※この作品は以前に投稿した、『出雲一人 八雲三人』『東方出雲記』のオリジナル設定を含んだ作品となっております。
『出雲一人 八雲三人』、『東方出雲記』の第壱章は作品集その18に、『東方出雲記』第弐章は作品集19に保管されています。
どうかご了承の上、読まれる事をお薦め致します。
彼女は一人だった。
永い永い間、一人だった。
他人と関わり合う事無く、自らに課せられた責務を全うすることだけを考えていた。
そこにしか、彼女の居場所はなかった。
否、そう彼女は思い込んでしまっただけなのかもしれない。
そうやって、彼女は深い深い孤独の中に生きていた。
……とある来訪者達が来るまでは。
鈴虫の声を聞くと、季節が秋に移り変わり行くことをしみじみと実感させられる。
夜になって感じる暑さはそれほど厳しいものではなく、微風が吹くたびに涼しい、と感じられるものであった。
―――これで、何回目の秋を迎えることになるのかしら。
永遠亭の薬師である八意永琳はひとり、虫たちの合唱を耳にしながら永遠亭の庭を歩いていた。
別に理由があるわけではない。ただの夜歩きといったところである。
―――地上に降りて千年余り、月にはその幾倍近く……。これから私は、一体何処へ行くのだろう。
頬に当たる夜風は心地良い。そして、何気なく夜空を見上げた永琳の瞳に映ったものは。
「ああ―――何て綺麗な、月」
銀河という宝石箱の中で一番美しいであろう、十五夜の満月が爛々と輝いていた。
黒い小袖と袴が夜風に揺れる。それは夜の闇からもはっきりと区別がつくように際立った黒であった。
竹林の竹によって満月の光は遮られ、その小袖と袴以外は夜の闇に溶けているかのようであった。
普通の人間が見れば、一種の幽霊ではないかと見間違うぐらいだ。妖怪ですら、そう思うかもしれない。
小袖と袴のシルエットは竹林を奥へ奥へと進んでいく。
ガサッ、ガサッ、と草木の擦れる音が波紋のように響き渡る。
やがて、開けた場所に小袖と袴は辿り着く。
月の光は小袖と袴を照らし、その全身像を月下のもとに映し出した。
男である。顔立ちから見て取れる年齢は、二十代というところか。身長は六尺、百八十センチあたり。無駄な筋肉はついておらず、かといって痩せている訳でもない。
背には小袖や袴と同じ黒の色をした、自らの背丈ほどもある長いバックを背負っている。
ゆっくりと、男は月を仰ぎ見る。そこには、欠けたところが微塵もない満月が地上を照らしていた。
「―――今宵は満月か」
男の視線は地面に降り注ぐ月光を貫くように鋭くなり、月そのものを断つかの如く険しくなる。
しかし、その眼光とは対照的に、口元には笑みが浮かんでいた。
何時しか男の表情は、何かを懐かしむようなものに変わっていった。
「……今頃、何をしているのやら」
男はそう呟くと、月から視線を外して竹林の奥へと歩を進める。
その男の名は、出雲創と云った―――。
来訪者達を彼女は快く思わなかった。
永い間孤独に置かれていた事もあり、彼女は完全に他人と距離を置こうとしていた。
それでも来訪者達の事を見ていると、彼女の心は揺れ動いた。
―――なんて、楽しそうなのだろう。
―――なんて、嬉しそうなのだろう。
―――なんて、輝いているのだろう。
しかし、彼女は怖かった。
自らを曝け出すことが。他人と関わりを持つ事が。―――自分が傷つく事が。
「ししょ~。こんな時間に何ですか~? 寝させてくださいよ~」
欠伸の出かかった口を右手で押さえて、ウドンゲこと鈴仙は永琳の寝巻きの裾を引っ張る。
永琳は永遠亭の縁側に座り込み、団子を片手に月見をしている。
「文句は言わない。別にいいじゃないの。後で超即効性の睡眠薬を処方してあげるから」
永琳は満面の笑顔を浮かべるが、その笑顔の奥底には得体の知れない凄みがあった。
「……師匠。その睡眠薬、どういったものなんですか?」
