「遂に、遂に、紅魔館にチョコバナナ砲が設置されたんですよ!」
「は、……はぁ」
ある日の昼下がり、人間の里にて。
にこにこと嬉しそうに微笑む咲夜に、突然そんなことを言われて、射命丸は大いに困惑した。
チョコバナナ砲? ……一体それは何だ!?
チョコバナナは、まぁわかる。あれは良い物だ。こう見えても射命丸は狂的なほどのチョコバナナ好きである。三食チョコバナナでも十年くらいは平気だろうと、そのくらいチョコバナナを愛していた。
バナナをチョコでコーティングするという悪魔的発想。あれを最初に考えた奴は英霊として未来永劫祀られるべきであると、常々そう考えていたところだ。
淡い記憶が蘇る。そう、あれはいつかの縁日での出来事。お目当てのチョコバナナを探す射命丸は、にとりの出店にそれを見つけると、天狗的経済力をもってチョコバナナをあるだけ買い占めた。
顔を綻ばせて、買い占めたチョコバナナを一口ぱくり。
……胡瓜だった。
以来、にとりの名前は、射命丸のいつか殺すリストの上位に載るわけだが、それはともかく。
チョコバナナはわかる、しかし後につながる、砲、とはこれ如何に? 砲というからには砲丸? 砲弾? 設置というのなら砲台だろうか。
いずれにせよチョコバナナとの繋がりが見えてこない、何とも不可解だ。
頭に?マークが飛び交う射命丸の様子に、咲夜ははっと気がついて、補足の言葉を継ぐ。
「ごめんなさい、私の言葉が足りませんでしたね。ええとチョコバナナ砲とは、つまり」
「つまり?」
「チョコバナナを撃ち出す、砲台です」
えっへん、と言わんばかりに胸を張る咲夜。
なるほど……さっぱりわからん。
射命丸は余計に困惑するのだった。
第一部、亡き王女のためのチョコバナナ砲
Banane de chocolat Pistolet pour une infante défunte
咲夜に聞いても訳が分からないのなら、これは直接紅魔館に出向いて取材をするしかない。
思い立ったら即実行、射命丸はそれをそうするために、霧の湖を訪れた。
湖は珍しく霧が晴れていて、視界は良好だった。青く澄んだ湖では妖精たちが戯れ、晴れ渡った夏空には小鳥が囀り、遠くの山々に沿うように命蓮寺の遊覧船がのんびり浮かんでいる。
霧の湖では、何故か超高速でティッシュが飛んでくるので、油断していると大変危険だが、今日の射命丸は油断していなかったので大丈夫。概ね平和で、のどかな昼下がり。
やがて湖畔に見えてきた紅魔館。咲夜の言うチョコバナナ砲は、一目でそれとわかる代物であった。
天に届かんとする時計台。その傍らにうずくまるように居座る、物々しい金属の塊。鈍く輝くそれは物騒な砲塔を空に向けて伸ばしており、確かに砲台としか言い様の無い物であった。
それも並みの規模の砲台では無い。もし仮に小惑星ユリシーズが地球に衝突する軌道上にあり、人類の絶滅は免れないという観測結果が届いたとしても、それを迎撃して被害を最小限に留めることが恐らく可能なのではないか、とすら思えたたぶん。
「これはまた、なんとも派手な」
新造砲台を写真に収めようとした射命丸は、砲台から地鳴りのような音が響くのを感じた。続いて、なにかが風を切り裂く音。
それを感じることができたのは天狗の能力ゆえのこと。射命丸は咄嗟に宙返りを打ち、身を躱す。
鼻先を黒色の物体が高速で飛び去っていった。それは確かに間違いなくどう見ても、チョコバナナでしかなかった。天狗だから見えた。
高速で弧を描き飛び去っていったチョコバナナはやがて、湖畔を無邪気に飛びまわる小鳥と衝突する。
無邪気な小鳥は、小さな血煙となって青い空に消えた。
「あらら……」
チョコバナナ砲の傍らではレミリアとパチュリーが何事か話し合っていたが、やがて揃って射命丸のほうを向くと、照れくさそうに頭を下げるのだった。
◆
夢を見たんだ。
そう、確かに夢だとわかっていた。でもだからって、どうすることもできないだろ? 夢から覚めるまではそれは現実で、私はそいつの相手をしなきゃならないんだから。
館の屋上で、私はそいつを呆然と見上げていた。
そいつは赤い着物を着ていて、頭に何故かお椀を被っていて、そして時計台よりも大きかった。
見た事あるやつだったかどうだったか、なんにせよ、すぐに思い出せるほど馴染みのある奴じゃなかった。
咲夜もパチュリーもいつのまにかやられてて虫の息。フランはどうしてたのかな。よくわからないや。
正直に言うと、私は怯えていた。夢の中だからかもしれないけど、足が竦んで言うことを聞かなくって。
そいつが私に手を伸ばす。私は呆気なく捕まってしまう。
大きく開けたそいつの口が、不気味なほど赤かったのだけは、鮮明に覚えてる。
◆
悪夢から覚めたレミリアは、悲鳴を上げてベッドから飛び起きた。
荒い呼吸を落ち着かせて、周囲を見回す。飽きるほど見慣れた、いつもの寝室だ。
ベッドの傍らでレミリアの目覚めを待っている筈の咲夜は、留守なのだろうか、どこにも見当たらない。
落ち着きを取り戻したレミリアであったが、その脳裏に焼き付いた夢の出来事は、鮮やかな記憶となって蘇る。
もし夢の中と同じように、紅魔館が巨大な何かに襲われるようなことがあったとしたら、果たして私たちはそれに打ち勝つことができるのだろうか。
悪夢に囚われたレミリアには、勝てるという自信を持つことができない。
ならば、来るべき脅威を未然に防ぐ策が、必要なのかもしれない。それが何なのかレミリアには思い浮かばなかったが、パチュリーに相談すれば、きっと。
寝室から出たレミリアは、通りすがりの妖精メイドを呼び止めると、小声で
「レミリアからパチュリーへ。もし超巨大な敵に紅魔館が襲われた時は、どうしたらいい?」
と言づてる。
妖精メイドは小さく頷くと、隣で窓掃除をしていた別の妖精メイドの肩を叩き、耳元でごにょごにょと囁いた。
それを聞いた窓掃除メイドは頷いて、隣で壺にハタキをかけていた妖精メイドの肩を叩き……。
レミリアはこの古典的な通信方法を気に入っていた。確かに古くさく無駄の多いやり方ではある。でもだからこそ、無駄を楽しむ余裕こそが貴族的ではないかと、そう信じていた無駄に。
レミリアの言づては妖精から妖精へと、紅魔館の廊下を抜け、大広間を抜け、浴室を抜け食堂を抜け、どんどんと繋がっていった。
階段を下り、フランドールの寝室を抜け、パチュリーのいる大図書館まであと一歩と迫ったところで階段を上り、中庭を抜け美鈴のいる門を抜け、霧の湖を横断し人里を抜け、夏祭りの縁日で賑わう博麗神社を抜け、再び霧の湖に戻り、昼寝する美鈴の脇を抜けて階段を下り、と紆余曲折あったが、およそ二日と七時間の後に、無事パチュリーへと届いた。
「レミリアからパチュリーへ。チョコバナナ砲を設置してほしい全力で」
耳元でそう囁く妖精メイド。パチュリーは静かに頷くと、引き出しの奥からお手紙セットと白い鳩を取り出した。
さらさらと便箋に返事を書いたパチュリーは、それを鳩の足に括り付けた。
小首を傾げるように、くるっくーと鳴く鳩を軽く撫でると、大図書館の空へと放った。
パチュリーお気に入りの通信方法だった。曰く、なんか魔女っぽいじゃん。
白い鳩は大図書館を抜けると、およそ三十秒ほどでレミリアの書斎に辿り着いた。
足に括られた手紙を開くレミリア。そこには一言
「わかった」
と、小さな文字で書いてあった。
コミュニケーションの行き違いに、レミリアは人知れず頭を抱えるのだった。
◆
「まぁ多少の行き違いはあったが、パチェは私の期待に十分応えるものを作り上げてくれた。流石私の親友だ」
「そうですかそうですか、ふむふむ」
チョコバナナ砲設置の経緯を語り、満足げに微笑むレミリア。
射命丸はレミリアの話を興味深そうに聞き入りながら、メモ帳にへのへのもへじを書き込んでいた。
「でもチョコバナナが、あんなバヒューンって飛んでいくだなんて、一体どういう絡繰りなのか不思議で仕方ないのですが」
「ふむ、なかなかいい質問だ。何故チョコバナナが飛んでいくのか? それは……」
「それは!?」
レミリアは余裕の笑みを浮かべながら、うんうんと頷き、隣に座るパチュリーの袖をくいくいっと引っ張った。
助けを請われたパチュリー、テーブルの上に二本のバナナを置く。
「レミィはチョコバナナ砲と呼ぶけど、正しくは電磁投射チョコバナナ砲といって、まぁ平たくいえば電磁気の力を原動力とするわけ」
「電磁気?」
パチュリーの制作ということで、てっきり黒魔術だの精霊の力だの悪魔の契約だのといった話になるかと身構えていた射命丸は、電磁気という聞き慣れない言葉に、少なからず戸惑いを覚える。
「細かく説明するよりも、実践したほうが理解しやすいでしょうね」
パチュリーは小さく頷きながら、テーブルに置いたバナナに電極を取り付ける。
「知っての通り、バナナに通電させると電磁場が発生する。つまり磁石になると」
パチュリーが手元のスイッチを入れると、バナナの脇に置かれたナイフが、吸い寄せられるようにバナナへと近づいていった。
「これが電磁気の力。ここまではいいわね」
「は、はぁ」
生返事で応える射命丸。
正直、知らんかった。
「では、電磁場同士を干渉させると一体どうなるか」
説明をしながら、パチュリーはもう一本のバナナにも電極を取り付け、スイッチを入れる。
その瞬間、片方のバナナが勢いよく弾かれて、弧を描いて飛んでいった。
弾かれたバナナは石の壁に突き刺さって止まった。
「実際の電磁投射チョコバナナ砲ではバナナ二本じゃなくて、片方の電磁場は砲身で形成されるのだけれど。勿論あの規模の砲身なのだから何の工夫も無くとはいかない。二重構造となる砲身の内筒は白金属パラジウムの一体成形。外筒はタングステンカーバイド。どちらも手作業での削りだし。これに電荷を与える本体部分は6061航空アルミのモノブロックに左右独立のディスクリート構成。完全クラスA動作なのは言うまでも無いわね。当たり前だけど肝心のチョコバナナも手抜かりは無いわ。使用するのはDole社製のミリタリースペック、それもTD16 以上のみを選別したアーマーピアッシング・フルカカオジャケット。グリップウッドには五大湖の湖底から百年の時を経て引き揚げられたタイムレスティンバーフィギュアドメイプルを使用と、妥協を完全に排した設計だということは理解してもらえるかしら」
「ふぁ、すみません寝てました」
パチュリーの早口解説が終わるのと同時に、射命丸の鼻提灯が爆ぜたのだった。
「まぁパチェの細かい話は置いておくとして、実際にチョコバナナ砲の豪快で迫力ある発射シーンを間近で見るほうが、新聞の記事には派手に臨場感たっぷりに書きやすいんじゃないか」
「そうですね、……そのほうが楽かも」
気分の高揚しているレミリアの様子を眺め、射命丸は秘かに苦笑いを浮かべた。
(注釈 TD = 糖度)
◆
今日のような霧の晴れた天気の良い日は、紅魔館の屋上から湖を一望することができた。
青く澄んだ湖では妖精たちが戯れ、晴れ渡った夏空には小鳥が囀り、遠くの山々に沿うように命蓮寺の遊覧船がのんびり浮かんでいる。
抜けるような空の青さと湖の深い青とのコントラストが美しく、なかなかの絶景である。 その絶景の中を、真白いティッシュが縦横無尽に飛び交っている様は、まぁ、その、なんだ。
間近で見るチョコバナナ砲は、牧歌的な光景にそぐわない、圧倒されそうなほどの威圧感を放ちながら佇んでいた。
「ふぇー」
射命丸はぽかーんと口をあけて、巨大なチョコバナナ砲を見上げていた。
とにかくデカかった。デカくて、あと重そうだった。以上。
鈍色に輝く巨体に群がるように、迷彩のヘルメットを被った妖精メイドたちが忙しなく行き来している。恐らく発射のための準備点検作業中なのだろう。
「この電磁投射チョコバナナ砲のもう一つの特色として、完全自動制御で拠点防御が可能だという点が挙げられるわね。つまり平たく言うと、弾さえ込めておけば自動で敵の接近を察知して、自動でそれを迎撃してくれるというわけ」
「ふむ、やっぱりそういうのは魔法なり結界なりを使って操ってるんですか」
パチュリーは小さく首を振る。
「マイコン制御よ」
あんた魔法使いだろ! という心の叫びにも似たツッコミを、射命丸は喉元で堪えきった。
やがて、妖精メイドの一団が、台車に載せられたチョコバナナを慎重に運んできた。砲台のハッチを開き、クレーンで吊られたチョコバナナを薬室へと挿入していく。笛と手旗で合図しながらの、ちょっとした工事現場のような光景だ。ほどなくして装弾が完了すると、妖精メイドは安全圏へと慌ただしく避難していく。
準備完了の報せを受け、レミリアは起爆スイッチを取り出した。
「今回は試射ということで手動で発射させる。心の準備はいいかい新聞屋さん」
「ええ、いつでも大丈夫です」
レミリアが勿体つけるよう、にやりと笑い「では、発射三十秒前」と告げたところで横からパチュリーが起爆スイッチのボタンを思い切り押した。
瞬間、地震のような強い揺れと、大音量の爆発音が屋上に響く。
衝撃に翻弄され、射命丸は身を縮こませて耳を塞ぐ。
爆音とともに砲身から射出されたチョコバナナは、理想的なサバの骨曲線を描いて、青空に吸い込まれるように飛んでいった。
「いや……あはは」
放心してしまい、咄嗟に言葉が出てこない。乾いた笑い声だけが響く。
「こりゃ凄いや。想像以上ですよ」
「な、凄いだろ!」
「ええ、確かに」
目を輝かせてふんぞり返るレミリアに、今回ばかりは射命丸も同意する。
そういえば、発射の瞬間を写真に撮り損ねたなと思い返し、少し残念な気持ちになる。
だが、のどかな湖の景色を眺めているうちに、すぐにどうでもよくなった。
レミリアもパチュリーも射命丸も、一言も交わさずに湖を眺めている。
静かで穏やかな時間が流れていた。
心地良い静寂の中、遙か遠くから、微かな爆発音が耳に届いた。
「……あ」
「……あ」
「……あぁー!!」
三人が呆然と見つめるその先では、チョコバナナに撃墜された命蓮寺の遊覧船が、黒煙を吐き出しながら、ゆっくりと山並みに墜落していくのだった。
◆
白昼の惨劇! 紅魔館の宣戦布告か!?
