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#01
草の竪琴が奏でられるその世界で、雲居一輪は鈴奈庵の暖簾を潜る。風鈴が客の来店を告げ、陽差しと蝉時雨が遠ざかってゆく。店番の少女がうたた寝から目覚め、はにかんだ笑みをこちらに向けた。
「いらっしゃいませ。……すみません、寝不足で」
「邪魔しちゃった?」
「お構いなく。飲み物をお持ちしますね」
奥に引っ込む背中を見届けてから、頭巾を脱いで額の汗を拭った。帳台に鎮座する蓄音機に眼を留めて、流れゆく旋律に耳を澄ませる。繰り返されるメロディ。空の彼方まで昇ってゆけそうな気だるさの染み込むヴォーカル。
お盆にラムネを載せて本居小鈴が戻ってくる。礼を述べてからグラスを受け取り、喉を潤した。
「ありがとう、悪いね」
「お得意様ですから」
「今掛かってる曲ってさ」
「ああ――」小鈴がグラスを置いた。「たまには洋楽も好いかなって思いまして。数は少ないですけど、どれも名盤ですよ」
「天国への扉?」
「そうですそうです。ボブ・ディランの『ノッキン・オン・ヘヴンズドア』――」
小鈴が眉を上げて、一輪の法衣を凝視する。「……失礼ですけど、好くご存じでしたね」
苦笑が漏れてしまった。「これしか知らないのよ」
「前は何処で聴かれたのですか?」
口の先まで出かかった言葉を留めて、控えめに答える。
「――……子供の頃に、ね。色々あって」
小鈴もそれ以上は訊ねて来なかった。両手をエプロンの前に組んで、上目がちに見つめてくる。
瞳を閉じて曲が終わるまで立ち尽くす。メロディを追って自然と唇が動いている。指先は帳台の木目でリズムを打っている。
小鈴がおずおずと云った。「よろしければ、リピートしておきましょうか」
「うん、ありがとう」
子供達に読み聞かせるための説話集。“入道屋さん”と呼んでくれる彼らの笑顔を思い返しながら、一輪は本棚を巡っていった。同時に思い出されるのは、ディランの音楽が導いてくる風景のことだ。地平線まで続いている荒野。硫黄の臭い。塵芥。草木の生えない不毛の大地。そして、見棄てられた無人の廃墟。
視界にふと、ある書物が映り込んだ。和綴じで製本された六巻組の書は、一輪も好く知る名著だった。
「ここって『教行信証』もあるんだ」
別の本棚から、小鈴が子猫のように顔を覗かせた。「親鸞上人の大著ですね。読まれるんですか?」
「うちとは宗派が違うわね。教養として、姐さんから教わりはしたけれど」
「悪人正機、ですね」
頷きを返して、言葉を記憶のタンスから引っ張り出す。“善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや”と。
ディランの声が遠ざかってゆく。
ノック、ノック、ノッキン・オン・ヘヴンズドア。
フェード・アウト。
再び、天国への扉が叩かれ始める。
#02
帰り道に里の外れを散歩していると、ナズーリンと会った。彼女はロッドを手に川沿いを歩いていた。
「これから邪魔するところなんだ。いつもの監査でね」彼女は云った。「ご主人はどうだい、上手いことやってるかい?」
「暑さでへばってるわよ」
ナズーリンが腕を組む。「活を入れてやらないとな。うちの連中も駄目だね。地下に潜ってしまって、号令をかけても集まりやしない。おかげで私自ら宝を探す羽目になってる」
「収穫は?」
「ゼロ。何もかもこの陽射しのせいだ」彼女は晴天を恨めしげに見上げた。「……今日はもう諦めようかね」
「そうしなさいよ。倒れられたら面倒だし」
「大きなお世話だ。――で、どうする? 荷物なら少しは持つが」
「ありがと。でも、後少し散歩してくるわ」
一輪は足を踏みかえた。地面に蟻が何匹か歩いていた。
「ナズーリンさ」
「うん?」
「悪人正機は知ってる?」
「まあ、教わりはしたが」
「悪人の自覚があればこそ、衆生は皆救われる。それならさ、妖怪はどうなんだろ。祈りさえあれば、妖怪だって救ってもらえるのかしら」
「分からん。流石の親鸞上人も人外についてコメントを求められることはなかったろうしな、当たり前だが」
「そう、よね」
「だからこそ我らが白蓮和尚がいるんじゃないか。――大丈夫かい、暑さで頭が耄碌してるんじゃないか。地底暮らしに夏の猛暑はきついだろうしね」
それこそ大きなお世話だった。横目で睨んでやったが、彼女は何処吹く風だった。
「地底云々で思い出したが、――船長の奴、また懲りずに三途の川に行ってるぞ。避暑としてはうってつけだが、後で閻魔にどやされるな」
「あの子には必要なことだから」
「水が?」
首を振った。「溺れること。少しだけ死ぬことよ」
空の上で昼寝をすることが、数少ない生き甲斐のひとつだ。
雲山の背に横になっている内に、下手すると夕暮れ近くまで寝込んでしまうこともある。暇さえあれば、いつも空の青を求めてしまっている。ちょうど舟幽霊の少女が水底の青に焦がれるのと同じように。
今日は、あまり寝心地が好くなかった。
ナズーリンと別れてからも、思考は巡り続けている。頭がやかましくなって、雲山に言葉を手渡してしまっている自分がいる。
――そうよね、聖様がいるってのに。私ったらまた馬鹿なことを考えていたのかもしれない。……でも、ねえ、雲山なら分かるでしょう。懐かしいと振り返るには、あまりに永すぎたのよ。村紗だってそう。手応えが全然ないんだ。ある朝に目が覚めたら、周りにあるのは岩ばかり。今ある日常の全てが夢だったなんて日が来るんじゃないかって。
いつになったら扉は開いてくれるのだろう。
それから、いつの間にか眠りに落ちていた。雲の流れのように、波の満ち引きのように、交響曲のリフレインのように、繰り返し訪れては去ってゆく夢が、ディランのメロディに乗って頭の隅々にまで染み込んでくる。
どれだけ遠くまで離れても、私達は繋がっている。真っ黒な糸で。あの世界で、あの時間を過ごしたという記憶で。彼女もまた、川の水底で同じ夢を見ていることを想いながら、雲居一輪は空へと沈んでいった。
#03
「火衣(ひい)が」水蜜が云った。「ついさっき……」
頷きを返して広場に視線を戻した。水蜜が腰を下ろし、二人は隣同士になる。言葉はなく、事実だけが漂う。罪人達の悲鳴と絶叫が、溶岩流から立ち昇る蒸気のように絶えることなく岩盤まで召されてゆく。獄卒達は容赦をしない。硫黄の臭いが立ちこめる薄暗い大地の上で、永遠に責め苦を続けてゆく。両手に罪人を抱えた牛頭(ごず)が、彼らを煮えたぎった釜の中に放り込み、手足を縛られ大の字にされた者の肉片を、馬頭(めず)が鉈でスライスしては咀嚼している。針の山、焼けた鉄板、車輪砕き。器具には事欠かない。罪人は虐殺されては蘇り、復活してはまた殺される。
その様子を、一輪と水蜜は崖の縁から見下ろしていた。熱気を失ったコロッセウムの観客のように。
「……分かったわ」言葉を探した。「私がやっておくから、村紗は休んでて」
「ありがとう」
舟幽霊が細い声で答えた。元の色も分からない着物が包み込む身体は、痛ましく痩せている。骨が浮き上がり、頬がこけている。それは自分についても同じことだった。立ち上がって“聖輦船”へと足を向ける。途中の岩場を乗り越えているところで、雲山が傍まで降りてきた。身体を膨らませたので、事の次第を話した。
「ええ、……息を引き取ったって」
彼は顔を上下させた。
「埋めるから、悪いけど手伝って」
聖輦船は無数の鎖で縛られて、血の池地獄に浮かんでいる。甲羅の入り口を塞がれた亀のように、身動きが取れない。飛翔して船倉に入り、火衣の遺体を確かめた。もう元気だった頃の彼女の顔を思い出せない。記憶が擦り切れていたし、何十年も寝たきりだったのだ。まるでミイラのようだった。一輪は顔をそむけた。
船の裏手の岸に埋葬し、手のひらを合わせる。
「ありがとね、私ひとりで掘り返せれば好かったんだけど」
雲山は顔を横に振った。
「……私達だけになったわね、とうとう」
墓石は用意できなかった。せめてもの墓標にと、形の整った石を数個寄り合わせて、目立つような工夫をした。そうした出来損ないの土饅頭が、火衣の傍に数十と並んでいる。経を唱えることはしなかった。文言自体は覚えている。その意味するところが、どうしても思い出せないのだ。忘れじの言葉は空しい。墓標を撫でて彼女から背を向けた。
獄卒達が去った後の広場に降り立ち、虐殺の跡を確かめてゆく。散らばった肉片を両手でかき集める。落ち穂拾いの老婆にでもなったような気分だった。硫黄と血煙が混じり合って、鼻がまったく利かなくなる。岩場を降りてゆき、溶岩流の縁に近寄った。雲山に肉片を手渡して、熱で丹念に炙ってもらう。その間に方々を廻って血針草をかき集め、脂を落とした肉に巻きつけた。
肉塊を持ち上げる。何処の部位かも分からない名も無き蛋白源。火衣が亡くなってから一刻と経たずに、もう腹を満たそうとしている自分の姿について、考えを巡らせようとした。それも結局は詮無い試みだった。焼かれた肉を口に押し込んで、咀嚼してから飲み込んだ。
広場を横切って聖輦船に帰る。血や臓物を踏みつけて、危うく転んでしまいそうになる。休もうとして岩場に寄りかかり、そのまま眠るように亡くなってしまった仲間のことを、何故か思い出してしまった。彼女の遺体を発見したのも水蜜だった。崖からもう一度、広場を見下ろす。かつて眺めた合戦跡のような風景だった。引き裂かれ、喰い千切られ、磨り潰された罪人達の骸が、無造作に打ち棄てられている。救済はない。恩寵もない。真っ赤な色をした暴力だけが、泥のような重みを湛えて視界いっぱいに広がっていた。
#04
講堂に光は差さない。聖輦船の腹は穴だらけだ。もう永い間、修繕の手は停まってしまっている。本尊も失われている。正しくは、ここには居ない。舟幽霊が隅っこで膝を抱えているのが見えた。三歩ほど離れた柱に背中を預けて、板敷に腰を落ち着けた。
「……村紗」
「終わったの?」
「ええ」
「ありがとう」
「ご飯は」
「欲しくない」
「そう」
「うん」
マリン・ブルーの瞳がこちらを向いた。瞼が半分閉じられている。焦点が合っていない。どうしたの、と声を掛けると、水蜜は再び顔をうつむけた。
「私、……ずっと黙ってた」
「何を」
「話したら一輪、私のこと――」
「隠すことなんて、今さら何もないわよ」声を出すのにも、気力が必要だった。「全部話して、すっきりしなさいな」
「殺したの」
視線だけを彼女に向けた。舟幽霊は左右の手のひらを凝視していた。餓鬼のように細まっているために、指が異様に長く見えた。
「私が、――殺したの」
「あの子を?」
「火衣だけじゃない。人数なんて、覚えてない」
「“殺して欲しい”って、頼まれたの?」
「あれ以上、見ていられなかった」両手で顔を覆う。「本当のことは分からない。殺したくて殺したのかもしれない。もう助からないのだからって自分に云い聞かせて、お腹を満たしたかったのかもしれない……」
「――知っていたわ、ずっと前から」
水蜜が顔を上げる。目線をそらして答える。「分からないはずがないじゃない。皆揃って首に跡が残っていたんだし。楽にしてあげたかったんでしょう? そう考えなさいよ。私もそう受け止めるから」
「でも……」
「妖怪の性(さが)がどうこうってんなら、それでも好い。私だって同じだから。だって姐さんは――」云いかけて、云い直した。「誰かさんは云ってたわ。“ひとを怨むな、ひとを喰らうな”って。……何ひとつ守れてないわよ。守れてないからこそ、今もこうして生きてる」
水蜜は嗚咽を漏らした。涙は流れていなかった。涙をこぼすだけの海水が、彼女には枯渇しているのかもしれない。立ち上がって背中をさすってやってから、その場を離れた。外に出るまで、泣き声が後を追いかけてきた。
責め苦の広場とは方角を変えて、マグマの渓谷を抜けると、その先に広がるは地平線まで続いている茫漠とした荒野だった。何もかもを溶かし尽くす液体がぶちまけられて、世界を更地に変えてしまったかのように、褐色の大地の他には何もない。恐らくあの地平線を越えると、また別の地獄が永劫に広がっているのだろう。何の起伏もなく、何の潤いもない。放射された熱気が陽炎を呼び起こして、景色を揺らめかせている。そしてもちろん、その靄(もや)を取っ払ったところで、心の浮き立つような眺望は何処にも存在しない。無限に引き延ばされた時間の迷宮に、入口も出口も存在しないのと同じように。
#05
障子を開けて陽の光を取り込むと、金堂の空気も心なしか明るくなったように思える。畳の掃き掃除を終えて、井戸の水汲みも済ませた。後は日の入りが近づくまで、ひたすらに経を唱えるだけだ。寅丸星は本堂の板敷に胡座をかき、膝の上に経典を広げてから、ぜんまい仕掛けの人形のように読経を続けた。
昼過ぎになって来客があった。蝉時雨に背中を押されて入ってきた少女は、笠を脱いで頭を下げた。
「久しぶり、ご主人」
「お疲れ様です。好く来ましたね」
「暑いったらありゃしない。水があれば嬉しいんだが」
「お持ちしましょう」
ナズーリンは井戸水を美味しそうに飲んだ。それから用件を話した。
「戦火が広がってる。そろそろこの辺りもきな臭くなるよ。今のうちに荷物をまとめて逃げた方が好い」
毘沙門天様も心を配っておられる、と彼女は付け加えた。
「ここに盗られるものなどありませんよ。大丈夫です」
「分かってないな、ご主人。連中は流浪の悪党だ。飢饉と戦乱で焼け出された下層民だよ。奴らに話し合いは通じない。宝があろうがなかろうが、容赦なくご主人を殺してバラバラにして、煮えたぎった鍋の中に放り込むぞ」
柱に寄りかかって腕を組んだ鼠の少女は、横目にこちらを見据えていた。どう答えを返したものか、と星は姿勢を崩した。
「……知らせて下さり感謝します。でも、私は此処に留まります。身を捨てることになっても、構いません」
「自暴自棄にでもなったのかい?」ナズーリンは柱から身体を離した。「それとも大陸の故事に習って、みすみす獣の餌食になるつもりなのか? 身を捨てて虎を飼うって、――“虎”は君の方じゃないか」
「悪い冗談ですね」
「分かった、もうはっきり云わせてもらうよ」
彼女はダウジング・ロッドで肩を叩きながら、目の前にしゃがみ込んだ。紅い瞳は陽光を湛えて、眩しいほどに輝いていた。
「――毘沙門天様に宝塔を返すんだ、ご主人。唯の妖怪に戻って野に還るんだね。後は好きなように生きたら好い。それがいちばん賢いやり方だよ、たったひとつの」
「お断りします」
舌打ちが転がった。「あれからどれだけ経ったと思ってるんだい。未練に憑かれてとり殺されちまうぞ」
「未練などありません」
「――死にたいのか、それとも」
「…………」
「取り付く島もないな」
ナズーリンは首を振って立ち上がった。日差しの降り注ぐ世界に帰っていった。
星は、その背中に呼びかけた。「心配してくれてありがとう、ナズーリン。貴方こそ、どうかお気を付けて」
少女は答えなかった。
#06
日が暮れる。夏の夕焼けだ。木々の葉が色を失ってゆき、やがては夜空から切り取られたシルエットになる。空のグラデーションは紺の色合いを深めてゆく。縁側に腰掛け、腹に宝塔を抱きながら薄雲を眺めていた。毘沙門天から賜った宝は、既に輝きを失って久しい。もう二度と光を取り戻すことはないだろう。風鳴りは虫の慟哭に飲み込まれ、夜の帳(とばり)が下りていった。
ナズーリンが述べたところの“連中”が現れたのは、もう真夜中に近づいた時分のことだった。隠れる暇もなかった。気がついた時には、彼らは既に寺の伽藍に踏み込んでいた。廃寺に誰かが居るとは思いもよらなかったのかもしれない。ねぐらに使おうとしていただけだったのかもしれない。一瞬のためらいと沈黙があった。野太刀を引き抜いて、彼らの内のひとりが砂利を踏みしめて歩いてくる。星は縁側から立ち上がることもせず、月明かりを受けて輝きを放つ刀身を、黙って見つめていた。虫の音は止んでいた。宇宙の次元を飛び越えたかのように、時間という時間が拡大され、潰れた粘土のようにひしゃげて感じられた。胸の底で火花が飛び散り、両眼を見開いていた。振り上げられた刀が、居待の月を両断するかのように分かつのが見えた。
次の瞬間、星は猛烈な勢いで前方に飛び出して、相手の懐に突っ込んだ。両手をあらん限りの力で突き出して、宝塔の先端を腹に喰い込ませた。血しぶきが顔に降りかかり、輝きを失った宝玉を真っ赤に染め上げた。苦悶の声を漏らすことさえ出来ずに、彼は地面に仰向けに倒れた。痙攣する肉塊から眼を離し、呆然と月を見上げる。懸命に今の瞬間を振り返ろうと頭を巡らせる。月に映り込むようにして脳裏を翔け抜けた彼女の横顔。それは既に遠くへと去ってしまっていた。記憶は再び、濃い霧に包まれた。
だが、それだけで充分だった。
人びとは得物を構え直した。そこにあるのは感情の失われた、純粋なまでに研ぎ澄まされた殺意だった。話し合う余地などない。ナズーリンの言葉が実感として胸に染み込み、不穏なさざめきを残して消えた。無駄であることを悟りながらも、星は懇願するように訴えた。
「ごめんなさい。私は生きたい。……生きなければならないのです」
#07
獄卒の街の露店で、雲居一輪は酒を飲んでいた。時おり振り返って暖簾をたぐり上げては、熱風の吹き溜まる往来に眼を凝らした。罪人の肉の串焼きを口に含み、時間をかけて咀嚼する。昔ながらの濁り酒の味わいは、いつもより苦く感じられる。
顔見知りの牛頭と馬頭が、肩を並べて暖簾を潜ってきた。汗と血肉の臭いが鼻孔を突き上げてくる。
牛頭が鼻を鳴らした。「……雲居の姐さんか」
「その呼び方、止めて」
「ご無沙汰だな」
「仲間がまた死んだの。飲まないとやってらんないのよ」
「おう、そりゃ災難だ。地獄行きにならないことを願おうじゃないか」
馬頭が笑えないジョークを飛ばして、白骨の杯(さかずき)を呷った。
「じゃないと俺達が仕事をする羽目になるからな」
