「イーナバーがーこーろん…………………だっ!」
「わっ、わわわ」
どすん。
後少しと思ったのか、勢いをつけて踏み出した足は慣性の法則に従って前へといこうとする自分の体を支えきれず、その結果、バランスを崩して尻餅をついてしまった。
「あはは、君もゲームオーバーね。これで全員だからまた私の勝ちよ」
楽しそうに笑う少女の周りでは、既に捕まっていた子供達が一様にあーぁ、と残念そうに肩を落としていた。
「お姉ちゃんが強すぎるんだよぅ……」
最後まで粘っていた男の子が、立ち上がってぼやきながら少女の元へと歩いていく。
少女の周りにはいつの間にか子供たちが輪になって座っていた。
歩いてきた男の子もその中に加わって、よっと座る。それを見て少女も腰を下ろした。
「ねぇお姉ちゃん。ずっと気になってたんだけど、イナバってなぁに?」
少女のすぐ横に座った女の子が訊ねると、反対側にいた男の子も「ぼくも聞きたかったんだ」と身を乗り出してきた。
それをきっかけに他の子供たちも、ぼくも、わたしも、と言い出した。
「あら? 皆知らないの? イナバってのは、こう、耳が長くて、白くて、跳ね回ってるやつよ」
両手を頭の上でぴょこぴょこと動かしながら、こんなのよ、と答える。
「あ、それって兎のこと?」
「そうとも言ったわね……たしか」
「でもでも、兎って転ぶの?」
「うーん、私の家に居るイナバはよく転んでるわよ?」
「へー、お姉ちゃんの家って兎がいるの?」
矢継ぎ早にあれこれと聞いてくる子供たちの問いに、少女は一つずつ丁寧に答えていく。
そして人差し指を顎に当てて、そうねぇ、と暫く考え込むように天を仰いだ。
「私の家って、昔から何故かイナバが集まってくるのよね。今どれくらい住み着いてるのかは知らないけど、まだかなりの数がいるはずよ」
少女の答えを聞いて、子供たちは皆目を輝かせて感心していた。
ちょうどその時、そこへ近づいてくる一つの足音が聞こえてきた。
親たちが迎えにくるにはまだ早い時間だったのだが、その足音は迷いもなく少女たちの方へと近づいてきた。
「……どういう風の吹き回しだ?」
続いて聞こえてきた声で子供たちは初めてその存在に気付いたのか、一斉に声のした方へ振り向いた。
その中の誰かが、そこに立つ少女を見て「あ、慧ねーちゃんだ!」と声を上げた。
声を上げた男の子が慧ねーちゃんと呼ばれた少女の元へと駆けていくと、他の子供たちもそれに続いていった。
「慧ねーちゃん、最近またずっと里に来てなかったけど、どうしてたの?」
「あぁ、ちょっと用事があってな。すまなかった。皆元気にしてたか?」
「うん、あのお姉ちゃんがね、ずっと遊んでくれてたから。楽しかったよ」
女の子が指差した先、一人まだ座ったままの少女を見て、慧ねーちゃん──慧音──の顔に少し影が差した。
「蓬莱山輝夜、まさかお前がこんな所まで出てきているとはな。一体何を企んでいる?」
「あら、貴方が暫く里を空けると聞いたから、代わりに里の護衛と子供たちの遊び相手を買って出てあげただけよ」
ふふ、と笑いながら答える輝夜に慧音はますますその眉間に皴を寄せていった。
いつもと違う慧音のそんな様子に、周りを囲む子供たちも黙って二人を眺めていた。
「そんな顔しないでよ。永く生きてるとね、たまには気まぐれを起こしてみたくもなるのよ」
「……本気か?」
「半分はほんとよ」
「残り半分は?」
「貴方に用があったから」
想定外の場所で、想定外の人物に会って、更に想定外のことを言われ、慧音は思わず目を丸くした。
「お前が用があるのは妹紅の方じゃないのか?」
「私だってずっとあいつに関わってばかりもいられないのよ。あー、でもやっぱりあいつの事になるのかしら?」
輝夜はそれ以上は語らず、細めていた目を開けてじっと慧音を見た。
「……わかった、聞こう。お前たち、すまないが今日はこれで解散だ。私はあのお姉ちゃんと話があるんだ」
