プリズムリバー騒霊楽団が、幻想郷から姿を消して、間もなく一年になる。
人気の絶頂にあった彼女らは、いったいどこへ消えてしまったのか。騒霊だったのだから、成仏したのだという者もいれば、外の世界へ去ったのだという者もいる。博麗の巫女が退治して消し去ってしまったという説もあるが、これは誤解であると本人が言っている。ファンから難癖をつけられて迷惑したそうだ。勝手な思い込みでの行動は切に慎んで頂きたい。
さて、筆者もまた、騒霊楽団の音楽に馴染んでいたひとりである。ルナサ・プリズムリバーの鬱の音、メルラン・プリズムリバーの躁の音、そしてリリカ・プリズムリバーの幻想の音。聞き手の精神に直接に訴えかけてくる三種の音のアンサンブルに、時には我を忘れて盛り上がり、時には旋律の悲しみに暮れ、時には健やかなる安らぎを得た。彼女らの演奏がもはや聴けないというのは、あまりにも寂しい。だが、騒霊楽団が消えてしまったのは、紛れもない事実であり、現実である。
いちファンとして、私――稗田阿求にできることは何か。それは、彼女らがなぜ消えてしまったのか、それを解き明かすことではないかと考えた。彼女らは音楽を奏でることを己の存在意義とした騒霊楽団である。それならば、プリズムリバー騒霊楽団の音楽を研究することで、彼女らが姿を消した理由を解き明かすことが可能なのではないか――。
彼女らが残したものは、蓄音機に録音された何曲かの楽曲と、ルナサが書き残した自伝的エッセイやインタビューでの発言だけである。それらと、私自身の記憶に残る彼女らの演奏と、いくつかの話を手掛かりとし、騒霊楽団の失踪の謎に迫りたいと思う。
この記事を書くにあたっては、音楽論的観点よりも、プリズムリバー騒霊楽団のもっていた音楽観、芸術観や、彼女らのバックボーンに焦点を当てた。音楽の知識の無い方にも平易にお読みいただけるものにしたつもりである。
それでもくどくどしい文章を読むのが苦手だという方のために、先に結論を書いておこう。
彼女ら騒霊楽団が姿を消した理由。それはおそらく――。
――彼女らの目指した、究極の音楽が完成したからなのだ。
一 / 鎮魂の音楽
プリズムリバー騒霊楽団の生い立ちについては、ルナサの著書『鎮魂の騒楽』に詳しく記述されているので、ここでは概略を記すのみに留めよう。
もともと、プリズムリバー騒霊楽団は、裕福な貴族の家に生まれた人間の四姉妹であった。それが、とあるマジックアイテムの暴発事故により家族を失い、姉妹はバラバラになってしまった。そうして、屋敷に残った四女のレイラ・プリズムリバーが、マジックアイテムの力で三人の姉の似姿を具現化させたのが、我々のよく知るプリズムリバー三姉妹である。なので、人間として実在したルナサ、メルラン、リリカと、我々の知る騒霊のルナサ、メルラン、リリカは厳密には別人だ。
ともかく、彼女らは幻想郷に辿り着き、レイラはそこで天寿を全うした。レイラの死後もプリズムリバー三姉妹は消えることなく、騒霊楽団として我々を楽しませてくれたというわけだ。
以前、私の著書『幻想郷縁起』にも記したが、幽霊と亡霊は似て非なるものである。幽霊は動植物を含めたあらゆる生物の気質の具現であり、ほぼ生き物の形を持たずふわふわと漂うだけの存在だ。それに対し亡霊は、死者そのものの死後の姿である。『幻想郷縁起』では便宜上、プリズムリバー三姉妹は「幽霊」の項に含めたが、彼女らは厳密には幽霊でもなければ亡霊でもない。亡き少女の心が作り出した幻想である。故に、彼女は《騒霊》だ。
さて、ここに疑問が生じる。彼女らが、レイラ・プリズムリバーの願望が生み出したものであるならば、なぜレイラの死後も、彼女らは消えることがなかったのか。三姉妹がレイラの生み出した幻想であるなら、レイラの死とともに消え去るのが定めではないのか。
その問いに、ルナサは『鎮魂の騒楽』の中でこう記している。
私たちはかつて、閻魔様からよるべない霊と呼ばれた。私たちを生み出した人間は既に亡いのだから、と。その言葉には、しかし私は、否、と答えたい。
レイラの死後も、私たちが消えることなく音楽を奏で続けていられる理由。それは、そこにレイラの願いがあるからだ。レイラは私たちと、ずっと歌い続けることを願ってくれた。自分が死んだ後も、私たちに音楽を奏で続けるように祈ってくれた。その願いが、祈りこそが、私たち騒霊楽団の寄る辺であり、レゾンデートルである。
故に、私たちの音楽の全ては、レイラへの鎮魂曲でもある。
私たちを生み出してくれた、妹であり母である彼女のために、私たちは音を奏で続ける。
当事者でもない私が、ルナサ自身の言葉に異論を挟む余地は無いと言われれば、返す言葉はない。彼女らをレイラの死後も存在させ得たのは、確かにレイラの残した願いが故だったのであろう。それのこと自体は、私も否定するつもりは一切ない。
だが、それでもやはり疑問は残る。本当に彼女らは、亡き人間の想いだけを拠り所として、ああも強い存在として――ヒトのカタチを持った、幽霊よりも亡霊に近い存在として――存在し得たのだろうか、と。
そこで私は、プリズムリバー三姉妹という存在について、ひとつの仮説を立ててみたい。
彼女らは本当は、騒霊ではなく、それぞれの操る楽器の付喪神ではなかったのか、と。
二 / 付喪神の音楽
近年、里の祭などでおなじみの九十九姉妹は、琵琶と琴の付喪神である。
彼女らが付喪神となった経緯については、詳述するには紙幅が足りないため、拙著『輝針城異変 博麗異変解決伝(十四)』を参照していただきたい。
ともかく、彼女らは元来ただの道具であったものが、打ち出の小槌の魔力を得たことで意志を持つ存在となったものである。
――魔力。そう、これがキーワードである。ルナサの著書、『鎮魂の騒楽』の中で、プリズムリバー家を崩壊させ、レイラが三姉妹を生み出すきっかけとなった《マジックアイテム》がいったい何であったのかは、不思議と詳述されていない。
私はここで、大胆な仮説を立ててみたい。プリズムリバー伯爵の手に入れた《マジックアイテム》とは、まさにその打ち出の小槌ではなかったのか、と。輝針城異変においては、小槌の魔力によって道具の暴走が観測された。プリズムリバー家も、同様の異変に襲われたのだとしたら。そしてレイラが、打ち出の小槌によって、楽器に魔力を与えたのだとしたら。
『鎮魂の騒楽』の中でも、ルナサ、メルラン、リリカのモデルとなった、レイラの本当の姉たちが、騒霊楽団の彼女らと同じ楽器をたしなんでいたと記されている。レイラの生きていた時代にリリカのキーボードは存在しなかった、という反論はあろうが、リリカが鍵盤楽器全般の付喪神であったとすれば、この仮説は成立しうるのではないか。レイラが三姉妹を生み出したあと、異国からこの幻想郷に流れ着いたというのも、打ち出の小槌を本来の場所に返しに来たのだとすれば、辻褄は合う。
人間であったルナサ、メルラン、リリカによって使い込まれていた楽器たちが、打ち出の小槌の魔力によって付喪神としての意志を持ったとき、それが使用者の姿を模倣したとすれば。
彼女らの拠り所とは、レイラそのものではなく、自らの操る楽器だったのではないか。
さて、ここで読者は、では三姉妹の消失は拠り所の楽器が失われたためか、と早合点されるかもしれない。先に答えておくが、それは否である。
ルナサのバイオリン、メルランのトランペット、そしてリリカのキーボード。彼女らの愛用していた楽器は、彼女らの消えたあとも、彼女らの住居であった廃洋館に残されていた。無論、音の鳴る状態で、である。
では、彼女らは付喪神としての魔力を失い、ただの道具に戻ってしまったのだろうか?
