季節は秋。
山は紅葉で美しく彩られ、冬の訪れに備えるかのように動物たちは動き回る。
夏と冬の間、その曖昧な時期である故、暑くもなければ寒くもない。春と並んで、四季の中ではとても過ごしやすい季節と言えるだろう。
香霖堂の偏屈店主、森近霖之助にとってもその事実は変わらない。普段用事でもない限りほとんど外に出ない霖之助だが、それでも香霖堂内の気温というのは外の気温に依存する。
この暑すぎず寒すぎず、ちょうど良い涼しい感じ。霖之助はこういう日が大好きなのであった。
絶好の読書日和である。春はちょっと、頭の中まで春になった妖精とか人間とかがうるさいので、やはり秋が一番だ。
『読書三余』——冬と夜と長雨の三つの余暇は読書をするのにはちょうど良い、とは言うがそんなものは個人の嗜好であり、霖之助は後者二つこそ同意できても冬に本を読むというのはあまり好きではなかった。読書三余を霖之助風に直せば、秋、夜、長雨の三つが読書に最適なのである。……まあ、身も蓋もなく言ってしまえば霖之助はいつでも本を読んでいるのだが。
さて、となれば霖之助は普段通り読書をしているはずだ。
しかし——。
「げほっ、ごほっ! ……あー、頭痛い……」
霖之助は今、布団でごほごほと咳き込んでいるのだった。思考には靄がかかり、地面に貼り付けられたかのごとく体は重い。
——間違いなく、霖之助は風邪をひいていた。
つい昨日、無縁塚に蒐集へ行っていたときからなんとなく嫌な前兆はあった。すこし喉が痛かったり、やたら寒気を感じたり、鼻がすこし詰まったり、にわかに体が重かったり。
その時に引き返しておとなしく寝ておけば良かったのだろうが、幸というべきか不幸というべきか、その日に限って珍しい道具が結構あったのである。おかげで香霖堂の品揃えは増えたが、霖之助の風邪はひどくなっていた。
(治るのに何ヶ月かかるかな……)
冷静に頭の中で分析する。
霖之助は本来半妖なので心の病にも肉体の病にも罹りにくいはずなのだが、いったい全体どういう神のイタズラか、もしくはあのすきま妖怪の陰謀か。
まったく、予定が丸つぶれだ。霖之助は内心で思わず愚痴をこぼす。
まあ予定と言っても来るかどうかすらわからない客に向けた接客と、ちょうど良い辺りまで読み進めた本の続きを読む程度なのだが、それも霖之助にとっては重要なスケジュールである。どこからか『仕事しろよ』という白黒魔法使いの声が聞こえた気がする。お前が言うな、霧雨魔法店店主。
そのとき、脇に挟んでいた温度計から甲高い音が鳴った。じっとり嫌な汗で濡れた寝巻きを緩め、脇から温度計を取る。
「三十九度……」
霖之助はため息と同化したような声で温度計に表示された数値を読み上げた。
なんということだ、かなりの高熱である。
霖之助ら半妖は風邪をひきにくい。けれどその代償というべきか、治りが非常に遅いのである。こんな高熱なら、完治まで何ヶ月かかることやら。霖之助は風邪にうなされる未来を想像して憂鬱な気分になった。
これも普段から外に出ない引きこもり生活にどっぷり浸っていたツケだろうか。ツケなんぞあのぐうたら巫女ので十分なのだが。
「はあ〜……」
風邪のせいか、どうも物事をネガティブに考えてしまう。
こういうときは寝るに限る。もう香霖堂は『準備中』の札をかけてあるし、客も来ないだろう。いつものことだが。
やれやれと、霖之助が頭から布団を被ってぐっすり眠ろうとしたときだった。
「……すけ〜! いないのかー!」
「……」
遠くから——具体的には香霖堂の扉の向こうから声が聞こえてくる。聞き覚えのある声だ。
その声は最近新たにお客リストに追加された少女の声と一致していた。幻想郷住人のなかでは珍しく良識を持ち合わせた純粋な少女だ。常識を持っているかと言われれば、霖之助はすこし思案しなければならないのだけれど。
少女——名を布都という、布都は元気のある快活な少女で、よく香霖堂へ遊びにくる。そのまま気に入った道具を買ってくれることもあり、香霖堂の貴重なお客様だ。
だが、そのうち香霖堂の扉に掛かっている準備中の札を見て出直すだろう。
そう考えて、霖之助はいっそう強く布団を被る。
すると次の瞬間——。
「——りんのすけえええええ!」
木製の扉のようなものを粉々に破壊する爆砕音が響く。その音を聞いて霖之助は思わず布団の中で肩をはね上げた。
霖之助のいる寝室から、香霖堂の扉からはすこしばかり遠いが、それでもその破壊的な音は霖之助の鼓膜を打ち破らんばかりに震わせた。その震えが脳に伝わり頭を揺らす。気持ち悪い。
なにかが壊された気がするが、あまり深くは考えないでおこう。考えると風邪が悪化しそうだ。放置しても風邪が悪化しそうだが、とりあえず今は考えないことにする。起きてから考えれば良い。……というか布都は準備中の札を見なかったのか。
……そういえば、風邪で朧げな意識のまま札を掛けたのだった。もしかしたら『準備中』ではなく『開店中』の札を間違えて掛けてしまったかもしれない。
しっかり確認しておくんだった、と後悔しても既に後の祭りである。
