八雲紫が冬の長い眠りから目を覚ましますと、開けられた障子の向こうには五月の空が青々と輝いています。いつもは春が来れば直ぐにでも目が覚めるのですが、昨年は少し冬眠に入るのが遅れたので、目が覚めるのも少し遅くなったのでしょう。
紫が起きたのを察したらしい式神の藍がやって来て、ご機嫌を伺いました。
冬の間にたっぷり眠った紫は元気です。寝ているうちにも、藍が首尾よく仕事をしていたのは、結界が乱れていない事からも伺えますし、早速いそいそと食事の支度をしている様子など、紫により一層の親愛の情を抱かせるには十分なものでした。尤も、紫自身はそれを他人に話し事はありませんし、認めようともしていなかったのですけれど。
さて、目を覚ましている間、紫が何をしているかといいますと、いわゆる所得のある仕事はなにもしませんけれど、彼女は幻想郷の管理者ですから、自らの持つ能力を使って、幻想郷のあちこちを見ています。
紫が宙空を、切るように指先で撫でますと、驚く事に空間が裂かれたように分かれます。実際は空間と空間の間を無理矢理広げているのです。空間と空間の隙間に潜む妖怪。彼女が隙間妖怪と呼ばれるのは、こうした理由がありました。
紫は少し丁寧に空間を広げ、幻想郷のあちこちに目を配ります。
妖怪の山と呼ばれる、幻想郷で最も高い山、そこから流れる渓流に沿って視点は移り変わります。天然のガスが噴き出ている温泉地があり、鬱蒼とした暗い森があり、霧に包まれた湖があり、人間たちが寄り添って暮らしている集落があります。
一通り目を通した紫は、今日も幻想郷は滞りないと満足します。彼女は幻想郷をわが子のように愛していましたから、こうしていくら眺めていても飽きないのです。
とはいえ、紫は専ら昼間は眠っていて、起きているのは夜ですから、見ているのも夜の幻想郷ばかりです。
夜というのは不思議なもので、昼間は何という事もない人であっても、日が落ちて夜が深まると、途端に妙な性癖を発露させたり、ふと思いついた事を考えなしに実行してみたり、つまり違う一面を見せる事が多いものです。眠気や酒気がその原因かもしれませんが、それだけではないように思われます。夜の闇や、月の光といったものが、人間や妖怪の別の面を照らし出すのかも知れません。
何にせよ、そういうおかしなところも紫はしっかりと見ているものですから、幻想郷じゅうの人や妖怪の弱みを握っているという事になります。特に幻想郷で力のあるのは女の子ばかりですから、女の子なりの知られたくない事というものはたくさんあります。
人間の魔法使いの女の子は、お尻に星の形をした可愛らしいほくろがありますし、幻想郷縁起を書いている少女は、こっそりとやや過激な妄想の恋愛日記を書き綴っています。寺子屋の教師は、こっそり可愛らしい服を着て鏡に映して悦に浸っていますし、その友人の蓬莱人は、筍のぬいぐるみを抱かなくては眠れません。
紫はそういった事をみんな知っていました。
尤も、昨年神社の風呂場を覗き見た所、勘のいい巫女に熱湯を浴びせかけられたので、最近は無暗やたらと覗きをするのはやめたのですが。
ともかく、そういう風に他人の弱みを知っておりますから、彼女は大抵の者に対して余裕を持って接します。そういった余裕も相まって、人々は彼女を胡散臭いと考えるのでありました。
そんな事をしているうちに、梅雨雲が空を覆い、そして通り抜け、辺りはすっかり夏模様になりました。
その年は梅雨が短かったので、里の人間たちは水不足を心配していましたが、あちこちに流れる川には水が潤沢に流れておりました。
その日、珍しく昼間に目を覚ました紫は、寝直すのも億劫だと見えて、屋敷の縁側にふらりと出てみました。初夏の強い日差しが射していて、その強い光に目の奥がツンと痛くなりました。
