――これ、もう泣くな。服が湿ってしまうではないか。
………………。………………。
――おそらく街道を外れたところで、穴に落ちてここに来たのだろう?
………………? ………………!
――我はなんでもお見通しだ。仙界へと通じる道に、偶然迷い込んでしまったのだな。珍しいこともあるものだ。
………………。 ………………。
――妖怪に見つからなくて幸運だったの。しかしなぜ泣く。我に見つかるまでは、座って大人しくしておったというのに。
………………。………………。
――なるほど。緊張が抜けたことで、思わず涙してしまったのか。よしよし。これをやろうぞ。
………………? ………………。
――む? 知らぬのか? これは月餅といってな。中に甘~い餡子が入っていて、妙なる味だぞ。口にしてみよ。
………………。………………。…………………………!!
――どうだ。美味いであろう。あいにく、それ一つしかないのでな。よく噛んで味わうがよい。
………………! ………………! ………………。
――よいか。おぬしは山の神や仏教ではなく道教の導きに救われたのだ。ひいては太子様の御加護があってのことだ。
………………? ………………。
――けして忘れることなかれ。では、真っ直ぐこの方角を行くがよい。無事に家に帰り着くことができるであろう。
………………。………………。………………。
――さらばだ。今度は寄り道せずに帰るのだぞ。
………………あ………………。
――ん? なにか忘れものか?
あ…………ありがとう! またね、お姉ちゃん!
~ 三日のラブストーリー ~
迷子を怖がらせるのに、お化けや妖怪は必要ない。
もう家に帰れないかも。その不安だけで幼い瞳には、何もかもが恐ろしく映ったのだろう。
雲一つ浮かんでいない、のっぺりとした空も。生まれて初めて見たであろう地平線も。
同形の石畳が整然と並び、どこまでも果てしなく続いている光景も。
鬼か蛇が棲んでそうな、大陸風の意匠を凝らした尊大ともいえそうな黄色の宮も。
あらゆるものが静止している世界で、ただ一人、烏帽子をかぶった少女は大きく手を振っていた。
小柄な体躯を包むのは、白の狩衣と紺のスカート。一房にまとめた銀髪が、ちょうど尻尾のように揺れている。
小さな迷子の影が薄らいでいき、やがて完全に見えなくなってから、物部布都は手を振るのを止めた。
そして、
「そこのおぬし」
振り向きざま、指を虚空に突きつけて言う。
「もしや、我が今のわっぱと恋に落ちるようなストーリーを予想したのではあるまいな」
どやどや。
「そんなことは一切起こり得ぬ。早とちりも大概にせよ。我はただ、迷える衆生を導いてやっただけだ。なに、『つんでれ』? 愚かな。我の好みは、もっと髪が尖っており、耳が十もありそうなほどの超人的な御方ぞ。しかと覚えておくがよい。まぁ、あのわっぱが百年修行を積めば、考えてやってもよいかもしれぬがな。わっはっは」
腰に手を当て、布都は大口を開けて笑う。
そのまま「ふわっはっはっは」と、顔が完全に天を向くほど反っくり返ってから、
「……それにしても、『三日のラブストーリー』とは気になるの」
顎に手を当てて呟いた。
それから布都は上体を起こして元の姿勢に戻り、色白の童顔を精一杯むつかしそうにしかめて、考えに耽る。
「そもそもなぜ三日としているのだろう。そしてラブとは誰と誰のラブなのか? 我も関わってくるのであろうか。となると、やはりお相手は太子様……いやしかしそれでは三日というのが不都合。そのような僅かな時で終わってしまうようなラブの相手となると……だがそもそも、我がラブの中心人物とは限らぬか」
「黙って見ていれば、子供を帰したまではいいけど、一人で何を訳のわからんことをブツブツ呟いてるんだお前は」
ゆらり、ゆらり、と空から影が降りてくる。それは布都と半分似ており、半分対照的な外見の少女だった。
こちらも烏帽子をかぶっており、ぱっと見て外界の古い時代を思わせる格好というところが共通している。
だが服はよく見ると濃緑色のワンピースで、ぶかぶかとした袖もついておらず、首が見える程度に切られたくせのある髪も薄いグリーン。端正な顔立ちは、可愛いというよりも美人という言葉が似合っていて、くりくりした目の布都よりも尖った印象を与える。
服の裾からのぞいているのは、動く綿あめのような白い塊。霊体となったその両足は、彼女が亡霊だという証だった。
布都は「ややっ?」と大袈裟に体をのけぞらせ、
「屠自古よ。もしや、おぬしがラブなのか?」
「はぁ? ラブ? ラブラドール?」
蘇我屠自古は眉をひそめる。
ちなみに屠自古は犬派である。猫も好きだけど。
「つまりだな。これから三日のラブストーリーが始まるということらしいぞ。そう天から啓示があったのだ」
「天から啓示ねぇ」
「疑うのか。ならば、上を見てみるがいい」
布都は指を上空に差し向けた。
屠自古もそれに合わせて面を上げる。
快晴なり。
「上ぞ」
「見てるよ」
「もっと上ぞ! きちんと見よ!」
「見たって青空しか見えないよ」
「ぬぅ、このうつけもの。胸ばかり大きくしおった大根足めが。肝心なところで呆れるほど鈍い。だから太子様を満足させることもできぬのだ。憐れよのぉ」
「喧嘩なら買うぞこらっ!?」
目を吊り上げた屠自古は、腕まくりして殴りかかる様相を見せるが、
「元気……」
そこでまた、新たな声が場に加わった。
「病気が快方に向かう『減気』からきたのか、それとも治療の効果が現れる『験気』からきたのか。大陸では天地自然の根本の精気を表す言葉のようですが……いずれにせよ、それは生きとし生けるものに備わった、肉体活動の原動力とも呼べる気」
とうとうと薀蓄を語る凛として涼やかな声は、周囲の空気を瞬く間に掌握する。
太平楽な道士と、怒りに震えていた亡霊の背筋にも、自然と活が入る。
間もなく薄暗い道場の入り口から、声の主が姿を現した。
その人物は、烏帽子をかぶってはいなかったものの、烏帽子よりも迫力のある髪型をしていた。
砂と金を融け合わせたような色の髪が二房、垂れているのではなく、天を衝いている。
上着は腕の付け根まで露わにした軽装で、穿いている物も膝が見えるくらいの短さ。
そして薄い青と濃い緑を基調とする二人に対し、彼女の特徴的な耳当てと白地の服の縁を彩るのは、さらに高貴といえる紫色だった。
手にした笏を口元に持っていき、美貌の君は微かな笑みを浮かべて、
「この神霊廟の元気の担い手は、布都、君かもしれませんね。君と会話するだけで、誰もが生き生きとしてくるようだ。その調子で研鑚に励むがよい」
「もったいないお言葉です、太子様!」
まさに元気が迸るような表情と声で、布都は感激の意を伝える。
太子様と呼ばれたその人物こそ、千年を超える眠りから覚め、今はこの仙界を治めし生きる伝説。
神霊廟の主であり、二人の指導者でもある聖徳道士、豊聡耳神子であった。
「ごきげんよう屠自古」
神子は続いて、もう一人の方に挨拶をする。
屠自古は袖を合わせて拝礼した。
「はい。太子もごきげん麗しゅう」
「ふふ、君の欲が聞こえてきます。『三時のおやつにカスティーラなるものが食べたい』と」
「いや太子、それは私のじゃなくて、隣にいる布都の欲ですよきっと」
「なるほど。では『布都よりも先に、私に話しかけてほしかったのにー』が屠自古の欲でしたか」
「……どぇえ!?」
屠自古は口を手で隠しながら三尺ほど飛び上がる。
からかう聖人と、からかわれる亡霊。両者のやり取りは、すでに神霊廟の日常として根付いていた。
部下の変わらぬ初々しい反応に目を細めていた神子は、続いてあっさりと話題を変える。
「ところで、二人はどのような話を?」
「そのことでありますが、太子様。我は三日のラブストーリーという天啓を授かったのです」
「ふむ」
金色の瞳が、キラリと好奇の光を見せた。
「意味深だな。三日のラブストーリーか。屠自古。君はこれをなんと解く」
「へ? は、はぁ……三日のラブストーリー……と言われても……」
バタ足を中断した屠自古は、ふよふよと降りてくる。
相手が布都なら「そりゃ天啓じゃなくて電波だ!」と一蹴してやるのだが、神子が相手となるとそうもいかない。
一応、真面目に考えてみる。
――ラブストーリー。つまり、恋物語ってことか……。
屠自古にとって、心の底から魅了された人物は、生前も死後も一人しかいなかった。
相手は同性で、身分も離れていたので、どちらかといえば恋というよりも憧れの対象だったような気がする。
美しさにおいても、賢さにおいても、器の大きさにおいても並外れていて、到底敵わない存在だった。
そしてその人物はまさに今、目の前に立っているのだが。
「どうしました、屠自古」
神子は小首を傾げる。
しかし彼女の現在の声は、屠自古の耳には遠く聞こえ、過去にさずかった別の声に取って代わられていた。
為政者として表向きに彼女が語る言葉も、究極の個を目指した裏の彼女が語る言葉も、屠自古は全て大事にしてきた。
だがなんといっても一番大事にしまってある、己の心を初めてときめかせた言の葉は、出会った日にかけられたものだった……。
――屠自古というのか……綺麗な髪をしている。母上に似ているな……。
出会がしらに「カッコいい寝癖ですね」とジャブをかまそうとしていた屠自古は、あっさりカウンターでノックアウト。
結局その日は赤面でお辞儀しただけで、ろくな会話もできずに終わってしまった。
次の日、いつもの五倍の熱意で身だしなみを整えた屠自古は、今度は自ら太子に話しかける機会を持とうとした。
遠くから近づいてくるその姿を見つけ、建物の陰に隠れながら、偶然を装って挨拶しようとして……
……転んだ。
けれども新調した服が破けたり、泥だらけになることはなかった。
地面とぶつかる寸前、滑るように現れた太子に、優しく抱き留められていたから。
――大丈夫かい屠自古。私が間に合ってよかった。
名前を覚えてくれていたことだけで有頂天になるのに、助けてまでいただいたことに、屠自古の脳は完全にショート。
そのまま熱を出して寝込んだ。
次の日、お見舞いに来てくれた太子と共に、二人で庭を眺めながら、夢のようなひと時を過ごさせていただいた。
今思えば、あれこそまさしく三日のラブストーリー……。
……ん? 三日?
「たっ、太子っ! 1400年です! 三日じゃなくて1400年ですよ! そしてこれからも!」
古の記憶から戻ってきた屠自古は、開口一番そう宣言する。
「なんのことですか?」
「何を言ってるのだおぬしは」
現実の世界で、主人と同僚がきょとんとしていた。
気まずくなった屠自古は、「何でもないです、はい」と口を閉ざす。
神子はそれ以上追及せず、笏をおとがいに当てて考え込んでいたが、
「出かけてこよう」
唐突にそう言った。
すかさず二人の従者は、それぞれ前に出て進言する。
「では我をぜひお供に」
「いえ私を」
「それには及びません。今日は一人で顕界を散策してみようと思います」
ひらりと身を翻した神子の足は、すでに仙界の境目へと向かっていた。
肩越しに見せた笏を、ゆらゆらと動かしながら、
「二人には留守番を頼みます。修行者たちの面倒をみていてください。もちろん、自らの精進も怠らぬように」
「御意に!」
布都と屠自古は声を合わせて応えた。
そして神子の背中は霞の中に溶け、やがて完全に消え失せる。
まさに風のように現れたかと思えば、すぐに風のように去っていってしまった。
「ついて行かぬのか」
残ったうちの一人が、主が消えた方角を見たまま言う。
「留守番を頼まれた」
残ったもう一人も、主が消えた方角を見たまま言った。
「どちらか一人が留守番をすれば……」
「どうせ見つかる」
「護衛するという名目で」
「むしろ足手まといになりそうだ」
「何か上手い言い訳はないものか」
「そもそも言い訳が通用する人じゃない」
「おぬし、行きたくないのか」
「……私の希望なんて関係ない。言いつけに従うまでだ」
本音では屠自古もついていきたい。
しかしあの超マイペースな聖人が、ちょっとやそっとじゃ考えを曲げない御人であることは、すでに分かりすぎるほど分かっているし、下手に食い下がって機嫌を損ねてしまうのも避けたかった。
「まぁ、夕飯までには帰ってくるだろうし」
「そうだ屠自古よ、今日のおやつはかすてぃーら。そして晩ご飯は、はんばぁぐにせよ。我の好物であるぞ」
「今晩のおかずは魚に決めてる。純和風の献立だ。そういう天啓が私にあったから」
「なっ!? そ、そんなバカな……!」
デコボコなトーンの会話をしながら、屠自古と布都は神霊廟の中へと戻った。
この時の二人はまだ、想像すらしていなかった。
顕界に出かけた彼女らの主が、本当に三日のラブストーリーを体験してくることになるとは。
1 歩けば棒に当たります
仙界は、幻想郷の中に存在しているとも言えるし、そうでないとも言える世界だ。
というのもその空間は、豊聡耳神子が己の術によって、幻想郷と次元の層を隔てて創り出したものだからである。
つまり東西南北のどこに位置するかというのも定まっておらず、『二点上に同時に存在している』こともある。
イメージとしては、幻想郷という一枚の紙に丸いゼリー状の仙界が包まれている、という風に表せるだろうか。
なので行こうと思えば幻想郷のどこへでもすぐに出かけられるのが、仙界のいいところ。
本日、神子が出向いたのは、人間の里だった。
幻想郷の中心部にあるその里は、人間が妖怪に襲われる心配なく暮らすことができ、なおかつ妖怪と人間が共存している様をはっきり観ることのできる、特別かつ象徴的な場所だった。
昼下がり。人里の東に現れた神子は、最も広い街道を西へと向かって歩いていた。
いつもながら端然とした出で立ちで、ある種の威厳を漂わせながら歩を進める。
この度、彼女はなぜこの里に姿を現したのか。その内なる欲を覗いてみれば、一目瞭然。
――遠慮はいらぬ! ラブストーリーよ! 今こそ私に訪れよー♪
げに見事な色ボケっぷりである。
しかし、宇宙を司る全能道士は、これでも大真面目だった。
1400年間眠りについていた彼女にとって、最も強い欲といえば、それは好奇心だ。
知りたい、触れたい、感じたい。
あれ見たい、これ聴きたい。それ味わってみたい。
無機質な情報で事足りるならば、書を読めばよい。
速読は仙人にとって初歩的な術であり、神霊廟に集めた古今東西の文献全てに、神子は目を通し終えている。
また、ありとあらゆる欲を聞くことのできる神子にとっては、耳当てを外して仙界で横臥しているだけで、幻想郷における種種雑多の情報を、苦も無く束ねることも可能だった。
が、それらは全て喩えるなら、魚や果物の干物に等しい。
上質な品は旨いものの、己の身で体感したものと比べると、鮮烈さに欠けている。
要するに、神子はラブストーリーというものを実際に体験してみたかったのだ。
布都を連れて来なかったのは、彼女をお供にすると、いつも目的に関わらず何らかの騒ぎに巻き込まれるからである。
屠自古の方は、普段は大人しくしてくれるものの、今回の主人の目的を知れば、間違いなく青天の里で落雷事故を招いていただろう。
本日の主眼は、騒乱を眺めて楽しむことではなかったので、二人にはお留守番をしてもらった。
つまり決してボケているのではない。
いや、結果的に行動がボケているように見えるかもしれないが、そこにはきちんとした動機があるのだ。えっへん。
と神子は胸を張っていたのだが……街道を歩いて五分が経過し、雲行きが怪しくなってきた。
――何も起こらないな……。
すでにすれ違う者は数知れず。なのにどういうわけか、一声もかけられない。
いや、声をかけられないだけならまだしも、側に民衆が全く寄ってこなかった。
神子の周りにある不可視の円陣に、老若男女の人間に加え、妖怪や妖精も入り込んでこようとしない。
それとなく視線を向けられる他は、会釈したのかうなずいたのかも判別できない程度の反応しかなかった。
おかしいな、と思って神子は、己の耳当てに手を添えてみる。
こうして耳を澄ませば、自分に話しかけるタイミングを狙っている者達の欲の声が聞こえて……
……こない。
「なっ……」
神子は愕然となった。
街道を行くのは、決して一人で歩くものばかりではない。
親子連れ、友達、そして明らかに見てそれとわかる夫婦や、恋人の雰囲気を醸し出す者達。
さらに、一人で歩く女性に声をかける若者の姿まで、しばしば目撃できた。
そんな中、自分にだけ降り注ぐことのない夏の日差し。降り積もることのない冬のぼた雪。
――そ、そうか……。
神子は心の内で膝を屈し、顔を覆う。
――実は私は、モテなかったのか……!
