事の起こりは、廊下を回転する妹姫を魔女が発見したことだった。
「……何してるのよ、フラン」
パチュリーは足下にいる彼女に声をかける。
「たーいーくーつー」
再びごろごろと転げ回るフランドール。
はあ、とパチュリーはため息をつく。せっかくの綺麗な金髪が台無しね、とどうでもいいことに気が回る。
「だったら本でも読んだらどう?」
「じっとしてるの、ヤダ」
「だったら――」
パチュリーは言葉を止める。このまま話を進めれば、弾幕ごっこに付き合わされるか館の某所で破壊活動を容認するか。どちらに転んでもあまりいい結果にはなりそうになかった。
「……お外に遊びにいきたい」
彼女の内心を知ってか知らずか、妹姫は簡素な要望を口にする。
「外は日差しがかんかん照りよ」
「それでもいい、退屈よりマシ」
これはテコでも動きそうにないわね、とパチュリーは考えた。厄介な性質に限ってこの妹は姉に似ている。
レミリアは出かけているので、外出許可を出すならそれはパチュリーの仕事であった。もしも彼女に無断で出かけようとすれば、即座に雨乞いの魔法が紅魔館を取り囲むように展開されることになる。
しかし、一度解き放てばどんな惨状を繰り広げてくれるか予想もつかない破壊の姫をそうやすやすと外に出すわけにはいかなかった。今でこそおとなしくしているが、本来なら地下での幽閉生活が今も続いていたはずである。それが事実上取りやめになったのは、彼女があの人間たちに負けてからのことだ。
「えーと、こういうときの対処方法はと」
載ってないだろうなと思いながらも、パチュリーは手持ちの魔法書を習慣で開いた。適当な頁を起点にぱらぱらとめくり、該当しそうにないとわかるとまた別の頁を起点に情報を検索する。
ふと、ある単語がパチュリーの視界に飛び込んできた。行き過ぎた手を止めると、その頁を開き直す。
“力の封印”。それがキーワードだった。
「……ま、やるだけやってみるか」
パチュリーはフランドールを連れて自分の実験室にやってきた。
外からの光は、窓を覆い隠す特殊な加工を施した暗幕によって完全に吸収されている。代わりに燭台型の魔法光が内部をわずかに照らす。
客人を適当に椅子に座らせると、瓶詰めのサンプルが並んだ硝子棚を開く。液体漬けになった器官や小動物を無視して、パチュリーは奥の方から空の瓶を取り出した。
否、空ではない。よくよく見れば青い気体が、ほんの少しだけ空気と色の違う物体が、瓶の中を満たしていた。
「それ、なあに?」
フランドールが物珍しそうに瓶を見つめる。
そういえばこの部屋に連れてきたのははじめてだったかな、とパチュリーは思った。
「人間の霊魂よ。この間咲夜が冥界から持ち帰ってきたやつ」
咲夜が料理の材料にすると言っていたそれを、パチュリーは趣味と実験を名目にいくつか分けて貰っていた。
「それをどうするの?」
彼女は、これから行う魔法について説明した。
それは変身魔法の一種で、他者の霊魂を一時的に取り込むことによりその者の性質を得られるというものであった。
「簡単にいうと、この魔法を使えば一時的に人間になれるの」
「……人間に?」
「そう。破壊の能力を持たない、ただの人間に」
しかし、口ではそういいながらもあまり期待してはいなかった。破壊に特化されたフランドールの魔力は、純粋な力だけでいうならパチュリーやレミリアのそれを上回る。今までにも何度かその力を封印する魔法を試してみたことはあるが、それらはことごとく失敗していた。
「それで構わない? フラン」
「うん」
フランドールは即答した。
「気兼ねなく遊べるんだったら、なんだって構わないわ」
「よし。じゃ、この中身を飲んで」
瓶を受け取ると、彼女は空気のような中身を吸い込むようにして一気に飲み干した。
同時にパチュリーは素早く魔法書の呪文を唱える。素早くも規則正しい音律が実験室を支配する。
詠唱が終わった瞬間、まばゆい光がフランドールを覆った。たまらず目をかばう。
光は二三秒の間部屋の中を支配すると、急速に収束していった。
ゆっくりと目を開く。目の前にフランドールはいなかった。
いたのは、黒い髪をした小さな男の子だった。面差しはどことなく残っていたが、その背にあの赤青緑と鮮やかな色合いを誇った羽はない。
あの霊魂は男の子だったのかと、どうでもいい感想をパチュリーは抱いた。
フランドールは、しばし自分の両の手を見つめた後、硝子棚の方を見た。反射した自分の姿を確認したのか、おおーっと大げさに驚いている。
「やった! やった! 成功よね、パチュリー!」
体が変わったせいか、声の色まで変わっていた。それに戸惑いながらもパチュリーが頷くと、フランドールはきゃっほーいと叫びながら部屋を飛び出していった。
呆気にとられたのち、パチュリーは叫ぶ。
「まだ出かけていいって言ってないわよ!?」
フランドールは全速力で正面玄関を飛び出した。
体はすこぶる快調だった。足で軽くステップを踏み、右に左に回転しながら踊る。羽がなくなったせいで空が飛べなくなっていたが、二本の足で駆け回るのは嫌いではない。むしろ好きである。
空を見上げた。太陽がさんさんと輝いている。
きゃっと悲鳴を上げて、一歩下がった。
あるはずの痛みがないことに違和感を覚える。おそるおそる、再び一歩を踏み出してみる。
肌を陽光が焼くが、やはり痛みはない。人間に変身したことで、彼女の肉体は吸血鬼の弱点を克服していた。
「すごいすごいすごーい!」
大喜びで駆け回った。
姉の顔を思い浮かべる。この快感をお姉様は味わったことがないはずだ。彼女は優越感に浸った。お姉様が神社から戻ってきたらうんと自慢してやろう。
さてこれからどうしようかと、ここに至ってフランドールは悩んだ。外に出ることばかり考えて、行き先を考えていなかった。
あの人間の魔法使いの顔を浮かべる。霧雨魔理沙。私をはじめて負かした人間。彼女の家に遊びに行ってみようと一秒で決めた。
走り出そうとして、足を止める。
目前には、紅魔館を取り囲む大きな湖が広がっていた。
どうやってこの湖を越えよう。人間の身でも浮遊魔法なら使えるかもしれないが、生まれてこのかたその類の魔法を習ったことはなかった。
周りを見渡してみるが、橋もなければ船もない。当たり前の話であるが。
いっそ泳いで渡るかと考えてみる。太陽が平気なのだから水も平気のはずだ。湖の岸辺に近づくと、右手を水につけてみる。
冷たい。夏にはまだ早かった。
顔を上げると、向こう岸が見えないものかと目を凝らしてみる。湖上には薄い霧がかかっており、先がどうなっているかよくわからなかった。
無鉄砲だと自覚しているとはいえ、この状況で泳いでみる気にはなれなかった。もう一度周囲を見渡してみる。
見知った顔を見つけた。石を積み重ねて作られた柱の陰にいる彼女に声をかける。
「おーい、メイリーン!」
呼ばれて中華風の装束を着た美鈴は振り返った。怪訝な表情でフランドールを見る。
「……何者!?」
美鈴は拳法の構えを取る。
フランドールは予想外の反応に一瞬呆気にとられたが、すぐに自分の姿がどうなっているかを思い出した。
「ああごめんごめん、私よ、フランドール」
「……妹様!?」
「そ。パチュリーの魔法で人間に変身してるの」
説明をしたものの、美鈴は戦闘態勢を解かない。