「……む? なんだ、霖之助は……寝室か」
なんでわかったし。
そう突っ込みたい気持ちを抑えながら、ああもう好きにしてくれと半ばヤケクソで布団をかぶり直す。風邪をひいているおかげか判断力やらいろいろは最低レベルまで落ち込んでいた。
目の前が布団で真っ暗になって、霖之助もそれに合わせて目を瞑る。彼女の足音がだんだんと近づいてきて、止まる。
はてさてそのまま帰るか、と思われた彼女だったが、グイとなにかに布団を引っ張られる違和感。
首を傾げる前に、そのまま坂から転がり落ちたような錯覚を覚えて、
「霖之助! 朝だぞー!」
「——!?」
病人にはまるで似合わぬ、いたわりのカケラもない最悪な目覚めを体験させられたのだった。
◇
病人は基本安静である。
それはもう常識と言っても過言ではないほど当然なことなのだが、目の前で申し訳なさそうに頭を垂れる少女——物部布都にとっては、そうでもないらしい。
ほぼ間違いなく今ので風邪が悪化したことだろう。霖之助は恨みがましそうに布都を見る。
「す、すまん霖之助……まさか風邪をひいてたなんて思わなくて……」
「……はあ」
布都が心底申し訳なさそうに謝っているのを見ると、怒れない。これで軽口を叩いてくる霊夢や魔理沙なら思う存分怒れるのだが、布都は世間知らずというか純粋で、見た目通り幼い少女である。そんな少女に怒るのもなんだか大人げなく思えてきて、怒りは霧散してしまった。
「もう良いよ、別に怒ってないから」
「ほ、本当か?」
「ああ、本当だ」
——怒りが消えてしまえば、抑えていた苦しさがわざとらしく鎌首をもたげてくるのだが。
まあ、霖之助だってそれなり生きた半妖だ。それなりの痛み辛さ苦しみは味わってきているし、許容の範囲内である。
「ごほっ、ごほっ!」
布団で寝ていた霖之助だったが、その咳で背中が弾む。慌てて布都が霖之助に駆け寄り、背中を摩った。
「だ、大丈夫か?」
「げほ、ごほっ、ああ、うん」
咳の衝撃で涙が出て、声が震える。
布都をなんとか手で制しようとするが、咳によって暴れる体はそれすらも満足に聞き入れてはくれない。
どうやら、本当に悪化してしまったようだ。先ほどよりも咳がひどいし、頭もぼーっとする。
今日はもうゆっくり眠るべきだろう。霖之助は早々に判断すると、布都を帰すべく弱々しい声で布都を見る。
「ふ、布都……げほ、今日は悪いけど、ごほごほ! 帰って……」
「り、霖之助!」
布都が霖之助の声を遮って、霖之助の手をぎゅっと握った。
なにごとかと思って布都を見ると、布都も風邪をひいてしまったのかその顔は赤くなっている。そのまま、勇気を振り絞るようにもじもじしながら布都は霖之助に言い放った。
「つ、辛いのであろう! き、今日は我が看病してやるぞ!」
「……はい?」
霖之助は、咳き込むことすらも忘れてぽかんと口を開けた。
「だ、だから、我が看病してやると言っているのだ!」
「……」
「む、なんだその顔は! こ、こう見えても我だって料理くらいはできるのだぞ!」
いや、そういうことを言っているんじゃなくて——。
そう言おうとしたが、声が出ない。咳がその言葉を完璧に阻害してしまう。
「ほ、ほらまずは横になるのだ! 霖之助はそこで寝ているのだぞ!」
布都は半ば強引に霖之助を寝かせると、立ち上がってぱたぱたと台所へ向かってしまった。
その背中をぼんやりと靄のかかった視線で見つめる。布都は本当に空回りしやすい少女だから、今回もなんだか嫌な予感がするな——。決して感謝していないわけではないし、むしろありがたい。ただ問題は、彼女が善意で起こす行動の後始末は霖之助がするハメになることが多いということであって。
だが鈍った体と思考では止めに行こうとかそんなことも考えられず、むしろこのまま布都の言うとおり眠ってしまおうという考えの方が強かった。
まあ布都だって、一応人間とは比べ物にならないほど存在している人外なのだ。いくらなんでもそんなにひどいミスはしないだろう。そうであると思いたい。
霖之助は自分に言い聞かせるように脳内で言葉を反芻すると、目を閉じる。願わくば、布都がなにか間違いをしませんように——。
ぶすぶすとなにかが焼け焦げる苦い匂いで、霖之助は目を覚ました。
あまり良いとは言えない目覚めだ。しかも嫌な予感がする。匂いは台所の方から漂っているようだった。
「あ、あれ……たしかここにこれを入れて……ぎゃー!? なんか燃えた! 熱い!」
「……」
台所からぼんやり漂ってくる悲鳴を聞きながら、霖之助は冗談抜きで天をあおぐ。——絶対なにかやらかしているな、と。
まだ風邪は治っていないが、それでも眠る前よりはマシになった。どれだけ眠っていたのかはわからないが、もう結構な時間が経っているはずだ。多分昼ごろだろう。
重い体をひきずり立ち上がる。そして壁に手を付きながらすばやく着替え、いつもの着物に袖を通した。そして廊下を通り台所へ向かう。
「ぎゃー!? 焦げてる! どうしよって、あー! 塩コショウの瓶が!
