突き抜ける青空から陽光が暑く降り注ぎ、目の前に広がる雲海を白く輝かせている。汗の出そうな光景ではあるが、高空の風は涼を含み、髪を揺らした。
少女は幾度となく繰り返した愚痴を再び漏らす。
「……なんでこんなとこ来ちゃったかね」
暗く狭い地底とは正反対の場所だ。自分には似つかわしくない。そう少女は考えている。所在なく浮揚している自分が情けなく感じられさえする。
強引に引っ張り出されなければこんなところには一生関わらないはずなのに。あの馬鹿力の力馬鹿め。
周囲からは歓声。そちらに向き直れば、空中に浮かぶ船の甲板から身を乗り出していたり、絨毯よろしく雲上に座ったりしている観客たちが、ワーワーギャーギャーやかましくはやしたてていた。
中心になっているのは、三者の闘争。二人対一人。
人の形を取った入道雲が拳を振り上げる。それを指示しているのが、藍色のフードを被った少女だ。
相手になっているのが、周囲にお面を多数周回させている少女。能面のように感情のない表情のまま、両手に扇を広げて迎撃の体勢を取る。
戦っている理由は何だったか──一応説明はされたように思うのだが、よくわからない。聞き流すような理由だったのだろう。周りの奴らもほとんど理解してないのではないだろうか。酒を飲む者もちらほら見受けられる。火事と喧嘩は江戸の華というが、同じく弾幕勝負は格好の酒の肴なわけだ。能天気この上ない。
種種のお面を操る少女は「面霊気」という付喪神の一種らしい。芸能に使われるお面が変化した存在。その彼女が手から発した光線が、雲の障壁をすり抜け、相手のフードの端をかすめる。鮮やかな技に一際高い歓声が上がった。なかなかの実力だ。
舞うように宙を動き、その周囲を回るお面が陽にキラキラ輝く。それを見ていると……自分の胸の中がどんより濁ってくるのがわかる。
「……チッ」
我知らず舌打ちが飛び出した。
忌々しい。
本当に、まったく、忌々しい。
光満ちるこの場も大概だが、何よりあいつの存在が鬱陶しくて仕方ない。
苦虫を噛み潰したように顔をしかめる少女・黒谷ヤマメの脳裏に湧きあがるものがある。
自らの出生に関わる黒い思い出だ。
時は平安中期。
草木も眠る真夜中のことだった。そよとも風は吹かず音一つなく、空は雲で覆われ京一帯はまったくの闇である。
広い屋敷も沈黙に包まれている。その寝所において、唯一の音とも言える自らの荒い息遣いを、男は夜具の下で聞き続けていた。
もうひと月もこの音と共に過ごしている。まったく病状は良くなる様子はない。それどころがより悪化しているようでもある。病名すらわからず、治癒の方法は不明のまま。荒い息遣いはやがて弱々しく消えてゆく運命なのか。
チロチロと燭台の灯が心許なげに揺れた。
厠の時以外立つこともない寝たきりの日々……昼とも夜ともつかない時間を長く過ごし、男の意識はほとんど朦朧としていた。
だが、
「──誰ぞ」
その声はピシリと芯が通っていた。先ほどまでの苦しい呼吸は微塵も感じられない。障子の向こう、人の気配に飛ばした声である。厳めしい顔つきから発せられるそれは、侍大将としての威厳を帯びていた。
「見苦しい姿は見せとうない。一切の面会を断れと申したはずだが」
「夜分遅くに申し訳ありません。宮中より頼光様へお薬を預かって参りました」
源頼光の耳に触れたのは、若い女の声だった。いかにも清楚可憐といった声色。
「よし入れ。是非入れ。ずずいっと近う寄れ」
「何ですか、その食いつき」
むしろ帰りたくなりそうな許可をもらい、女は頼光の部屋へ入ってきた。すぐの場所で座る。
夜具から白い小袖をまとった身を起こし、頼光は「ふむ……」と燭台の光に揺れる女の姿を見る。
茶色の地に黄色の筋模様という一風変わった着物をまとっている。流れるような黒髪。顔にはまだ幼さが残っている様子だったが、その身体は、
「なかなか良い腰つきをしておるな。安産型だ」
「どっ、どこ見てるんですか!」
「む? 薬を持ってきたと聞いたが」
「お前の目の薬って意味じゃないよ!」
飛び出たぞんざいな罵声に目を丸くする頼光と、慌てて口を押さえる女。
「ギャップ萌え狙い? 時代を先取りか?」
「い、いえ、おほほ……」
なお、言葉遣いは現代語に合わせているので、細かいツッコミは無用である。古語とか難しすぎる。
「え、えぇと、あの、ここのところお身体の具合が優れないと──安眠すらままならないとお聞きしましたが、どのようなのですか、実際は」
「うむ、大事ないと言いたいところだが、どうにも良くない」
「左様でございますか」
心配する女の顔。だが、その口の端にわずかな笑みが浮かんだのを頼光は気づいただろうか。
して、どの辺りが、と問う女に、頼光は言う。
「主に顔面がな。イケメンが台無しだ」
「結構余裕ですね」
生来の造形の不味さを病のせいにするとは、なかなかにあつかましい。
「いや、冗談ではなくな、健康なときにはそりゃものすごいのだぞ? 会う娘会う娘が黄色い歓声を上げてな」
「その顔で? ああ、やはり具合が良くないようですね、頭の中とか」
「何を言うか。真実、目を合わせるだけで悲鳴を上げて物陰に隠れるし、近寄れば絶叫して駆け去る」
「嫌われまくってるんですよ! 健康なときにどんな不健康なことしてるんですか!」
「健全な男女の営みを、不純異性交遊とされるのは心外だな」
「心外なのはこちらの台詞です! というか、あなた以外の全員が口を揃えて心外ってハモるはずです!」
やっぱりそっち方面のことをしでかしているのだ。それが侍大将のすることか、と言いたくなる。サカリのついた犬かよ、と。やはり恨むにふさわしい人格ということだ。
「まったく……どうにも女の身一つでこの場にいるのが恐ろしくなりましたので、用事を済ませたらすぐ帰りますからね」
「うむ、わかった」
女が薬の入った包みを出そうとすると、頼光は夜具をめくって手招きする。
「では、すぐ済ませよう」
「何を?!」
「夜中に男女が一つの部屋にいるとなったら、やることは一つだろう? 野暮なことを言うな」
「お前がアホなこと言うな! 普通に薬飲んで安静にしてろ!」
またも出た罵声に女が悔いる暇もあらばこそ、頼光の身体は夜具から脱し、手は刀掛けに伸びていた。長く伏していたとは思えぬ素早さだった。
「ッ!」
女が身構えるが、刀は鞘の内より抜かれることはなかった。
頼光は刀を取った体勢のまま、灯の光に揺れる女の方を見ていたが、やがて軽く息をつく。
「気のせいだったか」
「気のせい、ですか?」
女はおずおずと手を膝に戻す。頼光は夜具の上へと膝を進めて戻る。だが、刀は手に持ったままだ。
「ムカデよ」
「ムカデ……」
「お主の前を這っていたように見えたので、斬ってやろうと思ったのだが、あらぬものを見たようだ」
「目にも病の影響が出ているご様子……ご自愛ください」
「うむ」
