魔法使いと小悪魔。珍妙な取り合わせの二人組(人外の数え方は『一人』『二人』でいいのかは知りませんが)を乗せた辻馬車が入ったのは、街の中心部へと繋がる大通りの一つ、その中でもとりわけ人の行き来が多い通りでした。
大きな馬車を並べて何台も通れるくらい広くて、清潔で、なによりも活況にあふれる大通り。ここは、基本的に後ろ暗いか脛に傷持つかしてお天道様の下を歩けない連中の吹き溜まり(それが悪けりゃ掃き溜めですか)の中で、紛れ隠れるようにして住み暮らしていた私には“とんと”馴染みのない場所です。
私は“なんとはなし”に馬車の外を流れる景色を眺めました。騒々しさと賑やかさの織り成す活気と喧騒が行き交う人達とともに刹那の時間さえ惜しむような勢いで流れ行き、道行く人達は皆、胸を張り大手を振って歩いている。誰しもが、この道こそはいずれ辿り着くであろう自らの輝かしき未来へと繋がっているのだと信じて疑わないかのような足取り。それは日陰者としての性根が頭の天辺から爪先、骨の髄まで染み付いている“ちんけ”な小悪魔の目を“眩ませるほどには眩しい”ものでした。
やがて、大通りをちょうど半分くらいまで過ぎたくらい、一段と人や物の流れが多い場所でパチュリー様は馬車を止めさせました。ここが目的地ということなのでしょうか。
「違うわ」
御者さんに運賃を払ったパチュリー様は“しずしず”と頭を振って馬車から降ります。私がそれに続いて荷物を手に馬車を降りると、パチュリー様は人で埋まった路の彼方を指差してみせました。
「目指すところはもう少し先。ただ、目立つようなことは少しでもしたくないのでね。ここから先は歩いて行きましょう」
はぐれないように、ちゃんとついてきてね。パチュリー様は幼い子供に言い聞かせるようなことを言い、人混みの中へと歩を進めました。その後を追い、私も“ごった返す”人の流れが生み出す波の中に、入水でもするような心持ちで潜り込む。
ともすればむせ返るほどの人いきれ濁流のような人の流れに、大通りの真っ只中で溺れそうな気分を味わいながらも、その波間を掻き分けあしらい潜り抜けつつしばらく歩いた後、辿り着いたのは一棟の集合住宅。高さは周りの建物と同じく3階建てで、ややくすんだ感じがする白い外壁のアパートメント。これといって目立つような外見では無いものの、素人目にも頑丈そうな造りの『それ』を指さし、パチュリー様は言います。
「ここが私の住まい。似たような建物が多いから、間違えたりしないようにね」
《魔法使い》といえば、何人も立ち寄らぬ森の深くに居を構え、人目につかぬようにして日々、魔道の研鑽に努め暮らしているものだとばかり思っていた私には、これは実に以外なものでした。この方は都会派魔法使いなのでしょうか。それを聞いたパチュリー様が、失笑気味に唇を緩めました。
「そんなレトロスタイルは今どき流行らない。怪しい所で怪しい事をしてる怪しい奴がいるって、大声で宣伝しているようなものじゃない」
一枚の葉っぱを隠したければ森の中へ、死体を隠したければ無差別殺人(戦争など)やらかして屍の山を築く───隠匿の基本にして極意は結局それね。故に、あえて沢山の人間がひっきりなしに右往左往するような場所に紛れ込むのが、目立たないためにはいいのだそうで。含むところがあるような物言いでパチュリー様は振り返りました。
「あなただってそれを承知していたからこそ、あの裏路地に潜み暮らしていたのではなくて?」
それは誤解というか買い被りもいいところです。思いもかけないことを言われ、私は慌ててしまいました。私の場合は単純に手元が不如意だったので、あんなところをうろついてただけでして。
なんとも情けないことですが、所詮この世は先立つものがあってこそ。かてて加えてそこから抜け出すための才覚さえも不如意ときましては、尚更“にっちもさっちも”いかないもので。
「世知辛い話だこと」
いつでもいずこもどこでもかしこも、人の世こそが“まこと”の苦界か。気のない相槌だけを残して、パチュリー様は扉の中へと消えていきました。
*
建物の中は仄暗く、静かでした。それこそ静かすぎて落ち着かないくらいに。
後ろ手に扉を閉めた私は、エントランスと思しき広間を“ぐるり”と見渡します。上品なクリーム色を基調にして、気の利いた調度品や飾りっけこそないものの塵一つ無く清められ静謐な雰囲気に満たされた空間。しかし、人が息づき、生活する場所では決しない。人が生きている証であるはずの生活の痕跡や匂いの存在を許さず、まるで世界から切り離され澱のごとくに淀んだ静けさだけが残ったかのようなこの広間は、窓から差し込む日差しさえどこかよそよそしい。
もしや廃墟の中にでも迷い込んだのかと錯覚させる、閑散とした静寂になんとも言えない異質感を覚える私の様子を見越したように、パチュリー様が言いました。
「やはり感覚は鋭く出来ているようね。あなたが感じているその通り、この建物は半ば廃墟のようなものよ」
なにせ私以外、誰も住んではいないのでね。広間の隅々に、染み渡るように響くパチュリー様の声。不人気物件ということですか。タチの悪い曰くなり因縁なりが憑いているとみえる。
「間違ってはいない。なんせ、魔女の棲み家という時点で“曰くつき”もいいところだもの───こっちよ」
か細いあごをしゃくり、パチュリー様は指し示した先にある妙に広いエントランスの奥にある階段を上がっていきます。といっても、私のように二本の足をせわしなく動かしたりなどはせず、人目がないのをいいことに“ふわり”と宙に浮かび、水が急勾配のスロープを逆しまに流れていくかのようにしてですが。この方には、普通に歩くという選択肢はないのでしょうか。
「ないわね。魔力で飛んだほうが疲れない」
普通は逆なのでは。溢れそうになった台詞を、すんでのところで私は飲み込みました。『普通』と果てしなく縁遠い《魔法使い》相手に言うだけ無駄というか不毛でしかない。
「あなた、あの路地裏で肺病病みなのかと訊いたでしょう、まさにそれよ」
喘息持ちなものでね、それがために魔力を使うより身体を動かすほうが億劫ときたものよ。パチュリー様は自嘲というには皮肉のこもらない、強いていうなら今更そんな感情を込めるのも面倒だとばかりの溜息を吐き出しました。ついでに云うのなら、その体質のお陰で長い呪文も唱えられんのだそうです。