っ、けほ、こほっ、ってわわわ!?」
「……」
「いったー!? 頭打った……って」
——廊下を抜けると、そこは戦場であった。
布都が霖之助用の大きなエプロンを着用しながらがんばって料理をしている。そこは良い。だが問題は、いっそわざとなんじゃないかと疑ってしまうほど見事に失敗をしているところである。
なにかを焼いていたのかフライパンを菜箸でいじくっていたのだが、その際に肘が塩コショウの瓶に直撃、蓋を開けながらフライパンに落下。塩コショウが所狭しと乱舞し、それを目と鼻に入れた布都が咳き込み涙で目を濡らす。そして転んだ布都は食器棚に後頭部を直撃させ、尻餅をつく。そして現在布都は涙目で霖之助を発見する——そういう状況だった。
今の自分はいったいどんな顔をしているだろう。多分怒りとか呆れとかそんな感情を十歩くらい飛び越えた先にある境地、そこに達していると思うのだ。悟ったと言い換えてもよろしい。
「り、霖之助ぇ……」
「……君はいったいなにをやっているんだ」
「わ、我、霖之助になにか作ってやろうと思って……」
頭が痛い。きっと風邪のせいだけじゃないだろう。いろいろ中に溜まったものを吐き出すようにため息を吐くと、とりあえず尻餅をついている布都に手を貸し立ち上がらせる。
「ああもう、顔中塩コショウまみれじゃないか……けほっ」
「り、霖之助! つ、辛いなら寝てなきゃ……」
「いや、今のはむせただけだ。それに」
霖之助は台所の周りを見て、なんとも微妙な表情を浮かべる。地獄絵図、戦場、混沌——表す言葉はたくさんあるけれど、そのすべてが当てはまりそうで、そのどれにも属さないような気がするこの台所。
これ以上布都に台所を任せていると、このよくわからない状況がはるかに悪化しそうな気がする。
「——これ以上君に任せていると、なんだか台所が爆発しそうな気がするんだ」
「う、うう……」
布都自身もなにか思うところがあったのか、しょんぼりと肩を落とす。瞳に浮かべる涙は痛みとはまた別のものなのだろう。
子供を泣かせる大人というのは、いかがなものだろうか——ふとそんな罪悪感にも似た感情が芽生える。この現場をだれかに見られれば霖之助の名声は地獄よりも底へ落ちるであろう。
霖之助はため息を吐く。まあ、幸いなにか壊されたわけでもなし。いくつか食材を灰塵に帰されたようだが、もともと霖之助は半妖なので数年くらいはなにも食べなくても済むわけで。実質的な被害はほぼないだろう——布都に壊されたと思われる扉? 知らない。
霖之助はやれやれとかぶりを振ると、俯く布都の頭にぽんぽんと手を置いた。
「……料理できないなら、最初からそう言えば良かったのに」
苦笑いすると、霖之助は咳払いをひとつ、そして着物の袖をまくる。
「ち、違うぞ! 我だって普段は料理できるのだ、だがな——」
「はいはい、わかったわかった」
わめく布都を適当に流し、台所に立つ。
なにかを切ろうとしていたのか、まな板の上で包丁が危うい光を反射していた。その横にはネギ。まだ切られていないことから、これから切るという算段だったのだろう。
あとすこしここに来るのが遅かったら、台所には赤い華が咲いていたかもしれない。そんなホラー要素は香霖堂に不要なので、霖之助は思わず安堵の息をつく。布都のことだから指ごと行きそうで危なっかしい。
「あ、ネギは切れるぞ! 霖之助はどいてどいて!」
「あっ、ちょっ」
布都はこちらが病人であることを良いことに、霖之助を優しく押してまな板の前に立った。布都なりに加減してくれたのだろうが、(見た目)幼い少女に力負けする男というのも格好が付かない話だ。
「とりあえず、いくぞー!」
「おいっ、そんな包丁を勢い良く振り上げちゃ——」
「でい!」
霖之助の制止を聞かず、布都は思いっきり包丁を振り下ろした。どこに頭より高く腕を掲げて包丁を振り下ろす料理人がいるんだ。
すこーん、とおおよそネギが切れたとは思えない音が霖之助の耳朶を打つ。
「——いったあああああい!?」
「ふ、布都!? 大丈夫かい!?」
その瞬間、見るだけでぞっとするような赤色がまな板の上にこぼれる。血だ。嫌なものを感じて、霖之助は慌てて布都のもとへ駆け寄る。
うるうると目に涙を浮かべて布都がこちらを見た。
「り、りんのすけぇ……ゆびきったあ……」
「見せてごらん……あー、指ごとはさすがに行かなかったか……」
布都の手を取って傷口を診る。
布都の人差し指は真っ赤になっているが、どうやら指の腹を切ってしまったようだ。派手に切っているが、幸い傷口は深くない。
良かった、と小声で呟くと霖之助は近くの棚をひらき救急箱を取り出す。そこから絆創膏と消毒液を取り出した。
「布都、ちょっと痛いよ」
「うん……」
小さな布に消毒液を染み込ませ、それをぽんぽんと傷口に当てる。
その瞬間布都がびくりと震え、涙が布都の目から溢れんばかりに勢いを増した。
「……ん、これで終わりだ。痛かったね、よく耐えたよ」
霖之助は丁寧に絆創膏を巻くと、布都の頭を撫でる。
その瞬間布都が涙まじりの気持ち良さそうな笑みを浮かべて、霖之助も思わず頬を緩ませる。
救急箱をしまうと、霖之助は布都に言った。
「布都。こっちおいで、包丁の使い方教えてあげるから」
まな板を拭くと、霖之助は布都に呼びかけた。
まだ傷が痛むのか、布都が涙をこすって頷くとまな板の前に立つ。
霖之助は布都のすぐ後ろに立って、布都の手に自分の手を重ねた。
「ひゃっ!?」
「まず包丁の持ち方だ。ここをこう持って……」
「ま、ままま待て霖之助、その、近い……」
「ん? ——まだ、傷が痛むかい?」
手を重ねた瞬間布都が跳ね上がって、俯きながら小声でボソボソとなにかを口走る。
布都は霖之助の声にまた跳ね上がって、そして真っ赤な顔で霖之助を上目遣いで見た。
「だ、だだ大丈夫、うん、続けて、くれ」
「……? まあ良いや、包丁を握り方はね……」
いつもよりピンク色に染まった布都の頬を見て、霖之助は訝しげに首を傾げたが、まあ良いかとレクチャーを再開。
終始布都は真っ赤な顔をしていたが、風邪が移ってしまったのだろうか。
◇
あのあと残った食材でちょうどお粥が作れそうだったので、布都と一緒に作った。