それも考えにくい。打ち出の小槌は魔力を使い切ると、使った対象から魔力を回収するという性質がある。『輝針城異変』にも記したが、九十九姉妹は小槌の魔力を失った際に、堀川雷鼓の手引きによって自らの力の拠り所を置き換えることで、道具に戻ることを回避したという。だとすれば、ルナサたちが生み出された際の魔力もとうの昔に回収されていたはずであり、それでも彼女らが消えなかったということは、彼女らは既に自らの存在を、小槌の魔力から別のものに置き換えていたはずだ。
そもそも、彼女らが付喪神として生み出されてから数百年以上が経っている。彼女たちの最初の拠り所となった楽器は既に時の流れの中で失われてしまっていただろう。ライブでも彼女らは、自らの操る楽器を、楽器の幽霊と呼んでいた。それはやはり、その楽器が彼女らが最初から用いていた楽器でないことを示しているのではないか。
堀川雷鼓も、小槌の魔力から脱却するにあたり、自らの依り代であった楽器を一度捨て去り、別の楽器に取り憑いたという。騒霊楽団も同じことをしていたと考えるべきであろう。
かくして疑問は振り出しに戻る。なぜ、プリズムリバー三姉妹は消えてしまったのか。
その死から既に永い時間が過ぎている以上、レイラ・プリズムリバーは原因たり得ない。彼女らが付喪神であったとしても、やはり今消える理由にはならない。輝針城異変にしたところで既に一年近く前の話なのだ。
だとすれば、彼女らの失踪の理由は、彼女らの存在の定義にあるのではない。
そこで、彼女らの音楽そのものについて、目を向けてみたいと思う。
三 / 音楽のイデア
騒霊楽団にとって、音楽とは何であったのか。もちろんそれは、前述した通り、レイラへの鎮魂曲であったのだろう。しかし、それは彼女らが音楽の演奏という手段を選んだ目的であって、《音楽》そのものを彼女らがどう捉えていたかとは、また別問題である。
大前提として、音楽とは耳で聴くものであり、耳で聴くことしかできないものである。音楽は目で見ることはできないし、触れることも、匂いを嗅ぐこともできない。ただひたすら、聴覚のみで受容する芸術、それが音楽である。世の中には聴覚を失った音楽家も存在したというけれども、彼らであっても生まれつきの聾者ではあるまい。
聴かれることのない音楽は、存在しないのと同じことである。聴こえなければ、そこに音楽が存在することは認識できない。楽譜を見ればそこに記された音楽が聞こえてくる者もいるのだろうが、それにしたところで頭の中で《聴いて》いるという点では同じであろう。
すなわち、音楽は演奏されることによって初めて存在を認識される。演奏する者がなければ、それはただの楽譜に記された記号に過ぎない。演奏されて初めて、音楽は命を持つのだ。
――というのが、おおよそ一般的な《音楽》に対する認識であろうと思う。
しかしルナサは文々。新聞のインタビューの中で、自らの音楽観についてこう述べている。
真の音楽は、演奏される前にだけ存在するものなのではないかと思います。
どんな音楽も、演奏される前にはただ、人の手の一切加わっていない純粋な音楽として存在するんです。音楽を演奏するということは、イデアの世界に存在する純粋な音楽を、現世に再現することです。ですが、イデアの世界にある純粋な音楽は、決して演奏することはできません。
技術、解釈、環境――演奏される音楽には、様々な不純物が入り交じり、イデアの世界にあった音楽とはかけ離れたものになってしまうのです。
たとえば、同じ楽曲でも私がバイオリンのソロで演奏するのと、メルランがトランペットのソロで演奏するのとでは、受ける印象は全く違ったものになるでしょう。それは、どちらも決して純粋な音楽そのものではなく、私の音楽、メルランの音楽になってしまうのです。
純粋な音楽は、演奏される前にしか存在し得ない。では、音楽家は何を目指すのか、徹底的に音楽を解体して、自分のものにしてしまう。それもひとつの手段でしょう。逆に、可能な限り純粋な音楽に近づけることを目指す。それもまたひとつの手段です。
音楽家が決して純粋な音楽そのものを演奏し得ない以上、どちらが正しく、どちらを目指すべきであるのかは、おそらく永遠に結論の出ない問いなのではないかと思います。
騒霊楽団の演奏する音楽は、本来の耳で聴く音楽とはいささか異なっている。彼女らの奏でる音は、音の幽霊であり、聴く者の精神に直接訴えかけてくる。騒霊楽団のライブで、メルランの音楽にあてられてしまう者がよく出るのはそのためだ。
その意味で、彼女らの音楽は一般の音楽より、ルナサの言うところの純粋な音楽、イデアの世界にある音楽に近かったのかもしれない。しかし、やはり演奏されている以上、ルナサ本人が言うように、それは騒霊楽団の音楽であり、純粋な音楽ではなかったのだろう。
イデアの世界にある純粋な音楽――この概念は、騒霊楽団の音楽を読み解く上で、極めて重要なタームとなっている。
この考え方を軸に、騒霊楽団の目指した音楽というものを解析してみよう。
四 / 鬱と躁と幻想
騒霊楽団の音楽を語る上で、避けては通れないのが《鬱の音》《躁の音》《幻想の音》という概念である。それぞれ、ルナサ、メルラン、リリカの操る音を現した言葉だ。
前述の通り、騒霊楽団の音楽は聴く者の精神に直接作用する。ルナサの鬱の音を聴けば気分は落ち着き、メルランの躁の音を聴けば盛り上がる。そしてリリカの幻想の音が、そのふたつの効果を中和し、人間の聴ける音楽の領域に留めるのだ。
この《幻想の音》というものが曲者である、鬱の音、躁の音はわかりやすい。ルナサはソロ活動も頻繁にしていたから、ルナサのバイオリンを単体で聴き、気分を落ち着かせたことのある者も多いだろう。メルランのトランペットはライブの盛り上げ役として、皆におなじみだ。
しかし、リリカは一切ソロ活動をせず、ライブでも姉ふたりのバックで調整役に務めていた。そのため、騒霊楽団の中でもいささか影の薄い存在であったというのが、おそらくリリカに対する衆目の一致した印象であろう。
