――――ねえ、今日は鍋にしましょうよ!
そんな宇佐見蓮子の気まぐれな発言から、今宵の夕食は決定された。夏も過ぎ去り、間もなく本格的な秋が訪れるだろう長月の末頃。大学の講義終了後、二人揃っての食材買い出しを終えた彼女たちは、マエリベリー・ハーンの下宿するアパートで二人っきりの鍋パーティーに興じていた、のだが。
「ねえ、蓮子! お願いだから生きて!」
二人で鍋をつつき始めてから、ちょうど時計の針が盤面を一周半ほど回った頃、マエリベリーは切々と乞うていた。その叫びは悲痛でさえあった。
楽しかったはずの鍋パーティー。小さな卓上にどんと置いた鍋では、その匂いでもって胃袋をギュッと鷲掴みにするような水炊きが、ぐつぐつと煮立っていた。琥珀色に耀くビールに、どこまでも純粋に澄み渡る日本酒が卓を飾り、少女の笑顔が花咲いて、決して広くはないアパートの一室は、しかし二人にとって他のどこよりも居心地の良い場所であるに違いなかった。
それなのに。
「ねえ、蓮子ってば!」
マエリベリーが声を張り上げた。痛切な響きはそのまま、そこには強かな怒りの色さえ見え隠れしていた。どうしてこんなことになってしまったのか。ただ自分が情けなかった。自分がもっとしっかりしていれば、彼女に無理をさせなければ、こんなことにはならなかったのに。どうして、――――どうして!
卓上コンロの火も静まり、ただゆらゆらと湯気を立てて熱を放射するだけの鍋。賑わいを失ったそれを挟んだ場所で、宇佐見蓮子は酔い潰れていた。
「あー、駄目。………………吐きそう」
「やめて蓮子! 早まってはいけないわ!」
マエリベリーは跳ね上がるように立ち上がり、床の上で今まさに力尽きようとしている蓮子のへ駆け寄った。首筋に汗が滴る。部屋は、コンロの火、鍋の湯気、そして少女二人の熱気により、温度と湿度、ともに最悪の状態だった。
「調子にのって飲みすぎるからこうなるのよ!」
「だって、鍋美味しいじゃん……」
「それはそうだけど! 否定はしないけど! だからって限度ってものが――――」
「あ、あんま大声……、うっ」
「やめて!」
厳しい熱さも過ぎ去り、夜には鈴虫の鳴き声が耳に心地よい季節となった。ともすれば、朝方などはその肌寒さに身震いするほど気温が低い日も、ちらほらあったぐらいだ。夏場にはなかなか旺盛にとはいかない食欲も、気温の低下につれて、だんだんと寝惚け眼をぐしぐし擦りつつ自己主張を始める。そんなわけだから開催された今宵の鍋パーティー。食欲の秋とはよく言ったもので、この時季になると人の食への興味は否応無しに高まってゆく。久々の鍋に、蓮子が暴飲暴食してしまったのも、決して無理からぬことだった。
だが、それとこれとは別である。二人楽しく鍋をつつき合った後に、お好み焼きの追加注文などしたくはない。秋の味覚はその色艶や形もあわせて絶品なのであり、いくらそれらを凝縮した物であったとしても、一度人の胃に落ちた物は人の食欲を駆り立てるには程遠い、秋の味覚だったものでしか在りえないのだ。
うーうー呻く蓮子の体を起こしてやる。部屋の熱気に吐き気と最悪のダブルパンチを食らい、彼女の額にも玉のような汗がびっしょりと浮かんでいた。
「うー、気持ち悪い……。暑い。いやぁ……」
「ちょっと待ってて。今窓を開けるから」
蓮子の上体を安定させ、窓を開けるために立ち上がったマエリベリー。だが一歩踏み出したその足に背後から何者かが掴みかかり、マエリベリーはバランスを崩してその場に倒れた。
「いたっ!」
びたんっ、と受け身を取るため突き出した手の平をフローリングに叩きつけ、マエリベリーは小さく叫んだ。踏み出しそこなった足の膝頭が床を突き、その拍子に照明のリモコンを押してしまう。ぴっ、と白々しい電子音とともに、部屋の照明が消える。
「ちょっと、蓮子! 何するのよ!」
俯せに倒れた体を仰向けに起こし、彼女を転倒せしめた犯人へキッと鋭い眼差しを送る。
「メリー……、どこ行くのぉ……」
「悪酔いしてらっしゃる!?」
部屋の中にはマエリベリーと蓮子以外に人はおらず、当然マエリベリーの足にしがみ付いたのは、宇佐見蓮子その人以外にありえないのだった。
