考える。
汗ばむのはいいけれど、袖やら衿やら、ひらひらしたもの。
ああいうものが、素肌に張り付くのはやはり好きじゃないし、と。
そんなことを考える。
――この際、裸になってみようかしら。
そう言えば、傍の彼女はどう答えるだろう。
顔には出さず私は思う。思いながら、笑ってしまう。
服の脱ぐのがまず面倒、とまず思ってしまう、そんな自分に笑ってしまう。
刺すような痛みは白光で、陽射しというより陽刺しと呼べそうな気がしていて。
首を空高く傾ける。頬を撫でていく風、舐めていく光、細く流れる汗は背を伝わっていく。
風が尾を引いて木々を抜け、私の周りを迂回していく。羽箒で、首筋を撫でられているような心地がする。
むずがゆい上、わずらわしくて、
なにより暑く、なにより熱く、なにより激しく、どうしようもなく。
けれど。
けれども。
この先は、伏せておくのが嗜みだろう。
羽箒。私にとって、羽は果たして、なんだろう。孔雀か鶴か、もしや、果たして、火の鳥か。
ふ、と顔を上げてみる。
高く揺れる、透けた緑の空を見る。
さざめきが聞こえる。空気と溶け合う感覚。炎に抱かれるような心地がして、ここにひとりで。
なんて言ってしまうほど。
――暇、なのかしらね。
我ながら気が早い。
食指が動く。はや出向こうかと本気で思う。
しかし、いやいや、私わたしよ待ちなさい、と。
もっと本気で、こうも思う。
それじゃつまらない。
つまらないと思う。それはそれこそ月の兎の目明かしか、独りぼっちの夜明かしほどに、と。
こういうものは漬物と同じなのだから。漬け置く期間が重要で、長短どちらが過ぎても美味しくない。
なにより、それでは後が楽しくない。
それもそうだ。
楽しい方が、なによりいいに決まってる。なによりも。
何よりも。
じゃあ、保留。
そして我が身に立ち返る。
やはり暑さはそのままで。
差し込む陽に白んだ髪が、枝葉の陰に黒ずむ頬が、にわかに熱を持っていた。
「ねえ永琳。永遠は何処にあると思う?」
木漏れ日を手の平に映す。揺らめくそれを、じっと見る。
少し離れて苦笑が聞こえた。
「――そうですねえ。あるとさえ思えば、何処にでもあるでしょう」
「何処にでもある、ねえ」
掌の上で、透明な黒が踊っている。吐息を注いでも、思った通りには揺れなかった。
「有ると思えば、在る。簡単に言うと、そういうこと?」
「そんなところでしょう」
少なくとも、私たちには、ですけれど。
彼女は腰を少し浮かせて、傘の長柄を立て直す。視界が少し暗くなる。私はそれを見上げて、ほうと息を吐く。
「それもそうね」
木陰の涼気に手を翳し、その手の向こうに、瓦礫の広がる様を見る。
「今それを訊いて、如何なされるのですか? 姫」
崩した正座に少し横目で。広げた御座のその上で、覆う日陰のその下で、白けた空気を遠く見る。遠くに動く、走る因幡の影を見る。知った足取りで駆けて来るのは、やはり見知った月兎。
「口が暇だったから、なんとなく使ってみただけ。――どうもしないわよ? 実際」
少なくとも、今は、のことではあるけれど。
遠回しな繰り返し。
翳していた手を下ろし、指先で、薄く、浮かんだ玉のような汗を撫ぜる。また声が返って、
「今は、ですか?」
彼女は笑い、拭いを取り出し、私の前髪を指で上げ、額を軽く二、三度叩く。
とん、とん、とん――――、と。
刻む調子に、私はふっと目を閉じる。
そして、ざぁ、と。波が引くように、世界が、音を立てて広がっていく。
木の葉のこすれる音。風の鳴く音。冷めた衣に肌が触れたときのわずかな痺れ。遠い耳鳴り。全てが遠く、
薄闇の中は、こんなにも涼しい。肌寒いといっていいかもしれない。
目を開く。
とん、とん、とん――――、と。
広がる波紋に、
「永琳」
「なんでしょう」
口ずさむように、更に小石を投げかける。
幕の開けた世界に、白く滲んだ緑が揺れる。温く緩めの風が吹き。影をゆるりと振るわせる。
「暑いわね」
「ええ」
彼女は遠く、白く染まった空を見る。
頭の向こうで、蝉の声。耳には残響と、少しの反響。
虫の声は、いよいよ『らしさ』を持ち始めている。肌が感じている。
遠く、季節が去っていく。
遠く、季節が遣ってくる。
常に、季節はそこにある。
なるほど。永遠は、こんなところにもあると言える。
この場合、ならこの星の終わる日は、などと、野暮なことは言わないでおこう。
足元には濃い土気色、耳つきの、寸詰まりの影が立つ。
「師匠、お呼びですか?」
「ええ。ウドンゲ、彼女たちに伝えて。お昼にしましょう」
彼女はそう告げる。
見やった先で、よれた耳が小さく跳ねた。
「はいっ」
声と同じく弾んだ様子で、また白昼の下を駆けていく。それを見つめる。
「姫」
「なに?」
陽炎に揺れる視界に、溶け消えていく兎の背を、木立を傘に、遠く横目に見つめている。
「後ろをついてくる者は、得てして可愛いものだと思いませんか?」
彼女は見つめている。
遠く、行く、弟子の背を。
私は微笑む。
「そうねえ」
私は見つめている。
遠く、揺れる、陽炎の背を。
「……そうかもね」
私は微笑む。
「――そして去る者も、また、かしら?」
「そうですねぇ――――ああ、姫」
「なあに?」
薄手の雲がかかり、たちまち沈んでいく辺り一面の色は、深くて。
「私最近気が付いたんですけれど、偶には歩くことも大切ですよ?」
「あら。もしかしてだけど、草鞋に苔でも生えていたの?」
「蔵から出てきましたよ。履かずに腐らせた下駄と、虫に喰われた草鞋がそれぞれ百に十六。もちろん、件の品も玄関口で」
それはどこか、海の底にも似たもので。
「悪戯イナバの仕業かしら。……ままならないものねえ。本当」
「悪びれませんねぇ」