だが、リリカこそが騒霊楽団の音楽を成立させていたキーマンなのである。
ルナサの鬱の音と、メルランの躁の音は対極にあり、同時に奏でればぶつかり合い、反発しあってしまう。水と油のようなもので、気分を盛り上げるメルランの音と、気分を落ち着かせるルナサの音は、本来共存できない。精神の大岡裁きが始まってしまい、両側に引っ張られて聴く者の精神が不安定になってしまう。
リリカの幻想の音は、その水と油を混ぜ合わせるという不思議な作用を持っていた。いったいどのような原理なのか、彼女が消えてしまった今となっては突き止めようもない。
ただリリカについての数少ない証言によれば、リリカの幻想の音とは、外の世界で消え去った音であるという。失われた音――その概念は、何かを思い出させないだろうか。
そう、イデアの世界にある音楽である。演奏されることで失われてしまう、純粋な音楽。
リリカの幻想の音とは――音楽のイデア、そのものであったのではないだろうか。
五 / 芸術の価値
話は少し脇道に逸れるが、芸術家というのはおしなべて奇妙な価値観を持っている。
即ち、大衆に評価されたくない、という価値観だ。
芸術の世界において、大衆的な名声を求める者は、俗物であると見なされる。芸術の世界に身を置く者は、大衆に迎合することを唾棄し、なぜか真の芸術とは大衆的な価値観の対極にあるものだと信じる傾向がある。彼らは大衆には見る目がなく、真に価値あるものは決して大衆には理解されないものだと考えたがる。
奇妙な話だ、と私は思う。優れた芸術作品が後世に残るのは、その作品が多くの人間に支持されるからではないのか? ごく一部の人間だけが絶賛するものが、果たして後世に残るだろうか? もちろん、発表当時はその価値が理解されず酷評されたものが、後に再評価される例は枚挙にいとまがないが、その再評価もまた、決して一部の芸術家ではなく、多くの大衆によってこそ為されるものなのではないだろうか。
そして、年月に耐え、多くの支持を得て後世に残った作品を、芸術家は肯定する。それは彼らが唾棄する大衆が認めたからこそ残ったものであるというのに! 彼らの多くはただ、既に評価の定まった過去の名作は肯定し、評価の定まらぬ現代の作品はとりあえず否定することで、己が大衆とは異なる特別な優れた存在であると主張したいに過ぎないのであろう。
音楽であれ、絵画であれ、小説であれ、芸術というものは誰かの心を動かすことを目的としたものであるはずだ。
だとすれば、その作品が、作者の意図した相手の心を動かすことができれば、その人数の多寡も、永い年月を経て残るか否かも、究極的には大した問題ではないのではないか。多くの人の心を動かした作品はその対象が多かったというだけの話で、一部の者にだけ絶賛される作品はその対象が少なかったという性質の違いであり、価値の差ではない。年月にしたところで、数年後には見向きもされなくなる作品と、数百年後にも残る作品は、ただ対象が今の相手であったか、もっと永いスパンの相手であったのかの違いでしかないだろう。
わかりやすい例をひけば、子供の描いた両親の似顔絵こそが、まさに芸術の極致であると言えるかもしれない。子供の描く両親の似顔絵は、技術的には当然拙劣であり、大衆的な価値は全く無いと言っていい。しかし、この世でただふたり、その子の両親にとっては、どんな芸術的絵画よりも価値ある宝物となるだろう。
子供の似顔絵を、芸術的に無価値であるとわざわざ言う者はいないだろうが、金を出して購入する者もいないだろう。そしてそれが後世まで残ることもない。この世でただふたりの人間にのみ評価される絵。それは芸術的に無価値だろうか? 否、そんなことはない。少なくともそれはふたりの人間の心を動かした、立派な芸術作品である。
どれだけ拙劣なものであろうとも、それによって心を動かされる者がひとりでもいれば、それは芸術作品たり得るのであり、人数の多寡にも耐えうる年月にも意味がないとすれば、全ての芸術の本質的な価値は等しいと言えるのではないか。
騒霊楽団の目指した音楽は、大衆的なものだろうか。それとも、ごく一部の相手にのみ伝われば良いものであっただろうか。答えは、その両方であると言うのが適切だろう。
ルナサ自身が述べている通り、騒霊楽団の音楽が全てレイラへの鎮魂曲であったとすれば、彼女らの音楽はこの世でただひとり、レイラ・プリズムリバーのためだけに奏でられていたものである。しかし同時に、彼女らはそのレイラのための音楽で、私たち不特定多数の聴衆を楽しませてもくれたのだ。少なくとも私は、騒霊楽団の音楽に、芸術としての価値を見出していた。多くの彼女らのファンも、頷いてくれるはずである。
六 / 純粋な音楽
ルナサとメルランには、それぞれ個別のファンが数多く存在した。彼女らはどちらも頻繁にソロライブを行っていたのも、その証であろう。
前述の、ルナサの語る音楽に対するスタンスでいえば、ルナサはイデア世界の音楽に少しでも近付こうとするタイプ。一方メルランは、徹底的に音楽を解体して自分のものとしてしまうタイプであっただろう。ルナサの演奏には楽譜に忠実な安心感があり、メルランの演奏は即興のアレンジが次々飛び出す何でもありの奔放さへの期待感があった。
一方、リリカの個人的なファンというのは、おそらくほとんど存在しなかったのではなかろうか。彼女がソロ活動をほとんど行わなかったことからも、それが窺える。そして、リリカの演奏に対する印象も、ひどく茫漠としている。リリカの音楽とはどんなものだったかと聴かれ、定まったイメージを即答できる者は、おそらくいないのではないだろうか。
リリカの音楽こそが、イデア世界の純粋な音楽に最も近いのではないか、という説は先に述べた。しかし、リリカの音楽こそが純粋な音楽であったとするならば、ルナサのインタビューでの発言はおかしなことになる。
純粋な音楽そのものが彼女の身近に存在し、リリカがそれを演奏していたのだとすれば、「純粋な音楽は、演奏される前にしか存在し得ない」というルナサの言葉は矛盾している。やはりリリカの音楽もまた、ルナサの言う純粋な音楽そのものではなかったのだろう。