霖之助は布団を被ったまま上体だけを起こして、木板に置かれたお粥に向けて手を合わせる。
「いただきます」
「う、うむ」
その横で正座している布都は、まだちょっと顔が赤い。
なんだか目も俯きがちだし、霖之助をチラチラと見ては視線を逸らしている。霖之助と視線が絡み合ったときなんか、びくっと肩を跳ねさせて顔がどんどん真っ赤になっていくのだから、不審なことこの上ない。
まあとりあえず、せっかくのお粥なのだから熱いうちに食べてしまおう。そう考えてレンゲに手を伸ばした時だった。
「り、りんのしゅけ!」
「ん?」
いつもより一段ほど高くなった布都の声に反応して、横を向く。
その瞬間布都は一瞬真っ赤になるも、その真っ赤な顔のまま霖之助に向けて言い放った。
「つ、辛いであろう! 我が食べさせてやる!」
「は?」
「だ、だから我が食べさせてやると言っているのだ!」
「……」
いや、別にそこまで辛くないけど——そう言おうとして、やめた。
布都の顔といったらもう、桃みたいな頬のまま必死な表情で言っているのだから、結構本気らしいことが伝わってくる。
そんな優しい提案を一蹴するのもなんだか気持ちが悪くなる気がして、霖之助は優しげに微笑んだ。
「……そう。なら、せっかくだしお願いしようかな」
「……! う、うむ、任せておけ!」
布都は花が咲いたような笑顔を浮かべると、嬉々としてお粥の皿とレンゲを手に取った。
そしてお粥を掬い、熱くないよう十分に冷ましてから、霖之助の口に向けてレンゲを差し出す。
「ほ、ほら、霖之助」
「ん」
口を開けて、お粥を食べる。
霖之助の容態を考慮して、味付けは薄めだ。けれどもしっかり味は付いているし、結構おいしい。
ごくりとお粥を嚥下すると、布都が忙しない——犬の尻尾を付けたら確実に左右に揺れているような表情を浮かべながら霖之助を見ていた。
「ど、どうだ? おいしいか?」
「うん、おいしいよ」
「——! そうか! まだたくさんあるぞ、どんどん食べろ!」
ずいとレンゲを突きつけてくる布都。霖之助は苦笑いをひとつこぼしながら、しずかに口を開けた。
自分が食べているわけでもないのに、霖之助が一口食べるたびに幸せそうな顔をしている布都。その表情が微笑ましくて、霖之助も素直にお粥を食べる。
そしてお粥を半分ほど食べ終わったときだった。
「……もう良いや、ごちそうさま」
「えっ……で、でもまだ半分ほど残っているぞ?」
どうやら、自分の腹は風邪で結構参っているらしい。それ以上は口が受け付けなかった。
だが残っているのは事実だし、捨てるのも勿体無い。しばらく霖之助は思案して、はっと名案を思いつく。
「じゃあ、布都が食べたらどうだい?」
「——え?」
「さっきから布都、顔赤いし、風邪でも移ってたら大変だしね」
「えうっ!?」
布都がますます頬を赤くして自分の頬っぺたに手を当てた。
霖之助はこぼれるような笑みをひとつ。
風邪に蝕まれた体で料理なんてしたのが堪えたのか、霖之助はとてつもなく眠たかった。無茶をするものじゃないなと内心で苦笑いして、もごもご口を動かす布都に断りをいれる。
「い、いやでもレンゲこれ霖之助が口付けた——」
「悪いけど、僕はもう寝るよ。すこし、眠たくてね」
「え? う、ああ、わ、わかった……」
なにやら布都が動揺しているけれど、眠気が耳を鈍らせているためなにを言っているのかよくわからなかった。
どこか慌てたような布都を尻目に、布団を肩まで被って目を閉じる。
案外睡魔は優しく霖之助の意識を奪っていってくれた。闇のなかに落ちていくような感覚とともに、しずかに意識を失っていく。
——眠りに落ちるまで、霖之助の耳には「ど、どうしよう……これって、間接……」などと迷い続ける布都の唸り声が届くのだった。
◇
「……」
霖之助はごく自然な目覚めを体験した。どうやらまた凄惨な覚醒をするハメになるかと思ったがそんなことはなかったようだ。
すると、腹の辺りにすこしの重さ。
無意識でそこに目を向けると、布都が霖之助にもたれかかるようにして眠っていた。
すー、すー、と規則的な寝息を立てて安らかな寝顔を霖之助に向けている彼女。
(まったく……)
——僕は病人だぞ。
霖之助は内心と相反した柔らかな微笑みを顔に浮かべると、布都の綺麗な銀髪を優しく撫でた。
きっと、看病してくれていたのだろうけど、そのまま眠ってしまったのだろう。
窓を見ると、夕陽が射し込んでいる。それも薄いオレンジ色なのではなくて、赤と橙が混じった光が痛いくらい目に飛び込んできていた。
これまた結構な時間眠っていたようだ。
「りん、の、すけー……」
布都が声を漏らす。寝言だろうか、寝言で自分の名前を呼ばれるのはなんだか照れ臭くて、苦笑いをひとつ。
体はいつのまにか軽くなっていた。
完治までかなり時間が掛かるかと予想していたのだが、どうやらそのアテは外れてしまったらしい。——あるいは、布都の看病のおかげだろうか。
「えへへー……」
だらしなく笑う布都の側で、霖之助は優しく彼女の頭を撫で続けていた。
——それをしずかに眺めるスキマが、ひとつ。
スキマの主、境界に潜む妖怪・八雲紫は、その光景を見て地団駄を踏むような表情をしていた。
「うう……霖之助さん取られたー! 私が看病しようとしてたのにー!」
「……紫さま」
「なんなの!? 私と霖之助さんのフラグはないの!?」
「紫さま、そのようなお言葉は控えてください」
「あーもう! 霖之助さん私とのフラグはことごとく折っていくくせに! 鈍感! 朴念仁! フラグブレイカー!」
「それは霊夢や魔理沙も同じです」
「ぐぬぬ……! で、でもまあ今日ので霖之助さんが幼女趣味ってことはわかりました! 今度はちょっと若返って霖之助さんの所に行ってやるわ!」
ぷんすかと怒りながら、紫がスキマのかなたへ消えていく。
その背中を藍はしずかに眺めていたが、やがて盛大な盛大な、それこそ霖之助の放つそれとは比べものにならないほど大きなため息をひとつ。
「……店主は、誰も恋愛対象として見てないだけだと思うのですがね……」
そのため息の先は、主ではなく、鈍感な霖之助へ、だった。