「……やらずに済むなら、それこそ口さえ動かしたくない。いっそこの世の全ての連中がサトリの妖怪みたくにでもなりゃいいのに」
それなら少しも身体を動かすこともなく話ができる。わりと切実につぶやくパチュリー様でした。イヤな世界ですねえ、それ。そんな益体もない話を咲かせながら私達は4階の階段を通り過ぎます。3階建てではなかったのかという疑問は、この際“うっちゃって”おくのが正しいのでしょう。
*
「着いたわ、ここよ」
パチュリー様が足を止めたのは(端から動かしちゃいませんが)、階段を登りはじめてから優に10分ばかりが経過した頃でした。おつむが足りていない分、体力には自信がある方でしたが、さすがに休みなく階段を登り続けるのは無理がある。上がった階段、踏破した階数はとっくに数えるのを止めてしまっています。“ぜえぜえ”と息を切らし、気息奄々たる有り様でへたり込んでいると、パチュリー様の労う声がかけられました。
「ご苦労様」
ただし感情は“これっぽっち”も込められてはいませんでしたが。
どういたしまして。大きく息を吸い込み、私はやや“ぶっきらぼう”に返します。それより説明をしていただけませんか。一体全体この階段───というか建物はどうなっているんです。明らかに見た目よりも多目の階を上がる羽目になってるんですが。
“もっとも”なはずの私の質問に、すました顔でパチュリー様は答えてくれました。
「案内ついでに保安装置の機能チェックも兼ねさせてもらったの」
付け加えておくと『ここ』は3階で、あなたが階段を登りはじめてからまだ1分と経っていない。私は呆気にとられずにはいられませんでした。パチュリー様の説明によるとこの階段(というか建物)、2階から上はパチュリー様の許可を得ない者や、不当な侵入者が足を踏み入れたが最期(誤字にあらず)、どうやっても上の階に辿りつけず戻ることもできなくなるという仕掛けが施されているのだとか。
「ここに来る途中で、階段の脇に骸骨が何個か転がっていたのを見たでしょう。あれはこのアパートに盗みに入った泥的の成れの果て」
言われてみればありましたね、そんなのが。こっちはそれどころじゃなかったので無視してましたけど。パチュリー様が言うには、これらは東洋の術に曰く───『遁甲の法』とかいうものの応用らしいです。ちなみにこの階段を避けて建物に侵入しようとした者には更に悲惨な末路が待っているのだそうで。おお、こわいこわい。
「建物にはもう“言い聞かせた”から、次からは普通に上れるわ」
それは有難いことで。私は唇を尖らせずにはいられません。しかし“そういうこと”をする前には、できれば一言くらい説明をしてくださいませんか。お陰で、しないでいい苦労心労を抱える羽目になりましたよ。声に恨みがましいものが混じったとしても、それは仕方ないと思っていただきたい。
「それもそうか。ご免なさい」
パチュリー様はこちらに目も向けず、やはり微塵の心も篭もらぬ声で詫びました。なお、私を実験動物に仕立てての調査の結果は『異常なし』だとか。まことに結構なことで。
ようやく息も整ってきたので私は立ち上がり、パチュリー様が案内してくれた部屋の扉に足を運びました。扉にかけられたプレートには『Patricia Knowles』と記されています。私は字が読めないもんでよく解りませんが、これで『パチュリー・ノーレッジ』と読むのでしょうか。
「パトリシア・ノールズ、よ」
顔に出ていたらしい疑問を察したパチュリー様が説明をしてくれました。
にしても、お部屋を間違えたか表札を書き間違えたんですかね? 目の前にいる《魔法使い》のお名前は『パチュリー・ノーレッジ』のはずですが。
「それは《魔法使い》としての名前。パトリシア某は、それ以外の顔よ」
ついでに訊くけれど、今あなたの目に私はどんな格好で映っている? パチュリー様はおかしなことを訊ねてきました。眼の前にいるのは、アメジストを引き伸ばしたような紫の髪に透き通った白磁の肌をした、見目麗しくもうら若き魔法使いの姿があるばかり。私が見た通りを伝えると、パチュリー様は小さく首を振りました。違うんですか。
「魔力を纏わぬ人間には、白髪混じりのブルネットをした50過ぎの女に視えている。ちなみに旦那が鬼籍に入ったのを機に、田舎から越してきた小金持ちの“やもめ”という肩書よ」
なので、人目がある場所ではこの表札にある通り『パトリシア』と呼ぶように。言いながらパチュリー様は、懐から奇妙な捻くれ具合をした鍵を取り出しました。ひょっとして、まだ他にも『顔』や『名前』があるのではないでしょうか。
「よく分かったじゃない。推察通り“ここ”の他にも仮の住まいや研究のための“ねぐら”として押さえている土地や物件が幾つかあるわ……それぞれに別の名義を使ってね」
実はこのアパートメントも、部屋のみならず建物一つが大家という建前で丸々ご自身の持ち物なのだそうです。ついでに言うと、他のお部屋に居住している(ということになっている)方々というのは、この物件に入居しようとする人間を追っ払うために、パチュリー様が捏ち上げた架空の人物なのだとか。
お金持ちなのですね。厭味ではなく感心する私へ、特に大したことでもないとばかりにパチュリー様は肩をすくめてみせました。
「世俗に紛れて魔法なんてもんに“うつつ”を抜かしてると、とかく金がかかるってだけよ」
まあ、その余録として世渡りの術も自然と上達するし、良きにせよ悪しきにせよ知恵もつくのだけれど。“ここ”も含めて、要は年の功ってやつの賜物かな。パチュリー様はなんて事のないように言いますが、私はこの方への畏敬の念をますます深めずにはいられませんでした。もし私にも、この方の万分の一程度にでもいいからお金に対する才覚なり甲斐性なりが存在していたならば、あんなこ汚い路地裏を彷徨きまわることもなかったでしょうに。
慨嘆に目を伏せる小悪魔の耳に、扉を開く音と魔法使いの声が届きます。
「───さ、入ってちょうだい」
開け放たれた扉の先は、一寸先さえ視えぬ烏羽玉の闇。それが間抜けな獲物が引っかかるのを待ち構える巨獣の顎のようにも見えたのは、果たして気のせいであったでしょうか?
