「んっ……くっ……ふあっ……」
深夜――。あたいが水を飲みにキッチンへと向かっている時だった。さとり様の寝室から、そんな艶めかしい声が聞こえてきたのは。
(……えっ?)
あたいは思わず足を止める。止めて、『もしや』『まさか』と思いつつ、さとり様の私室と廊下とを隔てている扉に耳を当ててみた。
すると続いて聞こえてきたのは「……ふうっ」と――「はぁ……はぁ……」と――そういう呼吸音。まさしく先程まで『何か』をしていて、そして『終了』した今は、例えば余韻に浸りつつ息を整えている……とか、そんな感じの――
「……お燐」
唐突に、部屋の中のさとり様があたいの名を呼んだ。それはあたいを想っていたが故に、あたいの名前が言葉として漏れ出てしまった……というドキドキワクワクな理由からではない。僅かながら語尾のイントネーションが上昇調となっていた事からも解るように、ドアの向こう側にてあたいが聞き耳を立てているかどうかの確認……の為に口にしただけなのだろう。
さとり様は『サトリ妖怪』であるので、姿を見せずとも物音を立てずとも、そこに誰かが立っているという事は見破れるのだ。更に言えば、その者が家人などのよく知る人妖であれば、思考のタイプから個人を特定することも可能なのだと思われる。
「……はい。燐です」
あたいが返事をすると、さとり様は平然とした語調で答えた。
「取り敢えず、そんな所に立ってないで入って来なさい」
「あ……いや、別に用があった訳ではないんですけど」
「……え? ……ふむ。本来は水を飲みに行っていたのね。それで私の部屋の前を通りかかっただけと。で、私の部屋から変な声が聞こえてきた。だからついつい聞き耳を立ててしまった訳か」
相も変わらず会話要らずである。
「ええそうです。ですので、これにてあたいは……」
そう残し、再びキッチンへと向かおうとしたあたい。ええ、ええ。今夜の出来事は忘れ……るのは惜しいので心に深く刻み込んでおきますが、しかしさとり様の名誉の為にも、これはあたいだけの素敵な思い出として墓まで持っていくことを約束しましょう。
と、あたいはさとり様を安心させる為にそう思い浮かべた。……が、それだけじゃこの場を収める事は出来ないらしい。「待ちなさい」と、さとり様があたいに声を掛けてきたのだ。
「……へ、なんですかさとり様」
あたいの質問にさとり様が答える。
「お燐。貴女は勘違いをしているわ。それを説明するから、まずは部屋に入って来なさい。丁度良いことに飲み物もあるから、それも分けてあげるから」
……勘違い? まあでも飲み物があるなら……って飲み物ッ?
『ある事』に気が付いたあたいは、瞬時にマックスとなった興奮を深呼吸で落ち着かせてから「失礼します」とドアノブを回した。
この、急に生き生きとし始めた理由は至極単純、かつ明快である。だってそりゃそうだろう? あたいはさとり様のペットなんだからね。命令されれば何時だって喜んで従うさ。飲み物云々は関係ない。況してや決してさとり様の飲み掛けが貰えるかも――間接キスが出来るかも――なんて邪な勘定をしたからではない。いやマジで。
「ああ、一応いっておくけど、あげるのは飲み掛けではないわよ?」
……こん畜生めが。
「畜生は貴女よ」
というさとり様のツッコミを無視し、部屋へと入ったあたい。入って、ベッドに腰掛けていたさとり様に近づいた。するとそんなあたいに、さとり様は一本のペットボトルを手渡してくる。
ペットボトルとは、最近地底でも入荷し始めた飲み物を入れる容器で、中身が零れないように飲むとき以外は蓋を閉められるという利点がある。故に、部屋に持ち込むならペットボトルしかないだろうという、そんなあたいの予想は当たっていた。ちなみにさとり様は幼女の如くペットボトルの飲み口をスッポリと咥えるようにして飲むお方。だからこそ――尚更に飲み掛けが欲しかった! この未開封の物ではなくッ、その横にあるッ、内容量が半分ほどに減ったそのスポーツドリンクッ! そいつを頂きたかった!
……などと、そういう欲望の声を心に描けば……だ。
「『間接キスが出来るかも――なんて邪な勘定をしたからではない。いやマジで』ってやっぱり嘘じゃない。まるっきり」
そら、さとり様がこう返してくるのは当然で。
「……あ」
ってハッとするあたいを見て、さとり様は「はぁ……」と溜息を吐いた。
そのあと更に続けてさとり様は言う。
「全く……そんなだから貴女は変な勘違いを起こすのよ……」
「勘違い……って、さっきも言ってましたけど、さとり様がしてたことですか? さとり様は自分で自分を慰め……、」
「ストップ」とさとり様。
「全然違います。私がしてたのは腹筋よ。決して貴女が思っているような低俗な事ではないわこの万年発情期ド変態猫が」
なんですかその最後の罵倒。
「というかですねさとり様、低俗と言いましたけど欲求の発散というのは重要な事なんですよ? 溜め込んでしまうといつかそれは風船のように破裂してしまい――」
「いやそこは掘り下げなくてもいいから。掘り下げて欲しいのは腹筋についてだから」
「あ、腹筋。腹筋してたんでしたっけ……って、え? なぜ腹筋なんかを?」
そう。意識に上れば、腹筋だってかなりの疑問点だ。さっきまでは『低俗』とか『万年発情期ド変態猫』とかで思考の外に投げ出されてたけれども、これまで一度たりとも、さとり様が筋トレをしている姿なんてあたい、見たことないし。
そんなクエスチョンマークを浮かばせていたあたいに、さとり様が見せてきたのは一枚のカードだった。財布から取り出されたソレは緊張した感じのさとり様の顔写真付きで……外の世界の人間(灼熱地獄の燃料)が持っていた自動車免許証という物に似てるけど、ちょっち違う。……なになに? 記載されている内容を詳しく読み込んでみれば……
「えと……ボクシング、プロライセン――ボクシングッ? プロッ?」
「ふふん、驚いたようね」と自慢顔となったさとり様。うぜぇ。うぜぇけど可愛い。なんだこの人。
「どうしたんですかこれ? さとり様のなんですか?」
そう訊ねると、
「そうよ。ってか私の顔写真まで付いてるのに私のじゃない訳ないじゃない。取ったのよ、反対されると思ったから貴女たちにも内緒でね」
「……何時の間に……」
「プロテストがあったのはホンの一週間ほど前。……いやぁ苦労したわよー? 走り込みに始まり縄跳びでリズム感強化。サンドバッグを千、万と叩きミットも叩き、勿論バーベルに腹筋も……と、全身を鍛え上げたわ」
……なんですと?
