を読むことが出来るからだ。呼吸するように相手の内面を覗き見る。人間からも妖怪からも忌み嫌われた能力だが、例外的な存在が一人だけいた。古明地こいし。私の妹だった。
彼女は無意識を操る。意識的に完全な無意識の存在になることが出来る。その能力の汎用性は未知数で、妹自身もあまりよく解っていない。私が解っているのはその能力を使用している間は何人たりとも彼女を認識することは出来ないということだけ。五感はおろか、第六感でさえも不可能である。私の能力もまた然りだ。
その能力の副作用か、妹は段々と掴み所のない性格となり、放浪癖も持つようになった。家にいつ帰るのかも、いつ出ていくのかも解らない。姉の私としては心配なことこの上ない。
そんな彼女に、無意識とはどのような感覚であるのか問うたことがある。結局詳しいことは解らずじまいだったが、アルコールなどで脳が麻痺して理性と記憶が飛ぶ感覚や、夢の中で現実との境目が曖昧になる感覚とも違うらしい。意識に縛られた中で生きる私には、到底理解の及ばぬ世界なのだろう。
だからであろうか、私と妹がすれ違っているような錯覚に陥ることがある。心が読めないという不安が私をそのような気持ちに駆り立てるのかもしれない。こいしは私の前では笑顔で明るく過ごしている。要求すればそれなりの愛情表現もしてくれる。しかし、それが本心なのか私に確かめる術はない。
どうにか彼女の心が知りたい。そんな私にある妙案が浮かんだ。確か私の部屋にチェスというボードゲームがあったはずだ。それは数ヶ月前、妹が地上に行った際、香霖堂というよろず屋で買ってきたもの。店主からは外の世界からの漂流物だと聞かされたらしい。一応、皆でそのルールは読んだが、私達がその遊びをすることはなかった。
その理由は簡単。私は心理的な要素を含む遊びは好きではないし、こいしは例のごとく遊ぶ前にふらりとどこかへ出かけていった。お空はそのルールがあまりにも難しかったのか、高熱を出してしまう始末。唯一、お燐が一人寂しくチェスをやっていたが、すぐに飽きてしまっていた。
数日と経たぬうちにお蔵入りとなったチェスだが、これなら駒の動きや戦略などから彼女の心を知ることが出来るかもしれない。思い立ったが吉日だ。私の行動は素早かった。
まず私の部屋からチェスボードと駒を引っ張り出す。数ヶ月前のことなので駒が欠けてないか心配だったが、多少埃は被っていること除けば新品同様の状態だった。
チェスは良し。後は戦略から心理を読むだけの知識を付ければ準備万端だ。私はお燐に心理学の専門書を取り寄せるようにと頼んだ。彼女はそんな私に大層驚き、釈迦に説法ですねなんて言っていたが、私は神でも仏でもない。妹との心の乖離に悩む一人の妖怪なのだ。
そうして、私の書斎が心理学一色になるまでにはそれほど時間はかからなかった。人里の寺子屋教師、紅魔館の魔女、魔法の森の人形遣い。彼女はありとあらゆるところを訪ね歩いてそれらをかき集めてくれた。死体と一緒に猫車に載せてくるという過ちさえ犯さなければ、完璧な部下と言ってもいい。手渡された本からはなかなかの死臭が漂っていた。
とりあえず、私の机に山積されたそれらを手に取り読み進める。さすがにチェスから心理を分析するというものはなかった。難解な用語が並ぶ中、まず手始めに、私が聞いたことある単語から覚えることにした。
イド、スーパーエゴ、パラノイア、ロールシャッハにポリグラフ。全て妹のスペルカードに由来する単語だ。それらの意味を初めて調べる。
