5話 4話 3話 2話 1話 の、続きです。
博麗の巫女が半身である急須と惜別し重い腰をあげて私をおとなうとすれば、ノルマ向上の労働の啓示――巫女の掌管する仕事である人間の罪人の対処を、実は今まで私はサボっていたのだ――という啓示が脊髄を貫くことが必要だった。
この博麗神社の縁側に遅ればせながら入ってきた迷惑千万なスタハノフ運動の啓示の使者は、八卦を着ていなかったか。
「お前が呼んだのか」
私は八雲紫を見る。
「いいえ、私は彼女に知らせずことを済ませるつもりでしたから」
「私を退治させるために呼んだのではないのか」
「二度は申しません」
「魔理沙、いま何ていったの?」
巫女は胸に芝居臭く手を当てて、役者が子音を強調するように、わけても破裂音、具体的には「タ」に重点を置いた声色で疑問を呈した。
「退治ですって。私が魔理沙を。ふーん、変なこと考えるのね。退治はしないわ。どうして」
言葉とは裏腹に疑いなく、私の置かれている状況を把握している。雰囲気は緊張をはらみ、触れれば棘が刺すだろう神経の張りつめを感じさせる。
ここで窓を割って逃亡し、アリスやパチュリーに百年ほど匿ってくれと低頭平身し、対価として奴隷労働の苦役に生きることも出来たかもしれない。
だが話も見えないうちに霊夢を相手にしっぽを巻いて逃げ出す気分になれず、彼女の出方をうかがう。
「ちょっとナイーブな心持ちでね。てっきり住み慣れた我が家を追い出しに来たのかと思って、お別れの言葉を考えていたんだが。『願わくば未来の世代をして、一切の悪と抑圧と暴力を一掃させ、人生を心ゆくまで楽しませよ』というのはどうだ」
「そう、まあ、たまにはしおらしくしたら?」
まずは会話が始まるだけの穏当な立ち居振る舞いがなされることに胸をなで下ろした。
最悪、問答無用で特大の陰陽玉と共に幻想郷から放逐されるかもしれないと危惧していたのだ。
果たして霊夢はさらなる言葉を続けた。
酒場から無一文の酔っ払いが蹴り出されるような扱いを受けずに済んだ訳で、私はひとまず椅子に座って安堵した。
「ねえ魔理沙、私たちってほんとう、いろいろな事件が向こうからやってきて大変よねえ」
「はぁい霊夢。八雲紫もいるわよぉ」
ひらひらと満面の笑みで手を振っている。霊夢は構ってほしげな紫のおどけた媚びを一切を無視して私に語りかけた。
私は霊夢の態度に感服した。それは実際、徹底した見事な処置だった。愛想を振りまくこの妖怪を視界には入れたが、役者が台本の無意味な部分を省くように、わけても記号約物、具体的には句読点を冷たく眇めるように、まったくご褒美になる仕草を与えなかった。
なるほど、奴に対して「少し黙ってろ」と聞かせるのはこう扱えばいいのか、と心の内で感心して、忘れたころに真似してみようと記憶に控えるのだった。
「ドアを壊したことを許してくれるわよね」
どうってことない。私は態度を軟化させようとへりくだってほほえむ。口も軽くなろうというものだ
「ああ、許すとも。もしも扉を壊し足りなかったら、裏口を蹴破ってきてくれていい。謙遜する訳じゃあないけれど、立て付けが悪くて湿気ているから、バキッと軽くて、中はしっとりとしたいい蹴りごこちだよ」
「安心して、家を壊しにきた訳じゃあないわ」
「そうだろうよ、まあ入ってこい。で、ご用の向きをお伺いしようか」
既に息も絶え絶えであった精神が、進行していく厳然とした現実を支える張力に耐え切れず悲鳴をあげていた。とにかく私にはあたたかい友情と、ゆったりした安息が急を要して与えられなければならなかった。私は霊夢に是非ともそれを見いだしたく、多少のトゲならば見ないことに決めた。
巫女はにこりと笑った。
だが口唇が水平に戻ろうとする刹那に、わざとだろうか? 女神ヘラの陰鬱な相が宿り、私の怖れている結果を先取りした。
果たして私は喋る前から霊夢の訪問の意図を、誤魔化しがきかないまでに悟ってしまった。
「分かった、やめろ」
私は思わず天を仰いだ。
梁がぐるぐると、目眩で溶けていた。
ここで想像してみよう、大結界に影響せず、妖怪退治の邪魔もせず、未だ異変でもない一個の人間を。そう、何一つ、過ちを犯していない者が居たとしよう。まったく普通の、善良な市井の人だ。
ただ一点、その者が未来において次のごとくあると予想しよう。すなわち妖怪に対する猟奇殺人者、巫女より自らを上に置き命を革めんと目論む秩序紊乱者、人間を保護せず、憎悪し、隙あらば陥れんとする悪意ある存在。
敵対するもの。
羽化登仙した未来の霧雨魔理沙の悪口の化粧はごてごてと、いかにも犯罪の印象をかき立て恥知らずの挑発を専らとする娼婦的な修辞が満艦飾であり、まるでジャン・ヴァルジャンに対する虚実入り交じった糾弾のごとく、稀代の大悪党の姿を醸し出すことに成功している。
だが今の話ではない。その実態はただの妄想であり予想図であり、私は現に幻想郷のいかなる共同体及び個人に対する侵犯も行っていないのだ。
誰が裁く?誰も裁けない。では沙汰やみか?いや、私闘となる。私は問いを続ける。誰の?当事者と当事者。名前は?霧雨魔理沙と八雲紫。理由は?人間の少女は人生の直接の利益代表であることによって、妖怪の賢者は幻想郷の直接の利益代表であることによって。
そう、巫女の3つの仕事、大結界の維持と妖怪退治と異変解決にはなんら関わらないことから博麗の巫女にも裁かれず、人間に対して殺人強盗その他の罪を犯していないことから里の寄り合いからも裁かれない私は、代わりに個々の関係の闘争に巻き込まれる。
妖怪の賢者は幻想郷を幾星霜自ら苦労して備え、作り、治め、保ち、強く強く所有の観念を持つに至るが故に幻想郷そのものであり、危機に際しては未然に、ある種の冷酷さをもって臨む理由があった。我々人間がこの大妖怪の紫雲たなびく内なる伽藍の造作を僅かばかりでも把握可能であるのは、まさにこの幻想郷への眷々たる執念をよすがにすることによってである。仮に八雲紫が幻想郷に一切の関心を払わない存在であったとすれば、我々を覆ういかなる理解も拒絶した沈鬱とした災厄となるだろう。私が八雲紫を信頼するのもこの我執の域に入った行動においてである。
博麗霊夢が霧雨魔理沙の個人的な破滅のまたたきに対して一握の焔硝を投げ込む理由は不明であれど、しかし確かなことは、霊夢の態度は、当事者であると主張しているのだった。しかも友人である私の側の皿ではなく、もう片方の皿に乗るというのだ。実に冷血なことだ。
「うーん、苦しい。私は真っ当だ。友人の一人ぐらいいるさ。そうだろう。だからちょっと待ってくれ。頭を整理したい」
疲労して熱くなった額では考えがまとまらず、何を喋っているのか、何をしたいのか、いつものごとくまったく分からなくなった。出した答えがこれだ。
「そう、霊夢は友達の家に遊びに来たのだろう?」
最後の紅茶を飲み下し、霊夢の言葉を待った。
「遊びに来た訳ではないわ」
無力な私では何も選べない。なすがままなのだ。この問答、霧雨魔理沙のサナギの処理方法は、どこの家が掘りすぎた余りの芋を我慢するかといったことに決まりがないのと同じように、荒野の唯一の法律、力の多寡によってのみ理解される。
天秤の片側で、幻想郷と釣り合わぬ重さに戸惑っているばかりの霧雨魔理沙は、無慈悲にも幻想郷そのものであるもう片側の八雲紫によって、転職か、放逐か、死かを強制されており、答えはイエスかノーしかあり得ず、せいぜい発露の自由、拒否つまり侮辱か、肯定つまり服従かの表現の違いが残されているばかりなのだ。もちろん八雲紫に対する不足するとはいえない多種の侮辱を悪童を気取って選び取ることや、反対にこの妖怪の従順なチワワと化し、しっぽを振り振りするメトロノームのテンポの設定をなどの細部は私の創意にまかされるかもしれない。しかしそこに便所虫の跳躍の高度以上の価値があろうか?
