得体の知れない何かが私の中に住み着いていた。
そいつは一度口を開くと、私の中に生まれる感情全てを貪欲に呑み込み吸収して、一塊のモノに変えてしまう。
喜も怒も哀も楽も、全てはそいつに呑み込まれ、じめじめとした生ぬるい風で攪拌されて、ついには一塊の、淀んだ感情へと成り果てるのだ。
何故かと問われても、私にはわからない。
いつからこうなのか、何故こうなったのか。
何故こんなモノが、私の中に存在しているのか。
遠い遠い過去には、そんな詮無い事を考える余裕も、少しは残されていた記憶はあるのだが、その思索の向こうに私は一体何を見ていたのか、今となっては皆目検討もつかない。
そして私は、いつもこの結論に至るのだ。
きっと、何も見えてなどいなかったのだ、と。
橋の欄干に身を預け、意識を空にして。
私はただ、こいつと共に在り、この橋の上で……。
ただ、それだけ。
そう、それだけだった。
それだけでよかったのだ。
彼女達が、私の前に現れるまでは。
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地底から吹き上げる風が、いつもより強い。
その風に乗って、地底の底から怨霊達が穴を昇っていく。
私は橋の上からはるか穴の先を見上げた。かすかだが、確かに光が見えた。
「眩しいわね、まったく」
忌々しげに呟いて、私は欄干に腰を下ろした。
地底の蓋に穴が開いて早数日。怨霊達が絶える気配はまるで無い。あの光に向かって吸い込まれているかのように、次々と湧いて出ている。
「地底の主は何をしているのかしら……」
管理者がこの事態を把握していないとは思えない。
「まったく、暢気で妬ましい事ね」
舌打ちし、また穴の先を見上げた。
光に、いくつかの影が混じっていた。
何かが、来る。私は腰を上げた。
「何……?」
きらきらと輝く粒が降って来る。それは星の形をしていた。
影が大きくなるにつれて、星の数が増えていく。
降りてきたのは、一人の少女と、大勢の人形だった。
(人間が、地底に何をしにきた……?)
「いま、地下何階だ?」
人形に話しかけるその声は、生き生きとしていた。
「そうか? ダンジョンってもんは階数があるもんだとおもってたぜ」
私は橋を蹴った。降りてくる少女を、迎え撃つために。
少女との距離が縮まる。
向こうも私に気づいたのか、わずかに速度を落とした。
そうして、私は彼女と対峙したのだった。
豊かな黄金色の髪をした彼女は、きらきらした瞳でにやりと笑った。
その笑みは、私の中に入り込んで、胸の中をゆっくりと、だが強く掻き回した。
淀んだ感情が腹の底に溜まって、噴き出す。
「妬符『グリーンアイドモンスター』」
その感情に任せて、カードを切った。
後を追いかけてくる緑の瞳の化け物を、少女は楽しそうに、右に左にかわして行く。
「何が……」
そんなに楽しいのだ。
頭が熱くなっていく。思考が硬直していく。
少女は強かった。
弾幕を、戦いを、楽しんでいた。
終始笑顔の彼女に、私の頭は一色に染まっていた。
でも。
それは、あいつが吐き出すいつもの感情と、少しだけ違うものだった。
それからの事はよく覚えていない。気が付いたら橋の上で大の字になっていた。
痛む体を起こして、橋から下を覗き込む。
恐らく彼女は、地底の底へと降りていったのだろう。
私はぼうっとした頭で、穴を見下ろしていた。彼女の笑顔が棘のように刺さって、ちりちりと痛んだ。
少女の名は霧雨魔理沙と言うらしい。人間の魔法使いという話だった。
彼女が降りてきて数日後、少し上のほうに巣を張っている土蜘蛛が降りてきて、聞いてもいないのに色々と話していった。今、旧都では彼女の話で持ちきりだそうだ。
彼女は地底の主と話を付け、異変の原因を突き止め、解決したという。
だが、どうやら地底の蓋は閉じられることは無く、そのまま据え置かれる事になったようだ。
「穴が閉じなきゃ意味が無いじゃない」
「いやあ、にぎやかでいいじゃないか」
その能力に見合わない明るい性格の土蜘蛛、黒谷ヤマメは、そう言って笑った。その笑顔が妬ましかった。
笑顔。
記憶の中に、霧雨魔理沙の笑顔が蘇った。
天真爛漫な、無垢な少年のような、全てを楽しんでいるかのような、心底幸せそうな。
ありきたりな形容はいくらでも湧いてくるが、どれもしっくりこない。
でも、きっと私には、そんな事はどうでもよかったのだ。
私はただ、その笑顔が心の底から妬ましかった。
しばらくすると、地底と地上との往来に、ちらほらと姿が見えるようになった。
私はそれを、黙って見ているしかなかった。
そんなある日の事だった。
地底から、大きな力が昇ってきた。生命力に満ち溢れた、巨大な力。
自らの力を隠そうともせず、かといって殊更見せびらかしもしない。あるがまま、ただ自然体。
強い自分になんの疑いも持っていない、真の強者の精神を、彼女は持っていた。
ふわりと、橋の袂に彼女は降り立った。そうして橋の上に佇む私を一瞥すると、にっかと笑ってこう言った。
「お前さんが、水橋パルスィかい?」
少し掠れたような声が、私の全身を包み、押さえつけた。総身が粟立った。私は一歩引きそうになるのをなんとか堪え、首肯するしかなかった。
何の事はない、ただの一言だけで、私は力の差を見せ付けられたのだった。
「私は星熊勇儀。旧都に住んでるもんだ」
徳利をぶら下げ、豊かな黄金色の髪を揺らしながら、ゆっくりとこちらに近づいてくる。額には、雄々しい角があった。彼女は、鬼であった。
「これから、ちょくちょくこの橋を渡らしてもらうかもしれんから、よろしく頼むよ」
鬼はそういうと、大きな右手をずいと差し出した。
一瞬、彼女が何をしているのかわからず、まごついた。それを見て、彼女は声を出して笑った。
「よろしくと手を差し出して、やるべき事がいくつあるものかね」
言われて、私は彼女が何を求めているか、ようやく理解した。同時に、怪訝にも思った。
彼女は鬼だ。数ある幻想の中でも、最強のものの一つといって、差し支えなかろう。
その鬼が、私のような妖怪に、何故握手など求めるのか。
「ほら、握手だ」
考えている間に、彼女は半ば強引に私の右手をとった。柔らかく握られた彼女の手は、じんわりとした温かみと、ほんの少しの湿り気を帯びていた。
「貴女、一体なに考えてるの?」
だから、ついそんな言葉が漏れた。胸の内から零れ出た言葉であった。
「なにって、だから、さっきも言ったろう」
鬼は事もなげにそう言うと、手をぶんぶんと振った。あんまり上下に振るので、肩が外れるのではないかと思った。彼女にしてみれば、ほんの軽い力なのだろうが。
「これからよろしく頼むよって事だよ、パルスィ」
そう言って手を離し、彼女は破顔した。その顔が、ひどく癇に触った。
「よろしく頼まれないわよ。勝手に渡っていけばいいじゃない。私は貴女なんか知らないし、頼まれもしないわ」
自分でも、とんだ命知らずだったように思う。だけど、そんな事を考える冷静さなど持ち合わせていなかった。
ただ、当たり前のように現れて、当たり前のように握手して、当たり前のようによろしく頼むなんていう目の前の鬼が、腹が立つほど妬ましかったのだ。
言ってしまった後も、後悔はなかった。不思議な爽快さすら感じていた。
彼女は一瞬驚いた後、豪快に笑った。
「いいねぇ、気に入った!」
言うが早いか、彼女は懐を探ると、朱塗りの盃を取り出し、私に押し付けた。
「こういう時は、こいつが無くっちゃ話にならん。一丁、酌み交わそうじゃあないか」
そうして、どっかりと腰を下ろした。
「ちょ、ちょっと」
こちらの返事も聴かず、彼女は徳利を傾ける。並々と注がれる液体を見ながら、私は絶句した。
「さあ、いったいった」
だが、目の前の鬼は、そんな事など一欠けらも頭の中にはないのだろう、こちらまでつられそうになるほど、満面の笑みを浮かべていた。
最早やけくそであった。
私は一気に盃を干すと、半ば放り投げるように彼女に突き返した。むせ返るような酒の香りが、頭のてっぺんから腹の底まで駆け巡る。体の中心に、火が走ったようであった。
涙ぐんだ眼で大きく一つ息を吐く私に、鬼が嬉しそうに言った。
「ふむ、一気で返盃するとは、お前さん、わかってるね」
言って、徳利を差し出す。私はそれをひったくると、盃一杯になみなみと注いでやった。せめてもの抵抗であった。
彼女は零さないようにそっと盃を持ち上げると、ゆっくりと傾けた。こくんこくんと嚥下する音が、小気味よく響いた。
息をつくこともなく、美味そうに飲み干すと、
「染みるねえ」
ほんのり上気した顔で、鬼は笑った。
「まだいけるだろ?」
さも当然のように、盃を差し出そうとする彼女を手で制した。冗談ではなかった。
「上に行くんでしょうが。さっさと行きなさいよ」
「このままじゃ通れん」
不意に笑顔を消し、彼女は言った。
「だから、勝手に渡っていけばいいでしょう」
「そうはいかん。この橋はお前さんの分身みたいなもんだろう。人様の領域に、訳も無く土足で踏み入るのは、私の趣味じゃない」
「訳があったら、土足でも踏み入るわけ?」
「時と場合によってはね。なんたって、私は鬼だからな」
私は口をつぐんだ。細く鋭い声色であった。鬼は真っ直ぐな眼で、私を見つめていた。
「だからまずは、お前さんと分かり合おうと思ってね」
盃をひょいと持ち上げて、鬼はにっと笑った。
何かが、私の中で弾けた。体のどこかに穴があいた。
「さ、とりあえず腰を落ち着けないか?」
楽しそうな鬼を眺めながら、私は体が微かに震え、呼吸が浅くなるのを感じた。
「橋の真ん中で酒盛りっていうのも、まあ、たまにはよかろうさ」
彼女の声が、笑顔が、私の中に入り込んで、溜まった澱を洗い流していく。
「分かったわ。もう十分、分かったから」
どこかふわふわとしたまま、私はそう告げていた。鬼は怪訝な表情を浮かべ、私をじいっと眺めた。
「こりゃまたいきなりだね。どうした? こいつが気に入らなかったかい?」
空の盃に視線を落とす彼女を見ながら、私は思った。
「そうじゃなくて、私、もう酔ってるの」
そう、きっと私は、酔っているのだ。だから、こんな事になっているのだ。
「ふうん……」
私の態度が面白くないのか、彼女は私の顔を覗き込むように見つめた。
「まあ、だったら今日の所はもう行こう」
彼女は盃をしまい、徳利を肩に担いだ。
「お前さんと酌み交わす機会は、これからいくらでもあるだろうさ」
私は思わず彼女に向き直った。目の前の鬼は、心底楽しそうに笑っていた。
「いや、だから……」
「私はまだ、パルスィの事をよく知らん」
私の言葉を遮り、彼女はそう言った。彼女は、本気だった。
「別に、私の事なんか知らなくたって、いいじゃない」
「よくはない。さっきも言ったが、私はこれからも、ここを渡らせてもらうんだからな」
「この橋を渡る事と、私の事と、なんの関係があるのよ」
「関係ないさ」
私は言葉を失った。何を言いたいのかが、さっぱり分からなかった。
「言ったろう? 私はパルスィを気に入った。だからパルスィの事を、もっとよく知りたいのさ」
「なにを……」
言っているんだ、この鬼は。
「ここを渡るって事は、お前さんと顔を合わすって事だ。私が気に入った奴とね。他に何か理由が必要かい?」
ぐるんぐるんと、思考が空回りしていた。なんと言えばいいのか、分からなかった。
「じゃあ、そろそろ行くよ」
鬼は私に背を向け、橋の向こうへと歩き始めた。
私はその背に何か言葉を投げようとして、結局出来なかった。
「またな、パルスィ」
彼女は振り向き、手をひらひらさせながら、地上の光めがけて飛び立っていった。あっと言う間に、鬼は小さな光に飲み込まれ、見えなくなった。
しんとした空気が降りてきて、私はようやく自分を取り戻した。
「……なんなのよ、あれ」
思わずひとりごちて、右手に眼をやった。握られた手には、まだ微かに鬼の体温が残っていた。肌に立った粟は、とうの昔に消えていた。
私は右手を握り、鬼が吸い込まれた光の先に視線を向けた。
「よろしくなんて、いらない。勝手に渡ればいいのよ」
つぶやいて、ふと気付いた。
名を呼ばれたのは、一体いつ以来だろう、と。
そして、思ったことをこれ程までにまっすぐに口にしたのも、一体いつ以来だったろう、と。
鼓動が高鳴っている。体はまだ、小さく震えていた。
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降る魔法使いと、昇る鬼。
彼女たちは、それから何度も私の前に現れた。
そうして、私の中の、得体の知れない何かが、形を変えていった。
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「似てるなあ、やっぱり……」
欄干に外向きに腰掛け、足を投げ出しぶらぶらと遊ばせながら私は、眼下に広がる光景を覗き込み、思わず呟いた。
そこには、地底への穴が広がっている。放り出したつま先から飲み込まれてしまいそうな錯覚を覚え、ふと背筋が寒くなった。
真っ黒な穴は、まるで何もかもを飲み込んでしまう、魔物のように思われた。
その魔物の口から、生ぬるく、緩やかな、吐息のような風が、低い唸り声を上げ、吹き上げてくる。湿っぽい苔の匂いを纏って、私の髪を嫌らしく梳き、地上へと吹き抜けていく。
ここは、地上への縦穴と、地底への縦穴を結ぶ橋。他には何も無い。
当たり前の話ではある。ただの通り道に、面白おかしいものなどそうそうあろうはずがない。
でも、私はこの場所が嫌いではなかった。この橋の上は、私の場所なのだ。
ぼんやりと、地底への穴を見下ろす。
呟いた言葉は、穴へと飲み込まれ、そうして、きれぎれに霧散してしまうのだろう。誰かの耳に届く事など無く。
こぼれた感情の欠片が、真下で口を開けている魔物に飲み込まれる。ただそれだけの事だった。
ぴくんと、耳がはねた。私はまた、視線を落とした。
鬼が昇ってきたのだ。とくんとした波が、体の中に響いた。
そうして彼女は、橋の袂に降り立った。
「相変わらず、不景気な面してんなあ、お前さんは」
盃と徳利をぶら下げ、下駄の音を軽やかに響かせながらこちらに向かってくる彼女は、さも親しげに挨拶などしながら、私にそう言った。私は欄干から腰を下ろし、彼女を見ながらわざとらしく舌打ちした。
「うるさいわね。毎度毎度、一言置いていかないと気がすまないのかしら?」
「おうよ、この橋を渡ろうってのに、お前さんに挨拶もしないで通り過ぎるものかね」
