はるか頭上に見える岩の天井はどこまでも暗く、見る者の息を詰まらせる。
幻想で穿たれた地底のドームはどこからともなく、低く不吉なごうごうという音を響かせていた。音の正体は、風か。それともこの地底を永遠にさまよい続ける怨霊どもの怨嗟の声か。
「なーんて詩的な感傷に浸ってる余裕は、こっちにはないんだっつうの」
壁に手をついて一人毒づく少女が一人。黒髪から二本の短い角を生やした小鬼だ。モノクロ基調のワンピースはいたる所が擦り切れており、本人も肩で息をして疲弊の様子を隠せない。泥に塗れた顔を上げ、ぎらついた真紅の瞳を周囲に走らせる。
「ようやく、撒けたか。どいつもこいつも楽しそうに挑みかかってきやがって」
彼女の名は鬼人正邪。幻想郷きってのお尋ね者である。
彼女がいかにして追われる身の上になったのか、ここではあえて語るまい。とにかく彼女は地上に安息の場がなくなって、ついに札付きの嫌われ者妖怪が集う地底に足を踏み込まざるを得なくなった。だが三度の飯より喧嘩好きな旧都の住人どもが、ありとあらゆる妖怪の追跡をかわし続けたこの新参者を見逃すはずもない。各地でさんざ絡まれ続けた結果がご覧の有様だ。
「それで、ここはいったい誰のお屋敷だ?」
一息ついたお陰で、正邪の脳裏に冷水が注入された。どこへ行ってもどんちゃん騒ぎだった旧都の市街に比べると、ここは驚くほど人気がない。旧都の奥も奥、中心に位置する場所のはずだというのに、まるで台風の目に入り込んだかのようだ。
そして彼女の言うとおり、手をついていたのはただの壁ではなく、背の高い塀であった。
旧都市街とは趣の異なる邸宅である。純和風の木造建築を主とする市街に対して、頑健で継ぎ目のない石のような素材の塀が左右の両端を見渡せないほど延々と続いていた。
しかしそんなものより、正邪の目に止まったものがある。
[立入禁止! 番犬を放し飼いにしています]
壁の貼り紙に、うなじのあたりがぴりぴりするのを感じた。よく見ると、そんな貼り紙は塀の一面に等間隔で張り出されているのだ。
[危険、入るな]
[とっとと帰れ]
[GO TO HOME]
「なんだい、こいつは。どうやら相当中に入ってほしいと見える」
正邪は舌舐めずりする。彼女がこの貼り紙に興味を抱く理由は二つ。一つは彼女が筋金入りの天邪鬼であるから。白を黒と言い、旨いを不味いと言い、他者の命令にはことごとく逆らう。禁止と言われては立ち入らずにいられない。
そしてもう一つの理由は、彼女の背後から獲物を追い詰める餓狼のように近づいてきていた。
張り詰めた空気。全ての正逆を許さない、恐ろしい気配が全身の毛を逆立たせる。追っ手は未だ撒けていなかった。
「背に腹は変えられん。これだけでかい屋敷なら、潜り込む場所の一つや二つあるだろうよ」
身を隠す場所は限られている。正邪は意を決してポケットから小さな提灯を取り出した。広げると勝手に火が灯り、同時に彼女の姿が薄く透けていく。
「番犬だかなんだか知らんが、幽霊と化したこの身を嗅ぎつけることはかなうまい」
やおら塀に突撃する。激突、はせずに正邪の体は遮られることなく壁を通り抜け、内部へと消えた。
跡形もなく無人となった塀の前に、一歩遅れて追っ手が現れる。詰襟の青いベスト、天秤の帽章を頂く冠。
その少女は、たった今正邪が潜り込んだ壁を眺め、少しだけ思案した。
「どうにか元の鞘に収まって何より、というところですか。あとは家主の手腕次第ですね」
§
館の中は不気味な静寂に包まれていた。
見たこともない造形の石でできた壁と床、その合間を青白い怨霊が呻き声を上げながら飛び回っている。石張りの床には等間隔で三本足の鴉が描かれた色硝子が並び、それらがどういう原理でか明滅を繰り返す。
「なんだい。立入禁止ってほど危ないものでもないじゃないか」
意気揚々と正邪は通路の真ん中を歩く。元よりこれまで挑みかかってきた敵は、先ほどの「亡霊の送り提灯」を始めとするイカサマ道具の数々を駆使して返り討ちにしてきた。どんな危険が襲いかかってこようと、切り抜ける自信が彼女にはある。
「番犬とやらの姿も見えなかったし、どうなってるんだか――誰か住人をとっ捕まえて、この館のことを聞き出さないといけないが」
おあつらえ向きに、扉に行き当たった。小さな戸口は高い天井にあまりに不釣り合いだが、隠れ場所にはちょうどいいように思える。
客室か。誰かが使っている個室か。入念に見極めなければならない。扉を観察しようと近づいたところで、早々に見つかったものがある。
[どうぞ おはいりください]
そんなことが書かれた板が、扉に据え付けられた鉤にぶら下がっている。
当然、正邪はそれを訝しんだ。立入禁止の次に現れたのが、これである。入ったらどうなるというのだ。
ドアの取っ手に手をかけて、しばらく逡巡した。結局押しも引きもせずに、手を放す。
「畜生め、その手は食わんぞ。きっと何かの罠に決まってる」
足早に扉を離れる。次の扉は程なく、二本の柱を通り過ぎた先に見つかった。しかしやはり目の高さにかかっている板が、目を奪いにくる。
[大歓迎]
また正邪のうなじを痺れさせる言葉が現れた。
内部の様子に聞き耳を立て、しばらく扉越しに様子を見守り、幾つかのイカサマ道具を見繕ったが、結局扉から離れる。
まさか全ての扉がこのような感じなのでは。そう疑り始めた正邪の前に、次の扉が現れる。
[いつでもウェルカム]無視。
[ようこそいらっしゃいました]無視。
[よっしゃーばっちこーい]やはり無視。
これでは外の張り紙と全く正反対ではないか。追い出したいのか迎え入れたいのか、どちらなのだろう。正邪は軽い混乱に陥る。
全ての扉を通り過ぎているうちに通路の行き止まりが見えてきた。突き当たりにも扉が一つ。
これも入室を促す伝言つきだろうか。しかし遠巻きから見ても明らかにその扉は他のものと趣が異なっていた。
扉の両脇に立てられた黒い燭台。台座は本物を削って作ったと見える髑髏だ。
燭台の前には大柄な鳥が二羽。頭部の半面を覆うほどの巨大な嘴を持ち、威圧感溢れる目線で正邪の接近を微動だにせず睨みつけている。
さらには扉の縁に沿って茨の蔦が這っていた。生え揃う棘は刺さりそうなほど鋭い。
そして扉の前に朱色の毛書で書かれた言葉は、見間違えようもなく。
[絶対入室禁止]
「――いい趣味だな、こりゃ」
正邪は歯を剥き出して笑うが、その口元は明らかに引きつっていた。
こんな全身全霊で入室を拒絶する入り口は、さしもの正邪も初めて目にする。ちなみにあえて緩い朱を使ったと見え、毛書文字のあちこちからそれらが垂れ下がる様子は血のしたたりのようだ。
扉の前まで歩み寄っても門番らしき鳥たち――ハシビロコウという名の珍鳥だと、正邪は後で知った――が襲いかかってくる様子はない。入るべきか、入らざるべきか。
これほど厳重に入室を禁じるのは、相当の値打ちものでも置かれているのかそれとも危険な住人がいるのか。いずれにせよこの館の住人が近づかないなら好都合。何らかの危険が部屋の中にあったところで、蹴散らしてやればよい。あの逃走と闘争の十日間のように。
扉の取っ手に手をかけ、いくばくかの試行錯誤。扉との接点を軸に回転させれば動くことを理解したところで、一気に奥へと押し込む。
何の抵抗もなく開かれる扉。淡い光が漏れ出してきた。
外とは打って変わった光景が、目の前に広がる。ハートを基調とした刺繍やレリーフが壁一面に、家具に所狭しと敷き詰められていた。
「薄気味の悪い部屋だなあ」
「あら、それは本音で仰ってますね? 趣向の違いかしら」
部屋の奥から、声。見れば、真っ白い円卓に一人の少女が腰掛けている。ゆったりとした青いシャツを身につけた、癖のある短い髪の彼女は、釣鐘を逆さにしたような茶碗に茶を注いでいる。
