安らいだ寝息の絹布に包まれていた眼の奥が、ふと細く尖った、溶けやすい日の光に穿たれる。鼻腔に残る眠りを誘う香りが遠のき、私は眠りから目覚めた。
「……まぶしい」
渋りながらまぶたを開き、ただ映っている景色を見ていた。私はまだ寝ぼけていた。
「はかなく、胸がくるしい」
私は、夢から現実に戻ってきたことについて、人生を朝露の蒸発に譬えた詩を作りたくなった。出来たものは、水は蒸発するのだという自然現象を確認する文章だったが、その時は自分で自分の才気にわなないた背筋を往なすのに苦労した。
「きれいだ。だがあつい。何故というに」
ここは自宅ではない。ここは、アリス・マーガトロイド邸の、あのサテンウッドや絹のクロスからなる平凡だが鉄の布陣の一角を占める薄緑色のソファーだ。
重みのある温もりを感じるあたりには、吹放ちの狭窓からの強烈な真昼の日差しが、髪や膝にきらきらと、祈る信教者に注がれる神の啓示のように降り積いでいた。
眠りを妨げられた私はこの目を開かしめる紫外線に感謝を示そうとは思わなかった。それに、それに、そう!
私の頭にはいつでも帽子がのっていたはずだ、あの子はどこへ……?
顔を上げる。ソファーの綿の繊維から焦点が離れ、視線がさまよう。
「目が覚めたようね。いい加減にしないと、寝れなくなるわよ」
「……放っておけよ」
「何ですって。正気なの? 言付かった時間から半時も過ぎているわ。ぜんぶ魔理沙が言ったことよ」
アリス・マーガトロイドとその可愛い子供達が私を見下ろし囲っていた。そしてゆっくり、意地悪な笑いを浮かべたアリスは光の対蹠地の影の向こうから動かない私に手を伸ばした。額に迫る指先を眺めながらふと、この儀式が受胎の作用を施すのだという着想に取り付かれた。
天使……、紅魔館の画廊にあるヤソの画家が描いた宗教絵画は、私の心象世界に鮮烈な印象をを与えた。そしてまだ途上にある私の青春の乾いた知識の瘠土に一個の塔を打ち立てたのだ。しかし私の頭脳の漠然とした空間に外界の知識が齎した記憶の建築物は、残念ながら深く大地に基礎を張ってはいなかった。
私は浅薄で、煎じ詰めればまだ何もなかった。飢えを意識しながらも一かけらの知識すら血肉となっていないという状況は私に無力感を抱かせた。レミリアや早苗など、多くの流入者たちと知り合いになるにつれ、いろいろな塔が焦りながら無秩序に乱立し、一刻も早く私の頭脳に知識のサマルカンドを予告しようとして、記憶の散らかり具合は殆ど収集のつかない状態にまで陥っていた。
そして理想から程遠いこの混沌から、時にあっと驚く連想の火花が意識の前面に転げ落ちてきて、私を驚かせるか、未熟に恥じ入らせるのだった。
今のように。
「帽子をかえせ」
アリスは私の髪をすいた。そして、寄ってきた人形の手に帽子が掴まれていたので、私は満足し、返してもらおうとした。するとものすごい速さで帽子が引っ込んだ。
「けらけら。鈍いわね」
彼女はからかったのだ。人形とアリスは微笑みあう。笑いが周囲で放電のようにビリビリと音を立てる。
「なかなか古拙の趣きのある冗談だ」
もちろんその笑いは私の眉間やこめかみの血管を怒らせ、バチバチとしびれさせた。おかげさまで先ほどまでの啓示やら何やらといったみだりな感傷的思量を打ち切り、代わりにこの親切な淑女達の指を捻りきってやる思想を準備できた。
「二度はないぞ、つまらないことを」
日はまだ私たちの肩に注がれていた。服の襞や肉体の隆起が動くたび、たえの穂と濃墨が転がる豆のようにころころと反転する。新鮮に目立つ彼女の容姿に、胸のざわめきを覚えた。
「魔理沙ったら、注文だけは立派なんだから。殴るな擽るな触れるな、言うだけ言って、あとは知らない。どうやってごきげんに起こせっていうの。放っておけですって。本当に。はい」
「ああ、お礼が必要だな」
アリスは素直に、私の古い友人であるその被り物を、愛すべき我が頭蓋骨を守護する任に戻す。だが許してやる気にはなれなかった。霧雨魔理沙のゆるやかな午睡をご破算にさせるよう運命づけられたもうけ役には、たんまりと硬い拳のおひねりをやらねばならなかった。一発食らわせてやる、と腰を上げた私だが、すぐに諒として手櫛をひいた。眠気が完全に引いたのだ。
「ふぁー」
背筋を伸ばすと立ちくらみがして再びソファーに腰を沈める。
「まあ、一応。起こしてくれてありがとうよ。でももう用はないだろ。あっちへいけよ」
「ね、本当に起きるつもり。あやしいわね。立ちなさいよ。また眠るのではないでしょうね」
「私は目覚めた人間だよ。だから、魔法使いをやっているのさ」
まったく何の印象も残さない台詞だったようで、アリスはそっくりそのままオウムのように言葉を繰り返すのだった。自尊心をくすぐる言葉を期待していた私はがっかりした。
「ね、立って」
「はいはい、あとでな。血がめぐるのを待たないと、間怠くて倒れちゃうよ。繊細だし」
「いいわ」
頷いて彼女は背を向けた。私は一人残されて腕をソファーに広げ窓の外のアジサイを眺めていた。
太陽が再び隠れ、室内はまた洞窟の暗さを取り戻し、やがてそこが暗いのだということも感じなくなった。
「まただ、胸が痛い。締めつけられるみたいだ。いや、じくじくとするのかな」
不安からくるものだろう。最近は四六時中焦りがつきまとうのだ。私はこの焦りを分析しようとは思わなかった。この感覚を楽しんでさえいた。
そしてもう一つ、鼻孔をくすぐるはずの野菜が煮える香りが古魚の匂いに感じる原因。胃が酷く重たく、気分が悪い。体の中で、昼寝前に食べた持ち越しのクッキーがべったりと、ガラスに皮脂を塗りたくり染み渡らせるように、内蔵に白く固まっている。
鼻歌が聞こえる。背を向けた彼女がここから見えた。アリスは家のどこにでも届かせるように、陽気に歌いながら鍋からハーブを詰めた袋を取り出し、味見をし、牛のすねを取り出し、味見をし、塩を振り、一混ぜし、皿を並べて、味見をしていた。然るに彼女はつい数刻前、私以上に飲み、食べたはずだった。余分な栄養だが、やはり美食の快楽は存在するのだろう。
「あいつは豚だ。まったく、恥知らずにがつがつと」