豪快に笑いながら、星熊勇儀はそう言った。
「……本当、馬鹿じゃないの」
しかめっ面からぽつりと出た言葉を、彼女は逃がしはしなかった。
「馬鹿なもんかい」
あの日に始まって、彼女がこの橋を渡るのも、もうかなりの回数になる。その度に、彼女はこうして私に話しかける。
「橋なんて、勝手に渡ればいいのに」
この台詞も、一体何度投げつけたことか。
鬼が、小さく息をついた。
「何度聴いても、橋姫のお前さんとは思えない台詞だな」
「知らないわよ。大体、昇る奴も降る奴も増えすぎなのよ」
そう。彼女だけではない。地上や地底の妖怪や、地霊殿の住人達まで、この橋を通って地上と地底を行き来するようになった。それもこれも、あの二人が地底に降りてきてからの事だ。地底は、大いに変化を遂げていた。私はそれを、この橋の上でただ眺め続けていた。
「橋守としちゃ、何度も何度もうろちょろされちゃ、たまったもんじゃないわけだ」
「分かってるなら、少しは控えてもらいたいものね」
「そいつは無理な相談だな。上には旧友もいれば面白い奴も沢山いるんでね」
笑いながら彼女は言う。ちくりと、胸が痛んだ。
「地底に降りてきた巫女を覚えているかい?」
あんな化け物を、忘れるはずが無い。
「今日はあいつの神社で宴会でね、毎回酷いもんさ」
どろどろとした感情が、胸にたまり始めていた。胸の中で吐き出される、汚泥のような感情。
「そうそう、上の方にいるヤマメも来るはずだ」
私の前で、楽しそうにするな。
「なあパルスィ、」
もういい。
「分かったから、早く行きなさいよ。地上に用があるんでしょう? 挨拶は確かに受け取ったから」
「……おお、そうだったな」
鬼が、少しだけ寂しそうな表情を浮かべた、気がした。
さっさと行ってくれ。私の前から、いなくなれ。そうすれば、こんな感情など味わわなくて済む。
「さて……」
彼女は一瞬、視線を落とした後、私に向き直り、朱塗りの盃を押し付けた。
「ほれ、辛気臭い顔してないで、ぐっといけ」
ほんのり上気した顔で、鬼は綺麗に笑った。一瞬、何も考えられなくなった。
「ちょ、ちょっと……」
「ほらほらほら」
盃に半分ほど、透明な液体が注がれる。ほんのりと、熟した果実のような香りが漂った。
「萃香の奴に貰ったんだが、こいつが中々いける酒でね」
やってみな、と彼女が促す。
こういうやり取りも、もう何度目だろうか。注がれたが最後、盃を干すまで、彼女は許してくれない。その図々しさが妬ましい。
私は諦めたように小さく溜息をつき、酒盃を傾けた。
口に含むと、瑞々しい果実のような香りが広がり、鼻腔を抜けていく。微熱に優しく撫でられて、頬が紅くなる。飲み込むと、雪が溶けてゆくように、ゆっくりと、体の中に染み込んでいった。
「……美味しい」
ぼうっとした頭で思わず呟いて、我に返った。目の前の鬼は、嬉しそうに微笑んでいた。頬が別の朱に染まった。
「どうやって手に入れたのかは知らんが、外のものらしい。たまにはこんな上品な酒もいいもんさ」
言って、ずいっと私に手を差し出す。私はぶっきら棒に返盃し、徳利をひったくった。
「おいおい、こぼさないでくれよ。勿体無いからな」
「黙って注がれなさいよ、風情のない鬼ね」
「やれやれっと」
彼女は少し前かがみになって、美酒がとくとくと注がれる様を眺めていた。盃に描かれた紅葉が、ゆらゆらとたゆたっている。漂う香りは、秋の実りを思わせた。
ふうっと、幽かに鬼が笑った。時折見せる、星熊勇儀の微笑みであった。
「ありがとう」
それだけ言って、彼女はゆっくり盃を傾けた。五感で酒を味わって、彼女は深く息をつく。穏やかな、満ち足りた表情で、視線を干した盃に落としている。
私はその顔を見上げながら、胸に染み出て来る感情に気付かない振りをした。
どれくらいそうしていただろう。彼女が私の方を振り返り、笑いながら言った。
「そろそろいくよ」
「あ、あら、そう」
わざとらしく顔を背け、私は応えた。
「おかげでまた、美味い酒が呑めた。また、今度な」
「だから、勝手に通りなさいってば」
「そうはいかない」
ふいに、少しだけ真面目な顔をして、
「私はお前さんとのこの時間を、毎度楽しみにしてるもんでね」
星熊勇儀は、真っ直ぐな眼をしてそう言った。
「……貴女、本当に馬鹿じゃないの」
つい先程と同じ言葉を零した私を見て、鬼は豪快に笑い、ふっと息をついて、何事かを呟いた。
「何か言った?」
「何でもないさ。じゃあそろそろ行くよ」
そうして背を向けようとして、思い出したように彼女は立ち止まった。
「おっと、そういえば」
「何よ、まだ何かあるの?」
「似てるってのは、何が何に似てるんだい?」
不意をつかれ、私は一瞬、言葉を失った。
「何の話?」
「ここへ昇ってくる途中に、お前さんの声が聴こえたもんでね」
もやもやとしたものが、胸の中で膨らんでいく。
「空耳よ」
わざとらしい口調の私を、彼女はじっと眺めていたが、ふっと息を吐くと、
「……ふむ、まあ、そうかもしれんな。何せここは風が強い」
そう言って、小さく笑って頬を掻いた。胸の奥でもやもやが弾けて、ずきりと痛みが走った。
「じゃあ、今度こそ行くよ。またな、パルスィ」
そう残して、星熊勇儀は地上へと飛び立っていった。
「聴いてんじゃないわよ、馬鹿……」
遠ざかっていく背中に、私は小さくそう吐き捨てた。
星熊勇儀の姿が見えなくなり、再び静寂が訪れた。今はそれが、少しだけ心地よかった。
「またな、か」
別れではなく、次の機会を望む言葉。
私は欄干の柱にもたれかかるように腰を下ろし、ぼんやりとさっきまでの事を思い返した。頭の中に、色々なものが浮かんでは消えた。
酒の味、酒の香り、盃に沈んだ紅葉、鬼の声、鬼の笑顔、鬼の……。
鼓動が少しだけ早いのは、きっと酒に酔ったせい。
頬が少しだけ熱いのも、きっと酒に酔ったせい。
妬ましいぐらい美味しい酒が、私の体に染み渡っているせい。
初めてあいつの酒を呑んだ時から、私は酔ったままなのだ。
だから、こんなのは私じゃない。私であるはずがない。わかっている。でも。
私は膝を抱いて、顔を埋めた。腕に力をこめると、ふわふわとどこかへ浮いていってしまいそうな自分を、捕まえていられる気がした。
吐息が甘い。胸が苦しい。これもきっと、酒に酔ったせい。
「なんだって、こんな思いをしなきゃならないのよ」
あの鬼が、笑いながら酒なんか振舞っていかなければ、こんなものは私の中に生まれやしないのだ。妬ましい。
妬ましい妬ましい妬ましい。
見上げると、鬼が吸い込まれていった小さな光の穴が輝いている。はるか彼方の地上は、よほど天気がいいらしい。私では、あの光には届かない。
ぼうっとした頭を振って、そのまま眼を閉じた。
少し眠ってしまえば、こんなものなんか、どこかへ消えてしまっているだろう。自分にそう言い聞かせて、まどろみの中へゆっくりと落ちていった。
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…………。
雨。
雨が降っていた。
ざんざんざんざん降っていた。
暗く冷たい、茶色の雨。
止む気配などまるでない。
体が徐々に、雨の中に沈んでいく。
暗くて、寒くて、冷たくて。
何も見えない、聴こえない。
怖くて、痛くて、逃げたくて。
意識が遠くなるほどつらかった。
それでも。
握られた手だけは、ずっと温かかった。
誰かが、私を呼んでいる。
その声は瑞々しく、全ての苦痛を忘れさせる、麻薬のように思われた。
…………。
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「パルスィ。おい、パルスィ」
生ぬるい泥から引きずり出されるように、意識が緩やかに形を作る。
重いまぶたを開くと、ぼんやりとした人影が眼の前にあった。朧げな輪郭の中に、少年のような瞳だけがくっきりと浮かんでいた。
その瞳はまるで、私の全てを知っているような気がして、
「……誰?」
思わず、そう呟いていた。
「おいおい、寝ぼけてるのか?」
聞き覚えのある声が降ってくる。意識が一気に覚醒した。
「随分、気持ち良さそうに眠ってたな」
眼の前にあるのは、見慣れた魔法使いの顔だった。
「こんな所で寝てたら風邪を引くぜ?」
意地の悪そうな、しかし憎めない笑顔で、彼女、霧雨魔理沙はそう言うと、私に小さな右手を差し出した。起こそうとしてくれているらしい。
私は下を向いて、彼女の手を取った。恐らく今しがた地上から降りてきたのだろう。吹き上げる風に晒されたせいか、彼女の手はひんやりと冷たく、乾いていた。
立ち上がると、すぐに彼女の手を離した。そのまま、寝起きで赤くなっているであろう眼をこすった。
「私は貴女達人間と違うんだから、風邪なんか引かないわよ」
そっぽを向いて、出来るだけ不機嫌そうな声で、私はそう言った。彼女は顎に手をあてると、さも納得したかのような顔をした。
「まあ、そりゃあそうか。そうだよな」
照れ隠しなのか、ほんのり朱に染まった頬をかき、ははっと笑った。
相変わらず、霧雨魔理沙はよく笑う子だった。
初めて彼女が降りてきてから、もう大分経つ。
何の事はない、彼女はただの野次馬で、人形の向こうにいる魔法使いのお使いのようなものだった。言うなれば、あの時の霧雨魔理沙は人形遣いの人形そのものだったのかもしれない。
だというのに、彼女は瞳を輝かせ、それはそれは楽しそうに笑っていた。
私はただ、その笑顔が心の底から妬ましかった。
でも、それはいつも抱く嫉妬の感情とは、微妙に何かが違っていた。
彼女の笑顔を見ていると、私はいつも腹の裏側を撫でられるような感覚を覚えた。単純な嫉妬の念とは違う、別の何かを、私に覚えさせるのだ。
一つ、深く息をついた。
「また、地霊殿にお出かけ?」
「うん、ちょっとさとりの所にな」
箒を肩に抱えながら、彼女は微笑んだ。
古明地さとり。
他者の心を読む能力を持ち、それゆえに忌避されてきた妖怪、さとり。押しも押されぬ地底の主である。忌み嫌われた力を持っているがゆえに、私たちは地底に封印されてきたのだが、彼女の能力はその中でも一級品だろう。
その妖怪の所に、この少女は足繁く通っているようだった。
彼女にしてみれば、妖怪さとりの能力さえも、好奇心の対象でしかないのかもしれない。
地底の主が軽く見られているのか、それとも彼女が大物なのか。あるいは、その両方か。
「今日は神社で宴会って聴いたけど、貴女は行かないの?」
「ああ、こっちが先約だったもんでな」
「随分とご執心なのね。恐れ入るわ」
「おう、さとりは面白い奴だからな」
たったの一言で片付けてしまう。それどころか、逆にこちらが古明地さとりに興味を抱きそうになる。全く、図太い神経をしているものだ。妬ましい。
おかげで、少し探りを入れてみたくなってしまった。
「そんなに頻繁に訪ねていって、古明地さとりは貴女を疎んじていないのかしら?」
自らの能力ゆえに、彼女は普段、住処である地霊殿に篭っていると聞いている。人間がのこのこ現れて、快く迎えてくれるものだろうか。
「ああ、毎度お茶の用意までしてくれてるぜ」
魔法使いが笑う。
「へえ……」
なるほど仮にそれが形式的なもてなしであったとしても、古明地さとりは彼女を受け入れているのだろう。
恐らくだが、それは客人が霧雨魔理沙だからこそなのかもしれない。
妬ましい事に、彼女は思わず心を許してしまいそうになる、不思議な魅力を確かに持っていた。悪いうわさしか聞かないにも関わらず、だ。
「しかし、お前はいつもここにいるんだな」
ふと、魔法使いがそんな事を呟いた。
「橋姫が橋にいるのは当たり前の話でしょうに」
私はなんの疑問も持たず、彼女にそう答えた。
「ん、まあ、そりゃあ、概念上はそうだろうぜ」
なにやら小難しい言葉を織り交ぜる。魔法使いというのは、どうも理屈っぽくていけない。私が眉間に皺を寄せているのを見て、彼女は慌てて次の言葉をつむごうとした。
「だからだな、お前さんは橋姫で、橋を守り、渡り行く人たちを見守る存在だっていうのは、確かな事実だ」
たまに嫉妬狂いになったりするけどな、と、笑いながら余計な一言を彼女は付け加えた。私は沈黙で続きを促す。
「だけど、あー、何と言えばいいのか……」
そこから先を、どうやらうまく言葉に出来ないらしい。少し時間を置いて、彼女はようやく次の言葉を見つけたらしかった。
「要するに、お前さんは橋姫だけど、水橋パルスィだろ、って事だ」
魔法使いは、私の顔を覗き込むようにして、そう言った。
「よく分からないわ」
そんな禅問答のような言葉を投げられてすんなり納得出来るほど、私の頭は柔らかくはないし、心も広くない。
「ああっと……」
彼女は豊かな金色の髪をかしかしと掻いた。
「とにかく、お前は地上とか地底とかに、顔を出したりしないのか? それこそ、霊夢の所の宴会にでも参加すればいいじゃないか。どいつもこいつも癖はあるが、面白い連中だぜ」
「地上に行くなんて考えた事もないわ。地底へも、滅多に行かないし」
「じゃあ尚更、いい機会だと思うんだけどな」
「お気遣いはありがたいけど、そもそも、私じゃあそこまでたどり着けないわ」
私が何の気なしにそう言うと、目の前の魔法使いは一瞬驚き、戸惑いながら言った。
「いや、そんな事はないだろう……」
不思議そうな表情を浮かべる彼女を見ていると、何故か胸が重くなった。黒い感情が、胸の奥から、緩やかに噴き出していた。
「貴女なんかには、分からないわ」
だからだろうか。自分でも驚くぐらい、辛辣な口調で、そう撥ね付けた。
魔法使いは一瞬言葉を失って、苦笑いを浮かべた。
「いやさ、こんな所にずっといて、退屈じゃないのかって、思ったんだよ。それだけなんだ、怒るなよ」
こんな所、か。
そういう感想を抱くのも、無理もない話だろう。
なにせ、ここには橋しかない。他には、何もないのだ。だが、
「ありがたい話だけど、心配してもらわなくても大丈夫よ」
この橋があれば、私は私でいられる。
「私、この場所は嫌いじゃないから」
「そうかい」
彼女はふっと息を吐いて、小さく笑った。その行為にどういった感情が込められているのか、私にはよくわからなかった。
「さてと、じゃあもう行くぜ」
彼女は顔を上げそう言うと、箒にまたがり、笑顔で私に手を振った。
(ああ、あの笑顔だ……)
私のどこかをくすぐる、不思議な笑顔。いつもとは違う、嫉妬の感情。
何故そんな綺麗な笑顔を、私に見せる?