きっとあの尸解仙に甘い理由も、ただ単に子供みたいな性格をしているからではないのか——藍はそう思う。
——つまりそれは、布都を恋愛対象として見ていないということでもあって。
霖之助の場合、この幻想郷に住む多数の少女たちから好意を向けられているのにまったく気づいてないのだから困ったものだ。
「まったく、難儀なものです」
藍は、『まあそれも魅力なのですが』と苦笑を浮かべると、主の背中を追ってスキマへ消えていった。
山は紅葉で美しく彩られ、冬の訪れに備えるかのように動物たちは動き回る。
夏と冬の間、その曖昧な時期である故、暑くもなければ寒くもない。春と並んで、四季の中ではとても過ごしやすい季節と言えるだろう。
香霖堂の偏屈店主、森近霖之助にとってもその事実は変わらない。普段用事でもない限りほとんど外に出ない霖之助だが、それでも香霖堂内の気温というのは外の気温に依存する。
この暑すぎず寒すぎず、ちょうど良い涼しい感じ。霖之助はこういう日が大好きなのであった。
絶好の読書日和である。春はちょっと、頭の中まで春になった妖精とか人間とかがうるさいので、やはり秋が一番だ。
『読書三余』——冬と夜と長雨の三つの余暇は読書をするのにはちょうど良い、とは言うがそんなものは個人の嗜好であり、霖之助は後者二つこそ同意できても冬に本を読むというのはあまり好きではなかった。読書三余を霖之助風に直せば、秋、夜、長雨の三つが読書に最適なのである。……まあ、身も蓋もなく言ってしまえば霖之助はいつでも本を読んでいるのだが。
さて、となれば霖之助は普段通り読書をしているはずだ。
しかし——。
「げほっ、ごほっ! ……あー、頭痛い……」
霖之助は今、布団でごほごほと咳き込んでいるのだった。思考には靄がかかり、地面に貼り付けられたかのごとく体は重い。
——間違いなく、霖之助は風邪をひいていた。
つい昨日、無縁塚に蒐集へ行っていたときからなんとなく嫌な前兆はあった。すこし喉が痛かったり、やたら寒気を感じたり、鼻がすこし詰まったり、にわかに体が重かったり。
その時に引き返しておとなしく寝ておけば良かったのだろうが、幸というべきか不幸というべきか、その日に限って珍しい道具が結構あったのである。おかげで香霖堂の品揃えは増えたが、霖之助の風邪はひどくなっていた。
(治るのに何ヶ月かかるかな……)
冷静に頭の中で分析する。
霖之助は本来半妖なので心の病にも肉体の病にも罹りにくいはずなのだが、いったい全体どういう神のイタズラか、もしくはあのすきま妖怪の陰謀か。
まったく、予定が丸つぶれだ。霖之助は内心で思わず愚痴をこぼす。
まあ予定と言っても来るかどうかすらわからない客に向けた接客と、ちょうど良い辺りまで読み進めた本の続きを読む程度なのだが、それも霖之助にとっては重要なスケジュールである。どこからか『仕事しろよ』という白黒魔法使いの声が聞こえた気がする。お前が言うな、霧雨魔法店店主。
そのとき、脇に挟んでいた温度計から甲高い音が鳴った。じっとり嫌な汗で濡れた寝巻きを緩め、脇から温度計を取る。
「三十九度……」
霖之助はため息と同化したような声で温度計に表示された数値を読み上げた。
なんということだ、かなりの高熱である。
霖之助ら半妖は風邪をひきにくい。けれどその代償というべきか、治りが非常に遅いのである。こんな高熱なら、完治まで何ヶ月かかることやら。霖之助は風邪にうなされる未来を想像して憂鬱な気分になった。
これも普段から外に出ない引きこもり生活にどっぷり浸っていたツケだろうか。ツケなんぞあのぐうたら巫女ので十分なのだが。
「はあ〜……」
風邪のせいか、どうも物事をネガティブに考えてしまう。
こういうときは寝るに限る。もう香霖堂は『準備中』の札をかけてあるし、客も来ないだろう。いつものことだが。
やれやれと、霖之助が頭から布団を被ってぐっすり眠ろうとしたときだった。
「……すけ〜! いないのかー!」
「……」
遠くから——具体的には香霖堂の扉の向こうから声が聞こえてくる。聞き覚えのある声だ。
その声は最近新たにお客リストに追加された少女の声と一致していた。幻想郷住人のなかでは珍しく良識を持ち合わせた純粋な少女だ。常識を持っているかと言われれば、霖之助はすこし思案しなければならないのだけれど。
少女——名を布都という、布都は元気のある快活な少女で、よく香霖堂へ遊びにくる。そのまま気に入った道具を買ってくれることもあり、香霖堂の貴重なお客様だ。
だが、そのうち香霖堂の扉に掛かっている準備中の札を見て出直すだろう。
そう考えて、霖之助はいっそう強く布団を被る。
すると次の瞬間——。
「——りんのすけえええええ!」
木製の扉のようなものを粉々に破壊する爆砕音が響く。その音を聞いて霖之助は思わず布団の中で肩をはね上げた。
霖之助のいる寝室から、香霖堂の扉からはすこしばかり遠いが、それでもその破壊的な音は霖之助の鼓膜を打ち破らんばかりに震わせた。その震えが脳に伝わり頭を揺らす。気持ち悪い。
なにかが壊された気がするが、あまり深くは考えないでおこう。考えると風邪が悪化しそうだ。放置しても風邪が悪化しそうだが、とりあえず今は考えないことにする。起きてから考えれば良い。……というか布都は準備中の札を見なかったのか。
……そういえば、風邪で朧げな意識のまま札を掛けたのだった。もしかしたら『準備中』ではなく『開店中』の札を間違えて掛けてしまったかもしれない。
しっかり確認しておくんだった、と後悔しても既に後の祭りである。
「……む? なんだ、霖之助は……寝室か」
なんでわかったし。
そう突っ込みたい気持ちを抑えながら、ああもう好きにしてくれと半ばヤケクソで布団をかぶり直す。風邪をひいているおかげか判断力やらいろいろは最低レベルまで落ち込んでいた。
目の前が布団で真っ暗になって、霖之助もそれに合わせて目を瞑る。彼女の足音がだんだんと近づいてきて、止まる。
はてさてそのまま帰るか、と思われた彼女だったが、グイとなにかに布団を引っ張られる違和感。
首を傾げる前に、そのまま坂から転がり落ちたような錯覚を覚えて、
「霖之助! 朝だぞー!」
「——!?」
