月を眺める。
遠くにある月を。
自分が嘗て暮らしていた月を。
レイセンは一人草原に立っていた。
視線の先にあるのは月。
幻想郷に住む者達全てに影響を与える真実の満月。
風が吹き、草が揺れる。
さわさわという心地よい音が響く。
雲が流れ月を隠す。
少し欠けた満月に照らされていた大地に闇が落ちる。
――――――――――気が付いたら紅い瞳から涙が零れ落ちていた。
「あら、イナバじゃない。こんな時間、こんな所で何をやっているの?」
いつの間にか輝夜がすぐ傍に立っていた。
あわてて目元を擦り涙の跡を拭き取る。
「特に何もありません、月を眺めていただけですから。」
その答えに輝夜はそう、と返事をしただけだった。
「月、ねえ。イナバは月が恋しいの?」
「どうなのでしょう、私には良く分かりません。私は月で生まれ月で育ち月で戦ってきました。ですからあそこから逃げ出した今となってもたまに思い出すのです。あそこに居た時の事を。」
「へえ、私にはその気持ちは良く分からないわね。」
そう言って輝夜も視線を月へと向ける。
「私もイナバと同じようにずっと月で生きてきた。でも、私はあそこに居た時の事を思い出したいとは思わない。あそこには何もなかった。月に住むのは永遠の民。始まりも無ければ終わりも無い。ずっと無為に時を過ごす者が住む終わりの都。」
輝夜は視線を落としレイセンに背を向ける。
「ねえイナバ。貴方は月に戻りたいのかしら。」
その問いにレイセンはどう答えて良いのか分からずに黙り込むだけだった。
「あれれ、レイセン何時戻ったの?」
「さっき戻ったばかり。何か用でもあった?」
「ううん、別にないよ。只単に何処に行ってたのかなーって思っただけだし。」
そう言っててゐは耳をぴこぴこと動かしながらレイセンに近寄ってきた。
「あれ、涙の跡。泣いてたの?」
「あくびをしたら涙が流れただけ。別になんでもないわ。」
「そうなんだ、ならいいんだけどね。」
そう言っててゐがくるっとその場で一回転する。
「ああそうだ、てゐ。ちょっと聞きたいんだけど……」
「なあに?」
てゐが軽く首を傾げる。その無邪気な表情をみてレイセンは聞くべきなのかどうか迷ってしまう。
「ごめん、なんでもない。」
「じゃあまた今度聞きたくなったら聞いてね~」
そう言っててゐは軽く跳ねながらレイセンの横を通り過ぎて通路の先へと曲がって行く。その後姿を見送ってレイセンはそのまま通路の先にある永琳の研究室へと歩を進めていった。
「もう、これじゃないわよ。これで何回目かしら。今日は何か集中力無いわね。」
「も、申し訳ありません師匠。」
粉にされた薬草が入っている薬瓶を振りながら永琳が呆れたような表情で小さくため息をつきながらレイセンの顔を見つめる。
「今日の手伝いはもういいわ、これなら一人でやった方が早そうだし。」
「……はい。」
「何だか良く分からないけど。何か言いたい事があるなら早めに言った方が良いわよ。決行はもうすぐなんだし、そんな気もそぞろなままで事にあたられるのなんて迷惑以外の何物でも無いんだから。」
それだけ言うと永琳はあっさりとレイセンから視線を放し、薬瓶が置かれた棚へと向かって行った。
レイセンは自分の師匠のその後姿を眺めながら情けなさで大きく息を吐きながら肩を落とした。
後ろ手で研究室の扉を閉めながら、自分はどうしたいのだろうとレイセンは考える。
月は自分が生まれた場所。
姫の命によって間もなく地上と月の行き来が出来ないようになる。
その事について悩むのは変な事なのだろうか。
自分の意思で故郷を捨てた私が悩むのは変な事なんだろうか。
姫は月が恋しくないと仰っていた。
私はもう月へと戻る気はない。
戻る事は出来ない。
仲間を見捨てて逃げ出した私がどうして月へと戻れるというのだろう。
「あれれ、レイセン永琳様の手伝いじゃなかったの?」
「う。ちょっと……」
「追い出されたんだよね、ちゃんと私聞いてたよ。」
そう言っててゐがくすくすとおかしそうに笑う。
「追い出された理由ってさ。さっき聞こうとしたことに関係があるの?」
「……まあ、そうなのかな。」
そう言いながらレイセンは庭へと出た。漆黒の夜空に浮かぶ満月を眺める。
まあるい、まあるい。
尊い。尊い。
月の民が、住んでいる場所。
―――――――――住んでいる、場所?
