注 このSSは作品集16にある東方(ひがしかた)紅魔郷の続編となっております。
先にそっちを読んでおかなくてもあまり大丈夫ではありません。
―――春の次に来るものといえば、何がもっともふさわしいだろうか。
たとえば露。
春露は熟実(ウムメ)のごとく降りて去りぬ。それを転じて梅雨という。
靴も荷物もじっとりと濡れながら通った道で、咲き誇る紫陽花を見た。
たとえば風。
春風は温く軽やかに、駘蕩たる世界を吹き抜ける。
空へ舞い散る花弁の中に、控えめな風の姿を見た。
たとえば眠。
春眠不覚暁。そう詩人が詠うように、春の眠りは格別である。
あんまりによい気候だったので、起きながら夢を見た。
どれもそれなりにふさわしいが、やはりこれが一番しっくりとくる。
夏。
春夏秋冬語るに及ばず。
きつい日差しの合間を縫って、鳴き続ける蝉を見た。
……やはり、春の次は夏だ。
季節が巡るのは森羅万象の理。ゆえに、人はそれを自然と感じる。
梅雨は春のうち。冬は春のまえ。秋は夏のつぎ。
たとえどんなに春が異常であっても、春の次には夏が来る。
春の次に冬がくるのだけはありえない。冬だけは、ありえない。
しかし。この世界ではありえない事がよく起こるのだ。
間違いなく死んだはずの男が甦る。
超人ではないただの人間が己の戦っている姿を観戦する。
アテナに仕える釈迦。
五本の指が六本に増える。そして五本に戻る。
海戦をしない(自称)海賊。
任務より仲間を優先する忍(ばない)者。
戦いはまだまだこれからだという時に話が終わる。
下書き未満の代物が週刊誌に月一で載る。
テニス?
時速三十キロの銃弾。
一話目からつまらない新連載。
なおざりにされる友情・努力・勝利。
『ん』が抜けているのは誤植だった。
天衣無縫の亡霊が桜の開花に酷く拘る。
どれもこれもありえない。ありえないのになぜ起こるのか。
それは、何かが狂っているからだ―――
長い長い階段の半ばで、奇妙な二人が向かい合う。
一人はその手に何も持っていない、リーゼントの少年。
もう一人は、その手に刀を握り締めている白い髪の少女。
「どいてくれって言ってるんスよ……!」
焦りを瞳に浮かばせながら、リーゼントの少年が言った。
「あの子の集めてきた春で西行妖は満開になる。邪魔をさせる訳にはいかない……!」
決意を瞳に滾らせながら、白い髪の少女が言った。
どちらも後に引く気は無く、
「―――妖怪が鍛えたこの楼観剣に、斬れぬものなど大して無い!」
「……ブチ折るぜッ!」
ならばあとはぶつかり合うのみ。
拳と刀が触れ合って。鳴り響く音は怪鳥の叫びのように。
それはいつまで続くのだろう―――
……そしてこれも、ありえない出来事のひとつ。
出会うはずの無い者たちが、出会う。
それは何が狂っているのか。何がそれを狂わせているのか。
偶然か必然か運命か、それとも誰かが仕組んだものか―――?
杜王町。
それはS市のベッドタウンとして1980年前半から急速に発展した町の名だ。
その歴史は古く、縄文時代の住居跡なんてものが普通にあり、
侍の時代には別荘や武道の訓練所があった土地である。
町の花は福寿草で、特産品は牛タンの味噌漬け。町のマークは割愛させてもらう。
さて、杜王の町にはひとつの不気味な数字がある。
……毎年の行方不明者の数が、異様に多いのだ。
たとえば1999年の行方不明者の数は四月の時点で八十一人。(うち四十五人が少年少女)
1994年の国勢調査によると、杜王町の人口は五万八千七百十三人だから、
これは日本の同等の町の平均に比べ、7~8倍という数になる。
同じ死亡でもさまざまな原因があるように、行方不明となる理由はひとつではない。
事故、家出、拉致、殺害、逃亡、神隠し。エトセトラエトセトラ……
場所によってそれらの割合も変わってくる。
そこが海や山に近ければ事故が多いだろう。裏社会に近ければ拉致や殺害が多いだろう。
杜王町の場合は、幻想に近かった。
事故はある。家出もある。殺人鬼に殺されたというのもある(特にある年までは!)。
けれどそれら全てを合わせても、同等の町の平均と同じ数にしかならないのだ。
残りの行方不明になっている人々は、みな同じ理由で行方不明となっていた。
その理由とは―――神隠し。
この町の行方不明の理由は、八割以上が神隠しによるものだった。
人々が隠される先は常に同じ。
奇妙な人間と奇妙な人間外が跋扈する、幻想の郷だ。
しかし人々はその事を知らない。
一度数字として纏められてしまえば、もはやそこから理由の割合は読み取れないからだ。
幻想の郷から戻ってこれたものは数少なく、それらの人々は己の体験を語らないからだ。
後に残るのは、奇妙に多い行方不明数のみ。
そして、それに特別な関心をはらうものは居ない。
人間は、奇妙な事に首を突っ込まなくても生きていける。
というかむしろ、首を突っ込まないほうが長生きできる。
奇妙の裏に潜んでいるのは、人の手には負えないような危険だ。
みなそれを知っている。だから奇妙は奇妙のままになる。
なのに。そこであえて奇妙を探ろうとする者がいる。
それはただの物好きか―――もしくは、黄金のような精神を持っている者だ。
見えざる魔の手に怯えながらも、
家族や親しい人に迫る危険を見過ごせないとして動けるような、心を。
―――杜王の町に、しんしんと雪が降る。
朝から降り続けているこの雪は、夕方になってもいまだ止む気配を見せなかった。
雨が降っていようと蛙が降っていようと、やるべき事から人は逃げ出せない。
学生は学校に。会社員は会社に行く。生きるために。
そしてやるべき事を済ませた人は、素直に我が家へ戻るもの。
今日に疲れた体を労わり、明日の務めへ備えるために。
午後四時の杜王駅前は、降り積もった雪と帰宅を望む人々に溢れていた。
人が踏みしめても踏みしめても、雪は果てなく降り続け、道は常に柔いまま。
だからこそ、人々は懸命に歩いている。
ざくざくと雪を踏みしめて、我が家へと続く道を。
そんな人々の中に、ひときわ目立つ二人連れがいた。
どちらも学生――着ている服を見れば一目でわかる――で、少年だ。
一人は身長160センチ前後。
肩幅は狭く首は細く、しかし不健康な感じは微塵も無かった。
きっちりと洗濯された純正の学生服と、体格に見合う幼げな顔。
そして、その内にある強い意思を感じ取れる瞳のせいだろう。
……それは迫り来る恐怖を勇気で克服できる男の顔だった。
やらなくてはいけない。と、本人が感じることなら、
たとえ屍生人(ゾンビ)と戦う事になっても呼吸は乱れまい。
こういう男に喧嘩を売れば、最終的に待っているのは自身の敗北だ。
もう一人は身長180センチを軽く越えていた。
肩幅は広く首は太く。脂肪ではなく筋肉で組み上げられた、まさしく肉体。
そんな抜群の体を覆うのは改造された学生服だ。
染みひとつ無いそれは、きっと彼の勲章なのだろう―――。
彼は、勲章をつけるものにふさわしい精悍な顔立ちをしていた。
穏やかな輝きを湛える青い瞳と、両耳のピアスが特徴的だ。
しかし、真に特徴的なのはその髪型だった。
厚底ブーツのごとき厚みと、磨き抜かれた革靴のような輝きを持つリーゼント。
時代遅れといえば時代遅れなその髪型は、服と相まって彼に良く似合っていた。
たとえるならそう、少女と弾幕と音楽のように。
リーゼントに学ラン。
それ以外の格好をしている彼の姿は、ちょっと想像できない。
さて。
彼らは共に帰り道を歩きながら、とてもとても重要なことについて話していた。
それは愚痴とか恋愛とか勉強についてとか、
そういった、重要だけれど明日以降にずらしても問題の無い事柄ではない。
いま、絶対に話しておくべき話題。
この雪についてだ。
「……仗助くん、やっぱりおかしいよ、この天気」
不安混じりの声でそう言ったのは、背の小さいほうの少年。
彼の名は広瀬康一(ひろせ・こういち)。
少しだけ変わった力を持つ、ただの高校生だ。
「そうか~? 死んじまうほど寒いってわけじゃねえし、フツーだろ」
そしてリーゼントの少年の名は、東方仗助(ひがしかた・じょうすけ)。
康一と同じように、少しだけ変わった力を持つ、ただの不良高校生である。
「普通じゃないよ。今は五月だよ? こんなに雪が降り積もるなんてありえないよ」
康一の言うとおり。
今は五月に入ったばかりだ。……なのに雪が降った。
四月に雪が降ることはある。だから五月に降ってもおかしくはない。
けれど、この雪は―――
「まるで冬に逆戻りしたみたいだ……!」
冬の雪のように、降り積もっている。
……春に降る雪は地に着く前に融けて消える。春の風に耐えることが出来ないからだ。
雪が降り積もるのは、降る量が多いからではない。大気が邪魔をしないからだ。
今の杜王町に吹く風は、冬と同じ冷たさだった。
「雪が降っているのってこの町だけだっていうし、もしかして新手のスタンド使いが―――」
「いや~。ただの異常気象だと思うぜー?」
先ほどから、彼らの会話はぐるぐると同じところを回っていた。
康一が異常を異常に結び付けようとすればするほど、
仗助は裏に何の事情も無いただの異常にしたがった。
……意見はぶつかりあい、どこまでも平行線をたどる。
どちらにも同じくらいの説得力と、穴があるからだ。
五月の町に雪が降る。
中々に異常なその現象は、いったい何が原因なのだろう。
ただの異常気象かもしれない。誰かが力を使っているのかもしれない。
異常事態を個人の力で起こす。そういう可能性があると、仗助たちは知っている。
異常気象が自然に起こる。そういう可能性があると、人々は知っている。
だから、仗助たちにはどちらなのか判らない。今のところはどちらという証拠も無いのだ。
そんなわけで時間切れになった。
どんなゆっくりとでも、歩いてさえいれば、いつかどこかにたどり着く。
仗助たちは分かれ道に着いた。それは駅前の交差点。
「……じゃ、ぼくこっちだから」
いまだ不安を声に残しながら、康一が言う。
仗助の家と康一の家はそれなりに離れている。一キロほど。
このあたりで別れるのがちょうど良かった。
「おう。……今のところは、慌てないほうがいいと思うぜ~」
「うん―――」
でも。と、康一は仗助の目をはっきりと見て、
「これがスタンド使いの仕業なら、やっぱり放ってはおけないよ」
強い意思の篭った瞳で、言った。
「じゃ、さよなら」
康一は静かに去り、仗助はそれを見送る。
帰り道をひとり歩きながら、仗助は思う。
(……そうだよな、康一。もしもこれがスタンド使いの仕業なら―――)
康一の気持ちはわかる。実に良く判る。
康一があそこまでこの異常な天気に拘るのは、自身のためではない。
ごく限られた人々しか知らない、過去の事件を知っているからだ。
―――過去、この町は、町自身が生み出した怪物に深く傷つけられた。
吉良吉影。片桐安十郎。
殺人という習性を持つ、人間社会に居るべきではない存在に。
仗助たちと同じ力―――スタンドという力を持つ、外道どもに。
……康一は吉良吉影についてしか知らないが、仗助は片桐安十郎のことも知っている。
家族を殺された者の辛さを、良く知っている。
―――仗助は以前、吉良吉影によって殺された友人の家族に、会った事がある。
辛かった。
何が辛いかって、彼らはいまだに帰りを待っているのだ。
殺された――と家族は知らない――息子の帰りを。
吉良吉影が公に裁かれていれば。
せめてはっきりと断罪されていれば……あんな光景を見ずに済んだのだろうか。
だがそれは、叶うべくも無い話。
仗助たちの力―――スタンドは、常人には見えない力だ。人の世の法律では裁けない力だ。
スタンドを裁けるのは、スタンドだけ。
だから、もしこれがスタンドによるもので、そこに悪意があるというのなら―――
(ぶっ潰す……!)
仗助に躊躇いは無い。けれど。
おそらくこれは、スタンド使いの仕業ではない。
(……妖怪の仕業、だろうな~)
妖怪は実在する。仗助はそれを、去年知った。
康一は妖怪の実在を知らない。人々は妖怪の実在を知らない。
今の時代、妖怪はホイホイとそこいらを歩いていないからだ。
幻想郷。
そう呼ばれる、普通はたどり着けない辺境の地に、大半の妖怪が住んでいる。
仗助はそこへ、去年の夏頃に迷い込んだ。
そして出会ったのは、多種多様な妖怪と―――
スタンドによるものではない、不思議な力を持った人間たち。
仗助はそこで色々な目にあった。本当に、色々な。
仗助が康一に対し、この雪をただの異常気象と言い張るのはそれが原因だ。
(ここまで冬が長引くのは普通じゃないって、みんな口を揃えて言ってたからな~)
最近の幻想郷は、今の杜王町よりも深く雪にまみれている。
こちらの気候が冬に逆戻りし始めたのはここ最近のことだが、
あちらは一週間以上前から―――いいや、冬のころから冬が終わっていない。
あちらで起こった何事かが、こちら側にまで影響してきた、と考えるのが自然だろう。
たとえば日光を遮るため、紅の霧を作り出す。
たとえば自身とそれ以外のため、定期的な大宴会を仕組む。
たとえば迎えを拒絶するため、真実の月を隠す。
幻想郷に騒動は多く、
そしてそんな出来事を幻想郷で起こすのは、いつだって『妖怪』と決まっている。
―――仗助はこの事態を妖怪の仕業と見ている。
だから、康一には異常気象と言った。
(あんま、やばい事には首突っ込ませたくねーぜ……)
当たり前ではあるが、確実に勝てる戦いなどこの世のどこにも無い。
負ければ傷つき、下手をすれば死ぬ。たとえ勝っても無傷で済むとは限らない。
戦いとはそういうものだ。ごっこ遊びでも、それは変わらない。
さて、これはごっこ遊びで済むかどうか。
さて、これは本当に妖怪の仕業なのかどうか。
判らない。仗助がこの事件に深く関わるかどうかも。
スタンド使いはスタンド使いと引き合う。
しかし、スタンド使いは妖怪と引き合うのだろうか―――。
そんな事を考えながら仗助が歩いていると、
「お…!」
己に降りかかる雪に耐えながら、なおその花を咲かせる桜を道端に見つけた。
―――美しい。
雪に耐えて麗しいのは梅というが、桜もどうして悪くない。
重圧に負けない命の姿は、なんであろうと素晴らしい輝きを放つものだ。
(グレート……!)
その輝きに仗助は見惚れた。
だから、桜の中から現れたそれに気づく事が出来た。
―――頭に直接、二対の腕と二本の足がくっついた、手のひらサイズの虫。
そんな見た目の、あきらかに虫ではないものが、桜の木の中から現れて。
『ハル、ミツケタゾ!』
そう言って、ししし、と―――歯の隙間から空気のもれ出るような音で笑ったのだ。
その手には、桜の花びらがしっかりと握られていた。
「―――!」
ありえない。仗助は心底驚く。
呼吸が止まり、動きも止まり、視線はそいつに釘付けになる。
(こいつは―――!?)
そうこうしているうちに、そいつは桜の木から跳び下りて、どこかへと駆け出した。
すると奇妙な事に、それまでそいつの居た桜の花が一瞬で散った。
それは次の季節に適応するため、生え変わるために散る。
といった感じではなく、老化・限界・終末。もう死ぬから散る。という散り方だった。
だがそれは仗助にとってはどうでも良いこと。
仗助はすでに駆け出していた。どこかへ向かっているそいつの後を追いかけて。
仗助が追わないはずが無い。なぜならそいつは―――
「ハーヴェスト……!」
すでにこの世には居ない、仗助の友人のスタンドだったからだ。
(本物かッ!? 偽物かッ!?)
考えながらもひたすらに、仗助はハーヴェストを追いかける。
徒歩で追いつくことが出来る程度の速度しか、ハーヴェストが出せない事が幸いした。
(……ハーヴェストの小ささに感謝、ってところか~?)
ハーヴェストの動きはそれなりに速い。
仗助が一歩進む間に、ハーヴェストはだいたい五歩進む。
だが、仗助の一歩はハーヴェストの五歩に相当した。
一歩で進める距離の長さは、体の大きさに比例する。
つまり、その姿を見失わないかぎり、仗助が引き離される事は無いのだ。
そして仗助がハーヴェストを見失う事は、絶対に無い。と言い切れる。
……ハーヴェストの大きさは、雪の中では見失う恐れがある大きさだ。
それが、たったの一体なら。
ハーヴェストは走っている。
ハーヴェストは走っている。ハーヴェストは走っている。
ハーヴェストは走っている。ハーヴェストは走っている。ハーヴェストは走っている。
ハーヴェストハーヴェストハーヴェストハーヴェストハーヴェストハーヴェスト
ハーヴェストハーヴェストハーヴェストハーヴェストハーヴェストハーヴェスト
ハーヴェストハーヴェストハーヴェストハーヴェストハーヴェストハーヴェスト
ハーヴェストハーヴェストハーヴェストハーヴェストハーヴェストハーヴェスト
ハーヴェストハーヴェストハーヴェストハーヴェストハーヴェストハーヴェスト
ハーヴェストハーヴェストハーヴェストハーヴェストハーヴェストハーヴェスト
何十というハーヴェストが、共に走っている。
その姿は群れを成す昆虫そのもの。女王蜂のために動く、働き蜂の群れ。
目立つ。あまりに目立つ。それを見失うはずが無い―――
……最初は一体だったハーヴェストは、走っている最中にどんどんその数を増やしていった。
分裂したのではない。合流したのだ。
みな同じように桜の花びらを握り締めて、みな同じどこかへ向かって走っていた。
なら、合流するのは当然であり、それは目的地が近いことを示している。
走る仗助の視界に、古ぼけた外装の料理店が映った。
「あれはトラサルディー……! ってことは―――」
仗助はそこの常連である。だから、店の近くに何があるかはよく知っている。
たまらなく美味で健康にも良いこのイタリア料理店は、霊園のすぐ傍にあった。
霊園に居る存在といえば、思いつくのはただ一つ。
(……幽霊、なのかよ~?)
幽霊は実在する。妖怪と同じくらいにその存在は稀だが。
この杜王町で、仗助は過去に二人の幽霊と出くわした事がある。
どちらの幽霊も強い執念を持っていた。それでこの世に止まっていた。
「―――だが、どちらも今は居ない」
片方は仗助があの世に送った。もう片方は未練が無くなり成仏した。
それらの幽霊の執念の元となっていた、
そして未だその存在を確認していない友人の幽霊の(おそらくは)執念の元でもある、
吉良吉影は既にこの世に居ない。
常識的に考えれば、執念の元となるものが無ければこの世に止まる理由は無い。
―――しかし、死者の問題(デッドマンズQ)は生者には解らないのだ。想像は出来ても。
「重ちー……」
やりたい事があっただろう。守りたいものがあっただろう。みんなと、同じように。
それを奪ったのは吉良吉影。それを阻止できなかったのは。
仗助の心に、やるせない気持ちが満ち溢れた。
―――ハーヴェストたちは霊園の奥に向かっているようだった。
それに対する仗助にはたった一つの選択肢しかない。
前進。
ここで退いては見失う。ここで止まれば見失う。見失えば、きっと次は無い。
それは、それだけは。
「……ッ」
己が目を離したせいで、死なせてしまった人が居た。
だから、仗助はひたすらに追いかけたのだ。
少しずつ変わっていく辺りの景色にも気づかないほど、ひたすらに走ったのだ―――
西行寺という家がある。
降嫁してきたお姫様と三桁の付き人を許容できるほどの大きな屋敷に、
幅二百由旬に及ぶ(これは誇張である。しかしそう感じるほど広い)庭と、
未熟ながらも将来が楽しみな庭師を擁する、旧家だ。
だが、その西行寺にもはや未来は無い。
なぜなら西行寺の家の者はとっくにみんな死んでいて、最後に残った一人も亡霊だからだ。
血と共に後を継ぐ者は、居ない。
しかし。未来は無くとも今はある。現が在る。
生きている……もとい、意思があるかぎり、人は楽しみを求めるものだ。
最後の西行寺―――亡霊・西行寺幽々子は、あるときふと思い立った。
「花を咲かせましょう」
西行寺の屋敷、白玉楼には恐ろしいほどたくさんの桜が生えている。
春になるとそれはもう壮大美麗な光景になるのだが、
その中に一本だけ、毎年絶対に花を咲かせない桜がある。
名を西行妖。
その桜はあまりに大きく、あまりに妖しく。
もしも花を咲かせれば、恐ろしいほどに美しくなるだろう。と、見たもの全てに思わせた。
幽々子が桜に花を咲かせようとしているのは、
それの開花を見たいという気持ちもあったが、しかしそれだけではない。
西行妖の下に眠っているものに、用があるのだ。
―――富士見の娘、西行妖満開の時、幽明境を分かつ。
その魂、白玉楼中で安らむ様、
西行妖の花を封印しこれを持って結界とする。
願うなら、二度と苦しみを味わうことの無い様、永久に転生することを忘れ……
幽々子はある時、そんな事が書かれた古い記録を見つけた。
花を犠牲として封ぜられた娘。いったい何者なのか。
それがたまらなく気になった幽々子は、花を咲かせようと思った。
西行妖が満開になれば、その娘が復活するのではないか、と。
確証は無い。記録が本当だという証拠も無い。
だが、幽々子は本気で取り組んでいた。
……亡霊の暮らしは中々に退屈なもので、
こういったイベントを自分から起こさなければ、とても生/活きてはいられないのだ。
亡霊には無駄な時間が無いといっても、退屈な時間はある。
「咲くも良し、咲かないも良し―――」
どちらにしても良い暇つぶしになるだろう。
さて。
桜を咲かせるにはどうしたらいいのか?
