集まってきたから供養してきて。雨が降るけど、気をつけていってらっしゃい。
そんな風に手渡されたのが無数の傘達で、両腕から余り落ちそうになるほどの数を抱えて送り出される。外は凝り太った雲が覆いかかり薄暗く、なびく風もほのかに湿り気をはらみ、降雨の到来をまもなく知らせようとしていた。
夢幻世界に、雨が降る。
玄関をくぐると霧粒のような水滴を感じられ、白く霞んだ視界の中に屋敷を見送る頃には小雨のただ中へと抱かれた。
徐々に冷えて重くなっていく髪を首の動きだけで払う。前髪からしたたり落ちる雨粒の向こう、日没と宵が掛け合わされとろけているであろう堺目は、雨雲に遮られその様子は明らかでない。
そのようにしてむっすりと押し黙った空模様の下、ぬかるみを帯びてきた土を踏み絞って進む。腕に抱えた様々な原料で作られた傘の皮膚や骨がさわさわかちゃかたと騒ぎたて、雨音に紛れて少し楽しげに聞こえた。
これから、どこへゆくのかも知らずに。
沢山の傘がこんなにも集まるのは全部、幻月――姉さんのせいで。
雨に濡れることなんて露ほども気にしないくせ、そんな天候にさらされる都度、新しい傘が握られて帰ってくる。けれども彼女が傘を持って出かけた例は、それこそないのだった。
つまるところ、ただの拾い物好きなんだろう。
積み上がる拾い物好きの始末、最期を見届けるのが私の役目になっていたのは、いつからだったのか。
使わなくなった物を悼むこと。確かにそれは彼女の感性とはとびきり対極に位置する言葉だと、唯々諾々と請け負いながらも納得してしまえるのだ。きっと、視界に入り続けてくるものしか愛せないひとなのだろうから。
「困った困った」
困ったちゃん、と。独りでに呟くと、物言わぬ傘たちもその身に溜め込んだ不満で同意するように、かららっと一瞬だけ騒々しくなる。あとで、きちんと叱っておくわ。
起伏の少ない平坦な野道には背の低い雑草と大小の岩から砂利までがまばらに点在していて、おそらく目印になるであろうものは無い。雨霧に遠見を阻まれ、行くも帰りも判然としない空間が降雨の囁きだけを満たしつつも伽藍のように横たわっている。私も、この物言わぬ骸になろうとしている雨具達も、どこかへ向かっている。
いつかこの傘に替わり、風雨に流されて徐々に意味を失っていく日が、私にも来るだろうか。
おそらく、回避は叶わないだろう。いや、それも、望んでいるのかも怪しい。
例え今がその時ではないとするならば、この瞬間、この身に内包する意味とは、いったいなんなんだろう。
「……晴れるのかどうか。それだけは気になるわ」
考えて導き出したのは、ごく単純なこと。
雨が上がればいつも通りの月が我が物顔で浮揚している。それを確認することが、どうにも一本の綱になっている気はしていた。当たり前のことが当たり前に存在しているように。
――ふと。意味を失って居なくなった時に起こる私の当たり前は、やはり同様に、誰かにとって存在していた時の当たり前と入れ替わって、いつしか受け入れられるのだろうか、と。
それが少しばかり気がかった。
時間の経過が曖昧になると感覚が飽和してくるのも当たり前で。雨音を聞くだけじゃ物足りなくなって負けじと鼻歌を披露し始める頃。
゛そこ゛は忽然と、眼前に姿を現した。
人工の手も見受けられないような荒原に、平坦なセメントを台に複数のブロック塊で積み上げられたコ字を形成する、おそらく何かの置き場とされる設備――とも言えないような殺風景な構造物が、ぽつねんと存在していた。雨ざらしにされて水を吸った無機質な囲いは、普段よりも色濃くだんまりを貫いている。
この世界にはなんとも不似合いな物体だが、こういった天候の日には゛呼ばれて゛しまうんではないだろうか。末路を見届けられる物と、時が来るまでそれを抱いて見守る物が。