ようやくホッと肩から力を抜く女に、
「ところで、どうだ」
と、頼光は自慢げに刀を前に掲げる。鯉口を切って、抜いた。
暗い部屋に白刃がきらめく。闇を切り裂くような光だった。
「なかなかの名刀であろう。来たついでだ、話の種とするが良い」
「私には刀のことはよくわかりませんし……そのような物騒なものは好きませんわ」
目をそらす女。笑みを浮かべる頼光。
「まあ、そう言うな。この刀、素晴らしい切れ味でな。罪人の首を斬ったときに、膝まで斬れたというほどのものだ。ゆえに『膝丸』と名付けられておる」
「それはすごい」
「あまりの切れ味にしょっちゅう刃が鞘から突き抜けて困る」
「斬れすぎてる?!」
「ほれ、手などはもう生傷だらけ」
「不良品のレベルでしょ、それ! 刀鍛冶にクーリングオフしましょうよ!」
「他に『吠丸』という名もついているな」
「また変わった名前でらっしゃいますね」
「夜中によくうなり声を上げるのでな」
「刀がですか。意思のようなものが宿っている、と」
「まったく、毎晩毎晩夜泣きが酷く、あやすのも一苦労だ」
「赤ちゃん?!」
「お陰で目に隈ができてしまってな」
「眠れない原因それか! 病気とか関係なく! もう害しかないじゃん、その刀!」
戦場に立つまでもなく切り傷&睡眠不足を負うという、まさしく呪いの刀、妖刀だった。こんなものを代々伝える源氏家は大丈夫なんだろうか。
「まあ、できの悪い子ほど可愛いと申すからな」
「ただの刀ですよね? 無機物ですよね?」
「いわゆるあれだ、目に入れても痛くない」
「じゃあ今すぐやってください。 眼球から脳みそ貫いて、後頭部に突き抜けてください。一生に一度の奇術でお金取れますよ、私はそんなスプラッタに一銭も出さないけど!」
「はっはっは、面白いことを言う女だ」
あんたほどじゃないよ!とツッコミかけた女に、頼光は「それで」と刀を鞘に納めながら言葉を差す。
「お主は何者だ?」
「なっ?!」
女は石化したように固まる。それでも何とか口を開きかけたが、頼光は追い打ちの言葉を投げた。
「ただの使いの者ではあるまい。ムカデの幻影を口実にした私の動きに、あれほどの反応をしたからな。その警戒心、身のこなし、いずれもが如実に示しておる」
「くっ…………く、くくく、」
追いつめられ、窮した女の口から生じるは、笑声。
暗い部屋の中、頼光の眼前で、笑う女の姿はみるみると変貌していく。流れる黒髪は藁の黄色へと変色し、尼削ぎのごとく短くなっていく。着物の腹部より下は異様に膨らんでいった。一目でそれとわかる、人外の技だ。
女は赤く光る瞳を頼光に向ける。笑う口から白い牙がギラついた。
「くはははっ、さすがは侍大将・源頼光といったところかね! ばれてしまっちゃしょうがない。そうさ、私は妖怪! 貴様を恨み、殺す者だっ!」
「まあ、それはともかくイチャイチャしよう」
「反応軽ぅ!?」
頼光の顔には恐れも殺気もない。むしろいい女を見つけたというテカリを帯びていた。テカテカ。
「お前の正体はわかった。なるほど、どこを見回してもアヤカシの類そのものよ。暗闇で光る目、鋭く尖った牙、ぷっくりと艶やかな唇、豊満で魅力的な曲線の尻……」
「うん、途中から方向性の違う箇所に注目してるよね、全然動じてないよね」
「そんなことはないぞ。事実、私の内では今まで感じたことがないほどのやる気が湧き上がっている。ハァハァと息づかいも荒くなってきた」
「どっち方面のやる気!? 妖怪相手に欲情とか、特殊な性癖を暴露すんな! ふざけやがって──いいか、私は、」
女は両手を掲げた。部屋に広がるシルエットは八本の脚を映し出す。
「忍び寄る恐怖の気ッ、病の蜘蛛ッ、黒谷ヤマメだ! さあ、絶望しろっ、貴様を原因不明の病で弱らせ、無慈悲に命を刈る存在に!」
「蜘蛛の化け物か! よし、さっそく出してみろ、糸を。その形のいいケツから!」
「KETU?!」
「さあさあ、私の目の前で! 直接! ひり出すのだ! ケーツ! ケーツ! ケーツ!」
「右腕を振り上げ振り下ろししながら興奮するな! あのね、別に糸は尻じゃなくても、口や指からだって出せるんだぞ…………って、なんでそこで今日一番の絶望的な顔すんだよ!」
この世の終わりかというような表情で、がっくりと頼光は両手を地につけていた。
が、直後に光を見出した顔を上げる。
「そうか! よくよく考えれば今の言葉、ケツから出せることは否定しておらん、すなわち、」
「出せるけど出さないよ。服のスソめくるの面倒くさいし」
「やってくれなきゃヤダー!」
ゴロゴロゴロ。
ダダをこね、部屋中を転がりまくるいい年した男。
「いや、お前……」
すぐには二の句が継げないヤマメ。なんだこのウザイ生き物は……。
「お前……本当に名高い源頼光か? 侍大将か? 実はただの変態じゃないのか。というか変態だろ。絶対変態だろ」
「ぬ、何を言うか。ちょっと個性的なだけだ」
「個性と言えば許される時代はまだ来てないんだよ!」
「とか何とか申して、言い寄られて本当は嬉しいんだろう? このツンデレさんめ」
ヤマメは思った。こいつは侍大将とか関係なく、ぶっ殺すべきなんじゃないかと。
さっさと片づけてしまおうという思いを新たに、構える。
「もう口を開くなよ、どれだけ話そうとラチが開かないから」
「人間と妖怪、わかりあうことはできない、と?」
「あ、うん、まあそうだけど、それとは別にお前は誰ともわかりあえないと思うよ。特に女性とは」
夜中に寝所で襲いかかってくるヤマメちゃんハァハァという男性がいたら、共に美味い酒が飲めるかもしれないが。
「まあ、そういうわけだから──ここで死ね!」
「それは死ぬまで永遠の愛を誓うということか?」
「意味がわからん?!」
「望むところだ!」
「勝手に合点すんな! そしてなぜ服を脱ぐ!? おい、やめろっ!」
隙あらばチョメチョメに持っていこうとするこの男、やはりただ者じゃない。悪い意味で。
帯を外すのに手間取りながら頼光は言う。
「なぜって真剣勝負だろう。受けて立とうというのだ。ゆえにまずは双方、全裸になるべし!」
「お前の真剣とは?!」
あまりに既知外な言動にいつの間にか攻撃の機会を失っているヤマメ。だが──気づく。驚愕する。頼光の気が高まっていた。ヤマメの妖気を圧するほどに。
「なっ……!」
「愚かしいな、ヤマメとやら。これでも私は侍大将を任ぜられている男よ。やるべきことはわきまえている」
しまった!
ヤマメの握りしめられた拳に汗が滲む。
何てことだ、馬鹿げた台詞は全て自分のペースに引き込むため、主導権を握るため、戦闘態勢を整えるためだったのだ。そこに気づかないとは!
頼光は雄叫びを上げる。
「責任なら取るッ! 後日祝言を挙げるぞっっ!」
「アホかーッ!!」
ヤマメの盛大なツッコミが入った。
気を高めてプロポーズとか、世界の中心で愛を叫んでいるつもりか!