「鍛え……? じゃあ実は、その園児服の下はムキムキ……? そんな馬鹿なッ!」
一瞬にして目の奥が熱くなったあたいは愕然とし崩れ落ちた。そしてそのまま四つん這いとなり床を『ダンダン!』と激しく打ち付ける。
そんなあたいにさとり様は、「ちょっとお燐、早合点は止めなさい」
そう注意されたあたいは――少しだけ顔を上げてみた。さとり様のその言葉に、微かな光を見たからだ。
「……早合点? ということは……じゃあ!」
「ええこれでも妖怪。見た目に影響は出てないわ。『ムキムキです』って答えて貴女のペドフィリア的思考を矯正させようかとも思ったけど、ずっと騙し続けられる筈はないし、確認させて下さいとかそういう展開になっても困るしね」
「……!」
「お燐。その、『その手があったか!』っていう思考も止めなさい。……あと訂正させて貰うけど、これは断じて園児服ではないから」
ああ、それも気にしてたんですね。
「まあ、兎にも角にもさとり様が幼児体型を維持してくれて良かったですホント。ええ本当に……」
と、そこまで言い掛けた所でだった。
あたいは何だか言葉途中にまた感情が迫り上がって来てしまったようで、上手いこと声が出せなくなってしまって、
「ひぐっ……本当に良かった。良かったですぅさとり様ぁ……」
「いや止めなさい。そんなことで泣くとか本気で止めなさい。それと、私そこそこは胸あるからね。幼児体型でもないからね」
「いいえそんな設定知りません。さとり様はペッタンコが正義なんです」
そうやって、あたいは泣きながら否定した……のだけども。
『待てよ?』と、『この流れは……』と、直ぐにその考えを改める。
改め、涙を拭き、それから大仰に驚きつつ、
「……ええっ、そうなんですかッ? なら確かめさせて下さいよ!」
「…………」
沈黙――……
そののち、さとり様のジト目があたいを突き刺して。
「……そうね、即座に良いと思った点を取り入れるその向上心は褒めてあげるわ。でも死ね」
ああんストレートォ……なんだかゾクゾクするにゃぁ……
そうやって身を悶えさせたあたいにさとり様は再度、「死ね」
さればこそ、あたいの体はまたゾクゾクとしだして……。おおぅ……。これは、これはなんど聞いても良いものだにゃ。多分あたいは今、新しい嗜好に目覚めたね。心も体も喜びに充ち満ちた反射と反応を示してる。ひょっとすると、この言葉と目付きはあたいにとっての最高のご褒美かも知れないね。
ただし、とはいえ、だ。
この言葉責めを続行させるように話を持っていって、本気でさとり様に嫌われてしまっては最悪である。さとり様に嫌われたらホント、誇張じゃなく死ぬ。ヤマメさんという友人がいるのが――もとい並の妖怪程度の力じゃ千切れない程の丈夫なロープを簡単に入手できるこの環境が――裏目に出る。
ので、あたいはボクシングの話に戻すことに決めた。
「……大丈夫よ。勝算がない訳ではないもの」
あたいが水を向ける前に答えたさとり様。あたいは特にツッコまずに話を続ける。
「そうなんですか?」
「ええ。私には読心能力があるから、それだけでだいぶ有利だし」
「あぁ、でもそれってバレたら反則負けとかになりません? というかさとり様は有名だから読心能力のことは誰だって知ってそうですけど……って、よくよく考えてみれば、良く無事にライセンス取れましたね」
「それは私の階級が昨年新設された、『常時発動型特殊能力あり・ノットデビル級』だからよ。つまり鬼以外の妖怪で、そういう特殊能力がある者たちの集まる階級なの」
なにその階級。それは最早ボクシングに似た別の何かではなかろうか?
「いいえボクシングだわ。元々は私のように常時発動型の能力持ちでもボクシングがやりたいって、そう思う妖怪たちの要望から生まれたクラスなのよ? そういう者は普通のボクシングが出来ない。だから創った。まさに美談。立派なボクシング以外の何物でもないわ」
……まあ。
「さとり様がそう考えてるならソレはソレでいいです。……でもアレですね。何にしても、そういうことなら読心が特別に卑怯って思われることもないでしょうね」
「そう! そこがいいのよ!」
と、俄にヒートアップしたさとり様。そしてさとり様はそのテンションを維持したままに、
「いつだってこの力は卑怯って目で見られたわ!」と言う。「何をしてても、『そりゃ心を読んでんだから何とでもなるだろうが』みたいに思われてた。でもこの階級の上位ランカーには例えば、目が合った相手を極度の睡魔に襲わせる能力者とかいるのよ? その睡魔に耐えてダウンを拒否しても、フラフラの状態で試合を続けることになるのよ? そういう凶悪なのに比べたら読心ぐらい可愛いものよね!」
ははぁ……
あたいは心中と手振りで『落ち着いて下さいさとり様』と伝えてから、
「それならそうですね確かに。他人と目を合わせられないソイツがどんな日常生活を送っているかが気になるトコですけど……まあソレは置いといて、さとり様ならそいつ相手でも目を見ずに戦えそうだから勝算があると」
さとり様はあたいへの返答前に、自分の分のドリンク(そっちを寄越せ)を少し飲んでから『……ふぅ』と息を吐いた。「ええ……。そういう事ね」
「ちなみにその妖怪はサングラスとか掛けてれば問題ないらしいわ」
へぇ。なら……いや、グラサン着用ボクシングは不可能か。
「そうね、只のノットデビル級じゃ無理ね。……と、それは余談よね。何にしても私は、少なくとも頭の中では今のところ、全ランカーの能力に対しては勝算を見いだすことが出来てるのよ」
それ、なんというか実際にやってみたら『机上の空論でした』っていうフラグ臭がプンプンしますけど。
「いえ多分そんな事にはならないわ。ランカーの試合はビデオで何度も見て研究したし」
「そうですか? じゃあ……特殊能力とかの前に『まっすぐ行ってぶっとばす』戦法を採られた時はどうします?」
「まっすぐ行ってぶっとばす戦法?」
さとり様は首を傾げた。そういや、さとり様マンガは読まないものねぇ。
「ええと、要するに読心は身体能力の前には無力ってことです。来ると判っていても、そのパンチに反応できなかったら直撃でしょう?」
と言うと、さとり様は「それも恐らくは問題なし」と答えた。
「当たり前だけど、プロテストの試験試合も含めて何度もスパーはしてるの。調整相手役とはいえプロを相手にした事もあるわ。そのプロ相手でもそこそこは打ち合えたし、パンチにカウンターを合わせることも出来たから」