「これでも姫だものねぇ」
「ええ、一応は。しかし、転石苔を生ぜずともいいますから……、姫?」
「そうね――――、うん」
浮かび上がる色の鮮やかさはやはり、深い底から見上げるような、遠い光を予感させて。
「頑張るわ」
日は昇っていく。
空は熱を上げていく。雲は高く、白く、早く、けれど穏やかに、流れていく。
思う。
遠く、季節が去っていく。
遠く、季節が遣ってくる。
世は並べて事もなく、そして再び、今日もまた、
暑い日が。
「でも――いえ、それにしても、かしら」
風はぬるま湯で、流れる大気は羽箒。降りしきる時雨は蝉の声だろうか。
私は思う。
涼気とは縁を切った、陽気の注ぐ青空と、白雲混じる炎の天下、
唄うように言う。
「お腹が空いたわね。永琳」
「ええ。ではそろそろ行きましょう。姫」
それは、永遠の夏日。
『永遠亭始めました vol.スリー』
日々は短いようで長く、振り返ればやはり短く、総括すると永遠なのだと師匠は言う。本当のところは知らないけれど、変に含蓄のあることを言うから始末に置けない。息を吸い、息を吐くように法螺を吹く人種がいる。最近になって学んだことだった。
よくわからないうちに宿を失って、はや三日が過ぎていた。上白沢さんに無理を言って、永遠亭一同、今夜も屋根とお風呂を借りている。お礼はいくら言っても言い足りないし、言葉で足りないなら現物で補いなさいとは師匠の弁。時間ができたら、自腹で何か用意しよう。どうせなら季節がら、納涼に一役買えそうなものを。
季節といえば、ここのところ無闇に暑い。それに空気も湿ってる。この幻想郷は時たまに季節が狂うらしいけど、私の眼はそこまで強くない。きっと、梅雨の最後のひと絞りだろう。気にしないことにする。
そろそろ手記らしいことを書こう。
諸々の買出しを任され、香霖堂という店に出向いたのが曇天、早朝。ようやく着けば蒼天、真昼。雲どころかわずかな霞すら去った空に、蝉の鳴き声がそれを補って無闇に余りある白昼だった。私には運が無いと常々思う。
地面は煮立っていて、空は茹で上がっていて、屋根の下、影の上、暖簾をくぐると世界が違ったように涼しかったのを覚えている。雑多な店内は空気が通らないのだろう、戸も窓も開け放たれていた。
山積みの棚を崩さないよう奥に入ると、所用なのか、番台には誰もいない。空っぽだった。
物凄い脱力感を感じた。
涼しいと思っていられるのは最初のうちだけで、じっとしていれば蒸し上がりそうな店内は温い風だけが揺るやかに流れ、琥珀色の空気には埃が舞い、軽く咳き込んで、そこで更に奥の部屋から眠気眼の黒白が顔を出す辺り、私の運の無さは継続中のようだった。再びため息。
躊躇いもなくひとを奥の間に連れ込み、躊躇いもなく店のものであろう茶を、躊躇いもなく店のものであろう湯飲みに注がれるのには、むしろこっちが躊躇った。薄暗い天井、窓の外、白んだ空と地平を見ながら、少し話した。聞くところ、彼女はここの常連なのだという。なのに客にはどうにも見えなかったのは、彼女が部屋の片隅に積み上げた品物の塊のせいに他ならない。話題がないのでここに来た要件を告げる。傍目から見ても相当な気紛れ屋だろう彼女は、やはり実際その通りで、待ってろと一声、勝手知ったるとばかりに店内を回ると、得意げな顔で帰ってくる。入用の品がたちまち山を成した。
少し感じ入った。地上人も案外捨てたものではないかもしれない。まあ、それこそ気まぐれなのだろうけど。
いつかの花騒ぎも終息してそれなりの日が経っていた。
近頃は特に大きな騒ぎもなく、すいぶんと暇らしい。話の中で、彼女もこちらの事情を知っていることに気づく。予想通り、師匠の扮する肝っ玉女将の巡業を受けたらしく、宴会の何たるかを語る彼女は嫌に乗り気だった。仲居が欲しいなら雇われてやってもいいぞという意見は、もちろん、謹んで辞退した。
風鈴の音が欲しい午後だった。と思ったら、品物山の中に幾つか埋まっていた。視線で問うと、気合だ、とわけのわからない言葉を返された。近いうちにそっちに寄るかもしれない。そう、彼女は不安を煽るようなことを言って、そのまま畳に転がり寝入ってしまう。店主が帰ってこないことにはどうにもならないこともあり、私はその場にひとり、うつらうつらしながら腰を下ろしていた。小さく包んでいた昼御飯は、思い出した頃、部屋の片隅でゆるゆる食べた。口に残った梅の実が、嫌に温かった。
透き通っているようで、どこか流れが澱んでいて、
全てが彫像のようでいて、その実今にも動き出しそうで、
狂った画家が描き出す、絵画のような部屋の中。私は、陽射しひとつが消えるだけで、夏日はこうも過ごしやすくなるものかと感嘆にも似た感情を抱いていた。ゆらりゆらりと、小さく舟を漕ぎながら。
結局のところ、眠気というものは師匠たちの次に抗いがたい存在なのだと思う。
ふと気が付けば、部屋は黒というより薄赤く、私もいつの間にやら眠っていた。目が覚めれば黒白は不在で、程なくして店主らしい男の人が帰って来て、あとは特に記すことはなし。ただ、太ももに残った畳の跡や、瞼を貫いて差し込む光、冷えて背筋を震わせた寝汗だけは、今でもはっきり覚えている。
それが、昨日のことだった。そして、これからが今日のこと。私は
がくん――――と、
首と肩が両方一気に跳ね上がって、
ぱち。
音がするほど大きく、目を開く。
からり。
近く遠く、硬い響きが。
ころころ。ころころ。
転がっていく、音。瞼の裏に、ぼう、と目覚めの火が点る。
瞬きを繰り返し、重い耳と、ふらつく頭を持ち上げた。眼前。大写しに、横倒しになった自分の腕と、向こうに小皿が置いてある。机上だった。
ころころ。