見損なって、見直して、また見損うという連続コンボ。こいつの人格株の乱高下っぷりは、ジェットコースターにしたら乗客全員が悪酔いしてリピーターゼロで稼働後すぐ廃棄処分されるレベルだ。
「命のやり取りより男女関係を優先する侍大将ってどうなのよ?!」
「お主の名前は源ヤマメで良いなっ?」
「イヤだよッ! あのね、よく考えなよ、優先順位ってものがあるでしょっ」
「まずは湯浴みからということか?」
「どうしてそうなる?! そっから考え離せよ!」
「しかし、私としてはお前の体臭を濃密に嗅ぎ取りたいのだが」
「筋金入りだな、この変態は!」
頭の悪くなりそうな会話を断ち切るように、ヤマメは右手を突き出した。
瞬間、広く張った蜘蛛の巣が噴出して頼光に襲いかかる。
「むぅ!」
頼光は病人とは思えぬ神速の足捌きでこれを回避。だが、予測していたとばかり、同方向にヤマメの左手が向けられていた。
投網のごとく頼光の全身に被さる蜘蛛の巣。絡みつけば大熊すら微動だにできなくなる妖魔の粘糸だ。
得たりとのヤマメの表情は、直後、まさかとの驚きに変わる。
鞘から抜かれた膝丸が、空を切り上げていた。蜘蛛の巣が綺麗に分かたれる。まさに空間そのものを断ち切ったような斬撃。
刀の切れ味、それ以上に卓越した技の冴えがなければ不可能なことであった。
「……ふン、ようやく侍大将にふさわしいことをしたね」
動揺を払うように吐き捨てるヤマメに、頼光が問う。
「ヤマメよ、先ほどからわからんのだが、何故私の命を狙う」
当然の疑問である。頼光はヤマメと面識がないのだ。
だが、その台詞を聞いた途端、ヤマメの顔色が一変した。瞳の赤が強まり、噛みしめられた歯列が裂ける。沸騰する汚泥が込み上げるように言葉があふれた。
「……それこそが」
「何?」
「それこそが理由だッ!」
真っ赤な口内から激昂がほとばしる。
「寸部の理由も思いつかない! 歯牙にもかけない! その傲慢こそ殺されるに十分だッ!」
「何……何だと?」
「殺す、殺す、殺すッ! お前は死ね! 一切合切消滅しろッ!!」
怒号を合図に、激情のままに、妖怪蜘蛛が頼光に飛びかかろうとしたその時、
「殿! いかがなされました!」
「何事です!」
「頼光様!」
騒ぎを聞きつけた従者たちの声。屋敷内から集まり、頼光の部屋に駆けてくるのが二人の耳に届いた。
多勢に無勢。怒りに沸いた頭でも不利を悟り、ギリリと音を立てそうなほど唇を噛むヤマメ。顔中に悔しさが満ちている。ついには唇を食い破り、血がしたたった。
「ぎ……がぁああああアッ!!」
無念の雄叫びを上げ、床を蹴る。障子戸を突き破って、病の蜘蛛は闇夜へと消えた。
「ヤマメ……」
従者たちが多く部屋に入ってきてからも、頼光は少女が去っていった方向を見つめていた。
「殿、これを!」
従者の一人が馬上の頼光に発見を報告する。
あの後、ヤマメの垂らした血が点々と跡を残していることに気づいた頼光は、病を押して出立。追跡を行ったのだ。
そうして南へ南へと進んだ一行は、一つの山にたどりつく。漂う妖気はそこにアヤカシが潜んでいることを色濃く表していた。
夜明けも近いというのに、空は黒雲が厚く覆い、辺りはどこまでも闇の世界。いつ何が飛び出してくるかもわからない。
松明で照らされた洞穴を、馬より下りた頼光と従者たちは慎重に覗き込む。そして、息を呑んだ。
「人骨……!」
「何という数だ」
奥深くまで続く穴の中に、敷き詰められるように骨が散乱していた。半ばまで地面に埋まっているものもたくさんある。全てを掘り返せばどれほどの数となるだろうか。
「おぞましき光景ですな」
「付近の住民や旅人が餌食となったのでしょうか」
従者たちの言葉に頼光は頷きを返さない。そうするには引っかかるものがあったからだ。
「汚れておるな」
「何ですと?」
「風雨にさらされ、土埃にまみれておる。コケが生えているものさえあるではないか。どの骨も相当の年月を経ているということよ」
おお、との声が上がる。聡い者が頼光の考えを察したのだ。
「我々が日々鳥や魚を食するがごとく、蜘蛛が人を食らったのであれば、真新しい骨が見当たらないのはおかしなことでございますな」
「うむ。犠牲者はおらんのかもしれん」
「それでは、これらはいったい誰の……」
つと頼光が顔を上げた。従者たちも釣られるように上を見、そして身を強ばらせて武器を構えた。
逆さまの姿で、ヤマメが暗闇に浮かんでいた。
丸い下半身、その足先から糸が伸び、大樹の枝につながっている。
黄色い髪を乱し、赤く光る目で一行を見下ろして、表情は憎悪そのものだった。端の千切れた唇を開き、そこから言葉を発する前に、
「待てッ!」
頼光の制止も間に合わず、従者たちの矢が放たれた。
しかし、既に対象は足先の糸を切り、落下。矢は虚空を抜ける。
少女姿の蜘蛛は宙で回転して着地した。
頼光が片腕をかざして従者たちを止める前で、ヤマメは改めて言葉を紡ぐ。
「その骨が誰のものかわからないかよ──ああ、そうだろうさ、貴様らにわかるはずがないんだ。踏みにじってきたものを気にも留めない腐れ外道どもが」
「これらが……?」
頼光だけでなく、従者たちにも戸惑いが広がった。
ヤマメは自分たちを加害者と罵っているようなのだが、まるで心当たりがないのである。
おびただしい人骨から連想されるのは合戦の類であるが、この地においては覚えがなく、よしんば他所から骨を持ち運んだのだとしても、骨自体がはるか昔のものであることは先ほど確認してある。
昔──そう、昔だ──恐らくは自分たちが生まれるずっと以前。
「神武天皇さ」
「神、武……?」
ヤマメの口から出たのは、初代天皇とされる存在の名。頼光はただそれを繰り返すのみ。従者の中には顔を見合わせる者もいた。
千年以上も過去の事柄が自分たちに関係があるとは思えず、ヤマメがその名を出した理由も、怒りをぶつけてくる理由も、まるで見出せないのだった。
「そこまで聞いても全然か。やはり貴様らは、」
「いや……待て」
頼光の頭でつながるものがあった。
「待て……そうか、ここは葛城山か?」
事柄と事柄が結びついていく。
「葛城山にはかつて異民族が住んでいたという……その異民族は土蜘蛛と称されていた。骨は彼らのものか。彼らの滅亡は──」
「そうだッ!」
ヤマメが叫ぶ。唇の傷が開き、血が飛んだ。
「神武天皇の東征で罪無き『我ら』は謀殺された! 女、子供も老人も全て! 全てだ! ただそこに生きていただけで、貴様らの支配欲に殺されたんだッ!」
「…………」
「どれほどの恨みかわかるまい! 私に宿った『我ら』の無念は、私だけがわかる! 『我ら』だけが!」
その言葉は、ヤマメの意志で語っているように見えて、ヤマメ以外の者が、いや、『者たち』が語らせているように思えた。
恐らく長年を経て力を得た蜘蛛に、異民族の積もり積もった恨みの念が取り憑いたのだろう。そうして蜘蛛はさらなる力を得た妖怪となった。数々の怨念の集合が、今のヤマメだった。
「言われるがままに惨殺を為した侍どもめ! 侍大将たる頼光こそ真っ先に殺されるべき者だ!」
「逆恨み……」
「何ッ!」
ヤマメに目を剥かせたそのつぶやきは、頼光ではなく従者の一人が発したものだった。
他の従者たちの思いも似たりよったりだろう。千年よりも以前のことに責任など感じようもない。
だが、そんな理屈はヤマメには通らないのだ。現世に留まる膨大な恨みを力の根元とするヤマメには、殺戮の復讐は過去ではなく、今この場、現在のものなのだ。
双方、平行線であり、わかりあえない。
「話すだけ無駄だったな! ああ、殺せよ、今までそうしてきたように。たかが蜘蛛一匹、数に任せれば造作もないだろうさ。私もこの地を捨てて逃げるつもりはない。だが、死ぬときはッ、貴様ら、も……?」
気勢を上げ、襲いかからんとしたヤマメが動きを止めたのは、ふらついて前に出る頼光だった。
病による疲労ゆえか、と思いきや、そうではなかった。
「う……うう……」
「お前……?」
頼光は泣いていた。人目をはばかることなく、大の大人が、侍大将が泣いているのである。
歪む顔から絞り出されるように、こぼれるものがあった。いや、こぼれるといったものではなかった。
目からは涙が滝のように落ち、鼻からは鼻水が泉のように湧き、口からはよだれが川のように流れ──
「って、何その量!? 汚いっ!?」
「やう゛ぁべぇええ~っ!」
「それヤマメって言ってんのっ? よ、寄るな! 近くでしゃべるなっ! うわ、ツバついた!?」
頼光の着ている直垂は様々な体液で濡れまくっていた。加速度的によりベチャベチャになっていた。
気圧されたわけでなくヤマメは後ずさる。従者たちも普段とは違う意味で頼光に近寄りがたくなっているようだ。
頼光はわななく口で、言った。
「じゅぶぁっぷ!」
「何語?!」
言語として成り立ってなかった。
頼光は呼気を整えようと、ビシャビシャと垂れる液体を顔面からグショグショぬぐう。
「ずっ……すっ……」
「何だよ、何が言いたいんだ、お前」
「すまぬ!」
「なっ」
「すまぬっ……すまぬ、ヤマメっ……!」
頼光は謝っていた。侍大将として人に頭を下げたことなど皆無に等しい男が、身も世もない涙に濡れて少女に謝罪しているのである。
「苦しかったろう……! 悲しかったろう……! わかってやれなかった私を許してくれ! 私はっ、」
ズビビッと鼻をすする。
「私はこれまで政敵を、反乱を起こしてきた者たちを、大勢討ってきた。疑問を持たぬとは言わぬまでも、ただひたすらに行ってきたのだ。私は……私は恨まれて当然だ。何もわかっていないというお前の言葉、まさしくその通りだ」
「…………」
「……ヤマメよ、この身命、欲しければくれてやろう。お前の、お前たちの恨みが晴れるなら……」
ヤマメは何も言えなかった。脳内では思考が千々に乱れていた。
世の支配者に対して、それに付き従う者に対して、今まで抱いていた概念が頼光によってひっくり返されている。
ヤマメは何も言えない。頭の中で叫んでいた。
(こいつ、変態のくせに! なんでカッコイイこと言うんだよ! 変態のくせに!)