「じゃあまたな」
そう言うと、彼女はこちらの返事など待たず、星を撒き散らしながら、地底の黒へと吸い込まれていった。私の胸に、妙な感覚を残したまま。
「じゃあまたな、か」
ほんの少し前にも、同じ言葉を聴いた気がする。
何故あの鬼も、魔法使いも、わざわざ足を止め、私に声などかけるのだ。何故、私に笑顔など見せていくのだ。
橋なんて、勝手に渡ればいいのだ。私はここにいて勝手に見守っているし、妬ましかったらちょっかいもかける。それでいいではないか。それ以上、何をやりとりする必要がある。
「大きなお世話なのよ、どいつもこいつも」
足元に落ちていた、魔法使いが残していった小さな星屑のような何かを、思いっきり蹴っ飛ばし、無理やり言葉を吐き出したら、少しだけ胸のつかえが取れた気がした。
頭上を見上げる。
鬼が吸い込まれた地上の光は、相変わらずそこにある。
私はまた、欄干柱に体を預けるように腰掛けた。私が体を休めるのはいつもこの場所だ。
ここにいると、心が落ち着く。預けた背中が、じんわりと暖かい。心地よい細波が、私を包み込んでくれる。そんな気持ちになってくるのだった。
--------------------------------------------------------------
…………。
茶色い雨が降って来る。
ざんざんざんざん降って来る。
雨は止む気配などなく、私の体を容赦なく濡らしていく。
沈む。
体が、雨の中に。
もはや眼など開けていられなかった。
何も見えない。
真っ黒な冷たい闇に飲まれ、ただ耳に、雨音だけが乱暴に響いていた。
ざんざんざんざん。
体が冷たい。
意識が重い。
声。
声が聴きたかった。
優しく私を蝕んでいく、あの暖かい声。
そういえば。
あの声は一体、誰のものだったのだろう……。
…………。
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眼を開けても、まだ眠りの中にいるような気がした。重い頭をゆっくりと上げる。随分と眠ってしまっていたらしい。
欄干に預けた体をゆっくりと起こす。
まだ意識が定まらない。妙な夢を見た、気がする。
最近は、こういう事が多い。
まるで浅い眠りの中で、何かに絡め取られているようだ。
何か、なんて表現をする必要は、ひょっとしたら無いのかもしれない。原因は何となく分かっている。
あの鬼と、魔法使いだ。
彼女達が残していった匂いが、私の中に染込んでいたからかもしれない。
彼女達の笑顔は、私を優しく、残酷に抉っていく。
その度に、あいつが、眼を覚ましそうになる。彼女達とのやりとりで生まれた感情を、食べてしまおうとする。
(ああ、くそ……)
下品な言葉を胸の内で吐き、私は頭を振った。
意識はまだ重たく、私の体に纏わりついている。
頭上を見上げる。小さな光が、今は少し鈍く見えた。陽が傾いたのか、雲でも出たか。鉛色のどんよりとした空を想うと、溜息が出た。
(空、か)
一体いつだろう。最後に空を見上げたのは。
いや、そもそも。
私は、あの空の下に立ったことがあるのか?
見上げた先、空との間には、真っ黒な螺旋階段のように、暗闇が続いている。絶望的なまでの出口との距離に、眩暈がした。
ちりちりと、頭が痛む。
声を掛けられなかったという事は、鬼も魔法使いも、まだ戻ってはいないのだろうか。
あの鬼は今、あの空の下にいるのだろうか。それとも、どこかの屋根の下で、面白おかしく、盃を傾けているのだろうか。
魔法使いはどうか? 地霊殿で、妖怪さとりと語らっているのだろうか。
そう考えて、私は自嘲した。
(下らない……)
だったらどうした。私には関係ない。
それに、あの二人が私に必ず声をかける保証がどこにある?
いや、そもそも、私はあの二人の事を煩わしいと思っているはずだ。
(下らない……)
胸が、かき乱される。
(下らない下らない!)
橋の欄干から地底へと続く穴を眺める。
ひゅうひゅうと風が吹き上げたり吹き降ろしたり、その度に、嫌な臭気と湿気が頬を撫ぜる。
こうしていると、いつも思う事がある。
この穴は、私の中にいるあいつと、似ている、と。
何もかもが、この真っ黒な、ぽっかりと開いた口に吸い込まれ、そして。
知らず、奥歯が鳴った。
生ぬるく吹く嫌らしい風も、この地底も、そしてさらに下へと続くこの穴も。
全てが不愉快だった。
私は欄干にもたれかかるように、頭を垂れた。瞳が濁ったように、視界がぼやけた。生ぬるい水が頬を伝い、ぽたぽたと零れ、黒い染みになる。
何故、私が涙など流す必要があるのだ。
この涙はなんだ? 何故、流れていくのだ?
ぽろぽろと零れる雫を肌で、瞳で感じながら、自問する。
答えなど、分かるはずがないのだ。
何故なら、私は橋姫だ。
嫉妬にかられた鬼女。それが、私なのだ。
この体の中に渦巻く黒いものこそ、私の本質なのだ。
私は橋姫。
嫉妬に狂った、醜い妖怪。
それが私なのだ。
橋に体を預ける。
一つ、大きく息をする。
大丈夫だ、こうしていれば、大丈夫。
私は、私のままでいられる。
私は、私のままでいいのだ。
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「なんだか最近、辛気臭い顔してるわねえ、あんた」
「そうかい?」
「そんな顔して、自覚がないんじゃどうしょうもないわね。いつものあんたなら、あの乱痴気騒ぎの中心にいるってのに」
いいながら、博麗霊夢は境内の中心に眼をやった。視線の先は、さながら百鬼夜行の様相を呈していた。
最近は山の神に加え、地底の妖怪に、徳の高い僧侶まで混じる始末だが、まあ、概ねいつものような、酒宴の席であった。
だが、霊夢は目ざとく鬼の様子に眼をつけた。
なにせあの星熊勇儀が、少し離れた木の下で、腰を落ち着けしんみりやっているのだから、興味を惹かれないほうが嘘というものだろう。
霊夢は内心、いい酒の肴が出来そうだと思いながら、徳利片手に話しかけたのだった。
「ふむ……。私には別段、どうと言える事も無いんだがね」
勇儀は霊夢が手にした徳利をひったくると、ずいと霊夢の眼前に差し出した。
「ふぅん、本当かしらね」
注がれた盃を一気に干し、勇儀に手渡す。
「お前さんにしちゃ回りくどい言い方をするじゃないか、博麗の巫女殿」
「そうかもね、じゃあもうやめにするわ」
並々と酒を注ぎながら、少しだけ嬉しそうに霊夢は言った。
「それがいい。聴きたい事があるなら、分かりやすく簡潔に言うのが一番さ」
そう言って、勇儀が盃を煽る。
「何ていうのかな、最近のあんたって生気がないのよね」
勇儀は何も答えない。ただ、盃を傾けている。
「鬼の癖に、覇気もないし」
「ないない尽くしだな」
勇儀は苦笑した。
「それだけ、最近のあんたはおかしく感じるって事よ。私から見たら、だけどね」
ぴくりと、鬼の目尻が上がった。霊夢はそれを見逃さなかった。
「おかしいとは、随分な言い草だ」
自嘲気味に笑って、勇儀は盃を再び煽る。霊夢はその盃に眼をやる。
(たったこれっぽっちの酒を干すのに、こんなに時間が掛かるなんてね……)
ようやく飲み干して、鬼は口元を拭い、溜息を付くと、霊夢に盃を返す。
「最近、魔理沙をあんまり見ないんだけど、それと関係あるのかしら?」
勇儀の表情が曇った。霊夢は僅かに身を乗り出した。
「地底の橋の辺りですれ違った事は何度かあるがね。大方、地霊殿にでも遊びに行ってるんじゃないか?」
「地霊殿? さとりの所?」
勇儀はにやりと笑った。
「あの魔法使いが、地底に行って彼女に眼を付けないわけがないだろう?」
「まあ、確かに」
「魔法使いらしく、好奇心旺盛で結構な事じゃないか」
勇儀はごろりと寝転がり、霊夢に渡した盃に再び注いだ。
「手癖も悪いし、あそこまでいくと一種の病気ね」
霊夢がそっと盃を傾ける。
「病気か……」
肘を突き、勇儀は宴会の輪をぼんやりと眺めながら、思った。
同族である萃香はもちろんの事、集まっている連中は選り取りみどりの猛者ぞろい。その取り巻きも、早々お眼にはかかれない手練ばかりだ。木っ端に見える連中だって、かなり腕は立つだろう。
初めてこの宴会に参加したとき、胸が躍ったものだった。ここにいる誰とやりあったって、楽しめるに違いない。
だが、今はどうだろう。
こうして、喧騒の中で盃を傾けるのも、悪くはない。だが……。
ぴゅうと風が吹いた。頭上の緑が揺れて、かさかさと音を立てたが、宴の嬌声に飲まれ、かすかに耳に届くばかりで、勇儀にはそれが酷くもどかしく思われた。
脇でじっと様子を見ていた霊夢が、ちびちびと酒を舐めながら、ぽつりと言った。
「んー、よくわからないけど、なんだか重症ねえ」
「なにがだい?」
不思議そうな顔をして見上げる勇儀を見て、霊夢は溜息をつく。
(自覚がないっていうより、根本的にわかってないのかしら……)
「おーい、勇儀ぃ! なーにそんなとこでちまちまやってんのさ! こっちこっち!」
輪の中から、萃香が陽気な声を上げた。かなり呑んだのだろう、足元が若干覚束ないようで、時折体がふらりと揺れている。横には烏天狗が突っ伏して、ぴくりとも動かない。その奥で、山の神が声を上げて笑っている。
「あの天狗も中々の命知らずだね」
「いやあ、文が自分から萃香に挑むなんてちょっと想像がつかないわ。大方、萃香に無理やり呑まされたんじゃない?」
「違いない」
言いながら、勇儀は腰を上げた。
「一緒にどうだい?」
「やめとく。あんたらに付き合ってたら、血も涙も全部お酒になっちゃうわ」
「つれない事だ」
くっと小さく喉を鳴らして、勇儀は萃香の元へと向かっていった。後姿には、やはりどこか翳がある。
一人残された霊夢は、ぐっと盃を干すと、視線を上へと向けた。
「あんたもどう? 勇儀にはふられちゃったし、ちょっと付き合ってよ」
がさりと音がして、緑の中からするすると逆さの人影が降りてきた。
「気付いてるんなら、もっと早く声をかけておくれよ」
「盗み聞きとはお行儀の悪い事ね、土蜘蛛さん」
「何を言ってるんだい。あたしが木陰で涼んでる所に、あの姐さんとあんたが勝手に来たんだよ。出るに出られなくて困ってたとこさ」
黒谷ヤマメは冗談めかして言うと、くるりと反転し、腰を降ろした。霊夢から盃を受け取り、酌を受ける。
