「こんにちわ、幽々子」
「こんにちわ、紫」
桜舞う西行妖の前。二人の少女は向かい合って挨拶をした。
こんなやり取りを何度繰り返したことだろう。良く憶えてはいないが、確か十年くらい前から始まったのかもしれない。
あの日から、紫はしばしば白玉楼を訪れた。―――幽々子と会う為に。
幽々子と過ごした時間は、紫にとって大切なものとなった。
幽々子は紫に色々な事を話した。家の事、妖忌の事、自分の事、西行妖の事。
紫は、ただ一緒にお喋りをする事がこれほど楽しいものとは今まで思わなかった。
二人は西行妖の下で、二人だけの時間を過ごしてきたのだ。
それは、何にもまして、かけがえの無い時間だった。
「今日はね、とっておきの話があるのよ」
「へえ、なあに?」
そして今日も、今までと変わらないやり取り。
「この前、妖忌の孫が生まれたのよ」
「あら、おめでとう。それで、名前はなんていうの?」
「妖夢っていうの。可愛いでしょ?」
「ええ、そうね」
それから、幽々子は妖夢がいかに可愛いかをたっぷりと説明した。その口振りから、妖夢を相当可愛がっているのだな、と紫は思った。
「幽々子は、とっても妖夢を大事にしているのね」
「ええ……私にとっては、妹みたいなものだから」
「今度、私にも見せてくれない?」
「うん、妖忌がいいって言ったらね」
紫は、あの頑固爺の顔を思い出して、苦笑した。
「……言うかしら?」
「……ふふ、分からないわ」
幽々子も同じ事を考えていたのか、紫と同じく苦笑していた。
「さて、そろそろ帰らなきゃね」
紫が、立ち上がった。
「え……もう?」
「ええ。ちょっとお仕事があるのよ」
「あ…そ、そうなんだ。それじゃあ、仕方無いわよね……」
幽々子が見せる寂しげな表情。少し心が痛んだが、仕方無い。
「ねえ、紫」
「ん?」
急に幽々子が立ち上がった。手には、幽々子愛用の扇子。
「私の舞を、見て欲しいの。……忙しいのは分かってるけど………お願い」
幽々子が、真っ直ぐ紫を見据える。その瞳は、初めて出会ったあの時と、何ら変わってはいない。
「………………分かったわ」
急ぐ仕事でも無かった。それでも、依頼主がもし何か文句を言ったらすきまにぶち込んでやろうと思って、紫はその場に座った。
「さ、お願い。見せて?」
「………うん」
そして、舞が始まった。何か音楽が無いと盛り上がりに欠ける、と紫は思ったが、それは間違いだと知った。
自然と、背筋が伸びる。ひらひらと、蝶の様に扇子が動き、流れる様な幽々子の体裁き。
くるくる。くるくる。
その動きに、桜の季節では無いにも関わらず、紫は桜の花弁が舞う風景を、幻視した。
「――――――ふうっ………」
しばらくして、幽々子の動きが止まった。舞の終わり。幻想の終わり。紫は、しばしその余韻に浸っていた。
「………………すごいわ………幽々子………」
紫は、やっとその言葉を喉から搾り出した。言葉を失う、という事は、こういう事なのだろう。
「………ありがとう…ちょっと、恥ずかしかったけど……」
俯いて、幽々子が照れる。紫は、くすっと笑い、
「恥ずかしがる事なんて無いわ。とっても、立派だったわよ。胸を張りなさい」
赤く染まった頬を、手で触れた。
「ぁ………」
「それに、とっても綺麗だった………」
「ゆ…紫……」
益々顔を赤くして照れる幽々子。その手が、ぎゅっ…と扇子を掴み、
「紫っ……! これ…! あげる…!」
ぐっ、と紫の眼前に、扇子を突き出した。
「えっ……? でも、これは…幽々子の大切な物なんじゃないの……?」
いきなりの幽々子の行動に、戸惑う紫。
「いいの。大切な物だから、あげる…!」
幽々子は、扇子を無理矢理に紫に握らせた。
「え、ちょっと」
「紫………………!」
「――――――っ!?」
不意に、身を乗り出した幽々子の唇が、紫の唇に触れた。
「さよなら、紫…! お仕事、頑張ってね…!」
そのまま踵を返した幽々子は、振り返る事無く白玉楼へと走っていってしまった。
「幽々子………!? 何なのよ………!?」
