人間は未来を完全に予知することは出来ないのだと、そう過去の偉人が証明した。あれから百年以上がとうに過ぎ、科学技術、コンピュータの性能が飛躍的に発展した今となってさえ、それは覆すことの出来ない絶対的な真理だった。
私はベッドに寝転がりながら、手馴れた感じでノート型のコンピュータを操作する。とはいえ何か凄いことをしているわけでは決してなく、ただの暇つぶしに過ぎない。夏休みの暇な大学生の日常――そういって自分の生活をメリーに話したら「普通の大学生はそんな生活しない」って言われた。え、普通の大学生って夏休み何してるの? てっきり冷房の効いた部屋でごろごろしながら端末弄りというのが鉄板だとばかり思っていたのに。
とはいえもちろん私も毎日そんなことをしているわけではない。秘封倶楽部としての活動も予定にはあるし、それ以外にもメリーに誘われれば水族館とか何となく涼しげな場所に遊びに行ったり、買い物に出かけたりもした。ちなみに今どきどこも冷房が効いているので水族館でなくても涼しい。買い物に行ったお店も涼しかった。どうでもいいけれど買い物をショッピングと言うとなんだか気取っているみたいでむずがゆい。
で、今日はメリーからのお誘いがなかったのでごろごろしている。というよりもメリーに誘われない限り基本的に家から出ないけど。今日は何でも相対性精神学の偉い教授さん(外国人だ)の講演があるとか何とかで、メリーは都心の方まで出かけているのだ。
あー、暇ー。つまんないー。メリーのあほー。私のことは遊びだったのねー。
開いたテキストエディタにそんなことを書くだけ書いて保存せずに閉じた。意味なんてない。それを言ったら暇つぶしという行為にさえ意味なんてないのだけど。
私は暇つぶしを再開する。ブラウザに表示されているのはリアルタイムで定期的に更新されていくデータの羅列。ここには静止気象衛星や極軌道衛星から送られてくる大気の状態を表す観測データが公開されている。このデータを使って自作のプログラムで気象予測をするのが最近のマイブームだったりする。実に大学生らしい趣味、と思っていたらこれもメリーに「普通の大学生はそんなことしない」と言われた。普通の大学生という生き物の生態の謎がどんどんと深まっていく。
気象データは基本的に地球上を「規則正しく並んだ格子」で大気を細かく覆い、その格子点ごとに分けて観測される。どういうことかといえば、例えば目の前に一辺2kmの立方体があるとする。この立方体がここでいう格子点であり、この立方体の中にある空気は全て均質であると仮定する。実際は2kmの立方体の中でさえ空気中の分子はそれぞれ異なる状態にある(たとえば冷房の効いた部屋は外より涼しかったり、扇風機が回っていれば風向きも変わったりする)が、それらが全て同じ状態(同じ気圧で同じ気温で同じ風向き)であるとしている。そうして得られた観測データからそれぞれの格子点ごとの各パラメーター(気圧、気温、風速など)を求めると、「現在の大気の状態」が分かる。といっても、あくまでもそれは現在の大気の状態に近似したものに過ぎない。仮に世界中の分子一つごとの状態を観測出来るのならば、現在の大気の状態そのもののデータを得られるのだろうけど、実際問題としてそれは不可能じみている。それにそんなデータは得られたとしても膨大なデータ量になってしまい、とてもじゃないが扱えたものではない。
というわけなので科学の発展しきった今となってさえ、こうして妥協した近似の数値を扱って気象予測は行われる。得られた近似のデータから、あとは物理法則に当てはめて単純計算を繰り返していくだけだ。「格子点Pは時速5kmで北に向かって移動しています、一時間後の格子点Pの位置を求めなさい」というのと基本的にはやっていることは同じだったりする。それのちょっと式が複雑で、扱うデータ量と計算量が膨大なだけなのだ。ただコンピュータは無限桁を扱えはしないので、どこかで小数点以下の数字が丸め込まれてしまう。たとえば昔のプログラミングでよく利用されていた「double型」という浮動小数点型では有効桁数が約15桁しかない。今では100桁以上の有効桁数を扱えるようになったとはいえ、それでも無限には程遠い。丸め込み誤差は未だに健在なのだ。
古典的な多体問題やカオス理論の話をすれば、こうしたものは計算によって厳密な解を得ることが出来ないと知られている。だからコンピュータでシミュレーションをして、近似解を求める。無限の精度のデータと無限の精度の計算能力があれば、私たちは未来を正確に知ることだって出来るのだけれど、そんなことが出来るのは結局のところ神か悪魔か。どちらにせよ私たちの知性や理性には限界があるという話になるのだろう。そういう話を大昔に詳しく記した著書は『純粋理性批判』、著者はイマヌエル・カント。もっともそっち方面の話はメリーの方が詳しいので適当なことは言わないでおく。
こうして今の状態から、未来の状態を計算して気象予測は行われる。予測の精度は観測と計算の精度に依存する。そうした意味で、100%当たる気象予報は不可能なのだ。