対して私といえば、未消化物が酸敗し、喉が詰まって、感無量だ。人間万歳! 喝采も尻すぼみだろう。私は妖怪の生というやつが、食の面でもより逞しく快楽を貪るようにできているのだと、他の全ての面と同じように思い知らされたのだった。
豚が振り向いてブヒブヒ鳴いた。
「夜も食べていくのでしょう。いいお酒があるの。もう外ではなくなってしまった品種を使った古酒がすごく多く手に入ったの。いえ、もらったのよ。私は外の素材がどうしても必要だったのだけれど、お酒はそのついでだって。何よね、配給だって嘯くのよ、変な言い方、好意だってあらわせばいいのよ。少なくとも、私にはね」
「誰にだ。望めば何でも手に入るのか」
「さあ、欲しいものがあったら手紙を書いて、シャボン玉に包んで空に飛ばすの。すると次の日には、玄関に届いているのよ」
「はっ」
「知らなかったの?」
「知らないよ。ある小説家が言うに、パリは牛馬の地獄、男の煉獄、女の天国だったらしいが、つまるところ幻想郷も同じようなものだ。牛馬の地獄、人間の煉獄、妖怪の天国だな。シャボン玉とはね。アリスの冗談はつまらないんだよ」
「魔理沙は道具屋さんがあるものね。私たちには妖怪の賢者がついているけれど」
「さぁな。いや、誰の世話にもならないぜ。妖怪にも人間にもだ! それが格好いいと思っているから」
そんなことは不可能だ。しかし頃合にも、私は最近妖怪にも人間にもスペルカード戦で敗れ続けているので、ぶつぶつ垂れる文句も、恨み辛みという一点だけはしっかり地に足をつけていた。
「そろそろ手伝いなさいよ。小皿を用意して」
「まだ晩ごはんには早いだろう。せめて日が沈んでからにしようよ」
「いいから。いつまでソファーでぼんやりしているの、私にだけ働かせる気」
「よし、多数決だ」
手近な人形を手にとり、彼女の髪をかき上げて額をつつく。手触りは冷たく、吸い付くようで、漆器よりも柔らかい。
「よう上海。相変わらず可愛いね。どうした黙り込んで。本当のことをいえよ、なあ、自由について考えているんだろう。だがそれは食事の時間の自由についても考えることではないのかな」
人形はこくこく頷いて私の手を叩いた。こんなやり取りをしたからといって、私の仕事は見逃されはしなかった。アリスが荒い声を出す。
「もたつくわねのろ助。人形で遊ばないで。私がしゃべり終らない間にこっちへ来ないと、頭から茹でるわよ」
「ひゃあおっかない。スープによる審問だ」
私は隠しから取り出した木の皮や薬草を煎じた胃薬を飲み下し、彼女の横に立ち、大人しく手伝った。
すぐに準備は終わった。オーブンの肉パイが焼き終わるのを待ちながら、気の早いことだが、早速二人でちびりちびりとコニャックを囲んでおっ始める。
「人形劇は順調かい。人里にすっかり慣れたよね」
「ええ、演じるのが楽しみになったわ。里の人たちとも仲も良くなったし」
「素直で面白くないな。けっ、よくやるよ」
「私が里に詳しくなるのが嫌なんでしょう? 嫉妬かしら」
彼女は満足げに切り返した。私は上の空で、まったく興味ないのだ、思い込んだ。
「好きにすればいいさ。アリスが人里で良いように駄賃を貰ってくれば、こうして私もおこぼれにあずかれるんだから」
「自分が里に行けばいいじゃない。さっさと仲直りしなさいよ。勘気を蒙ったなんて嘘ね。どうせ勝手に出てきたんでしょ」
「なんだいきなりはじめやがって。何の話だ。そうか、風向きがまずくなってきたな。私と親父の話か。くそ、眠くなってきたぜ」
「家族は大事よ」
「まあそうだな、いつ戻ってもいいんだけれど。きっかけの問題だ」
「へえ」
「神様はいつしてもいい仕事を始めるために、時が満ちるという言葉を使うだろう? 私もそんなところ。だがな聞け。それも自分のためじゃない。老い先短いかつて父親だった老人へのお情けだ。顔を見せりゃ喜んで往生するだろうしな」
「いきなり土地や店を継ぐことになるわよ」
「いらんいらん」
手の平を振る。
「私にとって土地や店なんてものは1,2町の馬糞さ。親族の誰にだってくれてやる。最悪、遺産でこじれたら親族を皆殺しにしてやるさ。ああ面倒くさい、親父なんて滑って豆腐の角に頭をぶつけておっ死んじまえばいいんだ」
「その悪態、いいわね。若さの特権だわ。しかしね、自分が後悔しないためにも、仲良くするべきよ」
「違う。そもそもだな、私は父親にも里人にも興味ないんだ。愛も憎しみもないから、親父に冷たくしたとか親切にしたとかで一喜一憂する視点をそもそも持つことができない。親父に限らず、里の人間のことを改まって考えるほど暇であってはならないし、思考を割く気にはならない。私は魔法はもちろん、外界や外界人のことを学ばなければならないんだ」
「そうかしら。ふぅむ」
アリスはしばらく悩ましげに眉を傾けたあと、かすかに頷いた。窘めようとしたが、許容した。
「確かに、そうね、それでいいかもね。幻想郷の人間より外界の人間が好きになることも勉強なのだから」
「幻想郷の人間どもは、狭い幻想郷で目の前のエサに夢中な育ちすぎた猿にしか見えないよ。外の人間と見比べてみろよ。何もかもが違う」
私は喋っている間に火がついて身振り手振りを交え彼女に話を聞かせるのだった。
「外の人間は知ることを欲する。そして知るだろう。我々も知らねばならない。そして知るだろう。……そこで! だ。幻想郷について、私の考えを言ってやろうか」
「あら、話が変わったわね。でもいいわ、聞くわ」
「最近私は、パチュリーの本で外の人間たちの仕事を勉強しているんだ。アリスなら、箱舟の話も分かるよね。創世記のものだ。私はつい一週間ぐらい前に、生まれて初めてその神話を読んで、理解して、種族の保存や新しい人類といった観念から醸し出される虹色のイメージに、すっかり、答えを見出したと夢中になっているんだ」
「また、始まったわね。でも、一生懸命話している魔理沙って魅力的よ」
「からかうなよ。昼夜平分線向こうの人々は……私たちよりも」
と、私は気取って音節を抑えながらほのめかした。それは、ユートピア人の年代記のいうところの、外の人間を指し示す単語だった。アリスはふんふん顎を引いた。彼女は、彼女たちは、私の知っていることなんて、先刻ご承知なのだ。私は暗号が通じる心地よい感覚を味わった。知的な共犯関係が私たちを捉えたと、私は思った。知識を分かち合うことで、これによってまた、私は新しい世界を得たのだ。