「私のいうことが信じられないってわけ?」
面白い。生まれて初めて美鈴が反抗的な態度を取るところを見て、フランドールは笑った。
美鈴の肩がびくっと震えた。
姿形は変わっても、何一つ恐れるところのない無邪気で底の見えない笑みは変わらなかった。
美鈴はゆっくりと構えを解く。頬から汗が一筋垂れた。
「……どうやら、本当に妹様のようですね」
「わかればいいわ。で、ものは相談なんだけど」
美鈴に運ばれて、フランドールは湖の向こうに存在する大地に第一歩を踏み出した。
一歩は即座に二歩三歩となり、美鈴に礼を言うのも忘れて童の容姿の妹姫は駆け出した。
走った。走った。とにかく走り回った。もはや障害は何もない。風を切り、草原を駆け抜け、森を、山を、谷を、足がもつれて転ぶまで走り続けた。
どかっと大の字になって横たわる。胸は上下に大きく揺れ全身から汗が湧き出る。
普段の破壊行為では決して得られない、限界まで力を注ぎ込める感触がなにより嬉しかった。こんな快感は――そう、あのときの弾幕ごっこ以来。
ここに来て魔理沙のことを思い出す。そうだ、彼女の家に遊びに行こうとしていたのだ。
上半身を起こし、空を仰いだところで、重大な事実に思い当たる。
「魔理沙の家って……どこだろう?」
きょろきょろと周囲を見渡してみるが、それで見つかるほど世の中甘くない。見えるのは木々や森や小高い丘やら、人工物の影はこれっぽっちも見あたらない。
一度紅魔館に戻ってみようか。パチュリーなら場所を知っているだろうから。
フランドールは立ち上がると、紅魔館に帰ろうとして。
もう一つ、重要な事実を思い出す。
「ここ……どこ?」
もう一度あたりを見回してみるが、知った場所はかけらも見つからなかった。紅魔館から出たことがないのだから当たり前の話であるが。
フランドールは丘に向かった。湖だ。それを目印にすれば帰れるはず。
勢いをつけて駆け上がり、頂点に立って見渡せば、はるか森の向こうに湖を見つけることができた。
今日のところは、いったん帰ろう。時間はまだまだあるのだから。
丘から駆け下りると、まっすぐ湖へ向かうために森へ足を踏み入れた。
日が暮れた。
ただでさえ生い茂る葉に覆い隠されている森は、太陽という光源を失って暗闇へと姿を変えた。
フランドールは歩きで木々の狭間をひたすら行く。
聞こえるのは夜行性の獣や鳥の鳴き声に、あとは彼女が踏みしめる枯れ葉や小枝の音ばかり。人や妖怪の気配はどこにもない。
とっくに森を抜けてもいい頃なのに――彼女は迷子になったという事実を拒んでいた。そうでないと、どうしていいかわからなかったから。
「……お腹空いたな」
紅魔館では、咲夜が晩ご飯の準備を終えた頃だろうか。今日の献立はいったい何だろう。
そこまで考えて頭を振る。空腹感が増すばかりだった。
疲れた。その場にどっかりと腰を下ろす。落ち葉が刺さってちょっと痛かったが気にしなかった。
今日何度目になるか、空を見上げてみた。星と月は森に隠され、あるのはただの闇ばかり。
自分の幽閉場所とどちらが暗いだろうか――そんな疑問に彼女はかられた。
ここには蝋燭も魔法の灯りもない。しかし、ここには音がある。臭いがある。自分以外の命の気配があった。だから、ここの方が明るいと思った。そしてもうあの場所には戻りたくないとも。
ふと、フランドールは視界に違和感を覚えた。
なんだろう。あるのはただの闇ばかりだ。特に変化は何も――いや、違った。
闇が深くなっている。見えたはずの木の影が消え、純粋な闇が空間を支配していた。
何かがいる。
「……きゃああああっ!」
突如響き渡る悲鳴。
彼女は心臓が跳ね上がるほど驚いた。なぜなら、その声は彼女の口から発せられたから。
勝手に体が動いた。両の手を地面に勢いよくつけて立ち上がると、地面を蹴った。
混乱した。いったい自分は何をしているのだろうか。
再び叫び声が聞こえた。今度は音ではない。心の中で、あれから逃げろと声にならない声で誰かが叫んでいた。
戸惑った。それは彼女にとってもっとも縁遠い感情であった。逃げる? 誰が? 私が?
心が体についていかなかった。走り出そうとして、足がもつれた。転ぶ。とっさに地面に手をつける。顔を上げる。
さっき見た闇が目の前にいた。その空間のうちに唯一光る、紅い双眸と目が合う。
(食べられる……!)
彼女はそう理解した。なぜならその色は、彼女がよく知る者の目。妖怪が獲物を食らうときに放つ光。
瞬間、彼女の魂の半分が絶叫した。
(やだ、ぼくまだ死にたくないよ……!)
逃げないと。もう一度立ち上がって、目の前の化け物から。
不意に紅が視界から消えた。一拍遅れて、鋭い痛みが走る。
右下を見れば、紅があった。輝く紅色の目に、流れ落ちる真紅の液体。犬歯が彼女の右肩に突き立てられていた。
興奮した吐息が血にまみれた肉に吹きかかる。化け物は、彼女の血肉の味に歓喜していた。痛みがより深く右半身に襲いかかる。
頭痛がした。魂が頭を左右に激しく揺さぶる。
痛覚が全身に及んだ。五体の肉が食いちぎられ、関節があらぬ方向にへし折られ、吸い出される血が熱を奪う。容赦のない痛みが死の気配が確実に訪れつつあることを宣告する。
おかしい――目の前の状況とは異なる感覚を疑問に思った。気を確かに持ってよく見れば、妖怪は右肩にかぶりついているだけだ。それ以外は無傷である。
ならばこの痛みは何なのか。悲鳴をあげているのは誰なのか。
私ではないもの。知らない感情。感じたことのない経験。
ここに至ってフランドールは、ようやくそれの正体に思い当たった。
人間になるために飲み込んだ、あの魂。この痛みと恐怖の記憶は彼のものか。
理解をすると、頭の半分が急速に冴え渡ってきた。そして、腹が立った。
この記憶は、彼が死んだときのものか。死を前にして泣くばかり。抵抗らしいことを何もせずに、単に食べられるだけの人間。
二人は現在魂を共有している。それでいてなお彼女には解らなかった。嫌なことをされているのに、なぜ抵抗しないのか。自分のしたいことを主張しないのか。
館での生活を思い起こす。一人でいるのはつまらなかった。姉とその友人は時折遊んでくれたが、基本的に向こうの都合でしか付き合ってくれなかった。自分の意思で遊び相手を増やすことは叶わなかった。
そのうち外に出ることを試してみた。そのたびに他ならぬ姉たちによって邪魔された。でも諦めはしなかった。諦めたら昨日までと同じ日常しか待っていない。そんなのはつまらなかった。
だから抵抗した。自分の思いつく限りの創意工夫をこしらえ。何回も、何十回も、何百回も。
そしてある日に、二人の人間によって均衡が崩れた。それまでお茶やお菓子に用いる食材か、叩くとすぐ割れる風船程度にしか認識していなかった、脆弱な存在であるはずだった人間。それが彼女とその境遇を変えた。
フランドールはもう一度、今まさに自分を食べているところの妖怪を見つめた。
妖怪に射すくめられる人間の心理を彼女は知らなかった。相手が誰であろうと、それがどうした。
おびえきっている魂の半分に声をかける。見ていなさい、そんなに死にたくないのなら。
左手で妖怪の金髪をつかんだ。そのまま力ずくで引き離す。
即座に頭突きを叩き込む。妖怪の鼻っ柱に直撃する。ひるんだ隙に距離を取る。
「いったあー! もう、何するのよー」