「あれ、レイセンなんだか顔色悪い気がするよ?」
「あ、ああ。なんでも無いよ。気にしないで……」
「そう。それなら良いんだけど―――って、何でも無いって明らかに無理してる言い方だね。顔色が悪いっての否定してないしさー」
本当に大丈夫~?とてゐが聞いてくるが、その問いに対して大丈夫とだけレイセンは言葉を返した。
「なんでもないの、ちょっと思っちゃっただけ。」
「何を―――って言いたくない事?」
「ん……ごめん。」
「そっか。やっぱり地上と月との通路を封じる事に関係するんだねー」
「分かる?」
「そりゃあねぇ。」
今のレイセンが悩みそうな事なんてそれぐらいしかないじゃない、とてゐが笑いながら答えた。
「ねえ、レイセン。やっぱり故郷に戻りたいって思う事あるの?」
故郷に戻りたい、かぁ……
さっきてゐに言われた事が頭の中をぐるぐると回っていた。
姫の命で師匠は地上と月とを結ぶ通路を塞ごうとしている。それが終われば地上と月の交流は完全に途絶える事となるのだろう。それが終わればもう二度と私の様な存在が来る事は無くなる。いや、それ以前に―――
夢を見た。
自分が戦っている夢を。
殺し合いをしている夢を。
私の目の前で地上人が兎達を殺していた。
私の目の前で兎達が地上人を殺していた。
私の目の前で地上人が月の民を殺していた。
私の目の前で月の民が地上人を殺していた。
月が紅く染まる。
兎の血で。
地上人の血で。
月の民の血で。
まるで私の瞳の様に。
諍いは止め処なく続く。
際限無き殺し合い。
侵略をしている地上人は止まる筈も無い。
ここまで来て何の成果も上げずに帰るわけにはいかないから。
月の民達も兎達も止まる筈がない。
自らの住処を荒らされて黙っている者達はいないから。
だから、どちらも止まらない。
全滅するまで、皆殺しにするまで、皆殺しにされるまで戦い続ける。
私の目の前で際限なく続けられる殺し合い。
久遠と言う名の。
「ふむ、レイセンさんは相変わらず心穏やかで無い様ですな?」
気が付いたらてゐが枕元で変な言葉を呟いていた。全身が寝汗で濡れていて気持ちが悪かった。良く覚えては居ないが、嫌な夢を見ていた気がする。
「あ、おはようてゐ。」
「おはようじゃ無いってば、まだ夜中。レイセンがうなされるなんて久しぶりだね、ここに転がり込んできたとき以来じゃないかな?」
「そう、かな。」
ほぅ、と大きく息を吐いて寝汗を枕元に置いてあったタオルで拭き取る。
「レイセンが変だとからかい甲斐が無いじゃない。早く元に戻って欲しいんだけどなぁ」
「うーん。私としてはてゐにからかわれない方がいいかな。」
そう言ってレイセンは微笑もうとしたが、結局寂しそうな笑みを浮かべる事しか出来なかった。その表情を見ててゐが自分の顔をレイセンの顔の近くへと寄せてくる。耳と耳が触れ合って少しくすぐったかった。
「冗談言ってるのになんだか苦しそうに見えるよ。本当に大丈夫なの?」
「大丈夫、問題なんて無いって。てゐが神経質なだけだとおもう。」
「私が神経質って何なのよー」
まるで私が心配性みたいじゃない、と言いながらてゐは頬を膨らませた様な表情を見せていたが視線はレイセンから離そうとしなかった。
「てゐは心配しすぎ。夢なんて自分じゃどうしようもないんだし。」
「それだけじゃないとおもうけどね、まあいっか。レイセンがそう言うんだから私が関わるべき事じゃないんだよね。じゃあ私そろそろ寝るね、また明日も準備で忙しいらしいんだから早く寝ないと。もううなされないでね、気になって眠れなくなっちゃうんだから。」
そう言いながら、てゐはおおきくあくびをしながらゆっくりと去っていった。耳が何となく私の方を向いている気がするのはご愛嬌といった所だろうか。
「なんにしても、もう明後日か……」
誰に言うでもなく小さく呟く。
何となく今の呟きがてゐに聞こえていなければいいな、と思った。
「あら、遅かったわね。体調でも悪いの?」
「そんな事はありません師匠。只寝付けなかっただけですから。」
「何だか貴方昨日から何だか変よ。一度診てあげましょうか?」
「大丈夫です、お気遣い無く……」
そう言いながらレイセンはちゃぶ台の前に移動する。既に輝夜もてゐも座っているのですぐに朝食が始まる。いつもであれば輝夜が最後に来てから食事が始まるのだけれど、自分が起きるのが遅くなってしまったので起きてくるのを待っていたらしい。
遅くなりました、と二人に一礼をしてから座布団の上に正座をする。兎達が料理を運んで来るのでそれを受け取り、並べる。
全てがそろった所で永琳が座り、朝食が始まった。
他愛の無い話をてゐがして輝夜がそれに乗って笑いを取る。輝夜が変な事を言うと永琳の的確で容赦のない突込みがくる。いつもであればレイセンもこの話に加わって思った事を言うのだけれど、今日はそんな気にはなれなかった。
そして、レイセンが一言も喋らないうちに朝餉は終わった。
「あれ、レイセンって今日仕事無いの?」
朝餉が終わり竹林の中を何をするでもなく歩いていると不意に後ろから声がかけられたので、声がした方へと振り向く。
前日なのに暇そうだね~と言いながらてゐがレイセンの傍まで駆け寄ってくる。様々な野草が入った籠を背負っているのを見て、恐らく師匠が用意している薬の材料の調達をしていたんだろうと判断する。
「えっと……」
「また追い出されたんだ?」
「いや、今日は何も頼まれていないだけだから。」
「それって要するに今のレイセンには仕事を任せられないって言われてるのと同じじゃないの?」
「痛いところを突くね。まあそうなんだろうけど。」
そう言ってレイセンははぁ、と今日何度目かも分からない溜息を付いた。
「暇だったら仕事手伝ってもらえると嬉しいんだけどな。悩み事があったら何かに集中している方が気がまぎれるかもしれないし。何も考えずに体を動かしているだけでもその間だけは楽になるよ、考えても仕方がないことが頭の中にあるときにはね。」
そのてゐの提案にレイセンはそうなのかもしれない、と心中で頷く。確かに朝から何もしておらずずっと考え事をしながら竹林の中を何処へ行くとでもなく歩いていた。様々な事が頭に浮かび、そしてそれはすぐに潰える事の繰り返し。
「じゃあそうさせてもらおうかな。」
「うん。じゃあとりあえずこの籠持って付いてきてくれると嬉しいな。」
てゐが背中に背負っていた籠をレイセンに渡す。次の瞬間には、てゐが文字通り脱兎のごとく走り去っていくのを見てふと思う。
(……手伝いじゃ?)