「私たちよりも、遥かに、思慮深いよ。確かに今はまだ外界人は途上にある。たとえば、外の世界の地図を見たことはあるか? びっくりしたよ。幻想郷がある場所は、見知らぬ土地で塗りつぶされていたんだからな。地図の通りなら、私たちはペシャンコだね。幻想の存在性格についてはまだ外界人の脳の発熱量の勘定に入っていないわけだ。だが外界人は今の間だけ科学の進歩のために眠っているに過ぎないのに対して、こちらの里人は幻想郷にありながら永遠にその仕組みに耳を塞ぐだろう。そして言うところでは人間らしい生活を家宝にするのだろう」
「で、昼夜平分線向こうの人たちの神話が想像力を刺激するという話は、終わったのかしら」
「奴らは、外界人は」
と、私は語気を強めた。
「地図の余白に未踏の大地と書いたきりで手をこまねいてはいないさ。いつかは、日本国の土地を掠め取っていた驚嘆すべき妖怪山賊団の楽園を発見するだろう。この発見をおかしいと思うか? レミリア達や神奈子達は幻想が忘れられそうになったからここへ来たのに、それをまた外の人間が見つけるというようなことがあるだろうか、と思うか? あると、私は思う。今までは、ただ単に幻想という歴とした世界の表情が、まだ外界人にとっては知識の探求に使う鶴嘴や梯子ではなかったに過ぎない。えへん、だがそう―――、未来はどうだ? なぜ奴らは結界を貼ったこの楽園を発見できるのか? なぜ奴らに幻想が見えるようになるのか? つまり私が言いたいのはこうだ。人間が信仰により世界を生みだす権能を授かっているのだと、全てを探究し尽くした彼らが気付かないことがあるだろうか」
「でも外は幻想を否定することにより進歩したのよ」
「それは過程だ。一時の進歩のために夜を排斥した彼らだが、科学の発展が人間を分析しつくすのであるならば、生み出す幻想の機序にも及ばざるを得ない。いずれは頑迷を改めて夜をも究めていく訳さ」
「魔界人はどうかしら」
アリスは楽しげにヤジを入れる。
「マナーの悪い奴だ。ま、とどのつまり外界は幻想を基礎付け、永遠に不壊の、二度と忘れ去られるこのない事実にしてしまうんだ。得たり賢し、吸血鬼や神は消滅するどころか既成の学の対象にさえなるだろう。そもそも、霧雨魔理沙も理解できる幻想を、外界人たちがどういう訳か百万年もぼんやりする呪いにかかっているとは私は思わない。だから、妖怪が存在基盤を得るのは、何につけても人間が進歩する時を凌ぐが必要なのさ」
「で、箱船の話はどこへ」
「で、話は戻るが、明らかにこの土地は、科学の洪水に浮かぶ一葉の、肉食獣も草食獣も、良い奴も悪い奴もごっちゃにした箱舟である、という結論が出てくるだろう。やがて鳩が進歩の勝利というオリーブの葉を銜えてくるまでの話だが」
アリスはまったく話を聞いていないようだった。ほほえましそうにワイングラスを傾けた。
「ええ、ええ」
「どうして笑うんだ、嫌な奴。なかなかすっきりした見方じゃないか。この土地は今まで読んだどの楽園とも違う矛盾がある。理念がなく、対立を運命付けられた種族が押し込められている。それはここが社会というよりは寄り合い所帯の、本質的には一時的である避難生活だからだ。この見解は無害だぜ。どちらに転んでも幻想郷は安泰だからな。もし私の見解が誤りで、外界にずっと発見されなければ幻想郷は誰に知られず永遠に眠り続け、発見されれば幻想郷は永遠にはっきり目覚める訳だから」
「まあぺらぺらと。うまく外の物語を換骨奪胎しているわ。ところがお慰みだけど、今では幻想郷に対する蝶々なんて、目に芥子を塗って、耳に樹脂を詰め込んだ酔っ払いでもなければ相手にしてくれないでしょうね。幻想郷の未来ですって? 新しい旋律に耳を傾けたというより、懐かしい子守歌を聞かされた気分よ。まーたはじまった、ってな感じよ」
「でも、アリス。私についていうのなら、つい最近気づいたんだ。懐かしいだなんて知ったことか。幻想郷の目的がほかに何かあるというのか」
「推測の域を出ないわ。魔法使い的な謙虚さでいえばね」
「それほど奇妙ではないだろう。外界人の進歩の可能性としてはありえる話だ。いいか、幻想は魔法と同じく歴とした世界法則であり、人間の権能なんだ。それに幻想郷では種の保存が現に行われているじゃないか。種族を峻別し、共同体を峻別する。幻想郷は等質性の否定で、市民という理念の否定さ。妖怪の出自をゆるがせにはしないため。消滅させないため。そして種族の数は増え続けている」
「奇妙とか、的外れとかそういう話じゃなくて、裏付けの話をしているのよ。モノを知らなさすぎるわ。外の人間は……外界を知る殆どの妖怪が同意するでしょうけど、もう幻想を取り戻すことはないわよ。ぷっ。これぞまさに書生論ね。ののさまは良い子だから、おことへいって、ねんねの続きをしましょうね」
酔いが良い具合に回ってきたのか、アリスは私の頭を小突き回しながら得意げに捲し立てた。私はそっぽを向く。
「意地悪。腹が立ってきた。一千年後に泣きを入れても知らないよ。だいいち、アリスはどう考えているんだ。アリスは幻想郷の成り立ちや、目的や、制度について、気にはならないの?」
「隠し事はないでしょう、歴史の授業を寝ていたのかしら。私の考えでいえば、ここは手入れが行き届いた住みやすい土地なのだけれど」
「なんだよそれ」
「そうねただ言えるのは、心配しなくても、賢者たちはあれこれ思い巡らしているの。悪いようにはしないわ。信じることができないの? 魔理沙の話は理屈では間違っていないわ。外の人間を理想化しすぎているという点と、幻想郷を暴かれることによる生活環境の悪化を、妖怪の賢者様は看過しないという点を除けばね。……はぁ、まったくあなた、その探求心を魔法に向けて頂戴。こういう話はつまらないもの。魔法使いならば縁遠くあるべきよ。そうね、熱が引くのを待つがいいわ。魔理沙は知識のはしかに感染して、魘されてしまっているのよ」
「ほう」
「真面目なのだから」
「節穴だな。いや、そうかもしれない。知識も、経験もあまりにも多く得すぎているのかも。自覚はあるね」