「しかし本気を出したプロはもっと強いんじゃ?」
「そりゃそうでしょうね。だけど、そもそもからしてプロでやっていけるかどうかが分からないのは何も私に限ったコトではないじゃない。新人は全員がそうよ。ボクシングの動きだって、各々が持つ特殊能力だってね」
「……でも、」
と、あたいは声に出した。これだけやる気を見せているさとり様を応援してはあげたいけれど、それよりも心配が上回って、プロのリングに上がることを素直に賛成できなかったからだ。
「でもさとり様。あたいは心配なんです。ボクシングは一歩間違えれば命の危険だってあるスポーツです。ですからもしもの事があったらと……」
そう伝えると、さとり様は優しく微笑んであたいの頭を撫でてくれた。
「大丈夫よお燐。それに、プロでやるのは無理だと感じたら何時までも引き摺らない。直ぐに引退しようって、そう決めてるの。一番大事なのは貴女たち家族よ。だから、私はいつだって元気で居なくちゃならないもの」
「さとり様……」
あたいはさとり様を見上げた。依然として、暖かい笑みを見せてくれているさとり様。
そんなさとり様はその後、不意に顔を上げて窓の外に目をやった。窓の外は――もう深夜だというのに旧都の明かりが煌びやかに灯っていて、見えずとも賑やかしい光景が連想された。
さとり様は口を開く。窓の外を見つめ続けた状態のままで。
「……お燐。私がボクシングを始めようって思ったのはね。ある目的を達成させる為だったのよ。勿論、ボクシングが面白そうと思ったって理由もあるけどね」
「ある目的……ですか?」
「そう目的。それは地底の皆に私のことを――地霊殿のことを認めて貰うこと」
「ボクシングで勝って人気を得て……?」
そしたらさとり様はあたいの方へ向き直し、「うーん……」と苦笑いをした。
「当ぜん勝つ為の努力はするけどね。ただ単なる勝ち負けよりも『嫌な奴』とか『お高くとまった奴』とか、そういうイメージの払拭を狙ってるのよ。最後まで諦めない……そんなボクシングをしてね」
黙って聞くあたいにさとり様は話を続けた。
「そうやって言うと、ボクシングを踏み台にしてると思われるかも知れないわね。それどころか、ボクシングを馬鹿にしてるとも取られかねないわ。……――ええ正直に言って、私はボクシングを利用するつもりだわ。読心が有利に働きそうだって思ったのも、イメージ改善の為のスポーツ選択でボクシングに決めた一因ではあるし」
「……」
「だけど、私は決してボクシングを馬鹿になんかしていない。ボクシングが好きになったのは本当で、練習だって死ぬ気でしたもの」
さとり様からは、強い信念のようなモノを感じた。……けれど、
「……さとり様は――」
あたいは訊ねる。
「さとり様は、イメージ改善が一番の目的なんですよね? 確かに、あたい達は地霊殿に住む者として後ろ指をさされる事はあります。それがなくなるなら、それは嬉しいです。ですが、要は一生懸命なプレイを見せればいい訳ですから、何もボクシングでなくてもいいのでは?」
そう進言してはみたが、しかしさとり様は首を横に振って、こう答えた。
「以前――頼み込んでとあるチームに入れて貰って野球をしたことがあったのよ」
「……え?」
いきなりにボクシングの話から離れたので、内容の咀嚼にあたいは幾許か時間を要したものの、
「……あ、ああ。野球、ですか?」
あたいの理解に、さとり様は「そう」と頷く。
「それでね? その試合は私、守備固めの時にだけ出場したのよ。それで、ちょっと難しい感じの外野フライをダイビングキャッチしたのだけど……イメージ改善どころじゃなかったわ。その時に『やっぱり読心はズルイ』って声が相手チームやお客さんから上がったの。『打者が何処に飛ばそうかって思考が事前に読み取れるんだから』って。でもそのバッター、その時は『とにかく出塁を』としか頭に無かったんだけどね」
「それは……だったらそう弁解すれば良かったじゃないですか」
「いま思えば滑稽だけど、しちゃったわ。でもそのバッター当人でさえ『其処を狙ってました』って嘘を吐いた。そりゃそうよね。普通に考えれば雰囲気に流されるわ。その雰囲気に逆らってまで『嫌われ者の私』を庇ったりするような公明正大な妖怪なんて、ホント稀でしょうし」
小さな自嘲を漏らしたさとり様。
そんなさとり様に、あたいは呟くように言う。
「……だから、今回は読心がルールとしても認められているボクシングを……」
すると、
「ええ。似たような感じで他のスポーツもダメだったからね。でもこのボクシングなら、少なくとも評判を落とすような事は起きないでしょう? 酷い反則を繰り返したり八百長をしたりとかしたら話は別だけど、そんなことする気はないもの」
『ボクシング』に希望を見いだしているのだろう。そう答えたさとり様は笑顔を取り戻していて……
……だけど、そんなさとり様を見ても、それでもあたいは……
「だったら……他の競技にそういう不安があるのなら……。……ええと、そうだ。別に競技系でなくて、地道に人助けとかでいいじゃないですか。これまでの練習を無駄にしてしまうのはアレですけど、やっぱりボクシングって危険ですし」
しかし、その意見でもさとり様を頷かすことは出来なかった。
「……練習を無駄というのは目的さえ果たせるのなら別に構わないわ。でもダメなの。まだ無理なのよ人助けじゃ。助けようとしても現状だと、私の顔を見ただけで悪い印象を与えてしまうから、まずは其処をなんとかしなければならないのよ」
そんな『ダメな理由』を解説され……ああ、悔しいけど、さとり様の言う通りだなぁとあたいは思った。親切をした画を想像をしても、頭に浮かぶは相手の迷惑そうな顔か引き攣った笑顔のみ。そしてそれどころか伝言ゲームの要領で、最終的には『サトリ妖怪に酷いことをされた』とかに変わりそうな気さえする。
そのように考えていたあたいにさとり様が話を続けた。
「逆に其処さえなんとかなれば人助けをメインにするわ。……で、」
と、そこで一旦、言を切ったさとり様。
「……? どうしたんですかさとり様」
問い掛けるも、さとり様は難しい顔をしたまま……あ、いや、いま考え事を終えたのだろう。表情筋に柔らかさが戻って、
「いえね、始めはある程度の人望を得た後でも、プロで通用していたのならボクシングを続けようと思っていたのだけど……貴女をそこまで心配させちゃうならね。だから目的を達成したら辞めるわ。それまでのちょっとの間だけはどうしても心配を掛けちゃうけど――お燐。私を応援してくれたら、嬉しい」