簡単だ。春を待てばよい。
春になっても咲かない桜を咲かせるには、どうしたらいいのか?
簡単だ。咲かずにはいられないほどの春にしてやればよい。
そんな春にするには、いったいどうしたらいいのか?
簡単だ。他所から春を集めてきて、濃縮してやればいい―――。
「というわけで、春を集めてきてくれないかしら?」
「―――ははっ」
幽々子の望みを叶えるため、西行寺に仕えるものたちが春を集めに出た。
庭師が、特殊な力を持つ亡霊が、愚直なまでに集めて回った。
近くの幻想郷から、遠くの杜王町まで、等しく。
上がどうなっているのか判らないほど、長い長い階段が、仗助の前にあった。
「―――」
坊主でも幽霊でも葬儀屋でもないのだから当然だが、仗助は霊園に詳しくない。
こんな階段が杜王町の霊園にあったかどうかはちょっと判らなかった。
しかしそれは、実のところどうでもいい事柄だ。
「みんな、よく拾ってきたねぇ~」
重要なのは目の前にある階段のことではなく、目の前にいる人物のこと。
無数のハーヴェスト
――十や二十ではない。三百は居るか。そしてそのすべてが、桜の花びらを握っている――
に囲まれて、階段に腰掛けている少年のことだ。
「チリも積もれば山となる。これだけあれば、あの桜も咲くかなぁ~? ししっ!」
彼は仗助の存在に気づいた様子も無く、己のスタンドに話しかけている。
「君たちハーヴェストがいれば、おらはどんな望みでも叶えてあげる事ができるね」
本当に、嬉しげに。
そんな彼の姿は、実に個性的なものだった。
トゲの短い栗のような頭に、脂肪によって丸々とした体。百キロは越えているだろう。
そして最も特徴的な、間と歯の抜けている、愛嬌とふてぶてしさが同居した顔。
全体的にはどことなくタヌキに似ていた。
その姿は、一目見れば忘れるはずは無い。仗助は彼の名前を知っている。
彼の名は矢安宮重清(やんぐう・しげきよ)。
殺人鬼に殺された―――仗助の、友人だ。
……仗助はたまらなく複雑な気分になった。
矢安宮重清は吉良吉影に殺された。
その事を頭では判っていたが、心はまったく信じていなかった。今の今まで。
それを理解してしまったのだ。
だから、今どうすればいいのかわからない。
喜べばいいのか、驚けばいいのか、疑えばいいのかも分からない。
目の前の彼が、生きているのか死んでいるのかも判らない。
「重ちー……!」
自然、声が出た。
相手に己の存在を気づかせるため。イラつきにも似たこの気持ちを、どうにかするため。
そう意識していたわけではなかったが、声が出た。
……彼が仗助のほうを見て、言う。
「しげ、ちー? だれの事を言っているんだど? おらの名前は矢安宮重清って言うんだど」
まるで見ず知らずの他人にいきなり本名を呼ばれたかのような、訝しげな表情(かお)で。
「……でも、なんか懐かしい呼び方だど。誰かにずっとそう呼ばれていたような―――」
それは命題を追求する哲学者のような思案顔に変わって、
「ていうか、あんた誰だど?」
そしてようやく。仗助をはっきりと見つめて、彼は問うた。
―――先ほどから、辺りはやけに暖かかった。まるで春のように。
だが、今の仗助の心中は冬のように寒い。
(どういうこった……!?)
彼の言葉からは、一片の嘘偽りも感じ取れなかった。
誰かを騙す。
矢安宮重清にそんな真似ができないことを、仗助は良く知っている。
そんなことのできる頭は、重清には無い。
つまり本当に仗助のことを知らないのだ。それは忘れているのか、それとも……。
(―――)
偽者という可能性も未だにある。情報が足り無すぎて、何にも確証をもてない。
「おれは東方仗助。―――重ちー、と呼ばせてもらうぜ。こんなところで何をしてるんだ?」
しかし情報が足りないなら、収集に努めればいいだけのことだ。
「東方仗助……。な~んか聞き覚えがあるど。その髪にも見覚えがあるど……」
重ちーは腕を組んで悩んでいる素振りを見せたが、
ちょっとやそっとでは思い出せないと諦めたのか、素直に仗助の質問に答えた。
「おらは春を集めているんだ。あの人のために」
「あの人……?」
春を集めている。ハーヴェストもそう言っていた。しかし、あの人とは誰の事だろう。
「重ちー、あの人ってのは」
「そうだ! こんな事していられないど! 今はあの人に春をとどける事が先決だ―――」
重ちーはいきなり地面に寝転がり、
「仗助さん、あとでまた逢おうど!」
そう言って、己の体の下にハーヴェストを集め、階段の上へと運ばせはじめた。
何百というハーヴェストの手が、体を支えつつ進みたい方向へ送り出し、
手の届かない位置に体が来たら、そこに新たなハーヴェストを出し、という風に。
その姿は戦車のキャタピラにも、バケツリレーにも似ていた。
「あ、おい!」
原理が似ていれば速度も似るのは当然だ。早い。
仗助はすかさず追いかけるが、しかしその姿はあっという間に見えなくなってしまった。
―――だからといって立ち止まってはいられない。仗助はひたすらに階段を駆け上る。
春を集めているという人物。
それはおそらく、幻想郷と杜王町に共通する異常事態を引き起こした者のこと。
その人物の在不在はともかく、この場所に春が集められている事は間違いないだろう。
春が一箇所に集められたのなら、そこ以外はどうなる?
冬になるのだろう。今の幻想郷のように、杜王町のように。
いま冬になっていない場所は、事件に関わりの無い場所か、事件の原因がある場所だ。
この場所がどちらかであるかは言うまでもない。
だが、今の仗助にとってそんなことはどうでも良かった。
「待てよ重ちーッ!」
気になるのはたった一つ。
これは夢か、現なのか。
どちらにせよ妖しいことには変わりないが、だからこそ追求する価値がある。
謎を謎のままにしておけないのは、仗助の体に流れる血の性分だ。
それこそが、逃れられない運命へと仗助を導いていく。
どのくらい駆けたのだろうか。
駆けても駆けても辺りの景色に変わりは無く、階段はどこまでも続くように思われた。
仗助の息は切れていない。しかし、それも時間の問題だ。
一秒間に十回の呼吸。もしくは、十分間息を吸い続けて十分間息を吐き続ける。
仗助はそんな真似ができるような鍛え方をしていない。限界は近い。
それでも、とっくに重ちーを見失っていても、歩みを止める訳には行かなかった。
駆ける以外に取れる手段は無い。
仗助は駆けて駆けて、必死に駆けて―――
「―――ッ!?」
そして立ち止まった。体力の限界が来たからではない、あるものを見たからだ。
階段の半ばに、一人の少女が立っていた。
抜き身の刀を持った白い髪の少女だ。
手に持つ刀とは別に、後ろ腰に短刀を差していて、そこだけ見ればまるで侍のようだった。
微妙に曲がった蝶ネクタイと刀の鞘についている一輪の花が、侍度を相当薄めていたが。
……仗助の足を止めたのはその刀の煌きではなく、少女の瞳の輝きだった。
迷いも無ければ油断もない、ダイヤモンドのように固い決意を秘めた瞳。
素通りしようとすれば、きっとその手の刀で斬られていただろう。
そう理解させるほどの凄みと冷静さが、少女の瞳にはあった。
まるで何十年と修羅場を潜り抜けてきたかのような―――
「どいてくれないッスか、そこ」
仗助は腹に力を込めて声を出した。ここで呑まれる訳にはいかない。
「……生きている人間は、これ以上踏み込むべきじゃない。帰りなさい」
静かな声で少女は言う。
その静かさは、人里離れた森の静かさというよりも、墓場の静かさだった。
命の気配が有りはするが、死の臭いに紛れてよく判らない。
「そうもいかないんスよ。さっきここを通っていったやつに用があるんで」
「ここから先に進めば死ぬわ。死んでから出直して来なさい」
そうすれば、もう死ぬ事は無いから。と、真顔で少女は言った。
「……そいつぁーグレートなアイデアだ。だがあいにくと、そんな余裕は無いっスね~」
「なら、ここで私に斬られて死んでみる?」
そろそろ限界だった。
「おれは―――どいてくれって言ってるんスよ……!」
言葉で駄目なら、あとは。
「どかない。あと少しの間は」
少女が刀を構えた。
「あの子の集めてきた春で西行妖は満開になる。邪魔をさせる訳にはいかない……!」
仗助は、無言で前に足を踏み出した。
硬いものを斬る。軟らかいものを斬る。
どちらも同じくらい難しいが、それぞれのやり方は似て非なるものだ。
究極に硬いものを斬れるからと言って、究極に軟らかいものを斬れるとは限らない。
その逆も、また。
鉄を斬り裂く剣はコンニャクを斬れない。
幽霊を断ち斬る庭師の剣は、ダイヤモンドを斬り裂けるのか―――
「―――妖怪が鍛えたこの楼観剣に、斬れぬものなど大して無い!」
それを身をもって確かめる気は、仗助には無かった。
仗助の体は肉で出来ている。そして少女の武器は鋼で出来ている。
当たればただでは済まないどころか、間違いなく済んでしまう。命が。
少女の太刀筋に迷いは無かった。
退こうとすればそのまま見逃してくれそうな感じはしたが、しかし迂回は許してくれまい。
少女の感覚は、きっとその刃と同じくらいに鋭い。
―――問答無用で迫り来る鋭刃に、仗助は硬拳で応える。
「ドラララアア―――ッ!!」
一瞬の内に三度剣が閃けば、三度。五度閃けば、五度。
迅速に正確に、拳で剣の腹を叩き、己狙いの軌道を逸らしていく。
その拳は肉の拳ではない。
仗助の内側から現れ出でた、心の―――砕ける事の無いダイヤモンドの拳だ。
……今の仗助の傍らには、
生物のような機械のような、どこかダイヤモンドを思わせる姿の拳士が在った。
それは仗助の内側から現れたもの。それこそが、仗助のスタンド。
その名を、『クレイジー・ダイヤモンド』。
―――スタンドとは、
当人の魂のエネルギーがパワーある像となって現れたものである。
当人の意思に従って(稀に例外はあるが)動くそれは、
通常の人間では出来ないことを容易くやってのける。
たとえば物をあちこちから集めてきたり。たとえば高速無数の拳撃を放ったり。
人によってスタンドの見た目も、能力もさまざまであるが、共通点がふたつある。
ひとつ、スタンドが傷つけば使い手も傷つく。
ふたつ、基本的にスタンドの使い手以外にスタンドは見えない。
いま重要なのは、ふたつめのほうだ。
仗助はクレイジー・ダイヤモンドで剣の軌道を殴り逸らし、己の命を保っている。
それは言うほどに簡単な事ではない。
少女の剣術は冗談抜きで達人の域にまで達しているからだ。
速く。重く。鋭い。
といっても、クレイジー・ダイヤモンドならスペック的には問題ない。
ダイヤの拳は速く、重く、硬い。
しかし剣に拳を当てるには、スペックだけではなく、相当の集中力が必要だった。
スペックだけでどうにかなるなら洞穴(ケイブ)の蜂は伝説になっていない。
スペックを引き出すための集中力が、蜂を墜とすためには必要なのだ。
……仗助にとって幸運だったのは、少女にスタンドが見えていないという事。
もしも見えていたのなら、剣を逸らすのは今の何倍も難しくなっていただろう。
目に見える攻撃と見えない攻撃、どちらが対応しやすいかは言うまでもない。
接近戦をしなければいいという考えもある。
刃の恐怖が届かない場所に、かけがえの無い/邪魔な体を置けばいいと。
刃と踊るのはその速度についていけるスタンドに任せ、遅い己は休んでいればいいと。
しかしこの場合、仗助は接近戦を挑むしかなかった。
クレイジー・ダイヤモンドが動ける範囲は、
仗助の立ち位置を中心として二メートルといったところ。少女のリーチとほぼ同じ。
つまり、相手から離れてしまうと仗助は効果的な攻撃が出来ないのだ。
しかし少女のほうはどうだろうか。
離れても効果的な攻撃が出来るのではないか。弾幕とか。
……それを確かめるときは、仗助の敗北が決定した時だろう。
一度でも離れれば、距離を詰める隙は無い。
だから仗助は接近戦を挑むしかない。少女に距離を取る間を与えないために。
そして、少女の刃を叩き折るために。
轟。
と音を立てて、剣の軌道が変化した。
それが何度目の事なのか、仗助には判らない。いちいち数えてなんかいられない。
一度失敗すればそれで終わりなのだ。だから、数える分の頭は計算に使う。
(―――あと三十)
仗助は、迫る剣を殴ることで回避行動を行うと共に、剣自体を折ろうとしていた。
剣士は振るう剣があってこそ、その実力を発揮できるもの。
剣が無くても充分以上に戦えるなんて、それはさすがに都合が良すぎるというものだ。
だから仗助は、ひたすらに拳を打ちつけた。
―――絶え間なく剣が迅り、拳がそれに触れて音を立てる。
風を斬る剣の軽高音と、鋼を打つ拳の重低音。ふたつ混ざれば怪鳥の叫びにも似て。
その音がこの場に響き始めてから、たいして時間は経っていない。
つまり戦いは始まったばっかりで、しかしそろそろ終わり始めていた。
(……ちょいと、都合が良すぎたか~?)
逸らしきれなかった刃に肌を切り裂かれながら、仗助は思考を改める。
百発も拳を入れれば叩き折れると、仗助は考えていた。
クレイジー・ダイヤモンドはその名どおりにダイヤモンドの拳を持っている。
物と物がぶつかれば、砕けるのは柔らかいほうだ。
ダイヤモンドは砕けない。
―――しかし。仗助がいくら殴っても、剣にはヒビの一つも入らなかった。
剣自体が常識外れに硬いのか、少女が上手く威力を逃しているのか。
おそらくは両方だろう。手ごたえから仗助はそう判断する。
(どっちかだけなら、まだ対処出来んだけどよ~ッ……!)
―――仗助の勝率は一瞬ごとに下がっていた。
心身に疲労が溜まり、刃を逸らしきれなくなってきている。
そして少女がクレイジー・ダイヤモンドの動きに対応し始めてきている。
早めに決着をつけないといけなかった。
殴る事さえ出来れば話は簡単なのだが、そうもいかない理由がある。
相手は少女だ。
たとえそう出来る隙があったとしても、仗助に殴れるはずがない―――
だからこそ、細工を思いついた。
「―――発ッ!」「ドララアアーッ!!」
迫る一刃に五打撃を入れて逸らす。相も変わらず響く怪音。
そこまでは常。ここからが異。
少女が刃を引き戻して次の一撃を放とうとする瞬間、
「貰うぜ……!」
仗助はクレイジー・ダイヤモンドで階段を殴りつけた。
「ドラア―――ッ!」
狙ったのは、少女の足場となっている場所。
ただの石がダイヤの拳に耐えられるはずも無く、階段はあっけなく破壊された。
といっても壊れたのはあくまでも一部。
階段全てを壊せはしないし、少女がほんの少し動けば壊れたところからは抜け出せる。
「この程度で……」
少女は跳躍。
「私の剣が鈍ると思ったか!」
壊れた事を逆手にとり、空中に飛散した階段の破片を足場として剣を振るう。
―――異様な角度から迫り来る、剣。
それはこの戦いでもっとも鋭く、速く。
たとえどのように逸らしたとしても、体のどこかに当たってしまう軌道の斬撃だった。
当たるという事は、すなわち負けるという事。
しかし仗助は動かない。
それは己の負けが確定したと、思ったからなのか?
「いいや、ぜんぜん思ってねーぜ」
動かないのは当たる覚悟を決めたからではない。既にやるべき事を終えていたからだ。
「何かの勢いを鈍らせるには―――」
それは。少女には見せていなかった、仗助の能力。スタンドの力によるもの。
「こんくらいはやんなくっちゃあなーッ!」
クレイジー・ダイヤモンドには、壊したモノを直す力がある。
―――異様な事が起こった。
破壊された階段の破片が集まって、ぶ厚い石の壁となっていく。
「階段を、壁として直すッ!」
それが起こったのは、ちょうど少女の剣が通っている軌道中。空間。
クレイジー・ダイヤモンドの直す力は、爆破されたものを瞬時に直すほど速く、強い。
少女の剣は石壁の再生に巻き込まれ、その刃は全て石の中に埋没した。
しかしその程度で止まるほど、少女の剣は遅くはなかった。
「甘い! 石が鋼に勝てるわけない!」
勢いのままに。少女の刃が、内側から石壁を切り裂いていく。
石壁という力の入れ所を得たせいだろう。その刃は先ほどよりも明らかに加速していた。
もはやクレイジー・ダイヤモンドの速度をもってしても弾く事は出来ない。
「これだけの速度があれば―――見えないものも断ち斬れる!」
相手の行動を上手く利用する。
それは戦いの基本だ。そうできるのであれば、誰もが迷わず選ぶくらいには。
「グレート……!」
仗助は不敵に笑う。計算通りだった。
「それだけ速く動いてるって事は、それだけ受けるダメージも大きいってことだよな~ッ!」
普通に歩いている時に壁へぶつかるのと、バイクで走っている時に壁へぶつかるのと。
どちらのケースがより傷つくかは言うまでもない。それが速度の力だ。
どこまでも無情に、ぶつかった両者ともに作用する。それこそが、速度の力だ。
見えないものも断ち斬れると言った少女の瞳に、クレイジー・ダイヤモンドは見えていない。
石壁を掴み、捻ろうとしているその姿は。
「―――ッ!」
見えなくても判ることはある。剣に掛かる重圧から、少女は仗助の目論見を瞬時に見抜いた。
対処法はひとつ。やられるまえにやる。
「いいえ、あなたの防御が間に合わないってことよ!」
少女は剣に一層の力を込め加速。しかし仗助はこの機会を逃さない。
「……ブチ折るぜッ!」
全力で石壁を捻った。
出来れば刃を折る。それが駄目なら剣を奪い取る。それも駄目なら腕を折る。
(後で、治す―――)
ここで手加減すれば、その後は無いのだ。
少女と仗助。
単純な力では、仗助/クレイジー・ダイヤモンドのほうに分があった。
「ドラアッ!」「くうッ!」
クレイジー・ダイヤモンドが石壁ごと剣を捻り取り、少女は弾き飛ばされる。
が、その直後。
「なっ、なにィ―――ッ!?」
仗助の正面に、剣を持った少女が現れた。
たった今弾き飛ばされたはずの、白い髪の少女が。
『幽明求聞持聡明の法』
いま仗助の目前に居る少女は、そう呼ばれる秘術によって変じた少女の半身。
半分人間で半分幽霊である彼女の、幽霊の部分。
仗助がスタンドという力を持っているように、
少女―――魂魄妖夢も、普通ではない力を持っていた。
それは剣を振るう力ではなく、生まれついた種族の力。
半人半霊の力だ。
……鳥に翼があるように、魚に鰓があるように、半人半霊には体があった。
人間としての体と、幽霊としての体。二つの体が。
仗助が今まで相対していたのは、妖夢の人間としての体だった。
幽霊としての体は、今までずっと、妖夢の意志で近場に隠れさせていたのだ。
変化の時間を稼ぐために。こうして不意打ちできるように。
仗助はすぐさま驚きから立ち直り、冷静に焦った。
(ヤバイぞこれ―――)
よく見れば、目の前の少女の体は――その手の刃も――透けている。
触れれば通り抜けてしまいそうだった。
だが確証は無い。触れれば判るがその時には遅い。刃が通り抜けなかったら?