縁側に出た紫を見とめて、式神の藍が目をぱちぱちさせました。紫がこの時間に起きているのはとても珍しいのです。かくいう藍の方も、いつもはあれこれと用足しに出かけている事が多いのですが、今日は不思議と家におりましたので、互いに珍しく邂逅を果たす事となったのでした。
「紫さま、具合でもお悪いのですか」
「どうして」
「いや……」
「まあ、言いたい事は分かるけれど」
「すみません」
「謝らなくたっていいわよ、別に。ねえ、喉が渇いたわ」
「ああ、少しお待ちくださいな」
藍は足早に廊下を駆けて行きました。ぱたぱたという軽い足音が遠ざかり、辺りには蝉の鳴き声ばかりが聞こえています。昼下がりの、しかしまだ天頂に居座った太陽は、何処かもったりとまとわりつくような光を地上に落としていました。縁側に張り出した庇には、硝子の風鈴が下がっていて、涼しげな音をさせています。
そのうち、「おっとっと」と妙な声を出しながら、藍が戻ってきました。硝子の瓶を持っています。中身が少しこぼれたのでしょう、表面はきらきらと濡れて光っていました。その向こう側でしゅわしゅわと細かな泡が、中の液体を上って行くのが見えます。
「お待たせしました」
と藍が濡れた瓶を拭って、紫に手渡しました。しかし紫は眉をひそめて言いました。
「駄目じゃない」
「え、ラムネお嫌いでしたっけ」
「いいえ、大好き」
「えっと……」
「どうして開けて来ちゃうのよ。自分でぽんと開けるのが楽しいのに」
「は、はあ」
「これは貴女にあげるわ。もう一本持ってらっしゃい」
紫はラムネの瓶を藍に押し付けて、ぶっきらぼうに手を振りました。
藍は恐縮したように再び廊下を駆けて行きました。気を利かしたつもりでしょうけれど、主人の考えが読めないなんて、やっぱりまだまだ式神としては半人前ね、と紫は独り言ちました。どうやら紫は少し寝覚めが悪いようですね。
戻って来た藍は少し、本当に少しばかりおびえたように、紫にラムネの瓶を手渡しました。それに気づかぬ紫ではありません、気に食わないというように、無言で栓代わりのビー玉をぽんと押し込みました。するとたちまち泡が溢れて瓶を伝い、紫の手を濡らして床に垂れました。
藍はそれを見て慌てました。考えが下向きになっていると、なんでも自分が悪いように感じるのですね。
「あ、あ、今手ぬぐいを……」
「いいの、ほら座りなさい」
紫は指先を伝うラムネを舐め取りながら、藍に隣に座るよう促しました。藍はもじもじしていましたが、やがて遠慮がちに紫の横に腰を下ろしました。
蝉がじわじわ鳴いていて、風がないせいか空気がもったりとしています。もう日差しに目が慣れましたので、目の奥のツンとした痛みはありません。こうしてたまに見てみると、昼間の風景というのも美しいものです。よく冷えたラムネの泡がしゅうしゅうと胸を下りて行くと、目が覚めたような心持になりました。
横目で見ますと、隣に座った藍がそわそわとしています。両手で持ったラムネの瓶がすっかり汗をかいて、藍の手を濡らしていました。まだ口を付けていないようです。
紫はいたずら気な口調で話しかけました。
「わたしと居るのは嫌?」
「いっ、いえ、そういうわけでは」
「もしかして何か仕事の事を考えてるの?」
「え、あの……はい」
働き者の藍は、やりかけていた仕事が気になっているようでした。目の色が慌てた色にくるくる変わるのが可笑しくて、紫はくすりと笑いました。こういう時、有能で役に立たないこの不器用な式神が、たまらなく愛おしく思えるのでした。
「いいのよ、放っておきなさい。今のあなたの仕事は、主人の暇つぶしに付き合う事よ」
「……紫さまがそう仰るのなら」
藍は落ち着かなかった腰をちょこんと据えました。こうなっては、行動規範が主人の意に沿うようで、忙しげに動いていた尻尾もぴたりと止まっています。