「そうね。魔理沙は人気者だもの。弾魔ごっこも得意だし、なんというか、印象でいうと元気なハムスターか、猫かいや、ウォンバットかしら。うーむ……難しいわね」
しばらく間が開いたが、我慢できなくなった私は、結局べらべらと喋りちらかした。
「はっきり理解したぜ。私は結局、お前達に通じる武器があるから、言葉が通じるんだ! 町娘の私はせいぜいお前達の風景だ。お前たちに牙を剥き続けなければ私には何の保証もない、と私は感じる。天啓だ。ワインの神様にキスだ」
「ねえ、私がワインの神様になってもいいかしら」
「私は明け方ごろにとうとう悟り、本心から里の人たちが皆幸せになって欲しいと祈念するだろう。私は幻想郷を愛していると命を掛けて誓いすらするだろう。このぬたくり絵をどう評せばいいんだ?」
「かぼちゃと帽子。なんていうのはどう」
「私はいっそ何も感じない畑のかぼちゃで良かったよ。何も信じることが出来ない。続いているものなどなにもなく、揺れて見える今は私を振り回すためだけに存在する。そうだろう。信条は己を裏切る予告に過ぎない。誰もが内に巣くうレギオンに代わりばんこに操られているだけだ。私は色々と思い込んでそれを主張するだろう。お目出度い告白だ! わけても今の私なら哀れな修道女のように、六千六百六十の悪魔を引き出せるはずだ。試しに引き裂いてみるがいいさ」
ナイフをアリスの手に握らせて胸に当てる。食事前に机上の鉄の配置を荒らしたのが気分を害したのか、腕が振り払われ、食器は一寸違わぬ座標に戻った。
「まーた暗くなってる」
「けっ。自分に満足している奴には分からないかな」
「私は自分に満足しているわ。だけど……そうね、魔理沙を見ていると、懐かしいかもね。解かなければ生を開始できない類の問題は、結局すべて風化し赤茶けて、崩れてしまったわ。昔は夢中になったかもしれないけれど、もうくたびれた残り香を思い出すだけ」
「だがお婆ちゃん。貴女のその話はこの前に聞いたよ」
「いまの魔理沙の話も何十回も聞いたわよ。そう、私はね」
ずい、とアリスはおどけて身を乗り出した。
「神様になりたかったのよ。創造というものは、神ならぬ身には、なかなか術無いわ。私が本当に作りたかったのは、象られることが決してない、無知だけが礎となる、誤った観念だった。まあでも、それがつまり何だったか、もう忘れてしまったわ。たしかに私はいま自律人形を作ろうとしているのだけれど、それだって私が魅了されていた何かのささやかな続きかもね」
「人の話だとつまらないなあ。アリスはアリスの仕事。私は私の仕事。はいはい、分かっているよ。今はただ箸が転げても腹が立つ、無分別な小児期なんだ。やめよう。そろそろ夕食をいただこう」
食卓はにぎやかに、話題がつきることはなかった。紺青の人形の瞳が煌いて、アリスの腕の中で安らいでいた。誇りかに主人の言いつけを守る彼女たちは給仕や即興の踊り、少しの仕草、どれもとても魅力的な振る舞いで見るものを楽しませたが、当然その鑑賞者は、アリスのアートに、その嬌艶に賛辞を呈していることになる。
あらゆる手練手管で、彼女はいつでも好きなときに人を魅了することができた。誰かが酒の席でうまいこと言い表していたが、目配せでパレードを引き超すのだ。
模糊とした酔いの空気の向こうで、人形たちが主人のひざを争って、押し合いへしあいしている、ふりをする。急に私はアリスのことが好きになって、そのやわらかそうな生地の上に座ってみたくなった。人形をやさしくテーブルの上において、アリスに乗った。
「大きな人形ね、重いわ」
「アリスには人寂しくなるときはあるのか」
耳裏から、眼球の涙まで、いたるところをついばみ合う。こうしていると安心した。しばらくの間私は彼女と抱きしめあっていたが、彼女が太ももの痺れを訴えたので、自分の席に戻ろうとした。
途中で私はよろめいて、体勢を戻すのも億劫で、床に寝転んだ。
「はあ、みんなが……アリスのことを、とても綺麗って褒めているよ。どうしたら、あんな美しく生まれてこれるのかって」
「理想として象られるのよ、誰かにね」
「へえ、なんだか、どうでもいいよ」
後頭部に硬い床板がぶつかって、暖かい燭台が、行きつ戻りつぐるぐる回り、全ての家具が歌を歌った。私たちは笑いあう。アリスは、私といるとき、多分、弱みをみせている。私にどう思われようがかまわないから、化粧を落とし、幼く、卑しい態度を見せる。最も汚い利己心を、擦り切れるまで冗談にするという関係は、確かにどんな災害にも耐えうる腐れ縁だった。しかし私は、私ではない、描けない、抽象的な何かに羽化しようとする、誤魔化しのきかない衝動にかられ、これまでのことを忘れたかった。アリスとひとかどの魔女として接することができたなら。
「いいわ、戻ってきて。座りなさいよ」
「まあ聞けよ助平ばばあ、お前のプードル達のように奉仕すると思ったか」
「あらかわいい」
「眠いぜ、じゃあな、寝る」
「楽園の素敵なソファーはあちらよ」
霊夢の真似はとても上手だった。よろよろと立ち上がり、羽毛の感触に顔をうずめる。目蓋が重くなり、ケシの香りが鼻腔を満たし、アリスの声が遠くなる。片付け物を手伝わないと……でもこうしていれば、彼女が代わりに……。
「……まぶしい」
渋りながらまぶたを開き、ただ映っている景色を見ていた。私はまだ寝ぼけていた。
「はかなく、胸がくるしい」
私は、夢から現実に戻ってきたことについて、人生を朝露の蒸発に譬えた詩を作りたくなった。出来たものは、水は蒸発するのだという自然現象を確認する文章だったが、その時は自分で自分の才気にわなないた背筋を往なすのに苦労した。
「きれいだ。だがあつい。何故というに」
ここは自宅ではない。ここは、アリス・マーガトロイド邸の、あのサテンウッドや絹のクロスからなる平凡だが鉄の布陣の一角を占める薄緑色のソファーだ。
重みのある温もりを感じるあたりには、吹放ちの狭窓からの強烈な真昼の日差しが、髪や膝にきらきらと、祈る信教者に注がれる神の啓示のように降り積いでいた。
眠りを妨げられた私はこの目を開かしめる紫外線に感謝を示そうとは思わなかった。それに、それに、そう!