(打つ手が……無い!)
ピンチだった。
先ほど弾き飛ばしたために、少女の人間体は手の届く距離に居ない。
クレイジー・ダイヤモンドが石壁から手を離すよりも、少女の刃が刺さるほうが速い。
仗助の運動能力では、少女の刃をかわすことは出来ない。
剣は既に振られている。
(……駄目かッ!?)
そう思った途端、仗助の体感速度が明らかに遅くなった。
ゆっくりと、刃が、迫り来る―――
「……おっ?」
気づけば体感速度は元に戻っており、なぜか辺りの景色が変わっていた。
別の場所に居た、というのではなく、同じ場所の違う位置に、仗助は立っていた。
今まで戦っていた、二人の少女を見下ろす位置、すなわち階段上部に。
体の透けている少女は、今まさに剣を振りぬいたところだった。
体の透けていない少女は、今まさに立ち上がろうとしているところだった。
「なん」「で……?」
そしてどちらの少女も、深く、強く、驚いていた。
当の仗助はあまり驚いてはいなかった。
何が起こったかはよく判らない。しかし明らかなのは、危機は脱したということ。
「―――危ねえーッ! 日ごろの行いが良くて助かったぜ……!」
こんな時、杜王町の住人が言うセリフは決まっている。
「そうね、私の日ごろの行いが良かったからよ」
こんな時、幻想郷の住人が言うセリフに決まったパターンは無い。傾向はあるが。
……隣から聞こえてきたその声は、仗助にとって馴染みのある声だった。
無駄なく造られた道具のように余裕のある、すっきりとした声。
「―――咲夜さん!」
素足が見えるメイド服に、暖かそうな茶色のマフラー。
という出で立ちの、背の高い女性が、仗助の隣に立っていた。
彼女の名は十六夜咲夜。
幻想郷の、とある湖中の島に建つお屋敷でメイドをしている女性だ。
なるほど彼女が居るのならば、いま己の身に起こった事にも合点がいった。
十六夜咲夜は時間を操る力を持つ。
辺りの時間を止めて、その中で動く事など造作も無い。
つまり、そうやって仗助を助けてくれたのだ。
咲夜がどの程度時間を止められるかは知らないが、男一人を動かすのは体力的に辛いはず。
なのに汗のひとつも見せないあたり、瀟洒としか言いようが無かった。
さて気になるのは、何故助けてくれたかよりも―――
「……どうしてここに居るんスか?」
「それはこっちのセリフよ。仗助、あなたいつの間に死んだの?」
気になるポイントは互いに同じだったようだ。違うのは掴んでいる情報くらいか。
「死んでねーッスよ!」
「死人に口無し。なるほど、確かに生きてるわね」
咲夜は言いつつ、少女―――魂魄妖夢のほうを見た。
「アレは……生きてるのやら死んでるのやら」
妖夢は言葉も視線も無視。
幽霊体は無言で剣を構え直し、人間体も無言で石壁から剣を引き抜き、構えた。
疑問を解消するための時間は、どうやらないらしい。
階段上部の仗助と咲夜は、階段下部の妖夢と妖夢に相対する。
彼我の距離は短い。互いに一歩踏み込めば拳/剣の射程に入るほどだ。
とはいえ、やろうと思えば逃げ出す事も出来た。それだけの力はお互いにあった。
だが、距離が今以上に開く事は無い。
時間を止めればこの場は逃げ切る事も出来ようが、挟み撃ちになるのは面白くない。
これ以上進ませて、主を手間取らせるわけにはいかない。
異なる理由は違う性格の者に同じ選択をさせた。戦いである。
さて、この戦いはどちらが有利だろうか?
現状は二対二。
数の上では丁度良いが、それ以外ではどうだろう。
仗助の力は、(自分以外なら)生物の傷も治す事が出来る。
死んでしまったものはどうにも出来ないが、死んでさえなければどうとでもなるのだ。
つまり咲夜は、妖夢に斬られる事を前提に行動できた。
バラバラになるほど斬られても、仗助が間に合えば完璧に治せるからだ。
仗助の力と同じくらい、咲夜の力も強力である。
時間を操る力。
全てのものは時間に縛られている。それを操るという事は、世界を手中に収めるという事。
それらに対する妖夢の力は、剣術を扱う程度の能力。
……数ではなく能力を見れば、仗助・咲夜組のほうが相当有利に思える。
剣術はどこまでいっても剣術でしかない。時間を止める事も、傷を治す事も出来ないのだ。
一人だろうと二人だろうとそのことに変わりは無かった。
だが。
仗助たちは仕掛けない。妖夢たちに仕掛ける事が出来ない。
「………………」
仗助の全身からは冷たい汗が噴き出していた。
二人の妖夢は並び立ち、ただこちらに剣を向けているだけだ。
動きは無い。殺気は無い。
なのにそれが、どこまでも恐ろしかった。
時間を止めるというのは無敵の力ではない。
いくら時間を止めても、どうしようもないことはあるからだ。
時間を止める力よりも、小細工(チープトリック)のほうがよほど恐ろしい。時もある。
たとえば今の妖夢がしている事のように。
妖夢がしているのはもちろん小細工ではない。
必殺の剣だ。
雲霞のごとく押し寄せる敵と弾幕を一撃の下に斬り伏せる。
妖夢にそんな必殺剣技が無いわけではないが、ここで言っているのとは違う。
時間を止める? だからどうした。斬ればいい。
傷を治す? だからどうした。斬ればいい。
死なない? だからどうした。斬ればいい。
自分が死ぬ? だからどうした。斬れればいい。
ここで言う必殺の剣とは、そんな覚悟。姿勢。決意。ようするに心構えの問題だった。
「たとえ自分が斃れても、狙った相手は必ず斬る」
と、実行してから言うような。いやむしろ「斬る」ではなく「斬った」と言うタイプ。
そんな気合の入った相手は一人でも厄介なのに、二人居た。
人間体の魂魄妖夢と幽霊体の魂魄妖夢。
その二剣(ふたり)に狙われているのは仗助だ。倒しやすいほうから倒すのは当然のこと。
もしも咲夜が時間を止めて、全力で攻撃しても防御しても結果は同じ。
過程に多少の違いはあっても、最終的に仗助は斬られる。
そう理解させるほどの覚悟が、妖夢から放たれていた。
仗助を見捨てなければ、いいや見捨てても勝てるかどうか。
幽明求聞持聡明の法というとっておきを使っておきながら、勝っていない。
斬れたはずなのに、斬れていない。
それが妖夢の引き金を引いたのか。
( )
今の妖夢は空だった。
ただそこには、明らかな事実だけがあった。
たとえ剣が放たれる前に死んでも、きっとその剣は放たれるだろう。
半人半霊が全霊になるだけだからというわけではなくて。
二人と二人は向かい合う。
妖夢が動かないのは、斬るための力を溜めているから。
( )
咲夜が動かないのは、勝つための手を考えているから。
(あれを使うしかない、か)
仗助が動かないのは、これから先の事を考えているから。
(スゲーヤベーよ……これじゃあ重ちーに会うどころじゃね~ぜ……どうするッ!?)
ゆえに、流れは止まり、力は均衡する。
……しかし、世界のどこにも長続きする均衡など存在しない。
二対二で向かい合ってから、
つまりこの均衡が始まってから十秒と経っていないが、あと五秒もすれば終わるだろう。
どちらかの死によって。
たったの十秒で、この場の負荷は極限まで達していた。
そして、今にも壊れそうなその均衡は―――
「咲夜さーん、置いていかないでくださいよ~」
妖夢の後ろ側、つまり階段の下側からやってきた、赤い髪の少女。
咲夜の同僚、屋敷の門番を勤める、紅美鈴(ホン・メイリン)の到着によって壊された。
今の妖夢は、その程度のことで動かない。
動いたのは咲夜だった。
「え?」
と、美鈴が声を出す。仗助の隣で。つまり妖夢の前方で。
その妖夢には、何一つ変化が無い。体にも、足元にも。
咲夜は時間を止めた。そして美鈴を即座に回収した。
咲夜が動いてしたことはそれだけだ。攻撃も防御もしていない。だから、妖夢は反応しない。
「美鈴、仗助を連れて先に行きなさい」
断固とした口調で咲夜が言う。
その体は妖夢のほうを向いていて、仗助たちに見えるのは背中だけだった。
どんな表情をしているかは、声から想像するしかない。
「判りました」
だから美鈴は即答。仗助の手を掴み、己の能力、気を使う力を発動させる。
ちりん、と鈴の鳴る音がして、気すなわち風(大気)が、美鈴と仗助を包んだ。
―――風はさまざまなものを運ぶ。
種に始まり音・獣・水・家・人。重いものから軽いものまでさまざまに。
そしてその速度はたまらなく速い。
美鈴たちはあっという間に階段の上へと消え、残ったのは妖夢と咲夜だけ、
つまり二対一になった。
「……」
どちらの妖夢も喋らない。動かない。ただ、剣を構えている。
「死人に口無しね。追わないの?」
「あなた、春を持っているでしょう」
人間体の妖夢が口を開いた。
「あげないわよ」
確かに咲夜の懐には、春の結晶―――桜の花びらがあった。外からは見えないところに。
「要らない。もう春は十分集まったから」
「ああそうなの。なら春を返しなさい。集まったのならもういいでしょう?」
咲夜の言葉をまるきり無視して妖夢が言った。
「欲しいのは―――」
「冷たいもの?」
咲夜はどこからかナイフを取り出して言った。
妖夢は冷たく輝くそのナイフを無視。言葉を続ける。
「我が主の望む光景」
「……」
「春を持つということは、一年の四分の一の力を持つということ。
四分の一のさらに何十分の一でも、そんな相手を通すわけにはいかない」
そう真顔で言い切る妖夢を見つめ、咲夜は小さく息を吐いた。
「……やっぱり死人に口無しよ。能が無いなら喋らないほうがマシね」
「そうね、死人に口無しだわ。だから私は喋っているの」
「ああ、生きてるの?」
驚いた、という表情をその言葉の間だけ咲夜は浮かべ、
「なら斬れるわね。……刃こぼれはしそうだけど」
冷たく笑ってその手のナイフを投げつけた。
風に運ばれながら、仗助は美鈴から大体の事情を聞いた。
咲夜たちは、いつまで経っても終わらない冬をきっちりと終わらせるために、
ここへやって来た―――というかたどり着いたのだという。
「気を使いすぎて疲れました……」
当たり前といえば当たり前ではあるが、十六夜咲夜は空を飛べない。
というか自力で空を飛べる人間なんて、巫女か魔女かESP者くらいのものだ。
見た目飛んでいる某悪をぶっ飛ばす青年探偵も、実際のところは走っているのだし。
しかし、人にはどうしても空を飛ばなければいけない時がある。
空を飛べないものがそれでも空を飛ぼうとすれば、何かの力を借りるしかない。
その何かは所によってさまざまだ。
たとえば戦場では飛行機。たとえば戦国では飛蒼石。
そして東方では、空を飛べる程度の能力を持つもの。
幻想郷にそういった力を持つもの――者も物も――は数多いが、
十六夜咲夜にとっては紅美鈴の力がもっとも借り易かった。それだけのこと。
空を飛ぶその力がなければ、ここにたどり着く事は出来なかっただろう。
なぜならここは、空の上にあるからだ。
「いえ、空の上にあったのはここへの入り口だけで、ここは空でも上でも下でもないんですが」
「じゃあ、ここはどこなんスか?」
「冥界―――でしょう。おそらく」
冥界。それは死者の住まうところ。死者が唯一住むべき場所。
(……)
祖父や、殺人鬼や、美鈴に良く似た名前の女性も、ここに居るのだろうか。仗助は思った。
「なぜ冥界に終わらない冬の原因があるのかは解りませんけど―――」
「西行妖」
「……?」
仗助の唐突なつぶやきに、美鈴はその顔にはっきりと疑問符を浮かべた。
「西行妖とやらを咲かせるために、春を集めているらしいっスよ?」
それはどうやら集団によるもので、その中に己の友人も混じっていた、と仗助は説明した。
特に、その友人―――重ちーのスタンド能力については、詳しく説明しておいた。
十中八九、重ちーとは戦うことになるだろうからだ。
クレイジー・ダイヤモンドでは、ハーヴェストとやりあってもあまり勝ち目は無い。
(それは相性の問題だ。群体と正面からやりあえば、個体は絶対に勝てない)
だが美鈴の力なら、射程が長く手数も多いその力なら―――弾幕なら。
たとえその姿が見えなくても、勝ち目は十分にある。
アルコールが山ほどある、こんな環境においても。
「―――ど、どっちに向かいましょうか?」
ここは既に階段の上。
美鈴たちが互いに事情を説明している間も、風は休まず働き続けていた。
上の見えない階段は上が見えないほど長いだけであり、無限の長さをもってはいない。
「……っつわれてもなー」
仗助たちは、何千という桜が咲き誇る庭園にいた。
そこはあまりに広大だった。
広い。凄く広い。由旬(約7・4キロ)なんて単位を持ち出したくなるくらい広い。
……広いだけならば、まだ良かったのだが。
顕界の春の山や公園がそうであるように、冥界にもやはり居た。
「花見は! 最高だあ―――ッ!」
花見を行うものたちが。人と見分けがつかない姿の、霊たちが。
……花見を、文字通りに花を見るだけで済ませるものはいない。
花を見ながら(もしくは見もせずに)飲んで歌って騒いで以下省略。
その身に肉が有ろうと無かろうと、花見をする者のやることに変わりは無かった。
「一月は正月で酒が飲めるぞぉー、酒が飲める飲めるぞぉ―――」「塩だ塩をくれ!」
「まだ焼けてないぞー」「七番。脱ぎます!」「だから俺は言ってやったんだ。ポゲムタと」
「うけけけけけけけ!」「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい―――」
混乱はつきものだった。酒も。
―――霊たちは花見に夢中になっていて、仗助たちのことなど眼中に無い。
酒と胃液と肉と花のにおいが複雑にブレンドされた風に乗って、
調子外れの歌に壊れた言葉などが流れてくる、混沌とした空気の中。
「……とりあえず、より騒がしいほうに向かうなんてのはどうっスかね~?」
仗助は少しだけ考え込み、そして提案した。
単純に考えて、騒がしいところにはよりたくさんの人―――霊が居るだろう。
少ない中から探すのと、多い中から探すのと。
どちらという当ても無いなら、多いほうが確率的にマシだ。
それに、数が多ければ多いほど、その中に紛れて行動するのはやりやすい。
「……そうしましょうか」
いつまでも止まっているわけにはいかなかった。
全ての霊が敵という訳ではどうやらないらしいが、ここはあくまでも敵の領域なのだ。
妖夢を撃破した咲夜が追いついてきて、これといった敵にも出会わず目的を達成―――
なんて都合のいいことを考えるのは、あまりにも頭がオメデタイ。
今にも妖夢が追いついてくるかもしれないし、妖夢以外の敵と遭遇するかもしれない。
そう思って行動するのが丁度いいだろう。
「じゃ、捕まって―――」
仗助たちは、風に乗って動き始めた。
―――どこかから、歌が聞こえる。
九重に咲けども花の八重桜 幾代の春を重ぬらん
しかるに春の名高きは まづ初花を急ぐなる 近衛殿の糸桜
見渡せば柳桜をこきまぜて 都は春の錦燦爛たり―――
夜雀の歌よりは騒がしくないが、常人にしてみれば十分騒がしい。
それはそんな調子の歌だった。
歌のバックに流れる音色は、騒がしくも奏でられる、弦と管と鍵のアンサンブル。
聴いていて癒されるわけではない。死にたくなるわけでもない。
だが、たまらない。
そんな歌が聞こえてきたのは、仗助たちが移動を開始してからすぐのことだった。
「これは……」
仗助はその歌を知っていた。
『西行桜』
という名の歌だ。
(―――あの子の集めてきた春で西行妖は満開になる―――)
西行桜。西行妖。
どうやら当てが見つかったようだった。
「美鈴さん、歌の聴こえてくるほうに―――」
美鈴は頷き、方向をゆるやかに転換。速度を上げ、舞い散る桜の花びらの中を進む。
すると、ある地点でいっせいに花びらがシャボン玉に変わった。
仗助たちが進んでいる高さは、桜の木の背丈よりも少し下、というところだった。
あまり低くては花見をしている霊たちにぶつかる。高くても目立つし、色々と見逃す。
だからその高さで、だからそのシャボン玉の群にぶつかったのだ。
「―――ッ!」
いくつものシャボン玉が、美鈴と仗助の体に触れ、弾ける。
ただのシャボン玉なら、どうということもなかったろうが―――
あいにくとそれは、弾よりも性質の悪いシャボン玉だった。
(なんだ、こいつはッ……!?)
まるで水面を波紋が伝わるように。
電気が走るような独特の衝撃が、シャボン玉の触れた箇所から体へ染み渡っていく。
それはふたりが今まで味わった事の無い奇妙な衝撃だった。
シャボン玉に込められたエネルギーが、その衝撃を引き起こした。
あまりの衝撃に、仗助は危うく気絶しかけ、
―――シャボン玉のエネルギーは対生物に特化した力。人間も、妖怪も、生物の範疇だ。
たまらず、美鈴は地面へと着地した。
「うおおッ!」
着地というより墜落と言ったほうが近いかもしれない。
仗助は叩きつけられるように接地し、
――その時の衝撃はクレイジー・ダイヤモンドで受け身を取って逃す――
地面をごろごろと勢いよく転がり、そして木にぶつかって止まった。
「……痛って~」
頭を押さえながら、仗助は木にすがるようにして身を起こした。
(美鈴さんは―――)
辺りを見回し、着地の際に離れてしまった美鈴の姿を探す。
そこは大きな池の近くだった。
……近くというか、少し軌道がずれていれば池に飛び込んでいただろう。
池には明らかに人の手が入っており、錦鯉のたぐいが住んでいそうな感じだった。
そして池の周りには、ここまで通ってきた道と同じく何十という桜の木があり―――
その内の一本に、美鈴は引っかかっていた。
どうやら気絶しているらしく、身動きひとつしない。
「マズいな……早く治してやんねーと!」
仗助はその木の元へと走り出し、その途中であるものに気づく。
「―――?」
美鈴の引っかかっている木の真下に、妙な男が居た。
(誰だ……?)
背の高い、筋肉質な体をした男だった。仗助に勝るとも劣らない立派な体躯だ。
その優れた体を見るものに納得させるのは、遠くからでも目立つ金の髪と緑の瞳。
髪も瞳も共に自然な色をしているため、紛い物ではないとすぐに判った。
両目の下にある妙なアザと、両手のオープンフィンガーグローブ、
そして鉢巻きのごとく頭に締められたバンダナが特徴的だった。
「大丈夫かい、シニョリーナ」
男は木に引っかかった美鈴を抱きかかえるようにしてそっと木から下ろし、地面に横たえる。
「すまないが、しばらくの間おとなしくしていてくれ」
そして自身の両手を打ち鳴らすように合わせ、静かに離していく。
するとどうだろう。手の間にシャボンの膜が出来ていくではないか。
男はそのシャボン膜で美鈴の体を包み込み、ひとつの大きなシャボン玉とした。
シャボン玉はふわりと空中に浮いて、
――人ひとりが中に入っているというのに――
地上から一メートルというあたりで上下しつつ、安定した。
美鈴は目覚めない。
「おい、てめーっ! 何をしてやがるッ!?」
仗助は咄嗟に叫び、相手の注意を己に向けさせる。
これ以上何かされたら、美鈴がますます危険になる。
「フン。うるせー声だな―――」
男は『ダサいやつには付き合っていられないぜ』といった感じの、
自信たっぷりな表情で仗助のほうに振り向く。が、
「JOJO……!?」
仗助の顔を見たとたん、
まるで『自分が次に喋るセリフを言い当てられたかのような』表情になってそうつぶやいた。
「……解放しなよ、美鈴さんを」
仗助にとっては、相手が動揺しようとしまいとどうでもよかった。重要な事はふたつだ。
『美鈴を助ける』。『敵はぶちのめす』。
両方やらなくてはいけないのが辛いところだったが、しかしやるしかなかった。
なら、出来るだけ動揺してくれたほうが物事を有利に運べて都合がいい。
だから仗助は無視して喋った。
「……そういうわけにもいかないな」
男はすぐに気を引き締め、その表情に自信を満たす。
そしてちょうど近くにあった手ごろな岩に腰かけ、言った。
「俺の名は! シーザー・アントニオ・ツェペリ!」
シーザーと名乗った男は、言い終わると同時に空高く跳躍。岩に腰かけた姿勢のまま。
「なにィー!? 座ったままの姿勢でジャンプをッ!?」
それを見た仗助は心底驚いた。思わず叫んでしまうほどだった。
……仗助は今までの20年に満たない人生の中で、さまざまな(怪しい)ものを見てきた。
何から何まで自分そっくりな人形、食うと健康になる料理、殺人鬼、
猫のような草のような生物、絶大な再生力を持つ代わりに色々と壊れた生命、
宇宙人だかなんだかよく判らない奴、本物の幽霊、人をぐちゃぐちゃに溶かすネズミ、
透明な赤ちゃん、鉄塔に住む男、不思議な力を持つ巫女、魔女、メイド、妖怪。
だが、これほどに怪しいものは見た事が無かった。
前述の面々に比べれば、座ったままの跳躍くらいどうって事ないと思えるが、それは違う。
仗助が今まで見てきたものには、
たとえどんなに怪しくても、それぞれにそれぞれの理屈が有った。意味があった。
だがこれは―――座ったままの跳躍は違う。意味が無い。理屈が解らない。
普通に跳べばいいところをなぜ座ったまま跳ぶのか。趣味か?