○月○日、命蓮寺所有の遊覧船「聖輦船」が、何者かの砲撃を受け墜落するという事件が起きた。事件の発生は、遊覧船が通常の遊覧コースに沿って霧の湖を横断した直後のことで、一切の予告も前触れも無く、突然に砲撃を受けたと関係者は語っている。
幸いにして遊覧船に乗船していた人たちに死傷者は出なかったものの、突然の襲撃により遊覧船を失った命蓮寺の憤りは激しく、予断を許さない情勢にあるものと見られる。
当社独自の調査によると、この砲撃は紅魔館所有の「電磁投射チョコバナナ砲」によって行われた可能性が高く、今回の事件が紅魔館による命蓮寺への宣戦布告であるという見方もできる。
霧の湖にて事件を目撃していた、わかさぎ姫(人魚)は「それはもう、ぎょっとしました」と驚きを隠せない様子で――――
◆
「ということで、命蓮寺から一億円の賠償請求が来ています。怪我人も出なかったことから、先方も船の修理代を支払ってくれれば水に流してもいいという意向で」
「その修理代が、一億円か」
「そうなります」
咲夜の伝えた内容は予想の範疇ではあったものの、決して喜ばしいものではなかった。
紅魔館の執務室は重く沈んだ空気に包まれる。
「やってしまったものは仕方ないな。咲夜、払ってやれ」
「無理です」
「え!?」
咲夜の予想外の返答に、レミリアは眉をひそめる。
「その、パチュリー様がチョコバナナ砲に蓄えを全額使ってしまいましたもので」
「蓄えを全額って、はぁ!?」
「いまの紅魔館は無一文一歩手前です」
驚愕したレミリアの視線を受け、パチュリーはたじろぎ、口を尖らせた。
「……だ、だって、レミィが全力でって、いったもん」
パチュリーの拗ねたような言い訳がちょっと可愛かったので、レミリアは怒ることもできず、崩れるように頭を抱えた。
「咲夜」
「はい」
「支払いの期限は」
「遅くとも三日後までに」
思った以上に事態は深刻だった。つまり紅魔館は、あと三日間でどうにか一億円を工面して支払わなければならない。もしそれができなかった場合は……その時のことは想像したくも無かった。
「……ワイン畑を」
「ワイン畑、ですか?」
「咲夜、時間を早回しして収穫できるようにしろ。急いで明日中にワインを出荷すれば、何とか一億円に届くだろ」
必死に考えたレミリアの案に、咲夜は溜息を吐き小さく首を振る。
「お嬢様、それは無理です」
「無理? なんで?」
「今年の分のワインは既に出荷が終わっているのですが、今になって再び出荷したとしても、買い手がいないのです。どの業者も、もう必要十分な量のワインは購入しているのですから」
需要と供給のバランス。簡単な市場原理だ。
需要を過剰に上回る供給があったとしても、それは余剰でしかなく、相場の下落という結果しか生み出さない。
つまり儲からない。
「なら、そもそもの原因であるあの大砲を売る、とか」
パチュリーが紅魔館の貯蓄を全力で散財した兵器である。出費に見合った価値があるのだとしたら、かかった金額を回収することは難しくとも、一億円でなら売れるのではないか。
今度の案にも、咲夜は首を振る。
「各方面に打診してはみたのですが、なにしろあれだけの事故が起こったものですから。みなさん縁起でも無いと仰って」
「駄目か」
「守矢神社の早苗さんが是非譲ってほしいと名乗り出ましたが、お年玉の蓄えの五千円しか出せないとの話でしたので、断りました」
五千円では命蓮寺は許してくれないだろう流石に。
レミリアは困り果て、上目遣いで咲夜を見つめる。
「咲夜、なんかいい手は無いの?」
「ひとつだけ、あります……けど」
答えは用意してあったのだろう。だが咲夜は、その答えを言い辛そうに口籠もった。
「いいですか、これは仮に、の話ですよ」
「ああ、仮に、の話だな」
「もし仮にですね、地下の大図書館の書籍を全て売り払えば、試算の結果、一億二千万円になると……」
「困る困る、それ困る」
黙って話を聞いていたパチュリーは、咲夜の提案にあたふたと腕で×マークを作り抗議する。
「レミィ、あなたは知らないのかしら。あの本たちは、ただ本として読まれるためだけに、あそこにあるわけじゃないって事を」
「どういうこと?」
パチュリーは静かに口を開いた。
「大図書館にある蔵書は27万3千500と跳んで7冊。これらの総重量はおよそ12万5千kg」
「そんなにあるんだ!」
「重要なのは蔵書の数ではなくて、その重量。大図書館の蔵書はね、紅魔館が逃げ出さないように、その足枷として、あそこにあるの」
「……はぁ!?」
紅魔館が逃げ出す? 何を言ってるんだ、この出不精寝間着は。
眉をひそめるレミリアに構わず、パチュリーは話を続ける。
「レミィは気づいてないみたいだけれど、紅魔館はずっと昔から、生きる自信を無くし絶望しているの。何のために生きているのか自分でもわからない、かといって死ぬのは怖い。思い詰めた紅魔館はこう考えるの。自分のことを誰も知らない場所で、新しい人生をやり直したい。誰にも迷惑をかけないところでひっそりと暮らしたい。インドかネパールあたりで、仏像でも彫りながら静かに暮らしたいと。でも紅魔館にはそうすることは出来ない。何故かはわかるわよね。そう、大図書館の蔵書が重すぎて、動きたくても動くことができないの」
「じゃ、じゃあもし大図書館の本を売ったら」
「これ幸いと、紅魔館は二本の足で立ち上がって、そして旅立つでしょうね。インドかネパールあたりに」
レミリアは、足の生えた紅魔館がひょこひょこと立ち去る様子を想像してみた。そう言われたら、そんなことも起こり得るかもしれないと納得でき……いや、いや、いや、無理、無理。
「だから本を売るなんてとんでもないこと。わかったかしら」
「なぁパチェ、ひょっとして気づいていないのか」
「……なにが?」
「パチェは嘘をつくとき、白目を剥く癖があるってこと」
「!?」
レミリアの指摘に、パチュリは慌てて手鏡を覗いた。やがて自分が嵌められたことに気づき、照れくさそうに苦笑いを浮かべる。
それにつられるように、レミリアも笑い出した。
「パチェの気持ちはわかった。図書館の本を売るのは、本当にどうにもならなくなった時まで止めておこう」
「ええ、そうしてくれると助かるわ」
「しかし、どうしたもんだか」
溜息を吐いて、三人は顔を見合わせる。
時間に猶予は無く、さりとて打開策も見つからない。いっそ狸の金貸しに相談してみるべきか。高利貸しとの噂だが、その場凌ぎにでもなれば、後のことはじっくり考えれば……。
レミリアが泥沼への一歩を踏み出そうとしたところで、パチュリーが小さく息を吐いた。
「必要なのは、一億円で間違いないわね」
「はい、間違いありません」
「期限は三日後」
「ええ」
パチュリーはレミリアを見つめ、力強く頷いた。
本を売られることは絶対に避けたい。でも、一億円さえどうにか融通すれば、そんなことを心配しなくてもいい。考えてみれば単純なことだ。
「錬金術は得意じゃないけど、一億円、私がどうにかするわ」
決意の込もったパチュリーの言葉は、ちょっと格好良かった。
◆
執務室の末席で、フランドールは話し合いをぼーっと眺めていた。
お姉様たちはなにか真剣なお話しをしている。なにを話しているのか、難しくて私にはよくわからない。
でもきっと大丈夫。どんな時でも、お姉様の言うとおりにしていれば、何もかも上手くいくんだから。
難しいことはお姉様に任せて、私はかわいいものや、おいしいもののことだけを考えていればいいんだから。
そう結論づけ、フランドールは目の前のおいしいもの、チョコバナナを手に取り、笑顔で一口頬張る。
……胡瓜だった。
第二部、シュレなんとかの猫なんとか
Schrönantoka's catnantoka
大図書館の最深部、特別に区分けされ別室となった一画に、魔法道具倉庫があった。
読んで字の如く、そこには本の体裁をとられていない、パチュリー秘蔵のさまざまな魔法の道具が収められている。
パチュリーの指示を受けた小悪魔は、その魔法道具倉庫の奥から、ひとつの箱を持ち出した。
台車に乗せられ運び込まれたそれは、手品の人体切断に使われそうな雰囲気の、かなり大仰な箱だった。人間だったら楽に三人は入れそうな大きさで、天板に煙突のような突起が付いており、何故か子供がクレヨンで落書きしたかのような下手くそ……個性的な猫の絵が、ピンク色の壁面に大きく描かれていた。
魔法の道具という言葉からイメージされるものより、いささか、いや、かなりファンシーな代物である。魔法というより遊園地や幼稚園のほうが似合いそうな……。
「パチェ、何これ?」
「これはシュレディンガーの猫箱よ」
シュレディンガーの猫とは、エルヴィン・シュレディンガーの提唱した有名な思考実験の名称である。
実験の内容はこうだ。箱の中に一匹の猫と、特殊な装置を入れる。
装置は放射性物質のアルファ崩壊を検知すると、箱の中に毒ガスを放出する。アルファ崩壊が起こるかどうかは予測できないため、毒ガスが放出されるかどうかも当然予測できない。
毒ガスが放出されると、箱の中の猫は死ぬ。
つまり、箱に入れられた猫が死ぬか否かは予測が出来ないため、箱を開けて「観測」することにより生死が確定するということになる。
言い換えれば、観測をしない限り、箱の中では「猫の生きている状態」と「猫の死んでいる状態」が「重なりあった状態」にあると考えることができる。
シュレディンガーはこの奇妙な状態を看過できない矛盾として、量子力学に対する批判(以下略)
「ふむふむ、で、そのシュレなんとかの猫なんとかで」
「シュレディンガーの猫箱」
「そのそれディンガーで、どうやって一億円を稼ぐんだ?」
「まぁ、説明するより実践したほうがわかりやすいわね。咲夜、ちょっと箱の中に入って。大丈夫すぐ済むから」
「え、こうですか」
パチュリーの指示に、咲夜は猫箱の中に横たわった。クッションが効いていてなかなかに快適だった。
咲夜が箱に入ったのを確認すると、パチュリーは蓋をバタンと閉める。
そして箱の上部に伸びた煙突状の突起に、お徳用放射性物質(1kg入り、今なら20%増量中)をサラサラと流し込む。
準備が完了したところで、パチュリーは箱の横に描かれた猫の鼻を、ポチッと押した。
てんてけてんてんてーん、と、軽快でチープで、やる気が吸い取られてしまいそうな音楽が箱から流れ出す。前時代的なデパートの屋上の、寂れたゲームコーナーが似合いそうなBGMだ。
チープな音楽を聴きながら待つこと三十秒。箱から「にゃーん」という鳴き声が聞こえて、もくもくとした煙と共に、蓋が自動的に開いた。
「なっ!?」
箱の中を覗いたレミリアは、驚きのあまり言葉を失う。
さすがパチュリー秘蔵のマジックアイテム。まさかこんなことになるなんて!
箱の中では、生きた状態の咲夜と死んだ状態の咲夜が、重なり合い横たわっていた。
◆
「それで、次はどうするんだ」
猫箱の中から、生きた咲夜と死んだ咲夜を引っ張り出したレミリアは、改めてパチュリーに問いかけた。
確かに最初は凄いと思ったものの、冷静に考えてみれば咲夜の死体が出来上がっただけである。死体なんてあっても邪魔なだけだし、そのうち腐り出して、考えたくも無い状態になってしまいそうだ。
これから一億円につながる筋道が、レミリアには想像できなかった。
「あ、お嬢様、私わかってしまいました」
興味深そうに咲夜の死体を弄っていた咲夜が、咲夜の死体の腕を持ち上げて「はーい、はーい」と嬉しそうに挙手する。
「この私の死体を解体して、臓器を売……」
「止めーい!」
思わず本気でツッコミを入れてしまった。こいつは、仮にも自分の死体だということがわかっているんだろうか?