「それなんだけど」再び往来を振り返る。「どいつもこいつも慌ただしいわね。何だか落ち着かないって云うか」
二人は凶悪な鼻面を突き合わせた。店主のされこうべが塩焼きを出してから、謎の答えを教えてくれた。
「知らなかったのかえ、異動だよ」
「異動?」
「あい、あたしらみんなね。ここを引き払って別の管轄に入るんだと」
「あんたらも?」
牛頭は出来損ないのふいごのような口笛を吹き、馬頭は夢中で塩焼きにかぶりついている振りをした。
「――みんな居なくなっちゃうわけ?」
「そうさね。閻魔様方のご指示だから。家財もみんな残して、最低限の荷物だけ携えて撤収だそうだよ」
「急な話ね。なんでまた――」
「どうせ銭が無くなったとか、下世話な理由に決まってらあ」馬頭がグラスを置いて云った。「俺達の給金はどうなるんだろうな、ええ?」
「あたしも今日で店じまいですわ。気に入ってたんだけどね、ここ」
されこうべは頭を振った。残り僅かな歯がぽろぽろと落っこちた。
骨の杯を見下ろす。自分が飲んでいた酒が、突然に今生で最期の一杯に化けたような気持ちだった。事実、そうなのかもしれない。背が丸まり、呼吸が乱れた。溶かした鉛を腹に流し込まれたかのように。
「ま、――姐さんも達者でやってくれや」
「自殺だけは止めとくんだな、碌なことにならんから」
「ありゃ最後の手段だ」
「永劫回帰だ」
「この街も見納めだな」
「寂しくなるなあ……」
好き勝手に語り合った後、二人は懐から小袋を取り出した。罪人の皮をなめして加工された代物だ。差し出された皮袋を、一輪は横目で睨みつけた。
「要らないわよ、そんなもん」
「まあまあ、餞別と思って受け取ってくれや」
「馬の餞(はなむけ)だな。馬頭だけに」
「そこまで落ちぶれてないわよ」
牛頭は肩を揺すって笑った。「もう堕ちるとこまで堕ちてるじゃねえか。これは俺達なりの“慈悲”って奴さ。仏様の教えよりも、よっぽど現実的で即効性がある」
「姐さんが要らないんなら、あの舟幽霊にプレゼントしてやれよ。ありゃ相当にきつそうだったからな。景気づけには丁度好いさ」
無理やり袋を受け取らされた。柔らかで滑らかな感触に、鳥肌が立つのを感じた。されこうべは見て見ぬ振りをしていた。勘定を済ませると、牛頭と馬頭は別れの挨拶もせずに去っていった。
頭が廻らなかった。杯を前に押し出した。
「……お酒、まだある?」
「さっきのでお終いだよ」
お終いだよ。
されこうべの声が、飯台に空しくへばりついた。
#08
聖輦船の船首に腰かけて、パイプを口にくわえ、日がないち日を過ごす。それが村紗水蜜の日課と呼ぶべきものだった。葉っぱはとうの昔に切らしていたから、吸い口には噛み跡ばかりが残った。
獄卒達が去り、街の明かりはひとつ残らず消えた。世界の風景は徐々に様相を変えつつあった。罪人の悲鳴は途絶え、気温が低下し、硫黄の臭気が引いてゆく。まるでひとつの生命の終わりを、枕元でじっと眺めているかのような心境だった。血の池地獄に浮かぶ鎖に縛られた船だけが、変わらないままに存在している。
今、水蜜は一輪が持ち帰ってきた皮袋を手の中で転がしている。眠っているところを失敬してきたのだ。彼女はパイプを吸わないから、問題はないはずだった。中身は刻み煙草のように見えた。本当に久しぶりの嗜好品だ。ランプの火を移して、火皿に詰めた葉が煙を上げるまで待った。ひと口、肺の奥まで吸ってから、身体中の空気をかき集めて吐き出した。夏の猛暑にさらされた砂糖菓子のように、脳がとろけてゆくような感覚を味わう。甲板の縁を握りしめて、バランスを取ろうとする。
身体が浮き上がるかのようだった。岩盤をすり抜けて、地上まで昇ってゆけそうな気がした。首が据わらなくなり、ブランコのように前後に揺れる。岩という岩がアメーバのように輪郭を失う。ランプの光が虹色に輝いて、火山の噴火のように爆発的に拡散していった。二度と浴びることはないと思っていた、太陽の光だ。唇の端が緩んで、涙が頬を伝った。指の先から力が抜ける。地軸をへし折られて、世界が真っ逆様になる。着水の音も、そして衝撃も感じなかった。まるで羊水に包まれているかのように居心地が好かった。血の池地獄も、今の水蜜にとっては海も同然だった。
瞼の裏に光があり、温もりがあり、そして優しさがある。天国への扉を叩いている。誰かが自分に向かって手を差し伸ばしている。微笑みを浮かべた彼女の表情を、瞳の奥で感じている。どうして忘れてしまっていたのだろう。絶対に忘れてはいけないと誓った、大切なひとの筈だったのに。水蜜は懸命に手を握り返そうとした。沈みゆきながら、失われた生活の断片を拾い集めていった。必死でしがみついた。温かい食事があり、暖かい笑顔がある。それだけのこと。本当にそれだけのことなのに。残照さえも血の色が覆い隠してゆく。彼女の姿も飲み込まれてしまう。
やがて、何も見えなくなった。何も聞こえなくなった。
#09
聖輦船を隅々まで探したが、水蜜は何処にもいなかった。引きずるようにして足を動かし、獄卒達が去った後の無人の街を歩き回った。彼女は消えてしまっていた。代わりに漂うは怨霊ばかりだった。罪人達の成れの果てが、地獄の成れの果ての世界を跳梁している。行きつけだった露店に誰かがいた。水蜜ではない。最初に二本の尻尾が視界に映り込んだ。丈の短い、血で染められた水干を身にまとっている。
彼女が振り返った。燻製にされた肉が、口の端からはみ出していた。
「なんだい、お前さんは」
「それはこっちの台詞よ」
「名前なんてないよ。ただの火車さ」
「みんな出払ったかと思ってた」
「みんな?」彼女は肉を飲み込んだ。「あたいは獄卒じゃないよ。居残り組さ。ここなら好きなだけ怨霊が喰えるし、好いことずくめさね」
「私と同じくらいの背格好の女の子、見なかった?」
「知らないね。それよりさ、お姉さんのこと聞かせてよ」
「話すようなことは何もない」
「見たところ妖怪みたいだけど、変わった臭いがするねぇ」
「元人間だから」
「そりゃまた――」彼女は云い淀んだ。「ま、いっか。どうぞよろしくね。これから永い付き合いになりそうだ」
「…………」
「お姉さんが死んだら、そん時は死体を頂いても構わないかい?」
「……死んだら、ね。綺麗に食べてよ、お願いだから」
「もちろん」
火車の少女は牙を剥き出して笑った。
雲山と手分けして、来る日も来る日も水蜜を探し続けている間に、世界は色を失っていった。溶岩流は冷えて固まり、僅かな明かりさえもが遠くなる。冬の夕暮れのように薄暗く、地獄は暗渠に沈んでゆく。肌の元の色さえも分からなくなる。
ある日、溶岩の流れていた渓谷を抜けてゆくと、地平線の果てまで続いていた荒野が跡形も無く消滅していることに気がついた。迷路のように曲がりくねった横穴と、群青色の岩壁がそびえ立つばかりだった。視野が急激に狭くなったように感じた。獄卒達が去ったことで、この場所は地獄としての機能を失ってしまったのかもしれないと、ふと考えた。旧き地獄は、ただの地の底へと姿を変えつつある、と。
――裏を返せば、私達は本格的にこの星から見棄てられた訳だ。
そのことに思い至ってから、倒壊した家屋のように身体が使い物にならなくなった。支柱という支柱がぽっきりと折られてしまったような気持ちだった。聖輦船の甲板に横たわって、何も食べずに、何も飲まずに、気の遠くなるような時間を過ごした。それでも、終わりは訪れなかった。死は遠かった。
#10
誰かに顔を覗き込まれていた。紅い髪が見えた。とうとう例の猫耳が喰らいに来たのかと、最初は思った。横っ腹を爪先で小突かれたから、足を振って蹴り返してやった。
「――っと、なんだ、生きてるじゃないか」
「……ご生憎様。食べるってんなら、もう少し待ってちょうだい」
「妖怪を喰らう趣味なんてないよ」
眼を凝らした。牡丹の咲いた袴を着て、肩に馬鹿でかい鎌を携えた少女がいた。唇の端を曲げて、こちらを見下ろしている。
「……死神さん? お迎えに来たわけ?」
「お前さんに用はない。ちょいとした調査に来ただけだよ。人手が足りなくてね」
「へえ」
「これから報告に帰るところなんだけど――」彼女が顔を覗き込んできた。「どうだい、……もう諦めて、こっちに来る気は?」
「点数稼ぎかしら」
彼女は傷ついた顔をした。「ただの善意だよ。本当は管轄外だけど、まあ大目に見てもらえるだろうさ」
「私を殺すことが、あんたの“善意”ってわけ?」
「分かってないね。お前さんはもう死んでるんだよ。ここは今や地獄ですらない。この世でいちばん孤独な牢獄だよ。いつまでもしがみついてないでさ、楽になった方が好い。うちの上司は苦しみ抜いた奴を粗末には扱わないよ、たぶん」
「話が長いわね。放っといてよ」
死神が傍にしゃがみ込んだ。
「わが身世にふる、ながめせしまに。絶世の美女だって、死体になれば禽獣に喰い荒らされるだけさ。……なぁ、自棄になるんじゃないよ」
一輪は、これまで自分が喰らってきた罪人の山を思い返した。彼らの肝を肴に、骨の杯で浴びるほどの酒を飲んできた。下される裁きは間違いなく“黒”でしかない筈だった。ここで死んだところで、また別の地獄に堕とされることになるのは目に見えている。それも今度は自分が責め苦を受ける番になる。繰り返し、永久にそれが続く。
喉の奥が絞られるのを感じた。嗚咽に似た潰れた吐息が漏れた。死神の大鎌を見上げる。抵抗する力は何処にも残っていない。逃げることさえ叶わない。殺れるものなら殺ってみろと、睨みつけてやることしか出来なかった。
彼女は立ち上がり、溜め息をついた。
「善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや。自覚があるのなら、それだけで充分だよ。だから、お前さんもきっと――」
言葉は続かなかった。死神が横様に吹っ飛んで、船縁に頭から突っ込んだ。雲山が拳を振り回しながら傍に寄り添う。彼の怒りに燃える表情を見るのは、いつ以来だろう。
鎌を杖に死神が立ち上がる。「……もういい。好きにしなよ」
彼女が去ってから、雲山は膨らませていた身体を元の大きさに戻した。夏の入道雲のように白かった彼の身体も、今では元の色も分からないほどに変わり果てている。
「……雲山」一輪は呟いた。「ありがとう。でも、やり過ぎよ」
彼は気遣わしげにこちらを見下ろすばかりだった。
「ええ、ごめんなさい」着物の袖で目尻を拭った。「私、生きるよ。最期まで生きてみせるから、そんなに哀しい顔、しないでよ」
#11
ナズーリンは寺の境内に降り立った。敷石から好き放題に草が生えており、屋根はところどころに穴が空いている。流石の主人も本堂の掃除だけで気力が尽きているらしい。方々を確認しながら寺の裏手に回る。そして、そこに広がる光景を見て足が凍りついた。蝉時雨が遠ざかり、気温が零下まで下がったように感じられた。
縁側に寅丸星が呆然と腰かけていた。乾いた地面でも吸収し切れなかった大量の血が、彼女の足元まで達していた。
「……何やってるんだい」声が震えた。「何をやったんだい、ご主人」
「すみません、ナズーリン」
彼女は視線をうつむけたまま答えた。胸に抱かれた宝塔は赤黒く染まっていた。肉片が端にこびり付いているのが見えた。
「毘沙門天様から頂いた法具を、汚してしまいました」
「いや、それは好いんだ。――いやいや全然好くないが、取りあえず今は好いんだよ。それよりこれ、……みんなご主人が殺ったのか?」
星は頷いて、両手で顔を覆った。下手な化粧でも施したかのように、その爪も紅の色に染まっていた。
「私は、やはり虎でした」彼女は呟いた。「あの王子のようには、なれませんでした。虎は、何処までいっても虎だったんです。私は、ナズーリン、――私」
「落ち着け。宝塔が奪われずに済んだ。それが分かっただけでも何よりだよ。……ああ、びっくりした。尻尾が抜けるかと思った」
「このひと達は、生きたかったんです。生きるために殺して、食べていたんです。それだけだったんです」
「それを云うなら私だって同じだよ。毘沙門天様に拾われる前の生活なんか、そりゃ酷いもんだったよ。知ってたかい、鼠の平均寿命は――」
言葉が途切れた。猛烈な血の臭いに、腹がぐうっと鳴ったのだ。配下の鼠が、笠の上で落ち着かなげに身じろぎしている。唇の端をひん曲げて、ナズーリンは腰に手を当てた。
「……ところでご主人、死体の処理は私に任せてもらっても好いかい?」
人肉の調理は炙り焼きに限ると、かねてよりナズーリンは信じている。先走って火傷しそうになる鼠達を宥めながら、皿に山盛りにした塩焼きを主人の許に持っていった。縁側に座ったまま、星は奇妙な表情でこちらを見ていた。
「ご主人も食べるんだ。力が出ないぞ」
隣に腰を投げ落とし、主人との間に盛り皿を置く。
「……いいえ、私は遠慮しておきます」
「もう神徳は失われてるんだ。痩せ我慢して飢え死にしても好いのか」
「しかし――」
「殺したのはご主人だろう。責任を取るんだ」
「戒律が――」
「戒律なんかで飯が喰えるか」
彼女は絶句した。差し出された串を、呆然と見下ろしている。
「ナズーリン、貴方ってひとは」
味わい深く咀嚼しながら、答えを返す。「……私は毘沙門天様の使い走りだ。だが仏法に帰依してる訳じゃない。鼠は虎と違って、その資格さえ与えられないんだな。だからご主人、これ以上贅沢を云わないでくれ。いざという時のために、泥を啜ってでも生き抜く気概と体力を養っておいた方が好い」
ひと息に云い終えてから、喋り過ぎたと反省した。だが効果はあったようだ。星は肉の匂いを嗅いでから、ひと口に平らげた。顎を動かしてゆくにつれ、染み出す肉汁と同じように、涙もまた次から次へと瞳から溢れた。彼女は声を殺して泣いていた。独りきりの妖怪の姿が、そこにはあった。
ナズーリンは見て見ぬ振りをしていた。苦し紛れの声が喉奥から込み上げてきた。
「――毘沙門天様は、あくまでも人間のためにあられるんだ。最後の最期の決断を迫られた時、あの方は、――妖怪の味方をされるわけにはいかなかったんだ。どちらがより信心深いかじゃない、どちらの正義がより最大多数の調和をもたらすかを鑑みたんだよ。今は、あの方も悔いておられる。口にこそ決して出さないが、…………」
声は続かなかった。寅丸星は嘆き続けていた。その嗚咽の前には、いかなる言葉も重みを失ってしまう。禅の問答にあるように、最後に解決を導き出すのは沈黙によって裏打ちされた時間だけだった。
#12
三途の川が流れる此岸で、村紗水蜜は膝を抱えていた。
水の音は柔らかだ。手を浸して遊ばせると、それだけで胸の内が晴れていくような心持ちがした。傍では小野塚小町と名乗った少女が頬に手を当てて、柳の幹に寄りかかっている。
「あンの雲親父、思いっきり殴りやがって」
「雲山を怒らせたら怖いからね」
「身をもって実感したよ。やんなるね、ほんと」
「一輪は、……来ないって?」
「ああ」血混じりの痰を吐き捨てる。「生きるとこまで生きてやるんだとさ。あれはしぶといよ、あたいの経験上、間違いないね」
「そう」
水蜜は立ち上がった。彼岸花の土手を抜けて、さざ波の打ち寄せる河原を見下ろした。幾人もの子供がひたすらに石を積み上げている。童(わらべ)の唄がここまで届いてくる。ひとつ積んでは父のため、ふたつ積んでは母のため。みっつ積んでは故郷の……。
獄卒が子供の後ろを歩き回っては、適当なところで金棒を突き出し、粗末な石の塔を台無しにしてしまう。子供は獄卒の顔を見上げてから、手のひらを重ねて祈り、また石を積み始める。鬼は殴りつけるように童の頭を撫でて、荒っぽい声を投げつける。親の嘆き、ここまで届いているぞ。まだ足らん。もっと積め。天まで積め。
「――お前さんも妖怪にならなかったのなら、同じことをしていたかもね」
小町が背後に立って云った。
「私にはお父さんはいないよ。お母さんも」
「忘れているだけなんじゃないかい?」
「そうかもね。でも、……何も思い出せないな」
獄卒がこちらに向かって金棒を振った。
「小野の姐貴、今日も麗しいね。拝ませてもらっても好いかい」
「褒めるんじゃないよ、黙って仕事してろ。あと、その名で呼ぶな」
「好い男のひとりでも作れよ。せっかくの別嬪さんなんだから」
「大きなお世話だ」
獄卒が仕事に戻る。小町は眉をひそめて、鎌の石突に両手を乗せた。
「……美人なんて云われても、空しいだけさ。あいつもそれを知ってて云ってるんだ。本当、腹の底から意地の悪い連中だよ」
「いつから死神を?」
「さぁね、あんたと同じだね。覚えてないんだ、昔のことは。何もかも捨てて来たんだよ。思い出す必要もないしね。昔話なんてのは、死んだ連中から聞く方がずっと楽しい」
「寂しくはないの? こんな静かな場所で――」
「孤独ではあるよ。でも、あたいにはこれが合ってる。誰にも邪魔されないし、興味深い話をいっぱい聞ける。アラビアの王様にでもなったような気分さ」
「アラビア?」
「海の向こうの話だよ。毎晩、夜が明けるまで物語を聴いているうちにね、いつしか心を癒されるんだ。誰の人生にも物語はある。真剣に話を聞いてやれば、そこから共感を見いだすことも出来る。共感を導く力こそが、すなわち物語の力だよ」
「物語……」
「お前さんにもちゃんとあるよ、物語は。いつかさ、今のことを懐かしみながら語れる日が来ると好いね。そう思うよ、割と真剣に」
そんな日が来るとは、到底思えなかった。
小町は大鎌を担ぎ直した。
「――さて、あたいはそろそろ仕事に戻るから、今のうちに決めてくれないかな」
「何を?」
「このまま向こうに往くのか、それとも尼さんの許に戻るのか」
死神の微笑みを見返した。「……好いの、戻っても?」
「本当はやっちゃいけないことなんだけどね」
ただし、と少女は付け加えた。
「還っても、何にもならないと思うよ。永遠に閉じ込められたままかもしれない。あの時に死んでおけば好かったって、後悔するかもしれない。――その覚悟は出来ているのかい?」
「覚悟」
覚悟って、何だろう?