(――これだから――)
感動して、あたいの目には涙が浮かんできた。
もう、これだからあたいはさとり様が大好きだ。人望を得ようとしたのも、あたいたちに不憫な思いをさせない為だ。ボクシングを辞めると言ってくれたのも、不安がるあたいを少しでも安心させる為だ。いつだってさとり様はあたいたち家族の事を一番に考えてくれているんだ。
あたいはさとり様の右手を取って、両手で強く握り締めた。
「はいさとり様。あたい応援します! 心配だけど応援します! 頑張って下さい! あたいに出来ることなら何でも手伝いますから!」
そう伝えると、さとり様はあたいの手に自分の左手を重ね――優しく包み込んで笑う。
「ふふっ……ありがとうねお燐。その時になったらお願いするわ」
そしてさとり様はあたいの手を解いた。それから壁掛け時計に目をやって、
「さて、それじゃあそろそろお燐は寝なさい。もうすぐ零時を回りそうよ?」
釣られてあたいも時計を見てみる。
……ん、本当だ。もう三十分ぐらいは話してたのか。
「さとり様は寝ないんですか?」
そう訊くとさとり様は「実はね」と。
「これからボクシング雑誌の取材があるの。もう少ししたら記者さんがウチに来る予定だから、それが終わったらかしらね」
「え、こんな時間にですか?」
「記者さんも忙しいのよ。それに私は地霊殿の主としての顔は有名だけれど、ボクシング選手としては無名の新人。取材してくれるだけでも有り難いの」
ああ成程と、あたいは納得。
……にしても。
さとり様がそうやって仕事? で起きてるのに、あたいが先に寝るのは気が引ける……が、
「いいのよ。貴女は明日も灼熱地獄の仕事があるでしょう?」
「そうなんですよねぇ……。ですから、あたいはお先に失礼します。さとり様、おやすみなさい」
そう挨拶して部屋から出ようとしたあたい。そんなあたいをさとり様は、「ああ、そうだお燐」と一度引き留めて、
「明日にだけど、早速お手伝いして欲しいことがあったわ。いいかしら?」
頼られたことが嬉しくて、あたいは無意識の内に喜色満面。「ええ、さっき何でもと言ったでしょう!」
するとさとり様は「うふふ」と笑った。
「じゃあお燐。その雑誌、明日発売でね? だから明日の休憩時間にでも買って来てちょうだい? 私の事が載ってるページは無料でくれるらしいけど、記念に本としても持っておきたいの」
……おぉ。言われてみれば確かにそれは良い思い出品になるだろう。一冊……うんにゃ、あたいの部屋に置いとく用にもう一冊の計二冊は買ってこようかしらね?
あたいは「はい! 任せて下さい!」と返事をして、そうして自分の部屋へと戻った。
次の日、さとり様は朝から家に居なかった。ボクシング関係で既に出掛けられたのかも知れない。
……や、とはいえ別段、会えなくても問題はない。用件は『取材はどうでしたか?』という雑談をしたいだけ。だから帰って来たら訊けばいいのだし、そもそも取材の内容自体は雑誌を買えば判る事だし。
あたいは昼休憩の時間に近くの書店へと足を運んだ。……そして、
「えーと雑誌雑誌……ボクシングのはー……っと」
『おっコレかな?』と思いつつ、あたいは一冊の雑誌を手に取った。表紙はなんとボクシンググローブを填めた勇儀さん。『鬼の四天王、星熊勇儀! プロボクシング界に殴り込み!』という煽り文が目に飛び込んでくる。……思うに、時期的に勇儀さんもさとり様と一緒にプロテストを受けた……のかねぇ?
あたいは目当ての雑誌かを確かめる為にも先ずは立ち読みをした。……うーむ、さとり様に何という名前の雑誌か聞いとけば良かったな。ボクシング雑誌は他にもある。まあ、この雑誌の表紙には小さくだが『古明地さとりも参戦!?』とあったので、多分コレだとは思うのだけれど……
パラパラとページを捲ってみる。……うん? 新人ボクサー特集ページ? これかねぇ?
そう当たりを付けた瞬間、『地霊殿の主!』という単語が目に入った。
「あった! 地霊殿の主! プロボクサー……に? ……って――」
……え、なにこの『?』は。煽り文に付いてたのは購買欲を刺激する為にだとしても、本文にまでハテナが付くのはおかしいんじゃないの? さとり様、ちゃんとライセンス持ってたじゃない。なのになんで疑問系?
あたいは不思議に思いつつも、その妙な記事を読み進めていくと……
『地霊殿の主! プロボクサーに?』
今月のプロテストで見事合格しプロライセンスを取った地霊殿の主『古明地さとり』選手だが、本誌の取材時に記者に暴行を加え、現在はプロライセンスの剥奪をDBA(地底ボクシング協会)にて協議されている状況だ。
事件が起こったのは取材終了時のことだった。本紙記者が挨拶として手を差し出した所、さとり選手は瞬時にファイティングポーズを取り、記者のその手を掻い潜って強烈な右アッパーを放ったのだ。
本紙記者は顎を打ち抜かれ昏睡。命に別状はなく暫くして意識も取り戻したが、顎の骨にヒビが入り全治一ヶ月の大怪我を負った。
さとり選手は現在、留置場にて取り調べを受けている。警察に連行される直前に、「違うわ! 殴ろうとした訳ではないのよ! 手が見えた瞬間に体が勝手に反応して!」という悲痛の叫びを残している。
……ボクサーが俄に現れた拳に反応してしまうのは『まま』ある事ではあるし、それはそのような反応をしてしまう程にさとり選手が練習を積んできた証左でもあるのだが……。不運だったのは、さとり選手と本紙記者の身長差だろう。ややもすれば、さとり選手には記者の握手の手が顔面に迫り来るジャブに見えたのかも知れない。
しかし如何なる理由があったとしても、さとり選手が一般人を殴ってしまったことには変わりなく、罰金や謹慎、奉仕作業などは確定だと思われる。ただライセンスの行方についてはまだ不透明であり……果たしてさとり選手はプロのリングに上がる前にボクシング界から去る事となってしまうのか……。今後の動向に目が離せない。
あたいはスッと、元あった場所へ雑誌を戻した。
『でもこのボクシングなら、少なくとも評判を落とすような事は起きないでしょう?』
そう言った昨日の、さとり様の笑顔が頭に浮かぶ。
「前科持ち……か」
……何故だろうね。なんでか記事の最後の方は、視界がぼやけて読み辛かったなぁと、そう思った。
深夜――。あたいが水を飲みにキッチンへと向かっている時だった。さとり様の寝室から、そんな艶めかしい声が聞こえてきたのは。
(……えっ?)