そう思った途端、籠が爆発した。
「………てゐめ。」
粉塵がもくもくと辺りにたちこめる。
視界がはっきりしてきた頃に辺りを見回すが、もちろんどこにも見当たらない。小麦粉塗れになって真っ白に染まった自分の服を見てさっきまでとは少し種類の違った溜息を付く。
「もうちょっと違った励まし方はないのかなあ、あいつは。」
こんな忙しい日にわざわざ自分をからかうためだけにこの準備をするというのはてゐにとって大変だったのではないだろうか、とレイセンはふと思った。
トントンとドアを数回叩き、失礼しますと声を出してから扉を開ける。中では永琳が薄い黄緑色の液体が入ったフラスコを目の高さに持ち上げて、それを軽く揺らしながら眺めている所だった。
「師匠、今日私の仕事はないんですか?」
「ないわよ。」
にべもない返事。やっぱり昨日の事が尾を引いているのではないかとレイセンがそこまで考えた所で永琳の声がした。
「勘違いしないでね。明日の貴方の仕事は外敵の排除。私が術を使うまでの間ずっと襲ってくる全てを排除するのが役目。だから貴方には今日と明日休んでいて欲しいのよ。別に昨日の事があったから手伝わせないわけじゃないわ。」
「そう、なんですか?」
「ええ。今私がやっているのだって地上を密室とする術とは全く関係のないことよ。只の薬の開発だもの。兎達が忙しそうなのはてゐがしっかりと命令を出さなかったせいで作業の進行が遅れているのが原因だし。」
そう言いながらフラスコに一つまみ紫色の粉末を入れる。
ポン、と軽い音がして黄緑色だった液体がいつの間にか桃色に変化していた。それを見て永琳がうん、と頷く。
「だから、いま貴方に命じる事はないの。する事が無いなら薬の材料の分別でもしていてくれても良いわ。別に今しなくちゃいけない事じゃないけど。」
「そうなんですか。」
「ええそうなんです。じゃなくて。」
永琳がレイセンの方に向き直る。
「今あなたがしなくちゃいけない事はそれじゃないでしょう?」
「今しなくちゃいけない事ですか。でもさっき師匠はする事は特に無いと……」
レイセンの返事に永琳ははあ、と溜息を付く。
「ウドンゲは何か悩みがあるんでしょう。そんな物を引きずったまま明後日になる方が問題よ。早めに決着をつけてしまいなさい。私が見て無理だと判断したら貴方をはずすかもしれない。それだけは覚えておきなさい。」
「………はい、わかりました。」
「もう、落ち込まないの。私はウドンゲならちゃんと出来るって思ってるんだから。これでもちゃんと貴方の事信頼しているのよ。」
「はい。」
「じゃ無きゃ弟子になんてしようとは思わないわ、分かったわね?」
「はい、失礼します……」
扉を開けた状態のままで立っていたので部屋を出るのは簡単だった。そのまま数歩後ろに下がると、手に持っていた扉のドアも一緒に閉じてゆく。
出来るだけ音を立てないように扉を閉めた。そうしてから、小さく呟く。
「悩み、かぁ。私はどうしたいんだろう?」
自分の内心に問いかけるが、一向に返事が返ってきそうな様子は無かった。
忙としながら視線を空へと向ける。
序々に紅色に染まってゆく空を眺めながら、レイセンは先程師匠に言われた事をずっと頭の中で考えていた。
悩み。自分の悩み。
もちろん自分が何を悩んでいるのかは分かっている。何を考えているのかも分かっている。
要するに、私はまだ月の事が忘れられないのだろう。
あの彼方に浮かぶ月に住んでいた友達や月の民の事が。
だから月と地上との行き来が出来なくなる術が使われる事に抵抗を覚えているのだろう。
「だったら、どうして私は月から逃げたりしたんだろう。」
必死に地上人と戦っている月の兎達を見捨てて。
自分ひとり地上でのほほんと暮らしているのに。
なんで今になって月の事が恋しくなったんだろうか。
「どうしてだろう……」
空を見上げる。
雲ひとつ無い空を。
月が浮かんでいる。
まだ紅い空に。
気が付いたら、またあの草叢に立っていた。
昨日と同じように夜空に浮かぶ月を見上げる。
何も変わらない。
静かに空に浮かんでいる丸い珠。
姫は月には終わりの民が住んでいると言っていた。
何も変わらない。
始まりが無ければ終わりも無い。
無為だと言っていた。。
「私のしてきた事は何だったんだろう?」
自分に問うわけでもなく小さく呟く。
その声は風に乗って誰の耳に届く事も無く消えていった。
何も変わらないのであれば自分が何をしても変わるはずが無い。
例え、あの戦いで自分が死んだ所で何かが変わっていたわけではないのだろう。
ふと思ってしまった。
今自分が死んだらどうなるのだろうかと。
姫は悲しんで下さるのだろうか。
師匠は悲しんでくれるのだろうか。
微かに草を踏みしめる音が後ろから聞こえてくる。それと共に小さな、しかし良く響く声がレイセンの耳に届いた。
「何を泣いているのかしら、イナバ。」
「姫、私は泣いてなど……」
「本当に?」
そう言いながら輝夜がレイセンの前へと回って顔をまじまじと見つめる。
「あら、本当ね。」
そう言いながら輝夜が微笑んだ。
「てっきり私はイナバが泣いていると思ったわ。」
「泣く理由なんてありませんよ。」
「本当に?」
「……はい。」
それを言うのと同時にヒュウ、と音を立てて風が吹く。
草がザザーと擦れ合って大きな音を立てた。
「ねえイナバ。」
「何でしょうか。」
「昨日も聞いたけれど。イナバは月が恋しくないのかしら?」
「………」
その問いは何度も自分の中で考えていた。
だから、答えるべき言葉は分かっている。けれど、それを答えて良いのかどうかがレイセンには分からなかった。
レイセンは黙っていると、輝夜がその頭をそっと撫でた。
「ねえイナバ。貴方は今でも月の仲間を見捨ててきた事を後悔しているんじゃないの?」
「そう、なのかもしれません。」