こんな境遇にまで堕ちてしまっても、それでも、私は生きていると云えるのだろうか。水蜜は自分の胸に問いかけた。真剣に、心の扉をノックしてみた。二度と恩人に会えないことは分かっている。この世の果てで腐り果てるしかないのだろう。そこまでして、どうして生きるのか。もう一度、あの手を思い返した。天に向けられた手のひら。柔らかな温もり。初めて自分を受け止めてくれた言葉。泣いても好い。貴方は、泣いても好い。
腹の底まで深呼吸した。
「……戻りたい」言葉が響いた。「生きていたい」
「ん」
「一輪も、雲山もいるから」
「そうだね」
「死ぬ時くらいはさ、いっしょに」
「ああ」
「それくらいなら、赦されると思う」
「…………」
「それだけが、私の救いだよ」
「……分かった。眼を閉じな。身体を楽にするんだよ」
瞳を閉ざして、耳を澄ませた。せせらぎを、川の歌を、水の音色を記憶に留めておきたかった。海を離れて久しい。あの水底に還りたいと思わない日はない。あの潮騒の中に駆け戻りたいと願い続けている。空を失い、海を喪った私達に出来ることは、母親を亡くした赤ん坊のように、ひたすらにあがき続けることだけだ。
#13
その時はまだ、年端もいかない人間の少女だった。
一輪に覆い被さろうとした賊の身体が鞠のように吹っ飛んで古木にぶつかり、骨が折れる音と共にぺしゃんこになった。彼らが皆殺しにされるのに、さほどの時間はかからなかった。血まみれの拳を打ち合わせながら近づいてくる雲山を、霞んだ視界の中に捉えた。身体を震わせる入道。出会ってまだ間もないが、その意味するところは伝わってきた。礼を述べようとしたが、喉が枯れていて声が出ない。代わりに手を差し伸べると、彼は拳をぶつけてきた。
夏の蒸し暑さや、雨上がりの湿気も相まって、血の臭いは凄まじいものだった。息をするにも苦しく、筋肉の衰えた脚はどう云い聞かせても動こうとはしてくれない。惨殺された骸に囲まれ、ぬかるんだ大地のベッドの上、古木にもたれかかりながら、一輪は死を待っていた。先に旅立ってしまった弟や、妹達の姿が走馬燈のように脳裏を過っていった。飢えの衰弱が激しく、最期には互いの屍に喰らいついた格好で動かなくなっていた、遠い遠い彼らのこと。
不意に身体を揺さぶられた。眼を開けると、雲山が手にした物をこちらに寄越していた。それは彼が殺した賊の腕だった。断面に垂れ下がった皮筋から、スイカの果汁のような血の滴が伝い落ちて、擦り切れた着物に染み込んでいった。首を振ると、雲山も振り返す。握り拳に力が込められて、間欠泉のように血潮が吹き出し、顔に降りかかってきた。喉の乾きは残酷だった。舌で舐め取り、味わいながら飲み込むと、手足の先に僅かながら力が灯ったように感じられた。
入道は両手の指を器用に動かして、腕の肉を細切れに裂いていった。着物を脱がせるかのように皮を剥き、骨から引き剥がし、好く揉みほぐしてから、もう一度こちらに差し出した。加工されたそれは、もう人間の血肉には見えなかった。命の食べ物であり、命の飲み物だった。小麦のパンであり、赤色のワインだった。
最初のひと口は噛まずに呑み込み、次に咀嚼を覚えて、終いには嚥下するのが勿体なくなった。味が出なくなっても歯を動かし続けた。視界が晴れてゆき、澄み渡った青空が木々の狭間から覗いていることに気がついた。そよ風に誘われて木漏れ日が揺れている。森の調べが全身を包み込んでくれているように感じた。
いつしか辺りは、解体された遺体で埋め尽くされていた。雲山は満足げに中空に漂いながら、穴の穿たれた頭蓋を傾けて、ココナッツのように髄液を飲んでいた。その姿を目にしてようやく、自分はもう後戻り出来ない領域にまで踏み込んでしまったことを悟った。身体を鞭打ち、奮い起こす。数歩進んでから、聖餐の跡を振り返った。どの首もこちらを向いて転がっており、濁りの帯びた瞳は逸らされることがなかった。一輪は彼らを見つめ返した。手を合わせるか、頭を下げるか。どちらも違う気がした。
「……往こう」
雲山が頷き、傍に寄り添う。
少女は、――雲居一輪は歩き始めた。いつまでも、そしてどこまでも追いかけてくる視線を懸命に振り払いながら。
#14
彼女が眼を覚ました。村紗水蜜は身体を起こして、一輪の手を握りしめた。薄闇の中で、彼女の瞳だけが空色の輝きを宿していた。焦点が合わさった時、手に込められた力が強まった。
「――……村紗」
「うん、一輪」
彼女の口から空気の詰まるような音が漏れた。
「どこに、……どうして?」
「向こうまで行ってきたよ。でも――」水蜜は首を振った。「私の刑期は、まだ終わってないから」
「バカ」彼女の声は掠れていた。「そんなの気にしないで、さっさと成仏しちゃえば好かったのよ。せっかく、せっかく楽になれたのに」
「分かってるでしょう。私達は楽になんてなれないよ。もう二度と。それなら独りぼっちより、三人の方が好いじゃない」
「それでも、――やっぱり馬鹿よ。馬鹿だよ、あんた」
「いっしょに居たかったから」
水蜜は彼女を抱き起こした。背中をさすりながら、骨ばった身体の重みを感じていた。顔が隣合わせになり、肩の震えが伝わってくる。同じように背中に回された手の力加減に、彼女の気持ちの全てがこもっているように感じられた。首筋に流れる海水の湿った感触は、彼女からの、たったひとつの贈り物だった。
「水蜜、お願い。……私を赦さないで」
繰り返し、一輪は呟いた。
「わたしを、離さないで」
歩き始めた主人の背中は、思っていたよりも広かった。
鈴を括り付けた独鈷杵を手に、宝塔を胸に抱きしめて、洗い立ての法衣に身を包む。石段を降り始める前に、一度だけ振り返った。かつての姿は見る影もない、歴史上の役目を終えてしまった仏閣の姿。風に揉まれて、雨に埋もれて、やがては草の根を結んで崩れ去ってしまうのだろう。
「――行って参ります」
寅丸星が頭を下げて、我が家から背を向けた。ナズーリンは石塔から飛び降り、彼女の斜め後ろに着地した。
「ご主人」
「ナズーリン?」
「……何か忘れてないかい?」
手のひらを上に向けて、彼女に差し伸ばした。
「宝塔だよ。行くんなら、返してくれ」
星は笠を目深に被り直した。
「もう少しだけ、待って頂けませんか?」
「どうしてだ、寺を離れるんだろう? 今度こそ踏ん切りがついたのかと思っていたんだが」
彼女は首を振った。「巡礼の旅です。この国を回ります。今の人間の姿を、そして妖怪の姿を確かめたい。その行く末も」
「また気の長い話だな」
「毘沙門天様にも宜しく伝えて頂けませんか」
「そりゃあの方は反対されんだろうが――」
参ったな、と腹の前で腕を組み、顔を俯けて溜め息をこぼす。
「……お願いだから、失くさないでくれよ。私が探す羽目になる」
「では――」
「ただし、監視は続けるぞ。あちこちで問題を起こされては困る」
部下の鼠を独り、彼女の手のひらに乗せた。
「そいつが監査役だ。定期的に、私に報告させるからな」
少女の顔が綻んだ。夕焼け空に瞬(またた)く一番星を見つけた、人間の童のような笑顔だった。
「会いに来てくれるのですね、ナズーリン」
「何処に居ようが見つけ出すよ。私の任はまだ解かれていない」
「ありがとう」
法衣の胸を握りしめて、星は何度も頭を下げる。
ナズーリンも、釣られて苦笑してしまった。
「おかしなご主人様だ」
「次に会ったら、話をしましょう」
「話?」
「貴方と話がしたいんです、心から。私も、私のことを話します」
「……聞いても気が塞ぐばかりだぞ、好いのか?」
「構いません。それが私の救いになります」
指切りまでされてしまっては、断れる筈もなかった。
星の背中は、やがて木々に紛れて見えなくなった。ナズーリンは背伸びしてから、肩の上でくつろいでいる部下に訊ねた。
「やれやれ、――お前はどう思う?」
「ちゅーっ!」
「だな、やはり我々が見守ってやらんと駄目なようだ」
笠の縁をつまんで、大空を見上げた。夏の盛りにも涼風(すずかぜ)は吹く。雲の払われた快晴の青空からも、追い風はこうして降りてきてくれる。こんなにちっぽけな自分にも、あんなに惨めなご主人様にも。
「……貴方と話がしたい、か」
ナズーリンは首を振って想いを打ち払い、大地を蹴った。
吹き寄せる夏の香りを、胸にぎゅっと抱きしめた。
#15
歴史も無ければ、未来図も無い。見棄てられた世界の、繰り返しの幾星霜を彼女達は歩み続けた。日毎に光は失われ、地殻の熱も消えゆく旧き地獄で、それでも生き続けている。この場所で私達は生きている。この場所でこそ、私達は生きている。
無人の街を三人で歩き回った。空き家に遺されていた布団で、本当に久しぶりに安眠を迎えることが出来た。何日も何日も、同じ部屋で眠り続けたこともあった。手を繋いだままで、何とも繋がれない世界で。
ある時、大規模な地殻変動があり、旧地獄の市街地は軒並み破壊し尽くされてしまった。数週間もの間、あちこちで不気味な音響が岩壁に乱反射して、何度も余韻を臭わせながら、やがては治まっていった。水蜜は聖輦船から降りて暗がりの中を探索した。遠くから音が聞こえてきた。それは川の音だった。流れ込んだ地下水によって作られた、清らかな小川だった。血の池ではない。本物の水だった。水蜜は手を広げて飛び込み、そのあまりの冷たさに昇天してしまうところだった。
それから更に数日が経って、川に身を浸していたある時、上流から何かが運ばれてきた。黒ずくめの生き物、――背中に二色三対の奇怪な羽を生やした、痩せ細った少女だった。水蜜は半身を起こして、両腕に彼女を受け止めた。ひと振りの刀を着物の胸に抱いた少女の左手首には、痛々しい傷跡が刻まれていた。驚くほどの軽さと、その傷跡から、弓矢で射落とされた小鳥の姿を連想した。唇が動いている。それは誰かの名前のように聞こえたが、声があまりに微かで聞き取れなかった。彼女の瞳からは水に混じって、幾筋もの涙が流れていた。
聖輦船に運び終えた時、彼女は眼を覚ました。
少女は傷ついた獣のような唸り声を上げて、刀を抜き放ち、こちらに切っ先を向けた。立ち上がろうとする一輪を制して、水蜜は彼女に近づいた。刃が身体に沈み込んだが、痛みはない。貫かれた部位が液状化して、板敷に滴り落ちた。切っ先が貫通したところで歩みを止め、彼女の両肩に手を置いた。
「大丈夫だよ、もう大丈夫」
彼女は柄から手を離した。その場に呆然と尻餅を突いて、ぽっと火が点いたように、大声で泣きじゃくり始めた。水蜜も、一輪も雲山も、どうしてやれば好いのか分からなかった。声を上げて感情を爆発させるような相手に、もうずっと長い間、接する機会もなかったから。
それが、封獣ぬえとの出会いだった。
ぬえはすぐに調子を取り戻した。二人のことをからかっては、ここまでおいでとばかりに舌を出す。地底の暗闇なんて、まるで意に介していないかのようだった。水蜜と一輪は、ぬえの悪戯で迷惑を被ると、ほんの僅かだけれど、笑顔を取り戻すことが出来た。その度に互いの緩んだ頬を指さして、驚きの眼差しを交わした。
「――ムラサ、一輪っ」ぬえは云うのだ。「悔しかったら、私を捕まえてみなさいよ!」
ぬえがやって来たのと時を同じくして、さらに幾つもの物語の歯車が噛み合い、歴史という巨大な機関が胎動を始めた。鬼を中心とした妖怪達が大勢、地上から境界を越えて旧地獄に移り住んできたのだった。どいつもこいつも癖のある、世界から見放された者ばかりだった。彼らは廃墟と化した街を再建し始めた。無数に連ねられた提灯が、旧地獄に再び光を灯した。一輪と雲山は何食わぬ顔で工事に手を貸して、鬼の宴会にも顔を出し、上手いこと仲間入りを果たしていた。酒が入って赤らんだ彼女の顔には、好い汗をかいた後によく見せていた、いつかの清々しい笑みが咲いていた。傷だらけの笑みだったけれど、不思議と痛ましさは無かった。
街の再建は完了し、ここに旧都が誕生した。
#16
「やっ、――久しぶり」
一輪は足を止めた。「あんた、いつかの火車」
「ちっちっち、もう名無しじゃないよ。火焔猫燐、――“お燐”って呼んでちょうだいね」
彼女は腰に手を当ててふんぞり返った。燃えるような髪を三つ編みにして、真新しい黒のドレスを着ていた。
「あたい達、ようやくご主人様を見つけたんだよ。彼岸の連中と話を付けたって。これからはあのひとが旧都を仕切るんだ」
材木を地面に降ろして、彼女の顔を見つめた。晴れ空のように輝くその表情は、復興の証でもあった。
「――入道さん、ちっす」
土蜘蛛の黒谷ヤマメが声を掛けてきた。汗と泥で頬が汚れていたものだから、その笑顔は人間の少年のように見えた。
「お疲れさん。これからパルパルとキスメちゃんとで飲みに行くんだ。好かったらいっしょに来ないかい?」
「ありがとう。でも今日は遠慮しておくわ」
あの子達が待ってるから。
「そうかい、残念っ。また今度ね!」
「ええ」
ヤマメは手を軍旗のように振りながら走り去っていった。
「……ねぇ、お姉さん」お燐が云った。「なんかさ、あたいってば久々にわくわくしてきたよ。面白いことになりそうじゃないか。少なくともさ、悪くない方に向かってるって感じがするよ」
「そうね」一輪は何度も頷いた。「そうね」