「誰だ、あんた」
「ここの家主ですが? 先に誰かを聞くのは、私だと思うんですけどね。不法侵入者を相手にとびきり不味いお茶を飲む趣味はないので、即刻出て行っていただきたいのですが」
「不味いお茶だって。そいつは私好みだな」
相手に有無を言わさず襲いかかってくる意思がないと見るや、正邪は途端に大胆になった。円卓まで大股で歩み寄って、少女の正面に腰掛ける。
卓の上には、なぜか空の茶碗がもう一つ置かれていた。少女は正邪を一瞥するや、それを手元に引き寄せてもう一杯を注ぎ始めた。白い湯気と共に、ほのかな甘い香りが漂う。
「出て行ってもらいたいと言っているのにお茶をせびろうとするなんて、猛々しい盗っ人もいたものです。これだから天邪鬼は嫌だわ」
「有名かね、私は」
「あなたが外で何をしてきたかなんて、私の知ったこっちゃありません。あなたのことはたった今知ったのですよ、鬼人正邪さん」
「なんだって?」
少女が不躾に取っ手のついた茶碗を差し出してくる。
「もう一度言いますがとびきり不味いです。体に悪い毒や薬がたくさん入っています。冷たいので一気にがっつりいっちゃってください」
「湯気が立つとは、大した冷たさだ」
茶碗の取っ手を摘み上げて口元に引き寄せ、無遠慮に匂いを嗅ぐ。臭みもえぐみもない純粋な花蜜の香りは、新鮮だった。
ずず、と音を立てて赤味がかった液体を啜る。微かな甘味と酸味のある暖かい感触が、喉元を通り過ぎた。逃走に次ぐ逃走でささくれだった神経が修復されていくような感触。
「なんだよ、これ。本当に――不味いじゃないか」
「だから最初からそう申し上げました。申し遅れましたが私は古明地さとり。界隈では地底一の嫌われ者だとか、地獄の引きこもりニート小説オタクとか呼ばれておりますわ」
ガチャリ、と手元で茶碗が鳴った。
よく見れば古明地さとりと名乗る少女の胸元には異なものがある。こぶし大の赤い球体。眼球が埋め込まれており、赤い瞳が正邪の姿を凝視していた。
「さとりだって。あのサトリ妖怪だってのか、あんたが」
「知らずにここまで潜り込んだのですか。いかにも私が第三の眼で心を読むので皆からゴミ屑のごとくに嫌われているサトリ妖怪です。ちなみにこちらはとびきり不味いお茶請けですので、食べてはいけませんよ」
さとりが差し出したのは、小皿に乗せられた狐色の小片だった。小麦粉か何かを練って平たく伸ばして焼いたものか。ほのかに牛乳と油脂の匂いが漂ってくる。
「そいつはどうも、いただこうか――って何か調子狂うなあ。あんたさっきから、その、なんだ」
「逃げ道を塞がれてるみたいな気がしますか? そんなことはありませんよ、あなたには今すぐ悲鳴を上げてこの館から逃げ出す道が残されている」
「だ、誰がそんな無様な真似を」
腹立ち紛れに菓子を手に取り、乱雑に噛み砕く。小片はあっさりと口の中で砕け、砂糖を舐め溶かしたかのように粒状感のない甘味が口の中に広がった。硬直する正邪。
「お、おいなんだこれ。これのどこが――不味い、じゃないか」
「はい、それも先ほど申し上げました」
「おちょくりやがって、あんまり私を甘く見るなよ。サトリ妖怪なんざ全然怖くもなんともない。心が読めるってんなら、私がこれまでどんな妖怪を倒して来たかも知ってるはずだ」
「ええそれはもう。並み居る幻想郷の列強を、集めた道具と持ち前の小狡さを駆使して撃退し、ついにはここまで逃げて来たのですね。ついでに私も倒して、あわよくばこの地霊殿に居座ろうとも考えていらっしゃる。やってみますか? 勝てば晴れて地霊殿の新たな主として、数多の怨霊とペットたちの世話がついてきますよ」
「そんな面倒臭いこと、誰がやるか――ああ、畜生。さっきからおかしな理由がようやくわかってきたぞ」
「何がおかしいというのですか?」
この間、さとりの不機嫌な表情は一片も崩れない。
「私はただ、あなたの望んでいることの一部を次々に『許可』しているだけだというのに」
「それだ問題は。私が天邪鬼だと知っててなぜ許す。私は許されるのが大嫌いなんだ」
「当然、知っててやってますわ? 天邪鬼の相手はこれが一番ですからね」
「気に入らねえなあ。だいたいあんたの能力は心を読むだけだろう。なぜ真逆の言葉を軽々と扱える」
「あら。もしかしてご存じないのかしら? 天邪鬼は人間の嫌がることをするのが大好き。だからそんな天邪鬼の中には、心を読む能力を持つ者がいたようですわ」
正邪は、言葉を失った。
立て肘をついて、さとりが彼女の顔を三つの目で凝視する。
「そう。私達、根っこは同じところにあるのですよ。姉妹とまではいきませんが、従姉妹くらいの間柄かもしれませんね、私達。だからかしら、あなたとの接し方は手に取るように分かる――どうぞ『剣呑に』お付き合いいたしましょう?」
鳥肌が立つのを感じた。思わず茶碗を両手で握りしめる。
「あー、そういうのはさすがに遠慮だ。趣味に合わん」
「そうかしら? 小人の姫君とは良好にやってたみたいですが」
「あれは、私が奴をおだてこき使っていただけだ。今はもう不要になった。何せ今の私にかなう奴なんて、幻想郷のどこにもいないんだからな――」
もう一度、茶に口をつけながら正邪は違和感を感じた。
頭が、体がひどく重いのだ。自分自身のゼンマイ仕掛けが止まってしまうような感触。
手にした茶碗を一瞥し、さとりを睨む。
「貴様。まさか本当に薬を盛ったのか」
「だから言っているじゃないですか。ちなみに入っているのは、心身の鎮静効果を持つローズというお薬ですが。動き回ると早く抜けるかも」
「ふ、ふざけるな」
茶碗を手放し、歯ぎしりしながらさとりを睨みつける。しかしその姿は正邪の視界の中で、二重にぼやけて見えた。
「これまで余程心休まらない時間を過ごしたのでしょうね。これまで前借りしていた元気が、紅茶を飲んで体を温めたことで一気に返済されたのです」
パン、パン。さとりが二回手を打つと、背後から扉の開く音がした。侍従らしき獣人が二人、正邪の両脇に歩み寄る。
「空いてない部屋に案内させます。床へ適当に転がして寝かすので精一杯抵抗するがいいわ」
「余計なことを、するな」
両脇を抱えられるが、自分でも驚くくらいに手足が、全身が鉛と化している。抵抗の気力が、あっという間にしおれていった。
「サトリ妖怪の屋敷に乗り込んだことを、心底後悔させて差し上げますわ。ここは、旧都よりもさらにひどい場所なのですから」
侍従に歩かされながら、遠ざかるさとりの声を聞く。
朦朧とした意識の中、正邪は彼女の言葉に軽い困惑を覚えていた。
――後悔? 旧都よりもひどい? そんな、いったい、どうして――
§
意識が回復してくるにつれ、どこかに追放されていた全身の感覚も舞い戻ってくる。
その中で正邪が感じたのは、気を失う以前に感じていたものよりもさらに強烈な疲労。そして全身を優しく包み込む暖かく柔らかい何かと、奇妙な浮遊感だった。
目を閉じたまま、シナプスの絡み合いを待つ。
自身がなぜこんな場所にいるのか、思い出すことすら難しい。
巨大な屋敷に忍び込み――主人と名乗るサトリ妖怪と出くわし――向かい合って茶を飲んで――それから――
情けないことに、一宿の部屋を貸し与えられた。
なんたる屈辱か。妖怪の善意に甘えることになるとは。
とはいえ、サトリ妖怪は正邪に出て行くよう促していただけだ。
その真逆を走っていたら、いつの間にかこうなっていた。
気に入らない。
気に入らないけれど。
動けない。というか動きたくない。
自らの意思にすら逆らう天邪鬼が抗えないほどの、強烈な怠惰が体にまとわりついている。
こんなに十全の状態で休んだのは、何日ぶりだっただろうか?