真の芸術とは何か。それは全ての芸術家を悩ます、永遠の命題であろう。
ルナサの言う純粋な音楽もまた、決して答えのでない命題であったはずだ。
芸術とは、触れる者の心を動かすものである。
もし、真の芸術というものが、触れる者全ての心を動かすものだとすれば。
一切の例外なく、全ての者の心を動かしてしまうものが、真の芸術だとすれば。
そんなものば、決して存在し得ない。
なぜなら、目の見えない者に、絵画は存在しないのと同じだから。
耳の聞こえない者に、音楽は存在しないのと同じだから。
文字の読めない者に、小説は存在しないのと同じだから。
目の見えない者も、耳の聞こえない者も、文字の読めない者も、触れる手を持たない者も、一切の例外なく心を動かす芸術など、あり得るはずがない。
だから、真の芸術とは現実には決して存在し得ないものである。――そうだろうか?
だが、もし、真の芸術というものが、存在したとしたら。
イデアの世界にある、純粋な音楽というものが、演奏され得たとしたら。
私は、そのためにこそ、プリズムリバー三姉妹は消えてしまったのではないかと思う。
彼女らは、辿り着いてしまったのだ。純粋な音楽、それそのものに。
イデアの世界にある、真の音楽に。
全ての者の心を動かす芸術というものが、決して存在し得ないとすれば。
真の芸術とは、決してそこにはない。発想を転換する必要がある。
すなわち、真の芸術とは――、
誰ひとりとして心を動かされることのないもの、なのではないだろうか。
子供の稚拙な絵であっても、両親にとっては宝物になり得る。
どんな拙劣な作品であっても、作り上げた当人にとっては大切なものになり得る。
たとえどんな作品であれ、この世の誰一人としてその価値を評価しない作品というものはあり得ないはずだ。たとえ作り上げた本人でさえ否定するものであっても、拒絶という感情を動かされた時点で、やはり誰かの心を動かしているのだ。
それは、芸術作品以外のものにも言える。この世に存在するあらゆるものは、誰かの心を動かさずにはいられない。誰の心にも残らない、誰の感情も動かさないものなど、この世にはおそらくひとつとして存在し得ない。そのはずだ。
だが、もし、誰の心も動かさない音楽というものがあったとしたら。
それは即ち、誰にも聞こえない音楽なのではないだろうか。
アンビエント・ミュージックというジャンルがある。その場に漂う空気のように、音楽そのものが強く印象に残らないことを目的とした音楽である。リリカの幻想の音は、おそらくそれに近い。また、ルナサの鬱の音の目指すものも、アンビエントに近いものだろう。そして、その対極にあると見なされるメルランの躁の音も――感情が極限まで高ぶれば、もはや音楽など認識している余裕はない。そこで音楽は消失してしまう。
つまり――騒霊楽団の音楽の究極の到達点とは、音楽の消失だったのではないか。
確かに演奏されているのに、誰の心も動かさず、演奏されていることにすら気付かれず、存在しないものとして素通りされる音楽。誰にも聞こえない。誰も心を動かされない。だが、確かに演奏されている。誰もその音楽を認識できないだけで。
認識できないということは、しかし、存在しないことと同義ではない。なぜならそれは演奏されているのだ。おそらくは、今も。私たちが気付かないだけで。
そう、プリズムリバー三姉妹は、消えてしまったのではない。
彼女たちは今もまだ演奏を続けているのだ。真の音楽を。誰の心も動かさない、誰にも認識されない、究極の純粋な音楽を。
誰もそれを認識できないが故に、彼女たちはどこにでも存在する。
今、音楽など聴いていないはずの貴方の耳にも、その音楽は確かに聞こえているのだ。貴方がそれを認識できないだけで。それに心を動かされないだけで。
そう、プリズムリバー三姉妹は、もはや肉体も楽器も必要ではなくなったのだ。
誰にも気付かれない音楽は、あらゆる場所に遍在できるのだから。
彼女たちもまた、あらゆる場所に遍在しているのだ。
私のそばにも、貴方のそばにも。
騒霊楽団は、今も音楽を奏で続けている。
音楽の究極に辿り着いた彼女たちのそれは、音楽そのものへの鎮魂曲だ。
しかしそれは誰にも聞こえないから、私たちは彷徨うしかない。
騒霊楽団の辿り着いた、真の音楽をつかみ取ろうと、もがいて手を伸ばすしかない。
認識不可能な音楽には、決してその手が届かないのだとしても。
人気の絶頂にあった彼女らは、いったいどこへ消えてしまったのか。騒霊だったのだから、成仏したのだという者もいれば、外の世界へ去ったのだという者もいる。博麗の巫女が退治して消し去ってしまったという説もあるが、これは誤解であると本人が言っている。ファンから難癖をつけられて迷惑したそうだ。勝手な思い込みでの行動は切に慎んで頂きたい。
さて、筆者もまた、騒霊楽団の音楽に馴染んでいたひとりである。ルナサ・プリズムリバーの鬱の音、メルラン・プリズムリバーの躁の音、そしてリリカ・プリズムリバーの幻想の音。聞き手の精神に直接に訴えかけてくる三種の音のアンサンブルに、時には我を忘れて盛り上がり、時には旋律の悲しみに暮れ、時には健やかなる安らぎを得た。彼女らの演奏がもはや聴けないというのは、あまりにも寂しい。だが、騒霊楽団が消えてしまったのは、紛れもない事実であり、現実である。
いちファンとして、私――稗田阿求にできることは何か。それは、彼女らがなぜ消えてしまったのか、それを解き明かすことではないかと考えた。彼女らは音楽を奏でることを己の存在意義とした騒霊楽団である。それならば、プリズムリバー騒霊楽団の音楽を研究することで、彼女らが姿を消した理由を解き明かすことが可能なのではないか――。
彼女らが残したものは、蓄音機に録音された何曲かの楽曲と、ルナサが書き残した自伝的エッセイやインタビューでの発言だけである。それらと、私自身の記憶に残る彼女らの演奏と、いくつかの話を手掛かりとし、騒霊楽団の失踪の謎に迫りたいと思う。