人類の歴史は、あまりに多くの暴力を伴いながら、それでも次々と他の文明との邂逅を果たして、ひたすらに前に進み続けた。駆逐された幻想の空隙に理性と論理を詰め込んで、ますます多くの技術の成果と、そして巨大化する戦争とを生み出した。遠い遠い歳月の中で、次第に妖怪の姿は忘れ去られてゆき、境界は押し戻され、その生存圏は失われていった。いつしか求められるようになった楽園は、地に落とされた赤い果実のように結ばれて、幻想の最後の居場所となった。しかし変化の恩恵を受けられるのは、あくまでもピラミッドの上層に住まう人びとに限られる。最上部に飾られた黄金が、地の底に息づく人びとまでもたらされるには、今少しの時間が必要だった。地上からこぼれた光が境界を撃ち抜いて、彼女達の許に届くには、まだ。
雲居一輪は書店の暖簾を潜った。水橋パルスィがうたた寝から目覚め、緑色の瞳を揺らめかせた。
立ち止まって訊ねる。「あれ、あんた――」
「何よ、文句あんの?」パルスィが頬杖を突いて答える。「急用でね、私が店番を頼まれたのよ。今日は気ままにぶらぶらするつもりだったのに、ツイてないわ」
ぜんまい駆動の蓄音機が帳台に置かれていて、耳慣れぬ音楽を奏でていた。繰り返されるメロディ。気だるさの染み込んだヴォーカル。鼓動のように心地好いリズム。空の彼方まで昇ってゆけそうな、その音色の奥深さを味わった。ただ瞳を閉じて。
「これ……」
「気に入った?」パルスィがレコードのジャケットを読み上げる。「ボブ・ディランの『ノッキン・オン・ヘヴンズドア』ね。新しいものから適当に放り込んだんだけど、まぁ、悪くないじゃない」
「本も増えてるわね」
「持ち込まれてくる量が増えて、整理が大変だそうよ。それだけ地上との境界が緩み始めてるんじゃない?」
瞼を持ち上げて、橋姫の言葉が胸に落ち着くを待った。ディランの音楽が、理解を助けてくれた。袈裟の裾を握りしめて、汗ばんだ手のひらの感触を確かめた。
「――それよりさ、これ見てよ。びっくりしちゃうから」
パルスィが古い雑誌を差し出してきた。両面に渡って写真が印刷されていて、手前に人間らしきものが平らな岩に立っている。背景には上弦の月のような形をした青くて丸いものが、夜空から浮き上がって映っていた。
「何これ?」
「見出しを読みなさいよ。“アポロ11号、月へと到達”だってさ」
「どういうこと?」
「アポロ計画よ。知らなかったの? 人間は自分の足で月の上に立ったのよ。……あいつら、私達を置いて何処まで行くつもりなのかしらね。妬ましいこと」
「月って、――あの月?」
「そう、その月よ。貴方、大丈夫なの?」
「どうやって、そんな」
「“空飛ぶ船”を使ったそうよ。好く分かんないけど」
妬ましい、妬ましい。そう繰り返しながらも、パルスィの声にはいつものような棘が無かった。今にもやけ酒を始めそうな、消え入りそうな声だった。
#17
鎖に繋がれた聖輦船を見上げていると、隣に封獣ぬえが降り立った。新品の黒い服を着込んでいて、胸に飾られた赤いリボンが眩しい。
「どうしたの、その格好?」
「新調したのよ。見りゃ分かんでしょ?」ぬえは胸を張った。「旧都でお買い物。あんたとムラサの分も買ってきてあげたわよ」
新しい尼僧服と、赤いスカーフが付いたセーラー服だった。
「お金はどうしたのよ」
「ちょろまかした」
「この野郎」
「う、嘘よ! ちゃんと払ったってば!」
洋服もまた、地上からの文物のひとつだった。物が境界を越え始めたということは、それ以外の事物が境界をすり抜けることも、決して不可能ではないはずだった。
「ぬえ」息を整えながら訊ねる。「あんたは、地上に戻りたいと思う?」
彼女は唇を引き結んで、身体を硬直させた。
「……なに、禁句じゃないの、そういうこと」
「戻れるかもしれないのよ。万にひとつの可能性だけど」
「そうね、……会いたい奴は居るかな。でも――」
「私達もそう。会わなくちゃならないひとが居るの。それと、助けなければならないひとも」
「まさかそいつ、人間なんかじゃないわよね?」
曖昧に頷きを返しておいた。ぬえはフグみたいな膨れっ面になった。
「そ。――じゃ、勝手になさいな。せいぜい気を付けなさい」
ぬえは飛び去っていった。彼女の行方を目で追いかけていると、雲山が恐い顔でこちらを睨んできた。何よ、と声を掛けたが、彼はそっぽを向いてしまった。
一輪の予想は的中していた。道は開けた。
無鉄砲で向こう見ずで、そして命知らずな地獄烏によって、封印は解き放たれた。地上と地底とが、繋がる。村紗水蜜は一輪と手を繋いで、轟音と水飛沫に包まれながら、噴き上がる熱水を甲板から見上げていた。失われた筈の心臓が、水兵服を押し上げる程に高鳴っているように感じられた。身体を広げた雲山が傘となって、飛沫から二人を守ってくれていた。
間欠泉の衝撃は聖輦船を大きく揺るがし、形骸となっていた鎖を粉々に吹き飛ばした。今にも大海に漕ぎ出さんと、飛倉は船体を青白く輝かせていた。水流に背中を押されて、聖輦船は動き始める。二人は船室に駆け込んで、縄で身体を柱に縛り付けた。もう後戻りは出来ない。雲山の身体に包まれながら、近づくにつれて大きくなる振動に必死に耐える。舌をもつれさせながら、水蜜は二人に呼びかけ続けた。
「もしかしたら、失敗するかも、しれないから」
「うん、うん」
「今のうちに、さ。云っとく。――今まで、ありがとね、二人とも」
「ええ、こちらこそ。ありがとう、村紗」
振動が浮遊感に変わり、臓器という臓器が宙返りした。互いにしがみ付くように手を繋いで、両眼をぎゅっと閉じた。真っ白い光の奔流に瞼の裏を覆われて、音響も聞こえなくなっていった。
振動が収まり、一輪は眼を開いた。水蜜と顔を見合わせてから、縄を解いて立ち上がり、恐ろしいほどの静けさの中を踏み出した。深呼吸を繰り返して、身体の震えを押さえつけてから、船室のドアに手を掛けた。
永い時間、あまりの眩しさに瞼を上げられなかった。眼球が焼けるように痛んだ。最初に感じられたのは、肺の中を満たしてゆく新鮮な空気だった。続いて風鳴りの音。反響のない足音。亡者のように甲板を歩いてゆき、船縁に手を突いた。少しずつ、本当に少しずつ瞳を開いてゆき、一輪は、そこに広がる青い空を、白い雲を、そして見渡す限りの緑の広がる大地を見た。死の臭いも土の臭いも含んでいない、真新しい風が眼に染みて、どっと涙があふれ出た。
その青空だけが全てだった。その青こそが、ずっと待ち望んでいたものだった。
水蜜はその場に崩れ落ちていた。一輪も座り込んで、互いの身体に手を触れ、その感触を確かめた。自分達は確かに此処に居て、これは夢ではないという事実を伝え合った。遙かな上空で、雲山が大凧のように身体を膨らませているのが見えた。その名に恥じない、山のような入道雲だった。
「一輪」水蜜が顔を上げる。「生きてるよね。私達、ちゃんと」
「ええ、ええ」一輪は彼女の肩に顔を埋める。「生きてるわ、水蜜」
二人は手を繋いで立ち上がり、空翔ける船から見守った。天を衝かんと唸りを上げている間欠泉を。陽の光が水のカーテンに描いてゆく虹の橋を。それは遠い昔に手のひらから零れ落ちてしまったはずのきらめきだった。二人は遥か彼方に遠ざかってしまった輝きを取り戻したのだ。かつて人類がアポロの宇宙船に託したように、いつかこの星から飛び出したいと願ったように、三八万キロメートルもの旅路を越えて、遂にその奇蹟を起こしたように。
#18 Epilogue
夢が遠のいてゆき、村紗水蜜は目を覚ました。水を跳ね上げて身体を起こすと、きゃんっという悲鳴が聞こえた。小野塚小町が頭を振って、水滴を払い落とした。
「――こンの、大馬鹿野郎!」
「野郎じゃないよ」
「着物が濡れちゃったじゃないか!」
「ごめんごめん」水蜜は小舟の縁に手を乗せた。「我慢できなくてさ、ついお邪魔したくなるの。沈めはしないから、安心してよ」
「ンなこと云いながら、この前は柄杓どころかバケツで水を注ぎやがったじゃないか。勘弁しておくれよまったく」
小町は上体を起こして、疲れたような笑みを見せた。
「……明るくなったねぇ、お前さん」
「そうかな」
「好くやったと思う、本当に」
「何もしてないよ、私。生き延びたかっただけ」
死神は鎌の刃に手を触れた。「じゃあ、その幸運を手放さないことだね。お願いだから、川を渡るようなことにはならんでおくれよ。お前さんの裁きは、うちの上司だって往生しちまいそうだ」
「閻魔は迷わないって聞いたけど」
「どうかな。カルネアデスの板、メデュース号の筏、アンデスの聖餐。……難しいんだよ、お前さん達は。だから絶対向こうに往くんじゃないよ。遊びに来るくらいなら、相手してやるからさ」
「うん、ありがとう。恩に着るよ」
賽の河原に泳ぎ着いた。今もまだ、子供達は石を積み続けている。地蔵様が救いの手を差し伸べても、後から後から先立ってしまった子供は流れ着く。彼らの一人ひとりに視線を配ってから、水蜜は幻想郷への道を辿っていった。
ひとつ、昔話がある。
好く知られた異変が終わり、命蓮寺が落成して初めて食事をした時分のことだ。聖白蓮は未だ感激の冷めやらぬ様子で、それは水蜜も一輪も、そして寅丸星も同じだった。手伝うと云っても聞かず、白蓮が独りで全ての献立を考え調理してくれた。出来上がった食事は、春の贅沢を余すところなく注ぎ込んだ逸品の数々だった。――鮎の塩焼き、若筍煮、菜の花の辛子和え、ふきの旨煮、三つ葉のすまし汁。……白蓮の号令で「頂きます」と唱和して、三人は箸を手に取った。
けれども、水蜜も一輪も、好く食べて好く眠る星も、料理に箸を付けることが出来なかった。白米は真珠のように輝いていて、まるで幻のように視界に映っていた。失敗したのかと白蓮は心配したが、それには三人とも全力で首を振った。やがて星が一番手を切る。炊き立ての白米を口に運び、すまし汁を飲んで、しばらく顎を動かしていた。瞳から涙がぽろぽろとこぼれ落ち、並べられた料理と白蓮の顔とを、交互に見つめていた。その時の彼女の言葉を、水蜜は今でも覚えている。
「聖、ごめんなさい。料理はとても美味しいんです。本当です」彼女は俯いて続けた。「……でも、これを食べる資格が私にあるのかどうか、分からないんです」
命蓮寺への帰り道を急ぎながら、水蜜は青空を仰ぎ見た。今日は比較的に涼しく、夏の空は無限の優しさを湛えて頭上に広がっていた。まるで広大無辺の慈悲のようだった。今でもふと空を見上げると、訳もなく泣き出してしまいそうになる時がある。その時は決まって嗚咽だけがこぼれて、涙が流れることはない。瞼の奥で凝固しているのかもしれない。
それは恐らく、一輪も同じではないかと思う。麻薬の効能が続いているみたいに、頭がぼうっとする時が多い。単純なことでさえ忘れてしまって、周囲に呆れられてしまうこともある。どれだけノックしても開いてくれない扉のように、地上脱出の時分を最後にして、感情らしい感情を取り戻すのに苦労している。
命蓮寺の門前に帰り着いた水蜜は、一輪と雲山に鉢合わせした。一輪はディランの「ノッキン・オン・ヘヴンズドア」のレコード・ジャケットを手に持っていた。水蜜も、三途の川から拾ってきた丸い石ころをポケットから取り出した。
「考えることは同じね」
「そうみたい」
二人は苦笑を交わした。雲山も口を開けて笑っていた。
門を潜り抜ける前に、三人は幻想郷の原風景を振り返った。夏の日差しに暖かく包まれた、新しい緑の萌え立つ世界を。草の竪琴が奏でられるその世界では、稲穂は波のように揺らめいており、小鳥が唄いながら頭上を通り過ぎてゆくのだった。
水蜜は息を吸い込んだ。「……何だか、夢を見ているみたい」
「そうね」一輪は頷いた。「まるで夢みたいね。何もかも」
母屋の玄関先で封獣ぬえが仁王立ちしていた。羽がシベリアの針葉樹みたいな形になっていた。
「……ひとを買い物に行かせておいて、あんた達は暢気にお散歩?」
「悪かったわよ」一輪がぬえの頭を撫でる。「あんたこそ、余計な物を買ってきたりしてないでしょうね?」
「こ、これは手間賃だから!」
米袋や野菜の詰め込まれたバスケットの中に、カベルネ・ソーヴィニヨンの赤ワインが澄ました顔で入っていた。一輪と顔を見合わせて、思わず引きつった笑いを漏らしてしまった。
「な、なによ、何よ何よ!」
ぬえにぽかぽかと背中を叩かれながら、二人は母屋に入った。寅丸星にナズーリン、そして聖白蓮がいた。
「おかえりなさい」
白蓮が微笑んで云った。
「姐さん、戻りました」
「ただいま、聖」
「ええ」
「今日は私と村紗で、美味しいご飯を作ります」
「期待してね」
「それは楽しみです。さあ、上がって上がって」
白蓮の手を握って、二人は命蓮寺に帰り着いた。頭の後ろで指を組んだぬえが、口笛を吹きながら後に続く。星はナズーリンから説教を受けていた。彼女達の間にもまた、永い物語が結ばれたようだった。
思わず、一輪の横顔を見つめていた。
「村紗?」
「……ううん、何でも」
今夜は語り明かそうと、水蜜は思った。素敵な音楽を聴きながら語り合えば、決して癒えることのない記憶も、少しばかりの笑い話に変えられるかもしれないから。そこに美味しい葡萄酒があれば、なお好い。そう、まだ大丈夫。待つことには慣れている。明日はもっと遠くまで羽を伸ばしてみよう。もっともっと、その腕を前に差し出そう。
きっといつか、ある晴れた昼下がりに、心から笑える日は来るはずだ。
(引用元)
Kazuo Ishiguro:Never Let Me Go, Alfred A.Knopf, 2005.
土屋政雄 訳(邦題『わたしを離さないで』)早川書房、2006年。
(原題)
Klopfen an die Himmelstür
.