己の魅力に関する自信の五重塔が、ピサの斜塔と化した瞬間だった。
◆◇◆
さて、この見目麗しい聖徳道士は大きな勘違いをしている。
モテる存在は多かれ少なかれ何らかの魅力を有しているものだが、魅力を有しているものが全てモテモテとは限らないのも、世の不思議の一つである。例えば己の抱く美のイメージの範疇を逸脱した魅力を持つ存在も一例であり、この場合の神子もまさしくそのグループに属していたのであった。
新参とはいえ、幻想郷でも有数の実力者で、才色兼備の聖人君子。そんな彼女の髪型はパワーゲイザー。
これに対抗できるとすれば、イケメンで天才で徳の高いモヒカン頭の英雄くらいなものである。
少なくとも、幻想郷にはいない。
つまり神子に魅力がないのではなく、そのスケールがあまりにも規格外なのが問題なのであった。
里の男達は皆、色々な意味で自分は釣り合わない、と口説く前段階で諦め、敬遠してしまう。
大海原に告白する者が希少であり、太陽に恋文を送る者が珍奇であるのと似た理由で、豊郷耳神子は人里でナンパされないのでした。
というカラクリに、本人はいまだ気付かず。
――うーむ。思い切ってこちらから近付いてみるのも手か。
ちょうどいいタイミングで、なかなかよい見た目の男子を、右斜め前に見つけた。
神子はさりげなく、その若者が自分に声をかけてきやすいように、斜めに歩を進めた。
ところが、
「おわわっ!?」
若者は吃驚した様子で、きっちり神子が近付いた分だけ後ずさる。
そのまま勢い余って、投げ飛ばされたかのように、魚屋の生け簀に突っこんだ。
「………………」
喧騒を横目に、神子は何事もなかったかのようにその場を通り過ぎる。
しかしながら胸中では、予測していなかった反応に面食らっていた。
――うーむ。欲を刺激するような服装に着替えてくる手もあったか……。
神子の頭に、己の水着姿が浮かぶ。
スタイルにはそれなりの自信があるものの、それで往来を堂々と歩くのは、ちょっぴり恥ずかしい。
いやいや、今の自分の姿を思い返してみれば、上は肩まで、下も太ももの辺りまで見えている。
これだけ肌の露出があれば、十分な刺激を与えられそうな気もするが。
試しに、少し上着をつまんで、胸元に風を送ってみると、
「はわわっ!?」
「うおっ、眩しっ!」
「目がー! 目がー!」
直射日光を浴びたゾンビのように、工人の集団が崩れ落ちていた。
神子は見なかったことにして、彼らの前を通り過ぎた。
期待した反応がまるで返ってこないどころか、不可視の円陣は広がるばかりだ。
しかも男子はおろか、女子にまで避けられてしまっているのだから、これはいよいよ由々しき事態である。
何がいけないのだろう。もしや、この高貴かつ完璧なる自分に、何かが欠けているというのか。
――私に足りない物……そうだ。ちょっと小道具を使ってみますか。
神子は術を使って、仙界にある自室と己の手の先を繋げ、小筆を召喚した。
そのまま素早く、鼻の下に二本の髭を書いてみる。かつてはこの細い口髭が、宮廷でウケがよかったのだが。
「藍様。あの人のおヒゲ、壱万円札の人みたいですよ。女の人なのに」
「しーっ。そんなことを言ってはいけないよ。きっと深い事情があるのだろうから……」
買い物をしていた妖獣達のひそひそ声が、神子の耳に届いた。
我こそは壱万円の聖徳王、豊聡耳神子なり。
スケールが大幅にダウンしてしまった。
――何ゆえ!?
混乱の極みにあったものの、神子は背筋を伸ばした姿勢を保ち、歩調を乱すこともなかった。
修行によって培われた精神と、聖人としての誇りがなせる業といえる。
皮肉にもそうした立ち振る舞いが、周囲の存在に、彼女に声をかけるのをためらわせてしまっていたのだが。
そしてついに、街道の終点が見えてきた。
里の日出処から日没処まで、ラブストーリーの兆候は一切現れぬまま終わってしまった。
人気も少なくなり、活気もなくなり、目の前には寂れた草っぱらが広がっている。
神子はついに立ち止まり、振り返った。
その金色の瞳は、わずかに潤んでいた。
――もう一度……あの道を辿って戻ってみよっかな……。
今度は異変解決の時のように、マントを着てキラキラとさせてみたりしたら、いい結果が出るかも。
しかしながら、服装を変えたことで一転声をかけられるようになったら、それはそれでガッカリな話だ。
ましてやそこまでしても声をかけられなかったりしたら、いよいよみじめなことになる。
つまるところ、為す術なしの袋小路。
――井の中の蛙、大海知らず。さしずめ私は、井戸の深さを知らなかった間抜けなミミズクですかね……。
道の終点に六つ並んだ地蔵まで、自分を哂っている気がした。
その側でしゃがみこみ、ホウホウと一人口ずさんでいると、
「ん?」
力なく寝ていた二房の髪が、ピン、と持ち上がった。
並外れて鋭敏な感覚をもつ神子は、ありとあらゆるものの気配を捉えることができる。
人であろうと獣であろうと、虫であろうと妖怪であろうと、他には草木や鉱物の類であっても。
特に何らかの欲を有しているものであれば、意識から外すことはない。
そんな神子の元に、何者かが接近していた。この気配は、明らかに獣。
ただし奇妙なことに、その気配は言葉を持たぬ動物特有の、分かりやすい欲を発していなかった。
気配は獣なのに、欲は石ころなのだ。
興味を抱いた神子は、しゃがみこんだまま、近付いてくる気配をじっと待った。
やがて茂みの奥から現れた、その正体は、
「おや」
予想に反して、それは得体のしれない見た目のものではなかった。
一匹の小犬だ。
柴犬か、あるいは雑種に見える。
茶色い毛の背に、白い毛の腹。眉間にはこれまた、白い星が二つ。そして首につけた赤い輪がアクセントになっている。
面相は気弱で、体格も小さい。ただ、野良にしては太り過ぎで、飼い犬にしては薄汚れていた。
さらによく見ると、所々体に傷痕のようなものがある。
「君はこんなところで何を?」
神子は日本語で小犬に尋ねる。
ちなみに神子は猫派であった。犬も好きだけど。
「首輪をしているが、飼い主とはぐれたのかな……。大丈夫、私は危なくないよ」
しゃがんだまま微笑み、そーっと手を差し出してみる。
小犬は、ぶるると太い胴を震わせ、尾を丸めた。さらにお尻を引いて、わずかに後ずさりする。
思わず、神子はため息を吐き、
「そうか……君も私に近づこうとしない。いよいよ私のモテなさにも磨きがかかってきたようだ」
膝の上に顎を載せ、しゃがんだ聖人は、哀愁の漂う視線を里の方に向けた。
先の異変の時に受けた歓声や民衆からの人気ぶりは、まさしく蜃気楼なりや。
と、側にいた小犬が、重たそうな体を起こした。
よちよちという擬音がふさわしい足取りで、すぐ側まで近づいてくる。
そして、落ち込む神子の膝に、黒い鼻を一度押し当てた。
神子は無言で、ちらりと視線を送る。
小犬は緊張のためか、一度動きを止めた。
が、神子の隣から逃げ出そうとせず…………ぺろり、と手を舐めてきた。
「なっ……」
神子は瞠目した。
さらに小犬は、これ以上ないほどの静かな仕草で、その場に体を伏せた。
しかも瞑想に耽るかのごとく、瞼を柔らく閉じ、体を寄せてくる。
――ななな、なんと……!
この瞬間、神子のしおれていた心の中で、三尺玉が打ちあがった。
今日、仙界から里に下りて、はじめて自分に触れてくれたのが、小犬だったとは。
しかも彼の持つその欲は、純粋にして淡麗。
べったりと触れることなく、何かをねだることもなく、ただ側にいて軽く触れながら、落ち込む神子を慰めようとするのみ。
そのいじらしい気配りに、切り株に生えた新芽のような感動が生まれ、打ちひしがれた心が癒されていく。
嗚呼、と神子は感嘆の息を漏らした。
思い出さずにはいられない。
かつて誰一人としてやりたがろうとしなかった危険な大役を、唯一直訴してくれたあの忠実な部下。
純粋な心の持ち主だった彼は、多くを求めず、己の志に従って使命を果たした立派な人物だった。
国の未来を両肩に背負って海を渡った彼のために、神子は毎日祈祷を欠かさなかったものだ。
顎の下をくすぐってあげると、気持ちよさそうに小犬は目を細め、やがて尻尾を揺らし始める。
その様子を見ていると、ますます顔がほころんでくる。
「よし……私が名前をつけてあげよう。君の名は……」
小さな獣の姿に、古の部下の姿を重ねながら、神子はその名を口にした。
2 尾が東とは限りません
その日の夕方。
神霊廟内の食卓にて、神子は昼間にあった出来事を伝えた。
「素敵なラブに巡り会えました」
たった一言。
「そ、そんな……! まことですか太子様!」
「へー……よかったですね……」
共に食卓を囲む部下二人の反応は、まさに陽と陰。
布都は頬にお弁当をつけたまま、何度もまばたきして驚きを示している。
そして屠自古は……相槌を打ちながらも、露骨に目を鋭角に細めている。
一方、時流は読めても空気は読めない聖徳王は、部下達の反応をよそに頬をバラ色に染めていた。
右手にお箸、左手にお茶碗。とろけそうな笑みで昼間の記憶を思い起こしながら。
布都が動揺もあらわに、卓の上に身を乗り出し、
「し、して、その者はどのような輩ですか。名前は?」
「イモコといいます」
「イモコ! 年はいかほどで、外見は」
「まだ若い殿方です。つぶらな瞳の、可愛い顔でしたよ」
「は、ははぁ、すると背丈も高くてスラリとした……」
「いえ、背は低く、かなり太目な体型でしたね。けれども外見などはどうでもいい。私は彼の仕草、そして心遣いに惹かれたのですから」
「そりゃあ結構なことですこと」
屠自古はそっけない声で味噌汁をすする。ただし横髪の裏では、こめかみがピクピクと引き攣っていた。
布都の方は、矢継ぎ早に質問を重ねる。
「どこで出会ったのですか。人里でしょうか」
「ええ。ですが、中心街ではなく外れの方です」
「して、いかように」
「私が地蔵の側で一人で佇んでいると、彼が姿を現したのです。もしかすると、イモコの方から近づいてきてくれたのかもしれません」
「さもありなん。太子様程の美玉が御一人であれば、漂う浮雲でさえも勇んで下りてくることでしょうぞ」
「ははは、上手いことを言ってくれますね布都は」
お椀を口に持っていく神子の両眉の端が、自信なさげに垂れ下がった。
実際のところは、街道を一人で半刻も歩いて何の出会いもなかったのが真実であったので、少~し後ろめたい。
しかし、そのお陰でイモコに巡り会えたと思えば、傷ともいえぬほどの些細な体験だった。
相も変わらず、ぶすっとした顔で、屠自古が小言を述べる。
「それで、話しかけられてお世辞にでもつられて、デートしてたわけですか。私が家でご飯作ってる間も」
「我も手伝いましたぞ、太子様!」
「ありがとう二人とも。いい味です。歩き疲れた体が、味噌の香りに癒される。魚の焼き加減も見事なり。屠自古もだいぶ腕を上げましたね」
「どうも。口下手の私ができることはこれくらいですから。そのイモコってやつはどんな甘言で、太子の心を落としたんでしょうね」
「いえいえ、甘言ではありません。理由は色々あるのですが、はじめにビビッときたのはー」
神子はその時のことを思い浮かべて言った。
「うーん、やっぱり『舌でペロペロ舐められた時』かな」
ガチャンと音を立てて、茶碗と箸が卓の上で転がった。
さらに、それを引き起こした当の亡霊までも、緑のワンピースが皺になることも構わず、床をごろごろと横転していた。
すかさず布都が立ち上がり、
「どうした屠自古! しっかりせんか!」
「あばばばばば」
「む! もしや怨霊にでもとり憑かれおったか! おぬしも立派な怨霊のくせしてなんたる不覚! 待っておれ、今すぐ治してやるぞ! ぜんねんれい、ぜんねんれい、ぜんねんれ~い。悪霊産廃!!」
印を結んだ布都が、奇怪な呪文を唱え、風水の流れを操る。
部屋の中に清澄な気が集まり、ほどなく泡を吹いて倒れていた屠自古が復活を遂げた。
正気に戻った彼女は、これ以上ないというほど真っ赤に顔を染めて怒鳴る。
「どういうことですか太子っ!!」
「何がです?」
「そのイモコってやつの話です! どんな会話を過ぎれば、会って一日も経たずにいきなりそんな関係になるんですか!」
「いや、会話なんて別れるまで全くありませんでしたが」
「会話なしのデート!?」
「言葉などいりません。心が通じ合えばそれで十分です」
「言葉ぬきでどんな心が通じ合えば、太子をペロペロ舐める流れになるんですか!」
「いえいえ、心が通じ合う前からイモコが舐めてきてくれたのですよ。出会って一分も経ってません」
「変態だろそいつ!?」
「口を慎みなさい屠自古。イモコは変態ではない。彼の心にある欲は薄汚さとは無縁なものだ。彼は清く正しいまっとうな心で、私の寂寥を慰めるためだけに、この肌を舐めてくれたのだ」
「ますます変態だろ!!」
稲光を背負い、雷鳴を轟かせながら、屠自古は怒れるインドラ神のごとく糾弾する。
一方の神子は、その怒りを全く意に介さずに目を閉じ、春の陽光を浴びる川面のように、全身をキラキラとさせて、
「屠自古もイモコに舐めてもらえばわかると思いますよ。あれぞ真の慈愛というもの。この聖徳王、ほとほと感じ入った。明日また会えるのが楽しみです」
「もう知りませんっ! バカ太子っ! お先に失礼!」
~~~~
仙界放送局より、気象情報です。
発達した大型低気圧が、お茶の間地方を抜けて北上していきます。所により、強い雷雨があるでしょう。
以上、神霊廟のお天気でした。
~~~~
「う~」
両耳に指をつっこんで固く瞼を閉じていた布都が、片目だけ開いて呻く。
「相変わらず、怒った屠自古は凄まじいのぉ……」
「でも、あんな風に元気そうな姿を見ていると、ホッとしますよ。だいぶ長い間、独りにさせてしまっていたから」
1400年前の彼女を追懐しつつ、神子は言う。
普段は無口で無愛想だけど、その心根は優しく、二人でいる時は感情表現豊かな子に変わった。
人間だった頃はさすがに、食事の場で稲妻を飛ばすようなことは無かったが、それでもかつての可愛い面影は今も消えずに残っている。
――たとえば、怒りつつも律儀に自分の分の食器を片づけていく、生真面目なところとか。
神子がクスクスと笑い、そんなことを考えていると、
「ところで太子様」
すすす、ともう一人の従者が膝を寄せてきた。
「我にはその『犬ころ』と会わせてくれぬのですか」
「ふむ? 布都はなぜイモコが犬だと?」
神子は多少意外に思いつつ尋ねる。
布都は得意げに鼻の下を人差し指でこすり、
「我の嗅覚を侮ってはいけませぬぞ。日頃よりハァブの香りを御身に纏う太子様でござりますが、夕方に御帰宅された際に、わずかながら獣の臭いが残っておりました。そして今、お肌を舐められたと聞いて、もしやと思ったのでございます」
「なるほど。布都の洞察力もバカにはできませんね」
「もったいないお言葉」
どやどや。
「いずれ二人にもイモコと会わせてあげたいけど、もうしばらく様子を見ようかな」
神子はそう断ってから、椀に残った最後の一口をすする。
恋ではなく、愛。奪うものではなく、与えるもの。
人里では出会いがなかったもの、そのすぐ側でまぎれもないラブに巡り会えた。
一時は地蔵の前で膝を抱えるほど落ち込んでいたのが嘘だったかのように、晴れやかな気分にさせてくれた小犬。
明日、再びあの場所で会えるのが、今から楽しみで仕方ない。
ただし一つだけ、神子には気がかりなことがあった。
それは別れ際のイモコの様子のことだ。
地蔵の側で二人っきりで、ゆるりと時間を過ごした後、日が暮れる頃合いになってから、二人は別れた。
その時イモコは、相変わらず穏やかな足取りで、里の方ではなく、林の方へと消えて行ったのだ。
思えば、首輪をしているのに、飼い主が側にいなかったことも謎である。
あの古傷は自然に治癒したというより、誰かの治療を受けていた風に見て取れたのだが。
イモコには何か秘密があるかもしれない。
神子はとりあえず、もっと彼のことをよく知ってから、改めて二人の従者に紹介しようと考えていた。
――それに、勘違いしている屠自古を、もう少し眺めていたいし。
そんなことをたくらむこの道士、聖徳王どころか邪悪王かもしれぬ。
3 論語じゃなければ伝わるかも
正午過ぎ。
人里の外側に位置する、地蔵の他は何もない道端。
西に広がっている林と比べて、この辺りの景観は草木に乏しく、花の一つも咲いていない。
バッタやトンボなどの虫ですら、たまにしか通り過ぎないほど寂れた場所だ。
そんな場所であっても、見目麗しい邪悪王――ではなく聖徳王が立てば、春がもう一度訪れたかのごとく雰囲気が華やかになる。
「イモコー。イモコー」
仙界から直接やってき神子は、早速、林の方に向かって呼びかける。