「じゃあどうして月が恋しいって言わないの?」
「それは……」
黙りこんでしまったレイセンの頭を撫でながら輝夜が優しい笑みでレイセンに語りかける。
「私が月と地上の行き来を阻止しようとしているからかしら。それとも単純に私が月の民の事を嫌っているからかしら?」
レイセンは答えない。
唯、輝夜のみが語り続ける。
「ねえイナバ、私は不死よね。」
答えは無い。
「だったら、私はどうなのかしら。私が死んだ場合、私の肉体が滅びた場合一体何処に蘇るのかしら。」
その問いにレイセンが顔を上げた。問いの真意が分からずに輝夜の目を見てしまう。
「ねえイナバ。私はどっちだと思う?」
「どっち、とは?」
「私は幻想郷の住人。私は月の民。どちらが本当の私なのかしら。」
「仰っている意味が……」
「蓬莱人は魂があるかぎり不死となる。魂が肉体を蘇らせるから。だったら、私はどうなのかしら。月の民にも魂と呼べるものがあると思う?」
「……それは。」
「分からないでしょう、私にも分からない。今私が死ねば月に蘇るのかも知れない。」
「でしたら、何故幻想郷と月との行き来を不可能にしようとするんですか!?」
「どうしてなのかしら。」
そう言って輝夜は言葉を止めた。夜空に浮かぶ月を瞳の中に映す。漆黒の髪が風に吹かれてたなびく。
「ねえイナバ。貴方は仲間を見捨ててきた事を後悔しているのでしょう?」
呟くように輝夜が言った。その瞳は月を映したまま。レイセンの方へ顔を向けようとはしていなかった。
「………はい。」
「そう、だから泣いていたのね、ずっと。」
「………え?」
「自分では気が付いていない。でも、ずっと貴方は泣いていた。私達の所に来たときから。笑っているときも、怒っているときも、喜んでいるときも、悲しんでいるときも。」
「そ、そんな事は。」
「ねえレイセン。貴方はつい最近まで月の事を思い出した事はなかったんじゃないの?」
その言葉にレイセンは俯いた。
確かに、ずっと月の事など忘れていた。
仲の良い友達。優しかった両親。厳しかった主。
そして、ずっと共にあろうと誓った恋人。
「貴方は思い出したくなかったんでしょう、イナバ。月に居た頃の時の事を。自分が月から逃げ出した事をずっと後悔していたのね。」
「そうなの、でしょうか……」
「そうよ、だから貴方は泣いていたの。ねえ、イナバ。貴方は月が恋しいんでしょう?」
輝夜がじっとレイセンの目を見つめる。確信に満ちた言葉でレイセンの心を揺り動かす。
「私が月の民を嫌っているのは私の勝手。貴方がそれに対して気に病む必要は全くないの。だから言って欲しかったのよ。口に出さないと他人には何も伝わらない。自分にすら伝わらない事があるのよ。ねえイナバ、貴方は月が恋しいのかしら?」
自分の目から一滴涙が零れ落ちるのをレイセンは感じた。
そして、次から次へと涙が溢れ出してくる。
心の底に溜まっていた何かが溢れ出して来て全ての心を塗りつぶしてゆく。
「おいで、レイセン。」
そう言って輝夜が手を広げた。
その胸へと飛び込んできたレイセンを優しく包み込む。
「泣けば良いのよ、悲しければ。叫べば良いのよ、嫌な事があれば。」
輝夜の胸の中、涙を流しながらレイセンが小さく呟く。
「私は、月がまだ恋しいです。」
その言葉に輝夜は何も答えなかった。
けれど、レイセンは自分を抱きしめていた腕にさらに力が篭るのを感じた。
「落ち着いたかしら、イナバ。」
レイセンを抱きしめたまま、その耳に小さく呟く。
「御見苦しい所を……」
その言葉に輝夜は楽しそうにふふ、と笑った。
「別にいいのよ。私がそうなるように仕向けたんだから。」
「そうでしたか。ご迷惑をおかけしました。」
「私がこうでもしないとイナバは気づけなかったかしら。」
「どうでしょうか?」
「きっかけがあれば自分で分かったと思う?」
「さあ、どうでしょう。えっと……姫。そろそろ離して頂けると有難いんですが。」
「あら、もう良いの?」
「はい。もう大丈夫です。」
そう言いながら輝夜の腕を抜ける。
「ねえイナバ。私が月との通路を断絶させようとしていることについてどう思っているの?」
「それはどういった質問でしょうか?」
「本心を聞きたいと言うそれだけの事よ。もうそれをする事は決まっているんだから今更言っても栓の無いこと。」
「そうですね、私は失敗してもらいたいと思っています。」
「あら、酷いのねイナバは。私は外に出ない方が良いって言うの?」
「そんな事は言っていませんよ。」
「そんな事を言っているようにしか思えないわ。私が外に出たら月の民に見つかるかもしれないじゃない。だから外に出られるように通路を潰そうとしているのに、それが失敗した方が良いってイナバは言うのね。」
「そんな事言っていませんて。」
「イナバは自分勝手なのね。」
「姫様には負けますよ。」
そう言って二人で笑いあう。
いつの間にかさっきの気持ちは消えていた。
「姫様。どうして今になって月と地上を断絶させようと思ったんですか?」
「そんなのさっき言った通りじゃない。私が外に出たいからよ。」
「本当にそうなんですか?」
「言ったとおりじゃない。それ以外に何があるって言うのよ。」
「私に対して何かをしたかったとかそう言うことはないんですか?」
その問いに対して輝夜は笑った。
「イナバは勘ぐり過ぎよ。私は自分勝手なの。私は自分がしたいと思った事しかやらないし、やりたくない事は絶対にやらない。だから今回の事も自分のためにやっているだけなのよ。」
「そう言う事にしておきますか。」
「だから、違うって言ってるじゃない。」
そう言いながら輝夜は楽しそうに笑った。つられてレイセンも笑みを浮かべる。
「じゃあ私はそろそろあの火の鳥の所に行って来るから。」
「……今からですか。明日には師匠の術を使うというのに。」