心というのは覚妖怪にとっては当たり前のものだった。自明なものは深く知る必要がない。一と一を足すと二になる。私が今まで心理学に対して努めて知ろうとしなかったのは、その理論を突き詰めて知ろうとしないのと同じこと。だけど、読み耽っていくうちにその分野にのめり込んでいく自分がいた。心という抽象的なものを解明しようとするその過程、それにより生み出された概念。全てに共感出来るわけではなかったが、それはそれで感慨深いものがあった。
何日かかけて、私はざっくりとではあるが専門書を読破した。一歩ずつこいしに近づいている気がする。ただ、それと同時に彼女が自身のスペルカードに込めた意味も解った気がして、少しだけ悲しくなった。
なんにせよ、私はやるべきことは終えたのだ。後はこいしの帰りを待つのみ。燭台の淡い光を浴びる駒達を眺めながら、私は姿の見えぬ妹に思いを馳せた。
こいしが帰ってきたのはその三日後のことだった。私がチェスの約束を取りつけると、怪訝な顔一つすることなく、いつもの笑顔で頷いてくれた。念のために、チェスのルールを尋ねると、対戦に支障が出ないほどには覚えてくれていた。
そして、その日の夕食後、私は妹を自室に招いた。 向かい合わせになった椅子に座る。ガラス張りのテーブルの上では、盤面に整然と並ぶ駒達が私達の指揮を今か今かと待ちわびていた。
妙な緊張感が私を包む。これはただの勝負ではない。妹の気持ちを知るための大事な一戦。それは私の最初で最後の心理戦になるかもしれない。今まで積み重ねてきた知識を武器に、チェスでもその戦いでも勝つ。
自分を静めるために深く呼吸を行う。私が彼女の心を読むことが出来ないように、彼女もまた私の心を読むことが出来ない。それが今だけはありがたい。
「それじゃあ、始めましょうか」
私の言葉に、こいしはちょっと待ってと挙手をする。
「対戦する前に、一つルールを変更したいんだけど」
「何かしら? 言ってみなさい」
「取った駒を再利用出来ないルールを変えて、逆に好きなように使えるようにするってのはどう? その方が面白いと思うんだけどなー」
彼女の提案に首を捻る。どういうつもりで言っているのだろう。そのルールを変えたら、チェスは駒が違うだけの将棋に成り変わる。確かに将棋は地上でも流行っているし、何局かは私も差したことがある。彼女の意図がいまいち解らない。
いや、ここで妹の腹を探るのは止めよう。時間の無駄だし、探るのは対局中でも可能だ。それに稀にしか帰らない愛する妹の頼みだ。無下に断るわけにもいかない。
「いいわ、そのルールで」
「ありがと、お姉ちゃん」
こんな無邪気に笑顔を振りまく妹を疑い、本心まで知ろうとすることは、姉として間違ったことなのかもしれない。でも、私は白黒はっきりさせたいのだ。この駒達のように。
「じゃあ、始めよっか」
こいしの声に、私は駒へと手を伸ばした。
妹が帰ってきたその夜は、彼女の地上での出来事を聞くのが習慣になっていた。楽しそうに話す彼女と私の肩で羽を休めるお空。私は膝の上で丸くなるお燐を撫でながら彼女の話に耳を傾けるというのがいつもの風景なのだが……。
「でねー。それで魔理沙がね」
「…………」
今日は全く様相を異にしていた。妹の話を聞きながら、変則的なチェスをしつつ、彼女の深層を探る。慣れないことの連続に私の額に汗が光る。どうやら三足もわらじをと欲張ってしまった私がいけないらしい。焦れば焦るほど深みに嵌まる。私の沈黙が続く。
心を読めない相手との心理戦がこれほど難しいものとは思わなかった。闇の中を手探りで歩いているような感覚。それでいて掴むのは空ばかり。彼女の心理はおろか、戦略すらも読み取ることが出来ない。
無論、盤上の戦況は私の圧倒的不利だった。彼女の縦横無尽に逃げ回る駒に翻弄されては攻め込まれ、一体また一体と数を減らしていく。彼女の持ち駒は増えていき、今や彼女は大軍を率いる宰相となっていた。
