「ねえ咲夜、貴方野球って知っているかしら?」
風がうっすらと宵の香に染まり始めた秋の夕暮れ。仕事を終え、窓の外に広がる黒と橙の斑をぼんやり眺めていると、部屋の奥の闇からお嬢様がやってきた。
「野球ですか? ええ、人並みの知識は持っていますが……お嬢様が野球を?」
お嬢様が野球。
イメージではない。お嬢様ならばどんなスポーツでも難なくこなすであろうが、野球のような埃塗れになる粗野なゲームはお嬢様には似合わない。バッターボックスでドレスを翻す紅い悪魔はさぞ美しかろうが、それはロケーションの悪条件を凌駕するお嬢様の魅力の御蔭である。
「あまりお奨め出来ない球技です。珠のお肌が荒れてしまいますわ」
折角こんなにちっこくてカワイイのだ。態々泥まみれにする事も無いだろう。
「あら、どうして?」
小首を傾げるお嬢様。
ああ、なんて可愛い仕草。頬擦りして押し倒したいくらいだ。
「どうしてもです。お嬢様」
以前実行したら正座で二時間お説教だった。現実は過酷である。
「宜しいですか? 野球とは棒状に加工したアオダモで白球を打ち返す、青臭いコミュニケーションツールです。春と夏、年二回必ずお茶の間にフレッシュな不祥事をお届けする、若さ故の向こう見ずなサクセスドリームです。モニター越しに眺めるならば兎も角、お嬢様が自らプレイする程のものではありません」
別段野球に恨みは無いが、バッドなイメージを植えつける。お嬢様を土埃の中に放り込む訳にはいかないのだ。
「咲夜、ルールは知っているわ。不祥事云々は良く分からないけれど、それは外の世界の事情なんでしょうね」
「ああ、野球自体はご存知でしたか」
ち、イメージ戦略失敗か。
ということは最初の質問は『野球とは何か教えてくれ』ということではなく、純粋に私に野球の知識が有るかどうかを問うていたのだろう。
「幻想郷の野球は肌が荒れたりなんかしないわ。湖上の青空で風に吹かれながらの快適プレイよ」
「此方では空中でやるのですね。外界では飛べるものは極稀でして。浅慮失礼致しました」
静かな湖上で空中プレイ。ならば問題は何も無い。
ボールだろうが何だろうが、お嬢様の運動神経ならばバットで地平の彼方まで叩き返すだろう。デッドボールにのたうち回るなんて無様を曝す筈もなし。長物で武装したお嬢様に敵は無い。
埃に塗れ、地べたを這いずる必要が無いのならば反対する理由は無かった。寧ろ湖面に映るお嬢様のスカートの中身が、この私のスポーツマンシップを堪らなくかきたてる。
「野球については存じておりますわ。ですが、野球がどうか致しましたか?」
野球をしよう、ということだろうか。
大歓迎だ。前日にチルノでも捕獲して、湖を凍らせた上でピカピカに磨きたててやる。
「野球の大会を開く、と魔理沙が言ってきてね。紅魔館には一人野球好きがいるし、咲夜さえ良ければ参加しても良いかと思ったの」
「ブラボー!」
高らかに勝ち鬨を上げる。
「咲夜?」
「いえ、何も。そういうことでしたら私も参加に吝かではありません」
「そう。出場決定ね。それじゃメンバーを調達しなくちゃね」
「ナインは決まっていないのですか?」
「大体は決まっているけれど、一応参加の意思を確認しておかないと」
それはそうだ。当日イキナリ引っ張り出したりすれば、機嫌を損ねて媚薬を盛り始める厄介な本の虫も館には存在するのだ。
「フランはもう知っているわ。フランと遊びに来た魔理沙が持ちかけた話だもの」
「分かりました。美鈴も確認を取る必要は無いですね。当日徴兵しましょう」
お嬢様の言う野球好きとやらは美鈴だろう。当日だろうが何だろうがニコニコついて来るに違いない。
「そうね。それじゃとりあえずパチェと小悪魔ね」
「畏まりました。それでは図書館へ向かいましょう」
私の語尾が消えると同時、お嬢様の小さな身体が音も無く仰向けに傾ぐ。その背中を柔らかく受け止め、スカート越しの膝裏に手を入れて抱き上げる。私の首に手をまわすお嬢様。
愛と献身のツープラトン。通称お姫様抱っこ。以前チェスでお嬢様を破った時にご褒美として試みたものだが、移動が楽ちんな事もあり、どうやらお嬢様はこのスタイルが甚くお気に召したらしい。以来、時々こうして甘い二人三脚を楽しむことがある。
