輝針城異変からようやく落ち着きを取り戻し始めた頃、私達の人間に関する見解は大きく分かれるようになった。
「人間ってアレよね。ナメちゃいけないっていうか。まあ、人間に負けたことなんて気にも止めてないんだけど、でもまあアレよね。うん」
湖の畔で丸太に腰掛け黒髪を弄りながら話すのは、私の友人の今泉影狼。名前にある通り狼の妖怪だが、気性はそれほど激しくはない。普段は迷いの竹林と呼ばれる場所に住んでおり、主食は筍や山菜という何ともベジタリアンな狼である。
「アレって何」
「アレはアレよ」
私の追及に赤い眼を逸らし、吹けない口笛を吹くというベタな回避法を取る影狼。
彼女は元々人目を避けて暮らしていたのだが、異変に乗じて人間に襲いかかったのが運の尽き。その人間にボッコボコにされた上に、その日が満月であったということもあって、(彼女が言うには)素の姿を晒してしまったということで、ますます人間から身を遠ざけるようになっていた。
要するに彼女は怖いのだ。人間が。
「影狼はもっと人間を利用していかなきゃダメよ。私のように」
そう語るのは、もう一人の友人、わかさぎ姫。名前にわかさぎとだけあって、種族は人魚。湖に浸かりながら私達の会合に参加している。
彼女も異変の最中に騒ぎを起こし、結果的には影狼と同じくその人間にフルボッコにされたのだが、何の手違いか、美人な人魚として新聞に掲載されたことで氷精と並んで霧の湖のアイドルとして人気を博していた。
彼女が人間を利用しているのかどうかは実際微妙なところだが、影狼とは対照的に彼らに対して積極的に関わる姿勢を見せているのは確かである。
その証拠にと、彼女が自慢げに見せ始めたのは今朝人里で新調した着物達。今着ている着物と見比べ、どれがいいかしらなどと言っているが、正直どうでもいい。
「でも、貴女はいいわよね。私達と違って獣の耳も尻尾も鱗も生えてないんだもの。だからああやって人間と一緒に暮らせるのよ」
影狼が羨望の眼差しを投げ掛ける。
「私は首がないだけだから。でも、貴女も耳や尻尾を隠せば済むことよ」
「で、でも、私、獣臭いかもしれないし……。それに、出来ることならわかさぎ姫みたいに堂々と人間に会いたいものだわ」
影狼の言葉に私は眉根を寄せた。こうやって彼女に羨ましがられている私だが、私とて妖怪であることを大っぴらに公言しているわけではない。
私の容姿は彼女が言うように人間には近い。私はデュラハン。簡単に言えば、首なし人間。目を引くような赤い髪。大きな青いリボン。口元まで隠した深紅のマントは繋がっていない首のための隠れ蓑。現在は人間に紛れるようにして、人里に身を寄せている。
私は彼女達に出会う前、いやそのずっとずっと前から隠れるようにして暮らしていた。誰にも妖怪とばれぬようにひっそりと。その暮らしは影狼が思い描いているようなものとは違う。
しかし、今では私がいる人里には行き付けの居酒屋もあるし、行けばその常連客とも言葉を交わすこともある。でも、やはりその付き合いは表面的で薄っぺらい。もっと人間と深く関わっても、正体を知られない限りはいいと思うのだが、何かがあと一歩のところで私を足踏みさせている。
「じゃあこういうのはどう? 今晩、貴女が影狼を人里に連れていくってのは」
わかさぎ姫の言葉に我に帰る。はぁ、と尻上がりの言葉が影狼と重なった。
「ななな何で私が、ひ、人里なんかに行かなきゃいけないのよ!」
「あら、知ってるの、影狼。竹林の奥深くには炎を操る不死身の人間が住んでいて、人間に歯向かう者は片っ端から灰にしてしまうらしいわよ。貴女が狼女なんて解ったら即刻火炙りね」
またわかさぎ姫の悪い癖だ、と私は嘆息を吐く。彼女は人魚だからかどうも話に尾鰭を付けたがる。竹林の不死身の人間はいるとは聞いたことはあるが、そこまで妖怪に対して恐ろしい奴ではないはずだ。しかし、人間の話題に疎い影狼はその話を完全に信じてしまっていた。
「で、でも、逃げれば……」
「あのねえ。あの人の執念深さを知らないでしょう。万が一逃げられたとしても、彼女は別の始末屋に依頼するわ。そう……、あの博麗の巫女にね」
博麗の巫女。その言葉を聞いた瞬間、影狼の尻尾がびくんと跳ねた。その名を妖怪の中では知らない奴はいない。数々の異変解決の立役者であり、人妖に絶大な支持を得ている人間の一人。そして何より、影狼とわかさぎ姫をこてんぱんにした人間こそ、この博麗の巫女であるのだ。
「大丈夫よ。早い話が人間と仲良くなればいいんだから」
トラウマを想起され頭から尻尾の先まで震え上がる影狼。彼女の助言など聞いちゃいない。怯えきった眼は最早捨て犬のよう。こうなってしまったら、彼女に口車に乗るしかない。時には荒療治も必要だ。
「解った。今日人里に影狼を連れていこう」
「決まりね」
わかさぎ姫の笑顔は憎々しいほど晴れやかだった。
完全に臆病風に吹かれた影狼を連れて、人里に辿り着いたときには、もう日が暮れ星も瞬き始めていた。
人里は人間の最大集落であると同時に、地底や冥界など、遠方からはるばる妖怪が訪れることもある人妖入り乱れた活気ある村だ。移動式の屋台が村道を割拠するこの時間帯、妖怪と人間が酌み交わすなんて光景も珍しくはない。
「ね、ねえ。私、狼って気付かれてないかな」