いつしか手も、口も、そして頭も完全に停止していた。対戦前の和気藹々とした雰囲気は消え、代わりに気まずい空気が私達の間に流れていた。そんな中、とうとうこいしが口を開いた。
「お姉ちゃん、私といて楽しくないの?」
彼女の瞳は先程と一転して寂しそうに揺れていた。そこに私への怒りはない。あるのは自責の念。悲しそうに私を見つめる姿が心に刺さる。姉として妹に何か声をかけてあげたいのに、疲弊しきった頭は空白しか生み出さない。
私は何をやっているのだろう。遥か高みの目標ばかり見て、知識ばかりを積み上げて、足元の大切な存在に気付いてあげられなかった。妹をこんな顔にさせて、何が本心を知るだ。思い上がりも甚だしい。そんな自分への罵倒の言葉は出てくるのに、彼女を慰める言葉は出てこない。私は姉失格だ。
「……こいし」
「ごめんね、お姉ちゃん」
自己嫌悪に押し潰されながら辛うじて紡いだ妹の名は、彼女の懺悔の言葉に掻き消えた。
それから、互いに無言のままチェスは続いた。私の不利は変わらない。盤上と現実、どちらの局面でも。
私の駒はたった四つにまで削られていた。キングとクイーン、そしてナイトが二人。
それを見て、思いたくなくても思ってしまう。味方を失い地底に追いやられた過去。こうして四人で身を寄せあって暮らしている現在。そして、いつか訪れるかもしれない未来。その全てがこの一局に込められているのではないかという妄想を。
「ねえ、お姉ちゃん。私は解ってたんだよ、お姉ちゃんが私のことどう思っているか」
長らく口を閉ざしていた妹が切り出す。それと同時に黒い騎士が私の騎士を切り伏せた。
「私、ダメな妹だよね。無意識に成り果てて、こうやってお姉ちゃん達に迷惑をかけ続けて。地上での土産話がせめてもの償いだと思ってたんだんだけどね……」
力なく微笑む妹に私は何も言葉がでない。それは違うと声を大にして言いたい。なのに、なんで私はこうなのだろう。一歩を踏み出しても、妹には届かないのではないか。そんな諦観にも似た感情が私に絡み付いて離れない。
その私を嘲笑うようかに、勇ましく踏み出した私の騎士はあっという間に刈り取られた。騎士が消えた。もう私の陣営には二人しかいない。
私は白無垢の姫を王の背後に回した。王の眼前に広がる敵。もう彼の逃げ場はどこにもない。それはチェスでは禁じられている自殺行為。死んでも彼女だけは守ってみせる。この気持ちを目の前の貴女に伝えられない弱い私を許して欲しい。
だが、現実は非情だった。その王妃は呆気なく黒い騎士に奪い去られた。いつも彼の傍らにいたはずの彼女が消えた。
「チェックメイト」
盤面に乾いた音が響く。私の王に刃を向けたのは、他ならぬあの王妃だった。
そうか。そうだったのか。彼女が提示したあのルールはこの状況を作り出すための布石だったのだ。気持ちを理解してあげられなかった私への復讐だったのだ。
私は姉妹という関係に甘んじていた。姉妹だから彼女に私の愛情が届いていて当たり前。妹の気持ちさえもを自明のものだとして、高を括っていたのだ。その慢心が溝を広げているとも知らずに。
「お姉ちゃん。これが私の気持ちだから」
王妃が王の首を刎ねた。妹の指が彼の亡骸をそっとつまみ上げる。その直後、彼女が薄れていくのを感じた。姿のみならず存在自体が。
「待って、こいし……」
こんなはずではなかった。私は貴女が帰ってくるのを心待ちにしていたのに。貴女が少しでも傍にいるだけで良かったのに。それに貴女は私のたった一人の妹。嫌いになろうとしてもなれるわけがない。気持ちだけが燻るばかりで、肝心な言葉は出てこない。