ちなみにこのツープラトン、パチュリー様は体格ゆえに実行不可能であり、美鈴はそのけしからん胸が邪魔で視界が悪い、とお嬢様の不評を買って、現在ではこの私の特権となっている。
薄く目を閉じるお嬢様。翼をぺたりとおなかに巻きつけた姿が最高に愛らしい。
この世の春を胸に抱いて、中庭を通る最遠ルートで大図書館に向かった。
◇
夜の闇より尚昏い、ベルベットの海を思わせる紅魔館大図書館。
私が空間を弄っているとはいえ、この知識の穴蔵は余りにも広く、余りにも深い。足を踏み入れたが最後、一介の妖魔では二度と抜け出す事叶わないラジエルの揺籃。新米メイドの一割が呑まれるその知の深奥で、パチュリー様は小悪魔に叱られていた。
「どうしてすぐに闇に乗じてボディタッチに奔るのですかパチュリー様。そういうことをするから図書館にメイドをまわして貰えなくなるんです」
「言い掛かりよ小悪魔。私の右手は無実よ」
「なら私のお尻に当てられたこの手は誰のものですか」
「咲夜かしらね」
「私の両手はお嬢様に捧げましたわ、パチュリー様」
闇の只中にあって唯一ランプの灯に照らされた一角。乱立する知識の塔を避けて、お嬢様を静かに降ろす。
「大体パチュリー様は……ああ、咲夜さん、お嬢様も。ようこそいらっしゃいました」
「パチェの御守りも大変ね」
「そうなんですよお嬢様。聞いて下さい。パチュリー様ったら……」
「その話は後で私が聞くわ。ちょっとパチュリー様に話があるから貴方は紅茶でも淹れてきてくれるかしら」
「あ、はい。分かりました咲夜さん」
口の割に嬉しそうな小悪魔を柔らかく制して、場を三人だけにする。用件は小悪魔にも通す話だが、彼女はパチュリー様に付き従うだろう。確認も説得も必要は無い。
「今日も変わらぬ壮健ぶりねパチェ」
「ええ。大掃除直後以外にレミィが図書館に来るなんて珍しいわね」
「たまにはね」
時を止める。書棚の傍に転がされた椅子を取り、丁寧に埃を拭きとってお嬢様の背後に置く。
解除。振り返る事も無くお嬢様は椅子にかけた。
「魔理沙が野球の大会を開くそうです。面子が揃えば出場の予定ですが、パチュリー様は如何なさいますか?」
『魔理沙』を軽く強調する。
引き篭もりのバッドイメージは輝夜が一手に引き受けてくれているが、パチュリー様も相当な少女密室である。野球などというアウトドアスポーツには難色を示すかもしれない。
それは非常に困るのだ。
秋空の下、湖に映るお嬢様の赤裸々なまごころ。命を賭けるに値する光景だ。必ず実現させねばならない人類悲願の理想郷だ。メンバーが揃わず不参加、なんてくだらない理由で閉ざされて良い希望では無いのだ。
湖面のヘヴンをそっと耳打ちすれば、パチュリー様は一も二も無く参加するだろう。だがそれではダメだ。お嬢様の秘密の花園は他の誰にも悟られてはいけない。永遠に紅い幼き月の生まれたばかりの初恋は、この十六夜咲夜の胸の内だけに、そっと仕舞い込まれていなくてはならないのだ。
「魔理沙が? そう……」
だから魔理沙を餌にする。
蜘蛛の巣の様に節操の無い恋心を標準装備するパチュリー様だが、魔理沙に対する想いは並々ならぬものがある。必ず食いついてくるだろう。
お嬢様をダシにしても同等の、あるいはそれ以上の効果を得られるだろうが、それは出来ない。パチュリー様の目をお嬢様に向ける訳にはいかない。ミッションを阻害する可能性は全て排除せねばならないのだ。パチュリー様を参加に誘導し、尚且つ意識をお嬢様から逸らすデコイが求められていた。
「良いわね。私も参加するわ」
「セ・シ・ボン! 二次性徴前の瞳に乾杯!」
腰を落としガッツポーズをとる。
「咲夜?」
「いえ別に。英断ですパチュリー様」
一瞬で真顔に。握った拳を解除して、淑女然と拍手を送る。
「さっきも吼え猛っていたわね。よっぽど好きなのね、咲夜も。良かったじゃないパチェ」
「そうね。同好の士は何よりの友となるわ」
「同好の士、ですか?」
同好? 少女愛の事か? そしてお嬢様の言葉、「咲夜『も』」? まさかお嬢様に目論見が露見した?
