春先に描いた絵のことを思い出している。
それは目を閉じて眠るメリーの顔を手帳の頁に写したもので、黄と赤と青と黒の色鉛筆を用いた簡単な作品であった。
私は仰向けに寝る友達の表情を真上から捉えて輪郭を黒く引いた。金の髪を黄色で塗り流して、赤いリボンを結び、青い服を着せた。子供の描くような拘り無い線と色の中に、横たわる女の子が穏やかそうに見えた。私はこれを見て自分ながら上出来に描けたと思った。この絵を描いたのは私が初めてメリーの下宿に泊まりこんだ一夜の翌明け方であった。
その頃のメリーは、どこか見たことも無い不思議な土地のことを夢に見るのだとか、夢の中で手にしていた物を目覚めたときの枕元に出現させてしまうことがあるのだとか、最近自分が見る夢についての面白げな体験をよく私に聞かせて、当人は呑気に首をひねっていた。私の耳にメリーの言葉は真実らしく聞こえた。話をする私たちの手元には、そうした夢の中から持ち出してきたというクッキーの包みや、土のついた天然の筍の実物さえあった。
私はこの現象を、夜眠っているメリーが自身でも気付かぬうちに境界を越えて何処か別の場所を彷徨っているのだろうと推理した。そうして、こんな危険を夢だと思っていこんでいられるメリーはやっぱり呑気に違いないと思った。
私はメリーに提案して、眠るメリーが境界を越えていることがないか一晩見張りにつきたいと押し込んだ。実を言うともし目の前でメリーが境界を越えそうになったら、そのときは自分も一緒に乗り込んで行こうというつもりであった。
メリーははじめ随分嫌がっていた。「顔を見られながらじゃあ、何時まで経っても眠れないわ」と言っていた。しかし私のよくからかっているメリーは「眠ろう」と決心さえすれば電車内にいて鼻をつままれても目を開けない女の子なので、その説は覆されるに違いなかった。「私の部屋で私に見られながら寝るか、メリーの部屋で私に見られながら寝るか」と尋ねると、メリーはしばらく考えてから「自分の部屋で寝たい」と答えた。このしばらくの間にメリーが何を考えたのかは、訊いた私には当然分らなかった。ただカメラを設置して映像も記録したいという希望だけはどうしても承知されなかった。
その日の夕食は、一泊費を兼ねて美味しいお好み焼き屋を私から御馳走してメリーの機嫌を良くした。酔って眠くなってくれればいいと思い、メリーにはお酒も大分飲ませてあげた。「これで帰ったら眠れる?」と訊いてみると、メリーは「まあ、まかせておきなさいよ、蓮子」と言って愉快そうにこくこくと頷いた。妙に頼もしそうに見えた。少し可笑しかった。
それからいよいよメリーの部屋に上がり込み、衛星放送を見ながら二人お喋りをして深夜過ぎまで時間を過ごした。
就寝時間になり、喋り足りない様子のメリーをお風呂に浸からせて、ベッドには春先の夜気の掛らないよう薄いシーツを備えた。境界へ通じる端緒になると思ったので、例のクッキーと筍もついでに枕元に並べてみた。なんだかばかばかしくなった。
お風呂上がりのメリーを強引にベッドに潜らせて「さあおやすみ」と言い部屋を暗くしてしまうと、しばらく沈黙の中に二人の目と目が睨みあった。これで二人共また可笑しくなってしまった。
このままくすくす笑っていてはばかばかしいまま夜が明けてしまうようなので、メリーの寝る傍らで私は端末を起動して講座の課題に取り組むことにした。メリーは暗がりの下から「クッキーの匂いがする」「筍が邪魔」とか「蓮子が居る」とか文句を言った。しかし、私が端末から顔をあげて「寝なさいったら」と注意した時には、ベッドの女の子はもう筍を抱いて寝息をたてていた。メリーの言っていた「まかせておきなさい」を思い出した私は少々恐れ入ってしまった。
一人目覚めて友達をうち守る夜は、長く奇妙な夢のように感じられた。
周囲は涼しく静かだった。京都にこの部屋だけが一つ残され秘封倶楽部の二人だけ生きているような気がした。私は暗い部屋でメリーの息を聴いた。課題を一つ済ませた。冷蔵庫の珈琲を勝手に飲んだ。また別の課題に少し目を通してやっぱりやめた。他人の家の中をうろうろと歩き回った。本を百頁読んだ。ときどきカーテンを薄く開けて星と時間を確かめた。メリーは夜中一度も目を覚まさなかった。