この記事を書くにあたっては、音楽論的観点よりも、プリズムリバー騒霊楽団のもっていた音楽観、芸術観や、彼女らのバックボーンに焦点を当てた。音楽の知識の無い方にも平易にお読みいただけるものにしたつもりである。
それでもくどくどしい文章を読むのが苦手だという方のために、先に結論を書いておこう。
彼女ら騒霊楽団が姿を消した理由。それはおそらく――。
――彼女らの目指した、究極の音楽が完成したからなのだ。
一 / 鎮魂の音楽
プリズムリバー騒霊楽団の生い立ちについては、ルナサの著書『鎮魂の騒楽』に詳しく記述されているので、ここでは概略を記すのみに留めよう。
もともと、プリズムリバー騒霊楽団は、裕福な貴族の家に生まれた人間の四姉妹であった。それが、とあるマジックアイテムの暴発事故により家族を失い、姉妹はバラバラになってしまった。そうして、屋敷に残った四女のレイラ・プリズムリバーが、マジックアイテムの力で三人の姉の似姿を具現化させたのが、我々のよく知るプリズムリバー三姉妹である。なので、人間として実在したルナサ、メルラン、リリカと、我々の知る騒霊のルナサ、メルラン、リリカは厳密には別人だ。
ともかく、彼女らは幻想郷に辿り着き、レイラはそこで天寿を全うした。レイラの死後もプリズムリバー三姉妹は消えることなく、騒霊楽団として我々を楽しませてくれたというわけだ。
以前、私の著書『幻想郷縁起』にも記したが、幽霊と亡霊は似て非なるものである。幽霊は動植物を含めたあらゆる生物の気質の具現であり、ほぼ生き物の形を持たずふわふわと漂うだけの存在だ。それに対し亡霊は、死者そのものの死後の姿である。『幻想郷縁起』では便宜上、プリズムリバー三姉妹は「幽霊」の項に含めたが、彼女らは厳密には幽霊でもなければ亡霊でもない。亡き少女の心が作り出した幻想である。故に、彼女は《騒霊》だ。
さて、ここに疑問が生じる。彼女らが、レイラ・プリズムリバーの願望が生み出したものであるならば、なぜレイラの死後も、彼女らは消えることがなかったのか。三姉妹がレイラの生み出した幻想であるなら、レイラの死とともに消え去るのが定めではないのか。
その問いに、ルナサは『鎮魂の騒楽』の中でこう記している。
私たちはかつて、閻魔様からよるべない霊と呼ばれた。私たちを生み出した人間は既に亡いのだから、と。その言葉には、しかし私は、否、と答えたい。
レイラの死後も、私たちが消えることなく音楽を奏で続けていられる理由。それは、そこにレイラの願いがあるからだ。レイラは私たちと、ずっと歌い続けることを願ってくれた。自分が死んだ後も、私たちに音楽を奏で続けるように祈ってくれた。その願いが、祈りこそが、私たち騒霊楽団の寄る辺であり、レゾンデートルである。
故に、私たちの音楽の全ては、レイラへの鎮魂曲でもある。
私たちを生み出してくれた、妹であり母である彼女のために、私たちは音を奏で続ける。
当事者でもない私が、ルナサ自身の言葉に異論を挟む余地は無いと言われれば、返す言葉はない。彼女らをレイラの死後も存在させ得たのは、確かにレイラの残した願いが故だったのであろう。それのこと自体は、私も否定するつもりは一切ない。
だが、それでもやはり疑問は残る。本当に彼女らは、亡き人間の想いだけを拠り所として、ああも強い存在として――ヒトのカタチを持った、幽霊よりも亡霊に近い存在として――存在し得たのだろうか、と。
そこで私は、プリズムリバー三姉妹という存在について、ひとつの仮説を立ててみたい。
彼女らは本当は、騒霊ではなく、それぞれの操る楽器の付喪神ではなかったのか、と。
二 / 付喪神の音楽
近年、里の祭などでおなじみの九十九姉妹は、琵琶と琴の付喪神である。
彼女らが付喪神となった経緯については、詳述するには紙幅が足りないため、拙著『輝針城異変 博麗異変解決伝(十四)』を参照していただきたい。
ともかく、彼女らは元来ただの道具であったものが、打ち出の小槌の魔力を得たことで意志を持つ存在となったものである。
――魔力。そう、これがキーワードである。ルナサの著書、『鎮魂の騒楽』の中で、プリズムリバー家を崩壊させ、レイラが三姉妹を生み出すきっかけとなった《マジックアイテム》がいったい何であったのかは、不思議と詳述されていない。
私はここで、大胆な仮説を立ててみたい。プリズムリバー伯爵の手に入れた《マジックアイテム》とは、まさにその打ち出の小槌ではなかったのか、と。輝針城異変においては、小槌の魔力によって道具の暴走が観測された。プリズムリバー家も、同様の異変に襲われたのだとしたら。そしてレイラが、打ち出の小槌によって、楽器に魔力を与えたのだとしたら。
『鎮魂の騒楽』の中でも、ルナサ、メルラン、リリカのモデルとなった、レイラの本当の姉たちが、騒霊楽団の彼女らと同じ楽器をたしなんでいたと記されている。レイラの生きていた時代にリリカのキーボードは存在しなかった、という反論はあろうが、リリカが鍵盤楽器全般の付喪神であったとすれば、この仮説は成立しうるのではないか。レイラが三姉妹を生み出したあと、異国からこの幻想郷に流れ着いたというのも、打ち出の小槌を本来の場所に返しに来たのだとすれば、辻褄は合う。
人間であったルナサ、メルラン、リリカによって使い込まれていた楽器たちが、打ち出の小槌の魔力によって付喪神としての意志を持ったとき、それが使用者の姿を模倣したとすれば。
彼女らの拠り所とは、レイラそのものではなく、自らの操る楽器だったのではないか。
さて、ここで読者は、では三姉妹の消失は拠り所の楽器が失われたためか、と早合点されるかもしれない。先に答えておくが、それは否である。
ルナサのバイオリン、メルランのトランペット、そしてリリカのキーボード。彼女らの愛用していた楽器は、彼女らの消えたあとも、彼女らの住居であった廃洋館に残されていた。無論、音の鳴る状態で、である。
では、彼女らは付喪神としての魔力を失い、ただの道具に戻ってしまったのだろうか?