―――決まっている。見た相手を驚かせるためだ。
だからそれほどに怪しく、だからこそ仗助は驚いたのだ。
仗助が驚いたのはほんの一瞬の事だったが、それで十分だった。
「彼女の邪魔はさせないぜ! くらえシャボンランチャーッ!」
言葉と共にシーザーの手から放たれたいくつものシャボン玉を、かわせなくなるには。
上はバスケットボール大から、下はソフトボール大まで、さまざまな大きさのシャボン群。
それが仗助を囲むように動き、そして第一陣のシャボンが仗助に触れた。
先ほどと同じ、奇妙な衝撃が走った。
「オゴッ!」
体は痙攣。後方へ吹き飛ばされ―――そこで待ち構えていた大きなシャボン玉にゴールイン。
美鈴と同じように、仗助はシャボン玉の中に囚われた。意識を保ったまま。
「こ、こいつは……!」
実に奇妙なシャボン玉だった。
まるで帯電しているかのように『何か』がシャボン膜を疾走り、バチバチと音を立てている。
人ひとりを持ち上げる浮力と耐久力は、その何かが原因だろうか。
先ほどのシャボンとは違って触れてもなんとも無いのは、
「―――そういう『能力』かッ!?」
「違うね。『技術』さ……!」
人間の体には未知の部分がある。
たとえば『骨針』で脳を押す事によって、後天的に吸血鬼へと成ったり、
たとえば『回転』を加える事によって、穏やかなる死をもたらしたり、
たとえば『ウィルス』に侵される事によって、スタンドと呼ばれる力を身につけたり。
探る手段によって全く違うものが出てくる、暗闇の荒野のような領域が。
出てくるものが、誰にでも使える技術となるか、固有の能力となるかはさまざまだが―――
シーザーが使ったそれは、技術だった。
呼吸を使い、血液の鼓動からエネルギーを生み出すテクニック。
……幽霊に血はあるのか? 近いものが、ある。
それを仮に、ファントムブラッドとでも名づけよう。
―――ともかく、今重要なのはシーザーがそれを使えると言う事だけ。
水面に立つ事も、傷を癒す事も、吸血鬼を倒す事も出来る、生命のエネルギーを操る術を。
その技術の名を仙道。そのエネルギーの名を―――
「俺の『波紋』を食らって気絶しなかった事は褒めてやろう」
波紋という。
……それこそ、仗助の父が生まれた時から扱えた力だった。
仗助はそれを知らない。シーザーの事も、何も知らない。
「だがここまでだ。しばらくの間大人しくしてな!」
「……」
だからといってやるべき事は変わらなかった。
いま勝たなければ全てが終わってしまう。迷いは無い。どちらにも。
「ドラアッ!」
仗助はクレイジー・ダイヤモンドで己を包むシャボン玉を殴った。
いくら波紋によって補強されていても、所詮はシャボン玉。一撃で十分すぎた。
破裂。そして―――
仗助は粉と水を浴びながら着地した。
懐から櫛を取り出し、自慢の髪型をセットし直しながら言う。
「……こんなんじゃあシャンプー代わりにもならないっスねえ~」
「……ッ!」
シーザーは驚愕していた。
ただ壊されるだけなら、シーザーは驚きはしなかったろう。
しかしそれは想定外のものだった。
自分の波紋を、自分で受けるという事態は。
仗助のクレイジー・ダイヤモンドは、
その拳で破壊した『物』や『エネルギー』を完全に直す事が出来る。
そして直されたものは、
――距離が開きすぎていたり、仗助の意思によってはそうならないが――
己の一部がある場所へと自動的に戻っていく。
完全に直るという事は、『完全な状態』に『戻る』ということだからだ。
仗助はシャボンをただ壊すだけでなく、完全に直した。
シーザーのシャボンの原材料は特製の粉と水、そして波紋エネルギーだ。
粉は水は、シーザーの一部ではないため戻らない。
しかし波紋エネルギーは、シーザーが生み出したもの。いわばシーザーの一部。
シーザーの体へと戻っていくのは当然だった。
その波紋は攻撃的なものではないため受けても肉体的ダメージはないが、精神的にはあった。
相手の名を問う程度には。
「……フン。おまえ、名は?」
「東方仗助」
「仗助。その名前、覚えておこう……!」
シーザーは美鈴のほうをちらりと見て、
「シニョリーナ、しばらく眠っていてくれよ。風使いは危険すぎる―――」
そして、無数のシャボン玉を作り出しながら仗助に言った。
「彼女の邪魔は絶対にさせん!」
シーザーが放つそのシャボン玉には、例外なく波紋が込められていた。
攻撃のため+そうしないとすぐに弾けて消えてしまうからだが、
しかしそれは込める理由であって込められる理由ではない。
―――波紋は、液体の中に留まるという性質を持っている。
水、油、酒、体液。
おおよそなんでも来いだ。
(これが金属となると、直に触れて流し続けていないとすぐに外へ流れ出てしまう)
液体内部にあるかぎり、人体のように波紋の伝わりやすいなにかに触れないかぎり、
波紋が大気中に自然と流出してしまうことはない。
つまり。
壊さないかぎり、(少なくとも戦闘中は)シャボン玉はそこに在り続けると言うこと。
それはまるで機雷のよう。
浮かぶ液体というシャボン玉の特性は、波紋の性質と相性抜群だった。
今、戦場に滞空しているシャボン玉に込められているのは、
仗助を捕らえたシャボンの防御的波紋ではなく、最初のシャボンに込められていた波紋。
攻撃的波紋だ。
仗助は、波紋の威力をその身で味わっている。だから解る。
それに触れれば今度こそ気絶してしまうだろうことを。
……三発程度なら、まだなんとか耐えられるだろう。計算上は。
だが、実際は一つでも触れてしまえばそこで終わりだ。
気絶はしなくてもダメージはある。
そのダメージによって体勢が崩れ、他のシャボンに当たってしまう。
滞空しているものか、新しく打ち出されたものに。……どちらでも結果は同じだが。
だから仗助は、クレイジー・ダイヤモンドを使ってシャボン玉を壊すことにした。
「ドララララ―――!」
クレイジー・ダイヤモンドが一回拳を振るうたび、シャボン玉がひとつ弾けて消える。
弾けるたびに快音が鳴り、それがいくつも合わさってひとつのメロディーとなった。
クレイジー・ダイヤモンドの拳は、シャボン玉に直接触れてはいない。
そんなことをすれば波紋が己に伝わってしまうからだ。
……優れた格闘家は、
離れた位置にあるロウソクの火を、打撃の風圧で消し飛ばすことが出来るという。
格闘家より何倍も速いクレイジー・ダイヤモンドの拳が、それを出来ないはずはなかった。
いくら波紋で補強されているとはいえ、所詮はシャボン。
流れ星が落ちるように、生きるものが死ぬように、シャボン玉もまた弾ける定めにある。
シャボン玉ほど儚いものは、無い。
己のビートを刻みながら、仗助はじりじりとシーザーに近づいていく。
仗助は弾幕を張れないし、投げるのに手ごろなものは無い。だから歩いて距離を詰める。
(あと、少しだぜ~ッ!)
それは速度の勝利だった。
シーザーも絶え間なくシャボン玉を作りつづけてはいるのだが、
シャボン玉が作り出される速度より、シャボン玉が壊れる速度のほうが少しだけ速かった。
……あと二歩で、クレイジー・ダイヤモンドの拳が届く。
そこでふと仗助は思った。
(―――待てよ? なぜこいつは)
思いながらも拳を振るい、シャボン玉を一つ壊す。
そのシャボン玉が当たりだった。
「ぐううッ!?」
大・衝・撃。
そのシャボン玉が弾けて出した音は、とんでもなく騒がしい音だった。
人体に強いダメージを与えるほどに。
「掛かったなアホがッ!」
音に耐え切れず膝をついた仗助を見て、シーザーが快哉の声を上げた。
シーザーは、いつのまにやら己の身をシャボンで包み、音から身を守っていた。
(し ま、っ た……!)
―――強烈な音を放ったシャボン玉。
それは、他のシャボン玉と見た目的にはなんら変わりが無かった。
問 いったいどこが違っていたのだろうか。
答 見た目と素材以外の全て。
そのシャボンはこの戦いが始まる前に作られたもので、中には騒霊の音楽が入っていた。
シャボン玉は中に大気を孕んでいる。
その大気に音が混じっていようと、浮かび具合に違いは無い。
ゆえに外から見分ける事は出来ず、起動させれば回避する手段も無い。
それは機雷のなかに混じった地雷だった。
それこそがシーザーの切り札だった。
相手の動きが鈍った。そんな好機を見逃すほど、シーザーは甘くない。
「シャボンが! ただおとなしく浮かんでいるだけだなんて思うなよ!」
サイドスローのピッチャーのように両腕を振り―――
「シャボン・カッターッ!!」
中心の膨らんだ、エッジを持つ円盤。
そんな形のシャボン玉を作り、仗助めがけて投げつける。
シャボン自体が高速回転しているうえ、そのエッジは遠目からでも判るほど鋭く、
触れれば波紋に加えてエッジで体を切り裂かれるだろう。
「……ッ!」
仗助はふらつく体に喝を入れ、立ち上が―――れず地面に転がった。
だが、あえてその勢いを殺さず、そのまま転がって目的地を目指す。
(あそこ 、だ!)
シャボンカッターが仗助の体を掠めて通り過ぎた。
仗助はひたすら転がって、シャボンカッターを避けつつ目的地へ進む。
狙ってやったわけではないが、その体勢はなかなかどうして悪くなかった。
クレイジー・ダイヤモンドで地面を殴ることによって回転速度を加減速できるし、
滞空するシャボンにも当たらないからだ。
気をつけるべきなのは、超低空にあるシャボンと襲い来るシャボンカッターのみ。
それを上手くかわす。
下手に壊せばまた『当たり』を引いてしまうかもしれないので、かわす。
それは楽な事ではなかったが、不可能な事でもなかった。
もっとシーザーが近づいてきてくれれば言う事はないのだが
――接近戦ならクレイジー・ダイヤモンドのある仗助が圧倒的に有利だ――
そうそう上手くはいかない。
シーザーは決して仗助に一定以上近づこうとせず、あくまでも遠距離戦に拘った。
クレイジー・ダイヤモンドを警戒していたからだ。
スタンド使いでないため見えはしなかったが、シーザーはその存在を認識している。
シャボンの中から脱出した時、シャボンを遠くから割った時も、仗助は腕を動かさなかった。
それによって、仗助が己に見えない攻撃手段を持っていると理解したのだ。
ゆえに、攻防は牽制に終始した。
牽制を牽制し、牽制されれば牽制で返す。
それが終わったのはわりとすぐの事だ。限界点は近くにあった。
「終わりだぜ仗助!」
仗助は転がって転がって転がって回避し回避し回避して、
とうとう避けることが不可能になった。
それは気合でどうこう出来る問題ではなかった。というか隙間が無かった。
仗助に迫っているシャボンカッターは五つ。
直接狙ってきているのはふたつ。転がってかわそうとすれば当たるものがふたつ。
地面を殴って跳躍すれば、最後のひとつに当たってしまう。
そして立ち上がれば、滞空しているシャボンに当たる。
「俺が近づくのを待っているのなら諦めな!」
シーザーの接近も期待はできない。接近戦では仗助が有利と、シーザーは解っている。
手詰まりだった。
あと一回転で、目的地にたどり着く事が出来ていなかったのなら。
「いいや…おれが待っていたのは…ここに着くことだぜ……!」
限界点は近かった。しかしそこは目的地にも近かった。
重たい音を立てて仗助の体が沈む。そのすぐ上をシャボンカッターが通り過ぎた。
沈んだのは地面にではない。水だ。
仗助が目指していたのは池だった。
なぜなら―――
「考えが甘いんだよスカタンッ!」
そうするしかないように、シーザーはシャボンを配置していたからだ。
罠に掛かった獲物にすることはひとつ。
シーザーは、もっとも強いとされる拳からの波紋を
「水中のための青緑波紋疾走(ターコイズブルーオーバードライブ)―――ッ!!」
躊躇い無く池に撃ち込んだ。
その波紋は、集束させたものではなくあえて拡散させたもの。
広範囲に伝わるかわり威力は弱い。しかしこの場はそれでよかった。
波紋は池中を縦横無尽に駆け巡り、池底に仕掛けられていたシャボンたちを割っていく。
シャボンの中には、全て騒霊の音楽が封ぜられていた。
―――爆発。
それは火の無い爆発だった。
音が弾け音が奔り音が壊し音が音が音音ががが――― 爆発した。
池の水がさんざんに掻き回され震わされ、空いている上方へと押し上げられていく。
大きな小鬼でも跳び込んだかのように、池の水が高く跳ねた。
そして万有引力に従い、局地的な雨が降った。
先刻と今。威力の違いは何ゆえか。
数の違い? それもある。
奏者の違い? それもある。
反射壁の違い? それもある。
しかし、最大の理由は。音速の違いだった。
……大気中と水中では常でさえ四倍程度の差がある。
そしてここは冥界。冥界の大気は音速が遅い。
速ければ速いほど、何事も威力は強くなる。そういうものだ。
「……ママミーヤ」
水量が半分以下に減った池を見て、シーザーは色々と理解した。
あの音撃をまともに受けて、人間が命を保つ事なんて不可能だ。
「……今のは、グレートに危なかったぜ……」
しかし、受けなければどうとでもなる。
―――仗助は池を一心不乱に目指していた。
なぜなら。
「博打なんざ二度としたくはなかったが、それだけの甲斐はあったようッスね~」
そこが何から何までシーザーに有利な場所だったからだ。
水中は音速が速い。
シャボンも大気中と同じようにその形を保つ事ができ、波紋も伝わりやすい。
そして、見えないように罠を仕掛けるスペースもある。
だからこそ。
だからこそ仗助は、あえて池に飛び込んだ。
「―――池に追い込んだのは失敗だったか」
ほんの少しだけシーザーの視界から外れる事が出来ればよかった。
ほんの少しだけシーザーが油断してくれればよかった。
そうすればクレイジー・ダイヤモンドで池の壁面をぶち壊し、土中を掘り進んで行ける。
「あんまやりたくはなかったけどな~。服が汚れちまうからよー」
池に当然あるであろう罠をクリアできるかは半ば賭けだったが、それは上手くいった。
罠の作動音――あの爆発音――で、土中を進む音をごまかす事も出来た。
「……フン。大した男だ」
こうしてシーザーの『前』に立つ事が、出来た。
仗助とシーザー。
鼻と鼻がくっつきそうな至近距離で二人は向かい合っていた。
この状況を西部劇のガンマン風に言うなら、
『ぬきな! どっちが素早いか試してみようぜ』
というやつだった。
……二人は、動かない。
タンブルウィードも戦鐘も、合図となるものは何もない。
ただ、静かに空間が張り詰めていって―――
「シャボンランチャ―――ッ!!」
「クレイジー・ダイヤモンドッ!!」
放ったのは共に一撃。
その一撃がこの戦いに終止符を打った。
(―――)
仗助は静かに反芻する。
シーザーについて。この戦いについて。
……美鈴を人質として有効活用することを、シーザーはいくらでも出来ただろう。
動けない美鈴に何かしらの攻撃をされたら―――
仗助は美鈴を庇うしかない。たとえそのために負けることになっても。
なのにシーザーはそうしなかった。
勝つためにはそうするのがもっとも効果的だったというのに。
その事が判らないほど頭の動きの鈍いやつではないだろうに。
―――それは謎というほどの事でもない。
美鈴をシャボンの中から助け出しながら、仗助は思った。
(ああ、やっぱりな)
美鈴は意識こそ失っているが、治すべき傷はひとつも無かった。
シーザーに美鈴を傷つける気はなかったのだ。人質ですらなかったのだ。
美鈴をシャボンの中に閉じ込めたのは、邪魔をされては困るからだ。
シャボンの障壁は内側からの攻撃を遮断する。
しかし内側からの攻撃を遮断するということは、外側からの攻撃も遮断するということ。
何が起こるか判らない戦いの場においては、シャボンの中に居るほうが逆に安全だろう。
シーザーは手を抜いていなかった。しかし手段は選んでいた。
誇りゆえに。
それを理解した仗助は、万感の思いを込めて呟いた。
「……シーザー・アントニオ・ツェペリ……! グレートな男だぜ……!」
―――打撃は食らっても死ににくい。
怪我は当然するだろうし、当たり所によってはあっさり死ぬだろうが、
しかしそれでも打撃は死ににくい。
手足は鋭くないからだ。
いくら鉄で叩いたって、肉は硬くなるだけで鋭くはならない。
刃とは、違う。
仗助とシーザーが拳を用いてやりあっているその時、
咲夜と妖夢は刃を使ってやりあっていた。先ほどと変わらぬ位置、階段半ばで。
それは、ただ一度でも直撃すればそこで終わる闘いだった。
最長でも四百七十五秒で終わるはずの闘いだった。
いつ終わってもおかしくはない、幻のような闘いだった。
だが、未だにその決着は着いていない。
斬られたものは無数にあれど、切り札だけは斬られていない―――。
闘いのさなかで咲夜は斬られた。
それはまさしく一刀両断。
一瞬前まで空を進んでいたものが、ただの一瞬で勢いごと身を斬られて地に転がった。
見ただけで心を斬られてもおかしくはない、あまりに鋭い斬撃であった。
闘いのさなかで妖夢は斬られた。
それを実行した刃は、その速さゆえに体という目的地を通り過ぎ、どこかへ飛んでいった。
彼女の半身は既にその姿を
――空中にふわふわと浮く、大きく白く丸い玉。話に語られる人魂そのものへと――
変じており、斬られたのは人間体の妖夢だった。
しかし闘いは終わらない。
咲夜が斬られたものはナイフ。妖夢が斬られたものは肌。
ナイフの換えはまだまだあり、腕ではなく肌なら問題はなし。
だから、闘いは終わらない。己の刃が相手の命に届いていないゆえ。
咲夜はひたすらにナイフを投げ撃つ。妖夢は動かずそれを斬る。
―――咲夜が十刀を放てば妖夢はそれを二十の刃片に、百を放てば二百の刃片へと変えた。
ナイフはみな最終的には妖夢に斬り落とされてしまうが、
―――だが、百と一刀を放てば、妖夢は二百の刃片を作りながら自身にひとつの傷を作る。
その過程で妖夢に傷を負わせるものもあった。
―――妖夢は一刀で傷を負うこともあるし、千刀でも傷を負わないこともある。
傷といってもみなかすり傷。剣勢が鈍るほど深いものはない。
―――妖夢に傷を作るのは、妖夢自身が当たっても問題ないと判断したものか、
しかし、それで問題はなかった。
―――当たらなければ他のナイフに対処できない時のもの。
咲夜がナイフを投げ続けているのは、妖夢を移動させない事を目的としている。
―――動いてかわす事は出来ない。咲夜のナイフは瀑布のごとくに激しく多量。
もちろん最終的には撃ち倒すが、今はこれでいい。
―――今は下手に動かず、斬り落とし続けて総量を減らすべきだ。撥ね帰すのでなく。
ふたつの計算が上手く噛み合い、ひとつの流れを作りあげた。
剣は投げられ剣に斬られる。
その流れの中で動いているのは、風と刃と時間だけ。少女たちは動かない。
ゆえに問題なく淀みなく、流れは流れて―――
銀光と剣風が乱れ舞い、硬音と鼓動が響き鳴る。
―――どのくらいの時が経ったのか。正確には判らない。が、ともかく。
それは唐突に終わった。
咲夜がナイフの投射を中断したからだ。
あっという間に、辺りには静寂が満ちた。
そこには何の残光も残響も無い。あるのは刃の残骸と、残心のみ。
先刻まで縦横無尽に振るっていた剣をぴたりと止めて、妖夢は無表情に言う。
「もう種切れか、奇術師」
それは言った妖夢でさえ信じてはいない言葉だった。
咲夜が何を企んでいるかは判らないが、これは明らかに誘いだ。
斬って、近づいて、といわんばかりの。
言うまでも無く何かある。己と同じように、未使用の切り札を持っている。
だから妖夢は動かない。言葉を使って裏を探る。
「ええ、種切れよ」
咲夜はそんな妖夢に見せ付けるように、ゆっくりと一本のナイフを取り出し、言った。
「これが私の最後のナイフ。……信じる?」
信じられるわけが無かった。
敵の言う事をいちいち鵜呑みにしていては命がいくつあっても足りない。
妖夢を動揺させるためのブラフ(はったり)に決まっている。
だが、それは本当の上に成り立つブラフなのか、嘘の上に成り立つブラフなのか。
そもそも正気なのか?