「しかし、よく姐さんの変化に気付いたもんだね。さすがは博麗の巫女ってところかい?」
言って、小さく盃を煽った。
「いや、普通気付くっての」
「ここに集まってる連中はどいつもこいつも普通じゃないからねぇ。そりゃあ気付かないわけさね」
顎をしゃくって盛り上がる連中を指すと、ヤマメは声を出して笑った。霊夢が呆れたように、視線を向ける。
「本当に、なんだってわざわざこの神社に集まるのかしら」
ヤマメはきょとんとした顔をして、まじまじと霊夢を眺めた。
「何よ?」
「いや、あんたも人の事は言えないなと思ってね」
ヤマメはくすっと笑うと、盃を霊夢に手渡した。
「私がどこかおかしいって言うの?」
「おかしかないさ。ただ、あんたは幸せだよ。それは間違いない。人も妖も、皆あんたに惹き寄せられているのさ」
霊夢はよくわからないといった風に、怪訝な表情を浮かべたが、すぐにそれを消し、
「ま、いいわ。それより注いでよヤマメ」
ずいと盃を差し出した。
「はいよ」
徳利を傾けながら、ヤマメが続ける。
「まあ、あんたにしてみりゃ、そんなことにゃ大して興味もないんだろうがね」
「そんなって?」
ヤマメが呆れたように笑った。
「言ってるそばからこれだ。敵わないね。地底の橋姫が見たらなんていうか」
「そういや、パルスィだっけ。彼女はちっとも地上に上がってこないのね。あんたや勇儀、地霊殿の連中だって、さとり以外は顔を出してるのに」
「そこだよ、霊夢」
不意に名前を呼ばれ、霊夢は思わず姿勢を正した。
「あたしは、姐さんの変化の原因は、それだとにらんでるのさ」
盃を最後まで傾けてから、霊夢が言った。
「それって、パルスィがってこと?」
ヤマメは苦笑すると、両の手で頭を抱え、木の幹に背中を預け、空を仰いだ。空に浮かんだ星達が、ぼんやりと霞んで見えた。
「姐さんはきっと、パルスィを地上に連れてきたいんだよ」
霊夢が怪訝な表情を浮かべた。
「そんなの、普通につれてくればいいじゃない。橋姫だからって、橋にへばりついてなきゃいけないってわけでもないでしょうに」
「それが出来ないから、ああなってるんだろうさ」
霊夢に注いでやりながら、ヤマメは呟くようにそう言った。
「……ふうん、そういう事ね」
納得がいったように、霊夢は小さく息をつく。
「あたしの推測でしかないけどね」
言い終えて、すっきりしたというように、ヤマメは大きく伸びをし、気持ち良さそうに眼を閉じた。
「それはちょっと、悪い事しちゃったかしら」
霊夢の言葉を聴いて、ヤマメは大きな笑い声を上げた。
「お前さんがそんなタマかね」
「そんなとは何よ、失礼ね」
「いや悪い、意外すぎる反応だったもんでね」
「どっちにしろ失礼じゃない」
「そう怒りなさんな。まあ、気にするこたぁ無いだろうさ」
ヤマメが輪の中へと視線を向ける。勇儀はその中心で、神奈子と向き合っている。
「中々見ごたえのありそうな勝負ね」
「あれに混じって、盃の一つでも酌み交わしてくれば、お前さんの気もちっとは晴れるかもしれないよ」
「だから、行かないっての」
意地悪そうな笑みを浮かべるヤマメに、霊夢はぶっきら棒に答えた。
「ま、あたしらが心配しても始まらない。姐さんのことだ、自分でなんとかするさ」
宴の中の勇儀を見るヤマメの瞳には、うっすらと感情の色が浮かんでいる。
「なんたって、彼女は鬼なんだからね」
酒で霞のかかった五体を通して、更けていく幻想郷の夜を感じながら、勇儀は不思議な孤独感を味わっていた。
目の前の神は陽気に酒を煽っている。
周りの歓声がそれを盛り上げる。
あちらこちらから、自分と神の名を呼ぶ声が聴こえる。
(ああ……)
盃を傾けながら、勇儀はそれをどこか冷めた心地で聴いていた。
(そうだ、私は星熊勇儀。山の四天王)
頭の中に、ぼんやりと浮かぶものがある。
小さくて、今にも消えてしまいそうな、儚い影。
一人、橋の上に佇む、華奢で愛らしい、小さな鬼。
周りは暗闇だ。まるで、あの橋の下に蠢く、地底への穴のように。
(だったら、お前さんは一体、何者なんだ……? 水橋パルスィよ)
眼の前に徳利が差し出された。
「ほら、まだいけるだろ?」
勇儀は盃を差し出し、受けようとしたが、神奈子の手が止まった。
「……どうしたね?」
手を止めた神奈子を見やり、勇儀は呟いた。
神奈子は勇儀の眼をじっと見つめながら、その盃に注いでやった。
「私は幻想郷に来てまだ日が浅くてね」
神奈子の言葉に、勇儀は眉をひそめた。
「知っているさ、そんな事は」
「まあ、聴きなよ」
にっと口の端を吊り上げ、神奈子は続けた。
「ここの事は、多少は知っているつもりだったが、来てみて驚いたよ。いやはや、なんでもありとはこの事さ」
徳利を置き、神奈子はぐるりと辺りを見回した。
「こうやって私と神であるお前さんが酌み交わしてるんだ。なにをかいわんやだろう」
「なに、私もあんたも、突き詰めていけばそう大差ない存在さ」
立てた片膝にもたれかかるようにしながら、神奈子が言った。
「うちの巫女がいるだろう?」
「ああ、確か早苗と言ったかい?」
「そうそう。早苗も、最初は戸惑ったみたいでね」
「とてもそういうタマには見えないがね」
神奈子は苦笑した。
「ま、アレはアレで、繊細な所もあるのよ、一応。まだ二十年も生きちゃいない娘なんだしね」
「それで、あの子がどうしたって?」
「ああ、ここに来たばっかりの頃だがね」
神奈子は再び徳利を手に取ると、直に煽った。口の端から一筋、溢れたものが輝いている。再び、小さな歓声が上がった。
神奈子は満足そうに息をつき、続けた。
「私らは神だ。信仰が無くちゃ人の世には居れない。早苗は巫女として、私達のために、それはそれは張り切ってくれていたよ」
「結構な事じゃないか。あそこで土蜘蛛と呑んでる巫女にも、しっかりと聴かせてやるといい」
ちらりと勇儀が視線をやった先には、ヤマメと共にすっかり上気した霊夢の姿があった。
「あの巫女はあれぐらいのいい加減さで丁度いいのよ。むしろその辺を早苗にも見習って欲しいぐらいさ」
「いい加減よりかは、真面目な方がいいと思うがね」
勇儀は神奈子から徳利をひったくると、同じように、直に一口だけ煽った。
「何事にも加減ってもんがある。あの時の早苗は、頑張りすぎていたんだね」
勇儀が徳利を差し出した。神奈子は再び盃を手に取ると、鬼から酌を受ける。
「そうさね、それこそ霊夢達がうちの神社に来るまでは、危うい感じがしていたよ」
「根を詰めすぎたかい」
「ま、そんな所ね。空回りして、落ち込んで、それでも自分を奮い立たせて。そんな事を繰り返しているうちに、よく分からなくなってきたんだろう。一頃は外の世界の恋しさも手伝ってか、心ここにあらずという感じだったよ」
「ほう。そいつは難儀だったね」
勇儀は地面に肘をつくと、手を枕にしてごろりと横になり、神奈子を見上げながら、言った。
「で、それを私に話して、一体何が言いたいんだい?」
言葉の中からわずかに滲んだ感情の色が、神奈子にちくりと刺さる。
神奈子は待っていたかのように、まっすぐに勇儀を見据え、
「そう、まるで今のあんたに、似てると思ってね」
そういって、薄く笑った。
勇儀は体を起こし、神奈子の視線を正面から受け止めた。
「言っておくが、そう思っているのは私だけじゃないはずだよ」
神奈子の言葉に、先ほどの霊夢とのやり取りが甦る。勇儀は知らず、奥歯をかみ締めていた。よく分からない感情が、少しずつ体の中に湧き上がっていた。
「まあ、要するに私が言いたいのは、だ」
神奈子がずいと身を乗り出す。繋がった視線が短くなる。お互いの息遣いが感じられるような距離まで近づけ、言った。
「酒呑み同士、こうして膝突き合わせてるんだ。お酌するときぐらい、私の方を向いてもらいたいもんだね」
にやりと笑うと、神奈子は身を引いた。
「ま、うまく行かないからそうなってるんだろうが、なんぞ憂いがあるのなら、うちの神社で相談に乗るがね?」
冗談めかして言う神奈子に、勇儀は苦笑した。
「鬼を相手に勧誘かい?」
「あんたみたいなのから信仰を受ければ、それこそ鬼に金棒だからね」
「私は鬼だ。我々が信ずるは、我々の力のみよ」
「だったら、その道をさっさと歩いていけばいいのさ。迷う必要がどこにある?」
にかっと笑うと、神奈子は腰を上げた。
「さあ、次はもちっと楽しく酒を呑もうじゃないか」
--------------------------------------------------------------
…………。
雨が、体の中に入ってくる。
体が茶色に侵される。
体の中で渦を巻いて、ごうごうと音を立てている。
声。
声が聴こえない。
それでも。
手のひらだけが、ほのかに温かい……。
…………。
--------------------------------------------------------------
また、夢だ。
頭が重い。不愉快。
上から、何かが降ってきた。
きらきらと輝く光の粒を纏って、彼女が降りてくる。
(また来たのか……)
降り注ぐ粒が大きく、そして数も多くなる。
星を纏って、箒に乗った魔法使いが降りてくる。
「よっと」
箒から橋の上に飛び降りると、霧雨魔理沙はにっかと笑った。
「また来たぜ」
何か楽しい事でもあったかのように、彼女は快活に笑う。いつもの事だ。
いつもの、魔法使いの笑顔。
その笑顔を、私に見せるな。
「どうした、パルスィ?」
私の名前を、気安く呼ぶな。
頭が熱い。音叉が耳の中でめちゃくちゃに叩かれているかのように、不愉快な雑音が響いている。
何も考えられない。何も、聴こえない。
右手に鈍い痛みが走った。私は顔を歪め、右手へと眼をやった。
ああ、痛いはずだ。
小指と薬指の付け根から、手のひら側に白いものが見えていた。どうやら、折れた骨が外に飛び出てきたらしい。
自分の骨を眺めながら、思考は驚くほど冷静だった。
いつのまに攻撃を受けた?
視線を前に向ける。目の前の魔法使いは、驚いた表情を見せている。心なしか、顔が青い。
何かがおかしい。
彼女は手癖は悪いと評判だが、いきなりこれほどの怪我を負う攻撃をしかけるほど無礼な輩ではない。それは私も、今までの手合わせの中で理解している。
では、この右手は?