咲夜の死体はしゅんと力なく項垂れて、元気が無くなってしまう。
「そんな物騒で面倒なことする必要は無いわ。咲夜、ちょっと一万円札を貸して。大丈夫すぐ済むから」
「え、一万円札ですか」
咲夜から受け取った一万円札を、パチュリーは猫箱の中に入れた。福澤諭吉は何ら抵抗することもなく箱の中で大人しくしている。
蓋を閉めて、放射性物質で、チープな音楽。
レミリアも咲夜も、ここまでくればパチュリーが何をやろうとしてるのか、理解することができた。
つまりこいつは、魔法で偽札作りをしようとしてるんだ。
待つこと三十秒、「にゃーん」という鳴き声が聞こえた。
「これを繰り返せば、一億円なんてすぐに……あ、あれ」
猫箱から取り出した一万円札。片方は見覚えのある顔、お札界では一番の人気者、福澤諭吉さん。
もう片方は、これも福澤諭吉には違いないが、その顔は目が閉じていて、額には白い三角形のアレが付いていた、幽霊とかの、アレ。
「……死んでるわね」
「……死んでますね」
予測して然るべきであったが、まさか諭吉さんが死んでしまうだなんて。こんなものを一万円札だといって素直に受け取る奴なんていない。偽札であることなど一目瞭然。いやそれ以前の問題なのかもしれない。
「困ったわね、さてどうしようかしら」
パチュリーは腕を組んで考えを巡らせる。
死んだ一万円札を手に取り、隅々まで調べる咲夜。
「諭吉さん以外は完璧なんですけどね」
「そうね、諭吉さん以外は……」
そう口にして、パチュリーははっとする。
諭吉さん以外は完璧、つまり一万円札として通用する。
だとしたら、諭吉さんを取り除いてしまえば、それは一万円札として成立するのではないか。
もちろん諭吉さんを取り除いてしまえば、お札は半分になってしまう。そのままでは一万円札として使えない。
しかし、何らかの理由で半分になってしまったお札、例えば火事などで。そういったお札は、銀行に持ち込めば完全なお札と取り替えてもらえたはず。
「行けるわ、これで一億円、用意できるわ」
◆
一万円札を入れ、スイッチを押す。
「にゃーん」
また一万円札を入れ、スイッチを押す。
「にゃーん」
肝心の猫箱がひとつしか無いため、一億円を用意するためには、単純にこれを一万回繰り返さなければならない。
妖精メイドに交代で当たらせているものの、地道で気の遠くなる作業だ。
偽札作りを興味深く眺めていたフランドールは、うずうずと我慢できずにいた。
じっと待っていれば、箱の中から猫が出てくると、そう思っていたのに。
鳴き声はするのに、いつまでたっても猫は出てこない。
「ねぇお姉様、いつになったら猫は出てくるの」
「あん?」
そわそわとレミリアを見つめるフランドール。その頭をレミリアはくしゃくしゃと撫でた。
「しばらく時間はかかるけど、フランがいい子にしてたら猫は出てくるから」
「本当!?」
「ああ、猫が出てきたら教えてあげるから、もう部屋に戻りなさい」
「うん、わかった」
うきうきと立ち去るフランドール。その頭の中は猫のことでいっぱいだった。
◆
そして夜が明けた。
妖精メイドの頑張りの甲斐あり、紅魔館は無事に一億円分の偽札を揃えることができた。
猫箱の横に山と積まれた一万円札。いずれにも死んだ状態の福澤諭吉が描かれている。その猫箱と札束を囲むようにして、満身創痍の妖精メイドたちが、ところ構わず倒れ込んで寝息をたてていた。
何匹か寝息をたてていない、死んだ状態のものも横たわっていたが。おそらく悪戯好きな妖精メイドが猫箱を実地体験したのだろう。
「ふむ、大丈夫そうね」
偽札を数え終わったパチュリーが安堵の息を吐く。あとは諭吉さんに消えてもらえば。
パチュリーは札束を綺麗に揃え直すと、ごにょごにょとスペルの詠唱を始めた。
ロイヤルフレア初級。
人差し指から放たれた火の弾が札束の右半分を燃やしていく。焼け落ちた諭吉さんは、死んでいるのか生きているのか判別がつかなくなった。これで、偽札だと断定することは出来ないだろう。
準備は整った。
「じゃ、行ってくるわ」
「パチュリー様、その、お気を付けて」
不安そうに声をかける咲夜に、パチュリーは微笑み返した。
「ちょっと銀行に行ってくるだけだもの。大したことないわ」
そう、全然大したことないはずだ。
トランクに詰めた札束を窓口に預けて、新しい紙幣を受け取ってくるだけ。子供にだってできる簡単な仕事だ。
万が一のことも考えて、変装用の鼻メガネも付けてきたし、偽名も用意してある。
「こんにちは、私は茨木華扇です」
咄嗟の時に慌てないよう、心の中で何度も練習する。自分に言い聞かせるように。
「私は茨木華扇、茨木華扇……」
万事抜かりなし、完璧だ。
パチュリーのその自信は、ひまわり銀行人間の里支店の扉をくぐった瞬間に、脆くも崩れ去る。
「いらっしゃいませ」
窓口で隙の無い営業スマイルを浮かべる人物。ウェーブのかかった緑色の髪に、赤のチェックの行員服。射るような鋭い目付き。
実際に会うのは初めてだが、間違いない。何故か窓口で行員をやっているあいつは、あの悪名高き花の妖怪、風見幽香だ。
ひまわり銀行という名前で気づくべきだったのだろうか。いや、今更後悔しても遅い。
「こ、こんにちは、私は茨木華扇です」
「そうですか。それでは番号札を取って、お待ち下さい」
幽香の指示に従い、番号札を機械より抜き取る。他に客もいないのだが。
機械の待ち人数表示が、0人から1人に書き換わる。
「番号札472番でお待ちのお客様、窓口までお越し下さい」
座る間も無く機械音声に呼ばれた。パチュリーは窓口の幽香の前に立ち、トランクを開いて見せた。
「実は家が火事になってしまって、なけなしの貯金が燃えてしまったかせん。幸い燃えたのは半分だけだけど、このままでは使えないかせん」
キャラを印象付けるために、特徴的な語尾で話す工夫も、いま思いついた。
幽香に舌打ちされた気がするが、気のせいだろう恐らく。
「紙幣のお取り替えですか」
「そうそう、それをお願いしたいかせん」
用件を聞いた幽香は、半分燃えた札束をぱらぱらと捲って確かめる。
その表情が曇り、こめかみが意味深に小さく震えるまで、さほど時間はかからなかった。
「茨木華扇さん、でしたっけ」
「はい、私は茨木華扇です」
「お札の記番号が全て同じというのは、一体どういうことなんでしょうかね」
パチュリーの表情が一瞬で凍りついた。
同じ一万円札を増やしたのだから、当然のこととして記番号も同じになる。福澤諭吉が生きているとか死んでいるとか、そういう次元の問題じゃ無かった。
同じ記番号の紙幣をこんなに山ほど持ち込んで。もう偽札作ってますと宣言しているようなものだ。
「こ、これは、その……」
「どういうことなのか、説明してもらえますか」
幽香の冷たい視線が痛い。
考えるんだパチュリー。このピンチをどう切り抜けるかを。
「……水を、コップ一杯の水を貰いたいかせん」
幽香が訝しがりつつも用意してくれた水を受け取ると、パチュリーは懐から一本のストローを取り出した。
紙の包装からストローを抜き取ると、そのしわくちゃになった包装紙を幽香の目の前に、そっと置く。
「何?」
意味がわからなくて、幽香はストローの包装紙を怪訝に眺める。
その包装紙に、パチュリーがストローで吸い上げた水を一滴かけた。
「あっ!?」
すると、しわくちゃで丸まっていた包装紙は、まるで生きているかのように、むずむずと動き出した。
ただの紙のはずなのに動き出すなんて、これは!?
幽香は包装紙の緩慢な動きに、思わず目を奪われてしまう。
「……はっ!!」
我に返った幽香が顔を上げるも、目の前にいたはずのパチュリーの姿はどこにも見当たらない。
窓口に、偽札入りのトランクだけが残されていた。
◆
福澤諭吉大量生産計画は、無残に失敗してしまった。
這々の体で紅魔館に帰ってきたパチュリーであったが。
「おかえりなさいませパチュリー様」
「おかえりなさいませパチュリー様」
紅魔館に着いたら咲夜が二人いた。どこからどうみてもそっくり瓜二つで、全く見分けがつかない。
パチュリーは見間違いかと、ごしごし目を擦った。それで改めて見直しても、やっぱり咲夜は二人いる。
「双子だったのね」
「えー、違いますよぅ」
「えー、違いますよぅ」
二人の咲夜は顔を見合わせて、「ねー」と声を揃えた。仲むつまじくて微笑ましい光景だった。
パチュリーは気持ちを落ち着けて、紅魔館を出る前の状況を思い返す。あの時まで確かに咲夜は一人しかいなかったはずだ。しかし、そう、生きた咲夜は一人だったが、それとは別に死んだ咲夜がいたんだっけ。
「なるほど、どうやったのかはわからないけど、蘇生術ね」
「そうじゃないですよ」
「そうじゃないですよ」
いつのまに用意したのか、向かって右側の咲夜が、死んだ咲夜の腕を取って、「違う違う」と手を振っていた。
困惑するパチュリーに、咲夜たちが経緯を説明する。
「これ、お嬢様の思いつきなんですよ」
「死んだ咲夜を猫箱に入れたらどうなるんだろうなって、お嬢様が仰ったんです」
「それで実験してみようと」
「その結果、こうなりました」
咲夜たちは嬉しそうに、「ねー」と声を揃える。なるほど、そういうことか。
生きている咲夜を猫箱に入れれば、生きた咲夜と死んだ咲夜が重なり合った状態となる。 では死んでいる咲夜を猫箱に入れたら。その時もやはり、生きた咲夜と死んだ咲夜が重なりあうということか。
猫箱に入れた死んでいる咲夜とは別に、猫箱の外には生きている咲夜がいるのだから、つまりは生きている咲夜が二人に増えることになると。
「そんな使い方、思いもよらなかったわ」
「面白いですよね」
「面白いですよね」
にこにこと嬉しそうな二人の咲夜。
とりあえず一億円の支払いの解決には繋がらないが、咲夜が二人になれば、紅魔館の家事などは前よりもずっと捗ることだろう。
いや、一億円に繋がらない? 本当にそうだろうか。
「……やってみる価値はありそうね」
考えに耽っていたパチュリーはそう呟いて、足早に立ち去った。
◆
「にゃーん」
「にゃーん」
「にゃーん」
猫の鳴き声が、また紅魔館に響きだした。
一体今度はなにを増やしているというのか。日没に合わせて先程目覚めたばかりのレミリアは、もぞもぞとベッドから這い出して、寝間着姿のまま、鳴き声の聞こえるほうへ歩き出した。
「うわぁ……」
扉を開けた瞬間、視界が薄紫に覆われて、驚きのあまり目が点になった。
「お姉様、たいへんなの。パチュリーが」
フランドールが驚愕の表情で駆け寄ってきた。ああ妹よ、大変なのは私にもわかる。見ただけでわかる。実に大変だ。
猫箱から次々と、パチュリーが湧き出していた。
「にゃーん」という鳴き声とともに、パチュリーが湧き出す。湧き出てきたパチュリーは猫箱を起動させていたパチュリーと交代し、次のパチュリーを増殖させる。パチュリーの無限増殖だ。
どれほど繰り返したのだろうか。紅魔館の廊下では、湧き出たパチュリーがぞろぞろと、先の見えない長い行列を作っていた。
「あら、レミィじゃない」
箱を操作しようとしていたパチュリーがレミリアに気づき、声をかける。
その一言で、長い行列に並んでいたパチュリーたちが一斉に振り返った。
「レミィね」
「おはようレミィ」
「レミィ、なにか用かしら」
「よだれがついてるわよレミィ」
「なんだレミィか」
「やぁレミィ、元気にしてたかせん?」
大量のパチュリーたちが一斉に好き勝手喋るものだから、ごちゃごちゃとしてしまい、なにを言っているのかさっぱりわからない。
「ああ、おまえら、落ち着いて一人ずつ喋れ」
パチュリーたちはうんうんと頷いた。
「なぁパチェ、いや答えるのは一番手前のパチェだけでいい。なぁ、これは一体なにをやってるんだ?」
いや、レミリアも咲夜が増えたことは知っているし、そもそも言い出したのが自分なので、なにをやっているかは理解している。
レミリアが聞きたいのは、なんの目的があってこれをやっているのか、ということだった。
そのあたりのことも察して、一番手前のパチュリーが、パチュリー勢を代表して質問に答える。
「うん、私に訊いてるのかせん?」
「チェンジ、その後ろ!」
手前から二番目のパチュリーが、パチュリー勢を代表して質問に答える。
「レミィ、私たちには時間が残されていないわ。命蓮寺との約束は三日後とのことだったけど、一日目が徒労のまま、もうすぐ終わろうとしている」
後ろに控えるパチュリーたちが、うんうんと頷く。
「かといって、一億円をどうにかするアイディアも思いつかない。せめて時間に余裕があれば、いつかは思いつくのかもしれないのだけれど、二日では無理ね」
無理だといわんばかりにパチュリーたちが首を振る。
ちょっとだけ鬱陶しいと、レミリアは思った。
「では、もし効率を上げることが可能だとしたらどうか? つまり私が一人では期限までに名案を思いつけなかったとしても、私が二人いたら。あるいは三人いたら。言い換えればそれは、思考の効率が三倍になったも同じではないか。それはつまり、名案を思いつくまでの時間が大幅に短縮、いえ、具体的に1/3の時間に短縮できると、こうなるんじゃないかしら」
なにかが違うような気もしたが、目の前のシュールな光景に考えるのが馬鹿馬鹿しくなってしまったので、レミリアは大事なところだけ聞くことにした。