紫はこれを見て大いに満足しました。式神は主人の意に沿えばいいのであって、自己の判断などは不要であると考えているからです。
しかし、それならば藍の自我を消してしまえばいい話であるのですが、紫はそうしません。式神は命令に従っていればよいと周囲に吹聴していても、心の奥底では自我のある話し相手が欲しいのかも知れません。
蝉がじわじわと鳴いています。抜けるように青かった空に、向こうの方から大きな雲がかかって来て、それが露骨な陰影を持っているものですから、何やら大きくて白い岩山があるようにも見えました。
「橙の所には行っているの?」
「一日に一回は。でも最近は反抗期みたいで」
「へえ、どんな反抗」
「未だに猫に言う事を聞かせられないのですが、わたしが助言してやると、返って眉を吊り上げるんです。藍さまは見てて! って」
その橙の真似をした藍の様子が可笑しくて、紫はくすくす笑いました。藍の方は頬を赤くします。
「でもあなたにもあったわよねえ、反抗期」
「やめてください、昔の話です」
「そうかしら。ほら、目を閉じるとつんけんしたあなたの姿がありありと」
「そういじめないでくださいよぅ」
藍はごまかすように、手元のラムネの瓶を口につけました。しかし、瓶を傾けて、それから変な顔をして戻し、また傾けて、今度は眉根にしわを寄せました。舌が動いているらしく、頬がもごもごしています。
どうやら、ビー玉が飲み口に引っかかるので、舌で押そうとしているらしいのですが、それでビー玉が押せても、今度は舌が飲み口を塞いでしまうので、藍は困っているようでした。どうやら、瓶入りラムネは飲んだ事がないようです。それを察した紫はもう可笑しいのなんのって、体をくの字に曲げて、くっくっくと笑いました。少し苦しげです。
藍は頬をさらに染めながら、しかし取り繕うようにわたわたと弁明しました。
「わ、笑わないでください、ビー玉が……」
「ふふふふっ、もう、お馬鹿さんね」
紫はそっと藍の持っている瓶に手を添えて回しました。
「ほら、ここにくぼみがあるでしょう? ここを下にすれば、ビー玉がここで止まって邪魔しないの」
「ああ、成る程……気づきませんでした」
「ふふ、あなたって本当に有能なのかお馬鹿さんなのか分からないわねえ」
藍はちょっとした反抗のつもりなのか、それには答えず、こくこくと喉を鳴らして旨そうにラムネを飲みました。瓶から口を離して戻した時、その青く透明な瓶の向こうで、細かな泡が底の方から昇って行きました。
紫は大きく欠伸をして、立ち上がりました。藍もすっかり落ち着いた様子で立ち上がります。
「では、仕事に戻ります。御用がありましたら、また」
「ええ」
空の瓶を両手に持って、藍は廊下を向こうへ歩いて行きました。
紫はしばらくぼんやりと、屋根の縁とその向こうに見える雲を眺めていましたが、再び欠伸をして、又寝をしに、ゆらゆらした足取りで寝室に向かって行きました。
屋敷のそばの蝉たちは、紫の眠りを妨げないかのように皆一様に黙ってしまいました。遠い蝉の声が、しんとした空気を少しだけ震わしています。
日は少し西に傾いたようです。
ラムネが美味しい季節な事もあって、ラムネが恋しくなりました。
特に瓶の奴
瓶のラムネはよく飲んでたなあ… まだ幻想入りして欲しくないものの一つです。
ラムネ開けるの楽しいですよね。
ビー玉引っ掛けるくぼみの存在を知ったときの感動は今でも覚えてます。
大物というか数寄者というか、とにかく人生を楽しんでいる感じが素敵です
しかし動きがありすぎるとこの雰囲気は壊れてしまうので安易にそうは言えませんね
ともあれとても面白かったです
しとしとというオノマトペがとても似合いそうなお話でした