「……なら、ナイフじゃなくって旗を出すべきだ。奇術師らしく」
真実なんて妖夢には関係のないことだった。
最後の一本。それが本当なら妖夢が勝つ。嘘でも負けない。
ナイフが残り一本だろうと万本だろうと、やるべきことに変わりは無いのだ。
斬る。
「そんな必要は無いわ」
薄く笑って咲夜は言った。
「この一投で勝つもの。私が」
瞬間、場の空気が極限まで張り詰めた。
「戯言を……!」
挑発と判っていても腹が立った。
さんざんに斬られたものが言うセリフではない。言っていいセリフじゃあない。
「事実よ。『剣』を振るっている相手に、この私が負けるはずがない」
その声音はどこまでも爽やかで嫌味が無く、それがかえって妖夢の神経を逆撫でた。
「……」
妖夢は無言で剣を構える。
裏に何があろうと関係ない。斬り潰す。まずはそのナイフを。
そんな無言の声が聞こえてくるほどの、とてつもなく気迫の篭った構えだった。
咲夜はそれを望んでいた。
うろちょろ動かず、弾幕も張らないその姿勢を。
それこそは、この闘いの最初から妖夢が貫いていた姿勢。初姿(しょし)だ。
妖夢がそれを貫徹する事こそ、咲夜が勝つために必要な最後の欠片だった。
「じゃ、行くわよ」
妖夢の構えを見て、咲夜はあっさりナイフを投げた。
通る軌道は真っ直ぐ。狙う先は妖夢。その勢いは、それまでのものとなんら変わりない。
つまりナイフはすぐさま妖夢の射程圏に入り、妖夢はいつもどおり剣を振るう―――
この時もまた、妖夢が放ったのは刃による一撃だった。
妖夢はこの時点においても弾幕を張らなかった。
咲夜にその理由は判らない。張らないのか張れないのか。それすらも判らない。
解るのは、下手な弾幕よりもその一閃のほうがよほど恐ろしいということ。
(相も変わらず―――ッ!)
スローになった感覚の中で、咲夜は思う。
それは別に咲夜が時をいじっているわけではない。
そう感じるほど妖夢の一閃は恐ろしいのだ。
……たとえどんなに恐ろしくても、時間を止めるわけにはいかない。
『力』を溜めておくためには。
―――時間を操作するのには、体力とは違う力を消費する。
体力が無限ではないように、その力もまた無限ではない。時を止めっぱなしには出来ない。
出来ないからこそ、使わずに溜めておかなくてはならないのだ。
次の獲物が見つかるまで、餌から得られた力を溜めておく野獣のように。
……何かを溜めるには犠牲が不可欠だ。
溜めるということは、途中で使いたくても使えないということ。
溜めているものを使わずに途中の難関を突破するには、どうしても犠牲が必要だ。
この闘いが始まってから、咲夜はただの一度も時を操っていない。
そのために咲夜が犠牲としたものは、多少の時間と多量のナイフ。
……そう、咲夜のナイフは本当に一本しか残っていなかった。
いま妖夢に投げて、いま妖夢に斬られようとしているそれが最後の一本だ。
その一本以外はみな等しく妖夢に斬られ、ただの刃片へと変わっていた。
それらの刃片は全て切断時の衝撃で酷く歪んでおり、もはや使い物にはならない。
もちろん妖夢はそれを狙ってやった。刃片を投げられては斬った意味が無いからだ。
しかし咲夜がこれからしようとしている事に、刃片は必要ない。多量のナイフも必要ない。
せいぜい一本あれば十分だ。
その刃が触れるまで、妖夢が動かないでいてくれるのなら。
―――妖夢の剣がナイフを断ち斬り、そして妖夢は咲夜のほうへと動き始めた。
もちろんそんな事が起こるはずも無い。
迫る危機に対処しないやつがいるものか。時間に追われ、対処できないものは居ても。
だから、咲夜は、それを、する。
「――収縮開始――」
その言葉に意味は無い。意味有る発言で力を発現させるのは術師だ。
咲夜はあくまでもメイドであって、魔術師でも奇術師でもない。
だから、その力を使うのに言葉は要らない。要るのは『力』だけ。
けれど溜めていた『力』を解き放つには、言葉というきっかけが最適だった。
その力で咲夜がしようとしているのは―――
己へ投げられたナイフのごとく真っ直ぐに、己へ投げられたナイフを上回る速度で。
咲夜の位置へと妖夢は駆ける。
人の眼で前方+上下左右を見て、霊の眼で後方+上下左右を見る。そこに死角は無い。
なのにそれは現れたのだ。唐突に。
「―――なッ!?」
妖夢の目前に自分の背中があった。
目前の自分の背中の前には、当然のように自分の背中があった。その前にも、あった。
そして自分の背後には、自分が居た。その後ろにも居た。居た。居た。居た。居た。
そして自分と自分の全ての合間には、自分に向かって進んでいる一本のナイフが有った。
それらの数は無限。というわけではなかった。
前に見える背中は咲夜の目前で途切れており、後に見える自分もある位置で途切れている。
合間のナイフもその二点で途切れており、そして横方向にはナイフも体も無かった。
妖夢の反応速度なら、横っ飛びにかわす事は出来ただろう。
だが、妖夢にナイフをかわす事は叶わなかった。
(なんだこれは……!?)
体が動かない。というよりも、止まらない。
それこそ放たれたナイフのように、状況が変わっても軌道を変える事が出来ない。
心の言う事を聞かず、妖夢の体は前へと進み続け―――
勢いよくナイフに刺さった。
そしてそのナイフは妖夢の体を突き抜けて後ろに居る妖夢に刺さり、
前の妖夢から突き抜けてきたナイフが、妖夢の体に刺さった。そしてそのナイフは妖夢の体を
(幻影じゃ、ない……!)
証拠となるのは体の痛み。流れ出る血。
「貴女がそうなるのは当たり前。
だって、時を表す剣(ハリ)は時間によって動かされているんだもの」
妖夢が見た自分の背中は、未来の自分だった。その場所に居る時点の自分。
妖夢が見た背後の自分は、過去の自分だった。その場所に居た時点の自分。
妖夢が見た合間のナイフは、近過去のナイフだった。先ほど妖夢が斬った最後の一刀。
咲夜は、時を止めるのではなく圧縮したのだ。
―――そう、咲夜はそんな芸当もできる。
咲夜の力は『時間を操る程度の力』だからだ。
時を止めるだけしか出来ないのなら、それは操るとは言えない。
時間を圧縮すれば何が起こるか?
近い過去と近い未来が現在と呼んでも差し支えないほど近くなり、世界はそれを映しだす。
妖夢が動かず斬った最後のナイフは、
妖夢に到達するまでは斬られていないわけだから刃は健在。妖夢を傷つける事は可能。
妖夢が己の背中を見たと言う事は、
もはや直進するという未来は確定しているわけで、つまり回避は不能。
妖夢は咲夜(未来)へ進みながら、同時にナイフ(過去)へ向かっても進んでいたのだ。
(不覚……ッ!)
妖夢は己の傷からそれを悟り、
(もっと『早く』斬っていれば……!)
同時に、この技の弱点と思われるものを、理解した。
通常咲夜は、この技を使わない。
使うのに『力』がたっぷり必要だというのもあるが、一番の理由は―――
危険過ぎるからだ。
たとえば戦闘中。
三秒後に相手が攻撃を放ち、咲夜がそれに当たってしまうとする。
咲夜は時を操れるけれども、未来予知が出来るわけではないので、その事は知らない。
そして、
「収縮開始……!」
勝つために咲夜がこの技を使用したとする。
……咲夜の攻撃は当然相手に命中し、(知らなきゃかわせるかこんなもの!)
三秒後に放たれた相手の攻撃も、もろに食らう。
(圧縮された時間の中では、そうした張本人である咲夜とて自在には動けない)
それでなお立っていられればいいが、相討ち―――いや、咲夜だけが倒されれば。
ハイリスク。あまりにハイリスク。
それを熟知している咲夜があえてこの技を使用したのは、そうしなければ勝てないからだ。
普通に時を止めて攻撃しても、その内の何本が当たるかどうか。
妖夢の剣技は半端ではなく、咲夜のナイフは半端にしかない。
だから、咲夜はこの技を使った。
確かにこれはハイリスクな技だ。しかしその分ハイリターンだ。
一本のナイフが当たれば、その一本が圧縮した時間分当たりつづける。
そのダメージは一本分ではなく何十、何百本分になる。実にインチキ臭い!
妖夢はそのインチキをもろに食らった。
咲夜の挑発に、誘導に引っかかり―――
咲夜の目前にたどり着いたときには、いつ倒れてもおかしくはなくなっていた。
それでよくたどり着けた―――と言いたいところだが、
圧縮された時間の中で咲夜の目前に妖夢が居た以上、そうなるのは当然だった。
「貴女がそうなるのは当たり前。
だって、時を表す剣(ハリ)は時間によって動かされているんだもの」
そう、当然なのだ。耳元で響く咲夜の声を聞きながら、妖夢は思った。
(……手間が…省けた…ッ!)
妖夢の負った傷は、全て利き腕、剣を振る腕に集中していた。
その傷はぎりぎり致命傷には至っていないものの、
もはや――この戦闘中では――剣を振るう事はできないだろう。
だから、この一撃が最後だ。
「……斬!」
妖夢は最後の力を振り絞り、咲夜に斬りつけた。
それは今にも倒れそうなものが放ったとは思えない、神速の一撃だった。
直前の時間圧縮によって『力』のほとんどを消費している咲夜に、それをかわす術はない。
(獲った……!)
刃が、咲夜に触れる。
「それくらいはやるだろうと思っていたよ」
咲夜は妖夢の行動を読んでいた。
というより、その一撃を食らう事は最初から予定に入っていたのだ。
たとえ圧縮時間で致命傷を与えていたとしても、そのくらいはやってくるだろうと。
『相討ちになってもかまわない』
という覚悟を、咲夜は妖夢の瞳から感じ取っていた。
だからといって、それに付き合う気は咲夜にない。そんな事をしたら死ぬではないか。
白銀を越え、迷家を越え、租界を越え、そして結界を越えて、やっとここまで来たのだ。
それをいまさら無にすることなんて出来るはずもなかった。
咲夜は妖夢と相討ちになる覚悟はない。
というか、死/犠牲を良しとする心は、覚悟とは言わない。
真の覚悟とは、弾幕吹き荒れる荒野に進むべき道を切り開く事だ。
「―――!」
まともに声も出ないほど、妖夢は深く強く驚いた。
己の刃が桜の花びらに包まれ、咲夜に触れる寸前で押しとどめられていたからだ。
その花びらは、咲夜の懐からこぼれ出たもの。
それは、ここに来るまでに咲夜が集めたなけなしの春だった。
―――春に何が出来るのか。
いろいろ出来る。
花を咲かせること、人を狂わすこと、傷を癒すこと。……そして、弾を防ぐこと。
春というものは一年の四分の一を構成するものだ。
言い換えれば、森羅(セカイ)の四分の一を構成しているもの。
その力を結界の元とすれば、結界の強度は世界とタメを張る。
刃の一つや二つ、防げて当然だった。
しかし咲夜が集められた春はあまりに数少ない。
ゆえに結界の効果時間は短く、一撃を防げばもはやそれで限界だ。
だから咲夜は既に跳躍、前方へ一回転して勢いをつけながら―――
「寝てなッ!」
言葉とともに蹴りを浴びせる。
ナイフの一撃にも劣らない、実に鋭い蹴りであった。
命中。
もはや体力と気力の限界にあった妖夢に、それを防ぎ、耐える事は出来なかった。
妖夢は意識を手放し倒れ、それと同時に咲夜も着地する。
「……ふう」
咲夜はゆっくり息を吐いて、全身の力を抜いていく。
そうしなければ、緊張のあまり倒れてしまいそうだった。
「……全く、末恐ろしいわねぇ」
己の服をじっと見ながら、咲夜は恐れと呆れの入り混じった声でつぶやく。
服には一本の綺麗な線が走っており、そこから素肌が覗いていた。
刃自体は完璧に防いだものの、刃に込められた『力』は結界を越えて届いていたのだ。
といってもそれは微量な物。斬る事が出来たのは服だけで、体に傷は無い。
しかし。
もう少しだけ妖夢が出来ていれば―――、負けていたのは咲夜のほうだったかもしれない。
咲夜は倒れ伏した妖夢に視線を移し、考える。
(今すぐ再戦しても、今度は違う結果になるでしょうね……)
妖夢は意識を完全に手放していながらも、剣だけは手放していなかった。
それは偶然ではない。意志によるものだ。
「……さあて、と」
ぐずぐずしている暇は無かった。
先行した仗助たちのことも気になるし、妖夢がいつ起き上がってくるとも限らない。
「トドメを刺しておこうか?」
妖夢は目覚めた。
「……っ」
と同時に己の体が横たわっている事に気づき、辺りの様子を警戒しつつ立ち上がる。
(奴はどこに……?)
そこは階段の半ばだった。……どうやら先ほどと位置は変わっていないようだ。
近くに転がっている石壁――仗助が造った物だ――からもそれが判る。
しかし判るのはそれだけであり、咲夜がどこに居るのかは判らなかった。
「くそ……!」
己が剣を手にしていられる訳も、妖夢には判らない。
見逃す理由は無いはずだ。
目に映るのはあからさまな敵。あからさまな武器。奪う隙はいくらでもあっただろう。
なのに、命も剣も奪われてはいない。それどころか与えられていた。
「……」
妖夢は無言で剣を握り締める。
その手には、妖夢の物ではない白いハンカチが結ばれていた。
―――そう、妖夢の腕の傷は『何者か』によってしっかりと手当てがされてあった。
痛みにさえ目をつぶれば、剣を振るうのに何の問題もない―――
妖夢には色々と判らない。
咲夜が己に止めを刺さなかった訳も、傷の手当てをした者も、手当てをしたその理由も。
それは情けか、打算か、それとも―――?
「行かなくちゃ……」
どうでもいいことだった。妖夢にとって大切なのは、たった一つのことだけだ。
妖夢は階段の上へと動き出す。
もはやこの場に止まる理由は無かった。
主を護る。そのために妖夢は在る。
近くに敵が居ないというなら、追いかけて斬り潰すのみだ。
そこには誰もいなかった。とりあえず見える範囲には。
あるのはただ砂と呼ばれる石と、石と呼ばれる岩。そして大きな屋敷。
それは枯山水式の庭であり、そこは西行寺の屋敷の庭だった。
仗助はクレイジー・ダイヤモンドで塀の縁を掴みながら、ゆっくりとその庭へ下りた。
そして、出来る限り慎重に、迅速に、近くにある岩の陰へと移動する。……成功。
(よーし…!)
足元から伝わってくる白砂の感触は予想以上にきめ細かく、立てる音も小さかった。
相当派手に動かないかぎり、砂音で己の存在に気づかれることは無いだろう。
―――においで気づかれるかもしれないし、小さな音も聞き逃さない耳があるかもしれない。
既に見られているかもしれない。目に見えないセンサーがあるかもしれない。
だが、やれるだけの事はやっておくべきだった。
目立たないように、気づかれないように。門から入るなんて言語道断。
塀をよじ登り、庭に存在する岩の陰へ身を隠し―――戦わなければいけないものを見極める。
時間は無い。けれど慎重に。
あとどれだけの相手をしなくてはいけないのか、判らないのだ。
シーザーを倒したあと、仗助たちはひたすらに歌の聞こえてくるほうへと進んだ。
襲い来る毛玉の群れを打ち倒し、
しもべと言う意味の名を持つ炎使いを打ち倒し、
騒霊の三姉妹を撃ち倒し―――
それはなんとも厳しい道中であった。
美鈴が居てくれなければ―――はたして仗助は、未だ五体満足で居られたかどうか。
筆舌尽くしがたい働きを、美鈴はした。
殴って蹴って体当たって、気を使って放って撃ち倒して。
先ほどの咲夜のように、たった一人で強敵の相手を引き受けて。そして言ったのだ。
(近くに居られると、全力を出せないんですよ)
それは単なる事実だった。嵐は、爆風は、敵味方を判別してくれない。
だから仗助はここに居る。だから美鈴はここに居ない。
だから、岩の陰から仗助は動かない。
岩陰から顔だけを出し、世界を表す庭を、その向こうにある屋敷を、じっと見やる。
……合わせるための力は無く、失敗をフォローしてくれる者もいない。
ひとりで行動するというのはそういうことだ。焦りは禁物。
庭は、屋敷は、不安になるほど静かだった。
先刻まで確かにそこから聞こえてきていた歌は、既にその響きを止めている。
気が変わったのか、伴奏無しは嫌なのか、ただ単純に歌い終わっただけなのか。
どうでも良かった。
重要なのは、歌い手が今そこに居るか居ないかだけだ。
「……」
静かに息を吐きながら、仗助は岩陰から出た。そして屋敷のほうへと真っ直ぐ歩き出す。
結局のところ、それしか手段は無い。
仗助の身体能力はあくまでも人間レベル。
音の聴こえる範囲は狭く、物が見える範囲は狭く、香を嗅げる範囲も狭い。
それらをカバーするもの――スタンド――が仗助にはあるけども、
仗助から離れられる距離は短いし、そもそも敵地で唯一の武器を手放せるわけがない。
つまり、そこに何があるかは近づかなければ判らないのだ。
だからそれは、しょうがないこと。
庭中で、密やかに動き出したものがあった。
そいつは静かに、しかし堂々と仗助へ近づいて―――
たったひとりで何かに立ち向かわなくてはいけないのならば。
必要なのは対策ではなく、心構えだ。ただひとつの認識だ。
選べる道はあまりに少なく、取り返せない・避けられない失敗はあまりに多い。ということ。
仗助は庭を見ることによって心を落ち着け、それを認識していた。
だからパニックにはならなかった。
「こ、こいつ―――ッ!!」
大声で叫びはしたが。
犬。
犬である。
ツートンカラーの毛皮を持つ小さな犬。ボストン・テリアというやつだ。
そいつは実にふてぶてしい面をしていた。
それは番犬の顔ではない。他人に己が身を預ける者の顔ではない。
誇りある愚者の顔だ。
……そんな顔をした犬が、仗助の頭にかじりついて、仗助の自慢の髪をむしりとっていた。
「ぐあああーッ!」
仗助のその叫びは髪をむしられている苦痛によるものではなかった。
プ…
犬の屁によるものだ。犬の尻は仗助の面前にあった。
「……こんのクソ犬ッ!」
痛みと屁は骨髄にまで染みた。
さすがに軽く切れた仗助は、クレイジー・ダイヤモンドを発現。犬を掴もうとする。が。
「……!」
それを『見た』犬は仗助の頭から跳び下り、自身の―――
その顔は、暗黒大陸特産の仮面に似ていた。
上半身は機械と獣の合いの子じみて、
下半身はF-1マシンそのもののタイヤとサスペンション。
仗助よりも一回りほど大きいその体の色は、白。
それは獣の像だった。
使い手の意思に従い動く、スタンドという名の像。
そいつが砂中から現れ、犬の傍らに立ち、クレイジー・ダイヤモンドを睨みつけていた。
そいつがスタンドである事を直感した仗助は迷わなかった。
「ドラア―――ッ!」
手加減せず、クレイジー・ダイヤモンドで殴りつける。
そのスタンドが敵かどうかはまだ判らない。しかし味方でない事は確かだ。ここは敵地。
躊躇う理由は無かった。
刃を叩いて砕いておけば、刃で危害を加えられる事は無くなるのだから。
そしてダイヤの拳が狙うのは、犬ではなくスタンド自体。
犬がこのスタンドの本体であるとは限らない。なら、スタンドを狙うのが無難だろう。
犬がスタンド使いでなかったらスタンドに対し無防備となってしまうし、
接近戦でクレイジー・ダイヤモンドと張り合えるスタンドはめったに居ない。
そのスタンドは、クレイジー・ダイヤモンドの拳をかわせるほど速くは無かった。
拳はあっさり命中し、
「なッ―――!?」
そして絡め取られた。
そいつは自身の体にいきなり根を生やしたわけでも、手を生やしたわけでもなかった。
触れれば即座にくっつくほど冷たくなったわけでも、磁力を放ったわけでもなかった。
ただ自身の体をバラけさせ、その身の内に拳を取り込んだのだ。
スタンドの体は砂で出来ていた。
……そいつのことをスタンドと呼ぶのは、ボストン・テリアを犬と呼ぶようなもの。
正しくはあるが正確ではない。
そいつの正式な名は―――『愚者(ザ・フール)』。
ただの愚者ではなく、何にでもなれる可能性を持つ、愚者だった。
ザ・フールは砂を操る力を持つ。
体の内側に物を取り込んで砂中に潜ることも、そのまま移動することも、
――犬はそのようにして仗助に襲いかかった――
あたりの砂を取り込んでその身の構成素材とすることも、
――その体が白いのは、庭の白砂を取り込んで素材に使っているからだ――
体を変形させ、拳/剣を取り込んで動きを封じる事も、可能だった。
封ぜられているのは片手だけだ。手はひとつ、足はふたつ残っている。
しかし、それらをどう使っても脱出は出来ない。打撃の威力は砂に吸収されてしまう。
砂のように小さく細かい物を拳で砕く事は、不可能だ。
『粒子』を砕くには特別な力が要る。
つまり。
クレイジー・ダイヤモンドが
『白砂の海(ストーンオーシャン)』から自由(フリー)になることは不可能だった。
とはいえ、ザ・フールのほうも動けはしない。
クレイジー・ダイヤモンドの片手を抑えることに相当の力を使っていた。
下手にザ・フールが動こうとすれば、砂の拘束が緩んでしまうだろう。だから動かない。
ザ・フールの動きをクレイジー・ダイヤモンドで抑えているのだ―――
と、考えられなくも無い状況だった。
……しかし、どう考えても現実状況は変わらない。
スタンドたちは互いに抑えあっており、犬は自由で、仗助の頭に再度噛りついていた。
スタンドの状態は使い手の状態に強く影響する。
クレイジー・ダイヤモンドの手が押さえられているという事は、
すなわち仗助の手が抑えられているということ。
「うぎゃああーッ! た、助けてーッ!」
片手で犬を払いのけるのは難しかった。いいように髪の毛をむしり抜かれていく。
苦痛のため仗助は地面を転げまわるが、犬は離れない。屁。悲鳴。
その犬は、人の髪の毛を大量にむしり抜くのが大好きだった。
リーゼントのようなボリュームある髪型は、吸血鬼にとっての乙女の首筋のようなもの。
噛りつかずには居られない。
だがそれ以上に、噛りつかずにいられない物があった。犬は吸血鬼ではないのだ。
「……!」
唐突に。髪をむしるのを止めて。犬が顔を上げた。
そして仗助の上から跳び降り、ワンワンと吠えながらある方向へ駆け出す。
いったい何が起こったのか。むしる髪はまだまだ残っているというのに。
「くそ、鼠といい猫といい……! おれとケダモノはよほど相性がワリいようだぜ…ッ!」
その理由を確かめるため、愚痴りつつも仗助は立ち上がり、犬の向かったほうを見た。
ひとりの少女が、そこに居た。
……幽霊が普通に存在するこの奇妙な空間で出会うのにふさわしく、
その少女もまた奇妙であった。
死人が着ける三角頭巾を頭に着けており、文字通り地に足が着いておらず、
その髪と瞳には鮮やかな桜の色が着いている。
―――そしてその手には、なぜかチューインガムが握られていた。
少女はガムを見せびらかすように振って、犬に声をかける。
「ほらほら、コーヒーガムよー」
犬はその少女を――正確にはその手のガムを――目指し、駆けていたのだった。
躊躇いも障害物もないので実に速い。
あっという間にたどり着き、襲い掛かるように跳んで―――少女の手からガムを掠め取る。
そして、
これ以外に価値ある物無しと言わんばかりに、クチャクチャと音を立てながら噛み始めた。
少女には見向きもしない。
犬は人間の髪をむしり抜くのが大好きだった。
しかしそれ以上に、コーヒーガムが好きだった。
その匂いを嗅ぐだけで、全ての興味がそれに向けられるほどに。
犬は仗助に対する興味をまったく失ったようだった。ひたすらガムを噛んでいる。
(腹立つぜ……!)