私は視線を右に移動する。先ほどまですがり付いていた、欄干。そこは血で染まり、赤黒く変色していた。どくんと、胸が蠢いた。
私は、何を、
「何をやってんだよ、お前!」
魔理沙の声がする。私の右手をじっと見ている。本気で心配して……いる。すぐそこに彼女はいるのに、その声はどこか遠くに聴こえた。
ぽつりと、何かが体に湧いた、気がした。
足音がする。あわただしい。駆け寄りながら少女は、懐を探り、小さな皮袋と手ぬぐいを取り出した。
「何でいきなり、欄干殴ったりしてんだよ!」
殴った? 私が、この欄干を? 自分で、この色に染めたというのか。
怒鳴られ、右手を取られ、また激痛が走った。
穴から、全てが噴出した。
「触るな!」
噴出したそれは、怒鳴り声となって、口をついた。
右手から、痛みが体を駆け巡る。どくんどくんと、血に乗って、体中の神経を掻き毟る。
傷つけられた神経が、暴れまわっている。熱い。
体中から、嫌な汗が噴出す。冷たい。
痛い。不愉快。気持ち悪い。
再び、穴が開く。全ての感覚が、感情が、吸い込まれていく。
ああ、そうだ。所詮、私は私なのだ。
魔理沙が体を震わせ、一歩後ずさる。先ほどまでの笑顔は消えうせ、ただ狼狽が浮かんでいた。
少しの間そうして、魔理沙の表情に火が点った。体が震えている。
「お前、ふざけんなよ! 弾幕ごっこもせずに怪我する奴も無いもんだぜ! どうすんだよ! 私、この橋渡っちゃうぞ!」
わけの分からない事を喚いている。彼女らしくない。
「聴いてんのかよ、おい!」
握った右の拳を振り上げながら、魔理沙が怒鳴る。その手は、私の血で染まっていた。
気がついたら、一歩前に出て、その手を握っていた。
「お、おい……」
その手のひらは、生ぬるくて。
「なんで……?」
じっとりと濡れていて。
「なんで私を、」
魔理沙が顔を歪める。
右手に力をこめてしまっていたらしい。
私の骨が彼女の手のひらに刺さって、血と血が混ざり合う。
「私を……」
頭が痛い。ぐるぐると中身を掻き回されているかのようだ。
「パルスィ、どうしたんだよ、お前……?」
両手で頭を抱える。
違う。こんなのは、私じゃない。私は。
「……何でもないわ」
「何でもなくないだろ、ちょっと見せてみろ」
再び魔法使いが右手を取った。皮袋から膏薬を取り出すと、傷口に塗っていく。激しい痛みが体を駆け抜ける。
「我慢するんだぜ、特製なんだからな」
そう言いいながら、膏薬を塗り終わると、手ぬぐいを巻いてくれた。
ありがとう。
そういうべきなのだろう。
だが、どうしてもその言葉が出てこなかった。
私を心配してくれているその顔が、眼が、声が。そうさせなかった。
「早く行きなさいよ……」
だって、そんな素振りを見せたって、あなたはどうせ。
「地霊殿に行くんでしょう?」
「そうだが……。なあ、パルスィ、一体全体、今日はおかしいぜ、お前」
「おかしくなんかないわ。私は私よ」
右手を欄干へとやる。私の血でじっとりと湿ったそれは、いつもと違うものに思えた。
「私は橋姫。この橋が、私の……」
声が出てこない。
「何でそんなに、この橋にこだわるんだよ」
苛立ちを交えた声で、魔法使いが言った。
「貴女にはわからないわ」
「ああ、そうかよ」
そう言って舌打ちし、魔理沙は皮袋を投げてよこした。
「数刻したらまた塗りな」
箒にまたがると、彼女はふわりと宙に浮いた。
そうして、鋭い視線をこちらに投げ、彼女は吐き捨てるように言った。
「何をうじうじいじけてるのか知らんし、知りたくもないが、そうやって一生、ここにいればいいのさ」
言うが早いか、魔法使いは地底へと降りていった。
たった一人。私を残して。
右手が疼きだした。
血の気の失せた手のひらは、青白く冷え切っていた。
--------------------------------------------------------------
地底の底。豪奢な屋敷。
魔理沙はいつものように、正々堂々と正面玄関から侵入し、屋敷の主の元へと向かう。
広く、静まり返った廊下に、魔法使いの靴音だけが響いた。
いつもはここに来るたびにわくわくするのだが、今日はとてもそんな気分ではなかった。
「しっかし、」
赤と黒で彩られた市松模様の廊下。艶やかなステンドグラスの天窓。
「いつ見てもこの屋敷は……」
「相変わらず、家捜しをしたくてたまらないのね」
魔理沙は驚いて、声のほうに眼をやった。心を覗き見られた相手が、廊下の先にいた。
「『何かを借りていきたくなる』なんて、馬鹿な考えはそろそろ捨てて下さる?」
「よう、さとり」
魔理沙は悪びれもせずに笑顔を浮かべながら、挨拶を投げた。
受け取った少女、古明地さとりは苦笑を浮かべながら、投げ返す。
「ごきげんよう、魔理沙」
「珍しいじゃないか、お出迎えしてくれるとはな」
「たまにはこんなサービスもいいのではと思いまして」
さとりが口の端に笑みを浮かべた。
「立ち話もなんだし、いつもの席へどうぞ」
さとりは一つ溜息をつくと、先にたって長い廊下を歩き出した。
「毎度毎度悪いな」
響きあう二つの足音を楽しみながら、魔理沙が言った。
「思っても無い事、言わない方がいいわ」
「一々心を読むなよ」
「それぐらい、心を読まなくても分かります」
「ちぇ」
拗ねた顔を浮かべる魔法使いを見て、さとりは楽しそうに笑う。客間の扉が見えてきた。
「お前も意外と根性曲がってるよな。人をいじめて楽しいのか?」
「あら、私は貴女を笑ってるわけじゃないわ」
「ああん?」
魔理沙は両手を頭の後ろに組んで、怪訝な表情を浮かべた。
「だったら、なんだってそんな顔してんだよ」
「私はただ……」
そこまで言って、さとりは口をつぐみ、悪戯っぽく笑った。
「ただ?」
後ろから魔理沙が、覗き込むようにさとりを見ながら、先を促す。
扉に手をかけ、さとりは半分だけ魔理沙に振り向いた。
「その先は、自分で考えてみることね」
「なんだよそれ」
唇を尖らせる魔理沙をみながら、さとりは苦笑した。
「貴女に今、必要な事よ」
さとりが扉をあけると、暖かい空気が魔理沙の頬を撫でた。テーブルの上には、見慣れたティーセットが既に並べてある。
魔理沙はいつもの椅子に座ると、帽子をとって大きく伸びをした。さとりがティーポットを手に取る。
「あーあ、今日は何だか疲れたぜ」
白いティーカップに注がれる琥珀色の液体を眺めながら、魔理沙はわざとらしく呟いた。さとりは何も言わず、次に自らのカップに紅茶を注ぐ。魔理沙は小さく息をついた。
「どうぞ。冷めるわよ」
ティーポットをテーブルに置きながら、さとりが言った。促され、魔理沙はカップを手にする。紅茶の縁を彩る薄い金色の輪を見て、魔理沙は思わずほうっと溜息をついた。
カップを顔に近づける。立ち昇る濃厚な香りに、頭の奥がくらくらした。まるで上等な洋酒のようだと、魔理沙は思った。
ゆっくりと、一口含む。柔らかい渋味とほのかな甘みが絡み合って、滑り落ちていく。落ちた先が、心地よく火照った。
「相変わらず、いい葉っぱ使ってんなあ……」
彼女らしい率直な感想を口にする魔理沙を見て、さとりは苦笑した。
「少しは落ち着いたかしら」
言われて、魔理沙は沈黙するしかなかった。
「はあ……」
溜息が漏れる。紅茶の残り香が、辺りに漂った。さとりはそれを楽しみながら、言った。
「『馬鹿な事やっちまった』と思ってるのなら、さっさと謝ってくればいいでしょうに。ここでお茶なんか飲んでたって、何も始まらないわよ」
「そんな事、わかってる」
魔理沙は拗ねた顔をしてテーブルに突っ伏した。
「けどな、」
「そうね、確かに『あの態度は許せない』わね。それも、わからないでもないわ」
魔理沙は顔だけを動かし、微笑を浮かべるさとりを上目遣いに見上げ、何ともいえない表情を浮かべた。
「話が早いんだか筒抜けなんだか……」
「私の前にのこのこやってくる時点で、その疑問に対する回答は貴女の中で決っているのではなくて?」
優雅にカップを傾けるさとりを見ながら、魔理沙は小さく舌打ちした。
「だから、一々心を読むなよ……」
「さっきも言ったけど、こんな事、心を読まなくたってすぐにわかります」
「本当かよ」
「だって、魔理沙の事なら、もうほとんどわかるもの」
見た目相応の少女らしいさとりの笑顔を見て、魔理沙は思わず眼をそらした。頬の熱さをごまかすように、憮然とした表情を浮かべる。
「何を言ってやがるんだ。そんな能力を持っていれば、そりゃあ大体のことは分かるだろうよ」
「貴女は私の能力を買いかぶりすぎてるようね」
魔理沙が顔を上げ、さとりに向き直った。その瞳をみて、本当にころころと表情の変わる子だと、さとりは思った。
「だって、さとりは心が読めるんだろう?」
「ええ、そうね」
「だったら、そいつの性格とかなんだとか、把握するのは簡単な事だろ?」
「私も、昔はそう思っていたわ。少し前まではね」
「少し前? いつの話だ?」
魔理沙の問いに、さとりは小さく笑った。
「さあ、いつからかしらね」
微笑むさとりを見て、魔理沙はひとつため息をついた。
そうして、少しの間沈黙してから、言った。
「この頃、おかしいんだよ、パルスィのやつ」
がしがしと頭を掻いて、魔理沙は続けた。
最近のパルスィの様子、言動、表情……。
「ぼうっとしてて、まるで夢でも見てるみたいなこと言いやがる」
さとりは少しの間、考えるようにして、言った。
「実際に、夢を見ているんじゃない?」
「両目を開けて立ってるってのにか?」
「夢は眠ってるときにだけ見るものじゃないわ。特に、悪夢はね」
言って、さとりは立ち上がった。
「行きましょうか」
「どこにだよ」
魔理沙が眼を見開いた。
「おい、まさか」
「彼女を悪夢から、覚まさせてあげましょう」
-------------------------------------
…………。
真っ暗。
体の外も、中も。
もう何も聴こえない。
もう何も感じない。
あの優しい声も、繋がれた手の温もりも。
どれくらいの時が流れたろう。
体の内外の黒は、得体の知れないモノになって。
そうして、私は、私になった。
…………。
-------------------------------------
濁った意識のまま、私は膝を抱え、橋の上に座り込んでいた。
時折走る右手の鈍い痛みが、かろうじて意識を繋ぎ止めていた。
魔法使いが巻いてくれた手ぬぐいは、渇いた血で赤黒く染まっている。
「はじめまして」
降ってきた声に、私は顔を上げた。
薄紫の髪をした少女が、そこに立っていた。
少女の薄く華奢な体には、大きな瞳が付いている。
「あなたは……」
「私は古明地さとり、地霊殿の主をさせてもらっています」
「あなたが……」
「いつも橋を守ってもらって、感謝していますわ」
そう言って、優雅に頭を下げる。
ぼんやりとしたままの私に、彼女は続けた。
「それに、魔理沙もお世話になっているようで」
「おい、さとり……」
古明地さとりの後ろから声が聴こえてきて、初めて魔理沙もいることに気付いた。二人で昇ってきたのだろうか。
「魔理沙、彼女に言うことがあるんでしょう?」
「あー、その、なんだ……」
古明地さとりにいわれ、ばつが悪そうに、魔法使いは口ごもる。
「って、パルスィ、お前、手ぬぐい替えてないのか?」
私の右手を見て、魔理沙が言った。近寄り、右手をとる。
何も感じなかった。
温もりも、湿り気も、痛みさえも。
「ちょっとしたらまた薬を塗れって言っただろ」
言いながら、手ぬぐいを解いた。白いものは見えなくなっていた。
「何も感じないの……」
ぽつりと呟くと、彼女の手が止まった。
「貴女はどうなの?」
「何を……」
ぼんやりとした意識の奥から、言葉があふれてくる。
「寒いのも、暗いのも、もう嫌……」
「おい、パルスィ……」
「どうしてこんな思いをしなくちゃならないの? 私はただ、ここにいるだけでよかった。ここにいて……」
ここにいて、うまくあいつと付き合っていけばよかった。
それなのに。
「どうして、どうして……」
今になって……。
カランと、下駄の音がした。濁った頭の中に、しずくが落ちた。
「こいつはちょっと、穏やかじゃないね。何事だい?」
その声は、いつも私に聴かせてくれる声とは違っていた。
静かな怒りを孕んだ、低い声。
「地底の主までお目見えとはね」
「ご無沙汰していますわ」
「なに、こちらこそ」
ゆっくりと、鬼が歩を進める。
「で、こんな所まで何用だい、古明地さとり殿」
「魔理沙の頼みで、ちょっとね」
私は星熊勇儀に目を向ける。私を気遣うような、鬼には似つかわしくない、優しい瞳。
「何故、貴女達は、私なんかにかまうの? 橋なんか勝手に渡っていけばいいじゃない。こんな所に足を止めているのは、私だけでいいのよ。貴女達には、他の場所があるじゃない」
私には無い、ここじゃない居場所が。
「パルスィ、貴女は夢を見ているだけなのよ」
言って、古明地さとりが私の額に手を当てた。その手は、陶器のように冷たかった。
「貴女の悪夢、見せてごらんなさい」
三つ目の瞳が、大きく開いた。
-------------------------------------
…………。
青く晴れた空の下。明るく眩しい太陽の下。
暗い暗い穴の中、連れられて、二人。
そう、私は一人じゃ無かった。
だからこそ、耐えることが出来た。
茶色い雨が降ってくる。
ざんざんざんざん降ってくる。
雨は体を容赦なくうつ。
ざんざんざんざん。
止む気配などまるでない。
体が徐々に、雨の中に沈んでいく。
暗くて、寒くて、冷たくて。
太陽の光が、小さくなっていく。
どんどんどんどん小さくなって、まるで、針の穴みたいになって。
そうして、消えてしまった。
光が消えるまで、優しい声が響いていた。
光が消えても、手の温もりだけは残っていた。
でも、それもいつしか消えてしまった。
暗く冷たい闇の中、一人。
どこへいってしまったの?