自分に向けられる恐怖の笑顔に対して、僅かな勇気を振り絞って兎は質問をする。
「永遠に眠れる睡眠薬よ」
「毒薬じゃないですか!」
そんなもの、飲みたくありません! と抗議の声を荒げる鈴仙に対して、
「あら、忘れたの? 薬と毒は表裏一体。毒を以って毒を制す。薬とは毒なのよ。そして毒もまた然り。以前、教えた筈だけど?」
「う……」
返答に詰まる鈴仙。そんな彼女に永琳は更に追い討ちをかける。
「本来、薬も毒も体にとっては異物に過ぎない。ただその作用が違うだけ。主観による見方が違うだけ」
「それなら……薬は何の為に?」
「助長よ。自己治癒力を高める為のね。あるいは害を為す菌類を殺す為に作られた毒よ」
永琳はそう言って、片手に持った団子を口の中に放り込む。
「ま、薬の話はこれぐらいまでにしましょ。今夜は月が綺麗よ」
そう言って、再び永琳は団子を手に取った。
鈴仙も仕方なくその場に座り込み、夜空を仰ぐ。
両者の視線の先にあるのは、空に浮かぶ十五夜の満月。
果たしてそれは、見た者の心を静める鎮静剤か。それとも、見た者の心を奪う甘美な毒か。
竹の一本一本が意思を持っているかのように、創の前に道を作っていく。
先程までとは打って変わって、歩く際には土を踏み締める音しかしない。
―――誘い、だろうな……。
口元が綻ぶ。気紛れで起こした行動が、好奇心をそそられるようなものであったからだ。例え、それが自らを破滅させるような結果に終わろうとも、それはそれで面白いものだろうと創は思っている。
他者の心が傷つくことは好ましくないが、自らの肉体や心ならば問題はない。永き時を生きた創生の神とて、精神面が人間の描く理想像とはかけ離れている。
神は人間の信仰によって生み出されたもの。その精神面が、人間のように他者を羨望し、嫉妬を抱き、気紛れを起こし、欲を現すのは至極当然。
慈愛、博愛の心もあるにはあるが、それらの心しか持たない神など、いない。
人間が理想に描いた幻想の神は、その人間の心の中にしか存在しない。神は本来、道を示すためだけにある存在なのだ。
今、竹林を奥へ奥へと歩いていく創―――伊邪那岐命にしろ、それは当てはまる事であった。
ある日、来訪者達の一人が病に伏せた。
感染の割合は低い病であったが、難病の一つに挙げられる病であった。
来訪者達は、目に見えない筈の彼女を頼った。
彼女は迷い、悩んだ。
そうこうしている内に、病状はどんどん進行していった。
見るに見かねた彼女は遂に、来訪者達の目に映るように姿を変え、薬を処方した。
そして、彼女の薬のお陰で、来訪者の一人は命を取り留めた。
感謝の意を来訪者達から表された彼女は、自らもこの者達と共に生きる事を決意した。
自らの肉体には転生の秘薬を施し、肉体が死ねば、新しく生まれた彼女の子孫の肉体に記憶と精神を受け継がせる。
そうした事を続ける事で、彼女は来訪者達と交わりを持った。
……しかし、その交わりはあっけなく崩壊する事になる。一人の少女の難病を救うが為に―――。
「……ねぇ、鈴仙」
その言葉を耳にした鈴仙は驚いた。何しろ、永琳が鈴仙を呼ぶのは『ウドンゲ』と相場が決まっている。
鈴仙という名前で呼ばれたのは、彼女の記憶にとってこれが最初になるだろう。
「月が懐かしい、と思った事は無いの?」
「……え?」
永琳の口調は真剣だった。冗談だとは到底、思えない。
「仲間に会いたいとか、家族に会いたいとか……。そういう事を、貴女は望んだ事がある?」
「師匠……?」
怪訝な顔で鈴仙は永琳の方へ視線を向ける。いつもと変わらない筈の永琳の姿が、何処か儚げに見えた。
「……私は月を捨てた身です。今更、そういった未練はありません」
きっぱりとそう言い切る鈴仙に、
「本当に、そうかしら?」
永琳は優しく問い返す。心の底に別の意図が含まれているような雰囲気では無い。
りーん、りーん、と鳴く鈴虫の声が、暫く辺りの空間を支配する。
「……会いたいと、思った事は、あります」