心配そうに二人を見ていた子供たちだったが、慧音に言われて少し戸惑いながらも、なんとか全員帰路についた。
何度も二人の方を振り返ってくる子供たちに笑顔で手を振ってやりながら、やがてその姿が見えなくなると、慧音は輝夜の方へと向き直った。
「さて、ここだとまたいつ里の者が来るか解らないからな。私の家に行こうか」
「お邪魔してもいいのかしら?」
「茶請けくらいは出してやるさ」
∽
秋も深まり、木々の下に落ち葉が目立ち始めた頃。
最後(いやはて)へと続く扉はゆっくりと開かれていった。
その先に待つのは闇か光か。
開いてしまった扉をもう一度閉める事は叶わず、少しずつ、だが確実に、彼女たちをその向こう側へと誘っていった。
これは三人の不死人と一人の半獣の、最先と最後の物語。
∽
「ねぇウドンゲ、姫がどこに行ったか聞いてない?」
「姫ですか? いえ、私はなにも聞いてませんが……あ、また里の方に行っておられるのでは?」
永琳の言葉には答えつつも、鈴仙の視線は目の前に置かれた測りの目盛りに注がれたままだった。
「それにしては遅いのよねぇ……」
「それなら私が見てきましょうか?」
そこで初めて鈴仙は永琳の方へと顔を向けた。その目は自分がそうする事が当然だと言っていたが、永琳は立ち上がろうとする鈴仙を「いいのよ」と手で制す。
「姫も子供じゃあるまいし、大丈夫でしょう」
「はぁ……」
「邪魔して悪かったわね。それより、薬の調合は気を抜いたら駄目よ」
わかってますよぉ、と返す鈴仙の声をその背で受けながら、永琳は部屋を後にした。
永い廊下を歩きながら、永琳はふとさっき見た弟子の姿を思い出す。
戯れに町医者の真似事を始めてみたはいいものの、予想以上の来客に手が一杯になってしまった。
自分一人でも処理できない事はなかったのだが、折角なのでいい機会だからと鈴仙にも手伝わせてみて以来、ずっとあの調子だ。
それまでにも少し感じていたが、いざ教えてみると鈴仙はこちらの予想を遙かに上回るスピードで薬に関する事を覚えていった。
彼女は思っていたよりもずっと物覚えが良く、努力家だった。そして底抜けに「いい人」なのだ。
今もずっと新薬の研究と調合に没頭している。
自分が正解を言ってあげてもいいのだが、それでは彼女の努力も意味がなくなってしまう。
それでも、と永琳は歩いてきた廊下を振り返った。
「鈴仙、貴方はもうそろそろ自分の為に生きてもいいと、私はそう思うのだけれど」
そしてまたすぐに前を向いて永い廊下を歩いていく。
「さて、姫はどこで何をしているのかしらね」
先ほど鈴仙には大丈夫だと言ったが、どうにも嫌な予感がしてならない。
最近の輝夜を見ていても、どこにも異常は感じられなかった。
あの様子なら自分たちの計画にも気付いていないと思えたが、どれだけの年月を一緒に過ごしても未だに輝夜の事が掴みきれずにいたのもまた事実。
「まさかとは思うけど……やっぱり見に行ってみましょうか」
∽
「こんな事遠まわしに言っても無駄だろうから、単刀直入に言うわ」
ちゃぶ台の上に二人分のお茶と茶請けの煎餅を置いて慧音が座ったところへ、輝夜が唐突に切り出した。
「貴方、私に殺されなさい」
慧音は置く前に一つ摘んで銜えていた煎餅を思わず半分ほどでぱきっと割ってしまったが、それをゆっくりと咀嚼して飲み込むと、お茶を一口啜って輝夜へと向き直った。
「それはまた随分と唐突な話だな」
「別に唐突でもなんでもないわ。貴方は必死に隠そうとしているみたいだけど、私が気付かないとでも思っていたの?」
「……」
慧音は答えずに、半分になった煎餅をまた半分にぱきっと割った。
その表情を伺うように睨みつけていた輝夜だったが、何も見出せなかったのか、目を閉じるとすっと立ち上がった。
「来て早々で悪いんだけど、少し外に出ましょうか」
慧音の方を見る事もなく一人部屋を出て行く輝夜の背中を見て、慧音は残っていた煎餅を口に放り込んだ。