それも考えにくい。打ち出の小槌は魔力を使い切ると、使った対象から魔力を回収するという性質がある。『輝針城異変』にも記したが、九十九姉妹は小槌の魔力を失った際に、堀川雷鼓の手引きによって自らの力の拠り所を置き換えることで、道具に戻ることを回避したという。だとすれば、ルナサたちが生み出された際の魔力もとうの昔に回収されていたはずであり、それでも彼女らが消えなかったということは、彼女らは既に自らの存在を、小槌の魔力から別のものに置き換えていたはずだ。
そもそも、彼女らが付喪神として生み出されてから数百年以上が経っている。彼女たちの最初の拠り所となった楽器は既に時の流れの中で失われてしまっていただろう。ライブでも彼女らは、自らの操る楽器を、楽器の幽霊と呼んでいた。それはやはり、その楽器が彼女らが最初から用いていた楽器でないことを示しているのではないか。
堀川雷鼓も、小槌の魔力から脱却するにあたり、自らの依り代であった楽器を一度捨て去り、別の楽器に取り憑いたという。騒霊楽団も同じことをしていたと考えるべきであろう。
かくして疑問は振り出しに戻る。なぜ、プリズムリバー三姉妹は消えてしまったのか。
その死から既に永い時間が過ぎている以上、レイラ・プリズムリバーは原因たり得ない。彼女らが付喪神であったとしても、やはり今消える理由にはならない。輝針城異変にしたところで既に一年近く前の話なのだ。
だとすれば、彼女らの失踪の理由は、彼女らの存在の定義にあるのではない。
そこで、彼女らの音楽そのものについて、目を向けてみたいと思う。
三 / 音楽のイデア
騒霊楽団にとって、音楽とは何であったのか。もちろんそれは、前述した通り、レイラへの鎮魂曲であったのだろう。しかし、それは彼女らが音楽の演奏という手段を選んだ目的であって、《音楽》そのものを彼女らがどう捉えていたかとは、また別問題である。
大前提として、音楽とは耳で聴くものであり、耳で聴くことしかできないものである。音楽は目で見ることはできないし、触れることも、匂いを嗅ぐこともできない。ただひたすら、聴覚のみで受容する芸術、それが音楽である。世の中には聴覚を失った音楽家も存在したというけれども、彼らであっても生まれつきの聾者ではあるまい。
聴かれることのない音楽は、存在しないのと同じことである。聴こえなければ、そこに音楽が存在することは認識できない。楽譜を見ればそこに記された音楽が聞こえてくる者もいるのだろうが、それにしたところで頭の中で《聴いて》いるという点では同じであろう。
すなわち、音楽は演奏されることによって初めて存在を認識される。演奏する者がなければ、それはただの楽譜に記された記号に過ぎない。演奏されて初めて、音楽は命を持つのだ。
――というのが、おおよそ一般的な《音楽》に対する認識であろうと思う。
しかしルナサは文々。新聞のインタビューの中で、自らの音楽観についてこう述べている。
真の音楽は、演奏される前にだけ存在するものなのではないかと思います。
どんな音楽も、演奏される前にはただ、人の手の一切加わっていない純粋な音楽として存在するんです。音楽を演奏するということは、イデアの世界に存在する純粋な音楽を、現世に再現することです。ですが、イデアの世界にある純粋な音楽は、決して演奏することはできません。
技術、解釈、環境――演奏される音楽には、様々な不純物が入り交じり、イデアの世界にあった音楽とはかけ離れたものになってしまうのです。
たとえば、同じ楽曲でも私がバイオリンのソロで演奏するのと、メルランがトランペットのソロで演奏するのとでは、受ける印象は全く違ったものになるでしょう。それは、どちらも決して純粋な音楽そのものではなく、私の音楽、メルランの音楽になってしまうのです。
純粋な音楽は、演奏される前にしか存在し得ない。では、音楽家は何を目指すのか、徹底的に音楽を解体して、自分のものにしてしまう。それもひとつの手段でしょう。逆に、可能な限り純粋な音楽に近づけることを目指す。それもまたひとつの手段です。
音楽家が決して純粋な音楽そのものを演奏し得ない以上、どちらが正しく、どちらを目指すべきであるのかは、おそらく永遠に結論の出ない問いなのではないかと思います。
騒霊楽団の演奏する音楽は、本来の耳で聴く音楽とはいささか異なっている。彼女らの奏でる音は、音の幽霊であり、聴く者の精神に直接訴えかけてくる。騒霊楽団のライブで、メルランの音楽にあてられてしまう者がよく出るのはそのためだ。
その意味で、彼女らの音楽は一般の音楽より、ルナサの言うところの純粋な音楽、イデアの世界にある音楽に近かったのかもしれない。しかし、やはり演奏されている以上、ルナサ本人が言うように、それは騒霊楽団の音楽であり、純粋な音楽ではなかったのだろう。
イデアの世界にある純粋な音楽――この概念は、騒霊楽団の音楽を読み解く上で、極めて重要なタームとなっている。
この考え方を軸に、騒霊楽団の目指した音楽というものを解析してみよう。
四 / 鬱と躁と幻想
騒霊楽団の音楽を語る上で、避けては通れないのが《鬱の音》《躁の音》《幻想の音》という概念である。それぞれ、ルナサ、メルラン、リリカの操る音を現した言葉だ。
前述の通り、騒霊楽団の音楽は聴く者の精神に直接作用する。ルナサの鬱の音を聴けば気分は落ち着き、メルランの躁の音を聴けば盛り上がる。そしてリリカの幻想の音が、そのふたつの効果を中和し、人間の聴ける音楽の領域に留めるのだ。
この《幻想の音》というものが曲者である、鬱の音、躁の音はわかりやすい。ルナサはソロ活動も頻繁にしていたから、ルナサのバイオリンを単体で聴き、気分を落ち着かせたことのある者も多いだろう。メルランのトランペットはライブの盛り上げ役として、皆におなじみだ。
