夢を、見た。
今ではもう遠く過ぎ去った、あのどうしようもないくらい騒がしくて楽しかった日々と、共に過ごした多くの愛しい隣人達。
そしてどこまでも胡散臭くて、いつも横で微笑んでいたあの妖怪の夢。
だからこの泡沫の夢はきっと彼女からの最後の手向けだと、そう最期の勘が告げていたから。
霊夢はそっと、その心地よい眠気に身を委ねた――――。
泡沫の日々、そして夢 ~去り逝く者、残る者~
「・・・・・・夢、霊夢」
庭から自分を静かに呼ぶ声を聞いて、霊夢は目を覚ました。
最近は眠りが浅い。これだから老いというものは嫌だ。
昔からあまり深くはなかったけれども、最近はそれに拍車がかかっている。
さて、時刻は丑三つ時。こんな時間に尋ねてくるのは妖怪と相場が決まっているものだ。
そうなると、今の声は?
「ああ、やっと起きてきたの・・・・・・。あやうく手遅れになるところだったわ」
霊夢は布団から体を起こし、障子を開けて縁側に立った。
老いて弱った体は、もうどこも満足に動かすことは叶わない。
そのはずなのに今夜に限ってそれはなかった。まるで幻想郷中を飛び回ったあの頃のように体が軽い。
今年も長い冬が終わり、春が訪れた幻想郷ではあちらこちらで桜が満開だ。
ここ、博麗神社はその中でも一番美しい桜が咲く。
霊夢はそんな庭が昔から大好きだった。
月に照らされた桜が儚く、美しく舞い散るこの光景がたまらなく好きだった。
今夜もこの庭は相も変わらず美しい。
その月の光と溶け合った白の中に、彼女はいた。
「こんばんは、霊夢」
「こんばんは。久しぶりね、紫」
「ええ、ほんとに・・・・・・。と言っても冬の間だけだけどね」
微笑む紫の姿は昔のままだ。
霊夢と酒を飲み交わしたあの頃と変わらない。
遠い日の、霊夢の記憶にある笑顔となんら変わることはない。
「それで、今夜は何の用かしら? 昔みたいに酒のお誘いなら断らせてもらうわ。もうあまり飲めないのよ」
「分かってるわ。今夜は最期の挨拶に・・・・・・ね」
少しだけ寂しそうに目を細める紫。
「最期の挨拶、ね」
「ええ。・・・・・・冬の間に貴方が逝ってしまわなくてよかった。これでも寝起きなのよ?」
「あんたが寝てる間は逝かない、って約束したじゃない」
「でも、貴方は人間だから」
「・・・・・・」
紫は縁側には近寄らない。
まるで霊夢と自分の間に境界線を引いているように。
「人間だから、予期せぬことが起こっても仕方がないでしょう?」
「それもそうだけどね、こうして生きていたんだからいいじゃない。それに魔理沙や他の連中がうるさくて眠れなかったのよ。まったく、魔理沙も少しは落ちついたらどうなのかしら?」
「ふふ、それは無理な話よ。魔理沙は騒々しい故に魔理沙なのだから。それは老いても変わらないわ」
「そういうものかしら?」
「貴方もよ霊夢。魔理沙が騒々しさ故に魔理沙なら、貴方は一人であるが故に貴方だった」
「・・・・・・」
そして、紫は今までずっと聞きたかったことを聞こうと思った。
少しだけ不安に思ってきたこと。
最後に、これだけは聞いておきたかったから。
「貴方は、結局最後まで誰にも寄らなかったわ。・・・・・・ねぇ、一つ聞いてもいいかしら?」
「・・・・・・何?」
「寂しくは・・・・・・なかった?」
「・・・・・・らしくないわね、紫。そんな事聞くなんて」
「まぁね」
「答えは決まってるわよ。寂しくなかったし、私なんかにはもったいないぐらい幸せだったわ」
「霊夢、それは」
「まぁ聞きなさい。年寄りの戯言を、ね。私は確かに一人だったけど、孤独じゃなかった」
「・・・・・・」
「私の周りには、いつもお節介な連中が集まってきてね。事あるごとにやれ宴会だ、やれ祭りだと・・・・・・休む暇がないくらいに私を引っ張って騒いでくれたわ。そんな連中がいるのに孤独なわけがない。それに・・・・・・」
一息ついて、霊夢は改めて紫を見つめる。
霊夢の顔は笑顔で、その目には強がりなど一切感じられない。だからこれは、霊夢の心からの本心。
この人生の恩人に送る、彼女なりの最大級の感謝の気持ち。
「あなたが傍にいてくれたからよ、紫。あなたがいつも私の傍にいてくれたから・・・・・・私は寂しくなかったし、幸せだった」
「・・・・・」
「ありがと、紫。あなたには本当に感謝してる」
「・・・・・・まったく、年寄りの戯言はこれだから困るわ。聞かされる方の身にもなりなさい」
「誰が年寄りだ、誰が。あんたの方がよっぽど年寄りじゃない」
「あら、自分でそう言ったじゃないの」