「ああ、まぁ言いたいことはわかった。正直よくわからんが、まぁわかった。でもな、物には限度があるっていうか、一体どこまで増やす気なんだ」
「そうね、とりあえず100人」
「100人!?」
100人のパチュリーが蠢く姿を想像し、レミリアは何とも曰く言い難き気分に浸ってしまう。
「百人力とも言うしね」
そんな安直な理由で増えるな、とレミリアは言いたくなった。
◆
無事に増殖を終えたのか、100人のパチュリーは地下の大図書館へ、ぞろぞろと引き揚げていった。
先程までの喧騒が嘘のように、紅魔館は静寂に包まれた。
レミリアは咲夜に促され、いつものごとく食事を済ませ、いつものごとくフランドールと一緒に風呂場でアヒルのおもちゃで遊び、いつものごとく、リビングでくつろいでいた。
だが、くつろいでいるつもりでいても、気持ちはどうにも落ち着かない。
今頃パチュリーたちは図書館で、どうやって一億円を工面するのかと喧々囂々の議論を戦わせているのではなかろうか。私が咲夜の淹れてくれた紅茶でくつろいでいるこの瞬間にも、議論に白熱したパチュリー同士が、掴み合いに殴り合いの喧嘩をしているのかもしれない。
無計画に増えるというのはどうかと思うが、それもパチュリーなりに一億円をどうにかしようと考えてのこと。やり方はともかく、頑張ってはいるのだから。
パチュリーが頑張っているのに、自分だけ遊んでいていいのだろうかと、レミリアは自責の念にかられる。
しかしパチュリーの性格だから、レミリアが手伝おうとしても、頑として応じないであろうことはよくわかっていた。
「……咲夜、悪いけどパチェたちに、後で夜食を持っていってくれ」
簡単に言ってはみたものの、なにしろ100人分である。咲夜の負担は計り知れない。
しかし、咲夜も気にかけてはいたのだろう。レミリアの言葉ににっこりと微笑むと
「かしこまりました」
「かしこまりました」
と、声を揃えて答えた。
◆
「パチュリー様、お夜食をお持ちしました」
夜食ということで、サンドウィッチと南瓜のスープという軽めのメニューであったのだが、なにしろ100人分である。
咲夜二人の後ろに連なる妖精メイド。それぞれが配膳台車を携えて、ちょっとしたパレードのような様相であった。
メイドたちの行列を従えて大図書館に入る咲夜たち。大図書館では、100人のパチュリーたちが
……思い思いの場所で、黙々と本を読んでいた。
パチュリーの群れの間を、小悪魔だけが忙しなく飛びまわっている。
「一億円を用意する、話し合いをされていたのでは」
咲夜の言葉に、パチュリーたちが一斉に、ハッとして顔を上げた。
気まずそうにパチュリー同士で目配せをして、やがて一人のパチュリーが咲夜に歩み寄った。
「説明するわ」
「はい」
「100人で本を読むと、100倍の効率で読めることに気づいたの」
「そうですか、それはよかったですね」
にっこりと、心の底からよかったですねと思ってくれる咲夜の言葉が、むしろ辛く思えた。いっそ責めてくれたほうがどんなに楽なことか。
気まずい雰囲気を払拭するように、パチュリーたちは咲夜の働きに感謝しながらも可及的速やかに夜食を平らげて、100人で円陣を組み、一億円の工面について真剣に話し合った。
あまりにも真剣に話し合ったため、たった三分で解決策が纏まってしまった。
◆
パチュリーたちの考えた解決策の準備に、一昼夜が費やされた。
急ピッチで進められる準備に、「にゃーん」「にゃーん」と、紅魔館は再び猫の鳴き声に包まれた。
そして翌日の夜更け。
霧の湖の湖畔に、紅魔館の住人が一堂に会した。
昨晩の時点で既にパチュリーは100人まで増えていたが、今夜はそれに加えてレミリアまで100人に増えていた。
レミリアが100人に増えたのならば、その世話をする咲夜も増やさなければ、過労がヤバイことになってしまうだろう。ということで咲夜も100人。
ついでに門番も増やしておこうと、美鈴も100人。
フランドールと小悪魔は一人ずつで十分だ。
ということで、合わせて402人の紅魔館の住人が、湖畔にひしめき合っていた。
「なんとも壮観というか、奇妙というか……」
見渡しても同じ顔ばかりがぞろぞろといるわけで、やはり奇妙極まりない。
「お嬢様、準備できましたので、いつでもいけますが」
咲夜のうちの一人が、どのレミリアに声をかけるべきか迷いながらも、そう報告した。
レミリアの「じゃあ、やっちゃってくれ」との返事を受け、一人の咲夜が紅魔館の前に進み出た。
401人の見守る中、咲夜はそっと目を閉じる。
次の瞬間、目の前の紅魔館が掻き消されるように無くなっていた。
いや、正しくは、紅魔館が小さくなっていた。咲夜の足下に、空間操作の能力で畳一枚程度の大きさに縮小された紅魔館が、ひっそりと建っていた。
「これで、よろしいでしょうか」
にっこりと微笑む咲夜。紅魔館一同は拍手と歓声で大いに盛り上がる。完全にお祭り気分である。
「次はレミィ、よろしくね」
「わかってる」
小さくなった紅魔館を100人のレミリアが取り囲むと、せーの、と、それを持ち上げた。
空間操作で縮小されていたとしても、重さはいままでの紅魔館と変化していない。いくら吸血鬼の膂力が並外れていても、レミリアが一人しかいなければ、持ち上げることなど到底不可能であろう。
100人に増えたからこそ持ち上げることができた。いや、紅魔館を持ち上げるために、レミリアを100人まで増やしたのだ。
紅魔館を持ち上げたレミリアたちは、そのまま紅魔館を運搬する。向かう先にあるのは、蓋を開けられたシュレディンガーの猫箱。
レミリアたちは猫箱の中に紅魔館を収め、蓋を閉めた。
「パチェ、もういいよー」
レミリアたちの合図にパチュリーは小さく頷き、猫箱の鼻を押す。
軽薄で安っぽい音楽が鳴って、待つこと30秒。
「にゃーん」
猫箱の中には、もう説明するまでも無い。
生きた状態の紅魔館と死んだ状態の紅魔館が、重なり合っていた。
◆
パチュリーたちは、猫箱で紅魔館をひたすら増産していく。
レミリアたちは、猫箱で増産された紅魔館を次々と湖畔に設置していく。
咲夜たちは、設置された紅魔館を空間操作で元の大きさに戻していく。
「にゃーん」
「にゃーん」
「にゃーん」
レミリアやパチュリーが100人いるのなら、当然のこととして紅魔館も100棟必要ということになる。もし人数よりも紅魔館が少なければ、立つべき門にあぶれた美鈴が野良門番になってしまう、それはさすがに可哀想だ。
「これで、100っと」
大がかりで時間の掛かる作業ではあったが、夜が明ける前に紅魔館の増産を終えることができた。
月明かりに照らされる霧の湖。その湖畔は今や、林立する紅魔館でびっしりと埋め尽くされていた。以前のまるで絵画のような景色は面影も無く、さながら新興住宅地のような景観である。
そんなニュータウン紅魔館の様子を、遙か上空から覗う影があった。
「ありゃりゃ、これは一体全体、どういうことなんでしょう」
なんだかネタの臭いがすると紅魔館まで飛んで来てみれば、予想を遙かに超えたおもしろ風景に出くわすだなんて。眠い中をわざわざ来た甲斐があったというもの。
パジャマ姿の射命丸は、取り憑かれたように写真を撮りまくった。
本当なら取材もしたいところなのだが、先日のちょっとだけ調子にのってしまった記事もあって、たぶん紅魔館のみなさんは大層お怒りになっていることだろうし、なにやら地上には、やたら沢山のレミリアとか沢山の咲夜とか沢山のパチュリーとかあと美鈴とかが足の踏み場も無いくらいにひしめき合っている。
万が一見つかってしまったその時は、それはそれは恐ろしい事態に陥ってしまうことだろう。縛り上げられて鼻からワサビを食わされたりとか、そんな。
「取材ができないのなら、面白おかしく書いてしまえばいいのです。ふひひひ」
ちょっときもちわるい笑い声を残して、射命丸は闇に紛れるように飛び去っていった。
◆
紅魔館、増える!!
○月○日、霧の湖において、突如紅魔館が大量発生するという事件が起きた。新しく発生した紅魔館は従来の紅魔館と全く見分けの付かないもので、湖の周りをほぼ埋め尽くす形で隙間無く生えており、またこれと同時に紅魔館の住人も同じように大量発生している。
何故突然に紅魔館が大量発生したのか、先日の命蓮寺遊覧船襲撃事件と関連性があるのか、食費が馬鹿にならないのではないかなど事件は謎に包まれているが、紅魔館の事情に詳しい霧雨魔理沙(人間)は、「あれは茸の一種ではないか」との見方を示しており、可食性や中毒性などの調査に意欲を見せている。
霧の湖にて事件を目撃していた、わかさぎ姫(人魚)は「うおっ!!」と驚きの声を上げており――――
◆
100棟に増えた紅魔館に取り囲まれ、咲夜は晴れやかな笑顔を浮かべていた。
やり遂げた者が浮かべる、達成感に満ちた爽やかな笑顔である。
隣に立つパチュリーに気づくと、咲夜はしみじみと話しかけた。
「やっと、終わりましたね」
「まだよ」
パチュリーは小さく息を吐き、猫箱の中身を咲夜に指し示す。
そこに残されているのは、死んだ状態の紅魔館。
生きている紅魔館と比べると外壁の紅色はくすんでいるし、所々ひび割れも目立つ。
「ああ、そうでした」
昨晩パチュリーから提案された解決策は、こうだった。
もし大図書館の蔵書が一億二千万円で売れるのなら、その値段で売ってしまっても構わない。
ただし売るのは、猫箱で増やした、死んだ状態の蔵書。
大図書館に蔵書を残したままの紅魔館を増やしたのだから、当然、蔵書もそっくりそのまま増えることとなる。
これならばパチュリーは何も失うこと無く、一億円を工面することができる、と。
「では、さっそくやってしまいましょう」
空いた隙間をなんとか見つけて、死んだ状態の紅魔館を元の大きさに戻した。
あとは大図書館から蔵書を運び出さないといけないが、妖精メイドの大量投入で解決する見込みである。
パチュリーと咲夜は最終確認のため、死んだ状態の大図書館に足を運んだ。
「なんだか、いつもより暗くて不気味ですね」
「まぁ死んでるからね」
大図書館は、どこまでも本棚が続く見慣れた風景こそはいつも通りだったが、いつもより埃が厚く積もり、ほのかに死臭が漂っていた。
パチュリーは、むせ返るほどの死の気配に包まれた本棚に歩み寄り、手近な本を一冊、手に取る。表紙には「走れ死んだメロス」と書かれていた。
――死んだメロスは激怒した。必ず、かの邪智暴虐で死んでいる王を除かなければならぬと決意した。
別の本。こちらの表紙には「吾輩は死んだ猫である」と。
――吾輩は死んだ猫である。名前はまだ無い。
「……ふむ」
それでは冒頭が有名なあの作品はどうなのだろうと、本棚に目を走らせる。「死んだ雪国」と背表紙に書かれた本は、すぐに見つかった。
――国境の長いトンネルを抜けると死んだ雪国であった。夜の底が白くなった。信号所に死んだ汽車が止まった。
パチュリーは思わず、こんな本ばかりで本当に買い取って貰えるのだろうかと少し心配になった。
結果としてパチュリーの心配は杞憂に終わり、死んだ蔵書を売ったお金で命蓮寺との和解は成立し、余ったお金でしゃぶしゃぶパーティーを催すことで、この事件は一件の落着となったのだった。貴族は宵越しの金は持たねぇ。
402人で囲むしゃぶしゃぶパーティーが一体どんな乱痴気騒ぎになったのかは、ご想像にお任せする。
◆
夏の日差しの照りつける、博麗神社。
暑さに参ってなにもやる気が起きない霊夢が、縁側で横になって溶けかけていた。
傍らでは一匹の黒猫が、暢気にうずくまっている。
時折風が吹き込んでは、風鈴を涼しげな音色で鳴らすものの。まだ午後の熱気は収まってくれそうもない。
砂利をふむ足音に黒猫が耳をそばだてて、気怠そうに庭を見回す。にゃあと一声鳴くと、黒猫は足音の主へと軽快に駆けていった。
足下に身を寄せてじゃれつく黒猫を、レミリアはひょいと抱きかかえる。
「黒猫です、お嬢様」
「ああ、黒いな」
「いかがでしょうか」
咲夜のかざした日傘の陰で、レミリアは黒猫の喉をくすぐってやる。
黒猫は気持ちよさそうにレミリアに身を預けた。
「いいんじゃないか。しっぽが二本生えてるあたり気に入った。これならフランもきっと満足するだろう」
「ああ、レミリア来てたの」
気怠そうに起き上がって、霊夢が愛想の無い挨拶をした。
「霊夢さん、この黒猫をしばらくお借りしたいのですが。大丈夫すぐ済みます」
「うーん?」
咲夜の言葉に、霊夢は面倒臭そうに返答する。
「それ私の猫じゃないから。飼い主は地底のさとり。知ってるわよね」
「知らん」
「存じ上げません」
呆れ混じりに溜息を吐く霊夢。
「ま、食べたり改造したりしなけりゃ、あいつも文句言わないんじゃないの」
「それはご心配なく。何なら倍にしてお返ししますわ」
「……なんだそりゃ」
用件は済んだと言わんばかりに、レミリアと咲夜は、黒猫を引き連れて早々に立ち去ってしまった。
残された霊夢は、気怠そうにふたたび縁側に寝そべる。
「あ、ちょっと涼しい」
夏の終わりと秋の訪れを感じさせる涼しげな風が、霊夢の前髪をさらさらと撫でていった。
終
「は、……はぁ」
ある日の昼下がり、人間の里にて。
にこにこと嬉しそうに微笑む咲夜に、突然そんなことを言われて、射命丸は大いに困惑した。
チョコバナナ砲? ……一体それは何だ!?