その腕には紐が絡まっており、紐の先ではぱんぱんに膨らんだ二つの布袋が揺れていた。
やがて、待ち望んでいた君の気配を感じ取り、神子は相好を崩す。
太目の体型の小犬が、林の境から姿を現した。
「おお、イモコよ。こんにちは。また君に会えて嬉しいよ。さぁおいで」
神子はしゃがみこんで、手を差し伸べる。
普通お気に入りの相手を見つけた犬であれば、尻尾を振って駆け寄ってくるものだが、イモコは相変わらず一声も鳴かず、どこか遠慮がちなそぶりで、よちよちと歩いて近付いてきた。
そして昨日と同じく、神子の掌に湿った鼻を押し当て、ぺろりと舐める。
「ふふ、今日は君にいいものを持ってきたんだ。ほら見てごらん、嗅いでごらん」
神子は歌うように言って、持ってきた袋の中身を見せてみる。
ぷぅんと香る、干し肉や太い骨などのおやつ類。犬であれば飛びつきそうなご馳走が、色々と取り揃えてあった。
しかし、イモコは喜ぶ仕草を表さない。
食べ物の匂いを少し嗅いだだけで、すぐに困ったように神子の顔を見上げる。
「お腹は空いてないのか」
神子はすぐに、イモコの食欲の薄さを察した。
では、と別の袋を開ける。そこには、どんな犬でも興味を示しそうな玩具がたくさん入っていた。
「このボールは噛むと鳴くんだよ。こちらの玩具はこうやって転がすと……」
一つ一つ取り出し、神子は遊び方を身振り手振りで演じてみせる。
ところがやはり、目の前の小犬は困ったようにお座りしたままだった。
相変わらず声を出さず、その内なる欲も静まり返ったままだ。
神子は眉根を寄せ、己の耳当てに手を添えて、首を傾ける。
「玩具もお気に召さないのか……君は何を欲しているんだろう」
その問いに応えるかのように、イモコがお尻を持ち上げた。
彼は距離をさらに縮めてきて、神子の膝の側に座り直した。
ただ貴方のそばにいさせてくれるだけで、私は満ち足りるのです。それではいけないのでしょうか。
彼の澄んだ欲のささやきが、はっきりと聞こえ、神子は目を瞠る。
「……ああ、イモコ! 聖徳道士と呼ばれるこの私とて、君の清い心の前では己の卑小さにうなだれてしまいそうだよ!」
感嘆の声をこらえることができず、しゃがんだ神子は彼の背中に掌を当て、まだ痛々しげに残っている古傷の痕を刺激せぬよう、毛並みにそって優しく撫でながら言う。
「ぜひこれからも、我が良き知己として側にいておくれ」
瞼を閉じて深く呼吸するイモコは、菩提樹の根を枕にしているかのような、穏やかな表情をしていた。
その様子がなおのこと、神子の心を愛しいような和やかなような、まったりとした気持ちにさせてくれるのだった。
「……イモコ、私には二つの夢があるんだ。聞いてくれるかい?」
互いの温もりを交えながら、神子は語り始める。
地上から空へと視線を移し、
「実は私は、『仙界』という今我々がいる場所とは異なる世界に、道場を開いているんだ。この幻想郷には迷える者達が少なくない。なので修業や説法を通じて、そうした者達の迷いを解き放ち、導いてあげようとしている。誰もが君のように物事を達観できるわけではないからね。彼らには優秀な指導者が必要なんだ」
胸にしまってある雄志を、神子は少しずつ紐解いていった。
「私の夢は、私の教えがあまねく世界を照らし、私の導きが実を結ぶこと。そしてもう一つの夢は、理想とする世界が実現した後に、大事な存在とゆっくり過ごすこと。でも正直、私自身もまだ修行中の身でね。復活してから日が浅いし、もっと知り、学ぶべきことがたくさんある。道程は依然果てしなく遠い。途方に暮れそうになることもあるけど、そんな私の心を軽くしてくれる者達もいる。その内の一人は……まだ出会ってから一日しか経っていないけど」
小犬は何も語らない。
ただし無視しているわけでもない。神子の話を遮ることなく穏やかに耳を傾けている。
「もしよかったら、君を仙界に招待したい。もちろん、すぐじゃなくていいんだ。ただ君に私のことを知ってもらいたくて。紹介したい者達もいる。君が望むなら、そのままずっと私の元で過ごしてくれても……」
神子の声が、途中から勢いを失った。
イモコが体を寄せ、膝に重みを預けてこなければ、まだ熱弁を振るっていただろう。
彼が何を伝えたいのか、そうしたいたいけな仕草が全て物語っていた。
「……ああ、そうだね。君が正しい。こんなにも穏やかな時間の中で、多弁を弄するというのも無粋な話だ。参ったな。もうここに私の理想が存在しているみたいだ」
目を閉じた神子は、勝手に急いていた己を反省し、すぐ側にいる存在と共に、世界のささやきを深く味わうことにする。
その行いを祝福してくれるかのように、初夏の風が草をくすぐって、二人の周りを通り抜けていった。
『和』だ……と神子は思う。
愛は形でも欲でもない。けれど人界で過ごしていると、しばし愛の本質を見失いがちになる。
形が愛を生むのではなく、愛が形を生むのであり、欲が愛を生むのではなく、欲に愛が付け込まれるのだ。
けれども、真の愛は濁った欲を退けてしまうということを、この小さな命が教えてくれる。
さらに無形の愛は世界を拒まず、結びつき合いながら、一つになっていくということも。
これこそ、和の一字が語ろうとしていることだ。和をもって貴しとなす。和とは調和の和に通ず。
生き急ぐ者達に、両掌でこの時間をすくって飲ませてあげたい。
きっと百度の説法よりもその心に響き、いかなる仙丹も及ばぬ薬効をその身にもたらしてくれるだろうに。
だが、二人の穏やかで幸せな空気は、突然終わりを告げた。
イモコが寝かせていた尾をピンと立たせ、体を持ち上げる。
「どうしたんだい?」
神子が尋ねた瞬間、小犬は蹴飛ばされたかのように、膝から逃げ出した。
「なっ!? イモコ! 待っておくれ!」
思わず手を伸ばして、林の方へと向かうその姿を追いかける……必要はなかった。
神子が飛ぶまでもなく、先を行くイモコの尾に、ほんの五秒ほど駆けるだけで追いついてしまった。
遅い。実に遅い。神子は健脚の持ち主だが、術を使わなければ十代半ば女子の上位程度の速さしかない。
四足獣の身でありながら、これほどまで遅いというのは逆に驚きだ。
息を切らして急ごうとするその姿から察するに、お腹についたお肉が重くて、上手く走れないのだろうか。
それにしても、なぜいきなり走り出すことになったのか。
――ん? まさか、これか?
林の境目に到着してから、神子は自分達の方に向かってきている、二つの気配に意識を集中させた。
この辺りは人里を出入りする妖怪の類も多いので、上空を移動する者は気に留めていなかったのだが、しかし確かにこちらに向かってきているようだ。
もしやイモコは走っているのではなく、逃げようとしているのでは。
そう考えた瞬間、神子は素早く呪を唱え、指で印を結んだ。
次の瞬間、二人の存在は幻想郷から消失した。
林の中に降り立ったのは、一目で妖怪と判別できるほどわかりやすい外見の者達だった。
そして、面白いほど対照的な二人組だった。
灰色の髪と丸い耳を持つ小柄なネズミの妖怪。
彼女は両手に自分の身長ほどもある長いロッドを持っており、それを平行に突きだして構えている。
その後ろについているのは、金と黒の縞柄の髪に赤茶けた蓮のような飾りを載せた、虎の妖怪だった。
彼女はがっしりとした体格を、赤い立派な僧衣と薄地の白い絹のようなもので包んでいて、なかなか神々しい出で立ちだ。
「……おかしい。反応が消えた」
「そんな! もっとよく探してみてください!」
「わかってるよ。相手は生きて動いてるわけじゃないんだろうから、絶対に見つかる。風に飛ばされたのかもね」
そう言いながら、ネズミの妖怪はその場で腰を屈めた。
「それにしても、『首輪』とはね。君が今まで失くしたものの中でも、ひときわ妙なものじゃないかな。いや、河童から買い付けた新品の大型冷蔵庫を除けばの話だけどさ」
「すみません。あの首輪は……そのー……えーと……昔世話をしていた小犬のもので、大切な思い出の品なんです」
「それがどうして勝手になくなったりするんだか、実に不可解だ」
「……こんにちは~」
小さく呻いている妖怪ネズミの顔を、鼻先五センチの距離で見つめながら、神子は挨拶した。
だが向こうは気づかない。さもありなん。神子の術は、隠行としては最高レベルのものだ。
この幻想郷から仙界側に、『己の五感を残して転移してしまう』という恐るべき業である。
存在のほとんどが幻想郷の外にあるのだから、見聞きすることはおろか、触れることすらできない。
ナズーリンと呼ばれた妖怪も、しばらく眉をひそめていたものの、結局諦めた風に立ち上がり、
「じゃあ、風下の方へと向かおうか。私の能力を使えば、日が沈むまでには全て解決しているよ」
「はい……改めて、よろしくお願いします」
そして二人は、林の木々の間を縫うようにして飛び去っていった。
彼女らの姿が見えなくなった後も、神子は用心のため、隠行を解かずにいた。
様子を見る限り、虎の妖怪が失くしてしまったものを、もう一方のネズミの妖怪が探してやっているようだった。
そして彼女達は、『首輪』を探しているとも言っていた。『小犬』ではない。
しかし、
「イモコ、二人が探していたのは、今君のしている、これのことではないのかい?」
神子は抱きかかえていた小犬に尋ねる。
茶色の毛の中に隠れた、皮製の赤い輪に指を当てながら。
抱えている温もりは、黙したままだ。
けれども、神子には確信があった。
「反応が急に消えた」というネズミの妖怪の発言からして、その首輪というのはイモコのしている首輪のことだったと考えるのが自然である。
「どうして逃げようとしたんだ。それに君は……」
たった今、あの二人を追いかけようとしていたじゃないか、と言いかけて、神子は口をつぐんだ。
振り返ったイモコの顔は、困ったように眉のあたりが斜めになっている。
その瞳の奥に漂う、複雑な何かを神子は察知した。
不思議に思って、耳当てをずらし、片耳を露わにする。
すぐに、森羅万象の発する無数の声が、一挙に集中し、鼓膜を通り抜けて飛び込んできた。
神子は己の中の広大な精神の網によって、瞬く間にそれらを選別していく。
そしてついに、目の前の小さな獣が発する声を捉えることに成功した。
その欲と対峙した神子は、自ずと眉間に力がこもる。
純真だと思われた小犬が心の奥底に隠していたそれは、単純なようで矛盾している、難解な欲だった。
まるで、二つの蛇が互いの尾から呑みこもうと戦っているような、凄まじい葛藤だった。
こんな小さな体が、こんな苦しみを秘かに抱えていたとは。
「イモコ……君は……」
知り合って間もない友の、悲痛な訴えを聞き、神子は言葉を失う他なかった。
そして彼のためにできることを探るため、なおもその欲を読み取ろうと、意識を集中させた。
4 負けてない。けど遠吠えしたい
「どうなされたのですか、太子様。我の目には、その、お箸がお進みになっていないように見えるのですが……」
心配げな布都の声が耳に届き、宙に浮いていた神子の意識が、己の身に舞い戻った。
神霊廟。部屋の顔ぶれは、昨日と同じ部下二名。昨夜と異なっているのは、卓の上の献立のみ。
今晩のおかずは、みんな大好きハンバーグだった。
しかし神子の皿に乗ったそれは、まだ手つかずのままだ。
「失敬。少し、昼間の出来事を思い出していまして」
「もしやイモコとやらが、太子様に無礼を働いたのでは」
ハの字になっていた布都の眉が逆さとなる。
食卓に着いてまだ「いただきます」の言葉しか発していなかった屠自古も、ちら、と神子の方を見た。
「無礼? まさか。やはりイモコは私が見込んだとおりの者でした。その振る舞いは清廉潔白としか言いようがない。知り合ってから間もないですが、私の心は傷ついたどころか、以前より磨きがかかった気がするのです」
神子はイモコと出会って過ごした短い時を想い、自然と片頬に手を当てながら目を閉じていた。
「ふふ。羽化登仙、とはこんな気持ちなのかな。何物にも代えがたいあの淡くて美しい時間。互いの温もりに触れることで、互いの魂が浄化されていく。これからもそんな時間を過ごす関係でいたい。私だけではなく、きっとイモコもそう思っていることでしょう」
具体的な話については一切語っていないものの、神子の言葉に偽りはなかった。
獣の身でありながら、あの域に到達できるとは、まさに奇才。彼に比べれば自分の才など……。
「……だけど」
桃色の回想の中に、黒い影が過ぎり、神子は表情を曇らせた。
「確かに今日は気になる出来事もあったんです。どうやらイモコは追われている身らしい」
「やや? まことですか。すねに傷を持つ者だったのでしょうか」
「わかりません。だが、彼を追っているのは人間ではなく、妖怪でした。イモコはその者達のことを知っているようでしたが……」
とりあえず、その妖怪が命蓮寺一派の者達であるということは、神子はまだ伏せておこうと思っていた。
布都は興味津々に尋ねてくる。
「なにゆえ、妖怪がイモコを追うのです。食らうためでしょうか」
「あるいは、そうかもしれない。しかし、今日その答えは得られませんでした。その場は私が彼を保護したから」
「むむ。保護なさったと。仮にも、立派なをのことあろうものが、身から出たさびで太子様の手を煩わせるとはなんと勿体のない」
「イモコは私と同じ求道者で、同志ともいえる。同門の者を助けるのは、仙人の務めですよ布都」
神子は落ち着いた声で弟子を諭す。
言われた方は「なるほど、さすが太子様!」と、あっさり意見を翻した。
「イモコの表情の強張り様から、彼が妖怪に見つかることを恐れていたことが伝わりました。なので私は事情を聞かず、その身を抱きしめ……」
ごほん、ごほん。
と横槍を入れたのは、屠自古だった。
何も言ってはいないが、その表情が何よりも雄弁に語っている。
彼女の咳がおさまるのを待ってから、神子は気を取り直して、
「なので私は事情を聞かず、その身を抱きしめたのです」
平然と続ける。
ガクン、と屠自古の頭が下がった。
「現れた二人の妖怪は、どちらも血眼になってイモコを捜しているようでした。一方、イモコは私の胸元に顔を押し当て……」
「ををを」
布都が目を丸くする。彼女が飛び道具に用いる皿のように。
一方、黙って顔を伏せている屠自古の首筋には、血管が浮き出ていた。彼女が操る雷のような模様で。
「……息を殺していました。けれども私の術が完璧だったため、妖怪達は諦めて去って行きました。その後、私が側にいない間に彼が苦難に見舞われぬよう術をかけました。彼が望まぬ者は、決して彼を見つけられないという術です。本当は仙界に来ないかと誘ったんですが、彼はそれを拒んだのですよ。残念です。布都と屠自古に紹介したかったのに。それに……」
あるいは彼は今も、妖怪の手から逃れながら、一人心細い夜を過ごしているのかもしれない。
そのことで箸の進みが遅くなってしまったのでした。
神子はそう話を締めくくった。
二人の従者の反応は、あまりよろしくなかった。
屠自古はだんまりではあるものの、食事の手は止まっており、髪の毛からパチパチと細かい音を発している。
布都はそれに比べれば、分かりやすい不満を示した。腕組みして鼻の頭に皺をよせ、低く唸るような調子で、
「ぬぬぬ、口惜しや。イモコとやらめ。我をさしおいて、太子様のご抱擁にあずかるとは」
「布都が望むなら、どうぞこちらへ」
「よ、よろしいのですか!」
と応えた当人は、もう腰を上げている。
小犬の尻尾のかわりに、銀の馬の尾を揺らして、布都は神子の側まで近寄った。
その時ついに、たまりかねた様子で、屠自古が目に角を立て、
「太子! 食事中ですよ! はしたない!」
「構いませんよ。布都の食欲の方はもう満ち足りているようですし、欲は熱い内に打てと言いますし」
「聞いたことありませんし賛同できかねる教えです!」
「屠自古も来ますか。今なら右半分が空いてるよー」
と言ってから、「ん?」と神子は懐く布都を抱えていない方の手を、耳当てに添える。
「ああ。屠自古は布都と違って、一人で背中側から抱きしめられる方がいいんですね。今、ちゃんと聞こえました」
広さ八畳ほどの茶の間に、天を割くような音が轟いた。
◆◇◆
~~~~
仙界放送局より、気象情報です。
お茶の間地方にて発生した台風1025号が、北上していきます。所により、強い雷雨があるでしょう。
以上、神霊廟のお天気でした。
~~~~
――太子のバカ。太子のバカ。太子のバカ。太子のバカ。
茶の間を出た屠自古は、廊下を猛然と突き進む。
その怒りは進むにつれて燃え上がり、心中の悪口はエスカレートしていく。
――太子の人たらし! 太子のボケナスビ! 太子のミヤマクワガタ!