あたいは思わず足を止める。止めて、『もしや』『まさか』と思いつつ、さとり様の私室と廊下とを隔てている扉に耳を当ててみた。
すると続いて聞こえてきたのは「……ふうっ」と――「はぁ……はぁ……」と――そういう呼吸音。まさしく先程まで『何か』をしていて、そして『終了』した今は、例えば余韻に浸りつつ息を整えている……とか、そんな感じの――
「……お燐」
唐突に、部屋の中のさとり様があたいの名を呼んだ。それはあたいを想っていたが故に、あたいの名前が言葉として漏れ出てしまった……というドキドキワクワクな理由からではない。僅かながら語尾のイントネーションが上昇調となっていた事からも解るように、ドアの向こう側にてあたいが聞き耳を立てているかどうかの確認……の為に口にしただけなのだろう。
さとり様は『サトリ妖怪』であるので、姿を見せずとも物音を立てずとも、そこに誰かが立っているという事は見破れるのだ。更に言えば、その者が家人などのよく知る人妖であれば、思考のタイプから個人を特定することも可能なのだと思われる。
「……はい。燐です」
あたいが返事をすると、さとり様は平然とした語調で答えた。
「取り敢えず、そんな所に立ってないで入って来なさい」
「あ……いや、別に用があった訳ではないんですけど」
「……え? ……ふむ。本来は水を飲みに行っていたのね。それで私の部屋の前を通りかかっただけと。で、私の部屋から変な声が聞こえてきた。だからついつい聞き耳を立ててしまった訳か」
相も変わらず会話要らずである。
「ええそうです。ですので、これにてあたいは……」
そう残し、再びキッチンへと向かおうとしたあたい。ええ、ええ。今夜の出来事は忘れ……るのは惜しいので心に深く刻み込んでおきますが、しかしさとり様の名誉の為にも、これはあたいだけの素敵な思い出として墓まで持っていくことを約束しましょう。
と、あたいはさとり様を安心させる為にそう思い浮かべた。……が、それだけじゃこの場を収める事は出来ないらしい。「待ちなさい」と、さとり様があたいに声を掛けてきたのだ。
「……へ、なんですかさとり様」
あたいの質問にさとり様が答える。
「お燐。貴女は勘違いをしているわ。それを説明するから、まずは部屋に入って来なさい。丁度良いことに飲み物もあるから、それも分けてあげるから」
……勘違い? まあでも飲み物があるなら……って飲み物ッ?
『ある事』に気が付いたあたいは、瞬時にマックスとなった興奮を深呼吸で落ち着かせてから「失礼します」とドアノブを回した。
この、急に生き生きとし始めた理由は至極単純、かつ明快である。だってそりゃそうだろう? あたいはさとり様のペットなんだからね。命令されれば何時だって喜んで従うさ。飲み物云々は関係ない。況してや決してさとり様の飲み掛けが貰えるかも――間接キスが出来るかも――なんて邪な勘定をしたからではない。いやマジで。
「ああ、一応いっておくけど、あげるのは飲み掛けではないわよ?」
……こん畜生めが。
「畜生は貴女よ」
というさとり様のツッコミを無視し、部屋へと入ったあたい。入って、ベッドに腰掛けていたさとり様に近づいた。するとそんなあたいに、さとり様は一本のペットボトルを手渡してくる。
ペットボトルとは、最近地底でも入荷し始めた飲み物を入れる容器で、中身が零れないように飲むとき以外は蓋を閉められるという利点がある。故に、部屋に持ち込むならペットボトルしかないだろうという、そんなあたいの予想は当たっていた。ちなみにさとり様は幼女の如くペットボトルの飲み口をスッポリと咥えるようにして飲むお方。だからこそ――尚更に飲み掛けが欲しかった! この未開封の物ではなくッ、その横にあるッ、内容量が半分ほどに減ったそのスポーツドリンクッ! そいつを頂きたかった!
……などと、そういう欲望の声を心に描けば……だ。
「『間接キスが出来るかも――なんて邪な勘定をしたからではない。いやマジで』ってやっぱり嘘じゃない。まるっきり」
そら、さとり様がこう返してくるのは当然で。
「……あ」
ってハッとするあたいを見て、さとり様は「はぁ……」と溜息を吐いた。
そのあと更に続けてさとり様は言う。
「全く……そんなだから貴女は変な勘違いを起こすのよ……」
「勘違い……って、さっきも言ってましたけど、さとり様がしてたことですか? さとり様は自分で自分を慰め……、」
「ストップ」とさとり様。
「全然違います。私がしてたのは腹筋よ。決して貴女が思っているような低俗な事ではないわこの万年発情期ド変態猫が」
なんですかその最後の罵倒。
「というかですねさとり様、低俗と言いましたけど欲求の発散というのは重要な事なんですよ? 溜め込んでしまうといつかそれは風船のように破裂してしまい――」
「いやそこは掘り下げなくてもいいから。掘り下げて欲しいのは腹筋についてだから」
「あ、腹筋。腹筋してたんでしたっけ……って、え? なぜ腹筋なんかを?」
そう。意識に上れば、腹筋だってかなりの疑問点だ。さっきまでは『低俗』とか『万年発情期ド変態猫』とかで思考の外に投げ出されてたけれども、これまで一度たりとも、さとり様が筋トレをしている姿なんてあたい、見たことないし。
そんなクエスチョンマークを浮かばせていたあたいに、さとり様が見せてきたのは一枚のカードだった。財布から取り出されたソレは緊張した感じのさとり様の顔写真付きで……外の世界の人間(灼熱地獄の燃料)が持っていた自動車免許証という物に似てるけど、ちょっち違う。……なになに? 記載されている内容を詳しく読み込んでみれば……
「えと……ボクシング、プロライセン――ボクシングッ? プロッ?」
「ふふん、驚いたようね」と自慢顔となったさとり様。うぜぇ。うぜぇけど可愛い。なんだこの人。
「どうしたんですかこれ? さとり様のなんですか?」
そう訊ねると、
「そうよ。ってか私の顔写真まで付いてるのに私のじゃない訳ないじゃない。取ったのよ、反対されると思ったから貴女たちにも内緒でね」
「……何時の間に……」
「プロテストがあったのはホンの一週間ほど前。……いやぁ苦労したわよー? 走り込みに始まり縄跳びでリズム感強化。サンドバッグを千、万と叩きミットも叩き、勿論バーベルに腹筋も……と、全身を鍛え上げたわ」
……なんですと?