明け方にふと思いついて、手帳の頁にメリーの絵を描いてみた。机のペン立てから色鉛筆を見つけ出し、仰向けに寝る友達の表情を真上から覗き込んで写した。普段は絵などは描かない手でも、見慣れた顔と改めて向き合いながら可愛く描く努力をすると楽しかった。描き易しくてありがたいと思ったのは、目覚めていればぴかぴか光って気味悪い境界を見つける不思議の目が閉じていることだった。一夜の疲労を億劫に抱えて鈍く曇っていた頭の中にしばらく熱が戻った。子供の描くような拘り無い線と色の中に、横たわる女の子が穏やかそうに見えた。描き終えて時計を見ると時刻は午前五時になっていた。丁度そのときメリーも早起きに目を覚ました。
私は「おはようメリー」と声をかけ、昨夜の夢を覚えていないか尋ねた。メリーは眠い目をこすり「ええ」と答えた。「蓮子と一緒に遊ぶ夢だったわ。寂びれた感じの遊園地にいて、変なお菓子を食べたの。それから回転木馬に乗ったの」
私は眠るメリーの様子に妙な点は見当たらなかったことを説明した。そうして手帳の絵を切り取って見せた。メリーは「お疲れ様」と笑って肩をすくめた。境界を調査するにはまた別の方法を考えようと話し合ってすっかり力が抜けた。そうして秘封倶楽部の一夜は明けてしまった。
メリーは疲れた私にベッドを譲り「蓮子も少し眠る方がいいわよ」と言ってくれた。私はメリーに感謝して目を閉じながら、「メリーあなた遊園地に行ったことがある?」と尋ねたのだった。メリーは「いいえ無いわ」と答えてぬくい手を私の瞼の上に当てた。黒い視界の向こうから、今度はメリーの声が「蓮子は遊園地に行ったことあるの?」と尋ねてきた。私は確かに子どもの頃に遊園地に行ったことがあった。私は「東京にはまだ遊園地が残っているわ」と言って、そのまま昼前まで眠ってしまった。
そのときの私は上出来に描けた絵をメリーに見せてそのまま、思い出すこともなく寛大に譲ってしまった。これは今に考えると少々惜しかったという気がする。
私はこの絵のことを思い出すと、奇妙だった秘封倶楽部の一夜のことを考えて、また笑いたくなる。夢の中で秘封倶楽部を乗せたという回転木馬の姿を、想像に揺り動かしてみる。眠る友達の顔を一夜見つめて絵を描いた自分と、夢に友達を招いて回転木馬に乗ったメリーとを引き比べてみて、無意識の予感のようなものを感じる。
メリーは今でもこの絵を机にしまって大切に持っているという。
それは目を閉じて眠るメリーの顔を手帳の頁に写したもので、黄と赤と青と黒の色鉛筆を用いた簡単な作品であった。
私は仰向けに寝る友達の表情を真上から捉えて輪郭を黒く引いた。金の髪を黄色で塗り流して、赤いリボンを結び、青い服を着せた。子供の描くような拘り無い線と色の中に、横たわる女の子が穏やかそうに見えた。私はこれを見て自分ながら上出来に描けたと思った。この絵を描いたのは私が初めてメリーの下宿に泊まりこんだ一夜の翌明け方であった。
その頃のメリーは、どこか見たことも無い不思議な土地のことを夢に見るのだとか、夢の中で手にしていた物を目覚めたときの枕元に出現させてしまうことがあるのだとか、最近自分が見る夢についての面白げな体験をよく私に聞かせて、当人は呑気に首をひねっていた。私の耳にメリーの言葉は真実らしく聞こえた。話をする私たちの手元には、そうした夢の中から持ち出してきたというクッキーの包みや、土のついた天然の筍の実物さえあった。
私はこの現象を、夜眠っているメリーが自身でも気付かぬうちに境界を越えて何処か別の場所を彷徨っているのだろうと推理した。そうして、こんな危険を夢だと思っていこんでいられるメリーはやっぱり呑気に違いないと思った。
私はメリーに提案して、眠るメリーが境界を越えていることがないか一晩見張りにつきたいと押し込んだ。実を言うともし目の前でメリーが境界を越えそうになったら、そのときは自分も一緒に乗り込んで行こうというつもりであった。
メリーははじめ随分嫌がっていた。「顔を見られながらじゃあ、何時まで経っても眠れないわ」と言っていた。しかし私のよくからかっているメリーは「眠ろう」と決心さえすれば電車内にいて鼻をつままれても目を開けない女の子なので、その説は覆されるに違いなかった。「私の部屋で私に見られながら寝るか、メリーの部屋で私に見られながら寝るか」と尋ねると、メリーはしばらく考えてから「自分の部屋で寝たい」と答えた。このしばらくの間にメリーが何を考えたのかは、訊いた私には当然分らなかった。ただカメラを設置して映像も記録したいという希望だけはどうしても承知されなかった。
その日の夕食は、一泊費を兼ねて美味しいお好み焼き屋を私から御馳走してメリーの機嫌を良くした。酔って眠くなってくれればいいと思い、メリーにはお酒も大分飲ませてあげた。「これで帰ったら眠れる?」と訊いてみると、メリーは「まあ、まかせておきなさいよ、蓮子」と言って愉快そうにこくこくと頷いた。妙に頼もしそうに見えた。少し可笑しかった。