「お姉ちゃん、バイバイ」
その言葉を最後に妹は消えた。彼女の最後の顔は悲しくも優しい笑顔だった。主を失った王の亡骸が虚しい音を立てて床に転がった。
それから数時間、私は自分を責めては泣き続けた。今は涙も出てこない。もう妹は二度と帰ってこないのかもしれない。その事実が私の心を串刺しにする。
きっと私は嫌われてしまったのだろう。浅はかな考えで妹を推し量ろうなんてしたのがそもそもの間違いだったのだ。大切なことを見過ごしていたのに、それに私は気付かなかった。
私はふらつく足で立ち上がる。そして、床に転がったままの王様を徐に掌で包んだ。
「一人ぼっちになっちゃったわね……」
彼は白塗りの身体をこちらに向けるだけで何も返さない。それが私に対する白眼視のように見えてくる。心すら読めぬ駒に同情を求めるなんて、私はどうかしてるのかもしれない。
彼がいた凄惨たる戦場を見下ろす。惨敗だった。チェスも、そして心理戦も。もうこのゲームは二度としないだろう。旧地獄の業火で灰にしてしまおうか。それでこの気持ちが消えてしまうのなら、これほど楽なことはない。
そう思い駒達を片付けようとした時だった。私は気付いてしまった。妹が残したメッセージに。
ただ一ヶ所だけが欠けていた。それは奇しくもあの王妃の隣だった。そっと彼をそこに置く。
「一緒になれてよかったわね……」
あのルールの真意はこういうことだったのだ。妹の気持ちを汲み取るのに能力も心理学も要らなかった。枯れたはずの涙が戻ってくる。
お姉ちゃん。これが私の気持ちだから……。
霞みゆく視界の先には、黒と白で彩られたハートが盤面に刻み込まれていた。
彼女は無意識を操る。意識的に完全な無意識の存在になることが出来る。その能力の汎用性は未知数で、妹自身もあまりよく解っていない。私が解っているのはその能力を使用している間は何人たりとも彼女を認識することは出来ないということだけ。五感はおろか、第六感でさえも不可能である。私の能力もまた然りだ。
その能力の副作用か、妹は段々と掴み所のない性格となり、放浪癖も持つようになった。家にいつ帰るのかも、いつ出ていくのかも解らない。姉の私としては心配なことこの上ない。
そんな彼女に、無意識とはどのような感覚であるのか問うたことがある。結局詳しいことは解らずじまいだったが、アルコールなどで脳が麻痺して理性と記憶が飛ぶ感覚や、夢の中で現実との境目が曖昧になる感覚とも違うらしい。意識に縛られた中で生きる私には、到底理解の及ばぬ世界なのだろう。
だからであろうか、私と妹がすれ違っているような錯覚に陥ることがある。心が読めないという不安が私をそのような気持ちに駆り立てるのかもしれない。こいしは私の前では笑顔で明るく過ごしている。要求すればそれなりの愛情表現もしてくれる。しかし、それが本心なのか私に確かめる術はない。
どうにか彼女の心が知りたい。そんな私にある妙案が浮かんだ。確か私の部屋にチェスというボードゲームがあったはずだ。それは数ヶ月前、妹が地上に行った際、香霖堂というよろず屋で買ってきたもの。店主からは外の世界からの漂流物だと聞かされたらしい。一応、皆でそのルールは読んだが、私達がその遊びをすることはなかった。
その理由は簡単。私は心理的な要素を含む遊びは好きではないし、こいしは例のごとく遊ぶ前にふらりとどこかへ出かけていった。お空はそのルールがあまりにも難しかったのか、高熱を出してしまう始末。唯一、お燐が一人寂しくチェスをやっていたが、すぐに飽きてしまっていた。
数日と経たぬうちにお蔵入りとなったチェスだが、これなら駒の動きや戦略などから彼女の心を知ることが出来るかもしれない。思い立ったが吉日だ。私の行動は素早かった。