しかし手出しはしない。というよりも、出来ない。
「大丈夫ー?」
のんきな表情で言いながら、少女が仗助のほうへと近づいてきていた。
……今はこの少女に警戒しなくてはならない。
仗助は少女へ己からも近づきながら、つとめて明るく言う。
「どうもすんません、助かったっス」
警戒には二つの種類がある。
相手に判るようにする警戒と、判らないようにする警戒だ。
判るように警戒すれば、覚悟のあるものしか近づいてこない。
そしてそれゆえに、戦いとなれば不利になる。先手を打てないからだ。
判らないように警戒すれば、己の覚悟が見抜かれることは無い。
ゆえに、近づいてほしくなくても近づいてくる。
どちらにもそれなりのメリットとデメリットがあった。
ここで仗助が選んだのは、相手に判らないようにする警戒だ。
あえて普通に振舞うことで、己の警戒を敵かもしれない少女に悟られないようにしていた。
だからこれ以上は近づけない。少女は既に足を止めている。
「……あの犬、ここん家の番犬なんスかね~?」
「いいえ、違うわ」
そう言う少女の顔つきは、先ほどまでと少しだけ違っていた。真剣味がある。
「彼は誇り高き野良。
飼われる事を拒否しているのではなく、自由に野を駆ける事を良しとする者。
……自分の思うがままに振舞っただけじゃないかしら」
「それじゃ、あんたは?」
己を助けてくれたのか、それともただ餌を与えただけなのか―――。
「私? 私は西行寺幽々子。この屋敷の主よ」
「―――ッ!」
仗助はここへ来るまでに出会った者たちを思い返した。
(あの人、彼女、お嬢様、ユユコさん―――)
彼らは皆一様にたった一人の事を口にし、戦いを挑んできた。
まるでそれが『究極の真実(アルティメットトゥルース)』であるかのように。
……彼らは強かった。そして、
(どいつもこいつも、グレートなやつばっかりだったぜ……)
憎むべき敵というよりも、敬意をはらうべき戦士たちだった。
そんな彼らが付き従っている『あの人』とは、いったいどんな人物なのか。
興味が沸かないはずはない。想像しないはずがない。
(これが―――!?)
西行寺幽々子という少女から仗助が受けた印象を、一言で表すのならば―――
花。
限りなく鮮やかに咲いているのに、一瞬後には最初から無かったように散っている花。
いつそうなってもまったく不思議ではない、儚き花だ。
それは、仗助が想像していたものとは大分異なっていた。
妖しさが無い。
どこぞの幼きデーモンロードのように、
望みを拒絶して機嫌を損ねればただでは済まない―――という暴帝の貫禄が、無い。
その代わりといってはなんだが、
己の意思でその望みを叶えてあげたくなる、そんな不思議な雰囲気を持っていた。
カリスマッ!
というやつだろうか。
「ところで、あなたはなぜここに居るの?」
仗助と幽々子の間の距離は、二歩も踏み込めばゼロになる程度。
獣の砂像はいつのまにか消えており、つまり手は自由に動かせるようになっていた。
自由になった手でやるべきことは、なんだ?
「……おれは、友達を追ってきたんでスよ」
幽々子を殴り倒す事ではない。それだけは解る。
「どんな?」
幽々子の問いかけに、仗助は友の顔を思い浮かべながら答えた。
「すげえ欲深で、なんかムカつく奴で、しかしどうにも『放っとけねー』タイプの奴です」
間違っても、あんな死に方をしていい奴では、ない。
「名前は矢安宮重清。……ドコに居るか知ってますかね?」
幽々子の答えは仗助にとって予想外のものだった。
「あら。じゃ、一緒に行く?」
「……?」
「彼は桜を咲かせるための準備をしているわ」
矢安宮重清は己のスタンドを見るたびに思う。
昔の自分はどのようにこれを使っていたのだろうか、と。
生きていた時の事はよく思い出せないが、ろくな事に使っていなかった気がする。
(東方、仗助……)
それに先ほど出会った仗助という少年が深く絡んでいた気もする。
―――気がするだけで確信は無い。重清にある確信はたったのひとつだ。
『己は亡霊である』。
死の衝撃に心が耐えられないせいなのか、それとも他の原因があるのか。
死んで霊となった者は――程度の差はあれ――生きていた時の記憶を亡くしてしまう。
ゆえに彼らは亡霊と呼ばれる。幽かなる縁すら亡くした霊と。
しかし。
肉も記憶も縁も亡くしてしまっても、いまだ亡くしていないものがある。
心と、力だ。
……だから重清は決めたのだ。
己の力を西行寺幽々子のために使おうと。
重清に死んだときの記憶は無い。死んでからの記憶も無い。
気づいた時には、桜の咲き誇る西行寺の庭にいた。
辺りの光景に不安となる要素は無かったが、しかしたまらなく不安だった。
ほとんどの記憶を失っていたからだ。
記憶がないということは、寄る辺がないということ。
頼るべきものも無く、護るべきものも無く―――あるのはただ、自分のみ。
吐き気を催すほどの不安に襲われた重清は、赤子のようにうずくまって震えていた。
そこに現れたのが幽々子だった。
「おはよう。今日もいい風が吹いているわね」
その一言に、どれだけ救われた事だろう。
それからの重清は、ひたすら幽々子のために動いていた。
亡霊が特にやるべき事は無い。
食わなくても死にはしないし、ゆえに働いて金を稼ぐ必要も無い。
やりたい事だけをしていられるのだ。
重清がやりたいのは幽々子のためになる事だった。
幸いな事に、重清にはそうするための力があった。スタンドという力が。
重清のスタンドは、剣術のように戦闘に向いているわけではない。
しかし剣術では到底真似の出来ない事が出来た。
それは物を集める事だ。
ゴミだろうが食材だろうが春だろうが、およそ集められないものは無い。
重清はその力を存分に揮った。
……矢安宮重清は己のスタンドを見て考える。
昔はろくな事に使っていなかったなら、今は良い事に、幽々子のために使おう。
その途中で立ちふさがるというのなら、誰であろうと容赦はしない。
それが東方仗助であっても。それが、神であっても。
―――ハーヴェストたちが戻ってきた。
その手が握っているのは、食材、酒類、そして春。言いつけどおりだ。
「よし、これで準備は完璧だど」
早く幽々子が来ないだろうか、と重清は思った。
……重清の思考はその思いで占められていたため、それに気づく事は無かった。
時と共に濃さを、妖気を増していく―――桜の匂いに。
進めば進むほど桜の香りは強くなっていった。
進めば進むほど、辺りに生えている桜の数が少なくなっているのに、である。
(……)
ふわふわと先を行く幽々子の背中を追いながら、仗助はその意味を考える。
出力機の数が減少しているのに力が増大していっているということは、
全体のレベルが上がっているか、究極レベルに達した個体があるか、だ。
これがどちらのケースであるかは考えるまでも無い。
(西行妖とやらは、相当グレートなシロモノらしいな~……)
仗助は既に幽々子の目的――西行妖に花を咲かせ、何者かを復活させる――を聞いていた。
眉唾ものだ。素直にそう思った。
幽々子が嘘をついているとは思っていない。ただ、復活などありえるのかと思っている。
生命が終わったものはもう戻らない。
生命の終わらないもの(不死身)はあっても、終わったものがもう一度始まる事は無い。
それが世界の法則だ。
―――仗助は駆け昇る衝撃(ライジング・インパクト)のような例外を知らない。
だからこそ仗助は、幽々子のしようとしていることに心惹かれた。
西行妖が咲いたときに何が起こるのかを知りたかった。
復活は無いとしても、何事かがあるのは間違いないだろう。
その何事かが無害なものならばよし。
その何事かが危険なものならば―――どう動くかは既に決めている。
「ほら、あれよ」
幽々子がいつの間にか手にしていた扇子で、自身の前方、とある一点を示した。
仗助は視線をそこへ向ける。
「あれがうちの―――」
太かった。
大きかった。
人心を惑わす類の美しさがあった。
それは―――
無数の、今にも開きそうな蕾をつけた、一本の桜の木。
「……ッ!」
それの周囲には一本の木も草も生えていなかった。文字通りの孤立である。
かといって寂しげな印象は無く、逆に、王のような印象を見る者へと与えていた。
何もかもを裁いた果ての寂寞の大地に、ただ独りで立つ冥王のような。
仗助はそれを怖いと思った。
夜の闇や荒れ狂う海を恐れるのとは質が違っている。それらは自然に対する恐れだ。
いま仗助が抱く恐れは、墓場の大気や物言わぬ骸に対する恐れと同じもの。
死への恐れ。
その桜は死そのものだった。それこそが、西行妖と呼ばれるものだった。
……生命は死の臭いに敏感だ。それにだけは勝てないと知っているゆえに。
敏感という事は良く反応するということ。
仗助の体は恐れという名の毒に侵された。何よりも効きの速く、強烈な毒に。
下唇を血が滲むほど強く噛みしめる。呼吸は止まり、心臓も
「―――生者の感覚を忘れていたわ。ごめんなさい」
仗助の視界から西行妖が消えた。幽々子が扇子で仗助の目元を覆ったのだ。
その行為によって、仗助は解毒された。
呼吸は再開、歯は唇を離れ、心臓が早鐘を打つ。
毒の元を断てばすぐに治る。それはそういう毒だった。
しかし、幽々子の行為はその場しのぎに過ぎない。扇子を退ければ西行妖はそこにある。
「もう大丈夫よね?」
「ええ、大丈夫っス」
仗助のその言葉を聴いて、幽々子は扇子をそっと退かす。……西行妖が見えた。
けれど仗助の呼吸は乱れない。下唇は噛まれない。
恐れ自体が無くなったわけではない。今も仗助の中には否定の出来ない恐れがある。
ただ、問答無用で負ける事は無くなった。それだけだ。
人は慣れる生き物である。
免疫は異物を克服し、心は二度同じ衝撃を受けても一度目ほどには傷つかない。
最初は無理だと思った弾幕も、頑張れば自然と躱せるようになるものだ。
「手間かけさせてすんません。行きましょう」
仗助は西行妖の存在に慣れたのだった。
どうしても慣れる事の出来ないものが、世の中にはある。
たとえば悪。たとえば戦。たとえば、死。
それらに慣れる事が出来ないのは、そう何度も経験することのない事柄だからではない。
それに慣れてしまっては取り返しのつかないことになると、本能が知っているからだ。
悪に慣れれば初心を失う。戦に慣れれば初志を失う。死に慣れれば―――
手を伸ばせば触れられる距離に、西行妖があった。
遠くからでも大きく見えるという事は、近づけばさらに大きく見えるということだ。
顔を真上に向けなければその頂部は見えないほど、西行妖は大きかった。
見れば見るほど圧倒されるが、しかし仗助は西行妖を見ない。用が無い。あるのは
「幽々子さん、こっちだど!」
聞き覚えのある声が聴こえた。幽々子がそちらを向くより早く、仗助はそちらを見る。
重ちーがいた。
周りをハーヴェストに囲まれて、その近辺には酒樽や料理や敷物などが置いてある。
「重…!」
仗助は声をかけ、しかし己の意思によりそれを途中で止めた。
いったい何を話せばいいのか、判らなくなったのだ。
何を話すか、何を告げるか、ここに来るまでいくつかのパターンを考えていた。
しかしこうして実際に顔をあわせてみると、どれもこれも違う気が、する。
(……まいったぜ)
そんな仗助の迷いに重ちーは気づかない。その視線は幽々子のみに向けられていた。
仗助の存在は気づいているようだが、幽々子に比べればどうでもいいようだった。
ちょうど、仗助と初めて出会った時の逆だ。
「これを……」
重ちーは桜の花びらを幽々子に差し出す。その表情はまるで採点を待つ学生のよう。
幽々子はそれを受け取り、
「凄いわ」
柔らかく微笑んで、言った。
それだけで。それだけで重ちーの表情は、雲の合間から日が出るように明るくなった。
あまり人から褒められた事のない重ちーにとって、幽々子のその言葉は甘露に等しい。
涙が出るほど、うれしかった。
「おらの力だけじゃないです、妖夢さんや他のみんなの力があったから、です。ししっ」
重ちーの言葉に幽々子は頷いた。
「みんなには感謝してるわ。……さあ、邪魔の入らないうちにやってしまいましょう」
西行妖の前に、幽々子が立つ。
大地にしっかりと足を着け、強敵を前にした戦士のように真剣な、楽しげな表情で。
「幽雅に咲かせ―――」
その唇から言葉を放ち。
「墨染めの桜」
その掌から春を撃った。
桜の花びら―――春の結晶が西行妖の中へ融けるように消える。
と同時に、幽々子の言葉が辺りに響く。
そして。
西行妖に花が咲いた。
「凄いわ……!」
それを見た幽々子は、実に素朴な感想を漏らす。そう、言葉を飾る必要は無かった。
今の西行妖を最も良く表すのは、まさにその一言だった。
凄い。
美しいとか恐ろしいとか、そういう次元を超越していた。ただ凄い。
仗助は動けない。重ちーは動けない。圧倒されていた。
死を糧にして咲き誇る、西行妖という花に。
「この花が、命を―――」
蝶が花へと惹かれるように、あるいは磁石が引き合うように。
幽々子が西行妖に手を触れた。
西行妖は、それを待っていた。
「あああああ―――!」
産声にも似たその叫びは、はたして誰のものだったのか。
判らないまま、幽々子の体は西行妖の中へ消えた。
それを目撃しながら仗助たちはまったく動けなかった。
「ぬうう! 間に合わなかったか!」
その声が辺りに響くまで、まったく。―――仗助たちはそろって声のしたほうへ振り返る。
そこに居たのは、仗助にはまったく見覚えの無い大男だった。
深い剃りこみの入った金髪と剃刀のように鋭い眼光が、ただならぬ物を感じさせた。
「ダイアーさん!」
重ちーが彼の名を呼ぶ。その声に含まれるのは微量の安堵だ。どうやら敵ではないらしい。
「重清! 詳しく説明している時間は無いが、西行妖はとてつもなく危険なものだった!」
ダイアーは西行妖へと体重を感じさせない不思議な足取りで進みながら、叫ぶように告げた。
「幽々子嬢を助け出すには西行妖を打ち砕くしかないッ!」
直後、羽毛のごとく軽やかに空中へ跳び上がり、西行妖めがけて渾身の蹴りを放つ。
「必殺! 稲妻四重(サンダーフォース)―――」
それは、ダイアーが死人となってから身に着けた技。
先代の西行寺の庭師と共に修行を積み、そして編み出した奥義だった。
柔の技巧(テクノ・ソフト)を突き詰めた果てにある、緩急自在の必殺蹴。
波紋を帯びたその一撃、まともに食らえばたとえ西行妖とて只では済むまい。
しかしダイアーの爪先が西行妖に触れる寸前、
西行妖から巻き起こった花びらの嵐がダイアーに押し寄せ、その体を覆い隠した。
一瞬の後、花びらは離散し、風の向くままどこかへと去っていく。
そこには何も残っていなかった。
断末魔も跡形も無く。まるで神隠しにでもあったかのように、ダイアーは消えていた。
「ば、馬鹿な! いくらなんでもあっけなさすぎるぜ……!」
恐れの――というよりは戸惑いの色が濃い――声を仗助は上げる。
どういう理屈が働いたのか、どういう力がそれを起こしたのか、まったく解らなかった。
それは重清も同じであったが、仗助よりも戸惑いの量は少なかった。
ゆえに重清が上げた声は、
「おらたちを運べッ! ハーヴェストッ!」
己がスタンドへの指示の声だった。
仗助と重清の足元に無数のハーヴェストが現れ、全力で彼らを運び始める。
それはまるで、おとぎ話に出てくる空飛ぶ魔法の絨毯のよう。
もちろんそう見えるというだけで飛ぶわけではないが、速度のほうは遜色なかった。
ハーヴェストの絨毯が向かう先は、西行妖から出来るだけ遠く―――。
それは理屈による行為というよりも、本能・動物的勘による行為だった。
幽々子を助けるためには、自分だけの力では足りない。それを直感した。
……幽々子を取り込み、ダイアーをやった西行妖に対し、重清は本気で腹を立てている。
しかしそれはそれ、これはこれ。
怒りに任せて踏みとどまっていれば、きっと一瞬でやられていた。ダイアーのように。
それでは幽々子を助け出すという目的が果たせない。
だから重清は撤退を選択した。次に勝つための、敗北を。
勝った―――と、彼は思う。
己から遠ざかる人間を見る西行妖は、思う。
己の中でまどろむ西行寺幽々子の意思を感じつつ、思う。
確かにそれは勝利だった。
西行妖という生命の、意思の、勝利だった。
誰かが己の封印を解こうとするのを、西行寺幽々子が己に触れるのを、西行妖は待っていた。
己に花を咲かせたかったのだ。
それが何故かなんて言うまでも無い。
生命が生命を食らうのは何故だ? そうまでして生きるのは、子を生すのは何故だ?