送別、というのは、物を遺棄するには少し大仰で、しかし出来過ぎた秘めやかなヴェールが、あり得なくもないと、それらの雰囲気を助長している。雨の日に捨てられる傘達のことを、だから私は惜しみなく悼んだ。いずれ、と脳裏に過ってしまった光景に重ねてしまったのかもしれない。そんな感傷も覆い隠してくれる程度には、しとやかに冷気は懐を広げて漂ってもいる。
束ねた傘達を抱えたまま寄ると、落ちて弾ける水の音が強くなる。土を打つ、から成形された石を打つ、人の作り上げた都会の音が聞こえた。何を持ってしてここに来たか呼ばれたか、推して知るべくもないが、今だけはその役目に足ることを任せられる。剥き出しの灰色に沈んだ囲いの内側へ無数の傘達を積み上げる。一本一本、どれも模様や長さが違い、多少くたびれてはいたものの、まだまだ使えそうなものばかりだった。無常、と思い浮かべながらも一度離した腕は伸ばさない。見下ろしながら私には、彼らを引き止める理由がない。理由がなければ、動けない。
目を遣ることを止め、曇天の檻を仰ぐ。すぅ、と浅く背を反らして飽和しつつある雨の匂いを嗅いだ。懐かしいような感慨が肋骨の内側から膨むと、手の届かない場所を痒くさせていく。
もどかしく、もどかしく。うずり、と逸りだした心は、静かに焦っていた。
「……帰ろう」
帰る。家がある。誰かが私を待つ場所へ。その意味がじんわりと胸に染みこんでいく頃には、無機物達への感傷は失せていた。
姉さんが、待っている。
偶然にも、まったくの埒外と、示し合わせたような想定外があるだろう。この場合は、きっと後者だ。
特に感覚を乱されなければ歩いてきた方向はまっすぐ後ろで、素直に踵を返して帰れば来た道と寸分も違わないはず。だけど私が存在に気づくことを待っていたように、音もなく薄い土砂に浸かって身を横たえていた。
煤けた茶色の下を見間違えなければ、それは白地に青の水玉模様の肌色をした一本の傘だ。
あまりにも運んでいた数が膨大だったためか、一本程度を取り落としてしまっても気がつかなかった。そういうことなのだろうと、頭を傾げつつもその傘に近づいて屈んだ。
おかしな事に、雨の中に傘を棄てに来て帰りの傘を失念していた。棄てる物が物だったからか、当たり前の常識が欠落していても無理はないように思えた。
土砂からすくい上げた傘は、汚濁を払うとまだ機能的には生きてることを窺わせ、芯をなす鈍色の鉄骨も湿り気を帯びた輝きを放っている。これからまた引き返して骨を埋めに行くのも徒労で、むしろ全うさせるべき役どころは今がこそなのだから、と。もう一度鋭く袈裟に振るって泥を落とし、ばっと勢いよく展開させた束の間の仮屋根に、身を任せることにした。
音が、変わった。合成繊維で編まれた打楽器が一身に雨を受けて上げる歓声が、快く耳に飛び込んでくる。なんとも頼もしい気持ちになって、さっきよりも気持ち大きめに鼻歌を始める。池にも飛び込まず、ずっと雨の音を聴いている雨蛙の歌。小さなステージは歌う声を純然に保ってくれた。
姉さんの前では見せられないなあ、と泥水を蹴って苦笑気味に思う。こんな雨の中で泥まみれに転げられたら、その翼を洗う羽目になるのは、私なのだから。
内緒にね。と、共犯を求めるように秘め事を持ちかけるが、浮かれた音を弾かせる傘は、まるでそんな機微は存ぜぬとばかりに無邪気にはしゃいでいる。そんな様子が既視と重なって、置いてきてしまったような曖昧な心地を、少しだけ羨む。姉さんは、大人しくしているだろうか。
――ほんとうに、私の帰りを待つひとなんていたのだろうか。
投げやりな考えは、未だ水を吸って重い髪を払うことだけで頭から追いやる。降り続けるしずくはあまりに無色で、掴みかけた意味を持つ心でさえながされかける。