私は、一人で耐えているというのに。
もっと深いところ?
それとも、もっと高いところ?
声が聴きたい。手を繋ぎたい。
気がつくと、隣にあったはずの温もりは、得体の知れない何かに変わっていた。
貪欲で、底の知れない、真っ黒なモノ。
そうして、私は、私になった。
…………。
-----------------------------------
頭が割れるように痛い。
「やめて!」
私はさとりの手を振り払った。呼吸が乱れている。さとりが言った。
「さぞかし昔の夢を見ているようね」
「こんなの、知らない……。私は、私は……」
「貴女が見てる夢は、確かに貴女の一部よ」
はっきりとした声で、妖怪さとりは言った。
「でも、それは水橋パルスィのほんの一部分にしか過ぎない。そんな小さなことに縛られている理由なんて、どこにもないのよ」
ゆっくりと、力強く、さとりは私に語りかける。
「貴女がこの橋だけに縛られていないといけない理由なんて、もうどこにもないの」
背後から、下駄の音がする。心臓が高鳴った。
「さっきから話が見えないが、その言葉には同意だね」
鬼が快活に言った。私は彼女のほうに向き直った。
一筋、涙が零れた。
「なんだなんだ、相変わらず、しみったれた面してんなあ」
いつもの豪快な笑顔で鬼はそう言った。
「何なのよ、貴方達は」
視線をさとりと魔理沙へ向ける。
「私の何だっていうのよ……」
「私は単なる傍観者でしかないわ」
さとりが言った。
「でも、霧雨魔理沙と星熊勇儀は違う。そうでしょう?」
彼女の言うとおりだった。
二人が来て、私は変わってしまった。
そう、願ってしまった。
涙がぽろぽろと零れ落ちる。私は両手で顔を覆った。右手の傷口に涙が染みて、じんわりと痛んだ。
その右手を、魔法使いが手に取った。
彼女の小さな手は、いつかと違い、暖かく、優しかった。
「何ていうか、この前は悪かった」
もごもごと口ごもりながらも、彼女はそう言った。
「言い過ぎたよ、悪かった」
そうして、薬を塗り、新しい手ぬぐいを巻いてくれた。
「でもな、お前だって悪いんだぜ。あんな態度取られたら、私じゃなくたって怒るってもんだぜ」
その瞳は、悪戯を咎められた少年のようで。
「とにかくな、お前にどんな事情があるかは知らんし、さとりが何を言ってるのかもよく分からん。でも、何かあるなら相談ぐらいは乗るぜ。お互い、知らない仲じゃ無かろうよ」
知らない仲なんてものじゃない。私と貴方は、一緒に……。
「それは違うわ、パルスィ」
さとりが言った。
「魔理沙は、その子とは違う。もちろん、星熊勇儀もね」
濁っていた意識が、だんだんと晴れてきた。
「そして、先程も言ったけれど、その記憶は貴女のほんの一部分でしかないのよ」
私は一つ息をついた。
「……心を覗かれるってのは、中々嫌な気分ね」
「申し訳ないわね」
「ついでに聴くわ。一体、私はなんだと思う?」
さとりの眼をじっと見つめながら、私は言った。
「貴女は、水橋パルスィよ」
いつかも聴いたような答えに、私は苦笑した。
「本当、仲がよくて妬ましいこと……」
穴が、口を開く。私の半身。
「そう、貴女は橋姫。だけど、それだって貴女の一部でしかないのよ」
さとりが続ける。
「そんなモノに頼らなくたって、貴女は貴女でいられる。ただ、一歩が踏み出せないだけ」
そう言って、彼女は小さく微笑んだ。
「……貴女も私も、まだまだ子供なのかもしれないわね」
言い終えると、さとりは一歩後ずさり、鬼のほうに向き直った。
「こちらの用事は済みましたわ。貴女も、彼女に用があるんじゃなくて?」
私は後ろを振り向いた。鬼はそこに佇んでいた。
少しの間、考えるような素振りをして、いつものように、盃を押し付けた。
なみなみと注ぎながら、ぽつりと呟く。
「この盃はお気に入りでね」
紅葉の描かれた、朱塗りの盃。
「滅多な事じゃ、こいつを人に貸したりしないんだよ」
「私にも貸してくれなかったもんな」
「貸したらお前さんが死ぬまで返ってこんだろう」
鬼が苦笑して、それから息をついた。
遥か地上にぽつんと輝く地上の光を見上げながら、鬼が呟いた。
「パルスィ、お前さんは、地上に出てみようとは思わないのか?」
星熊勇儀がこちらに向き直った。真っ直ぐな眼で、見つめてくる。
その瞳は、活力に満ち溢れた青年のようで。
でも、彼女はそうじゃない。
強く、雄々しく、勇ましい。豪放快活な、私を酔わせる、明るい鬼。
「私は……」
何と答えればいいのか、分からなかった。
「ふむ。じゃあ、しょうがないな」
彼女は盃を取り上げると、一気に傾けた。口の端から一筋、零れる。
そうして一つ大きく息をつくと、目の前の鬼は私の腰をつかみ、ひょいと肩に担ぎ上げた。
「ちょ、ちょっと! 何してんのよ!」
「何って、変なことを聞くね」
彼女はからからと笑った。
「攫うんだよ、お前さんを」
「攫うって……」
笑いが止まる。
「攫うんだよ。このじめじめした地底から。このしみったれた橋からね」
言うが早いか、鬼は地面を蹴った。ぐんと、体に重力がかかり、それから軽くなった。
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「行きましょう、魔理沙。お茶を入れ直すわ」
「おい、さとり……」
「貴女も、伝えたいことは伝えられたでしょう?」
「そりゃそうだが……」
「後はお邪魔になるだけよ」
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橋が遠く、小さくなってゆく。傍らの黒い闇と共に。
「離してよ」
つぶやきがこぼれる。
「嫌だね」
「離して!」
目一杯、耳元で怒鳴ってやった。
「嫌だ」
鬼の口調は変わらない。
「……そうね、貴女は、鬼だものね」
「鬼? ああそうさ、私は鬼だ」
一度言葉を切ると、彼女は息を吸い込んだ。
「だが、お前さんを攫うのに、そんな事はこれっぽっちも関係ない。私は、お前さんと、水橋パルスィと一緒に、あの日の下を歩いてみたい。それだけなんだ」
しっかりと光を見据えて、星熊勇儀はそう言った。
その言葉は私の胸の中にじんわり染み込んで、私の心をほのかに染め上げた。
鼓動が早い。頬が熱い。
「どうして、私なんかに……」
「お前さんに入れ込むのに、そんなに理由が必要かい?」
こちらを見ながら、鬼が言う。
彼女の鼓動が伝わってくる。 私の鼓動と、彼女の鼓動が、重なって、一つの波になる。
「私はお前さんを気に入っている。何度も言ってるだろう?」
腰に回された手に、力が篭もる。その大きな右手は、優しく、暖かかった。
私はほんの少し、その手を握り締めた。
「……地上に行って、どうするのよ」
「そうさなあ、お前さんはどうしたい?」
青く晴れた空の下。明るく眩しい太陽の下。
この鬼と、星熊勇儀と、二人。
「……お酒、さっき呑めなかったわ」
青く晴れた空の下。明るく眩しい太陽の下。
彼女と、酌み交わしてみたい。
私を、もっと酔わせて欲しい。
勇儀の顔が、ぱっと明るくなった。
「じゃあまずは、お天道さまの下で、一杯やるとするか!」
言うが早いか、勇儀は速度を上げた。光との距離が、ぐんぐんと近くなる。
地上はもう、すぐそこにある。
そいつは一度口を開くと、私の中に生まれる感情全てを貪欲に呑み込み吸収して、一塊のモノに変えてしまう。
喜も怒も哀も楽も、全てはそいつに呑み込まれ、じめじめとした生ぬるい風で攪拌されて、ついには一塊の、淀んだ感情へと成り果てるのだ。
何故かと問われても、私にはわからない。
いつからこうなのか、何故こうなったのか。
何故こんなモノが、私の中に存在しているのか。
遠い遠い過去には、そんな詮無い事を考える余裕も、少しは残されていた記憶はあるのだが、その思索の向こうに私は一体何を見ていたのか、今となっては皆目検討もつかない。
そして私は、いつもこの結論に至るのだ。
きっと、何も見えてなどいなかったのだ、と。
橋の欄干に身を預け、意識を空にして。
私はただ、こいつと共に在り、この橋の上で……。
ただ、それだけ。
そう、それだけだった。
それだけでよかったのだ。
彼女達が、私の前に現れるまでは。
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地底から吹き上げる風が、いつもより強い。
その風に乗って、地底の底から怨霊達が穴を昇っていく。
私は橋の上からはるか穴の先を見上げた。かすかだが、確かに光が見えた。
「眩しいわね、まったく」
忌々しげに呟いて、私は欄干に腰を下ろした。
地底の蓋に穴が開いて早数日。怨霊達が絶える気配はまるで無い。あの光に向かって吸い込まれているかのように、次々と湧いて出ている。
「地底の主は何をしているのかしら……」
管理者がこの事態を把握していないとは思えない。
「まったく、暢気で妬ましい事ね」
舌打ちし、また穴の先を見上げた。
光に、いくつかの影が混じっていた。
何かが、来る。私は腰を上げた。
「何……?」
きらきらと輝く粒が降って来る。それは星の形をしていた。
影が大きくなるにつれて、星の数が増えていく。
降りてきたのは、一人の少女と、大勢の人形だった。
(人間が、地底に何をしにきた……?)