病人にはまるで似合わぬ、いたわりのカケラもない最悪な目覚めを体験させられたのだった。
◇
病人は基本安静である。
それはもう常識と言っても過言ではないほど当然なことなのだが、目の前で申し訳なさそうに頭を垂れる少女——物部布都にとっては、そうでもないらしい。
ほぼ間違いなく今ので風邪が悪化したことだろう。霖之助は恨みがましそうに布都を見る。
「す、すまん霖之助……まさか風邪をひいてたなんて思わなくて……」
「……はあ」
布都が心底申し訳なさそうに謝っているのを見ると、怒れない。これで軽口を叩いてくる霊夢や魔理沙なら思う存分怒れるのだが、布都は世間知らずというか純粋で、見た目通り幼い少女である。そんな少女に怒るのもなんだか大人げなく思えてきて、怒りは霧散してしまった。
「もう良いよ、別に怒ってないから」
「ほ、本当か?」
「ああ、本当だ」
——怒りが消えてしまえば、抑えていた苦しさがわざとらしく鎌首をもたげてくるのだが。
まあ、霖之助だってそれなり生きた半妖だ。それなりの痛み辛さ苦しみは味わってきているし、許容の範囲内である。
「ごほっ、ごほっ!」
布団で寝ていた霖之助だったが、その咳で背中が弾む。慌てて布都が霖之助に駆け寄り、背中を摩った。
「だ、大丈夫か?」
「げほ、ごほっ、ああ、うん」
咳の衝撃で涙が出て、声が震える。
布都をなんとか手で制しようとするが、咳によって暴れる体はそれすらも満足に聞き入れてはくれない。
どうやら、本当に悪化してしまったようだ。先ほどよりも咳がひどいし、頭もぼーっとする。
今日はもうゆっくり眠るべきだろう。霖之助は早々に判断すると、布都を帰すべく弱々しい声で布都を見る。
「ふ、布都……げほ、今日は悪いけど、ごほごほ! 帰って……」
「り、霖之助!」
布都が霖之助の声を遮って、霖之助の手をぎゅっと握った。
なにごとかと思って布都を見ると、布都も風邪をひいてしまったのかその顔は赤くなっている。そのまま、勇気を振り絞るようにもじもじしながら布都は霖之助に言い放った。
「つ、辛いのであろう! き、今日は我が看病してやるぞ!」
「……はい?」
霖之助は、咳き込むことすらも忘れてぽかんと口を開けた。
「だ、だから、我が看病してやると言っているのだ!」
「……」
「む、なんだその顔は! こ、こう見えても我だって料理くらいはできるのだぞ!」
いや、そういうことを言っているんじゃなくて——。
そう言おうとしたが、声が出ない。咳がその言葉を完璧に阻害してしまう。
「ほ、ほらまずは横になるのだ! 霖之助はそこで寝ているのだぞ!」
布都は半ば強引に霖之助を寝かせると、立ち上がってぱたぱたと台所へ向かってしまった。
その背中をぼんやりと靄のかかった視線で見つめる。布都は本当に空回りしやすい少女だから、今回もなんだか嫌な予感がするな——。決して感謝していないわけではないし、むしろありがたい。ただ問題は、彼女が善意で起こす行動の後始末は霖之助がするハメになることが多いということであって。
だが鈍った体と思考では止めに行こうとかそんなことも考えられず、むしろこのまま布都の言うとおり眠ってしまおうという考えの方が強かった。
まあ布都だって、一応人間とは比べ物にならないほど存在している人外なのだ。いくらなんでもそんなにひどいミスはしないだろう。そうであると思いたい。
霖之助は自分に言い聞かせるように脳内で言葉を反芻すると、目を閉じる。願わくば、布都がなにか間違いをしませんように——。
ぶすぶすとなにかが焼け焦げる苦い匂いで、霖之助は目を覚ました。
あまり良いとは言えない目覚めだ。しかも嫌な予感がする。匂いは台所の方から漂っているようだった。
「あ、あれ……たしかここにこれを入れて……ぎゃー!? なんか燃えた! 熱い!」
「……」
台所からぼんやり漂ってくる悲鳴を聞きながら、霖之助は冗談抜きで天をあおぐ。——絶対なにかやらかしているな、と。
まだ風邪は治っていないが、それでも眠る前よりはマシになった。どれだけ眠っていたのかはわからないが、もう結構な時間が経っているはずだ。多分昼ごろだろう。
重い体をひきずり立ち上がる。そして壁に手を付きながらすばやく着替え、いつもの着物に袖を通した。そして廊下を通り台所へ向かう。
「ぎゃー!? 焦げてる! どうしよって、あー! 塩コショウの瓶が!
っ、けほ、こほっ、ってわわわ!?」
「……」
「いったー!? 頭打った……って」
——廊下を抜けると、そこは戦場であった。
布都が霖之助用の大きなエプロンを着用しながらがんばって料理をしている。そこは良い。だが問題は、いっそわざとなんじゃないかと疑ってしまうほど見事に失敗をしているところである。
なにかを焼いていたのかフライパンを菜箸でいじくっていたのだが、その際に肘が塩コショウの瓶に直撃、蓋を開けながらフライパンに落下。塩コショウが所狭しと乱舞し、それを目と鼻に入れた布都が咳き込み涙で目を濡らす。そして転んだ布都は食器棚に後頭部を直撃させ、尻餅をつく。そして現在布都は涙目で霖之助を発見する——そういう状況だった。
今の自分はいったいどんな顔をしているだろう。多分怒りとか呆れとかそんな感情を十歩くらい飛び越えた先にある境地、そこに達していると思うのだ。悟ったと言い換えてもよろしい。
「り、霖之助ぇ……」
「……君はいったいなにをやっているんだ」
「わ、我、霖之助になにか作ってやろうと思って……」
頭が痛い。きっと風邪のせいだけじゃないだろう。いろいろ中に溜まったものを吐き出すようにため息を吐くと、とりあえず尻餅をついている布都に手を貸し立ち上がらせる。
「ああもう、顔中塩コショウまみれじゃないか……けほっ」
「り、霖之助! つ、辛いなら寝てなきゃ……」
「いや、今のはむせただけだ。それに」
霖之助は台所の周りを見て、なんとも微妙な表情を浮かべる。地獄絵図、戦場、混沌——表す言葉はたくさんあるけれど、そのすべてが当てはまりそうで、そのどれにも属さないような気がするこの台所。
これ以上布都に台所を任せていると、このよくわからない状況がはるかに悪化しそうな気がする。
「——これ以上君に任せていると、なんだか台所が爆発しそうな気がするんだ」