しばらくして口ずさむ歌もなくなってきて、唐突に濡れそぼった服が肩に重みを乗せると、寄る辺のない体の薄ら寒さがいっそう増したように思えて、傘を目深に世界を閉じていた。
だから、予感がした訳でも、確証を得ていた訳でもない。ましてや、遠く離れても通じ合える特別な念を送受できるのでもなかった。
つん、と眉間の下辺りを貫かれるような錯覚がしてそれをきっかけに面をあげる。白霧に遮断された層の向こうが、気になった。保たれていた歩幅は衰え、息をひそめるように、唇を真一文字に引く。
ややもせずして見覚えのあるシルエットが、茫漠と、けれども確かな実体を持って、霧のさなかから形成されてやってくる。――違う、霧から産まれたのではない。
霞められて紛れていただけで、本来は゛真月゛をそっくりそのまま内包するような、あらゆる゛魔付き゛の頂点を攫う、この身の片割れ。
向こうもこちら認めたのか、もう分かるほど明瞭になった容貌から朗らかな笑みで手を小さく振られた。
あ、と。声が出てしまってたかは定かでない。けれど、再開させた歩みが早足にならないように、少しもどかしい思いをしたのは確かだった。
「や。降ってるねえ」
寄ってみれば何の事はない、ゆるい口調にいつもの出で立ち。姉の幻月が姿だった。その頭頂で揺れているリボンが鮮やかな色調でうつろな世界を華やかせ、代わりに湿気を吸い萎れるように縮こまった一対の白翼が、なんとも彼女をいつも以上に小さく見せている。ドレスワンピースは裾を重たげに濡れそぼらせ――そういった所々に雨の影響を受けて形成された、彼女らしくない現実感に少しの同情と、ズレのようなものを覚えた。
声に出なくても、こちらが訝しんでいるのは判っているのか、しばらく目をみつめあわせていた後に、「ああ」 と、゛読めた゛とも言いたげに納得の声を出す。
「夢月、自分の傘を残していないんだろうなぁって。帰り道があるのに」
桃色の傘が誇らしげにくるくると。雨の中に遠出して、好物のものが売り切れてなかったような安堵をほころばせていた。
持ち出さないような傘まで持参して、自分の予想が当たったことが嬉しくてしょうがない顔をしているんだ。そんな彼女がおかしくて、「……変なの」と呟く。けれど、柔らかさもすぐに引っ込められ、芝居がかった動きで背中を向けると傘と肩の隙間から拗ねたような視線を、「でも」 と寄越してくる。
「頼りになる相棒を見つけたみたいだね?」
なんのことかと皆まで訊かず、ちらり、と休む間もなく雨に打たれ続ける白と水玉の傘を見上げた。
苦笑しながら展開していた骨を畳み、ご苦労様、と脇に携える。私を迎えに来た存在のもとへ寄るには、そのままでは少しだけかさ張ってしまう。近づいて見下ろす傘と背は開けられず、きっと心優しい姉をねぎらう呪文が必要だった。
「頼りになる姉はちょうど空きがあったから、助かったわ」
いつもここまで甲斐甲斐しかったかな、なんて揶揄も含んで聞き取れるだろうけど、この程度はくすぐりあいの範疇だ、と。少しぶりの冷たさに打たれながら、合格の声を待った。
目線よりも低い位置からじっと見つめられ、それ以上は動かずにいると、おもむろに傘の高さが上げられる。それに、入れ、ということなのだと了解して一歩を踏み出した。姉さんの肩先が崩れたのはほとんど同じで、そっちへ向かった私は退くも支えるのも間に合わずに抱きとめる形になって、どすん、という当て身を食らう。少しだけよろめきつつ泥水を押し固めて留まった。こてん、とついでのように胸へ預けられた頭から嗅ぎ慣れたぬるい体温がして、ここが雨の下なのだということを数瞬の間だけ忘れる。