口を開いた鈴仙の瞳から、涙がポロポロ零れ落ちる。声もところどころで涙声になっていた。
目は、相手を狂気に陥れる時よりも赤く染め上がっていた。
「家族に、元気で、やっています、とか、仲間と、色々、思い出話を、語り合ったり、とか……」
「…………」
目蓋を閉じて、鈴仙の言葉に耳を傾ける永琳。
「……それでも、私は、戻りません」
「……どうして?」
鈴仙の顔が俯く。未だに頬を涙が流れている。
「私には、そんな資格は、ありませんから……」
唇の端から紅い雫が流れ落ちる。それが血だとは、永琳でなくても察しがつく。
「月を捨てた私には、そのような事を、望むような事は、出来ません。生まれ育った場所を、仲間を、家族を、私は裏切った。そのような私が……今更、そんな事を望むなんて、罰が当たります」
顔を上げる鈴仙。その顔に、先程までの涙は無い。
「私は……今の暮らしで充分です。師匠に薬を学び、てゐと一緒に輝夜様の下で働く。……月を捨てた私を受け入れてくれるのは、この永遠亭にしかないのですから……」
「……そうね。それが、当然な事なのかもしれないわね……」
満月を仰ぎ見る永琳。夜空に浮かぶ金色の宝珠は、幻想郷の夜空高くに浮かんでいる。
「……師匠、私からも、いいですか?」
「何?」
「師匠は、どうなんですか?」
「―――――」
再び、辺りに鈴虫の声が響き渡る。永琳の双眸は満月に向けられたままであった。
「そうね……私は……」
そこまで言い掛けて、唐突に彼女は視線を竹林の方へと向ける。
顔には一瞬、驚きが浮かび上がった。
「……どうやら、客人のようね」
「客人、ですか?」
「そう、客人よ」
丁重にお通しなさい、そう鈴仙に告げると、永琳は縁側を去った。残された鈴仙はしばし、呆然とその後姿を見送っていた。
竹林の竹が作った道を、迷いもなく歩んでいく創。
とうに、この竹が普通の竹と一線を画しているのは分かっている。魔法の森に生えている樹木と同じく、この竹林に生えている竹には魔力が宿っている。
否、魔力と一概には言い切る事は出来ないが、普通の竹には無いものを秘めているのは確かであった。
そして、竹の道が終わりを迎えると同時に、視界が開けた。
後ろを振り返ってみても、そこにあるのはただ鬱蒼とした竹林で、道などと呼べる道はない。
そして前方には、寂れた屋敷が聳え立っている。
紅魔館と比べると、そこには人気というものがあまり感じられなく、ただ静かにあるがままにある、といった感じの建造物であった。また、造りも和風と対照的である。
そんな感じで屋敷を観察していると、一人の少女が屋敷の中から姿を現した。
頭から生えている兎の耳は、少女が人ならざる者である事を証明している。
「因幡てゐと申します。貴方様を客人として迎えるよう、申し付けられました」
「客人?」
「はい」
てゐと名乗った少女の言葉に偽りはないと見た。それは神として多くの人間、妖怪、その他命ある者全てを見てきた観察眼と、人として様々な交流を積んで来た経験から導き出した答えである。
「……すまないが、一体誰が俺を客人として迎えろ、と?」
「八意永琳様です。この永遠亭の主、蓬莱山輝夜様にお仕えなされておられる方にございます」
「八意……永琳……」
懐かしむかのような口調で、創はてゐの言葉に含まれた人物の名を復唱した。
「成る程な……。出迎え、感謝する」
創は軽く一礼をして、微笑を顔に浮かべる。
「こちらへどうぞ。永琳様がお待ちです」
てゐは屋敷の中にゆっくりと入っていく。その後ろに創も歩調を合わせて屋敷の中に入っていった。
少女の病気は、彼女の英知を以ってしてでも治す事は困難であった。
ありとあらゆる限りの治療薬を処方しても、病状の進行を遅らせるのがやっとであり、完全に治るまでには至らなかった。
彼女は初めて、自分の無能さを呪った。
―――自分に出来ない事なんて、無いと思っていたのに……!