皿の上には薄い油が張ってあり、そこに焦げたこよりが浮かんでいる。なのに薄暗い。当然だった。
灯は消えている。
ころころ。
少し顔を上げると、泥土の壁を上に伝った先、縦に板を渡した明り取りがある。広めの隙間の向こうに、紺色の空が浮かんでいた。雲はない。けれども月もない。もう沈んだのか、それとも、まだ昇っていないのか。屋根で隠れているというのが正解だろう、と後に気づいた。
ころころ。
そこで、我に返る。
「…………、あれ」
瞬きを二、三度繰り返して、瞼の冷たさにひとり驚く。
「……あれ?」
喉が痛かった。声が少し枯れている気がした。
考える。
――今、何時だろう。
少し意識が飛んでいたというのは、なんとなくだけど分かる。記憶の一番新しいものの中、最後に思い出すのは、うつぶせになっていた自分の頬を照らす、仄かな白。今はない。うつらうつらしているうちに、風に消されてしまったのだろう。
肘を突こうとして、肩が違和感を訴える。視線をやる。二の腕から下が、痺れて遠くなっていた。
ころころ、ころ――――、
とん。
ぴくり、と揺れる耳が聞きつけたそれは、硬いなにかが畳に当たる音だった。
頬の空気が張り詰めた。皮肉にも鳥肌が立ち、耳がまたぶるっと震えた。
それが呼び水となり波紋のように、意識が広がる。冷えた空間が身に染みる。
茶室を少し広げたような中途半端な広間に、布団が並べて敷いてあった。天井は高い。窓も高い。
座敷牢のようだった。音が膨らんでいるような錯覚。耳を打つ震えが脳裏に響く。
衣擦れの音は、てゐが寝返りを打った音。わずかな吐息は、姫が布団から顔を出した音。師匠の音は、やはりしない。別段不思議とも思わないのは、慣れだろう。
痺れる指を伸ばし、机の下、膝元に転がる筆を取った。先は尖っている。墨が乾いて、だいぶ時間が過ぎていた。
机上を見回す。探す。探すが、見当たらない。記憶が、唐突に浮かび上がる。
――ああ、そうだ。
そのまま、背中から倒れた。
ぼふ、と身体が空気を打つ音。私に充てられた分の布団だった。平たく、まだ足も入れていない。そのまま、寝転がったまま、頭の上に手を伸ばす。爪先が、薄い、角ばったものに触れた。指先で掴み、身を起こす。
胸元に持ってきた手には、一冊の、上だけ綴じられた紙束がある。ぱらぱらと、適当にめくるまでもなく、一番端の一枚目。小声で、読み上げる。
――それが、昨日のことだった。
隙間風が吹いて、背を流れて、吹き抜けた。
――そして、これからが今日のこと。
吹き抜けて、耳が揺られて、軽く震えた。
「私は――」
震えて、風が、声が途切れる。文も、そこでふつりと途切れていた。
流れるような、否。文字が隣の文字に食いつくような、野性味溢れる筆致。好意的に見ても、それが限界だった。行書といえば、通りだけはいいかもしれない。
「――はは、」
文才ないなぁ。と独りごちた。
含み笑いが漏れる。
ぶり返してくる眠気。再び倒れこむ。
紙面の脇を両腕で持ち、掲げる。薄明かりに当たるよう、反った姿勢で眺めてみる。闇に薄く、透明な青に染まった紙面に、のたくっていたのはたぶん、いつかから今日までの記憶。私自身でなければ、とてもじゃないが読み取れそうにない。
書き直すべき、だろうか。
――面倒だなぁ。
ため息。
まったく、と呆れ返って、両手を振り上げ、大きく伸び。関節が、ばきばき抗議の音を立てた。
深呼吸。見上げた天井は寝ているせいか、不思議なまでに高く見えた。暗がりに、泡のように浮かぶ。
地上兎のにやけ顔。
――鈴仙さまさー、もっと足元見て歩いたら?
む、と。
口が勝手にへの字を描く。
昼間のことだ。私は瓦礫の撤去中、木切れを踏んで、蒼天は直下、盛大にサマーソルトを決めた。
あの時ついた尻餅と、彼女の声を思い出す。
泣けばいいのか、怒ればいいのか。
何故か笑ってしまったのを覚えている。
いつからだろう。
以前から、てゐはよく、私を鈍い、不器用だと言っている。
本当、むっとする。
けれど。
正直な話、認めるしかなさそうだ。
今が駄目なら、もっと要領よく、それこそ、跳ね回るように立ち回ろう。
幸い、永遠亭の天井は高い方だ。なんて、
なに言ってるんだろう、私。
空気は冴えて、張り詰めたまま窓を通って、そのまま吹き抜け、風となって消えていく。いや、去っていくのだろう。遠く、空の彼方。
――それこそ、月の頬を舐めるまで?
なにもかもが昇っていく。いや、自分が沈んでいる。
眠い。
だるい。
ここのお風呂は少し狭い。失礼。
でも眠い。
でもだるい。
肌寒い。
姫のお風呂は変に長い。畜生。
それにしも眠い。
それにしてもだるい。
――なんだか本当、寒い。
考えが細切れになってきた。
目が、知らず細まる。瞼が重い。幕が下りる。
いけない。日記に作業の経過を書いてない。いや。いい。明日の朝で。躊躇いもなく保留と相成る。
まだ更地を作った程度だし、まだまだ、先は長そうだし、構うまい。
仰向けに宙を向いたまま、私は呼吸を細める。流れていく風が、見えそうだった。
明日は早く起きよう。明日はやろう。明日がある。明日があるから、
沼に沈む。眠りに沈む。輪郭を失っていくこころの中で、
元気? 鈴仙。
声を聴く。思いを視る。月は見えない。眠りに落ちる。私は果たして、
元気、だろうか。
わからない。
わからないけど、明日はある、と思う。
って、
本当、自分語りばっかりだ、私。
大きな雲が山間に消えて、白く、神社の空は少し明るくなる。
夜分遅く、博麗神社に丑三つ時の来客は、別段珍しくもないと巫女は思っている。
そして、今日。
「……ん、面倒な話はこの辺にするわ」
「そうねえ……」
あー、眠い。とつぶやいて、畳にどさり崩れる。天井近くを特に意味もなく指差して、言ってみた。