怒れる屠自古は、ついに神霊廟の端に到達した。
回廊の手すりの向こう側、夜闇に溶けた石畳が広がっており、遥か先で星空と合流している。
誰も気にする者はない。屠自古は地平線の彼方に向かって、思いっきり声を張り上げようとした。
その時、
「待て! 待たぬか屠自古!」
能楽を思わせる甲高い声が、背中を引き留めた。
「おぬしが雷を直撃させてくれたおかげで、大変なことになったぞ! 我は太子様に守られて無事であったが、太子様の御髪が……!」
廊下を走ってきた布都が、言葉を詰まらせる。
振り向いた屠自古の表情を見て、意外の念に打たれたらしかった。
「屠自古……おぬし……」
「………………」
「風邪でもひいたのか」
「ちゃうわボケ!」
とりあえず雷撃でツッコミを入れておく。
床の上に大の字になった布都の横で、目を袖で拭い、ちり紙で鼻をかんで、ようやく「亡霊になっても涙は出るんだな」と冷静に考えられる程度に、気分が落ち着いてきた。
「うーむ……効いた……相変わらず行動の読めぬやつよ」
「ふん。私からすれば、お前や太子の方がよっぽど行動が読めないよ」
「いや、我にもおぬしが部屋を出た理由はわかったぞ。太子様に抱きしめてもらう我が羨ましかったのであろう。どうだ」
「別に。羨ましくなんかない」
嘘じゃない。別に抱きしめてくれなくてもいい。
それよりも、真っ先に追いかけてきてほしかった。
なんでお前なんだ。
布都が眉をひそめて問うてくる。
「どうしたのだ。最近のおぬしは、なにやら様子がおかしいぞ」
「………………」
確かに、言われるまでもなく、自分でもおかしな調子が続いていることに屠自古は気づいているし、思い悩んでいる。
前はこんなもやもやしたものが、頭や胸の内を跳ねたりぶつかったりして暴れ回るようなことはなかった。
コントロールできなくなってしまうほど大きくなってしまったその何かは、時に物狂おしさすら覚えるほどだ。
屠自古は本音を胸の奥にしまい直し、回廊の手すりにもたれかかりながら、
「布都」
「なんぞ」
「もし私が太子のお嫁さんだった、って聞いたらどう思う?」
「むむむ?」
布都は目をパチパチとさせる。
「そうなのか?」
「仮に、の話」
仮のはずなのだが、そんな歴史が世には広まっているらしい。
この幻想郷にて屠自古が覚醒してから、何に一番驚いたかといえば、そのことであった。
もちろん、太子の復活には感動を覚えたのだが、それに匹敵するインパクトがあった。
度肝を抜かれたといってもいい。
「ふむ。おぬしが太子様の嫁というなら……」
布都は自らの顎を挟んでいた二つの指を、ビシィと屠自古に向け、
「我は太子様の『愛人』となろうぞ!」
と高らかに宣言した。
しばらくして、床までずり落ちていた屠自古は、なんとか立ち直り、
「どこでそんな言葉を覚えたんだお前は! っていうか大体、愛人の意味がわかってるのか」
「無論のこと。まず嫁とはすなわち、女に家と書く。よって家にいて家事をする女が嫁というわけだ。まさしく屠自古にふさわしかろう」
「………………」
「そして愛人とは読んで字のごとく、愛の人だ。太子様に愛を与えるという我にふさわしい役目。なんでも熱々でスゥイートで修羅場がつきもののポジションだというぞ」
――青娥だな……あいつ……。
屠自古は直感で、布都に歪んだ知識を与えた人物について悟る。
「ところで、どうしてそんなことを聞くのだ?」
「ん、いや、大した意味はないけど」
屠自古は言葉を濁しながら、布都から視線をそらす。
頭に浮かぶのは、1400年前の己と、今この神霊廟で暮らす己――その違いと、変わらぬ立場の差である。
屠自古は尸解仙ではない。亡霊だ。つまり神子や布都とは異なる存在だ。
夢殿大祀廟にて、眠りに就く彼女達の側にいる、地縛霊のようなものだった。
それから1400年。屠自古は世に出て見聞を広めるようなことをせず、意識を半ば凍結させていた。
かつての記憶を風化させないためである。亡霊になったのは不本意だったが、主人の側で同じように眠ろうとしたのは、己の意志による選択だったし、今ではこの身も快適で、また共に神子と暮らすことのできることに喜びを覚えている。
ただひとつ寂しく思うことがあるとすれば、元々感じていた彼女との差が、さらに広がったのでは、ということだった。
高みを目指して、望み通り尸解仙となり、復活した後もさらなる理想を追求し続ける神子。
それに対して亡霊の自分は、やれることが限られている上に、生来の性格も災いして、せいぜい影ながら支えるという目標くらいしか立てられずにいた。
しかしある日のこと、屠自古は自身の心を揺さぶる、とてつもない情報を発見した。
それは歴史である。己が仕える聖徳道士は数々の伝説を残す偉人として伝えられ――それは確かに正しかったのだけれど――屠自古と思しき人物がその妻として記されていたのだ。
どうしてそうなったかは、わからない。けど嬉しくなかったといえば嘘になる。
なぜなら、太子にとって最も近しい存在が蘇我屠自古である、と世間から認められた気がしたからだ。
種族の差、立場の差による疎外感を埋めてくれる何かが、そこにはあった。
ただ悦びに浸りきれなかったのは、伝わっていたもう一つの歴史が、なおのこと衝撃的だったからなのだが。
「……布都。もう一つ聞くけど」
「ふむふむ」
「私が……お前の娘だったとしたらどうする」
「むむむむむ!? なんと!?」
今度の彼女の反応は、より激しいものだった。
顔面の全てのパーツを拡張させ、己を指さして叫ぶ。
「それすなわち、我はおぬしの親!?」
「ああ」
「ならば我はおぬしに……」
戦慄の表情で、布都は続けて問い質す。
「お乳をあげねばならんのか!?」
「違うっ!! 何もかもが違う! どんな発想してるんだお前の頭は!? もういい! あっち行け!!」
こいつに打ち明けようとした私が馬鹿だった。
目を白黒させている布都を残して、屠自古は神霊廟の裏に足を向けた。
そこには修行のために造られた、人工の滝がある。亡霊の身であっても、その水は清く、冷たく、鋭い。
しばらく滝に打たれて、精神を磨こうと思ったのだ。
相手は当時小国とはいえ、国一つ分の民の意志を預かって、自在に動かした人物だ。
独り占めにできる存在じゃない。
けれども、それでも1400年前から、自分の望みは変わっていない。
太子の力になりたい。心の支えになりたい。その気持ちは布都にだって、イモコにだって負けはしない。
そしてその想いが伝わっていなかったのだとしたら、
――やってやんよ!!
屠自古の胸の内で、その一念が燃え滾っていた。
◆◇◆
「今宵は一段と素敵な御髪ですわね」
「そうですか?」
「まるで宮廷音楽家のようですわ。バッハやヘンデルの頭もこれほど見事ではありませんでしたけれど。昇天ペガサスパーマとお呼びしてもよろしいでしょうか」
いずれも神子にとっては馴染みのない単語だったが、彼女の語調からして、褒められているのだと思う。
もっともその顔からはうかがい知れない。酌をしてくれるその女性は、1400年前から微笑以外の表情を見せてくれたことがないからだ。
彼女は髪の色だけではなく、その名前も含めて全てが青を基調としていた。
そして、全身のあらゆる部分が曲線を描いているといってもいい、艶のある風貌をしていた。
欠けた所は何も見当たらないのだが、それが逆にいかにも怪しげで、ただの美人とも言い難い。
実体が在るようで無いような朧な存在感は、抹香の煙を思わせる。
「私の顔に、何かついてます?」
霍青娥は小首をかしげる。
相変わらず、顔にはのっぺりした笑みだけが貼りついていて、その裏に隠れた心を完璧に隠していた。
神子はよほどのことがない限り、この自らの道術の師ともいえる仙人を、真面目な議論の相手に選んだ事はなかった。
晩酌のお供に他愛もない相談をする上では、これほどふさわしい相手もいないのだけど。
「青娥。君に尋ねたいことがあります」
「私めが知ることであれば、なんなりとお答えいたします」
「あまねく種族の中でも、人ほど迷う種はないといえる。言葉を持ち、文明を持ち、欲の源は増える一方。なまじ多色な欲ゆえに、そこには葛藤が生まれる」
「然り、と答えておきましょう」
「では、獣の持つ欲の数であっても、葛藤は起こるものなのでしょうか」
脳裏に、夕方に別れた小犬の影があった。
神子はてっきり、彼が人間に飼われていたのだと思っていたのだが、もしかするとあの二人に……いや、虎の妖怪の方に飼われていたのではないか。
しかしそうなると、どうして二人は小犬じゃなくて首輪を探していたのかが引っかかる。
そしてもっと神子に疑問を抱かせたのは、イモコの内面についてだった。
あの時、イモコの中には彼女らの後を追いかけたいという、ごくごく自然な欲が存在していた。
しかしその欲にまとわりつくようにして、もう一つの欲も存在していたのだ。
『家に戻りたくない』という欲が。
獣の欲は、概して純粋である。
その中でも、神子の知るあの小犬の欲は類いまれなほど上品かつ淡麗であり、そこが彼の魅力でもあったのだ。
なのにあの瞬間だけ、生々しい二つの欲が混ざり合い、濁り、彼自身の心が静かに傷ついていた。
それが神子にとっては理解しがたく、友の苦しむ様に心が痛んだのである。
青娥は艶やかな手で口を隠し、声を立てずに笑う。
「欲の専門家様に、欲について尋ねられるとは思いもしませんでしたわ」
「私もまだ修行中の身です。学べる相手からは、どんなことでも学び取りたい。特に君からは尸解仙になる以前、多くのことを教わりましたからね」
「つまり豊聡耳様はまだ、私を先生と認めてくださるのですね。光栄ですわ」
平面的な表情を湛えたまま、彼女は言う。果たして本音かどうか、相変わらず神子の力を以てしても分からない。
青娥は二つの指をそろえて、傾けた頭に当てた。
「昔々……あるところに毒の気を吐く沼がありました。中に入るのはもちろんのこと、その水面に近付くだけでもたちどころに命を奪ってしまう沼でした。その沼で芳香ちゃんと、ある遊びをしたことがあるんです。沼の真ん中に大きな蓮を浮かべて、その上に新鮮な生肉を載せて……。あら、これは以前、豊聡耳様にお話ししたかしら」
「初耳です」
芳香というのは、青娥の操る動く死体――キョンシーのことだ。
夢殿大祀廟の入口を守ってくれていた功労者であり、今はこの仙界ではなく、顕界の墓地で暮らしている。
しかし青娥と彼女が出会ったいきさつや、自分が封印されている間に彼女達がどのように過ごしていたかについては、神子も詳しくは知らなかった。
「それでは話を続けますわね。蓮の上に生肉を載せて準備を整えてから、芳香ちゃんをそこの沼に連れて行ったのです。私が何も命じないでいると、彼女はあっという間に……」
「『食欲』のおもむくままに、毒沼に飛び込んだのですね」
「ええ」
肯定した青娥は、いきなり両腕を前方にぴしっと伸ばした。
手首をでろりと垂らし、虚ろな瞳になり、間延びした声で騒ぎ始める。
「『うーおー、あんな所に肉があるぞー。私のおやつに違いあるまい』。バッシャバッシャ、ズブズブズブズブ……」
語る状況に合わせて、律儀に体をゆすりながら座高を低くしていく。
道術だけではなく、モノマネの師としても優秀だったようだ。
そんなことを考える神子の肩の位置まで頭が下がったところで、まるで憑きものが落ちたかのように、青い仙人は体を起こし、元の微笑を浮かべる。
「けれども、飛び込んだのは彼女だけ。翼のある鳥や力ある熊、群れなす山犬なども術で連れて行きましたが、そのもの達は毒沼に一切近づこうとしませんでした。いずれも恨めし気に生肉の載った蓮を見つめていましたけれども。それらが持ち合わせていたのは、食欲だけではありませんでしたから」
「………………」
「獣らは己の命と肉を天秤にかけたのです。いつも最後に勝つのは、より大きな欲。それが獣の理なのでしょうね」
青娥の説に、神子は考え込んだ。
イモコは普通の獣のようには思えなかったが、試しにそうだと仮定して推理してみる。
あの時、あの小犬は飼い主の元に帰りたがっていた。それは紛れもない本物の欲だった。
ただし、その欲の先に、己の命を脅かすほどの危険があったとすればどうだろう。
俄かには信じがたいが、可能性が無いわけではない。
それにイモコの身体には古傷があった。もしかしてそこに何か関係があったのだとしたら……。
――やはり、真実を見極めるためには、あそこに乗り込まねばならないみたいですね。
神子はそう決心し、明日の予定を定めた。
5 三年経っても忘れません
就寝前のこと。洗面台の鏡の前に立った聖徳道士は、己とは全くの別人がそこに映っているのを発見した。
『彼女』は率直に言って、凄まじい髪形をしていた。
まるで黄金のシダ植物。普段が麦畑だとすれば、今はジャングルの一部が頭に移植されたかのようになっている。
ところが、
「ふむ……これはこれでなかなか」
鏡の中の聖人は、まんざらでもない顔でポーズを決める。
面白かったのでその状態のまま、神子は床に就いたのだが、朝起きると髪型が戻っていた。
さながら、形状記憶毛髪といえようか。我が髪ながら侮れぬ。
結局、いつもの服装とヘアスタイルで、神子は昼四つの時間に目的の場所を訪れた。
命蓮寺。
数年前に聖白蓮が開いた、毘沙門天を信仰するお寺である。
幻想郷のどこにあるともはっきりと言えない神霊廟に対し、この寺は里の外側、妖怪と人間の境界に建てられた。
おそらく自分達の立場を、他の勢力に示しているのだろう。清々しいほどまっすぐで大胆な立地だ。
通りに向かって開放された通用門の前で、神子は軽く立礼した後、内へと踏み入る。
本堂へと通じる石段は綺麗に掃除されており、まさにお寺らしい静かで整然とした雰囲気が漂っていた。
しかし本堂自体は、質素という言葉が不似合な堂々とした造りで、武骨な印象も抱かせる。
それもそのはずで、元々これは空に浮かんでいた船であり、今でもその気になれば天を泳ぐことができるのだ。
神子もその姿を見たことがあった。
いずれにせよ、自分が摂政をしていた時代に建てた木造の寺とは、だいぶ趣が異なっていて興味深い。
ちょうど本堂の裏側から歩いてくる影があったので、神子は足を止め、声をかけた。
「こんにちは、よいお日柄で」
するとその少女――白帽をかぶった黒髪の舟幽霊は、ぎょっとしたように目を見開き、立ち止まった。
神子に劣らぬ、涼しげな服装である。半袖の白いシャツにスカート。そして赤いネクタイ。
その妖怪らしい日に焼けていない両手には、柄杓と水桶。格好からして、裏庭で畑に水を撒いていたのだろうか。
「ふーむ」と彼女は腕を組み、不意に現れた来訪者を軽く品定めするような口ぶりで言う。
「今度は親玉さんの方が、うちに火をつけにきたとか……」
「いえいえ、滅相もない。しかしお望みとあらば」
神子は手にした笏を、相手の胸の中心に差し向け、
「君の心に火をともしてあげますけれど」
「あらどうぞ。私のハートは海のどこかに沈んでるから、その気なら探してきてちょうだいな」
舟幽霊はニッコリ笑い、柄杓を持った腕を軽く曲げて、受け流すようなポーズを取る。
意外とノリのいい妖怪だ。
こちらの素姓は知られているようだが、有無を言わさず柄杓で水をかけられるほど嫌われているわけでもないらしい。
神子も会釈して尋ねる。
「突然の来訪、失礼いたしました。聖上人は御在宅でしょうか」
「聖なら留守よ。里に説法に行ってる。一輪も一緒。あとはナズーもお出かけ中」
「おや」
早速予定が狂ってしまった。
神子はとりあえず、命蓮寺の住職である聖白蓮と顔を合わせる心構えだったのだ。
彼女とはすでに何度か語らったことのある仲のため、今日出向いた訳を伝える相手として適任だと思っていたので。
――けどまぁ、問題の核心となる者は別だし、それならそれでいいか。
頭を素早く切り替えた神子は、舟幽霊に伝える。
「実は会わせていただきたい妖怪がいるのですが。体の大きくて、金と黒の縞模様の髪型をした獣の……」
「ああ、星ならいるわよ。ただ最近ちょっと落ち込むことがあったらしくて、会ってくれるかどうか」
「なるほど。では言付けを頼みたいのですが。ああ、くれぐれも直接、彼女にだけお伝え願います」
そう念を押してから、神子は用件を口にした。
「首輪を届けにきた、と」
◆◇◆
五分と待たされることなく、神子は寺の奥へと案内された。
廊下を先程の舟幽霊――村紗水蜜の先導で進み、本堂の裏手の母屋内にある広い客間にたどり着く。
そこには昨日林で見かけた、件の虎の妖怪が、一人で待機していた。
緊張気味の彼女――寅丸星と対面した神子は、舟幽霊が部屋を退出してから、
「術を解きますね」
と言って、笏を筆代わりにして、空間に文字を描き、低い声で呪を唱える。
間もなく部屋の空気に歪みが生じ、霧の中に映る幻のように、ころっとした体型の赤犬が浮かび出た。
瞬間、ジッと神子の仕草を見つめていた星は、感極まった様子で身を乗り出し、
「ああナムサン! 無事でよかった……!」
胸に飛び込んでくる小犬をしっかりと抱きとめたのだった。
神子はその光景を、ぼんやりと眺める。
