『アンドレセンの手記 2冊目』……? これは私書か……。
中世の私書をどこから手に入れてきたのかとか、その内容に信頼性はあるのかとか、そういうのは最早気にしてはいけない。
さて、私書のコーナーは、パチュリー様のデスクから向かって右奥。私が思い出したくもないほど努力したお陰で、著者名のアルファベット順に整頓されている。よって探し出すのにかかる時間はほんの僅か。
これも日頃の整理整頓と、日々の本探しの積み重ねと、最近続く平穏とのお陰です。
畑荒らしならぬ図書館荒らしが頻出していたあの頃を思い出して、また少し気分が重くなった。
最近は魔理沙さんが大人しいので本当に助かっている。
紅霧異変のあとしばらくは大変だったなあ……。
「はい、頼まれた分、これでいいですかね」
図書館に響く、久方ぶりの声。
本をデスクの上に落とすと、薄らと積もっていた埃が舞い上がった。気だるげに魔導書を読んでいた魔女様の姿が少し煙り、暗い色の瞳がちらりとこちらを見た。
「ありがとう」
相変わらずのそっけない態度に、思わず苦笑する。まあ、魔女というのはそういうものなのかもしれないけれど。
「戻していい本ありますか?」
「そっちに置いてあるやつ全部。よろしく」
4冊か。うち3冊は私書、1冊はオーソドックスな火元素系の魔導書だ。
パチュリー様は最近、あまり実用的なものを読みたがらない。屋内に籠っての研究よりも、他の魔法使いとの実戦の方が刺激になるからだろうか。
彼女とか。ちらりと背後を見る。
「パチュリー様」
唐突にノックの音が響いた。ああ、もうこんな時間か。
「どうぞ」
パチュリー様、その声量だと扉の向こうまで聞こえないですって。
「失礼します」
それでも了承の意を感じ取れるのは彼女の才能だろうか。咲夜さんはいつもの澄ました顔で大図書館へ入ってきた。
「お茶とお菓子をお持ちしました」
細やかな装飾のあるワゴンの上には、ティーセットが綺麗に並んでいる。ドルチェはライムパイかな。
……あれ?
「なんで3人分あるんですか」
「貴方の分と、あとお客様の分ね」
違います。私が訊きたいのはそこじゃないです。毎度私にまでお茶を用意してくれる優しさも、今客人が私の背後で読書をしていることも知ってますよ。そうじゃなくて。
「なんで魔理沙さんがいること分かるんですか」
あの人裏ルートとか無数に知ってるような人物ですよ。不法侵入のプロですよ?
「私を誰だと思っているの?」
「……咲夜さんでしたね」
ベテランのメイドはもはや瀟洒で表せるスペックを凌駕しているのではないだろうか。
本棚の上で悠々と読書をしていた魔理沙さんを呼ぶと、即席のお茶会のような雰囲気になった。
仰々しい木製デスクを一旦整頓し、パチュリー様の向かいに私と魔理沙さんが座る。……なんか面接みたいじゃないですか、これ?
それよりも私は咲夜さんを差し置いて呑気にお菓子を食べられるほど肝が据わっていないんですが。
「私はもうお嬢様と食べてきたので、気にしなくていいわ」
この方は視線だけで心を察してくれるようです。なんて理想的な女性なんでしょうか。
では気にせず。
「ほう、やっぱり美味いな」
魔理沙さんたちはとっくに食べていた。その図太さは一級品ですよお客様。
「魔理沙、食べ方汚いわよ」
「失敬な。ってお前食べるの遅いな」
フォークの入れ方が雑すぎて、魔理沙さんのパイはライムの果肉が中からはみ出てきている。ケーキの時は途中で横倒しになってたなあ。
ちなみにパチュリー様はフォークの半分ぐらいの量をちまちまと口に運んでいる。やっぱり体内時計のスピードが遅いんだろうか。
いい加減2人の食べ方の癖は私でも把握してるぐらいだけれども。
「前もそのやり取りしてましたよね」
もうちょっと新しい話題のネタを考えましょう?