妖怪は血の出た鼻を押さえつつフランドールを睨む。
「あいにく低級妖怪の食事にはなりたくなくてね」
フランドールは妖怪の視線を真正面から受け止める。人間の魂はまたもひるんだが、気力で強引にねじ伏せた。
「なによ、ガキのくせに生意気。こうなったら徹底的に調理してあげる。……ほんとは躍り食いが一番おいしいんだけど」
闇の魔力が収縮し、形ある物体となって襲いかかってきた。
とっさに一番近くにあった木の陰に飛び込む。刹那、木々と地面に魔力の塊が突き刺さる。
再び妖怪が攻撃を放つ。力は夜にある光、すなわち月光となって降り注ぐ。壁にした木を焼き切る。倒れる寸前、彼女は飛び掛かった。
右手を振り上げようとして、痛みに顔をしかめる。傷口から流れ出た体液が地面を紅く染める。
棒立ちになった彼女の腹部に攻撃が直撃した。小柄な体躯は軽々と吹き飛ばさ、焼けこげた樹木のなれの果てに背中を打ち付ける。
「ま、ざっとこんなもんでしょ。それじゃ改めて、いただきまーす」
妖怪は、舌なめずりをしながらゆっくり近づいてくる。
足取りは隙だらけ。それを彼女が見逃すはずはなかった。
あと二三歩という距離まで近づいたとき、フランドールは地面を蹴った。左の正拳を顔面に向けて放つ。
今度は妖怪の方が吹き飛んだ。彼女とほぼ変わらない華奢な体が、夜の森に飛ぶ。
間髪入れずにのしかかる。左手を振りかぶると何度も何度も殴りつける。右肩の傷口が開き体温が奪われるのも気にせずに。反撃の隙は与えない。
突然、鈍い痛みが腹部を襲う。
見れば、いつの間に取り出したか――あるいは作り出したのか、闇に近い蒼の輝きを持つ剣が彼女を貫いていた。
全身から急速に力が抜けていく。彼女は倒れ伏した。
「もう、乙女の顔をいったいなんだと思ってるのよー。……あ、もったいないもったいない」
妖怪の少女は獲物の少年を起きあがらせると、剣に舌を当てた。伝って地面へとこぼれていく血液をすする。久々の生の人間である、一滴でも逃すのは惜しかった。
「うーん、手こずらせてくれただけあって美味ね。さてお肉の方はどうかしら」
彼女は顔を離すと、肩に歯を突き立てようとして。
彼と目が合った。
瞬間、悪寒が走る。
(うそ……まだ生きてる?)
いや、生きてるだけなら不思議でも何でもない。それが虫の息であるならば。
そこにあったのは、底の見えない笑顔。
彼は笑っていた。それも生き生きと。
(こいつ、人間じゃない)
妖怪の本能が警鐘を鳴らす。これは自分とは格の違う存在だと。
逃げよう。逃げなくちゃ。逃げないと。今度は私が。
飛び上がろうとして、彼女は足をつかまれる。軽々と地上に引きずり下ろされる。
彼と再び目が合う。
動けない。吸い込まれそうな瞳だった。見つめるだけで魂を飲み尽くされかねない。
首筋に牙が突き立てられる。彼女から活力を根こそぎ奪おうとする。
そこには死が見えた。大抵の妖怪にとってもっとも縁のない現象が。
「いやあああっ!!」
彼女は無理矢理彼を引きはがした。
飛ぶことも忘れて、夜の森へと逃げていった。
(私……何してたんだろう)
もうろうとした意識で、フランドールは自問した。
血の味がした。舌を舐める。
あまりおいしくなかった。
(……お腹が熱いなあ)
何か悪いものでも食べただろうか――そう思いながら彼女が見下ろしてみると、腹から剣が生えていた。
(ああ、これじゃ熱いはずだけど)
どうしてこんなに痛いのだろう。吸血鬼の自分なら、これぐらい傷の内に入らないはずなのに。
(そっか、私、今人間なんだっけ)
なんでそんな簡単なことを忘れていたのだろう。彼女は笑った。
(なんか……眠く……なって……きちゃった……)
力が出ない。足が崩れ落ちる。剣が邪魔だった。
意識が、途切れた。
つんつん。
「……」
つんつん。
「うう……ん」
誰かが頬をつついている。お姉様か、それともパチュリーだろうか。せっかく人が気持ちよく寝ているというのに。
よし、ここは一つ驚かせてやろう。彼女は急に頭を上げた。
相手の顔面に頭突きを見舞わせる。
痛みに転げ回る相手を、フランドールは笑った。
笑ってから、それが見たことのない者であることに気がつく。
「あなた、誰?」
新しく雇った従者か何かだろうか。だとしたら、大変な命知らずか就任早々よほどの失態をしでかしたかのいずれかか。どちらであろうと、地下の牢獄に足を踏み入れた時点で十中八九死が約束されたことになる。
「いたあ……お姉ちゃん、ひどいよ」
鼻を押さえながら、彼女よりもさらに幼い風体の少年は顔を上げる。
口の利き方もなっていなかった。普通の人間が外から迷い込んだのか? いや、それなら地下のフランドールのもとへたどり着くまでに命を落としている、確率的に。
となると、考えられることは食料役が脱走したか。それとも新しい玩具のつもりだろうか。だとしたら滑稽な話である。せいぜい弾当ての的に一回使って、それきりだろう。
「ぼく、お礼を言おうと思っただけなのに」
ようやく痛みがひいたか、彼は手を離すとまっすぐに彼女を見つめてきた。物怖じする気配はない。
不思議でならなかった。ちょっと力を入れればすぐに真っ二つに折れそうな人間が、自分をまともに見つめられることが。咲夜や霊夢、魔理沙と違い、目の前の少年には何の力も感じられない。
そもそも幻想郷の住人なのだろうか。そうでないように彼女には思えた。
「お礼? 私が何かしたかしら」
「さっきの化け物を追い払ってくれたの、お姉ちゃんでしょ? ぼく見てたもん」
化け物……なんのことだろうか。起きたばかりで記憶がはっきりしない。ただ一つ確かなのは、その少年の言葉は実に愉快だということだった。こともあろうに、化け物を捕まえて、化け物を追い払ってくれたとは。その眼差しは疑うことを知らず、自分が食べられる危険性というのをまったく考慮していなかった。
「あなたは、私のことが怖くないの?」
彼女は直接問うてみた。
「なんで?」
彼は首を傾げる。
「なんでって……私も、あなたのいう化け物なのよ」
少し思案して、彼女は馬鹿な子供にもわかりやすいようにと、背中の色とりどりの羽をはためかせて見せる。
少年はきょとんとそれを見つめたのち、「……あーっ!!」と素っ頓狂な声を上げた。
予想外の反応に、フランドールは少々戸惑ってしまう。
「な、なによ」
「すっげー、羽だ、羽が生えてる! ねえねえお姉ちゃん、空飛べる? 空飛べるの!?」
「空って……そりゃ、飛べなきゃ生えてる意味ないわね」
「すっげーすっげーすっげー!!」
少年は小躍りして走り回った。ぐっと拳を握りしめて大きく飛び上がる。
いったいこれは何事だろうかとフランドールは呆気にとられる。
「お姉ちゃん!」
いきなり少年はフランドールに飛び込んできた。両手を彼女の肩に乗せて、あわや唇が触れ合うくらいの至近距離まで顔を近づける。
「な、なに?」
「空飛ぶ魔法教えて! ぼく、そのためにここまで来たんだから!」
「……できないわ」
反射的に彼女が正直に答えると、途端に彼はまくし立てた。
「どうして!? ねえなんでなんでどうして!?」
「だって、あなたには羽が生えてないじゃない。私は自分の羽で空を飛ぶ方法しか知らないわ」
そうだ。そのおかげで今日はほんの少しだけ余計な手間を取ったのだから。
(え……?)