「そうだったかしら?」
「ほんと、老人はこれだから困るわ・・・・・・」
「失礼な妖怪ね」
紫と霊夢は同時に笑う。
今さらこんな事を聞くなんてほんと紫らしくない、と霊夢は思った。
それはたぶん紫も同じこと。
しかし今夜ぐらいはいいかもしれない、とも思う。
恐らく今夜は二人にとって、最後の夜になるだろうから。
「・・・・・・そうね。貴方はいつもなんだかんだ言いつつ、笑っていたものね。能天気そうに」
「こらこら、一言多いわよ」
「事実でしょう? ・・・・・・本質は変わらなかったけど、随分と変わったわ、貴方。見た目だけじゃなく、貴方自身が穏やかになった」
「そういうあんたは、まだ自堕落な生活を満喫しているようね。藍が嘆いてたわよ?」
「ふふ、それでいいのよ。それが私の在り方なんだから」
「そう、あんたは変わらない。ずっと、ね」
「・・・・・・そうね」
「・・・・・・じゃ、先に逝くわ。あんたもすぐ来なさいよ?」
「お断りしますわ。まだまだ生き足りないの」
クスクスとお互いに笑った。物騒な話をしているくせに楽しげに。
まったく、くだらない話だ。でもそれでいいと二人は思う。
真面目な話なんてしても面白くないし、二人はこれでも幻想郷屈指の捻くれ者だ。
二人の最後には、こんなくだらない話が似合っている。
● ○
「あ、そうそう。紫、あんたに渡しておきたい物があるのよ」
少しの後、霊夢は部屋に戻り箱を抱えてきた。そしてそれを紫に差し出す。
紫はそれを受け取るために縁側による。そして手を伸ばし、霊夢の手と少しだけ触れ合った。
ほんの少しだけ交わった二人の境界線。しかしそれは、紫が箱を受け取ったことですぐに元に戻る。
だがそれで十分。二人にはそれだけで十分だった。
「何かしら?」
「開けてみなさいよ」
そう言われて箱を開ける。
その中には・・・・・・霊夢の愛用していた湯飲みと急須が入っていた。
もう何十年も霊夢と共に歩んできた、霊夢の分身ともいえるあの湯飲みと急須だ。
「これは・・・・・・」
「いいの。もらって頂戴。もう私には必要のない物。娘は自分用のがあるから使わないしね。だから、使ってあげて。それも使われたほうが幸せだろうから」
「・・・・・・わかったわ。大切に使わせてもらうわね」
「ありがと」
紫は箱を大切そうに閉じた。
それを見た霊夢は静かに息を吐いて、少し奥に下がる。
――もう時間かしら、ね。
自分の体の事は自分が一番よくわかる。
しかし、よくもここまでもったものだ。外からでは分からないが実際のところ、この体はもうほとんど死に体なのだ。
それにさっきから少しずつ眠くなってきている。どうやら、この眠気には逆らえそうにない。
――ごめん、紫。
霊夢は紫を見つめる。ただ静かに、多くの気持ちを籠めて。
紫を置いて、先に逝ってしまう自分が恨めしい。もう何も彼女と共有する事は叶わない。
そして何よりも、彼女ともう二度と会うことができないのはとても悲しいことだ。
だが仕方のないこと。霊夢が紫よりも早くその時が来ることを承知の上で二人は共有の時を過ごしたのだから。
たとえその時間が、泡沫のようなモノであったとしても二人には後悔など無い。
そして最後に霊夢にできることは、彼女の姿を忘れないように瞼に焼き付けることだけだ。
いつまでも、いつまでも忘れないように――――。
「・・・・・・紫、幻想郷をよろしくね」
「・・・・・・ええ」
一歩下がった霊夢を見て、それが何を意味するのか悟った紫は一瞬だけ寂しそうにうつむいた。
しかし、次に顔を上げたときにはいつもの微笑に戻っている。
「ふふ、もっともっと賑やかにしてみようかしら?」
「するなするな。あんたの賑やかは度を超えてるんだから」
霊夢も同じように微笑んだ。
お互いに別れの言葉を発するつもりはないし、辛気臭い別れにするつもりもない。
そんなもの、やはり自分達には似合わないと知っているから。
そして、紫が去った後の博麗神社には動く者は誰もいない。
そこに残るのは月に照らされてただ儚く、美しく舞い散る桜だけ――――。
● ○
紫がスキマを通ってマヨヒガの自宅に戻ると、玄関で藍が待っていた。
「お帰りなさいませ、紫様」
「ただいま、藍」
紫はそう言うと、藍の横を通り過ぎて奥に入る。
藍は何も言わない。主人が何をしてきたか、そして主人が何を望んでいるか分かっているから。
紫はそのまま自室に向かおうとして、しかし足を止めて藍に話しかける。
「藍」
「はい」