「ほら、人間はもうとっくに寝る時間」
仮に昼間、人形遣いの家まで出貼ったとして、「妖怪はとっくに寝る時間」と玄関口で追い払われれば、彼女の返答には納得できる、かもしれない。
「だったっけ。驚きだわ」
「驚くだけ驚いちゃって。反省しない。正さない。勝手」
風を呼び込むために開かれた縁の廊下には豚の陶器が鎮座し、真円にして深遠な口からは薫る煙を燻らせる。
「――と。じゃあ、一応最終確認取りたいんだけど」
「要らないわよ。どうでもいいし。あんたのいいようにしたげる」
「そ。ありがとう」
「にしても、必死に見えるわね。いつになく」
「出張宴会って久しぶりでしょう? ついついはしゃいじゃうのよ」
「意地っ張り。目立ちたいだけでしょうに」
時折吹く風は境内から社殿、母屋の中を音もなく抜け、縁に吊られた鈴を震わせる。
ちりん。
ふたりのうちのひとりが、ふと顔を上げた。
「涼しげな音ね。今度うちにも貰おうかしら。ひとつ」
「香霖堂に行けばぶら下がってるわよ。ひとつ」
「じゃあ今度咲夜に行って貰うわ。ひとつといわず、やっつくらい」
「それじゃ凍えそうね」
こん、と。
掛け軸が揺れ、壁に芯をぶつける音がした。間近のことに、二人は同時に瞬きをした。
目の覚めたように眠そうな顔をして、紅白の巫女が言う。
「もう寝るわよ」
目の覚めたように活きのいい顔をして、紅一色の悪魔が答える。
「枕投げって面白いの?」
巫女は途端、嫌そうな顔をした。
「やぁよ。あんたとふたりで枕投げ」
「いいじゃない。減るもんじゃなし」
「あのね。その『減るもん』って言葉、須らく間違ってるわよ。だって、まず時間が減ってるもの」
「ああ。そういえば、経ってるともいうわね。経過の経、ね。うん」
悪魔は得心顔で、けれどどうでもよさ気に頷く。頷きながらつぶやいて、
「でも、まあそれは置いといて、」
胸元の手を、肩と一緒に隣の空気へ押し付けた。
「残りは人数なんだけど、魔理沙でも呼ぼうかしら?」
「んー?」
巫女はあぐらをかきつつ頬をかく。別に、据わりを正しもしなかった。
「あいつは駄目よ。昨日辺りだったかしら。しばらく来ないってさ」
「ふうん。残念。せっかくのいい曇り空なのに」
「そういえば咲夜がいないものね」
「ええ。お墨付きでのお出かけよ」
「そう。じゃ、帰るか寝るかの二択を選ぶのこと」
「うん。じゃ、第三の選択――保留を選ぶのこと」
犬歯の裏側で笑いを堪えながら、悪魔は腰を上げた。
惜しげもなく顔をしかめながら、巫女は腰を上げた。
思惑はすれ違い、もつれ合う。
会話はそこで、一時間ほど途絶した。
「……こら。そこ。積まない」
ぼすん、どすん、と。
重く鈍い音だけが、母屋に厳かに積まれていった。
「んー、いい風」
ちりん、ちりん、と。
軽く澄んだ音だけが、縁から静かにこぼれていった。
「聞く。人の話」
敷かれていく布団。脇に寄せられた枕の山。しかめ面をする巫女。構わず寄せては積んでいく悪魔は笑顔。
「わくわくってこういうのを言うのよねー」
飴のような雲が流れ、雲のような煙が浮かび、巫女のアクビが十の指でも数え切れなくなった頃、
「…………この辺で、もう、いいわね」
空気の裂ける爆発音が、押し込むように立てて二発、続けて三発。
母屋の空気は、弾けたように波打ち始める。
「巫女の我慢強さを、蚊のお姫様に見せ付けるのはっ!」
「――っはは、あはははははは! 大激怒ぉ――――――っ!」
「こぉの――――!」
光が走る。飛び退る影の背後。広くもなければ高くもない母屋の片隅で、障子がひとつ、勢い余って吹き飛んだ。回りながら浮かんだ障子はそのまままっすぐ、明かりのない廊下の闇へと消えていく。
「って、ちょっと!」
その手前では紅白巫女のシルエットが、横っ飛び、畳に手をついた姿勢のまま声を上げる。
「あれ! あんた、あとでメイド呼んで直させるわよ!?」
「そうねぇ――、ようっ!」
天井近くの影に向かって続けざまに打ち出された札と枕は、音もなく空を切って縁の外へと飛び出した。
梁の真横を蹴り飛ばし、小さな影が宙を舞う。
「――朝になったら考えてみてもいいけど、というか、今の貴方のでしょ? ほら、おっかない座布団」
「誰のせいだか考えてから物を言う!」
「それは短慮というものよ?」
「違う違う!」
振り上げた裾の下から、ばらばらばらららと札が溢れ、次いで破裂、一直線に夜気を貫く。
いえ、浅慮かしらね。という台詞は、風切り音に巻かれて消えた。
「もう、危ないったら」
「短も浅もない。これは遠慮というものよ!」
「そうね。そしてまたの名を、結果論とも言うけれど」
ふたりの少女は結局のところ、寝具投げに興じている。
ただそれは、放る弾幕が違うだけの、いつもの情景。
「こうなったら、あんたを早々に寝かしつけてとっととこの夜、明かしてやるわ!」
「それも義務なの? 貴方も本当大変ねえ」
飛び交うものは枕だけには留まらず、布団、座布団、毛布に敷布と。中には槍に加えてアミュレットの姿も伺えた。
「同情するなら賽銭箱に直行なさい!」
薄く立ち込める埃を潜り、一直線に抜けた軌跡が、爆ぜた畳に突き立つ座布団、に落ちる影はやはりなく、宙で二転し天井板に爪を立てつつ逆さになって、枕を幾つ小脇に抱えた悪魔が笑う。
「まだよまだまだ、夜は長いのよ。霊夢!」
「長いのはあんたの口上、それと行水! ――と、それからっ!」
一閃。払い棒で、風切り迫る安眠枕を背後の障子へ轟音交じりに往なしつつ、巫女が眠気目をこすって叫ぶ。
線香の煙は消えていた。が、羽虫の類は寄り付きもしなかった。
「夏は夜より昼の方が長いって、知ってた? レミリア!」
「だから楽しむのよ、長くて短い夜を、今、思いっきり濃く深く!」