「言ったはずよ。私は自分がやりたいことしかやらないの。だから思ったその時にそうするのよ。」
「なんていうか、姫らしい言い草ですね。」
「分かってるじゃない、イナバ。」
そう言って輝夜は竹林へと飛び去っていった。
その後姿をじっとレイセンは見つめる。
そして、ゆっくりと空を見上げた。
天上にある月。
尊い珠。
あそこには今でも月の民と兎が住んでいるのだろうか。
それとも、地上人に滅ぼされてしまって何も残っていないのだろうか。
姫は何故突然今更になって地上と月との通路を塞ごうと考えたのだろう。
何かを感じたのかもしれない。いつもの只の気まぐれかもしれない。
でも確かに自分の事を姫が考えていてくれたのは感じられた。
私は月が恋しい。
ずっとそれを思い出さなかったのは思い出そうとしなかったのではなく、思い出せなかっただけなのだろう。
姫に言われた通りにここに着てからあの場所に居た時の事を思い出した事は無かった。
でも、今は思い出す事が出来る。
私はもう二度と月に帰ることが出来ない。
仲間を見捨てて、大切な相手を見捨てて逃げ出した兎がどうやって月に帰るというのだろう。
今の私の居場所はここにある。
だから、私は姫の様に今を楽しむべきなんだろう。
遠い月を眺める。
距離としても、居場所としても遠い月を。
嘗て暮らしていた場所を。
「さようなら………」
もう二度と帰ることのないであろう場所を。
ずっと、月が沈むまでレイセンは眺めていた。
遠くにある月を。
自分が嘗て暮らしていた月を。
レイセンは一人草原に立っていた。
視線の先にあるのは月。
幻想郷に住む者達全てに影響を与える真実の満月。
風が吹き、草が揺れる。
さわさわという心地よい音が響く。
雲が流れ月を隠す。
少し欠けた満月に照らされていた大地に闇が落ちる。
――――――――――気が付いたら紅い瞳から涙が零れ落ちていた。
「あら、イナバじゃない。こんな時間、こんな所で何をやっているの?」
いつの間にか輝夜がすぐ傍に立っていた。
あわてて目元を擦り涙の跡を拭き取る。
「特に何もありません、月を眺めていただけですから。」
その答えに輝夜はそう、と返事をしただけだった。
「月、ねえ。イナバは月が恋しいの?」
「どうなのでしょう、私には良く分かりません。私は月で生まれ月で育ち月で戦ってきました。ですからあそこから逃げ出した今となってもたまに思い出すのです。あそこに居た時の事を。」
「へえ、私にはその気持ちは良く分からないわね。」
そう言って輝夜も視線を月へと向ける。
「私もイナバと同じようにずっと月で生きてきた。でも、私はあそこに居た時の事を思い出したいとは思わない。あそこには何もなかった。月に住むのは永遠の民。始まりも無ければ終わりも無い。ずっと無為に時を過ごす者が住む終わりの都。」
輝夜は視線を落としレイセンに背を向ける。
「ねえイナバ。貴方は月に戻りたいのかしら。」
その問いにレイセンはどう答えて良いのか分からずに黙り込むだけだった。
「あれれ、レイセン何時戻ったの?」
「さっき戻ったばかり。何か用でもあった?」
「ううん、別にないよ。只単に何処に行ってたのかなーって思っただけだし。」
そう言っててゐは耳をぴこぴこと動かしながらレイセンに近寄ってきた。
「あれ、涙の跡。泣いてたの?」
「あくびをしたら涙が流れただけ。別になんでもないわ。」
「そうなんだ、ならいいんだけどね。」
そう言っててゐがくるっとその場で一回転する。
「ああそうだ、てゐ。ちょっと聞きたいんだけど……」
「なあに?」
てゐが軽く首を傾げる。その無邪気な表情をみてレイセンは聞くべきなのかどうか迷ってしまう。
「ごめん、なんでもない。」
「じゃあまた今度聞きたくなったら聞いてね~」
そう言っててゐは軽く跳ねながらレイセンの横を通り過ぎて通路の先へと曲がって行く。その後姿を見送ってレイセンはそのまま通路の先にある永琳の研究室へと歩を進めていった。
「もう、これじゃないわよ。これで何回目かしら。今日は何か集中力無いわね。」
「も、申し訳ありません師匠。」
粉にされた薬草が入っている薬瓶を振りながら永琳が呆れたような表情で小さくため息をつきながらレイセンの顔を見つめる。
「今日の手伝いはもういいわ、これなら一人でやった方が早そうだし。」
「……はい。」
「何だか良く分からないけど。何か言いたい事があるなら早めに言った方が良いわよ。決行はもうすぐなんだし、そんな気もそぞろなままで事にあたられるのなんて迷惑以外の何物でも無いんだから。」
それだけ言うと永琳はあっさりとレイセンから視線を放し、薬瓶が置かれた棚へと向かって行った。
レイセンは自分の師匠のその後姿を眺めながら情けなさで大きく息を吐きながら肩を落とした。
後ろ手で研究室の扉を閉めながら、自分はどうしたいのだろうとレイセンは考える。
月は自分が生まれた場所。
姫の命によって間もなく地上と月の行き来が出来ないようになる。
その事について悩むのは変な事なのだろうか。
自分の意思で故郷を捨てた私が悩むのは変な事なんだろうか。
姫は月が恋しくないと仰っていた。
私はもう月へと戻る気はない。
戻る事は出来ない。
仲間を見捨てて逃げ出した私がどうして月へと戻れるというのだろう。
「あれれ、レイセン永琳様の手伝いじゃなかったの?」
「う。ちょっと……」
「追い出されたんだよね、ちゃんと私聞いてたよ。」
そう言っててゐがくすくすとおかしそうに笑う。
「追い出された理由ってさ。さっき聞こうとしたことに関係があるの?」
「……まあ、そうなのかな。」
そう言いながらレイセンは庭へと出た。漆黒の夜空に浮かぶ満月を眺める。
まあるい、まあるい。
尊い。尊い。
月の民が、住んでいる場所。
―――――――――住んでいる、場所?
