おおよそ初めてのことだったろう。
ベールに頭をすっぽり包まれて意識を無くしていたマエリベリー・ハーンへ告げられた言葉は人間のものではなかった。薄い紗を通り抜ける
そして不意に身体へ慣性を振られたことが引き金となってマエリベリーは名をひとつ思い出した。ヒロシゲという列車に付随する記憶。誰かの故郷へ向かった日を思い出すとRという少女の名を連想が置いていく。片割れを見るRの瞳がはっきりと意識されたときマエリベリーの感じる光は萎縮していき小さく暗い橙色になっていった。それに比例して腕や足をくるむ白い膚が冷えていくと少女の意識の上へ次々と感覚の波紋が広がり、じりじりと炎の爆ぜる音が聞こえてくる。
マエリベリーはベールをはがした。
黒々と凝った空間に一点だけ灯される火を挟んで座っている少女Rがまず見える。あとには剥きだしの土と石が視界の許す限り横たわっており、その色は火の残影を差し引いても赤すぎるようだった。少女たちが腰掛けている朽ちた倒木や周りに散乱する古木は灯のゆらめきを受けるたびに頼りない影をはためかせ、地面から剥き出された彫りの深い岩石をなぶっている。
マエリベリーにとって初めてであったのは科学を謳歌する自らの生活区域を外れてこのような場所に座っていることではない。今まさに自分が生まれたと疑わざるを得ないほど現在へ接続される記憶を持っていないことだ。自分の名、家族構成、生誕地、年齢、自分の名、自分の名。おおまかな過去は全て拾えるが脳内の何処を探っても現状に続く出来事は空白。直前まで眠っていたかどうかすら知らないマエリベリーは熱く深い息を吐いた。
もう一人の少女Rは陰に身体を埋め込むようにして座っていた。黒い帽子の下で静かに火を眺めている瞳もまた黒、白いシャツの上から羽織った黒地のケープは縁に白の飾り糸で刺繍が施されており、下半身を足首まですっぽり覆うスカートは同じデザインが採られた
「メリー、行かない?」
喋らぬマエリベリーの眼の奥を覗きこむとRは答えを聞かず、辺りへ散乱する枯木をいくつか持ち上げては捨て、ついには闇の中へ踏み入って二本の杖じみた長さの物を持ち帰ってきた。その間にベールは炎の中へ投げ込まれ、Rの立てる土煙だとか巻き上がる火の粉をじっとマエリベリーは眺めていたが、杖を差し出されると黙って受け取った。
「まだ寝ぼけてるの?」
「きっと寝たことなんて一度もないんじゃないかしら。どこへ行くの」
地面へ垂直に立てた棒からRは手を離すと、やがて倒れた杖の切っ先を指さした。
「あっちにしよう」
得物を拾って歩き出すRの背中へ向けてメリーは
――偽物め
と言いかけたが口を噤み、輝く火をそのままにして歩き始めた。
ぼんやりした光の繭を内側から引き裂いて動かない静寂へ入ろうとする境のあたりで、どちらの声が『夜』と呟いたものか。黒に飲み込まれたあとは杖の土をまさぐる音、弱々しい足音、石を打ち付ける木もしくは足の音、速めの呼吸音だけが荒野には存在した。風はそよともせず、お互いの気配しか感じ取れない中でいつしか繋がれた細い手と手が歩行を支え合う。星じみた瞬かぬ光の屍が空には吊り下げられており、月はなし、雲も皆無。さして見えもせぬ目をマエリベリーは常に地面へ向けていたが、それはRも同じだった。
もし世界の闇を引き上げる事ができたのであれば三百六十度にぐるりと回る地平線が荒野の広さを物語っただろうし、その何処にも少女ら以外に動くものは無い。ゆるやかな起伏が果てまで続く土の海の一点を蟻のように進む二人が光景を視認できないのは幸せであったかもしれぬ。それでも墨のような闇の中、少なからぬ想像力によってまばらに点在する岩でできた刺のある灌木の茂みや地割れの側面に沸き立つ
「彼岸花」
握った手も見えぬ凍てついた夜気の中をRは振り返って問うた。
「闇の底で花が咲いていたと?」
「闇で作られた彼岸花だった」
「垂直になった細い石が何かの調子でそう見えただけかもしれない」
「光もないのに眼が錯覚するかしら。もう散ってしまったけれど、あれは確かに花だった」
「人間は咲いて散るのならば何であれ花にするよ」
