「………ゆ………………り………………か………………………ゆか………り………」
「………ん………あ………………………?」
ゆさゆさと体を揺すられる感覚。長い微睡みから目覚めた紫は、薄く目を開けて、自分の顔を覗き込む人物を見た。
「あ………幽々…子…? おはよ………う………」
そう言って、再び目を閉じる。
「こら、紫! いつまでも寝ていちゃ駄目! 早く起きなさい!」
そのまま、がくがくと頭を激しく揺すられた。
「あっ……もう、止めてよ…起きるから………って、幽々子?」
「ん? 何?」
「何で、私はあなたの膝の上で寝ているのかしら?」
紫は気付いた。先程自分の頭を揺らしていたのは、幽々子の足。そして、ここは白玉楼敷地内の屋敷の、縁側。
「もう、寝過ぎて脳が蕩けちゃった? あなたは今、西行寺のお花見会に来ているんでしょう?」
幽々子に言われて、辺りを見回す。そこは、一面の桜吹雪。どの桜も競う様に、咲き誇っている。―――西行妖を、除いて。
「…ああ、そうね………そうだったわね」
体を起こしながら、紫が呟く。
「……あら? 紫、どうしたの?」
「…え? 何?」
「泣いてる、の?」
「え?」
幽々子に言われて、紫は目元を拭う。すると、そこには涙の粒が。
「―――ああ………そうね………ちょっと、昔の夢を見ていたみたい」
「昔の…夢?」
「……ええ。昔、よ。遠い、昔の夢………」
それは、西行寺家が冥界に来る以前の物語。ある一人の少女の、悲しい昔話―――
「夢、か…。私もね、夢を見る事があるの」
「それは、そうでしょ?」
紫の言葉を聞いた幽々子は、どこか遠くを見つめる様に、続けた。
「…私が、小さい頃の、夢…」
「…え…?」
「私は…桜の木の下で、いつも一人で遊んでいたの」
幽々子はその夢の内容をぽつぽつと話し始めた。
「楽しかったけど……やっぱり、どこか淋しかったわ」
「………」
「でも、ね。ある時、誰かが私の前に現れたの」
幽々子は立ち上がり、二、三歩進んで立ち止まった。
「誰かは判らなかった……でも、その人は、私の頭を、優しく撫でてくれたの。…私は、とっても嬉しくなった」
そして、くるりと紫の方へ向き直り、微笑んだ。
「不思議でしょう? 私、小さい頃の記憶なんて全然残ってないのにね」
「………………」
今の幽々子に、生前の記憶は無い。恐らくは、死んだ事が原因だろう。
辛い事を忘れられたのは、良かったのかもしれない。しかし、紫や妖忌や妖夢の事も忘れてしまった。
更に、あれ程自分の力で多くの人々を死に誘ってしまい、それを疎い自尽した事も忘れている。それどころか、今はいたずらに死に誘う事を楽しむ様になっている。
そんな幽々子の姿を見た紫は、複雑な気持ちになった。しかし何であろうと、冥界で暮らしていて、幸せそうな幽々子の表情を見ると、自分の行動を否定する事は出来なかった。
「ねえ、幽々子」
「…ん? 何?」
もう少し、その夢について訊きたかったが、止めた。紫自身、あの頃の事を思い出して、少し辛くなるから。
「……何でもないわ」
「何よ、気になるじゃない」
話してくれ、と言わんばかりに紫に顔を近づける幽々子。その瞳は、やはり死んだ後も変わらない、真っ直ぐなもの。
「ねえ、何なの?」
「え? いや、その……」
紫は少しうろたえる。と言うのも、どうも幽々子は亡霊になってから、生前小さかった頃の性格に近い様なのだ。当時の幽々子の姿を知っている紫にとって、それはどうにも扱いにくいものだった。
「あの、ね……そ、そうだ。舞よ! 舞を、見せて欲しいの!」
紫は、我ながら何とも苦しい誤魔化し方だと思ったが、
「…え…? 舞……? いいよ?」
上手く誤魔化せたらしい。こういう所が、昔と変わっていないというか何と言うか、であった。
「何でもいいの?」
「えっ…うーんと……そうね…あっ」
ふと、紫は気付いた。今自分が持っている扇子。現世に残された、たった一つの幽々子の形見―――
「この扇子、使ってみて」
「あら、紫、こんなの持ってたんだ」
珍しそうな顔でそれを受け取る幽々子。
「――――――」
「…幽々子?」
扇子を持った幽々子は、何も言わずに紫から少し離れると、一度、礼をした。
そして、舞が始まった。
その舞は、幽々子が生前紫に見せてくれた、最初で最後の舞。
美しかった。桜吹雪の中、蝶の様に舞う幽々子の姿。
紫はその光景に、あの頃の日々を重ね合わせる。
桜の木の下で幽々子と出会った事。友達となったあの日の事。
桜の木の下で幽々子と過ごした事。かけがえのない時間の事。
桜の木の下で幽々子と―――お別れした事。大切なものを無くした事―――
幽々子の舞が、終わった。
「………………」
紫は、目の前に居る今の幽々子に手を伸ばし、頬に触れた。
「…? どうしたの……?」
一瞬、紫は淋しそうな目をした。が、すぐに微笑んで、
「良い舞だったわ、幽々子」
「…うん、ありがとう…」
少しくすぐったそうに照れる幽々子。そんな彼女の姿を見て、紫は思った。