まず私の部屋からチェスボードと駒を引っ張り出す。数ヶ月前のことなので駒が欠けてないか心配だったが、多少埃は被っていること除けば新品同様の状態だった。
チェスは良し。後は戦略から心理を読むだけの知識を付ければ準備万端だ。私はお燐に心理学の専門書を取り寄せるようにと頼んだ。彼女はそんな私に大層驚き、釈迦に説法ですねなんて言っていたが、私は神でも仏でもない。妹との心の乖離に悩む一人の妖怪なのだ。
そうして、私の書斎が心理学一色になるまでにはそれほど時間はかからなかった。人里の寺子屋教師、紅魔館の魔女、魔法の森の人形遣い。彼女はありとあらゆるところを訪ね歩いてそれらをかき集めてくれた。死体と一緒に猫車に載せてくるという過ちさえ犯さなければ、完璧な部下と言ってもいい。手渡された本からはなかなかの死臭が漂っていた。
とりあえず、私の机に山積されたそれらを手に取り読み進める。さすがにチェスから心理を分析するというものはなかった。難解な用語が並ぶ中、まず手始めに、私が聞いたことある単語から覚えることにした。
イド、スーパーエゴ、パラノイア、ロールシャッハにポリグラフ。全て妹のスペルカードに由来する単語だ。それらの意味を初めて調べる。
心というのは覚妖怪にとっては当たり前のものだった。自明なものは深く知る必要がない。一と一を足すと二になる。私が今まで心理学に対して努めて知ろうとしなかったのは、その理論を突き詰めて知ろうとしないのと同じこと。だけど、読み耽っていくうちにその分野にのめり込んでいく自分がいた。心という抽象的なものを解明しようとするその過程、それにより生み出された概念。全てに共感出来るわけではなかったが、それはそれで感慨深いものがあった。
何日かかけて、私はざっくりとではあるが専門書を読破した。一歩ずつこいしに近づいている気がする。ただ、それと同時に彼女が自身のスペルカードに込めた意味も解った気がして、少しだけ悲しくなった。
なんにせよ、私はやるべきことは終えたのだ。後はこいしの帰りを待つのみ。燭台の淡い光を浴びる駒達を眺めながら、私は姿の見えぬ妹に思いを馳せた。
こいしが帰ってきたのはその三日後のことだった。私がチェスの約束を取りつけると、怪訝な顔一つすることなく、いつもの笑顔で頷いてくれた。念のために、チェスのルールを尋ねると、対戦に支障が出ないほどには覚えてくれていた。
そして、その日の夕食後、私は妹を自室に招いた。 向かい合わせになった椅子に座る。ガラス張りのテーブルの上では、盤面に整然と並ぶ駒達が私達の指揮を今か今かと待ちわびていた。
妙な緊張感が私を包む。これはただの勝負ではない。妹の気持ちを知るための大事な一戦。それは私の最初で最後の心理戦になるかもしれない。今まで積み重ねてきた知識を武器に、チェスでもその戦いでも勝つ。
自分を静めるために深く呼吸を行う。私が彼女の心を読むことが出来ないように、彼女もまた私の心を読むことが出来ない。それが今だけはありがたい。
「それじゃあ、始めましょうか」
私の言葉に、こいしはちょっと待ってと挙手をする。
「対戦する前に、一つルールを変更したいんだけど」
「何かしら? 言ってみなさい」
「取った駒を再利用出来ないルールを変えて、逆に好きなように使えるようにするってのはどう? その方が面白いと思うんだけどなー」
彼女の提案に首を捻る。どういうつもりで言っているのだろう。そのルールを変えたら、チェスは駒が違うだけの将棋に成り変わる。確かに将棋は地上でも流行っているし、何局かは私も差したことがある。彼女の意図がいまいち解らない。