ひそひそと私に話しかける影狼。尾はとりあえずスカートの中に無理矢理押し込んどくとして、耳を隠すために用いたのは真っ赤な頭巾。狼がまるで赤ずきんみたいとは、何ともおかしな話だが、帽子など洒落たものは生憎自分は持ち合わせていなかった。ちなみに、わかさぎ姫は文字通り足がないので湖でお留守番。
「耳も尾も見えてないから大丈夫」
竹林で暮らしてきた彼女にとってこんなに多くの人妖を見るのは恐らく初めてなのだろう。目も、鼻も、頭巾に隠れた耳も忙しなく動きっぱなしで、挙動不審なことこの上ない。そんな私達を気にも止めずに人の波が流れていくのはありがたい。
「着いたよ」
行き付けの居酒屋の扉を開ける。人でほぼ埋め尽くされたいつもの店内。あちらこちらで話題が飛び交ういつもの喧騒。香ばしい匂いと仄かなアルコール香りに誘われて、呆然としている影狼の手を引き店の中へと踏み入れる。
私が座るのはカウンターの一番奥の席。ちょうど三人組の客と入れ替わりに、いつもの席に腰かけた。影狼も恐る恐る私の隣に座る。二杯のお冷やが置かれると、スキンヘッドにねじり鉢巻のガタイのいい店主がこちらに向かってくる。
「お、赤ちゃん! 注文はいつもので?」
私が頷くと、彼の視線は隣の影狼に注がれた。すると、影狼が急に私の手を握ってきた。彼女の手はひどく汗ばんで小刻みに震えている。それに顔も俯いていて決して店主と目線を合わせようとはしない。
「赤ちゃんの連れかい?」
「まあ、そんなとこ。彼女も同じので」
あいよ、という掛け声と共に彼は奥の厨房へと姿を消した。私が目線で彼女を咎めると、彼女はだって、と声を漏らした。
「郷に入っては郷に従え。最低限の会話はしておかないと。それに竹林に人間が迷い込んで来ないとは一概には言えない」
正直ここまで彼女が人間恐怖症になっているとは思わなかった。竹林で人間が……なんてことになったら、無関係であれ、それこそわかさぎ姫が言っていた霊夢出撃の事態になりかねない。私がじっと見つめる中、影狼はようやく頷いた。
「……解ったわ。でも、貴女ってここでは赤ちゃんなんて呼ばれているのね」
「……だって」
今度は私が言葉に詰まる番だった。赤ちゃんという呼び名は、私の本名、赤蛮奇からそう彼に呼ばせているものだ。もちろんその言葉が人間の赤子を指す言葉であることも知っている。でも、赤蛮奇なんて呼び辛いだろうし、妖怪だと知られる恐れもある。こう呼ばれるのももう慣れたと思っていたが、やはり友人に聞かれると気恥ずかしい。
そうこうしているうちに、店員がビールと一緒に最初の料理を運んできた。たこのわさび和え。略称たこわさ。ジョッキ片手にまずは影狼と乾杯。私の飲み方はちびちびと。以前、この店で泥酔して夜を明かしてしまってからは迷惑を掛けないようにこの飲み方で徹底している。
そしてたこわさを一口。弾力のある歯応えにピリピリと脳を駆け抜ける爽やかな刺激が何とも言えない。初めてのたこわさに最初こそ訝しんでいた影狼も、たこの食感とわさびの刺激の虜になったらしい。思ったよりも酒が進んでいる。
「影狼はお酒強い?」
「んー、強さはわからないけど、夜雀の屋台に通っていた時期があったから、全くダメってことはないかな。もちろん一人酒だけど」
白い歯を見せる影狼は早くも頬に赤みが差していた。大丈夫かな、と私が心配していると、戸が開き一人の客人が店内に入ってきた。
長身の女性だった。腰まで伸びる白髪を幾つかの紅白のリボンで纏め、白いワイシャツに赤いもんぺ。この姿には見覚えがある。時折この店を訪れる常連の一人だ。
彼女は空いていた影狼の隣の席に腰を下ろすと、店員に幾つかの品を注文した。影狼が気になり横目で盗み見ると、酔っているのが幸いしているのか、先程のように怯えてはいなかった。
その時、ちらり、ともんぺの女性と目が合う。反射的に目を逸らしてしまう。女性の言葉が追いかけてきた。
「なあ、あんた。いつもこの席座っているよな」
「ええ、気に入ってるから」
「前から気になっていたんだが、それ、食べにくくないか?」
彼女が言ったそれとは、私の首元を覆い隠しているマント。それを察した時、私の心臓は異様に高鳴った。締め付けられるような圧迫感。じんわりと手に汗が滲む。口の中が一気に渇く。まるでさっきの影狼のデジャヴだ。
大丈夫、彼女が自分の事を妖怪と知っているはずがない。彼女はただの一介の常連だ。あの質問も人間故の好奇心からに違いない。
そうやって言い聞かせて自らを宥める。落ち着くと、なんだ自分も影狼と同じく人間が怖いのか、と少し落ち込む。こんな自分が彼女を嗜める資格などない。その時、ふととある疑問が脳裏を過った。
どうして私はここまでして妖怪ということを隠そうとしているのだろうか。
この世界で淡々とした日々を送ってきた私にとって、それを自身に問うことは、アイデンティティーを覆しかねない、危険で、しかし重要なものだった。
人里が人間と妖怪が共存している場であることは、ここで暮らしている自分が何より知っている。だけど、ここで自らの生き方を否定し、全てを曝すのは、過去の自分を全否定することに繋がる。そうすれば、自分が積み上げてきた何かが呆気なく崩れてしまいそうで、やはりそんなことは易々と出来そうにもない。
私の生き方は間違っているのだろうか。
そんな私の自問自答は友の声に掻き消された。
「やめ……てっ!」