例え幽々子が昔と違っても、自分は、今の幽々子を大切にしようと。
「…それに、あなたはもう、一人じゃないものね」
「………ん?」
幽々子が首を傾げる。その仕草を見た紫は、何となく幽々子の頭を撫でる。
「ちょっと、何するのよ」
「あ…ふふ、ごめんなさいね」
「全くもう……」
恥ずかしがりながらも、満更でもない幽々子の顔。その時。
「幽々子様ぁ~」
向こうの方から、西行寺家の専属庭師二代目兼お嬢様の警護役、そして妖忌の孫、魂魄妖夢が走ってきた。
「どうしたの? 妖夢」
「それが―――」
「お客様だぜ」
「お呼ばれしてきたわ」
妖夢の後ろに、白黒の服を着た人間と、紅白の服を着た人間がやってきた。
「あら? 私、あなた達を呼んだかしら?」
幽々子も、この二人が勝手に来たという事を知っていて、言った。
「呼んでないですよ、幽々子様。だからこうして私が止めようとしたのですが―――」
「まあいいじゃないか。花見なんて、人数が多ければ多い程いいんだぜ」
「桜の木に対して、人数が少なすぎるわ。あ、人じゃないか」
妖夢の言葉を遮る様に、幽々子に話しかける魔理沙と霊夢。その様子を見て、紫は思わず吹き出してしまった。
「ぷっ………ふふっ、いいじゃない、妖夢。入れてあげれば」
「そうよ。固い事言わないの、妖夢」
紫の意見に、幽々子が賛同する。
「うー…分かりました……」
「そういう訳で、いい?」
そう言って、二人に微笑みかける紫。
「おや、あんたは…」
「起きているのね、寝ぼすけさん」
「ふ、ふふ、久し振り。そういう訳だから、あなた達も一緒にどう?」
「元よりそのつもりだぜ」
「はい、お酒」
「気が利くわね」
「勿論よ」
全員桜の木の下に座り、霊夢からお酒を受け取った紫は、どこからとも無く開けたすきまの中から、盃を取り出した。
「はい、どうぞ」
「気が利くな」
「ありがと」
「はい、妖夢」
「ありがとうございます」
次々と配られてゆく盃。
「……あら? 一つ多いんじゃないの? 紫」
「…ふふ、いいのよ」
一つ余計に用意された盃を、自分の隣に置く紫。そして、その盃にゆっくりと酒を注ぐ。
(何だか、あなたの事も思い出しちゃったわ)
紫の脳裏に浮かぶのは、ある日突然頓悟した、先代庭師の姿。彼がその様な行動に至るまでの経緯、心中などは、紫には知る事は出来ない。今の彼女に出来るのは、代わりに幽々子を見守る事くらい…
「さて、乾杯しましょうか」
桜吹雪の白玉楼。その中の一本の桜の木の下で、二人の少女が寝息を立てている。木にもたれかかり、寄り添う様に。
「幽々子様~…紫様~…」
その二人を、困った顔で見つめる妖夢。起こそうか起こすまいか、考えあぐねている。
「止めとけ止めとけ。このお嬢様はともかく、こっちの寝ぼすけは、一度寝たら中々起きないだろ」
そんな妖夢を、魔理沙が諫める。
「う……でも……」
「まあ、いいじゃない。それに二人共、何だか幸せそうな顔してるわ。邪魔するのは野暮ってものかしら?」
霊夢も魔理沙の意見に同意する。
「…分かったわよ…でも、後片付けをする時には起きて貰いますからね」
寝ている二人に言葉をかけ、妖夢は別の場所へと歩いていった。他の花見客(幽霊)の様子見の為である。
「さて、私らはどうする? 霊夢」
「まだお酒は残ってるのよね? だったら、全部飲んじゃいましょう」
「おお、豪快だな」
「あなたも付き合うの」
「ははは」
魔理沙は苦笑しながら、霊夢の盃に酒を注いだ。
「でもこの二人って」
「ん?」
酒を飲みながら、霊夢は相変わらず眠りこけている幽々子と紫を見た。
「仲がいいのね。まるで親子か姉妹みたい」
「そうか? 私には、むしろ………」
「…何?」
「いや、何でもない。気のせいだ」
「何? 酔ってるの?」
「まあな」
霊夢の言葉に答えると、魔理沙は再び酒を呷った。
(……何なのかしらね)
薄ぼんやりとした頭で、紫はそんな事を考えていた。少し前に目を覚まして、面倒臭いのでそのまま目を瞑っていた矢先、魔理沙の言葉を聞いた。
(ねえ幽々子。あの時、あなたにとって私は何だった?)
紫自身、幽々子の事を大切に思っているのは確かだが、この二人が言う様なものなのかは、良く判らない。そして、幽々子は紫の事をどう思っているのだろう。特に亡霊になった現在は―――
(まあ、いいわ)
無理に訊く必要は無いだろう。
(今あなたが隣に居る事。それが何より嬉しいもの)
そのまま紫がもう一度寝ようとした時、ふと幽々子の手が自分の手に重なっているのに気付いた。
(………)
紫は、その手をそっと握り締める。亡霊であるはずの幽々子の手は、少し温かく感じられた。
(…おやすみなさい)
そして眠りに落ちる瞬間、幽々子の手が握り返してくるのを、紫は感じた気がした。
桜吹雪の白玉楼。その中の一本の桜の木の下で、二人の少女が寝息を立てている。木にもたれかかり、寄り添う様に。
その手に、互いの温もりを感じながら。