*
本の神殿。“おっかなびっくり”扉をくぐった先に広がる光景がそれでした。
まず最初に目につくのはとんでもない大きさの本棚の列。大袈裟ではなく天を衝くほどの高さと威容をもって私を圧倒する、頑丈そうな石で造られた『それ』は見上げた先も、見渡した先も、部屋の闇に紛れて“果て”が見えず、しかもそれが一つ二つどころか“果ての見えない部屋の果て”まで続いているのです。一体、どれほどの書物書籍が収められているのか見当もつきません。
……といいますか、明らかに本来しかるべきお部屋の容量と、本棚のそれとが一致してません。先にも述べた通り、高さのみならず横幅も奥行きも、まったくもって“果て”が見えないのです。一体、この書物の伽藍は“どこからどこまで”続いているのでしょうか。
おそらくはこのお部屋の“からくり”も、階段のそれと同じくするものなのでしょうから、今更この程度で驚きゃしませんが、それでも一体全体、どうやってこんなもんを運んできたのか、どうやってこれだけの本を蒐集したのかは気になって仕方ない。お引越しとか大変だったでしょうに。
「それは“おいおい”説明するわ───こっちよ」
パチュリー様が部屋のを奥を指差し促してきます。もしかするとまたぞろさっきの階段と同じく長い距離を歩かされなけりゃならんのでしょうか。その道行を想像してしまった私は思わず“うんざり”気味に立ち竦んでしまいます。
「安心なさい。今度は部屋を“繋げる”から、そんなに歩かなくても済む」
そりゃ“ありがたい”ことで。
*
パチュリー様の言った通り、2・3歩ほどの距離で部屋の様子が“がらり”と様変わりしました。少し前まで伸し掛かるような重圧を私に向けていた本棚の列はどこぞやへと消え去り、代わりに現れたのは沢山のガラス瓶───ビーカーとかフラスコとかいうんでしたっけ───が詰め込まれた薬品棚や積み上げられた書類にメモ、得体の知れない機械といったもので埋め尽くされた、広いけれども雑然とした印象のお部屋。
「ここは私の《研究室》みたいなものよ」
置いてある物の中には危険なものもあるから、迂闊に触れたりはしないでね。注意を受けつつ言うところの《研究室》を、私は隅から隅まで見渡しました。広大なホールを思わせるその中は、先ほどまでの書物と一緒に闇までも溜め込んだような書庫とはうって変わって柔らかな光に満たされており(採光窓があるのではなく部屋のどこぞやから光が溢れている、あるいは部屋そのものが光を放っているらしい)、また室内の壁と云わず床と云わず“あちこち”から太いチューブやパイプ、果ては鉱物とも金属ともつかない奇妙な物質でできたオブジェのようなものが顔を突き出しています。研究云々というより、おつむに得体の知れない電波を受信したトンチキ芸術家のアトリエといった方が“しっくり”きそうな風情でした。
物珍しさからはじめて都会を目の当たりにした“おのぼりさん”よろしくあれこれを見ていると、少し離れたところに置かれたおっきなガラス瓶の中身に私の眼は吸い付けられました。
大の人間が丸々入れるくらいに大きなガラス瓶、それはよろしい。問題はその中身。そこに入っていたのは瓶詰にされた、大の人間、の部品。頭や胴体、足に腕といった各部位がちょうど一人前、詰め込まれており、しかも不思議なことにそのどれもこれもが、腐りもせずに『生きて』いるのがわかるのです。
なんですか、こりゃ。私は瓶の傍にしゃがみ、“しげしげ”と『それ』を観察しました。
どうやら中に入ってらっしゃるのは女性、それもこの不気味さを感じさせぬほどに綺麗な方の様でした。緩くウェーブを描いた長い金色の髪、ミルク色の艶々しい肌は染みの一つもなく、生活の匂いを感じさせないたおやかな腕としなやかな脚……こんな有り様ではなく、しっかりと身体が“くっついて”さえいれば、誰もが目を見張る美少女であれたであろう人間、その部品。
あまりの奇っ怪さに目を丸くし眉をひそめ顔をしかめついでとばかりに首を捻っていると、いつの間にやら後ろに立っていたパチュリー様が説明をしてくれました。
「あ、それ。暇潰しにホムンクルス創ってたのよ」
失敗したんだけどね。“そいつ”は『そういう形をした人間』として出来上がっちゃったの。やや疲れ気味の溜息をパチュリー様は吐き出しました。
ということは、この方はこの状態が普通であり自然であるということですか。パチュリー様が言うには錬金術は専門外なのだそうで。子供がほしいのならこんな面倒なことをせず、普通に産めばよろしいのに。
「生憎ながら“つがい”として適当な奴がいない」
それでなくとも、魔法使いの身体は子を成すにゃ向いてない。ごく初歩の公式を教授する学者さんのような口調でパチュリー様が言い、脇に置かれた、さまざまな色をした液体で満たされたガラス瓶が並べられた大きな棚の中から、一番目立たない色───無色透明───の液体が8分ほど詰まった小瓶を手にしました。
「子宮の数は二つ、血の色は無色───流れていないのでね───五臓六腑をエーテルが満たし血管を巡るは塩、水銀。それが魔道の徒としての当たり前よ」