「いま、地下何階だ?」
人形に話しかけるその声は、生き生きとしていた。
「そうか? ダンジョンってもんは階数があるもんだとおもってたぜ」
私は橋を蹴った。降りてくる少女を、迎え撃つために。
少女との距離が縮まる。
向こうも私に気づいたのか、わずかに速度を落とした。
そうして、私は彼女と対峙したのだった。
豊かな黄金色の髪をした彼女は、きらきらした瞳でにやりと笑った。
その笑みは、私の中に入り込んで、胸の中をゆっくりと、だが強く掻き回した。
淀んだ感情が腹の底に溜まって、噴き出す。
「妬符『グリーンアイドモンスター』」
その感情に任せて、カードを切った。
後を追いかけてくる緑の瞳の化け物を、少女は楽しそうに、右に左にかわして行く。
「何が……」
そんなに楽しいのだ。
頭が熱くなっていく。思考が硬直していく。
少女は強かった。
弾幕を、戦いを、楽しんでいた。
終始笑顔の彼女に、私の頭は一色に染まっていた。
でも。
それは、あいつが吐き出すいつもの感情と、少しだけ違うものだった。
それからの事はよく覚えていない。気が付いたら橋の上で大の字になっていた。
痛む体を起こして、橋から下を覗き込む。
恐らく彼女は、地底の底へと降りていったのだろう。
私はぼうっとした頭で、穴を見下ろしていた。彼女の笑顔が棘のように刺さって、ちりちりと痛んだ。
少女の名は霧雨魔理沙と言うらしい。人間の魔法使いという話だった。
彼女が降りてきて数日後、少し上のほうに巣を張っている土蜘蛛が降りてきて、聞いてもいないのに色々と話していった。今、旧都では彼女の話で持ちきりだそうだ。
彼女は地底の主と話を付け、異変の原因を突き止め、解決したという。
だが、どうやら地底の蓋は閉じられることは無く、そのまま据え置かれる事になったようだ。
「穴が閉じなきゃ意味が無いじゃない」
「いやあ、にぎやかでいいじゃないか」
その能力に見合わない明るい性格の土蜘蛛、黒谷ヤマメは、そう言って笑った。その笑顔が妬ましかった。
笑顔。
記憶の中に、霧雨魔理沙の笑顔が蘇った。
天真爛漫な、無垢な少年のような、全てを楽しんでいるかのような、心底幸せそうな。
ありきたりな形容はいくらでも湧いてくるが、どれもしっくりこない。
でも、きっと私には、そんな事はどうでもよかったのだ。
私はただ、その笑顔が心の底から妬ましかった。
しばらくすると、地底と地上との往来に、ちらほらと姿が見えるようになった。
私はそれを、黙って見ているしかなかった。
そんなある日の事だった。
地底から、大きな力が昇ってきた。生命力に満ち溢れた、巨大な力。
自らの力を隠そうともせず、かといって殊更見せびらかしもしない。あるがまま、ただ自然体。
強い自分になんの疑いも持っていない、真の強者の精神を、彼女は持っていた。
ふわりと、橋の袂に彼女は降り立った。そうして橋の上に佇む私を一瞥すると、にっかと笑ってこう言った。
「お前さんが、水橋パルスィかい?」
少し掠れたような声が、私の全身を包み、押さえつけた。総身が粟立った。私は一歩引きそうになるのをなんとか堪え、首肯するしかなかった。
何の事はない、ただの一言だけで、私は力の差を見せ付けられたのだった。
「私は星熊勇儀。旧都に住んでるもんだ」
徳利をぶら下げ、豊かな黄金色の髪を揺らしながら、ゆっくりとこちらに近づいてくる。額には、雄々しい角があった。彼女は、鬼であった。
「これから、ちょくちょくこの橋を渡らしてもらうかもしれんから、よろしく頼むよ」
鬼はそういうと、大きな右手をずいと差し出した。
一瞬、彼女が何をしているのかわからず、まごついた。それを見て、彼女は声を出して笑った。
「よろしくと手を差し出して、やるべき事がいくつあるものかね」
言われて、私は彼女が何を求めているか、ようやく理解した。同時に、怪訝にも思った。
彼女は鬼だ。数ある幻想の中でも、最強のものの一つといって、差し支えなかろう。
その鬼が、私のような妖怪に、何故握手など求めるのか。
「ほら、握手だ」
考えている間に、彼女は半ば強引に私の右手をとった。柔らかく握られた彼女の手は、じんわりとした温かみと、ほんの少しの湿り気を帯びていた。
「貴女、一体なに考えてるの?」
だから、ついそんな言葉が漏れた。胸の内から零れ出た言葉であった。
「なにって、だから、さっきも言ったろう」
鬼は事もなげにそう言うと、手をぶんぶんと振った。あんまり上下に振るので、肩が外れるのではないかと思った。彼女にしてみれば、ほんの軽い力なのだろうが。
「これからよろしく頼むよって事だよ、パルスィ」
そう言って手を離し、彼女は破顔した。その顔が、ひどく癇に触った。
「よろしく頼まれないわよ。勝手に渡っていけばいいじゃない。私は貴女なんか知らないし、頼まれもしないわ」
自分でも、とんだ命知らずだったように思う。だけど、そんな事を考える冷静さなど持ち合わせていなかった。
ただ、当たり前のように現れて、当たり前のように握手して、当たり前のようによろしく頼むなんていう目の前の鬼が、腹が立つほど妬ましかったのだ。
言ってしまった後も、後悔はなかった。不思議な爽快さすら感じていた。
彼女は一瞬驚いた後、豪快に笑った。
「いいねぇ、気に入った!」
言うが早いか、彼女は懐を探ると、朱塗りの盃を取り出し、私に押し付けた。
「こういう時は、こいつが無くっちゃ話にならん。一丁、酌み交わそうじゃあないか」
そうして、どっかりと腰を下ろした。
「ちょ、ちょっと」
こちらの返事も聴かず、彼女は徳利を傾ける。並々と注がれる液体を見ながら、私は絶句した。
「さあ、いったいった」
だが、目の前の鬼は、そんな事など一欠けらも頭の中にはないのだろう、こちらまでつられそうになるほど、満面の笑みを浮かべていた。
最早やけくそであった。
私は一気に盃を干すと、半ば放り投げるように彼女に突き返した。むせ返るような酒の香りが、頭のてっぺんから腹の底まで駆け巡る。体の中心に、火が走ったようであった。
涙ぐんだ眼で大きく一つ息を吐く私に、鬼が嬉しそうに言った。
「ふむ、一気で返盃するとは、お前さん、わかってるね」
言って、徳利を差し出す。私はそれをひったくると、盃一杯になみなみと注いでやった。せめてもの抵抗であった。
彼女は零さないようにそっと盃を持ち上げると、ゆっくりと傾けた。こくんこくんと嚥下する音が、小気味よく響いた。
息をつくこともなく、美味そうに飲み干すと、
「染みるねえ」
ほんのり上気した顔で、鬼は笑った。
「まだいけるだろ?」
さも当然のように、盃を差し出そうとする彼女を手で制した。冗談ではなかった。
「上に行くんでしょうが。さっさと行きなさいよ」
「このままじゃ通れん」
不意に笑顔を消し、彼女は言った。
「だから、勝手に渡っていけばいいでしょう」
「そうはいかん。この橋はお前さんの分身みたいなもんだろう。人様の領域に、訳も無く土足で踏み入るのは、私の趣味じゃない」
「訳があったら、土足でも踏み入るわけ?」
「時と場合によってはね。なんたって、私は鬼だからな」
私は口をつぐんだ。細く鋭い声色であった。鬼は真っ直ぐな眼で、私を見つめていた。
「だからまずは、お前さんと分かり合おうと思ってね」
盃をひょいと持ち上げて、鬼はにっと笑った。
何かが、私の中で弾けた。体のどこかに穴があいた。
「さ、とりあえず腰を落ち着けないか?」
楽しそうな鬼を眺めながら、私は体が微かに震え、呼吸が浅くなるのを感じた。
「橋の真ん中で酒盛りっていうのも、まあ、たまにはよかろうさ」
彼女の声が、笑顔が、私の中に入り込んで、溜まった澱を洗い流していく。
「分かったわ。もう十分、分かったから」
どこかふわふわとしたまま、私はそう告げていた。鬼は怪訝な表情を浮かべ、私をじいっと眺めた。
「こりゃまたいきなりだね。どうした? こいつが気に入らなかったかい?」
空の盃に視線を落とす彼女を見ながら、私は思った。
「そうじゃなくて、私、もう酔ってるの」
そう、きっと私は、酔っているのだ。だから、こんな事になっているのだ。
「ふうん……」
私の態度が面白くないのか、彼女は私の顔を覗き込むように見つめた。
「まあ、だったら今日の所はもう行こう」
彼女は盃をしまい、徳利を肩に担いだ。
「お前さんと酌み交わす機会は、これからいくらでもあるだろうさ」
私は思わず彼女に向き直った。目の前の鬼は、心底楽しそうに笑っていた。
「いや、だから……」
「私はまだ、パルスィの事をよく知らん」
私の言葉を遮り、彼女はそう言った。彼女は、本気だった。
「別に、私の事なんか知らなくたって、いいじゃない」
「よくはない。さっきも言ったが、私はこれからも、ここを渡らせてもらうんだからな」
「この橋を渡る事と、私の事と、なんの関係があるのよ」
「関係ないさ」
私は言葉を失った。何を言いたいのかが、さっぱり分からなかった。
「言ったろう? 私はパルスィを気に入った。だからパルスィの事を、もっとよく知りたいのさ」
「なにを……」
言っているんだ、この鬼は。
「ここを渡るって事は、お前さんと顔を合わすって事だ。私が気に入った奴とね。他に何か理由が必要かい?」
ぐるんぐるんと、思考が空回りしていた。なんと言えばいいのか、分からなかった。
「じゃあ、そろそろ行くよ」
鬼は私に背を向け、橋の向こうへと歩き始めた。
私はその背に何か言葉を投げようとして、結局出来なかった。
「またな、パルスィ」
彼女は振り向き、手をひらひらさせながら、地上の光めがけて飛び立っていった。あっと言う間に、鬼は小さな光に飲み込まれ、見えなくなった。
しんとした空気が降りてきて、私はようやく自分を取り戻した。
「……なんなのよ、あれ」
思わずひとりごちて、右手に眼をやった。握られた手には、まだ微かに鬼の体温が残っていた。肌に立った粟は、とうの昔に消えていた。
私は右手を握り、鬼が吸い込まれた光の先に視線を向けた。
「よろしくなんて、いらない。勝手に渡ればいいのよ」
つぶやいて、ふと気付いた。
名を呼ばれたのは、一体いつ以来だろう、と。
そして、思ったことをこれ程までにまっすぐに口にしたのも、一体いつ以来だったろう、と。
鼓動が高鳴っている。体はまだ、小さく震えていた。
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降る魔法使いと、昇る鬼。
彼女たちは、それから何度も私の前に現れた。
そうして、私の中の、得体の知れない何かが、形を変えていった。
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「似てるなあ、やっぱり……」
欄干に外向きに腰掛け、足を投げ出しぶらぶらと遊ばせながら私は、眼下に広がる光景を覗き込み、思わず呟いた。
そこには、地底への穴が広がっている。放り出したつま先から飲み込まれてしまいそうな錯覚を覚え、ふと背筋が寒くなった。
真っ黒な穴は、まるで何もかもを飲み込んでしまう、魔物のように思われた。
その魔物の口から、生ぬるく、緩やかな、吐息のような風が、低い唸り声を上げ、吹き上げてくる。湿っぽい苔の匂いを纏って、私の髪を嫌らしく梳き、地上へと吹き抜けていく。
ここは、地上への縦穴と、地底への縦穴を結ぶ橋。他には何も無い。
当たり前の話ではある。ただの通り道に、面白おかしいものなどそうそうあろうはずがない。
でも、私はこの場所が嫌いではなかった。この橋の上は、私の場所なのだ。
ぼんやりと、地底への穴を見下ろす。
呟いた言葉は、穴へと飲み込まれ、そうして、きれぎれに霧散してしまうのだろう。誰かの耳に届く事など無く。
こぼれた感情の欠片が、真下で口を開けている魔物に飲み込まれる。ただそれだけの事だった。
ぴくんと、耳がはねた。私はまた、視線を落とした。
鬼が昇ってきたのだ。とくんとした波が、体の中に響いた。
そうして彼女は、橋の袂に降り立った。
「相変わらず、不景気な面してんなあ、お前さんは」
盃と徳利をぶら下げ、下駄の音を軽やかに響かせながらこちらに向かってくる彼女は、さも親しげに挨拶などしながら、私にそう言った。私は欄干から腰を下ろし、彼女を見ながらわざとらしく舌打ちした。
「うるさいわね。毎度毎度、一言置いていかないと気がすまないのかしら?」
「おうよ、この橋を渡ろうってのに、お前さんに挨拶もしないで通り過ぎるものかね」
豪快に笑いながら、星熊勇儀はそう言った。
「……本当、馬鹿じゃないの」
しかめっ面からぽつりと出た言葉を、彼女は逃がしはしなかった。
「馬鹿なもんかい」
あの日に始まって、彼女がこの橋を渡るのも、もうかなりの回数になる。その度に、彼女はこうして私に話しかける。
「橋なんて、勝手に渡ればいいのに」
この台詞も、一体何度投げつけたことか。
鬼が、小さく息をついた。
「何度聴いても、橋姫のお前さんとは思えない台詞だな」
「知らないわよ。大体、昇る奴も降る奴も増えすぎなのよ」
そう。彼女だけではない。地上や地底の妖怪や、地霊殿の住人達まで、この橋を通って地上と地底を行き来するようになった。それもこれも、あの二人が地底に降りてきてからの事だ。地底は、大いに変化を遂げていた。私はそれを、この橋の上でただ眺め続けていた。
「橋守としちゃ、何度も何度もうろちょろされちゃ、たまったもんじゃないわけだ」
「分かってるなら、少しは控えてもらいたいものね」
「そいつは無理な相談だな。上には旧友もいれば面白い奴も沢山いるんでね」
笑いながら彼女は言う。ちくりと、胸が痛んだ。
「地底に降りてきた巫女を覚えているかい?」
あんな化け物を、忘れるはずが無い。
「今日はあいつの神社で宴会でね、毎回酷いもんさ」
どろどろとした感情が、胸にたまり始めていた。胸の中で吐き出される、汚泥のような感情。
「そうそう、上の方にいるヤマメも来るはずだ」
私の前で、楽しそうにするな。