「そうね。まあ魔理沙に改善の兆しが全く見られないから」
「残念ながら私は忙しくてね。物を食べるにも呑気にやってはいられないんだぜ」
「さっきまで呑気に読書してたじゃない。本棚の上で」
舌戦にアクセルが掛かった。うわあ、余計な茶々を入れてしまったかもしれない。いやまあ、『喧嘩するほど云々』の範疇だから微笑ましいと言えばそうなのだけど。
その空気に付き合わされる私の身にもなってください。
「研究は魔法使いにとって重要なライフワークだろう。だからそれも加味して多忙と言っているんだぜ。暇だから読書をしていたわけじゃあないのさ」
「貴方魔法よりも詭弁の才能の方があるんじゃない?」
「じゃあ弁論でパチュリーに負けることはないな」
「それはどういう意味かしら」
フォークの動きを止めて盛り上がっている2人をよそに、私はとっとと完食。お皿とフォーク、空になったティーカップをワゴンへ戻しに立った。
「ご馳走様でした。今日もおいしかったですよ」
「ありがとう。別に持ってきてくれなくてもよかったのだけど」
「……いやまあ、ちょっとあの世界から距離を置きたくてですね」
「ああ……」
咲夜さんもちょっと呆れていた。まあ、主人とその周辺がどんな雰囲気でも、彼女は傍に控えていないといけないわけだから、こういう状況にも慣れていたりはするのかな。
私は専ら静謐な図書館で本の背表紙とにらめっこしてるので。暇なときは館内をぶらぶらと。
「私たちがここにいてはお邪魔のようね」
「あーいや……」
それはそうでもなかったり。
「ああやって饒舌になるのも咲夜さんがいるからですよ」
ちょっと声を潜めて言う。あっちは会話に夢中になってるからたぶん気づかないと思うけど。
「私?」
「いや、人がいるとああやって喋るのも問題ないんですけど、人がいないと途端に無口になって」
「……何よその難儀な性質は」
難儀だって言うのにはまあ同感ですよ。
咲夜さんとかが来ると、心の支えを得たように元気に口を動かし始めるけど、人がいないと黙り込む。2人きりだとちょっと気まずいんだろうなあ。私も一応第三者だけど、いつも本の整理をしているせいで背景にカウントされてしまうようだ。
「それでも私がいなくなるとそわそわし始めるんですけどね」
「なんで貴方がいない時のことを貴方が知ってるのよ」
「覗き見意外に方法があるならぜひご教示願いたいですけど」
「貴方もいい趣味してるわね」
今度は私が呆れられた。
いや、それぐらいの野次馬根性はあって当然じゃないですか。だから仕方ないです。
「まあでも、邪魔したくないといえば邪魔したくないですけど」
「……じゃあ、私の仕事を手伝う?」
「え、何するんですか?」
「違うわよ」
咲夜さんがふふっと笑った。参謀の顔だ。
真面目で誠実だけど、たまにお茶目。その辺全部ひっくるめて、この人は瀟洒と呼ばれるんだろうなあと思う。
「口実をあげるって言ってるのよ」
分かりきってることだけど、本当この人には敵わない。
「そんなわけで夕食の仕込みをですね、手伝ってこようかと」
「それいつも咲夜1人でやってるじゃない」
「私の花嫁修業も兼ねて」
「貴方どこに嫁ぐのよ」
「将来の万が一に備えて」
「……まずここの仕事終わらせなさいよ」
「たかが4冊ですよ。パチュリー様いつもここに2,30冊は軽く平積みしてるじゃないですか」
「図書の整理は」
「この規模ですから、私が数時間抜けようと進度は全く変わらないでしょうね」
とことん捲し立て、私は図書館ワークのサボリを獲得した。ちなみに覗き見に飽きたらちゃんと手伝いに行く手筈になっている。私も料理できるようになりたいです。
「では! また夕食の席でお会いしましょう!」
バタン。
そして私は躊躇なく図書館を後にする。そして1階への階段までフェイクの足音を立てる。
そこから今度は忍び足で私の私室まで戻る。工作はたぶん完璧です。
廊下にも図書館にも繋がっているという抜群のポジションである私の部屋。最低限まで扉の開閉音やカギの音を消して中に入ると、私は図書館側のドアにぴったりと身を寄せた。
ドアの隙間からこっそり覗くと、2人はまだ定位置に居座っていた。
パチュリー様のデスクと、左手前方2つ目の本棚の上。直線距離はたぶん10メートルくらい。これ、監視してても何もないまま終わったりとかしませんよね。ドアに張り付いたまま待機って結構きついんですけども
動きがあったのは20分弱が経過した頃だった。
相変わらずパチュリー様は本を読みながら扉の方とか魔理沙さんをちらちらと見ていた。魔理沙さんは難しそうな顔でずっと本に目を落としているけど、ページをなかなか捲らない。
私が腰を気にしつつ動向を見守っていると、魔理沙さんが口を開いた。
「なあ、パチュリー」
「……何よ」
やっぱり、2人っきりだと無口だなあ。間に流れる空白が寂しい。……と思ってるのは第三者である私だけなのだろうか。
2人にとっては案外居心地のいい静寂なのかもしれない。
「今度どっか行かないか?」
「またそれ?」
「もう秋だし、夏よりは快適だろ」
デートのお誘いですかね。やっぱ魔理沙さんは割と積極的なんですね。
ただパチュリー様は内側ロックの鳥籠の中だから、あんまり外には出たがらないよねえ。
「だから、用もないのに外出してどうするっていうのよ」
ああパチュリー様、そこは素っ気なくしてちゃだめですよお!