漂白されてしまった思考など露ほども知らず、こちらを壁にして、押し返す反動で元の姿勢に戻った姉さんは、振り返りもせず迎えに来た道を戻っていく。束の間の触れ合い、とも言えないような接触だけを与えて。
一連の挙動を理解できないまま、白い両翼を携えた背中を目で追っていると、数歩を行った先でその歩みが止まった。
「ほら、あまり雨に濡れても良い事はないよ」
鷹揚な口ぶりにようやく頭が元の回転数を取り返し、その意訳を追いかけてこいということなのだと受け、停滞していた歩調を上げることにした。追いついた傘の下に身を屈めて入って、その折に触れ合った肩先が、隣り合わせた生暖かい命の存在を教えてくれる。
ほんとうに、変なひと。
いつだって先んじて前に進み、ぬくもりを備えては、追いかけてくるであろうたったひとりを待っている。
損得勘定で言えば、必ずしも利ばかりではなく、全体で見れば失うものの方が多いはずだったろう。
変わらない彼女。変なひと。
「姉さん」
「ん」
「もしも――もしも、私、が。雨に流されて、居なくなったら。姉さんはどうする」
口を突かれながらも、まずいな、らしくないと、とどこかで冷えた心地を味わう。けれども、今この形成された空間で訊いておかなければいけない気がした。
傍目に窺ったままにいると、ん~と考えこむ素振りをした後、その実、最初っから答えが決まっていたとでも言わんばかりに彼女は、するりと舌を滑らせてみせた。
「ずっと雨の音を聴いているよ。夢月を溶かした音を聴いて、そこに居る」
…………ああ、と。
私の中で何かが諦めを生む。それでいて懐かしさを愛おしいと思わせられる、自身を疑わない彼女の言葉。
――寒がりのくせに意地っ張り。
そんな強がった解答を実行させてしまう程、心の意味はまだ流されていない。
「寒がりのくせに?」と改めて口に出して茶化す。返すように、「寒がりだけど。わたしは姉だもの」と雨に紛れた言の音が確かに響き、――けれどまるで聞き損じたように記憶からは儚く滑り落ちて。それにどうしてか、とても胸を虚ろに、あらゆるものを奪われていく気持ちにさせられて、私はただ一つ得意の笑みを貼りつけ、「そうだね」と応じた。
拙く歪んだままの口元の孤影を、意味を剥奪する雨の向こうへと早く溶かしてしまいたいと願った。醜いであろう顔を影に沈め、見えもしない霧の向こうを望遠しようと力なく視界だけを巡らせる。横合いから白い手が伸びてきて、目端に映ったなと思った時には、滑らかでしっとりとした指を頬に当てられ、そっちへと向かせられた。
「……姉さん?」
笑いながらも、置いていかれて寂しいような、曖昧な顔。
金色の瞳を同じ彩度で濡れたように光らせている彼女は、這わせた指で淡く擦りながら、「泥んこ」 と言って、おそらく頬に付いていたであろう汚れを拭いとっていく。やんちゃを咎められた――気恥ずかしさのような温かさが頬を通じて、どこか薄れかけていた私の幼い部分を、じわりと加熱させる。
何事もなかったと言わんばかりに、「さ、帰りましょ」 と少し高めにこちらへ掲げられた傘を見、わずかに逡巡して、恐る恐る受け取った。しっかり掴んだことを確認する間もなく、一度離れた手が戻ってきて、傘の柄ごと包まれる。
思わずぱちくりと目を開いて窺った隣の表情は、してやったりと成し遂げたように満足気で、どこまでもまっすぐだから。何かを言おうとしたことなんて。不満のような゛もや゛なども忘れてしまった。
……意味を失うことをあざ笑うように。怖くなるほどに、たくさんを与えられているなら。きっと、今この雨の向こうに行く先は、どこにもありはしないのだろう、と。
夢幻世界を覆う鈍色の天蓋は未だ明ける気配も見せない。けれど今は、静々と呼吸しあうことを許されたような佇まいが少しでも続くことを。