それで、どうして私がこんな数値流体シミュレーションに手を出したのかといえば、これにはリーマン幾何学が必要不可欠だからだったりする。リーマン幾何学は簡単に言えば曲がった空間の幾何学で、一般的なユークリッド幾何学よりもかなり複雑なものだ。一般相対性理論の基礎になった理論でもあり、超統一物理学を専攻している私には馴染み深いものだったりする。
曲がった空間の幾何学と言われてもピンと来ないかもしれないけれど、地球は球体なので地球の表面は厳密に言えば曲がっていたりする。地球の表面に三角形を描いたとき、内角の和は180度よりも大きいというのは曲がった二次元空間の例でよく使われる。
地球儀を想像して欲しい。その上に例えばガーナ沖の東経0度、北緯0度の地点に北向きのベクトル(分かりにくかったら真北を向いた矢印)があるとする。これを地球の表面に沿ってベクトルの平行移動を行う。まず東経0度の経線にそって北極点まで並行移動し、次に東経90度の経線に沿ってスマトラ沖の赤道上まで移動する。最後にまた赤道に沿って平行移動して出発点まで移動させると、出発時のベクトルとは90度方向が変わって東を向いたベクトルになっている。
ユークリッド幾何学のベクトルの平行移動では向きが変わることはなかったが、曲がった空間ではそうしたことが起こる。一般相対性理論において、重力は時空の歪みとして考えられる。平坦な空間で物質が重力によって曲がるのではなく、重力によって曲がった空間を物質が直進しているという考え方をするといえば、リーマン幾何学の有用性が何となく伝わるかもしれない。
そんなわけで、私は自分の「ひもの研究」に使っている実験プログラムを応用して、気象予測プログラムを作った。気象予測において重要なのは精度と速度だ。明日の天気を知りたいのに計算に一週間かかるのでは意味がない。かといって計算は速くても全く当たらないのでは問題外だ。だから世間にはどこをどう妥協するかで、様々な種類のプログラムが存在している。一ヶ月先を予測しようとしたら、観測データの格子の一辺をより長くすることで格子の数、つまり扱うデータ量を減らすことで計算量を減らすといったことをしている。
というのも、十日ほどもあればヨーロッパ上空の雲が日本に影響を及ぼすので、地球上全てのデータが必要になる。期間を長く設定すると必要となるデータ量が爆発的に大きくなってしまうのだ。
そんな中、私の作ったプログラムは京都にのみ焦点を当てて作られている。「ひもの研究」によって使う特殊な数値補正をプログラムに組み込んだところ、日本全土の予測や数日先の予測では精度が落ちてしまうが、局所的かつ短期間の予測では精度が向上していることが分かった。最大で十二時間先まで、予測できるのも私の家の周囲数十kmの範囲だけと、かなり限定的だが私的に利用する分には使えないこともないものに仕上がっていた。
まあいちいちデータをネット上から取ってきてプログラムを走らせるのも手間な上に、その結果に出てくるのが世間に流れている天気予報と大抵の場合同じとなれば、あまり使うこともないけれど。だから、あくまでも暇つぶし。例えばこのプログラムで一時間後の予測を出力して、実際に一時間後に更新される気象データと比べてみて誤差がどれくらいか、みたいなことをして遊ぶのだ。暇を持て余した大学生の遊び。
という話をメリーにしたら例によって「どんなに暇を持て余しても、普通の大学生は誤差が少ないからってニヤニヤしたりして遊ばない」って言われた。まさかとは思いますが、この「普通の大学生」とは、メリーの想像上の存在に過ぎないのではないでしょうか。
メリーが聞きに行っている講演の終わる時間にセットして、プログラムを走らせて数分。今日の天気予報では晴れの予想だったのでおそらくはそんな結果が出るだろうと思っていたけれど――。
「――あれ、雨だ」
珍しく、世間の天気予報と正反対の予測結果が出た。ふと窓の外を見てみる。雲はそれなりにあるけれど、それでも暑い日差しが燦々と降り注いでいて、数時間後に雨が降るといわれても想像しづらい。
雨。雨かぁ。どちらの予測が当たるかは正直分からないのだけれど、過去のデータから言えば私のプログラムの方が数時間後の京都についてだけは正確だと言えた。
とすると、数時間後には雨が降る。そしてメリーは傘を持っていないだろう。
「……私を誘わないメリーなんて、雨に降られちゃえばいいんだ」
そんなことを呟いて、私はコンピュータの電源を落とす。
そうしてベッドに寝転がって、天井を見上げた。
「………………」
うーん、退屈だ。暇つぶしに気象予測を……それは今やったんだった。うーん。
頭を悩ませるたびに、ちらつくのはメリーの顔。
「…………はぁ。仕方ない、傘持って行ってあげるか」
突然の雨に困り顔のメリー。そこにすっと傘を差し出すかっこいい宇佐見蓮子。うん、悪くない。そして二人で並んで傘をさして歩いて、せっかく都心まで出てきたんだしとどこかで一緒に遊んで、適当な場所でご飯でも食べて帰ってきたらいいんじゃないかな?