――いかん。
――飲まれるな。思い出せ。
――私は反逆者だ。幻想郷の全てに抗う者だ。
――その私が、誰かの施しに縋るなど――
意を決して両目を開ける。
最初に見えたのは、黒い天井だった。
しかしそれはよく見れば光の加減で、常夜のほのかなランプに照らされた部屋は白亜である。
あのさとりの部屋とは比べ物にならないほど装飾は単純で、実用性に満ちている。
そして正邪自身はといえばさとりの言葉とは裏腹な布団の上に、毛布をかけられた状態で寝かされていた。
ずいぶんと分厚い布団である。そして恐ろしいほど柔らかい。
加えて、毛布の方も羽のように軽く、暖かで――
「――くそっ」
なけなしの気力を振り絞って体を起こす。全身が軋みを上げた。
悔しいことに、さとりの言うことは本当だったらしい。心身を休めたことで、体に蓄積されていた疲労が一気に表舞台へと躍り出たのだ。
布団の上に上半身を起こしたところで、正邪は微妙な薄ら寒さと視界に映る自らの姿に新たな違和感を覚える。
――なんで裸なんだよ。
薄い肌着一枚を残して、彼女の服は全て剥ぎ取られていた。
上着を探して周囲を見回すが、簡素な調度品を除けば目ぼしいものは皆無。
「あなたの服は素敵な有様でしたので、クチュールに言ってひどく仕立て直しています」
引き戸が揺れる音。見れば部屋の入り口らしき場所に、小さな盆を抱えたさとりが立っている。
彼女はそのまま正邪に歩み寄ると、傍らの小卓を引き寄せてその上に盆を置いた。
湯気の立つ吸い物の皿。茶色い雲のような物体が二つばかり。
「頼みもしないのに、脱がせたのか。寝てる間に変なことしてないだろうな?」
「しましたよ? 汚れていたので体を拭いたりとか。女の子のお大事までしっかりと」
「この助平!」
「ともあれセンスの最悪な代わりの服を見立てたので、後で持ってきます。裸で走り回っても構いませんが。それからこちら、とびきり不味い朝食なので食べないように」
「それをわざわざ持ってくるたあ、大した嫌がらせだな」
悪態に構わず、さとりはそっぽを向く。
「あとこの部屋を出て右に曲がって突き当たりに、身も心も凍てつくようなお風呂があります。入るのはとてもお勧めできない――それでも行くならそこのクロゼットに野暮ったいガウンがありますので使わないように」
「あー、はいはい」
さとりが部屋を出て行くのを見送ると、正邪は歯軋りした。
気に入らない。気に入らない。気に入らない。
なんだかんだで完全に手玉に取られている感触が、ことごとく気に入らない。
打開する方法はわかっている。さとりの指示を、全て言葉通りに聞けばいいだけだ。
しかしそれは、天邪鬼としての自分を否定する行為でもある。
正邪が忠実であるものはただ一つ。自分のサガに対してだけだ。
――落ち着け。こんな屈辱はいつまでも続くはずがない。
十分に休んだ恩恵か、正邪の思考は冴え渡っていた。
――例え根源は同じ妖怪であったとしても、あいつはサトリ妖怪であって天邪鬼ではない。全てをひっくり返して命令するなんて、いつまでもできてたまるものか。
――だから、いつかはきっとぼろを出す。その時がサトリ妖怪、貴様の最期となるだろう。
――せいぜいその時までに、首をしっかり洗っておくがいい!
グゴゴゴゴゴゴゴゴゴ。
大地の鳴動かと聞き違えるような重低音が、正邪の耳に届く。
音源は何を隠そう、正邪自身の腹である。
彼女は布団の上でしばし硬直し――やがて横から漂ってくる小麦の香りと熱に体を動かされた。
無言で茶色い塊を手に取り、食いちぎる。小麦の風味と甘さが口の中に広がった。
満遍なく咀嚼、嚥下した後に二口目を口に運ぶ。徐々に早まっていくその反復行動。
――その前に、その前にまずは腹ごしらえだ。とびきり不味くたって構うもんか!
「言い忘れましたが、空きっ腹にはもっと早いペースでかき込んだ方が健康にいいですわ」
「いい加減出てけー!」
§
かぽーん。
誰かがおあつらえ向きに打ち鳴らしたとか思えない盥の音が、空間を反響する。
白い湯気の中その正体は窺い知れない。正邪は湯船の縁に腕を投げ出したまま、唇を尖らせた。
「くっそ最悪の気分だ」
湯の中で足をばたつかせる。
本当はもっとお行儀悪く湯船に浸かりたいのだ。しかし目の前に広がる湯船はあまりにも広く、つま先をうんと伸ばしても湯船のもう片端に全く届かない。
「お背中はご自分で流してくださいね」
「流せ」
§
大きな姿見に映った自身の姿を、正邪はあんぐりと口を開けたままかれこれ数分ほど眺めていた。
鏡像の背後から、さとりがひょっこりと顔を出す。
「あまりの醜さに途方にくれましたか?」
「そ、そんなわけがあるぞ。それに裾が長くて動き辛くて、肌に合わん」
黒い、ひらひらとした布がいっぱいにまとわりついたドレスの裾を弄ぶ。さとりはその隣に立ち、渋い顔で正邪の晴れ姿をしげしげと眺めた。
「気に入らないなら代わりを用意しますが。きっともっと似合わず、醜いものになること請け合いですわ」
「いらん」
「そうですか、それは喜ばしい。ではせめて、手入れの行き届いておらず癖だらけの美しいこの髪を醜く飾り直させていただきましょうか」
「いらんてマジで」
§
地霊殿の中庭は、地底の特異まみれのこの屋敷においてもいっそう特異な場所であった。
陽光が届かない場所にもかかわらずほの暖かさと光に満ちて、青々とした芝生が生い茂る。
その中に紅白のバラが整然と並んで迷路を作り、合間を犬猫が走り回っていた。
忍び込んだ時は一匹も見当たらなかったはずなのに。
「楽しそうにしてやがる。いっそここを荒らし回って、私好みにしてくれようか」
「それは楽しそうですわね」
淀みなく言い切るさとりの声に、苛立ちが募る。
「ちょうどうちの庭師たちが、庭園の新しいデザインを検討中ですの。でもちょっと大掛かりでして。荒らしていただけると、作業がきっとスムーズになりますわ」
「やるかっての。精々苦労して庭を作り直しやがれ」
「気が向いたら存分にお暴れくださいな。うちの庭には棘のある植物が多いですから、その格好で暴れ回ると服が破れていっそう似合いの格好になりますわ」
「――服の仕立て直しとやらは、いつになったら終わるんだい」
§
広い部屋の奥にはさとりの小柄な体躯に似合わない大きさの文机があつらえられており、さとり自身はそこに座って羽ペンを走らせている。
正邪は椅子の背もたれに顎を乗せて、その様子をぼんやりと眺めた。
「さっきから何書いてんだよ」
「趣味の一環ですよ。あなたが騒ぐとなお筆が捗ります」
「やせ我慢は体の毒だ」
釜をかけてみるが、サトリ妖怪はやはり動じない。
「嘘は言っていませんよ。心が読める私にとって、この世界は四六時中雑音に満ちています。特にあなたの記憶。直近に体験した弾幕の数々は、まるでおもちゃ箱のよう」
「ああ、楽しかったねえ。楽しすぎてとっとと忘れたい体験だ」
「その楽しさは、恐らくこれからの日常になるでしょう」
さとりが顔を上げる。相変わらず表情に一片の笑みもない。
深い闇を湛えたような瞳に、一瞬だけ気圧された。
「外に出てあなたを待つものは、楽しい不可能弾幕と闘争の繰り返し。どこへ行ってもどこへ隠れても、それは永遠に続くでしょう。逃れる方法はあなたが世界をひっくり返すか、あなたが世界にひっくり返されるかのどちらか一つ」
「ひっくり返るまで、逃げ続けてやるさ」
「やはりあなたはそう言うのでしょうね。その先にどんな結末が待ち構えていようとも」
視線を外し、卓上の羊皮紙との格闘を再開する。
「間もなく、服の修繕は終わるでしょう。それを受け取ったら、好きに出て行って構いませんので」
「そんな命令を、私が素直に聞いてやると思うか?」
「思ってますとも」
正邪が口に、残忍な牙を覗かせる。
「気の済むまで居座ってやる。この館には追っ手も入って来たがらないようだし、都合がいい。お前はそれまでの間、ずっと私の面倒を見続けなければならんのだ。せいぜい覚悟しておけ」
しばらく、ペンの走る音だけが部屋に満ちた。
「そうですか。それは残念です」
§
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§
「いや、ちょっと待て。いくらなんでも馴染み過ぎだろう!」
正邪がふと我に返った時、彼女は庭園に出て枝切り鋏を手に、鼻歌交じりで薔薇の剪定に勤しんでいるところだった。
必死にここまで至る経緯を思い出そうとする。言葉巧みに彼女の振る舞いを次々に許していくさとりの言動。外へ出ていくのに反発し、暴れるのに反発し、住人たちの平穏を乱すのに反発して――現在に至る。
――なんだ。
――私は何をしている? こんなところでのんびりと庭師の真似事をするのが、私の望んだことか?