――ナムサン、か。
それがイモコの本名らしい。
『ナムサン』なのか『ナムさん』なのか、それとも『南無三』なのか、イマイチわかりにくい。
ともあれ、イモコが彼女に飼われていたのだろうという神子の推測は、やはり間違っていなかったようだった。
主人と再会した小犬は、尻尾をぷるぷると振りながら、彼女の膝の上で跳ねている。
自分と過ごしていた時は、どこか達観したような仕草しか見せていなかったので、新鮮な眺めだった。
胸の内に生まれた一片の感情を丹田に沈めつつ、神子は話を切りだす。
「ところで、貴方にいくつかお尋ねしたいことがあるのです。その、ナムサンのことなのですが」
「はっ……!」
我に返ったような星が、左右に素早く視線を走らせる。
続けて、しーっ、と指を立てて口に当て、尾を振る小犬を抱え込んだ。
「す、すみません。こんなことを頼むのは変だと思われて当然でしょうが、もう一度術をかけていただけませんか。つまりその、ナムサンの姿を隠してもらいたいのです」
「ふむ?」
奇妙な申し出だったが、神子は快く、先程と同じ作法で呪を唱え直す。
もっとも今度は、ただ気配を消すだけの弱めの術にしたので、小犬の姿が見えなくなってしまうことはなかった。
「これでひとまず、この部屋にいる私達以外に、その子のことを覚られる心配はないですよ」
「ありがとうございます」
星はホッとしたように息を吐き、
「実はナムサンのことは、寺にいる皆にも秘密にしているんです。この近くにある、私の管理している材木置き場の小屋の中で、内緒で飼っていたものですから」
「内緒で? じゃあ、あのネズミの妖怪に、首輪を探して、と頼んでいたのは……」
「そうですよ、それについて、お尋ねしたかったのです。どうして貴方がそのことを?」
問われた神子は、包み隠さず語ることにした。
一昨日、里の外れで小犬に出会った経緯。
そして昨日、『首輪』を探しに来たという星とナズーリンの会話を間近で聞いていたことを。
虎妖怪は欺かれたことに立腹するよりも、神子の隠行の技に敬服したらしかった。
「突然反応が消えたのは、豊聡耳様の術が原因だったのですか……。ナズーリン――私の部下のことですが、彼女は探し物を見つけることのできる能力を持っているのです。今まで見つけられたなかったものは無いと言ってもいいほどだったので、昨日からずっと不思議に思っていたのですよ」
「失礼いたしました。あの場で明かすべきだったのでしょうね。飼い主である寅丸さんに、一晩いらぬ心配をさせてしまった」
「いえ、私としてはむしろ助かったかもしれません」
そう言って星は照れたように、弁解じみた所作で頭に手をやり、
「ナズーリンは、私が犬や猫などの小さな命を寺にかくまうことを良しとしないのです。昨日も、彼女に小犬を捜してと頼んでも、きっと承諾してくれないと思ったので、ついあんな『首輪を探して』という方便を」
「なるほど。しかしその、いざナムサンが見つかった時に、部下のネズミ殿にどう釈明するつもりだったのですか。今の話だと、寺に連れ戻すわけにもいきますまい」
「ええとそれは、何とかその場で、土下座してでもナズーリンを説得するつもりでした」
「土下座?」
「はい」
あまりに臆面もなく言うものだから、神子はぽかんとなった。
「それはまた、ずいぶんと……」
いささか計画性に欠けているような、虎の妖獣にしては下手に出過ぎなような等々、いくつかの意見が頭を過ぎった。
迷った挙句、一番当たり障りなさそうな――というか、お茶を濁すような感想を述べる。
「……思い切った行動に出るつもりだったのですねぇ」
「返す言葉もございません」
多少の自覚はあるのか、星も目を伏せて言う。
「正直なところ、ナムサンの安否を一刻も早く確認したくて、その後のことを考えるほど気が回らなかったのです。この子は外で生きていくには、体が小さすぎます。私と出会った時も、すごく弱っていましたから」
大事な宝物を扱うように、その手が小犬の頭を撫でる。
神子は彼女から、ナムサンとの出会いのいきさつを聞くことになった。
今年の春のある日のこと。
星は己の『宝物を見つける力』が、なまっていないことを確かめるため、一人で出かけたという。
外界に比べて幻想郷は狭い世界だが、その歴史は長く、広さも一朝一夕で回り切れる規模ではない。
きっと誰も見つけていない宝があるだろう。
何か発見した際には、それが大きいものであれば寺で祀り、小さいものであれば恵まれぬ者達に施そうと考えていた。
そして、妖怪の山の麓を散策していた星は、確かに『宝』を見つけた。
「はじめに見た時、私はこの子がすでに、帰らぬ旅路についた後だと思いました」
小犬のやせ細った身体は茂みの中に横たわり、毛は血に染まっていて、ぴくりとも動かなかった。
それがまだ新しい亡骸に見えた星は、せめて供養してあげよう、と数珠を取り出したのだった。
しかし念仏を唱え始めると、突然、生気を失っていた小犬の四肢がわずかに震え、瞼が開いたのだ。
まだ息がある。助かるかもしれない。そう思った星は慌てて彼を寺の近くまで持ち帰り、介抱した。
思えば自分も、かつて山で独りで暮らしていた時には、このような生傷が絶えなかった。
聖に拾われ、毘沙門天を信仰するようになってから、ようやく他者に心を開き、生きる喜びを得たのだ。
だがナムサンは、傷が治った後も、ひどく臆病で警戒心の強いままだった。
元々野良だったのか、鷹にさらわれたか、それとも心ない人間の虐待を受け、捨てられたのか。
いずれにせよ、これも何かの縁。御仏の導きと思い、育てることにしたのだという。
「野良だったこの子は、滅多なことでは鳴きません。ずっと自分の声が命取りになるような世界で生きていたのでしょう。だからこそ、今日まで他の者達に知られることなく匿うことができたのですが……一昨日になって突然、小屋から姿を消してしまったんです」
「突然? 原因はなんだったのでしょうか」
「それが分からないのです。鎖につないではいませんでしたし、誰かにさらわれたのでもなければ、自分から出て行ってしまったとしか……」
「………………」
「ナムサンが消えてしまった初めの日は一人で探していたのですが、見つからず、次の日になって部下のナズーリンに頼んだのですが、やはり見つからず。今日の午後も、彼女の力を借りて探しに行くつもりだったのですが、ここまでして見つからないということは、もしや……と気落ちしていたところに、豊聡耳様がナムサンを連れて来てくださったのです」
「……そうだったのですか」
神子の頭にあったいくつかの点が、今の話で、線で結びつき、一つの絵図を生じた。
イモコの気配が、野良犬とも飼い犬ともつかぬ感じだったのは、その出生が原因だったのだ。
体にあった無数の古傷も、星に育てられる前にできたものだったのだろう。
臆病で警戒心が強いというのも、神子が初めて出会った時の、彼の印象と一致する。
「この度は、豊聡耳様になんと御礼を申せばよいか。私にできることであれば、何なりとお申し付けください。ナムサンを助けていただいた御恩をお返しせねば」
「いえ、どうかお構いなく」
と答えようとしたその時。
ク~、ほろほろほろ
とフクロウの鳴き声のような音を、神子のお腹が奏でた。
思わぬ失態に、聖徳王は顔を赤らめた後、
「……失敬。今朝に限って、うちのものが朝餉を用意してくれなかったもので」
脳裏に、怒った屠自古の顔が浮かぶ。
どうも昨日何か思うところがあったようで、彼女は昨晩からずっと滝行をしているようだった。
なので邪魔にならぬよう、声をかけずに果物をつまんだだけで出かけたのだが、やはりしっかりと食べてくるべきだったのだろう。断食行には慣れているものの、ここ数日は三食が続く生活だったので。
けれども対面に座る星は、眉をひそめるどころか、嬉々とした様子で、
「それなら、お昼を食べていってください! ぜひとも召し上がっていただきたいものがあります!」
と言って、小犬を膝から下ろし、すっくと立ち上がった。
「ただ今ご用意いたしますので、この部屋でお待ちください。ナムサン。いい子にしてるのですよ」
その体のサイズに似合わない素早い動作で襖を開けて、星は急いで廊下を駆けていった。
イモコと再会できたのが、よほど嬉しかったのだろう。てんてんてんてん、と弾むような足音が遠ざかっていく。
もしくは、あれが地の性格なのかもしれない。
「おかしなことになったけど、せっかくなのでいただいていこうかな」
と、神子はイモコの方に目をやる。
視線が合った途端、友は耳を寝かせてお座りした。まるで不義理を働いたことを恥じるかのようなそぶりだ。
神子はくすりと笑いを漏らし、「おいで」と手を差し伸べる。
すると小犬は畳の上を、薄く氷の張った池を進むようにそろそろと歩いてきて、側で伏せをした。
「ふふ、イモコじゃなくてナムサンだったんだね。名付け親の座も、私はたった二晩で失ってしまったようだ」
そう残念そうな口ぶりで言いつつも、神子は安堵していた。
昨日、一昨日と過ごしたように、小犬は愛にあふれた仕草で自分を慈しんでくれる。
その様が、昨日まで過ごした時間が決して偽りのものではなかったという自信を与えてくれていた。
そして神子は、もう一つの意味でも安堵していた。
彼の古傷を見たとき、もしや飼い主からひどい扱いを受けていたのではないかと心配していたのだ。
しかし、実際に寅丸星に会ってみて、その考えが杞憂であったと結論付けられた。
とても飼い犬を虐待するような気質の持ち主とは思えないし、変わった経緯だが、話の辻褄もあっている。
それにやはり、あの聖白蓮の部下というだけあって、その仏性はかなりのものらしい。
小屋から消えてしまった大事な『宝』が敵対勢力の親玉と共に現れれば、その相手こそがさらった犯人だと考えても無理はない気もするのに、涙まで流しながら礼を述べて、己の事情を隠そうとせず、虫も殺さぬ笑顔で語ってくれたのだから。
――待てよ。だとすると、やはり引っかかるな。
すり寄ってくる小犬を撫でながら、神子は考えに耽った。
なぜ、星にはナムサンの姿が見えなかったのか?
昨日からこの部屋を訪れるまでに彼にかけていた隠行の術は、己が望んだもの以外には見つけられないという、かなり高度なものだった。
そして神子が術を解くまで、星にはナムサンの姿が見えていなかった。
それはこの小犬の中に、星との再会を拒む気持ちがあったということを意味する。
つまり一連の状況から考えると、ナムサンは自らの意志で主人の元を去ったとするのが自然である。
だがそれもまた妙な話だ。
ナムサンの方も、主人との再会を待ち望んでいたのは間違いない。
つい先ほど見た素直な喜びっぷりから、容易に察することができる。
昨日彼の心から聞こえた二つの相反する欲が、やはり関係しているのだろうか。
「ナムサン……いや、イモコよ。君はどうして彼女の元を一度去ったんだい?」
二つの黒い純真な瞳。それらは嘘をつくことはないが、何かを語ってくれもしない。
温かい寝床と食事、そして飼い主の愛情を捨ててまで、危険に満ちた外へと飛び出したからには、何か特別な理由があったと考えるのが妥当だが。
「ん?」
神子は小鼻を動かした。
嗅いだことのない、鼻にツンとくる香りが漂ってくる。
薬草を煎じたようだ。けれども、それよりもずっとまろやかで、食欲をそそる臭いだった。
「お待たせいたしましたー!」
部屋の襖が開き、お盆を持って満面の笑みを湛えた星が現れる。
「さぁ、召し上がってください。命蓮寺特製の精進カレーです」
「か、カレー!!?」
呆気に取られていた神子は、思わず素っ頓狂な声でその名を復唱した。
復活を果たした後、膨大な文献から知識を集めた聖徳王には、食してみたい献立ランキングというものがある。
その中で、堂々のベスト10入りを果たした料理の一つが、天竺で生まれたというその香辛料を効かせた煮込み料理、すなわちカレーであった。
まず名前がいい。その音は『華麗』に似ていて、まさしく自分にふさわしい。
そして多様な薬草類は、仙人としての己の心身を清め、高めてくれるに違いない。
さらに、使う具材とスパイスの組み合わせによって無限に可能性が広がるという、単純ながら奥深い点もそそられる。
そのカレーが、こんなところで食せる!
座った星が、お盆から大皿を取り、卓の上へと移す。
ツヤのある大盛りの白米にかけられた、褐色のルー。その中にはニンジンとジャガイモ、他にもいくつか具が混ざっているのが見て取れた。皿の上から立ち上る湯気は、目が眩みそうなほど芳醇だ。
「これは寅丸さんが調理したのですか?」
「いえいえ、あいにく私は料理が苦手で、食べてくれる者も限られているんです。でもこれは村紗が昨晩に仕込んだもので、味は保証できます。彼女の得意料理なんですよ」
「先程の舟幽霊さんが。なるほど……この匙で食べるのですね」
神子はおっかなびっくり食器を手に取る。
皿を上から見ると太極図に似ていなくもない。白飯を陰とするなら、カレーはさながら陽。
その境界にさじを差しこみ、すくって持ち上げ、顔の近くまでゆっくりと運んで、香りを吸い込んでみる。
まるでスパイスに鼻の内側からツボを指圧されているみたいだ。
「いただきます……」
神子は意を決して目を閉じ、その玄妙な色合いの食物を、口に含んでみた。
「むぅ!?」
髪の毛の先まで電撃が走ったかと思うと、視界がまるで別の光景に切り替わる。
八畳の客間が黄金の茶室に……いや、もっと広く、絢爛なものに変容した。
壁、天上、柱にいたるまで金で統一されており、しかも小さな宝石が星々のごとく散りばめられている。
そして美しい装飾の施された絨毯の上で、楽団の演奏に合わせて、色彩豊かな薄い布地を体にまとった踊り子が官能的な舞いを披露していた。他にも刀剣でお手玉している者やら、鼻の長い巨大な動物に乗った者やらが。
そんな宴の様子を眺める自分は、綿雲を思わせる柔らかい枕に身をあずけ、盃を片手にしてくつろいでいる。
――ここはどこ? 私は太子。
その呟きまでもが音楽に転じたことで、神子は状況を悟った。
今目にしているのは実在する世界ではない。己の能力が作り出した仮想世界だ。
物心ついた時から、神子はあらゆるものを『聞いて』生きてきた。
人に限らず、動物や植物、妖怪や霊、石や水、風や火などの自然物の声にいたるまで。
自ずから読み取ることはできない。しかし、それらが語ろうとしているものであれば、何でも聞くことができる。
欲も、感情も、思考も、記憶も、歴史さえも。
つまるところ、この一つの料理の中に眠っている莫大な情報が、このような心象風景を創り出したのだ。
まさしくこれは、幸運な選ばれし者にだけ許された、味覚のタイムトラベル……。
「……はっ!?」
異国の宮殿のイメージは、カレーが喉元を過ぎると同時に、どこかへと去っていった。
向かい側に座っていた、心配そうな星の顔に焦点が合う。
「いかがですか? お口に合いませんでしたか?」
「素晴らしい味です!」
神子は一オクターブ高い声で、料理を褒め称えた。
「個性豊かなスパイスが一つの方向性に向かって統御され、ご飯を乗り物にして、かつてない境地へと連れて行く……。五感を黄金色に染めてくれる宝船のような滋味ですよはむはむ」
感想を紡ぎながら、また一口含んでみる。
今度はライスではなく、ニンジンを。思わず仰け反る美味さ。
「ああ……ニンジンにまだこのような味が眠っていたとは。土の中で育まれた日光の精が、カレーというドレスをまとって、この聖徳道士の前に現れた……言うなればサニースパイシー……」
「全てうちで取れた野菜なんですよ。一応精進料理なので、お肉は使っていないんです」
「ええっ! でもここに隠れているのは肉なのでは?」
「それは大豆から作ったものなんです」
神子は驚いて、試しに一つさじから口に運び、咀嚼してみる。
確かに脂特有の重たさはなく、味わいは軽くて上品だ。
それにしても、豆だけでこれほど力のある味を生むとは! まさに精進と呼ぶにふさわしい。
「あ、いけない! うっかりしてました! このカレーには、これが抜群に合うんですよ」
口をもぐもぐと動かし、神子がカレーを堪能していると 星がお盆に乗っていた小さな壺の蓋を開ける。
そこには褐色の漬物が控えていた。
「自家製の福神漬けです。うちの一輪が作ったものでして、口の中がさっぱりしますよ」
「ほうほうほうほう」
『華麗』の傍に現れたのが、『福の神』とあってはますますめでたい
薦められるままにそれを小さじで取り分け、ルーの側に置く。
「さぁどうぞ!」
星の掛け声に促されながら、神子は福神漬けと一緒にカレーを食べてみた。
「んん……!?」
再びイメージが、天竺風の宮殿に切り替わる。
煌びやかな内装も、楽団のつまびく音楽も、踊り子や奇術師や猛獣使いなどのエンターテイナーも再登場。
神子はくつろいだ姿勢で、美酒を味わいながら、それらをじっくりと鑑賞する。
だがいきなり天井をぶち壊して出現した巨大な円盤状の乗り物によって、宴は中断する羽目になった。
瓦礫の山に身を沈めた円盤の蓋が開くと、そこには謎の入道の群れが。
(きっ、君らは一体何者だ!?)