チョコバナナは、まぁわかる。あれは良い物だ。こう見えても射命丸は狂的なほどのチョコバナナ好きである。三食チョコバナナでも十年くらいは平気だろうと、そのくらいチョコバナナを愛していた。
バナナをチョコでコーティングするという悪魔的発想。あれを最初に考えた奴は英霊として未来永劫祀られるべきであると、常々そう考えていたところだ。
淡い記憶が蘇る。そう、あれはいつかの縁日での出来事。お目当てのチョコバナナを探す射命丸は、にとりの出店にそれを見つけると、天狗的経済力をもってチョコバナナをあるだけ買い占めた。
顔を綻ばせて、買い占めたチョコバナナを一口ぱくり。
……胡瓜だった。
以来、にとりの名前は、射命丸のいつか殺すリストの上位に載るわけだが、それはともかく。
チョコバナナはわかる、しかし後につながる、砲、とはこれ如何に? 砲というからには砲丸? 砲弾? 設置というのなら砲台だろうか。
いずれにせよチョコバナナとの繋がりが見えてこない、何とも不可解だ。
頭に?マークが飛び交う射命丸の様子に、咲夜ははっと気がついて、補足の言葉を継ぐ。
「ごめんなさい、私の言葉が足りませんでしたね。ええとチョコバナナ砲とは、つまり」
「つまり?」
「チョコバナナを撃ち出す、砲台です」
えっへん、と言わんばかりに胸を張る咲夜。
なるほど……さっぱりわからん。
射命丸は余計に困惑するのだった。
第一部、亡き王女のためのチョコバナナ砲
Banane de chocolat Pistolet pour une infante défunte
咲夜に聞いても訳が分からないのなら、これは直接紅魔館に出向いて取材をするしかない。
思い立ったら即実行、射命丸はそれをそうするために、霧の湖を訪れた。
湖は珍しく霧が晴れていて、視界は良好だった。青く澄んだ湖では妖精たちが戯れ、晴れ渡った夏空には小鳥が囀り、遠くの山々に沿うように命蓮寺の遊覧船がのんびり浮かんでいる。
霧の湖では、何故か超高速でティッシュが飛んでくるので、油断していると大変危険だが、今日の射命丸は油断していなかったので大丈夫。概ね平和で、のどかな昼下がり。
やがて湖畔に見えてきた紅魔館。咲夜の言うチョコバナナ砲は、一目でそれとわかる代物であった。
天に届かんとする時計台。その傍らにうずくまるように居座る、物々しい金属の塊。鈍く輝くそれは物騒な砲塔を空に向けて伸ばしており、確かに砲台としか言い様の無い物であった。
それも並みの規模の砲台では無い。もし仮に小惑星ユリシーズが地球に衝突する軌道上にあり、人類の絶滅は免れないという観測結果が届いたとしても、それを迎撃して被害を最小限に留めることが恐らく可能なのではないか、とすら思えたたぶん。
「これはまた、なんとも派手な」
新造砲台を写真に収めようとした射命丸は、砲台から地鳴りのような音が響くのを感じた。続いて、なにかが風を切り裂く音。
それを感じることができたのは天狗の能力ゆえのこと。射命丸は咄嗟に宙返りを打ち、身を躱す。
鼻先を黒色の物体が高速で飛び去っていった。それは確かに間違いなくどう見ても、チョコバナナでしかなかった。天狗だから見えた。
高速で弧を描き飛び去っていったチョコバナナはやがて、湖畔を無邪気に飛びまわる小鳥と衝突する。
無邪気な小鳥は、小さな血煙となって青い空に消えた。
「あらら……」
チョコバナナ砲の傍らではレミリアとパチュリーが何事か話し合っていたが、やがて揃って射命丸のほうを向くと、照れくさそうに頭を下げるのだった。
◆
夢を見たんだ。
そう、確かに夢だとわかっていた。でもだからって、どうすることもできないだろ? 夢から覚めるまではそれは現実で、私はそいつの相手をしなきゃならないんだから。
館の屋上で、私はそいつを呆然と見上げていた。
そいつは赤い着物を着ていて、頭に何故かお椀を被っていて、そして時計台よりも大きかった。
見た事あるやつだったかどうだったか、なんにせよ、すぐに思い出せるほど馴染みのある奴じゃなかった。
咲夜もパチュリーもいつのまにかやられてて虫の息。フランはどうしてたのかな。よくわからないや。
正直に言うと、私は怯えていた。夢の中だからかもしれないけど、足が竦んで言うことを聞かなくって。
そいつが私に手を伸ばす。私は呆気なく捕まってしまう。
大きく開けたそいつの口が、不気味なほど赤かったのだけは、鮮明に覚えてる。
◆
悪夢から覚めたレミリアは、悲鳴を上げてベッドから飛び起きた。
荒い呼吸を落ち着かせて、周囲を見回す。飽きるほど見慣れた、いつもの寝室だ。
ベッドの傍らでレミリアの目覚めを待っている筈の咲夜は、留守なのだろうか、どこにも見当たらない。
落ち着きを取り戻したレミリアであったが、その脳裏に焼き付いた夢の出来事は、鮮やかな記憶となって蘇る。
もし夢の中と同じように、紅魔館が巨大な何かに襲われるようなことがあったとしたら、果たして私たちはそれに打ち勝つことができるのだろうか。
悪夢に囚われたレミリアには、勝てるという自信を持つことができない。
ならば、来るべき脅威を未然に防ぐ策が、必要なのかもしれない。それが何なのかレミリアには思い浮かばなかったが、パチュリーに相談すれば、きっと。
寝室から出たレミリアは、通りすがりの妖精メイドを呼び止めると、小声で
「レミリアからパチュリーへ。もし超巨大な敵に紅魔館が襲われた時は、どうしたらいい?」
と言づてる。
妖精メイドは小さく頷くと、隣で窓掃除をしていた別の妖精メイドの肩を叩き、耳元でごにょごにょと囁いた。
それを聞いた窓掃除メイドは頷いて、隣で壺にハタキをかけていた妖精メイドの肩を叩き……。
レミリアはこの古典的な通信方法を気に入っていた。確かに古くさく無駄の多いやり方ではある。でもだからこそ、無駄を楽しむ余裕こそが貴族的ではないかと、そう信じていた無駄に。
レミリアの言づては妖精から妖精へと、紅魔館の廊下を抜け、大広間を抜け、浴室を抜け食堂を抜け、どんどんと繋がっていった。
階段を下り、フランドールの寝室を抜け、パチュリーのいる大図書館まであと一歩と迫ったところで階段を上り、中庭を抜け美鈴のいる門を抜け、霧の湖を横断し人里を抜け、夏祭りの縁日で賑わう博麗神社を抜け、再び霧の湖に戻り、昼寝する美鈴の脇を抜けて階段を下り、と紆余曲折あったが、およそ二日と七時間の後に、無事パチュリーへと届いた。
「レミリアからパチュリーへ。チョコバナナ砲を設置してほしい全力で」
耳元でそう囁く妖精メイド。パチュリーは静かに頷くと、引き出しの奥からお手紙セットと白い鳩を取り出した。
さらさらと便箋に返事を書いたパチュリーは、それを鳩の足に括り付けた。
小首を傾げるように、くるっくーと鳴く鳩を軽く撫でると、大図書館の空へと放った。
パチュリーお気に入りの通信方法だった。曰く、なんか魔女っぽいじゃん。
白い鳩は大図書館を抜けると、およそ三十秒ほどでレミリアの書斎に辿り着いた。
足に括られた手紙を開くレミリア。そこには一言
「わかった」
と、小さな文字で書いてあった。
コミュニケーションの行き違いに、レミリアは人知れず頭を抱えるのだった。
◆
「まぁ多少の行き違いはあったが、パチェは私の期待に十分応えるものを作り上げてくれた。流石私の親友だ」
「そうですかそうですか、ふむふむ」
チョコバナナ砲設置の経緯を語り、満足げに微笑むレミリア。
射命丸はレミリアの話を興味深そうに聞き入りながら、メモ帳にへのへのもへじを書き込んでいた。
「でもチョコバナナが、あんなバヒューンって飛んでいくだなんて、一体どういう絡繰りなのか不思議で仕方ないのですが」
「ふむ、なかなかいい質問だ。何故チョコバナナが飛んでいくのか? それは……」
「それは!?」
レミリアは余裕の笑みを浮かべながら、うんうんと頷き、隣に座るパチュリーの袖をくいくいっと引っ張った。
助けを請われたパチュリー、テーブルの上に二本のバナナを置く。
「レミィはチョコバナナ砲と呼ぶけど、正しくは電磁投射チョコバナナ砲といって、まぁ平たくいえば電磁気の力を原動力とするわけ」
「電磁気?」
パチュリーの制作ということで、てっきり黒魔術だの精霊の力だの悪魔の契約だのといった話になるかと身構えていた射命丸は、電磁気という聞き慣れない言葉に、少なからず戸惑いを覚える。
「細かく説明するよりも、実践したほうが理解しやすいでしょうね」
パチュリーは小さく頷きながら、テーブルに置いたバナナに電極を取り付ける。
「知っての通り、バナナに通電させると電磁場が発生する。つまり磁石になると」
パチュリーが手元のスイッチを入れると、バナナの脇に置かれたナイフが、吸い寄せられるようにバナナへと近づいていった。
「これが電磁気の力。ここまではいいわね」
「は、はぁ」
生返事で応える射命丸。
正直、知らんかった。
「では、電磁場同士を干渉させると一体どうなるか」
説明をしながら、パチュリーはもう一本のバナナにも電極を取り付け、スイッチを入れる。
その瞬間、片方のバナナが勢いよく弾かれて、弧を描いて飛んでいった。
弾かれたバナナは石の壁に突き刺さって止まった。
「実際の電磁投射チョコバナナ砲ではバナナ二本じゃなくて、片方の電磁場は砲身で形成されるのだけれど。勿論あの規模の砲身なのだから何の工夫も無くとはいかない。二重構造となる砲身の内筒は白金属パラジウムの一体成形。外筒はタングステンカーバイド。どちらも手作業での削りだし。これに電荷を与える本体部分は6061航空アルミのモノブロックに左右独立のディスクリート構成。完全クラスA動作なのは言うまでも無いわね。当たり前だけど肝心のチョコバナナも手抜かりは無いわ。使用するのはDole社製のミリタリースペック、それも
「ふぁ、すみません寝てました」
パチュリーの早口解説が終わるのと同時に、射命丸の鼻提灯が爆ぜたのだった。
「まぁパチェの細かい話は置いておくとして、実際にチョコバナナ砲の豪快で迫力ある発射シーンを間近で見るほうが、新聞の記事には派手に臨場感たっぷりに書きやすいんじゃないか」
「そうですね、……そのほうが楽かも」
気分の高揚しているレミリアの様子を眺め、射命丸は秘かに苦笑いを浮かべた。
(注釈 TD = 糖度)
◆
今日のような霧の晴れた天気の良い日は、紅魔館の屋上から湖を一望することができた。
青く澄んだ湖では妖精たちが戯れ、晴れ渡った夏空には小鳥が囀り、遠くの山々に沿うように命蓮寺の遊覧船がのんびり浮かんでいる。
抜けるような空の青さと湖の深い青とのコントラストが美しく、なかなかの絶景である。 その絶景の中を、真白いティッシュが縦横無尽に飛び交っている様は、まぁ、その、なんだ。
間近で見るチョコバナナ砲は、牧歌的な光景にそぐわない、圧倒されそうなほどの威圧感を放ちながら佇んでいた。
「ふぇー」
射命丸はぽかーんと口をあけて、巨大なチョコバナナ砲を見上げていた。
とにかくデカかった。デカくて、あと重そうだった。以上。
鈍色に輝く巨体に群がるように、迷彩のヘルメットを被った妖精メイドたちが忙しなく行き来している。恐らく発射のための準備点検作業中なのだろう。
「この電磁投射チョコバナナ砲のもう一つの特色として、完全自動制御で拠点防御が可能だという点が挙げられるわね。つまり平たく言うと、弾さえ込めておけば自動で敵の接近を察知して、自動でそれを迎撃してくれるというわけ」
「ふむ、やっぱりそういうのは魔法なり結界なりを使って操ってるんですか」
パチュリーは小さく首を振る。
「マイコン制御よ」
あんた魔法使いだろ! という心の叫びにも似たツッコミを、射命丸は喉元で堪えきった。
やがて、妖精メイドの一団が、台車に載せられたチョコバナナを慎重に運んできた。砲台のハッチを開き、クレーンで吊られたチョコバナナを薬室へと挿入していく。笛と手旗で合図しながらの、ちょっとした工事現場のような光景だ。ほどなくして装弾が完了すると、妖精メイドは安全圏へと慌ただしく避難していく。
準備完了の報せを受け、レミリアは起爆スイッチを取り出した。
「今回は試射ということで手動で発射させる。心の準備はいいかい新聞屋さん」
「ええ、いつでも大丈夫です」
レミリアが勿体つけるよう、にやりと笑い「では、発射三十秒前」と告げたところで横からパチュリーが起爆スイッチのボタンを思い切り押した。
瞬間、地震のような強い揺れと、大音量の爆発音が屋上に響く。
衝撃に翻弄され、射命丸は身を縮こませて耳を塞ぐ。
爆音とともに砲身から射出されたチョコバナナは、理想的なサバの骨曲線を描いて、青空に吸い込まれるように飛んでいった。
「いや……あはは」
放心してしまい、咄嗟に言葉が出てこない。乾いた笑い声だけが響く。
「こりゃ凄いや。想像以上ですよ」
「な、凄いだろ!」
「ええ、確かに」
目を輝かせてふんぞり返るレミリアに、今回ばかりは射命丸も同意する。
そういえば、発射の瞬間を写真に撮り損ねたなと思い返し、少し残念な気持ちになる。
だが、のどかな湖の景色を眺めているうちに、すぐにどうでもよくなった。
レミリアもパチュリーも射命丸も、一言も交わさずに湖を眺めている。
静かで穏やかな時間が流れていた。
心地良い静寂の中、遙か遠くから、微かな爆発音が耳に届いた。
「……あ」
「……あ」
「……あぁー!!」
三人が呆然と見つめるその先では、チョコバナナに撃墜された命蓮寺の遊覧船が、黒煙を吐き出しながら、ゆっくりと山並みに墜落していくのだった。
◆
白昼の惨劇! 紅魔館の宣戦布告か!?