本能ゆえだ!
桜が花を咲かせたいと思うのは当たり前のことだった。
たとえそれが、他者を死に誘う事しか出来ない、他者に迷惑をかけるだけの花でも。
せっかく生まれたこの身だから、花のひとつも咲かせたい―――。
「どんどん辺りの桜が散っていってねーかッ!? ヤバいぜこれは!」
辺りを――西行妖ではない桜たちの姿を――見て、仗助が言う。
それは事実だった。
桜が散っているのも、危険なのも。
その散り方は生え変わる際の散り方ではなく、死ぬ際の散り方だった。
後に残るのは骸だけ。葉無く種子無く美しさ無く―――
「明らかにアイツのせいだぜ……!」
見える位置に西行妖はあった。
辺りの桜が散れば散るほど、西行妖はより鮮やかに咲いていく。いや、逆だ。
西行妖が咲けば咲くほど、辺りの生命が死んでいっている。
元凶をどうにかしなければ、仗助たちが死ぬのも時間の問題だろう。
生者が死ねば霊となる。
死者が死ねば―――はたしてどうなる?
だから彼は言った。
「仗助さん、頼みがあるど」
先ほど幽々子が仗助に西行妖を示した地点。仗助たちが居るのはそこだった。
ハーヴェストはそこで止まった。それ以上離れては、再び距離を詰める事が出来ないから。
「幽々子さんを助けるために―――」
それ以上離れては、幽々子を助け出す事が叶わないからだ。
「おらに力を貸してほしい!」
深々と頭を下げて、矢安宮重清はそう言った。
その言葉を聞いてまず仗助が思ったのは、
(こういう奴だったっけか……?)
信念さえあれば人間はいくらでも成長する。というやつだろうか。
それとも仗助が知らなかっただけで、重清は元からこの精神を持っていたのか。
―――たとえ脳みそをシェイクされても、大切な人々を護るために戦える精神を。
何はともあれ、仗助の返事は決まっていた。
「……おう!」
西行妖が危険なものならば叩き潰すと、先刻から決めていた。
―――いま何が起こっているのか正確には判らないが、確実な事が二つある。
ひとつ、西行妖は近づくものに容赦無い。
ふたつ、対策も無しに近づくのは無駄である。
さてどうするか。
自然に西行妖が散るのを待つわけにも行くまい。そもそも散ってはくれまい。
ダイアーがその身を犠牲に開示した西行妖の攻撃を、死の花びらをどう防ぐ?
「クレイジー・ダイヤモンドで砕くにしても……」
少しばかり量が多く、速すぎる。ハーヴェストが盾となっても辛い。
―――シャボンならば何発かは耐えられる。
しかしあれを食らえば、一撃で全てを持っていかれるだろう。ダイアーのように。
「……くそ、バリアかなんかがあれば―――」
「ならば俺に任せてもらおうか」
横から聞き覚えのある声がした。仗助は声のほうへ向き直る。
「シーザー!」
予想通り。そこにはシーザー・アントニオ・ツェペリが居た。
「いよう、仗助」
―――そして、シーザーの隣には紅美鈴の姿が。
「美鈴さんも!」
これは予想外だった。驚く仗助に美鈴は会釈をしてみせる。
服も体もあちこち傷ついてはいるが、深い傷は無いようだった。
……本当なら互いの無事を喜び、再開を祝いたいところだが。
「丁度いいぜ! 二人とも」
「おっと、今の状況は大体わかってる。彼女のおかげでな」
人に物事を伝える主な波は光波と音波。
光波は大気の具合に影響を受け、音波は大気が無くては伝わる事すらかなわない。
気を使えるという事は、それらに干渉出来るということだ。
紅美鈴は気を使う力を持っている。
大気を上手くいじってやれば、離れた場所で起きた出来事も容易に知る事が出来るのだ。
「倒すべき敵も、護らなくてはならないものも、そのためにはどうすればいいかもな!」
シーザーは言いながら手を合わせ、人が入れるほど大きなシャボンを作り出した。
「俺のシャボンをバリア代わりにするのだ、仗助ッ!」
なるほどその中に入れば、前後左右どこからの花びらでも防げるだろう。
「だけどそいつじゃ……」
移動は出来まい。西行妖の居場所まで届くまい。
もっともである。しかし仗助は失念していた。風の存在を。
「それは私に任せてください。高速不壊(さいこう)の追い風を吹かせてみせましょう……!」
風はありとあらゆるものを運ぶ。音、匂い、生命。そしてシャボン玉。
美鈴はやってみせるだろう。風を使うものとしての誇りにかけて。
―――手札はそろった。
これで妖夢や咲夜が居れば言う事は無いのだが、しかしもはや一刻の猶予も無い。
「……二手に分かれて西行妖へ向かおうど」
だから、重清はそう提案した。
「おらはハーヴェストで、仗助さんはシャボンで。そうすれば―――」
一緒に向かえば互いの援護はしやすくなる。その代わり、標的にもなりやすくなる。
分かれて向かう事のメリットは、一緒にやられる事がないということだ。
片方に攻撃を集中されれば、それだけもう片方が目的を果たしやすくなる。
離れている二者へ同時に攻撃しようとすれば、どうしても一人一人への攻撃は弱くなる。
この場合、西行妖を叩き潰す事が至上の目的だ。
どちらかが途中で倒れても、叩き潰せさえすればいい。
どちらかがたどり着けさえすれば―――幽々子を助けられる。
「……出来るのか、重ちー?」
いま仗助が問うているのは、覚悟の有無ではなく実行力の有無だ。
重清に覚悟があることは判る。しかし覚悟だけで力の差が埋められるわけではない。
クレイジー・ダイヤモンドならばともかく、ハーヴェストの力では西行妖を殴り倒せない。
……だが。どうにかする事は出来る。
西行妖は自力で咲いているわけではないからだ。
春。
それこそが西行妖に咲くための力を与えているもの。
ハーヴェストは今まで春を集めてきたのだ。
春持つ物の内側に入り込み、そこから奪い取るという形で。
―――確かに西行妖は大物だ。今まで相手にしてきた物とは格が違う。
しかし出来るのか、と問われれば重清は自信を持ってこう答える。
「もちろんッ!」
スタンドとは精神の力。
精神が折れないかぎりその力が尽きる事は無く、精神が成長すればスタンドもまた成長する。
以前のハーヴェストに出来ない事が、今のハーヴェストには出来る。
今のハーヴェストに出来ない事も、数分先のハーヴェストなら出来るかもしれない。
いいやきっと『出来る』!
出来て当然のことだと、重清は『認識』する。
―――精神の成長は肉体の成長よりも速く、劇的である。
『覚悟』を見ることでマンモーニ(ママっ子)がたちまち成長するなんて良くある話だ。
重清は、ハーヴェストは、現在進行形で成長していた。
「絶対に! 絶対に幽々子さんを助け出してみせるさッ!」
それが何故かなんてわざわざ言うまでも無いことだろう。
決まれば止まる理由は無い。
仗助はシャボンの中に入り、重清はハーヴェストの上へ乗る。
手段は違えど目指す場所は同じ、西行妖の元―――
始まりの風が、辺りに吹き始めた。
何故だ―――と、彼は思う。
己へ近づいてくる者たちを見て、西行妖は思う。
己の中に吸収消滅しきれない西行寺幽々子の意思を感じつつ、思う。
生きるために足掻くのは、己の敵に立ち向かうのは当然の事だと思う。
真っ当な生命なら誰だってそうする。西行妖だってそうした。
それが生命というものだ。
だがしかし。
何故、何故そこまで激しく心震せる事が出来るのか。それが解らない―――
仗助は重清は、それぞれの手段で軌道で目的地へ向かう。
目的地までの道筋にある障害物はどちらも同じ。
空間を桜色に染めつくすほど多量の花弁、西行妖が近づくものを潰すために放った花弾幕。
それは西行妖の力が根底にあるため、美鈴の風では直接操作できない代物だった。
ゆえに隙間を行くしかないが、しかしそれにも限度がある。
多少は当たらなければ通り抜けられない。
―――当然の事ながら、リスクは減らせるだけ減らすべきである。
だからシーザーはシャボンを作った。
触れた物をその内側に取り込み逃さない、そんな性質のシャボンを、無数に。
美鈴はそれを使って道を拓いた。
当たらなければ通れないなら、砕けてもかまわない物をぶつければいい。それだけの事。
無数の追い風が吹いていた。
解る。
シャボンに流れる波紋のビートが、シャボンを動かす風のリズムが、よく解る。
(それが解るほど、俺の全神経は研ぎ澄まされている……)
シーザーは波紋入りの小シャボンを絶え間なく作り続けながら、思う。
(……そう、今必要なのはこの感覚だ。貧民街時代のビリビリした感覚だ!)
このテンションでなければ、幽々子を助け出す事など出来ないと。
シーザーが幽々子と初めて出会ったのは、魂魄妖夢が生まれるよりも前のことだ。
その時シーザーは、幽々子の事を(寂しそうな子だな―――)と、思った。
なるほど妖忌は居た。古い友人もいた。
しかしそれでも、幽々子は寂しそうだった。
……実際には、寂しいなどとは欠片も思っていないのかもしれない。人の心は窺い知れぬ。
だけどここで大切なのは、シーザーにそう見えたということ。
今でもその印象が変わっていないということ。
シーザーは、寂しそうな女の子が居ると構わずにはいられないのだ。
そしてそのためにつく嘘は、する行動は『正しいこと』と信じている。
正しいと信じる事のために動くと、人の体には自然とエネルギーが溢れてくるものだ。
今のシーザーに力が溢れているのはそういうわけだった。
「いけるぜ……!」
シーザーは心の滾るままに、シャボンを作り続ける―――
花弁の量とシャボンの量は正確に比例した。
どちらが原因というわけではなく、どちらもが原因だった。
相手が数で押してくるなら、こちらはそれより多い数で押し勝つ。
どちらもそう思っていて、実行できるだけの力があった。だからだろう。
結果として、戦場のほとんどを花と泡が占めた。
西行妖以外は何もない死の領域に、花弁と輝泡が乱れ舞う。
それは美しい光景であったが、美鈴にそれを眺める余裕は無い。
美鈴は心の感じるまま風を操り、シャボンを動かしていく。
作られ続ける小さなシャボンで花弁の壁に穴を空け、仗助を内包するシャボンを通す。
単騎で進む重清を護るため、作られ続ける小さなシャボンを盾にする。
戦場を俯瞰して二秒後の形を予測し、百の風で千の泡を操作する。
頭が悲鳴を上げるほど複雑な軌道計算。
しかし美鈴の心には余裕があった。主柱となる、信念があった。
―――正直なところ、紅美鈴にとっては西行寺幽々子などどうでもいい。
そもそもここに居るべき理由も無い。
美鈴がここまでやってきたのは咲夜の探索につき合わされたからであり、
そこから後はなりゆき任せである。
咲夜がここにやってきたのは幻想郷に春を取り戻すためだが、
美鈴は春が来なくても別に困りはしない。大気を操れば寒さも暑さも無問題。
春が来なくて困るのは、人間と春の妖精くらいのものだ。
紅美鈴に、ここに立つ理由は無い。
しかしそれでも、美鈴は本気だった。
(私は任されたんだ……!)
彼が頼みごとをして、そして彼女は引き受けた。
信頼は裏切らない。絶対に。
それは紅美鈴の生き方の基本だった。そう、だからこそ給与も無しに門番をやっている。
美鈴の心を表すかのように真っ直ぐな風が、西行妖へと吹き続けていた―――
自分は正しき戦闘潮流の中に居る、と仗助は感じた。
シャボン越しに伝わってくる風が、光景が、潮流(じしん)の正しさを謳いあげている。
(さすがだぜ、二人ともよーッ!)
―――仗助を内包した大シャボンは、西行妖の花びらを物ともせずに突き進んでいた。
シーザーの作泡は、美鈴の操風は、最大限に威力を発揮していたのである。
西行妖までは、あと少し―――
西行妖は、己に近づくそれを見る。
明らかな敵、あからさまな危機。今までのやり方では通用しない―――。
ならば、別の手段でそれに対抗しようとするのは当然のことだった。
生命はその命あるかぎり、生きるためにあがくのだ。
―――空を切り裂く幾多の光条が、西行妖から放たれた。
いいやそれは光ではなく水。正確に言えば体液だ。
西行妖は自身の体液に圧力をかけ、敵を刺し貫く槍弾として全身から撃ち出したのである。
それは仗助の曾祖父を死に追い込んだのと同じ原理の一撃だった。
仗助の父はそれを破るための技術―――波紋を身につけていたが、仗助にそれは無い。
……シャボンは波紋に護られている。
だがそれは、貫通弾を受けとめ逸らすほどの丈夫さを保障するものではなかった。
シャボンはグラスほどに硬くは無い。
シャボンは風によって動かされているため、どうしても行動がワンテンポ遅れてしまう。
ゆえに咄嗟の回避行動を取れるわけも無く弾は命中、シャボンは弾けた。
「……ッ!」
仗助は地面へ投げ出されるように着地、そしてすぐさま立ち上がって走り出す。
シャボンが割れたその瞬間、クレイジー・ダイヤモンドでシャボンを直す事は簡単だった。
けれど仗助はそうしなかった。そうするのがベターだと判断したからだ。
シャボンの緊急回避は当てにならない。直したところでまた貫通弾に割られるだけだろう。
その弾が問題なのだ。
今回は運良く体に当たらなかったが、次は当たるかもしれない。
脳、肺、心臓、首。
どこに当たっても致命傷で、そしてクレイジー・ダイヤモンドでは自らの傷を治せない。
だからシャボンを直さず、仗助は走る事を選んだ。
大シャボンが無くなっても、無数の小シャボンは健在だ。
死の花弁は小シャボンが―――シーザーと美鈴が防いでくれる。
あとは自分の肉体を、精神(スタンド)を信じて走ればいい。
(ほとんど博打に近いけどよ~……やるしかねえぜッ!)
もはや余計な事は考えないことにした。
仗助は西行妖だけを見て、究極生物から逃げ出す人間のような勢いで突っ走る―――
仗助が地面に投げ出された時、重清もまた地面に投げ出されていた。
それも当然、先ほどの体液放射は仗助だけを狙ったものではない。
近づくもの全てを狙って放たれたものだ。
……ひとつの方向にしか弾(ショット)が放たれないものを、1WAYショットという。
放たれるのが二方向なら2WAY、三方向なら3WAYである。
4WAYあれば、前後左右を十分カバーできるわけだ。
そして、西行妖が放ったのはそれらを遥かに上回る20WAYショット。
360度を余裕で覆えるその一撃、当たらないはずが無かった。
(……)
重清は地面に寝転がり、自身へ迫り来る花弁を見やった。
彼は動かない。いいや動けない。足を撃ち抜かれていた。
思考は続いており、ハーヴェストもまだ出せる。
(どうやらここまでのようだど……)
ただ、花弁から身をかわすのが間に合わないだけだ。
ハーヴェストは既に重清の下へ集結済みだったが、しかし花弁も包囲を完了していた。
全方位包囲(オールレンジ・アタック)である。
その密度、光は通れど泡は通れぬ。体など以ての外。
(仗助さん―――後を頼んだど……ッ!)
駆け抜ける仗助の姿を花弁弾幕の隙間ごしに見て、重清は思った。
仗助ならやり遂げてくれると、不思議に信じられた。―――何故だろうか?
(一度、ゆっくり話してみたかったな……)
花弁の壁が、迫り来る。
それに対するように重清はハーヴェストを配置する。足掻きである。時間稼ぎである。
重清が足掻けば足掻くほど、仗助への攻撃が手薄になるだろう。だからだ。
「幽々子さん……!」
重清が誓いの言葉を呟き、花弁が接触し始めた。その時。
風が吹いた。
それは美鈴が起こした風ではなかった。剣が巻き起こす風であった。
その風が、花弁の弾幕を斬り裂いた。
「―――ハーヴェストッ!」
重清は咄嗟にハーヴェストを呼び集め、己を前に進ませる。
風が、前方に穴を開けていた。
花弁はその穴を埋めるために動くがしかし、重清の方が少しだけ早い。
重清は転がる鉄球のような勢いで穴を突破。その直後に穴は閉じた。
それに安心する暇などもちろん無く、重清は勢いのままに前方、西行妖のある方へ向かう。
救いの風を起こしたのが誰かは判っていたので、ハーヴェストを出す範囲を少し広げつつ。
ほどなくして。
広げた部分のハーヴェストの上に奇妙な感触が現れた。
幽体のようにつかみどころがなく、しかし人体のようにしっかりとした感触。
「……私も乗せていってもらえるかな?」
「どうぞ―――妖夢さん!」
それこそが半人半霊の庭師、魂魄妖夢の感触だ。
雨を斬るには三十年かかるという。
……この三十年というのはあくまでも目安であり、
三十年修行すれば必ず斬れるようになると言う訳ではない。
百年修行しても斬れないかもしれないし、数分で斬れるようになるかもしれない。
(それは才能の問題というより―――成長できるかどうかの問題なんだ)
魂魄妖夢はハーヴェストの上で剣を振るいながら、そう思った。
今、妖夢は雨を斬っていた。
正確には雨ではなく、吹雪。舞い散る桜の吹雪である。
西行妖の意を受け、波涛のように迫り来る花弁を―――妖夢は二剣を使い斬る。
楼観剣の一閃が千の花弁を断ち斬れば、白楼剣は同秒・倍閃で千を斬る。
舞うように飛ぶように泳ぐように、全て斬る。
そして二剣(ようむ)が斬るのは花弁(あめ)だけではない。
雨よりも強暴で重い液―――西行妖の撃ち出す体液弾も、斬る。
斬る、とは言うが実際には斬るというより挿すが近い。
己らの軌道を制限する体液弾の軌道に剣を挿し入れて、その軌道を変更し、その隙に通る。
体液弾の狙いは正確ではあるが、精密ではない。
発射孔よりどこまでも真っ直ぐ飛ぶだけで、追尾しては来ないのだ。
ゆえに逸らす事は可能であった。
……言葉にしてしまえばその原理は単純なものだ。
しかし、それを実行できる者がどれだけ居よう?