The Subterranean Heaven's Door
この歌のどこがよかったのでしょうか。ほんとうを言うと、歌全体をよく聞いていたわけではありません。聞きたかったのは、「ベイビー、ベイビー、わたしを離さないで」というリフレーンだけです。聞きながら、いつも一人の女性を思い浮かべました。死ぬほど赤ちゃんが欲しいのに、産めないと言われています。でも、あるとき奇蹟が起こり、赤ちゃんが生まれます。その人は赤ちゃんを胸に抱き締め、部屋の中を歩きながら、「オー、ベイビー、ベイビー、わたしを離さないで」と歌うのです。もちろん、幸せで胸がいっぱいだったからですが、どこかに一抹の不安があります。何かが起こりはしないか。赤ちゃんが病気になるとか、自分から引き離されるとか……。
――カズオ・イシグロ『わたしを離さないで』より。
#01
草の竪琴が奏でられるその世界で、雲居一輪は鈴奈庵の暖簾を潜る。風鈴が客の来店を告げ、陽差しと蝉時雨が遠ざかってゆく。店番の少女がうたた寝から目覚め、はにかんだ笑みをこちらに向けた。
「いらっしゃいませ。……すみません、寝不足で」
「邪魔しちゃった?」
「お構いなく。飲み物をお持ちしますね」
奥に引っ込む背中を見届けてから、頭巾を脱いで額の汗を拭った。帳台に鎮座する蓄音機に眼を留めて、流れゆく旋律に耳を澄ませる。繰り返されるメロディ。空の彼方まで昇ってゆけそうな気だるさの染み込むヴォーカル。
お盆にラムネを載せて本居小鈴が戻ってくる。礼を述べてからグラスを受け取り、喉を潤した。
「ありがとう、悪いね」
「お得意様ですから」
「今掛かってる曲ってさ」
「ああ――」小鈴がグラスを置いた。「たまには洋楽も好いかなって思いまして。数は少ないですけど、どれも名盤ですよ」
「天国への扉?」
「そうですそうです。ボブ・ディランの『ノッキン・オン・ヘヴンズドア』――」
小鈴が眉を上げて、一輪の法衣を凝視する。「……失礼ですけど、好くご存じでしたね」
苦笑が漏れてしまった。「これしか知らないのよ」
「前は何処で聴かれたのですか?」
口の先まで出かかった言葉を留めて、控えめに答える。
「――……子供の頃に、ね。色々あって」
小鈴もそれ以上は訊ねて来なかった。両手をエプロンの前に組んで、上目がちに見つめてくる。
瞳を閉じて曲が終わるまで立ち尽くす。メロディを追って自然と唇が動いている。指先は帳台の木目でリズムを打っている。
小鈴がおずおずと云った。「よろしければ、リピートしておきましょうか」
「うん、ありがとう」
子供達に読み聞かせるための説話集。“入道屋さん”と呼んでくれる彼らの笑顔を思い返しながら、一輪は本棚を巡っていった。同時に思い出されるのは、ディランの音楽が導いてくる風景のことだ。地平線まで続いている荒野。硫黄の臭い。塵芥。草木の生えない不毛の大地。そして、見棄てられた無人の廃墟。
視界にふと、ある書物が映り込んだ。和綴じで製本された六巻組の書は、一輪も好く知る名著だった。
「ここって『教行信証』もあるんだ」
別の本棚から、小鈴が子猫のように顔を覗かせた。「親鸞上人の大著ですね。読まれるんですか?」
「うちとは宗派が違うわね。教養として、姐さんから教わりはしたけれど」
「悪人正機、ですね」
頷きを返して、言葉を記憶のタンスから引っ張り出す。“善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや”と。
ディランの声が遠ざかってゆく。
ノック、ノック、ノッキン・オン・ヘヴンズドア。
フェード・アウト。
再び、天国への扉が叩かれ始める。
#02
帰り道に里の外れを散歩していると、ナズーリンと会った。彼女はロッドを手に川沿いを歩いていた。
「これから邪魔するところなんだ。いつもの監査でね」彼女は云った。「ご主人はどうだい、上手いことやってるかい?」
「暑さでへばってるわよ」
ナズーリンが腕を組む。「活を入れてやらないとな。うちの連中も駄目だね。地下に潜ってしまって、号令をかけても集まりやしない。おかげで私自ら宝を探す羽目になってる」
「収穫は?」
「ゼロ。何もかもこの陽射しのせいだ」彼女は晴天を恨めしげに見上げた。「……今日はもう諦めようかね」
「そうしなさいよ。倒れられたら面倒だし」
「大きなお世話だ。――で、どうする? 荷物なら少しは持つが」
「ありがと。でも、後少し散歩してくるわ」
一輪は足を踏みかえた。地面に蟻が何匹か歩いていた。
「ナズーリンさ」
「うん?」
「悪人正機は知ってる?」
「まあ、教わりはしたが」
「悪人の自覚があればこそ、衆生は皆救われる。それならさ、妖怪はどうなんだろ。祈りさえあれば、妖怪だって救ってもらえるのかしら」
「分からん。流石の親鸞上人も人外についてコメントを求められることはなかったろうしな、当たり前だが」
「そう、よね」
「だからこそ我らが白蓮和尚がいるんじゃないか。――大丈夫かい、暑さで頭が耄碌してるんじゃないか。地底暮らしに夏の猛暑はきついだろうしね」
それこそ大きなお世話だった。横目で睨んでやったが、彼女は何処吹く風だった。
「地底云々で思い出したが、――船長の奴、また懲りずに三途の川に行ってるぞ。避暑としてはうってつけだが、後で閻魔にどやされるな」
「あの子には必要なことだから」
「水が?」
首を振った。「溺れること。少しだけ死ぬことよ」
空の上で昼寝をすることが、数少ない生き甲斐のひとつだ。
雲山の背に横になっている内に、下手すると夕暮れ近くまで寝込んでしまうこともある。暇さえあれば、いつも空の青を求めてしまっている。ちょうど舟幽霊の少女が水底の青に焦がれるのと同じように。
今日は、あまり寝心地が好くなかった。
ナズーリンと別れてからも、思考は巡り続けている。頭がやかましくなって、雲山に言葉を手渡してしまっている自分がいる。
――そうよね、聖様がいるってのに。私ったらまた馬鹿なことを考えていたのかもしれない。……でも、ねえ、雲山なら分かるでしょう。懐かしいと振り返るには、あまりに永すぎたのよ。村紗だってそう。手応えが全然ないんだ。ある朝に目が覚めたら、周りにあるのは岩ばかり。今ある日常の全てが夢だったなんて日が来るんじゃないかって。
いつになったら扉は開いてくれるのだろう。
それから、いつの間にか眠りに落ちていた。雲の流れのように、波の満ち引きのように、交響曲のリフレインのように、繰り返し訪れては去ってゆく夢が、ディランのメロディに乗って頭の隅々にまで染み込んでくる。
どれだけ遠くまで離れても、私達は繋がっている。真っ黒な糸で。あの世界で、あの時間を過ごしたという記憶で。彼女もまた、川の水底で同じ夢を見ていることを想いながら、雲居一輪は空へと沈んでいった。
#03
「火衣(ひい)が」水蜜が云った。「ついさっき……」
頷きを返して広場に視線を戻した。水蜜が腰を下ろし、二人は隣同士になる。言葉はなく、事実だけが漂う。罪人達の悲鳴と絶叫が、溶岩流から立ち昇る蒸気のように絶えることなく岩盤まで召されてゆく。獄卒達は容赦をしない。硫黄の臭いが立ちこめる薄暗い大地の上で、永遠に責め苦を続けてゆく。両手に罪人を抱えた牛頭(ごず)が、彼らを煮えたぎった釜の中に放り込み、手足を縛られ大の字にされた者の肉片を、馬頭(めず)が鉈でスライスしては咀嚼している。針の山、焼けた鉄板、車輪砕き。器具には事欠かない。罪人は虐殺されては蘇り、復活してはまた殺される。
その様子を、一輪と水蜜は崖の縁から見下ろしていた。熱気を失ったコロッセウムの観客のように。
「……分かったわ」言葉を探した。「私がやっておくから、村紗は休んでて」
「ありがとう」
舟幽霊が細い声で答えた。元の色も分からない着物が包み込む身体は、痛ましく痩せている。骨が浮き上がり、頬がこけている。それは自分についても同じことだった。立ち上がって“聖輦船”へと足を向ける。途中の岩場を乗り越えているところで、雲山が傍まで降りてきた。身体を膨らませたので、事の次第を話した。
「ええ、……息を引き取ったって」
彼は顔を上下させた。
「埋めるから、悪いけど手伝って」
聖輦船は無数の鎖で縛られて、血の池地獄に浮かんでいる。甲羅の入り口を塞がれた亀のように、身動きが取れない。飛翔して船倉に入り、火衣の遺体を確かめた。もう元気だった頃の彼女の顔を思い出せない。記憶が擦り切れていたし、何十年も寝たきりだったのだ。まるでミイラのようだった。一輪は顔をそむけた。
船の裏手の岸に埋葬し、手のひらを合わせる。
「ありがとね、私ひとりで掘り返せれば好かったんだけど」
雲山は顔を横に振った。
「……私達だけになったわね、とうとう」
墓石は用意できなかった。せめてもの墓標にと、形の整った石を数個寄り合わせて、目立つような工夫をした。そうした出来損ないの土饅頭が、火衣の傍に数十と並んでいる。経を唱えることはしなかった。文言自体は覚えている。その意味するところが、どうしても思い出せないのだ。忘れじの言葉は空しい。墓標を撫でて彼女から背を向けた。
獄卒達が去った後の広場に降り立ち、虐殺の跡を確かめてゆく。散らばった肉片を両手でかき集める。落ち穂拾いの老婆にでもなったような気分だった。硫黄と血煙が混じり合って、鼻がまったく利かなくなる。岩場を降りてゆき、溶岩流の縁に近寄った。雲山に肉片を手渡して、熱で丹念に炙ってもらう。その間に方々を廻って血針草をかき集め、脂を落とした肉に巻きつけた。
肉塊を持ち上げる。何処の部位かも分からない名も無き蛋白源。火衣が亡くなってから一刻と経たずに、もう腹を満たそうとしている自分の姿について、考えを巡らせようとした。それも結局は詮無い試みだった。焼かれた肉を口に押し込んで、咀嚼してから飲み込んだ。
広場を横切って聖輦船に帰る。血や臓物を踏みつけて、危うく転んでしまいそうになる。休もうとして岩場に寄りかかり、そのまま眠るように亡くなってしまった仲間のことを、何故か思い出してしまった。彼女の遺体を発見したのも水蜜だった。崖からもう一度、広場を見下ろす。かつて眺めた合戦跡のような風景だった。引き裂かれ、喰い千切られ、磨り潰された罪人達の骸が、無造作に打ち棄てられている。救済はない。恩寵もない。真っ赤な色をした暴力だけが、泥のような重みを湛えて視界いっぱいに広がっていた。
#04
講堂に光は差さない。聖輦船の腹は穴だらけだ。もう永い間、修繕の手は停まってしまっている。本尊も失われている。正しくは、ここには居ない。舟幽霊が隅っこで膝を抱えているのが見えた。三歩ほど離れた柱に背中を預けて、板敷に腰を落ち着けた。
「……村紗」
「終わったの?」
「ええ」
「ありがとう」
「ご飯は」
「欲しくない」
「そう」
「うん」
マリン・ブルーの瞳がこちらを向いた。瞼が半分閉じられている。焦点が合っていない。どうしたの、と声を掛けると、水蜜は再び顔をうつむけた。
「私、……ずっと黙ってた」
「何を」
「話したら一輪、私のこと――」
「隠すことなんて、今さら何もないわよ」声を出すのにも、気力が必要だった。「全部話して、すっきりしなさいな」
「殺したの」
視線だけを彼女に向けた。舟幽霊は左右の手のひらを凝視していた。餓鬼のように細まっているために、指が異様に長く見えた。
「私が、――殺したの」
「あの子を?」
「火衣だけじゃない。人数なんて、覚えてない」
「“殺して欲しい”って、頼まれたの?」
「あれ以上、見ていられなかった」両手で顔を覆う。「本当のことは分からない。殺したくて殺したのかもしれない。もう助からないのだからって自分に云い聞かせて、お腹を満たしたかったのかもしれない……」
「――知っていたわ、ずっと前から」
水蜜が顔を上げる。目線をそらして答える。「分からないはずがないじゃない。皆揃って首に跡が残っていたんだし。楽にしてあげたかったんでしょう? そう考えなさいよ。私もそう受け止めるから」
「でも……」
「妖怪の性(さが)がどうこうってんなら、それでも好い。私だって同じだから。だって姐さんは――」云いかけて、云い直した。「誰かさんは云ってたわ。“ひとを怨むな、ひとを喰らうな”って。……何ひとつ守れてないわよ。守れてないからこそ、今もこうして生きてる」
水蜜は嗚咽を漏らした。涙は流れていなかった。涙をこぼすだけの海水が、彼女には枯渇しているのかもしれない。立ち上がって背中をさすってやってから、その場を離れた。外に出るまで、泣き声が後を追いかけてきた。
責め苦の広場とは方角を変えて、マグマの渓谷を抜けると、その先に広がるは地平線まで続いている茫漠とした荒野だった。何もかもを溶かし尽くす液体がぶちまけられて、世界を更地に変えてしまったかのように、褐色の大地の他には何もない。恐らくあの地平線を越えると、また別の地獄が永劫に広がっているのだろう。何の起伏もなく、何の潤いもない。放射された熱気が陽炎を呼び起こして、景色を揺らめかせている。そしてもちろん、その靄(もや)を取っ払ったところで、心の浮き立つような眺望は何処にも存在しない。無限に引き延ばされた時間の迷宮に、入口も出口も存在しないのと同じように。
#05
障子を開けて陽の光を取り込むと、金堂の空気も心なしか明るくなったように思える。畳の掃き掃除を終えて、井戸の水汲みも済ませた。後は日の入りが近づくまで、ひたすらに経を唱えるだけだ。寅丸星は本堂の板敷に胡座をかき、膝の上に経典を広げてから、ぜんまい仕掛けの人形のように読経を続けた。
昼過ぎになって来客があった。蝉時雨に背中を押されて入ってきた少女は、笠を脱いで頭を下げた。
「久しぶり、ご主人」
「お疲れ様です。好く来ましたね」
「暑いったらありゃしない。水があれば嬉しいんだが」
「お持ちしましょう」
ナズーリンは井戸水を美味しそうに飲んだ。それから用件を話した。
「戦火が広がってる。そろそろこの辺りもきな臭くなるよ。今のうちに荷物をまとめて逃げた方が好い」
毘沙門天様も心を配っておられる、と彼女は付け加えた。
「ここに盗られるものなどありませんよ。大丈夫です」
「分かってないな、ご主人。連中は流浪の悪党だ。飢饉と戦乱で焼け出された下層民だよ。奴らに話し合いは通じない。宝があろうがなかろうが、容赦なくご主人を殺してバラバラにして、煮えたぎった鍋の中に放り込むぞ」
柱に寄りかかって腕を組んだ鼠の少女は、横目にこちらを見据えていた。どう答えを返したものか、と星は姿勢を崩した。
「……知らせて下さり感謝します。でも、私は此処に留まります。身を捨てることになっても、構いません」
「自暴自棄にでもなったのかい?」ナズーリンは柱から身体を離した。「それとも大陸の故事に習って、みすみす獣の餌食になるつもりなのか? 身を捨てて虎を飼うって、――“虎”は君の方じゃないか」
「悪い冗談ですね」
「分かった、もうはっきり云わせてもらうよ」
彼女はダウジング・ロッドで肩を叩きながら、目の前にしゃがみ込んだ。紅い瞳は陽光を湛えて、眩しいほどに輝いていた。
「――毘沙門天様に宝塔を返すんだ、ご主人。唯の妖怪に戻って野に還るんだね。後は好きなように生きたら好い。それがいちばん賢いやり方だよ、たったひとつの」
「お断りします」
舌打ちが転がった。「あれからどれだけ経ったと思ってるんだい。未練に憑かれてとり殺されちまうぞ」
「未練などありません」
「――死にたいのか、それとも」
「…………」
「取り付く島もないな」
ナズーリンは首を振って立ち上がった。日差しの降り注ぐ世界に帰っていった。
星は、その背中に呼びかけた。「心配してくれてありがとう、ナズーリン。貴方こそ、どうかお気を付けて」
少女は答えなかった。
#06
日が暮れる。夏の夕焼けだ。木々の葉が色を失ってゆき、やがては夜空から切り取られたシルエットになる。空のグラデーションは紺の色合いを深めてゆく。縁側に腰掛け、腹に宝塔を抱きながら薄雲を眺めていた。毘沙門天から賜った宝は、既に輝きを失って久しい。もう二度と光を取り戻すことはないだろう。風鳴りは虫の慟哭に飲み込まれ、夜の帳(とばり)が下りていった。
ナズーリンが述べたところの“連中”が現れたのは、もう真夜中に近づいた時分のことだった。隠れる暇もなかった。気がついた時には、彼らは既に寺の伽藍に踏み込んでいた。廃寺に誰かが居るとは思いもよらなかったのかもしれない。ねぐらに使おうとしていただけだったのかもしれない。一瞬のためらいと沈黙があった。野太刀を引き抜いて、彼らの内のひとりが砂利を踏みしめて歩いてくる。星は縁側から立ち上がることもせず、月明かりを受けて輝きを放つ刀身を、黙って見つめていた。虫の音は止んでいた。宇宙の次元を飛び越えたかのように、時間という時間が拡大され、潰れた粘土のようにひしゃげて感じられた。胸の底で火花が飛び散り、両眼を見開いていた。振り上げられた刀が、居待の月を両断するかのように分かつのが見えた。
次の瞬間、星は猛烈な勢いで前方に飛び出して、相手の懐に突っ込んだ。両手をあらん限りの力で突き出して、宝塔の先端を腹に喰い込ませた。血しぶきが顔に降りかかり、輝きを失った宝玉を真っ赤に染め上げた。苦悶の声を漏らすことさえ出来ずに、彼は地面に仰向けに倒れた。痙攣する肉塊から眼を離し、呆然と月を見上げる。懸命に今の瞬間を振り返ろうと頭を巡らせる。月に映り込むようにして脳裏を翔け抜けた彼女の横顔。それは既に遠くへと去ってしまっていた。記憶は再び、濃い霧に包まれた。
だが、それだけで充分だった。
人びとは得物を構え直した。そこにあるのは感情の失われた、純粋なまでに研ぎ澄まされた殺意だった。話し合う余地などない。ナズーリンの言葉が実感として胸に染み込み、不穏なさざめきを残して消えた。無駄であることを悟りながらも、星は懇願するように訴えた。
「ごめんなさい。私は生きたい。……生きなければならないのです」
#07
獄卒の街の露店で、雲居一輪は酒を飲んでいた。時おり振り返って暖簾をたぐり上げては、熱風の吹き溜まる往来に眼を凝らした。罪人の肉の串焼きを口に含み、時間をかけて咀嚼する。昔ながらの濁り酒の味わいは、いつもより苦く感じられる。
顔見知りの牛頭と馬頭が、肩を並べて暖簾を潜ってきた。汗と血肉の臭いが鼻孔を突き上げてくる。
牛頭が鼻を鳴らした。「……雲居の姐さんか」