不意に、『中の人』の頭が目を開き、こちらを伺いました。あら、本当に生きてらっしゃるのですね。私の目と、瓶の中の人との目が合います。とても綺麗で、なによりも澄んだ碧空色の瞳。まるで赤ん坊が世の汚穢を何も知らぬままに成長したかのようなその透明感に目が離せずにいる私をよそに、パチュリー様はガラス瓶の重そうな蓋を軽々と開けて、小瓶の中身をふりかけました。すると、中のホムンクルス(失敗作)がみるみるうちに溶けていくではありませんか。言葉にするとかなり気色の悪い絵面が浮かびそうですが、溶けていく端からきらめく光の粒となり、虚空に消え行くその様は、むしろ波と風ににさらわれる砂のお城のような“はかなさ”をこそ、私に刻みつけたのでした。
ものの数秒程度で瓶の中の人は何一つの名残も残さず消え去りました。空になったガラス瓶の蓋を閉め直し、小瓶を元の場所に置き直したパチュリー様は、どこか“ばつ”の悪そうなご様子で言いました。
「つまらないものを見せてしまったわね」
そんなことはないですよ。中々、面白いものを見せていただきましたから。慰め気休めではなく私は正直なところを口にしました。そんなもん、求められてもいなけりゃ必要な方とも思えなかったですしそこまでの義理もない。
*
《研究室》を後にした私は幾つかのお部屋巡りの末、応接室と思しき場所に通されました。その道中でも、色々と“おかしな”ものや珍奇なものや“けったい”なものやヘンテコなものに出くわしたりもしましたが、それについて逐一説明なんぞをしていた日には見送ったお天道様をまた拝む羽目になるくらいの時間がかかりそうなので今回は割愛させていただきます。
「おかけなさい」
パチュリー様に勧められるままソファに腰を下ろし、室内を“ざっと”目に映しこみます。庭球でも遊べそうなくらい広い部屋の中にあるのは、いま腰掛けているソファとローテーブルのみ。まるで雲にでも座っているかのように座り心地のよいソファは部屋のちょうど真ん中に置かれていて、ローテーブルを挟むようなかたちで向かい側にも同じものが置かれています。今まで通ってきたものと比べ、格段にシンプルかつ小綺麗な室内は、エントランスで感じたものとはまた別の、居心地の良い静けさで満たされていました。
さて。同じく向かいのソファに腰掛けたパチュリー様は静かに前置きました。
「───最終確認といきましょうか。ここまでご足労いただけということは、あなたは私の《お使い》になることを承知してもらった、ということでいいのよね?」
なんとまあ、今更にも程がある話だとは思いませんか。のしかかる諦観に頭を押さえつけられるようにして、私は首を縦に振りました。どうせ、この方に目をつけられてしまった時点で、私に用意できる答えは『はい』かさもなきゃ『YES』しかないのですから。私の心中を知ってか知らずか(知ったところでほんの少しだって気にはしなかったでしょうがね)、パチュリー様は満足そうに頷きました。
「結構。これからのあなたの主な《仕事》は最初に通った《図書室》、あれの管理と保全。そして私の《研究》のお手伝いになるわ。細かい待遇については随時、相談にのるから遠慮なくどうぞ───勿論、今からでも受け付ける」
ありがたい仰せだったので、私は馬車の中でもした質問をもう一度することにしました───質問を繰り返すようですが、ホントにいいんですかね、私なんかで?
「構わないからこそ、あなたは“ここ”に招かれたのよ」
ですけど、ご存知の通り私ゃ大した力も無けりゃ取り柄もない、ついでに“おつむ”の具合もよろしくない、三拍子揃った役立たず。そんなのを《お使い》なんかにしたってお役にゃ立てません。パチュリー様の名前にだって瑕が付きはしませんか。くどいくらいに念を押すも、パチュリー様は涼しい顔で受け流すばかりでした。
「なにも最初から全てを期待はしてないわ。必要な知識・技術はこちらで教える。……そうね、まずは読み書きが出来るようにでもなってもらいましょうか」
そして先の《お仕事》に必要な《力》なり《技術》なりも随時、身に付けていってもらう。その意味でも、そこいらの犬猫に術を打ち込んで“あれやこれや”仕込むよりは、やはり最初から“人の形をした人並みの知能を持っているやつ”に物事を仕込むだけの方が、楽でいい(なにせ口でものを教えるだけで済む)。
「結局のところ『使う側』の私にはさしたる問題は起こらないのよ」
そしてこれは、あなたにとっても悪い話じゃないはずよ。パチュリー様は小首を微妙に傾げ、意味ありげな流し目をくれてきました。
「けちな小悪魔にだって、立身出世への欲くらいは人並みにあるでしょう。ここで修練なり功夫なり積んで、自身のグレードなりキャリアなりを上げておくのも一つの手」
……それとも、いつまでも“うだつ”も上がらぬまま、こ汚い路地裏で溝鼠のように燻っているのがあなたの本望なのかしら? いまいち感情の読めない、強いて挙げるなら嘲弄のそれに近しい色を瞳に浮かべ、パチュリー様は揺さぶりをかけてきました。
なんとも痛いところを突いてこられます。矢継ぎ早に放たれる言い包めに、私は舌を巻かざるをえません。これはチャンスなのだと親切ごかしに言い聞かせ、飢えた野良鼠の目の前へと釣り針付きの餌をチラつかせるその手管。私なんぞより、この方のがよっぽど悪魔としてやっていけるんじゃないでしょうか。
とはいえ、ここで素直に頷いてしまうのもなんだか癪なので、私はほんの僅かな意趣返しをすることにしました。意地の悪そうな顔をこしらえ、切り出します。
……でもいいんですかね、それで。今度は私が、昔の『お弟子さん』みたく力をつけた途端に豹変なり心変わりなりして貴方に牙を向くかもしれませんよ?