影狼の方を見れば、あの女性があろうことか彼女の頭巾に手を掛けていた。影狼は必死に守ろうとするが、酔いが回っているせいか、いつもの力はない。
「こういうものは要らないんだよ、ここでは」
なおも女性は彼女の頭巾を取ろうと試みている。下らない問いに耽っていた自分が憎い。私が加勢しようとした矢先、ついに影狼の狼の耳が露になった。
「いやあぁあああぁっ!」
はらりと落ちる赤い頭巾。影狼の悲鳴。彼女は机に突っ伏し、両手で耳を隠そうとする。その勢いで床へと砕け散るビールジョッキと付け合わせの皿。物が散乱する店内。それは酒場の喧騒を静まらせるには十分だった。
嫌だ嫌だとうわ言のように呟き、嗚咽に体を震わせる影狼。あまりの出来事に唇を噛む。そして、私はあの女性を睨み付け、影狼の頭巾を払いのけた彼女の手を――。
「赤ちゃん、喧嘩はやめてくれないか」
ぽん、と大きな手が私の肩に乗せられる。唇を真一文字に結んだ店主がそこにいた。その表情に諌められ、私は彼女への攻撃を止める。彼の視線は泣いている影狼の元へと向けられた。
「これはまた派手にやったねえ、狼さん」
その言葉で一瞬にして影狼の震えが嗚咽から恐怖に変わる。
ああ、彼女に更なるトラウマを植え付けてしまうくらいなら、連れてこない方がよかった。やはり私のように人間に干渉せず、隠れながらも平穏な生活を送る方が正しいのだ。
得心する私をよそに彼は言葉を続ける。
「狼さん、泣いていないで、顔を上げて周りを見てごらんよ」
彼に一切の怒気はなかった。子を諭すような彼の優しい言葉に彼女は顔を上げる。涙でぐちゃぐちゃになったその顔を、ゆっくりと周りへと向けていく。
突然の狼女の出現に静まり返った店内には、恐怖に戦く顔も、彼女を責めている顔もなかった。彼女を案じる心配顔、彼女を励ます柔和な笑顔。温かな店内に、彼女から涙が消えた。
「さっきは悪かった。だが、これを見てくれないか」
あの女性が影狼へと語りかける。気になって席を立つと、彼女は影狼に両の掌を差し出していた。強張る影狼の前に、ボッと灯りが点る。彼女の掌から出てきたのは、炎だった。
それを見て影狼の顔が一層強張る。わかさぎ姫の話に出てきた不死身の人間が操る炎。彼女がその存在かどうかは定かではないが、彼女の脳裏にはそれが思い浮かんでいるのだろう。それでも彼女は取り乱しはしなかった。唇を固く結び、拳を握り締めて、必死に恐怖と戦っていた。
その緊張に満ちた顔がふっと和らいだ。彼女の口からは感嘆の声が小さく上がる。見れば、彼女の手には鳥がいた。温かな炎で出来た不死鳥が。
「どうだ。綺麗だろう?」
彼女の問いに影狼は素直に頷いた。
「……同じだよ」
彼女の言葉の意図が解らず首を傾げる影狼に、女性は更にこう続けた。
「あんたのその姿、綺麗だよ」
影狼と彼女のやり取りを見て、ちくりと胸の奥が痛んだ。それは嫉妬だった。あの女性に影狼を取られたとかそんなものではなく、私も影狼のようになりたいという限りなく憧れに近い嫉妬だった。
私は理屈では平穏で安寧でと危ない橋は渡らないようにはしてきた。しかし、理性の仮面の下に隠された本心はこうでありたいのだ。もう自分で自分を説き伏せることは出来そうにもなかった。
ならばと思い、首元のマントに手を掛ける。高鳴る鼓動と共に、様々な思いが去来してきた。渦をなす情念を掻き分け、冷静になれ、と私を制止する気持ちを振り切った先には、積み重ねてきた私の過去の理論が壁となって立ちはだかっていた。
その昔、この世界に来る前は、私のような弱い妖怪は強い妖怪から虐げられるか、人間に駆逐されるかの二択しか存在していなかった。多くの妖怪が強い妖怪に忠誠を見せる中で、私はそのどちらも選ばなかった。人間に紛れ人間として生きる。私は存在しないはずの三択目を選んだ。
私のようにその道を選んだ者も後にはいるらしい。しかし、ほとんどの妖怪が人間として生きることには耐えられず、自害や討伐されるなどして、妖怪として死を迎えたという。
……弱い妖怪は隠れて生きるべきなのだ。これは私の絶対的な経験論。
その理論を否定することは過去を否定する。過去を否定することは自分自身を否定する。自分自身を否定することは――。
葛藤の末に私はマントから手を引いた。
影狼の泣き顔は今やすっかり晴れていた。笑顔すら浮かべる彼女がどこか遠く感じられる。一方の私は過去を打ち破れなかった。自分の本心にも気付いてしまった。理論と理想の板挟みに心が押し潰されそうになっていた。
自身の不甲斐なさに霞んできた視界。友の前で涙など見せるわけにはいかない。隠れて涙を拭う私に信じられない言葉が聞こえてきた。
「赤ちゃん。お前さんもそろそろそのマントを取ってくれないか」
虚を突かれた私の視線の先には、穏やかな表情の店主がいた。
「知っているんだよ。俺は。お前さんの首がないってことを」
気が遠退いていく。視界が眩む、暗くなる。加速度的に沈む意識を必死で手繰り寄せる。彼は嘘はついていない。何で、と辛うじて唇が紡いだ言葉に、店主はこう続けた。
「赤ちゃん。お前さん一回、酷く酔っ払ってたことがあるだろう。閉店時間になっても起きなくて、介抱しようと思ったら首がポトリ。あの時は驚いたが、それだけだ。それ以来、お前さんがそのマントを取ってくれるのを心待ちにしてたんだ。いつか俺達に心を開いてくれるのをな」