そして私は霊夢にも劣っていた。したがって究極的には霊夢の言うことにも同じように従わなければならないはずだった。
「紫を見ろ、ほら、沈黙している。彼女が私を、霧雨魔理沙を博麗の巫女とすることを承認したのであるのならば、誰も私を裁けない。しかして霊夢はどう裁く、不可能だ、やめろ。それでもなお話を蒸し返すということは、私を博麗の巫女にすることでもなく、外界への放逐することでもない」
「冴えているわね」
「第三の解決策を呈示しようというのだろう」
それは確実に私の生命の断絶を伴う方策だった。
「そうね、私の望みは、あなたを殺すことよ。たぶんね、そうするのが良いのじゃないかって」
いざ実際に霊夢の口から発された意味に私はびっくり仰天ひっくりかえり、巫女の正気を疑った。
「え。耳垢が溜まっているから、くぐもって分からないよ」
「殺すって言っているの」
聞かれたから答えるとばかりに、霊夢は容赦なく言葉の鞭を再度振り下ろした。
それは、心に大きな風穴を開ける一撃だった。
「気が触れたのか! 人殺しになるつもりか、何故私が殺されなければならない」
立ち止まった霊夢は、警戒するように重心を両足に乗せ、肩を平らかにし、わずかに襟にかかる髪を邪魔だとばかりに乱暴にまとめた。
霊夢の髪には黒色には、色そのものが抜け落ちたような特殊の艶があった。それが羽を広げるような動きをする姿に私は一瞬気をとられた。
「何故私を殺す」
「それは……私の役目よ」
「答えになっていない。それに、巫女は殺人を犯さない」
「そう思うなら楽な仕事ね。じっとそこに居ててね」
「解決策はいくらでもある。知らないのなら教えてやる。おい霊夢、最後まで聞け。霧雨魔理沙の変貌は未だ異変ではない。仮に変貌しきったところで私は人間だ。この私の幻想郷への挑戦は個人的なもので、私を制裁するのは巫女の仕事ではないだろう。妖怪の賢者と当事者、すなわち八雲紫と私で済まされる性質のものだ。それに、よし、私がひとつ神道を講義してやろう。曰く、死は穢れ。避けるべきである。膿沸き、虫流る、違うか?」
私は落ち着け落ち着け、とジェスチャーし、八雲紫に目で『早くこいつの分の例のダージリン地方の由緒ある農園の最高級グレードを準備して、ブリア・サヴァランもぐうの音も出ないような有名店のトリュフたっぷりの特級チョコレートを与えてくれ!』と力を振り絞って訴えかけた。言うことを聞けと強く念じた結果か、この頼もしい女テレパスはうなずき、「ご安心ください。邪魔はしません。私などが関与してよい問題ではありませんから」と請け合った。私は話が違うと詰め寄った。
「私は妖怪に対して影響力を持つという話はどこへ行ったのだ」
紫は注意深く、行く末を見守るようにおとなしく座りながら語りかけた。
「どうやら、私が霊夢を止めるのは最良の選択ではないのでしょう。そして一言忠言を、霊夢は八雲紫を信用していないと、私の言うことを聞くなと、そう言っているのです」
霊夢は紫にようやく反応をしめし、睨み付けた。
「そうよ、私はあんたを信用していないわ。魔理沙に何を吹き込んだの?」
「おい霊夢、紫は別に私を殺そうとはしていない、お前が私に一番重罪を科しているんだぞ」
「違う。そう、あなたのような存在は殺される、そういう事実が必要なの。まだ何の罪を犯していないからといって見逃される決まりは幻想郷にはないわ」
のうのうと死を受け容れる説法を繰り返す霊夢に私はいよいよ頭に血が上った。
乱暴に机をたたき、罵声を浴びせかけた。
「馬鹿じゃないのか。霧雨魔理沙死すべしだって? よくもまあ、人の生き死にについて、思いつきの標語に堕としてくれるものだ。いつまでたっても上等な巫女服に負け、お仕着せ感の抜けない山出しの日本猿の無学な思いつきときたら、さすが尋常一様のものじゃあないな。お前は繕っていても結局は山賊なのだ。生来的犯罪者説という外界の観念を知っているか、知らないだろう。お前のそれは初歩の初歩の野蛮なものだ。このたびは不幸にも、犯罪者と類人猿との骨格的特長の類似を指摘するロンブローゾ氏の偏見のこだまが幻想入りし、哀れな巫女の頭にぶつかり、その衝撃で霧雨魔理沙の精神的骨格と未来の無軌道な源頼家との精神的骨格の類似を見いだした訳だ」
「もくもくとまあ、藁は炊き終わった?」
「まぁな」
私は紅茶を飲もうとして、そこに一滴も入っていないのにいらだち、乱暴に元の場所に戻した。
そして収まらない言葉を吐き出し続けるのだった。
「しかし、ひとこと付け加えるならば、事実、私の行く末には思い当たる節があるからそれはいい。だが、だからといって刑罰をお前が決める方度があるのか。しかも私は巫女になることに同意したのだよ。今更『やあ魔理沙こんにちわ、死んでもらうわ』なんてお前が出てきたところで、うまうまことが運ぶかよ。別に私はお前に巫女をやめろと言っている訳ではないぜ、巫女が二人居てもいいんだよな、紫」
「ええ、構いませんよ。博麗の巫女という幻想と、実際に博麗の巫女の種々の能力を受け継いでいるかとは関係がありませんからね。要は巫女服を着て神社に住まえば良いのです。今は、それで良いでしょう。幻想郷は寛容ですので」
「紫も、魔理沙も、つべこべ言っているけれど、決定した運命に向けて小石を投げ込むのは愚かだわ」
「具体的な運命として立ちはだかるお前の顔面に小石を握った拳をたたき込むとなれば、美しい人間の抵抗として、多少なりとも愚かさは薄まるだろうよ」
とるものとりあえず八卦炉と魔術書が服の隠しに入っているのを確認して、いつでも取り出せるようにした。だがこの細心の注意を払ったはずの武装蜂起未満の健気な陰謀は、霊夢にとってはこれ見よがしにサーベルをガチャガチャさせ白昼堂々と練り歩く行進と同じであったようで、すぐにバレてしまった。
霊夢と目が合ったので、開き直って武器を見せびらかし、机の上に自慢するように陳列して商人のように愛想良くとぼけた笑顔を振りまいた。
「えーと、今まで何の話をしていたのだったっけ、忘れちゃったよ。やあ親友じゃないか、ところで私はもうダメだ、ほら私の頼もしい仲間たちも降参だ。もう一藁で心が潰えちゃうよ。難しいことは明日にして、昼寝をしないか。そうしたらまた明日、また明日だ。永遠に留保しよう」
「ふざけているの?」
「真剣だ。真剣に消毒薬を飲んで自殺したい気分だよ。そんな気分を吹き飛すためにも、もう一度舌で祝詞をえがくように、私の鼓膜をうがつように、朗々たる友情のしらべで私を圧倒しておくれ」
「私、人を殺したことがないから何を武器にしていいか分からなかったの。陰陽玉でも御幣でもない。私も真剣よ、私が死ぬかあなたが死ぬかするまでここから出られると思わないことね」
ダメ押しとばかりに、精神の傷口に向かって、無慈悲にも巫女のきつい金釘付きの鞭が打ち付けられる。
その打擲は私の一番畏れていた、聞きたくなかった可能性の腫瘍を直にえぐっていった。すなわち、霊夢の基準において私は生存する権利を喪失したのだと。
そして可愛げのある霊夢。お前が八卦炉に対抗して取り出したのは、その凶器は、まさか一般的に包丁と総括して呼ばれる調理器具じゃあないのか。
私は強がって震える声で軽口をたたいた。
「おまえはうい奴だな。それで札でも針でもなく昼飯にゴボウを切断するのに使った包丁を持ちだしてくるなんて、かみしもがごっちゃじゃあないか。百年は語りぐさになるぜ。まあ次の宴会の笑いのタネにでもしようじゃあないか。その物騒な光り物はひとまず置けよ。私を生かしながら幻想郷を平和裏に続ける方策を教えてやってもいい。簡単だ、お前が冷静になればいい」
私は刃物が皮膚を切り裂く痛みを想像し、ふと手もとに不如意を感じたので、身の備えのために机の上の商品を手元に戻した。そして八卦炉に魔力を充填させながら何気ない風を装った。
「結局、お前は何故私を殺すんだ」
「分かったわ」
しばらくためらったあと、霊夢は吹っ切れたように述懐を始めた。
「言うわよ。私はね、自分でもどうしてこんなことをしているか分からなかった。でも魔理沙、あなたが紫の口車に乗って博麗の巫女になっても、外界へ行っても不幸になると思っているの。だからといって今のまま捨て置けない。ならせめて、幻想郷で転生してほしいの。そう、これが本心なの、きっとね」
私は怒濤のごとき衝撃的な告白を受けて、今度こそびっくり仰天ひっくり返りった。
予想だにしなかった情の問題だ、と私は思った。友情か恋情か、それとも親心に似たものか、とにかく理屈ではないのだ。そして同時に、これはもう和解不可能な問題であるのだという確信に至り、視界が真っ黒に染まって、一瞬めしいになり視力を喪失したのかと自分を疑ったほどだった。
「そ、そうか。私のことをそれほど心配してくれているとはな。ついでに私の生き汚い本性にも気を配ってくれるといいのだが。そうだ、思い出話をしよう、私たちが出会ったのはまだ背丈が半分の頃だったかな」
「建前もあるわ。あなた、もう立派な異変よ。理屈を捏ねるのは結構。決めるのは私。私の仕事は、異変解決、ってね」
巫女に追慕の念を教えてやろうと始まった私の思い出話は、彼女に貸してやった私の装飾品の価値を思い出される前に破綻した。
これで終わりとでもいうふうに唐突に霊夢は包丁を投げ飛ばしたのだ。私は指一本動かすことができずにただ座っていただけだったが、運良く霊夢は狙いを外して刃を床に突き刺した。
私の耳元の風切り音がいつまでも止むことなく平行覚にくらくらと響く。
「頭を狙ったのだけれど」
「今日一番のいいことがこれだ。やるせないよ」