そして「ふむ……」と少し何かを考えた後、ゆっくりと立ち上がり、部屋を後にした。
「それにしても解らないわね。どうして貴方が自分の歴史を隠すなんて大それた事をしてまでその姿を保とうとしているのか」
夜の闇に染まった竹林、星と月の輝きも頭上に広がる竹の葉に遮られてその下は薄暗い。
何処へ向かっているのか、輝夜は振り返る事もなく真っ直ぐ進んでいく。
「私は──」
「あぁいいのよ。聞かなくても貴方の答えなんて解っているわ」
「……」
「でも衰えた貴方の力ではずっとそれを保ち続ける事もできない。そのおかげで度々里を空ける始末。本末転倒とは正にこの事ね」
「それでも、私は!」
慧音が言い返そうとしたところで、輝夜は家を出てから初めて慧音の方を振り返った。
突然の事に言い出そうとした言葉を飲み込んでしまった慧音が辺りを見回すと、いつの間に辿り着いたのか、そこは何故かその一帯だけ竹が一本も生えていない竹林の中の小さな広場だった。
「貴方が何を考えているかなんて、そんな事は別にどうでもいいの」
薄暗かった竹の下と違い、夜空の輝きに照らされた広場は明るく二人を照らしていた。
月の光に蒼く照らされた輝夜の顔を見て、慧音は今自分たちが話していた内容も忘れて思わず綺麗だと思ってしまった。
「私が興味があるのは……そう、貴方と永琳の謀反かしらね」
「気付いていたのか……」
「だから最初に言ったでしょ? 私が気付かないと思っているのか、って」
表情には出さずにいたが、慧音は内心で相当焦っていた。
自分の体の事だけならばある程度は気付かれても仕方が無いと思っていたし、恐らくは妹紅もそれに関しては気付いているだろう。
だがしかし、この計画だけは二人には何が何でも気付かれる訳にはいかなかった。
実際妹紅には気付かれる事なく進めてこれた自信はあった。それに永琳がしくじったとも考えにくい。
私たちが蓬莱山輝夜という人間の事を甘く見すぎていたのだろうか。
「謀反とはまたとんだ言いがかりだな。私も永琳も、全てはお前たちの事を思っての事」
だが幸いにも今日は満月。
人のままならば私など到底敵わないだろうが、白沢の状態ならば或いは──。
「だからこそ謀反と言ったのよ。これはそもそも私とあいつの問題。貴方たちが口を挟む余地はどこにもないわ」
「……ならば何故お前は私に関わろうとする」
その言葉に、輝夜はやれやれと首を振った。
「長い年月の中で、あいつは貴方に情が移りすぎたわ」
「だからなんだと言うのだ」
「私たち蓬莱人は死ぬ事は無いわ。でもね──」
そこで慧音から視線を外し、ふっと夜空を見上げた。
「体と魂は死ななくとも、心は死ぬのよ」
どこか哀しそうな輝夜の横顔を見て、沸々と自分の中で怒りがこみ上げてくるのを感じていた。
「それでお前は私を殺し、妹紅の憎しみを自分に向けさせようというのか」
「えぇそうよ。だから貴方の歴史は今日、ここでお終い。私の手によってね」
「だがそれでなんになる! 憎しみの果てに何が残るというのだ!」
「……限りある時間を生きる貴方にとっては一生かかっても解らない事よ」
輝夜の顔から笑みが消え、細く開いた目が慧音を睨み据える。
しかし、それでも動じる事なく、大きく息を吐くと今度は慧音がやれやれと首を振った。
「やっぱりお前たちは似たもの同士だよ」
「……」
「素直じゃない上に、不器用だ」
「……黙りなさい」
「私もいくら老い先短いとはいえ、まだここで終わる訳にはいかないんだ」
「だから?」
「悪いがお前の意見には賛同しかねる。どうしてもと言うのなら、力ずくででも私を倒していくんだな」
「……言ったでしょう? 倒すのではない。殺すのよ!」
∽
いつの頃からだろうか、慧音はずっと私に何か隠し事をしている。
慧音はもちろんそんな事は言わないし、私も気付かないふりをして黙っていた。
本人が言いたくないのならそれでいいだろうと思っていたけど、本当にこのままでいいのだろうか?
