〆親愛なるRへ。
ねえ、今、あなたの目に映るものはなに?
空想の絵筆
彼女の絵を一目見たのなら、誰しもがきっとこんな言葉で評するにちがいない。まるでもうひとつの世界がそこにあるようだ、と。巧みに折り重ねられた色彩に、あるいはキャンバスに吸い込まれてゆきそうな構図に、あるいは想いの丈をぶちまけたかのような筆遣いに、観覧者の大勢はそのような感想を抱くのだ。もちろん、ぼくとて例外ではなく、展覧会ではじめて目にしたその時から、彼女の絵には強く惹かれるものを感じていた。ぼく自身、決して絵心に聡いというわけではないけれど。言ってしまえば個人的に、私的に、まるで恋をするように、ぼくは一枚の絵画に心奪われた。
≪空想の絵筆≫と題されたその風景画には、遠い異国の山並みがキャンバス一面に広げられている。透くような空は青く、木々は幾重にも組みあい山を成し、稜線は艶やかな弧を描きながら天と地を隔てている。描かれているものはほかにない。青緑のみで描かれた、ともすれば地味とさえ思われるその絵画から、しかしぼくは無数の感覚を呼び覚まされるような、そんな印象を受けていた。それは草木の匂いであったり、鳥の囀りであったり、照らす陽の暖かささえ、鮮烈な刺激となって脳裏を突き抜けてやまない。これがいくらかの水彩塗料の混ぜあいがもたらすものとは思えぬほどに、その絵から伝わる空気はリアル過ぎて、だから――
「まるで別の世界に飛び込んだみたい、かしら?」
ぼくの胸の内を代弁するかのように、ふと女の声が耳元を掠める。隣をふり返ってみると、そこにはいつの間にか一人の女性が佇んでいる。浅く被ったつば付き帽子の下の双眸は、ぼくとおなじようにこの絵画をじっと見つめていた。
「その絵、素敵でしょう」
唐突に現れて、けれどそれがさも自然体というように、彼女はぼくに言葉を投げかける。意表を突かれてはじめどきりとしたぼくだけれど、戸惑いはすぐに喜びへと転じた。彼女もまたこの絵に魅入ったひとりなのだと思うと、初対面ということも忘れ、妙な親近感を覚えずにいられなかったのだ。
「ああ、あなたもそう言ってくれますか。嬉しいなあ。さっきから一人で盛り上がってしまって、どうにも気持ちを持て余していたんです」
「そうでしょうね。さっきからあなた、その絵の前から十分も微動だにしないのだもの。でも、お気に入りを独り占めしたい気持ちはわからないでもないけれど、他のお客さんの迷惑になっているんじゃない?」
「それは……すみません、気がつかないで」
「いいのよ。もともと、あまり人気のある絵でもないからね」
そこでふと、彼女の声にいくらかの呆れが含まれているような、そんな雰囲気を言葉の端に感じた。ぼくにではなく、この絵に対して。キャンバスの向こう側のなにかに、誰かに向けて、彼女はほんの少しの毒を吐いてみせたのだ。
「そうでしょうか。ぼくは綺麗だとおもいますが」
人気がないだなんて、そんなことがあるのだろうか。こんなに素敵な風景画なのに、誰の目にも留まらないなんてもったいない。そうぼくが反論しようとしたことを見通していたかのように、彼女はさらに言葉を返す。
「だから物珍しいと思って声をかけたのよ。こんなに地味なものを夢中で眺めているひとがいれば、それは、不思議なひともいるものだって思うじゃない?」
「そういうあなただって、ずいぶんとこの絵のことには詳しそうだ。よかったら教えてくれませんか。はじめてなんです、絵を見て感動を覚えたのって」
ぼくの真面目な切り返しは、しかし彼女の琴線ではなく笑いのつぼを抑えたらしい。「変な人!」と周囲も気にせず大声で言ってのけた彼女は、それから少しの間お腹を抱えてけらけらと笑っていた。
「ごめんなさい、ばかにするつもりじゃなかったの。ほんとよ? でもそうね、今の言葉、作者が聞いたら喜ぶんじゃないかしら」
「あなたは、知り合いなんですか? この絵を描いた人の」
「どうかしら。知っていたところでもう会えない人だもの、彼女がなにを考えて筆を手にしたかなんて、私にはさっぱり」
どうやらぼくの予想したとおり、彼女はぼくよりもずっと、この絵とその作者について知るところがあるらしい。性別まで判っているくらいなのだ、きっとよく調べてあるのだろう。思わぬところで同好の士に廻りあえた偶然に、いよいよ僕は興奮を抑えきれなくなっていた。
「作者の名前は? 出身は? 活動年数は? この他にも作品って、あるんですよね?」
「知らないわ」
「そんな、意地悪をしないで」
「訊くよりも先に、自分で想像してみたらいいじゃない。ねぇ、あなたはその絵の作者って、どんな人だと思う?」
時間の経つほどに旺盛になるぼくの好奇心とは対照的に、彼女の態度は風に吹かれる旗のように飄々としている。ぼくの期待しているほどに、彼女は多くを教えてくれるつもりはないらしい。それならばと、ぼくは彼女の言葉に従じてみることにした。ぼくに初恋にも似た衝撃をくれたひとなのだ、きっと素敵な女性に違いないと、勝手な妄想を膨らませながら。
「……とても、繊細なひとなんじゃないかと」
「それから?」
「丁寧な仕事をする人で、調和を大事にする、でしょうか」
「ずいぶんと高く買うじゃない。でも、残念なことにどれも的外れね。正解は、大ざっぱで、無計画で、自己中心的なモンスター」
けれども夢見がちなぼくの想像は、彼女にいともたやすく切って捨てられる。あまりの物言いに、ひょっとすると彼女はこの絵の作者とは不仲だったのだろうかとさえ疑ってしまう。そしてこんなふうに声をかけてきたのも、売れない画家の絵に目を輝かせるぼくを笑いにきただけなのでは……?