しかし、リリカは一切ソロ活動をせず、ライブでも姉ふたりのバックで調整役に務めていた。そのため、騒霊楽団の中でもいささか影の薄い存在であったというのが、おそらくリリカに対する衆目の一致した印象であろう。
だが、リリカこそが騒霊楽団の音楽を成立させていたキーマンなのである。
ルナサの鬱の音と、メルランの躁の音は対極にあり、同時に奏でればぶつかり合い、反発しあってしまう。水と油のようなもので、気分を盛り上げるメルランの音と、気分を落ち着かせるルナサの音は、本来共存できない。精神の大岡裁きが始まってしまい、両側に引っ張られて聴く者の精神が不安定になってしまう。
リリカの幻想の音は、その水と油を混ぜ合わせるという不思議な作用を持っていた。いったいどのような原理なのか、彼女が消えてしまった今となっては突き止めようもない。
ただリリカについての数少ない証言によれば、リリカの幻想の音とは、外の世界で消え去った音であるという。失われた音――その概念は、何かを思い出させないだろうか。
そう、イデアの世界にある音楽である。演奏されることで失われてしまう、純粋な音楽。
リリカの幻想の音とは――音楽のイデア、そのものであったのではないだろうか。
五 / 芸術の価値
話は少し脇道に逸れるが、芸術家というのはおしなべて奇妙な価値観を持っている。
即ち、大衆に評価されたくない、という価値観だ。
芸術の世界において、大衆的な名声を求める者は、俗物であると見なされる。芸術の世界に身を置く者は、大衆に迎合することを唾棄し、なぜか真の芸術とは大衆的な価値観の対極にあるものだと信じる傾向がある。彼らは大衆には見る目がなく、真に価値あるものは決して大衆には理解されないものだと考えたがる。
奇妙な話だ、と私は思う。優れた芸術作品が後世に残るのは、その作品が多くの人間に支持されるからではないのか? ごく一部の人間だけが絶賛するものが、果たして後世に残るだろうか? もちろん、発表当時はその価値が理解されず酷評されたものが、後に再評価される例は枚挙にいとまがないが、その再評価もまた、決して一部の芸術家ではなく、多くの大衆によってこそ為されるものなのではないだろうか。
そして、年月に耐え、多くの支持を得て後世に残った作品を、芸術家は肯定する。それは彼らが唾棄する大衆が認めたからこそ残ったものであるというのに! 彼らの多くはただ、既に評価の定まった過去の名作は肯定し、評価の定まらぬ現代の作品はとりあえず否定することで、己が大衆とは異なる特別な優れた存在であると主張したいに過ぎないのであろう。
音楽であれ、絵画であれ、小説であれ、芸術というものは誰かの心を動かすことを目的としたものであるはずだ。
だとすれば、その作品が、作者の意図した相手の心を動かすことができれば、その人数の多寡も、永い年月を経て残るか否かも、究極的には大した問題ではないのではないか。多くの人の心を動かした作品はその対象が多かったというだけの話で、一部の者にだけ絶賛される作品はその対象が少なかったという性質の違いであり、価値の差ではない。年月にしたところで、数年後には見向きもされなくなる作品と、数百年後にも残る作品は、ただ対象が今の相手であったか、もっと永いスパンの相手であったのかの違いでしかないだろう。
わかりやすい例をひけば、子供の描いた両親の似顔絵こそが、まさに芸術の極致であると言えるかもしれない。子供の描く両親の似顔絵は、技術的には当然拙劣であり、大衆的な価値は全く無いと言っていい。しかし、この世でただふたり、その子の両親にとっては、どんな芸術的絵画よりも価値ある宝物となるだろう。
子供の似顔絵を、芸術的に無価値であるとわざわざ言う者はいないだろうが、金を出して購入する者もいないだろう。そしてそれが後世まで残ることもない。この世でただふたりの人間にのみ評価される絵。それは芸術的に無価値だろうか? 否、そんなことはない。少なくともそれはふたりの人間の心を動かした、立派な芸術作品である。
どれだけ拙劣なものであろうとも、それによって心を動かされる者がひとりでもいれば、それは芸術作品たり得るのであり、人数の多寡にも耐えうる年月にも意味がないとすれば、全ての芸術の本質的な価値は等しいと言えるのではないか。
騒霊楽団の目指した音楽は、大衆的なものだろうか。それとも、ごく一部の相手にのみ伝われば良いものであっただろうか。答えは、その両方であると言うのが適切だろう。
ルナサ自身が述べている通り、騒霊楽団の音楽が全てレイラへの鎮魂曲であったとすれば、彼女らの音楽はこの世でただひとり、レイラ・プリズムリバーのためだけに奏でられていたものである。しかし同時に、彼女らはそのレイラのための音楽で、私たち不特定多数の聴衆を楽しませてもくれたのだ。少なくとも私は、騒霊楽団の音楽に、芸術としての価値を見出していた。多くの彼女らのファンも、頷いてくれるはずである。
六 / 純粋な音楽
ルナサとメルランには、それぞれ個別のファンが数多く存在した。彼女らはどちらも頻繁にソロライブを行っていたのも、その証であろう。
前述の、ルナサの語る音楽に対するスタンスでいえば、ルナサはイデア世界の音楽に少しでも近付こうとするタイプ。一方メルランは、徹底的に音楽を解体して自分のものとしてしまうタイプであっただろう。ルナサの演奏には楽譜に忠実な安心感があり、メルランの演奏は即興のアレンジが次々飛び出す何でもありの奔放さへの期待感があった。
一方、リリカの個人的なファンというのは、おそらくほとんど存在しなかったのではなかろうか。彼女がソロ活動をほとんど行わなかったことからも、それが窺える。そして、リリカの演奏に対する印象も、ひどく茫漠としている。リリカの音楽とはどんなものだったかと聴かれ、定まったイメージを即答できる者は、おそらくいないのではないだろうか。