言葉だけなら虚実関係なく述べることは誰にでもできる。しかし、恥も外聞も捨てて、無様な姿をさらすことを厭わずにできる者はいない。いないと思っていた。
だが、目の前にいるのだった。
その男、頼光は、ヤマメの前で謝罪しながら、服を脱ごうとしていた。
「頼光……、……え?」
服を脱ごうとしていた。
「え?」
というか、上半身は既に裸だった。
「いや、何やってんだよ!」
「我が身命を好きにしていいと言ったぞ。さあ、私の身体を好きに弄ぶがいい!」
「そういう意味?!」
カッコイイとしても、やはり変態であった。
「今この場で! 衆人環視の中で! どのようなプレイでも受け入れるぞ!」
「こっちが受け入れ不能だよ!」
にじり寄る頼光。後ずさるヤマメ。
「お前が女で良かった! 男同士であるならともかく、男と女であれば愛し合うことができる!」
「いいから離れろ! こっち来んなっ!」
歩を進める頼光。後退するヤマメ。
「さあ、私と契りを結ぼう! そうして我が一族の財はお前の財ともなる! 多くの犠牲の上に立つという我が負い目を軽くすると思って! な、頼む!」
「お前のナンパさはそれが動機だったのか?! う、っわわわ!」
ついに走り出す頼光。逃げ出すヤマメ。
目を点にする従者たちの前で、追いかけっこが始まっていた。
これをどう判断していいのか、従者の誰もが戸惑っている。本来、殺し殺されるはずの関係性が、そこには微塵も感じられなかったのだ。
「待て待てー!」
「きゃー!」
侍大将が妖怪少女を追うという光景は、傍目には仲睦まじい親子か恋人が戯れているように見えたことだろう。
でなければ、嫌がる女子を変質者が狙うというヤバい構図だ。
そうして、ついに、ヤマメは大木を背負うという形で逃げ場を失った。
眼前には半裸の頼光。鍛え抜かれた大胸筋が汗だくになって、ヤマメに迫っていく。ヤマメもまた冷や汗がダラダラ流れていた。
「ヤマメよ……」
「ひ、ひぃい?」
「私を受け入れよ。いや、受け入れなくともよい。お前が背負っていた一族の無念、全て我が一族のものとしよう」
「え……」
「富も因縁も共にする。それだけの想いで私は契りを持ちかけておるのだ。お前が吐露した激情は、必ず上奏することをここに誓おう! さらには供養塔を建て、供物を絶やさぬようにもしよう! ヤマメよ、私は本気だ!」
「えっ、うぁ……」
絶句。ヤマメのこの反応は当然かもしれない。こんな、真剣な面持ちでプロポーズされたなら。
真摯な想いはヤマメの心に到達していた。
「ヤマメ……」
「あ、ま、まだ心の準備がっ」
優しく抱きしめようとする頼光を、寸前でかわすヤマメ。
だが、それがいけなかった。
頼光の横に抜けたとき、腰の鞘に当たってしまう。すると、鞘はエンドウのそれのようにパカッと割れ、中から名刀・膝丸が飛び出してきたのだ。
目撃者は後に語る。
『ええ、上半身と下半身を異にする、絵に描いたような一刀両断でした』
「ぎゃぁあああっ、切れ味バツグンーッ?!」
「やまめぇえええええええ!?」
白煙が噴きあがり、妖怪蜘蛛の身体は消失したという。
「よっ、楽しんでるかい?」
むくれているヤマメに声を掛けたのは、青空をバックにした長身のシルエット。彼女を連れ出した張本人が、額の角と同色の真っ赤な酒杯を持って立っていた。 ヤマメ曰く「馬鹿力の力馬鹿」、鬼女の星熊勇儀だ。
そういえばあいつもいいガタイしてたっけな、とそんなことを考えている自分に気づき、一層ヤマメは不機嫌になった。
「あぁ、お陰様で死にそうなくらい楽しませてもらってるよ。天にも昇る気分だね」
「あっはっは、ご挨拶だね。お祭り騒ぎは嫌いじゃないだろうに」
「嫌な要素がデカいし多いし、これなら地獄の方がマシさ。比喩じゃなくってね」
その毒のたっぷり含まれた台詞にも、勇儀はくっくと笑いながら、大杯に徳利酒を手酌で注いだ。いい具合に酩酊しているらしい。
「まあ、間は悪かったかな」
「は?」
「あれだろ、あれ」
顎で指し示すのは、雲上で舞う面霊気の少女だ。
「誰と誰がやるのかってのは、ついさっき知ったのさ。何だかんだ言ってるけど、お前さんの心を乱してんのは、あれが唯一無二の理由じゃないかね」
「む……何でさ」
「つれないねぇ。私たちゃ一年や二年の付き合いじゃないだろうに。──昔を思い出したんだろ」
くぅと酒をあおり、くっくっくと再び笑う。
ヤマメの内部に火がついた。
「ああ、そうだよ! 能面なんか見たくもないんだ! あんな黒歴史、勝手に舞台化しやがって! 何百年と無様な負けシーンリプレイされるこっちの身にもなれっての!」
「あっはっはっ」
「笑い事じゃないよ! かたきを取ってやるとか言ってさ、橋姫もあんたも返り討ちにされるし!」
「うん、ま、そいつはすまなかったね。けど橋姫は許してやりなよ。あの安倍清明にまで出張られちゃあさ」
負けシーンを物語にされたのは私らも同じだし、との事実を添えられ、内部の火勢が弱まった。
ただ、敗戦のはずなのに朗らかに語るのは、いかに楽しい戦いであったかを表現するようで、どうにも腹立たしさは残ったが。
ヤマメは口先を尖らせて言う。
「軽傷で済んだそっちは気楽でいいよ。こっちは身体が消失しちゃって復活にどれだけ時間が掛かったか」
「ふふっ、ようやく身体が戻ったら、平安どころか鎌倉の時代まで終わってたんだっけ? 浦島太郎もかくやだな」
「金太郎にやられた身でよく言うよ」
「頼光四天王のあいつか。強かったな、真っ正面からぶつかったときはそりゃあ……ああ、まあ、その話は置いといてさ、今に至ったらさすがにもう気楽に考えていいんじゃないか? 侍はいなくなったし、天皇だって謀殺されたり利用されたりと辛酸舐めさせられてきたんだ。お前さんが復讐する必要はなくなったろ」
「ふん、どうせ幻想郷からは何にもできやしないよ」
「そうそう、勝ちも負けも彼岸の彼方さ」
勇儀は雲海の地平線を眺めやる。蒼穹と交わるそこは光に霞んでいた。
ややあって、笑みが悪戯めいたものに変わる。腰をかがめてヤマメの近くに顔を寄せた。
「でもさぁ……ヤマメ、」
何?と怪訝な目つきの少女に言う。
「なんだかんだで気に入ってたろ、ライコーのこと」
「?!」
「あいつが立てた供養塔、よく見に行ってたもんなぁ。十分堪能してから幻想郷に来たようだけど、後ろ髪引かれてたのはよぉく見て取れたよ」
「なっ、なっ、あっ」
「あっはっは、まさか蜘蛛が人間の男に絡め取られるなんてね! 古今東西、前代未聞さ。恋愛物として語り継がれないのが実に惜しいよ、ははははっ」
笑声を前に、ヤマメは顔を真っ赤にして口をぱくぱくさせていた。
ツンデレさんめ、との頼光の声までリフレインする。
そうして酸欠の金魚をしばし演じていた後、ようやく両手で勇儀の大杯をつかんで奪い取った。
「おっ?」
それを勇儀に突き出して怒鳴るように言う。
「酒! たっぷり注いで! 早く!」
「はいはい、お気に召すまま」
手元が揺れないように笑いを抑えながら、勇儀は酒を注ぐ。(こりゃ相当へべれけになるな)と思うと、また手元が危うくなった。
fin.