「その呼び方、止めて」
「ご無沙汰だな」
「仲間がまた死んだの。飲まないとやってらんないのよ」
「おう、そりゃ災難だ。地獄行きにならないことを願おうじゃないか」
馬頭が笑えないジョークを飛ばして、白骨の杯(さかずき)を呷った。
「じゃないと俺達が仕事をする羽目になるからな」
「それなんだけど」再び往来を振り返る。「どいつもこいつも慌ただしいわね。何だか落ち着かないって云うか」
二人は凶悪な鼻面を突き合わせた。店主のされこうべが塩焼きを出してから、謎の答えを教えてくれた。
「知らなかったのかえ、異動だよ」
「異動?」
「あい、あたしらみんなね。ここを引き払って別の管轄に入るんだと」
「あんたらも?」
牛頭は出来損ないのふいごのような口笛を吹き、馬頭は夢中で塩焼きにかぶりついている振りをした。
「――みんな居なくなっちゃうわけ?」
「そうさね。閻魔様方のご指示だから。家財もみんな残して、最低限の荷物だけ携えて撤収だそうだよ」
「急な話ね。なんでまた――」
「どうせ銭が無くなったとか、下世話な理由に決まってらあ」馬頭がグラスを置いて云った。「俺達の給金はどうなるんだろうな、ええ?」
「あたしも今日で店じまいですわ。気に入ってたんだけどね、ここ」
されこうべは頭を振った。残り僅かな歯がぽろぽろと落っこちた。
骨の杯を見下ろす。自分が飲んでいた酒が、突然に今生で最期の一杯に化けたような気持ちだった。事実、そうなのかもしれない。背が丸まり、呼吸が乱れた。溶かした鉛を腹に流し込まれたかのように。
「ま、――姐さんも達者でやってくれや」
「自殺だけは止めとくんだな、碌なことにならんから」
「ありゃ最後の手段だ」
「永劫回帰だ」
「この街も見納めだな」
「寂しくなるなあ……」
好き勝手に語り合った後、二人は懐から小袋を取り出した。罪人の皮をなめして加工された代物だ。差し出された皮袋を、一輪は横目で睨みつけた。
「要らないわよ、そんなもん」
「まあまあ、餞別と思って受け取ってくれや」
「馬の餞(はなむけ)だな。馬頭だけに」
「そこまで落ちぶれてないわよ」
牛頭は肩を揺すって笑った。「もう堕ちるとこまで堕ちてるじゃねえか。これは俺達なりの“慈悲”って奴さ。仏様の教えよりも、よっぽど現実的で即効性がある」
「姐さんが要らないんなら、あの舟幽霊にプレゼントしてやれよ。ありゃ相当にきつそうだったからな。景気づけには丁度好いさ」
無理やり袋を受け取らされた。柔らかで滑らかな感触に、鳥肌が立つのを感じた。されこうべは見て見ぬ振りをしていた。勘定を済ませると、牛頭と馬頭は別れの挨拶もせずに去っていった。
頭が廻らなかった。杯を前に押し出した。
「……お酒、まだある?」
「さっきのでお終いだよ」
お終いだよ。
されこうべの声が、飯台に空しくへばりついた。
#08
聖輦船の船首に腰かけて、パイプを口にくわえ、日がないち日を過ごす。それが村紗水蜜の日課と呼ぶべきものだった。葉っぱはとうの昔に切らしていたから、吸い口には噛み跡ばかりが残った。
獄卒達が去り、街の明かりはひとつ残らず消えた。世界の風景は徐々に様相を変えつつあった。罪人の悲鳴は途絶え、気温が低下し、硫黄の臭気が引いてゆく。まるでひとつの生命の終わりを、枕元でじっと眺めているかのような心境だった。血の池地獄に浮かぶ鎖に縛られた船だけが、変わらないままに存在している。
今、水蜜は一輪が持ち帰ってきた皮袋を手の中で転がしている。眠っているところを失敬してきたのだ。彼女はパイプを吸わないから、問題はないはずだった。中身は刻み煙草のように見えた。本当に久しぶりの嗜好品だ。ランプの火を移して、火皿に詰めた葉が煙を上げるまで待った。ひと口、肺の奥まで吸ってから、身体中の空気をかき集めて吐き出した。夏の猛暑にさらされた砂糖菓子のように、脳がとろけてゆくような感覚を味わう。甲板の縁を握りしめて、バランスを取ろうとする。
身体が浮き上がるかのようだった。岩盤をすり抜けて、地上まで昇ってゆけそうな気がした。首が据わらなくなり、ブランコのように前後に揺れる。岩という岩がアメーバのように輪郭を失う。ランプの光が虹色に輝いて、火山の噴火のように爆発的に拡散していった。二度と浴びることはないと思っていた、太陽の光だ。唇の端が緩んで、涙が頬を伝った。指の先から力が抜ける。地軸をへし折られて、世界が真っ逆様になる。着水の音も、そして衝撃も感じなかった。まるで羊水に包まれているかのように居心地が好かった。血の池地獄も、今の水蜜にとっては海も同然だった。
瞼の裏に光があり、温もりがあり、そして優しさがある。天国への扉を叩いている。誰かが自分に向かって手を差し伸ばしている。微笑みを浮かべた彼女の表情を、瞳の奥で感じている。どうして忘れてしまっていたのだろう。絶対に忘れてはいけないと誓った、大切なひとの筈だったのに。水蜜は懸命に手を握り返そうとした。沈みゆきながら、失われた生活の断片を拾い集めていった。必死でしがみついた。温かい食事があり、暖かい笑顔がある。それだけのこと。本当にそれだけのことなのに。残照さえも血の色が覆い隠してゆく。彼女の姿も飲み込まれてしまう。
やがて、何も見えなくなった。何も聞こえなくなった。
#09
聖輦船を隅々まで探したが、水蜜は何処にもいなかった。引きずるようにして足を動かし、獄卒達が去った後の無人の街を歩き回った。彼女は消えてしまっていた。代わりに漂うは怨霊ばかりだった。罪人達の成れの果てが、地獄の成れの果ての世界を跳梁している。行きつけだった露店に誰かがいた。水蜜ではない。最初に二本の尻尾が視界に映り込んだ。丈の短い、血で染められた水干を身にまとっている。
彼女が振り返った。燻製にされた肉が、口の端からはみ出していた。
「なんだい、お前さんは」
「それはこっちの台詞よ」
「名前なんてないよ。ただの火車さ」
「みんな出払ったかと思ってた」
「みんな?」彼女は肉を飲み込んだ。「あたいは獄卒じゃないよ。居残り組さ。ここなら好きなだけ怨霊が喰えるし、好いことずくめさね」
「私と同じくらいの背格好の女の子、見なかった?」
「知らないね。それよりさ、お姉さんのこと聞かせてよ」
「話すようなことは何もない」
「見たところ妖怪みたいだけど、変わった臭いがするねぇ」
「元人間だから」
「そりゃまた――」彼女は云い淀んだ。「ま、いっか。どうぞよろしくね。これから永い付き合いになりそうだ」
「…………」
「お姉さんが死んだら、そん時は死体を頂いても構わないかい?」
「……死んだら、ね。綺麗に食べてよ、お願いだから」
「もちろん」
火車の少女は牙を剥き出して笑った。
雲山と手分けして、来る日も来る日も水蜜を探し続けている間に、世界は色を失っていった。溶岩流は冷えて固まり、僅かな明かりさえもが遠くなる。冬の夕暮れのように薄暗く、地獄は暗渠に沈んでゆく。肌の元の色さえも分からなくなる。
ある日、溶岩の流れていた渓谷を抜けてゆくと、地平線の果てまで続いていた荒野が跡形も無く消滅していることに気がついた。迷路のように曲がりくねった横穴と、群青色の岩壁がそびえ立つばかりだった。視野が急激に狭くなったように感じた。獄卒達が去ったことで、この場所は地獄としての機能を失ってしまったのかもしれないと、ふと考えた。旧き地獄は、ただの地の底へと姿を変えつつある、と。
――裏を返せば、私達は本格的にこの星から見棄てられた訳だ。
そのことに思い至ってから、倒壊した家屋のように身体が使い物にならなくなった。支柱という支柱がぽっきりと折られてしまったような気持ちだった。聖輦船の甲板に横たわって、何も食べずに、何も飲まずに、気の遠くなるような時間を過ごした。それでも、終わりは訪れなかった。死は遠かった。
#10
誰かに顔を覗き込まれていた。紅い髪が見えた。とうとう例の猫耳が喰らいに来たのかと、最初は思った。横っ腹を爪先で小突かれたから、足を振って蹴り返してやった。
「――っと、なんだ、生きてるじゃないか」
「……ご生憎様。食べるってんなら、もう少し待ってちょうだい」
「妖怪を喰らう趣味なんてないよ」
眼を凝らした。牡丹の咲いた袴を着て、肩に馬鹿でかい鎌を携えた少女がいた。唇の端を曲げて、こちらを見下ろしている。
「……死神さん? お迎えに来たわけ?」
「お前さんに用はない。ちょいとした調査に来ただけだよ。人手が足りなくてね」
「へえ」
「これから報告に帰るところなんだけど――」彼女が顔を覗き込んできた。「どうだい、……もう諦めて、こっちに来る気は?」
「点数稼ぎかしら」
彼女は傷ついた顔をした。「ただの善意だよ。本当は管轄外だけど、まあ大目に見てもらえるだろうさ」
「私を殺すことが、あんたの“善意”ってわけ?」
「分かってないね。お前さんはもう死んでるんだよ。ここは今や地獄ですらない。この世でいちばん孤独な牢獄だよ。いつまでもしがみついてないでさ、楽になった方が好い。うちの上司は苦しみ抜いた奴を粗末には扱わないよ、たぶん」
「話が長いわね。放っといてよ」
死神が傍にしゃがみ込んだ。
「わが身世にふる、ながめせしまに。絶世の美女だって、死体になれば禽獣に喰い荒らされるだけさ。……なぁ、自棄になるんじゃないよ」
一輪は、これまで自分が喰らってきた罪人の山を思い返した。彼らの肝を肴に、骨の杯で浴びるほどの酒を飲んできた。下される裁きは間違いなく“黒”でしかない筈だった。ここで死んだところで、また別の地獄に堕とされることになるのは目に見えている。それも今度は自分が責め苦を受ける番になる。繰り返し、永久にそれが続く。
喉の奥が絞られるのを感じた。嗚咽に似た潰れた吐息が漏れた。死神の大鎌を見上げる。抵抗する力は何処にも残っていない。逃げることさえ叶わない。殺れるものなら殺ってみろと、睨みつけてやることしか出来なかった。
彼女は立ち上がり、溜め息をついた。
「善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや。自覚があるのなら、それだけで充分だよ。だから、お前さんもきっと――」
言葉は続かなかった。死神が横様に吹っ飛んで、船縁に頭から突っ込んだ。雲山が拳を振り回しながら傍に寄り添う。彼の怒りに燃える表情を見るのは、いつ以来だろう。
鎌を杖に死神が立ち上がる。「……もういい。好きにしなよ」
彼女が去ってから、雲山は膨らませていた身体を元の大きさに戻した。夏の入道雲のように白かった彼の身体も、今では元の色も分からないほどに変わり果てている。
「……雲山」一輪は呟いた。「ありがとう。でも、やり過ぎよ」
彼は気遣わしげにこちらを見下ろすばかりだった。
「ええ、ごめんなさい」着物の袖で目尻を拭った。「私、生きるよ。最期まで生きてみせるから、そんなに哀しい顔、しないでよ」
#11
ナズーリンは寺の境内に降り立った。敷石から好き放題に草が生えており、屋根はところどころに穴が空いている。流石の主人も本堂の掃除だけで気力が尽きているらしい。方々を確認しながら寺の裏手に回る。そして、そこに広がる光景を見て足が凍りついた。蝉時雨が遠ざかり、気温が零下まで下がったように感じられた。
縁側に寅丸星が呆然と腰かけていた。乾いた地面でも吸収し切れなかった大量の血が、彼女の足元まで達していた。
「……何やってるんだい」声が震えた。「何をやったんだい、ご主人」
「すみません、ナズーリン」
彼女は視線をうつむけたまま答えた。胸に抱かれた宝塔は赤黒く染まっていた。肉片が端にこびり付いているのが見えた。
「毘沙門天様から頂いた法具を、汚してしまいました」
「いや、それは好いんだ。――いやいや全然好くないが、取りあえず今は好いんだよ。それよりこれ、……みんなご主人が殺ったのか?」
星は頷いて、両手で顔を覆った。下手な化粧でも施したかのように、その爪も紅の色に染まっていた。
「私は、やはり虎でした」彼女は呟いた。「あの王子のようには、なれませんでした。虎は、何処までいっても虎だったんです。私は、ナズーリン、――私」
「落ち着け。宝塔が奪われずに済んだ。それが分かっただけでも何よりだよ。……ああ、びっくりした。尻尾が抜けるかと思った」
「このひと達は、生きたかったんです。生きるために殺して、食べていたんです。それだけだったんです」
「それを云うなら私だって同じだよ。毘沙門天様に拾われる前の生活なんか、そりゃ酷いもんだったよ。知ってたかい、鼠の平均寿命は――」
言葉が途切れた。猛烈な血の臭いに、腹がぐうっと鳴ったのだ。配下の鼠が、笠の上で落ち着かなげに身じろぎしている。唇の端をひん曲げて、ナズーリンは腰に手を当てた。
「……ところでご主人、死体の処理は私に任せてもらっても好いかい?」
人肉の調理は炙り焼きに限ると、かねてよりナズーリンは信じている。先走って火傷しそうになる鼠達を宥めながら、皿に山盛りにした塩焼きを主人の許に持っていった。縁側に座ったまま、星は奇妙な表情でこちらを見ていた。
「ご主人も食べるんだ。力が出ないぞ」
隣に腰を投げ落とし、主人との間に盛り皿を置く。
「……いいえ、私は遠慮しておきます」
「もう神徳は失われてるんだ。痩せ我慢して飢え死にしても好いのか」
「しかし――」
「殺したのはご主人だろう。責任を取るんだ」
「戒律が――」
「戒律なんかで飯が喰えるか」
彼女は絶句した。差し出された串を、呆然と見下ろしている。
「ナズーリン、貴方ってひとは」
味わい深く咀嚼しながら、答えを返す。「……私は毘沙門天様の使い走りだ。だが仏法に帰依してる訳じゃない。鼠は虎と違って、その資格さえ与えられないんだな。だからご主人、これ以上贅沢を云わないでくれ。いざという時のために、泥を啜ってでも生き抜く気概と体力を養っておいた方が好い」
ひと息に云い終えてから、喋り過ぎたと反省した。だが効果はあったようだ。星は肉の匂いを嗅いでから、ひと口に平らげた。顎を動かしてゆくにつれ、染み出す肉汁と同じように、涙もまた次から次へと瞳から溢れた。彼女は声を殺して泣いていた。独りきりの妖怪の姿が、そこにはあった。
ナズーリンは見て見ぬ振りをしていた。苦し紛れの声が喉奥から込み上げてきた。
「――毘沙門天様は、あくまでも人間のためにあられるんだ。最後の最期の決断を迫られた時、あの方は、――妖怪の味方をされるわけにはいかなかったんだ。どちらがより信心深いかじゃない、どちらの正義がより最大多数の調和をもたらすかを鑑みたんだよ。今は、あの方も悔いておられる。口にこそ決して出さないが、…………」
声は続かなかった。寅丸星は嘆き続けていた。その嗚咽の前には、いかなる言葉も重みを失ってしまう。禅の問答にあるように、最後に解決を導き出すのは沈黙によって裏打ちされた時間だけだった。
#12
三途の川が流れる此岸で、村紗水蜜は膝を抱えていた。
水の音は柔らかだ。手を浸して遊ばせると、それだけで胸の内が晴れていくような心持ちがした。傍では小野塚小町と名乗った少女が頬に手を当てて、柳の幹に寄りかかっている。
「あンの雲親父、思いっきり殴りやがって」
「雲山を怒らせたら怖いからね」
「身をもって実感したよ。やんなるね、ほんと」
「一輪は、……来ないって?」
「ああ」血混じりの痰を吐き捨てる。「生きるとこまで生きてやるんだとさ。あれはしぶといよ、あたいの経験上、間違いないね」
「そう」
水蜜は立ち上がった。彼岸花の土手を抜けて、さざ波の打ち寄せる河原を見下ろした。幾人もの子供がひたすらに石を積み上げている。童(わらべ)の唄がここまで届いてくる。ひとつ積んでは父のため、ふたつ積んでは母のため。みっつ積んでは故郷の……。
獄卒が子供の後ろを歩き回っては、適当なところで金棒を突き出し、粗末な石の塔を台無しにしてしまう。子供は獄卒の顔を見上げてから、手のひらを重ねて祈り、また石を積み始める。鬼は殴りつけるように童の頭を撫でて、荒っぽい声を投げつける。親の嘆き、ここまで届いているぞ。まだ足らん。もっと積め。天まで積め。
「――お前さんも妖怪にならなかったのなら、同じことをしていたかもね」
小町が背後に立って云った。
「私にはお父さんはいないよ。お母さんも」
「忘れているだけなんじゃないかい?」
「そうかもね。でも、……何も思い出せないな」
獄卒がこちらに向かって金棒を振った。
「小野の姐貴、今日も麗しいね。拝ませてもらっても好いかい」
「褒めるんじゃないよ、黙って仕事してろ。あと、その名で呼ぶな」
「好い男のひとりでも作れよ。せっかくの別嬪さんなんだから」
「大きなお世話だ」
獄卒が仕事に戻る。小町は眉をひそめて、鎌の石突に両手を乗せた。
「……美人なんて云われても、空しいだけさ。あいつもそれを知ってて云ってるんだ。本当、腹の底から意地の悪い連中だよ」
「いつから死神を?」
「さぁね、あんたと同じだね。覚えてないんだ、昔のことは。何もかも捨てて来たんだよ。思い出す必要もないしね。昔話なんてのは、死んだ連中から聞く方がずっと楽しい」
「寂しくはないの? こんな静かな場所で――」
「孤独ではあるよ。でも、あたいにはこれが合ってる。誰にも邪魔されないし、興味深い話をいっぱい聞ける。アラビアの王様にでもなったような気分さ」
「アラビア?」
「海の向こうの話だよ。毎晩、夜が明けるまで物語を聴いているうちにね、いつしか心を癒されるんだ。誰の人生にも物語はある。真剣に話を聞いてやれば、そこから共感を見いだすことも出来る。共感を導く力こそが、すなわち物語の力だよ」
「物語……」
「お前さんにもちゃんとあるよ、物語は。いつかさ、今のことを懐かしみながら語れる日が来ると好いね。そう思うよ、割と真剣に」
そんな日が来るとは、到底思えなかった。
小町は大鎌を担ぎ直した。
「――さて、あたいはそろそろ仕事に戻るから、今のうちに決めてくれないかな」
「何を?」
「このまま向こうに往くのか、それとも尼さんの許に戻るのか」
死神の微笑みを見返した。「……好いの、戻っても?」
「本当はやっちゃいけないことなんだけどね」
ただし、と少女は付け加えた。
「還っても、何にもならないと思うよ。永遠に閉じ込められたままかもしれない。あの時に死んでおけば好かったって、後悔するかもしれない。――その覚悟は出来ているのかい?」
「覚悟」
覚悟って、何だろう?