私は包丁の回収を試みるが、躊躇するところがなかったのか、刃が床板を貫いていた(馬鹿力め、と私は毒づいた)ので、なかなか抜けなかった。2,3度ばかり試みた後に拍子が外れて、包丁を引き抜いた私は尻餅をついた。
このちっぽけな調理器具から放射される勝利の観念が心の底を振るわせ、勇気が沸いてくるのを感じ、包丁を霊夢に見せびらかした。
「形勢逆転だ。これで私は運命の勝利者だ。まあ落ち着け。私たちには生きて幸せになる権利があるとは思わないか」
霊夢は黙って錆びた肉切り包丁を取り出した。
「さすが巫女様。備えあれば憂いなし、ってなもんだな」
ここで、じっと黙考していた八雲紫が口を挟んできた。
「霧雨魔理沙、あなたは宴会で、霊夢は今の幻想郷の象徴であり、未来の幻想郷の象徴ではないとおっしゃっていましたね。正鵠を射ています。今まさにあなた方が幻想郷のふたつの可能性を象徴しています。巫女を必要とする幻想郷と、必ずしも巫女を必要としない幻想郷。霊夢、まずいことをしましたね。あなたが攻撃を外すことは、深い意味を持つでしょう」
「うっさい、おまえは消えろ」
符が紫ののど元に陰のように滑り込む。
それは紫が護身のために張った結界をはじき飛ばし、朗朗と時代精神思想を語るのど元に刺さろうかとした瞬間に空を切り、天井に刺さった。
紫は一瞬だけ姿を消したのだろう、今は再びもとの場所に居た。
私はこの二人を見ながら、もしも今でなければなかなか意義深い時間を過ごせただろうに、と残念に思った。
「私はな、霊夢、卑近な言い方でいえば、今の生活を崩したくない。私は私の行く果てを見てみたいし、綴られていく自分の物語に救済の余地を残していたい。今死ねば私は道化だ。里の人間にも劣る敗北者だ。私はこんなところで終われない」
そう、私の家には紅魔館のように天井や壁面を回すドリス式円柱に支えられたエンタブラチュア・メトープのスタッコ細工もなければ、彫刻「死に行くゴール人」のレプリカもないし、受胎告知もキリストの降誕も聖アントニウスの誘惑も飾られていないし、私のイニシアルM.Kが刺繍されたスイカズラのギリシャ文様の絨毯もないが、半生をかけて作り上げたキノコの培養素地と各種の溶剤、抽出液及びレシピ集があり、私がその場の一瞬に砕かれた石目を捉え、総合し、完璧な私を目指す創作上の切片が蓄積された書斎があり、アリスやパチュリーからの、私自身の目標として駆り出され、しかも未だ越えることのできない借り物があり、それこそ机の傷の細部の細部にまで宿る私自身があった。
この財産から切り離され、いかなる事情であれ私が裸一貫になることは、単純に破産を意味し、もはや再現できない事業を中途から始めさせられることだったし、なかんずく死などは話にならず、ただの家出娘の情死として不名誉な瓦版の埋草が人生の総括となるのだった。私はその残酷で虚無的な想像に怖気が走った。
「そう」
リーン、耳鳴りがする。
霊夢が結界を張り、異界へと私を誘った。
暗闇の無尽の空間。霊夢は空間を転移させたのだ。
机も、部屋も、埃も胞子もなく、ただ暗闇が広がる。音も、光も、全てが吸い込まれ、隔絶された索漠とした空間だった。
私は魔法で照明をつけ、それを上空へ放り上げる。私と霊夢、二人がこの無辺の羊水のなかに浮かび上がる。
「紫が入ってくるまで、少なくとも1刻は稼げる」
霊夢が印を結び終わり、ため息をついた。
この技を私は素直に賛嘆した。
「凄いな、どれほど広い空間だろう、声が返ってこない」
「でしょう、秘密の場所よ。最初はなんてことはない、結界を操る練習を隠れてしていただけ。今では長い時間をかけて作り上げ、何十にも結界を張り巡らせた、結界の底の底」
得意げな霊夢を見るのは私も悪い気はしない。
霊夢がこのような、何か作品めいたものを作っているとは思わなかった私は、彼女の知られざる一面を知った。
「私を殺したいのだろう? どうせ移動させるなら、首と胴体を切り離して命のありどころを移動させたほうが早かったのでは」
ぷっ、と霊夢は吹き出して、私の誤解を悪意なく笑った。
「巫女の技で人殺しはできないわ。できないの。それに、笑わないでね、ちゃんとあなたを殺さないとって」
ちゃんと殺す、それは肉切り包丁で太い血管を切断し、失血死させることを意味していた。速やかなる死と苦悶の死、どちらがちゃんとしているのか、人間の尊厳をかけて私は議論をふっかけることもできたかもしれない。私はしかしこの凄まじい空間能力に圧倒され、この霊夢の言葉を笑うことはできなかった。
「そうか、それで包丁をな。でも私は魔法も爆薬も使うぜ」
霊夢はじっとうつむいていたが、まなじりを決するように目線を合わせる。
「魔理沙、聞いて、私は近く死ぬの」
沈黙のとばりが降りる。それは天使が通るなどという優しい言い方では表せない。
確かに重みのある無音が頭蓋に重くのしかかり、気力を圧搾し、奪っていくのだった。
「私ではなく、霊夢が?」
「そう、理由は色々よ。魔理沙が巫女になるから? 時代が変わるから? 私が病気だから? どれも一緒。レミリアも紫も協力してくれたけれど、私の死は動かせなかった。見るに見かねて、私は放っておいてて言ったの。それが定めならば従うのが私だって。だから今の紫はね、私の次を探しているだけよ。お願いだから、紫の思惑どおりに巫女になるなんてやめて。博麗の巫女もまた幻想よ、あなたは次の幻想に縛られるだけで、何者にもなれない。で、考えたの。紫には逆らえないし、だからね、私たち、心中しましょう。同じ地獄へ行って、来世で会いましょう」
霊夢の手足の肌色が、瞑色に照らし出された蝙蝠のようにちろちろと見え隠れした。胸の奥がざわめいて、心臓が凍り付いたように痛む。
帽子の位置を直し、霊夢と視界の高さを合わせながら、私はかすれた声で問いただす。
「うそだろ」
「ほんとうよ。天地神明に誓ってね」
まぶたを閉じると、幻視が写った。死に神の姿が。
運命の地平線の向こうから陸続と、晦冥の水面の飛沫にしか見えない何かが私に向かってくる。その鎌が穂のように私の命を刈り取る。かすかに鈍い頭痛を引き起す。
首を振って、私はイメージを振り払った。
「運命なんて捨てろ。運命が信用できないのは、淡泊ではなく、ここぞという人の弱みにつけ込み、気持ちが悪いぐらい執着するからさ。私が左手の代わりに右手を出すことは許してやるが、お前の死に偏執的に興味を示すのが運命ってやつだ。きわめて不合理で、蛮習そのものだ。ズタズタに切り裂かれてベーコンみたいに吊されるのが相応しい、付き合いきれないクソ野郎だ」
明滅する魔法の光に、強く力を注ぎ視界をはっきりさせる。
例の錆びた肉切り包丁が霊夢の胸元で鈍く照り映えっていた。出番を待ちわびるかのように。
「そんな話をしているんじゃないの!」
彼女は私の様子をじっと伺う。
「……そうね、私が死ぬだけならそれでいいと思っていた。それが運命だと、変にねじ曲げちゃいけないって」
うつむいて、ぽつりぽつりと言葉をこぼす。
「葛藤もあったけれどね。それで私の話は終わりだった。まさか魔理沙が幻想郷にとって危険な存在になっているだなんて、しかもそれを回避するために、博麗の巫女になるですって。だめよ、それは運命でも何でもない、ただの紫の意志よ、そんなことは認めないわ。紫はなんとしてもあなたを巫女にするつもりよ。きっとあなたを殺すことも外界へ放逐することもないでしょう」
「何故自分が死ぬのだと、私に教えてくれなかった」
「あなたに勝ちたかったから。どうしてか、正直に言えるわ。あなたの理想の私のまま、ボロを見せずに、思い出に残りたかったのよ。今まさに失敗しているけどね。ねえ、あなたも私の話を聞いて、ちょっとはびっくりしてくれた?」
私は返事をしなかった。
「私の力は弱まっている。たぶん私に降りた幻想郷が外れていっているのね。私はね、あんたも知ってのとおり、ただの捨て子よ、誰の血を引いているのかどうかも分からない。今私は、何もない私に戻ろうとしている。名前も能力も由縁もない、一個の人間に。この不安さは、あなたなら分かるでしょう、何もない暗闇、裸の私、知らない、弱く、もろいもの、それが切り離されるということ。紫は幼い私の命を救ってくれた、だから後は私の人生よ。だからね、いいわ、幸せだったから。これで終わりでも」
空中へ浮くときにはいつも箒があった。
今はそれがない。どことなく落ち着きの悪さを感じ、安定した体勢を探る。
「出生について酷い冗談を何回か言った気がするが、それを謝らなければならない気分になったよ」
「あはは、今謝るなんて面白いわね。ねえ魔理沙、私って本当は誰なんでしょうね? いえ、魔理沙にとって霊夢よ、でも私は私をどうすればいいのかしらね。紫はね、神社に家系図を保管しているの」
「家系図?」
急に別の話を始めた霊夢を不審げに見つめる。
「そう、幻想郷中の人間の血の流れをね。それがいわば、幻想郷のあまたある心臓のひとつ。紫は私を博麗の巫女にするために家系図を引いたのよ。幻想中の人間が外界から隔絶されて、5,6世代経っているし、元々閉鎖的な土地だから、誰もが誰かの血が混じってる。遠い昔の誰の記憶にも残っていない誰かの先祖を博麗の一族にすれば、巡り巡って血を繋げるのは簡単だし。だから私は幻想郷の内においては紛れもなく博麗の一族なの。しかも、誰だと思う? あなたの曾祖母の子孫なのよ私は。だから私とあなたって親戚だったの。あなたの家の才能を授かれるように、おこぼれの力をもらい、巫女になったの」
私の曾祖母が誰かなんて私は既に覚えていなかった。
記録が残っているのだろうか、いや、消されているだろう。私は怖くて調べる気にはなれなかった。