少女は幾度となく繰り返した愚痴を再び漏らす。
「……なんでこんなとこ来ちゃったかね」
暗く狭い地底とは正反対の場所だ。自分には似つかわしくない。そう少女は考えている。所在なく浮揚している自分が情けなく感じられさえする。
強引に引っ張り出されなければこんなところには一生関わらないはずなのに。あの馬鹿力の力馬鹿め。
周囲からは歓声。そちらに向き直れば、空中に浮かぶ船の甲板から身を乗り出していたり、絨毯よろしく雲上に座ったりしている観客たちが、ワーワーギャーギャーやかましくはやしたてていた。
中心になっているのは、三者の闘争。二人対一人。
人の形を取った入道雲が拳を振り上げる。それを指示しているのが、藍色のフードを被った少女だ。
相手になっているのが、周囲にお面を多数周回させている少女。能面のように感情のない表情のまま、両手に扇を広げて迎撃の体勢を取る。
戦っている理由は何だったか──一応説明はされたように思うのだが、よくわからない。聞き流すような理由だったのだろう。周りの奴らもほとんど理解してないのではないだろうか。酒を飲む者もちらほら見受けられる。火事と喧嘩は江戸の華というが、同じく弾幕勝負は格好の酒の肴なわけだ。能天気この上ない。
種種のお面を操る少女は「面霊気」という付喪神の一種らしい。芸能に使われるお面が変化した存在。その彼女が手から発した光線が、雲の障壁をすり抜け、相手のフードの端をかすめる。鮮やかな技に一際高い歓声が上がった。なかなかの実力だ。
舞うように宙を動き、その周囲を回るお面が陽にキラキラ輝く。それを見ていると……自分の胸の中がどんより濁ってくるのがわかる。
「……チッ」
我知らず舌打ちが飛び出した。
忌々しい。
本当に、まったく、忌々しい。
光満ちるこの場も大概だが、何よりあいつの存在が鬱陶しくて仕方ない。
苦虫を噛み潰したように顔をしかめる少女・黒谷ヤマメの脳裏に湧きあがるものがある。
自らの出生に関わる黒い思い出だ。
時は平安中期。
草木も眠る真夜中のことだった。そよとも風は吹かず音一つなく、空は雲で覆われ京一帯はまったくの闇である。
広い屋敷も沈黙に包まれている。その寝所において、唯一の音とも言える自らの荒い息遣いを、男は夜具の下で聞き続けていた。
もうひと月もこの音と共に過ごしている。まったく病状は良くなる様子はない。それどころがより悪化しているようでもある。病名すらわからず、治癒の方法は不明のまま。荒い息遣いはやがて弱々しく消えてゆく運命なのか。
チロチロと燭台の灯が心許なげに揺れた。
厠の時以外立つこともない寝たきりの日々……昼とも夜ともつかない時間を長く過ごし、男の意識はほとんど朦朧としていた。
だが、
「──誰ぞ」
その声はピシリと芯が通っていた。先ほどまでの苦しい呼吸は微塵も感じられない。障子の向こう、人の気配に飛ばした声である。厳めしい顔つきから発せられるそれは、侍大将としての威厳を帯びていた。
「見苦しい姿は見せとうない。一切の面会を断れと申したはずだが」
「夜分遅くに申し訳ありません。宮中より頼光様へお薬を預かって参りました」
源頼光の耳に触れたのは、若い女の声だった。いかにも清楚可憐といった声色。
「よし入れ。是非入れ。ずずいっと近う寄れ」
「何ですか、その食いつき」
むしろ帰りたくなりそうな許可をもらい、女は頼光の部屋へ入ってきた。すぐの場所で座る。
夜具から白い小袖をまとった身を起こし、頼光は「ふむ……」と燭台の光に揺れる女の姿を見る。
茶色の地に黄色の筋模様という一風変わった着物をまとっている。流れるような黒髪。顔にはまだ幼さが残っている様子だったが、その身体は、
「なかなか良い腰つきをしておるな。安産型だ」
「どっ、どこ見てるんですか!」
「む? 薬を持ってきたと聞いたが」
「お前の目の薬って意味じゃないよ!」
飛び出たぞんざいな罵声に目を丸くする頼光と、慌てて口を押さえる女。
「ギャップ萌え狙い? 時代を先取りか?」
「い、いえ、おほほ……」
なお、言葉遣いは現代語に合わせているので、細かいツッコミは無用である。古語とか難しすぎる。
「え、えぇと、あの、ここのところお身体の具合が優れないと──安眠すらままならないとお聞きしましたが、どのようなのですか、実際は」
「うむ、大事ないと言いたいところだが、どうにも良くない」
「左様でございますか」
心配する女の顔。だが、その口の端にわずかな笑みが浮かんだのを頼光は気づいただろうか。
して、どの辺りが、と問う女に、頼光は言う。
「主に顔面がな。イケメンが台無しだ」
「結構余裕ですね」
生来の造形の不味さを病のせいにするとは、なかなかにあつかましい。
「いや、冗談ではなくな、健康なときにはそりゃものすごいのだぞ? 会う娘会う娘が黄色い歓声を上げてな」
「その顔で? ああ、やはり具合が良くないようですね、頭の中とか」
「何を言うか。真実、目を合わせるだけで悲鳴を上げて物陰に隠れるし、近寄れば絶叫して駆け去る」
「嫌われまくってるんですよ! 健康なときにどんな不健康なことしてるんですか!」
「健全な男女の営みを、不純異性交遊とされるのは心外だな」
「心外なのはこちらの台詞です! というか、あなた以外の全員が口を揃えて心外ってハモるはずです!」
やっぱりそっち方面のことをしでかしているのだ。それが侍大将のすることか、と言いたくなる。サカリのついた犬かよ、と。やはり恨むにふさわしい人格ということだ。
「まったく……どうにも女の身一つでこの場にいるのが恐ろしくなりましたので、用事を済ませたらすぐ帰りますからね」
「うむ、わかった」
女が薬の入った包みを出そうとすると、頼光は夜具をめくって手招きする。
「では、すぐ済ませよう」
「何を?!」
「夜中に男女が一つの部屋にいるとなったら、やることは一つだろう? 野暮なことを言うな」
「お前がアホなこと言うな! 普通に薬飲んで安静にしてろ!」
またも出た罵声に女が悔いる暇もあらばこそ、頼光の身体は夜具から脱し、手は刀掛けに伸びていた。長く伏していたとは思えぬ素早さだった。
「ッ!」
女が身構えるが、刀は鞘の内より抜かれることはなかった。
頼光は刀を取った体勢のまま、灯の光に揺れる女の方を見ていたが、やがて軽く息をつく。
「気のせいだったか」
「気のせい、ですか?」
女はおずおずと手を膝に戻す。頼光は夜具の上へと膝を進めて戻る。だが、刀は手に持ったままだ。
「ムカデよ」
「ムカデ……」
「お主の前を這っていたように見えたので、斬ってやろうと思ったのだが、あらぬものを見たようだ」
「目にも病の影響が出ているご様子……ご自愛ください」
「うむ」
ようやくホッと肩から力を抜く女に、
「ところで、どうだ」
と、頼光は自慢げに刀を前に掲げる。鯉口を切って、抜いた。
暗い部屋に白刃がきらめく。闇を切り裂くような光だった。
「なかなかの名刀であろう。来たついでだ、話の種とするが良い」
「私には刀のことはよくわかりませんし……そのような物騒なものは好きませんわ」
目をそらす女。笑みを浮かべる頼光。
「まあ、そう言うな。この刀、素晴らしい切れ味でな。罪人の首を斬ったときに、膝まで斬れたというほどのものだ。ゆえに『膝丸』と名付けられておる」
「それはすごい」
「あまりの切れ味にしょっちゅう刃が鞘から突き抜けて困る」
「斬れすぎてる?!」
「ほれ、手などはもう生傷だらけ」
「不良品のレベルでしょ、それ! 刀鍛冶にクーリングオフしましょうよ!」
「他に『吠丸』という名もついているな」
「また変わった名前でらっしゃいますね」
「夜中によくうなり声を上げるのでな」
「刀がですか。意思のようなものが宿っている、と」
「まったく、毎晩毎晩夜泣きが酷く、あやすのも一苦労だ」
「赤ちゃん?!」
「お陰で目に隈ができてしまってな」