私の頭にはいつでも帽子がのっていたはずだ、あの子はどこへ……?
顔を上げる。ソファーの綿の繊維から焦点が離れ、視線がさまよう。
「目が覚めたようね。いい加減にしないと、寝れなくなるわよ」
「……放っておけよ」
「何ですって。正気なの? 言付かった時間から半時も過ぎているわ。ぜんぶ魔理沙が言ったことよ」
アリス・マーガトロイドとその可愛い子供達が私を見下ろし囲っていた。そしてゆっくり、意地悪な笑いを浮かべたアリスは光の対蹠地の影の向こうから動かない私に手を伸ばした。額に迫る指先を眺めながらふと、この儀式が受胎の作用を施すのだという着想に取り付かれた。
天使……、紅魔館の画廊にあるヤソの画家が描いた宗教絵画は、私の心象世界に鮮烈な印象をを与えた。そしてまだ途上にある私の青春の乾いた知識の瘠土に一個の塔を打ち立てたのだ。しかし私の頭脳の漠然とした空間に外界の知識が齎した記憶の建築物は、残念ながら深く大地に基礎を張ってはいなかった。
私は浅薄で、煎じ詰めればまだ何もなかった。飢えを意識しながらも一かけらの知識すら血肉となっていないという状況は私に無力感を抱かせた。レミリアや早苗など、多くの流入者たちと知り合いになるにつれ、いろいろな塔が焦りながら無秩序に乱立し、一刻も早く私の頭脳に知識のサマルカンドを予告しようとして、記憶の散らかり具合は殆ど収集のつかない状態にまで陥っていた。
そして理想から程遠いこの混沌から、時にあっと驚く連想の火花が意識の前面に転げ落ちてきて、私を驚かせるか、未熟に恥じ入らせるのだった。
今のように。
「帽子をかえせ」
アリスは私の髪をすいた。そして、寄ってきた人形の手に帽子が掴まれていたので、私は満足し、返してもらおうとした。するとものすごい速さで帽子が引っ込んだ。
「けらけら。鈍いわね」
彼女はからかったのだ。人形とアリスは微笑みあう。笑いが周囲で放電のようにビリビリと音を立てる。
「なかなか古拙の趣きのある冗談だ」
もちろんその笑いは私の眉間やこめかみの血管を怒らせ、バチバチとしびれさせた。おかげさまで先ほどまでの啓示やら何やらといったみだりな感傷的思量を打ち切り、代わりにこの親切な淑女達の指を捻りきってやる思想を準備できた。
「二度はないぞ、つまらないことを」
日はまだ私たちの肩に注がれていた。服の襞や肉体の隆起が動くたび、たえの穂と濃墨が転がる豆のようにころころと反転する。新鮮に目立つ彼女の容姿に、胸のざわめきを覚えた。
「魔理沙ったら、注文だけは立派なんだから。殴るな擽るな触れるな、言うだけ言って、あとは知らない。どうやってごきげんに起こせっていうの。放っておけですって。本当に。はい」
「ああ、お礼が必要だな」
アリスは素直に、私の古い友人であるその被り物を、愛すべき我が頭蓋骨を守護する任に戻す。だが許してやる気にはなれなかった。霧雨魔理沙のゆるやかな午睡をご破算にさせるよう運命づけられたもうけ役には、たんまりと硬い拳のおひねりをやらねばならなかった。一発食らわせてやる、と腰を上げた私だが、すぐに諒として手櫛をひいた。眠気が完全に引いたのだ。
「ふぁー」
背筋を伸ばすと立ちくらみがして再びソファーに腰を沈める。
「まあ、一応。起こしてくれてありがとうよ。でももう用はないだろ。あっちへいけよ」
「ね、本当に起きるつもり。あやしいわね。立ちなさいよ。また眠るのではないでしょうね」
「私は目覚めた人間だよ。だから、魔法使いをやっているのさ」
まったく何の印象も残さない台詞だったようで、アリスはそっくりそのままオウムのように言葉を繰り返すのだった。自尊心をくすぐる言葉を期待していた私はがっかりした。
「ね、立って」
「はいはい、あとでな。血がめぐるのを待たないと、間怠くて倒れちゃうよ。繊細だし」
「いいわ」
頷いて彼女は背を向けた。私は一人残されて腕をソファーに広げ窓の外のアジサイを眺めていた。
太陽が再び隠れ、室内はまた洞窟の暗さを取り戻し、やがてそこが暗いのだということも感じなくなった。
「まただ、胸が痛い。締めつけられるみたいだ。いや、じくじくとするのかな」
不安からくるものだろう。最近は四六時中焦りがつきまとうのだ。私はこの焦りを分析しようとは思わなかった。この感覚を楽しんでさえいた。
そしてもう一つ、鼻孔をくすぐるはずの野菜が煮える香りが古魚の匂いに感じる原因。胃が酷く重たく、気分が悪い。体の中で、昼寝前に食べた持ち越しのクッキーがべったりと、ガラスに皮脂を塗りたくり染み渡らせるように、内蔵に白く固まっている。
鼻歌が聞こえる。背を向けた彼女がここから見えた。アリスは家のどこにでも届かせるように、陽気に歌いながら鍋からハーブを詰めた袋を取り出し、味見をし、牛のすねを取り出し、味見をし、塩を振り、一混ぜし、皿を並べて、味見をしていた。然るに彼女はつい数刻前、私以上に飲み、食べたはずだった。余分な栄養だが、やはり美食の快楽は存在するのだろう。
「あいつは豚だ。まったく、恥知らずにがつがつと」
対して私といえば、未消化物が酸敗し、喉が詰まって、感無量だ。人間万歳! 喝采も尻すぼみだろう。私は妖怪の生というやつが、食の面でもより逞しく快楽を貪るようにできているのだと、他の全ての面と同じように思い知らされたのだった。
豚が振り向いてブヒブヒ鳴いた。
「夜も食べていくのでしょう。いいお酒があるの。もう外ではなくなってしまった品種を使った古酒がすごく多く手に入ったの。いえ、もらったのよ。私は外の素材がどうしても必要だったのだけれど、お酒はそのついでだって。何よね、配給だって嘯くのよ、変な言い方、好意だってあらわせばいいのよ。少なくとも、私にはね」
「誰にだ。望めば何でも手に入るのか」
「さあ、欲しいものがあったら手紙を書いて、シャボン玉に包んで空に飛ばすの。すると次の日には、玄関に届いているのよ」