このままでは、大事なものが失われてしまうかもしれない。
それは、ようやく築き上げた来訪者達との関係。
それは、ようやく見つける事が出来た自分自身の居場所。
そして最後に、少女が自分に寄せている親愛の心―――。
失う訳にはいかなかった。失ってしまえば、再び孤独の闇に身を置く事になる。
もはや、彼女はそれに耐え得る心を持っていなかった。
何故ならば、彼女は優しすぎたからである。
創が通されたのは、別段これと言って装飾も施されていない客間であった。
「客間と呼ぶには、少々物足りないように思われますが」
「いや、そのような心配は無用だ」
「ありがとうございます。どうぞ、座ってお待ちください」
うむ、と軽く創は頷き、背負った黒いバックを客間の床へ降ろし、自らも腰を下ろした。
「永琳様を呼んで参りますので、少々お待ち下さい」
うむ、と再び創が頷くと、てゐは客間の外へと身を翻した。
静かに、目蓋を閉じる。
鈴虫の合唱を耳にしながら、辺りに漂う神秘的な雰囲気を感じ取る。
―――懐かしい感じがする。
感じ取った雰囲気に対して、創は純粋にそう思った。
客間に通されて判刻もしない内に、先程てゐと名乗った少女ともう一人、兎の耳を生やした少女を横に連れて、一人の女性が客間に姿を現した。
蒼い無柄の着物に、星柄の模様の帯を着用している。
彼女の名は八意永琳。しかし、いつもの彼女とは雰囲気が別人のように違っていた。
「ウドンゲ、てゐ、ご苦労様。下がって良いわ」
「はい。それでは」
二人の少女は深く頭を下げると、客間から去っていく。
残ったのは、創と永琳の二人だけである。
「……こうして面と面を合わせるのは、何百年振りかな」
先に口を開いたのは、創の方であった。
「千と二百か三百……それぐらいだったと記憶しておりますわ」
「そんなものか」
「そんなものです」
永琳は微笑むと、創の真正面に腰を下ろす。
彼女の澄み切った双眸は、喜びの意を表して創へと向けられている。
創も同様に、穏やかな表情を浮かべて永琳を見つめる。
「……元気そうで何よりだ。月読」
「父様もお変わりないようで」
客間の障子から差し込む月明かりが、何処か優しく感じ取れた―――。
伊邪那岐命が黄泉の国より帰還した際、黄泉の国の穢れを落す為に川で水浴びをした。
その際に生まれたのが、天照、素戔鳴、そして月読の三貴神と後に呼称される神々であった。
伊邪那岐は三者それぞれに、太陽、海原、月の統治を命じた。
それを最後に、伊邪那岐は神々の世界から隠居する事にした。
しかし、神々の精神面は完璧なものではなかった。
海原の統治を任されていた素戔鳴は、母である存在の伊邪那美命への恋しさで統治の任を解かれたように、他の神も例外ではなかった。
月読は他の神々と隔離されているような闇の世界、夜の世界の管理の任を任されていた。
そこで感じていたのは、絶える事の無い孤独の世界。他の神々との関わりも殆どないこの世界で、彼女はひとり、孤独と戦っていた。
そして彼女は、自らその任を辞退する事になる。
―――素戔鳴と同じく、私情を胸に秘めていたのだ。
「……そう言えば、前回は聞いていなかったな」
「…………」
「何故、お前は地上へ降りてきたのだ?」
月読―――永琳にとって、それを話すのは気が重かった。例え、父親に当たる創に対しても、その話だけはあまりしたくないのである。
「……別に、話したくないというのなら構わないが」
「いえ……。確かに、前に会った時には話せませんでしたね。分かりました、お話いたしましょう……」
少女の病状はもはや、いつ命の灯火が消えるか分からない様な状態に陥っていた。
そんな少女の姿を見ていた彼女は、遂に最後の手段を取る事にした。
毒を以って毒を制す―――。死ねなくなる毒を以って、死の淵に立たされる病を制す―――。
それが、どんなに少女にとって残酷な立場に立たされるのか、彼女にも良く分かっていた。
しかし、少女を死なす訳にはどうしてもいかなかった。
天命によって死ぬ事を、彼女は最も良い人生の終わり方と考えていた。
だからこそ、少女が不治の病に冒されて死ぬなど、彼女の信念が許さなかった。
そして、少女はその病から回復した。
不老不死の呪いを身に纏って―――。
「その少女が……蓬莱山輝夜なのか?」
「はい。……ですが、不治の病から回復した彼女の事を不審に思った人物がいたのです。彼らは姫の身体が罪に当たるものとして、様々な極刑に処すようにしたのです。結局、死ねない身体なのですから、地上へと追放するより他を思いつかなかったようですが」
「その者達が……輝夜を地上に追放した権力者の一族?」
「ええ。姫の家は高貴な一族で、来訪者達―――否、月の民とでも言っておきましょうか。その中でも高位の家柄でした」