今日。そうだ、今日はいったい何をしたのだったか。
フランドールは無言で少年を見つめた。彼は口をへの字に曲げて非難がましく見つめ返している。
この子はいったい誰だったか。そう、それは――。
フランドールは気がついた。右肩とお腹がしくしく痛む。永いこと生きてきたはずだが、痛みの伴う目覚めは初の経験だった。
ベッドから起きあがると、彼女はすぐ脇にパチュリーがいることに気がついた。
「傷の具合はどう、フラン?」
「んー……ちょっと痛い」
「そう。傷口は完全に塞いだんだけど……たぶん元の姿に戻れば一発で回復するから」
パチュリーの言葉で、フランドールは今日の出来事すべてを思い出した。人間の肉体をしげしげと見回す。時にはうっとうしくもあるが信頼もしている姉の友人のいうとおり、見た目は健康的な姿を取り戻していた。右手を軽く回してみるが、特に抵抗はない。
「パチュリーが助けてくれたの?」
「まあ、そういうことになるのかしら。さすがに剣で串刺しになっているのを見つけたときは焦ったわよ」
「ふふ、私がそう簡単に死ぬと思う?」
「うん、普通ならそうなんだけど――」
パチュリーは急に真顔になった。
「本当に、危なかったかもしれない。ごめんなさいフラン、あのあと別の魔法書を当たってみたんだけど、例の魔法、気軽に使っていいものじゃなかったみたいなの」
「どういうこと?」
「本当に、封印魔法だったのよあれは。不死の存在を殺すことも可能にするくらいの。……もともと、そのために人間が編み出した魔法だった」
部屋が一瞬静まりかえった。
「……まあ、大事にはならなかったしよかったんじゃないの? ちょっと痛かったけど。それに、それぐらいの魔法でなければ、私の力を抑えるなんて無理な話だろうし」
「……そうね」
少し寂しそうにパチュリーは笑った。フランドールも笑い返す。
「それじゃ、元に戻しましょうね」
「ちょっと待って」
フランドールは手で制した。
「なあに? 今日だけじゃまだ遊び足りない? それなら――」
「それもあるけど……お願い、一日だけ待って。それからもう一つお願いがあるの」
「なに?」
「空飛ぶ魔法、教えて」
魔理沙は紅魔館に向かっていた。
目的は、長期間延滞していた本の返却、それに三時のお茶にお茶菓子、できれば夕飯もであった。
眼下に森と湖面を見下ろしながら、風を切り、快調に愛用の箒を飛ばす。
遠目に館が見えてきた頃、彼女は異変に気がついた。
普段は人影といえば門番しかいないのに、今日に限って数人が館の上空をせわしなく飛び回っていた。いったい何をしているのだろう。
興味が出てきた彼女は、箒の速度を速めた。飛びそうになった帽子を慌てて押さえる。
「よう、パチュリー」
一番近くにいた魔女に、魔理沙は声をかけた。
「あら魔理沙。ごきげんよう」
「ごきげんよう。……今日はいったい何のイベントだ?」
魔理沙は周囲を見渡した。滅多に外に出てこないはずのパチュリーに、美鈴に小悪魔、咲夜、それに日傘を差したレミリアまでいる。それとあと、もう一人――。
「ターッチ!」
見かけない黒髪の少年が、勢いよく魔理沙の背中を叩いた。
「なんだっ!?」
「よし、今度は魔理沙が鬼! それみんな、逃げろー!」
彼は大声で叫ぶと、高速で魔理沙から遠ざかっていった。
「……おいパチュリー、今のは誰だ?」
「ああ、あれはね」
パチュリーはかいつまんで事情を説明した。
「つまり、変身魔法少女と化した妹君のたっての願いで鬼ごっこ祭り開催中ってわけか」
「……ちょっと突っ込みたい部分はあるけど、まあそういうところ。こっちにとっては重労働だけど、危険な目に遭わせた責任もあるから」
「そうか」
魔理沙は、さりげなく隣のパチュリーに手を伸ばした。
彼女は予期していたようにひょいと身をかわす。
「そう簡単にやられるわけにはいかないわね」
そういうと、パチュリーは高速で離脱していった。
「……なんだかんだいって自分もけっこう楽しんでいるじゃないか」
魔理沙は箒をつかみ直して体勢を整えると、目標を追いかけ始めた。
日が完全に沈む頃、ようやく鬼ごっこ祭りはお開きになった。
皆が夕食のために食堂へと向かう中、フランドールとパチュリーだけがその場に残る。
「それじゃあ……いいわね?」
最後にもう一度、パチュリーは確認を取る。
「うん、お願い。……たぶん、これで気が済んだと思うから」
他人事のようにフランドールは答えた。
変身解除のスペルが彼女へと浸透していく。妹姫の体が一瞬光ったかと思うと、金髪の少女の姿に戻る。
分離した青い魂は、二人に挨拶でもするかのように二三回明滅すると、茜色から漆黒に変じた空へと遠く昇っていった。
「……いっちゃったわね」
寂しげな表情を妹姫は浮かべた。
「どうやら成仏しちゃったようね。そう遠くないうちに転生の輪に加わることになると思うわ」
「また会えるかしら?」
「そうね……でも転生先もおそらくただの人間よ。私たちといい関係を築くのは難しいかもしれないわね」
パチュリーの言葉が重く、夜へと移りつつある辺りに響く。
しばらくの間、あたりがしんと静まりかえる。
「それでも!」
考え抜いた末、フランドールは叫ぶ。
「この二日間の関係は、悪くなかったと思うわ。だから、また会ったときにはいい関係になれると、そう思う」
パチュリーは何もいわなかった。ただ微笑むと手を差しのばす。
「さ、いこ。レミィたちが待っているわ」
フランドールは手を握り返す。運動後のせいか、パチュリーの手は暖かかった。
「……あ」
「どうしたの?」
「魔理沙の家に遊びにいくの、忘れてた。行こうと思ってたのに」
「また今度いけばいいじゃない」
「外出許可出してくれる?」
「……まあ、なにか別の手考えておくわ」
「よろしく」
二人は並んで、紅魔館の中へと消えた。
「……何してるのよ、フラン」
パチュリーは足下にいる彼女に声をかける。
「たーいーくーつー」
再びごろごろと転げ回るフランドール。
はあ、とパチュリーはため息をつく。せっかくの綺麗な金髪が台無しね、とどうでもいいことに気が回る。
「だったら本でも読んだらどう?」
「じっとしてるの、ヤダ」
「だったら――」
パチュリーは言葉を止める。このまま話を進めれば、弾幕ごっこに付き合わされるか館の某所で破壊活動を容認するか。どちらに転んでもあまりいい結果にはなりそうになかった。
「……お外に遊びにいきたい」
彼女の内心を知ってか知らずか、妹姫は簡素な要望を口にする。
「外は日差しがかんかん照りよ」
「それでもいい、退屈よりマシ」
これはテコでも動きそうにないわね、とパチュリーは考えた。厄介な性質に限ってこの妹は姉に似ている。
レミリアは出かけているので、外出許可を出すならそれはパチュリーの仕事であった。もしも彼女に無断で出かけようとすれば、即座に雨乞いの魔法が紅魔館を取り囲むように展開されることになる。