「はっ」
「知らなかったの?」
「知らないよ。ある小説家が言うに、パリは牛馬の地獄、男の煉獄、女の天国だったらしいが、つまるところ幻想郷も同じようなものだ。牛馬の地獄、人間の煉獄、妖怪の天国だな。シャボン玉とはね。アリスの冗談はつまらないんだよ」
「魔理沙は道具屋さんがあるものね。私たちには妖怪の賢者がついているけれど」
「さぁな。いや、誰の世話にもならないぜ。妖怪にも人間にもだ! それが格好いいと思っているから」
そんなことは不可能だ。しかし頃合にも、私は最近妖怪にも人間にもスペルカード戦で敗れ続けているので、ぶつぶつ垂れる文句も、恨み辛みという一点だけはしっかり地に足をつけていた。
「そろそろ手伝いなさいよ。小皿を用意して」
「まだ晩ごはんには早いだろう。せめて日が沈んでからにしようよ」
「いいから。いつまでソファーでぼんやりしているの、私にだけ働かせる気」
「よし、多数決だ」
手近な人形を手にとり、彼女の髪をかき上げて額をつつく。手触りは冷たく、吸い付くようで、漆器よりも柔らかい。
「よう上海。相変わらず可愛いね。どうした黙り込んで。本当のことをいえよ、なあ、自由について考えているんだろう。だがそれは食事の時間の自由についても考えることではないのかな」
人形はこくこく頷いて私の手を叩いた。こんなやり取りをしたからといって、私の仕事は見逃されはしなかった。アリスが荒い声を出す。
「もたつくわねのろ助。人形で遊ばないで。私がしゃべり終らない間にこっちへ来ないと、頭から茹でるわよ」
「ひゃあおっかない。スープによる審問だ」
私は隠しから取り出した木の皮や薬草を煎じた胃薬を飲み下し、彼女の横に立ち、大人しく手伝った。
すぐに準備は終わった。オーブンの肉パイが焼き終わるのを待ちながら、気の早いことだが、早速二人でちびりちびりとコニャックを囲んでおっ始める。
「人形劇は順調かい。人里にすっかり慣れたよね」
「ええ、演じるのが楽しみになったわ。里の人たちとも仲も良くなったし」
「素直で面白くないな。けっ、よくやるよ」
「私が里に詳しくなるのが嫌なんでしょう? 嫉妬かしら」
彼女は満足げに切り返した。私は上の空で、まったく興味ないのだ、思い込んだ。
「好きにすればいいさ。アリスが人里で良いように駄賃を貰ってくれば、こうして私もおこぼれにあずかれるんだから」
「自分が里に行けばいいじゃない。さっさと仲直りしなさいよ。勘気を蒙ったなんて嘘ね。どうせ勝手に出てきたんでしょ」
「なんだいきなりはじめやがって。何の話だ。そうか、風向きがまずくなってきたな。私と親父の話か。くそ、眠くなってきたぜ」
「家族は大事よ」
「まあそうだな、いつ戻ってもいいんだけれど。きっかけの問題だ」
「へえ」
「神様はいつしてもいい仕事を始めるために、時が満ちるという言葉を使うだろう? 私もそんなところ。だがな聞け。それも自分のためじゃない。老い先短いかつて父親だった老人へのお情けだ。顔を見せりゃ喜んで往生するだろうしな」
「いきなり土地や店を継ぐことになるわよ」
「いらんいらん」
手の平を振る。
「私にとって土地や店なんてものは1,2町の馬糞さ。親族の誰にだってくれてやる。最悪、遺産でこじれたら親族を皆殺しにしてやるさ。ああ面倒くさい、親父なんて滑って豆腐の角に頭をぶつけておっ死んじまえばいいんだ」
「その悪態、いいわね。若さの特権だわ。しかしね、自分が後悔しないためにも、仲良くするべきよ」
「違う。そもそもだな、私は父親にも里人にも興味ないんだ。愛も憎しみもないから、親父に冷たくしたとか親切にしたとかで一喜一憂する視点をそもそも持つことができない。親父に限らず、里の人間のことを改まって考えるほど暇であってはならないし、思考を割く気にはならない。私は魔法はもちろん、外界や外界人のことを学ばなければならないんだ」
「そうかしら。ふぅむ」
アリスはしばらく悩ましげに眉を傾けたあと、かすかに頷いた。窘めようとしたが、許容した。
「確かに、そうね、それでいいかもね。幻想郷の人間より外界の人間が好きになることも勉強なのだから」
「幻想郷の人間どもは、狭い幻想郷で目の前のエサに夢中な育ちすぎた猿にしか見えないよ。外の人間と見比べてみろよ。何もかもが違う」
私は喋っている間に火がついて身振り手振りを交え彼女に話を聞かせるのだった。
「外の人間は知ることを欲する。そして知るだろう。我々も知らねばならない。そして知るだろう。……そこで! だ。幻想郷について、私の考えを言ってやろうか」
「あら、話が変わったわね。でもいいわ、聞くわ」
「最近私は、パチュリーの本で外の人間たちの仕事を勉強しているんだ。アリスなら、箱舟の話も分かるよね。創世記のものだ。私はつい一週間ぐらい前に、生まれて初めてその神話を読んで、理解して、種族の保存や新しい人類といった観念から醸し出される虹色のイメージに、すっかり、答えを見出したと夢中になっているんだ」
「また、始まったわね。でも、一生懸命話している魔理沙って魅力的よ」
「からかうなよ。昼夜平分線向こうの人々は……私たちよりも」
と、私は気取って音節を抑えながらほのめかした。それは、ユートピア人の年代記のいうところの、外の人間を指し示す単語だった。アリスはふんふん顎を引いた。彼女は、彼女たちは、私の知っていることなんて、先刻ご承知なのだ。私は暗号が通じる心地よい感覚を味わった。知的な共犯関係が私たちを捉えたと、私は思った。知識を分かち合うことで、これによってまた、私は新しい世界を得たのだ。