「眠れない原因それか! 病気とか関係なく! もう害しかないじゃん、その刀!」
戦場に立つまでもなく切り傷&睡眠不足を負うという、まさしく呪いの刀、妖刀だった。こんなものを代々伝える源氏家は大丈夫なんだろうか。
「まあ、できの悪い子ほど可愛いと申すからな」
「ただの刀ですよね? 無機物ですよね?」
「いわゆるあれだ、目に入れても痛くない」
「じゃあ今すぐやってください。 眼球から脳みそ貫いて、後頭部に突き抜けてください。一生に一度の奇術でお金取れますよ、私はそんなスプラッタに一銭も出さないけど!」
「はっはっは、面白いことを言う女だ」
あんたほどじゃないよ!とツッコミかけた女に、頼光は「それで」と刀を鞘に納めながら言葉を差す。
「お主は何者だ?」
「なっ?!」
女は石化したように固まる。それでも何とか口を開きかけたが、頼光は追い打ちの言葉を投げた。
「ただの使いの者ではあるまい。ムカデの幻影を口実にした私の動きに、あれほどの反応をしたからな。その警戒心、身のこなし、いずれもが如実に示しておる」
「くっ…………く、くくく、」
追いつめられ、窮した女の口から生じるは、笑声。
暗い部屋の中、頼光の眼前で、笑う女の姿はみるみると変貌していく。流れる黒髪は藁の黄色へと変色し、尼削ぎのごとく短くなっていく。着物の腹部より下は異様に膨らんでいった。一目でそれとわかる、人外の技だ。
女は赤く光る瞳を頼光に向ける。笑う口から白い牙がギラついた。
「くはははっ、さすがは侍大将・源頼光といったところかね! ばれてしまっちゃしょうがない。そうさ、私は妖怪! 貴様を恨み、殺す者だっ!」
「まあ、それはともかくイチャイチャしよう」
「反応軽ぅ!?」
頼光の顔には恐れも殺気もない。むしろいい女を見つけたというテカリを帯びていた。テカテカ。
「お前の正体はわかった。なるほど、どこを見回してもアヤカシの類そのものよ。暗闇で光る目、鋭く尖った牙、ぷっくりと艶やかな唇、豊満で魅力的な曲線の尻……」
「うん、途中から方向性の違う箇所に注目してるよね、全然動じてないよね」
「そんなことはないぞ。事実、私の内では今まで感じたことがないほどのやる気が湧き上がっている。ハァハァと息づかいも荒くなってきた」
「どっち方面のやる気!? 妖怪相手に欲情とか、特殊な性癖を暴露すんな! ふざけやがって──いいか、私は、」
女は両手を掲げた。部屋に広がるシルエットは八本の脚を映し出す。
「忍び寄る恐怖の気ッ、病の蜘蛛ッ、黒谷ヤマメだ! さあ、絶望しろっ、貴様を原因不明の病で弱らせ、無慈悲に命を刈る存在に!」
「蜘蛛の化け物か! よし、さっそく出してみろ、糸を。その形のいいケツから!」
「KETU?!」
「さあさあ、私の目の前で! 直接! ひり出すのだ! ケーツ! ケーツ! ケーツ!」
「右腕を振り上げ振り下ろししながら興奮するな! あのね、別に糸は尻じゃなくても、口や指からだって出せるんだぞ…………って、なんでそこで今日一番の絶望的な顔すんだよ!」
この世の終わりかというような表情で、がっくりと頼光は両手を地につけていた。
が、直後に光を見出した顔を上げる。
「そうか! よくよく考えれば今の言葉、ケツから出せることは否定しておらん、すなわち、」
「出せるけど出さないよ。服のスソめくるの面倒くさいし」
「やってくれなきゃヤダー!」
ゴロゴロゴロ。
ダダをこね、部屋中を転がりまくるいい年した男。
「いや、お前……」
すぐには二の句が継げないヤマメ。なんだこのウザイ生き物は……。
「お前……本当に名高い源頼光か? 侍大将か? 実はただの変態じゃないのか。というか変態だろ。絶対変態だろ」
「ぬ、何を言うか。ちょっと個性的なだけだ」
「個性と言えば許される時代はまだ来てないんだよ!」
「とか何とか申して、言い寄られて本当は嬉しいんだろう? このツンデレさんめ」
ヤマメは思った。こいつは侍大将とか関係なく、ぶっ殺すべきなんじゃないかと。
さっさと片づけてしまおうという思いを新たに、構える。
「もう口を開くなよ、どれだけ話そうとラチが開かないから」
「人間と妖怪、わかりあうことはできない、と?」
「あ、うん、まあそうだけど、それとは別にお前は誰ともわかりあえないと思うよ。特に女性とは」
夜中に寝所で襲いかかってくるヤマメちゃんハァハァという男性がいたら、共に美味い酒が飲めるかもしれないが。
「まあ、そういうわけだから──ここで死ね!」
「それは死ぬまで永遠の愛を誓うということか?」
「意味がわからん?!」
「望むところだ!」
「勝手に合点すんな! そしてなぜ服を脱ぐ!? おい、やめろっ!」
隙あらばチョメチョメに持っていこうとするこの男、やはりただ者じゃない。悪い意味で。
帯を外すのに手間取りながら頼光は言う。
「なぜって真剣勝負だろう。受けて立とうというのだ。ゆえにまずは双方、全裸になるべし!」
「お前の真剣とは?!」
あまりに既知外な言動にいつの間にか攻撃の機会を失っているヤマメ。だが──気づく。驚愕する。頼光の気が高まっていた。ヤマメの妖気を圧するほどに。
「なっ……!」
「愚かしいな、ヤマメとやら。これでも私は侍大将を任ぜられている男よ。やるべきことはわきまえている」
しまった!
ヤマメの握りしめられた拳に汗が滲む。
何てことだ、馬鹿げた台詞は全て自分のペースに引き込むため、主導権を握るため、戦闘態勢を整えるためだったのだ。そこに気づかないとは!
頼光は雄叫びを上げる。
「責任なら取るッ! 後日祝言を挙げるぞっっ!」
「アホかーッ!!」
ヤマメの盛大なツッコミが入った。
気を高めてプロポーズとか、世界の中心で愛を叫んでいるつもりか!
見損なって、見直して、また見損うという連続コンボ。こいつの人格株の乱高下っぷりは、ジェットコースターにしたら乗客全員が悪酔いしてリピーターゼロで稼働後すぐ廃棄処分されるレベルだ。
「命のやり取りより男女関係を優先する侍大将ってどうなのよ?!」
「お主の名前は源ヤマメで良いなっ?」
「イヤだよッ! あのね、よく考えなよ、優先順位ってものがあるでしょっ」
「まずは湯浴みからということか?」
「どうしてそうなる?! そっから考え離せよ!」
「しかし、私としてはお前の体臭を濃密に嗅ぎ取りたいのだが」
「筋金入りだな、この変態は!」
頭の悪くなりそうな会話を断ち切るように、ヤマメは右手を突き出した。
瞬間、広く張った蜘蛛の巣が噴出して頼光に襲いかかる。
「むぅ!」
頼光は病人とは思えぬ神速の足捌きでこれを回避。だが、予測していたとばかり、同方向にヤマメの左手が向けられていた。
投網のごとく頼光の全身に被さる蜘蛛の巣。絡みつけば大熊すら微動だにできなくなる妖魔の粘糸だ。
得たりとのヤマメの表情は、直後、まさかとの驚きに変わる。
鞘から抜かれた膝丸が、空を切り上げていた。蜘蛛の巣が綺麗に分かたれる。まさに空間そのものを断ち切ったような斬撃。
刀の切れ味、それ以上に卓越した技の冴えがなければ不可能なことであった。
「……ふン、ようやく侍大将にふさわしいことをしたね」
動揺を払うように吐き捨てるヤマメに、頼光が問う。
「ヤマメよ、先ほどからわからんのだが、何故私の命を狙う」
当然の疑問である。頼光はヤマメと面識がないのだ。
だが、その台詞を聞いた途端、ヤマメの顔色が一変した。瞳の赤が強まり、噛みしめられた歯列が裂ける。沸騰する汚泥が込み上げるように言葉があふれた。
「……それこそが」
「何?」
「それこそが理由だッ!」
真っ赤な口内から激昂がほとばしる。
「寸部の理由も思いつかない! 歯牙にもかけない! その傲慢こそ殺されるに十分だッ!」
「何……何だと?」
「殺す、殺す、殺すッ! お前は死ね! 一切合切消滅しろッ!!」
怒号を合図に、激情のままに、妖怪蜘蛛が頼光に飛びかかろうとしたその時、
「殿! いかがなされました!」
「何事です!」