「だがお前は歴代のうちでも最も優れた資質をもっていると褒めそやされていた」
「博麗の巫女は誰だってなれるわ。血筋は記録の改竄で、戦う力は霊具で、霊力は身体に幻想郷を降ろすことで。それでも私になお、才能があったとすればあなたの家の才能の由縁を貰ったからよ。私たちはお互いがお互いの力を高め合う、良い関係だったわよね」
最後の文節に冗談めかした嫌味な風味のスパイスを一振りした霊夢は、息継ぎをして語り終わり、静寂が戻る。心音と耳鳴りだけが聞こえてくる。
風一つない闇夜に浮かぶ星を連想した。ここは全てから最も遠いところにある。いかなる音も広大な空間との苦闘に、届く前にくたびれ果て絶えてしまう、平らかなる場所。
私の言葉を待たず、多弁になった霊夢がさらなる言葉を紡ぐ。
「私はもっと、魔理沙を見ていたかった。私の本当の人生はあなたなのだって。自由で、縛られない理想の私。……私だって紫を笑えないわ。私のありえなかった理想の人間を本当の自分だと思って、あなたに当てはめていたのだもの。ねぇ魔理沙、あなたが居たから巫女になれて、巫女として生きることに耐え、楽しみを見いだせたの」
「今思えばそれも紫の親切じゃあないのか。お前はいつでもこうなれるのだということを見せるために」
霊夢ははっとした顔になった。今やっと、遠い昔にされた好意の意味が分かったような。
「そうかもね、でもあいつのすることは、やっぱり信用できないわ。あなたを博麗の巫女にするなんて。あいつなら、私が思いつかない解決方法もあるでしょうに、何故巫女なの……」
「悲嘆するなよ、私は気にしちゃいないさ。それにしても、家系図がからくりとはね、やはり紫は凄いな、感心するよ。幻想郷を続けることにかけては、全知全能ぶりを発揮するからな。それより」
私はやるせない気持ちで、霊夢に問いかける。その答えも当然分かっていたから。
「いいのか、霊夢、死に抗わずに、奴らに復讐しようとは思わないのか」
「いいのよ、私には巫女、私にはそれしかない、博麗の巫女はさだめそのもの。だから、甘受する。でもあなたがそれに付き合う必要はない。だから私はあなたを殺す。あなたには何のさだめもないのだから。魔理沙、あなたの運命を試してあげる」
彼女の吐息が後ろに聞こえた。
魔法の障壁が薄紙のように破れる気配がする。全速前進、背中は無事だ。これで今日2度目の幸運だ。そう、今日は私はツイている。
逃げる先に彼女が現れ、刃が私の服を切り裂く。私は進退窮まって魔力を四方にバラまき散らした。
「まて!まって霊夢、意味が分からない。話し合い、話し合いしよう!心の準備を」
もはや私では解決不能だ。なるようになれ、私は心の中でキリエ・エレイソを唱えた。主よ哀れみ給へ。さらば現世、さらば私。
霊夢は本気だ。私を殺そうとしているのだ。
霊夢が、私を? 本当に? 酷い悪夢だ。ここに至って私は生存を勝ち取る努力を放棄し、死を受け入れていい気になった。
確かに私の考えでは死とは擱筆であり、余計な付け加え許さぬ総括であった。私が未来に希望を見出せるなら、まだ生をぬすんでも良いだろう。何故なら「やはり私は幸せだ」とか「私は神になった」とか「私は世界を超越した」とかいう一行がどこで現れぬとも言えないからだ。
しかし私の人生は先ほど八雲紫と博麗霊夢の二人からそれぞれのやり方で破産宣告をもらったばかりであり、完全に打ちのめされ、せいぜい私の最善は巫女として魔法使いも神様も永遠の命も何もない、世界の内の水として溶け、その内にある異物として抗う何かも持てぬままの人生なのだ。大いなる空白だ。
「何の話をするというの、聞くだけ聞いてあげるわ」
霊夢は魔法を避けるために距離をとった。
呼吸のごと、息遣いに墓地の死においと腐った湿気が入り交じる錯覚がし、私の胎内に諦念の黴を生やしむしばんでいく。
私はエプロンをちぎって片腕にぐるぐると巻いた。刃傷沙汰は小さいころに何度か見たことがある。それの見よう見まねであり、この布きれが本当にあの鉄の質量から私を守ってくれるのかは分からなかった。しかし霊夢が慎重に動きを止めたところを見ると、ちょっとは効果があったのかもしれない。
憂鬱のなかで、子供の頃に何度も聞いた人生が瓦解する音をまた聞く。地を這うものの内にありて地を這うものにあらじと抗い、自身の分限に馴染まず、天を仰ぎ、描けないものを求め、何者にもなれず喘ぐ。ただ全てに圧殺され貶められるためだけに望み求め、また手折られ朽ち続けなければならいという絶望。
「私はこんなところで終われない。担保が欲しい、私を私以上にする宝石が。奴らを額ずかせる栄耀が備わるように。お前の話を聞いていたら、確かに犬に噛まれて死ぬのも悪くない気がしたが、やっぱり……」
「やっぱり?」
「私はまだ復讐を終えていない! 悪いな創設者さん。恋符『マスタースパーク』」
符を胸のあたりで見せつけて八卦炉に魔力を集中させる。身体のネジが大地の巨大な腕力で巻かれて、意識があたりに偏在する。それはとどのつまり、我々の意志の機会と自然の機会を合一させることだ。私は魔法という技の文脈にある時にだけ、もう一つ別の輝いた、あるいは大妖怪どもが眺めている世界を、薄いレースの幕の向こうの焔として想像することができる高みに立つ
私はこのとき、人間に戻れなくなった自分を自覚する。だが心配ご無用。魔法が解ければ、何度繰り返してもすぐに取るに足らない、欠陥だらけの理性を持った人間に大急ぎで戻ってくるのだった。眠気や、空腹や、痒みや、怠さや、もどかしさや、忘却や、鈍さの枷を填められてしか思考できない呪われた住処で安穏としている自分を発見するごとに、発狂しそうになる。魔法の万能感という素晴らしいが模糊した子供時代の、誰に聞いても覚えていない夢幻的な冒険を、ここに定着させ終の棲家と化する事業は、私の人生の基底音とすべき計画だった。
私の全力、八卦炉に魔力を込め霊夢に向けて撃ち放す。
光の奔流が闇の向こうに走っていく。やがて、見えない終端にぶつかり轟音を立てる。
それでも私は重たい体を傾けながら逃げる霊夢を負っていく。
やがて八卦炉は興奮した光のたたばしりを止めた。
僅かに霊夢を動かしただけで、私の魔法は暗闇の砂屑として溶けた。
霊夢はもちろん、無傷だった。そしてようやく声が届くとばかりに、怒髪天をつく様相で文句を言った。
「スペルカードルールだなんて、ふざけないで! 私の言うことが聞けないの」
彼女の姿がかき消えた。私は首だけは守ろうと当てずっぽうで腕を上げたが、彼女はそれを見越したように私の足を切りつけた。
「巫女はルールを守れ」
避けた私の胴体に再度刃が迫る。
「これは遊びじゃあないわ」
偶然、パチュリーの魔術書が私を守ってくれた。いいこと三回目。
よろめいた私にとどめと打ち込もうとするが、私は再び距離をとった。
「霊夢?」
霊夢はじっとその場に立っていた。
「あなたのもくろみ通り、もうすぐ紫が来るわ」
「だろうな」
「あなたは生きるのね。だったら博麗の巫女になるのが正しいのだわ。どうして分からないの? とても口惜しいけれど、私はあなたに負けた。でも私はあなた以外の誰にも私の命をあげたりはしない。病にも、妖怪にも、貧困にも、寿命にも。紫が来たら止められるから。ごめんね」
とつぶやき、彼女は自分の首を切った。このときほど、私の軽率な振る舞いを後悔したことはなかった。
そして彼女は血に啼いた。
より深く、深く、臙脂色をした喉を切り開く。夜が血を流すように、霊夢の血が黒々と滝のように垂れていく。
「やめろ!」
私は力を失った彼女を抱き留め、刃を放した。
彼女は涙を浮かべ首を振った。怖い、たすけて、ごめんなさい、いたい、苦しい。私にはそう伝わった。
その瞬間、私の意識が粉々になるような事実にたどり着いた。
まるで彼女の様子は、死におびえて、痛みに苦しみ、涙して、すがるように私の腕に倒れ込むこの少女は、憑き物が落ちたような、博麗の巫女という器からこぼれ、ひとりの少女に戻ったような……。死にたくないのだ、こいつは。そんな、そんな。私はなんてことを。
「霊夢! おい!」
薄花色をした霊夢の手が私の手に重なった。
そのまま指を絡ませて、片手同士が別れを孕んだ体の上で結ばれた。指の触感を私は持て余す。
指先の凋萎した色節が、交じり合う私の肌色を濁らせる。
「ううう、許せ、すぐに会える!」
痛みにもだえる彼女を見ていられなかった。
指先を霊夢の胸に押し当て、私は霊夢の心臓で小さな爆発を起こした。私はそのとき、確かに命を奪う感触を覚えた。
「霊夢……」
口には出せなかった。その台詞が私たちにそぐうものなのか、自分で分からなかった。
私は緘黙し、周囲の状況だけを過ぎるにまかせた。
紫電がバチバチと走り、空間がひび割れた。彼女は何があったかを分かって現れたようだった。
「私は弱い妖怪です。自分のしていることが正しいのか分からなくなります。ですが払暁にはまだ程がある。霧雨魔理沙には巫女として幻想郷に居てもらわなければなりません」
「いくらでもなるさ」
八雲紫は肩を落とし、震える手で霊夢の額に手を当てる。
「気に病むことはありません。霊夢は死を受け入れていました、運命を受け入れ、手綱を握ったまでのこと。勇敢なる行動です」
こいつは死の直前の霊夢を見ておらず、従って博麗の巫女としての霊夢しか知らないのだ。と、直観した。
「お前たちは私たちを偶像視しすぎている。こいつは精神的な圧力で繊細になっていただけだ」
「死因は外的衝撃から来る突発的な脳内出血及び失血によるものです」
「どうして死因を語るんだ」
ふと私の脳裏に昨日の宴会の光景が蘇生した。