思わぬ展開に、神子は腰を浮かして叫ぶ。
筋骨隆々の入道の集団は、爛々と輝く目を向けてきて、全く同じタイミングで口を開いた。
(我々ハ、福神漬ケ星人ナリ)
(福神漬け……聖人だって!?)
そんな聖人、見たことも聞いたこともない。
呆然とする神子の前で、入道達は目から赤い光線を発射しながら、周囲のものを一掃していく。
ああ! なんてひどいことを!
だが、宮殿が残らず破壊されてしまうようなことはなく、光線を浴びた者達もスパイスの精霊となって、嬉しそうに天に昇っていく。
神子は入道達が出現した意味を理解した。
彼らは、宴が中だるみしないように、空気を入れ替える掃除の役割を果たしているのだ。
その証拠に宮殿のともすれば雑多にも思えた眺めが、一新されていく。
再び宴を執り行う準備が整ってから、福神漬け聖人達は一斉に飛び立ち、姿を消して……
「……はっ!?」
神子は再び白昼夢から舞い戻った。
「ど、どうでしょうか?」
「まことに美味なり!」
神子はもう辛抱たまらず、能力を一旦制御して、今度は胃袋が望むがままにカレーをかっ込み始めた。
美味い。食べれば食べるほど美味い。噛んで味わっても、噛まずに飲みこんでも美味い。
そして福神漬けを口に含むたびに、雑味がすっきりと消え去り、再び食欲に火をつける。
さじが全く止まらない。坂を転がるかのように加速していく。
「よろしければ、おかわりもありま」
「お願いします」
星が言い終わるのを待たず、手が頭の命令よりも先に、空になった皿を差し出していた。
彼女が「すぐにお持ちします!」と部屋を出て行く。そこでようやく神子は我に返った。
イモコが不思議そうな顔で、こちらを見つめている。
「ち、違うんだイモコ、じゃなかったナムサン! 私をそんな浅はかな俗人と思わないでくれ! いかんいかん! 私ともあろうものが欲に振り回されるなど……!」
頬を熱くした神子は、笏をゴツゴツと己の額に当て、自分の立場を思い直す。
道教を幻想郷に広めるにあたって、この寺は手強い対抗勢力の一つである。
それなのに代表者である自分がこのように食べ物如きで籠絡されてしまっては、ここにいない弟子達に示しがつかない。
きっぱりと断って……うん、次にもう半杯だけ食べたら断ろう、そうしよう。
「お待たせいたしました!」
現れた星に、「あの」と口を開きかけた神子は、そのまま固まってしまった。
戻ってきた星が抱えていたのは、八合は入りそうな白木の米櫃と、同サイズの鉄製のお鍋。
まさに隙を生じぬ二段構え。
「そ、そのお鍋の中身は?」
「カレーですが何か」
「おひつは?」
「ご飯です」
「いやでも私はもうあとお皿に半分くらいで……」
「ええっ!? そ、それは申し訳ございません。私はいつも四杯は食べてるので、つい同じように考えてしまいました……そう言えば、聖も小食でいつも一杯しか食べませんし」
「聖さんが、たった一杯?」
そう繰り返した直後、神子の中に生まれた優越心が、考えもせずに勝手に発言する。
「では私も、寅丸さんと同じく、四杯いただきましょう!」
「本当ですか!?」
「太子に二言はありません!」
その台詞を、当の太子が後悔し始めたのは、三杯目を完食する手前のことだった。
いくら肉類を使っていない絶品カレーとはいえ、かなり胃が重たくなってきている。
始めは効いていた福神漬けの効果もだんだんと弱まっていた。もう輝かしい心象世界の端切れも出てこない。
ライバルに差をつけたいという意地でお代わりしたが、考えてみれば自分達が競っている舞台は、宗教家としての人気とその勢力に関してだ。大食いで四倍の差をつけて勝ったとして、四倍の成果を挙げられるかどうかは、今更ながら甚だ疑問だった。
「さぁどうぞご遠慮なさらず! ナムサンを助けてくださった御礼は、このくらいではとても返せませんが」
「…………………………」
すでに神子のお腹は体感的に腹九・五分目である。
だが、期待している星のニコニコとした顔を見ると、なぜか出来るだけ食べてあげたくなってしまう。
天然の善意がなせる業だろうか。
「あ、お水のおかわりはよろしいですか?」
「お暑いようであれば扇ぎいたします。唐のお宝である芭蕉扇というものが蔵にあって……」
しかも色々と世話まで焼いてくれるのだ。もてなされる側が、逆に気を遣いたくなるほどに。
先程四杯食べると豪語した手前もあるし、これでは断る隙がない。
――待てよ……。
その時突然、電撃のごとき恐ろしい予感にとらわれた神子は、さじを口に咥えた状態で止まった。
食卓に乗った大皿と、自分の身体を交互に見つめる。
――これは本当は、『三日でデブストーリー』なのでは!?
~ 三日でデブストーリー ~
神子は絶望感にとらわれ、卓に突っ伏したくなった。髪の毛が突如三つ編みになったような心境になる。
なんてことだ。気づくのが遅かった。
『三日のラブストーリー』じゃなくて『三日でデブストーリー』。そうであれば今までの展開にも納得がいく。
このカレー。美味いことは確かに美味い。舌鼓を打っている間は、極楽といってもいいだろう。
しかし食べ終えてからは、どうか。
すでに三杯もお代わりしているのだ。心なしか、お腹がポッコリと膨らんでしまっている気がする。
さらにこの栄養が適切な部分に向かってくれるならいざ知らず、顔やお腹や二の腕についてしまえば……。
それはもはや太子(たいし)ではなく、太子(ふとこ)だ!!
神子はそうなってしまった己の姿を思い浮かべた。
ぽっちゃりと肉塊の境界を超えてしまった、みっともない体型の聖人が、門徒を前に偉そうに語っている光景が現れた。
十人の話を同時に聞く事が出来る程度のデブ。そんな訳の分からない存在に、どうして民がついて来よう。
(よいではありませぬか! 我とお揃いの名前ですし、貫録がありますぞ! 『ふとこ』様!)
幻聴だろうか。ここにいない部下の声に、煽られた気がした。
そういえば布都は名前は太ってそうだし、ご飯はよく食べるのにスリムな体型だなぁ。羨ましいことです。
(そのお腹がトングでつまめる状態から回復するまで、『ふとこ』と呼ばせていただきます。それじゃあ、ふとこ。まずは仙界一周ランニングから)
ひぃいい、声だけでも屠自古がどんな顔をして言ってるかが容易に思い浮かぶ。
もしや君が亡霊の身が快適だと言ってたのは、己の体型を心配する必要がなくなったから? あ、違いますか。
それにしても、デブとは何と強烈で残酷な単語なのだろう。ラブと一文字違うだけで、えらく差のあるような。
デブソング、デブロマンス、デブレター、デブシーン……。
「そうだ! 忘れるところでした。ナムサンにもご飯をあげないと!」
星が再び急ぎ足で、部屋から消える。
その時だった。
デブという単語が頭の中を飛び交い、己の未来に苦悩していた神子の感覚が、場の空気の変化を捉えた。
振り返ると、これまでずっと行儀よく座っていた小犬が、落ち着かない様子に変わっている。
くんくんと鼻を動かして、部屋の隅から隅へと歩き、立ち止まっては首をねじり、また同じ道を歩く。
何だか、逃げ場所を探しているようにも見えた。
ついに小犬は、部屋にいるもう一人、すなわち神子に助けを求めるような眼差しを送ってくる。
――どうしたんだイモコ、君は何を恐れている?
犬にとって、食事は生きていく上で最大の喜びの一つのはず。
なのにこの脅え方はただ事ではない。
困惑する神子は、イモコの願いを聞き届けてやるため、耳当てを外そうとした。
が、その必要はすぐになくなった。
廊下に面した襖ではなく、開いた障子の方から。すなわち庭に面した縁側に、星が姿を現す。
「さぁナムサンおいで! ご飯ですよ!」
彼女が持っているものを直視して、神子は硬直した。
「寅丸さん……なんですそれは」
「ナムサンのご飯ですよ?」
きょとんとした顔で星は言う。
そして彼女が用意したお皿には、何とも形容しがたいエサの『山』が載っていた。
肉……が主なのだろうが、色々な物が重なり混ざり合い過ぎて、もはや何が何だかわからない極彩色の代物。
しかも明らかに小犬のサイズに見合わない、下手をすると小犬の胴体くらいありそうな量だ。
縁側に置かれると、ゴン、と重量感のある音が響いた。
唖然として尋ねる。
「まさか、毎日ナムサンにその量の食事を?」
「そうなんですよ! ナムサンはこの量を平らげてしまうんです! すごいでしょう!」
星が誇らしげに言ってのける。
その足元に、部屋の隅にいた茶色の影が、よろめくようにして向かった。
豪快なエサ山にたどりついた彼は、猛然とそれを平らげはじめる。
そこには、神子が解き明かそうとした謎の――葛藤する小犬の欲の秘密の答えがあった。
「……ちなみにそのご飯の詳細について知りたいのですが」
「私なりにワンちゃんの好物を考えて作った、ナムサン専用スペシャルランチです。あ、もちろんネギや香辛料の類は使ってませんよ。塩分もちゃんと控えてますし、水気も豊富です」
「…………参考までに、どのような作り方を?」
「先日、猟師や農家の方々から分けていただいた、鶏肉と鹿肉と猪の肉とそれらのレバーと焼いた卵と白米を混ぜ合わせたものに、豆乳をたっぷりかけて、トッピングに鰹節などを添えて、あとは栄養バランスを考えて野菜の残り物を茹でたものを……」
「…………………………」
神子は途中から聞き流していたものの、自然とみぞおちの辺りに手が向かっていた。
「美味しいですかナムサン?」
小犬が食べる様子を嬉しそうに見つめながら、星は話しかけている。
「これからも毎日たくさんご飯を作ってあげるからね。だからもうどこにも行っちゃダメだよ」
その台詞だけを聞けば、再会できた優しい飼い主との心温まる一ページが頭に浮かぶ。
しかし現実の光景は、傍から見れば、断崖を上る獅子の子とそれを見下ろす親を想わせた。
その模様を見届けた神子は、静かにさじを置き、手巾で口を拭う。
やるべきことは決まった。
「ご馳走様でした」
「え!? もういらないんですか豊聡耳さん? まだカレーのおかわりはありますよ」
「いいえ、それには及びません」
綺麗に空にした大皿を残して、神子は立ち上がり、振り返る。
腰に差していた杓を抜き、一喝。
――たわむれはおわりじゃ!!
部屋の中心に爆発的な気が起こり、天井、壁、床、ありとあらゆるものを揺るがした。
突然の衝撃に、「あれぇ――!?」と星が腰を抜かす。
尻もちをついた状態の彼女が、恐る恐る瞼を開けると、
「……豊聡耳さん!? その姿は!?」
星の眼に、表は紫色、裏は緋色に染まったマントを身にまとう神子の姿が映っていた。
その雰囲気が先程までとは、まるで別人に――否、別次元の存在のものに変わっている。
火炎の如き激しい威勢は仁王のようであり、氷の如き冷徹な表情は夜叉のようでもある。
そして、その全身からあふれ出している気は、大宇宙を漂う神仙が来迎したかの如しだ。
聖人としてではなく、神霊としての豊聡耳神子が、そこに立っていた。
もっとも神子自身は、普段抑えている己の力を解放しただけだ。
とはいえ、神や大妖怪と並ぶ強大かつ深遠な気をまとう、歴史上最大の偉人ともいえる人物が、いきなり命蓮寺の居間に出現したのだから、星が驚くのも無理もない。幻想郷における、今世紀に入ってから最強のびっくり箱の一つといってもよかった。
――寅丸星。そこに直りなさい。
朗々たる声が、聞く者の骨身を琵琶に変じる。
腰が抜けたままの虎妖怪は、泡を食って言った。
「そ、そのマントは一体どこから?」
――さっさと直らぬかっ!!