そして紅いちゃぶ台が全てを捻り巻き取りながら母屋を貫き、白い座布団が幾多重なり陣を結んで庭を包み、あらぬ風に宙に舞い上がった鈴だけが、既に場違いとなった涼やかな音を響かせた。
――ちりん。
戸をくぐる。踏みしめる感触が土のものに変わる。不意に足を止める。胸元で竹籠と、擦れた皿が喚くような音を立てる。歩を進めるたび、ぎしんぎしん、と、無闇に耳に痛かった。
「すいません、師匠」
「……あら、なに?」
朝食の後の片付けは、私が進んで任せてもらっている。
今日は上白沢さんは早くからいない。重ねた食器を外の堀に運び出していたとき、私は左、障子を開け放った縁側で、ひとり呆けていた師匠に思い切って声をかけてみたのだった。
「珍しいわね。あなたから私になんて」
「そうですか?」
上白沢さんの家は本当に普通の平屋だった。玄関をくぐれば奥には釜戸があり煤を被った番傘があり居間に続くし、裏手に回れば物干し竿と屋根つきの井戸があった。周りを囲む堀は上流の川から引いているらしく常に透明で、今も見やった先で、朝日に時折、魚の銀の背が光っていた。
裏手は北向きで、縁側には薄い影が降りている。姫は慣れない環境に惑っているのか日和っているのか、まだ寝間で布団に埋もれていた。
この時期、わずかな間でも雨の量は凄い。いつか見たときは土気色だった庭や、遠く里まで続く道程は、深い緑に濡れている。
何を解説してるんだろう。そう思いながら、靴をきゅっと鳴らし、師匠に向き直る。師匠は。
「ええ、なんとなくだけど」
「はあ」
生返事。
「実際どうなのかしら。あなたは成長する兎かしら」
「……たぶん」
「そうなの」
まあ、そういえばそうかしらね。
師匠はそう言って、首を傾げる。傾げたまま、問いかけてくる。
「で、なんなのかしら」
「あ、ええと――そうだ。前……昨日の夕御飯のときに、白黒の話はしましたよね?」
「そのことなら、姫もお達しを出してくれたわ。好きなようにしなさい、って」
「はあ」
また生返事。
ぼんやりと首の据わりを正しながら、あれは相当日和ってるわね。と師匠は笑う。
私は反応に困りつつ、とりあえず要件だけを告げる。
「わかりました。たぶん今日は連れ立ってくると思いますよ。昨日言ってましたから」
「そうなの」
師匠は特に興味のなさそうな声で言って、視線を足元へやる。
なんとなく、暇を持て余しているように私には見えた。
私はそこで一旦会話を打ち切り、堀沿いに少し歩く。抱えていた竹籠に食器を放り、堀の流れに投げ込んだ。軽い水音を立てて、籠がしばし水面に消え、またしばしして浮かび上がる。小さな泡が流れていく。
「面白そうね」
師匠が訊いた。
「このまま流れるの?」
「いえ。紐が付いてますから」
そう言って、もう片方の手に巻いた皮紐を見せた。
「これをこの辺りの…………えーっと。師匠、杭とか知りません?」
「草で隠れてるんでしょう、きっと。探せばその辺にあるわよ」
「そっか」
膝に擦れる雑草を分けて、私は目当ての物にきつく紐を巻きつけると、一段落の息を吐いた。靴下に染みた朝露に、ふくらはぎ辺りががむずむずする。
腰を下ろし、靴に張り付いた草葉を指で剥がしながら、私は言う。
「私はそろそろ行くつもりですけど、師匠はどうします?」
「そうねえ」
首だけ向けた先で、師匠は前かがみに白い地面を眺めていた。
「もう少し、ここで日和っていくわ。昼までには姫を連れて行くから」
陽が南中するまであと数刻はある。それまでに姫が目を覚ますかどうかは怪しかった。
「わかりました。じゃあ、洗濯籠の後始末、お願いできますか?」
空いた指で川面を示す。師匠は視線をこちらに向けないまま、庭履きの草鞋の先で地面を撫でていた。さりさりと、土が削れる音がする。アリの巣穴でもあるのだろうか。与り知らない事だったけど、私は何となく気になって、「なんですか? それ」と尋ねてみると、「お呪いよ」と返された。返答に困って黙していると、なんの前触れもなく師匠は「ああ、」と口を開いた。
「いいわよ。そのくらいならね」
先の返事だった。途中の会話が抜け落ちていたのは愛嬌だろうか、慌てて、私も返す。
「ありがとうございます。じゃあ」
「ああ、ウドンゲ」
……なんでしょう。と一拍置いて訊いた。師匠は顔を上げこちらに目をやる。よくわからない表情だった。
「楽しい?」
「……なにがです?」
「何もかもが、よ」
一瞬、視線と思考が宙を舞った。
また、よくわからない問答だろうか。それとも、別の何かだろうか。考える。
異様に眩い朝日が、頭の上を通り過ぎて背後を滑る川面に光る。陰影の濃さは墨のようだった。
いつからだろう。
夜の声が、頭の中で跳ね返る。
――楽しい?
師匠はそう訊いてきた。
妙な相関を感じた。
閃きを待つ。考える。少し待って、舞い戻る。
「…………ええ、まあ」
楽しいですよ、毎日。そう答える。
「そう」
師匠は笑っていた。口に手を当て、笑いながら、そして言う。
「じゃあ、いってらっしゃい」
「……いってきます」
まあ、もう少ししたら、ですけれど。
小声でそう付け加えた。膝をぱきんと鳴らして立ち上がり、私は師匠に会釈してその場を抜け出す。
抜け出す。
よくわからなかったけど、抜け出した手前、なんとなく、どこかに逃げようと思った。
時々、無性にいたたまれなくなることがある。
もしかしたら、これもそのひとつだったのかもしれない。
とんとん、と、光と風の流れる廊下を歩いていた。雲の上じみた浮遊感を感じながら、歩いていた。
開け放たれた、ただっ広い居間を抜け、廊下に入る。
足が止まる。ほんの少し、首を傾げて振り向く。
光に白む。意識と、思考と、心と、体と、
――楽しい?