マズイ。それはマズイ。何とか誤魔化さなくては。
「いやその、アレは美鈴が――」
とりあえず、何かと便利な親友(サクリファイス)の名を叫ぶ。
が、
「パチェは大の野球好きなのよ、咲夜」
「――白とピンクのしましまの……はい? 野球?」
「ええ、野球。野球の話でしょう、今は?」
「そ、そうでしたね。ええ、私も野球拳には目が無くて……」
「野球拳? 初耳ね。外の世界の武術かしら」
「え、ええ、五体を野球の守備位置に見立てた前衛的な拳法です。ピッチャーが右拳、ファーストが左腕肘部で……」
「へえ。右拳から気でも飛ばすのかしら」
「いえ、バットで殴りかかります」
「潔いピッチャーね」
「拳なんて飾りですよ。中国にはそれが分からんのです」
適当な事を言って場を凌ぐ。
良かった。バレてない。
コードネーム『Flower on lake(湖上の華)』はまだ死んでない。
「まあ拳法は美鈴に任せるわ。ちょっとバットを持ってくるわね」
どこか嬉しそうに書架の奥に消えていくパチュリー様。どうやら本当に野球好きらしい。
ということは紅魔館の野球好きは美鈴ではなかったという事だ。まあいいだろう。相手は美鈴だ。朝食のコッペパンにジャムでも付ければ、試合当日かり出しても文句は言うまい。
「あったわ。コレを使うのも久しぶりね」
闇に溶けたパチュリー様がバット片手に戻ってきた。
早い。どうやら手の届くところで保管しているようだ。
「マイバットですか、パチュリー様。よっぽど好きなんですね」
「ええ。一本七桁の秘蔵のバットよ」
「七桁? 随分と高価ですね。鉄心でも仕込んであるんですか?」
「違うわ。サインバットよ。外の世界のスーパーヒーローのね」
ふふん、と珍しく口の端を上げるパチュリー様。
なるほどサインバットか。ならば高値も頷ける。
しかし、よくもまあ幻想郷で外界のサインバットなど手に入れたものだ。彼女の野球にかける情熱が本物だという証左だろうか。
「外の世界のベースボーラーなんて私達は知らないけれど、咲夜なら此方に来る前に聞いたことがあるんじゃない?」
ひょい、とパチュリー様の手からバットを取り、此方に差し出してくれるお嬢様。
「ありがとうございます」
それを両手で抱きしめるように受け取った。パチュリー様の大切な品だ。傷でも付けば彼女は悲しむだろう。
「サインバットなんて初めて触りました」
「良いものでしょう?」
誇らしげなパチュリー様。それに微笑み返し、バットに目を向ける。
渡されたバットは所々が赤黒くくすんでいた。成る程、流石はスーパーヒーローだ。文字通り血の滲む鍛錬の末に手にした栄光なのだろう。
使い込まれて尚、流麗なフォルムが美しい細身のバット。道具(グッズ)というよりも芸術品(アート)の趣が強いそれには、確かに力強いアルファベットが躍っていた。
『Mahatma Gandhi』
奇声を上げバットを振りかざし、政府関係施設を襲撃するインド独立の父が脳裏を過る。
平和と野菜を愛した男が、その穏やかな老紳士の仮面をかなぐり捨てての渾身のフルスイングだ。温室育ちの英国領事館など一溜まりもあるまい。
「そう……。真実はいつも過酷なのね」
非暴力不服従など所詮は夢物語ということだろう。
理想と現実の狭間に翻弄された男の苦悩が、バットの赤い滲みからひしひしと伝わってくる。
「? 咲夜、どういうこと?」
「いえ、……ちょっと聞いたことの無い選手です。申し訳ありません」
「そう。いいのよ咲夜。パチェも気にしないわ」
パチュリー様にバットを手渡す。彼女はそれを愛しげに撫でた。
「ええ、気になどしないわ。ちょっとがっかりしただけ。……この『マハトマ』は『偉大なる魂』という意味らしいわ。断食で己を律していたというし、きっとプレイヤーとしても人間としても、雄大な人物だったんでしょうね」
ふっと寂しげに呟き、遠くを見やるパチュリー様。
そんな細かい知識があるのに、どうしてガンディーがバッターボックスに立つんだ。
「申し訳ありませんパチュリー様」
「いいのよ。気にしてないって」
寂しげな瞳はそのままだが、優しく微笑みかけてくれる。
言えない。とてもではないが、ガンディーはベースボーラーじゃありません、なんて残酷な台詞は紡げない。
「どうしたの咲夜? 震えているわ」
「いえ、お力になれないことが残念で……」