「頼光様!」
騒ぎを聞きつけた従者たちの声。屋敷内から集まり、頼光の部屋に駆けてくるのが二人の耳に届いた。
多勢に無勢。怒りに沸いた頭でも不利を悟り、ギリリと音を立てそうなほど唇を噛むヤマメ。顔中に悔しさが満ちている。ついには唇を食い破り、血がしたたった。
「ぎ……がぁああああアッ!!」
無念の雄叫びを上げ、床を蹴る。障子戸を突き破って、病の蜘蛛は闇夜へと消えた。
「ヤマメ……」
従者たちが多く部屋に入ってきてからも、頼光は少女が去っていった方向を見つめていた。
「殿、これを!」
従者の一人が馬上の頼光に発見を報告する。
あの後、ヤマメの垂らした血が点々と跡を残していることに気づいた頼光は、病を押して出立。追跡を行ったのだ。
そうして南へ南へと進んだ一行は、一つの山にたどりつく。漂う妖気はそこにアヤカシが潜んでいることを色濃く表していた。
夜明けも近いというのに、空は黒雲が厚く覆い、辺りはどこまでも闇の世界。いつ何が飛び出してくるかもわからない。
松明で照らされた洞穴を、馬より下りた頼光と従者たちは慎重に覗き込む。そして、息を呑んだ。
「人骨……!」
「何という数だ」
奥深くまで続く穴の中に、敷き詰められるように骨が散乱していた。半ばまで地面に埋まっているものもたくさんある。全てを掘り返せばどれほどの数となるだろうか。
「おぞましき光景ですな」
「付近の住民や旅人が餌食となったのでしょうか」
従者たちの言葉に頼光は頷きを返さない。そうするには引っかかるものがあったからだ。
「汚れておるな」
「何ですと?」
「風雨にさらされ、土埃にまみれておる。コケが生えているものさえあるではないか。どの骨も相当の年月を経ているということよ」
おお、との声が上がる。聡い者が頼光の考えを察したのだ。
「我々が日々鳥や魚を食するがごとく、蜘蛛が人を食らったのであれば、真新しい骨が見当たらないのはおかしなことでございますな」
「うむ。犠牲者はおらんのかもしれん」
「それでは、これらはいったい誰の……」
つと頼光が顔を上げた。従者たちも釣られるように上を見、そして身を強ばらせて武器を構えた。
逆さまの姿で、ヤマメが暗闇に浮かんでいた。
丸い下半身、その足先から糸が伸び、大樹の枝につながっている。
黄色い髪を乱し、赤く光る目で一行を見下ろして、表情は憎悪そのものだった。端の千切れた唇を開き、そこから言葉を発する前に、
「待てッ!」
頼光の制止も間に合わず、従者たちの矢が放たれた。
しかし、既に対象は足先の糸を切り、落下。矢は虚空を抜ける。
少女姿の蜘蛛は宙で回転して着地した。
頼光が片腕をかざして従者たちを止める前で、ヤマメは改めて言葉を紡ぐ。
「その骨が誰のものかわからないかよ──ああ、そうだろうさ、貴様らにわかるはずがないんだ。踏みにじってきたものを気にも留めない腐れ外道どもが」
「これらが……?」
頼光だけでなく、従者たちにも戸惑いが広がった。
ヤマメは自分たちを加害者と罵っているようなのだが、まるで心当たりがないのである。
おびただしい人骨から連想されるのは合戦の類であるが、この地においては覚えがなく、よしんば他所から骨を持ち運んだのだとしても、骨自体がはるか昔のものであることは先ほど確認してある。
昔──そう、昔だ──恐らくは自分たちが生まれるずっと以前。
「神武天皇さ」
「神、武……?」
ヤマメの口から出たのは、初代天皇とされる存在の名。頼光はただそれを繰り返すのみ。従者の中には顔を見合わせる者もいた。
千年以上も過去の事柄が自分たちに関係があるとは思えず、ヤマメがその名を出した理由も、怒りをぶつけてくる理由も、まるで見出せないのだった。
「そこまで聞いても全然か。やはり貴様らは、」
「いや……待て」
頼光の頭でつながるものがあった。
「待て……そうか、ここは葛城山か?」
事柄と事柄が結びついていく。
「葛城山にはかつて異民族が住んでいたという……その異民族は土蜘蛛と称されていた。骨は彼らのものか。彼らの滅亡は──」
「そうだッ!」
ヤマメが叫ぶ。唇の傷が開き、血が飛んだ。
「神武天皇の東征で罪無き『我ら』は謀殺された! 女、子供も老人も全て! 全てだ! ただそこに生きていただけで、貴様らの支配欲に殺されたんだッ!」
「…………」
「どれほどの恨みかわかるまい! 私に宿った『我ら』の無念は、私だけがわかる! 『我ら』だけが!」
その言葉は、ヤマメの意志で語っているように見えて、ヤマメ以外の者が、いや、『者たち』が語らせているように思えた。
恐らく長年を経て力を得た蜘蛛に、異民族の積もり積もった恨みの念が取り憑いたのだろう。そうして蜘蛛はさらなる力を得た妖怪となった。数々の怨念の集合が、今のヤマメだった。
「言われるがままに惨殺を為した侍どもめ! 侍大将たる頼光こそ真っ先に殺されるべき者だ!」
「逆恨み……」
「何ッ!」
ヤマメに目を剥かせたそのつぶやきは、頼光ではなく従者の一人が発したものだった。
他の従者たちの思いも似たりよったりだろう。千年よりも以前のことに責任など感じようもない。
だが、そんな理屈はヤマメには通らないのだ。現世に留まる膨大な恨みを力の根元とするヤマメには、殺戮の復讐は過去ではなく、今この場、現在のものなのだ。
双方、平行線であり、わかりあえない。
「話すだけ無駄だったな! ああ、殺せよ、今までそうしてきたように。たかが蜘蛛一匹、数に任せれば造作もないだろうさ。私もこの地を捨てて逃げるつもりはない。だが、死ぬときはッ、貴様ら、も……?」
気勢を上げ、襲いかからんとしたヤマメが動きを止めたのは、ふらついて前に出る頼光だった。
病による疲労ゆえか、と思いきや、そうではなかった。
「う……うう……」
「お前……?」
頼光は泣いていた。人目をはばかることなく、大の大人が、侍大将が泣いているのである。
歪む顔から絞り出されるように、こぼれるものがあった。いや、こぼれるといったものではなかった。
目からは涙が滝のように落ち、鼻からは鼻水が泉のように湧き、口からはよだれが川のように流れ──
「って、何その量!? 汚いっ!?」
「やう゛ぁべぇええ~っ!」
「それヤマメって言ってんのっ? よ、寄るな! 近くでしゃべるなっ! うわ、ツバついた!?」
頼光の着ている直垂は様々な体液で濡れまくっていた。加速度的によりベチャベチャになっていた。
気圧されたわけでなくヤマメは後ずさる。従者たちも普段とは違う意味で頼光に近寄りがたくなっているようだ。
頼光はわななく口で、言った。
「じゅぶぁっぷ!」
「何語?!」
言語として成り立ってなかった。
頼光は呼気を整えようと、ビシャビシャと垂れる液体を顔面からグショグショぬぐう。
「ずっ……すっ……」
「何だよ、何が言いたいんだ、お前」
「すまぬ!」
「なっ」
「すまぬっ……すまぬ、ヤマメっ……!」
頼光は謝っていた。侍大将として人に頭を下げたことなど皆無に等しい男が、身も世もない涙に濡れて少女に謝罪しているのである。
「苦しかったろう……! 悲しかったろう……! わかってやれなかった私を許してくれ! 私はっ、」
ズビビッと鼻をすする。
「私はこれまで政敵を、反乱を起こしてきた者たちを、大勢討ってきた。疑問を持たぬとは言わぬまでも、ただひたすらに行ってきたのだ。私は……私は恨まれて当然だ。何もわかっていないというお前の言葉、まさしくその通りだ」
「…………」
「……ヤマメよ、この身命、欲しければくれてやろう。お前の、お前たちの恨みが晴れるなら……」
ヤマメは何も言えなかった。脳内では思考が千々に乱れていた。
世の支配者に対して、それに付き従う者に対して、今まで抱いていた概念が頼光によってひっくり返されている。
ヤマメは何も言えない。頭の中で叫んでいた。
(こいつ、変態のくせに! なんでカッコイイこと言うんだよ! 変態のくせに!)
