ひときわ黒い花が春も華やかな神社に降り立った。陽射しが静かに大気を暖め、風はゆるゆると穏やかに舞い、花や草木は微睡んでいる、小さな神社の境内だった。
朱塗りの鳥居も鮮やかに、満艦飾の櫻の花弁が舞い飛んでいる。
ザァ──……と。
木々の梢が一斉にゆれた。
魔理沙の黒いスカートも花のようにひるがえる。それを片手で押さえると、箒を小脇に抱えなおした。金色の髪がはらりとゆれる。
辺りはすっかり白だった。はらはらと舞う花弁におおわれ、淡い世界が広がっていた。
地面の上にも。玉砂利の上にも。そして周囲の木々にも。
寄っては離れ、離れては寄り、魔理沙のまわりを薄桜が駆け抜けていく。
ときに速く、ときに遅く、様々に軌道を変えて、幾重もの旋律を奏でるように、軽快に、重厚に、少女のまわりを駆け抜けていく。
風になびいて、きらめく紋様のように、辺りはいちめん花と陽射しに包まれている。
爛漫とした春の世界に満ち足りている──そのただなかに。
ぽつり、と人形が笑っていた。
落ちた花弁が桜色の絨緞のように敷き詰められた地面の上に、まるで誰かを待つように、静かにひっそりと佇んでいた。紅い髪に目許はおおわれ、その表情までは読み取れない。しかし口許にははっきりと、奇妙なほど鮮やかに微笑みが刻まれている。
そこだけが異界であった。そこだけが別の次元とすげ替えられたかのように、周囲の景色に溶け込むことなく、ただ静寂とともに置かれていた。ことり、と。
正面を見据えていた魔理沙の視線が、一瞬、その人形に向けられる。
ザザァ──……と。
また風が哭き、薄桜が散っていく。
そして──少女が立っていた。乱れ飛ぶ花弁を透かして、淡い世界に淡い色彩の少女が立っていた。ペールブルーのワンピースにシェリーピンクのリボンを巻いて、金色の髪には紅いカチューシャが輝いている。
見慣れた紅白の少女ではなかった。
穏やかに、にも関わらずそこにいるだけで息を呑むような、圧倒的な存在感で櫻の園に立っていた。
「──。」
気がつくと、周囲をすべて囲まれている。
地面の上には和蘭人形。
木々の枝には仏蘭西人形。
鳥居の根元に露西亜人形。
手水舎の隣に倫敦人形。
草花の影に西蔵人形。
空中に漂っている上海人形。
そして少女の手の内には京人形。
七種の人形が七色の瞳で魔理沙を見ている。
「こんな辺境にまで何の用だ、温室魔法使い」
それは以前にも逢ったことのある少女だった。幻想郷の春を取り戻しに行ったときに呪文の応酬をしたことがある。アリス・マーガトロイドという少女だった。
「田舎じゃ、何もすることがなくて大変だろ」
アリスは魔理沙を見て、それから、すぅ──と微笑んだ。
そうでもないわ──と口を開く。
「することはあるのよ。例えば、頭の春っぽい旧友に逢ったりとかね」
「私か?」
「あなたなんて知らないわ」
「薄情な奴だな。まぁ頭が春っぽいと言われて頷くのも厭だが」
言いながら一歩、間合いを詰める。
「そうね。あなたはしょせん、野魔法使いだけれど」
じゃり、とアリスの足許でも石が鳴る。
辺りの空気が一気に冷たく張り詰める。
「でも、黒いのもいいわね」
「何の話だ」
「人形よ」
アリスはゆっくり微笑んだ。
「躍ってちょうだい。黒い人形さん」
「お前が人形か?」
「私は人形遣い。あなたのなけなしの力を──頂くわ」
────人形裁判~人の形弄びし少女────
アリスがふわりと浮き上がる。
周囲の人形が一斉に回転し始める。
くるくる。くるくる。
右に。左に。アリスを取り囲むように、人形たちがくるくる回る。
──アハハハハ…。
──ウフフフフ…。
笑っている。
笑っている。
ソプラノの笑い声。人形たちの、声。声。声。