眼窩からこぼれ落ちたマエリベリーの左目がゆらゆらと地を這い転がっていった。驚いたようにまたたきを繰り返すマエリベリーと停止するRの間に言葉はなかった。
再び歩きだした二人のはるか頭上では変化が起きつつあった。夜に押しつぶされて内容物を噴き出したおざなりの星が光を失っていくと天から地へ向けて
「これは夢」
「メリー、違うよ。暗闇は平衡感覚を狂わせるし傾斜の多い地面もその補助として働いている。たしかに地球上ではないかもしれないけれど夢と決め付けるのは早計じゃない?」
「夜が降りてきたのであれば夢は夢見る者の瞼にこぼれる。あなたの息は夢のにおいがするよ。黒鉄の竹、黒大理石の火、
「おいで」
頭上の情景はおぼろおぼろと霞んで溶暗し、やがて逆さの竹林は消え失せた。少女らは気づいただろうか? また顔を見せた腐蝕星の光の澱にまつろわぬ左の空の暗黒を。天の湾曲面へたっぷり拡げられた狂気と黒の遠近法を。真っ直ぐにそびえて天を衝く山であれば星空のほぼ半面を隠すことも可能だろう。峯は削りなされたようで高さは天の際に触れ、基として連なる山裾は幾千里に横たわる、千年を一夜としてまどろむ類の山であれば。
盗み聞きする者とてない荒野、少女たちが交わした言葉はすでに失われている。そのうち黒の山を喰い破るようにして星のレプリカが再び灯され、酸蝕されていく山の屍衣は何かしらの文字に似た記号を浮かべながら消えていった。
進むにつれて二人の道行きは傾斜を加えて急な坂の様相を見せはじめ、今では容赦のない壁になっている。登り始めからの時間を考えると雲の上に出ていても不思議ではない高さに到達していただろう。時間が存在すればの話だが。険しい道であったから、下方の底知れぬ静止へ向かってマエリベリーの残った右目が転がり落ちていくのも無理はなかった。腰掛けられる大きさの岩が突き出ているのを見つけた二人は疲れもあらわに休憩をとることに決め、体重を預けあい並んで座った。
「そろそろ居場所が知りたいね。ここは月面?」
「わからないよ、メリー」
「あら。じゃあ、いつになったら貴方は夜空を見上げるの。いつものように、これからのように。この坂を登り続けて宇宙まで出てから、星と月を水平に見渡せるようになってから初めて場所と時間を教えてくれるの? 貴方は魔術師であるのに」
「ただの物理屋ではないかしら」
「魔術師にとって秋は春、夢は現、彼岸は此岸、空は我。そして秘封倶楽部にとって魔術師は同様に物理学者。貴方は誰、私は誰? 私はただの夢ではないね。私の重力を何処へやったの、偽物」
「おいで」
「依然として私の目が羨ましいのであれば着いて行く」
Rは手を離した。
「いいえ。永遠を見る定命の者を私は羨ましいと思わない。あとは登るだけだ。待っているから好きにするといい」
去っていくRの足音が消えた後もマエリベリーは座って空を見上げたままだった。岩から投げ出されたつま先の少し下にはいつからか鏡の如き平らかな黒、死んだ星々を写す玻璃のような水盤が空と同じ大きさで広がっている。天の半球形に対する、平面の広がり。完全な夜の頂上あるいは暗黒の底である平面のひろがりに押し込められ奔流する夥しい静寂が少女の身体になだれ込んでいく。
自分の心臓がたてる音をマエリベリーは見失った。
「そもそも打っていたものかしら」
この時、マエリベリーの眼窩に入っていた闇と辺りの膨大な闇とが初めて一致した。魔術師メリーには見えている。座った姿勢のまま宙空へ少女は飛び出し、漆黒の水鏡に足先から飲み込まれるとその場から消えて別の地面へ降り立った。そこは荒野の果てをきわめた所にある断崖であり、荒野と違って取り立てて静かではなくなっていた。相変わらずひとつとして音は存在しえず、代わりに数億の砕ける波に照る光芒がマエリベリーの聴覚を苛んだのだ。
切り立った崖の外に広がるのは海。空から降り注ぐ綾織さながら二重三重にくねりつつ歪んだ螺旋を描いて月華が注がれるのは、水面に皺が寄り泡立つ大洋。骨の白さを持つ
それでも荒野の端は全く暗黒のままである。影に身を沈めていなければ分からぬほど