こんな境遇にまで堕ちてしまっても、それでも、私は生きていると云えるのだろうか。水蜜は自分の胸に問いかけた。真剣に、心の扉をノックしてみた。二度と恩人に会えないことは分かっている。この世の果てで腐り果てるしかないのだろう。そこまでして、どうして生きるのか。もう一度、あの手を思い返した。天に向けられた手のひら。柔らかな温もり。初めて自分を受け止めてくれた言葉。泣いても好い。貴方は、泣いても好い。
腹の底まで深呼吸した。
「……戻りたい」言葉が響いた。「生きていたい」
「ん」
「一輪も、雲山もいるから」
「そうだね」
「死ぬ時くらいはさ、いっしょに」
「ああ」
「それくらいなら、赦されると思う」
「…………」
「それだけが、私の救いだよ」
「……分かった。眼を閉じな。身体を楽にするんだよ」
瞳を閉ざして、耳を澄ませた。せせらぎを、川の歌を、水の音色を記憶に留めておきたかった。海を離れて久しい。あの水底に還りたいと思わない日はない。あの潮騒の中に駆け戻りたいと願い続けている。空を失い、海を喪った私達に出来ることは、母親を亡くした赤ん坊のように、ひたすらにあがき続けることだけだ。
#13
その時はまだ、年端もいかない人間の少女だった。
一輪に覆い被さろうとした賊の身体が鞠のように吹っ飛んで古木にぶつかり、骨が折れる音と共にぺしゃんこになった。彼らが皆殺しにされるのに、さほどの時間はかからなかった。血まみれの拳を打ち合わせながら近づいてくる雲山を、霞んだ視界の中に捉えた。身体を震わせる入道。出会ってまだ間もないが、その意味するところは伝わってきた。礼を述べようとしたが、喉が枯れていて声が出ない。代わりに手を差し伸べると、彼は拳をぶつけてきた。
夏の蒸し暑さや、雨上がりの湿気も相まって、血の臭いは凄まじいものだった。息をするにも苦しく、筋肉の衰えた脚はどう云い聞かせても動こうとはしてくれない。惨殺された骸に囲まれ、ぬかるんだ大地のベッドの上、古木にもたれかかりながら、一輪は死を待っていた。先に旅立ってしまった弟や、妹達の姿が走馬燈のように脳裏を過っていった。飢えの衰弱が激しく、最期には互いの屍に喰らいついた格好で動かなくなっていた、遠い遠い彼らのこと。
不意に身体を揺さぶられた。眼を開けると、雲山が手にした物をこちらに寄越していた。それは彼が殺した賊の腕だった。断面に垂れ下がった皮筋から、スイカの果汁のような血の滴が伝い落ちて、擦り切れた着物に染み込んでいった。首を振ると、雲山も振り返す。握り拳に力が込められて、間欠泉のように血潮が吹き出し、顔に降りかかってきた。喉の乾きは残酷だった。舌で舐め取り、味わいながら飲み込むと、手足の先に僅かながら力が灯ったように感じられた。
入道は両手の指を器用に動かして、腕の肉を細切れに裂いていった。着物を脱がせるかのように皮を剥き、骨から引き剥がし、好く揉みほぐしてから、もう一度こちらに差し出した。加工されたそれは、もう人間の血肉には見えなかった。命の食べ物であり、命の飲み物だった。小麦のパンであり、赤色のワインだった。
最初のひと口は噛まずに呑み込み、次に咀嚼を覚えて、終いには嚥下するのが勿体なくなった。味が出なくなっても歯を動かし続けた。視界が晴れてゆき、澄み渡った青空が木々の狭間から覗いていることに気がついた。そよ風に誘われて木漏れ日が揺れている。森の調べが全身を包み込んでくれているように感じた。
いつしか辺りは、解体された遺体で埋め尽くされていた。雲山は満足げに中空に漂いながら、穴の穿たれた頭蓋を傾けて、ココナッツのように髄液を飲んでいた。その姿を目にしてようやく、自分はもう後戻り出来ない領域にまで踏み込んでしまったことを悟った。身体を鞭打ち、奮い起こす。数歩進んでから、聖餐の跡を振り返った。どの首もこちらを向いて転がっており、濁りの帯びた瞳は逸らされることがなかった。一輪は彼らを見つめ返した。手を合わせるか、頭を下げるか。どちらも違う気がした。
「……往こう」
雲山が頷き、傍に寄り添う。
少女は、――雲居一輪は歩き始めた。いつまでも、そしてどこまでも追いかけてくる視線を懸命に振り払いながら。
#14
彼女が眼を覚ました。村紗水蜜は身体を起こして、一輪の手を握りしめた。薄闇の中で、彼女の瞳だけが空色の輝きを宿していた。焦点が合わさった時、手に込められた力が強まった。
「――……村紗」
「うん、一輪」
彼女の口から空気の詰まるような音が漏れた。
「どこに、……どうして?」
「向こうまで行ってきたよ。でも――」水蜜は首を振った。「私の刑期は、まだ終わってないから」
「バカ」彼女の声は掠れていた。「そんなの気にしないで、さっさと成仏しちゃえば好かったのよ。せっかく、せっかく楽になれたのに」
「分かってるでしょう。私達は楽になんてなれないよ。もう二度と。それなら独りぼっちより、三人の方が好いじゃない」
「それでも、――やっぱり馬鹿よ。馬鹿だよ、あんた」
「いっしょに居たかったから」
水蜜は彼女を抱き起こした。背中をさすりながら、骨ばった身体の重みを感じていた。顔が隣合わせになり、肩の震えが伝わってくる。同じように背中に回された手の力加減に、彼女の気持ちの全てがこもっているように感じられた。首筋に流れる海水の湿った感触は、彼女からの、たったひとつの贈り物だった。
「水蜜、お願い。……私を赦さないで」
繰り返し、一輪は呟いた。
「わたしを、離さないで」
◆ ◆ ◆
歩き始めた主人の背中は、思っていたよりも広かった。
鈴を括り付けた独鈷杵を手に、宝塔を胸に抱きしめて、洗い立ての法衣に身を包む。石段を降り始める前に、一度だけ振り返った。かつての姿は見る影もない、歴史上の役目を終えてしまった仏閣の姿。風に揉まれて、雨に埋もれて、やがては草の根を結んで崩れ去ってしまうのだろう。
「――行って参ります」
寅丸星が頭を下げて、我が家から背を向けた。ナズーリンは石塔から飛び降り、彼女の斜め後ろに着地した。
「ご主人」
「ナズーリン?」
「……何か忘れてないかい?」
手のひらを上に向けて、彼女に差し伸ばした。
「宝塔だよ。行くんなら、返してくれ」
星は笠を目深に被り直した。
「もう少しだけ、待って頂けませんか?」
「どうしてだ、寺を離れるんだろう? 今度こそ踏ん切りがついたのかと思っていたんだが」
彼女は首を振った。「巡礼の旅です。この国を回ります。今の人間の姿を、そして妖怪の姿を確かめたい。その行く末も」
「また気の長い話だな」
「毘沙門天様にも宜しく伝えて頂けませんか」
「そりゃあの方は反対されんだろうが――」
参ったな、と腹の前で腕を組み、顔を俯けて溜め息をこぼす。
「……お願いだから、失くさないでくれよ。私が探す羽目になる」
「では――」
「ただし、監視は続けるぞ。あちこちで問題を起こされては困る」
部下の鼠を独り、彼女の手のひらに乗せた。
「そいつが監査役だ。定期的に、私に報告させるからな」
少女の顔が綻んだ。夕焼け空に瞬(またた)く一番星を見つけた、人間の童のような笑顔だった。
「会いに来てくれるのですね、ナズーリン」
「何処に居ようが見つけ出すよ。私の任はまだ解かれていない」
「ありがとう」
法衣の胸を握りしめて、星は何度も頭を下げる。
ナズーリンも、釣られて苦笑してしまった。
「おかしなご主人様だ」
「次に会ったら、話をしましょう」
「話?」
「貴方と話がしたいんです、心から。私も、私のことを話します」
「……聞いても気が塞ぐばかりだぞ、好いのか?」
「構いません。それが私の救いになります」
指切りまでされてしまっては、断れる筈もなかった。
星の背中は、やがて木々に紛れて見えなくなった。ナズーリンは背伸びしてから、肩の上でくつろいでいる部下に訊ねた。
「やれやれ、――お前はどう思う?」
「ちゅーっ!」
「だな、やはり我々が見守ってやらんと駄目なようだ」
笠の縁をつまんで、大空を見上げた。夏の盛りにも涼風(すずかぜ)は吹く。雲の払われた快晴の青空からも、追い風はこうして降りてきてくれる。こんなにちっぽけな自分にも、あんなに惨めなご主人様にも。
「……貴方と話がしたい、か」
ナズーリンは首を振って想いを打ち払い、大地を蹴った。
吹き寄せる夏の香りを、胸にぎゅっと抱きしめた。
#15
歴史も無ければ、未来図も無い。見棄てられた世界の、繰り返しの幾星霜を彼女達は歩み続けた。日毎に光は失われ、地殻の熱も消えゆく旧き地獄で、それでも生き続けている。この場所で私達は生きている。この場所でこそ、私達は生きている。
無人の街を三人で歩き回った。空き家に遺されていた布団で、本当に久しぶりに安眠を迎えることが出来た。何日も何日も、同じ部屋で眠り続けたこともあった。手を繋いだままで、何とも繋がれない世界で。
ある時、大規模な地殻変動があり、旧地獄の市街地は軒並み破壊し尽くされてしまった。数週間もの間、あちこちで不気味な音響が岩壁に乱反射して、何度も余韻を臭わせながら、やがては治まっていった。水蜜は聖輦船から降りて暗がりの中を探索した。遠くから音が聞こえてきた。それは川の音だった。流れ込んだ地下水によって作られた、清らかな小川だった。血の池ではない。本物の水だった。水蜜は手を広げて飛び込み、そのあまりの冷たさに昇天してしまうところだった。
それから更に数日が経って、川に身を浸していたある時、上流から何かが運ばれてきた。黒ずくめの生き物、――背中に二色三対の奇怪な羽を生やした、痩せ細った少女だった。水蜜は半身を起こして、両腕に彼女を受け止めた。ひと振りの刀を着物の胸に抱いた少女の左手首には、痛々しい傷跡が刻まれていた。驚くほどの軽さと、その傷跡から、弓矢で射落とされた小鳥の姿を連想した。唇が動いている。それは誰かの名前のように聞こえたが、声があまりに微かで聞き取れなかった。彼女の瞳からは水に混じって、幾筋もの涙が流れていた。
聖輦船に運び終えた時、彼女は眼を覚ました。
少女は傷ついた獣のような唸り声を上げて、刀を抜き放ち、こちらに切っ先を向けた。立ち上がろうとする一輪を制して、水蜜は彼女に近づいた。刃が身体に沈み込んだが、痛みはない。貫かれた部位が液状化して、板敷に滴り落ちた。切っ先が貫通したところで歩みを止め、彼女の両肩に手を置いた。
「大丈夫だよ、もう大丈夫」
彼女は柄から手を離した。その場に呆然と尻餅を突いて、ぽっと火が点いたように、大声で泣きじゃくり始めた。水蜜も、一輪も雲山も、どうしてやれば好いのか分からなかった。声を上げて感情を爆発させるような相手に、もうずっと長い間、接する機会もなかったから。
それが、封獣ぬえとの出会いだった。
ぬえはすぐに調子を取り戻した。二人のことをからかっては、ここまでおいでとばかりに舌を出す。地底の暗闇なんて、まるで意に介していないかのようだった。水蜜と一輪は、ぬえの悪戯で迷惑を被ると、ほんの僅かだけれど、笑顔を取り戻すことが出来た。その度に互いの緩んだ頬を指さして、驚きの眼差しを交わした。
「――ムラサ、一輪っ」ぬえは云うのだ。「悔しかったら、私を捕まえてみなさいよ!」
ぬえがやって来たのと時を同じくして、さらに幾つもの物語の歯車が噛み合い、歴史という巨大な機関が胎動を始めた。鬼を中心とした妖怪達が大勢、地上から境界を越えて旧地獄に移り住んできたのだった。どいつもこいつも癖のある、世界から見放された者ばかりだった。彼らは廃墟と化した街を再建し始めた。無数に連ねられた提灯が、旧地獄に再び光を灯した。一輪と雲山は何食わぬ顔で工事に手を貸して、鬼の宴会にも顔を出し、上手いこと仲間入りを果たしていた。酒が入って赤らんだ彼女の顔には、好い汗をかいた後によく見せていた、いつかの清々しい笑みが咲いていた。傷だらけの笑みだったけれど、不思議と痛ましさは無かった。
街の再建は完了し、ここに旧都が誕生した。
#16
「やっ、――久しぶり」
一輪は足を止めた。「あんた、いつかの火車」
「ちっちっち、もう名無しじゃないよ。火焔猫燐、――“お燐”って呼んでちょうだいね」
彼女は腰に手を当ててふんぞり返った。燃えるような髪を三つ編みにして、真新しい黒のドレスを着ていた。
「あたい達、ようやくご主人様を見つけたんだよ。彼岸の連中と話を付けたって。これからはあのひとが旧都を仕切るんだ」
材木を地面に降ろして、彼女の顔を見つめた。晴れ空のように輝くその表情は、復興の証でもあった。
「――入道さん、ちっす」
土蜘蛛の黒谷ヤマメが声を掛けてきた。汗と泥で頬が汚れていたものだから、その笑顔は人間の少年のように見えた。
「お疲れさん。これからパルパルとキスメちゃんとで飲みに行くんだ。好かったらいっしょに来ないかい?」
「ありがとう。でも今日は遠慮しておくわ」
あの子達が待ってるから。
「そうかい、残念っ。また今度ね!」
「ええ」
ヤマメは手を軍旗のように振りながら走り去っていった。
「……ねぇ、お姉さん」お燐が云った。「なんかさ、あたいってば久々にわくわくしてきたよ。面白いことになりそうじゃないか。少なくともさ、悪くない方に向かってるって感じがするよ」
「そうね」一輪は何度も頷いた。「そうね」
◆ ◆ ◆
人類の歴史は、あまりに多くの暴力を伴いながら、それでも次々と他の文明との邂逅を果たして、ひたすらに前に進み続けた。駆逐された幻想の空隙に理性と論理を詰め込んで、ますます多くの技術の成果と、そして巨大化する戦争とを生み出した。遠い遠い歳月の中で、次第に妖怪の姿は忘れ去られてゆき、境界は押し戻され、その生存圏は失われていった。いつしか求められるようになった楽園は、地に落とされた赤い果実のように結ばれて、幻想の最後の居場所となった。しかし変化の恩恵を受けられるのは、あくまでもピラミッドの上層に住まう人びとに限られる。最上部に飾られた黄金が、地の底に息づく人びとまでもたらされるには、今少しの時間が必要だった。地上からこぼれた光が境界を撃ち抜いて、彼女達の許に届くには、まだ。