「なるほど。何時の時代でも、何処の場所でも、同じ様な事が起きている訳だ……」
吐き捨てるように呟く創。
「……話を続けてくれるか?」
「はい。地上を追放された姫は、あまりに受けた肉体的苦痛で、精神と記憶が幼児のそれに戻ってしまったのです。何とか、地球人の手によって保護された姫は、歪んだ形で精神と記憶を取り戻しました」
「……歪んだ形?」
「姫の美貌を聞きつけてやって来た貴族達の様々なやり方を、目の当たりにしていたと聞きます……。それが、故郷の権力闘争のそれと結びつき、心が歪曲してしまったのでしょう。……記憶の方も」
俯く永琳。両肩が微かに震えている。
「そして私が姫と再会した時、姫は私について不老不死の薬の開発を頼んだ薬師、として記憶していました」
「……? しかし、輝夜の身体が不老不死になったのは……」
「先程も話した通り、姫が不老不死となったのは、私が姫の病を治す為に投与した薬のせいです。しかし記憶の歪みからか、いつしか姫は自分の興味でそうなったのだと思い込んでいるのです……」
「……それで、未だ本当の事は話していないのか」
「……はい」
永琳が顔を上げる。月明かりに照らされた彼女の顔は、雪のように淡く、儚いような白さに見えた。
「姫はああ見えて、心の優しい御方です。私の本当の事を知れば、更に苦しむと思います」
「だが、いつまでも隠し通せる話か?」
「…………」
再び俯く永琳。両肩の震えはもう無いが、月明かりに煌く雫が床に落ちた。
「姫は私が疑われた時に、必死に弁護してくれたのです。『えーりんはわるくないよ! だって、かぐやのびょーきをなおしてくれたんだから!』と、私の全てを信じるかのように……」
「…………」
「姫にはもう、あの頃の記憶が無いのでしょうが、それでも私は……」
言葉が、止まる。頬に煌く雫は、大河となって床へ流れ行く。それは、まるで流星群のようであった。
「……もういい。よく分かった。よく分かったから、泣くな。……否、泣け。今まで溜め込んでいた悲しみを、全て吐き出せ」
創は優しく、永琳の身体を抱いた。それは男が女を抱くようなものではなく、父が我が子を抱くような愛情に満ちていた。
しばらくして、永琳の嗚咽が止まると、創はゆっくりと永琳の身体から離れた。
「やはり、お前は変わっていないな。優しすぎる」
「父様こそ、変わっていません。竹林の誘いに、わざと乗ったのでしょう。そうでなければ、この屋敷に来る事は到底、不可能に近いのですから」
「……お見通しか」
「以前もそうでした。姫の出している無理難題の噂を何処からか聞きつけて、目の前でそれを終わらせて去ってしまうのですもの。姫が激怒していましたよ」
「あれは暇潰しでやった事だ」
苦笑いを浮かべる創。
「……そう言えば、当の本人の姿が見えぬが」
「ああ。姫でしたら」
あそこに、と永琳が指を示す。その指先は、客間の障子の方を指していた。
「?」
首を傾げる創。そこに映っているのは月明かりに照らされた庭の影である。
別段、そこには誰もいない―――そう思った刹那。
『ふふふふふ、妹紅。あなたの炎は愛情表現にしては激しすぎるわよべイベー!』
『ははははは、輝夜。あんたのその脳みそは身体と同じく、どっか欠けてるみたいねぇ!』
『にゃにおう! 巨乳と蓬莱人である事だけが自慢な奴に言われる筋合いはネェー!』
『ハン! そんな屁理屈は微乳を脱却しない限り無駄無駄無駄無駄無駄無駄ァ!』
月光の光が一瞬で紅蓮の炎に呑まれる。吹き付けてくる熱風は、熱帯夜のそれを思いこさせてくれる。
秋の涼しさは見知らぬ場所へ旅立った。今は夏だったろうか? ああ、べたつくような湿気が不快なり。
「……お前、大変だなぁ」
「今に始まった事ではありませんから」
流すように言い切る永琳。先程までの哀しい雰囲気は何処へやら。
「天照や素戔鳴も会いたがっている。今年ぐらい、顔を見せてやれ」
「神無月の集いですか? 私は……」
「たまには、いいだろう?」
創の背中には既に、先程まで床にあった黒くて長身のバックがあった。
ここを発つのだろう。
「もう、過去に囚われるな。後ろを見ていてばかりでは、歩むべき道を見失うぞ」
「……ありがとうございます、父様……」
ゆっくりと創は立ち上がり、客間の扉を開けた。
その後姿を座ったまま、永琳は創を見送る。
久し振りに、彼女は自分自身の心に満月の明るさが戻ったと思えた。
これから先、彼女はどう生きていくのか。
三貴神が一人、月読として生きるのか。
天才月人薬師、八意永琳として生きるのか。
恐らく彼女は、後者を選ぶだろう。
何故なら、彼女は神だからである。
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