「鍛え……? じゃあ実は、その園児服の下はムキムキ……? そんな馬鹿なッ!」
一瞬にして目の奥が熱くなったあたいは愕然とし崩れ落ちた。そしてそのまま四つん這いとなり床を『ダンダン!』と激しく打ち付ける。
そんなあたいにさとり様は、「ちょっとお燐、早合点は止めなさい」
そう注意されたあたいは――少しだけ顔を上げてみた。さとり様のその言葉に、微かな光を見たからだ。
「……早合点? ということは……じゃあ!」
「ええこれでも妖怪。見た目に影響は出てないわ。『ムキムキです』って答えて貴女のペドフィリア的思考を矯正させようかとも思ったけど、ずっと騙し続けられる筈はないし、確認させて下さいとかそういう展開になっても困るしね」
「……!」
「お燐。その、『その手があったか!』っていう思考も止めなさい。……あと訂正させて貰うけど、これは断じて園児服ではないから」
ああ、それも気にしてたんですね。
「まあ、兎にも角にもさとり様が幼児体型を維持してくれて良かったですホント。ええ本当に……」
と、そこまで言い掛けた所でだった。
あたいは何だか言葉途中にまた感情が迫り上がって来てしまったようで、上手いこと声が出せなくなってしまって、
「ひぐっ……本当に良かった。良かったですぅさとり様ぁ……」
「いや止めなさい。そんなことで泣くとか本気で止めなさい。それと、私そこそこは胸あるからね。幼児体型でもないからね」
「いいえそんな設定知りません。さとり様はペッタンコが正義なんです」
そうやって、あたいは泣きながら否定した……のだけども。
『待てよ?』と、『この流れは……』と、直ぐにその考えを改める。
改め、涙を拭き、それから大仰に驚きつつ、
「……ええっ、そうなんですかッ? なら確かめさせて下さいよ!」
「…………」
沈黙――……
そののち、さとり様のジト目があたいを突き刺して。
「……そうね、即座に良いと思った点を取り入れるその向上心は褒めてあげるわ。でも死ね」
ああんストレートォ……なんだかゾクゾクするにゃぁ……
そうやって身を悶えさせたあたいにさとり様は再度、「死ね」
さればこそ、あたいの体はまたゾクゾクとしだして……。おおぅ……。これは、これはなんど聞いても良いものだにゃ。多分あたいは今、新しい嗜好に目覚めたね。心も体も喜びに充ち満ちた反射と反応を示してる。ひょっとすると、この言葉と目付きはあたいにとっての最高のご褒美かも知れないね。
ただし、とはいえ、だ。
この言葉責めを続行させるように話を持っていって、本気でさとり様に嫌われてしまっては最悪である。さとり様に嫌われたらホント、誇張じゃなく死ぬ。ヤマメさんという友人がいるのが――もとい並の妖怪程度の力じゃ千切れない程の丈夫なロープを簡単に入手できるこの環境が――裏目に出る。
ので、あたいはボクシングの話に戻すことに決めた。
「……大丈夫よ。勝算がない訳ではないもの」
あたいが水を向ける前に答えたさとり様。あたいは特にツッコまずに話を続ける。
「そうなんですか?」
「ええ。私には読心能力があるから、それだけでだいぶ有利だし」
「あぁ、でもそれってバレたら反則負けとかになりません? というかさとり様は有名だから読心能力のことは誰だって知ってそうですけど……って、よくよく考えてみれば、良く無事にライセンス取れましたね」
「それは私の階級が昨年新設された、『常時発動型特殊能力あり・ノットデビル級』だからよ。つまり鬼以外の妖怪で、そういう特殊能力がある者たちの集まる階級なの」
なにその階級。それは最早ボクシングに似た別の何かではなかろうか?
「いいえボクシングだわ。元々は私のように常時発動型の能力持ちでもボクシングがやりたいって、そう思う妖怪たちの要望から生まれたクラスなのよ? そういう者は普通のボクシングが出来ない。だから創った。まさに美談。立派なボクシング以外の何物でもないわ」
……まあ。
「さとり様がそう考えてるならソレはソレでいいです。……でもアレですね。何にしても、そういうことなら読心が特別に卑怯って思われることもないでしょうね」
「そう! そこがいいのよ!」
と、俄にヒートアップしたさとり様。そしてさとり様はそのテンションを維持したままに、
「いつだってこの力は卑怯って目で見られたわ!」と言う。「何をしてても、『そりゃ心を読んでんだから何とでもなるだろうが』みたいに思われてた。でもこの階級の上位ランカーには例えば、目が合った相手を極度の睡魔に襲わせる能力者とかいるのよ? その睡魔に耐えてダウンを拒否しても、フラフラの状態で試合を続けることになるのよ? そういう凶悪なのに比べたら読心ぐらい可愛いものよね!」
ははぁ……
あたいは心中と手振りで『落ち着いて下さいさとり様』と伝えてから、
「それならそうですね確かに。他人と目を合わせられないソイツがどんな日常生活を送っているかが気になるトコですけど……まあソレは置いといて、さとり様ならそいつ相手でも目を見ずに戦えそうだから勝算があると」
さとり様はあたいへの返答前に、自分の分のドリンク(そっちを寄越せ)を少し飲んでから『……ふぅ』と息を吐いた。「ええ……。そういう事ね」
「ちなみにその妖怪はサングラスとか掛けてれば問題ないらしいわ」
へぇ。なら……いや、グラサン着用ボクシングは不可能か。
「そうね、只のノットデビル級じゃ無理ね。……と、それは余談よね。何にしても私は、少なくとも頭の中では今のところ、全ランカーの能力に対しては勝算を見いだすことが出来てるのよ」
それ、なんというか実際にやってみたら『机上の空論でした』っていうフラグ臭がプンプンしますけど。
「いえ多分そんな事にはならないわ。ランカーの試合はビデオで何度も見て研究したし」
「そうですか? じゃあ……特殊能力とかの前に『まっすぐ行ってぶっとばす』戦法を採られた時はどうします?」
「まっすぐ行ってぶっとばす戦法?」
さとり様は首を傾げた。そういや、さとり様マンガは読まないものねぇ。
「ええと、要するに読心は身体能力の前には無力ってことです。来ると判っていても、そのパンチに反応できなかったら直撃でしょう?」
と言うと、さとり様は「それも恐らくは問題なし」と答えた。
「当たり前だけど、プロテストの試験試合も含めて何度もスパーはしてるの。調整相手役とはいえプロを相手にした事もあるわ。そのプロ相手でもそこそこは打ち合えたし、パンチにカウンターを合わせることも出来たから」
「しかし本気を出したプロはもっと強いんじゃ?」
「そりゃそうでしょうね。だけど、そもそもからしてプロでやっていけるかどうかが分からないのは何も私に限ったコトではないじゃない。新人は全員がそうよ。ボクシングの動きだって、各々が持つ特殊能力だってね」
「……でも、」
と、あたいは声に出した。これだけやる気を見せているさとり様を応援してはあげたいけれど、それよりも心配が上回って、プロのリングに上がることを素直に賛成できなかったからだ。
「でもさとり様。あたいは心配なんです。ボクシングは一歩間違えれば命の危険だってあるスポーツです。ですからもしもの事があったらと……」
そう伝えると、さとり様は優しく微笑んであたいの頭を撫でてくれた。
「大丈夫よお燐。それに、プロでやるのは無理だと感じたら何時までも引き摺らない。直ぐに引退しようって、そう決めてるの。一番大事なのは貴女たち家族よ。だから、私はいつだって元気で居なくちゃならないもの」
「さとり様……」
あたいはさとり様を見上げた。依然として、暖かい笑みを見せてくれているさとり様。
そんなさとり様はその後、不意に顔を上げて窓の外に目をやった。窓の外は――もう深夜だというのに旧都の明かりが煌びやかに灯っていて、見えずとも賑やかしい光景が連想された。