カーテンの隙間から、月明かりが射し込んだ。熱気と暗闇に埋もれた室内を、一条の光が照らしだす。月光は真っ直ぐに、マエリベリーと蓮子の面 を闇の中に暴き出した。夜の静寂の中、二人は互い以外に誰一人として存在しない世界で、相手を見つめた。
「ね、ねえ蓮子。窓を開けたいから離してちょうだい」
足にしがみ付いたままの蓮子へマエリベリーが言った。しかし肝心の蓮子は、マエリベリーの言うことなどには聞く耳も持たないと言わんばかりに、ギュッとマエリベリーの足をその腕に抱いたままだった。
相手はいつ胃の中身を吐き出すか知れない人間である。無闇に振り払おうとして、その身体を揺すぶってしまうのは危険だった。結果として、マエリベリーは蓮子がこれ以上変な行動を起こさないことを祈りつつ、自分の足が解放されるのを待つしかなかった。
「メリー……」
どこか湿った声音。月の光を孕 んだ蓮子の瞳は、きらきらと熱っぽいきらめきを揺らめかせてマエリベリーを見つめた。少女の細い二本の腕が、手繰 るようにマエリベリーの足を這い上がり、腰へ回され、銅に巻き付いた。仰向けになったまま、マエリベリーは自分の体にのしかかる蓮子に身動きを封じられていた。
「ちょ、ちょっと蓮子! やめて、ねえ、おねが――――」
マエリベリーは言葉を飲み込んだ。彼女の豊かな胸元に顔を埋めた蓮子が、柔らかく笑んでこちらを見つめていた。月光が照らすその頬。ほんのりと差した赤みは、無垢 なまでに白いその肌を熱っぽく彩った。もはや抱きつかれていると言っていい体勢に、少女の甘い香りがマエリベリーの鼻腔を刺激する。それはシャンプーの香りだろうか。あるいは柔軟剤の香りかもしれない。そしてそれらの甘い匂いの中に、鼻先をちくちくくすぐる香気が潜んでいた。
どくり。胸のずっとずっと奥深いところが脈打つような気がした。マエリベリーは、火を噴くように火照 った背中や首筋の熱が、果たして部屋の気温のせいなのか、そうでないのか、全くわからなくなってしまった。
ただ見つめ合った。自分がどんな顔をしているのかわからなかった。それでも顔を逸らすことができなかった。捕えるように、捕らわれるように、目には見えない引力めいた何かが、二人の眼を一直線に結んでいた。
「あ た た か い 」
蓮子が囁いた。カラダは燃えるようだった。思わず蓮子のカラダに回しかけた両の手を、その蓮子が握り返してきた。カラダはこんなにも熱いのに、手の平に感じた熱は柔らかかった。じわりと汗が滲んだ。
二人の額に。二人の首筋に。二人のカラダに。二人の手の平に。
言葉は無かった。ただ互いの眼差しと、互いの熱とが入り乱れ、交じり合い、溶け合って世界を満たした。それだけだった。それだけで十分だった。
「蓮子」
言葉は声にならなかった。けれど確かに伝わっていた。根拠もなくそう思えた。
蓮子が近づいた。マエリベリーは瞳を閉じた。二つの熱の距離は限りなくゼロに近づき、そして――――。
おしまい
そんな宇佐見蓮子の気まぐれな発言から、今宵の夕食は決定された。夏も過ぎ去り、間もなく本格的な秋が訪れるだろう長月の末頃。大学の講義終了後、二人揃っての食材買い出しを終えた彼女たちは、マエリベリー・ハーンの下宿するアパートで二人っきりの鍋パーティーに興じていた、のだが。
「ねえ、蓮子! お願いだから生きて!」
二人で鍋をつつき始めてから、ちょうど時計の針が盤面を一周半ほど回った頃、マエリベリーは切々と乞うていた。その叫びは悲痛でさえあった。
楽しかったはずの鍋パーティー。小さな卓上にどんと置いた鍋では、その匂いでもって胃袋をギュッと鷲掴みにするような水炊きが、ぐつぐつと煮立っていた。琥珀色に耀くビールに、どこまでも純粋に澄み渡る日本酒が卓を飾り、少女の笑顔が花咲いて、決して広くはないアパートの一室は、しかし二人にとって他のどこよりも居心地の良い場所であるに違いなかった。
それなのに。
「ねえ、蓮子ってば!」
マエリベリーが声を張り上げた。痛切な響きはそのまま、そこには強かな怒りの色さえ見え隠れしていた。どうしてこんなことになってしまったのか。ただ自分が情けなかった。自分がもっとしっかりしていれば、彼女に無理をさせなければ、こんなことにはならなかったのに。どうして、――――どうして!