そんな人間不信を抱きかけたところで、「でも、」と彼女が口にする。
続いた言葉は、これまでになく穏やかな声音でもって囁かれた。
「誰よりも、夢をみたひとよ」
彼女の視線がもう一度あの絵画に向けられる。館内照明のおぼろげなオレンジに照らされて、先ほどの晴天がゆっくりと夕焼けの色に移ろっていくような、そんな錯覚をみた。まるでこの絵の中にだけ時間が流れているかのよう。空の茜はやがて濃紺を孕み、日の沈んだ空に星々のきらめきが瞬きはじめる。頭の中に流れ込んできたその一連の映像に、現実におかれているはずのぼくの五感はあっという間に塗り替えられた。まるで重力が反転したかのような奇妙な引力。手を伸ばせば、誰かがその手を引いて向こう側へ連れて行ってくれるような、そんな淡い期待と恐怖が胸を過ぎる。
――ぼくはこれまで、このキャンバスに描かれたものを“絵”と称してきたが、その認識は少しばかり改めるべきだろう。
描かれているのは、広がっているのは、世界だ。
ここじゃない、どこかだ。
「これは、青春の絵なの」
自分に言い聞かせるように彼女は言った。声は静謐な響きをもって、ぼくたち以外の誰に届くこともなく、館内の静寂に同化するようにして溶け込んでいく。
「青春の続き。若気の至りをこじらせた、そのずうっと先で描かれた産物」
「青春……」
この瞬間、彼女の目にはいったいなにが映っているのだろう。ぼくのそれとおなじように、満天の星と月の夜が浮かんでいるのだろうか。そうではない気がする。……いや、ぼくの目に輝くこの星空こそが、彼女にとっての……
「それだけじゃないわ。彼女の描く絵はいつもそう。空も、山も、緑も青も。古びた遺産も未来の匣も、すべて、青春。引きずってるのよ。ずっとね」
その言葉の内に秘められているであろう想いがどれだけのものであるか、ぼくには察する術もない。名前も素性も知らない彼女との共通点はただ一つ、この絵に惹かれたということだけ。ここにある世界に引かれたということ。それさえもきっと、ぼくたちの馳せる想いは違っているのだろう。
ぼくがこの色彩を新鮮に、衝撃を持って受け止めているのなら。
彼女の目に映るそれは、もう、懐かしい色に褪せてしまっているのだろうか。
「でも……あなたも、こうしてこの絵を観に来るんですね」
もう会えないと彼女は言った。彼女たちの間にかつてどんなやり取りがあり、その青春の括りにどのような結末を迎えたのか。その答えをぼくはもう知っているような気がする。
全てはキャンバスの向こう側に。
小窓から覗く世界に、そこに散りばめられた星空に、彼女はまるで自分の居場所を確かめているようで――
「だって彼女が続けるのだもの、仕方ないじゃない。
彼女が描いて、私が視る。それが私たちの青春。
終わらないサークル活動なんだから」
眼差しは在りし日の情熱の火を湛え、今もなお絶えることのない好奇心を燃やしている。
この世界を夢描いたその人が、いつか筆を置く日まで、瞼を閉じるその時まで、彼女の瞳もまたしばらくの間、熱を帯び続けるのだろう。
どこか誇らしげな声で語った老婆の横顔には、甘やかな微笑みが皺と共に刻まれていた。
〆親愛なるMへ。
きっと、あなたとおなじものが。
ねえ、今、あなたの目に映るものはなに?