――違う。断じて違う。
――私はもっと大きな野望のために、反逆者となったんだ!
苛立ち紛れに、頭に乗せた麦わら帽子をかなぐり捨てて髪をかきむしる。
――なぜだ。
――なぜ奴は、私をこの場に留め置く方向に誘引する?
気を落ち着け、深呼吸して考える、思い出す。
さとりに許可され続け、それに反発し続けた結果、何が残ったか。
息詰まる安息の日々。不味い食事。ぬるい風呂。――波乱の生活。
それらの要素から正邪が思い至った結論は、一つだった。
「堕落か!」
悔しみに拳を打ち合わせる。天邪鬼を堕落させ地霊殿の一住民に貶めることこそ、サトリ妖怪の真の目的に違いあるまい。そしてもしかするとその先に待ち構えているのは、油断と捕縛。だらけ切った状態で体に縄をかけられれば、きっとひとたまりもない。
そうとわかれば、もはやさとりの言葉に耳を貸すべきではないだろう。耳を塞いででも、ここから逃げ出してしまわねば。
庭園を抜け出し、屋敷を迂回して正門に出る。そうだ、何を悩む必要があろう。さとりの真の狙いに反逆すれば、こんな館を抜け出すことなど造作もない。
番犬たちの鳴き声を無視して、石造りの正門に彼女は立った。鉄細工の門は簡素な閂で内側から施錠されるのみで、正邪の開門行為になんら抵抗の意思を示さない。
門を全開にする。
正邪がその真ん中に立つ。
簡単なことだ。あとはここから一歩を踏み出せば、自分は晴れて自由の身――
――おかしい。
奇妙な事象に正邪は戸惑った。
左右を見る。石造りの門柱が彼女を挟み込んでいる。
首を動かす。思う通りに左右に振れる。
腕を動かす。振るも回すも思うがままだ。
足を動かす。地面から離れる。ダンスだってきっと踊れる。
だったら、どうして。
自分は門から先への一歩を踏み出すことができないのか?
目の前にあるのは、壁ではない。旧都の市街へと続く街路だ。目の前に不可視の障壁があって、彼女の動きを遮っているなんてこともない。
なのに、なぜか。足が前に進まない。
「は。冗談だろう。こいつは何かの暗示か? あのサトリ妖怪ならやりかねんが」
「もちろん、彼女はそんなことなどしちゃいませんよ」
横合いから聞こえた声に、心臓を掴まれる思いがした。
脂汗を流しながら門柱の影を見る。今まさに、正邪をも恐怖させた存在が顔を出したところ。
両手に笏を携えた、楽園の閻魔が。
「ご苦労なこった。わざわざ私がここから出てくるのを待ち構えていたのか」
「私の仕事は、それほど暇ではありません。ただ、あなたの気分が黒に振れる頃合いだと見て、再びやって来たまでのこと。あなたに警句を授けにね」
「警句だと?」
閻魔はやすやすと正邪の脇をすり抜けて、地霊殿の敷地内に入る。
「サトリ妖怪の領域に足を踏み入れる。逆に出ていく。どちらも難しいことではありません。なのにあなたがそれに踏み切れない理由は、あなた自身がよく理解しているはず」
「――なんのことやら」
「地霊殿から外に出れば、あなたは終わりなき弾幕地獄に苛まれることとなるでしょう。手に入れた力ある道具の魔力はほどなく尽きて、あなたは繰り返し不可能弾幕に打ち据えられる。反逆の成功など、夢のまた夢。あなたはその運命を拒絶しているに過ぎない」
正邪の顎の下で汗が雫を作り、ぼたりと落ちた。
「そう。あなたは少し現実に目を背けすぎる。地霊殿で過ごしたわずかな期間は、あなたにとって久方ぶりに心休まる時であったはず。あなたはそれを自らの手で踏みにじろうとしている。あなた自身が、そのことに気がついていないはずがない」
「私は――」
「だとすればあなたがそこから一歩を進められない理由は、極めて容易に導き出せます。外に出られないのではなく、あなたは」
「黙れ!」
拒絶の叫びだった。
閻魔の言葉、そして、自分自身に対して。
正邪の体が、高く宙を舞う。
カチリ。
サンダルの音とは明らかに異なる音とともに、再び地上へ降り立った。
場所は、一メートルほど正門から出たあたり。
血走った目が、閻魔を睨みつける。
「私は反逆者だ! 天邪鬼を、我が生き方を変えるつもりはない!」
その言葉を最後に、彼女は走り出してあっという間に旧都の市街に消えていった。
閻魔はその場に立ち尽くしたまま、正邪の立ち去った方角をしばし見守る。
「私の話は、まだ途中だったのですけどね。生粋の天邪鬼であることは評価に値するかもしれませんが――やはり、駄目です。あなたは分相応という言葉を知るべきだった。それにあなたは、稀有な存在だったのですよ? 最悪と恐れられたここの家主が、久方ぶりにまともに対応した者として」
視線の向こう側から何条かの閃光が走り、断続的な弾幕射出音が次いでやってくる。
「始まりましたね。刺激に飢えた旧都の住人からは、そうやすやすと逃れられないでしょうに。では、私も参りますか――すぐそこに上級の罪人がいる。救わねば」
楽園の閻魔が、正邪の軌跡を追って歩き出した。
§
§
騒がしい闖入者が地霊殿を去ってから数日。
いつもと変わらない景色。大好きなハートのレリーフと刺繍で満たされた部屋で、さとりはいつもと変わらず書斎机につき羽ペンを走らせている。
いつもと変わらない日常。さとりが手を止めると同時、それはいったん中断された。柏手を鳴らして、家事担当ペットを呼び出す。
「一番上等なローズティーを準備なさい。ティーセットは二人分」
手短に申しつけると、彼女は机に両肘をついて呟いた。
「さてと意外に早かったか。今回は何日居座るかしらね――まあ、天邪鬼にはそう長く耐えられないでしょうけれど。
幻想郷は全てを受け入れる。それはそれは残酷な話ですわ――だったかしら。まったく、糞っ食らえだわ」
口元を手で隠して、静かな笑みを咬み殺す。
閻魔を介して妖怪の賢者が反逆者の捕獲を依頼してきたのが、数週間ほど前の話。暴力的な手段を以って引き止めるのが不可能なのは、彼女の闘いを顧みれば火を見るより明らかだった。さとりは奇策を講じたが、正邪をわずかな期間地霊殿へ留めるに終わっている。
しかし、それもある程度は計算ずくだ。その間に賢者が別の手を打っていることくらい、さとりにも閻魔にもお見通しであったのだから。
「腐れ賢者が定義したシステムは、もはやあなたを捉えて離さない。でも、いいわ。いつでもおいでなさい。あなたが反逆者である限り、この地霊殿はいつでもあなたの休憩場として機能し続ける。あいつの決め事なんて、ドブにでも捨てておけばいい」
ぴしゃり。両の頬を自身の手で叩く。同時にさとりの表情から笑みは消え、不機嫌が充満していく。
テラスに続く通用口が開け放たれたのは、そのすぐ後だった。さとりは三つの目で戸口に立つ影に一瞥をくれる。
「素敵な格好ですこと」
それは体を引きずるようにして、部屋の中に入り込んできた。背後に血の跡が点々と続く。
服と呼ぶのもおこがましいほどのボロ布を辛うじて身につけたそれは、さとりの注視もお構いなしで部屋の中を見回し、やがて接客用のテーブルセットに目を留めた。椅子の一つを引き寄せ、体を投げ出すように座り込む。
額から血を流すがまま、視線を泳がせさとりの姿を捉える。それはゆっくりとさとりに向けて笑みのようなものを浮かべると、口を開いた――
幻想で穿たれた地底のドームはどこからともなく、低く不吉なごうごうという音を響かせていた。音の正体は、風か。それともこの地底を永遠にさまよい続ける怨霊どもの怨嗟の声か。
「なーんて詩的な感傷に浸ってる余裕は、こっちにはないんだっつうの」