「お前たちは、防ごうとはしなかったのか……。思い出した、昨夜宴会でレミリアと話をしていたのは、霊夢の運命のことだろう。違うか。みすみす死を見逃したんだな。何故」
「ええ、察しの通りです。が、霊夢は受け入れました。ならば定を違えることは」
なりません。
と、瞑目した彼女の言葉が、霧雨魔理沙という人間を規定した。
取り戻すものを失い、ただ、取り戻すという感情に支配された人生を。
「分かった、私は霊夢のあとになる。聞きたいことは、ゆっくり聞かせてもらおう」
「必要なことをした以上、運命にまかせましょう。でもまずは、共に神社に来て貰えますね。巫女になっていただきます」
八雲紫は首を振って霊夢の死体と共に消えた。
すぐに私も、空間の隙間に引きずり込まれた。
顔をあげるといつもの神社だった。着替えが用意されていた。八雲紫からのメッセージが認められた手紙を指先でくるくると回す。
「沐浴しろ、だって。まあ、汗もかいたしひとっ風呂浴びるのも悪くない……」
最後まで霊夢と私の話はかみ合わなかった。落ち着いた場所で、座りながらお茶でも飲んで霊夢にもう一度聞いてみたかった。この世は生きるに値しないのか。霊夢のことを知りたかった。何故あれほど私の死に、私を巫女としないことに執着したのか。
結局、霊夢のことをあまりにも知らなさすぎたのだ。そしてこの、幻想郷のことも、己の置かれている状況も。全てを知りたい。そして……。
しばらくうなだれていたが、唐突に彼女に挑戦する表現が発見されたことに興奮した。霊夢を復活させるのだ。
これぞ人生の意味だ。幻想郷の仕組みを破壊する端的な表現! 私はようやく、このために生きているといるという判明に区切られた命題を得たのだ。
私は生き返った霊夢を片手に抱いて、自由になり、外界の高見から幻想郷を吹き飛ばす様を見るのだ。そのためには、巫女にでも何でもなってやる。所詮これは通過点だ。
博麗の巫女が半身である急須と惜別し重い腰をあげて私をおとなうとすれば、ノルマ向上の労働の啓示――巫女の掌管する仕事である人間の罪人の対処を、実は今まで私はサボっていたのだ――という啓示が脊髄を貫くことが必要だった。
この博麗神社の縁側に遅ればせながら入ってきた迷惑千万なスタハノフ運動の啓示の使者は、八卦を着ていなかったか。
「お前が呼んだのか」
私は八雲紫を見る。
「いいえ、私は彼女に知らせずことを済ませるつもりでしたから」
「私を退治させるために呼んだのではないのか」
「二度は申しません」
「魔理沙、いま何ていったの?」
巫女は胸に芝居臭く手を当てて、役者が子音を強調するように、わけても破裂音、具体的には「タ」に重点を置いた声色で疑問を呈した。
「退治ですって。私が魔理沙を。ふーん、変なこと考えるのね。退治はしないわ。どうして」
言葉とは裏腹に疑いなく、私の置かれている状況を把握している。雰囲気は緊張をはらみ、触れれば棘が刺すだろう神経の張りつめを感じさせる。
ここで窓を割って逃亡し、アリスやパチュリーに百年ほど匿ってくれと低頭平身し、対価として奴隷労働の苦役に生きることも出来たかもしれない。
だが話も見えないうちに霊夢を相手にしっぽを巻いて逃げ出す気分になれず、彼女の出方をうかがう。
「ちょっとナイーブな心持ちでね。てっきり住み慣れた我が家を追い出しに来たのかと思って、お別れの言葉を考えていたんだが。『願わくば未来の世代をして、一切の悪と抑圧と暴力を一掃させ、人生を心ゆくまで楽しませよ』というのはどうだ」
「そう、まあ、たまにはしおらしくしたら?」
まずは会話が始まるだけの穏当な立ち居振る舞いがなされることに胸をなで下ろした。
最悪、問答無用で特大の陰陽玉と共に幻想郷から放逐されるかもしれないと危惧していたのだ。
果たして霊夢はさらなる言葉を続けた。
酒場から無一文の酔っ払いが蹴り出されるような扱いを受けずに済んだ訳で、私はひとまず椅子に座って安堵した。
「ねえ魔理沙、私たちってほんとう、いろいろな事件が向こうからやってきて大変よねえ」
「はぁい霊夢。八雲紫もいるわよぉ」
ひらひらと満面の笑みで手を振っている。霊夢は構ってほしげな紫のおどけた媚びを一切を無視して私に語りかけた。
私は霊夢の態度に感服した。それは実際、徹底した見事な処置だった。愛想を振りまくこの妖怪を視界には入れたが、役者が台本の無意味な部分を省くように、わけても記号約物、具体的には句読点を冷たく眇めるように、まったくご褒美になる仕草を与えなかった。
なるほど、奴に対して「少し黙ってろ」と聞かせるのはこう扱えばいいのか、と心の内で感心して、忘れたころに真似してみようと記憶に控えるのだった。
「ドアを壊したことを許してくれるわよね」
どうってことない。私は態度を軟化させようとへりくだってほほえむ。口も軽くなろうというものだ
「ああ、許すとも。もしも扉を壊し足りなかったら、裏口を蹴破ってきてくれていい。謙遜する訳じゃあないけれど、立て付けが悪くて湿気ているから、バキッと軽くて、中はしっとりとしたいい蹴りごこちだよ」
「安心して、家を壊しにきた訳じゃあないわ」
「そうだろうよ、まあ入ってこい。で、ご用の向きをお伺いしようか」
既に息も絶え絶えであった精神が、進行していく厳然とした現実を支える張力に耐え切れず悲鳴をあげていた。とにかく私にはあたたかい友情と、ゆったりした安息が急を要して与えられなければならなかった。私は霊夢に是非ともそれを見いだしたく、多少のトゲならば見ないことに決めた。
巫女はにこりと笑った。
だが口唇が水平に戻ろうとする刹那に、わざとだろうか? 女神ヘラの陰鬱な相が宿り、私の怖れている結果を先取りした。
果たして私は喋る前から霊夢の訪問の意図を、誤魔化しがきかないまでに悟ってしまった。
「分かった、やめろ」
私は思わず天を仰いだ。
梁がぐるぐると、目眩で溶けていた。
ここで想像してみよう、大結界に影響せず、妖怪退治の邪魔もせず、未だ異変でもない一個の人間を。そう、何一つ、過ちを犯していない者が居たとしよう。まったく普通の、善良な市井の人だ。
ただ一点、その者が未来において次のごとくあると予想しよう。すなわち妖怪に対する猟奇殺人者、巫女より自らを上に置き命を革めんと目論む秩序紊乱者、人間を保護せず、憎悪し、隙あらば陥れんとする悪意ある存在。
敵対するもの。
羽化登仙した未来の霧雨魔理沙の悪口の化粧はごてごてと、いかにも犯罪の印象をかき立て恥知らずの挑発を専らとする娼婦的な修辞が満艦飾であり、まるでジャン・ヴァルジャンに対する虚実入り交じった糾弾のごとく、稀代の大悪党の姿を醸し出すことに成功している。
だが今の話ではない。その実態はただの妄想であり予想図であり、私は現に幻想郷のいかなる共同体及び個人に対する侵犯も行っていないのだ。
誰が裁く?誰も裁けない。では沙汰やみか?いや、私闘となる。私は問いを続ける。誰の?当事者と当事者。名前は?霧雨魔理沙と八雲紫。理由は?人間の少女は人生の直接の利益代表であることによって、妖怪の賢者は幻想郷の直接の利益代表であることによって。
そう、巫女の3つの仕事、大結界の維持と妖怪退治と異変解決にはなんら関わらないことから博麗の巫女にも裁かれず、人間に対して殺人強盗その他の罪を犯していないことから里の寄り合いからも裁かれない私は、代わりに個々の関係の闘争に巻き込まれる。
妖怪の賢者は幻想郷を幾星霜自ら苦労して備え、作り、治め、保ち、強く強く所有の観念を持つに至るが故に幻想郷そのものであり、危機に際しては未然に、ある種の冷酷さをもって臨む理由があった。我々人間がこの大妖怪の紫雲たなびく内なる伽藍の造作を僅かばかりでも把握可能であるのは、まさにこの幻想郷への眷々たる執念をよすがにすることによってである。仮に八雲紫が幻想郷に一切の関心を払わない存在であったとすれば、我々を覆ういかなる理解も拒絶した沈鬱とした災厄となるだろう。私が八雲紫を信頼するのもこの我執の域に入った行動においてである。
博麗霊夢が霧雨魔理沙の個人的な破滅のまたたきに対して一握の焔硝を投げ込む理由は不明であれど、しかし確かなことは、霊夢の態度は、当事者であると主張しているのだった。しかも友人である私の側の皿ではなく、もう片方の皿に乗るというのだ。実に冷血なことだ。
「うーん、苦しい。私は真っ当だ。友人の一人ぐらいいるさ。そうだろう。だからちょっと待ってくれ。頭を整理したい」
疲労して熱くなった額では考えがまとまらず、何を喋っているのか、何をしたいのか、いつものごとくまったく分からなくなった。出した答えがこれだ。
「そう、霊夢は友達の家に遊びに来たのだろう?」
最後の紅茶を飲み下し、霊夢の言葉を待った。
「遊びに来た訳ではないわ」
無力な私では何も選べない。なすがままなのだ。この問答、霧雨魔理沙のサナギの処理方法は、どこの家が掘りすぎた余りの芋を我慢するかといったことに決まりがないのと同じように、荒野の唯一の法律、力の多寡によってのみ理解される。
天秤の片側で、幻想郷と釣り合わぬ重さに戸惑っているばかりの霧雨魔理沙は、無慈悲にも幻想郷そのものであるもう片側の八雲紫によって、転職か、放逐か、死かを強制されており、答えはイエスかノーしかあり得ず、せいぜい発露の自由、拒否つまり侮辱か、肯定つまり服従かの表現の違いが残されているばかりなのだ。もちろん八雲紫に対する不足するとはいえない多種の侮辱を悪童を気取って選び取ることや、反対にこの妖怪の従順なチワワと化し、しっぽを振り振りするメトロノームのテンポの設定をなどの細部は私の創意にまかされるかもしれない。しかしそこに便所虫の跳躍の高度以上の価値があろうか?