私の見立てが間違っていなければ、慧音は──。
「慧音?」
竹林の中にぽつんと立っている一件のあばら家の前で、妹紅は自分が呼ばれた気がしてふと振り向いた。
「いない……か。なんか慧音の声が聞こえたような気がしたんだけど……それに、なんだろ。この嫌な感じ」
胸に手を当てて星の輝く空を見上げた丁度その時、空が一瞬明るくなった。
何事かと思って見回していると、またぱっと夜の空が明るく染まって、それと同時に目の前に広がる竹林の少し先の方から小物の妖怪が散り散りに飛び立っていくのが見えた。
「あの光は……輝夜か? 一体何を……」
そこでまたどくっと胸が大きく鳴ると共に、先ほどの嫌な感じが急速に広がっていくのを感じた。
「まさか──いやそんな馬鹿な。あいつがそんな真似をするはずが……」
声に出して自分を納得させようとしながらも、足は勝手に妖怪たちが飛び去っていった下の場所へ、光の出所に向かっていた。
その足は次第に早歩きに、やがて走り出して、竹林の中の道なき道を駆けていく。
(どうか……どうか違っていてくれ。私の思い過ごしであったと)
迫り来る竹を避けながら、駆ける足は止まる事なく進んでいく。
つい先程までぱっ、ぱっ、と謎の光によって昼間のように照らされていた夜空も、今はまた闇に染まって本来の静けさを取り戻していた。
しかし、走れば走るほど、その場に近づけば近づくほど、妹紅の中のもやもやとした嫌な感じはその身を蝕んでいく。
そして、竹林の中に小さく広がる広場に辿り着いたところで唐突に視界が開けた先、その目に飛び込んできたものは──。
「慧音!」
「あら、遅かったのね」
「お前……慧音になにをした」
「見てわからないの? あまりにも可哀相だったから、殺してあげたのよ。わ た し が」
いつもとなんら変わらない、無邪気な笑顔で話す輝夜。その右手には、引きずられるように襟首を掴まれて項垂れる慧音の姿があった。
ボロボロになった服から伸びる、力なくだらりと垂れ下がった四肢を赤い血が幾筋も伝い、地面に赤黒い水溜りを作っていた。
ぴくりとも動かないその様子は、既に意識が無いことを証明しているかのようだった。
そしてそのまま輝夜が片手で放り出すように、慧音だった物を自分の後方へと投げ飛ばしたかと思うと、それは宙を舞い、なんの抵抗もなく、どしゃ、という音と共に地に落ちる。
「輝夜! 貴様あああぁぁぁぁああ!」
「つれないわね。私が殺していなければ貴方が殺されていたのよ? そう、私は貴方の命の恩人」
「何をたわけた事を! そこを退けえっ!」
「退けと言われて私が退くと思っているの?」
「退かないと言うのなら殺すまで!」
蒼白い髪をたなびかせ、その背に鳳凰を纏った妹紅が一気に輝夜へと向かって飛び掛る。
それを見た輝夜はただ自然体のまま。しかし僅かに顔を俯かせ、小さく呟いた。
「そうよ、それでいいの。貴方は私を憎んでさえいれば、それでいいの……」
∽
「……よくそれでまだ息があるわね」
ぽっかりと空いた広間の端で、変わり果てた姿になった慧音を見下ろす声があった。
「……永琳…殿………か──がはっ!」
はっ、はっ、はっ、と短い呼吸を繰り返す慧音が、自分の傍らに立つ永琳の姿を見てなんとか起き上がろうとするが、途端に口から大量の血を吐き、また倒れてしまった。
慌てて永琳が膝をつき、吐いた血で汚れた顔を拭き、全身の傷を確かめていく。
「ごめんなさい、来るのが遅れてしまったわ。姫がこのような行為に出るなんて、少し考えればわかった事なのに……」
「構わないさ……それに、輝夜はちゃん…とわかって……」
「それ以上喋らないで。まだこの満月の下、貴方が妖でいられる間にきちんと処置をすれば、助からない傷ではないわ」
言いながらも、永琳は応急処置の手を止めない。
だが、そんな永琳を見て慧音は達観したように小さく微笑むと、空に浮かぶ満月を見た。