壁に手をついて一人毒づく少女が一人。黒髪から二本の短い角を生やした小鬼だ。モノクロ基調のワンピースはいたる所が擦り切れており、本人も肩で息をして疲弊の様子を隠せない。泥に塗れた顔を上げ、ぎらついた真紅の瞳を周囲に走らせる。
「ようやく、撒けたか。どいつもこいつも楽しそうに挑みかかってきやがって」
彼女の名は鬼人正邪。幻想郷きってのお尋ね者である。
彼女がいかにして追われる身の上になったのか、ここではあえて語るまい。とにかく彼女は地上に安息の場がなくなって、ついに札付きの嫌われ者妖怪が集う地底に足を踏み込まざるを得なくなった。だが三度の飯より喧嘩好きな旧都の住人どもが、ありとあらゆる妖怪の追跡をかわし続けたこの新参者を見逃すはずもない。各地でさんざ絡まれ続けた結果がご覧の有様だ。
「それで、ここはいったい誰のお屋敷だ?」
一息ついたお陰で、正邪の脳裏に冷水が注入された。どこへ行ってもどんちゃん騒ぎだった旧都の市街に比べると、ここは驚くほど人気がない。旧都の奥も奥、中心に位置する場所のはずだというのに、まるで台風の目に入り込んだかのようだ。
そして彼女の言うとおり、手をついていたのはただの壁ではなく、背の高い塀であった。
旧都市街とは趣の異なる邸宅である。純和風の木造建築を主とする市街に対して、頑健で継ぎ目のない石のような素材の塀が左右の両端を見渡せないほど延々と続いていた。
しかしそんなものより、正邪の目に止まったものがある。
[立入禁止! 番犬を放し飼いにしています]
壁の貼り紙に、うなじのあたりがぴりぴりするのを感じた。よく見ると、そんな貼り紙は塀の一面に等間隔で張り出されているのだ。
[危険、入るな]
[とっとと帰れ]
[GO TO HOME]
「なんだい、こいつは。どうやら相当中に入ってほしいと見える」
正邪は舌舐めずりする。彼女がこの貼り紙に興味を抱く理由は二つ。一つは彼女が筋金入りの天邪鬼であるから。白を黒と言い、旨いを不味いと言い、他者の命令にはことごとく逆らう。禁止と言われては立ち入らずにいられない。
そしてもう一つの理由は、彼女の背後から獲物を追い詰める餓狼のように近づいてきていた。
張り詰めた空気。全ての正逆を許さない、恐ろしい気配が全身の毛を逆立たせる。追っ手は未だ撒けていなかった。
「背に腹は変えられん。これだけでかい屋敷なら、潜り込む場所の一つや二つあるだろうよ」
身を隠す場所は限られている。正邪は意を決してポケットから小さな提灯を取り出した。広げると勝手に火が灯り、同時に彼女の姿が薄く透けていく。
「番犬だかなんだか知らんが、幽霊と化したこの身を嗅ぎつけることはかなうまい」
やおら塀に突撃する。激突、はせずに正邪の体は遮られることなく壁を通り抜け、内部へと消えた。
跡形もなく無人となった塀の前に、一歩遅れて追っ手が現れる。詰襟の青いベスト、天秤の帽章を頂く冠。
その少女は、たった今正邪が潜り込んだ壁を眺め、少しだけ思案した。
「どうにか元の鞘に収まって何より、というところですか。あとは家主の手腕次第ですね」
§
館の中は不気味な静寂に包まれていた。
見たこともない造形の石でできた壁と床、その合間を青白い怨霊が呻き声を上げながら飛び回っている。石張りの床には等間隔で三本足の鴉が描かれた色硝子が並び、それらがどういう原理でか明滅を繰り返す。
「なんだい。立入禁止ってほど危ないものでもないじゃないか」
意気揚々と正邪は通路の真ん中を歩く。元よりこれまで挑みかかってきた敵は、先ほどの「亡霊の送り提灯」を始めとするイカサマ道具の数々を駆使して返り討ちにしてきた。どんな危険が襲いかかってこようと、切り抜ける自信が彼女にはある。
「番犬とやらの姿も見えなかったし、どうなってるんだか――誰か住人をとっ捕まえて、この館のことを聞き出さないといけないが」
おあつらえ向きに、扉に行き当たった。小さな戸口は高い天井にあまりに不釣り合いだが、隠れ場所にはちょうどいいように思える。
客室か。誰かが使っている個室か。入念に見極めなければならない。扉を観察しようと近づいたところで、早々に見つかったものがある。
[どうぞ おはいりください]
そんなことが書かれた板が、扉に据え付けられた鉤にぶら下がっている。
当然、正邪はそれを訝しんだ。立入禁止の次に現れたのが、これである。入ったらどうなるというのだ。
ドアの取っ手に手をかけて、しばらく逡巡した。結局押しも引きもせずに、手を放す。
「畜生め、その手は食わんぞ。きっと何かの罠に決まってる」
足早に扉を離れる。次の扉は程なく、二本の柱を通り過ぎた先に見つかった。しかしやはり目の高さにかかっている板が、目を奪いにくる。
[大歓迎]
また正邪のうなじを痺れさせる言葉が現れた。
内部の様子に聞き耳を立て、しばらく扉越しに様子を見守り、幾つかのイカサマ道具を見繕ったが、結局扉から離れる。
まさか全ての扉がこのような感じなのでは。そう疑り始めた正邪の前に、次の扉が現れる。
[いつでもウェルカム]無視。
[ようこそいらっしゃいました]無視。
[よっしゃーばっちこーい]やはり無視。
これでは外の張り紙と全く正反対ではないか。追い出したいのか迎え入れたいのか、どちらなのだろう。正邪は軽い混乱に陥る。
全ての扉を通り過ぎているうちに通路の行き止まりが見えてきた。突き当たりにも扉が一つ。
これも入室を促す伝言つきだろうか。しかし遠巻きから見ても明らかにその扉は他のものと趣が異なっていた。
扉の両脇に立てられた黒い燭台。台座は本物を削って作ったと見える髑髏だ。
燭台の前には大柄な鳥が二羽。頭部の半面を覆うほどの巨大な嘴を持ち、威圧感溢れる目線で正邪の接近を微動だにせず睨みつけている。
さらには扉の縁に沿って茨の蔦が這っていた。生え揃う棘は刺さりそうなほど鋭い。
そして扉の前に朱色の毛書で書かれた言葉は、見間違えようもなく。
[絶対入室禁止]
「――いい趣味だな、こりゃ」
正邪は歯を剥き出して笑うが、その口元は明らかに引きつっていた。
こんな全身全霊で入室を拒絶する入り口は、さしもの正邪も初めて目にする。ちなみにあえて緩い朱を使ったと見え、毛書文字のあちこちからそれらが垂れ下がる様子は血のしたたりのようだ。
扉の前まで歩み寄っても門番らしき鳥たち――ハシビロコウという名の珍鳥だと、正邪は後で知った――が襲いかかってくる様子はない。入るべきか、入らざるべきか。
これほど厳重に入室を禁じるのは、相当の値打ちものでも置かれているのかそれとも危険な住人がいるのか。いずれにせよこの館の住人が近づかないなら好都合。何らかの危険が部屋の中にあったところで、蹴散らしてやればよい。あの逃走と闘争の十日間のように。
扉の取っ手に手をかけ、いくばくかの試行錯誤。扉との接点を軸に回転させれば動くことを理解したところで、一気に奥へと押し込む。
何の抵抗もなく開かれる扉。淡い光が漏れ出してきた。
外とは打って変わった光景が、目の前に広がる。ハートを基調とした刺繍やレリーフが壁一面に、家具に所狭しと敷き詰められていた。
「薄気味の悪い部屋だなあ」
「あら、それは本音で仰ってますね? 趣向の違いかしら」
部屋の奥から、声。見れば、真っ白い円卓に一人の少女が腰掛けている。ゆったりとした青いシャツを身につけた、癖のある短い髪の彼女は、釣鐘を逆さにしたような茶碗に茶を注いでいる。
「誰だ、あんた」
「ここの家主ですが? 先に誰かを聞くのは、私だと思うんですけどね。不法侵入者を相手にとびきり不味いお茶を飲む趣味はないので、即刻出て行っていただきたいのですが」