しかし、一度解き放てばどんな惨状を繰り広げてくれるか予想もつかない破壊の姫をそうやすやすと外に出すわけにはいかなかった。今でこそおとなしくしているが、本来なら地下での幽閉生活が今も続いていたはずである。それが事実上取りやめになったのは、彼女があの人間たちに負けてからのことだ。
「えーと、こういうときの対処方法はと」
載ってないだろうなと思いながらも、パチュリーは手持ちの魔法書を習慣で開いた。適当な頁を起点にぱらぱらとめくり、該当しそうにないとわかるとまた別の頁を起点に情報を検索する。
ふと、ある単語がパチュリーの視界に飛び込んできた。行き過ぎた手を止めると、その頁を開き直す。
“力の封印”。それがキーワードだった。
「……ま、やるだけやってみるか」
パチュリーはフランドールを連れて自分の実験室にやってきた。
外からの光は、窓を覆い隠す特殊な加工を施した暗幕によって完全に吸収されている。代わりに燭台型の魔法光が内部をわずかに照らす。
客人を適当に椅子に座らせると、瓶詰めのサンプルが並んだ硝子棚を開く。液体漬けになった器官や小動物を無視して、パチュリーは奥の方から空の瓶を取り出した。
否、空ではない。よくよく見れば青い気体が、ほんの少しだけ空気と色の違う物体が、瓶の中を満たしていた。
「それ、なあに?」
フランドールが物珍しそうに瓶を見つめる。
そういえばこの部屋に連れてきたのははじめてだったかな、とパチュリーは思った。
「人間の霊魂よ。この間咲夜が冥界から持ち帰ってきたやつ」
咲夜が料理の材料にすると言っていたそれを、パチュリーは趣味と実験を名目にいくつか分けて貰っていた。
「それをどうするの?」
彼女は、これから行う魔法について説明した。
それは変身魔法の一種で、他者の霊魂を一時的に取り込むことによりその者の性質を得られるというものであった。
「簡単にいうと、この魔法を使えば一時的に人間になれるの」
「……人間に?」
「そう。破壊の能力を持たない、ただの人間に」
しかし、口ではそういいながらもあまり期待してはいなかった。破壊に特化されたフランドールの魔力は、純粋な力だけでいうならパチュリーやレミリアのそれを上回る。今までにも何度かその力を封印する魔法を試してみたことはあるが、それらはことごとく失敗していた。
「それで構わない? フラン」
「うん」
フランドールは即答した。
「気兼ねなく遊べるんだったら、なんだって構わないわ」
「よし。じゃ、この中身を飲んで」
瓶を受け取ると、彼女は空気のような中身を吸い込むようにして一気に飲み干した。
同時にパチュリーは素早く魔法書の呪文を唱える。素早くも規則正しい音律が実験室を支配する。
詠唱が終わった瞬間、まばゆい光がフランドールを覆った。たまらず目をかばう。
光は二三秒の間部屋の中を支配すると、急速に収束していった。
ゆっくりと目を開く。目の前にフランドールはいなかった。
いたのは、黒い髪をした小さな男の子だった。面差しはどことなく残っていたが、その背にあの赤青緑と鮮やかな色合いを誇った羽はない。
あの霊魂は男の子だったのかと、どうでもいい感想をパチュリーは抱いた。
フランドールは、しばし自分の両の手を見つめた後、硝子棚の方を見た。反射した自分の姿を確認したのか、おおーっと大げさに驚いている。
「やった! やった! 成功よね、パチュリー!」
体が変わったせいか、声の色まで変わっていた。それに戸惑いながらもパチュリーが頷くと、フランドールはきゃっほーいと叫びながら部屋を飛び出していった。
呆気にとられたのち、パチュリーは叫ぶ。
「まだ出かけていいって言ってないわよ!?」
フランドールは全速力で正面玄関を飛び出した。
体はすこぶる快調だった。足で軽くステップを踏み、右に左に回転しながら踊る。羽がなくなったせいで空が飛べなくなっていたが、二本の足で駆け回るのは嫌いではない。むしろ好きである。
空を見上げた。太陽がさんさんと輝いている。
きゃっと悲鳴を上げて、一歩下がった。
あるはずの痛みがないことに違和感を覚える。おそるおそる、再び一歩を踏み出してみる。
肌を陽光が焼くが、やはり痛みはない。人間に変身したことで、彼女の肉体は吸血鬼の弱点を克服していた。
「すごいすごいすごーい!」
大喜びで駆け回った。
姉の顔を思い浮かべる。この快感をお姉様は味わったことがないはずだ。彼女は優越感に浸った。お姉様が神社から戻ってきたらうんと自慢してやろう。
さてこれからどうしようかと、ここに至ってフランドールは悩んだ。外に出ることばかり考えて、行き先を考えていなかった。
あの人間の魔法使いの顔を浮かべる。霧雨魔理沙。私をはじめて負かした人間。彼女の家に遊びに行ってみようと一秒で決めた。
走り出そうとして、足を止める。
目前には、紅魔館を取り囲む大きな湖が広がっていた。
どうやってこの湖を越えよう。人間の身でも浮遊魔法なら使えるかもしれないが、生まれてこのかたその類の魔法を習ったことはなかった。
周りを見渡してみるが、橋もなければ船もない。当たり前の話であるが。
いっそ泳いで渡るかと考えてみる。太陽が平気なのだから水も平気のはずだ。湖の岸辺に近づくと、右手を水につけてみる。
冷たい。夏にはまだ早かった。
顔を上げると、向こう岸が見えないものかと目を凝らしてみる。湖上には薄い霧がかかっており、先がどうなっているかよくわからなかった。
無鉄砲だと自覚しているとはいえ、この状況で泳いでみる気にはなれなかった。もう一度周囲を見渡してみる。
見知った顔を見つけた。石を積み重ねて作られた柱の陰にいる彼女に声をかける。
「おーい、メイリーン!」
呼ばれて中華風の装束を着た美鈴は振り返った。怪訝な表情でフランドールを見る。
「……何者!?」
美鈴は拳法の構えを取る。
フランドールは予想外の反応に一瞬呆気にとられたが、すぐに自分の姿がどうなっているかを思い出した。
「ああごめんごめん、私よ、フランドール」
「……妹様!?」
「そ。パチュリーの魔法で人間に変身してるの」
説明をしたものの、美鈴は戦闘態勢を解かない。
「私のいうことが信じられないってわけ?」
面白い。生まれて初めて美鈴が反抗的な態度を取るところを見て、フランドールは笑った。
美鈴の肩がびくっと震えた。
姿形は変わっても、何一つ恐れるところのない無邪気で底の見えない笑みは変わらなかった。
美鈴はゆっくりと構えを解く。頬から汗が一筋垂れた。
「……どうやら、本当に妹様のようですね」
「わかればいいわ。で、ものは相談なんだけど」
美鈴に運ばれて、フランドールは湖の向こうに存在する大地に第一歩を踏み出した。
一歩は即座に二歩三歩となり、美鈴に礼を言うのも忘れて童の容姿の妹姫は駆け出した。
走った。走った。とにかく走り回った。もはや障害は何もない。風を切り、草原を駆け抜け、森を、山を、谷を、足がもつれて転ぶまで走り続けた。