そうと決まれば早速着替えて出かける準備をしなければ。あー、先にシャワーかな。
さっきまで私を苛んでいた退屈も、メリーと遊びに行く想像をするだけで吹き飛んでしまう。
そうして準備を整えて、傘を二本手に取ったときに、ふと思う。傘は科学が進歩するたびに何度か形が変わっても、結局はこの形に戻ってしまう。一昔前は傘から透明のヴェールのようなものが地面近くまで垂れていて、傘の下を個室のようにした傘も出回っていたらしい。しかし結局は「水滴がつくと結構重い」「案外歩きづらい」「何よりダサい」という評判で作っていた会社が倒産し、見かけなくなってしまったという。
結局のところ、どんなに優れた科学技術も使うのは人間なのだ。そして便利さだけが人間の求めるものでもない。不便でなければ、特別便利でなくても構わないという人間だって少なくないはずだ。人間とは時に不合理な判断のもとに生きていく。そもそも合理的に考えれば、私は冷房の聞いた部屋でごろごろしているべきに決まっているのだから。別に今日行かなくたって、明日でもメリーは誘えば一緒に遊んでくれるだろう。それでも今行きたいと思ったのだから、それはもう仕方ないのだ。
これでもし雨が降らなかったらなんて、そんなことも考えてしまう。
しかしそれでもきっとメリーは傘を二本持った私を見て、くすりと笑って、「変な蓮子」と一言で済ませてしまうだろう。
そんな後先考えないバカっぽい行動も、きっと大学生の特権に違いない。
メリーは突然現れた私を見て、何と言うだろう――。
――そんなことが、今から楽しみで仕方なかった。
「普通の大学生は晴れの日に傘を二本も持って出かけない」
「……あれ?」
やはり人間は未来を完全に予知することなんて出来ないのだ!
私はベッドに寝転がりながら、手馴れた感じでノート型のコンピュータを操作する。とはいえ何か凄いことをしているわけでは決してなく、ただの暇つぶしに過ぎない。夏休みの暇な大学生の日常――そういって自分の生活をメリーに話したら「普通の大学生はそんな生活しない」って言われた。え、普通の大学生って夏休み何してるの? てっきり冷房の効いた部屋でごろごろしながら端末弄りというのが鉄板だとばかり思っていたのに。
とはいえもちろん私も毎日そんなことをしているわけではない。秘封倶楽部としての活動も予定にはあるし、それ以外にもメリーに誘われれば水族館とか何となく涼しげな場所に遊びに行ったり、買い物に出かけたりもした。ちなみに今どきどこも冷房が効いているので水族館でなくても涼しい。買い物に行ったお店も涼しかった。どうでもいいけれど買い物をショッピングと言うとなんだか気取っているみたいでむずがゆい。
で、今日はメリーからのお誘いがなかったのでごろごろしている。というよりもメリーに誘われない限り基本的に家から出ないけど。今日は何でも相対性精神学の偉い教授さん(外国人だ)の講演があるとか何とかで、メリーは都心の方まで出かけているのだ。
あー、暇ー。つまんないー。メリーのあほー。私のことは遊びだったのねー。
開いたテキストエディタにそんなことを書くだけ書いて保存せずに閉じた。意味なんてない。それを言ったら暇つぶしという行為にさえ意味なんてないのだけど。
私は暇つぶしを再開する。ブラウザに表示されているのはリアルタイムで定期的に更新されていくデータの羅列。ここには静止気象衛星や極軌道衛星から送られてくる大気の状態を表す観測データが公開されている。このデータを使って自作のプログラムで気象予測をするのが最近のマイブームだったりする。実に大学生らしい趣味、と思っていたらこれもメリーに「普通の大学生はそんなことしない」と言われた。普通の大学生という生き物の生態の謎がどんどんと深まっていく。