「分かっているとは思うけど、今夜は私の部屋には誰も近づけさせないで頂戴な」
「承知いたしました」
「宜しくね」
「・・・・・・あの、紫様。一つだけ、いいですか?」
「何?」
「彼女は・・・・・・笑っていましたか?」
「・・・・・・ええ、相も変わらず能天気そうに笑っていたわ」
そう言って紫はまた歩み始める。
今度こそ足を止めることなく、奥の闇の中へ消える。
藍は主人が見えなくなるまで見送っていた。
長年付き従ってきた彼女だけは分かる、その寂しげな背中を、ずっと。
紫は自室に戻ると、障子を開けて腰を下ろす。ここからは庭が一望できる。
そこには博麗神社にもなんら劣らぬ、立派で美しい桜があった。
静かに、ゆっくりと舞い散る桜。
紫は霊夢から譲られた箱を抱きながら、それを見つめる。
思い浮かぶのは彼女達と共に過ごした、泡沫のように儚くて。
そして、どうしようもないくらい騒がしくて楽しかったあの日々のこと。
「楽しかったわねぇ。ほんと、楽しかった・・・・・・」
心の中に、大切なものを無くしてしまった喪失感がある。
これはいったい何だろうと彼女は考えて、結論に至った。
――あの娘の存在はこんなにも大きなものになっていたなんて。不思議なものね・・・・・・。
最初はただの興味本位でしかなかったと言うのに、と紫は苦笑した。
その時、手元のほうから小さな音がした。ポタリ、という本当に小さな音が。
見ると、箱の上に音も無く落ちて消えるモノがある。
紫はそれを見て初めて、自分が泣いているのだと気がついた。
しかし彼女はそれに気づきはしたが、止める気はしなかった。今夜だけは、少し弱い八雲 紫であってもいいだろう。
だけど声は出さない。霊夢に聞こえると怒られてしまうから。彼女は自分の為に誰かが泣くようなことを好みはしないだろう。
それにこの涙は自分だけのものだ。これは自分への涙でもある故に。
だからばれないように、彼女は声も無く涙を流した。愛しい者への感謝と別れ、そしてほんの少しだけの悲しみを籠めて。
霊夢の温もりが残っている今だけは・・・・・・きっとそれが許されるだろうから。
――おやすみなさい、霊夢。どうかあなたの見る泡沫の夢が・・・・・・幸せなものでありますように――――――。
一陣の風が吹き抜けて、桜の花を夜空に巻き上げる。
夜空一杯に広がった花達は風に乗り、天に昇っていく。
それはまるで幻想郷も彼女に別れを告げているかを思わせるような。
そんな、幻想の光景だった――――・・・・・・。
人同士ですら深い悲しみがあるというのに、彼女らは妖怪と人
妖怪と人間で生きる時間が違う以上永遠の別離の悲しさは
人同士のそれを凌ぐものがあるのでしょうか?
「寂寥感あふれる作品」と評しようかとも思いましたが、彼女らの心は
最後まで満たされていたと思うので止めにします
お見事でした
個人的にこういった作品が大好きだというのもあるんですが、書かれた作品の情景が容易く頭に浮かんだので自分のイメージとも殆ど合致していたんでしょうか。
人は老い、妖怪は変わらない。
それは人間の主観からみたものであって、もしも神という存在(永遠を持った者。蓬莱人含む?)がいるのであれば、同じような思いを抱くのではないでしょうか。
霊夢は最後まで人間であり続けるというよりも、自分であり続けると言った方がなんとなく正しい気がしました。
例えどんな存在になっても霊夢は霊夢のままでしょうから。
妖怪は決して超越者ではなく、ただ人より少し長く生きられるだけだから。
死者は何事も思わない。ただ生者の中にのみ在る。そう聞いたことがある。
死を背負うとまでいかずとも、忘れることなければ使者は生者の中で生き続ける。
しかしそれはどれほど重いのであろうか。もしかしたら、永く生きてきた紫の背中には、とても重いものがたくさん背負われているのかもしれないですね。
あるいはただ霊夢だけが、紫のそのたった一つ背負った忘れえぬものかもしれないのかな。
永遠に輝く宝石が、紫のような妖怪だとするならば、人間は一瞬空に橋をかける虹のようなものなのかもしれません。でも、だからこそ、輝き続ける宝石は、その虹の輝きに惹かれてやまないのかもしれませんね。アリスと魔理沙がそうであるように。
長文失礼、兎角お見事でした。
人間と妖怪、絶対に重なり合わないからこそ綺麗なのかもしれません。
GJでした。
頭の中でイメージが浮かびやすかった。
しかし盛り上がりに欠けるのが残念といえば残念。
まぁそういうのが必要ない作品だとは思いますが・・・。