「う、うう……」
布都自身もなにか思うところがあったのか、しょんぼりと肩を落とす。瞳に浮かべる涙は痛みとはまた別のものなのだろう。
子供を泣かせる大人というのは、いかがなものだろうか——ふとそんな罪悪感にも似た感情が芽生える。この現場をだれかに見られれば霖之助の名声は地獄よりも底へ落ちるであろう。
霖之助はため息を吐く。まあ、幸いなにか壊されたわけでもなし。いくつか食材を灰塵に帰されたようだが、もともと霖之助は半妖なので数年くらいはなにも食べなくても済むわけで。実質的な被害はほぼないだろう——布都に壊されたと思われる扉? 知らない。
霖之助はやれやれとかぶりを振ると、俯く布都の頭にぽんぽんと手を置いた。
「……料理できないなら、最初からそう言えば良かったのに」
苦笑いすると、霖之助は咳払いをひとつ、そして着物の袖をまくる。
「ち、違うぞ! 我だって普段は料理できるのだ、だがな——」
「はいはい、わかったわかった」
わめく布都を適当に流し、台所に立つ。
なにかを切ろうとしていたのか、まな板の上で包丁が危うい光を反射していた。その横にはネギ。まだ切られていないことから、これから切るという算段だったのだろう。
あとすこしここに来るのが遅かったら、台所には赤い華が咲いていたかもしれない。そんなホラー要素は香霖堂に不要なので、霖之助は思わず安堵の息をつく。布都のことだから指ごと行きそうで危なっかしい。
「あ、ネギは切れるぞ! 霖之助はどいてどいて!」
「あっ、ちょっ」
布都はこちらが病人であることを良いことに、霖之助を優しく押してまな板の前に立った。布都なりに加減してくれたのだろうが、(見た目)幼い少女に力負けする男というのも格好が付かない話だ。
「とりあえず、いくぞー!」
「おいっ、そんな包丁を勢い良く振り上げちゃ——」
「でい!」
霖之助の制止を聞かず、布都は思いっきり包丁を振り下ろした。どこに頭より高く腕を掲げて包丁を振り下ろす料理人がいるんだ。
すこーん、とおおよそネギが切れたとは思えない音が霖之助の耳朶を打つ。
「——いったあああああい!?」
「ふ、布都!? 大丈夫かい!?」
その瞬間、見るだけでぞっとするような赤色がまな板の上にこぼれる。血だ。嫌なものを感じて、霖之助は慌てて布都のもとへ駆け寄る。
うるうると目に涙を浮かべて布都がこちらを見た。
「り、りんのすけぇ……ゆびきったあ……」
「見せてごらん……あー、指ごとはさすがに行かなかったか……」
布都の手を取って傷口を診る。
布都の人差し指は真っ赤になっているが、どうやら指の腹を切ってしまったようだ。派手に切っているが、幸い傷口は深くない。
良かった、と小声で呟くと霖之助は近くの棚をひらき救急箱を取り出す。そこから絆創膏と消毒液を取り出した。
「布都、ちょっと痛いよ」
「うん……」
小さな布に消毒液を染み込ませ、それをぽんぽんと傷口に当てる。
その瞬間布都がびくりと震え、涙が布都の目から溢れんばかりに勢いを増した。
「……ん、これで終わりだ。痛かったね、よく耐えたよ」
霖之助は丁寧に絆創膏を巻くと、布都の頭を撫でる。
その瞬間布都が涙まじりの気持ち良さそうな笑みを浮かべて、霖之助も思わず頬を緩ませる。
救急箱をしまうと、霖之助は布都に言った。
「布都。こっちおいで、包丁の使い方教えてあげるから」
まな板を拭くと、霖之助は布都に呼びかけた。
まだ傷が痛むのか、布都が涙をこすって頷くとまな板の前に立つ。
霖之助は布都のすぐ後ろに立って、布都の手に自分の手を重ねた。
「ひゃっ!?」
「まず包丁の持ち方だ。ここをこう持って……」
「ま、ままま待て霖之助、その、近い……」
「ん? ——まだ、傷が痛むかい?」
手を重ねた瞬間布都が跳ね上がって、俯きながら小声でボソボソとなにかを口走る。
布都は霖之助の声にまた跳ね上がって、そして真っ赤な顔で霖之助を上目遣いで見た。
「だ、だだ大丈夫、うん、続けて、くれ」
「……? まあ良いや、包丁を握り方はね……」
いつもよりピンク色に染まった布都の頬を見て、霖之助は訝しげに首を傾げたが、まあ良いかとレクチャーを再開。
終始布都は真っ赤な顔をしていたが、風邪が移ってしまったのだろうか。
◇
あのあと残った食材でちょうどお粥が作れそうだったので、布都と一緒に作った。
霖之助は布団を被ったまま上体だけを起こして、木板に置かれたお粥に向けて手を合わせる。
「いただきます」
「う、うむ」
その横で正座している布都は、まだちょっと顔が赤い。
なんだか目も俯きがちだし、霖之助をチラチラと見ては視線を逸らしている。霖之助と視線が絡み合ったときなんか、びくっと肩を跳ねさせて顔がどんどん真っ赤になっていくのだから、不審なことこの上ない。
まあとりあえず、せっかくのお粥なのだから熱いうちに食べてしまおう。そう考えてレンゲに手を伸ばした時だった。
「り、りんのしゅけ!」
「ん?」
いつもより一段ほど高くなった布都の声に反応して、横を向く。
その瞬間布都は一瞬真っ赤になるも、その真っ赤な顔のまま霖之助に向けて言い放った。
「つ、辛いであろう! 我が食べさせてやる!」
「は?」
「だ、だから我が食べさせてやると言っているのだ!」
「……」
いや、別にそこまで辛くないけど——そう言おうとして、やめた。
布都の顔といったらもう、桃みたいな頬のまま必死な表情で言っているのだから、結構本気らしいことが伝わってくる。
そんな優しい提案を一蹴するのもなんだか気持ちが悪くなる気がして、霖之助は優しげに微笑んだ。
「……そう。なら、せっかくだしお願いしようかな」
「……! う、うむ、任せておけ!」
布都は花が咲いたような笑顔を浮かべると、嬉々としてお粥の皿とレンゲを手に取った。
そしてお粥を掬い、熱くないよう十分に冷ましてから、霖之助の口に向けてレンゲを差し出す。
「ほ、ほら、霖之助」
「ん」
口を開けて、お粥を食べる。
霖之助の容態を考慮して、味付けは薄めだ。けれどもしっかり味は付いているし、結構おいしい。
ごくりとお粥を嚥下すると、布都が忙しない——犬の尻尾を付けたら確実に左右に揺れているような表情を浮かべながら霖之助を見ていた。