いや、ここで妹の腹を探るのは止めよう。時間の無駄だし、探るのは対局中でも可能だ。それに稀にしか帰らない愛する妹の頼みだ。無下に断るわけにもいかない。
「いいわ、そのルールで」
「ありがと、お姉ちゃん」
こんな無邪気に笑顔を振りまく妹を疑い、本心まで知ろうとすることは、姉として間違ったことなのかもしれない。でも、私は白黒はっきりさせたいのだ。この駒達のように。
「じゃあ、始めよっか」
こいしの声に、私は駒へと手を伸ばした。
妹が帰ってきたその夜は、彼女の地上での出来事を聞くのが習慣になっていた。楽しそうに話す彼女と私の肩で羽を休めるお空。私は膝の上で丸くなるお燐を撫でながら彼女の話に耳を傾けるというのがいつもの風景なのだが……。
「でねー。それで魔理沙がね」
「…………」
今日は全く様相を異にしていた。妹の話を聞きながら、変則的なチェスをしつつ、彼女の深層を探る。慣れないことの連続に私の額に汗が光る。どうやら三足もわらじをと欲張ってしまった私がいけないらしい。焦れば焦るほど深みに嵌まる。私の沈黙が続く。
心を読めない相手との心理戦がこれほど難しいものとは思わなかった。闇の中を手探りで歩いているような感覚。それでいて掴むのは空ばかり。彼女の心理はおろか、戦略すらも読み取ることが出来ない。
無論、盤上の戦況は私の圧倒的不利だった。彼女の縦横無尽に逃げ回る駒に翻弄されては攻め込まれ、一体また一体と数を減らしていく。彼女の持ち駒は増えていき、今や彼女は大軍を率いる宰相となっていた。
いつしか手も、口も、そして頭も完全に停止していた。対戦前の和気藹々とした雰囲気は消え、代わりに気まずい空気が私達の間に流れていた。そんな中、とうとうこいしが口を開いた。
「お姉ちゃん、私といて楽しくないの?」
彼女の瞳は先程と一転して寂しそうに揺れていた。そこに私への怒りはない。あるのは自責の念。悲しそうに私を見つめる姿が心に刺さる。姉として妹に何か声をかけてあげたいのに、疲弊しきった頭は空白しか生み出さない。
私は何をやっているのだろう。遥か高みの目標ばかり見て、知識ばかりを積み上げて、足元の大切な存在に気付いてあげられなかった。妹をこんな顔にさせて、何が本心を知るだ。思い上がりも甚だしい。そんな自分への罵倒の言葉は出てくるのに、彼女を慰める言葉は出てこない。私は姉失格だ。
「……こいし」
「ごめんね、お姉ちゃん」
自己嫌悪に押し潰されながら辛うじて紡いだ妹の名は、彼女の懺悔の言葉に掻き消えた。
それから、互いに無言のままチェスは続いた。私の不利は変わらない。盤上と現実、どちらの局面でも。
私の駒はたった四つにまで削られていた。キングとクイーン、そしてナイトが二人。
それを見て、思いたくなくても思ってしまう。味方を失い地底に追いやられた過去。こうして四人で身を寄せあって暮らしている現在。そして、いつか訪れるかもしれない未来。その全てがこの一局に込められているのではないかという妄想を。
「ねえ、お姉ちゃん。私は解ってたんだよ、お姉ちゃんが私のことどう思っているか」
長らく口を閉ざしていた妹が切り出す。それと同時に黒い騎士が私の騎士を切り伏せた。
「私、ダメな妹だよね。無意識に成り果てて、こうやってお姉ちゃん達に迷惑をかけ続けて。地上での土産話がせめてもの償いだと思ってたんだんだけどね……」
力なく微笑む妹に私は何も言葉がでない。それは違うと声を大にして言いたい。なのに、なんで私はこうなのだろう。一歩を踏み出しても、妹には届かないのではないか。そんな諦観にも似た感情が私に絡み付いて離れない。