言葉だけなら虚実関係なく述べることは誰にでもできる。しかし、恥も外聞も捨てて、無様な姿をさらすことを厭わずにできる者はいない。いないと思っていた。
だが、目の前にいるのだった。
その男、頼光は、ヤマメの前で謝罪しながら、服を脱ごうとしていた。
「頼光……、……え?」
服を脱ごうとしていた。
「え?」
というか、上半身は既に裸だった。
「いや、何やってんだよ!」
「我が身命を好きにしていいと言ったぞ。さあ、私の身体を好きに弄ぶがいい!」
「そういう意味?!」
カッコイイとしても、やはり変態であった。
「今この場で! 衆人環視の中で! どのようなプレイでも受け入れるぞ!」
「こっちが受け入れ不能だよ!」
にじり寄る頼光。後ずさるヤマメ。
「お前が女で良かった! 男同士であるならともかく、男と女であれば愛し合うことができる!」
「いいから離れろ! こっち来んなっ!」
歩を進める頼光。後退するヤマメ。
「さあ、私と契りを結ぼう! そうして我が一族の財はお前の財ともなる! 多くの犠牲の上に立つという我が負い目を軽くすると思って! な、頼む!」
「お前のナンパさはそれが動機だったのか?! う、っわわわ!」
ついに走り出す頼光。逃げ出すヤマメ。
目を点にする従者たちの前で、追いかけっこが始まっていた。
これをどう判断していいのか、従者の誰もが戸惑っている。本来、殺し殺されるはずの関係性が、そこには微塵も感じられなかったのだ。
「待て待てー!」
「きゃー!」
侍大将が妖怪少女を追うという光景は、傍目には仲睦まじい親子か恋人が戯れているように見えたことだろう。
でなければ、嫌がる女子を変質者が狙うというヤバい構図だ。
そうして、ついに、ヤマメは大木を背負うという形で逃げ場を失った。
眼前には半裸の頼光。鍛え抜かれた大胸筋が汗だくになって、ヤマメに迫っていく。ヤマメもまた冷や汗がダラダラ流れていた。
「ヤマメよ……」
「ひ、ひぃい?」
「私を受け入れよ。いや、受け入れなくともよい。お前が背負っていた一族の無念、全て我が一族のものとしよう」
「え……」
「富も因縁も共にする。それだけの想いで私は契りを持ちかけておるのだ。お前が吐露した激情は、必ず上奏することをここに誓おう! さらには供養塔を建て、供物を絶やさぬようにもしよう! ヤマメよ、私は本気だ!」
「えっ、うぁ……」
絶句。ヤマメのこの反応は当然かもしれない。こんな、真剣な面持ちでプロポーズされたなら。
真摯な想いはヤマメの心に到達していた。
「ヤマメ……」
「あ、ま、まだ心の準備がっ」
優しく抱きしめようとする頼光を、寸前でかわすヤマメ。
だが、それがいけなかった。
頼光の横に抜けたとき、腰の鞘に当たってしまう。すると、鞘はエンドウのそれのようにパカッと割れ、中から名刀・膝丸が飛び出してきたのだ。
目撃者は後に語る。
『ええ、上半身と下半身を異にする、絵に描いたような一刀両断でした』
「ぎゃぁあああっ、切れ味バツグンーッ?!」
「やまめぇえええええええ!?」
白煙が噴きあがり、妖怪蜘蛛の身体は消失したという。
「よっ、楽しんでるかい?」
むくれているヤマメに声を掛けたのは、青空をバックにした長身のシルエット。彼女を連れ出した張本人が、額の角と同色の真っ赤な酒杯を持って立っていた。 ヤマメ曰く「馬鹿力の力馬鹿」、鬼女の星熊勇儀だ。
そういえばあいつもいいガタイしてたっけな、とそんなことを考えている自分に気づき、一層ヤマメは不機嫌になった。
「あぁ、お陰様で死にそうなくらい楽しませてもらってるよ。天にも昇る気分だね」
「あっはっは、ご挨拶だね。お祭り騒ぎは嫌いじゃないだろうに」
「嫌な要素がデカいし多いし、これなら地獄の方がマシさ。比喩じゃなくってね」
その毒のたっぷり含まれた台詞にも、勇儀はくっくと笑いながら、大杯に徳利酒を手酌で注いだ。いい具合に酩酊しているらしい。
「まあ、間は悪かったかな」
「は?」
「あれだろ、あれ」
顎で指し示すのは、雲上で舞う面霊気の少女だ。
「誰と誰がやるのかってのは、ついさっき知ったのさ。何だかんだ言ってるけど、お前さんの心を乱してんのは、あれが唯一無二の理由じゃないかね」
「む……何でさ」
「つれないねぇ。私たちゃ一年や二年の付き合いじゃないだろうに。──昔を思い出したんだろ」
くぅと酒をあおり、くっくっくと再び笑う。
ヤマメの内部に火がついた。
「ああ、そうだよ! 能面なんか見たくもないんだ! あんな黒歴史、勝手に舞台化しやがって! 何百年と無様な負けシーンリプレイされるこっちの身にもなれっての!」
「あっはっはっ」
「笑い事じゃないよ! かたきを取ってやるとか言ってさ、橋姫もあんたも返り討ちにされるし!」
「うん、ま、そいつはすまなかったね。けど橋姫は許してやりなよ。あの安倍清明にまで出張られちゃあさ」
負けシーンを物語にされたのは私らも同じだし、との事実を添えられ、内部の火勢が弱まった。
ただ、敗戦のはずなのに朗らかに語るのは、いかに楽しい戦いであったかを表現するようで、どうにも腹立たしさは残ったが。
ヤマメは口先を尖らせて言う。
「軽傷で済んだそっちは気楽でいいよ。こっちは身体が消失しちゃって復活にどれだけ時間が掛かったか」
「ふふっ、ようやく身体が戻ったら、平安どころか鎌倉の時代まで終わってたんだっけ? 浦島太郎もかくやだな」
「金太郎にやられた身でよく言うよ」
「頼光四天王のあいつか。強かったな、真っ正面からぶつかったときはそりゃあ……ああ、まあ、その話は置いといてさ、今に至ったらさすがにもう気楽に考えていいんじゃないか? 侍はいなくなったし、天皇だって謀殺されたり利用されたりと辛酸舐めさせられてきたんだ。お前さんが復讐する必要はなくなったろ」
「ふん、どうせ幻想郷からは何にもできやしないよ」
「そうそう、勝ちも負けも彼岸の彼方さ」
勇儀は雲海の地平線を眺めやる。蒼穹と交わるそこは光に霞んでいた。
ややあって、笑みが悪戯めいたものに変わる。腰をかがめてヤマメの近くに顔を寄せた。
「でもさぁ……ヤマメ、」
何?と怪訝な目つきの少女に言う。
「なんだかんだで気に入ってたろ、ライコーのこと」
「?!」
「あいつが立てた供養塔、よく見に行ってたもんなぁ。十分堪能してから幻想郷に来たようだけど、後ろ髪引かれてたのはよぉく見て取れたよ」
「なっ、なっ、あっ」
「あっはっは、まさか蜘蛛が人間の男に絡め取られるなんてね! 古今東西、前代未聞さ。恋愛物として語り継がれないのが実に惜しいよ、ははははっ」
笑声を前に、ヤマメは顔を真っ赤にして口をぱくぱくさせていた。
ツンデレさんめ、との頼光の声までリフレインする。
そうして酸欠の金魚をしばし演じていた後、ようやく両手で勇儀の大杯をつかんで奪い取った。
「おっ?」
それを勇儀に突き出して怒鳴るように言う。
「酒! たっぷり注いで! 早く!」
「はいはい、お気に召すまま」
手元が揺れないように笑いを抑えながら、勇儀は酒を注ぐ。(こりゃ相当へべれけになるな)と思うと、また手元が危うくなった。
fin.
SSは楽しいのが一番好きです
まさかと思うけど、頼光以下四天王みんなこんなんじゃないよね……?(期待半分怖さ半分)
やはり、 ア ン タ かよw
けど、下ネタで涙ちょちょ切れて笑わせつつ、マジな場面ではきっちりとマジ展開させたかと思えば、また大笑いさせつつ爽やかに話を締め括るのは誰にも真似出来ないよな(実際あれだけギャグとシリアスを交錯させているけど、話の軸がぶれていないものね)。次回作を楽しみにしています。
最初から全力で頼光押しでも良かったくらいのインパクトでした
歴史上の人物ですが、それをオリキャラ風に仕立てあげ、しかも受け入れられる層には本当に面白いと感じさせるキャラ作りには本当に脱帽ものです。ギャグってやっぱりセンスだなぁと改めて思うのです。
シリアスとギャグの風味については、私の個人的な感覚ですが、割合だと2:8くらいのギャグメインであったように感じました。シリアスもそこそこには感じましたが、やはり楽しさ、面白さという感覚は、暗い感覚よりも優先して立つものではないかなと思うのです。しかし相反するようなテーマを両方バランス良く使って作品を創り上げたという意気込みは、それだけでも賞賛に値するのではと思います。
最後に、らいじう氏の作品はご自身のおっしゃる通り確かに人を選ぶ作品かもしれませんが、その独創的なストーリー感には、それにハマってしまうコアなファンが出来るほどなのだと述べておきます。
長文失礼しました。あなたの次回作を期待しています。