重ねられた淡い感触へ、秘めやかに、願うのだった。
そんな風に手渡されたのが無数の傘達で、両腕から余り落ちそうになるほどの数を抱えて送り出される。外は凝り太った雲が覆いかかり薄暗く、なびく風もほのかに湿り気をはらみ、降雨の到来をまもなく知らせようとしていた。
夢幻世界に、雨が降る。
玄関をくぐると霧粒のような水滴を感じられ、白く霞んだ視界の中に屋敷を見送る頃には小雨のただ中へと抱かれた。
徐々に冷えて重くなっていく髪を首の動きだけで払う。前髪からしたたり落ちる雨粒の向こう、日没と宵が掛け合わされとろけているであろう堺目は、雨雲に遮られその様子は明らかでない。
そのようにしてむっすりと押し黙った空模様の下、ぬかるみを帯びてきた土を踏み絞って進む。腕に抱えた様々な原料で作られた傘の皮膚や骨がさわさわかちゃかたと騒ぎたて、雨音に紛れて少し楽しげに聞こえた。
これから、どこへゆくのかも知らずに。
沢山の傘がこんなにも集まるのは全部、幻月――姉さんのせいで。
雨に濡れることなんて露ほども気にしないくせ、そんな天候にさらされる都度、新しい傘が握られて帰ってくる。けれども彼女が傘を持って出かけた例は、それこそないのだった。
つまるところ、ただの拾い物好きなんだろう。
積み上がる拾い物好きの始末、最期を見届けるのが私の役目になっていたのは、いつからだったのか。
使わなくなった物を悼むこと。確かにそれは彼女の感性とはとびきり対極に位置する言葉だと、唯々諾々と請け負いながらも納得してしまえるのだ。きっと、視界に入り続けてくるものしか愛せないひとなのだろうから。
「困った困った」
困ったちゃん、と。独りでに呟くと、物言わぬ傘たちもその身に溜め込んだ不満で同意するように、かららっと一瞬だけ騒々しくなる。あとで、きちんと叱っておくわ。
起伏の少ない平坦な野道には背の低い雑草と大小の岩から砂利までがまばらに点在していて、おそらく目印になるであろうものは無い。雨霧に遠見を阻まれ、行くも帰りも判然としない空間が降雨の囁きだけを満たしつつも伽藍のように横たわっている。私も、この物言わぬ骸になろうとしている雨具達も、どこかへ向かっている。
いつかこの傘に替わり、風雨に流されて徐々に意味を失っていく日が、私にも来るだろうか。
おそらく、回避は叶わないだろう。いや、それも、望んでいるのかも怪しい。
例え今がその時ではないとするならば、この瞬間、この身に内包する意味とは、いったいなんなんだろう。
「……晴れるのかどうか。それだけは気になるわ」
考えて導き出したのは、ごく単純なこと。
雨が上がればいつも通りの月が我が物顔で浮揚している。それを確認することが、どうにも一本の綱になっている気はしていた。当たり前のことが当たり前に存在しているように。
――ふと。意味を失って居なくなった時に起こる私の当たり前は、やはり同様に、誰かにとって存在していた時の当たり前と入れ替わって、いつしか受け入れられるのだろうか、と。
それが少しばかり気がかった。
時間の経過が曖昧になると感覚が飽和してくるのも当たり前で。雨音を聞くだけじゃ物足りなくなって負けじと鼻歌を披露し始める頃。
゛そこ゛は忽然と、眼前に姿を現した。
人工の手も見受けられないような荒原に、平坦なセメントを台に複数のブロック塊で積み上げられたコ字を形成する、おそらく何かの置き場とされる設備――とも言えないような殺風景な構造物が、ぽつねんと存在していた。雨ざらしにされて水を吸った無機質な囲いは、普段よりも色濃くだんまりを貫いている。
この世界にはなんとも不似合いな物体だが、こういった天候の日には゛呼ばれて゛しまうんではないだろうか。末路を見届けられる物と、時が来るまでそれを抱いて見守る物が。