「いいんだ……輝夜にも言われたが、私は元からもう長くはない。貴方も気付いているのだろう? 今の私のこの姿が、既に仮初のものでしかないという事に」
言うと同時に咳込んだ慧音の口から、またしても赤い血が零れ落ちていく。
言わんこっちゃない、と起き上がろうとする慧音をもう一度横たわらせ、やがて全ての傷の処置が終わったところで永琳はふぅ、と額を拭った。
そして空を見上げると、そこにはまるで互いに惹きつけ合っているかのように、何度も交差し合う二つの影があった。
「今が絶好の機会なのでしょうけれど、貴方がその様子では……」
「いや、貴方の言うとおり。この好機を逃す訳にはいかない」
聞こえてきた声の高さに驚いた永琳が空を見ていた視線をばっと自分の横に向けると、そこには自分を支える手を震わせながらもその上半身を起こした慧音の姿があった。
「駄目よ、その傷では!」
「大丈夫……だ。それよりも逆に私が問おう。本当にいいのか? 輝夜だってやり方は違えど目指す所は私たちと同じ。あいつに任せてみる手も──」
「……一度決めた事を覆す気はないわ」
「そうか。すまない」
「なんで貴方が謝るのよ」
「いやなに、代理だよ」
どうにか膝をつくまでにその身を起こした慧音だったが、思うように力がはいらず、そこから立ち上がる事ができずにいた。
応急とはいえ止血程度の処置を施されていた傷はまた開き、巻かれた布地を赤く染め上げていく。
それを見かねた永琳が肩を貸して、慧音は再び二本の足で地に立つ事ができた。「すまないな」と再度謝る慧音に、永琳は静かに首を横に振る。
「──どうか、最後には優しい記憶を」
「──そして、始まりには微笑みを」
互いに頷き、見上げた空には。
真円の月が輝いていた──。
∽
「輝夜ッ! よくも慧音をッ! 殺してやるぞ、殺してやるーッ!」
叫び、飛び掛ってくる妹紅は幾多の攻防の果てに右目を潰され、肘から先のなくなった左腕も、もはや使い物にならなくなっていた。
それでも、赤い血と紅い炎を振りまきながら輝夜に向かうその勢いは衰える事なく、むしろ一撃毎に増していくようでもあった。
一方、そんな妹紅の本気の攻撃を受け続けている輝夜は。
「そうよ妹紅。忘れないで。貴方にとって私は憎むべき相手。憎しみは全てを忘れて、貴方に生きる目的を与えてくれるわ。過去も未来も無い、私たちは今この一瞬を生きる事しかできないのよ。今を生きる事ができなくなった時、それが私たち蓬莱人の死に値するわ。私がどう思われようとそんな事は関係ない。妹紅、私は貴方には生きていてほしいの」
──無傷だった。
着物の端がいくらか焼き切れて、その整った顔にも多少の擦り傷や火傷の痕が見られるが、妹紅のように致命的な傷は一切負っていなかった。
今日だけは負ける訳にはいかなかった。
これからの彼女のために、そしてこれからの自分のために、今回だけはなんとしても、完膚なきまでに妹紅を殺し切る必要があった。
一撃毎に人としてあるべき姿から遠ざかっていく妹紅を見て、一瞬輝夜が哀しそうに目を細めたが、それでも攻撃の手を止める事はなかった。
一撃──光の矢が妹紅の右足を貫いた。
一撃──蒼白く輝く、長くて綺麗な髪が焼き切れた。
一撃──肘から先のなくなった左腕が、今度は肩から先がなくなった。
一撃──右の脇腹がぱっくりと裂け、血と一緒に何かが少し飛び出した。
それでも妹紅は鬼のような形相を浮かべて輝夜に向かってくる。
痛みも、戦う本当の理由も忘れて、己の身をも焼き焦がしながら、ただひたすらに。
「今の貴方の瞳には、私は一体どのように映っているのかしらね」
「かあぁぁぁぐぅぅやぁぁあああぁぁぁぁああっ!」
「さぁ、いらっしゃい妹紅。大丈夫、貴方が次に目覚めた時、私はちゃんと貴方の側にいるわ」