どかっと大の字になって横たわる。胸は上下に大きく揺れ全身から汗が湧き出る。
普段の破壊行為では決して得られない、限界まで力を注ぎ込める感触がなにより嬉しかった。こんな快感は――そう、あのときの弾幕ごっこ以来。
ここに来て魔理沙のことを思い出す。そうだ、彼女の家に遊びに行こうとしていたのだ。
上半身を起こし、空を仰いだところで、重大な事実に思い当たる。
「魔理沙の家って……どこだろう?」
きょろきょろと周囲を見渡してみるが、それで見つかるほど世の中甘くない。見えるのは木々や森や小高い丘やら、人工物の影はこれっぽっちも見あたらない。
一度紅魔館に戻ってみようか。パチュリーなら場所を知っているだろうから。
フランドールは立ち上がると、紅魔館に帰ろうとして。
もう一つ、重要な事実を思い出す。
「ここ……どこ?」
もう一度あたりを見回してみるが、知った場所はかけらも見つからなかった。紅魔館から出たことがないのだから当たり前の話であるが。
フランドールは丘に向かった。湖だ。それを目印にすれば帰れるはず。
勢いをつけて駆け上がり、頂点に立って見渡せば、はるか森の向こうに湖を見つけることができた。
今日のところは、いったん帰ろう。時間はまだまだあるのだから。
丘から駆け下りると、まっすぐ湖へ向かうために森へ足を踏み入れた。
日が暮れた。
ただでさえ生い茂る葉に覆い隠されている森は、太陽という光源を失って暗闇へと姿を変えた。
フランドールは歩きで木々の狭間をひたすら行く。
聞こえるのは夜行性の獣や鳥の鳴き声に、あとは彼女が踏みしめる枯れ葉や小枝の音ばかり。人や妖怪の気配はどこにもない。
とっくに森を抜けてもいい頃なのに――彼女は迷子になったという事実を拒んでいた。そうでないと、どうしていいかわからなかったから。
「……お腹空いたな」
紅魔館では、咲夜が晩ご飯の準備を終えた頃だろうか。今日の献立はいったい何だろう。
そこまで考えて頭を振る。空腹感が増すばかりだった。
疲れた。その場にどっかりと腰を下ろす。落ち葉が刺さってちょっと痛かったが気にしなかった。
今日何度目になるか、空を見上げてみた。星と月は森に隠され、あるのはただの闇ばかり。
自分の幽閉場所とどちらが暗いだろうか――そんな疑問に彼女はかられた。
ここには蝋燭も魔法の灯りもない。しかし、ここには音がある。臭いがある。自分以外の命の気配があった。だから、ここの方が明るいと思った。そしてもうあの場所には戻りたくないとも。
ふと、フランドールは視界に違和感を覚えた。
なんだろう。あるのはただの闇ばかりだ。特に変化は何も――いや、違った。
闇が深くなっている。見えたはずの木の影が消え、純粋な闇が空間を支配していた。
何かがいる。
「……きゃああああっ!」
突如響き渡る悲鳴。
彼女は心臓が跳ね上がるほど驚いた。なぜなら、その声は彼女の口から発せられたから。
勝手に体が動いた。両の手を地面に勢いよくつけて立ち上がると、地面を蹴った。
混乱した。いったい自分は何をしているのだろうか。
再び叫び声が聞こえた。今度は音ではない。心の中で、あれから逃げろと声にならない声で誰かが叫んでいた。
戸惑った。それは彼女にとってもっとも縁遠い感情であった。逃げる? 誰が? 私が?
心が体についていかなかった。走り出そうとして、足がもつれた。転ぶ。とっさに地面に手をつける。顔を上げる。
さっき見た闇が目の前にいた。その空間のうちに唯一光る、紅い双眸と目が合う。
(食べられる……!)
彼女はそう理解した。なぜならその色は、彼女がよく知る者の目。妖怪が獲物を食らうときに放つ光。
瞬間、彼女の魂の半分が絶叫した。
(やだ、ぼくまだ死にたくないよ……!)
逃げないと。もう一度立ち上がって、目の前の化け物から。
不意に紅が視界から消えた。一拍遅れて、鋭い痛みが走る。
右下を見れば、紅があった。輝く紅色の目に、流れ落ちる真紅の液体。犬歯が彼女の右肩に突き立てられていた。
興奮した吐息が血にまみれた肉に吹きかかる。化け物は、彼女の血肉の味に歓喜していた。痛みがより深く右半身に襲いかかる。
頭痛がした。魂が頭を左右に激しく揺さぶる。
痛覚が全身に及んだ。五体の肉が食いちぎられ、関節があらぬ方向にへし折られ、吸い出される血が熱を奪う。容赦のない痛みが死の気配が確実に訪れつつあることを宣告する。
おかしい――目の前の状況とは異なる感覚を疑問に思った。気を確かに持ってよく見れば、妖怪は右肩にかぶりついているだけだ。それ以外は無傷である。
ならばこの痛みは何なのか。悲鳴をあげているのは誰なのか。
私ではないもの。知らない感情。感じたことのない経験。
ここに至ってフランドールは、ようやくそれの正体に思い当たった。
人間になるために飲み込んだ、あの魂。この痛みと恐怖の記憶は彼のものか。
理解をすると、頭の半分が急速に冴え渡ってきた。そして、腹が立った。
この記憶は、彼が死んだときのものか。死を前にして泣くばかり。抵抗らしいことを何もせずに、単に食べられるだけの人間。
二人は現在魂を共有している。それでいてなお彼女には解らなかった。嫌なことをされているのに、なぜ抵抗しないのか。自分のしたいことを主張しないのか。
館での生活を思い起こす。一人でいるのはつまらなかった。姉とその友人は時折遊んでくれたが、基本的に向こうの都合でしか付き合ってくれなかった。自分の意思で遊び相手を増やすことは叶わなかった。
そのうち外に出ることを試してみた。そのたびに他ならぬ姉たちによって邪魔された。でも諦めはしなかった。諦めたら昨日までと同じ日常しか待っていない。そんなのはつまらなかった。
だから抵抗した。自分の思いつく限りの創意工夫をこしらえ。何回も、何十回も、何百回も。
そしてある日に、二人の人間によって均衡が崩れた。それまでお茶やお菓子に用いる食材か、叩くとすぐ割れる風船程度にしか認識していなかった、脆弱な存在であるはずだった人間。それが彼女とその境遇を変えた。
フランドールはもう一度、今まさに自分を食べているところの妖怪を見つめた。
妖怪に射すくめられる人間の心理を彼女は知らなかった。相手が誰であろうと、それがどうした。
おびえきっている魂の半分に声をかける。見ていなさい、そんなに死にたくないのなら。
左手で妖怪の金髪をつかんだ。そのまま力ずくで引き離す。
即座に頭突きを叩き込む。妖怪の鼻っ柱に直撃する。ひるんだ隙に距離を取る。
「いったあー! もう、何するのよー」
妖怪は血の出た鼻を押さえつつフランドールを睨む。
「あいにく低級妖怪の食事にはなりたくなくてね」
フランドールは妖怪の視線を真正面から受け止める。人間の魂はまたもひるんだが、気力で強引にねじ伏せた。
「なによ、ガキのくせに生意気。こうなったら徹底的に調理してあげる。……ほんとは躍り食いが一番おいしいんだけど」