どんな反応を見せてくれるかと思いきや、パチュリー様は拍子抜けするくらい“あっさり”と返したものでした。
「やればいいんじゃないの」
それこそこちらの方こそが、反応に困るくらい。
何と言えばいいのかも判らずに黙っていると、私のお腹が“くう”と、か細い抗議の声を上げました。落ちた針の音さえ聞こえそうな静寂の中だけに、よく響きます。そういえば、路地裏でパチュリー様に声をかけられたのがお昼過ぎで、それからなんにも口にせずここに連れて来られたのでしたっけ。
「古人曰く───腹が減っては戦はできぬ。労働交渉も戦なら、お腹を減らしたままではできないわね」
少し待っていなさい。小さく告げて、パチュリー様は文字通り私の目の前から霞のように掻き消えたのでした。
大きな馬車を並べて何台も通れるくらい広くて、清潔で、なによりも活況にあふれる大通り。ここは、基本的に後ろ暗いか脛に傷持つかしてお天道様の下を歩けない連中の吹き溜まり(それが悪けりゃ掃き溜めですか)の中で、紛れ隠れるようにして住み暮らしていた私には“とんと”馴染みのない場所です。
私は“なんとはなし”に馬車の外を流れる景色を眺めました。騒々しさと賑やかさの織り成す活気と喧騒が行き交う人達とともに刹那の時間さえ惜しむような勢いで流れ行き、道行く人達は皆、胸を張り大手を振って歩いている。誰しもが、この道こそはいずれ辿り着くであろう自らの輝かしき未来へと繋がっているのだと信じて疑わないかのような足取り。それは日陰者としての性根が頭の天辺から爪先、骨の髄まで染み付いている“ちんけ”な小悪魔の目を“眩ませるほどには眩しい”ものでした。
やがて、大通りをちょうど半分くらいまで過ぎたくらい、一段と人や物の流れが多い場所でパチュリー様は馬車を止めさせました。ここが目的地ということなのでしょうか。
「違うわ」
御者さんに運賃を払ったパチュリー様は“しずしず”と頭を振って馬車から降ります。私がそれに続いて荷物を手に馬車を降りると、パチュリー様は人で埋まった路の彼方を指差してみせました。
「目指すところはもう少し先。ただ、目立つようなことは少しでもしたくないのでね。ここから先は歩いて行きましょう」
はぐれないように、ちゃんとついてきてね。パチュリー様は幼い子供に言い聞かせるようなことを言い、人混みの中へと歩を進めました。その後を追い、私も“ごった返す”人の流れが生み出す波の中に、入水でもするような心持ちで潜り込む。
ともすればむせ返るほどの人いきれ濁流のような人の流れに、大通りの真っ只中で溺れそうな気分を味わいながらも、その波間を掻き分けあしらい潜り抜けつつしばらく歩いた後、辿り着いたのは一棟の集合住宅。高さは周りの建物と同じく3階建てで、ややくすんだ感じがする白い外壁のアパートメント。これといって目立つような外見では無いものの、素人目にも頑丈そうな造りの『それ』を指さし、パチュリー様は言います。
「ここが私の住まい。似たような建物が多いから、間違えたりしないようにね」
《魔法使い》といえば、何人も立ち寄らぬ森の深くに居を構え、人目につかぬようにして日々、魔道の研鑽に努め暮らしているものだとばかり思っていた私には、これは実に以外なものでした。この方は都会派魔法使いなのでしょうか。それを聞いたパチュリー様が、失笑気味に唇を緩めました。
「そんなレトロスタイルは今どき流行らない。怪しい所で怪しい事をしてる怪しい奴がいるって、大声で宣伝しているようなものじゃない」
一枚の葉っぱを隠したければ森の中へ、死体を隠したければ無差別殺人(戦争など)やらかして屍の山を築く───隠匿の基本にして極意は結局それね。故に、あえて沢山の人間がひっきりなしに右往左往するような場所に紛れ込むのが、目立たないためにはいいのだそうで。含むところがあるような物言いでパチュリー様は振り返りました。
「あなただってそれを承知していたからこそ、あの裏路地に潜み暮らしていたのではなくて?」
それは誤解というか買い被りもいいところです。思いもかけないことを言われ、私は慌ててしまいました。私の場合は単純に手元が不如意だったので、あんなところをうろついてただけでして。
なんとも情けないことですが、所詮この世は先立つものがあってこそ。かてて加えてそこから抜け出すための才覚さえも不如意ときましては、尚更“にっちもさっちも”いかないもので。
「世知辛い話だこと」
いつでもいずこもどこでもかしこも、人の世こそが“まこと”の苦界か。気のない相槌だけを残して、パチュリー様は扉の中へと消えていきました。
*
建物の中は仄暗く、静かでした。それこそ静かすぎて落ち着かないくらいに。
後ろ手に扉を閉めた私は、エントランスと思しき広間を“ぐるり”と見渡します。上品なクリーム色を基調にして、気の利いた調度品や飾りっけこそないものの塵一つ無く清められ静謐な雰囲気に満たされた空間。しかし、人が息づき、生活する場所では決しない。人が生きている証であるはずの生活の痕跡や匂いの存在を許さず、まるで世界から切り離され澱のごとくに淀んだ静けさだけが残ったかのようなこの広間は、窓から差し込む日差しさえどこかよそよそしい。
もしや廃墟の中にでも迷い込んだのかと錯覚させる、閑散とした静寂になんとも言えない異質感を覚える私の様子を見越したように、パチュリー様が言いました。
「やはり感覚は鋭く出来ているようね。あなたが感じているその通り、この建物は半ば廃墟のようなものよ」
なにせ私以外、誰も住んではいないのでね。広間の隅々に、染み渡るように響くパチュリー様の声。不人気物件ということですか。タチの悪い曰くなり因縁なりが憑いているとみえる。
「間違ってはいない。なんせ、魔女の棲み家という時点で“曰くつき”もいいところだもの───こっちよ」
か細いあごをしゃくり、パチュリー様は指し示した先にある妙に広いエントランスの奥にある階段を上がっていきます。といっても、私のように二本の足をせわしなく動かしたりなどはせず、人目がないのをいいことに“ふわり”と宙に浮かび、水が急勾配のスロープを逆しまに流れていくかのようにしてですが。この方には、普通に歩くという選択肢はないのでしょうか。
「ないわね。魔力で飛んだほうが疲れない」
普通は逆なのでは。溢れそうになった台詞を、すんでのところで私は飲み込みました。『普通』と果てしなく縁遠い《魔法使い》相手に言うだけ無駄というか不毛でしかない。
「あなた、あの路地裏で肺病病みなのかと訊いたでしょう、まさにそれよ」