そして私は霊夢にも劣っていた。したがって究極的には霊夢の言うことにも同じように従わなければならないはずだった。
「紫を見ろ、ほら、沈黙している。彼女が私を、霧雨魔理沙を博麗の巫女とすることを承認したのであるのならば、誰も私を裁けない。しかして霊夢はどう裁く、不可能だ、やめろ。それでもなお話を蒸し返すということは、私を博麗の巫女にすることでもなく、外界への放逐することでもない」
「冴えているわね」
「第三の解決策を呈示しようというのだろう」
それは確実に私の生命の断絶を伴う方策だった。
「そうね、私の望みは、あなたを殺すことよ。たぶんね、そうするのが良いのじゃないかって」
いざ実際に霊夢の口から発された意味に私はびっくり仰天ひっくりかえり、巫女の正気を疑った。
「え。耳垢が溜まっているから、くぐもって分からないよ」
「殺すって言っているの」
聞かれたから答えるとばかりに、霊夢は容赦なく言葉の鞭を再度振り下ろした。
それは、心に大きな風穴を開ける一撃だった。
「気が触れたのか! 人殺しになるつもりか、何故私が殺されなければならない」
立ち止まった霊夢は、警戒するように重心を両足に乗せ、肩を平らかにし、わずかに襟にかかる髪を邪魔だとばかりに乱暴にまとめた。
霊夢の髪には黒色には、色そのものが抜け落ちたような特殊の艶があった。それが羽を広げるような動きをする姿に私は一瞬気をとられた。
「何故私を殺す」
「それは……私の役目よ」
「答えになっていない。それに、巫女は殺人を犯さない」
「そう思うなら楽な仕事ね。じっとそこに居ててね」
「解決策はいくらでもある。知らないのなら教えてやる。おい霊夢、最後まで聞け。霧雨魔理沙の変貌は未だ異変ではない。仮に変貌しきったところで私は人間だ。この私の幻想郷への挑戦は個人的なもので、私を制裁するのは巫女の仕事ではないだろう。妖怪の賢者と当事者、すなわち八雲紫と私で済まされる性質のものだ。それに、よし、私がひとつ神道を講義してやろう。曰く、死は穢れ。避けるべきである。膿沸き、虫流る、違うか?」
私は落ち着け落ち着け、とジェスチャーし、八雲紫に目で『早くこいつの分の例のダージリン地方の由緒ある農園の最高級グレードを準備して、ブリア・サヴァランもぐうの音も出ないような有名店のトリュフたっぷりの特級チョコレートを与えてくれ!』と力を振り絞って訴えかけた。言うことを聞けと強く念じた結果か、この頼もしい女テレパスはうなずき、「ご安心ください。邪魔はしません。私などが関与してよい問題ではありませんから」と請け合った。私は話が違うと詰め寄った。
「私は妖怪に対して影響力を持つという話はどこへ行ったのだ」
紫は注意深く、行く末を見守るようにおとなしく座りながら語りかけた。
「どうやら、私が霊夢を止めるのは最良の選択ではないのでしょう。そして一言忠言を、霊夢は八雲紫を信用していないと、私の言うことを聞くなと、そう言っているのです」
霊夢は紫にようやく反応をしめし、睨み付けた。
「そうよ、私はあんたを信用していないわ。魔理沙に何を吹き込んだの?」
「おい霊夢、紫は別に私を殺そうとはしていない、お前が私に一番重罪を科しているんだぞ」
「違う。そう、あなたのような存在は殺される、そういう事実が必要なの。まだ何の罪を犯していないからといって見逃される決まりは幻想郷にはないわ」
のうのうと死を受け容れる説法を繰り返す霊夢に私はいよいよ頭に血が上った。
乱暴に机をたたき、罵声を浴びせかけた。
「馬鹿じゃないのか。霧雨魔理沙死すべしだって? よくもまあ、人の生き死にについて、思いつきの標語に堕としてくれるものだ。いつまでたっても上等な巫女服に負け、お仕着せ感の抜けない山出しの日本猿の無学な思いつきときたら、さすが尋常一様のものじゃあないな。お前は繕っていても結局は山賊なのだ。生来的犯罪者説という外界の観念を知っているか、知らないだろう。お前のそれは初歩の初歩の野蛮なものだ。このたびは不幸にも、犯罪者と類人猿との骨格的特長の類似を指摘するロンブローゾ氏の偏見のこだまが幻想入りし、哀れな巫女の頭にぶつかり、その衝撃で霧雨魔理沙の精神的骨格と未来の無軌道な源頼家との精神的骨格の類似を見いだした訳だ」
「もくもくとまあ、藁は炊き終わった?」
「まぁな」
私は紅茶を飲もうとして、そこに一滴も入っていないのにいらだち、乱暴に元の場所に戻した。
そして収まらない言葉を吐き出し続けるのだった。
「しかし、ひとこと付け加えるならば、事実、私の行く末には思い当たる節があるからそれはいい。だが、だからといって刑罰をお前が決める方度があるのか。しかも私は巫女になることに同意したのだよ。今更『やあ魔理沙こんにちわ、死んでもらうわ』なんてお前が出てきたところで、うまうまことが運ぶかよ。別に私はお前に巫女をやめろと言っている訳ではないぜ、巫女が二人居てもいいんだよな、紫」
「ええ、構いませんよ。博麗の巫女という幻想と、実際に博麗の巫女の種々の能力を受け継いでいるかとは関係がありませんからね。要は巫女服を着て神社に住まえば良いのです。今は、それで良いでしょう。幻想郷は寛容ですので」
「紫も、魔理沙も、つべこべ言っているけれど、決定した運命に向けて小石を投げ込むのは愚かだわ」
「具体的な運命として立ちはだかるお前の顔面に小石を握った拳をたたき込むとなれば、美しい人間の抵抗として、多少なりとも愚かさは薄まるだろうよ」
とるものとりあえず八卦炉と魔術書が服の隠しに入っているのを確認して、いつでも取り出せるようにした。だがこの細心の注意を払ったはずの武装蜂起未満の健気な陰謀は、霊夢にとってはこれ見よがしにサーベルをガチャガチャさせ白昼堂々と練り歩く行進と同じであったようで、すぐにバレてしまった。
霊夢と目が合ったので、開き直って武器を見せびらかし、机の上に自慢するように陳列して商人のように愛想良くとぼけた笑顔を振りまいた。
「えーと、今まで何の話をしていたのだったっけ、忘れちゃったよ。やあ親友じゃないか、ところで私はもうダメだ、ほら私の頼もしい仲間たちも降参だ。もう一藁で心が潰えちゃうよ。難しいことは明日にして、昼寝をしないか。そうしたらまた明日、また明日だ。永遠に留保しよう」
「ふざけているの?」
「真剣だ。真剣に消毒薬を飲んで自殺したい気分だよ。そんな気分を吹き飛すためにも、もう一度舌で祝詞をえがくように、私の鼓膜をうがつように、朗々たる友情のしらべで私を圧倒しておくれ」
「私、人を殺したことがないから何を武器にしていいか分からなかったの。陰陽玉でも御幣でもない。私も真剣よ、私が死ぬかあなたが死ぬかするまでここから出られると思わないことね」
ダメ押しとばかりに、精神の傷口に向かって、無慈悲にも巫女のきつい金釘付きの鞭が打ち付けられる。
その打擲は私の一番畏れていた、聞きたくなかった可能性の腫瘍を直にえぐっていった。すなわち、霊夢の基準において私は生存する権利を喪失したのだと。
そして可愛げのある霊夢。お前が八卦炉に対抗して取り出したのは、その凶器は、まさか一般的に包丁と総括して呼ばれる調理器具じゃあないのか。
私は強がって震える声で軽口をたたいた。
「おまえはうい奴だな。それで札でも針でもなく昼飯にゴボウを切断するのに使った包丁を持ちだしてくるなんて、かみしもがごっちゃじゃあないか。百年は語りぐさになるぜ。まあ次の宴会の笑いのタネにでもしようじゃあないか。その物騒な光り物はひとまず置けよ。私を生かしながら幻想郷を平和裏に続ける方策を教えてやってもいい。簡単だ、お前が冷静になればいい」
私は刃物が皮膚を切り裂く痛みを想像し、ふと手もとに不如意を感じたので、身の備えのために机の上の商品を手元に戻した。そして八卦炉に魔力を充填させながら何気ない風を装った。
「結局、お前は何故私を殺すんだ」
「分かったわ」
しばらくためらったあと、霊夢は吹っ切れたように述懐を始めた。
「言うわよ。私はね、自分でもどうしてこんなことをしているか分からなかった。でも魔理沙、あなたが紫の口車に乗って博麗の巫女になっても、外界へ行っても不幸になると思っているの。だからといって今のまま捨て置けない。ならせめて、幻想郷で転生してほしいの。そう、これが本心なの、きっとね」
私は怒濤のごとき衝撃的な告白を受けて、今度こそびっくり仰天ひっくり返りった。
予想だにしなかった情の問題だ、と私は思った。友情か恋情か、それとも親心に似たものか、とにかく理屈ではないのだ。そして同時に、これはもう和解不可能な問題であるのだという確信に至り、視界が真っ黒に染まって、一瞬めしいになり視力を喪失したのかと自分を疑ったほどだった。
「そ、そうか。私のことをそれほど心配してくれているとはな。ついでに私の生き汚い本性にも気を配ってくれるといいのだが。そうだ、思い出話をしよう、私たちが出会ったのはまだ背丈が半分の頃だったかな」
「建前もあるわ。あなた、もう立派な異変よ。理屈を捏ねるのは結構。決めるのは私。私の仕事は、異変解決、ってね」
巫女に追慕の念を教えてやろうと始まった私の思い出話は、彼女に貸してやった私の装飾品の価値を思い出される前に破綻した。
これで終わりとでもいうふうに唐突に霊夢は包丁を投げ飛ばしたのだ。私は指一本動かすことができずにただ座っていただけだったが、運良く霊夢は狙いを外して刃を床に突き刺した。
私の耳元の風切り音がいつまでも止むことなく平行覚にくらくらと響く。
「頭を狙ったのだけれど」
「今日一番のいいことがこれだ。やるせないよ」
私は包丁の回収を試みるが、躊躇するところがなかったのか、刃が床板を貫いていた(馬鹿力め、と私は毒づいた)ので、なかなか抜けなかった。2,3度ばかり試みた後に拍子が外れて、包丁を引き抜いた私は尻餅をついた。
このちっぽけな調理器具から放射される勝利の観念が心の底を振るわせ、勇気が沸いてくるのを感じ、包丁を霊夢に見せびらかした。
「形勢逆転だ。これで私は運命の勝利者だ。まあ落ち着け。私たちには生きて幸せになる権利があるとは思わないか」
霊夢は黙って錆びた肉切り包丁を取り出した。
「さすが巫女様。備えあれば憂いなし、ってなもんだな」
ここで、じっと黙考していた八雲紫が口を挟んできた。