全霊をかけて首と頬に力を込め、吹き出しそうになるのを必死で堪える。
「まあ涙まで……泣かないで咲夜。誰も貴方を責めないわ」
「お嬢様……」
大体どうしてベースボーラーが断食するんだ。デッドボールで三途を渡るような貧弱な選手と契約する節穴球団が何処にある。
時を止めて爆笑したいのをグッと堪える。
ダメだ。体面の問題では無いのだ。同好の士と喜んでくれた、パチュリー様の友情を笑うことなど出来る筈がない。
一秒、二秒、時間をかけてゆっくりと腹の力を抜いていく。
「――大丈夫ですわ、お嬢様。ご心配おかけしました」
頭の中で九九を唱え必死に気を逸らしながら、目の端の涙をそっと拭う。
波は去った。もう平気だ。
「本当に気に病むことは無いのよ」
「はい。そうしますわ、パチュリー様」
だからそのバットを遠ざけて下さい。
「す、すみません、お待たせしました。紅茶と……あんまり美味しく出来ていないかもしれないんですけれども、クッキーを焼いてきました」
そこに銀のトレーを持った小悪魔が帰ってきた。
良かった。紅茶で気を落ち着かせよう。
「随分遅いと思っていたのだけれど、そんなものを焼いていたのね」
「あ、お嬢様お嫌いでしたか、クッキー……」
「そういう意味ではないわ」
「は、はい……」
本当にお嬢様に他意はない。だがそんなお嬢様の機微を、完全に理解できる者は館にも少ないだろう。
読み違えた空気にまごつく小悪魔。きょろきょろと落ち着きなく辺りを見回す。その目が偉大なるバットの上で止まった。
「あ、ベースボールですか、パチュリー様?」
「ん、ええ」
紅茶とクッキーを愉しむパチュリー様が胡乱に頷いた。
「前にも言いましたけれど、このバット高いんですから、試合では別のバットを使ったほうがいいんじゃないですか?」
「いいのよ。バットは白球を打ち返してナンボよ。お飾りのアオダモに意味は無いわ。きっとマハトマもそう言う筈よ」
多分言わないだろう。
「ところでパチュリー様、そのバットはどちらで?」
だが額にして七桁のバットを試合で使う根性は大したものだ。
仇はとろう。そう思わせるだけの侠(おんな)を見た。
「香霖堂よ。あのメガネもたまにはいい物を見つけてくるわね」
「なるほど……」
あの露出狂、ハジけた真似をしてくれる。おそらくは本人も無知故につけた値段なのだろうが、無垢なパチュリー様から大金せしめたとあっては捨て置けない。黒幕は紫か? 何にせよ相応の贖いはして頂こう。
「そういえばパチュリー様」
「今度は何?」
「その香霖堂の店主ですが、何でもパチュリー様の書いた本に甚く感銘を受けたそうで。大量の貢物を持参した帰りにリムジンに撥ねられて重症です」
「また唐突ね。お気の毒に。まあ彼もそろそろネタキャラが板についてきたし、その程度の傷なら三日で治るでしょう」
「ええ。何も心配は要りません」
にっこり微笑み、頭の中でずらりと並んだナイフの群れの、左から三番目を粉々に砕く。これで侍女控え室に置かれた氷の塑像の時間が動き出す筈だ。合図に気付いたメイドの誰かがフンドシを急襲するだろう。
「貢物は明日にでも届けますわ」
「いらないわ。面白そうな本とガラナチョコがあったらそれだけでいいわ」
「畏まりました」
これでいい。
冷めないように四人の紅茶の時間を調節しつつ、店主のコミカルな悲鳴を想像して一息つく。
「けどパチュリー様が野球好きっていうのも不思議ですよね。普段は安楽椅子の上でゴロゴロしているだけなのに」
途切れた会話の間を縫って小悪魔が皆に問うように言った。
確かに野球好きとは初耳だった。下手の横好きという奴なのだろうか。
「失礼ね。動く必要が無いから動かないだけよ。人間じゃないのだから身体が鈍(なま)ったりなんてしないわ。今度の試合でドアスイングなんてしたらスペルカードを一枚貴方にあげてもいいわ」
心外だと言わんばかりのパチュリー様。
「詳しそうですね」
「パチェは野球の事なら何でも知っているわ、咲夜」
誇らしげにお嬢様が言う。
「守備のセオリーにバッティングのコツ。パチェは動かないベースボールバイブルよ」
動け。
「実際にお上手なんですか?」
「そうね、上手よ。特にバッティングは神業ね。内角、外角、後頭部。パチェに死角は無い。パチェは誰よりも豊富な知識を、誰よりも器用に腰の回転にコンバートするわ」
「褒めるわねレミィ」