闇の魔力が収縮し、形ある物体となって襲いかかってきた。
とっさに一番近くにあった木の陰に飛び込む。刹那、木々と地面に魔力の塊が突き刺さる。
再び妖怪が攻撃を放つ。力は夜にある光、すなわち月光となって降り注ぐ。壁にした木を焼き切る。倒れる寸前、彼女は飛び掛かった。
右手を振り上げようとして、痛みに顔をしかめる。傷口から流れ出た体液が地面を紅く染める。
棒立ちになった彼女の腹部に攻撃が直撃した。小柄な体躯は軽々と吹き飛ばさ、焼けこげた樹木のなれの果てに背中を打ち付ける。
「ま、ざっとこんなもんでしょ。それじゃ改めて、いただきまーす」
妖怪は、舌なめずりをしながらゆっくり近づいてくる。
足取りは隙だらけ。それを彼女が見逃すはずはなかった。
あと二三歩という距離まで近づいたとき、フランドールは地面を蹴った。左の正拳を顔面に向けて放つ。
今度は妖怪の方が吹き飛んだ。彼女とほぼ変わらない華奢な体が、夜の森に飛ぶ。
間髪入れずにのしかかる。左手を振りかぶると何度も何度も殴りつける。右肩の傷口が開き体温が奪われるのも気にせずに。反撃の隙は与えない。
突然、鈍い痛みが腹部を襲う。
見れば、いつの間に取り出したか――あるいは作り出したのか、闇に近い蒼の輝きを持つ剣が彼女を貫いていた。
全身から急速に力が抜けていく。彼女は倒れ伏した。
「もう、乙女の顔をいったいなんだと思ってるのよー。……あ、もったいないもったいない」
妖怪の少女は獲物の少年を起きあがらせると、剣に舌を当てた。伝って地面へとこぼれていく血液をすする。久々の生の人間である、一滴でも逃すのは惜しかった。
「うーん、手こずらせてくれただけあって美味ね。さてお肉の方はどうかしら」
彼女は顔を離すと、肩に歯を突き立てようとして。
彼と目が合った。
瞬間、悪寒が走る。
(うそ……まだ生きてる?)
いや、生きてるだけなら不思議でも何でもない。それが虫の息であるならば。
そこにあったのは、底の見えない笑顔。
彼は笑っていた。それも生き生きと。
(こいつ、人間じゃない)
妖怪の本能が警鐘を鳴らす。これは自分とは格の違う存在だと。
逃げよう。逃げなくちゃ。逃げないと。今度は私が。
飛び上がろうとして、彼女は足をつかまれる。軽々と地上に引きずり下ろされる。
彼と再び目が合う。
動けない。吸い込まれそうな瞳だった。見つめるだけで魂を飲み尽くされかねない。
首筋に牙が突き立てられる。彼女から活力を根こそぎ奪おうとする。
そこには死が見えた。大抵の妖怪にとってもっとも縁のない現象が。
「いやあああっ!!」
彼女は無理矢理彼を引きはがした。
飛ぶことも忘れて、夜の森へと逃げていった。
(私……何してたんだろう)
もうろうとした意識で、フランドールは自問した。
血の味がした。舌を舐める。
あまりおいしくなかった。
(……お腹が熱いなあ)
何か悪いものでも食べただろうか――そう思いながら彼女が見下ろしてみると、腹から剣が生えていた。
(ああ、これじゃ熱いはずだけど)
どうしてこんなに痛いのだろう。吸血鬼の自分なら、これぐらい傷の内に入らないはずなのに。
(そっか、私、今人間なんだっけ)
なんでそんな簡単なことを忘れていたのだろう。彼女は笑った。
(なんか……眠く……なって……きちゃった……)
力が出ない。足が崩れ落ちる。剣が邪魔だった。
意識が、途切れた。
つんつん。
「……」
つんつん。
「うう……ん」
誰かが頬をつついている。お姉様か、それともパチュリーだろうか。せっかく人が気持ちよく寝ているというのに。
よし、ここは一つ驚かせてやろう。彼女は急に頭を上げた。
相手の顔面に頭突きを見舞わせる。
痛みに転げ回る相手を、フランドールは笑った。
笑ってから、それが見たことのない者であることに気がつく。
「あなた、誰?」
新しく雇った従者か何かだろうか。だとしたら、大変な命知らずか就任早々よほどの失態をしでかしたかのいずれかか。どちらであろうと、地下の牢獄に足を踏み入れた時点で十中八九死が約束されたことになる。
「いたあ……お姉ちゃん、ひどいよ」
鼻を押さえながら、彼女よりもさらに幼い風体の少年は顔を上げる。
口の利き方もなっていなかった。普通の人間が外から迷い込んだのか? いや、それなら地下のフランドールのもとへたどり着くまでに命を落としている、確率的に。
となると、考えられることは食料役が脱走したか。それとも新しい玩具のつもりだろうか。だとしたら滑稽な話である。せいぜい弾当ての的に一回使って、それきりだろう。
「ぼく、お礼を言おうと思っただけなのに」
ようやく痛みがひいたか、彼は手を離すとまっすぐに彼女を見つめてきた。物怖じする気配はない。
不思議でならなかった。ちょっと力を入れればすぐに真っ二つに折れそうな人間が、自分をまともに見つめられることが。咲夜や霊夢、魔理沙と違い、目の前の少年には何の力も感じられない。
そもそも幻想郷の住人なのだろうか。そうでないように彼女には思えた。
「お礼? 私が何かしたかしら」
「さっきの化け物を追い払ってくれたの、お姉ちゃんでしょ? ぼく見てたもん」
化け物……なんのことだろうか。起きたばかりで記憶がはっきりしない。ただ一つ確かなのは、その少年の言葉は実に愉快だということだった。こともあろうに、化け物を捕まえて、化け物を追い払ってくれたとは。その眼差しは疑うことを知らず、自分が食べられる危険性というのをまったく考慮していなかった。
「あなたは、私のことが怖くないの?」
彼女は直接問うてみた。
「なんで?」
彼は首を傾げる。
「なんでって……私も、あなたのいう化け物なのよ」
少し思案して、彼女は馬鹿な子供にもわかりやすいようにと、背中の色とりどりの羽をはためかせて見せる。
少年はきょとんとそれを見つめたのち、「……あーっ!!」と素っ頓狂な声を上げた。
予想外の反応に、フランドールは少々戸惑ってしまう。
「な、なによ」
「すっげー、羽だ、羽が生えてる! ねえねえお姉ちゃん、空飛べる? 空飛べるの!?」
「空って……そりゃ、飛べなきゃ生えてる意味ないわね」
「すっげーすっげーすっげー!!」
少年は小躍りして走り回った。ぐっと拳を握りしめて大きく飛び上がる。
いったいこれは何事だろうかとフランドールは呆気にとられる。
「お姉ちゃん!」
いきなり少年はフランドールに飛び込んできた。両手を彼女の肩に乗せて、あわや唇が触れ合うくらいの至近距離まで顔を近づける。
「な、なに?」
「空飛ぶ魔法教えて! ぼく、そのためにここまで来たんだから!」
「……できないわ」
反射的に彼女が正直に答えると、途端に彼はまくし立てた。
「どうして!? ねえなんでなんでどうして!?」
「だって、あなたには羽が生えてないじゃない。私は自分の羽で空を飛ぶ方法しか知らないわ」
そうだ。そのおかげで今日はほんの少しだけ余計な手間を取ったのだから。
(え……?)