「霧雨魔理沙、あなたは宴会で、霊夢は今の幻想郷の象徴であり、未来の幻想郷の象徴ではないとおっしゃっていましたね。正鵠を射ています。今まさにあなた方が幻想郷のふたつの可能性を象徴しています。巫女を必要とする幻想郷と、必ずしも巫女を必要としない幻想郷。霊夢、まずいことをしましたね。あなたが攻撃を外すことは、深い意味を持つでしょう」
「うっさい、おまえは消えろ」
符が紫ののど元に陰のように滑り込む。
それは紫が護身のために張った結界をはじき飛ばし、朗朗と時代精神思想を語るのど元に刺さろうかとした瞬間に空を切り、天井に刺さった。
紫は一瞬だけ姿を消したのだろう、今は再びもとの場所に居た。
私はこの二人を見ながら、もしも今でなければなかなか意義深い時間を過ごせただろうに、と残念に思った。
「私はな、霊夢、卑近な言い方でいえば、今の生活を崩したくない。私は私の行く果てを見てみたいし、綴られていく自分の物語に救済の余地を残していたい。今死ねば私は道化だ。里の人間にも劣る敗北者だ。私はこんなところで終われない」
そう、私の家には紅魔館のように天井や壁面を回すドリス式円柱に支えられたエンタブラチュア・メトープのスタッコ細工もなければ、彫刻「死に行くゴール人」のレプリカもないし、受胎告知もキリストの降誕も聖アントニウスの誘惑も飾られていないし、私のイニシアルM.Kが刺繍されたスイカズラのギリシャ文様の絨毯もないが、半生をかけて作り上げたキノコの培養素地と各種の溶剤、抽出液及びレシピ集があり、私がその場の一瞬に砕かれた石目を捉え、総合し、完璧な私を目指す創作上の切片が蓄積された書斎があり、アリスやパチュリーからの、私自身の目標として駆り出され、しかも未だ越えることのできない借り物があり、それこそ机の傷の細部の細部にまで宿る私自身があった。
この財産から切り離され、いかなる事情であれ私が裸一貫になることは、単純に破産を意味し、もはや再現できない事業を中途から始めさせられることだったし、なかんずく死などは話にならず、ただの家出娘の情死として不名誉な瓦版の埋草が人生の総括となるのだった。私はその残酷で虚無的な想像に怖気が走った。
「そう」
リーン、耳鳴りがする。
霊夢が結界を張り、異界へと私を誘った。
暗闇の無尽の空間。霊夢は空間を転移させたのだ。
机も、部屋も、埃も胞子もなく、ただ暗闇が広がる。音も、光も、全てが吸い込まれ、隔絶された索漠とした空間だった。
私は魔法で照明をつけ、それを上空へ放り上げる。私と霊夢、二人がこの無辺の羊水のなかに浮かび上がる。
「紫が入ってくるまで、少なくとも1刻は稼げる」
霊夢が印を結び終わり、ため息をついた。
この技を私は素直に賛嘆した。
「凄いな、どれほど広い空間だろう、声が返ってこない」
「でしょう、秘密の場所よ。最初はなんてことはない、結界を操る練習を隠れてしていただけ。今では長い時間をかけて作り上げ、何十にも結界を張り巡らせた、結界の底の底」
得意げな霊夢を見るのは私も悪い気はしない。
霊夢がこのような、何か作品めいたものを作っているとは思わなかった私は、彼女の知られざる一面を知った。
「私を殺したいのだろう? どうせ移動させるなら、首と胴体を切り離して命のありどころを移動させたほうが早かったのでは」
ぷっ、と霊夢は吹き出して、私の誤解を悪意なく笑った。
「巫女の技で人殺しはできないわ。できないの。それに、笑わないでね、ちゃんとあなたを殺さないとって」
ちゃんと殺す、それは肉切り包丁で太い血管を切断し、失血死させることを意味していた。速やかなる死と苦悶の死、どちらがちゃんとしているのか、人間の尊厳をかけて私は議論をふっかけることもできたかもしれない。私はしかしこの凄まじい空間能力に圧倒され、この霊夢の言葉を笑うことはできなかった。
「そうか、それで包丁をな。でも私は魔法も爆薬も使うぜ」
霊夢はじっとうつむいていたが、まなじりを決するように目線を合わせる。
「魔理沙、聞いて、私は近く死ぬの」
沈黙のとばりが降りる。それは天使が通るなどという優しい言い方では表せない。
確かに重みのある無音が頭蓋に重くのしかかり、気力を圧搾し、奪っていくのだった。
「私ではなく、霊夢が?」
「そう、理由は色々よ。魔理沙が巫女になるから? 時代が変わるから? 私が病気だから? どれも一緒。レミリアも紫も協力してくれたけれど、私の死は動かせなかった。見るに見かねて、私は放っておいてて言ったの。それが定めならば従うのが私だって。だから今の紫はね、私の次を探しているだけよ。お願いだから、紫の思惑どおりに巫女になるなんてやめて。博麗の巫女もまた幻想よ、あなたは次の幻想に縛られるだけで、何者にもなれない。で、考えたの。紫には逆らえないし、だからね、私たち、心中しましょう。同じ地獄へ行って、来世で会いましょう」
霊夢の手足の肌色が、瞑色に照らし出された蝙蝠のようにちろちろと見え隠れした。胸の奥がざわめいて、心臓が凍り付いたように痛む。
帽子の位置を直し、霊夢と視界の高さを合わせながら、私はかすれた声で問いただす。
「うそだろ」
「ほんとうよ。天地神明に誓ってね」
まぶたを閉じると、幻視が写った。死に神の姿が。
運命の地平線の向こうから陸続と、晦冥の水面の飛沫にしか見えない何かが私に向かってくる。その鎌が穂のように私の命を刈り取る。かすかに鈍い頭痛を引き起す。
首を振って、私はイメージを振り払った。
「運命なんて捨てろ。運命が信用できないのは、淡泊ではなく、ここぞという人の弱みにつけ込み、気持ちが悪いぐらい執着するからさ。私が左手の代わりに右手を出すことは許してやるが、お前の死に偏執的に興味を示すのが運命ってやつだ。きわめて不合理で、蛮習そのものだ。ズタズタに切り裂かれてベーコンみたいに吊されるのが相応しい、付き合いきれないクソ野郎だ」
明滅する魔法の光に、強く力を注ぎ視界をはっきりさせる。
例の錆びた肉切り包丁が霊夢の胸元で鈍く照り映えっていた。出番を待ちわびるかのように。
「そんな話をしているんじゃないの!」
彼女は私の様子をじっと伺う。
「……そうね、私が死ぬだけならそれでいいと思っていた。それが運命だと、変にねじ曲げちゃいけないって」
うつむいて、ぽつりぽつりと言葉をこぼす。
「葛藤もあったけれどね。それで私の話は終わりだった。まさか魔理沙が幻想郷にとって危険な存在になっているだなんて、しかもそれを回避するために、博麗の巫女になるですって。だめよ、それは運命でも何でもない、ただの紫の意志よ、そんなことは認めないわ。紫はなんとしてもあなたを巫女にするつもりよ。きっとあなたを殺すことも外界へ放逐することもないでしょう」
「何故自分が死ぬのだと、私に教えてくれなかった」
「あなたに勝ちたかったから。どうしてか、正直に言えるわ。あなたの理想の私のまま、ボロを見せずに、思い出に残りたかったのよ。今まさに失敗しているけどね。ねえ、あなたも私の話を聞いて、ちょっとはびっくりしてくれた?」
私は返事をしなかった。
「私の力は弱まっている。たぶん私に降りた幻想郷が外れていっているのね。私はね、あんたも知ってのとおり、ただの捨て子よ、誰の血を引いているのかどうかも分からない。今私は、何もない私に戻ろうとしている。名前も能力も由縁もない、一個の人間に。この不安さは、あなたなら分かるでしょう、何もない暗闇、裸の私、知らない、弱く、もろいもの、それが切り離されるということ。紫は幼い私の命を救ってくれた、だから後は私の人生よ。だからね、いいわ、幸せだったから。これで終わりでも」
空中へ浮くときにはいつも箒があった。
今はそれがない。どことなく落ち着きの悪さを感じ、安定した体勢を探る。
「出生について酷い冗談を何回か言った気がするが、それを謝らなければならない気分になったよ」
「あはは、今謝るなんて面白いわね。ねえ魔理沙、私って本当は誰なんでしょうね? いえ、魔理沙にとって霊夢よ、でも私は私をどうすればいいのかしらね。紫はね、神社に家系図を保管しているの」
「家系図?」
急に別の話を始めた霊夢を不審げに見つめる。
「そう、幻想郷中の人間の血の流れをね。それがいわば、幻想郷のあまたある心臓のひとつ。紫は私を博麗の巫女にするために家系図を引いたのよ。幻想中の人間が外界から隔絶されて、5,6世代経っているし、元々閉鎖的な土地だから、誰もが誰かの血が混じってる。遠い昔の誰の記憶にも残っていない誰かの先祖を博麗の一族にすれば、巡り巡って血を繋げるのは簡単だし。だから私は幻想郷の内においては紛れもなく博麗の一族なの。しかも、誰だと思う? あなたの曾祖母の子孫なのよ私は。だから私とあなたって親戚だったの。あなたの家の才能を授かれるように、おこぼれの力をもらい、巫女になったの」
私の曾祖母が誰かなんて私は既に覚えていなかった。
記録が残っているのだろうか、いや、消されているだろう。私は怖くて調べる気にはなれなかった。
「だがお前は歴代のうちでも最も優れた資質をもっていると褒めそやされていた」
「博麗の巫女は誰だってなれるわ。血筋は記録の改竄で、戦う力は霊具で、霊力は身体に幻想郷を降ろすことで。それでも私になお、才能があったとすればあなたの家の才能の由縁を貰ったからよ。私たちはお互いがお互いの力を高め合う、良い関係だったわよね」
最後の文節に冗談めかした嫌味な風味のスパイスを一振りした霊夢は、息継ぎをして語り終わり、静寂が戻る。心音と耳鳴りだけが聞こえてくる。
風一つない闇夜に浮かぶ星を連想した。ここは全てから最も遠いところにある。いかなる音も広大な空間との苦闘に、届く前にくたびれ果て絶えてしまう、平らかなる場所。
私の言葉を待たず、多弁になった霊夢がさらなる言葉を紡ぐ。
「私はもっと、魔理沙を見ていたかった。私の本当の人生はあなたなのだって。自由で、縛られない理想の私。……私だって紫を笑えないわ。私のありえなかった理想の人間を本当の自分だと思って、あなたに当てはめていたのだもの。ねぇ魔理沙、あなたが居たから巫女になれて、巫女として生きることに耐え、楽しみを見いだせたの」
「今思えばそれも紫の親切じゃあないのか。お前はいつでもこうなれるのだということを見せるために」
霊夢ははっとした顔になった。今やっと、遠い昔にされた好意の意味が分かったような。
「そうかもね、でもあいつのすることは、やっぱり信用できないわ。あなたを博麗の巫女にするなんて。あいつなら、私が思いつかない解決方法もあるでしょうに、何故巫女なの……」