景色に光が戻ってくる。彼は私が妖怪と知っていながら、いつもと変わらない付き合いをしてくれていたのだ。
「お前さんがそれを取らない理由は聞かねえ。取れとも言わねえ。ただこれだけは聞いてくれねえか?」
私が今どんな顔をしているのか解らない。ただ、そんなことなどつゆほども気にさせないくらいに、彼の瞳は真っ直ぐ私を見つめていた。
「お前さんの姿を見て、恐れをなしたり罵ったりする奴もいるかもしれない。でも、言いたい奴には言わせとけ。少なくともこの店の客にそんな奴はいねえ。それはお前さんが一番解っているだろ?」
私は頷く。熱いものが胸に込み上げていく。今なら過去を越えられるかもしれない。いや、越える。越えてみせる。
私は再びマントに手を伸ばした。
私の目の前に再び壁が聳え立つ。そうだ、壁だ。私が過去から積み重ねてきたのは、自分という城に閉じ籠るための城壁だったのだ。私はその壁に出来た小さなひび割れから、外の世界を覗いて羨んでいたのだ。その綻びを広げるわけでもなく、かといって修繕するわけでもなく、ただただ理論の壁を積み重ねては、その穴から見ているだけだったのだ。そして、今。その穴を抉じ開ける。長らく隔絶されてきたこの孤城から、憧れていただけの外の世界へと踏み出すために。
私は考える。私の生き方は正しかったのだと。ただ、あの時、身を守るために自分についた嘘を、今の今まで引きずってしまっていただけなのだ。現実が見えずに虚栄を羽織り続けていた。あの頃いた世界は既に変わった。もう私は人間でいなくていい。私は妖怪デュラハン。今度は私が変わる番だ。
マントを解く。積み重ねてきた過去が瓦解していく。過去は否定はできても消すことはできない。ならば、一から肯定していこう。とことん向き合っていこう。もし、この壁の向こうへ進んでいた自分がこの場所に戻りたくなったなら、迷わず立ち返ろう。それは現実からの後退ではなく、過去への前進。過去の自分と分かりあうための大切な一歩なのだから。
音を立てて崩れ落ちた壁の向こうに笑顔が見えた。友の、店主の、そして彼らの瞳に映った自分自身の笑顔が……。
「へえ、そんなことがあったのね」
翌日、わかさぎ姫に居酒屋での一部始終を話すと、彼女は終始目を丸くして聞いていた。
「ミイラ取りがミイラになるってこういうことなのね。あ、もちろんこれはいい意味よ」
本当にそうだな、と彼女の言葉に苦笑する。影狼の人間恐怖症を治すために連れていったはずなのに、結果的には自分の方が救われてしまった。
「それにしても赤蛮奇。貴女、そのマント、要らなくなったのに捨てようとはしないのね」
「不必要になったとか一言も言ってない。むしろ大事なもの」
このマントは酸いも甘いも染み込んだ過去と現在を繋ぐ架け橋。それに手を当て目を瞑れば今でも見える。過去の残滓に彩られ静かに佇むあの城が。
「おーい! 赤蛮奇に影狼!」
声のする方を見れば、もんぺの女性こと、藤原妹紅がこちらに向かって来るのが見えた。
あの後、彼女と色々な話をした。互いの軽い自己紹介から始まり、深夜遅くまで語り合った。彼女があの竹林の不死身の炎使いであること。影狼が夜雀の屋台で呑んでいるところを度々目撃していたこと。永遠亭の姫との死闘のエピソードはぞっとしたが、根はいい人だった。結局、わかさぎ姫の情報は誇張のオンパレードで、誤解が解けると影狼もすぐに彼女と打ち解けた。
「今から飲みに行かないか。あの居酒屋で。あそこ昼も開いているらしいからな」
陽はまだ高い。しかし、私も影狼も彼女の誘いを二つ返事で了承した。
「なら今日はこの人魚も連れていこう」
別に私はどっちでもいいんだけど、といった表情のわかさぎ姫だったが、妹紅に抱えられふりふりと尾鰭を振る姿はまるで犬。失笑する私達をよそに、妹紅は笑顔でわかさぎ姫にこう言った。
「あんた、私の根も葉もない悪評を垂れ流していたらしいな。その罰として、今日はあんたが酒の肴になって貰おうか。私は大好物なんだよなあ、わかさぎの天ぷら」
「ぼ、暴力反対! 反対! 反対よおっ!」
天国から地獄へ。彼女の腕の中でびちびち暴れるわかさぎ姫。その二人を見て私達はまた笑う。これで針小棒大な彼女の癖も直ってくれればいいのだけど。
「ほら、二人とも行くぞ」
妹紅はぐったりしたわかさぎ姫を抱え歩き出す。
「じゃあ、私達も行こうか」
私と影狼も彼女達に続く。影狼の頭にあの赤頭巾はもうない。狼の自分をさらけ出し、堂々と胸を張って歩き出す。自身に誇りと矜持を持って歩く姿に、昨日の彼女はいない。その時、私達の背中を風が押した。ふわりとマントが私を包む。まるで昨夜の決別を惜しむかのように。
大丈夫……。だから、行ってくるよ。
名残惜しそうに身体から離れていくマントにそう語りかけ、私は歩き出した。新たな気持ちを胸に、希望に満ちた外の世界へと。
「人間ってアレよね。ナメちゃいけないっていうか。まあ、人間に負けたことなんて気にも止めてないんだけど、でもまあアレよね。うん」
湖の畔で丸太に腰掛け黒髪を弄りながら話すのは、私の友人の今泉影狼。名前にある通り狼の妖怪だが、気性はそれほど激しくはない。普段は迷いの竹林と呼ばれる場所に住んでおり、主食は筍や山菜という何ともベジタリアンな狼である。
「アレって何」
「アレはアレよ」