空想の絵筆
彼女の絵を一目見たのなら、誰しもがきっとこんな言葉で評するにちがいない。まるでもうひとつの世界がそこにあるようだ、と。巧みに折り重ねられた色彩に、あるいはキャンバスに吸い込まれてゆきそうな構図に、あるいは想いの丈をぶちまけたかのような筆遣いに、観覧者の大勢はそのような感想を抱くのだ。もちろん、ぼくとて例外ではなく、展覧会ではじめて目にしたその時から、彼女の絵には強く惹かれるものを感じていた。ぼく自身、決して絵心に聡いというわけではないけれど。言ってしまえば個人的に、私的に、まるで恋をするように、ぼくは一枚の絵画に心奪われた。
≪空想の絵筆≫と題されたその風景画には、遠い異国の山並みがキャンバス一面に広げられている。透くような空は青く、木々は幾重にも組みあい山を成し、稜線は艶やかな弧を描きながら天と地を隔てている。描かれているものはほかにない。青緑のみで描かれた、ともすれば地味とさえ思われるその絵画から、しかしぼくは無数の感覚を呼び覚まされるような、そんな印象を受けていた。それは草木の匂いであったり、鳥の囀りであったり、照らす陽の暖かささえ、鮮烈な刺激となって脳裏を突き抜けてやまない。これがいくらかの水彩塗料の混ぜあいがもたらすものとは思えぬほどに、その絵から伝わる空気はリアル過ぎて、だから――
「まるで別の世界に飛び込んだみたい、かしら?」
ぼくの胸の内を代弁するかのように、ふと女の声が耳元を掠める。隣をふり返ってみると、そこにはいつの間にか一人の女性が佇んでいる。浅く被ったつば付き帽子の下の双眸は、ぼくとおなじようにこの絵画をじっと見つめていた。
「その絵、素敵でしょう」
唐突に現れて、けれどそれがさも自然体というように、彼女はぼくに言葉を投げかける。意表を突かれてはじめどきりとしたぼくだけれど、戸惑いはすぐに喜びへと転じた。彼女もまたこの絵に魅入ったひとりなのだと思うと、初対面ということも忘れ、妙な親近感を覚えずにいられなかったのだ。
「ああ、あなたもそう言ってくれますか。嬉しいなあ。さっきから一人で盛り上がってしまって、どうにも気持ちを持て余していたんです」
「そうでしょうね。さっきからあなた、その絵の前から十分も微動だにしないのだもの。でも、お気に入りを独り占めしたい気持ちはわからないでもないけれど、他のお客さんの迷惑になっているんじゃない?」
「それは……すみません、気がつかないで」
「いいのよ。もともと、あまり人気のある絵でもないからね」
そこでふと、彼女の声にいくらかの呆れが含まれているような、そんな雰囲気を言葉の端に感じた。ぼくにではなく、この絵に対して。キャンバスの向こう側のなにかに、誰かに向けて、彼女はほんの少しの毒を吐いてみせたのだ。
「そうでしょうか。ぼくは綺麗だとおもいますが」
人気がないだなんて、そんなことがあるのだろうか。こんなに素敵な風景画なのに、誰の目にも留まらないなんてもったいない。そうぼくが反論しようとしたことを見通していたかのように、彼女はさらに言葉を返す。
「だから物珍しいと思って声をかけたのよ。こんなに地味なものを夢中で眺めているひとがいれば、それは、不思議なひともいるものだって思うじゃない?」
「そういうあなただって、ずいぶんとこの絵のことには詳しそうだ。よかったら教えてくれませんか。はじめてなんです、絵を見て感動を覚えたのって」
ぼくの真面目な切り返しは、しかし彼女の琴線ではなく笑いのつぼを抑えたらしい。「変な人!」と周囲も気にせず大声で言ってのけた彼女は、それから少しの間お腹を抱えてけらけらと笑っていた。
「ごめんなさい、ばかにするつもりじゃなかったの。ほんとよ? でもそうね、今の言葉、作者が聞いたら喜ぶんじゃないかしら」
「あなたは、知り合いなんですか? この絵を描いた人の」
「どうかしら。知っていたところでもう会えない人だもの、彼女がなにを考えて筆を手にしたかなんて、私にはさっぱり」
どうやらぼくの予想したとおり、彼女はぼくよりもずっと、この絵とその作者について知るところがあるらしい。性別まで判っているくらいなのだ、きっとよく調べてあるのだろう。思わぬところで同好の士に廻りあえた偶然に、いよいよ僕は興奮を抑えきれなくなっていた。
「作者の名前は? 出身は? 活動年数は? この他にも作品って、あるんですよね?」
「知らないわ」
「そんな、意地悪をしないで」
「訊くよりも先に、自分で想像してみたらいいじゃない。ねぇ、あなたはその絵の作者って、どんな人だと思う?」
時間の経つほどに旺盛になるぼくの好奇心とは対照的に、彼女の態度は風に吹かれる旗のように飄々としている。ぼくの期待しているほどに、彼女は多くを教えてくれるつもりはないらしい。それならばと、ぼくは彼女の言葉に従じてみることにした。ぼくに初恋にも似た衝撃をくれたひとなのだ、きっと素敵な女性に違いないと、勝手な妄想を膨らませながら。
「……とても、繊細なひとなんじゃないかと」
「それから?」
「丁寧な仕事をする人で、調和を大事にする、でしょうか」
「ずいぶんと高く買うじゃない。でも、残念なことにどれも的外れね。正解は、大ざっぱで、無計画で、自己中心的なモンスター」
けれども夢見がちなぼくの想像は、彼女にいともたやすく切って捨てられる。あまりの物言いに、ひょっとすると彼女はこの絵の作者とは不仲だったのだろうかとさえ疑ってしまう。そしてこんなふうに声をかけてきたのも、売れない画家の絵に目を輝かせるぼくを笑いにきただけなのでは……?