「事実でしょう。知識と日陰のマグワイヤの異名は伊達じゃない。紅魔館の四番打者は貴方しかいないわ」
「まあね」
綽綽と紅茶を口に運ぶパチュリー様。
どうやら本当に得意らしい。意表を突いた趣味。だが決して意外ではない事を館の者は知っている。
パチュリー様は気管支性の喘息持ちである。
気管支性喘息の発作とは、気管が通常よりも細く狭いが故に起きる呼吸障害の事である。
極細のストローでマックシェイクを吸うようなものだ。一回一回の呼吸に文字通り死ぬほどの体力が必要となる。だが精根尽き果てる思いで肺に空気を送り込んでも苦痛は去らない。取り込める空気の量が少なすぎるのだ。全力で掴んだ酸素。だがそれは平時の数分の一に過ぎない量でしかない。絶対的に足りない酸素に喘ぎながら、次の呼吸、その次の呼吸をこなさなければならないのだ。
苦しさに呼吸を放棄する事は出来ない。結果失われるのは己が生命なのだから。
没溺の経験があるものは理解できるだろう。自分が余りにも簡単に死ねる事を理解した時の恐怖、理不尽。父の手により救い上げられた陸上において、未だその辛苦を味わい続ける者がいるのだ。
だからパチュリー様が発作に倒れた時、館の皆は必死で看病する。彼女は今、頭を水に突っ込まれているのだから。
だが、畏怖しろ小娘ども。
そんな状態でパチュリー様は看護者の尻を撫でるのだ。お粥に媚薬を混ぜて味見を促し、もう済ませた、と口にスプーンを突っ込まれて数時間悶々と過ごすのだ。
これほどの気力。これほどの体力。彼女の他に兼備える者があるだろうか。
パチュリー・ノーレッジはひ弱な本の虫。それは大きな間違いだ。その身に秘めるポテンシャルは誰よりも高い。
小悪魔の台詞、『椅子に座って動かないパチュリー様』。それは全てを了解した上での軽口だ。彼女の弱さと強さを理解する者のみが口にする、親愛のキャッチボールの第一投なのだ。
閑話休題。
パチュリー様は優れた身体能力を持っている。正確な知識とセンスがあるのならば、お嬢様の言うとおり相当なスラッガーなのだろう。
「小悪魔も出場するでしょう?」
「勿論ですよ。私がいないとパチュリー様は何をするか分からないですから」
薄い胸を反らして小悪魔が参加意思を表明する。
「小悪魔もゲットですね。お嬢様にフランドール様、パチュリー様に小悪魔、美鈴に私、確定は六名でしょうか」
「そうね。問題は残りをどうするかね」
「そうですね、お嬢様。相手はきっと弾幕ユーザーでしょうし、メイド達を入れるのは酷かもしれませんね」
十分に鍛えてあるメイド達だが、腹が減ったと駄々を捏ねる幽々子が死蝶をばら撒いたりすると、少々危険かもしれない。
「大丈夫よ」
「パチュリー様?」
「こんな時の為のご近所付き合いよ。東方紅魔郷にはあと三人出場していたでしょう」
「ああ……」
なるほど彼女らがいた。
甘い言葉と脅迫紛いの勧誘、そしてなけなしの隣人愛を駆使してメンバーに加えるとしよう。
「では美鈴ともども徴兵致しましょう」
「そうね。後は任せるわ」
「畏まりましたお嬢様。当日までに手配しておきますわ」
「やるからには優勝よ。無様な試合は許されないわ」
「心得ていますわ。愛すべき隣人達にも伝えておきましょう」
ルーミア、チルノ、大妖精。それぞれの乙女心をくすぐって士気でも上げておこう。
特にチルノには湖面を氷結させて貰わねばならない。凍らせた花畑の上をゴロゴロ転がしてご機嫌を取っておくとしよう。
「それではこの話はまた後ほど。お嬢様、そろそろ夕食が出来る頃です。食堂へ参りましょう」
「そうね」
来た時と同じ様にお姫様抱っこに移行する。
「パチュリー様、小悪魔も食事時くらいは休んで下さいね」
「分かっているわ、咲夜」
「ありがとうございます咲夜さん。パチュリー様はいつも休んでますけどね」
飛び去る私達に、ぱたぱたと小悪魔が手を振った。
「あれはつるぺたには見えない作業をしているのよ」
「パチュリー様だって大して無いじゃないですか」
「なんですって? フラットな小娘の癖に」
「なっ!? 酷いですパチュリー様! 少しくらいあります!」
キャッチボールを始めた二人を置いて大図書館を出た。
結構な時間が過ぎていたらしい。窓の外は黒一色になっていた。
「試合は明後日だったかしら。楽しめそうね」
「そうですねお嬢様」
間違いなく楽しいだろう。