私の追及に赤い眼を逸らし、吹けない口笛を吹くというベタな回避法を取る影狼。
彼女は元々人目を避けて暮らしていたのだが、異変に乗じて人間に襲いかかったのが運の尽き。その人間にボッコボコにされた上に、その日が満月であったということもあって、(彼女が言うには)素の姿を晒してしまったということで、ますます人間から身を遠ざけるようになっていた。
要するに彼女は怖いのだ。人間が。
「影狼はもっと人間を利用していかなきゃダメよ。私のように」
そう語るのは、もう一人の友人、わかさぎ姫。名前にわかさぎとだけあって、種族は人魚。湖に浸かりながら私達の会合に参加している。
彼女も異変の最中に騒ぎを起こし、結果的には影狼と同じくその人間にフルボッコにされたのだが、何の手違いか、美人な人魚として新聞に掲載されたことで氷精と並んで霧の湖のアイドルとして人気を博していた。
彼女が人間を利用しているのかどうかは実際微妙なところだが、影狼とは対照的に彼らに対して積極的に関わる姿勢を見せているのは確かである。
その証拠にと、彼女が自慢げに見せ始めたのは今朝人里で新調した着物達。今着ている着物と見比べ、どれがいいかしらなどと言っているが、正直どうでもいい。
「でも、貴女はいいわよね。私達と違って獣の耳も尻尾も鱗も生えてないんだもの。だからああやって人間と一緒に暮らせるのよ」
影狼が羨望の眼差しを投げ掛ける。
「私は首がないだけだから。でも、貴女も耳や尻尾を隠せば済むことよ」
「で、でも、私、獣臭いかもしれないし……。それに、出来ることならわかさぎ姫みたいに堂々と人間に会いたいものだわ」
影狼の言葉に私は眉根を寄せた。こうやって彼女に羨ましがられている私だが、私とて妖怪であることを大っぴらに公言しているわけではない。
私の容姿は彼女が言うように人間には近い。私はデュラハン。簡単に言えば、首なし人間。目を引くような赤い髪。大きな青いリボン。口元まで隠した深紅のマントは繋がっていない首のための隠れ蓑。現在は人間に紛れるようにして、人里に身を寄せている。
私は彼女達に出会う前、いやそのずっとずっと前から隠れるようにして暮らしていた。誰にも妖怪とばれぬようにひっそりと。その暮らしは影狼が思い描いているようなものとは違う。
しかし、今では私がいる人里には行き付けの居酒屋もあるし、行けばその常連客とも言葉を交わすこともある。でも、やはりその付き合いは表面的で薄っぺらい。もっと人間と深く関わっても、正体を知られない限りはいいと思うのだが、何かがあと一歩のところで私を足踏みさせている。
「じゃあこういうのはどう? 今晩、貴女が影狼を人里に連れていくってのは」
わかさぎ姫の言葉に我に帰る。はぁ、と尻上がりの言葉が影狼と重なった。
「ななな何で私が、ひ、人里なんかに行かなきゃいけないのよ!」
「あら、知ってるの、影狼。竹林の奥深くには炎を操る不死身の人間が住んでいて、人間に歯向かう者は片っ端から灰にしてしまうらしいわよ。貴女が狼女なんて解ったら即刻火炙りね」
またわかさぎ姫の悪い癖だ、と私は嘆息を吐く。彼女は人魚だからかどうも話に尾鰭を付けたがる。竹林の不死身の人間はいるとは聞いたことはあるが、そこまで妖怪に対して恐ろしい奴ではないはずだ。しかし、人間の話題に疎い影狼はその話を完全に信じてしまっていた。
「で、でも、逃げれば……」
「あのねえ。あの人の執念深さを知らないでしょう。万が一逃げられたとしても、彼女は別の始末屋に依頼するわ。そう……、あの博麗の巫女にね」
博麗の巫女。その言葉を聞いた瞬間、影狼の尻尾がびくんと跳ねた。その名を妖怪の中では知らない奴はいない。数々の異変解決の立役者であり、人妖に絶大な支持を得ている人間の一人。そして何より、影狼とわかさぎ姫をこてんぱんにした人間こそ、この博麗の巫女であるのだ。
「大丈夫よ。早い話が人間と仲良くなればいいんだから」
トラウマを想起され頭から尻尾の先まで震え上がる影狼。彼女の助言など聞いちゃいない。怯えきった眼は最早捨て犬のよう。こうなってしまったら、彼女に口車に乗るしかない。時には荒療治も必要だ。
「解った。今日人里に影狼を連れていこう」
「決まりね」
わかさぎ姫の笑顔は憎々しいほど晴れやかだった。
完全に臆病風に吹かれた影狼を連れて、人里に辿り着いたときには、もう日が暮れ星も瞬き始めていた。
人里は人間の最大集落であると同時に、地底や冥界など、遠方からはるばる妖怪が訪れることもある人妖入り乱れた活気ある村だ。移動式の屋台が村道を割拠するこの時間帯、妖怪と人間が酌み交わすなんて光景も珍しくはない。
「ね、ねえ。私、狼って気付かれてないかな」
ひそひそと私に話しかける影狼。尾はとりあえずスカートの中に無理矢理押し込んどくとして、耳を隠すために用いたのは真っ赤な頭巾。狼がまるで赤ずきんみたいとは、何ともおかしな話だが、帽子など洒落たものは生憎自分は持ち合わせていなかった。ちなみに、わかさぎ姫は文字通り足がないので湖でお留守番。
「耳も尾も見えてないから大丈夫」
竹林で暮らしてきた彼女にとってこんなに多くの人妖を見るのは恐らく初めてなのだろう。目も、鼻も、頭巾に隠れた耳も忙しなく動きっぱなしで、挙動不審なことこの上ない。そんな私達を気にも止めずに人の波が流れていくのはありがたい。
「着いたよ」