瞬時に弾の軌道を読んで剣を動かし、剣自体が貫かれる事の無い絶妙な角度で固定する。
常に足元が動き続ける中でだ。
死の花弁が迫り来る中でだ。
妖夢はそれを、完璧にこなしていた。剣を振るうたび腕に走る激痛へ耐えながら。
―――前方に花弁群、同じく前方に四つの液弾軌道。足元二・胸元一・頭部一。
妖夢は己の二剣を閃かせ、それらを断ち、逸らし、無傷で押し通る。激痛。
「妖夢さん! あと少しだどッ!」
「ええ。準備はいい?」
重清の声に、妖夢は平静を装って答える。痛みはけして表に出さない。
重清に余計な心配などさせて、幽々子を助けるのに失敗したら目も当てられないからだ。
『彼女』のことを喋らないのも、同じ理由からだった。
―――花弁と液弾の混交撃。左斜・右斜同時。
腕に巻かれたハンカチの存在を心の片隅にとどめながら、妖夢は剣を振るう。
余計な事は考えず、仗助はひたすら足を動かす。
西行妖に近づくため、そして自身に向けられた液弾から身をかわすために。
花弁は相も変わらず押し寄せてくるが、そちらはまだどうにかなった。
シャボンと拳で十分以上に対応できる。
どうにもならないのは液弾だ。
仗助には、妖夢のように液弾の方向を逸らす事が出来なかった。
拳の硬度も速度も足りているが、惜しむらくは手が足りない。
一射に対応している隙に、別の一射が体を持っていく。それがリアルに予想できた。
だから仗助は最初から対抗しようなどとは思わず、ただ己の運と勘に任せて突っ走った。
それは上手く行っていた。この時までは。
(―――マズいなこりゃ。かわせねーわ)
仗助は迫る液弾を見つめ、静かに思った。
事故に遭った瞬間の人間は、
体内や脳でアドレナリンなどが分泌されて一瞬が何秒にも何分にも感じられるという。
今の仗助の状態はまさにそれだった。
その液弾は、一瞬後には仗助の心臓を貫ける位置にあった。
クレイジーダイヤモンドは花弁に対抗するため傍を離れており、つまり防御は間に合わない。
(終わりか。まッ、しょーがねーか。やるだけの事はやったぜ……)
恐怖は無かった。思う事は色々あった。仗助は思うがままに思い―――
一瞬が、経過した。
そして仗助は瞬時に目の前へ現れた砂壁に驚いた。次に無傷の自分に驚いた。
砂壁が、仗助を狙う液弾を受け止めていたのだ。
「ッ!? これは……まさか!?」
「命は基本的に一個しかないんだから、もうちょっと大事に使いなさい」
声がしたのは目の前。砂壁の陰となっている部分だ。
「咲夜さん……!」
十六夜咲夜がそこに居た。手に一匹のボストン・テリア―――イギーをぶらさげて。
「アギ、アギギ……!」
イギーの首には咲夜の指がしっかりと絡みついていた。
「幽霊の命だって一個しかないわ」
だからもっと頑張りなさい。と、咲夜は手から抜け出そうとするイギーを締め上げる。
――このへそ曲がりな犬を協力させるためにはそれしかなかった――
イギーは掛かる力に反応し、自身の力―――ザ・フールを全力で稼働させる。
砂壁が厚さと硬度を増し、貫通しかかっていた液弾を瀬戸際で食い止めた。
「さあ、早く」
「どうもッス!」
何とも言えぬ頼もしさを感じながら、仗助は西行妖へ向けて走り出す―――
恐ろしかった。
花弾を斬り裂きながら迫り来る妖夢と重清が、液弾を防ぎながら迫り来る仗助と咲夜が、
星屑のように輝くシャボンに護られ突き進んでくる彼らが、十字軍のごとくひたむきな彼らが、
西行妖は恐ろしかった。
植物の心というものは、その体と同じくらい人とは形が違う。
西行妖が己の力を揮うのは、
『己が咲くのを邪魔した連中への復讐だ』―――などと思ったゆえではなかった。
そんな風に思いを抱くのは、抱けるのは人だけだ。
形が違えば働きも違う。植物の心が強い感情を抱くことは無い。
いちいちに激しく心震わせていては、心が持たないからだ。
植物は動けない。動けないという事は、迫り来る危機から逃げられないということ。
植物の生は長い。長いという事は、良い事も悪い事も数多くあるということ。
ゆえに、植物には激しい喜びも深い悲しみも無い。
喜びはある。悲しみはある。怒りはある。恐れはある。
ただ、それらは本能を凌駕するほど強くないというだけで。
己の死を越えられるほど、熱くはなれないというだけで。
……植物の生には、激しい喜びも深い絶望も存在しない。
植物は自力では歩けない。迫り来る強敵から、天災から、逃げ出す事は叶わない。
だから。だから、植物の心はいつも平穏なのだ。そうなるように出来ている。
でなければすぐに狂ってしまうから。
仗助が西行妖の前に立った。重清が西行妖の前に立った。
今まで味わった事の無い強い恐怖の感情に、西行妖は発狂寸前だった。
西行妖が力を揮うのは、己の思うがままに生きるためだ。
だがそれは本能に根ざしたものであり、本能を越えた感情から出たものではなかった。
ゆえに西行妖は、
死に立ち向かおうとする仗助たちの心が理解できなかった。
だから西行妖は―――それを と思った。
ちょうど、その瞬間。
ハーヴェストが西行妖の中に入り込み、
クレイジー・ダイヤモンドが西行妖にその拳を叩き込んだ。
西行寺幽々子は己の髪を撫でる柔らかな風の存在に気づいた。
どこからか、黄金色の風が吹いている。
幽々子はその風に不思議な爽やかさを覚え、風をたどる事にした。
すると奇妙な存在に出会った。
―――頭部に直接、二対の腕と二本の足がくっついた、手のひらサイズの虫。
そんな見た目をしてはいるが、あきらかに虫ではないものに。
それは幽々子に歩み寄ってきて、手の届く距離で止まった。
静かに幽々子を見つめていた。
なんだろうと思った。よく思い出せないが、しかし見覚えがあった。
だから、幽々子はそれに手を触れた。
するとそれは手に変わった。
ダイヤモンドのごとく固いのに、その奥には優しさを感じる手だ。
それは幽々子の体を引き寄せ―――
「……幽々子さま!」
気づけば、幽々子は人々に囲まれていた。
忘れようとしても忘れられない白い髪の少女―――魂魄妖夢が幽々子の体を支えており、
それを不思議と優しい眼で見ている見覚えの無いメイドがいた。
メイドの足元では一匹のボストン・テリア―――イギーがぐったりとしていて、
少し離れた場所では頬に妙なアザのある金髪の青年―――シーザーが、
深い剃りこみの入った金髪の男―――ダイアーに波紋治療を施していた。
それを、風を操ることでサポートしている赤い髪の少女がおり、
少女の横には特徴的な髪型の少年―――東方仗助がいた。
そして幽々子の目の前には―――涙を流している矢安宮重清がいた。
「おはよう。今日もいい風が吹いているわね」
「……おはようだど、幽々子さん……!」
春の陽気に誘われ八雲紫は目を覚ました。
といっても眠気はまだまだ残っていたので、それに対抗するためお茶を飲む事にする。
「あ、おはようございます、紫様」
「ん~。おはよう~……」
向かった居間には紫の式神、八雲藍がいた。紫は適当に返事をしつつ茶を淹れ、そして飲む。
―――心地よい熱。少しだけ眠気が去った。
紫という主人の性質をよく知っている藍は、紫が次に望むものを解っていた。
「すぐに朝餉をお持ちしますね」
言って、居間を後にする。
「……ふわあ」
残された紫はあくび一つ。とりあえずは溜まっている新聞を読むことにした。
自分の能力で開けた空中の隙間に手を突っ込み、新聞を取り出す。
その新聞は、とある烏天狗が作っている幻想郷の新聞だった。
紫はいつもそれを四コマ漫画から読んでいる。
「……う~ん。やっぱり露伴は素敵ねえ」
その絵からあふれ出ている『リアリティ』がたまらない。と、紫は思う。
さて、次は記事だ―――
一週間分の新聞を読み終わったところで藍が戻ってきた。
紫は目覚めたばかりということで、その献立はシンプルなものだ。
白米、豆腐とワカメの味噌汁、アジの塩焼き。そしてキュウリの漬物。
久しぶりに嗅いだそれらの匂いは、紫の食欲を誘った。
紫は新聞を隙間に戻し、箸を取る。
「―――そうそう、紫様あてに手紙が来てましたよ」
綺麗にたいらげて食後の茶を飲んでいる時、藍が言った。
「誰から?」
「西行寺の幽々子様からです」
(……暫く見ないうちに、少し感じが変わった?)
はてさて、ここはこんなに賑やかだったろうか、と冥界を訪れた紫は思った。
辺りには数えるのが嫌になるほどの桜。それはいい。いつもの光景だ。
桜の周りには騒がしい幽霊と人間たち。それが、見慣れない光景だ。
騒霊の姉妹が騒がしくも心地よいアンサンブルを奏で、
それに引っ張り込まれた様子の背丈の低い少年が、己の力で音を響かせていた。
花見をつつがなく進行させるためせわしなく動き回っているメイドが、
いかにも不良少年といった感じの二人に出たゴミなどをその能力で処理させていたりした。
料理担当として駆り出された、常に笑っているような眼の異国人のコックが、
白黒の子犬と、見覚えのある―――というか藍の式神である黒猫、橙に料理を振舞っていた。
人形を連れた金髪碧眼の少女が、
興味深げな様子で宇宙人のような風貌を持つ少年に話しかけようとしていた。
―――彼らがここに集まるまでにはちょっとした騒動があったのだが、それはまた別の話だ。
彼らは種族も年齢も性別も何もかも、とことん共通点が無かった。ただ一つを除いては。
それは、心の底からこの花見を楽しんでいるということ。
そんな光景を横目で見ながら、紫は目当ての場所―――西行寺の屋敷へと歩いてゆく。
……幽々子からの手紙に書いてあったのは、
騒動で薄くなった幽明の境の修復を頼むという言葉。そしてもうひとつ。
「あ、紫さまではないですか。お久しぶりです」
屋敷に向かう途中の道で、酒樽を背負った魂魄妖夢に出会った。
「ご無沙汰。少し背が伸びたんじゃない? ……幽々子は屋敷に?」
「いえ、今は西行妖のほうに居ると―――」
思います。と、微妙に語尾を濁しながら妖夢は言った。その表情には抑えきれない不安の色。
「……。今回の騒動、ずいぶんと大変だったみたいね」
「ええ、それはもう。……出来れば今すぐにでも『あれ』を斬っておきたいんですが、
幽々子さまは勿体無いと仰られて……」
「そんなに心配する事はないわ。
わざわざ春を与えたりしない限り、あれが暴れだす事は無いでしょう」
事実である。あれ―――西行妖に掛かっている封印は強力なものだ。
「今回暴れた分でそれなりに力を消費した事でしょうから、暫くの間は安心していいわ。
―――時間を取らせてしまったみたいね。ごめんなさい」
妖夢の後ろ、すなわち屋敷へ続く道のほうから、ひとつの声が聞こえてきた。
「おーい、妖夢さーん!」
声の主の姿はタヌキのように丸々とした少年。名前はたしか―――矢安宮重清といったか。
重清は己の能力を使い、酒樽や食料を運んでいるところだった。
「私はもう行くわ。じゃあね」
「あ、はい。さようなら紫さま。―――注文されたものは全部揃ったの?」
「もちろんだどッ」
そんな会話を背中に受けながら、紫が向かうのは―――
久しぶりに見た西行妖は以前と姿を違えていた。
折れていたわけでも咲いていたわけでもない。ただ、纏う気配が違う。
死の臭いが薄らいでいた。
そんな西行妖を、西行寺幽々子は眺めていた。
「身のうさを 思ひしらでや やみなまし そむくならひの なき世なりせば―――」
歌うように幽々子が言う。
「生きていた時の事をね、思い出したの」
「そう」
言葉に答えるのは一人。八雲紫だけだ。
「もう少し劇的に何かが変わると思っていたんだけどねー」
ちっとも変化が無いの、と幽々子は言う。
「それはそうでしょう。生者も死者も、基本的には同じものよ」
人が思っているよりも、生死の境というものは薄いのだ。
「動いて、思って、生きたいように生きて。記憶というのはその記録の集まり。
死者として『生きた』記憶も生者として『生きた』記憶も等価値なのよ。だから―――」
西行寺幽々子は西行寺幽々子のままなのだ。
「何もかも、今更ってことね」
「そういうこと」
静かな風が、辺りに吹いていた。
「……頼んだ物、持って来てくれた?」
「勿論」
言いながら紫が空の隙間から取り出したのは、一本の酒瓶。
「下から九十九番目くらいのとっておきよ」
「わあい」
幽々子は受け取り、はしゃいで見せる。
「じゃ、そろそろ宴の中に跳びこむといたしましょうか」
「思いっきり波紋を立ててね。―――幽々子、先に行っててくれる?」
「いいわ。また後でね~」
幽霊らしいふわふわとした足取りで、幽々子はこの場を立ち去った。
そして紫は先ほどの幽々子のように西行妖を眺め、思う。
(―――人間というのは、本当に強いものねぇ)
西行妖という死に立ち向かえるほど強い、精神を。持っている者達が居るのだなと。
八雲紫は
『加速し続ける世界』から幻想郷を守る事は出来ても、西行妖に手を出す事は出来なかった。
それは力の強弱ではなく、力の相性の問題。
そして力の問題というよりは、精神の問題であった。
紫は西行妖を消滅させる事が出来る。
しかし、その身が消えても念はけして消えず、かえって辺りに被害を撒き散らすことだろう。
力ずくでは怨念を煽るだけなのだ。
そう、力ずくではこのように西行妖の念を和らげることなど出来ない。
生命賛歌を歌いあげて、その心を震わせなければいけない。
だが、そうするには―――
あまりにも八雲紫は年月を重ねすぎていた。
―――死というものに立ち向かうには、能力だけでは足りない。
覚悟が必要だ。
死をねじ伏せて先に進む覚悟。死の運命を知りながら、未来のために受け入れる覚悟。
人間は死が身近であるゆえにその覚悟をあっさりと出来る。
しかし妖怪は―――人よりも死が遠いゆえに、立ち向かう覚悟を持ちにくい。
生の内にはさまざまな経験をするものだ。
それらの経験は自然と知識に変化し、そして知識は諦念や未練を呼び寄せる。
生が長ければ長いほど、知識が多ければ多いほど、覚悟をするのは難しい。
覚悟を通せるほど真っ直ぐな心であるのが、難しい。
紫はもはや、人間ほどに真っ直ぐな心にはなれない。
冗句で己の本心を覆い隠し、真っ直ぐな相手から受ける影響を遮断する。
でなければ上手く動けないからだ。
真っ直ぐであるためには、あまりにも色々なものを背負いすぎているからだ。
それを後悔したことは無い。
……けれど、歯痒く思う時はある。
たとえば危険と判っている西行妖をどうにかしたい時。自らではどうにもならない危機の時。
だから紫は、そういう時にはふさわしい者たちを自らの能力で呼び寄せると決めていた。
危機に立ち向かえる心を―――黄金の精神を持つ、人間を。
「東方仗助。かの誇り高きジョースターの血を継ぐ者―――」
紫がそう呟くと、西行妖がほんの少しだけ身を震わせた。
「会いたい? 生きてさえいれば、いくらでもその機会があるでしょう」
紫はそれだけを言って歩き出した。
……紫は思う。
これからどうなるかは判らないが、きっと鎮魂歌(レクイエム)は必要ないだろう。
西行妖にも、幽々子にも、そしていつかは死ぬ定めの人々にも。
生死の境を行くものに鎮魂歌は似合わない。似合うのはそう、生命賛歌だ。
辺りに吹くのは心地の良い風。紫は歌を歌いたくなった。
「―――九重に咲けども花の八重桜 幾代の春を重ぬらん―――」
歌いながら歩いていけば、皆のところへはすぐに着くだろう。
あの騒がしい中に居れば、退屈することなどありはしないだろう―――。
長かった冬が終わり、
春もそれに引きずられるように過ぎ去って―――
もう少しで、いつもと同じ夏が来る。
東方(ひがしかた)妖々夢
~ Border of Life ~ 完
まさか来るとは思わなかったッ
黄金の精神に燃えてかませ犬なダイアーさんや
座ったままの跳躍に吹いて各所の小ネタににやりとして
本当に楽しめました。
一周した世界ではあの町にも幻想郷への入り口があるんですな。
そして面白い。グレートでした…。
いやはや、すごいっす。
この燃えはまさに歯車的砂嵐の小宇宙!
最後は幽々子と弾幕勝負かと思いきや
西行妖を持ってくる所、そして見事に伝わってきた『黄金の精神』
分量は多かったですがじっくりと堪能させていただきました。
最後に、またしてもあっけなくお亡くなりになったダイアーさんに黙祷。
ただ、東方SSとして見ると主人公と周りの人物の魅力が先に立っていて、東方分がもう少し欲しかったと思います。
前回よりも二つが溶け合っている感じが強くて、「あ、東方だけどJOJOやってる」みたいな印象でしたね
キャラクターの中身をしっかり理解し、片方の強さをインフレさせない
クロスに名作無し、と思っていましたが
前回と今回を見ると、そのイメージも綺麗に払拭されました
巫女も魔女も出ませんでしたが、そういう曖昧感もまた東方らしいかと
まさにグレート。熱い作品でした。
GJ!
JOJOのキャラ選択が濃すぎかと(笑)
しかしこれ以上の組み合わせって思いつかないんですよね。ダイアーさんも含めてww
ガシャンとか知らない人も多いんだろうなー・・・若いってのは哀しいことだ。
そういえばこの話のダイアーさんって一矢報いることなく退場してますよね。
死んでからかませ犬度が上がった? 96点満点?
ジョジョと東方をここまで綺麗に融合させるなんてアンタ新手のスタンド使いだな!?
文中に曲名やサブタイトルをうまく混ぜ込んでる巧みさにも脱帽。
どうでもよいこと。サーフィスを見たアリスの反応が気になる。
後、猫草は橙に懐くのだろうか。
東方との異作品間クロスオーバーというだけではなく、冥界という舞台を使った有り得ざる出会いによる同作品内でのクロスも堪能させてもらいました。
妖夢vs咲夜を初めとした戦闘シーンも凄みが感じられました。
他にも言いたい事は無数にあるのですが上手く言葉にできないのが無念です。
引っ掛かりを覚える部分もいくばくかありましたが、加点方式では文句無しに100点をつけさせて頂きます。
面白いものを再び見せていただき、本当にありがとうございました。
無茶な能力に無茶な状況。だが勝負を決めるのは頭脳(ブレイン)。…と、両作品のツボ同士が、相性として綺麗に重なって見える。
サクヤの時間圧縮ナイフなど、荒木絵で容易に想像出来てしまう程に。
ご馳走様でした。
こんな感想しか書けない程に、すばらしい・・・
小ネタのチョイスが素晴らしすぎる。こいつはグレートだぜ。
そして次はさしづめ仗助&美鈴で黄金の精神チーム?
JOJOもブレインだ
お見事の一言です。
東方キャラもジョジョキャラも、それぞれ全員キャラがよく立っていて練りこまれていて、違和感を感じることがありませんでした。
すばらしい作品をありがとうございます。
頭の中で全キャラJOJO顔に変換されてたw
ブチャラティなど5部キャラが出ないのは
永夜抄編用にとってある、と勝手に信じてますw
DIOとか吉良が出ないのは・・・山田様に堕とされたんだろうな・・・
でも奴らがおとなしく裁かれるとは思えんがw
それは花編(ry
成長する重ちーや、ゆゆ様が単純に敵とならない人間関係とか
ラスの紫モノローグが実に黄金の精神!
妖夢と咲夜さんの、能力の限界を尽くした死闘! 東方ファンなら、100点満点で楽しめます。
そして、西行妖へ立ち向かう『黄金の精神』の持ち主達に、その後の爽やかなエピローグ……。
東方・ジョジョ両方大好きな自分にとっては、プラスして200点どころか、かけて1万点ですよ、ホント!
て言うか、王道を外れない構成に頭脳的な戦闘場面、質の高い文章描写と……
大作アクション物として、東方・ジョジョ共に知らない人でも楽しめてしまうのではないのでしょーか!?
その位面白い作品でした。こんな素晴らしいお話を読ませていただいて、本当アリガトーございますッ!!
こいつぁグレートだ……
素晴らしすぎる
ドドドドド…と今にも聞こえてきそうな気合の入った対決描写に丁寧な内面描写もいいのですが、何より双方の作品に対してちゃんと愛を持っているのが最高です。
前作にもあったけど、幻想郷の人妖にはスタンドは見えないのか・・・。まあ、当たり前か。
あと、紫がジョースターの事を知っていたとは・・・。ゆかりん恐るべし。
と思っていたのでとても楽しいです。
JOJOファンとしても東方ファンとしても大満足です!!
前作に引き続き、クロスオーバーの妙、お見事の一言に尽きます。
素晴らしいSS、ありがとうございました。
てか巫女と白黒出番ねぇ―――――ッ!!!
死して尚、精神的に成長していく彼の姿が、俺の心を揺さぶる。
また他のキャラたちも皆、格好良くて……
読めてよかったです。ありがとうございました!
ディ・モールト・・・ディ・モールト(すごく)いい!!!
チーズとトマト、そしてドレッシングの絶妙なハーモニー。・
レミリア「咲夜が帰ってくるわ!」
ただひとつ。
次回作に期待。
まさかここまでキャラが出てくるとは・・多すぎて途中でパニックになりましたw
JOJOファンとしても面白いくらいのネタがあって面白かったですよ
そして紅美鈴が一番活躍しているのがブラボーです
グレート!
ところどころにあるネタにニヤリしました!
最高級のクロスオーバーものだ。
ちょっと長いと感じましたが、素晴らしかったです。
思わず涙出ちゃったよ。
四部のクロスオーバーでしかも色々と小ネタがある。
見ていてニやリとしました。
咲夜が助けに入る前に妖夢の「~ない」に対抗?みたく「OOは砕けねぇっスよ」とかのノリがあったり、文字としてはお約束?の「ゴゴゴゴゴゴ」
遠い日に読んだ、JOJO第二部の感動が蘇って来まして、画面が爆発するような感動を受けました。
そこに痺れる 憧れるぅ!
きになります。
久しぶりにいいのを見せてもらいました。
燃えさせていただきました
東方にもジョジョにも愛があふれております。素晴らしい!
知欠wwwww
ジョジョクロスSSとしても最高傑作!
・・・グレート
ディ・モールト・べネ(非常に良しッ!)としか言いようがない
そして恐るべきは、間違いなくこの作品は東方SSだということ。
何を言っているのかわからないと思うが俺にもわからん。とにかく言いたいことは一つ。
作者ッ! おまえの素晴らしい作品ッ! ぼくは敬意を表するッ!
DIO様が映姫様に裁かれてなければ咲夜さんとの邂逅とかもあったんだろうかwwww