さとり様は口を開く。窓の外を見つめ続けた状態のままで。
「……お燐。私がボクシングを始めようって思ったのはね。ある目的を達成させる為だったのよ。勿論、ボクシングが面白そうと思ったって理由もあるけどね」
「ある目的……ですか?」
「そう目的。それは地底の皆に私のことを――地霊殿のことを認めて貰うこと」
「ボクシングで勝って人気を得て……?」
そしたらさとり様はあたいの方へ向き直し、「うーん……」と苦笑いをした。
「当ぜん勝つ為の努力はするけどね。ただ単なる勝ち負けよりも『嫌な奴』とか『お高くとまった奴』とか、そういうイメージの払拭を狙ってるのよ。最後まで諦めない……そんなボクシングをしてね」
黙って聞くあたいにさとり様は話を続けた。
「そうやって言うと、ボクシングを踏み台にしてると思われるかも知れないわね。それどころか、ボクシングを馬鹿にしてるとも取られかねないわ。……――ええ正直に言って、私はボクシングを利用するつもりだわ。読心が有利に働きそうだって思ったのも、イメージ改善の為のスポーツ選択でボクシングに決めた一因ではあるし」
「……」
「だけど、私は決してボクシングを馬鹿になんかしていない。ボクシングが好きになったのは本当で、練習だって死ぬ気でしたもの」
さとり様からは、強い信念のようなモノを感じた。……けれど、
「……さとり様は――」
あたいは訊ねる。
「さとり様は、イメージ改善が一番の目的なんですよね? 確かに、あたい達は地霊殿に住む者として後ろ指をさされる事はあります。それがなくなるなら、それは嬉しいです。ですが、要は一生懸命なプレイを見せればいい訳ですから、何もボクシングでなくてもいいのでは?」
そう進言してはみたが、しかしさとり様は首を横に振って、こう答えた。
「以前――頼み込んでとあるチームに入れて貰って野球をしたことがあったのよ」
「……え?」
いきなりにボクシングの話から離れたので、内容の咀嚼にあたいは幾許か時間を要したものの、
「……あ、ああ。野球、ですか?」
あたいの理解に、さとり様は「そう」と頷く。
「それでね? その試合は私、守備固めの時にだけ出場したのよ。それで、ちょっと難しい感じの外野フライをダイビングキャッチしたのだけど……イメージ改善どころじゃなかったわ。その時に『やっぱり読心はズルイ』って声が相手チームやお客さんから上がったの。『打者が何処に飛ばそうかって思考が事前に読み取れるんだから』って。でもそのバッター、その時は『とにかく出塁を』としか頭に無かったんだけどね」
「それは……だったらそう弁解すれば良かったじゃないですか」
「いま思えば滑稽だけど、しちゃったわ。でもそのバッター当人でさえ『其処を狙ってました』って嘘を吐いた。そりゃそうよね。普通に考えれば雰囲気に流されるわ。その雰囲気に逆らってまで『嫌われ者の私』を庇ったりするような公明正大な妖怪なんて、ホント稀でしょうし」
小さな自嘲を漏らしたさとり様。
そんなさとり様に、あたいは呟くように言う。
「……だから、今回は読心がルールとしても認められているボクシングを……」
すると、
「ええ。似たような感じで他のスポーツもダメだったからね。でもこのボクシングなら、少なくとも評判を落とすような事は起きないでしょう? 酷い反則を繰り返したり八百長をしたりとかしたら話は別だけど、そんなことする気はないもの」
『ボクシング』に希望を見いだしているのだろう。そう答えたさとり様は笑顔を取り戻していて……
……だけど、そんなさとり様を見ても、それでもあたいは……
「だったら……他の競技にそういう不安があるのなら……。……ええと、そうだ。別に競技系でなくて、地道に人助けとかでいいじゃないですか。これまでの練習を無駄にしてしまうのはアレですけど、やっぱりボクシングって危険ですし」
しかし、その意見でもさとり様を頷かすことは出来なかった。
「……練習を無駄というのは目的さえ果たせるのなら別に構わないわ。でもダメなの。まだ無理なのよ人助けじゃ。助けようとしても現状だと、私の顔を見ただけで悪い印象を与えてしまうから、まずは其処をなんとかしなければならないのよ」
そんな『ダメな理由』を解説され……ああ、悔しいけど、さとり様の言う通りだなぁとあたいは思った。親切をした画を想像をしても、頭に浮かぶは相手の迷惑そうな顔か引き攣った笑顔のみ。そしてそれどころか伝言ゲームの要領で、最終的には『サトリ妖怪に酷いことをされた』とかに変わりそうな気さえする。
そのように考えていたあたいにさとり様が話を続けた。
「逆に其処さえなんとかなれば人助けをメインにするわ。……で、」
と、そこで一旦、言を切ったさとり様。
「……? どうしたんですかさとり様」
問い掛けるも、さとり様は難しい顔をしたまま……あ、いや、いま考え事を終えたのだろう。表情筋に柔らかさが戻って、
「いえね、始めはある程度の人望を得た後でも、プロで通用していたのならボクシングを続けようと思っていたのだけど……貴女をそこまで心配させちゃうならね。だから目的を達成したら辞めるわ。それまでのちょっとの間だけはどうしても心配を掛けちゃうけど――お燐。私を応援してくれたら、嬉しい」
(――これだから――)
感動して、あたいの目には涙が浮かんできた。
もう、これだからあたいはさとり様が大好きだ。人望を得ようとしたのも、あたいたちに不憫な思いをさせない為だ。ボクシングを辞めると言ってくれたのも、不安がるあたいを少しでも安心させる為だ。いつだってさとり様はあたいたち家族の事を一番に考えてくれているんだ。
あたいはさとり様の右手を取って、両手で強く握り締めた。
「はいさとり様。あたい応援します! 心配だけど応援します! 頑張って下さい! あたいに出来ることなら何でも手伝いますから!」
そう伝えると、さとり様はあたいの手に自分の左手を重ね――優しく包み込んで笑う。
「ふふっ……ありがとうねお燐。その時になったらお願いするわ」
そしてさとり様はあたいの手を解いた。それから壁掛け時計に目をやって、
「さて、それじゃあそろそろお燐は寝なさい。もうすぐ零時を回りそうよ?」
釣られてあたいも時計を見てみる。
……ん、本当だ。もう三十分ぐらいは話してたのか。
「さとり様は寝ないんですか?」
そう訊くとさとり様は「実はね」と。
「これからボクシング雑誌の取材があるの。もう少ししたら記者さんがウチに来る予定だから、それが終わったらかしらね」
「え、こんな時間にですか?」
「記者さんも忙しいのよ。それに私は地霊殿の主としての顔は有名だけれど、ボクシング選手としては無名の新人。取材してくれるだけでも有り難いの」
ああ成程と、あたいは納得。
……にしても。
さとり様がそうやって仕事? で起きてるのに、あたいが先に寝るのは気が引ける……が、
「いいのよ。貴女は明日も灼熱地獄の仕事があるでしょう?」
「そうなんですよねぇ……。ですから、あたいはお先に失礼します。さとり様、おやすみなさい」
そう挨拶して部屋から出ようとしたあたい。そんなあたいをさとり様は、「ああ、そうだお燐」と一度引き留めて、
「明日にだけど、早速お手伝いして欲しいことがあったわ。いいかしら?」
頼られたことが嬉しくて、あたいは無意識の内に喜色満面。「ええ、さっき何でもと言ったでしょう!」
するとさとり様は「うふふ」と笑った。
「じゃあお燐。その雑誌、明日発売でね? だから明日の休憩時間にでも買って来てちょうだい? 私の事が載ってるページは無料でくれるらしいけど、記念に本としても持っておきたいの」
……おぉ。言われてみれば確かにそれは良い思い出品になるだろう。一冊……うんにゃ、あたいの部屋に置いとく用にもう一冊の計二冊は買ってこようかしらね?