○月○日、命蓮寺所有の遊覧船「聖輦船」が、何者かの砲撃を受け墜落するという事件が起きた。事件の発生は、遊覧船が通常の遊覧コースに沿って霧の湖を横断した直後のことで、一切の予告も前触れも無く、突然に砲撃を受けたと関係者は語っている。
幸いにして遊覧船に乗船していた人たちに死傷者は出なかったものの、突然の襲撃により遊覧船を失った命蓮寺の憤りは激しく、予断を許さない情勢にあるものと見られる。
当社独自の調査によると、この砲撃は紅魔館所有の「電磁投射チョコバナナ砲」によって行われた可能性が高く、今回の事件が紅魔館による命蓮寺への宣戦布告であるという見方もできる。
霧の湖にて事件を目撃していた、わかさぎ姫(人魚)は「それはもう、ぎょっとしました」と驚きを隠せない様子で――――
◆
「ということで、命蓮寺から一億円の賠償請求が来ています。怪我人も出なかったことから、先方も船の修理代を支払ってくれれば水に流してもいいという意向で」
「その修理代が、一億円か」
「そうなります」
咲夜の伝えた内容は予想の範疇ではあったものの、決して喜ばしいものではなかった。
紅魔館の執務室は重く沈んだ空気に包まれる。
「やってしまったものは仕方ないな。咲夜、払ってやれ」
「無理です」
「え!?」
咲夜の予想外の返答に、レミリアは眉をひそめる。
「その、パチュリー様がチョコバナナ砲に蓄えを全額使ってしまいましたもので」
「蓄えを全額って、はぁ!?」
「いまの紅魔館は無一文一歩手前です」
驚愕したレミリアの視線を受け、パチュリーはたじろぎ、口を尖らせた。
「……だ、だって、レミィが全力でって、いったもん」
パチュリーの拗ねたような言い訳がちょっと可愛かったので、レミリアは怒ることもできず、崩れるように頭を抱えた。
「咲夜」
「はい」
「支払いの期限は」
「遅くとも三日後までに」
思った以上に事態は深刻だった。つまり紅魔館は、あと三日間でどうにか一億円を工面して支払わなければならない。もしそれができなかった場合は……その時のことは想像したくも無かった。
「……ワイン畑を」
「ワイン畑、ですか?」
「咲夜、時間を早回しして収穫できるようにしろ。急いで明日中にワインを出荷すれば、何とか一億円に届くだろ」
必死に考えたレミリアの案に、咲夜は溜息を吐き小さく首を振る。
「お嬢様、それは無理です」
「無理? なんで?」
「今年の分のワインは既に出荷が終わっているのですが、今になって再び出荷したとしても、買い手がいないのです。どの業者も、もう必要十分な量のワインは購入しているのですから」
需要と供給のバランス。簡単な市場原理だ。
需要を過剰に上回る供給があったとしても、それは余剰でしかなく、相場の下落という結果しか生み出さない。
つまり儲からない。
「なら、そもそもの原因であるあの大砲を売る、とか」
パチュリーが紅魔館の貯蓄を全力で散財した兵器である。出費に見合った価値があるのだとしたら、かかった金額を回収することは難しくとも、一億円でなら売れるのではないか。
今度の案にも、咲夜は首を振る。
「各方面に打診してはみたのですが、なにしろあれだけの事故が起こったものですから。みなさん縁起でも無いと仰って」
「駄目か」
「守矢神社の早苗さんが是非譲ってほしいと名乗り出ましたが、お年玉の蓄えの五千円しか出せないとの話でしたので、断りました」
五千円では命蓮寺は許してくれないだろう流石に。
レミリアは困り果て、上目遣いで咲夜を見つめる。
「咲夜、なんかいい手は無いの?」
「ひとつだけ、あります……けど」
答えは用意してあったのだろう。だが咲夜は、その答えを言い辛そうに口籠もった。
「いいですか、これは仮に、の話ですよ」
「ああ、仮に、の話だな」
「もし仮にですね、地下の大図書館の書籍を全て売り払えば、試算の結果、一億二千万円になると……」
「困る困る、それ困る」
黙って話を聞いていたパチュリーは、咲夜の提案にあたふたと腕で×マークを作り抗議する。
「レミィ、あなたは知らないのかしら。あの本たちは、ただ本として読まれるためだけに、あそこにあるわけじゃないって事を」
「どういうこと?」
パチュリーは静かに口を開いた。
「大図書館にある蔵書は27万3千500と跳んで7冊。これらの総重量はおよそ12万5千kg」
「そんなにあるんだ!」
「重要なのは蔵書の数ではなくて、その重量。大図書館の蔵書はね、紅魔館が逃げ出さないように、その足枷として、あそこにあるの」
「……はぁ!?」
紅魔館が逃げ出す? 何を言ってるんだ、この出不精寝間着は。
眉をひそめるレミリアに構わず、パチュリーは話を続ける。
「レミィは気づいてないみたいだけれど、紅魔館はずっと昔から、生きる自信を無くし絶望しているの。何のために生きているのか自分でもわからない、かといって死ぬのは怖い。思い詰めた紅魔館はこう考えるの。自分のことを誰も知らない場所で、新しい人生をやり直したい。誰にも迷惑をかけないところでひっそりと暮らしたい。インドかネパールあたりで、仏像でも彫りながら静かに暮らしたいと。でも紅魔館にはそうすることは出来ない。何故かはわかるわよね。そう、大図書館の蔵書が重すぎて、動きたくても動くことができないの」
「じゃ、じゃあもし大図書館の本を売ったら」
「これ幸いと、紅魔館は二本の足で立ち上がって、そして旅立つでしょうね。インドかネパールあたりに」
レミリアは、足の生えた紅魔館がひょこひょこと立ち去る様子を想像してみた。そう言われたら、そんなことも起こり得るかもしれないと納得でき……いや、いや、いや、無理、無理。
「だから本を売るなんてとんでもないこと。わかったかしら」
「なぁパチェ、ひょっとして気づいていないのか」
「……なにが?」
「パチェは嘘をつくとき、白目を剥く癖があるってこと」
「!?」
レミリアの指摘に、パチュリは慌てて手鏡を覗いた。やがて自分が嵌められたことに気づき、照れくさそうに苦笑いを浮かべる。
それにつられるように、レミリアも笑い出した。
「パチェの気持ちはわかった。図書館の本を売るのは、本当にどうにもならなくなった時まで止めておこう」
「ええ、そうしてくれると助かるわ」
「しかし、どうしたもんだか」
溜息を吐いて、三人は顔を見合わせる。
時間に猶予は無く、さりとて打開策も見つからない。いっそ狸の金貸しに相談してみるべきか。高利貸しとの噂だが、その場凌ぎにでもなれば、後のことはじっくり考えれば……。
レミリアが泥沼への一歩を踏み出そうとしたところで、パチュリーが小さく息を吐いた。
「必要なのは、一億円で間違いないわね」
「はい、間違いありません」
「期限は三日後」
「ええ」
パチュリーはレミリアを見つめ、力強く頷いた。
本を売られることは絶対に避けたい。でも、一億円さえどうにか融通すれば、そんなことを心配しなくてもいい。考えてみれば単純なことだ。
「錬金術は得意じゃないけど、一億円、私がどうにかするわ」
決意の込もったパチュリーの言葉は、ちょっと格好良かった。
◆
執務室の末席で、フランドールは話し合いをぼーっと眺めていた。
お姉様たちはなにか真剣なお話しをしている。なにを話しているのか、難しくて私にはよくわからない。
でもきっと大丈夫。どんな時でも、お姉様の言うとおりにしていれば、何もかも上手くいくんだから。
難しいことはお姉様に任せて、私はかわいいものや、おいしいもののことだけを考えていればいいんだから。
そう結論づけ、フランドールは目の前のおいしいもの、チョコバナナを手に取り、笑顔で一口頬張る。
……胡瓜だった。
第二部、シュレなんとかの猫なんとか
Schrönantoka's catnantoka
大図書館の最深部、特別に区分けされ別室となった一画に、魔法道具倉庫があった。
読んで字の如く、そこには本の体裁をとられていない、パチュリー秘蔵のさまざまな魔法の道具が収められている。
パチュリーの指示を受けた小悪魔は、その魔法道具倉庫の奥から、ひとつの箱を持ち出した。
台車に乗せられ運び込まれたそれは、手品の人体切断に使われそうな雰囲気の、かなり大仰な箱だった。人間だったら楽に三人は入れそうな大きさで、天板に煙突のような突起が付いており、何故か子供がクレヨンで落書きしたかのような下手くそ……個性的な猫の絵が、ピンク色の壁面に大きく描かれていた。
魔法の道具という言葉からイメージされるものより、いささか、いや、かなりファンシーな代物である。魔法というより遊園地や幼稚園のほうが似合いそうな……。
「パチェ、何これ?」
「これはシュレディンガーの猫箱よ」
シュレディンガーの猫とは、エルヴィン・シュレディンガーの提唱した有名な思考実験の名称である。
実験の内容はこうだ。箱の中に一匹の猫と、特殊な装置を入れる。
装置は放射性物質のアルファ崩壊を検知すると、箱の中に毒ガスを放出する。アルファ崩壊が起こるかどうかは予測できないため、毒ガスが放出されるかどうかも当然予測できない。
毒ガスが放出されると、箱の中の猫は死ぬ。
つまり、箱に入れられた猫が死ぬか否かは予測が出来ないため、箱を開けて「観測」することにより生死が確定するということになる。
言い換えれば、観測をしない限り、箱の中では「猫の生きている状態」と「猫の死んでいる状態」が「重なりあった状態」にあると考えることができる。
シュレディンガーはこの奇妙な状態を看過できない矛盾として、量子力学に対する批判(以下略)
「ふむふむ、で、そのシュレなんとかの猫なんとかで」
「シュレディンガーの猫箱」
「そのそれディンガーで、どうやって一億円を稼ぐんだ?」
「まぁ、説明するより実践したほうがわかりやすいわね。咲夜、ちょっと箱の中に入って。大丈夫すぐ済むから」
「え、こうですか」
パチュリーの指示に、咲夜は猫箱の中に横たわった。クッションが効いていてなかなかに快適だった。
咲夜が箱に入ったのを確認すると、パチュリーは蓋をバタンと閉める。
そして箱の上部に伸びた煙突状の突起に、お徳用放射性物質(1kg入り、今なら20%増量中)をサラサラと流し込む。
準備が完了したところで、パチュリーは箱の横に描かれた猫の鼻を、ポチッと押した。
てんてけてんてんてーん、と、軽快でチープで、やる気が吸い取られてしまいそうな音楽が箱から流れ出す。前時代的なデパートの屋上の、寂れたゲームコーナーが似合いそうなBGMだ。
チープな音楽を聴きながら待つこと三十秒。箱から「にゃーん」という鳴き声が聞こえて、もくもくとした煙と共に、蓋が自動的に開いた。
「なっ!?」
箱の中を覗いたレミリアは、驚きのあまり言葉を失う。
さすがパチュリー秘蔵のマジックアイテム。まさかこんなことになるなんて!
箱の中では、生きた状態の咲夜と死んだ状態の咲夜が、重なり合い横たわっていた。
◆
「それで、次はどうするんだ」
猫箱の中から、生きた咲夜と死んだ咲夜を引っ張り出したレミリアは、改めてパチュリーに問いかけた。
確かに最初は凄いと思ったものの、冷静に考えてみれば咲夜の死体が出来上がっただけである。死体なんてあっても邪魔なだけだし、そのうち腐り出して、考えたくも無い状態になってしまいそうだ。
これから一億円につながる筋道が、レミリアには想像できなかった。
「あ、お嬢様、私わかってしまいました」
興味深そうに咲夜の死体を弄っていた咲夜が、咲夜の死体の腕を持ち上げて「はーい、はーい」と嬉しそうに挙手する。
「この私の死体を解体して、臓器を売……」
「止めーい!」
思わず本気でツッコミを入れてしまった。こいつは、仮にも自分の死体だということがわかっているんだろうか?