送別、というのは、物を遺棄するには少し大仰で、しかし出来過ぎた秘めやかなヴェールが、あり得なくもないと、それらの雰囲気を助長している。雨の日に捨てられる傘達のことを、だから私は惜しみなく悼んだ。いずれ、と脳裏に過ってしまった光景に重ねてしまったのかもしれない。そんな感傷も覆い隠してくれる程度には、しとやかに冷気は懐を広げて漂ってもいる。
束ねた傘達を抱えたまま寄ると、落ちて弾ける水の音が強くなる。土を打つ、から成形された石を打つ、人の作り上げた都会の音が聞こえた。何を持ってしてここに来たか呼ばれたか、推して知るべくもないが、今だけはその役目に足ることを任せられる。剥き出しの灰色に沈んだ囲いの内側へ無数の傘達を積み上げる。一本一本、どれも模様や長さが違い、多少くたびれてはいたものの、まだまだ使えそうなものばかりだった。無常、と思い浮かべながらも一度離した腕は伸ばさない。見下ろしながら私には、彼らを引き止める理由がない。理由がなければ、動けない。
目を遣ることを止め、曇天の檻を仰ぐ。すぅ、と浅く背を反らして飽和しつつある雨の匂いを嗅いだ。懐かしいような感慨が肋骨の内側から膨むと、手の届かない場所を痒くさせていく。
もどかしく、もどかしく。うずり、と逸りだした心は、静かに焦っていた。
「……帰ろう」
帰る。家がある。誰かが私を待つ場所へ。その意味がじんわりと胸に染みこんでいく頃には、無機物達への感傷は失せていた。
姉さんが、待っている。
偶然にも、まったくの埒外と、示し合わせたような想定外があるだろう。この場合は、きっと後者だ。
特に感覚を乱されなければ歩いてきた方向はまっすぐ後ろで、素直に踵を返して帰れば来た道と寸分も違わないはず。だけど私が存在に気づくことを待っていたように、音もなく薄い土砂に浸かって身を横たえていた。
煤けた茶色の下を見間違えなければ、それは白地に青の水玉模様の肌色をした一本の傘だ。
あまりにも運んでいた数が膨大だったためか、一本程度を取り落としてしまっても気がつかなかった。そういうことなのだろうと、頭を傾げつつもその傘に近づいて屈んだ。
おかしな事に、雨の中に傘を棄てに来て帰りの傘を失念していた。棄てる物が物だったからか、当たり前の常識が欠落していても無理はないように思えた。
土砂からすくい上げた傘は、汚濁を払うとまだ機能的には生きてることを窺わせ、芯をなす鈍色の鉄骨も湿り気を帯びた輝きを放っている。これからまた引き返して骨を埋めに行くのも徒労で、むしろ全うさせるべき役どころは今がこそなのだから、と。もう一度鋭く袈裟に振るって泥を落とし、ばっと勢いよく展開させた束の間の仮屋根に、身を任せることにした。
音が、変わった。合成繊維で編まれた打楽器が一身に雨を受けて上げる歓声が、快く耳に飛び込んでくる。なんとも頼もしい気持ちになって、さっきよりも気持ち大きめに鼻歌を始める。池にも飛び込まず、ずっと雨の音を聴いている雨蛙の歌。小さなステージは歌う声を純然に保ってくれた。
姉さんの前では見せられないなあ、と泥水を蹴って苦笑気味に思う。こんな雨の中で泥まみれに転げられたら、その翼を洗う羽目になるのは、私なのだから。
内緒にね。と、共犯を求めるように秘め事を持ちかけるが、浮かれた音を弾かせる傘は、まるでそんな機微は存ぜぬとばかりに無邪気にはしゃいでいる。そんな様子が既視と重なって、置いてきてしまったような曖昧な心地を、少しだけ羨む。姉さんは、大人しくしているだろうか。
――ほんとうに、私の帰りを待つひとなんていたのだろうか。
投げやりな考えは、未だ水を吸って重い髪を払うことだけで頭から追いやる。降り続けるしずくはあまりに無色で、掴みかけた意味を持つ心でさえながされかける。