耳が震えた。
師匠は、そう訊いてきた。
何故だろう。なんとなく、不意に、なんだか、胸が苦しくなってくる。
後悔していないか。
それは、そういう意味だったのだろうか。
「そういえば」
「あん?」
ぱかぁん、とでもいう風に。
空高く打ち上げられた声に、妹紅はなんとなく釣られて顔を上げた。上げてみて、それでも特になにもなく、下げてみてから問いかけた。
「……なに?」
「輝夜は寝るのが偉く早いんだ。その癖、起きるのは偉く遅い。あれは一体なんなのだろうな」
妹紅は真横に首を傾げた。視界の中、青空と入道雲を背景に、棟に腰掛け、横倒しになった慧音にそのまま告げる。
「……普通、そんなこと訊く? それも私に」
「真に受けるなよ。まあ、なんだ」
空の高いところで。雲が視界の端から現れ、流れ、また端に消えるまでの間。
白昼に妹紅のあくびが二つほど浮かんでいった頃になって、慧音は葺き板の上で滑らないよう立ち上がった。吹き上げる風が、灰と蒼の混じった髪を勢いつけて波打たせた。
「別になんということもない。少し、気になったんでな。それよりも、」
「んー?」
「先日のことだ」
妹紅がほんの少し、顔と耳とを傾ける。徐々に強くなってきた夏日の光が、肩からこぼれた、灰と銀の混じった髪を鈍く輝かせる。抱えた膝が熱く、片方は手放し斜面に投げ下ろす。
代わりに、慧音の声が屋根の上を滑っていった。
「……お前は本当に挑発に弱いんだな。ああもあっさりと、乗るか? 普通」
そう言って、踵を下ろす仕草をしてみせる。妹紅は苦笑した。
「理由は今言ってるじゃない。挑発に、弱い、不死身の藤原妹紅だものね。私」
「開き直ると強いなあ、お前は」
呆れ顔で、慧音は肩をすくめた。
「まあいいんだ。お前が望むならそうすれば。だが、なにをしに来たのかだけは聴いておきたいな」
「それは秘密。だってなぜならば、私はもう帰るから」
「そうか。なら目的は果たせたのか」
「ん。もう十分」
「なに?」
「い――――の、気にしない。気にしないが、吉」
妹紅も大仰な姿勢で億劫そうに立ち上がると、んっと一息、指を組み交わし空へと飛ばす。それと同時に真横に爆発、生まれた赤羽が、暑気を有り余る熱気で吹き飛ばした。
「んじゃ。帰る」
空打ちを二度、羽根を炎に揺らめかせて妹紅が言った。慧音は乱れた風に髪を撫でられながら、手を翳す。
「輝夜には、会わなくていいのか?」
「それそれ、それよ」
「それ?」
「それはいわゆる」
――メイン・ディッシュ。なんだから。
色だけの爆炎が高く天まで噴き上がり、朱を流したような尾を引いた。重さを感じさせない熱風が、広い屋根板を波打ちながら撫でていく。目を庇って腕を組んだ慧音の視界が数秒塞がり、周囲から熱気が消えていくことだけを冷めていく空気から感じ取る。
ひとりだけになった斜面の上で、凪いできた空を慧音は仰いだ。そのどこにも、赤い点は見えなかった。
そしてぼやいた。
「……私は前菜、というか、オードブルか?」
なんとなく、敗北感。
肩が重くなったようで、軽くなったようで、とりあえず、ふう、と音が出るほどに強く、息を吐く。
「まあ――なんだ、」
――すまなかったな。色々と。
……そうね。まあ、鉢合わせしなかっただけマシと思って。
独りごちたつもりもない。縁側からの声は澄んだ空に程よく響いた。
――なあ。訊いてみるんだが。
……なあに。
――お前はこれからも明確な意志を以って輝夜の傍に居ると、断言できるのか?
……できないわ。
――うん?
……できない、って言ったんだけど。
――意外だな。
雲の切れ間に、鴉が一羽舞っていた。慧音はそれを見上げて目を細めつつ、ぽつりとつぶやく。
――もう全部、捨てたんだろう?
……捨てても、無くなるわけじゃないのよ。生きるというのはそういうこと。……長くなるけど、いいかしら?
――構わんよ。私も嫌いじゃない。
空を見ると、「果て」というものを思い知らされる。
螺旋を描いて、雲に舞う、舞う小さな影を見つめながら、考える。
鳥は、常に番を探しているわけではない。ただ生きるために餌を求め、虫を啄ばみ、空を渡り、そしていつか時期が来たとき、思い出したように、共に生きるものを探し始める。次代へ自分を繋ぐために、今を生きる。
人はどうだろう。と思う。
常に誰か、傍らに欲しがる人間がいる。人間に限らなくともそうだ。
その反面、人との関わりを、全くといっていいほどに必要としない人間がいる。これもやはり、人間に限らない。
そんなとき、思うことがある。
人間という「括り」は、果たして、
人間という「生き物」は、果たして、
なにを指しているのだろう。
なんなのだろう。
人間とは。
と、
「歩いてきた道が、既に自分の延長になっているの」
耳が破裂するかと思った。
……貴方は得意でしょう?
――なにがだ?
……石橋を叩く、叩いて、その響きを触って生きるのが。
含み笑いが、雨樋の下から聞き取れたが、それでも、腹も立たなければ、悪意も感じ取れなかった。
……人生を、広大な湖に一本敷かれた、細い細い、橋のように考えてみなさい。一歩踏み外せばもう戻れない。ちゃんと歩いているようで、いつ何時崩れても、文句を言う宛てはいない。そして、橋はひとりに付き一本だけ。崩れればそこで終わり。そんなとき、溺れた人間はどうすれば助かると思う?
――誰かに、引き上げてもらう?
……正解。
疑問を覚える。
――そんなものなのか? 人の生とは。
そんなものよ。と声が返る。
……私が思うに、人はもう、生まれた時点で溺れているのよ。橋はとっくの昔に崩れ去って、後にはそれら瓦礫が積み上がった、転落者の島、落伍者の園。私たちはね、そこにたどり着いて、あるいは流されて、またあるいは新たな島を築き上げて、其処で生きていくの。そこからが、たぶん本当の人生なのよ。この地上での、世でのね。
――お前たちの、
……ん?
――「お前たち」の橋は、どうなっているんだ? その場合。
……そりゃあ勿論、
壊れないわよ。
酷く静かだった。風の吹く音すらしない。大気の流れる音すらしない。
――壊れない?
……ええ。
珍しいこともあるものだ、と慧音は思った。
……壊れない。崩れない。頑丈な手摺り。飛び降りることもできない。誰もたどり着かない世界の果てまで、ひたすらに独り。その果てこそが、
――なんの話だ?
……概念の話よ。ここは幻想郷。私は八意永琳。ついでに、蓬莱人。……で、はい。おしまい。
視線は、とっくの昔に外していた。
雲が螺旋を描くように見えた。
空の中心があるように思えた。
自分が中心であるかに見えた。
それだけで、
「……難しいものだなあ」
なにもかもが、悟ったように鮮やかだった。
「考えることよ。悩んで生きるのが人生、妖生。やる気の続く限りは頑張りなさい」
それは、少なからずか、本心のように思えた。慧音は頬にかかる髪に指を絡め、何気ない動作で肩に流す。
結論は、喉元で止まっていた。
「そうか。……まあ、多謝」
「いえいえ」
――その果てこそが、
流れ着く先。それとも、流れの生まれ来る源か。はたまた、埒外のなにかか、どうか。
わからない。
お、と慧音が小さく言った。
あら、と永琳が小さく言った。
遥かな高みから、一羽の鴉の、間の抜けた声が降ってきていた。
あ、と永琳が不意に言った。
「号外、頼んでみようかしら」
「……正気か?」
かなり正気な声で「ええ」と返事が空に響いた。
「まあ、さっきまでのは冗談だけど」
「……」
――え?