「……まあ、どうすることもないけどなー」
「なによそれ」
「なんとなくだぜ。……なんとなく、パチュリーと出掛けたくなったんだ」
魔理沙さんが本を置いて寝転んだ。……あそこたぶん埃だらけだけど、気にしないのかな。
「……」
「……」
「……どこ、行くの?」
「……どっかだぜ」
「なんにも考えてないの?」
金色の爽やかな笑顔。紫色の冷めた呆れ顔。
なんて言うか、魔理沙さんは、どっかの巫女みたいに感覚で走ることはないけど、こういうとこ、ちょっと子供っぽいなあと思う。事実まだ若いし。
「パチュリーが行きたいところ、って言ったら引くか?」
「引いたうえで図書館と答える」
「ははは、だよなあ」
からからと笑う。
……楽しそうだなあ。やっぱり私は背景に溶け込んでいようと邪魔者に変わりはないのかもしれない。2人きりの時にこうして話せるなら。
じゃあこれからは図書館じゃないどこかで逢瀬して存分に語り合っていただきたいなあ。気を遣いながら仕事するのってやっぱり疲れるじゃないですか。
「……何も考えてないなら」
「ん?」
「お菓子作りでもしましょう」
パチュリー様もいつの間にか本を置いていた。本棚の上に寝転がっている魔理沙さんを見上げている。
「珍しく乙女なことを言うなあ」
「喧嘩売ってるの? ……まあ柄じゃないのは分かってるわよ」
パチュリー様がお菓子作りかあ。確かにあんまり見たこと……あれ、パチュリー様って料理とかお菓子作りとかできたっけ。
「でも、少しくらい乙女心があってもいいじゃない」
あ、俯いた。恥ずかしかったんでしょうね。
「そだな。じゃ、そうしようぜ」
魔理沙さんが起き上がって笑顔を見せた。パチュリー様も、いつも通りの無表情っぽいけど、口元が緩んでいる。嬉しそうな表情を見て、私もちょっと幸せな気分になった。
さて、私も花嫁修業のようなものに出陣しましょう!
ガタン。
あ。
一瞬で肝が冷えた。ほんわかした気分になって気が抜けていた。
警戒を怠った私の腕は棚にストライクし、さらに並んでいた小物を幾つか床に落とした。
「あら? 今……」
そしてそんな物音を聴き逃すほど、我が主人の耳は衰えておらず。
――ど、どうしよう! 覗き見がバレる!
選択肢は2つ! 逃げるか、観念して白状するか!
今何事も起こさないためには前者を選ぶべきだけど、逃げ切っても後々詰め寄られるのは間違いない。後者を選べば確実に今なんらかの制裁を浴びる。それは避けたい……。
となれば無難な言い訳を……。……そうだ!
この間約1秒、私は今日冴えているかもしれない。
「小悪魔、いるの?」
「あ、パチュリー様? 私のゴム手袋知りませんか?」
言い訳では足りないのです。臨場感のある演技が無くては。
「確かこの辺りにあった気がするんですけどお……」
とか適当なことを言いながら引き出しを開けては漁り、その辺の物をひっくり返していく。
「いや、私が貴方の部屋のどこに何があるかなんて知ってるわけないじゃない」
少なくともゴム手袋はどこを探そうと出てきませんが。
「ですよね……。んーどうしよう。やっぱり貸してもらうしかないですかねえ」
「ゴム手袋くらい咲夜なら持ってるでしょ」
「んー、なんとなく申し訳ない気も」
「何に使うのよ、そんなの」
え。あ、そこまでは考えてなかったなあ。あはは。なんか料理に使いそうで、箱ティッシュ感覚で部屋とかにもありそうなものだったから……。いや、部屋には置かないか普通。
あ、そだ。
「寝てる門番さんを起こすのに」
こう、と平手打ちのジェスチャーをしてみる。
「素手でやりなさいよ……」
「でも、音とか全然違いますよ?」
「何そのこだわり」
よし、呆れられたけど疑われはしなかった!
この危機は切り抜けたということにしよう。
「仕方ないですね……、素手でいきましょう。ではパチュリー様。今度こそ夕食の席で!」
さて、まずは咄嗟の嘘を真実にするために、美鈴さんを叩き起こしに行きましょうか!
*
余談ですが、翌日パチュリー様が、予行演習とか言って咲夜さんにお菓子作りを教わってました。
一応見栄張りたかったんですかね……。
あと、美鈴さんはほっぺたを両手で挟んだ時点で起きてくれました。そして上手いこと話を合わせてくれました。
この二人にちょっかいかける、小悪魔を始めとする紅魔館組の取り合わせが一番幸せな気分になれる。
二人とも普通に乙女なのが素敵ですね