今日。そうだ、今日はいったい何をしたのだったか。
フランドールは無言で少年を見つめた。彼は口をへの字に曲げて非難がましく見つめ返している。
この子はいったい誰だったか。そう、それは――。
フランドールは気がついた。右肩とお腹がしくしく痛む。永いこと生きてきたはずだが、痛みの伴う目覚めは初の経験だった。
ベッドから起きあがると、彼女はすぐ脇にパチュリーがいることに気がついた。
「傷の具合はどう、フラン?」
「んー……ちょっと痛い」
「そう。傷口は完全に塞いだんだけど……たぶん元の姿に戻れば一発で回復するから」
パチュリーの言葉で、フランドールは今日の出来事すべてを思い出した。人間の肉体をしげしげと見回す。時にはうっとうしくもあるが信頼もしている姉の友人のいうとおり、見た目は健康的な姿を取り戻していた。右手を軽く回してみるが、特に抵抗はない。
「パチュリーが助けてくれたの?」
「まあ、そういうことになるのかしら。さすがに剣で串刺しになっているのを見つけたときは焦ったわよ」
「ふふ、私がそう簡単に死ぬと思う?」
「うん、普通ならそうなんだけど――」
パチュリーは急に真顔になった。
「本当に、危なかったかもしれない。ごめんなさいフラン、あのあと別の魔法書を当たってみたんだけど、例の魔法、気軽に使っていいものじゃなかったみたいなの」
「どういうこと?」
「本当に、封印魔法だったのよあれは。不死の存在を殺すことも可能にするくらいの。……もともと、そのために人間が編み出した魔法だった」
部屋が一瞬静まりかえった。
「……まあ、大事にはならなかったしよかったんじゃないの? ちょっと痛かったけど。それに、それぐらいの魔法でなければ、私の力を抑えるなんて無理な話だろうし」
「……そうね」
少し寂しそうにパチュリーは笑った。フランドールも笑い返す。
「それじゃ、元に戻しましょうね」
「ちょっと待って」
フランドールは手で制した。
「なあに? 今日だけじゃまだ遊び足りない? それなら――」
「それもあるけど……お願い、一日だけ待って。それからもう一つお願いがあるの」
「なに?」
「空飛ぶ魔法、教えて」
魔理沙は紅魔館に向かっていた。
目的は、長期間延滞していた本の返却、それに三時のお茶にお茶菓子、できれば夕飯もであった。
眼下に森と湖面を見下ろしながら、風を切り、快調に愛用の箒を飛ばす。
遠目に館が見えてきた頃、彼女は異変に気がついた。
普段は人影といえば門番しかいないのに、今日に限って数人が館の上空をせわしなく飛び回っていた。いったい何をしているのだろう。
興味が出てきた彼女は、箒の速度を速めた。飛びそうになった帽子を慌てて押さえる。
「よう、パチュリー」
一番近くにいた魔女に、魔理沙は声をかけた。
「あら魔理沙。ごきげんよう」
「ごきげんよう。……今日はいったい何のイベントだ?」
魔理沙は周囲を見渡した。滅多に外に出てこないはずのパチュリーに、美鈴に小悪魔、咲夜、それに日傘を差したレミリアまでいる。それとあと、もう一人――。
「ターッチ!」
見かけない黒髪の少年が、勢いよく魔理沙の背中を叩いた。
「なんだっ!?」
「よし、今度は魔理沙が鬼! それみんな、逃げろー!」
彼は大声で叫ぶと、高速で魔理沙から遠ざかっていった。
「……おいパチュリー、今のは誰だ?」
「ああ、あれはね」
パチュリーはかいつまんで事情を説明した。
「つまり、変身魔法少女と化した妹君のたっての願いで鬼ごっこ祭り開催中ってわけか」
「……ちょっと突っ込みたい部分はあるけど、まあそういうところ。こっちにとっては重労働だけど、危険な目に遭わせた責任もあるから」
「そうか」
魔理沙は、さりげなく隣のパチュリーに手を伸ばした。
彼女は予期していたようにひょいと身をかわす。
「そう簡単にやられるわけにはいかないわね」
そういうと、パチュリーは高速で離脱していった。
「……なんだかんだいって自分もけっこう楽しんでいるじゃないか」
魔理沙は箒をつかみ直して体勢を整えると、目標を追いかけ始めた。
日が完全に沈む頃、ようやく鬼ごっこ祭りはお開きになった。
皆が夕食のために食堂へと向かう中、フランドールとパチュリーだけがその場に残る。
「それじゃあ……いいわね?」
最後にもう一度、パチュリーは確認を取る。
「うん、お願い。……たぶん、これで気が済んだと思うから」
他人事のようにフランドールは答えた。
変身解除のスペルが彼女へと浸透していく。妹姫の体が一瞬光ったかと思うと、金髪の少女の姿に戻る。
分離した青い魂は、二人に挨拶でもするかのように二三回明滅すると、茜色から漆黒に変じた空へと遠く昇っていった。
「……いっちゃったわね」
寂しげな表情を妹姫は浮かべた。
「どうやら成仏しちゃったようね。そう遠くないうちに転生の輪に加わることになると思うわ」
「また会えるかしら?」
「そうね……でも転生先もおそらくただの人間よ。私たちといい関係を築くのは難しいかもしれないわね」
パチュリーの言葉が重く、夜へと移りつつある辺りに響く。
しばらくの間、あたりがしんと静まりかえる。
「それでも!」
考え抜いた末、フランドールは叫ぶ。
「この二日間の関係は、悪くなかったと思うわ。だから、また会ったときにはいい関係になれると、そう思う」
パチュリーは何もいわなかった。ただ微笑むと手を差しのばす。
「さ、いこ。レミィたちが待っているわ」
フランドールは手を握り返す。運動後のせいか、パチュリーの手は暖かかった。
「……あ」
「どうしたの?」
「魔理沙の家に遊びにいくの、忘れてた。行こうと思ってたのに」
「また今度いけばいいじゃない」
「外出許可出してくれる?」
「……まあ、なにか別の手考えておくわ」
「よろしく」
二人は並んで、紅魔館の中へと消えた。