「不味いお茶だって。そいつは私好みだな」
相手に有無を言わさず襲いかかってくる意思がないと見るや、正邪は途端に大胆になった。円卓まで大股で歩み寄って、少女の正面に腰掛ける。
卓の上には、なぜか空の茶碗がもう一つ置かれていた。少女は正邪を一瞥するや、それを手元に引き寄せてもう一杯を注ぎ始めた。白い湯気と共に、ほのかな甘い香りが漂う。
「出て行ってもらいたいと言っているのにお茶をせびろうとするなんて、猛々しい盗っ人もいたものです。これだから天邪鬼は嫌だわ」
「有名かね、私は」
「あなたが外で何をしてきたかなんて、私の知ったこっちゃありません。あなたのことはたった今知ったのですよ、鬼人正邪さん」
「なんだって?」
少女が不躾に取っ手のついた茶碗を差し出してくる。
「もう一度言いますがとびきり不味いです。体に悪い毒や薬がたくさん入っています。冷たいので一気にがっつりいっちゃってください」
「湯気が立つとは、大した冷たさだ」
茶碗の取っ手を摘み上げて口元に引き寄せ、無遠慮に匂いを嗅ぐ。臭みもえぐみもない純粋な花蜜の香りは、新鮮だった。
ずず、と音を立てて赤味がかった液体を啜る。微かな甘味と酸味のある暖かい感触が、喉元を通り過ぎた。逃走に次ぐ逃走でささくれだった神経が修復されていくような感触。
「なんだよ、これ。本当に――不味いじゃないか」
「だから最初からそう申し上げました。申し遅れましたが私は古明地さとり。界隈では地底一の嫌われ者だとか、地獄の引きこもりニート小説オタクとか呼ばれておりますわ」
ガチャリ、と手元で茶碗が鳴った。
よく見れば古明地さとりと名乗る少女の胸元には異なものがある。こぶし大の赤い球体。眼球が埋め込まれており、赤い瞳が正邪の姿を凝視していた。
「さとりだって。あのサトリ妖怪だってのか、あんたが」
「知らずにここまで潜り込んだのですか。いかにも私が第三の眼で心を読むので皆からゴミ屑のごとくに嫌われているサトリ妖怪です。ちなみにこちらはとびきり不味いお茶請けですので、食べてはいけませんよ」
さとりが差し出したのは、小皿に乗せられた狐色の小片だった。小麦粉か何かを練って平たく伸ばして焼いたものか。ほのかに牛乳と油脂の匂いが漂ってくる。
「そいつはどうも、いただこうか――って何か調子狂うなあ。あんたさっきから、その、なんだ」
「逃げ道を塞がれてるみたいな気がしますか? そんなことはありませんよ、あなたには今すぐ悲鳴を上げてこの館から逃げ出す道が残されている」
「だ、誰がそんな無様な真似を」
腹立ち紛れに菓子を手に取り、乱雑に噛み砕く。小片はあっさりと口の中で砕け、砂糖を舐め溶かしたかのように粒状感のない甘味が口の中に広がった。硬直する正邪。
「お、おいなんだこれ。これのどこが――不味い、じゃないか」
「はい、それも先ほど申し上げました」
「おちょくりやがって、あんまり私を甘く見るなよ。サトリ妖怪なんざ全然怖くもなんともない。心が読めるってんなら、私がこれまでどんな妖怪を倒して来たかも知ってるはずだ」
「ええそれはもう。並み居る幻想郷の列強を、集めた道具と持ち前の小狡さを駆使して撃退し、ついにはここまで逃げて来たのですね。ついでに私も倒して、あわよくばこの地霊殿に居座ろうとも考えていらっしゃる。やってみますか? 勝てば晴れて地霊殿の新たな主として、数多の怨霊とペットたちの世話がついてきますよ」
「そんな面倒臭いこと、誰がやるか――ああ、畜生。さっきからおかしな理由がようやくわかってきたぞ」
「何がおかしいというのですか?」
この間、さとりの不機嫌な表情は一片も崩れない。
「私はただ、あなたの望んでいることの一部を次々に『許可』しているだけだというのに」
「それだ問題は。私が天邪鬼だと知っててなぜ許す。私は許されるのが大嫌いなんだ」
「当然、知っててやってますわ? 天邪鬼の相手はこれが一番ですからね」
「気に入らねえなあ。だいたいあんたの能力は心を読むだけだろう。なぜ真逆の言葉を軽々と扱える」
「あら。もしかしてご存じないのかしら? 天邪鬼は人間の嫌がることをするのが大好き。だからそんな天邪鬼の中には、心を読む能力を持つ者がいたようですわ」
正邪は、言葉を失った。
立て肘をついて、さとりが彼女の顔を三つの目で凝視する。
「そう。私達、根っこは同じところにあるのですよ。姉妹とまではいきませんが、従姉妹くらいの間柄かもしれませんね、私達。だからかしら、あなたとの接し方は手に取るように分かる――どうぞ『剣呑に』お付き合いいたしましょう?」
鳥肌が立つのを感じた。思わず茶碗を両手で握りしめる。
「あー、そういうのはさすがに遠慮だ。趣味に合わん」
「そうかしら? 小人の姫君とは良好にやってたみたいですが」
「あれは、私が奴をおだてこき使っていただけだ。今はもう不要になった。何せ今の私にかなう奴なんて、幻想郷のどこにもいないんだからな――」
もう一度、茶に口をつけながら正邪は違和感を感じた。
頭が、体がひどく重いのだ。自分自身のゼンマイ仕掛けが止まってしまうような感触。
手にした茶碗を一瞥し、さとりを睨む。
「貴様。まさか本当に薬を盛ったのか」
「だから言っているじゃないですか。ちなみに入っているのは、心身の鎮静効果を持つローズというお薬ですが。動き回ると早く抜けるかも」
「ふ、ふざけるな」
茶碗を手放し、歯ぎしりしながらさとりを睨みつける。しかしその姿は正邪の視界の中で、二重にぼやけて見えた。
「これまで余程心休まらない時間を過ごしたのでしょうね。これまで前借りしていた元気が、紅茶を飲んで体を温めたことで一気に返済されたのです」
パン、パン。さとりが二回手を打つと、背後から扉の開く音がした。侍従らしき獣人が二人、正邪の両脇に歩み寄る。
「空いてない部屋に案内させます。床へ適当に転がして寝かすので精一杯抵抗するがいいわ」
「余計なことを、するな」
両脇を抱えられるが、自分でも驚くくらいに手足が、全身が鉛と化している。抵抗の気力が、あっという間にしおれていった。
「サトリ妖怪の屋敷に乗り込んだことを、心底後悔させて差し上げますわ。ここは、旧都よりもさらにひどい場所なのですから」
侍従に歩かされながら、遠ざかるさとりの声を聞く。
朦朧とした意識の中、正邪は彼女の言葉に軽い困惑を覚えていた。
――後悔? 旧都よりもひどい? そんな、いったい、どうして――
§
意識が回復してくるにつれ、どこかに追放されていた全身の感覚も舞い戻ってくる。
その中で正邪が感じたのは、気を失う以前に感じていたものよりもさらに強烈な疲労。そして全身を優しく包み込む暖かく柔らかい何かと、奇妙な浮遊感だった。
目を閉じたまま、シナプスの絡み合いを待つ。
自身がなぜこんな場所にいるのか、思い出すことすら難しい。
巨大な屋敷に忍び込み――主人と名乗るサトリ妖怪と出くわし――向かい合って茶を飲んで――それから――
情けないことに、一宿の部屋を貸し与えられた。
なんたる屈辱か。妖怪の善意に甘えることになるとは。
とはいえ、サトリ妖怪は正邪に出て行くよう促していただけだ。
その真逆を走っていたら、いつの間にかこうなっていた。
気に入らない。
気に入らないけれど。
動けない。というか動きたくない。
自らの意思にすら逆らう天邪鬼が抗えないほどの、強烈な怠惰が体にまとわりついている。
こんなに十全の状態で休んだのは、何日ぶりだっただろうか?