卓上コンロの火も静まり、ただゆらゆらと湯気を立てて熱を放射するだけの鍋。賑わいを失ったそれを挟んだ場所で、宇佐見蓮子は酔い潰れていた。
「あー、駄目。………………吐きそう」
「やめて蓮子! 早まってはいけないわ!」
マエリベリーは跳ね上がるように立ち上がり、床の上で今まさに力尽きようとしている蓮子のへ駆け寄った。首筋に汗が滴る。部屋は、コンロの火、鍋の湯気、そして少女二人の熱気により、温度と湿度、ともに最悪の状態だった。
「調子にのって飲みすぎるからこうなるのよ!」
「だって、鍋美味しいじゃん……」
「それはそうだけど! 否定はしないけど! だからって限度ってものが――――」
「あ、あんま大声……、うっ」
「やめて!」
厳しい熱さも過ぎ去り、夜には鈴虫の鳴き声が耳に心地よい季節となった。ともすれば、朝方などはその肌寒さに身震いするほど気温が低い日も、ちらほらあったぐらいだ。夏場にはなかなか旺盛にとはいかない食欲も、気温の低下につれて、だんだんと寝惚け眼をぐしぐし擦りつつ自己主張を始める。そんなわけだから開催された今宵の鍋パーティー。食欲の秋とはよく言ったもので、この時季になると人の食への興味は否応無しに高まってゆく。久々の鍋に、蓮子が暴飲暴食してしまったのも、決して無理からぬことだった。
だが、それとこれとは別である。二人楽しく鍋をつつき合った後に、お好み焼きの追加注文などしたくはない。秋の味覚はその色艶や形もあわせて絶品なのであり、いくらそれらを凝縮した物であったとしても、一度人の胃に落ちた物は人の食欲を駆り立てるには程遠い、秋の味覚だったものでしか在りえないのだ。
うーうー呻く蓮子の体を起こしてやる。部屋の熱気に吐き気と最悪のダブルパンチを食らい、彼女の額にも玉のような汗がびっしょりと浮かんでいた。
「うー、気持ち悪い……。暑い。いやぁ……」
「ちょっと待ってて。今窓を開けるから」
蓮子の上体を安定させ、窓を開けるために立ち上がったマエリベリー。だが一歩踏み出したその足に背後から何者かが掴みかかり、マエリベリーはバランスを崩してその場に倒れた。
「いたっ!」
びたんっ、と受け身を取るため突き出した手の平をフローリングに叩きつけ、マエリベリーは小さく叫んだ。踏み出しそこなった足の膝頭が床を突き、その拍子に照明のリモコンを押してしまう。ぴっ、と白々しい電子音とともに、部屋の照明が消える。
「ちょっと、蓮子! 何するのよ!」
俯せに倒れた体を仰向けに起こし、彼女を転倒せしめた犯人へキッと鋭い眼差しを送る。
「メリー……、どこ行くのぉ……」
「悪酔いしてらっしゃる!?」
部屋の中にはマエリベリーと蓮子以外に人はおらず、当然マエリベリーの足にしがみ付いたのは、宇佐見蓮子その人以外にありえないのだった。
カーテンの隙間から、月明かりが射し込んだ。熱気と暗闇に埋もれた室内を、一条の光が照らしだす。月光は真っ直ぐに、マエリベリーと蓮子の
「ね、ねえ蓮子。窓を開けたいから離してちょうだい」
足にしがみ付いたままの蓮子へマエリベリーが言った。しかし肝心の蓮子は、マエリベリーの言うことなどには聞く耳も持たないと言わんばかりに、ギュッとマエリベリーの足をその腕に抱いたままだった。