「あれ、レイセンなんだか顔色悪い気がするよ?」
「あ、ああ。なんでも無いよ。気にしないで……」
「そう。それなら良いんだけど―――って、何でも無いって明らかに無理してる言い方だね。顔色が悪いっての否定してないしさー」
本当に大丈夫~?とてゐが聞いてくるが、その問いに対して大丈夫とだけレイセンは言葉を返した。
「なんでもないの、ちょっと思っちゃっただけ。」
「何を―――って言いたくない事?」
「ん……ごめん。」
「そっか。やっぱり地上と月との通路を封じる事に関係するんだねー」
「分かる?」
「そりゃあねぇ。」
今のレイセンが悩みそうな事なんてそれぐらいしかないじゃない、とてゐが笑いながら答えた。
「ねえ、レイセン。やっぱり故郷に戻りたいって思う事あるの?」
故郷に戻りたい、かぁ……
さっきてゐに言われた事が頭の中をぐるぐると回っていた。
姫の命で師匠は地上と月とを結ぶ通路を塞ごうとしている。それが終われば地上と月の交流は完全に途絶える事となるのだろう。それが終わればもう二度と私の様な存在が来る事は無くなる。いや、それ以前に―――
夢を見た。
自分が戦っている夢を。
殺し合いをしている夢を。
私の目の前で地上人が兎達を殺していた。
私の目の前で兎達が地上人を殺していた。
私の目の前で地上人が月の民を殺していた。
私の目の前で月の民が地上人を殺していた。
月が紅く染まる。
兎の血で。
地上人の血で。
月の民の血で。
まるで私の瞳の様に。
諍いは止め処なく続く。
際限無き殺し合い。
侵略をしている地上人は止まる筈も無い。
ここまで来て何の成果も上げずに帰るわけにはいかないから。
月の民達も兎達も止まる筈がない。
自らの住処を荒らされて黙っている者達はいないから。
だから、どちらも止まらない。
全滅するまで、皆殺しにするまで、皆殺しにされるまで戦い続ける。
私の目の前で際限なく続けられる殺し合い。
久遠と言う名の。
「ふむ、レイセンさんは相変わらず心穏やかで無い様ですな?」
気が付いたらてゐが枕元で変な言葉を呟いていた。全身が寝汗で濡れていて気持ちが悪かった。良く覚えては居ないが、嫌な夢を見ていた気がする。
「あ、おはようてゐ。」
「おはようじゃ無いってば、まだ夜中。レイセンがうなされるなんて久しぶりだね、ここに転がり込んできたとき以来じゃないかな?」
「そう、かな。」
ほぅ、と大きく息を吐いて寝汗を枕元に置いてあったタオルで拭き取る。
「レイセンが変だとからかい甲斐が無いじゃない。早く元に戻って欲しいんだけどなぁ」
「うーん。私としてはてゐにからかわれない方がいいかな。」
そう言ってレイセンは微笑もうとしたが、結局寂しそうな笑みを浮かべる事しか出来なかった。その表情を見ててゐが自分の顔をレイセンの顔の近くへと寄せてくる。耳と耳が触れ合って少しくすぐったかった。
「冗談言ってるのになんだか苦しそうに見えるよ。本当に大丈夫なの?」
「大丈夫、問題なんて無いって。てゐが神経質なだけだとおもう。」
「私が神経質って何なのよー」
まるで私が心配性みたいじゃない、と言いながらてゐは頬を膨らませた様な表情を見せていたが視線はレイセンから離そうとしなかった。
「てゐは心配しすぎ。夢なんて自分じゃどうしようもないんだし。」
「それだけじゃないとおもうけどね、まあいっか。レイセンがそう言うんだから私が関わるべき事じゃないんだよね。じゃあ私そろそろ寝るね、また明日も準備で忙しいらしいんだから早く寝ないと。もううなされないでね、気になって眠れなくなっちゃうんだから。」
そう言いながら、てゐはおおきくあくびをしながらゆっくりと去っていった。耳が何となく私の方を向いている気がするのはご愛嬌といった所だろうか。
「なんにしても、もう明後日か……」
誰に言うでもなく小さく呟く。
何となく今の呟きがてゐに聞こえていなければいいな、と思った。
「あら、遅かったわね。体調でも悪いの?」
「そんな事はありません師匠。只寝付けなかっただけですから。」
「何だか貴方昨日から何だか変よ。一度診てあげましょうか?」
「大丈夫です、お気遣い無く……」
そう言いながらレイセンはちゃぶ台の前に移動する。既に輝夜もてゐも座っているのですぐに朝食が始まる。いつもであれば輝夜が最後に来てから食事が始まるのだけれど、自分が起きるのが遅くなってしまったので起きてくるのを待っていたらしい。
遅くなりました、と二人に一礼をしてから座布団の上に正座をする。兎達が料理を運んで来るのでそれを受け取り、並べる。
全てがそろった所で永琳が座り、朝食が始まった。
他愛の無い話をてゐがして輝夜がそれに乗って笑いを取る。輝夜が変な事を言うと永琳の的確で容赦のない突込みがくる。いつもであればレイセンもこの話に加わって思った事を言うのだけれど、今日はそんな気にはなれなかった。
そして、レイセンが一言も喋らないうちに朝餉は終わった。
「あれ、レイセンって今日仕事無いの?」
朝餉が終わり竹林の中を何をするでもなく歩いていると不意に後ろから声がかけられたので、声がした方へと振り向く。
前日なのに暇そうだね~と言いながらてゐがレイセンの傍まで駆け寄ってくる。様々な野草が入った籠を背負っているのを見て、恐らく師匠が用意している薬の材料の調達をしていたんだろうと判断する。
「えっと……」
「また追い出されたんだ?」
「いや、今日は何も頼まれていないだけだから。」
「それって要するに今のレイセンには仕事を任せられないって言われてるのと同じじゃないの?」
「痛いところを突くね。まあそうなんだろうけど。」
そう言ってレイセンははぁ、と今日何度目かも分からない溜息を付いた。
「暇だったら仕事手伝ってもらえると嬉しいんだけどな。悩み事があったら何かに集中している方が気がまぎれるかもしれないし。何も考えずに体を動かしているだけでもその間だけは楽になるよ、考えても仕方がないことが頭の中にあるときにはね。」
そのてゐの提案にレイセンはそうなのかもしれない、と心中で頷く。確かに朝から何もしておらずずっと考え事をしながら竹林の中を何処へ行くとでもなく歩いていた。様々な事が頭に浮かび、そしてそれはすぐに潰える事の繰り返し。
「じゃあそうさせてもらおうかな。」
「うん。じゃあとりあえずこの籠持って付いてきてくれると嬉しいな。」
てゐが背中に背負っていた籠をレイセンに渡す。次の瞬間には、てゐが文字通り脱兎のごとく走り去っていくのを見てふと思う。
(……手伝いじゃ?)