「私たちよりも、遥かに、思慮深いよ。確かに今はまだ外界人は途上にある。たとえば、外の世界の地図を見たことはあるか? びっくりしたよ。幻想郷がある場所は、見知らぬ土地で塗りつぶされていたんだからな。地図の通りなら、私たちはペシャンコだね。幻想の存在性格についてはまだ外界人の脳の発熱量の勘定に入っていないわけだ。だが外界人は今の間だけ科学の進歩のために眠っているに過ぎないのに対して、こちらの里人は幻想郷にありながら永遠にその仕組みに耳を塞ぐだろう。そして言うところでは人間らしい生活を家宝にするのだろう」
「で、昼夜平分線向こうの人たちの神話が想像力を刺激するという話は、終わったのかしら」
「奴らは、外界人は」
と、私は語気を強めた。
「地図の余白に未踏の大地と書いたきりで手をこまねいてはいないさ。いつかは、日本国の土地を掠め取っていた驚嘆すべき妖怪山賊団の楽園を発見するだろう。この発見をおかしいと思うか? レミリア達や神奈子達は幻想が忘れられそうになったからここへ来たのに、それをまた外の人間が見つけるというようなことがあるだろうか、と思うか? あると、私は思う。今までは、ただ単に幻想という歴とした世界の表情が、まだ外界人にとっては知識の探求に使う鶴嘴や梯子ではなかったに過ぎない。えへん、だがそう―――、未来はどうだ? なぜ奴らは結界を貼ったこの楽園を発見できるのか? なぜ奴らに幻想が見えるようになるのか? つまり私が言いたいのはこうだ。人間が信仰により世界を生みだす権能を授かっているのだと、全てを探究し尽くした彼らが気付かないことがあるだろうか」
「でも外は幻想を否定することにより進歩したのよ」
「それは過程だ。一時の進歩のために夜を排斥した彼らだが、科学の発展が人間を分析しつくすのであるならば、生み出す幻想の機序にも及ばざるを得ない。いずれは頑迷を改めて夜をも究めていく訳さ」
「魔界人はどうかしら」
アリスは楽しげにヤジを入れる。
「マナーの悪い奴だ。ま、とどのつまり外界は幻想を基礎付け、永遠に不壊の、二度と忘れ去られるこのない事実にしてしまうんだ。得たり賢し、吸血鬼や神は消滅するどころか既成の学の対象にさえなるだろう。そもそも、霧雨魔理沙も理解できる幻想を、外界人たちがどういう訳か百万年もぼんやりする呪いにかかっているとは私は思わない。だから、妖怪が存在基盤を得るのは、何につけても人間が進歩する時を凌ぐが必要なのさ」
「で、箱船の話はどこへ」
「で、話は戻るが、明らかにこの土地は、科学の洪水に浮かぶ一葉の、肉食獣も草食獣も、良い奴も悪い奴もごっちゃにした箱舟である、という結論が出てくるだろう。やがて鳩が進歩の勝利というオリーブの葉を銜えてくるまでの話だが」
アリスはまったく話を聞いていないようだった。ほほえましそうにワイングラスを傾けた。
「ええ、ええ」
「どうして笑うんだ、嫌な奴。なかなかすっきりした見方じゃないか。この土地は今まで読んだどの楽園とも違う矛盾がある。理念がなく、対立を運命付けられた種族が押し込められている。それはここが社会というよりは寄り合い所帯の、本質的には一時的である避難生活だからだ。この見解は無害だぜ。どちらに転んでも幻想郷は安泰だからな。もし私の見解が誤りで、外界にずっと発見されなければ幻想郷は誰に知られず永遠に眠り続け、発見されれば幻想郷は永遠にはっきり目覚める訳だから」
「まあぺらぺらと。うまく外の物語を換骨奪胎しているわ。ところがお慰みだけど、今では幻想郷に対する蝶々なんて、目に芥子を塗って、耳に樹脂を詰め込んだ酔っ払いでもなければ相手にしてくれないでしょうね。幻想郷の未来ですって? 新しい旋律に耳を傾けたというより、懐かしい子守歌を聞かされた気分よ。まーたはじまった、ってな感じよ」
「でも、アリス。私についていうのなら、つい最近気づいたんだ。懐かしいだなんて知ったことか。幻想郷の目的がほかに何かあるというのか」
「推測の域を出ないわ。魔法使い的な謙虚さでいえばね」
「それほど奇妙ではないだろう。外界人の進歩の可能性としてはありえる話だ。いいか、幻想は魔法と同じく歴とした世界法則であり、人間の権能なんだ。それに幻想郷では種の保存が現に行われているじゃないか。種族を峻別し、共同体を峻別する。幻想郷は等質性の否定で、市民という理念の否定さ。妖怪の出自をゆるがせにはしないため。消滅させないため。そして種族の数は増え続けている」
「奇妙とか、的外れとかそういう話じゃなくて、裏付けの話をしているのよ。モノを知らなさすぎるわ。外の人間は……外界を知る殆どの妖怪が同意するでしょうけど、もう幻想を取り戻すことはないわよ。ぷっ。これぞまさに書生論ね。ののさまは良い子だから、おことへいって、ねんねの続きをしましょうね」
酔いが良い具合に回ってきたのか、アリスは私の頭を小突き回しながら得意げに捲し立てた。私はそっぽを向く。
「意地悪。腹が立ってきた。一千年後に泣きを入れても知らないよ。だいいち、アリスはどう考えているんだ。アリスは幻想郷の成り立ちや、目的や、制度について、気にはならないの?」
「隠し事はないでしょう、歴史の授業を寝ていたのかしら。私の考えでいえば、ここは手入れが行き届いた住みやすい土地なのだけれど」
「なんだよそれ」
「そうねただ言えるのは、心配しなくても、賢者たちはあれこれ思い巡らしているの。悪いようにはしないわ。信じることができないの? 魔理沙の話は理屈では間違っていないわ。外の人間を理想化しすぎているという点と、幻想郷を暴かれることによる生活環境の悪化を、妖怪の賢者様は看過しないという点を除けばね。……はぁ、まったくあなた、その探求心を魔法に向けて頂戴。こういう話はつまらないもの。魔法使いならば縁遠くあるべきよ。そうね、熱が引くのを待つがいいわ。魔理沙は知識のはしかに感染して、魘されてしまっているのよ」
「ほう」
「真面目なのだから」
「節穴だな。いや、そうかもしれない。知識も、経験もあまりにも多く得すぎているのかも。自覚はあるね」