そんな人間不信を抱きかけたところで、「でも、」と彼女が口にする。
続いた言葉は、これまでになく穏やかな声音でもって囁かれた。
「誰よりも、夢をみたひとよ」
彼女の視線がもう一度あの絵画に向けられる。館内照明のおぼろげなオレンジに照らされて、先ほどの晴天がゆっくりと夕焼けの色に移ろっていくような、そんな錯覚をみた。まるでこの絵の中にだけ時間が流れているかのよう。空の茜はやがて濃紺を孕み、日の沈んだ空に星々のきらめきが瞬きはじめる。頭の中に流れ込んできたその一連の映像に、現実におかれているはずのぼくの五感はあっという間に塗り替えられた。まるで重力が反転したかのような奇妙な引力。手を伸ばせば、誰かがその手を引いて向こう側へ連れて行ってくれるような、そんな淡い期待と恐怖が胸を過ぎる。
――ぼくはこれまで、このキャンバスに描かれたものを“絵”と称してきたが、その認識は少しばかり改めるべきだろう。
描かれているのは、広がっているのは、世界だ。
ここじゃない、どこかだ。
「これは、青春の絵なの」
自分に言い聞かせるように彼女は言った。声は静謐な響きをもって、ぼくたち以外の誰に届くこともなく、館内の静寂に同化するようにして溶け込んでいく。
「青春の続き。若気の至りをこじらせた、そのずうっと先で描かれた産物」
「青春……」
この瞬間、彼女の目にはいったいなにが映っているのだろう。ぼくのそれとおなじように、満天の星と月の夜が浮かんでいるのだろうか。そうではない気がする。……いや、ぼくの目に輝くこの星空こそが、彼女にとっての……
「それだけじゃないわ。彼女の描く絵はいつもそう。空も、山も、緑も青も。古びた遺産も未来の匣も、すべて、青春。引きずってるのよ。ずっとね」
その言葉の内に秘められているであろう想いがどれだけのものであるか、ぼくには察する術もない。名前も素性も知らない彼女との共通点はただ一つ、この絵に惹かれたということだけ。ここにある世界に引かれたということ。それさえもきっと、ぼくたちの馳せる想いは違っているのだろう。
ぼくがこの色彩を新鮮に、衝撃を持って受け止めているのなら。
彼女の目に映るそれは、もう、懐かしい色に褪せてしまっているのだろうか。
「でも……あなたも、こうしてこの絵を観に来るんですね」
もう会えないと彼女は言った。彼女たちの間にかつてどんなやり取りがあり、その青春の括りにどのような結末を迎えたのか。その答えをぼくはもう知っているような気がする。
全てはキャンバスの向こう側に。
小窓から覗く世界に、そこに散りばめられた星空に、彼女はまるで自分の居場所を確かめているようで――
「だって彼女が続けるのだもの、仕方ないじゃない。
彼女が描いて、私が視る。それが私たちの青春。
終わらないサークル活動なんだから」
眼差しは在りし日の情熱の火を湛え、今もなお絶えることのない好奇心を燃やしている。
この世界を夢描いたその人が、いつか筆を置く日まで、瞼を閉じるその時まで、彼女の瞳もまたしばらくの間、熱を帯び続けるのだろう。
どこか誇らしげな声で語った老婆の横顔には、甘やかな微笑みが皺と共に刻まれていた。
〆親愛なるMへ。
きっと、あなたとおなじものが。
あなたの作品をまたここで読めるとは……
貴方の作品が本当に好きです
また読めて嬉しい
来るなんて!
やっぱり秘封っていいですね。