「ひぃっ!?」
星は一も二もなく正座する。
とっくに食事を中断し、総毛だっていたナムサンも、縁側にお座りして、神妙な面持ちとなった。
神子は粛然とした態度のまま、幾分和らいだ声で説く。
「寅丸星。君が望むのであれば、この私が教えてやってもよい。ナムサンが君の元を去った理由をな」
「は、はぁ」
星は生気が抜けたような返事をしてから、パッとその様相を変えて、
「本当ですか!? やはりナムサンは、自ら私の元を去ったのですか!?」
「その通りだ」
「な、ならば教えてください! その訳を!」
「後悔することになるやもしれんぞ」
「知りたいんです! もしまた同じことが起これば、心配で食事も喉を通らなくなってしまいます」
それを聞き、鈍く輝いていた神子の目が、黄金の針と化した。
「……ならば教えてやろう。ナムサンが君の元を去ったのは……」
「はい」
聖徳道士は無垢な飼い主に残酷な真実を告げる。
「断食のためだ」
虎妖怪は口を開けたまま、しばし呆けていた。
断食という言葉の意味は知っていても、それが全く頭になかったのだろう。
彼女は神子とナムサンを交互に見ながら、あからさまにうろたえ、
「ま、まさか。断食だなんて、そんなはずがありません。うちにいれば、たくさんご飯が食べられるというのに、なぜナムサンはそんなことを?」
「そこだ。それこそが君の過ちだったのだ」
神子は瞑目し、厳めしい顔つきで話を続ける。
「犬が持つ欲の中で、もっとも大きな欲。それすなわち、食欲。五欲の一つにして、動物はおろか妖怪や霊の一部にも備わる、生を代表する欲と言えよう。だがそれに優るとも劣らぬ大きさの欲を、犬が持つことを知っているか」
「は、はて。よく寝ることとかでしょうか」
「否」
「じゃ、じゃあえーと……あ、もしかしてあっちの欲でしょうか? もちろん私も理解はありますが、できればお庭でお話しませんか。ここは一応寺の中なのですし……」
「たわけぇ!!」
「ひぃ――!? なんだかわかりませんが、ごめんなさい!」
「私の言っている欲は、己が認めた主人の期待に応えるということ。すなわち『忠誠欲』とも言うべき欲なり」
犬が忠誠の象徴として語られることは少なくない。
何万年もの間、群れ社会で生きてきた犬族は、リーダーに従うことの重要性がその本能にすり込まれている。
特に和犬はそうした傾向が強いという説もあり、どんな時であっても主人の望みに沿う行動を取ろうとするという。
神子は笏を水平に伸ばした。その先端に、ほのかな光が生じる。
光は真っ直ぐに伸びて行き、部屋の中心を横切り、惑する虎妖怪の眉間に到達した。
「そしてナムサンにとって、主人といえば己の命を救ってくれた君のことであり、君の期待に応えることを最大の喜びとしていたのだ」
「私の期待に……?」
それまで怯んでいた星は、少し落ち着きを取り戻し、すぐに神子の意見に異を唱えた。
「私は特にナムサンに何かを期待したことはありません。ただ元気でいてほしいと、そればかりを願っておりました」
「その気持ちに確かに偽りはあるまい。だが君は知らぬうちに、ナムサンにあることを期待していた。それは自分が作った料理を食べてもらうということだ。問題は」
神子は一旦言葉を切り、星に差し向けた笏を横に移動する。
その先から伸びた光が、小犬に与えられたエサの山へと向かった。
「それが、あまりにも多すぎたということだった。犬というのは長い飢えに耐えるため、食いだめができるように体が造られているというが、それでも限界はある。無理をして食べ続けた彼は、ついに体を壊しかけ、君の元を去らざるを得なかったのだ」
「………………」
「私も君のおもてなしを受けて気付いた。君は必要以上に何かをしてやらなくてはいられない性格をしている。その裏には、自分の行いが足りないことで……何かをやり残すことで嫌われたくないという不安があるのだろう。まだ心当たりはないか?」
星が青ざめた顔になった。その様が、思い当たる節があるということを示していた。
けれども彼女は、なおも首を振って言う。
「いやでも待ってください! 確かに私はお節介が過ぎると言われることはありますが、無理してまで食べてほしいだなんて思ってません! 多ければ残してくれればよかったのに、どうして」
「それもまたナムサンの持つ忠誠欲のためだ。君が作ったご飯を食べることで、君が非常に喜ぶということをナムサンは感じ取っていた。彼は精一杯、君を喜ばせようとした。そして限界が来るその日まで、決して君の期待を裏切りたくはなかったのだ」
「そんな……」
「過ぎたるは猶及ばざるが如し。どんなに強い花でも水をやり過ぎては枯れてしまう。君の過ぎたる愛が、結果的にナムサンを苦しめていたというのは皮肉なことだ」
言葉を理解していないはずの小犬が、まるで自分が叱られているかのように、申し訳なさそうに頭を垂れる。
しかしながら、星の落ち込み様は、その比ではなかった。
放心していた彼女は、顔を伏せ、両手を畳の上につき、今にも崩れそうな体を支えながら、
「そんなつもりはなかったのに……誰よりもナムサンの幸せを願っていたのに、良かれとして思ったことが苦しめていただなんて……ごめんねナムサン……私が気付いてあげられなかったばかりに……」
「私も本来は君を責められる立場にはない。何を隠そう、私自身にも同様の経験がある」
「そ、そうなのですか?」
「ああ」
神子はうなずき、視線をそらし、憂いを帯びた表情で語る。
「あれは私が復活する遥か以前、飛鳥の地の宮で起こったことだ」
「はい」
「新しく整えた自分の髪を見てもらうため、私は頭を突き出すようにして、宮中を闊歩していた。そして……」
「そして……どうなったのですか?」
「回廊の途中で、帝と出くわした際、うっかり髪の先端で目つぶしを食らわせてしまったのだ」
「………………」
星は絶句していた。
自らの摂政による不意打ちを受け、顔を押さえて廊下に崩れ落ちる日本最古の女帝は、いかなる心境だったであろう。
「無自覚な罪だった。しかし危うく、馬小屋の掃除番に格下げになるところだった」
「……そ、そうだったのですか」
「話はこれだけではない。その後、激怒して私を罵った帝に、この髪型の良さを知ってもらおうとして、彼女が寝ている間にこっそり術で私のものとお揃いにしてあげたのだが……」
「………………」
目覚めると己の艶やかな髪が、ダブルサイクロン。絶叫する女性天皇の心境は、想像するに難くない。
「今度は危うく、馬の隣に繋がれるところだった。善意であったという弁解など、何にもならなかった」
「それは……お気の毒なことです」
なんとも言いがたい表情で、星は言う。
遠い目をしていた神子は、重々しくかぶりを振って、最後に伝えたかったことを述べた。
「当時は深く反省したものだ。そして同じ過ちを犯さぬよう、心に刻みつけた。傷つける者の多くは、そのことに無自覚なのだということを。そして悪意のみが、人を傷つけるわけではないということを」
その金言は、うなだれていた星の心をうったようだった。
表情に生気が宿り、何か決意をしたかのように口元を引き結ぶ。
彼女は居住まいを正し、改まった態度で頭を下げた。
「ありがとうございます、豊聡耳様。おかげで、私の過ちがよくわかりました……」
再び面をあげた時、塩もみした野菜を水にくぐらせたように、しゃきっとした顔立ちが現れていた。
「なのでこれからは行いを改めて、節度を守り」
「その犬の面倒をみる、などとは言わないだろうね?」
6 まずは三日から
星がハッとして振り返ると同時に、襖が開く。
神子もそれにならって、第三の声の主に目をやった。
そこに立っていた小柄な姿は、昨日見たあの妖怪ネズミ。
「ナズーリン! いつからそこに!?」
「ついさっき、帰ってきたばかりだよ。ただし事情はすでに把握している。こういう時のために、留守中は部下のネズミを寺の中に忍ばせていてね」
無表情のナズーリンは、肩に乗った『部下』を指で愛でながら説明する。
「予定にない来客の素姓と、何が行われていたかを、この部屋に来るまでにきちんと報告してくれた」
神子は態度に隙を見せなかったものの、愕然となった。
まさか今までネズミに見張られていたとは気がつかなかった。
正確には、気配だけは覚っていたものの、どこにでもいる小動物なため、あまり注意を払っていなかったのだ。
要件はイモコのことだったとはいえ、今回の自分は少なからず敵地に乗り込む心づもりであったというのにこの様では、油断と言われても仕方がない。
星が慌てた様子で小犬を背中に隠そうとするものの、時すでに遅し。
冷えた葡萄酒の色をした双眸が、彼女の動揺ぶりを見つめる。
「今さら隠そうとしてどうするんだい、ご主人様」
「うっ……」
「その犬のことも、私はとっくに知っている。まさか『首輪』を探してほしいだなんて幼稚な嘘で、誤魔化し通せるなどと思っていたのか」
主人を壁際に縫い止めたナズーリンの視線が、はじめて神子の方に向けられた。
「豊聡耳さん。貴方も余計なことをしてくれましたね。術であの犬を隠すまではよかったが、そのまま仙界に連れ去ってくれれば、もっと話は早かった。それなら私も、今回の件は気づかないふりをして、見逃すつもりだったのに」
彼女の言葉に、神子は今度こそ驚きを隠せなかった。
「もしや君、あの時に私の隠行の術を見破っていたのですか?」
「いいえ」
ナズーリンは軽く肩をすくめて答えた。
「けれども『首輪』が小犬のことだということはあらかじめ知ってましたし、ただの首輪の反応があのように突然消えるのはどう考えても不自然だ。誰かが小犬ごと隠してしまったと考えられる。そこであそこを去る際に、偵察中のネズミを呼び寄せて見張らせていました。結局、貴方の隠行が完璧だったので手間損でしたが……」
しかし、完璧な術であったことが逆に、彼女の考える容疑者候補を限定させていたのであった。
「気配を完全に隠してしまうだけの力を持った妖怪が、人間ならいざ知らず、ただの小犬をさらってしまうとは考えにくい。となると、自ずと該当者も絞られてくる。そして一昨日里の往来を歩いていたという『さる人物』の話を思いだし、もしや彼女の仕業ではないかと思った。というわけで今日は朝から買い物がてら、里の市場で聞き込み調査を行っていたのですが、まさしく件の聖人が、先日肉屋で動物の骨を購入したり、雑貨屋で犬用の玩具などを見繕っていたという話を聞いて、確信しました。とはいえ裏を取れたはいいものの、まさか今日寺に直接お越しになるとは思ってなかったので、後手を踏んでしまいましたがね」
よどみない口調で推理を披露し終えてから、彼女は再び視線を、星の元へと戻した。
「さて、我がご主人よ。忘れたわけじゃないだろうね。私と昔交わした約束を」
びくん、と虎妖怪の肩が跳ねる。己の尻尾を鷲掴みにされたかのように。
「犬にも猫にも餌付けしてはいけない。ましてや寺に連れ帰って育てようなどとしてはいけない。そういう約束だったはずだ。紙に書かせて、血判まで押させた」
「も、もちろん忘れたわけではありません。でも……」
「聖が復活する前は大変だったなぁ。誰かさんが獣をあちこちから拾ってくるおかげで、危うく荒れ寺がサファリパークになるところだった。毘沙門天様への報告に、『犬猫の落とし物の始末』と書いた時の屈辱。忘れようと思っても忘れられやしない」
「うう……それはその……ええと」
どうも様子からすると、星が犬をかくまったのはこれが初めてじゃないらしい。
詳しい事情については、神子も知らないものの、この部下である妖怪ネズミに相当の迷惑をかけたようだ。
それにしても彼女らの会話は、立場の差、種族の差、そして体格の差がまるっきりあべこべに見えた。
星はぺこぺこと頭を下げ、
「昔のことは反省してます。だから今は、本当に救いを求めるものだけに手を差し伸べることにしたのですよ」
「却下だ。この寺には、大飯食らいの猫一匹だけで十分。それ以上、犬猫を飼う余裕はない」
「ナ、ナズーリンだってネズミを飼ってるじゃありませんか!」
「私のネズミは、ここから離れた所にある私の庵の周囲で放し飼いにしてるし、躾も完璧。たまに必要に応じて、集合を呼びかける程度のものだ。いたいけな仔犬を肥満体にしたあげく、逃げ出された君と一緒にされたくはないね」
冷静ながら辛辣な言葉の張り手に、星の訴えはどすこいどすこいと弾かれていく。
だが土俵際まで追い詰められながらも、彼女は粘り腰を見せた。
「で、でもナムサンは外で独りで生きてはいけません! この子には育てる者が必要です! 野に捨ててしまうのは、仏の道に反しますよナズーリン!」
「その犬にふさわしい飼い主なら、すでに他にいるじゃないか」
ナズーリンはそう言って、右にならえのように体を動かす。
向き直った先は、事態を傍観していた、神子の方だった。
「というわけで聖徳王殿、ここはひとつ、その小犬を引き取っていただけませんか」
ページがめくられるかのような身軽な所作の後に、ナズーリンの態度はがらりと変わっていた。
物腰が柔らかくなり、口元には嫌味を抱かせないソフトな笑みが浮かんでいる。
「どうやら貴方も、その小犬のことが気に入っているとみえる。聞いている噂からも、悪いようにする御仁とは思えない。うちの者よりも、飼い主としてはふさわしい」
「ナズーリン! ナムサンのことは私の方が……!」
何か言いかけた星が、金縛りにあったように言葉を呑みこんだ。
人差し指を一本立てただけで彼女を止めたナズーリンは、チッチッチと舌を鳴らし、半眼で尋ねる。
「私の方が、なんだい? 先に見つけた? 付き合いが長い? この場合重要なのは、過去をどう過ごしたかではなく、これから先に十分な未来を用意してやれるかどうかだと思うけど」
「でも……私の方が……ナムサンのことを……」
「まさか、より愛しているなどと言うつもりか。これは私の持論だが、愛というのはおやつであり、嗜好品だ。あるに越したことはないけど、なくても生きていくことはできる。ましてや獣であれば、なおさらのことだよ。いずれにせよ、過去に失敗した前科持ちが感情に任せて訴えるだけでは、いささか説得力に欠けるね、ご主人様」
立て板に水とは、まさにこのことだ。しかも言葉は冷ややかで鋭い。
勇み立っていた虎妖怪の意気地も、瞬く間にみじん切りにされてしまった。
「長い目で見れば、今回の件は後先考えずに突っ走る君の『やりすぎ病』を直すいい薬になる。今は恨んでくれて結構だよ。いずれ私に感謝する日が来るだろうから。というわけで、いかがですか聖徳王殿」
そう言ってナズーリンは再度、神子の方に向き直り、尋ねてくる。
答えを待つ表情には自信と余裕があり、この交渉を楽しんでいるようにも見えた。
神子は横目で、渦中の存在の様子を窺う。
一方は言葉を失っており、もう一方ははじめから言葉を持たない。
しかしながら、どちらも別離の不安を、表情からも気配からも醸し出している。
置かれた状況を眺めながら、一考した後、神子は口を開いた。
「彼を引き取れるなら、願ってもない話です。私にとって、心を通わせあった大事な存在ですから」
「あぁ……」
力ない呟き声が、星の口から漏れた。
両肩を落とした彼女は、大きな体が一回り小さくなったようで、その睫毛にはうっすらと光が滲んでいた。
「ただし、もう一つ頂きたいものがあるのですが」
「ん? ……ああ、そうか」
ナズーリンがそう言って取り出したのは、小さな算盤だった。
彼女はそれを自らの片腕の上に置いて、器用に指を走らせる。
「確かに、元々は野良犬だが、タダで世話を押し付けてしまうというのも失礼な話だ。どうぞ、里で使われた金額をお申し付けください。それに当座の餌代と迷惑料を合わせて……」
「いえいえ、お金の算段ではありません。無料で結構ですよ。ただ、一つだけ」
「何をご所望でしょう」
「君が好きだ。私の元に来てほしい」
深い沈黙が、部屋の中に横たわった。
虎は像になり、ネズミは石になり、小犬は貝になっていた。
静かになった客間は、衣擦れの音さえも無くなり、庭を飛ぶ蝶の羽音まで聞こえてきそうなほどだった。
やがて、はじめに魂が肉体に戻ってきたのは、告白された当事者であるナズーリンだった。
算盤をしまって、眉間に小さな谷を作り、髪の毛をいじりながら、
「失礼……聞き違いと思いたいですが、一体何のことやら」
「君が好きだと言ってるんですよ。ナズーリン」
「ちょっ!? ま、待て!」
ナズーリンは飛び退り、左腕を抱えるようにして引っ込める。
その手の甲を取り、顔を近づけようとしていた神子は、熱っぽい瞳で詰め寄る。
「なぜ私の思いを受け取ってくれない」
「ここ、こっちが逆に聞きたいですよ。今のは何の真似です。何を以てそんなことを」
「君が愛しいからだ、ナズーリン」
「い、愛しい?」
「そうだ。君の何もかもが愛しい。その野に咲く白薔薇のような可憐な顔立ちが、銀よりも柔らかく輝くその髪が、サクランボの似合うその唇が、そして何よりもその月の涙のような瞳が。君の溢れんばかりの魅力が、私の心の砂時計をひっくり返してしまった」
「何を言ってるんだ貴方は」
語調は気丈さを保ちながらも、ナズーリンの腰は引けていた。
鉄壁だった表情も崩れかけ、ナチュラルな動揺が見え隠れしている。
「私達は会ってまだ五分と経ってないんだぞ」
「恋に落ちるには五秒で充分。夜明けを告げる鐘の音が、君の胸から聞こえてくる。もっと傍で聞かせてほしい」
「いいえ、それ以上近づかないでください。もっと離れた位置で改めて話し合いましょう」
「それはできない相談だ。我がラブストーリーのヒロインよ。君という籠の中に私を閉じ込めておくれ。昼夜を問わず、いつまでも君の美しさを歌ってあげるから。私にはそれだけで幸せだ」
「よ、よくもそんな歯が浮きそうな台詞を」
「歯だけじゃないさ。君の振る舞いの前では私のありとあらゆるものが浮いてしまう。ほら、この髪の毛が何よりの証拠だ」
「それが浮いてるのは元々だろう! 何のつもりだ! ふざけないでいただきたい!」