「そうね。魔理沙は人気者だもの。弾魔ごっこも得意だし、なんというか、印象でいうと元気なハムスターか、猫かいや、ウォンバットかしら。うーむ……難しいわね」
しばらく間が開いたが、我慢できなくなった私は、結局べらべらと喋りちらかした。
「はっきり理解したぜ。私は結局、お前達に通じる武器があるから、言葉が通じるんだ! 町娘の私はせいぜいお前達の風景だ。お前たちに牙を剥き続けなければ私には何の保証もない、と私は感じる。天啓だ。ワインの神様にキスだ」
「ねえ、私がワインの神様になってもいいかしら」
「私は明け方ごろにとうとう悟り、本心から里の人たちが皆幸せになって欲しいと祈念するだろう。私は幻想郷を愛していると命を掛けて誓いすらするだろう。このぬたくり絵をどう評せばいいんだ?」
「かぼちゃと帽子。なんていうのはどう」
「私はいっそ何も感じない畑のかぼちゃで良かったよ。何も信じることが出来ない。続いているものなどなにもなく、揺れて見える今は私を振り回すためだけに存在する。そうだろう。信条は己を裏切る予告に過ぎない。誰もが内に巣くうレギオンに代わりばんこに操られているだけだ。私は色々と思い込んでそれを主張するだろう。お目出度い告白だ! わけても今の私なら哀れな修道女のように、六千六百六十の悪魔を引き出せるはずだ。試しに引き裂いてみるがいいさ」
ナイフをアリスの手に握らせて胸に当てる。食事前に机上の鉄の配置を荒らしたのが気分を害したのか、腕が振り払われ、食器は一寸違わぬ座標に戻った。
「まーた暗くなってる」
「けっ。自分に満足している奴には分からないかな」
「私は自分に満足しているわ。だけど……そうね、魔理沙を見ていると、懐かしいかもね。解かなければ生を開始できない類の問題は、結局すべて風化し赤茶けて、崩れてしまったわ。昔は夢中になったかもしれないけれど、もうくたびれた残り香を思い出すだけ」
「だがお婆ちゃん。貴女のその話はこの前に聞いたよ」
「いまの魔理沙の話も何十回も聞いたわよ。そう、私はね」
ずい、とアリスはおどけて身を乗り出した。
「神様になりたかったのよ。創造というものは、神ならぬ身には、なかなか術無いわ。私が本当に作りたかったのは、象られることが決してない、無知だけが礎となる、誤った観念だった。まあでも、それがつまり何だったか、もう忘れてしまったわ。たしかに私はいま自律人形を作ろうとしているのだけれど、それだって私が魅了されていた何かのささやかな続きかもね」
「人の話だとつまらないなあ。アリスはアリスの仕事。私は私の仕事。はいはい、分かっているよ。今はただ箸が転げても腹が立つ、無分別な小児期なんだ。やめよう。そろそろ夕食をいただこう」
食卓はにぎやかに、話題がつきることはなかった。紺青の人形の瞳が煌いて、アリスの腕の中で安らいでいた。誇りかに主人の言いつけを守る彼女たちは給仕や即興の踊り、少しの仕草、どれもとても魅力的な振る舞いで見るものを楽しませたが、当然その鑑賞者は、アリスのアートに、その嬌艶に賛辞を呈していることになる。
あらゆる手練手管で、彼女はいつでも好きなときに人を魅了することができた。誰かが酒の席でうまいこと言い表していたが、目配せでパレードを引き超すのだ。
模糊とした酔いの空気の向こうで、人形たちが主人のひざを争って、押し合いへしあいしている、ふりをする。急に私はアリスのことが好きになって、そのやわらかそうな生地の上に座ってみたくなった。人形をやさしくテーブルの上において、アリスに乗った。
「大きな人形ね、重いわ」
「アリスには人寂しくなるときはあるのか」
耳裏から、眼球の涙まで、いたるところをついばみ合う。こうしていると安心した。しばらくの間私は彼女と抱きしめあっていたが、彼女が太ももの痺れを訴えたので、自分の席に戻ろうとした。
途中で私はよろめいて、体勢を戻すのも億劫で、床に寝転んだ。
「はあ、みんなが……アリスのことを、とても綺麗って褒めているよ。どうしたら、あんな美しく生まれてこれるのかって」
「理想として象られるのよ、誰かにね」
「へえ、なんだか、どうでもいいよ」
後頭部に硬い床板がぶつかって、暖かい燭台が、行きつ戻りつぐるぐる回り、全ての家具が歌を歌った。私たちは笑いあう。アリスは、私といるとき、多分、弱みをみせている。私にどう思われようがかまわないから、化粧を落とし、幼く、卑しい態度を見せる。最も汚い利己心を、擦り切れるまで冗談にするという関係は、確かにどんな災害にも耐えうる腐れ縁だった。しかし私は、私ではない、描けない、抽象的な何かに羽化しようとする、誤魔化しのきかない衝動にかられ、これまでのことを忘れたかった。アリスとひとかどの魔女として接することができたなら。
「いいわ、戻ってきて。座りなさいよ」
「まあ聞けよ助平ばばあ、お前のプードル達のように奉仕すると思ったか」
「あらかわいい」
「眠いぜ、じゃあな、寝る」
「楽園の素敵なソファーはあちらよ」
霊夢の真似はとても上手だった。よろよろと立ち上がり、羽毛の感触に顔をうずめる。目蓋が重くなり、ケシの香りが鼻腔を満たし、アリスの声が遠くなる。片付け物を手伝わないと……でもこうしていれば、彼女が代わりに……。
人によってはくどいとか言われるかもしれないけどこの路線でがんばってほしい
ただ、魔理沙はやっぱそのぶんらしくないなーって印象は強かった
少し読むのに疲れますが
思春期特有の毎夜生まれてくる未来に対する漠然とした不安を抱えた魔理沙なのかな。
それとも哲学の類か、わからないまでも掛け合いが楽しかったです。
いや、酔っぱらってるのではなかろうか。つまりそういう話なのか?
文章楽しいです。 期待
もう少し衒いが少なければと思わないでもないですが、余計なお世話でしょうね。
嫌いじゃないけど好きにはなれない、けれども読んでしまう。
文章もタイトルも何だか薄暗くきらきらしてて凄く好きだなあ