「悲嘆するなよ、私は気にしちゃいないさ。それにしても、家系図がからくりとはね、やはり紫は凄いな、感心するよ。幻想郷を続けることにかけては、全知全能ぶりを発揮するからな。それより」
私はやるせない気持ちで、霊夢に問いかける。その答えも当然分かっていたから。
「いいのか、霊夢、死に抗わずに、奴らに復讐しようとは思わないのか」
「いいのよ、私には巫女、私にはそれしかない、博麗の巫女はさだめそのもの。だから、甘受する。でもあなたがそれに付き合う必要はない。だから私はあなたを殺す。あなたには何のさだめもないのだから。魔理沙、あなたの運命を試してあげる」
彼女の吐息が後ろに聞こえた。
魔法の障壁が薄紙のように破れる気配がする。全速前進、背中は無事だ。これで今日2度目の幸運だ。そう、今日は私はツイている。
逃げる先に彼女が現れ、刃が私の服を切り裂く。私は進退窮まって魔力を四方にバラまき散らした。
「まて!まって霊夢、意味が分からない。話し合い、話し合いしよう!心の準備を」
もはや私では解決不能だ。なるようになれ、私は心の中でキリエ・エレイソを唱えた。主よ哀れみ給へ。さらば現世、さらば私。
霊夢は本気だ。私を殺そうとしているのだ。
霊夢が、私を? 本当に? 酷い悪夢だ。ここに至って私は生存を勝ち取る努力を放棄し、死を受け入れていい気になった。
確かに私の考えでは死とは擱筆であり、余計な付け加え許さぬ総括であった。私が未来に希望を見出せるなら、まだ生をぬすんでも良いだろう。何故なら「やはり私は幸せだ」とか「私は神になった」とか「私は世界を超越した」とかいう一行がどこで現れぬとも言えないからだ。
しかし私の人生は先ほど八雲紫と博麗霊夢の二人からそれぞれのやり方で破産宣告をもらったばかりであり、完全に打ちのめされ、せいぜい私の最善は巫女として魔法使いも神様も永遠の命も何もない、世界の内の水として溶け、その内にある異物として抗う何かも持てぬままの人生なのだ。大いなる空白だ。
「何の話をするというの、聞くだけ聞いてあげるわ」
霊夢は魔法を避けるために距離をとった。
呼吸のごと、息遣いに墓地の死においと腐った湿気が入り交じる錯覚がし、私の胎内に諦念の黴を生やしむしばんでいく。
私はエプロンをちぎって片腕にぐるぐると巻いた。刃傷沙汰は小さいころに何度か見たことがある。それの見よう見まねであり、この布きれが本当にあの鉄の質量から私を守ってくれるのかは分からなかった。しかし霊夢が慎重に動きを止めたところを見ると、ちょっとは効果があったのかもしれない。
憂鬱のなかで、子供の頃に何度も聞いた人生が瓦解する音をまた聞く。地を這うものの内にありて地を這うものにあらじと抗い、自身の分限に馴染まず、天を仰ぎ、描けないものを求め、何者にもなれず喘ぐ。ただ全てに圧殺され貶められるためだけに望み求め、また手折られ朽ち続けなければならいという絶望。
「私はこんなところで終われない。担保が欲しい、私を私以上にする宝石が。奴らを額ずかせる栄耀が備わるように。お前の話を聞いていたら、確かに犬に噛まれて死ぬのも悪くない気がしたが、やっぱり……」
「やっぱり?」
「私はまだ復讐を終えていない! 悪いな創設者さん。恋符『マスタースパーク』」
符を胸のあたりで見せつけて八卦炉に魔力を集中させる。身体のネジが大地の巨大な腕力で巻かれて、意識があたりに偏在する。それはとどのつまり、我々の意志の機会と自然の機会を合一させることだ。私は魔法という技の文脈にある時にだけ、もう一つ別の輝いた、あるいは大妖怪どもが眺めている世界を、薄いレースの幕の向こうの焔として想像することができる高みに立つ
私はこのとき、人間に戻れなくなった自分を自覚する。だが心配ご無用。魔法が解ければ、何度繰り返してもすぐに取るに足らない、欠陥だらけの理性を持った人間に大急ぎで戻ってくるのだった。眠気や、空腹や、痒みや、怠さや、もどかしさや、忘却や、鈍さの枷を填められてしか思考できない呪われた住処で安穏としている自分を発見するごとに、発狂しそうになる。魔法の万能感という素晴らしいが模糊した子供時代の、誰に聞いても覚えていない夢幻的な冒険を、ここに定着させ終の棲家と化する事業は、私の人生の基底音とすべき計画だった。
私の全力、八卦炉に魔力を込め霊夢に向けて撃ち放す。
光の奔流が闇の向こうに走っていく。やがて、見えない終端にぶつかり轟音を立てる。
それでも私は重たい体を傾けながら逃げる霊夢を負っていく。
やがて八卦炉は興奮した光のたたばしりを止めた。
僅かに霊夢を動かしただけで、私の魔法は暗闇の砂屑として溶けた。
霊夢はもちろん、無傷だった。そしてようやく声が届くとばかりに、怒髪天をつく様相で文句を言った。
「スペルカードルールだなんて、ふざけないで! 私の言うことが聞けないの」
彼女の姿がかき消えた。私は首だけは守ろうと当てずっぽうで腕を上げたが、彼女はそれを見越したように私の足を切りつけた。
「巫女はルールを守れ」
避けた私の胴体に再度刃が迫る。
「これは遊びじゃあないわ」
偶然、パチュリーの魔術書が私を守ってくれた。いいこと三回目。
よろめいた私にとどめと打ち込もうとするが、私は再び距離をとった。
「霊夢?」
霊夢はじっとその場に立っていた。
「あなたのもくろみ通り、もうすぐ紫が来るわ」
「だろうな」
「あなたは生きるのね。だったら博麗の巫女になるのが正しいのだわ。どうして分からないの? とても口惜しいけれど、私はあなたに負けた。でも私はあなた以外の誰にも私の命をあげたりはしない。病にも、妖怪にも、貧困にも、寿命にも。紫が来たら止められるから。ごめんね」
とつぶやき、彼女は自分の首を切った。このときほど、私の軽率な振る舞いを後悔したことはなかった。
そして彼女は血に啼いた。
より深く、深く、臙脂色をした喉を切り開く。夜が血を流すように、霊夢の血が黒々と滝のように垂れていく。
「やめろ!」
私は力を失った彼女を抱き留め、刃を放した。
彼女は涙を浮かべ首を振った。怖い、たすけて、ごめんなさい、いたい、苦しい。私にはそう伝わった。
その瞬間、私の意識が粉々になるような事実にたどり着いた。
まるで彼女の様子は、死におびえて、痛みに苦しみ、涙して、すがるように私の腕に倒れ込むこの少女は、憑き物が落ちたような、博麗の巫女という器からこぼれ、ひとりの少女に戻ったような……。死にたくないのだ、こいつは。そんな、そんな。私はなんてことを。
「霊夢! おい!」
薄花色をした霊夢の手が私の手に重なった。
そのまま指を絡ませて、片手同士が別れを孕んだ体の上で結ばれた。指の触感を私は持て余す。
指先の凋萎した色節が、交じり合う私の肌色を濁らせる。
「ううう、許せ、すぐに会える!」
痛みにもだえる彼女を見ていられなかった。
指先を霊夢の胸に押し当て、私は霊夢の心臓で小さな爆発を起こした。私はそのとき、確かに命を奪う感触を覚えた。
「霊夢……」
口には出せなかった。その台詞が私たちにそぐうものなのか、自分で分からなかった。
私は緘黙し、周囲の状況だけを過ぎるにまかせた。
紫電がバチバチと走り、空間がひび割れた。彼女は何があったかを分かって現れたようだった。
「私は弱い妖怪です。自分のしていることが正しいのか分からなくなります。ですが払暁にはまだ程がある。霧雨魔理沙には巫女として幻想郷に居てもらわなければなりません」
「いくらでもなるさ」
八雲紫は肩を落とし、震える手で霊夢の額に手を当てる。
「気に病むことはありません。霊夢は死を受け入れていました、運命を受け入れ、手綱を握ったまでのこと。勇敢なる行動です」
こいつは死の直前の霊夢を見ておらず、従って博麗の巫女としての霊夢しか知らないのだ。と、直観した。
「お前たちは私たちを偶像視しすぎている。こいつは精神的な圧力で繊細になっていただけだ」
「死因は外的衝撃から来る突発的な脳内出血及び失血によるものです」
「どうして死因を語るんだ」
ふと私の脳裏に昨日の宴会の光景が蘇生した。
「お前たちは、防ごうとはしなかったのか……。思い出した、昨夜宴会でレミリアと話をしていたのは、霊夢の運命のことだろう。違うか。みすみす死を見逃したんだな。何故」
「ええ、察しの通りです。が、霊夢は受け入れました。ならば定を違えることは」
なりません。
と、瞑目した彼女の言葉が、霧雨魔理沙という人間を規定した。
取り戻すものを失い、ただ、取り戻すという感情に支配された人生を。
「分かった、私は霊夢のあとになる。聞きたいことは、ゆっくり聞かせてもらおう」
「必要なことをした以上、運命にまかせましょう。でもまずは、共に神社に来て貰えますね。巫女になっていただきます」
八雲紫は首を振って霊夢の死体と共に消えた。
すぐに私も、空間の隙間に引きずり込まれた。
顔をあげるといつもの神社だった。着替えが用意されていた。八雲紫からのメッセージが認められた手紙を指先でくるくると回す。
「沐浴しろ、だって。まあ、汗もかいたしひとっ風呂浴びるのも悪くない……」
最後まで霊夢と私の話はかみ合わなかった。落ち着いた場所で、座りながらお茶でも飲んで霊夢にもう一度聞いてみたかった。この世は生きるに値しないのか。霊夢のことを知りたかった。何故あれほど私の死に、私を巫女としないことに執着したのか。
結局、霊夢のことをあまりにも知らなさすぎたのだ。そしてこの、幻想郷のことも、己の置かれている状況も。全てを知りたい。そして……。
しばらくうなだれていたが、唐突に彼女に挑戦する表現が発見されたことに興奮した。霊夢を復活させるのだ。
これぞ人生の意味だ。幻想郷の仕組みを破壊する端的な表現! 私はようやく、このために生きているといるという判明に区切られた命題を得たのだ。
私は生き返った霊夢を片手に抱いて、自由になり、外界の高見から幻想郷を吹き飛ばす様を見るのだ。そのためには、巫女にでも何でもなってやる。所詮これは通過点だ。
後半も待っています
続きに期待します
色色あれで軽妙な笑いから一転、急転直下。なんだこの予定された悲喜劇。
どう転ばせるのかたのしみだー
字抜けかも
>その台詞が私たちそぐうものなのか
>光の奔流が闇の向こうに走っていく。やがて、見えないぶつかり轟音を立てる
そして相変わらすニヤリとさせる会話運び、好みはあるけど、嫌いじゃないです