喘息持ちなものでね、それがために魔力を使うより身体を動かすほうが億劫ときたものよ。パチュリー様は自嘲というには皮肉のこもらない、強いていうなら今更そんな感情を込めるのも面倒だとばかりの溜息を吐き出しました。ついでに云うのなら、その体質のお陰で長い呪文も唱えられんのだそうです。
「……やらずに済むなら、それこそ口さえ動かしたくない。いっそこの世の全ての連中がサトリの妖怪みたくにでもなりゃいいのに」
それなら少しも身体を動かすこともなく話ができる。わりと切実につぶやくパチュリー様でした。イヤな世界ですねえ、それ。そんな益体もない話を咲かせながら私達は4階の階段を通り過ぎます。3階建てではなかったのかという疑問は、この際“うっちゃって”おくのが正しいのでしょう。
*
「着いたわ、ここよ」
パチュリー様が足を止めたのは(端から動かしちゃいませんが)、階段を登りはじめてから優に10分ばかりが経過した頃でした。おつむが足りていない分、体力には自信がある方でしたが、さすがに休みなく階段を登り続けるのは無理がある。上がった階段、踏破した階数はとっくに数えるのを止めてしまっています。“ぜえぜえ”と息を切らし、気息奄々たる有り様でへたり込んでいると、パチュリー様の労う声がかけられました。
「ご苦労様」
ただし感情は“これっぽっち”も込められてはいませんでしたが。
どういたしまして。大きく息を吸い込み、私はやや“ぶっきらぼう”に返します。それより説明をしていただけませんか。一体全体この階段───というか建物はどうなっているんです。明らかに見た目よりも多目の階を上がる羽目になってるんですが。
“もっとも”なはずの私の質問に、すました顔でパチュリー様は答えてくれました。
「案内ついでに保安装置の機能チェックも兼ねさせてもらったの」
付け加えておくと『ここ』は3階で、あなたが階段を登りはじめてからまだ1分と経っていない。私は呆気にとられずにはいられませんでした。パチュリー様の説明によるとこの階段(というか建物)、2階から上はパチュリー様の許可を得ない者や、不当な侵入者が足を踏み入れたが最期(誤字にあらず)、どうやっても上の階に辿りつけず戻ることもできなくなるという仕掛けが施されているのだとか。
「ここに来る途中で、階段の脇に骸骨が何個か転がっていたのを見たでしょう。あれはこのアパートに盗みに入った泥的の成れの果て」
言われてみればありましたね、そんなのが。こっちはそれどころじゃなかったので無視してましたけど。パチュリー様が言うには、これらは東洋の術に曰く───『遁甲の法』とかいうものの応用らしいです。ちなみにこの階段を避けて建物に侵入しようとした者には更に悲惨な末路が待っているのだそうで。おお、こわいこわい。
「建物にはもう“言い聞かせた”から、次からは普通に上れるわ」
それは有難いことで。私は唇を尖らせずにはいられません。しかし“そういうこと”をする前には、できれば一言くらい説明をしてくださいませんか。お陰で、しないでいい苦労心労を抱える羽目になりましたよ。声に恨みがましいものが混じったとしても、それは仕方ないと思っていただきたい。
「それもそうか。ご免なさい」
パチュリー様はこちらに目も向けず、やはり微塵の心も篭もらぬ声で詫びました。なお、私を実験動物に仕立てての調査の結果は『異常なし』だとか。まことに結構なことで。
ようやく息も整ってきたので私は立ち上がり、パチュリー様が案内してくれた部屋の扉に足を運びました。扉にかけられたプレートには『Patricia Knowles』と記されています。私は字が読めないもんでよく解りませんが、これで『パチュリー・ノーレッジ』と読むのでしょうか。
「パトリシア・ノールズ、よ」
顔に出ていたらしい疑問を察したパチュリー様が説明をしてくれました。
にしても、お部屋を間違えたか表札を書き間違えたんですかね? 目の前にいる《魔法使い》のお名前は『パチュリー・ノーレッジ』のはずですが。
「それは《魔法使い》としての名前。パトリシア某は、それ以外の顔よ」
ついでに訊くけれど、今あなたの目に私はどんな格好で映っている? パチュリー様はおかしなことを訊ねてきました。眼の前にいるのは、アメジストを引き伸ばしたような紫の髪に透き通った白磁の肌をした、見目麗しくもうら若き魔法使いの姿があるばかり。私が見た通りを伝えると、パチュリー様は小さく首を振りました。違うんですか。
「魔力を纏わぬ人間には、白髪混じりのブルネットをした50過ぎの女に視えている。ちなみに旦那が鬼籍に入ったのを機に、田舎から越してきた小金持ちの“やもめ”という肩書よ」
なので、人目がある場所ではこの表札にある通り『パトリシア』と呼ぶように。言いながらパチュリー様は、懐から奇妙な捻くれ具合をした鍵を取り出しました。ひょっとして、まだ他にも『顔』や『名前』があるのではないでしょうか。
「よく分かったじゃない。推察通り“ここ”の他にも仮の住まいや研究のための“ねぐら”として押さえている土地や物件が幾つかあるわ……それぞれに別の名義を使ってね」
実はこのアパートメントも、部屋のみならず建物一つが大家という建前で丸々ご自身の持ち物なのだそうです。ついでに言うと、他のお部屋に居住している(ということになっている)方々というのは、この物件に入居しようとする人間を追っ払うために、パチュリー様が捏ち上げた架空の人物なのだとか。
お金持ちなのですね。厭味ではなく感心する私へ、特に大したことでもないとばかりにパチュリー様は肩をすくめてみせました。
「世俗に紛れて魔法なんてもんに“うつつ”を抜かしてると、とかく金がかかるってだけよ」
まあ、その余録として世渡りの術も自然と上達するし、良きにせよ悪しきにせよ知恵もつくのだけれど。“ここ”も含めて、要は年の功ってやつの賜物かな。パチュリー様はなんて事のないように言いますが、私はこの方への畏敬の念をますます深めずにはいられませんでした。もし私にも、この方の万分の一程度にでもいいからお金に対する才覚なり甲斐性なりが存在していたならば、あんなこ汚い路地裏を彷徨きまわることもなかったでしょうに。
慨嘆に目を伏せる小悪魔の耳に、扉を開く音と魔法使いの声が届きます。
「───さ、入ってちょうだい」
開け放たれた扉の先は、一寸先さえ視えぬ烏羽玉の闇。それが間抜けな獲物が引っかかるのを待ち構える巨獣の顎のようにも見えたのは、果たして気のせいであったでしょうか?