しばらくして口ずさむ歌もなくなってきて、唐突に濡れそぼった服が肩に重みを乗せると、寄る辺のない体の薄ら寒さがいっそう増したように思えて、傘を目深に世界を閉じていた。
だから、予感がした訳でも、確証を得ていた訳でもない。ましてや、遠く離れても通じ合える特別な念を送受できるのでもなかった。
つん、と眉間の下辺りを貫かれるような錯覚がしてそれをきっかけに面をあげる。白霧に遮断された層の向こうが、気になった。保たれていた歩幅は衰え、息をひそめるように、唇を真一文字に引く。
ややもせずして見覚えのあるシルエットが、茫漠と、けれども確かな実体を持って、霧のさなかから形成されてやってくる。――違う、霧から産まれたのではない。
霞められて紛れていただけで、本来は゛真月゛をそっくりそのまま内包するような、あらゆる゛魔付き゛の頂点を攫う、この身の片割れ。
向こうもこちら認めたのか、もう分かるほど明瞭になった容貌から朗らかな笑みで手を小さく振られた。
あ、と。声が出てしまってたかは定かでない。けれど、再開させた歩みが早足にならないように、少しもどかしい思いをしたのは確かだった。
「や。降ってるねえ」
寄ってみれば何の事はない、ゆるい口調にいつもの出で立ち。姉の幻月が姿だった。その頭頂で揺れているリボンが鮮やかな色調でうつろな世界を華やかせ、代わりに湿気を吸い萎れるように縮こまった一対の白翼が、なんとも彼女をいつも以上に小さく見せている。ドレスワンピースは裾を重たげに濡れそぼらせ――そういった所々に雨の影響を受けて形成された、彼女らしくない現実感に少しの同情と、ズレのようなものを覚えた。
声に出なくても、こちらが訝しんでいるのは判っているのか、しばらく目をみつめあわせていた後に、「ああ」 と、゛読めた゛とも言いたげに納得の声を出す。
「夢月、自分の傘を残していないんだろうなぁって。帰り道があるのに」
桃色の傘が誇らしげにくるくると。雨の中に遠出して、好物のものが売り切れてなかったような安堵をほころばせていた。
持ち出さないような傘まで持参して、自分の予想が当たったことが嬉しくてしょうがない顔をしているんだ。そんな彼女がおかしくて、「……変なの」と呟く。けれど、柔らかさもすぐに引っ込められ、芝居がかった動きで背中を向けると傘と肩の隙間から拗ねたような視線を、「でも」 と寄越してくる。
「頼りになる相棒を見つけたみたいだね?」
なんのことかと皆まで訊かず、ちらり、と休む間もなく雨に打たれ続ける白と水玉の傘を見上げた。
苦笑しながら展開していた骨を畳み、ご苦労様、と脇に携える。私を迎えに来た存在のもとへ寄るには、そのままでは少しだけかさ張ってしまう。近づいて見下ろす傘と背は開けられず、きっと心優しい姉をねぎらう呪文が必要だった。
「頼りになる姉はちょうど空きがあったから、助かったわ」
いつもここまで甲斐甲斐しかったかな、なんて揶揄も含んで聞き取れるだろうけど、この程度はくすぐりあいの範疇だ、と。少しぶりの冷たさに打たれながら、合格の声を待った。
目線よりも低い位置からじっと見つめられ、それ以上は動かずにいると、おもむろに傘の高さが上げられる。それに、入れ、ということなのだと了解して一歩を踏み出した。姉さんの肩先が崩れたのはほとんど同じで、そっちへ向かった私は退くも支えるのも間に合わずに抱きとめる形になって、どすん、という当て身を食らう。少しだけよろめきつつ泥水を押し固めて留まった。こてん、とついでのように胸へ預けられた頭から嗅ぎ慣れたぬるい体温がして、ここが雨の下なのだということを数瞬の間だけ忘れる。