二人の渾身の一撃が互いを滅さんとした正にその刹那、突如として竹林が輝き、空にいる二人をもその光の中に包み込んだ。
「な、これは!? ──まさか!」
ばっと振り向いた先、遙か眼下で、先ほど確かに殺したはずの慧音が永琳に支えられながらもしっかりと二本の足で地に立ち、両手を広げて何かを呟いていた。
「永琳!? それにあの半獣! やめなさい、そんな事をしたら──あぁっ!?」
「姫っ! ──慧音、姫が!」
「やり直している時間は無い。せめて妹紅だけでも!」
妹紅の放った炎の剣が、すっかり眼下の二人に気を取られていた輝夜のがら空きになった背中に突き刺さった。
そのまま輝夜は灼熱の炎に包まれてゆらりと傾いたかと思うと、ゆっくりと堕ちていく。
竹林はますますその輝きを増していき、やがて妹紅の姿をその向こう側へと隠していった。
地上へと落下しながら、全身が炭と化していくその最中、輝夜は薄ぼんやりとしか見えなくなった妹紅を見て──泣いていた。
「妹紅……忘れないで、どうか忘れないで! 貴方という存在を。私という存在を。私たちが築いた幾多の歴史という名の記憶を。貴方が…てを………しまっ……わ……は…………え…………って…ま…」
そして妹紅は完全に光に飲み込まれ、黒い塊となって地に堕ちた輝夜は絶命した。
∽
気付くと、妹紅の周りには何もなかった。
今の今まで目の前にいたはずの輝夜も、周りに広がる竹林も、全てが消えて、どこが上でどこが下なのかも解らない、ただ真っ白な空間に妹紅は立っていた。
何故か無くなったはずの左腕が、右目が、体中の傷が消えて、焼き切れたはずの髪も元に戻っていた。
「妹紅」
自分を呼ぶ声に妹紅が振り返ると、そこには慧音が立っていた。
慧音もまた全身をボロボロにして血まみれになっていたはずなのに、そんな事はなかったとでもいうように、服も、体も、綺麗なままだった。
そして見た目こそ変わらないものの、その姿は衰えを必死に隠していた最近の慧音ではなく、まだ若かった頃、在りし日の慧音だった。
そんな慧音がどこか申し訳なさそうに妹紅を見ていた。
「妹紅、すまない。お前には最後の最後まで、心配をかけさせてばかりだったな」
「慧音……?」
「だからせめて、これからは……笑っていてほしい。私の事なんかで悩むな。輝夜を憎む必要もない。妹紅、お前はもっと……自由に生きていいんだぞ?」
「慧音……なにを言って…」
じゃあな、と笑って、くるりと背を向けて慧音が歩いていく。
「慧音、待って!」
妹紅がその後姿を必死に走って追いかけるが、何故か歩いているはずの慧音の背はどんどん遠ざかり、小さくなっていった。
手を延ばして追いすがろうとするも、決してその背に届くことはなく、やがて完全にその姿が見えなくなろうかという時に、慧音は立ち止まり、振り向いた。
「さよならだ、妹紅。今までありがとう。私は──お前と出会えて幸せだったよ」
こんなにも離れているのに、何故かその声はすぐ耳元で言われたようにはっきりと妹紅に届いた。
「慧音! いっちゃ嫌だ! 慧音、慧音っ! 慧音ーっ!」
再び背を向けて慧音が歩き出した瞬間、真っ白な空間は益々その白を強め、その白に包み込まれるように妹紅の意識はそこで途絶えた。
∽
季節は巡る。止まることなく、変わることなく、ゆっくりと。
∽
「姫、本気ですか?」
「あら、永琳は私の言う事が聞けないとでも?」
「いえ……全ては姫の御心のままに」
「それでいいのよ」
よく晴れた昼の空の下、竹林の中を歩いていく輝夜と永琳の姿があった。
何度も何度も、数え切れない程に通ってきたこの道も、しかしその眺めは一度として同じ事はなく、竹林は今日もまたその姿を変えてみせていた。
やがて生い茂る竹の向こうに見えてきた、一件のあばら家。
その外壁にもたれるように座って、一人ぽつんと空を眺める少女がいた。
近づく自分たちに気がついたのか、少女がこちらを振り向いた。