*
本の神殿。“おっかなびっくり”扉をくぐった先に広がる光景がそれでした。
まず最初に目につくのはとんでもない大きさの本棚の列。大袈裟ではなく天を衝くほどの高さと威容をもって私を圧倒する、頑丈そうな石で造られた『それ』は見上げた先も、見渡した先も、部屋の闇に紛れて“果て”が見えず、しかもそれが一つ二つどころか“果ての見えない部屋の果て”まで続いているのです。一体、どれほどの書物書籍が収められているのか見当もつきません。
……といいますか、明らかに本来しかるべきお部屋の容量と、本棚のそれとが一致してません。先にも述べた通り、高さのみならず横幅も奥行きも、まったくもって“果て”が見えないのです。一体、この書物の伽藍は“どこからどこまで”続いているのでしょうか。
おそらくはこのお部屋の“からくり”も、階段のそれと同じくするものなのでしょうから、今更この程度で驚きゃしませんが、それでも一体全体、どうやってこんなもんを運んできたのか、どうやってこれだけの本を蒐集したのかは気になって仕方ない。お引越しとか大変だったでしょうに。
「それは“おいおい”説明するわ───こっちよ」
パチュリー様が部屋のを奥を指差し促してきます。もしかするとまたぞろさっきの階段と同じく長い距離を歩かされなけりゃならんのでしょうか。その道行を想像してしまった私は思わず“うんざり”気味に立ち竦んでしまいます。
「安心なさい。今度は部屋を“繋げる”から、そんなに歩かなくても済む」
そりゃ“ありがたい”ことで。
*
パチュリー様の言った通り、2・3歩ほどの距離で部屋の様子が“がらり”と様変わりしました。少し前まで伸し掛かるような重圧を私に向けていた本棚の列はどこぞやへと消え去り、代わりに現れたのは沢山のガラス瓶───ビーカーとかフラスコとかいうんでしたっけ───が詰め込まれた薬品棚や積み上げられた書類にメモ、得体の知れない機械といったもので埋め尽くされた、広いけれども雑然とした印象のお部屋。
「ここは私の《研究室》みたいなものよ」
置いてある物の中には危険なものもあるから、迂闊に触れたりはしないでね。注意を受けつつ言うところの《研究室》を、私は隅から隅まで見渡しました。広大なホールを思わせるその中は、先ほどまでの書物と一緒に闇までも溜め込んだような書庫とはうって変わって柔らかな光に満たされており(採光窓があるのではなく部屋のどこぞやから光が溢れている、あるいは部屋そのものが光を放っているらしい)、また室内の壁と云わず床と云わず“あちこち”から太いチューブやパイプ、果ては鉱物とも金属ともつかない奇妙な物質でできたオブジェのようなものが顔を突き出しています。研究云々というより、おつむに得体の知れない電波を受信したトンチキ芸術家のアトリエといった方が“しっくり”きそうな風情でした。
物珍しさからはじめて都会を目の当たりにした“おのぼりさん”よろしくあれこれを見ていると、少し離れたところに置かれたおっきなガラス瓶の中身に私の眼は吸い付けられました。
大の人間が丸々入れるくらいに大きなガラス瓶、それはよろしい。問題はその中身。そこに入っていたのは瓶詰にされた、大の人間、の部品。頭や胴体、足に腕といった各部位がちょうど一人前、詰め込まれており、しかも不思議なことにそのどれもこれもが、腐りもせずに『生きて』いるのがわかるのです。
なんですか、こりゃ。私は瓶の傍にしゃがみ、“しげしげ”と『それ』を観察しました。
どうやら中に入ってらっしゃるのは女性、それもこの不気味さを感じさせぬほどに綺麗な方の様でした。緩くウェーブを描いた長い金色の髪、ミルク色の艶々しい肌は染みの一つもなく、生活の匂いを感じさせないたおやかな腕としなやかな脚……こんな有り様ではなく、しっかりと身体が“くっついて”さえいれば、誰もが目を見張る美少女であれたであろう人間、その部品。
あまりの奇っ怪さに目を丸くし眉をひそめ顔をしかめついでとばかりに首を捻っていると、いつの間にやら後ろに立っていたパチュリー様が説明をしてくれました。
「あ、それ。暇潰しにホムンクルス創ってたのよ」
失敗したんだけどね。“そいつ”は『そういう形をした人間』として出来上がっちゃったの。やや疲れ気味の溜息をパチュリー様は吐き出しました。
ということは、この方はこの状態が普通であり自然であるということですか。パチュリー様が言うには錬金術は専門外なのだそうで。子供がほしいのならこんな面倒なことをせず、普通に産めばよろしいのに。
「生憎ながら“つがい”として適当な奴がいない」
それでなくとも、魔法使いの身体は子を成すにゃ向いてない。ごく初歩の公式を教授する学者さんのような口調でパチュリー様が言い、脇に置かれた、さまざまな色をした液体で満たされたガラス瓶が並べられた大きな棚の中から、一番目立たない色───無色透明───の液体が8分ほど詰まった小瓶を手にしました。
「子宮の数は二つ、血の色は無色───流れていないのでね───五臓六腑をエーテルが満たし血管を巡るは塩、水銀。それが魔道の徒としての当たり前よ」
不意に、『中の人』の頭が目を開き、こちらを伺いました。あら、本当に生きてらっしゃるのですね。私の目と、瓶の中の人との目が合います。とても綺麗で、なによりも澄んだ碧空色の瞳。まるで赤ん坊が世の汚穢を何も知らぬままに成長したかのようなその透明感に目が離せずにいる私をよそに、パチュリー様はガラス瓶の重そうな蓋を軽々と開けて、小瓶の中身をふりかけました。すると、中のホムンクルス(失敗作)がみるみるうちに溶けていくではありませんか。言葉にするとかなり気色の悪い絵面が浮かびそうですが、溶けていく端からきらめく光の粒となり、虚空に消え行くその様は、むしろ波と風ににさらわれる砂のお城のような“はかなさ”をこそ、私に刻みつけたのでした。