素朴な疑問を浮かべながら、慧音は舞い降りてくる影を見上げた。鴉が一際強く鳴く。
かあ、と。
夏日が照りつける。寝てはいないけど、寝転んではいる。齟齬はないだろう、と寝返りを打つ。
部屋にひとり、熱に溶けたゴム紐さながらの姿で、ごろん、転がっている。
世界が何故か歪んだように見えるのは、空気が何処か、膨らんでいるように見えたから。だと思う。
少し荒れた畳に、煤けた書机。窓際は真白に光ってなお白く。逆さまに映る、窓の向こうで陽炎が揺れる。
私は、紺の上着を窓の際に投げ出して、薄目を開けて、息を吸ったり、吐いたり、亡羊と。
師匠のあれは、まさか痴呆症じゃああるまいか、などと詮ないことを考えながら。
まどろむ。熱気の海の中を、泳ぐように、流れていくように。空気にその身をただ任せる。
首筋がむずがゆい。頬がぱりぱり、瞼がちりちり、音を立てて、つまるところは、
――暑い。
もう一度寝返りを打つと、直行した視界と畳の向こうに広がる庭と、あまねく差し込む光が見える。
昼までには、跡地に行こうと考えていた。いい加減、跡地という名称を返上したいものだった。
上白沢さんは帰ってこない。
姫はまだ寝ている。と思う。
てゐや因幡はよく知らない。
『彼女』のことが、少し気になる。
なにやら無性に眠かった。
天井には渡された梁と、蜘蛛の巣がひとつ。半分崩れていて、主は不在。たぶん、ずっと不在なのだろうと思う。
日が差し込んで、足だけは仄かに暖かい。二つに折った、枕代わりの座布団が、頬の温さを緩やかに跳ね返す。畳にわずかに触れた耳が、遠く縁側で、師匠が砂遊びを続けているのを伝えてくる。
さりさりと、土の削れる音がする。
なんだか愉快だ。
瞼が落ちる。
日が傾く。
影が静かに動いていく。
横殴りの光はやがて、屋根の上へと消えていく。
浅い寝息。
「ウドンゲ」
深い吐息。
目を開けると、天井と屋根との広がる中。
「今日から、向こうに帰ることにしたんだけど」
赤茶けた空を背景に、師匠がいた。
「……ししょう?」
師匠は空を見上げている。
つられて見る。山合の日は沈みそうだった。
「そういうわけだから。姫を起こしてきて頂戴」
「あ……、はい」
どういうわけだろう。
乾いた瞬きを繰り返しながら、身を持ち上げた。
「雨が降るわね」
なんでもよかった。
部屋を出る。
夕陽の伸びた廊下は永遠亭と比べれば手狭な印象。けれど、いかにも人が暮らしているような温かみがある。
師匠の声がする。
「怪我しなきゃいいけど」
私に言っているわけではなさそうだった。
「はい。粗茶」
「あら、ありがとう。感涙していいかしら」
「お好きなように」
「あら、ありがとう。貴方という人は、きっと優しい人なのね」
「気のせいよ。それとも、あなたっていつも周囲に優しくして貰えないのかしら」
「どうかしら。充実してるわよ? 特に、ここのところ数年は」
「そう。なら私は優しいのね」
「ええ。貴方は優しいわ」
「ありがとう」
「どういたしまして」
「ちなみにこの茶、さっき廊下で優曇華院に貰ったものよ」
「あら、そうなの」
「おーいアリス」
襖の向こうから届いてきた声に、金髪の人形遣いは顔を上げた。
「どうかしたの?」
「飯だ飯。作るの手伝え」
……自分は見てるだけの癖に。
そうつぶやいたのを、姫は確かに聞き取っている。視線の先で、棘立った声を上げて彼女が言う。
「異議、申し立てていいかしら」
「三時間遅かったな。人手が足りんのだ、ほれ」
「って、ちょっと、」
襖が少し脇に寄るなりエプロンがひとつ投げ込まれる。彼女は慌てた仕草を少しだけ見せて、畳に着く寸前にそれに飛びついた。布地の裏側にあるA.Mの刺繍に、微笑と苦笑が同時にこぼれる。
「……はいはい」
慣れない畳の感触を手の平に感じながら、アリス・マーガトロイドは腰を上げた。片膝を着いたまま、最後に正面でしな垂れている黒髪の姫に声を掛ける。
「あなたは来ないの?」
「行っても邪魔よ」
姫は一畳分の畳を布団のようにして寝そべっている。ごろりと回転、仰向けになって、板張りの空に手を翳す。
「自慢じゃないけど、私は何もできないの」
「はいはい。自慢しないの」
アリスは肩をすくめるついでに息を吐いて、更についでに立ち上がる。襖に向き直り手を一振りしたとき、姫の手元には一体の人形が短い足で座していた。姫は目をゆっくりと二度瞬かせると、上半身を起こして改めて人形を見た。
レースのスカートにリボンを腰や頭にあしらった、いかにも欧風の人形だった。和風人形に近い装いをした姫、蓬莱山輝夜は、人形の頭に手を乗せて尋ねた。
「遊び相手かしら」
「話し相手にはならないけどね。できるまで待ってなさい」
今まで反応を待っていてくれたのだろう。一言だけ告げると、襖の向こうから再度飛んでくる罵声に、負けじと声を張り上げて人形遣いは出て行った。後にはただ、等身大のあまり動かない黒髪の人間と、赤子大のよく動く金髪の人形が残される。
輝夜姫は問いかけた。「貴方、名前はなんていうの?」そう問いかけて、ふと気づく。
「ああ、そうか」
指のない両手をしきりに動かす人形を眺めながら、指先で、その頭をとんっと叩く。
「話し相手にはならないんだっけ。イナバと同じね――喋れないってこと?」
人形は頭を指で押さえられたまま、窮屈そうな動作で頷いた。
なるほど、なかなかに可愛い。
少し興が湧く。姫は重い腰を上げ、縁側の襖を開いて、「付いてらっしゃいな」と外へ出た。
人形は手順を踏むようにまた頷き返し、肩の高さまで浮かび上がって後に続いた。
姫は人形が廊下に降りたのを確認してから、開いたときと同じ動作で襖を閉じた。遠く、音と、声と、火花が散らす号とが響く。襖の隙間から、動き回る因幡の姿が伺える。行ったり来たり、入れ替わり立ち代り、積んだり切ったり運んだり、楽しそうで、
やはり、遠かった。
――ふう。
うっすら眠い。いつものことなので気にしない。
それよりも、今は楽しいから、寝ているよりはいい。起きていよう。そう思った。
「ほら、見て御覧なさい」
人形の体を両手で抱え、姫は広がる夜へと差し出した。
「月が綺麗でしょう?」
それに応じるように、墨空に振り撒かれた光に踊るように、人形は姫の手を離れて飛び上がってみせた。背には透明な羽根があった。姫は笑みを浮かべ、差し出した手をそのままに謳った。