咲夜の死体はしゅんと力なく項垂れて、元気が無くなってしまう。
「そんな物騒で面倒なことする必要は無いわ。咲夜、ちょっと一万円札を貸して。大丈夫すぐ済むから」
「え、一万円札ですか」
咲夜から受け取った一万円札を、パチュリーは猫箱の中に入れた。福澤諭吉は何ら抵抗することもなく箱の中で大人しくしている。
蓋を閉めて、放射性物質で、チープな音楽。
レミリアも咲夜も、ここまでくればパチュリーが何をやろうとしてるのか、理解することができた。
つまりこいつは、魔法で偽札作りをしようとしてるんだ。
待つこと三十秒、「にゃーん」という鳴き声が聞こえた。
「これを繰り返せば、一億円なんてすぐに……あ、あれ」
猫箱から取り出した一万円札。片方は見覚えのある顔、お札界では一番の人気者、福澤諭吉さん。
もう片方は、これも福澤諭吉には違いないが、その顔は目が閉じていて、額には白い三角形のアレが付いていた、幽霊とかの、アレ。
「……死んでるわね」
「……死んでますね」
予測して然るべきであったが、まさか諭吉さんが死んでしまうだなんて。こんなものを一万円札だといって素直に受け取る奴なんていない。偽札であることなど一目瞭然。いやそれ以前の問題なのかもしれない。
「困ったわね、さてどうしようかしら」
パチュリーは腕を組んで考えを巡らせる。
死んだ一万円札を手に取り、隅々まで調べる咲夜。
「諭吉さん以外は完璧なんですけどね」
「そうね、諭吉さん以外は……」
そう口にして、パチュリーははっとする。
諭吉さん以外は完璧、つまり一万円札として通用する。
だとしたら、諭吉さんを取り除いてしまえば、それは一万円札として成立するのではないか。
もちろん諭吉さんを取り除いてしまえば、お札は半分になってしまう。そのままでは一万円札として使えない。
しかし、何らかの理由で半分になってしまったお札、例えば火事などで。そういったお札は、銀行に持ち込めば完全なお札と取り替えてもらえたはず。
「行けるわ、これで一億円、用意できるわ」
◆
一万円札を入れ、スイッチを押す。
「にゃーん」
また一万円札を入れ、スイッチを押す。
「にゃーん」
肝心の猫箱がひとつしか無いため、一億円を用意するためには、単純にこれを一万回繰り返さなければならない。
妖精メイドに交代で当たらせているものの、地道で気の遠くなる作業だ。
偽札作りを興味深く眺めていたフランドールは、うずうずと我慢できずにいた。
じっと待っていれば、箱の中から猫が出てくると、そう思っていたのに。
鳴き声はするのに、いつまでたっても猫は出てこない。
「ねぇお姉様、いつになったら猫は出てくるの」
「あん?」
そわそわとレミリアを見つめるフランドール。その頭をレミリアはくしゃくしゃと撫でた。
「しばらく時間はかかるけど、フランがいい子にしてたら猫は出てくるから」
「本当!?」
「ああ、猫が出てきたら教えてあげるから、もう部屋に戻りなさい」
「うん、わかった」
うきうきと立ち去るフランドール。その頭の中は猫のことでいっぱいだった。
◆
そして夜が明けた。
妖精メイドの頑張りの甲斐あり、紅魔館は無事に一億円分の偽札を揃えることができた。
猫箱の横に山と積まれた一万円札。いずれにも死んだ状態の福澤諭吉が描かれている。その猫箱と札束を囲むようにして、満身創痍の妖精メイドたちが、ところ構わず倒れ込んで寝息をたてていた。
何匹か寝息をたてていない、死んだ状態のものも横たわっていたが。おそらく悪戯好きな妖精メイドが猫箱を実地体験したのだろう。
「ふむ、大丈夫そうね」
偽札を数え終わったパチュリーが安堵の息を吐く。あとは諭吉さんに消えてもらえば。
パチュリーは札束を綺麗に揃え直すと、ごにょごにょとスペルの詠唱を始めた。
ロイヤルフレア初級。
人差し指から放たれた火の弾が札束の右半分を燃やしていく。焼け落ちた諭吉さんは、死んでいるのか生きているのか判別がつかなくなった。これで、偽札だと断定することは出来ないだろう。
準備は整った。
「じゃ、行ってくるわ」
「パチュリー様、その、お気を付けて」
不安そうに声をかける咲夜に、パチュリーは微笑み返した。
「ちょっと銀行に行ってくるだけだもの。大したことないわ」
そう、全然大したことないはずだ。
トランクに詰めた札束を窓口に預けて、新しい紙幣を受け取ってくるだけ。子供にだってできる簡単な仕事だ。
万が一のことも考えて、変装用の鼻メガネも付けてきたし、偽名も用意してある。
「こんにちは、私は茨木華扇です」
咄嗟の時に慌てないよう、心の中で何度も練習する。自分に言い聞かせるように。
「私は茨木華扇、茨木華扇……」
万事抜かりなし、完璧だ。
パチュリーのその自信は、ひまわり銀行人間の里支店の扉をくぐった瞬間に、脆くも崩れ去る。
「いらっしゃいませ」
窓口で隙の無い営業スマイルを浮かべる人物。ウェーブのかかった緑色の髪に、赤のチェックの行員服。射るような鋭い目付き。
実際に会うのは初めてだが、間違いない。何故か窓口で行員をやっているあいつは、あの悪名高き花の妖怪、風見幽香だ。
ひまわり銀行という名前で気づくべきだったのだろうか。いや、今更後悔しても遅い。
「こ、こんにちは、私は茨木華扇です」
「そうですか。それでは番号札を取って、お待ち下さい」
幽香の指示に従い、番号札を機械より抜き取る。他に客もいないのだが。
機械の待ち人数表示が、0人から1人に書き換わる。
「番号札472番でお待ちのお客様、窓口までお越し下さい」
座る間も無く機械音声に呼ばれた。パチュリーは窓口の幽香の前に立ち、トランクを開いて見せた。
「実は家が火事になってしまって、なけなしの貯金が燃えてしまったかせん。幸い燃えたのは半分だけだけど、このままでは使えないかせん」
キャラを印象付けるために、特徴的な語尾で話す工夫も、いま思いついた。
幽香に舌打ちされた気がするが、気のせいだろう恐らく。
「紙幣のお取り替えですか」
「そうそう、それをお願いしたいかせん」
用件を聞いた幽香は、半分燃えた札束をぱらぱらと捲って確かめる。
その表情が曇り、こめかみが意味深に小さく震えるまで、さほど時間はかからなかった。
「茨木華扇さん、でしたっけ」
「はい、私は茨木華扇です」
「お札の記番号が全て同じというのは、一体どういうことなんでしょうかね」
パチュリーの表情が一瞬で凍りついた。
同じ一万円札を増やしたのだから、当然のこととして記番号も同じになる。福澤諭吉が生きているとか死んでいるとか、そういう次元の問題じゃ無かった。
同じ記番号の紙幣をこんなに山ほど持ち込んで。もう偽札作ってますと宣言しているようなものだ。
「こ、これは、その……」
「どういうことなのか、説明してもらえますか」
幽香の冷たい視線が痛い。
考えるんだパチュリー。このピンチをどう切り抜けるかを。
「……水を、コップ一杯の水を貰いたいかせん」
幽香が訝しがりつつも用意してくれた水を受け取ると、パチュリーは懐から一本のストローを取り出した。
紙の包装からストローを抜き取ると、そのしわくちゃになった包装紙を幽香の目の前に、そっと置く。
「何?」
意味がわからなくて、幽香はストローの包装紙を怪訝に眺める。
その包装紙に、パチュリーがストローで吸い上げた水を一滴かけた。
「あっ!?」
すると、しわくちゃで丸まっていた包装紙は、まるで生きているかのように、むずむずと動き出した。
ただの紙のはずなのに動き出すなんて、これは!?
幽香は包装紙の緩慢な動きに、思わず目を奪われてしまう。
「……はっ!!」
我に返った幽香が顔を上げるも、目の前にいたはずのパチュリーの姿はどこにも見当たらない。
窓口に、偽札入りのトランクだけが残されていた。
◆
福澤諭吉大量生産計画は、無残に失敗してしまった。
這々の体で紅魔館に帰ってきたパチュリーであったが。
「おかえりなさいませパチュリー様」
「おかえりなさいませパチュリー様」
紅魔館に着いたら咲夜が二人いた。どこからどうみてもそっくり瓜二つで、全く見分けがつかない。
パチュリーは見間違いかと、ごしごし目を擦った。それで改めて見直しても、やっぱり咲夜は二人いる。
「双子だったのね」
「えー、違いますよぅ」
「えー、違いますよぅ」
二人の咲夜は顔を見合わせて、「ねー」と声を揃えた。仲むつまじくて微笑ましい光景だった。
パチュリーは気持ちを落ち着けて、紅魔館を出る前の状況を思い返す。あの時まで確かに咲夜は一人しかいなかったはずだ。しかし、そう、生きた咲夜は一人だったが、それとは別に死んだ咲夜がいたんだっけ。
「なるほど、どうやったのかはわからないけど、蘇生術ね」
「そうじゃないですよ」
「そうじゃないですよ」
いつのまに用意したのか、向かって右側の咲夜が、死んだ咲夜の腕を取って、「違う違う」と手を振っていた。
困惑するパチュリーに、咲夜たちが経緯を説明する。
「これ、お嬢様の思いつきなんですよ」
「死んだ咲夜を猫箱に入れたらどうなるんだろうなって、お嬢様が仰ったんです」
「それで実験してみようと」
「その結果、こうなりました」
咲夜たちは嬉しそうに、「ねー」と声を揃える。なるほど、そういうことか。
生きている咲夜を猫箱に入れれば、生きた咲夜と死んだ咲夜が重なり合った状態となる。 では死んでいる咲夜を猫箱に入れたら。その時もやはり、生きた咲夜と死んだ咲夜が重なりあうということか。
猫箱に入れた死んでいる咲夜とは別に、猫箱の外には生きている咲夜がいるのだから、つまりは生きている咲夜が二人に増えることになると。
「そんな使い方、思いもよらなかったわ」
「面白いですよね」
「面白いですよね」
にこにこと嬉しそうな二人の咲夜。
とりあえず一億円の支払いの解決には繋がらないが、咲夜が二人になれば、紅魔館の家事などは前よりもずっと捗ることだろう。
いや、一億円に繋がらない? 本当にそうだろうか。
「……やってみる価値はありそうね」
考えに耽っていたパチュリーはそう呟いて、足早に立ち去った。
◆
「にゃーん」
「にゃーん」
「にゃーん」
猫の鳴き声が、また紅魔館に響きだした。
一体今度はなにを増やしているというのか。日没に合わせて先程目覚めたばかりのレミリアは、もぞもぞとベッドから這い出して、寝間着姿のまま、鳴き声の聞こえるほうへ歩き出した。
「うわぁ……」
扉を開けた瞬間、視界が薄紫に覆われて、驚きのあまり目が点になった。
「お姉様、たいへんなの。パチュリーが」
フランドールが驚愕の表情で駆け寄ってきた。ああ妹よ、大変なのは私にもわかる。見ただけでわかる。実に大変だ。
猫箱から次々と、パチュリーが湧き出していた。
「にゃーん」という鳴き声とともに、パチュリーが湧き出す。湧き出てきたパチュリーは猫箱を起動させていたパチュリーと交代し、次のパチュリーを増殖させる。パチュリーの無限増殖だ。
どれほど繰り返したのだろうか。紅魔館の廊下では、湧き出たパチュリーがぞろぞろと、先の見えない長い行列を作っていた。
「あら、レミィじゃない」
箱を操作しようとしていたパチュリーがレミリアに気づき、声をかける。
その一言で、長い行列に並んでいたパチュリーたちが一斉に振り返った。
「レミィね」
「おはようレミィ」
「レミィ、なにか用かしら」
「よだれがついてるわよレミィ」
「なんだレミィか」
「やぁレミィ、元気にしてたかせん?」
大量のパチュリーたちが一斉に好き勝手喋るものだから、ごちゃごちゃとしてしまい、なにを言っているのかさっぱりわからない。
「ああ、おまえら、落ち着いて一人ずつ喋れ」
パチュリーたちはうんうんと頷いた。
「なぁパチェ、いや答えるのは一番手前のパチェだけでいい。なぁ、これは一体なにをやってるんだ?」
いや、レミリアも咲夜が増えたことは知っているし、そもそも言い出したのが自分なので、なにをやっているかは理解している。
レミリアが聞きたいのは、なんの目的があってこれをやっているのか、ということだった。
そのあたりのことも察して、一番手前のパチュリーが、パチュリー勢を代表して質問に答える。
「うん、私に訊いてるのかせん?」
「チェンジ、その後ろ!」
手前から二番目のパチュリーが、パチュリー勢を代表して質問に答える。
「レミィ、私たちには時間が残されていないわ。命蓮寺との約束は三日後とのことだったけど、一日目が徒労のまま、もうすぐ終わろうとしている」
後ろに控えるパチュリーたちが、うんうんと頷く。
「かといって、一億円をどうにかするアイディアも思いつかない。せめて時間に余裕があれば、いつかは思いつくのかもしれないのだけれど、二日では無理ね」
無理だといわんばかりにパチュリーたちが首を振る。
ちょっとだけ鬱陶しいと、レミリアは思った。
「では、もし効率を上げることが可能だとしたらどうか? つまり私が一人では期限までに名案を思いつけなかったとしても、私が二人いたら。あるいは三人いたら。言い換えればそれは、思考の効率が三倍になったも同じではないか。それはつまり、名案を思いつくまでの時間が大幅に短縮、いえ、具体的に1/3の時間に短縮できると、こうなるんじゃないかしら」
なにかが違うような気もしたが、目の前のシュールな光景に考えるのが馬鹿馬鹿しくなってしまったので、レミリアは大事なところだけ聞くことにした。
「ああ、まぁ言いたいことはわかった。正直よくわからんが、まぁわかった。でもな、物には限度があるっていうか、一体どこまで増やす気なんだ」
「そうね、とりあえず100人」
「100人!?」
100人のパチュリーが蠢く姿を想像し、レミリアは何とも曰く言い難き気分に浸ってしまう。
「百人力とも言うしね」
そんな安直な理由で増えるな、とレミリアは言いたくなった。
◆
無事に増殖を終えたのか、100人のパチュリーは地下の大図書館へ、ぞろぞろと引き揚げていった。