その私を嘲笑うようかに、勇ましく踏み出した私の騎士はあっという間に刈り取られた。騎士が消えた。もう私の陣営には二人しかいない。
私は白無垢の姫を王の背後に回した。王の眼前に広がる敵。もう彼の逃げ場はどこにもない。それはチェスでは禁じられている自殺行為。死んでも彼女だけは守ってみせる。この気持ちを目の前の貴女に伝えられない弱い私を許して欲しい。
だが、現実は非情だった。その王妃は呆気なく黒い騎士に奪い去られた。いつも彼の傍らにいたはずの彼女が消えた。
「チェックメイト」
盤面に乾いた音が響く。私の王に刃を向けたのは、他ならぬあの王妃だった。
そうか。そうだったのか。彼女が提示したあのルールはこの状況を作り出すための布石だったのだ。気持ちを理解してあげられなかった私への復讐だったのだ。
私は姉妹という関係に甘んじていた。姉妹だから彼女に私の愛情が届いていて当たり前。妹の気持ちさえもを自明のものだとして、高を括っていたのだ。その慢心が溝を広げているとも知らずに。
「お姉ちゃん。これが私の気持ちだから」
王妃が王の首を刎ねた。妹の指が彼の亡骸をそっとつまみ上げる。その直後、彼女が薄れていくのを感じた。姿のみならず存在自体が。
「待って、こいし……」
こんなはずではなかった。私は貴女が帰ってくるのを心待ちにしていたのに。貴女が少しでも傍にいるだけで良かったのに。それに貴女は私のたった一人の妹。嫌いになろうとしてもなれるわけがない。気持ちだけが燻るばかりで、肝心な言葉は出てこない。
「お姉ちゃん、バイバイ」
その言葉を最後に妹は消えた。彼女の最後の顔は悲しくも優しい笑顔だった。主を失った王の亡骸が虚しい音を立てて床に転がった。
それから数時間、私は自分を責めては泣き続けた。今は涙も出てこない。もう妹は二度と帰ってこないのかもしれない。その事実が私の心を串刺しにする。
きっと私は嫌われてしまったのだろう。浅はかな考えで妹を推し量ろうなんてしたのがそもそもの間違いだったのだ。大切なことを見過ごしていたのに、それに私は気付かなかった。
私はふらつく足で立ち上がる。そして、床に転がったままの王様を徐に掌で包んだ。
「一人ぼっちになっちゃったわね……」
彼は白塗りの身体をこちらに向けるだけで何も返さない。それが私に対する白眼視のように見えてくる。心すら読めぬ駒に同情を求めるなんて、私はどうかしてるのかもしれない。
彼がいた凄惨たる戦場を見下ろす。惨敗だった。チェスも、そして心理戦も。もうこのゲームは二度としないだろう。旧地獄の業火で灰にしてしまおうか。それでこの気持ちが消えてしまうのなら、これほど楽なことはない。
そう思い駒達を片付けようとした時だった。私は気付いてしまった。妹が残したメッセージに。
ただ一ヶ所だけが欠けていた。それは奇しくもあの王妃の隣だった。そっと彼をそこに置く。
「一緒になれてよかったわね……」
あのルールの真意はこういうことだったのだ。妹の気持ちを汲み取るのに能力も心理学も要らなかった。枯れたはずの涙が戻ってくる。
お姉ちゃん。これが私の気持ちだから……。
霞みゆく視界の先には、黒と白で彩られたハートが盤面に刻み込まれていた。
いいお話でした。
ただ、こいしが意識的にメッセージを埋め込んで、それを口に出してしまっているのには、違和感を感じました。
無意識のうちにそれが描かれていたというのならスッキリするのですが。
余裕こそあったけれど、こんな演出を導けるこいしに脱帽です。
ボードゲーム、心理学といった題材を用いて互い互いの思いが交錯し、思いあぐねる様の描写は、本当に素晴らしいと思いました。
言葉を重ねる形になりますが、本当に素晴らしい作品でした。