行き付けの居酒屋の扉を開ける。人でほぼ埋め尽くされたいつもの店内。あちらこちらで話題が飛び交ういつもの喧騒。香ばしい匂いと仄かなアルコール香りに誘われて、呆然としている影狼の手を引き店の中へと踏み入れる。
私が座るのはカウンターの一番奥の席。ちょうど三人組の客と入れ替わりに、いつもの席に腰かけた。影狼も恐る恐る私の隣に座る。二杯のお冷やが置かれると、スキンヘッドにねじり鉢巻のガタイのいい店主がこちらに向かってくる。
「お、赤ちゃん! 注文はいつもので?」
私が頷くと、彼の視線は隣の影狼に注がれた。すると、影狼が急に私の手を握ってきた。彼女の手はひどく汗ばんで小刻みに震えている。それに顔も俯いていて決して店主と目線を合わせようとはしない。
「赤ちゃんの連れかい?」
「まあ、そんなとこ。彼女も同じので」
あいよ、という掛け声と共に彼は奥の厨房へと姿を消した。私が目線で彼女を咎めると、彼女はだって、と声を漏らした。
「郷に入っては郷に従え。最低限の会話はしておかないと。それに竹林に人間が迷い込んで来ないとは一概には言えない」
正直ここまで彼女が人間恐怖症になっているとは思わなかった。竹林で人間が……なんてことになったら、無関係であれ、それこそわかさぎ姫が言っていた霊夢出撃の事態になりかねない。私がじっと見つめる中、影狼はようやく頷いた。
「……解ったわ。でも、貴女ってここでは赤ちゃんなんて呼ばれているのね」
「……だって」
今度は私が言葉に詰まる番だった。赤ちゃんという呼び名は、私の本名、赤蛮奇からそう彼に呼ばせているものだ。もちろんその言葉が人間の赤子を指す言葉であることも知っている。でも、赤蛮奇なんて呼び辛いだろうし、妖怪だと知られる恐れもある。こう呼ばれるのももう慣れたと思っていたが、やはり友人に聞かれると気恥ずかしい。
そうこうしているうちに、店員がビールと一緒に最初の料理を運んできた。たこのわさび和え。略称たこわさ。ジョッキ片手にまずは影狼と乾杯。私の飲み方はちびちびと。以前、この店で泥酔して夜を明かしてしまってからは迷惑を掛けないようにこの飲み方で徹底している。
そしてたこわさを一口。弾力のある歯応えにピリピリと脳を駆け抜ける爽やかな刺激が何とも言えない。初めてのたこわさに最初こそ訝しんでいた影狼も、たこの食感とわさびの刺激の虜になったらしい。思ったよりも酒が進んでいる。
「影狼はお酒強い?」
「んー、強さはわからないけど、夜雀の屋台に通っていた時期があったから、全くダメってことはないかな。もちろん一人酒だけど」
白い歯を見せる影狼は早くも頬に赤みが差していた。大丈夫かな、と私が心配していると、戸が開き一人の客人が店内に入ってきた。
長身の女性だった。腰まで伸びる白髪を幾つかの紅白のリボンで纏め、白いワイシャツに赤いもんぺ。この姿には見覚えがある。時折この店を訪れる常連の一人だ。
彼女は空いていた影狼の隣の席に腰を下ろすと、店員に幾つかの品を注文した。影狼が気になり横目で盗み見ると、酔っているのが幸いしているのか、先程のように怯えてはいなかった。
その時、ちらり、ともんぺの女性と目が合う。反射的に目を逸らしてしまう。女性の言葉が追いかけてきた。
「なあ、あんた。いつもこの席座っているよな」
「ええ、気に入ってるから」
「前から気になっていたんだが、それ、食べにくくないか?」
彼女が言ったそれとは、私の首元を覆い隠しているマント。それを察した時、私の心臓は異様に高鳴った。締め付けられるような圧迫感。じんわりと手に汗が滲む。口の中が一気に渇く。まるでさっきの影狼のデジャヴだ。
大丈夫、彼女が自分の事を妖怪と知っているはずがない。彼女はただの一介の常連だ。あの質問も人間故の好奇心からに違いない。
そうやって言い聞かせて自らを宥める。落ち着くと、なんだ自分も影狼と同じく人間が怖いのか、と少し落ち込む。こんな自分が彼女を嗜める資格などない。その時、ふととある疑問が脳裏を過った。
どうして私はここまでして妖怪ということを隠そうとしているのだろうか。
この世界で淡々とした日々を送ってきた私にとって、それを自身に問うことは、アイデンティティーを覆しかねない、危険で、しかし重要なものだった。
人里が人間と妖怪が共存している場であることは、ここで暮らしている自分が何より知っている。だけど、ここで自らの生き方を否定し、全てを曝すのは、過去の自分を全否定することに繋がる。そうすれば、自分が積み上げてきた何かが呆気なく崩れてしまいそうで、やはりそんなことは易々と出来そうにもない。
私の生き方は間違っているのだろうか。
そんな私の自問自答は友の声に掻き消された。
「やめ……てっ!」
影狼の方を見れば、あの女性があろうことか彼女の頭巾に手を掛けていた。影狼は必死に守ろうとするが、酔いが回っているせいか、いつもの力はない。
「こういうものは要らないんだよ、ここでは」
なおも女性は彼女の頭巾を取ろうと試みている。下らない問いに耽っていた自分が憎い。私が加勢しようとした矢先、ついに影狼の狼の耳が露になった。
「いやあぁあああぁっ!」
はらりと落ちる赤い頭巾。影狼の悲鳴。彼女は机に突っ伏し、両手で耳を隠そうとする。その勢いで床へと砕け散るビールジョッキと付け合わせの皿。物が散乱する店内。それは酒場の喧騒を静まらせるには十分だった。