そう思った途端、籠が爆発した。
「………てゐめ。」
粉塵がもくもくと辺りにたちこめる。
視界がはっきりしてきた頃に辺りを見回すが、もちろんどこにも見当たらない。小麦粉塗れになって真っ白に染まった自分の服を見てさっきまでとは少し種類の違った溜息を付く。
「もうちょっと違った励まし方はないのかなあ、あいつは。」
こんな忙しい日にわざわざ自分をからかうためだけにこの準備をするというのはてゐにとって大変だったのではないだろうか、とレイセンはふと思った。
トントンとドアを数回叩き、失礼しますと声を出してから扉を開ける。中では永琳が薄い黄緑色の液体が入ったフラスコを目の高さに持ち上げて、それを軽く揺らしながら眺めている所だった。
「師匠、今日私の仕事はないんですか?」
「ないわよ。」
にべもない返事。やっぱり昨日の事が尾を引いているのではないかとレイセンがそこまで考えた所で永琳の声がした。
「勘違いしないでね。明日の貴方の仕事は外敵の排除。私が術を使うまでの間ずっと襲ってくる全てを排除するのが役目。だから貴方には今日と明日休んでいて欲しいのよ。別に昨日の事があったから手伝わせないわけじゃないわ。」
「そう、なんですか?」
「ええ。今私がやっているのだって地上を密室とする術とは全く関係のないことよ。只の薬の開発だもの。兎達が忙しそうなのはてゐがしっかりと命令を出さなかったせいで作業の進行が遅れているのが原因だし。」
そう言いながらフラスコに一つまみ紫色の粉末を入れる。
ポン、と軽い音がして黄緑色だった液体がいつの間にか桃色に変化していた。それを見て永琳がうん、と頷く。
「だから、いま貴方に命じる事はないの。する事が無いなら薬の材料の分別でもしていてくれても良いわ。別に今しなくちゃいけない事じゃないけど。」
「そうなんですか。」
「ええそうなんです。じゃなくて。」
永琳がレイセンの方に向き直る。
「今あなたがしなくちゃいけない事はそれじゃないでしょう?」
「今しなくちゃいけない事ですか。でもさっき師匠はする事は特に無いと……」
レイセンの返事に永琳ははあ、と溜息を付く。
「ウドンゲは何か悩みがあるんでしょう。そんな物を引きずったまま明後日になる方が問題よ。早めに決着をつけてしまいなさい。私が見て無理だと判断したら貴方をはずすかもしれない。それだけは覚えておきなさい。」
「………はい、わかりました。」
「もう、落ち込まないの。私はウドンゲならちゃんと出来るって思ってるんだから。これでもちゃんと貴方の事信頼しているのよ。」
「はい。」
「じゃ無きゃ弟子になんてしようとは思わないわ、分かったわね?」
「はい、失礼します……」
扉を開けた状態のままで立っていたので部屋を出るのは簡単だった。そのまま数歩後ろに下がると、手に持っていた扉のドアも一緒に閉じてゆく。
出来るだけ音を立てないように扉を閉めた。そうしてから、小さく呟く。
「悩み、かぁ。私はどうしたいんだろう?」
自分の内心に問いかけるが、一向に返事が返ってきそうな様子は無かった。
忙としながら視線を空へと向ける。
序々に紅色に染まってゆく空を眺めながら、レイセンは先程師匠に言われた事をずっと頭の中で考えていた。
悩み。自分の悩み。
もちろん自分が何を悩んでいるのかは分かっている。何を考えているのかも分かっている。
要するに、私はまだ月の事が忘れられないのだろう。
あの彼方に浮かぶ月に住んでいた友達や月の民の事が。
だから月と地上との行き来が出来なくなる術が使われる事に抵抗を覚えているのだろう。
「だったら、どうして私は月から逃げたりしたんだろう。」
必死に地上人と戦っている月の兎達を見捨てて。
自分ひとり地上でのほほんと暮らしているのに。
なんで今になって月の事が恋しくなったんだろうか。
「どうしてだろう……」
空を見上げる。
雲ひとつ無い空を。
月が浮かんでいる。
まだ紅い空に。
気が付いたら、またあの草叢に立っていた。
昨日と同じように夜空に浮かぶ月を見上げる。
何も変わらない。
静かに空に浮かんでいる丸い珠。
姫は月には終わりの民が住んでいると言っていた。
何も変わらない。
始まりが無ければ終わりも無い。
無為だと言っていた。。
「私のしてきた事は何だったんだろう?」
自分に問うわけでもなく小さく呟く。
その声は風に乗って誰の耳に届く事も無く消えていった。
何も変わらないのであれば自分が何をしても変わるはずが無い。
例え、あの戦いで自分が死んだ所で何かが変わっていたわけではないのだろう。
ふと思ってしまった。
今自分が死んだらどうなるのだろうかと。
姫は悲しんで下さるのだろうか。
師匠は悲しんでくれるのだろうか。
微かに草を踏みしめる音が後ろから聞こえてくる。それと共に小さな、しかし良く響く声がレイセンの耳に届いた。
「何を泣いているのかしら、イナバ。」
「姫、私は泣いてなど……」
「本当に?」
そう言いながら輝夜がレイセンの前へと回って顔をまじまじと見つめる。
「あら、本当ね。」
そう言いながら輝夜が微笑んだ。
「てっきり私はイナバが泣いていると思ったわ。」
「泣く理由なんてありませんよ。」
「本当に?」
「……はい。」
それを言うのと同時にヒュウ、と音を立てて風が吹く。
草がザザーと擦れ合って大きな音を立てた。
「ねえイナバ。」
「何でしょうか。」
「昨日も聞いたけれど。イナバは月が恋しくないのかしら?」
「………」
その問いは何度も自分の中で考えていた。
だから、答えるべき言葉は分かっている。けれど、それを答えて良いのかどうかがレイセンには分からなかった。
レイセンは黙っていると、輝夜がその頭をそっと撫でた。
「ねえイナバ。貴方は今でも月の仲間を見捨ててきた事を後悔しているんじゃないの?」
「そう、なのかもしれません。」
「じゃあどうして月が恋しいって言わないの?」
「それは……」
黙りこんでしまったレイセンの頭を撫でながら輝夜が優しい笑みでレイセンに語りかける。
「私が月と地上の行き来を阻止しようとしているからかしら。それとも単純に私が月の民の事を嫌っているからかしら?」
レイセンは答えない。
唯、輝夜のみが語り続ける。
「ねえイナバ、私は不死よね。」
答えは無い。
「だったら、私はどうなのかしら。私が死んだ場合、私の肉体が滅びた場合一体何処に蘇るのかしら。」
その問いにレイセンが顔を上げた。問いの真意が分からずに輝夜の目を見てしまう。
「ねえイナバ。私はどっちだと思う?」
「どっち、とは?」