春嵐に巻かれながら魔力の結晶が次々と空中に現れる。
──アハハハハ…。
──ウフフフフ…。
左に。右に。
現れる。現れる。
くるくると。くるくると。
無数の魔力が充満する。周囲の世界が暗転する。
膨大な力が、アリスと、その人形から発せられる。
──アハハハハ…。
──ウフフフフ…。
人形たちの、声。声。声。
くるくると。くるくると。
世界が。
空間が。
──アハハハハ…。
──ウフフフフ…。
右に。左に。
光とともにふくれあがる。
人形たちの…。
魔力の結晶に埋め尽くされる。
声。こえ。コエ…。
くるくると回る、
──ウフフフフ…。──アハハハハ…。
命なき踊り子たち。
回る回る、
無表情な笑みを浮かべて、
世界が回る。目眩(めくるめ)く。
幼い頃の記憶を悪夢に変える。
それらが一気に、
それはまるで止まる事のない、
力を溜めるかのように収縮していき、
永遠に廻る回転木馬。
爆音とともに黒い少女を囲んで一気に弾け──。
「それはこの前、見たぜ」
轟。
地面がえぐれ、砂利と花弁が四方に吹き飛んでいく。魔力が一気に解放される。
──その傍らで、空中に浮いた箒に腰掛け、霧雨魔理沙は不敵に笑っていた。
もうもうと立ち込める煙と淡い櫻の花弁の下で、それまで魔理沙が立っていた地面に巨大な穴が空いていた。低い震動音とともにまだ余波が続いている。
魔理沙はふわふわと浮かびながら、落ちそうになった帽子を掴んでかぶり直した。
「ちゃんと埋めておけよ。あとでやらされるのは、どうせ私なんだから」
軽口を叩きながら一気に距離を詰める。
アリスは感心したように目を細めていた。
「やっぱり駄目ねこの子たち。それとも女の子には甘いのかしら」
魔理沙が飛ぶ方向に人形たちが立ちはだかる。
右に左に前に後ろに。上に下に四方に八方に。
周囲を占める無数の人形。
人形。人形。人形。人形──。
人形の群れ。
それらを箒を操ってかすめるように避けていく。
──アハハハハ…。
──ウフフフフ…。
──アハハハハ…。
──ウフフフフ…。
──アハハハハ…。
哄笑が十重二十重に響き渡る。
感情のない微笑みだけを口許に浮かべ。
間断なく人形たちは笑っている。
「こいつも前に経験済みだ。また撃墜されるのが落ちだぜ温室魔法使いッ」
魔力の粒子をばら撒きながら出来るだけ有利な地点へと移動していく。叫びとは裏腹に、少しでも気を抜くと自分の方が墜とされそうになる。以前より確実に激しさを増す攻撃だった。
アリスは表情ひとつ変えていない。ゆるやかに動きながら自らのパターンだけを創生していく。
「この子たちを以前と同じだとは思わないことね」
「二度あることは三度あるだぜ」
「まだ一度しか戦ってないけどね」
再び、三度、人形たちから魔力の結晶が生み出されていく。鳥居も木々も見えないほど膨大な量の魔力に埋め尽くされていく。
避ける。避ける。
追い詰められる。追い詰められる。
避ける。避ける。
追い詰められる。追い詰められる。
避ける。かすめる。
まずいな、と魔理沙は心のなかで舌打ちした。
相手のパターンが読み切れない。その場その場で辛うじて躱してはいるが、それに手一杯でこちらから仕掛けるタイミングが掴めない。自分の攻撃はほとんど効果を上げていない。
このままじゃジリ貧だぜ。
額から冷たい汗がつう、と落ちる。焼け焦げたような匂いは服に穴が開いたためか。お気に入りだったのに、と歯噛みするいとまもない。辺りを囲まれ逃げ場が失われていく。
笑う。笑う。
夜の世界に人形たちは哄笑する。
人形租界に笑い声が谺(こだま)する。
圧倒的な魔力が解き放たれていく。
魔理沙に。魔理沙が。魔理沙へ。魔理沙を。
──当たるッ!