嫌だ嫌だとうわ言のように呟き、嗚咽に体を震わせる影狼。あまりの出来事に唇を噛む。そして、私はあの女性を睨み付け、影狼の頭巾を払いのけた彼女の手を――。
「赤ちゃん、喧嘩はやめてくれないか」
ぽん、と大きな手が私の肩に乗せられる。唇を真一文字に結んだ店主がそこにいた。その表情に諌められ、私は彼女への攻撃を止める。彼の視線は泣いている影狼の元へと向けられた。
「これはまた派手にやったねえ、狼さん」
その言葉で一瞬にして影狼の震えが嗚咽から恐怖に変わる。
ああ、彼女に更なるトラウマを植え付けてしまうくらいなら、連れてこない方がよかった。やはり私のように人間に干渉せず、隠れながらも平穏な生活を送る方が正しいのだ。
得心する私をよそに彼は言葉を続ける。
「狼さん、泣いていないで、顔を上げて周りを見てごらんよ」
彼に一切の怒気はなかった。子を諭すような彼の優しい言葉に彼女は顔を上げる。涙でぐちゃぐちゃになったその顔を、ゆっくりと周りへと向けていく。
突然の狼女の出現に静まり返った店内には、恐怖に戦く顔も、彼女を責めている顔もなかった。彼女を案じる心配顔、彼女を励ます柔和な笑顔。温かな店内に、彼女から涙が消えた。
「さっきは悪かった。だが、これを見てくれないか」
あの女性が影狼へと語りかける。気になって席を立つと、彼女は影狼に両の掌を差し出していた。強張る影狼の前に、ボッと灯りが点る。彼女の掌から出てきたのは、炎だった。
それを見て影狼の顔が一層強張る。わかさぎ姫の話に出てきた不死身の人間が操る炎。彼女がその存在かどうかは定かではないが、彼女の脳裏にはそれが思い浮かんでいるのだろう。それでも彼女は取り乱しはしなかった。唇を固く結び、拳を握り締めて、必死に恐怖と戦っていた。
その緊張に満ちた顔がふっと和らいだ。彼女の口からは感嘆の声が小さく上がる。見れば、彼女の手には鳥がいた。温かな炎で出来た不死鳥が。
「どうだ。綺麗だろう?」
彼女の問いに影狼は素直に頷いた。
「……同じだよ」
彼女の言葉の意図が解らず首を傾げる影狼に、女性は更にこう続けた。
「あんたのその姿、綺麗だよ」
影狼と彼女のやり取りを見て、ちくりと胸の奥が痛んだ。それは嫉妬だった。あの女性に影狼を取られたとかそんなものではなく、私も影狼のようになりたいという限りなく憧れに近い嫉妬だった。
私は理屈では平穏で安寧でと危ない橋は渡らないようにはしてきた。しかし、理性の仮面の下に隠された本心はこうでありたいのだ。もう自分で自分を説き伏せることは出来そうにもなかった。
ならばと思い、首元のマントに手を掛ける。高鳴る鼓動と共に、様々な思いが去来してきた。渦をなす情念を掻き分け、冷静になれ、と私を制止する気持ちを振り切った先には、積み重ねてきた私の過去の理論が壁となって立ちはだかっていた。
その昔、この世界に来る前は、私のような弱い妖怪は強い妖怪から虐げられるか、人間に駆逐されるかの二択しか存在していなかった。多くの妖怪が強い妖怪に忠誠を見せる中で、私はそのどちらも選ばなかった。人間に紛れ人間として生きる。私は存在しないはずの三択目を選んだ。
私のようにその道を選んだ者も後にはいるらしい。しかし、ほとんどの妖怪が人間として生きることには耐えられず、自害や討伐されるなどして、妖怪として死を迎えたという。
……弱い妖怪は隠れて生きるべきなのだ。これは私の絶対的な経験論。
その理論を否定することは過去を否定する。過去を否定することは自分自身を否定する。自分自身を否定することは――。
葛藤の末に私はマントから手を引いた。
影狼の泣き顔は今やすっかり晴れていた。笑顔すら浮かべる彼女がどこか遠く感じられる。一方の私は過去を打ち破れなかった。自分の本心にも気付いてしまった。理論と理想の板挟みに心が押し潰されそうになっていた。
自身の不甲斐なさに霞んできた視界。友の前で涙など見せるわけにはいかない。隠れて涙を拭う私に信じられない言葉が聞こえてきた。
「赤ちゃん。お前さんもそろそろそのマントを取ってくれないか」
虚を突かれた私の視線の先には、穏やかな表情の店主がいた。
「知っているんだよ。俺は。お前さんの首がないってことを」
気が遠退いていく。視界が眩む、暗くなる。加速度的に沈む意識を必死で手繰り寄せる。彼は嘘はついていない。何で、と辛うじて唇が紡いだ言葉に、店主はこう続けた。
「赤ちゃん。お前さん一回、酷く酔っ払ってたことがあるだろう。閉店時間になっても起きなくて、介抱しようと思ったら首がポトリ。あの時は驚いたが、それだけだ。それ以来、お前さんがそのマントを取ってくれるのを心待ちにしてたんだ。いつか俺達に心を開いてくれるのをな」
景色に光が戻ってくる。彼は私が妖怪と知っていながら、いつもと変わらない付き合いをしてくれていたのだ。
「お前さんがそれを取らない理由は聞かねえ。取れとも言わねえ。ただこれだけは聞いてくれねえか?」
私が今どんな顔をしているのか解らない。ただ、そんなことなどつゆほども気にさせないくらいに、彼の瞳は真っ直ぐ私を見つめていた。
「お前さんの姿を見て、恐れをなしたり罵ったりする奴もいるかもしれない。でも、言いたい奴には言わせとけ。少なくともこの店の客にそんな奴はいねえ。それはお前さんが一番解っているだろ?」