気象データは基本的に地球上を「規則正しく並んだ格子」で大気を細かく覆い、その格子点ごとに分けて観測される。どういうことかといえば、例えば目の前に一辺2kmの立方体があるとする。この立方体がここでいう格子点であり、この立方体の中にある空気は全て均質であると仮定する。実際は2kmの立方体の中でさえ空気中の分子はそれぞれ異なる状態にある(たとえば冷房の効いた部屋は外より涼しかったり、扇風機が回っていれば風向きも変わったりする)が、それらが全て同じ状態(同じ気圧で同じ気温で同じ風向き)であるとしている。そうして得られた観測データからそれぞれの格子点ごとの各パラメーター(気圧、気温、風速など)を求めると、「現在の大気の状態」が分かる。といっても、あくまでもそれは現在の大気の状態に近似したものに過ぎない。仮に世界中の分子一つごとの状態を観測出来るのならば、現在の大気の状態そのもののデータを得られるのだろうけど、実際問題としてそれは不可能じみている。それにそんなデータは得られたとしても膨大なデータ量になってしまい、とてもじゃないが扱えたものではない。
というわけなので科学の発展しきった今となってさえ、こうして妥協した近似の数値を扱って気象予測は行われる。得られた近似のデータから、あとは物理法則に当てはめて単純計算を繰り返していくだけだ。「格子点Pは時速5kmで北に向かって移動しています、一時間後の格子点Pの位置を求めなさい」というのと基本的にはやっていることは同じだったりする。それのちょっと式が複雑で、扱うデータ量と計算量が膨大なだけなのだ。ただコンピュータは無限桁を扱えはしないので、どこかで小数点以下の数字が丸め込まれてしまう。たとえば昔のプログラミングでよく利用されていた「double型」という浮動小数点型では有効桁数が約15桁しかない。今では100桁以上の有効桁数を扱えるようになったとはいえ、それでも無限には程遠い。丸め込み誤差は未だに健在なのだ。
古典的な多体問題やカオス理論の話をすれば、こうしたものは計算によって厳密な解を得ることが出来ないと知られている。だからコンピュータでシミュレーションをして、近似解を求める。無限の精度のデータと無限の精度の計算能力があれば、私たちは未来を正確に知ることだって出来るのだけれど、そんなことが出来るのは結局のところ神か悪魔か。どちらにせよ私たちの知性や理性には限界があるという話になるのだろう。そういう話を大昔に詳しく記した著書は『純粋理性批判』、著者はイマヌエル・カント。もっともそっち方面の話はメリーの方が詳しいので適当なことは言わないでおく。
こうして今の状態から、未来の状態を計算して気象予測は行われる。予測の精度は観測と計算の精度に依存する。そうした意味で、100%当たる気象予報は不可能なのだ。
それで、どうして私がこんな数値流体シミュレーションに手を出したのかといえば、これにはリーマン幾何学が必要不可欠だからだったりする。リーマン幾何学は簡単に言えば曲がった空間の幾何学で、一般的なユークリッド幾何学よりもかなり複雑なものだ。一般相対性理論の基礎になった理論でもあり、超統一物理学を専攻している私には馴染み深いものだったりする。
曲がった空間の幾何学と言われてもピンと来ないかもしれないけれど、地球は球体なので地球の表面は厳密に言えば曲がっていたりする。地球の表面に三角形を描いたとき、内角の和は180度よりも大きいというのは曲がった二次元空間の例でよく使われる。
地球儀を想像して欲しい。その上に例えばガーナ沖の東経0度、北緯0度の地点に北向きのベクトル(分かりにくかったら真北を向いた矢印)があるとする。これを地球の表面に沿ってベクトルの平行移動を行う。まず東経0度の経線にそって北極点まで並行移動し、次に東経90度の経線に沿ってスマトラ沖の赤道上まで移動する。最後にまた赤道に沿って平行移動して出発点まで移動させると、出発時のベクトルとは90度方向が変わって東を向いたベクトルになっている。