その瞬間。
──大気が、割れた。
光の奔流が轟と奔(はし)り、まばゆいばかりの光が溢れ、大気がその圧力に押し潰されるかのようにギイ──…ッ、と唸りを上げる。魔理沙を中心にして光速の衝撃が世界を斬り裂いていく。質量が増大し周辺の空間が歪められ、総てを光の柱に呑み込んでいく。音すらも呑み込まれ、唸りも軋みももはや聞こえない。
黒い魔法使いの魔力が一瞬にして限界まで昂められ、それが一気に放出したのだ。巨大な光はアリスの魔力を、アリスの人形を、そして人形遣いであるアリスそのものを、次々に呑み込んでいく。触れたものを一瞬にして蒸発させていく。
静寂のなかで光波だけが迸る。
総てを包み込んでいく。
それもやがて、徐々におさまり──。
「私の可愛い人形たちは駄目になってしまったけれど」
光の洪水の過ぎ去った後で、人形遣いの少女はやはり、そこに立っていた。
人形を抱いたまま傷ひとつなく、衣服に汚れひとつつけることもなく、先程と同じようにゆるやかに立っている。
憐れむかのように言葉を続けた。
「これも、何とかのひとつ覚えと言うのかしら」
少女の足許には、光の奔流を受けてなお消滅しなかった人形たちが転がっていた。どれもが燃えつき、あるいは溶けかかっている。魔理沙の魔力を総て吸収した代償だった。しかし少女自身は火傷ひとつ負っていない。
アリスが一歩踏み出すと、その下にあった人形が音もなく崩れ去った。
「それはお前だろ」
勝てる気がしないな、と思いつつ、こんなときだというのに魔理沙は思わず笑ってしまった。紅白の巫女少女が目の前の少女を指して、『七色魔法莫迦』と言ったことを思い出したのだ。まだパターンは読み切れていない。だからそれが、せめてもの慰めだった。
アリスはそれも意に介さず、ふふ、と鼻先で笑う。
「紅白の巫女が二割八分六厘なら、あなたはさらにその半分、私の力の一割四分三厘にも満たないわ。この子たちを以前と同じだとは思わないことと──」
白い肌に浮き上がる不気味なほど真っ赤な唇。ぞろりと舐め上げる舌も深紅だった。
酷薄な笑いが浮かぶ。
人形のような、否、人形そのものの、笑み。
アリスがその微笑みを浮かべた刹那、巨大な魔力が七色の人形によって少女の前方に集められる。魔力の帯が四方に引かれ、その帯に沿って世界が断片化されていく。人形は廻る。魔力はふくれあがる。
世界は崩れていく。崩されていく。そしてそのまま、
「だから──」
一気に、
「言ったでしょう──」
散った──。
ザァ──……
ザザァ──……と。
木々の梢が静かにゆれた。
春の風が甘く通り過ぎていく。
櫻の花弁がはらはらと舞い飛んでいく。
そのただなかに──。
ひとりの少女が佇んでいた。
ペールブルーのワンピースにシェリーピンクのリボンを巻いて、金色の髪には紅いカチューシャが輝いている。
辺りを囲むのは七色の人形たち。他に人影はない。
足許には黒い人形が転がっていた。箒を手に持った恰好のまま、目許は虚ろにどこを見ているのかわからない。
人形遣いの少女はそれを無造作に拾い上げると、口許だけで微笑んだ。
「今まで、黒なんてなかったものね」
頬ずりでもするかのように、愛しげに抱きしめる。
「あなた、特別だわ」
ザァ──とまた風が舞い、櫻のカーテンにいちめんがおおわれる。薄紅色に包まれてうれしそうに笑みを零す。
「そうそう。本当は紅白巫女の方を捕まえに来たのだったわ。あの子もこれで、私の力の二割になってしまったわね」
笑ったまま黒い人形を脇に抱えて、少女はまるでピクニックにでも出掛けるような足取りで、博麗神社の本殿へと向かっていった。
その後ろで無表情な人形たちが──
アハハハハ…
ウフフフフ…
アハハハハ…
ウフフフフ…
──笑って、いる。
ややガイシュツ気味なネタが惜しい・・・