それからいよいよメリーの部屋に上がり込み、衛星放送を見ながら二人お喋りをして深夜過ぎまで時間を過ごした。
就寝時間になり、喋り足りない様子のメリーをお風呂に浸からせて、ベッドには春先の夜気の掛らないよう薄いシーツを備えた。境界へ通じる端緒になると思ったので、例のクッキーと筍もついでに枕元に並べてみた。なんだかばかばかしくなった。
お風呂上がりのメリーを強引にベッドに潜らせて「さあおやすみ」と言い部屋を暗くしてしまうと、しばらく沈黙の中に二人の目と目が睨みあった。これで二人共また可笑しくなってしまった。
このままくすくす笑っていてはばかばかしいまま夜が明けてしまうようなので、メリーの寝る傍らで私は端末を起動して講座の課題に取り組むことにした。メリーは暗がりの下から「クッキーの匂いがする」「筍が邪魔」とか「蓮子が居る」とか文句を言った。しかし、私が端末から顔をあげて「寝なさいったら」と注意した時には、ベッドの女の子はもう筍を抱いて寝息をたてていた。メリーの言っていた「まかせておきなさい」を思い出した私は少々恐れ入ってしまった。
一人目覚めて友達をうち守る夜は、長く奇妙な夢のように感じられた。
周囲は涼しく静かだった。京都にこの部屋だけが一つ残され秘封倶楽部の二人だけ生きているような気がした。私は暗い部屋でメリーの息を聴いた。課題を一つ済ませた。冷蔵庫の珈琲を勝手に飲んだ。また別の課題に少し目を通してやっぱりやめた。他人の家の中をうろうろと歩き回った。本を百頁読んだ。ときどきカーテンを薄く開けて星と時間を確かめた。メリーは夜中一度も目を覚まさなかった。
明け方にふと思いついて、手帳の頁にメリーの絵を描いてみた。机のペン立てから色鉛筆を見つけ出し、仰向けに寝る友達の表情を真上から覗き込んで写した。普段は絵などは描かない手でも、見慣れた顔と改めて向き合いながら可愛く描く努力をすると楽しかった。描き易しくてありがたいと思ったのは、目覚めていればぴかぴか光って気味悪い境界を見つける不思議の目が閉じていることだった。一夜の疲労を億劫に抱えて鈍く曇っていた頭の中にしばらく熱が戻った。子供の描くような拘り無い線と色の中に、横たわる女の子が穏やかそうに見えた。描き終えて時計を見ると時刻は午前五時になっていた。丁度そのときメリーも早起きに目を覚ました。
私は「おはようメリー」と声をかけ、昨夜の夢を覚えていないか尋ねた。メリーは眠い目をこすり「ええ」と答えた。「蓮子と一緒に遊ぶ夢だったわ。寂びれた感じの遊園地にいて、変なお菓子を食べたの。それから回転木馬に乗ったの」
私は眠るメリーの様子に妙な点は見当たらなかったことを説明した。そうして手帳の絵を切り取って見せた。メリーは「お疲れ様」と笑って肩をすくめた。境界を調査するにはまた別の方法を考えようと話し合ってすっかり力が抜けた。そうして秘封倶楽部の一夜は明けてしまった。
メリーは疲れた私にベッドを譲り「蓮子も少し眠る方がいいわよ」と言ってくれた。私はメリーに感謝して目を閉じながら、「メリーあなた遊園地に行ったことがある?」と尋ねたのだった。メリーは「いいえ無いわ」と答えてぬくい手を私の瞼の上に当てた。黒い視界の向こうから、今度はメリーの声が「蓮子は遊園地に行ったことあるの?」と尋ねてきた。私は確かに子どもの頃に遊園地に行ったことがあった。私は「東京にはまだ遊園地が残っているわ」と言って、そのまま昼前まで眠ってしまった。
そのときの私は上出来に描けた絵をメリーに見せてそのまま、思い出すこともなく寛大に譲ってしまった。これは今に考えると少々惜しかったという気がする。
私はこの絵のことを思い出すと、奇妙だった秘封倶楽部の一夜のことを考えて、また笑いたくなる。夢の中で秘封倶楽部を乗せたという回転木馬の姿を、想像に揺り動かしてみる。眠る友達の顔を一夜見つめて絵を描いた自分と、夢に友達を招いて回転木馬に乗ったメリーとを引き比べてみて、無意識の予感のようなものを感じる。
メリーは今でもこの絵を机にしまって大切に持っているという。
私はお好み焼きは格子型に切ります。
最高の秘封倶楽部だった。
短いお話の中に秘封倶楽部のエッセンスがぎゅっと詰まっていると思いました
うぶわらいさんの秘封倶楽部は本当に素敵だ
なんだか、卯酉東海道編に続きそうな雰囲気ですね>東京にはまだ遊園地が~
パジャマも、お菓子も、恋バナもないのが、この二人らしい。