あたいは「はい! 任せて下さい!」と返事をして、そうして自分の部屋へと戻った。
次の日、さとり様は朝から家に居なかった。ボクシング関係で既に出掛けられたのかも知れない。
……や、とはいえ別段、会えなくても問題はない。用件は『取材はどうでしたか?』という雑談をしたいだけ。だから帰って来たら訊けばいいのだし、そもそも取材の内容自体は雑誌を買えば判る事だし。
あたいは昼休憩の時間に近くの書店へと足を運んだ。……そして、
「えーと雑誌雑誌……ボクシングのはー……っと」
『おっコレかな?』と思いつつ、あたいは一冊の雑誌を手に取った。表紙はなんとボクシンググローブを填めた勇儀さん。『鬼の四天王、星熊勇儀! プロボクシング界に殴り込み!』という煽り文が目に飛び込んでくる。……思うに、時期的に勇儀さんもさとり様と一緒にプロテストを受けた……のかねぇ?
あたいは目当ての雑誌かを確かめる為にも先ずは立ち読みをした。……うーむ、さとり様に何という名前の雑誌か聞いとけば良かったな。ボクシング雑誌は他にもある。まあ、この雑誌の表紙には小さくだが『古明地さとりも参戦!?』とあったので、多分コレだとは思うのだけれど……
パラパラとページを捲ってみる。……うん? 新人ボクサー特集ページ? これかねぇ?
そう当たりを付けた瞬間、『地霊殿の主!』という単語が目に入った。
「あった! 地霊殿の主! プロボクサー……に? ……って――」
……え、なにこの『?』は。煽り文に付いてたのは購買欲を刺激する為にだとしても、本文にまでハテナが付くのはおかしいんじゃないの? さとり様、ちゃんとライセンス持ってたじゃない。なのになんで疑問系?
あたいは不思議に思いつつも、その妙な記事を読み進めていくと……
『地霊殿の主! プロボクサーに?』
今月のプロテストで見事合格しプロライセンスを取った地霊殿の主『古明地さとり』選手だが、本誌の取材時に記者に暴行を加え、現在はプロライセンスの剥奪をDBA(地底ボクシング協会)にて協議されている状況だ。
事件が起こったのは取材終了時のことだった。本紙記者が挨拶として手を差し出した所、さとり選手は瞬時にファイティングポーズを取り、記者のその手を掻い潜って強烈な右アッパーを放ったのだ。
本紙記者は顎を打ち抜かれ昏睡。命に別状はなく暫くして意識も取り戻したが、顎の骨にヒビが入り全治一ヶ月の大怪我を負った。
さとり選手は現在、留置場にて取り調べを受けている。警察に連行される直前に、「違うわ! 殴ろうとした訳ではないのよ! 手が見えた瞬間に体が勝手に反応して!」という悲痛の叫びを残している。
……ボクサーが俄に現れた拳に反応してしまうのは『まま』ある事ではあるし、それはそのような反応をしてしまう程にさとり選手が練習を積んできた証左でもあるのだが……。不運だったのは、さとり選手と本紙記者の身長差だろう。ややもすれば、さとり選手には記者の握手の手が顔面に迫り来るジャブに見えたのかも知れない。
しかし如何なる理由があったとしても、さとり選手が一般人を殴ってしまったことには変わりなく、罰金や謹慎、奉仕作業などは確定だと思われる。ただライセンスの行方についてはまだ不透明であり……果たしてさとり選手はプロのリングに上がる前にボクシング界から去る事となってしまうのか……。今後の動向に目が離せない。
あたいはスッと、元あった場所へ雑誌を戻した。
『でもこのボクシングなら、少なくとも評判を落とすような事は起きないでしょう?』
そう言った昨日の、さとり様の笑顔が頭に浮かぶ。
「前科持ち……か」
……何故だろうね。なんでか記事の最後の方は、視界がぼやけて読み辛かったなぁと、そう思った。
仮に事件を起こさなかったら、一撃で天狗の骨を砕くほど鍛えたさとりがボクサーとしてどのくらい活躍できたか気になるところです
しかし考えてみれば、原作のスペルカードルール自体が「強い奴も弱い奴も一緒に遊べるように」という一面を持っていることですし、作中で示されたような特殊すぎる階級も、それにさとりが参加しようと考えたのも実に自然なことに思えます。
本作はこうした設定を始めとして、一見するとぶっ飛んでいるように見える世界観の根底に、様々な障害にもめげずに他者に理解してもらおう、受け入れてもらおうと努力する者たちの姿が描かれているように思います。
さとりが語る、野球等他のスポーツにおける過去の失敗は、酷いなと思う反面仕方ないなと思える一面もあって非常にシビアで現実的です。
でもそれだけに、そこで過度に周囲を責めたり現実を呪ったりせず、仕方ないことだと受け止めて新たなやり方を模索し、ひたすら真っすぐ突き進むさとりの姿が輝いて見えました。
今回は残念な結果に終わってしまいましたが、このさとりならばこれで諦めずにまた立ちあがるだろうし、お燐もそれを支えて応援するだろうと思わせてくれます。(そもそも今回のは読心能力絡みの失敗というわけではないですしね)
一見すると酷いオチにも関わらずなんだか爽やかな気分で読み終われたのは、恐らくそういう理由なのでしょう。
ちなみにお燐の方も、変態ながら根っこのところはちゃんと家族想いのいい子で好きです。
原作からして友達想いな死体好き、という感じで相反する性質を合わせ持っている分、こういった描写がよく馴染みますね。
自分でも驚くほど真面目な感想になってしまいましたが、ただのコメディに留まらない魅力をこの作品に感じたのだ、と受け取って頂ければ幸いです。
それでは、読ませて頂いてありがとうございました。