パチュリー様の勇姿。お嬢様の艶姿。
コードネーム『Flower on lake』は私の目も心も愉しませてくれる筈である。
プライオリティがお嬢様のスカートの中身にある事は揺るぎ無い。だが野球にかけるお嬢様の期待と、パチュリー様の情熱を思い返せば、試合そのものにも熱が入るだろう。
勝負は二日後。優勝と湖面の純情を捥ぎ取ってこようではないか。
◇
「よく来たなレミリア。主催者兼、一回戦対戦相手のピッチャーとして歓迎するぜ」
「あら初戦は貴方のチームなのね、魔理沙。それはお気の毒ね。たった一試合で役目が主催者だけになるなんて」
「言うじゃないかレミリア。こっちは霊夢を始め、錚錚たるメンバーだぜ。キャッチャーの霖之助が不慮の事故で出場出来なくなったが、何、ウチはベンチが厚いからな。お嬢様の箱入りチームなんて目じゃないぜ」
「そういえば香霖堂の店主がリムジンに撥ねられたって咲夜が言っていたわね」
「撥ねられた? いや誰かに襲われた挙句、売り物を強奪されたって話だぞ。被害は八桁に上るとか」
「あらそうなの? 撥ねられた上に襲われたのかしら。ツイて無いわねあのメガネも」
「まったくだ。金目の品は根こそぎ、後何故かチョコレートとベッドに隠してあった本が持っていかれたらしい」
「そう。どうでもいいわね」
「ああ。どうでもいいな」
青一色の秋晴れ。湖畔の仮設テント。
どうでもいい会話に花を咲かせるお嬢様と魔理沙を他所に、遠目に湖の様子を確認しつつチルノの頭を撫でる。
「良くやったわチルノ」
「ふふん。まああたいに掛かればこんなもんよ」
湖のコンディションは素晴らしい仕上がりだった。完璧な凍結。完全な平面。
夜の間に、チルノが魂を削らんばかりの勢いで湖面を瞬間冷却し、次いで湖に住む数百の妖精達が気泡を排し、表面を均し、取れたてのバターの様に滑らかな氷壁を作り上げたのだ。
凹凸はゼロ。透明度は硝子の如し。漣こそ立たないが、空から見てこれが凍りついた湖だと見抜ける者はいないだろう。
そして、ここが肝要なのだが、ある一定の角度から湖を覗き込んだ時、氷は自らを鏡へと変える。お嬢様のスカートの中身を完璧な彩度を保って反射してくれる。
素敵だ。今や湖面は神託を告げる八咫の鏡だ。彩度100%の曇り無きビジョンを網膜に送信してくれる、クリーンで謙虚な中継プロバイダだ。
「ご褒美にまた今度、凍らせた花畑で転がしてあげるわ」
「そうこなくっちゃ」
期待に微笑むチルノ。
私がいれば氷花は砕けた端から復活させられる。それによってチルノは飽きが来るまで何度でも、パリパリとした感触を愉しみながら花畑を転げまわれるのだ。
今度はメランコに鈴蘭畑の一部を借り受けておこう。場合によっては一度の手間で、恩返しと口封じが出来るかもしれない。
スーさんには悪いが、辺りをプレイ前の時間に戻してから返却すれば、とりあえず問題は無いだろう。
「どうしたの咲夜? 今日は随分とチルノに優しいのね」
「あらパチュリー様。ええ、優しく生きることにしているのです」
「どうかしらね。それより咲夜、そろそろ試合開始らしいわ」
気がつけばテントの人影は疎らだった。魔理沙もいなくなっていた。
「分かりましたわ。それじゃパチュリー様、チルノと先に行って下さい。私はお嬢様と妹様の日傘のチェックをしてから参りますわ」
「そう。急いだ方がいいわ。『時間になってもメンバーが揃わないチームは不戦敗だ』って映姫が叫んでいたから」
「審判は映姫ですか」
ヒマな閻魔だ。
マハトマを肩に担ぎ、チルノの手を引いてパチュリー様が湖上に飛び上がっていく。それを目の端にぼんやりと捉えながら、テントに残るお嬢様と妹様に声をかける。
「そろそろ始まるそうですよ。お二人とも準備は宜しいですか?」
「ええ。大丈夫よ咲夜。寧ろ心配なのはパチェね。張り切りすぎて倒れないといいけれど」
「うん! 咲夜、早くいこ!」
「畏まりましたフランドール様。ですがお二人とも日傘を差しながらのハンデプレイなのですから、くれぐれもお怪我などなさいませんようお気をつけ下さいね」
二人の日傘を確認する。
お嬢様を抱いて、妹様を背中に乗せて、ゆっくりとテントから舞い上がる。
二つの日傘に囲まれて、つるぺたいっぱい夢いっぱい。
ちら、と湖面を見る。大丈夫。私の目からも凍り付いているようには見えない。完全なマジックミラーだ。