先程までの喧騒が嘘のように、紅魔館は静寂に包まれた。
レミリアは咲夜に促され、いつものごとく食事を済ませ、いつものごとくフランドールと一緒に風呂場でアヒルのおもちゃで遊び、いつものごとく、リビングでくつろいでいた。
だが、くつろいでいるつもりでいても、気持ちはどうにも落ち着かない。
今頃パチュリーたちは図書館で、どうやって一億円を工面するのかと喧々囂々の議論を戦わせているのではなかろうか。私が咲夜の淹れてくれた紅茶でくつろいでいるこの瞬間にも、議論に白熱したパチュリー同士が、掴み合いに殴り合いの喧嘩をしているのかもしれない。
無計画に増えるというのはどうかと思うが、それもパチュリーなりに一億円をどうにかしようと考えてのこと。やり方はともかく、頑張ってはいるのだから。
パチュリーが頑張っているのに、自分だけ遊んでいていいのだろうかと、レミリアは自責の念にかられる。
しかしパチュリーの性格だから、レミリアが手伝おうとしても、頑として応じないであろうことはよくわかっていた。
「……咲夜、悪いけどパチェたちに、後で夜食を持っていってくれ」
簡単に言ってはみたものの、なにしろ100人分である。咲夜の負担は計り知れない。
しかし、咲夜も気にかけてはいたのだろう。レミリアの言葉ににっこりと微笑むと
「かしこまりました」
「かしこまりました」
と、声を揃えて答えた。
◆
「パチュリー様、お夜食をお持ちしました」
夜食ということで、サンドウィッチと南瓜のスープという軽めのメニューであったのだが、なにしろ100人分である。
咲夜二人の後ろに連なる妖精メイド。それぞれが配膳台車を携えて、ちょっとしたパレードのような様相であった。
メイドたちの行列を従えて大図書館に入る咲夜たち。大図書館では、100人のパチュリーたちが
……思い思いの場所で、黙々と本を読んでいた。
パチュリーの群れの間を、小悪魔だけが忙しなく飛びまわっている。
「一億円を用意する、話し合いをされていたのでは」
咲夜の言葉に、パチュリーたちが一斉に、ハッとして顔を上げた。
気まずそうにパチュリー同士で目配せをして、やがて一人のパチュリーが咲夜に歩み寄った。
「説明するわ」
「はい」
「100人で本を読むと、100倍の効率で読めることに気づいたの」
「そうですか、それはよかったですね」
にっこりと、心の底からよかったですねと思ってくれる咲夜の言葉が、むしろ辛く思えた。いっそ責めてくれたほうがどんなに楽なことか。
気まずい雰囲気を払拭するように、パチュリーたちは咲夜の働きに感謝しながらも可及的速やかに夜食を平らげて、100人で円陣を組み、一億円の工面について真剣に話し合った。
あまりにも真剣に話し合ったため、たった三分で解決策が纏まってしまった。
◆
パチュリーたちの考えた解決策の準備に、一昼夜が費やされた。
急ピッチで進められる準備に、「にゃーん」「にゃーん」と、紅魔館は再び猫の鳴き声に包まれた。
そして翌日の夜更け。
霧の湖の湖畔に、紅魔館の住人が一堂に会した。
昨晩の時点で既にパチュリーは100人まで増えていたが、今夜はそれに加えてレミリアまで100人に増えていた。
レミリアが100人に増えたのならば、その世話をする咲夜も増やさなければ、過労がヤバイことになってしまうだろう。ということで咲夜も100人。
ついでに門番も増やしておこうと、美鈴も100人。
フランドールと小悪魔は一人ずつで十分だ。
ということで、合わせて402人の紅魔館の住人が、湖畔にひしめき合っていた。
「なんとも壮観というか、奇妙というか……」
見渡しても同じ顔ばかりがぞろぞろといるわけで、やはり奇妙極まりない。
「お嬢様、準備できましたので、いつでもいけますが」
咲夜のうちの一人が、どのレミリアに声をかけるべきか迷いながらも、そう報告した。
レミリアの「じゃあ、やっちゃってくれ」との返事を受け、一人の咲夜が紅魔館の前に進み出た。
401人の見守る中、咲夜はそっと目を閉じる。
次の瞬間、目の前の紅魔館が掻き消されるように無くなっていた。
いや、正しくは、紅魔館が小さくなっていた。咲夜の足下に、空間操作の能力で畳一枚程度の大きさに縮小された紅魔館が、ひっそりと建っていた。
「これで、よろしいでしょうか」
にっこりと微笑む咲夜。紅魔館一同は拍手と歓声で大いに盛り上がる。完全にお祭り気分である。
「次はレミィ、よろしくね」
「わかってる」
小さくなった紅魔館を100人のレミリアが取り囲むと、せーの、と、それを持ち上げた。
空間操作で縮小されていたとしても、重さはいままでの紅魔館と変化していない。いくら吸血鬼の膂力が並外れていても、レミリアが一人しかいなければ、持ち上げることなど到底不可能であろう。
100人に増えたからこそ持ち上げることができた。いや、紅魔館を持ち上げるために、レミリアを100人まで増やしたのだ。
紅魔館を持ち上げたレミリアたちは、そのまま紅魔館を運搬する。向かう先にあるのは、蓋を開けられたシュレディンガーの猫箱。
レミリアたちは猫箱の中に紅魔館を収め、蓋を閉めた。
「パチェ、もういいよー」
レミリアたちの合図にパチュリーは小さく頷き、猫箱の鼻を押す。
軽薄で安っぽい音楽が鳴って、待つこと30秒。
「にゃーん」
猫箱の中には、もう説明するまでも無い。
生きた状態の紅魔館と死んだ状態の紅魔館が、重なり合っていた。
◆
パチュリーたちは、猫箱で紅魔館をひたすら増産していく。
レミリアたちは、猫箱で増産された紅魔館を次々と湖畔に設置していく。
咲夜たちは、設置された紅魔館を空間操作で元の大きさに戻していく。
「にゃーん」
「にゃーん」
「にゃーん」
レミリアやパチュリーが100人いるのなら、当然のこととして紅魔館も100棟必要ということになる。もし人数よりも紅魔館が少なければ、立つべき門にあぶれた美鈴が野良門番になってしまう、それはさすがに可哀想だ。
「これで、100っと」
大がかりで時間の掛かる作業ではあったが、夜が明ける前に紅魔館の増産を終えることができた。
月明かりに照らされる霧の湖。その湖畔は今や、林立する紅魔館でびっしりと埋め尽くされていた。以前のまるで絵画のような景色は面影も無く、さながら新興住宅地のような景観である。
そんなニュータウン紅魔館の様子を、遙か上空から覗う影があった。
「ありゃりゃ、これは一体全体、どういうことなんでしょう」
なんだかネタの臭いがすると紅魔館まで飛んで来てみれば、予想を遙かに超えたおもしろ風景に出くわすだなんて。眠い中をわざわざ来た甲斐があったというもの。
パジャマ姿の射命丸は、取り憑かれたように写真を撮りまくった。
本当なら取材もしたいところなのだが、先日のちょっとだけ調子にのってしまった記事もあって、たぶん紅魔館のみなさんは大層お怒りになっていることだろうし、なにやら地上には、やたら沢山のレミリアとか沢山の咲夜とか沢山のパチュリーとかあと美鈴とかが足の踏み場も無いくらいにひしめき合っている。
万が一見つかってしまったその時は、それはそれは恐ろしい事態に陥ってしまうことだろう。縛り上げられて鼻からワサビを食わされたりとか、そんな。
「取材ができないのなら、面白おかしく書いてしまえばいいのです。ふひひひ」
ちょっときもちわるい笑い声を残して、射命丸は闇に紛れるように飛び去っていった。
◆
紅魔館、増える!!
○月○日、霧の湖において、突如紅魔館が大量発生するという事件が起きた。新しく発生した紅魔館は従来の紅魔館と全く見分けの付かないもので、湖の周りをほぼ埋め尽くす形で隙間無く生えており、またこれと同時に紅魔館の住人も同じように大量発生している。
何故突然に紅魔館が大量発生したのか、先日の命蓮寺遊覧船襲撃事件と関連性があるのか、食費が馬鹿にならないのではないかなど事件は謎に包まれているが、紅魔館の事情に詳しい霧雨魔理沙(人間)は、「あれは茸の一種ではないか」との見方を示しており、可食性や中毒性などの調査に意欲を見せている。
霧の湖にて事件を目撃していた、わかさぎ姫(人魚)は「うおっ!!」と驚きの声を上げており――――
◆
100棟に増えた紅魔館に取り囲まれ、咲夜は晴れやかな笑顔を浮かべていた。
やり遂げた者が浮かべる、達成感に満ちた爽やかな笑顔である。
隣に立つパチュリーに気づくと、咲夜はしみじみと話しかけた。
「やっと、終わりましたね」
「まだよ」
パチュリーは小さく息を吐き、猫箱の中身を咲夜に指し示す。
そこに残されているのは、死んだ状態の紅魔館。
生きている紅魔館と比べると外壁の紅色はくすんでいるし、所々ひび割れも目立つ。
「ああ、そうでした」
昨晩パチュリーから提案された解決策は、こうだった。
もし大図書館の蔵書が一億二千万円で売れるのなら、その値段で売ってしまっても構わない。
ただし売るのは、猫箱で増やした、死んだ状態の蔵書。
大図書館に蔵書を残したままの紅魔館を増やしたのだから、当然、蔵書もそっくりそのまま増えることとなる。
これならばパチュリーは何も失うこと無く、一億円を工面することができる、と。
「では、さっそくやってしまいましょう」
空いた隙間をなんとか見つけて、死んだ状態の紅魔館を元の大きさに戻した。
あとは大図書館から蔵書を運び出さないといけないが、妖精メイドの大量投入で解決する見込みである。
パチュリーと咲夜は最終確認のため、死んだ状態の大図書館に足を運んだ。
「なんだか、いつもより暗くて不気味ですね」
「まぁ死んでるからね」
大図書館は、どこまでも本棚が続く見慣れた風景こそはいつも通りだったが、いつもより埃が厚く積もり、ほのかに死臭が漂っていた。
パチュリーは、むせ返るほどの死の気配に包まれた本棚に歩み寄り、手近な本を一冊、手に取る。表紙には「走れ死んだメロス」と書かれていた。
――死んだメロスは激怒した。必ず、かの邪智暴虐で死んでいる王を除かなければならぬと決意した。
別の本。こちらの表紙には「吾輩は死んだ猫である」と。
――吾輩は死んだ猫である。名前はまだ無い。
「……ふむ」
それでは冒頭が有名なあの作品はどうなのだろうと、本棚に目を走らせる。「死んだ雪国」と背表紙に書かれた本は、すぐに見つかった。
――国境の長いトンネルを抜けると死んだ雪国であった。夜の底が白くなった。信号所に死んだ汽車が止まった。
パチュリーは思わず、こんな本ばかりで本当に買い取って貰えるのだろうかと少し心配になった。
結果としてパチュリーの心配は杞憂に終わり、死んだ蔵書を売ったお金で命蓮寺との和解は成立し、余ったお金でしゃぶしゃぶパーティーを催すことで、この事件は一件の落着となったのだった。貴族は宵越しの金は持たねぇ。
402人で囲むしゃぶしゃぶパーティーが一体どんな乱痴気騒ぎになったのかは、ご想像にお任せする。
◆
夏の日差しの照りつける、博麗神社。
暑さに参ってなにもやる気が起きない霊夢が、縁側で横になって溶けかけていた。
傍らでは一匹の黒猫が、暢気にうずくまっている。
時折風が吹き込んでは、風鈴を涼しげな音色で鳴らすものの。まだ午後の熱気は収まってくれそうもない。
砂利をふむ足音に黒猫が耳をそばだてて、気怠そうに庭を見回す。にゃあと一声鳴くと、黒猫は足音の主へと軽快に駆けていった。
足下に身を寄せてじゃれつく黒猫を、レミリアはひょいと抱きかかえる。
「黒猫です、お嬢様」
「ああ、黒いな」
「いかがでしょうか」
咲夜のかざした日傘の陰で、レミリアは黒猫の喉をくすぐってやる。
黒猫は気持ちよさそうにレミリアに身を預けた。
「いいんじゃないか。しっぽが二本生えてるあたり気に入った。これならフランもきっと満足するだろう」
「ああ、レミリア来てたの」
気怠そうに起き上がって、霊夢が愛想の無い挨拶をした。
「霊夢さん、この黒猫をしばらくお借りしたいのですが。大丈夫すぐ済みます」
「うーん?」
咲夜の言葉に、霊夢は面倒臭そうに返答する。
「それ私の猫じゃないから。飼い主は地底のさとり。知ってるわよね」
「知らん」
「存じ上げません」
呆れ混じりに溜息を吐く霊夢。
「ま、食べたり改造したりしなけりゃ、あいつも文句言わないんじゃないの」
「それはご心配なく。何なら倍にしてお返ししますわ」
「……なんだそりゃ」
用件は済んだと言わんばかりに、レミリアと咲夜は、黒猫を引き連れて早々に立ち去ってしまった。
残された霊夢は、気怠そうにふたたび縁側に寝そべる。
「あ、ちょっと涼しい」
夏の終わりと秋の訪れを感じさせる涼しげな風が、霊夢の前髪をさらさらと撫でていった。
終
面白かった!文句なしに!
もちろん褒め言葉ですよ?
チョコバナナ砲はその後どうなったんだ…。
どうせやるならここまで突き抜けないといけないのですね。
参考にさせていただきます。
何故か当たり前のようにタグにあるチョコバナナ砲が私の一番のツボでした。
純粋な気持ちで笑って読めました
面白かった。
ところどころのセンスが光っていて、飽きることなく読める文章を書けるのは羨ましいです。
こう、美味しい飲み物って点滴みたいに上からぶら下げてチューブで口に流しながらずっといつまでも味わっていたくなるじゃないですか、このお話を読んで同じ気持ちになりました。
一番笑ったのは「注釈」でしたw
予想の斜め上にズレまくったキャラ達に笑いました。
ぶっ飛んでるのに妙な纏まりのある話で、実に面白かった
あとパッチェさんが地味に可愛い!
いやはや凄かったです
やっべ咲夜さん超可愛い。咲夜さんの死体の腕を持ち上げて挙手させる咲夜さん超可愛い。
生きてる咲夜さんコンビの愉快で瀟洒な光景もありありと目に浮かぶ!
でもさすがに100人お嬢様と100人咲夜さんはアクティブすぎて想像力がオーバーロード起こしたよ。
パチュリーと美鈴ならおとなしいから100人いても想像できるんだけど。
最後の多くを語らぬオチも風情があるにゃー。