「私は幻想郷の住人。私は月の民。どちらが本当の私なのかしら。」
「仰っている意味が……」
「蓬莱人は魂があるかぎり不死となる。魂が肉体を蘇らせるから。だったら、私はどうなのかしら。月の民にも魂と呼べるものがあると思う?」
「……それは。」
「分からないでしょう、私にも分からない。今私が死ねば月に蘇るのかも知れない。」
「でしたら、何故幻想郷と月との行き来を不可能にしようとするんですか!?」
「どうしてなのかしら。」
そう言って輝夜は言葉を止めた。夜空に浮かぶ月を瞳の中に映す。漆黒の髪が風に吹かれてたなびく。
「ねえイナバ。貴方は仲間を見捨ててきた事を後悔しているのでしょう?」
呟くように輝夜が言った。その瞳は月を映したまま。レイセンの方へ顔を向けようとはしていなかった。
「………はい。」
「そう、だから泣いていたのね、ずっと。」
「………え?」
「自分では気が付いていない。でも、ずっと貴方は泣いていた。私達の所に来たときから。笑っているときも、怒っているときも、喜んでいるときも、悲しんでいるときも。」
「そ、そんな事は。」
「ねえレイセン。貴方はつい最近まで月の事を思い出した事はなかったんじゃないの?」
その言葉にレイセンは俯いた。
確かに、ずっと月の事など忘れていた。
仲の良い友達。優しかった両親。厳しかった主。
そして、ずっと共にあろうと誓った恋人。
「貴方は思い出したくなかったんでしょう、イナバ。月に居た頃の時の事を。自分が月から逃げ出した事をずっと後悔していたのね。」
「そうなの、でしょうか……」
「そうよ、だから貴方は泣いていたの。ねえ、イナバ。貴方は月が恋しいんでしょう?」
輝夜がじっとレイセンの目を見つめる。確信に満ちた言葉でレイセンの心を揺り動かす。
「私が月の民を嫌っているのは私の勝手。貴方がそれに対して気に病む必要は全くないの。だから言って欲しかったのよ。口に出さないと他人には何も伝わらない。自分にすら伝わらない事があるのよ。ねえイナバ、貴方は月が恋しいのかしら?」
自分の目から一滴涙が零れ落ちるのをレイセンは感じた。
そして、次から次へと涙が溢れ出してくる。
心の底に溜まっていた何かが溢れ出して来て全ての心を塗りつぶしてゆく。
「おいで、レイセン。」
そう言って輝夜が手を広げた。
その胸へと飛び込んできたレイセンを優しく包み込む。
「泣けば良いのよ、悲しければ。叫べば良いのよ、嫌な事があれば。」
輝夜の胸の中、涙を流しながらレイセンが小さく呟く。
「私は、月がまだ恋しいです。」
その言葉に輝夜は何も答えなかった。
けれど、レイセンは自分を抱きしめていた腕にさらに力が篭るのを感じた。
「落ち着いたかしら、イナバ。」
レイセンを抱きしめたまま、その耳に小さく呟く。
「御見苦しい所を……」
その言葉に輝夜は楽しそうにふふ、と笑った。
「別にいいのよ。私がそうなるように仕向けたんだから。」
「そうでしたか。ご迷惑をおかけしました。」
「私がこうでもしないとイナバは気づけなかったかしら。」
「どうでしょうか?」
「きっかけがあれば自分で分かったと思う?」
「さあ、どうでしょう。えっと……姫。そろそろ離して頂けると有難いんですが。」
「あら、もう良いの?」
「はい。もう大丈夫です。」
そう言いながら輝夜の腕を抜ける。
「ねえイナバ。私が月との通路を断絶させようとしていることについてどう思っているの?」
「それはどういった質問でしょうか?」
「本心を聞きたいと言うそれだけの事よ。もうそれをする事は決まっているんだから今更言っても栓の無いこと。」
「そうですね、私は失敗してもらいたいと思っています。」
「あら、酷いのねイナバは。私は外に出ない方が良いって言うの?」
「そんな事は言っていませんよ。」
「そんな事を言っているようにしか思えないわ。私が外に出たら月の民に見つかるかもしれないじゃない。だから外に出られるように通路を潰そうとしているのに、それが失敗した方が良いってイナバは言うのね。」
「そんな事言っていませんて。」
「イナバは自分勝手なのね。」
「姫様には負けますよ。」
そう言って二人で笑いあう。
いつの間にかさっきの気持ちは消えていた。
「姫様。どうして今になって月と地上を断絶させようと思ったんですか?」
「そんなのさっき言った通りじゃない。私が外に出たいからよ。」
「本当にそうなんですか?」
「言ったとおりじゃない。それ以外に何があるって言うのよ。」
「私に対して何かをしたかったとかそう言うことはないんですか?」
その問いに対して輝夜は笑った。
「イナバは勘ぐり過ぎよ。私は自分勝手なの。私は自分がしたいと思った事しかやらないし、やりたくない事は絶対にやらない。だから今回の事も自分のためにやっているだけなのよ。」
「そう言う事にしておきますか。」
「だから、違うって言ってるじゃない。」
そう言いながら輝夜は楽しそうに笑った。つられてレイセンも笑みを浮かべる。
「じゃあ私はそろそろあの火の鳥の所に行って来るから。」
「……今からですか。明日には師匠の術を使うというのに。」
「言ったはずよ。私は自分がやりたいことしかやらないの。だから思ったその時にそうするのよ。」
「なんていうか、姫らしい言い草ですね。」
「分かってるじゃない、イナバ。」
そう言って輝夜は竹林へと飛び去っていった。
その後姿をじっとレイセンは見つめる。
そして、ゆっくりと空を見上げた。
天上にある月。
尊い珠。
あそこには今でも月の民と兎が住んでいるのだろうか。
それとも、地上人に滅ぼされてしまって何も残っていないのだろうか。
姫は何故突然今更になって地上と月との通路を塞ごうと考えたのだろう。
何かを感じたのかもしれない。いつもの只の気まぐれかもしれない。
でも確かに自分の事を姫が考えていてくれたのは感じられた。
私は月が恋しい。
ずっとそれを思い出さなかったのは思い出そうとしなかったのではなく、思い出せなかっただけなのだろう。
姫に言われた通りにここに着てからあの場所に居た時の事を思い出した事は無かった。
でも、今は思い出す事が出来る。
私はもう二度と月に帰ることが出来ない。
仲間を見捨てて、大切な相手を見捨てて逃げ出した兎がどうやって月に帰るというのだろう。
今の私の居場所はここにある。
だから、私は姫の様に今を楽しむべきなんだろう。
遠い月を眺める。
距離としても、居場所としても遠い月を。
嘗て暮らしていた場所を。
「さようなら………」
もう二度と帰ることのないであろう場所を。
ずっと、月が沈むまでレイセンは眺めていた。