笑みが零れる。
物事に完璧など無い。いかに瀟洒に振舞っても100%などあり得ない。万難排したその先に潜む確率の悪魔は確かに存在する。
だがこの私に慢心は無い。我が瀟洒な『Flower on lake』は悪魔をも見越した作戦である。
氷面はプラスマイナス二度の微妙な角度からの光のみを反射するように調節されている。目を凝らしたところで氷結の事実を悟れる者などいないだろう。だが万に一つ、偶然の織り成す光の悪戯によって氷の存在に気付く者がいるかもしれない。ゼロに近い確率。だがそれはゼロではないのだ。偶然によって露見する計画。齎される恋の終わり。そんな悲しい結末はノーサンキューだ。
私はこの確率の悪魔に対抗する秘策を用意した。瀟洒とはそういうことだ。完璧の裏に潜む不可視の爆弾を摘まみ出せるからこそ、瀟洒なのだ。
要するに、誰も湖を見なければ良いのだ。氷面を、ダイヤモンドの足元にある魅惑の鏡を。つまりは下方部を。
下を向かなければ誰も氷に気付かない。ではどうすれば人は下を向かないか。
簡単だ。上を見ればいい。天を見上げつつ足元を観察出来る者など存在しない。それではどうやって他人を見上げさせるのか。
それも簡単。何も顎を突き上げるほど上空を見せる必要は無い。ほんの少し、水平な視線よりも僅かに上向きなそれを維持させれば良いのだ。上方部を注視させる。なんて容易い仕事。
単純な事だ。皆よりも高い位置でプレイする選手がいればいいのだ。即ち、私が。
ほんの少し、或いは多少大胆に、皆よりも高い位置をキープする。大丈夫、全員空を飛びながらのプレイだ。多少高度を上げる選手がいても不自然じゃないだろう。
不自然ではない。だが高い位置にいる者はどうしても注目を浴びる。人であれ妖怪であれ、己よりも高いところに存在するものから意識を逸らす事は出来ないものだ。皆私を見上げる。足元の湖など視界どころか意識にも入らないだろう。
瀟洒な秘策。
あえて断言しよう。凍りついた湖が気取られる確率は――ゼロだ。
加えて高い位置にいる私は、自然、下を向いてプレイすることになる。湖面に映るお嬢様の赤裸々なお姿を眺めていても、周囲に不審がられる事は無いのだ。素晴らしいプラン。瀟洒の二つ名は伊達では無いのだ。
薔薇色の未来に胸が躍る。
そこへ、
「吸血姉妹とメイド、急ぎなさい!」
審判を任されたヒマザナドゥの声が響く。
やれやれ余裕の無いことだ。人生には余裕と潤いが必要だというのに。
「仕方ありませんね。少し急ぎましょうか」
胸の中のお嬢様と背中の妹様に声をかけて、若干速度を上げた。
頭上に広がる青いフィールド。眼下に広がる青い夢。
さあプレイボールだ。
お嬢様がいる。妹様がいる。マハトマの加護を受けたパチュリー様もいる。チームの優勝は揺るぎ無い。
胸を張って、腕を振って。今日のこの蒼穹の様に晴れやかに、下を向いていこう。
×××
「なあ咲夜……。その……ちょっと高く飛びすぎじゃないか?」
「煩いわね。こっちの方が打ちやすいのよ」
「そ、そうか……でもお前守備の時も……い、いやまあ、お前が良いなら良いんだが……」
「良い? 何がよ? それよりさっさと投げたらどう? 怖気づいたのかしら?」
「あ、ああ……それじゃ投げるぜ……」
魔理沙はぐるりと辺りを見回し、ほんのり頬を染めた皆に軽く頷いて振りかぶる。
「……いくぜ咲夜」
「待ち草臥れたわ」
堂に入ったピッチングモーションから放たれる高速の白球。だがど真ん中だ。狙いが甘い。
咲夜はそれを難なく打ち返して一塁に向かう。
一塁を蹴り、二塁を蹴り、三塁を目指す咲夜を、魔理沙は赤く火照った顔で見上げる。
「白のガーターか……瀟洒だぜ……」
霖之助がいなくて良かった。この場の誰もがそう考えていた。
瀟洒とは洗練された立ち振る舞い、何事もそつなくこなす優雅さ。
そしてわずかばかりのほころびによって成り立つのだ!
大真面目にズレた行動を取る咲夜さんは全く瀟洒の一言に尽きますね。
っていうかガンジーと野球という組み合わせにインド人もびっくりだ。
面白テキストの中にほんのり宿る紅魔館の友情親愛の暖かさがまた良いですね。
愉快な天然咲夜さん、ごちそうさまでした。GJ!
しかしなんというか、価値観の違いを目の当たりにした気がします。
>>……まぁ、咲夜さんがいいなら問題ないのかな?