相手はいつ胃の中身を吐き出すか知れない人間である。無闇に振り払おうとして、その身体を揺すぶってしまうのは危険だった。結果として、マエリベリーは蓮子がこれ以上変な行動を起こさないことを祈りつつ、自分の足が解放されるのを待つしかなかった。
「メリー……」
どこか湿った声音。月の光を
「ちょ、ちょっと蓮子! やめて、ねえ、おねが――――」
マエリベリーは言葉を飲み込んだ。彼女の豊かな胸元に顔を埋めた蓮子が、柔らかく笑んでこちらを見つめていた。月光が照らすその頬。ほんのりと差した赤みは、
どくり。胸のずっとずっと奥深いところが脈打つような気がした。マエリベリーは、火を噴くように
ただ見つめ合った。自分がどんな顔をしているのかわからなかった。それでも顔を逸らすことができなかった。捕えるように、捕らわれるように、目には見えない引力めいた何かが、二人の眼を一直線に結んでいた。
「
蓮子が囁いた。カラダは燃えるようだった。思わず蓮子のカラダに回しかけた両の手を、その蓮子が握り返してきた。カラダはこんなにも熱いのに、手の平に感じた熱は柔らかかった。じわりと汗が滲んだ。
二人の額に。二人の首筋に。二人のカラダに。二人の手の平に。
言葉は無かった。ただ互いの眼差しと、互いの熱とが入り乱れ、交じり合い、溶け合って世界を満たした。それだけだった。それだけで十分だった。
「蓮子」
言葉は声にならなかった。けれど確かに伝わっていた。根拠もなくそう思えた。
蓮子が近づいた。マエリベリーは瞳を閉じた。二つの熱の距離は限りなくゼロに近づき、そして――――。
おしまい
食欲の秋に久々の鍋パーティーで暴飲暴食の結果ゲロ吐きかけている蓮子という導入からは「げろげろ」というオチしか浮かばないのに、
読み終わると「ちゅっちゅ」の方しか浮かばなくなっていて、しかもその切り換わりはごく自然で強引さがありません。
この自然な転調を形作っているのは「光」と「熱」であるように思います。(強いて言うなら「匂い」もでしょうか?)
前半、部屋を満たしているのはアパートの一室に備え付けられた照明という人工的な光と、煮え立つ鍋から漂う熱気。
それが後半では暗い部屋に差し込む月明かりと、その部屋の中で絡み合う二人の少女自身の体温と吐息による熱に変化する。
室内の描写がこれらの「光」と「熱」に集中していることと、その変化が話の流れの中でごく自然になされているが故に、前半の現実的で滑稽な雰囲気から後半の幻想的で艶っぽい雰囲気への転調にもつっかかることなくついていくことが出来たように思います。
下手に書くと単に「げろげろ」なオチへの前振りにしかならない内容なのに、それで終わっていないのはお見事の一言です。
もしも作者さんが前振りのつもりで書かれていたのだとしたら力込め過ぎというか、非常に贅沢な前振りだと思います。
ともかく、読ませて頂きましてありがとうございました。
最高じゃないか
しかし、キスの最中にげろげろされると百年の恋も冷めてしまいそうな…
でもなぜかすごく親近感が湧いて、それがまた良いw
あ、でもげろげろは勘弁してください(笑)