訳も分からず、紫が叫ぶ。しかし、その声は幽々子には届かなかった。
そして、去り際に幽々子が流した涙も、紫には届かなかった―――
「っ……! はあっ……はあっ……!」
縺れる足をそのままに、幽々子は自室へと駆け込んだ。その衝撃で畳に倒れ込み、ばたんと音を立てる。
「うっ……くっ…! 駄目っ………来ない、で………!」
頭ががんがんとする。ここ数ヶ月で、段々と大きくなってくる、頭に直接響いてくる、謎の声。
―――最初は、幻聴かと思った。しかし、そうで無い事は、すぐに分かった。幽々子は、その声を聞いたその日から、自分の能力が段々と強くなってきているのを感じていた。それに比例して、頭の中の声も大きくなってきていた。
「嫌あっ……! 私の中に、入ってこないでぇ……!」
耳を塞ぎ、目を閉じ、体を縮め、ひたすら耐える。
「……紫っ……! ごめんなさい……!!」
涙が止まらない。あの時、そのままずっと紫と居たら、きっと紫を―――
何故かは分からないが、自分の『何か』がそう告げていた。だから、逃げた。紫に何も言わずに。
―――そして、こうも感じていた。今日が、紫と会う、最期の日。なのだと―――
「………………………………」
―――ひかりで、めがさめた。
あたまのなかが、いつになくすっきりしている。からだも、なんだかかるい。
ああ、おなか、すいたな。そういえば、きのうのよるは、なにもたべてないんだった。
しょくじ、しなきゃ。ろうかにでる。あ、おとうさま、おかあさま。おはようございます。
――――――いただきます――――――
………おいしかった。なんていうたべものだろ、これ。なんだかとってもあまいよ。
………でも、たりないや。もっと、たべなきゃ。…よかった。ここには、たべものがいっぱいある。
ふう、おなかいっぱい。ところで、みんなねてるけど、どうしたの? ………まあ、いいや。
………そういえば、まだ、ひとり、たべてない、よ。
ああ、いたいた。まだねてるのね。………ふふ、かわいい。
―――ようむ。わたしの、かわいいようむ。こんなにちいさいあなただから。
アナタノタマシイハ、トッテモオイシソウ――――――――――――
「――――――――――――お嬢様っっっ!!!」
ばあんっっっ!!!
「――――――っっっっ!!!?」
その声で、幽々子は目を覚ました。
「お嬢様!! 大変です!! 皆が、皆が………!!」
「………………!!!」
そして、思い出した。自分がした事の、全てを。
私は、皆を。お父様を、お母様を。そして、あまつさえ妖夢を―――
「あ……あ……あああ………」
がくがくと震える。歯の根が全く噛み合わない。頭の中が真っ白になり、立っていられない。
「…お嬢様!? お気を確かに…!」
様子がおかしいと感じた妖忌が、幽々子に近付く。
「―――来ないでっっ!!」
「!?」
幽々子の叫びに妖忌が戸惑った隙に、幽々子は部屋を飛び出していた。
「お嬢様っ!?」
制止の言葉なんて、聞こえない。ただ、ひたすら走った。走った。そして―――
「お嬢様………!!」
辿り着いたのは、楼の最上階、西行妖がよく見える場所。その西行妖が。
咲いていた。周りの桜の都合などお構い無しに。季節などお構い無しに。むせ返る程の大量の花弁を湛えて。ただただ全力で。
「………」
幽々子はそんな西行妖を、呆と眺めていた。その手には、光る短刀。
「お嬢、様………」
「―――妖忌、来ちゃ、駄目」
すっ、と短刀を妖忌の方へ向ける。
「お止め下さい、お嬢様。何故、その様な事をなさるのですか?」
妖忌は、知らなかった。この惨劇の原因が、幽々子にあった事を。
「………妖忌。私は、大好きな皆を、この手で死に誘ってしまいました」
「なっ……!?」
「そして西行妖は、私が作り出した死をよって、今まさに満開です。―――それが、西行妖なのです」
「………!!」
ざわり。
西行妖が、震えた。それは風の所為なのか、それとも、西行妖に意志があり、幽々子の言葉を肯定したとでも言うのか―――