申し訳ありません。分かり辛い表現だったかもしれません。もしかしたら伝わっている方、少ないのかも。なので二語ほど微修正を。褒められた手直しの仕方ではないかもしれませんが、どうかご容赦下さい。
氏の言葉の意味を此方が取り違えていたのなら、重ねて申し訳ない事ですけれども。
こあくまの表記が『小悪魔』と『子悪魔』の二通りあって統一されていないようです。
偉大にも程があるぜガンジー。
白ガーターに(ry
その方が違和感ないし。
しかしもしかしたら……あえて「一枚の瀟洒な薄絹」をミスディレクションに使っている……という解釈をしてしまいました。
それもありかなと思ったんで。
ごめんなさい吊ってきます……orz
まあ他人の足元ばかり見てるヤシは、以外と自分の足元もおろそかだったりする訳で……。
まあつまり、この凍りついた幻想鏡の上には変態しかいなかったという訳ですね(:´Д`)
ガンジーが一本のバットで英国軍を薙ぎ払う姿を幻視してしまいました。
そして『しろがーたー』に悶えました。
つかガンジー笑えすぎです。なんであんな人思いついたんですかw
策に溺れてる咲夜もかわいいです。いや結果的に皆幸せだからOKか。
しかし少し気にかかったのは、少しこーりん弄りすぎなんじゃないかと。
本作品にはあまり関係なさそうな人物なので、所々に出てくる名前に違和感を感じてしまいました。
というか多少アレな言い方をするなら、ほんのりと悪意を感じ取れてしまいます。
あくまで私の印象なので、そんなつもりが無かったらごめんなさいです。
何度見直しても無くならない誤字脱字。『小悪魔』に統一しました。指摘大感謝です。
>おやつ氏
吊るなんてとんでもない。全ては此方の筆力不足。そもそも、本来読んで下さった方の印象が全てなんでしょうね。
>>こーりん
ちょこちょこ出てくるのは愛ゆえです。本人を出すと、余りの使い勝手の良さにメインを食ってしまいそうなので、言の葉の端々で踊って頂いております。ですが、その様に感じられたのでしたら、それは筆に愛が乗っていなかったということ。精進致します。
ガンジーインパクト強すぎっ!
グッド、ガンジー。
そして何よりも咲夜さんの小宇宙的薄絹に(ry
結局明言されていませんが、咲夜さんは計画を完遂出来たんですかね?
何か一悶着あったとしか・・・いや、瀟洒な咲夜さんなら問題ないですか。
お嬢様の色は何だったのk(ry
何はともあれ、GJ!!
七桁の価値ありますよそのバット。それはもはや二十七祖でも薙ぎ払えそうな概念武装。
ガンジーな瀟洒、楽しませていただきました。
・・・ところで各チームのメンバーって・・・?
オチが成立しないので血の泪を呑んで諦めます
星を見る者は足元に何があるか気も留めないというが・・・ええいもう
天然なのか作為なのかハッキリしてくれ咲夜さん!・・・百中九十九は天然だろうが
ていうか、何度も言われてるとはいえやっぱりインドのあのお方が
全てのインパクトを持っていってしまいましたよ・・・
何で・・・なんであの方がバットをwww(抱腹絶倒中)
『動けぇぇぇッ!!!』
ある意味ガンジーより高威力…
マハトママハトマ連呼しすぎ。
「バットで滅多打ちするくらい、暴力には入りませんよ?」
と。
ああ、咲夜さんのガーターが完全にガンジーに持ってかれてる(;´Д`)
あと、Imperishable NEETsもツボでした。
咲夜とパチュリーの壊れっぷりがスバラシイ。
作者のメッセージにも隙が無い!
このテの話で綺麗に落とせてるのは珍しいので。
上手く纏まっててナイス。面白かったッス。
こういう壊れ系咲夜さんも良いものだ。
冬扇様の「冷静な狂いっぷり」に毎回笑い死んでいます。
突っ込みは他の方が既にされてるので割愛。
それにしても……素晴しく瀟洒、かつ自然な壊れっぷり。
氏の紅魔館SSは変態的な程、エレガントだと思いまs
もう、素敵過ぎ。
――知識と日陰のマグワイヤ――笑いました。何それ?メッチャ腕とか細そうッスよっ!?
相変わらず冷静に狂っている文体が素敵すぎますが、今回はガンジーにすべて持っていかれました。
ガンジー縁のバット、その歴史を慧音に見せてもらいたいです。
皆は咲夜のを見る。 ハッピー
つまり皆ハッピー。 オールおっけ~ね
面白すぎます。
作者のセンスはキテマスキテマス
とか思ってたらガンジーでした。とてもとてもガンジーでした。
いや、すべて咲夜さんの計算通りなのか…
天然咲夜かわゆし
お尻は本当に良いものですね。
その発想は無かったw
SS探すよ!で『ガンジー』検索したらこれが最古だったしw
リムジンGJ