ユークリッド幾何学のベクトルの平行移動では向きが変わることはなかったが、曲がった空間ではそうしたことが起こる。一般相対性理論において、重力は時空の歪みとして考えられる。平坦な空間で物質が重力によって曲がるのではなく、重力によって曲がった空間を物質が直進しているという考え方をするといえば、リーマン幾何学の有用性が何となく伝わるかもしれない。
そんなわけで、私は自分の「ひもの研究」に使っている実験プログラムを応用して、気象予測プログラムを作った。気象予測において重要なのは精度と速度だ。明日の天気を知りたいのに計算に一週間かかるのでは意味がない。かといって計算は速くても全く当たらないのでは問題外だ。だから世間にはどこをどう妥協するかで、様々な種類のプログラムが存在している。一ヶ月先を予測しようとしたら、観測データの格子の一辺をより長くすることで格子の数、つまり扱うデータ量を減らすことで計算量を減らすといったことをしている。
というのも、十日ほどもあればヨーロッパ上空の雲が日本に影響を及ぼすので、地球上全てのデータが必要になる。期間を長く設定すると必要となるデータ量が爆発的に大きくなってしまうのだ。
そんな中、私の作ったプログラムは京都にのみ焦点を当てて作られている。「ひもの研究」によって使う特殊な数値補正をプログラムに組み込んだところ、日本全土の予測や数日先の予測では精度が落ちてしまうが、局所的かつ短期間の予測では精度が向上していることが分かった。最大で十二時間先まで、予測できるのも私の家の周囲数十kmの範囲だけと、かなり限定的だが私的に利用する分には使えないこともないものに仕上がっていた。
まあいちいちデータをネット上から取ってきてプログラムを走らせるのも手間な上に、その結果に出てくるのが世間に流れている天気予報と大抵の場合同じとなれば、あまり使うこともないけれど。だから、あくまでも暇つぶし。例えばこのプログラムで一時間後の予測を出力して、実際に一時間後に更新される気象データと比べてみて誤差がどれくらいか、みたいなことをして遊ぶのだ。暇を持て余した大学生の遊び。
という話をメリーにしたら例によって「どんなに暇を持て余しても、普通の大学生は誤差が少ないからってニヤニヤしたりして遊ばない」って言われた。まさかとは思いますが、この「普通の大学生」とは、メリーの想像上の存在に過ぎないのではないでしょうか。
メリーが聞きに行っている講演の終わる時間にセットして、プログラムを走らせて数分。今日の天気予報では晴れの予想だったのでおそらくはそんな結果が出るだろうと思っていたけれど――。
「――あれ、雨だ」
珍しく、世間の天気予報と正反対の予測結果が出た。ふと窓の外を見てみる。雲はそれなりにあるけれど、それでも暑い日差しが燦々と降り注いでいて、数時間後に雨が降るといわれても想像しづらい。
雨。雨かぁ。どちらの予測が当たるかは正直分からないのだけれど、過去のデータから言えば私のプログラムの方が数時間後の京都についてだけは正確だと言えた。
とすると、数時間後には雨が降る。そしてメリーは傘を持っていないだろう。
「……私を誘わないメリーなんて、雨に降られちゃえばいいんだ」
そんなことを呟いて、私はコンピュータの電源を落とす。
そうしてベッドに寝転がって、天井を見上げた。
「………………」
うーん、退屈だ。暇つぶしに気象予測を……それは今やったんだった。うーん。
頭を悩ませるたびに、ちらつくのはメリーの顔。
「…………はぁ。仕方ない、傘持って行ってあげるか」
突然の雨に困り顔のメリー。そこにすっと傘を差し出すかっこいい宇佐見蓮子。うん、悪くない。そして二人で並んで傘をさして歩いて、せっかく都心まで出てきたんだしとどこかで一緒に遊んで、適当な場所でご飯でも食べて帰ってきたらいいんじゃないかな?