「妖忌。長い間、それこそ私が生まれる前から、この屋敷を護ってくれて、ありがとう」
幽々子は西行妖の方へ向き直ると、一歩ずつ近付いていった。
「……!! お嬢様、何を……!!」
「―――来ないで」
幽々子を止めようとした妖忌は、しかし幽々子の冷えた声にたじろいだ。
「………私は、西行妖に…死に、魅入られてしまいました。ここに居るのは、西行寺幽々子では無く、西行妖に死を運ぶ、一匹の胡蝶です」
思えば、幽々子が聞いたあの声は、西行妖の声だったのかも知れない。幽々子はそう思った。
「しかし、私はその様な事、受け入れる訳にはいきません。………妖忌、あなたに一つ、頼みがあります」
「………何、でしょうか………」
「私の体を使って、西行妖を封印して下さい。もう二度と、この様な事が起こらぬよう………」
「―――!!」
妖忌の体が、強張った。幽々子の体を使う。それは、つまり―――
「封印の方法なら、きっと西行寺家の書架に資料があるでしょう。後を、宜しく頼みますよ」
「っ……!! お嬢様………!!」
そして、幽々子は振り返り、妖忌に微笑みかけて。
「―――最期まで、我がままを言ってごめんなさい。私、ここに生まれて、皆と出会えて、本当に」
「お嬢様っ……!!」
――――――とんっ
随分と、軽い音がして。
幽々子の胸に、短刀が深々と、突き刺さった。
「妖忌、妖夢、紫………ありがとう………………………ごめんなさい………………………」
―――――――――ざわっ―――――――――
その時、一陣の風が吹いて。幽々子の体が宙へと投げ出され。
花弁が。血飛沫が。―――涙が。ゆっくりと、舞いながら。
地上へと、吸い込まれていった。
「―――――――――お嬢様ぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっっっっっっっっ!!!!!」
その場に残されたのは、妖忌の叫び声だけだった―――
紫は、白玉楼に向かっていた。その手に、幽々子の扇子を持って。
「やっぱり、受け取れないわよ」
本人はいいと言っていたが、それでも気が引けた。それに、あの時の幽々子の態度。幾ら何でも気にならない方がおかしい。それを問いただす為にも、紫は道を急いだ。
「―――何?」
白玉楼に近付いた時、異変に気付いた。いつもなら、屋敷の中に入ってからでないと感じる事の無い西行妖の気配が、既にここまで漂っているのだ。
「何か、あったの?」
嫌な予感がした。
―――何もかもが、遅かった。
大量の花弁が降り注ぐ、西行妖の下で。
紫を迎えたのは、物言わぬ幽々子の亡骸。
「 え」
その光景を理解するのにどのくらいの時間が掛かったか、紫にはもう判別がつかない。ただ分かったのは、何か生暖かい液体が、自分の足下に流れてきた事だけ。
「幽々、子?」
足下の液体には目もくれず、幽々子に近付く紫。
「何、こんな所で寝てる、のよ」
抱き上げる。紫の服に幽々子の血がべっとりと貼り付くが、気にも留めない。
「風邪、引くわよ」
体を揺らす。起きない。
頬を軽く叩く。―――ぞっとする程、冷たい。
そして、見つける。幽々子の胸に深々と突き刺さる、短剣。
ずる、と引き抜く。そこからまた溢れ出す、血。
「あ、ああ、ああああ、あああ、あ、ああ、あ」
そして、紫は何が起きたのかを、理解した。
「ゆ、幽々子、幽々子………幽々子! 幽々子!!」
堰を切った様に、流れ出す言葉。しかし、そのどれもが、幽々子には届かない。
「ねえ! 起きてよ!! 目を開けてよ!!」
閉じられた目は、二度と開かない。
「幽々子………………!!!」
止まらない、涙。幽々子の頬に落ちては、零れてゆく。
「うわああああああああ………………………!!!」
かつて、これ程胸が張り裂けそうになった事は無かった。生きている自分まで、冷たくなっていく様な感覚。大切なものをどこかに失くして。
紫は、幽々子の亡骸を抱きしめたまま、その場で泣きじゃくる事しか出来なかった………………