一歩ずつ身を引きながら、ナズーリンは指を差して怒鳴る。
そして神子は、一歩ずつ近づきながら、彼女に妖しい声で囁きかける。
「惚れたのは君の外見だけではないよ。洗練されたそのシャープな身のこなしと仕草が、私の心をさらに燃え立たせる。しかも力技ではなく、推理で私の隠行を見破り、正体を当てた上に、その後の展開を読んで、双方に都合の良い解決策を提案してのけたその知力……」
「ま、まぁそれほどでもあるけれど」
「加えて君の能力にもそそられた。探し物を見つけることができるだなんて、真理の探究にうってつけの存在じゃないか」
「そ、そうだね。確かに私に見つけられないものはないよ」
「その意気で、私と一緒に、真実の愛を見つけに行こう」
「だからなぜそうなる!?」
完全な及び腰で、ナズーリンは狭い部屋の中を逃げ惑う。
それを真夏の日輪が膨張していくような迫力で、神子の気配が追い詰めていく。
「怖れることはない……君が表に出さずに隠しているあらゆる欲を、この私が叶えてあげる」
間合いから逃げ遅れた尻尾を、神子の掌が撫で上げた。
指が触れるか触れないか、絶妙なきわどさで。
さらにその手は、相手の肩まで届き、
「一瞬が永遠に感じるほどの、甘美な悦楽を、味わいたくはないかい?」
「ひっ」
憐れなほど狼狽えた妖怪ネズミが、最後に逃げ込んだ先は、主人の背後だった。
顔を半分だけ見せて、ナズーリンは言う。
「ご、ご主人! 彼女は危険だ! 早くうちから追っ払ってくれ!」
「え? え? え?」
「さっさとするんだ! 元々、神霊廟の連中は、うちの寺とは商売敵の間柄! 本来、敷地内に入れる筋合いはない!」
「固いことを言いなさるな」
神子がさらに半歩近づくと、怯えた顔が引っ込む。
そして盾にされた星は、困った様子で、おうかがいをたてるように、
「あのー豊聡耳さん。ナズーリンも嫌がってることですし。そのように無闇にお迫りになるのは、いかがなものかと」
「私が迫っているのではありません。彼女が私を引き寄せているんです」
「(わけのわからないことを……! さっさと追い出してくれ! くわばらくわばら……)」
「それに彼女は私の部下ですし、命蓮寺の一員です。ましてや本人がこの様子では、承諾するわけにも……」
「ならば、力づくで奪う、と言ったら?」
神子が挑発的に問う。
すると星の表情が、にわかに変わった。
「……それはできかねる相談です」
たん、と畳が鳴り、空気が張り詰める。
部屋に充満していた神子の気配が、新たに出現した壮烈な気配によって一気に押し戻された。
茂みから神獣が身を躍らせて飛び出してきたかのような、不意の衝撃。
さしもの神子であっても、それ以上歩を進めることができなかった。のみならず、後ずさりしそうにまでなる。
「私の部下に乱暴するとなれば、恩人とあれど許すことはできません」
星の掌の上で、手乗りサイズの宝塔が輝いていた。
黄色い光が曲線を描いて、その小さな兵器に収束している。
己の法力を集中させているのだ。星はそれを盾のように構え、背後の二つの存在を守っていた。
いまだ彼女は受け身に回っているというのに、この部屋ごと何もかも一瞬で焼きかねないほどのプレッシャーだ。
一体どれほどの功徳を積めば、これだけの法力を得られるというのか。
その実力を味見したい。
胸中に生まれた好奇心を、悟性によって抑え、神子は薄く笑って言った。
「なるほど。ただじゃ済まなそうだ。ここは引くことにしましょう」
マントが翻り、膠着した空気を払う。
そして「お騒がせした」と神子は短く言い残し、客間を後にした。
星にも、そして当然とはいえもう片方の妖怪にも、引き留められることはなかった。
(大丈夫ですか、ナズーリン)
(うん。見直したよ、やっぱりやるときはやってくれるんだねご主人様)
(あと、その、ナムサンのことですが……)
(その件に関しては、聖が帰ってきてから、また相談しよう)
廊下を一人歩く神子の耳に、会話が届く。
聞くつもりがなくても聞こえてしまう、我ながら困った能力だ。
そんな風に自嘲していると、廊下の曲がり角に、腕組みしている影を発見した。
神子が近くまで行くと、彼女は壁にあずけていた体を起こし、
「玄関まで送るわ。一応お客さんだし」
「これは恐れ入ります」
神子は丁重に応え、村紗と並んで歩き始める。
「……上手くやったわね」
隣の妖怪はニヤリと笑い、声をひそめて言った。
「うちの賢将が手玉に取られるの、はじめて見たわ」
「あのネズミ殿は愛など嗜好品だと言っていましたが、もしやああいう手合いに慣れておらず、苦手なのではないかと思いまして」
この舟幽霊は客間でのやり取りを、ずっと隣の部屋から窺っていたのだ。
神子はそのことを承知で種を明かす。
「彼女はすでに犬を手放させるという結論を出していましたし、知恵も相当に回る。真っ当な弁舌で説得しようとすれば、一筋縄でいかなそうでした。なので、あのような奇策を。正直やり過ぎかとは思いましたが、予想以上に効果があったことに、こちらとしても驚きでした」
「やっぱり貴方、危険人物ね。聖人って聞いてたけど、他人様の心をもてあそんでいいのかしら」
「とんでもない。私はいつでも大真面目なつもりですよ」
歩きながら、神子は独り言のように語る。
「生粋の理想主義者である聖白蓮。彼女の下には、その意志を継げる確かな実力を持った副将が、そして現実的で計算高い有能な参謀がいた。二人の質を測ることができたのは、私にとって僥倖でした。どちらも手に入れたい駒ですね」
足を止めて目を見開く舟幽霊の前で、1400年前、大陸を相手に臆することなく渡り合った偉人は柔和に微笑んだ。
「君も仏教に飽きたら、ぜひ道教へ。妖怪であっても歓迎しますよ。あのカレーには、それだけの価値がありましたから」
「……危険人物って言ったこと、訂正する」
村紗は寝ている龍の尻尾をまたいだような心境で、降参の笑みを浮かべる。
「そんなの全然生ぬるい。超々危険な人物だわ」
◆◇◆
本堂の外に出た神子は、笏をしなやかな動作で横に払った。
身に着けていたマントが、背景の色に溶けこむように消え失せる。
解放していた膨大な力もたちどころに鎮まり、体の内に舞い戻った。
深呼吸して反省する。なるべく穏便に解決するつもりだったが、結果的に軽い騒ぎを起こしてしまった。
聖白蓮が帰ってきたところに出くわせば、何かと物騒なことになっていたかもしれない。
「鬼……じゃなくて、僧のいぬ間に洗濯かな。ちょっと違うかもしれないけれど。それじゃ、さっさと仙界に退散しますか」
そう独り言を呟いて、神子は石段を下りていく。
「待ってください! 豊聡耳さん!」
階段の途中で、足が止まった。
「……どうしてナムサンを譲ってくださったのですか」
自分を追いかけてきたその声に、神子は苦笑を漏らす。
つくづく彼女は人が良すぎるようだ。
「譲ったわけではありません。私が交渉に失敗して、フラれただけです」
「いいえ。すぐに解りました。貴方は私にナムサンを預けるために、わざとあんなことをナズーリンに言って、場を有耶無耶にしてしまった。そうでしょう」
「……………………」
「何故です。貴方もナムサンのことを大事に思っていたはず。私の所業に腹を立て、お説教するほどに。どうして譲ってくださったのですか。私にはその資格がない。貴方の方が……」
「まだ気付いてないようですね、寅丸さん」
神子は振り返った。
寅丸星と、彼女が大事そうに抱きかかえている存在を見上げながら、
「フラれたんですよ私は。その小犬は最初から私ではなく、貴方を選んでいた。再会した時の喜びようが、何よりの証明です。飼い主としての自信をお持ちなさい。貴方が毅然とした態度で臨めば、あの妖怪ネズミもわかってくれるでしょう」
神子は笑みを深め、星ともう一匹に温かい眼差しを注ぐ。
「君の強すぎる愛は、確かに弱点になり得る。けれども私としては、愛を持たぬものに比べればずっと信頼できる相手です。毎日お散歩に連れて行ってあげてください。それと……これは言うまでもないけど、ご飯はほどほどに」
それだけ助言して、神子は踵を返した。
その時だった。
ワン!!
初めて聞く鳴き声が、背中を強く引っ張った。
悲鳴を引き裂いたような、その虚飾のない訴えには、惜別の感情が含まれていた。
そして、戻ってきてほしいという欲も。
今の自分にとって、どんなものよりも辛い声で、手を噛まれる方がまだ救いがあった。
だが神子は前を向いたまま、石段を最後まで下り、命蓮寺の門をくぐりぬけた。
決して振り返らない。そう決めていたから。
――さようなら、イモコ。
仙界へと消えながら、神子は胸の内で囁く。
――またいつか、そのうちね。ナムサン。
7 匂いは嗅いでみるけれど
幻想郷から仙界へ。
慣れ親しんだ石畳に足を下ろし、神子は長い息を吐いた。
雨でも降らせてみようかと思ったけれども、そこまで悲嘆に暮れているわけでもない。
小さな知己と再会する機会は決して潰えていないし、新しく繋がりもできたことだし。
三日という短い期間、確かに失ったものはあるものの、得たものもたくさんあった。
愛に飢えた過去を持つが故に、誰よりも愛を与えようとした妖怪。
ありったけの愛を持て余しつつも、愛を捨てられなかった小さな命。
そして、
「愛を知り、愛のために身を引いた私……っていうのは、ちょっとカッコつけすぎかな」
誰も見ていないところで舌を出し、コツン、と笏で己の頭を叩いてみる。
しかし顕界の行楽は、癖になりそうな予感があった。
今回も異変に比べればささやかな出来事だったが、これだけ有意義な時間が味わえたのだ。
復活したばかりの自分に、これからどんなことが待ち受けているのか、幻想郷がどんなことを提供してくれるのか、期待に胸がふくらむ。
いずれにせよ、三日のラブストーリーは、これにて無事完了。
今夜の食卓で披露する土産話には困らなそうだった。
「とりあえずは、昨晩から修行をしていた彼女達の様子を見に行ってあげますか」
神子は軽い歩調で神霊廟へと向かう。
ところが予想に反し、二人の部下は入り口で出迎えの準備をして待ってくれていた。
そして、両者の様子を目にした神子は、首をひねらざるを得なかった。
日の丸を描いた鉢巻をした亡霊の方が、何かを覚悟をしたかのような面持ちで正座している。
もう一人は数歩離れた位置にて、両袖を合わせて立ち、片方を珍奇なものを見る目で眺めている。
とりあえず神子は座っている方に尋ねた。
「どうしたんです屠自古。やけに気合の入った装いじゃありませんか」
「……太子」
正座する亡霊は、おもむろに口を開く。
「昨晩は従者にあるまじき無礼を働き、申し訳ございませんでした」
「いえいえ」
「それでも私は、太子が復活して以来、貴方の期待に全身全霊で応えようと、日頃努力してきたつもりです」
「ええ。承知してますよ」
「まことですか」
「勿論。だって亡霊の屠自古は、まさしく『全身全霊』」
ぴゅ~、と一陣の風が吹いた。
場を寒くした張本人は、悪びれた様子もなく、首を傾げて、
「あれ、また私、失言したのかな」
「太子っ!!」
屠自古の血走った目が、神子を見据える。
「一晩滝に打たれ、迷いが消えました! 貴方がお望みなら、私はなんだってする覚悟です! だからこれからは、私が……貴方のイモコとなります!!」
突き抜けるような声が、仙界に響き渡った。
一晩滝に打たれただけでは完成しない、もっと長い時間積み重ねた想いが、そこにはこもっていた。
さらには、どんなことが己の身に起こっても、決して意志を曲げぬ覚悟も。
その訴えを聞き届けた方は、じっと瞼を閉じて、その余韻を味わっていた。
「……よくわからないけれども」
神子はやがて口を開く。
持った笏で、こみあげる笑みを隠しながら、
「屠自古が犬を志すならば、まずは耳と尻尾をつけてはどうかな。きっと可愛いですよ」
「………………………………………………………………いぬ?」
屠自古の動きが、完全に停止した。
十秒ほど経ってから、じわじわとその顔に血の気が差していく。
彼女は地面から起き上がり、両手をばたつかせたり、打ち鳴らしたりして、
「い、犬ですか! イモコは犬! そうですよね! ええそうですとも! この屠自古も最初からわかってました!」
「とてもそうには見えなかったがの」
「ぐ!? う、うるさいな!」
後ろから呆れたように指摘してくる同僚に、屠自古は喚く。
それから再び、先程とは異なる恨みがましい視線を神子に向け、
「っていうか太子もっ! 犬なら犬って早く教えてくださいよ!」
「あらら、言ってませんでしたっけ」
「しらばっくれないでください! わざと『殿方』とか『彼』とか意味深な言い方して、私のことずっとからかってたんでしょう!」
「はて、なんのことやら。しかし気になりますね。屠自古は一体どんな想像をしていたのですか?」
「うっ……!」
「わからないなぁ。よければ教えてくれませんか?」
「ううう……」
羞恥心が、屠自古の顔とはいわず、頭からつま先まで真っ赤に染め上げる。
普段は向こう気の強い亡霊が、茹でられた海老のような状態となっていた。
ついに耐え切れなくなった彼女は涙目になり、道場の中に退散しようとする。
その時、
「君の気持ちは伝わったよ。というわけで、お詫びのしるしとして……」
昨晩のお望み通りに後ろから、彼女の体を抱きとめていた神子は、耳元で囁いた。
「これからもよろしくお願いしますね、屠自古。……これではダメかな?」
閾値に達した屠自古の感情が、完全にフリーズする。
そこからは逆に、潮が引くように緩やかに落ち着いていき、大人しくなっていった。
飛鳥の香りがする。
長らく失われていた時間が、やっと、再び戻ってきてくれた。
そして、それこそが幻想郷に姿を現して以来、ずっと自分が求めてきた『欲』だったと、ようやく屠自古は悟った。
あの時から、こうされてしまえば、一度も振りほどくことができた試しはない。
なので屠自古は大きくため息を吐き、いつものごとく、不承不承降伏することにした。
それから、ごほん、とわざとらしく咳をして、
「わかりました。水に流してあげます。ただし、条件がありますけど」
「何でしょう」
神子が尋ねると、屠自古は振り返り、
「イモコに会わせてください。私、犬派なんです。小型犬から大型犬までラブです。知らなかったでしょ?」
「いやいや知ってますとも。これでも屠自古の好みは、なんでも知ってるつもりですよ」
「………………」
「私は猫派だったんだけど、ここ三日間で犬派に変わったような……ああ、でもネズミもいいなぁ」
「…………ネズミ? なんで?」
嬉しそうに話を聞いていた屠自古が、はたと眉をひそめる。
「実はイモコだけではなく、いいネズミも見つけてしまってね。穀物を食べる困った獣だと思っていたが、彼女はなかなか理知的で、振る舞いも礼儀正しく、容姿は可憐で、反応は初心で……」
「まさか、あの寺の妖怪ネズミのことを言ってるんですか!?」
「おお、屠自古も知ってましたか」
それから神子は、抱きしめていた相手をあっさりと放し、くるくると回りながら、
「虎もいいですねぇ。噂に聞く凶暴な獣とは大違い。素直で可愛くて好感が持てるし、毘沙門天の遣いと聞くし、手元に置いておくと御利益がありそうだ。それとあの舟幽霊のノリの良さとカレーも捨てがたい。あれほどの妖怪らを従えている聖殿が羨ましいなぁ。誰か一つ譲ってくれぬものか。いっそのこと本人込みで引っ越してくるというのも……」
「こ、この大ボケ聖人……! 人の気も知らないで……いや全部聞こえてるくせに! 言え! この三日間どこで何してた!」
快晴だった仙界の空に、稲妻の雨が降りはじめた。
◆◇◆
「やれやれ」
神霊廟の門前で雷の矢を撒き散らす亡霊と、その攻撃を風に舞う紙切れのようにかわす聖人。
そんな眺めを前にして、布都はかぶりを振る。
幻想郷ではお馴染みの弾幕ごっこの光景である。
しかしながら、力量の差なのか心の余裕の差なのか、一方が一方にからかわれているだけにしか見えない。
ここの建物は頑丈だからまだいいものの、もし地上で同じことを繰り広げれば、多大な迷惑をかけて回ることになるだろう。
「どうやらあの様子だと、イモコとやらに顔を見せるにあたっては、『愛人』である我がお供として相応しいようだな。『嫁』を称する屠自古は、太子様に付いて会いには行かぬ方が吉であろう」
しみじみと独り言を紡いでいた布都は、
「ん? なぜかだと?」
あらぬ方角を向いて呟く。
破顔一笑。人差し指をビシッと突きつけ、
「決まっておる! 『夫婦喧嘩は~』?」
どやどや
あれもラブ、これもラブ
しかし地の文も登場人物も、皆太子の髪型イジりすぎw
太子様が自由すぎて面白かったですね
次の道教組の作品を楽しみにしてます
量を感じさせない、あっという間に読んじゃったよ
カレー食べて興奮する太子可愛い。
マント太子が現れた時は「神だ...神がおる...」と思ってしまうほどに光光しかったです。
意図的ですかね?村紗がカレーを得意としているのは。あのビクシブタグを連想するのですが...。
とにかくほのぼのとした神霊廟組のお話は滅多に見られないので充分堪能させていただきました。
次回も楽しみにしております。
筆力が高く安定しており、最初から最後までスラスラ読むことができました
ラブストーリーでもデブストーリーでもあったとwww
カレーのくだりも面白すぎてもうねwww
しかしこの太子様、猛禽のごとく感じられます。見た目仕草は愛嬌に満ちているのに、その裏で爪を隠し持っているというか。
100kbと思わせないほど読みやすい作品でした
脇を固めるキャラクタもばっちり魅力的でした。
特にやきもち屠自古と格好良いナズーが良かったです。
あとナズ屠自古かわいい。
ストーリーへの賛辞については既に語られているので割愛で
太子様のカリスマも素晴らしかった。
特にイモコ、もといナムサンとの触れ合いは読んでいるこちらまで心が洗われるようでした。
非常に良質なSS、ごちそうさまです。
適度な笑いの要素も入れつつ綺麗にまとまっていて楽しめる作品でした