輝夜は永琳を手で制し、そこに留まらせて一人少女の元へと近づいていく。
そして座ったまま自分を見上げる少女に、輝夜は微笑みかけた。
「初めまして、藤原妹紅」
「……貴方、誰?」
「私は蓬莱山輝夜よ。今日はね、貴方に渡したい物があって来たの」
訝しげな表情を見せる妹紅に、輝夜は後ろ手に持っていた物をはい、と渡した。
「これは……帽子? 変な形してるなぁ」
「それじゃ、私はこれを渡しに来ただけだから」
「え、あ…ちょっと」
妹紅が制止の声をかけたが、既に背を向けた輝夜はその歩みを止めることはなく、それでも歩きながら振り返って最初と同じように微笑んだまま小さく手を振った。
そして離れた所に立っていた永琳の所まで行くと、二、三のやりとりの後、二人は揃って竹林の中へと消えていった。
一人取り残された妹紅は狐にでも化かされたのだろうかと、暫くきょとんとしていた。
「なんだったのかな……それにこんな変な帽子、私にどうしろって────あれ?」
呟いて、手の上の帽子に視線を落とした瞬間、妹紅の目からつーっと涙が落ちた。
「あれ? なんで私泣いて……あれ? おかしいな、止まらないよ……」
拭っても拭っても、堰をきったように溢れ出る涙が頬を濡らしていく。
季節は春。桜の花が咲き乱れ、幻想郷が桜色に染められている頃。
日々その姿を変え続ける竹林の中で、妹紅はいつまでもその帽子を胸に抱いて静かに泣いていた。
『──ありがとう』
どこからか、春風に乗ってそんな声が聞こえた気がした。
∽
ひょいぱく。
「あ、輝夜! それ私の玉子焼き!」
「あら、ずっと残しているから嫌いなのかと思ったわ」
「後にとっといたんだよ!」
「んー、返してあげないこともないわよ?」
何を思ったのか、輝夜がずずい、と妹紅に身を寄せてきた。
そのまま組み敷くように押し倒し、顔を近づけていく。
「な……ちょ、やめ……やめろって言ってんのよ!」
互いの息がかかりそうな程に近づいたところで顔を真っ赤にして突き出してきた妹紅の拳を、輝夜はひょいっとなんなくかわした。
そして、立ち上がりながら「残念ねぇ」などと呟いて、実に美味しそうに玉子焼きを飲み込んでいく。
「妹紅、玉子焼きくらい私のをあげますから。姫も戯れは程々にしてください」
「心外だわ。私は妹紅の為を思って玉子焼きを食べてあげたというのに」
「お前、解っててやってるだろ」
妹紅がジト目で睨みつけるが、輝夜がその笑みを崩すことはなかった。
「心外だわ」
季節は夏。木々に緑が生い茂り、蝉たちが存分にその存在をアピールしている頃。
最後の扉を越えたその場所で、果たして自分のした事は本当に正しかったのだろうかと、私は思った。
けれど、楽しそうに笑う彼女の姿を見ていると、きっとこれで正しかったのだろうと、そう思う事ができた。
そう、これは最先。ここからが本当の始まりなのだと。
これは三人の不死人と一人の半獣の、最先と最後の物語。
どうか、最後には優しい記憶を。
そして、始まりには微笑みを。
愚者の戯言も、禁断の知識も、紙一重の危うさ故の解読不能記号。
貴方故の禁断の知識、ゆっくり吟味致します。
慧音の刻が終わる時には、こんな始まりもあるかもしれませんね。
ただ叶うなら……その刻が訪れるのが、まだ先でありますよう……
それは3人が明るく暮らす村と1つの墓へと続く道だったのか・・・苦い話ですね
でも、希望はちゃんとある
いつかは覚める一炊の夢であろうとも、今を生きる彼女らにしてみれば
その生はおそらく幸福なのでしょうね
…例え未来に奈落が口を開けていたとしても、それが先の話であるならば
と、ちょっと悲しい気分になったのですが(作者からのメッセージ)の
いつかは全てを思い出すかもしれない。
というコメントで救われました、
記憶がもどっても、その頃には妹紅と輝夜の関係も違うものになっていると思います