――いかん。
――飲まれるな。思い出せ。
――私は反逆者だ。幻想郷の全てに抗う者だ。
――その私が、誰かの施しに縋るなど――
意を決して両目を開ける。
最初に見えたのは、黒い天井だった。
しかしそれはよく見れば光の加減で、常夜のほのかなランプに照らされた部屋は白亜である。
あのさとりの部屋とは比べ物にならないほど装飾は単純で、実用性に満ちている。
そして正邪自身はといえばさとりの言葉とは裏腹な布団の上に、毛布をかけられた状態で寝かされていた。
ずいぶんと分厚い布団である。そして恐ろしいほど柔らかい。
加えて、毛布の方も羽のように軽く、暖かで――
「――くそっ」
なけなしの気力を振り絞って体を起こす。全身が軋みを上げた。
悔しいことに、さとりの言うことは本当だったらしい。心身を休めたことで、体に蓄積されていた疲労が一気に表舞台へと躍り出たのだ。
布団の上に上半身を起こしたところで、正邪は微妙な薄ら寒さと視界に映る自らの姿に新たな違和感を覚える。
――なんで裸なんだよ。
薄い肌着一枚を残して、彼女の服は全て剥ぎ取られていた。
上着を探して周囲を見回すが、簡素な調度品を除けば目ぼしいものは皆無。
「あなたの服は素敵な有様でしたので、クチュールに言ってひどく仕立て直しています」
引き戸が揺れる音。見れば部屋の入り口らしき場所に、小さな盆を抱えたさとりが立っている。
彼女はそのまま正邪に歩み寄ると、傍らの小卓を引き寄せてその上に盆を置いた。
湯気の立つ吸い物の皿。茶色い雲のような物体が二つばかり。
「頼みもしないのに、脱がせたのか。寝てる間に変なことしてないだろうな?」
「しましたよ? 汚れていたので体を拭いたりとか。女の子のお大事までしっかりと」
「この助平!」
「ともあれセンスの最悪な代わりの服を見立てたので、後で持ってきます。裸で走り回っても構いませんが。それからこちら、とびきり不味い朝食なので食べないように」
「それをわざわざ持ってくるたあ、大した嫌がらせだな」
悪態に構わず、さとりはそっぽを向く。
「あとこの部屋を出て右に曲がって突き当たりに、身も心も凍てつくようなお風呂があります。入るのはとてもお勧めできない――それでも行くならそこのクロゼットに野暮ったいガウンがありますので使わないように」
「あー、はいはい」
さとりが部屋を出て行くのを見送ると、正邪は歯軋りした。
気に入らない。気に入らない。気に入らない。
なんだかんだで完全に手玉に取られている感触が、ことごとく気に入らない。
打開する方法はわかっている。さとりの指示を、全て言葉通りに聞けばいいだけだ。
しかしそれは、天邪鬼としての自分を否定する行為でもある。
正邪が忠実であるものはただ一つ。自分のサガに対してだけだ。
――落ち着け。こんな屈辱はいつまでも続くはずがない。
十分に休んだ恩恵か、正邪の思考は冴え渡っていた。
――例え根源は同じ妖怪であったとしても、あいつはサトリ妖怪であって天邪鬼ではない。全てをひっくり返して命令するなんて、いつまでもできてたまるものか。
――だから、いつかはきっとぼろを出す。その時がサトリ妖怪、貴様の最期となるだろう。
――せいぜいその時までに、首をしっかり洗っておくがいい!
グゴゴゴゴゴゴゴゴゴ。
大地の鳴動かと聞き違えるような重低音が、正邪の耳に届く。
音源は何を隠そう、正邪自身の腹である。
彼女は布団の上でしばし硬直し――やがて横から漂ってくる小麦の香りと熱に体を動かされた。
無言で茶色い塊を手に取り、食いちぎる。小麦の風味と甘さが口の中に広がった。
満遍なく咀嚼、嚥下した後に二口目を口に運ぶ。徐々に早まっていくその反復行動。
――その前に、その前にまずは腹ごしらえだ。とびきり不味くたって構うもんか!
「言い忘れましたが、空きっ腹にはもっと早いペースでかき込んだ方が健康にいいですわ」
「いい加減出てけー!」
§
かぽーん。
誰かがおあつらえ向きに打ち鳴らしたとか思えない盥の音が、空間を反響する。
白い湯気の中その正体は窺い知れない。正邪は湯船の縁に腕を投げ出したまま、唇を尖らせた。
「くっそ最悪の気分だ」
湯の中で足をばたつかせる。
本当はもっとお行儀悪く湯船に浸かりたいのだ。しかし目の前に広がる湯船はあまりにも広く、つま先をうんと伸ばしても湯船のもう片端に全く届かない。
「お背中はご自分で流してくださいね」
「流せ」
§
大きな姿見に映った自身の姿を、正邪はあんぐりと口を開けたままかれこれ数分ほど眺めていた。
鏡像の背後から、さとりがひょっこりと顔を出す。
「あまりの醜さに途方にくれましたか?」
「そ、そんなわけがあるぞ。それに裾が長くて動き辛くて、肌に合わん」
黒い、ひらひらとした布がいっぱいにまとわりついたドレスの裾を弄ぶ。さとりはその隣に立ち、渋い顔で正邪の晴れ姿をしげしげと眺めた。
「気に入らないなら代わりを用意しますが。きっともっと似合わず、醜いものになること請け合いですわ」
「いらん」
「そうですか、それは喜ばしい。ではせめて、手入れの行き届いておらず癖だらけの美しいこの髪を醜く飾り直させていただきましょうか」
「いらんてマジで」
§
地霊殿の中庭は、地底の特異まみれのこの屋敷においてもいっそう特異な場所であった。
陽光が届かない場所にもかかわらずほの暖かさと光に満ちて、青々とした芝生が生い茂る。
その中に紅白のバラが整然と並んで迷路を作り、合間を犬猫が走り回っていた。
忍び込んだ時は一匹も見当たらなかったはずなのに。
「楽しそうにしてやがる。いっそここを荒らし回って、私好みにしてくれようか」
「それは楽しそうですわね」
淀みなく言い切るさとりの声に、苛立ちが募る。
「ちょうどうちの庭師たちが、庭園の新しいデザインを検討中ですの。でもちょっと大掛かりでして。荒らしていただけると、作業がきっとスムーズになりますわ」
「やるかっての。精々苦労して庭を作り直しやがれ」
「気が向いたら存分にお暴れくださいな。うちの庭には棘のある植物が多いですから、その格好で暴れ回ると服が破れていっそう似合いの格好になりますわ」
「――服の仕立て直しとやらは、いつになったら終わるんだい」
§
広い部屋の奥にはさとりの小柄な体躯に似合わない大きさの文机があつらえられており、さとり自身はそこに座って羽ペンを走らせている。
正邪は椅子の背もたれに顎を乗せて、その様子をぼんやりと眺めた。
「さっきから何書いてんだよ」
「趣味の一環ですよ。あなたが騒ぐとなお筆が捗ります」
「やせ我慢は体の毒だ」
釜をかけてみるが、サトリ妖怪はやはり動じない。
「嘘は言っていませんよ。心が読める私にとって、この世界は四六時中雑音に満ちています。特にあなたの記憶。直近に体験した弾幕の数々は、まるでおもちゃ箱のよう」
「ああ、楽しかったねえ。楽しすぎてとっとと忘れたい体験だ」
「その楽しさは、恐らくこれからの日常になるでしょう」
さとりが顔を上げる。相変わらず表情に一片の笑みもない。
深い闇を湛えたような瞳に、一瞬だけ気圧された。
「外に出てあなたを待つものは、楽しい不可能弾幕と闘争の繰り返し。どこへ行ってもどこへ隠れても、それは永遠に続くでしょう。逃れる方法はあなたが世界をひっくり返すか、あなたが世界にひっくり返されるかのどちらか一つ」
「ひっくり返るまで、逃げ続けてやるさ」
「やはりあなたはそう言うのでしょうね。その先にどんな結末が待ち構えていようとも」
視線を外し、卓上の羊皮紙との格闘を再開する。
「間もなく、服の修繕は終わるでしょう。それを受け取ったら、好きに出て行って構いませんので」
「そんな命令を、私が素直に聞いてやると思うか?」
「思ってますとも」
正邪が口に、残忍な牙を覗かせる。
「気の済むまで居座ってやる。この館には追っ手も入って来たがらないようだし、都合がいい。お前はそれまでの間、ずっと私の面倒を見続けなければならんのだ。せいぜい覚悟しておけ」
しばらく、ペンの走る音だけが部屋に満ちた。
「そうですか。それは残念です」
§
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――――――
――――――――――?
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§
「いや、ちょっと待て。いくらなんでも馴染み過ぎだろう!」
正邪がふと我に返った時、彼女は庭園に出て枝切り鋏を手に、鼻歌交じりで薔薇の剪定に勤しんでいるところだった。
必死にここまで至る経緯を思い出そうとする。言葉巧みに彼女の振る舞いを次々に許していくさとりの言動。外へ出ていくのに反発し、暴れるのに反発し、住人たちの平穏を乱すのに反発して――現在に至る。
――なんだ。
――私は何をしている? こんなところでのんびりと庭師の真似事をするのが、私の望んだことか?
――違う。断じて違う。
――私はもっと大きな野望のために、反逆者となったんだ!
苛立ち紛れに、頭に乗せた麦わら帽子をかなぐり捨てて髪をかきむしる。
――なぜだ。
――なぜ奴は、私をこの場に留め置く方向に誘引する?