「知ってるかしら?」
人形は空を舞っている。
「私と永琳――ああ、それに鈴仙もね」
星を背景に、月を舞台に、空を舞う。小さな影が躍る。
「私たちはね。昔あそこにいたのよ」
白く、黄色く、金色で、銀色で、そしてどこか黒い、薄雲の彼方に浮かぶ丸い珠を示して、何ともなしに姫は言う。人形は首を傾げる。姫はむっとしたように、しかし心底楽しそうに言う。
「あら、不思議がることないじゃない」
十分後、仕度ができたと呼びに来たのは月兎だった。
「――で、今日の守備はどうだったの?」
「んー、どうだったかな。ノルマこなせりゃ無問題だろうけど、なあ? 人形遣いさん」
「どっちが、よ。魔砲使いさん」
「誰かさんが、だ」
「言ってなさい」
「言わせて貰うぜ」
「あんたねえ……」
「ふうん……永琳?」
「そんなものですよ。実際、よくやってくれてます」
「そう」
「そもそも、そういうことは頂きますの後にすぐ言え」
「それはあんたが意地汚くがっつくから――」
「言うなよウドンゲ」
「じゃあ、つまらないこと言わないでよ」
「じゃあ、米が切れたな」
「もうないけれど」
順調なのも、それはそれでつまらない。我ながら面倒な気質だと思う。
会話の種を放ってみたものの、反応は尻切れがちだった。疲労の跡はさほど見えないけれど、やはり食事に集中したいのだろうか。輝夜は二口目のぶぶ漬けをすすりながら、そんなことを考える。
そう広い場所ではなかった。窓もないし明かりはひとつ。天井は彼女らがともすれば吹き飛びそうで、ただ、寝食をそろそろこちらに戻したいものだと、朝晩かけて建てた急造の庵では仕方のないことだろうとも思う。
楕円の卓は切り出した板にぶつ切りの竹を足にした簡素なものだった。鉢を動かすたびにごとごとと傾くそれにもいい加減なれた頃、腹が六部ほど満たされた頃になって輝夜は思い返す。
いろいろとご恩もあると誘ってみた半獣の娘は、夕餉の席には立たなかった。
――悪いな。付き合ってはやれん。
なんて言うものだから。
「彼女のことを気にして、黙ってるわけ? 貴方たち」
ぴくり、と。
箸を止めたのは鈴仙ひとりだった。こういうとき、根の性質が伺えるというものだ。事情を知らない魔法使いふたりは一瞬面食らっていたが、「いろいろあったのよ」とそれまで無言を貫いていた永琳がつぶやいたことで、各々それぞれ納得顔で、また各々の椀に向き直った。「今度突っ込んでみてもいいか、首」と言うひとりの魔法使いに、もうひとりの魔法使いは一刀の下「叩き落されても知らないから、そっ首すぱんと」と素っ気無くつぶやいた。仲のお宜しいことだと思う一方で、それにしても。
――まったく、
と考える。本当、まったく。
「なにかあったのかしらねえ」
さあ。と答えたのは永琳だった。鈴仙は無言。ただひとり同伴していた因幡は、我関せずとばかりに椀を傾ける。「雨だ」膝に帽子を乗せた魔法使い、魔理沙が不意に言った。
「……あら、本当」
意識を少し広げると、すぐ後ろの壁越しに、しとしとしと、と。空気が濡れていくのが伝わってきていた。
魔理沙は「だろ?」と笑いながら、箸を鳴らし、椀に顔を埋める。
「通り雨でしょう」
永琳がつぶやいた。
夜半には過ぎることを望んだ。今夜は綺麗な半月らしい。
季節の変わり目は天気の変わり目とも言う。
ならばこの雨も、ひとつの境界線なのだろう。椀の底の味噌粕を咀嚼しながら、そう思う。
人間は慣れる生き物だ。
常にどこか、大抵の場合は足元に。定点を置かねば安らげない。安らぐというのはこの場合は安定、安全、安然、安寧、と、様々な意味に使うことができる。ようするに、基準がなければ人は生きていけない。それはヒトじみた思考をする者もまた。
明日の自分は今日の自分とは違う。使い古された言葉とは、得てして真理を突いている。それはつまり、今に至るまで消えなかった言葉だということだから。
明日の天気は今日の天気とは違う。明日の暑さは今日の暑さとは違う。なるほど。
明日の自分。
今日の自分。
いままでの自分。
これからの自分。
変わっていくのだろう。
けれども、
不老。
不死。
老いないこと、
死なないこと、
けれども、
それらは普遍でも、不変でもない。
二度目のつまりは、
「明日からはもっと、暑くなりそうね」
そういうことだ。と姫はつぶやき、
「ええ。でも星はもっと綺麗になりますよ」
従者は応じ、
「星は綺麗になるもんか?」
魔砲使いの問いかけに、
「違うわ。見るものの眼が綺麗になるのよ。星はいつでも、綺麗なまま」
人形遣いは異議を唱えて、
「星もいずれは弾けて消えるよ」
聞き慣れない声だけその場に残り、
「――あら」
「……ん」
顔を上げると最後にひとり、藤原妹紅がそこにいた。
そして、
「失礼しまーす」
鴉の濡れ羽の髪の色をした、鴉の濡れ羽を生やした女。
「どうも、文々。新聞ですけど」
「号外、兼、突撃インタビュー」
「『突撃☆貴方のお夕飯!』」
「だってさ」
「です!」
息巻く天狗を顎でしゃくって、妹紅は口の端で笑い、そうつぶやいた。
輝夜は首を傾げる。
室内には、食後の空気が漂っていた。
で、感想。
情景は浮かぶ。心情も解る。状況も把握できる。
なのにこいつらが何を考えているのか、何を求めているのか、何をしようとしているのか
さっぱりじぇんじぇん解んない。
どうにかこの使えん脳みそを叩き直す方法はないものか、鮪の目ん玉でも食そうか。
そんな訳でフリーレス。でもね、お願いですからレベルを落とそう等としないで下さい。
いつの日か、貴方の見ている世界に辿り着けるよう頑張りますので。
時間がゴムのようにギリギリと引き延ばされて、ある所でバチン。読み終えた瞬間にもう一人の私も消えました。卓越した文章の効用にびっくり。
akiといいます。
感想ですが…
ただ読みにくいなあ、と。
感覚的に言えば、文章の間にクッションというかブレーキというか、そういった物がないと思いました。
例えば改行のやり方であるとか。(特に『永遠亭始めました vol.スリー』のあたりです)
あと、気になったことは作者からのメッセージですね。
海の境界から貴方のファンの私に言わせてもらうとこの空気、大好物です。
それぞれのモノはしっかり出来てるのだけど、節目節目が繋がらない…奇妙な文章になってます。それが長所にも短所にも取れるわけでして。