漂白されてしまった思考など露ほども知らず、こちらを壁にして、押し返す反動で元の姿勢に戻った姉さんは、振り返りもせず迎えに来た道を戻っていく。束の間の触れ合い、とも言えないような接触だけを与えて。
一連の挙動を理解できないまま、白い両翼を携えた背中を目で追っていると、数歩を行った先でその歩みが止まった。
「ほら、あまり雨に濡れても良い事はないよ」
鷹揚な口ぶりにようやく頭が元の回転数を取り返し、その意訳を追いかけてこいということなのだと受け、停滞していた歩調を上げることにした。追いついた傘の下に身を屈めて入って、その折に触れ合った肩先が、隣り合わせた生暖かい命の存在を教えてくれる。
ほんとうに、変なひと。
いつだって先んじて前に進み、ぬくもりを備えては、追いかけてくるであろうたったひとりを待っている。
損得勘定で言えば、必ずしも利ばかりではなく、全体で見れば失うものの方が多いはずだったろう。
変わらない彼女。変なひと。
「姉さん」
「ん」
「もしも――もしも、私、が。雨に流されて、居なくなったら。姉さんはどうする」
口を突かれながらも、まずいな、らしくないと、とどこかで冷えた心地を味わう。けれども、今この形成された空間で訊いておかなければいけない気がした。
傍目に窺ったままにいると、ん~と考えこむ素振りをした後、その実、最初っから答えが決まっていたとでも言わんばかりに彼女は、するりと舌を滑らせてみせた。
「ずっと雨の音を聴いているよ。夢月を溶かした音を聴いて、そこに居る」
…………ああ、と。
私の中で何かが諦めを生む。それでいて懐かしさを愛おしいと思わせられる、自身を疑わない彼女の言葉。
――寒がりのくせに意地っ張り。
そんな強がった解答を実行させてしまう程、心の意味はまだ流されていない。
「寒がりのくせに?」と改めて口に出して茶化す。返すように、「寒がりだけど。わたしは姉だもの」と雨に紛れた言の音が確かに響き、――けれどまるで聞き損じたように記憶からは儚く滑り落ちて。それにどうしてか、とても胸を虚ろに、あらゆるものを奪われていく気持ちにさせられて、私はただ一つ得意の笑みを貼りつけ、「そうだね」と応じた。
拙く歪んだままの口元の孤影を、意味を剥奪する雨の向こうへと早く溶かしてしまいたいと願った。醜いであろう顔を影に沈め、見えもしない霧の向こうを望遠しようと力なく視界だけを巡らせる。横合いから白い手が伸びてきて、目端に映ったなと思った時には、滑らかでしっとりとした指を頬に当てられ、そっちへと向かせられた。
「……姉さん?」
笑いながらも、置いていかれて寂しいような、曖昧な顔。
金色の瞳を同じ彩度で濡れたように光らせている彼女は、這わせた指で淡く擦りながら、「泥んこ」 と言って、おそらく頬に付いていたであろう汚れを拭いとっていく。やんちゃを咎められた――気恥ずかしさのような温かさが頬を通じて、どこか薄れかけていた私の幼い部分を、じわりと加熱させる。
何事もなかったと言わんばかりに、「さ、帰りましょ」 と少し高めにこちらへ掲げられた傘を見、わずかに逡巡して、恐る恐る受け取った。しっかり掴んだことを確認する間もなく、一度離れた手が戻ってきて、傘の柄ごと包まれる。
思わずぱちくりと目を開いて窺った隣の表情は、してやったりと成し遂げたように満足気で、どこまでもまっすぐだから。何かを言おうとしたことなんて。不満のような゛もや゛なども忘れてしまった。
……意味を失うことをあざ笑うように。怖くなるほどに、たくさんを与えられているなら。きっと、今この雨の向こうに行く先は、どこにもありはしないのだろう、と。
夢幻世界を覆う鈍色の天蓋は未だ明ける気配も見せない。けれど今は、静々と呼吸しあうことを許されたような佇まいが少しでも続くことを。
重ねられた淡い感触へ、秘めやかに、願うのだった。