私は頷く。熱いものが胸に込み上げていく。今なら過去を越えられるかもしれない。いや、越える。越えてみせる。
私は再びマントに手を伸ばした。
私の目の前に再び壁が聳え立つ。そうだ、壁だ。私が過去から積み重ねてきたのは、自分という城に閉じ籠るための城壁だったのだ。私はその壁に出来た小さなひび割れから、外の世界を覗いて羨んでいたのだ。その綻びを広げるわけでもなく、かといって修繕するわけでもなく、ただただ理論の壁を積み重ねては、その穴から見ているだけだったのだ。そして、今。その穴を抉じ開ける。長らく隔絶されてきたこの孤城から、憧れていただけの外の世界へと踏み出すために。
私は考える。私の生き方は正しかったのだと。ただ、あの時、身を守るために自分についた嘘を、今の今まで引きずってしまっていただけなのだ。現実が見えずに虚栄を羽織り続けていた。あの頃いた世界は既に変わった。もう私は人間でいなくていい。私は妖怪デュラハン。今度は私が変わる番だ。
マントを解く。積み重ねてきた過去が瓦解していく。過去は否定はできても消すことはできない。ならば、一から肯定していこう。とことん向き合っていこう。もし、この壁の向こうへ進んでいた自分がこの場所に戻りたくなったなら、迷わず立ち返ろう。それは現実からの後退ではなく、過去への前進。過去の自分と分かりあうための大切な一歩なのだから。
音を立てて崩れ落ちた壁の向こうに笑顔が見えた。友の、店主の、そして彼らの瞳に映った自分自身の笑顔が……。
「へえ、そんなことがあったのね」
翌日、わかさぎ姫に居酒屋での一部始終を話すと、彼女は終始目を丸くして聞いていた。
「ミイラ取りがミイラになるってこういうことなのね。あ、もちろんこれはいい意味よ」
本当にそうだな、と彼女の言葉に苦笑する。影狼の人間恐怖症を治すために連れていったはずなのに、結果的には自分の方が救われてしまった。
「それにしても赤蛮奇。貴女、そのマント、要らなくなったのに捨てようとはしないのね」
「不必要になったとか一言も言ってない。むしろ大事なもの」
このマントは酸いも甘いも染み込んだ過去と現在を繋ぐ架け橋。それに手を当て目を瞑れば今でも見える。過去の残滓に彩られ静かに佇むあの城が。
「おーい! 赤蛮奇に影狼!」
声のする方を見れば、もんぺの女性こと、藤原妹紅がこちらに向かって来るのが見えた。
あの後、彼女と色々な話をした。互いの軽い自己紹介から始まり、深夜遅くまで語り合った。彼女があの竹林の不死身の炎使いであること。影狼が夜雀の屋台で呑んでいるところを度々目撃していたこと。永遠亭の姫との死闘のエピソードはぞっとしたが、根はいい人だった。結局、わかさぎ姫の情報は誇張のオンパレードで、誤解が解けると影狼もすぐに彼女と打ち解けた。
「今から飲みに行かないか。あの居酒屋で。あそこ昼も開いているらしいからな」
陽はまだ高い。しかし、私も影狼も彼女の誘いを二つ返事で了承した。
「なら今日はこの人魚も連れていこう」
別に私はどっちでもいいんだけど、といった表情のわかさぎ姫だったが、妹紅に抱えられふりふりと尾鰭を振る姿はまるで犬。失笑する私達をよそに、妹紅は笑顔でわかさぎ姫にこう言った。
「あんた、私の根も葉もない悪評を垂れ流していたらしいな。その罰として、今日はあんたが酒の肴になって貰おうか。私は大好物なんだよなあ、わかさぎの天ぷら」
「ぼ、暴力反対! 反対! 反対よおっ!」
天国から地獄へ。彼女の腕の中でびちびち暴れるわかさぎ姫。その二人を見て私達はまた笑う。これで針小棒大な彼女の癖も直ってくれればいいのだけど。
「ほら、二人とも行くぞ」
妹紅はぐったりしたわかさぎ姫を抱え歩き出す。
「じゃあ、私達も行こうか」
私と影狼も彼女達に続く。影狼の頭にあの赤頭巾はもうない。狼の自分をさらけ出し、堂々と胸を張って歩き出す。自身に誇りと矜持を持って歩く姿に、昨日の彼女はいない。その時、私達の背中を風が押した。ふわりとマントが私を包む。まるで昨夜の決別を惜しむかのように。
大丈夫……。だから、行ってくるよ。
名残惜しそうに身体から離れていくマントにそう語りかけ、私は歩き出した。新たな気持ちを胸に、希望に満ちた外の世界へと。
怯える影狼ちゃん可愛い。
でも人里そこまで妖怪駄目な所じゃなかった気もしたがw
妹紅も人間と妖怪の間にいるから気持ちがわかるんだろうし、居酒屋の連中も気風が良くていい感じ。
ただ、人里は基本妖怪にもオープンだろうけど、一部に妖怪弾圧を画策してるのもいるらしいしちょっとは注意が必要かもね。
客の首が転がり落ちたら多分失神しますね。
ばんきっきの人里関連はやっぱりワクワクするし面白いな
赤ちゃんという呼び方もそういう心理をまだ未成熟なものと示す比喩だったりするのかしら
3さんや5さんがおっしゃるように人里の設定の曖昧さは自分の勉強不足だと痛感しております。11さんの赤蛮奇の呼び名ですが、単に妖怪が人間にこう呼ばれたら面白いかな、という気持ちで付けました。何か申し訳ないです。
今後も精進していきたいと思いますので、よろしくお願いします。
自分の思う設定で書いた方が楽しく書けると思うし。
初投稿にして初創作だと思うのでが、初めてでこの出来は素晴らしいです!
ぜひ次回作もお願いしたいところです。