「ど、どうだ? おいしいか?」
「うん、おいしいよ」
「——! そうか! まだたくさんあるぞ、どんどん食べろ!」
ずいとレンゲを突きつけてくる布都。霖之助は苦笑いをひとつこぼしながら、しずかに口を開けた。
自分が食べているわけでもないのに、霖之助が一口食べるたびに幸せそうな顔をしている布都。その表情が微笑ましくて、霖之助も素直にお粥を食べる。
そしてお粥を半分ほど食べ終わったときだった。
「……もう良いや、ごちそうさま」
「えっ……で、でもまだ半分ほど残っているぞ?」
どうやら、自分の腹は風邪で結構参っているらしい。それ以上は口が受け付けなかった。
だが残っているのは事実だし、捨てるのも勿体無い。しばらく霖之助は思案して、はっと名案を思いつく。
「じゃあ、布都が食べたらどうだい?」
「——え?」
「さっきから布都、顔赤いし、風邪でも移ってたら大変だしね」
「えうっ!?」
布都がますます頬を赤くして自分の頬っぺたに手を当てた。
霖之助はこぼれるような笑みをひとつ。
風邪に蝕まれた体で料理なんてしたのが堪えたのか、霖之助はとてつもなく眠たかった。無茶をするものじゃないなと内心で苦笑いして、もごもご口を動かす布都に断りをいれる。
「い、いやでもレンゲこれ霖之助が口付けた——」
「悪いけど、僕はもう寝るよ。すこし、眠たくてね」
「え? う、ああ、わ、わかった……」
なにやら布都が動揺しているけれど、眠気が耳を鈍らせているためなにを言っているのかよくわからなかった。
どこか慌てたような布都を尻目に、布団を肩まで被って目を閉じる。
案外睡魔は優しく霖之助の意識を奪っていってくれた。闇のなかに落ちていくような感覚とともに、しずかに意識を失っていく。
——眠りに落ちるまで、霖之助の耳には「ど、どうしよう……これって、間接……」などと迷い続ける布都の唸り声が届くのだった。
◇
「……」
霖之助はごく自然な目覚めを体験した。どうやらまた凄惨な覚醒をするハメになるかと思ったがそんなことはなかったようだ。
すると、腹の辺りにすこしの重さ。
無意識でそこに目を向けると、布都が霖之助にもたれかかるようにして眠っていた。
すー、すー、と規則的な寝息を立てて安らかな寝顔を霖之助に向けている彼女。
(まったく……)
——僕は病人だぞ。
霖之助は内心と相反した柔らかな微笑みを顔に浮かべると、布都の綺麗な銀髪を優しく撫でた。
きっと、看病してくれていたのだろうけど、そのまま眠ってしまったのだろう。
窓を見ると、夕陽が射し込んでいる。それも薄いオレンジ色なのではなくて、赤と橙が混じった光が痛いくらい目に飛び込んできていた。
これまた結構な時間眠っていたようだ。
「りん、の、すけー……」
布都が声を漏らす。寝言だろうか、寝言で自分の名前を呼ばれるのはなんだか照れ臭くて、苦笑いをひとつ。
体はいつのまにか軽くなっていた。
完治までかなり時間が掛かるかと予想していたのだが、どうやらそのアテは外れてしまったらしい。——あるいは、布都の看病のおかげだろうか。
「えへへー……」
だらしなく笑う布都の側で、霖之助は優しく彼女の頭を撫で続けていた。
——それをしずかに眺めるスキマが、ひとつ。
スキマの主、境界に潜む妖怪・八雲紫は、その光景を見て地団駄を踏むような表情をしていた。
「うう……霖之助さん取られたー! 私が看病しようとしてたのにー!」
「……紫さま」
「なんなの!? 私と霖之助さんのフラグはないの!?」
「紫さま、そのようなお言葉は控えてください」
「あーもう! 霖之助さん私とのフラグはことごとく折っていくくせに! 鈍感! 朴念仁! フラグブレイカー!」
「それは霊夢や魔理沙も同じです」
「ぐぬぬ……! で、でもまあ今日ので霖之助さんが幼女趣味ってことはわかりました! 今度はちょっと若返って霖之助さんの所に行ってやるわ!」
ぷんすかと怒りながら、紫がスキマのかなたへ消えていく。
その背中を藍はしずかに眺めていたが、やがて盛大な盛大な、それこそ霖之助の放つそれとは比べものにならないほど大きなため息をひとつ。
「……店主は、誰も恋愛対象として見てないだけだと思うのですがね……」
そのため息の先は、主ではなく、鈍感な霖之助へ、だった。
きっとあの尸解仙に甘い理由も、ただ単に子供みたいな性格をしているからではないのか——藍はそう思う。
——つまりそれは、布都を恋愛対象として見ていないということでもあって。
霖之助の場合、この幻想郷に住む多数の少女たちから好意を向けられているのにまったく気づいてないのだから困ったものだ。
「まったく、難儀なものです」
藍は、『まあそれも魅力なのですが』と苦笑を浮かべると、主の背中を追ってスキマへ消えていった。
しかしBBA…若返るって何百年分位?…ピチューン
あなたの作品をもっと見たいです。
布都ちゃんは飛鳥時代の貴族なので、料理ができないのでしょうね
>>1名前が無い程度の能力様
良いですよねぇ、看病シチュエーション!自分だってこんなかわいい女の子が看病してくれるなら風邪でもなんでもひいてやるぜ!
ゆ、ゆかりんは少女だから…普通にちょっと若返るだけだから…(震え声)
>>絶望を司る程度の能力様
ありがとうございます!やっぱりのんびりとしたほのぼのSSを書きたいと思っているので、またお暇なときにでも覗いてくだされー。
>>奇声を発する程度の能力様
良い雰囲気と言ってもらえるとは、すごく嬉しいですぜ!こんな優しい雰囲気の作品をつくっていきたいと思ってますので、今後またなにかあれば、覗いてくれるとありがたいですー
>>8名前が無い程度の能力様
おお、この作品にそのようなコメントを付けていただけるとは…ありがとうございます!私も頻繁に投稿するってことはできませんけれど、まだまだ投稿していきたいと思っておりますので、また読んでいただけると嬉しいですぜ!
>>9名前が無い程度の能力様
ありがとうございまっす!
そうですねえ、布都ちゃんは時代とかもありますけれど、やっぱり料理できない女の子が頑張るのってかわいいと思うんですよ!それに布都ちゃんドジそうだし(小声)