そうと決まれば早速着替えて出かける準備をしなければ。あー、先にシャワーかな。
さっきまで私を苛んでいた退屈も、メリーと遊びに行く想像をするだけで吹き飛んでしまう。
そうして準備を整えて、傘を二本手に取ったときに、ふと思う。傘は科学が進歩するたびに何度か形が変わっても、結局はこの形に戻ってしまう。一昔前は傘から透明のヴェールのようなものが地面近くまで垂れていて、傘の下を個室のようにした傘も出回っていたらしい。しかし結局は「水滴がつくと結構重い」「案外歩きづらい」「何よりダサい」という評判で作っていた会社が倒産し、見かけなくなってしまったという。
結局のところ、どんなに優れた科学技術も使うのは人間なのだ。そして便利さだけが人間の求めるものでもない。不便でなければ、特別便利でなくても構わないという人間だって少なくないはずだ。人間とは時に不合理な判断のもとに生きていく。そもそも合理的に考えれば、私は冷房の聞いた部屋でごろごろしているべきに決まっているのだから。別に今日行かなくたって、明日でもメリーは誘えば一緒に遊んでくれるだろう。それでも今行きたいと思ったのだから、それはもう仕方ないのだ。
これでもし雨が降らなかったらなんて、そんなことも考えてしまう。
しかしそれでもきっとメリーは傘を二本持った私を見て、くすりと笑って、「変な蓮子」と一言で済ませてしまうだろう。
そんな後先考えないバカっぽい行動も、きっと大学生の特権に違いない。
メリーは突然現れた私を見て、何と言うだろう――。
――そんなことが、今から楽しみで仕方なかった。
「普通の大学生は晴れの日に傘を二本も持って出かけない」
「……あれ?」
やはり人間は未来を完全に予知することなんて出来ないのだ!
そしてそういう子に限ってどこか抜けてるのがさらにかわいい
私も東方の少女はなんだかんだで頭はいい(少なくとも学習的な意味では)と思っているので嬉しいですね
最後のオチもSFらしいというか彼女たちらしいですね
レベル高いなあ
そうして見ると理論と理論の繋げ方が少し拙いように思えました。一つ一つはうまくまとめられていると思うのですが、「どうしてこの理論を使ったのか」という明確な目的意識が文からだとあまり見えてこないので、小説として起用する場合は途中からキャラの存在が薄れているような印象です。
細かな繋ぎの部分で蓮子の思惟を混ぜた表現も取っているのですが、理論の解説に戻る度に100%一般論のみで話が進められているので、もう少し蓮子のこの世の理論に対するクリティシズムな部分なども織り交ぜていけるとより小説っぽさに近づけるのではないかと思います。
今回は一人称作品というのも相まり、理論の解説を蓮子本人の考えではなく「作者に言わされている感」が若干拭い切れない部分というのもありましたので、次に書く機会には形式を三人称にしてみるなどして意見を言い合えるような形にすると感情移入もしやすいのではないかと思いました。(評論の場にするなら三人称単視点が読みやすいのでお勧めです。
今回の具体例としては「カオス理論の概要→リーマン幾何学→蓮子のこれまでの行動の経緯」という流れで小説が組まれていましたが、蓮子の経緯を説明していた文にしては理論の広げ方が若干話しの脱線気味な枝分かれ方式だったので、 リーマン幾何学は触り程度にして少し登場させるくらいでも良かったような気がしました。(論説を基準にする場合の難しいところですが、例えをなるべく少なくしていく事がより説明口調でも小説よりに読ませるポイントだと思います。
あとは全体的に理論と理論の間に物語としての発展があっても良いかもしれないですね。一つの文章にすべて詰め込もうとするのではなく、物語を進めていくうちに一つ一つの解釈を立てていった方がおそらく読みやすさも変わってくるのではないでしょうか。
面白かったです
少なくとも上の方もおっしゃっている通り小説としてはあまり面白くはないと思います・・・。
突然一人称から誰に説明するわけでもないのに説明口調に切り替わる蓮子が気持ち悪かったので10点
いやいやこれこそがZUN文のリスペクトだ!というのなら一周回って100点をあげよう。あげないけど
読んだ感じおかしなことは言っていない、分かりやすいたとえ話で短く端的に小説的にまとまっている
長編なら悪文だが、SF短編としては妥当な構成
ただ言ってしまえばそれだけ、作中では特に何も起きてはいないのが減点対象
ギャグ短編のオチに使うだけで複雑な理論を読ませるのは評価が別れる部分だろう
作品全体に見える、科学はそんなに万能でいいものではないよといった皮肉的な主張は好み
実験ということなので次は理論を作品の根幹に据えたりして、その記述に必然性があるといいかと思った