リリカの音楽こそが、イデア世界の純粋な音楽に最も近いのではないか、という説は先に述べた。しかし、リリカの音楽こそが純粋な音楽であったとするならば、ルナサのインタビューでの発言はおかしなことになる。
純粋な音楽そのものが彼女の身近に存在し、リリカがそれを演奏していたのだとすれば、「純粋な音楽は、演奏される前にしか存在し得ない」というルナサの言葉は矛盾している。やはりリリカの音楽もまた、ルナサの言う純粋な音楽そのものではなかったのだろう。
真の芸術とは何か。それは全ての芸術家を悩ます、永遠の命題であろう。
ルナサの言う純粋な音楽もまた、決して答えのでない命題であったはずだ。
芸術とは、触れる者の心を動かすものである。
もし、真の芸術というものが、触れる者全ての心を動かすものだとすれば。
一切の例外なく、全ての者の心を動かしてしまうものが、真の芸術だとすれば。
そんなものば、決して存在し得ない。
なぜなら、目の見えない者に、絵画は存在しないのと同じだから。
耳の聞こえない者に、音楽は存在しないのと同じだから。
文字の読めない者に、小説は存在しないのと同じだから。
目の見えない者も、耳の聞こえない者も、文字の読めない者も、触れる手を持たない者も、一切の例外なく心を動かす芸術など、あり得るはずがない。
だから、真の芸術とは現実には決して存在し得ないものである。――そうだろうか?
だが、もし、真の芸術というものが、存在したとしたら。
イデアの世界にある、純粋な音楽というものが、演奏され得たとしたら。
私は、そのためにこそ、プリズムリバー三姉妹は消えてしまったのではないかと思う。
彼女らは、辿り着いてしまったのだ。純粋な音楽、それそのものに。
イデアの世界にある、真の音楽に。
全ての者の心を動かす芸術というものが、決して存在し得ないとすれば。
真の芸術とは、決してそこにはない。発想を転換する必要がある。
すなわち、真の芸術とは――、
誰ひとりとして心を動かされることのないもの、なのではないだろうか。
子供の稚拙な絵であっても、両親にとっては宝物になり得る。
どんな拙劣な作品であっても、作り上げた当人にとっては大切なものになり得る。
たとえどんな作品であれ、この世の誰一人としてその価値を評価しない作品というものはあり得ないはずだ。たとえ作り上げた本人でさえ否定するものであっても、拒絶という感情を動かされた時点で、やはり誰かの心を動かしているのだ。
それは、芸術作品以外のものにも言える。この世に存在するあらゆるものは、誰かの心を動かさずにはいられない。誰の心にも残らない、誰の感情も動かさないものなど、この世にはおそらくひとつとして存在し得ない。そのはずだ。
だが、もし、誰の心も動かさない音楽というものがあったとしたら。
それは即ち、誰にも聞こえない音楽なのではないだろうか。
アンビエント・ミュージックというジャンルがある。その場に漂う空気のように、音楽そのものが強く印象に残らないことを目的とした音楽である。リリカの幻想の音は、おそらくそれに近い。また、ルナサの鬱の音の目指すものも、アンビエントに近いものだろう。そして、その対極にあると見なされるメルランの躁の音も――感情が極限まで高ぶれば、もはや音楽など認識している余裕はない。そこで音楽は消失してしまう。
つまり――騒霊楽団の音楽の究極の到達点とは、音楽の消失だったのではないか。
確かに演奏されているのに、誰の心も動かさず、演奏されていることにすら気付かれず、存在しないものとして素通りされる音楽。誰にも聞こえない。誰も心を動かされない。だが、確かに演奏されている。誰もその音楽を認識できないだけで。
認識できないということは、しかし、存在しないことと同義ではない。なぜならそれは演奏されているのだ。おそらくは、今も。私たちが気付かないだけで。
そう、プリズムリバー三姉妹は、消えてしまったのではない。
彼女たちは今もまだ演奏を続けているのだ。真の音楽を。誰の心も動かさない、誰にも認識されない、究極の純粋な音楽を。
誰もそれを認識できないが故に、彼女たちはどこにでも存在する。
今、音楽など聴いていないはずの貴方の耳にも、その音楽は確かに聞こえているのだ。貴方がそれを認識できないだけで。それに心を動かされないだけで。
そう、プリズムリバー三姉妹は、もはや肉体も楽器も必要ではなくなったのだ。
誰にも気付かれない音楽は、あらゆる場所に遍在できるのだから。
彼女たちもまた、あらゆる場所に遍在しているのだ。
私のそばにも、貴方のそばにも。
騒霊楽団は、今も音楽を奏で続けている。
音楽の究極に辿り着いた彼女たちのそれは、音楽そのものへの鎮魂曲だ。
しかしそれは誰にも聞こえないから、私たちは彷徨うしかない。
騒霊楽団の辿り着いた、真の音楽をつかみ取ろうと、もがいて手を伸ばすしかない。
認識不可能な音楽には、決してその手が届かないのだとしても。
たしかピアノでずっと休符が続く曲があったな
…真の芸術とは別物なのか…?
・・・相変わらず浅木原さんのルナサ姉さんは素敵。
しかし、それをこみにしても面白かったです。
これは感心しました
最終的には表現したいとのを表現できたかどうかが大事なのかもしれませんね
テレパシーによって演奏を解さずに伝達しようとして、しかし常人には届かない純粋な音楽に到達してしまった?
あれは観客のざわめきや会場の物音を聞くものとも言われていますが、もしかしたら阿求の述べたような究極の純粋な音楽なのかもしれませんね
何はともあれ、騒霊に対する非常に興味深い考察でした