気を落ち着け、深呼吸して考える、思い出す。
さとりに許可され続け、それに反発し続けた結果、何が残ったか。
息詰まる安息の日々。不味い食事。ぬるい風呂。――波乱の生活。
それらの要素から正邪が思い至った結論は、一つだった。
「堕落か!」
悔しみに拳を打ち合わせる。天邪鬼を堕落させ地霊殿の一住民に貶めることこそ、サトリ妖怪の真の目的に違いあるまい。そしてもしかするとその先に待ち構えているのは、油断と捕縛。だらけ切った状態で体に縄をかけられれば、きっとひとたまりもない。
そうとわかれば、もはやさとりの言葉に耳を貸すべきではないだろう。耳を塞いででも、ここから逃げ出してしまわねば。
庭園を抜け出し、屋敷を迂回して正門に出る。そうだ、何を悩む必要があろう。さとりの真の狙いに反逆すれば、こんな館を抜け出すことなど造作もない。
番犬たちの鳴き声を無視して、石造りの正門に彼女は立った。鉄細工の門は簡素な閂で内側から施錠されるのみで、正邪の開門行為になんら抵抗の意思を示さない。
門を全開にする。
正邪がその真ん中に立つ。
簡単なことだ。あとはここから一歩を踏み出せば、自分は晴れて自由の身――
――おかしい。
奇妙な事象に正邪は戸惑った。
左右を見る。石造りの門柱が彼女を挟み込んでいる。
首を動かす。思う通りに左右に振れる。
腕を動かす。振るも回すも思うがままだ。
足を動かす。地面から離れる。ダンスだってきっと踊れる。
だったら、どうして。
自分は門から先への一歩を踏み出すことができないのか?
目の前にあるのは、壁ではない。旧都の市街へと続く街路だ。目の前に不可視の障壁があって、彼女の動きを遮っているなんてこともない。
なのに、なぜか。足が前に進まない。
「は。冗談だろう。こいつは何かの暗示か? あのサトリ妖怪ならやりかねんが」
「もちろん、彼女はそんなことなどしちゃいませんよ」
横合いから聞こえた声に、心臓を掴まれる思いがした。
脂汗を流しながら門柱の影を見る。今まさに、正邪をも恐怖させた存在が顔を出したところ。
両手に笏を携えた、楽園の閻魔が。
「ご苦労なこった。わざわざ私がここから出てくるのを待ち構えていたのか」
「私の仕事は、それほど暇ではありません。ただ、あなたの気分が黒に振れる頃合いだと見て、再びやって来たまでのこと。あなたに警句を授けにね」
「警句だと?」
閻魔はやすやすと正邪の脇をすり抜けて、地霊殿の敷地内に入る。
「サトリ妖怪の領域に足を踏み入れる。逆に出ていく。どちらも難しいことではありません。なのにあなたがそれに踏み切れない理由は、あなた自身がよく理解しているはず」
「――なんのことやら」
「地霊殿から外に出れば、あなたは終わりなき弾幕地獄に苛まれることとなるでしょう。手に入れた力ある道具の魔力はほどなく尽きて、あなたは繰り返し不可能弾幕に打ち据えられる。反逆の成功など、夢のまた夢。あなたはその運命を拒絶しているに過ぎない」
正邪の顎の下で汗が雫を作り、ぼたりと落ちた。
「そう。あなたは少し現実に目を背けすぎる。地霊殿で過ごしたわずかな期間は、あなたにとって久方ぶりに心休まる時であったはず。あなたはそれを自らの手で踏みにじろうとしている。あなた自身が、そのことに気がついていないはずがない」
「私は――」
「だとすればあなたがそこから一歩を進められない理由は、極めて容易に導き出せます。外に出られないのではなく、あなたは」
「黙れ!」
拒絶の叫びだった。
閻魔の言葉、そして、自分自身に対して。
正邪の体が、高く宙を舞う。
カチリ。
サンダルの音とは明らかに異なる音とともに、再び地上へ降り立った。
場所は、一メートルほど正門から出たあたり。
血走った目が、閻魔を睨みつける。
「私は反逆者だ! 天邪鬼を、我が生き方を変えるつもりはない!」
その言葉を最後に、彼女は走り出してあっという間に旧都の市街に消えていった。
閻魔はその場に立ち尽くしたまま、正邪の立ち去った方角をしばし見守る。
「私の話は、まだ途中だったのですけどね。生粋の天邪鬼であることは評価に値するかもしれませんが――やはり、駄目です。あなたは分相応という言葉を知るべきだった。それにあなたは、稀有な存在だったのですよ? 最悪と恐れられたここの家主が、久方ぶりにまともに対応した者として」
視線の向こう側から何条かの閃光が走り、断続的な弾幕射出音が次いでやってくる。
「始まりましたね。刺激に飢えた旧都の住人からは、そうやすやすと逃れられないでしょうに。では、私も参りますか――すぐそこに上級の罪人がいる。救わねば」
楽園の閻魔が、正邪の軌跡を追って歩き出した。
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騒がしい闖入者が地霊殿を去ってから数日。
いつもと変わらない景色。大好きなハートのレリーフと刺繍で満たされた部屋で、さとりはいつもと変わらず書斎机につき羽ペンを走らせている。
いつもと変わらない日常。さとりが手を止めると同時、それはいったん中断された。柏手を鳴らして、家事担当ペットを呼び出す。
「一番上等なローズティーを準備なさい。ティーセットは二人分」
手短に申しつけると、彼女は机に両肘をついて呟いた。
「さてと意外に早かったか。今回は何日居座るかしらね――まあ、天邪鬼にはそう長く耐えられないでしょうけれど。
幻想郷は全てを受け入れる。それはそれは残酷な話ですわ――だったかしら。まったく、糞っ食らえだわ」
口元を手で隠して、静かな笑みを咬み殺す。
閻魔を介して妖怪の賢者が反逆者の捕獲を依頼してきたのが、数週間ほど前の話。暴力的な手段を以って引き止めるのが不可能なのは、彼女の闘いを顧みれば火を見るより明らかだった。さとりは奇策を講じたが、正邪をわずかな期間地霊殿へ留めるに終わっている。
しかし、それもある程度は計算ずくだ。その間に賢者が別の手を打っていることくらい、さとりにも閻魔にもお見通しであったのだから。
「腐れ賢者が定義したシステムは、もはやあなたを捉えて離さない。でも、いいわ。いつでもおいでなさい。あなたが反逆者である限り、この地霊殿はいつでもあなたの休憩場として機能し続ける。あいつの決め事なんて、ドブにでも捨てておけばいい」
ぴしゃり。両の頬を自身の手で叩く。同時にさとりの表情から笑みは消え、不機嫌が充満していく。
テラスに続く通用口が開け放たれたのは、そのすぐ後だった。さとりは三つの目で戸口に立つ影に一瞥をくれる。
「素敵な格好ですこと」
それは体を引きずるようにして、部屋の中に入り込んできた。背後に血の跡が点々と続く。
服と呼ぶのもおこがましいほどのボロ布を辛うじて身につけたそれは、さとりの注視もお構いなしで部屋の中を見回し、やがて接客用のテーブルセットに目を留めた。椅子の一つを引き寄せ、体を投げ出すように座り込む。
額から血を流すがまま、視線を泳がせさとりの姿を捉える。それはゆっくりとさとりに向けて笑みのようなものを浮かべると、口を開いた――
(とびきり不味い茶をよこせよ 了)
正邪を手のひらで転がすさとりと、それでも真っ向から反逆する正邪が魅力的です
次の執筆はマタ2年後とかは嫌ですよw
もっと頻繁に投稿してくださいお願いしますレベルです
ただ、道具の魔力が消えかかってたのにどうやって戻ってきたかが気になりました
(「ほどなく」と映姫様が言っていたので)
鬼相手に逃げ切れるのでしょうか?
意外な組み合わせの二人でも相性ピッタリに思えてくる不思議。
というか、読んでる途中でわけがわからなくなってしまったw
どうやら私は天邪鬼からは程遠い存在のようです。
さとり様も、さとり様にいいようにされてる正邪も可愛くて見ていてほっこりしました。
できれば、なるべく早くあなたの新作が読みたいです。2年も待てないw
それにしても、さとりと正邪か……。新しい組み合わせに目覚めてしまいそうだ
それにしても麦わら帽子正邪は絵で見てみたいですね。なんか似合ってそう。
さとりとの掛け合いや天邪鬼の性質など、とても面白かったです
ありていにいえば退屈かな...
無駄のない、それでいて楽しむことができました
もう正邪は居ついちゃえばいいと思うよ。
こういうの書けるのは憧れますわぁ