「見えるかい。見えまいね」
マエリベリーの横へRが立っている。
「わかるわ」
海を行くひとつの小舟があった。そこからでは星よりも小さな一点としか見えぬ遠方に、それどころか漕ぎ手の不在にも関わらず沖へ向けてまっすぐ進んでいく船の上には羅針盤が置かれている事も
「あれは何」
「知ってるくせに。あれはこれからの秘封倶楽部。それを見る貴方は旧い貴方。追うことはできないよ。それがこの夢の理」
寂しそうにRが呟いた。
「まだ幼い貴方は知る由もないだろうけれど、己の代わった瞬間を人が理解するには後に過去を振り返るまで待たねばならない。それを直に味わえるのは何かしら恵まれた者だけだ。その恵みを私たちは用意した。と言っても君はマエリベリー・ハーンの思い出とか記憶とか呼ばれがちなもので彼女その人ではないから、少しばかりインチキだろうね。これは幻想を追い続けている少女へのギフト。暗黒の中で我々を探し求めてくれる貴方へ誰かからの奥ゆかしい愛だと思ってくれないか。直接手渡すわけにいかない立場さえなければ、もっと分かりやすい物を贈ることができることを言い添えてもかまわないと私は思う」
「マエリベリー本人に一夜の夢を与えればよかった」
「それでは忘れさせる羽目になる。貴方に見せなければ駄目なんだ。各々の周期で人の心へ浮かび上がったり消えたりする記憶未満たちの中から選ばれた貴方に。地平を離れた月球は必ず地平線の下へ沈まなければならないけれど、その天体的感情は消えたりしないのだから」
「貴重な宝石を一夜だけ与えて忘却させる手口は魔術師を手足のごとく使役する王のもの。でも肝心な宝石の選び方はそれに使われる寵姫のもの」
「気に入ってもらえなかったかな」
「いいえ。貴方と貴方の王にお礼を。私のようなものに――月に時を与えてくれたもの」
「マエリベリーの中にある最も人形にしやすいイメージが貴方であっただけだよ」
「じゃあ私にも感謝しないとね。でも間違いがひとつある。追うことはできないなどと誰が決めて?」
そうして己の両瞼を笑いながらマエリベリーがひと撫ですると空っぽだった場所へ再び瞳が現れ、海を目がけて少女は駆けだしていく。光のないために石炭か影絵のようになった細かい石が飛び散る中を転ばぬように両手を広げ、墜落さながらの速度で岩壁を蹴り下る。すでに重力は失われていた。飛び降りる最後の一歩は海面へ水平に跳び、マエリベリーは光へ滑りこんでいく。白くふわりとした帽子と金の髪、紫のワンピースのどれもが沖からの風にたなびいて身体にまとわり付き、成長途中で不安定になっている体の線を垣間見せた。
片足での着水に少しよろめいてからマエリベリーは続けて水面を走った。
水面下の蒼はやがて黒よりも黒い世界へと変わっていく。落ちていく少女は笑いながら手を伸ばし、一艘の船が見えていたあたりへ掌を
地上の荒野でRは海を見つめ続けており、今やその体の末端は筋繊維に沿ってほぐれて中空へ消滅しつつある。血を流さない皮膚がめくれて崩れ、その下の肉がほろほろと細分してほどけ散り、白い骨もすぐにそれらを追うようにして砕けていった。そしてさらにそのあと、何が損なわれたものか闇に舞う金色の粉塵がしばらく漂う。
皮膚の多くが失われてしまう頃には全身をまるで獣の体毛のように黄金色がふわふわと這い回り、それどころか背後へ身の丈よりも高く肩幅の倍はあろうかという雲塊じみた物をゆらりゆらり、八又に分かたれた尾のようにして蠢かせていた(風もないのに?)。
「かなわん娘だ」
呟いたRの眼の奥で金色の毛皮がわずかに翻ると彼女は消え、海から微風が吹いた。満足の溜息のような一颯の風は、荒野を眠りの瞼が閉じる速さで去っていく……。
信州のサナトリウムを後にしたメリーは神々の世界の映像を垣間見ることが可能となり、それを蓮子と共有できるようになっていた。メリーの手を当てられた
何度目になってもそれは、おおよそ初めてのことに思われた。
(了)
全体的にはまだ文章に推敲の余地があるように思えました
どこを切り取っても読み込める強度があると思いました。
励みにさせていただきます。