ものの数秒程度で瓶の中の人は何一つの名残も残さず消え去りました。空になったガラス瓶の蓋を閉め直し、小瓶を元の場所に置き直したパチュリー様は、どこか“ばつ”の悪そうなご様子で言いました。
「つまらないものを見せてしまったわね」
そんなことはないですよ。中々、面白いものを見せていただきましたから。慰め気休めではなく私は正直なところを口にしました。そんなもん、求められてもいなけりゃ必要な方とも思えなかったですしそこまでの義理もない。
*
《研究室》を後にした私は幾つかのお部屋巡りの末、応接室と思しき場所に通されました。その道中でも、色々と“おかしな”ものや珍奇なものや“けったい”なものやヘンテコなものに出くわしたりもしましたが、それについて逐一説明なんぞをしていた日には見送ったお天道様をまた拝む羽目になるくらいの時間がかかりそうなので今回は割愛させていただきます。
「おかけなさい」
パチュリー様に勧められるままソファに腰を下ろし、室内を“ざっと”目に映しこみます。庭球でも遊べそうなくらい広い部屋の中にあるのは、いま腰掛けているソファとローテーブルのみ。まるで雲にでも座っているかのように座り心地のよいソファは部屋のちょうど真ん中に置かれていて、ローテーブルを挟むようなかたちで向かい側にも同じものが置かれています。今まで通ってきたものと比べ、格段にシンプルかつ小綺麗な室内は、エントランスで感じたものとはまた別の、居心地の良い静けさで満たされていました。
さて。同じく向かいのソファに腰掛けたパチュリー様は静かに前置きました。
「───最終確認といきましょうか。ここまでご足労いただけということは、あなたは私の《お使い》になることを承知してもらった、ということでいいのよね?」
なんとまあ、今更にも程がある話だとは思いませんか。のしかかる諦観に頭を押さえつけられるようにして、私は首を縦に振りました。どうせ、この方に目をつけられてしまった時点で、私に用意できる答えは『はい』かさもなきゃ『YES』しかないのですから。私の心中を知ってか知らずか(知ったところでほんの少しだって気にはしなかったでしょうがね)、パチュリー様は満足そうに頷きました。
「結構。これからのあなたの主な《仕事》は最初に通った《図書室》、あれの管理と保全。そして私の《研究》のお手伝いになるわ。細かい待遇については随時、相談にのるから遠慮なくどうぞ───勿論、今からでも受け付ける」
ありがたい仰せだったので、私は馬車の中でもした質問をもう一度することにしました───質問を繰り返すようですが、ホントにいいんですかね、私なんかで?
「構わないからこそ、あなたは“ここ”に招かれたのよ」
ですけど、ご存知の通り私ゃ大した力も無けりゃ取り柄もない、ついでに“おつむ”の具合もよろしくない、三拍子揃った役立たず。そんなのを《お使い》なんかにしたってお役にゃ立てません。パチュリー様の名前にだって瑕が付きはしませんか。くどいくらいに念を押すも、パチュリー様は涼しい顔で受け流すばかりでした。
「なにも最初から全てを期待はしてないわ。必要な知識・技術はこちらで教える。……そうね、まずは読み書きが出来るようにでもなってもらいましょうか」
そして先の《お仕事》に必要な《力》なり《技術》なりも随時、身に付けていってもらう。その意味でも、そこいらの犬猫に術を打ち込んで“あれやこれや”仕込むよりは、やはり最初から“人の形をした人並みの知能を持っているやつ”に物事を仕込むだけの方が、楽でいい(なにせ口でものを教えるだけで済む)。
「結局のところ『使う側』の私にはさしたる問題は起こらないのよ」
そしてこれは、あなたにとっても悪い話じゃないはずよ。パチュリー様は小首を微妙に傾げ、意味ありげな流し目をくれてきました。
「けちな小悪魔にだって、立身出世への欲くらいは人並みにあるでしょう。ここで修練なり功夫なり積んで、自身のグレードなりキャリアなりを上げておくのも一つの手」
……それとも、いつまでも“うだつ”も上がらぬまま、こ汚い路地裏で溝鼠のように燻っているのがあなたの本望なのかしら? いまいち感情の読めない、強いて挙げるなら嘲弄のそれに近しい色を瞳に浮かべ、パチュリー様は揺さぶりをかけてきました。
なんとも痛いところを突いてこられます。矢継ぎ早に放たれる言い包めに、私は舌を巻かざるをえません。これはチャンスなのだと親切ごかしに言い聞かせ、飢えた野良鼠の目の前へと釣り針付きの餌をチラつかせるその手管。私なんぞより、この方のがよっぽど悪魔としてやっていけるんじゃないでしょうか。
とはいえ、ここで素直に頷いてしまうのもなんだか癪なので、私はほんの僅かな意趣返しをすることにしました。意地の悪そうな顔をこしらえ、切り出します。
……でもいいんですかね、それで。今度は私が、昔の『お弟子さん』みたく力をつけた途端に豹変なり心変わりなりして貴方に牙を向くかもしれませんよ?
どんな反応を見せてくれるかと思いきや、パチュリー様は拍子抜けするくらい“あっさり”と返したものでした。
「やればいいんじゃないの」
それこそこちらの方こそが、反応に困るくらい。
何と言えばいいのかも判らずに黙っていると、私のお腹が“くう”と、か細い抗議の声を上げました。落ちた針の音さえ聞こえそうな静寂の中だけに、よく響きます。そういえば、路地裏でパチュリー様に声をかけられたのがお昼過ぎで、それからなんにも口にせずここに連れて来られたのでしたっけ。
「古人曰く───腹が減っては戦はできぬ。労働交渉も戦なら、お腹を減らしたままではできないわね」
少し待っていなさい。小さく告げて、パチュリー様は文字通り私の目の前から霞のように掻き消えたのでした。
相変わらずキャラ同士が微妙な距離感を保った話を書かれますな