◆ ◆ ◆
雲居一輪は書店の暖簾を潜った。水橋パルスィがうたた寝から目覚め、緑色の瞳を揺らめかせた。
立ち止まって訊ねる。「あれ、あんた――」
「何よ、文句あんの?」パルスィが頬杖を突いて答える。「急用でね、私が店番を頼まれたのよ。今日は気ままにぶらぶらするつもりだったのに、ツイてないわ」
ぜんまい駆動の蓄音機が帳台に置かれていて、耳慣れぬ音楽を奏でていた。繰り返されるメロディ。気だるさの染み込んだヴォーカル。鼓動のように心地好いリズム。空の彼方まで昇ってゆけそうな、その音色の奥深さを味わった。ただ瞳を閉じて。
「これ……」
「気に入った?」パルスィがレコードのジャケットを読み上げる。「ボブ・ディランの『ノッキン・オン・ヘヴンズドア』ね。新しいものから適当に放り込んだんだけど、まぁ、悪くないじゃない」
「本も増えてるわね」
「持ち込まれてくる量が増えて、整理が大変だそうよ。それだけ地上との境界が緩み始めてるんじゃない?」
瞼を持ち上げて、橋姫の言葉が胸に落ち着くを待った。ディランの音楽が、理解を助けてくれた。袈裟の裾を握りしめて、汗ばんだ手のひらの感触を確かめた。
「――それよりさ、これ見てよ。びっくりしちゃうから」
パルスィが古い雑誌を差し出してきた。両面に渡って写真が印刷されていて、手前に人間らしきものが平らな岩に立っている。背景には上弦の月のような形をした青くて丸いものが、夜空から浮き上がって映っていた。
「何これ?」
「見出しを読みなさいよ。“アポロ11号、月へと到達”だってさ」
「どういうこと?」
「アポロ計画よ。知らなかったの? 人間は自分の足で月の上に立ったのよ。……あいつら、私達を置いて何処まで行くつもりなのかしらね。妬ましいこと」
「月って、――あの月?」
「そう、その月よ。貴方、大丈夫なの?」
「どうやって、そんな」
「“空飛ぶ船”を使ったそうよ。好く分かんないけど」
妬ましい、妬ましい。そう繰り返しながらも、パルスィの声にはいつものような棘が無かった。今にもやけ酒を始めそうな、消え入りそうな声だった。
#17
鎖に繋がれた聖輦船を見上げていると、隣に封獣ぬえが降り立った。新品の黒い服を着込んでいて、胸に飾られた赤いリボンが眩しい。
「どうしたの、その格好?」
「新調したのよ。見りゃ分かんでしょ?」ぬえは胸を張った。「旧都でお買い物。あんたとムラサの分も買ってきてあげたわよ」
新しい尼僧服と、赤いスカーフが付いたセーラー服だった。
「お金はどうしたのよ」
「ちょろまかした」
「この野郎」
「う、嘘よ! ちゃんと払ったってば!」
洋服もまた、地上からの文物のひとつだった。物が境界を越え始めたということは、それ以外の事物が境界をすり抜けることも、決して不可能ではないはずだった。
「ぬえ」息を整えながら訊ねる。「あんたは、地上に戻りたいと思う?」
彼女は唇を引き結んで、身体を硬直させた。
「……なに、禁句じゃないの、そういうこと」
「戻れるかもしれないのよ。万にひとつの可能性だけど」
「そうね、……会いたい奴は居るかな。でも――」
「私達もそう。会わなくちゃならないひとが居るの。それと、助けなければならないひとも」
「まさかそいつ、人間なんかじゃないわよね?」
曖昧に頷きを返しておいた。ぬえはフグみたいな膨れっ面になった。
「そ。――じゃ、勝手になさいな。せいぜい気を付けなさい」
ぬえは飛び去っていった。彼女の行方を目で追いかけていると、雲山が恐い顔でこちらを睨んできた。何よ、と声を掛けたが、彼はそっぽを向いてしまった。
◆ ◆ ◆
一輪の予想は的中していた。道は開けた。
無鉄砲で向こう見ずで、そして命知らずな地獄烏によって、封印は解き放たれた。地上と地底とが、繋がる。村紗水蜜は一輪と手を繋いで、轟音と水飛沫に包まれながら、噴き上がる熱水を甲板から見上げていた。失われた筈の心臓が、水兵服を押し上げる程に高鳴っているように感じられた。身体を広げた雲山が傘となって、飛沫から二人を守ってくれていた。
間欠泉の衝撃は聖輦船を大きく揺るがし、形骸となっていた鎖を粉々に吹き飛ばした。今にも大海に漕ぎ出さんと、飛倉は船体を青白く輝かせていた。水流に背中を押されて、聖輦船は動き始める。二人は船室に駆け込んで、縄で身体を柱に縛り付けた。もう後戻りは出来ない。雲山の身体に包まれながら、近づくにつれて大きくなる振動に必死に耐える。舌をもつれさせながら、水蜜は二人に呼びかけ続けた。
「もしかしたら、失敗するかも、しれないから」
「うん、うん」
「今のうちに、さ。云っとく。――今まで、ありがとね、二人とも」
「ええ、こちらこそ。ありがとう、村紗」
振動が浮遊感に変わり、臓器という臓器が宙返りした。互いにしがみ付くように手を繋いで、両眼をぎゅっと閉じた。真っ白い光の奔流に瞼の裏を覆われて、音響も聞こえなくなっていった。
◆ ◆ ◆
振動が収まり、一輪は眼を開いた。水蜜と顔を見合わせてから、縄を解いて立ち上がり、恐ろしいほどの静けさの中を踏み出した。深呼吸を繰り返して、身体の震えを押さえつけてから、船室のドアに手を掛けた。
永い時間、あまりの眩しさに瞼を上げられなかった。眼球が焼けるように痛んだ。最初に感じられたのは、肺の中を満たしてゆく新鮮な空気だった。続いて風鳴りの音。反響のない足音。亡者のように甲板を歩いてゆき、船縁に手を突いた。少しずつ、本当に少しずつ瞳を開いてゆき、一輪は、そこに広がる青い空を、白い雲を、そして見渡す限りの緑の広がる大地を見た。死の臭いも土の臭いも含んでいない、真新しい風が眼に染みて、どっと涙があふれ出た。
その青空だけが全てだった。その青こそが、ずっと待ち望んでいたものだった。
水蜜はその場に崩れ落ちていた。一輪も座り込んで、互いの身体に手を触れ、その感触を確かめた。自分達は確かに此処に居て、これは夢ではないという事実を伝え合った。遙かな上空で、雲山が大凧のように身体を膨らませているのが見えた。その名に恥じない、山のような入道雲だった。
「一輪」水蜜が顔を上げる。「生きてるよね。私達、ちゃんと」
「ええ、ええ」一輪は彼女の肩に顔を埋める。「生きてるわ、水蜜」
二人は手を繋いで立ち上がり、空翔ける船から見守った。天を衝かんと唸りを上げている間欠泉を。陽の光が水のカーテンに描いてゆく虹の橋を。それは遠い昔に手のひらから零れ落ちてしまったはずのきらめきだった。二人は遥か彼方に遠ざかってしまった輝きを取り戻したのだ。かつて人類がアポロの宇宙船に託したように、いつかこの星から飛び出したいと願ったように、三八万キロメートルもの旅路を越えて、遂にその奇蹟を起こしたように。
#18 Epilogue
夢が遠のいてゆき、村紗水蜜は目を覚ました。水を跳ね上げて身体を起こすと、きゃんっという悲鳴が聞こえた。小野塚小町が頭を振って、水滴を払い落とした。
「――こンの、大馬鹿野郎!」
「野郎じゃないよ」
「着物が濡れちゃったじゃないか!」
「ごめんごめん」水蜜は小舟の縁に手を乗せた。「我慢できなくてさ、ついお邪魔したくなるの。沈めはしないから、安心してよ」
「ンなこと云いながら、この前は柄杓どころかバケツで水を注ぎやがったじゃないか。勘弁しておくれよまったく」
小町は上体を起こして、疲れたような笑みを見せた。
「……明るくなったねぇ、お前さん」
「そうかな」
「好くやったと思う、本当に」
「何もしてないよ、私。生き延びたかっただけ」
死神は鎌の刃に手を触れた。「じゃあ、その幸運を手放さないことだね。お願いだから、川を渡るようなことにはならんでおくれよ。お前さんの裁きは、うちの上司だって往生しちまいそうだ」
「閻魔は迷わないって聞いたけど」
「どうかな。カルネアデスの板、メデュース号の筏、アンデスの聖餐。……難しいんだよ、お前さん達は。だから絶対向こうに往くんじゃないよ。遊びに来るくらいなら、相手してやるからさ」
「うん、ありがとう。恩に着るよ」
賽の河原に泳ぎ着いた。今もまだ、子供達は石を積み続けている。地蔵様が救いの手を差し伸べても、後から後から先立ってしまった子供は流れ着く。彼らの一人ひとりに視線を配ってから、水蜜は幻想郷への道を辿っていった。
ひとつ、昔話がある。
好く知られた異変が終わり、命蓮寺が落成して初めて食事をした時分のことだ。聖白蓮は未だ感激の冷めやらぬ様子で、それは水蜜も一輪も、そして寅丸星も同じだった。手伝うと云っても聞かず、白蓮が独りで全ての献立を考え調理してくれた。出来上がった食事は、春の贅沢を余すところなく注ぎ込んだ逸品の数々だった。――鮎の塩焼き、若筍煮、菜の花の辛子和え、ふきの旨煮、三つ葉のすまし汁。……白蓮の号令で「頂きます」と唱和して、三人は箸を手に取った。
けれども、水蜜も一輪も、好く食べて好く眠る星も、料理に箸を付けることが出来なかった。白米は真珠のように輝いていて、まるで幻のように視界に映っていた。失敗したのかと白蓮は心配したが、それには三人とも全力で首を振った。やがて星が一番手を切る。炊き立ての白米を口に運び、すまし汁を飲んで、しばらく顎を動かしていた。瞳から涙がぽろぽろとこぼれ落ち、並べられた料理と白蓮の顔とを、交互に見つめていた。その時の彼女の言葉を、水蜜は今でも覚えている。
「聖、ごめんなさい。料理はとても美味しいんです。本当です」彼女は俯いて続けた。「……でも、これを食べる資格が私にあるのかどうか、分からないんです」
命蓮寺への帰り道を急ぎながら、水蜜は青空を仰ぎ見た。今日は比較的に涼しく、夏の空は無限の優しさを湛えて頭上に広がっていた。まるで広大無辺の慈悲のようだった。今でもふと空を見上げると、訳もなく泣き出してしまいそうになる時がある。その時は決まって嗚咽だけがこぼれて、涙が流れることはない。瞼の奥で凝固しているのかもしれない。
それは恐らく、一輪も同じではないかと思う。麻薬の効能が続いているみたいに、頭がぼうっとする時が多い。単純なことでさえ忘れてしまって、周囲に呆れられてしまうこともある。どれだけノックしても開いてくれない扉のように、地上脱出の時分を最後にして、感情らしい感情を取り戻すのに苦労している。
命蓮寺の門前に帰り着いた水蜜は、一輪と雲山に鉢合わせした。一輪はディランの「ノッキン・オン・ヘヴンズドア」のレコード・ジャケットを手に持っていた。水蜜も、三途の川から拾ってきた丸い石ころをポケットから取り出した。
「考えることは同じね」
「そうみたい」
二人は苦笑を交わした。雲山も口を開けて笑っていた。
門を潜り抜ける前に、三人は幻想郷の原風景を振り返った。夏の日差しに暖かく包まれた、新しい緑の萌え立つ世界を。草の竪琴が奏でられるその世界では、稲穂は波のように揺らめいており、小鳥が唄いながら頭上を通り過ぎてゆくのだった。
水蜜は息を吸い込んだ。「……何だか、夢を見ているみたい」
「そうね」一輪は頷いた。「まるで夢みたいね。何もかも」
母屋の玄関先で封獣ぬえが仁王立ちしていた。羽がシベリアの針葉樹みたいな形になっていた。
「……ひとを買い物に行かせておいて、あんた達は暢気にお散歩?」
「悪かったわよ」一輪がぬえの頭を撫でる。「あんたこそ、余計な物を買ってきたりしてないでしょうね?」
「こ、これは手間賃だから!」
米袋や野菜の詰め込まれたバスケットの中に、カベルネ・ソーヴィニヨンの赤ワインが澄ました顔で入っていた。一輪と顔を見合わせて、思わず引きつった笑いを漏らしてしまった。
「な、なによ、何よ何よ!」
ぬえにぽかぽかと背中を叩かれながら、二人は母屋に入った。寅丸星にナズーリン、そして聖白蓮がいた。
「おかえりなさい」
白蓮が微笑んで云った。
「姐さん、戻りました」
「ただいま、聖」
「ええ」
「今日は私と村紗で、美味しいご飯を作ります」
「期待してね」
「それは楽しみです。さあ、上がって上がって」
白蓮の手を握って、二人は命蓮寺に帰り着いた。頭の後ろで指を組んだぬえが、口笛を吹きながら後に続く。星はナズーリンから説教を受けていた。彼女達の間にもまた、永い物語が結ばれたようだった。
思わず、一輪の横顔を見つめていた。
「村紗?」
「……ううん、何でも」
今夜は語り明かそうと、水蜜は思った。素敵な音楽を聴きながら語り合えば、決して癒えることのない記憶も、少しばかりの笑い話に変えられるかもしれないから。そこに美味しい葡萄酒があれば、なお好い。そう、まだ大丈夫。待つことには慣れている。明日はもっと遠くまで羽を伸ばしてみよう。もっともっと、その腕を前に差し出そう。
きっといつか、ある晴れた昼下がりに、心から笑える日は来るはずだ。
~ おしまい ~
(引用元)
Kazuo Ishiguro:Never Let Me Go, Alfred A.Knopf, 2005.
土屋政雄 訳(邦題『わたしを離さないで』)早川書房、2006年。
(原題)
Klopfen an die Himmelstür
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ああとてもいい。
素晴らしい作品だと思う。ありがとう
そしてぬえ可愛い。
一輪や村紗たちの過去話って同じようで十色の違いがある。これもまたそのうちの名作のひとつだった。
読んでてとても気持ちよかったです。
ただ少しでもみんなが曇りのない笑顔に向かっていけたらいいなあ