「なあパルスィ、」
もういい。
「分かったから、早く行きなさいよ。地上に用があるんでしょう? 挨拶は確かに受け取ったから」
「……おお、そうだったな」
鬼が、少しだけ寂しそうな表情を浮かべた、気がした。
さっさと行ってくれ。私の前から、いなくなれ。そうすれば、こんな感情など味わわなくて済む。
「さて……」
彼女は一瞬、視線を落とした後、私に向き直り、朱塗りの盃を押し付けた。
「ほれ、辛気臭い顔してないで、ぐっといけ」
ほんのり上気した顔で、鬼は綺麗に笑った。一瞬、何も考えられなくなった。
「ちょ、ちょっと……」
「ほらほらほら」
盃に半分ほど、透明な液体が注がれる。ほんのりと、熟した果実のような香りが漂った。
「萃香の奴に貰ったんだが、こいつが中々いける酒でね」
やってみな、と彼女が促す。
こういうやり取りも、もう何度目だろうか。注がれたが最後、盃を干すまで、彼女は許してくれない。その図々しさが妬ましい。
私は諦めたように小さく溜息をつき、酒盃を傾けた。
口に含むと、瑞々しい果実のような香りが広がり、鼻腔を抜けていく。微熱に優しく撫でられて、頬が紅くなる。飲み込むと、雪が溶けてゆくように、ゆっくりと、体の中に染み込んでいった。
「……美味しい」
ぼうっとした頭で思わず呟いて、我に返った。目の前の鬼は、嬉しそうに微笑んでいた。頬が別の朱に染まった。
「どうやって手に入れたのかは知らんが、外のものらしい。たまにはこんな上品な酒もいいもんさ」
言って、ずいっと私に手を差し出す。私はぶっきら棒に返盃し、徳利をひったくった。
「おいおい、こぼさないでくれよ。勿体無いからな」
「黙って注がれなさいよ、風情のない鬼ね」
「やれやれっと」
彼女は少し前かがみになって、美酒がとくとくと注がれる様を眺めていた。盃に描かれた紅葉が、ゆらゆらとたゆたっている。漂う香りは、秋の実りを思わせた。
ふうっと、幽かに鬼が笑った。時折見せる、星熊勇儀の微笑みであった。
「ありがとう」
それだけ言って、彼女はゆっくり盃を傾けた。五感で酒を味わって、彼女は深く息をつく。穏やかな、満ち足りた表情で、視線を干した盃に落としている。
私はその顔を見上げながら、胸に染み出て来る感情に気付かない振りをした。
どれくらいそうしていただろう。彼女が私の方を振り返り、笑いながら言った。
「そろそろいくよ」
「あ、あら、そう」
わざとらしく顔を背け、私は応えた。
「おかげでまた、美味い酒が呑めた。また、今度な」
「だから、勝手に通りなさいってば」
「そうはいかない」
ふいに、少しだけ真面目な顔をして、
「私はお前さんとのこの時間を、毎度楽しみにしてるもんでね」
星熊勇儀は、真っ直ぐな眼をしてそう言った。
「……貴女、本当に馬鹿じゃないの」
つい先程と同じ言葉を零した私を見て、鬼は豪快に笑い、ふっと息をついて、何事かを呟いた。
「何か言った?」
「何でもないさ。じゃあそろそろ行くよ」
そうして背を向けようとして、思い出したように彼女は立ち止まった。
「おっと、そういえば」
「何よ、まだ何かあるの?」
「似てるってのは、何が何に似てるんだい?」
不意をつかれ、私は一瞬、言葉を失った。
「何の話?」
「ここへ昇ってくる途中に、お前さんの声が聴こえたもんでね」
もやもやとしたものが、胸の中で膨らんでいく。
「空耳よ」
わざとらしい口調の私を、彼女はじっと眺めていたが、ふっと息を吐くと、
「……ふむ、まあ、そうかもしれんな。何せここは風が強い」
そう言って、小さく笑って頬を掻いた。胸の奥でもやもやが弾けて、ずきりと痛みが走った。
「じゃあ、今度こそ行くよ。またな、パルスィ」
そう残して、星熊勇儀は地上へと飛び立っていった。
「聴いてんじゃないわよ、馬鹿……」
遠ざかっていく背中に、私は小さくそう吐き捨てた。
星熊勇儀の姿が見えなくなり、再び静寂が訪れた。今はそれが、少しだけ心地よかった。
「またな、か」
別れではなく、次の機会を望む言葉。
私は欄干の柱にもたれかかるように腰を下ろし、ぼんやりとさっきまでの事を思い返した。頭の中に、色々なものが浮かんでは消えた。
酒の味、酒の香り、盃に沈んだ紅葉、鬼の声、鬼の笑顔、鬼の……。
鼓動が少しだけ早いのは、きっと酒に酔ったせい。
頬が少しだけ熱いのも、きっと酒に酔ったせい。
妬ましいぐらい美味しい酒が、私の体に染み渡っているせい。
初めてあいつの酒を呑んだ時から、私は酔ったままなのだ。
だから、こんなのは私じゃない。私であるはずがない。わかっている。でも。
私は膝を抱いて、顔を埋めた。腕に力をこめると、ふわふわとどこかへ浮いていってしまいそうな自分を、捕まえていられる気がした。
吐息が甘い。胸が苦しい。これもきっと、酒に酔ったせい。
「なんだって、こんな思いをしなきゃならないのよ」
あの鬼が、笑いながら酒なんか振舞っていかなければ、こんなものは私の中に生まれやしないのだ。妬ましい。
妬ましい妬ましい妬ましい。
見上げると、鬼が吸い込まれていった小さな光の穴が輝いている。はるか彼方の地上は、よほど天気がいいらしい。私では、あの光には届かない。
ぼうっとした頭を振って、そのまま眼を閉じた。
少し眠ってしまえば、こんなものなんか、どこかへ消えてしまっているだろう。自分にそう言い聞かせて、まどろみの中へゆっくりと落ちていった。
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…………。
雨。
雨が降っていた。
ざんざんざんざん降っていた。
暗く冷たい、茶色の雨。
止む気配などまるでない。
体が徐々に、雨の中に沈んでいく。
暗くて、寒くて、冷たくて。
何も見えない、聴こえない。
怖くて、痛くて、逃げたくて。
意識が遠くなるほどつらかった。
それでも。
握られた手だけは、ずっと温かかった。
誰かが、私を呼んでいる。
その声は瑞々しく、全ての苦痛を忘れさせる、麻薬のように思われた。
…………。
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「パルスィ。おい、パルスィ」
生ぬるい泥から引きずり出されるように、意識が緩やかに形を作る。
重いまぶたを開くと、ぼんやりとした人影が眼の前にあった。朧げな輪郭の中に、少年のような瞳だけがくっきりと浮かんでいた。
その瞳はまるで、私の全てを知っているような気がして、
「……誰?」
思わず、そう呟いていた。
「おいおい、寝ぼけてるのか?」
聞き覚えのある声が降ってくる。意識が一気に覚醒した。
「随分、気持ち良さそうに眠ってたな」
眼の前にあるのは、見慣れた魔法使いの顔だった。
「こんな所で寝てたら風邪を引くぜ?」
意地の悪そうな、しかし憎めない笑顔で、彼女、霧雨魔理沙はそう言うと、私に小さな右手を差し出した。起こそうとしてくれているらしい。
私は下を向いて、彼女の手を取った。恐らく今しがた地上から降りてきたのだろう。吹き上げる風に晒されたせいか、彼女の手はひんやりと冷たく、乾いていた。
立ち上がると、すぐに彼女の手を離した。そのまま、寝起きで赤くなっているであろう眼をこすった。
「私は貴女達人間と違うんだから、風邪なんか引かないわよ」
そっぽを向いて、出来るだけ不機嫌そうな声で、私はそう言った。彼女は顎に手をあてると、さも納得したかのような顔をした。
「まあ、そりゃあそうか。そうだよな」
照れ隠しなのか、ほんのり朱に染まった頬をかき、ははっと笑った。
相変わらず、霧雨魔理沙はよく笑う子だった。
初めて彼女が降りてきてから、もう大分経つ。
何の事はない、彼女はただの野次馬で、人形の向こうにいる魔法使いのお使いのようなものだった。言うなれば、あの時の霧雨魔理沙は人形遣いの人形そのものだったのかもしれない。
だというのに、彼女は瞳を輝かせ、それはそれは楽しそうに笑っていた。
私はただ、その笑顔が心の底から妬ましかった。
でも、それはいつも抱く嫉妬の感情とは、微妙に何かが違っていた。
彼女の笑顔を見ていると、私はいつも腹の裏側を撫でられるような感覚を覚えた。単純な嫉妬の念とは違う、別の何かを、私に覚えさせるのだ。
一つ、深く息をついた。
「また、地霊殿にお出かけ?」
「うん、ちょっとさとりの所にな」
箒を肩に抱えながら、彼女は微笑んだ。
古明地さとり。
他者の心を読む能力を持ち、それゆえに忌避されてきた妖怪、さとり。押しも押されぬ地底の主である。忌み嫌われた力を持っているがゆえに、私たちは地底に封印されてきたのだが、彼女の能力はその中でも一級品だろう。
その妖怪の所に、この少女は足繁く通っているようだった。
彼女にしてみれば、妖怪さとりの能力さえも、好奇心の対象でしかないのかもしれない。
地底の主が軽く見られているのか、それとも彼女が大物なのか。あるいは、その両方か。
「今日は神社で宴会って聴いたけど、貴女は行かないの?」
「ああ、こっちが先約だったもんでな」
「随分とご執心なのね。恐れ入るわ」
「おう、さとりは面白い奴だからな」
たったの一言で片付けてしまう。それどころか、逆にこちらが古明地さとりに興味を抱きそうになる。全く、図太い神経をしているものだ。妬ましい。
おかげで、少し探りを入れてみたくなってしまった。
「そんなに頻繁に訪ねていって、古明地さとりは貴女を疎んじていないのかしら?」
自らの能力ゆえに、彼女は普段、住処である地霊殿に篭っていると聞いている。人間がのこのこ現れて、快く迎えてくれるものだろうか。
「ああ、毎度お茶の用意までしてくれてるぜ」
魔法使いが笑う。
「へえ……」
なるほど仮にそれが形式的なもてなしであったとしても、古明地さとりは彼女を受け入れているのだろう。
恐らくだが、それは客人が霧雨魔理沙だからこそなのかもしれない。
妬ましい事に、彼女は思わず心を許してしまいそうになる、不思議な魅力を確かに持っていた。悪いうわさしか聞かないにも関わらず、だ。
「しかし、お前はいつもここにいるんだな」
ふと、魔法使いがそんな事を呟いた。
「橋姫が橋にいるのは当たり前の話でしょうに」
私はなんの疑問も持たず、彼女にそう答えた。
「ん、まあ、そりゃあ、概念上はそうだろうぜ」
なにやら小難しい言葉を織り交ぜる。魔法使いというのは、どうも理屈っぽくていけない。私が眉間に皺を寄せているのを見て、彼女は慌てて次の言葉をつむごうとした。
「だからだな、お前さんは橋姫で、橋を守り、渡り行く人たちを見守る存在だっていうのは、確かな事実だ」
たまに嫉妬狂いになったりするけどな、と、笑いながら余計な一言を彼女は付け加えた。私は沈黙で続きを促す。
「だけど、あー、何と言えばいいのか……」
そこから先を、どうやらうまく言葉に出来ないらしい。少し時間を置いて、彼女はようやく次の言葉を見つけたらしかった。
「要するに、お前さんは橋姫だけど、水橋パルスィだろ、って事だ」
魔法使いは、私の顔を覗き込むようにして、そう言った。
「よく分からないわ」
そんな禅問答のような言葉を投げられてすんなり納得出来るほど、私の頭は柔らかくはないし、心も広くない。
「ああっと……」
彼女は豊かな金色の髪をかしかしと掻いた。
「とにかく、お前は地上とか地底とかに、顔を出したりしないのか? それこそ、霊夢の所の宴会にでも参加すればいいじゃないか。どいつもこいつも癖はあるが、面白い連中だぜ」
「地上に行くなんて考えた事もないわ。地底へも、滅多に行かないし」
「じゃあ尚更、いい機会だと思うんだけどな」
「お気遣いはありがたいけど、そもそも、私じゃあそこまでたどり着けないわ」
私が何の気なしにそう言うと、目の前の魔法使いは一瞬驚き、戸惑いながら言った。
「いや、そんな事はないだろう……」
不思議そうな表情を浮かべる彼女を見ていると、何故か胸が重くなった。黒い感情が、胸の奥から、緩やかに噴き出していた。
「貴女なんかには、分からないわ」
だからだろうか。自分でも驚くぐらい、辛辣な口調で、そう撥ね付けた。
魔法使いは一瞬言葉を失って、苦笑いを浮かべた。
「いやさ、こんな所にずっといて、退屈じゃないのかって、思ったんだよ。それだけなんだ、怒るなよ」
こんな所、か。
そういう感想を抱くのも、無理もない話だろう。
なにせ、ここには橋しかない。他には、何もないのだ。だが、
「ありがたい話だけど、心配してもらわなくても大丈夫よ」
この橋があれば、私は私でいられる。
「私、この場所は嫌いじゃないから」
「そうかい」
彼女はふっと息を吐いて、小さく笑った。その行為にどういった感情が込められているのか、私にはよくわからなかった。
「さてと、じゃあもう行くぜ」
彼女は顔を上げそう言うと、箒にまたがり、笑顔で私に手を振った。
(ああ、あの笑顔だ……)
私のどこかをくすぐる、不思議な笑顔。いつもとは違う、嫉妬の感情。
何故そんな綺麗な笑顔を、私に見せる?
「じゃあまたな」
そう言うと、彼女はこちらの返事など待たず、星を撒き散らしながら、地底の黒へと吸い込まれていった。私の胸に、妙な感覚を残したまま。
「じゃあまたな、か」
ほんの少し前にも、同じ言葉を聴いた気がする。
何故あの鬼も、魔法使いも、わざわざ足を止め、私に声などかけるのだ。何故、私に笑顔など見せていくのだ。
橋なんて、勝手に渡ればいいのだ。私はここにいて勝手に見守っているし、妬ましかったらちょっかいもかける。それでいいではないか。それ以上、何をやりとりする必要がある。
「大きなお世話なのよ、どいつもこいつも」
足元に落ちていた、魔法使いが残していった小さな星屑のような何かを、思いっきり蹴っ飛ばし、無理やり言葉を吐き出したら、少しだけ胸のつかえが取れた気がした。
頭上を見上げる。
鬼が吸い込まれた地上の光は、相変わらずそこにある。
私はまた、欄干柱に体を預けるように腰掛けた。私が体を休めるのはいつもこの場所だ。
ここにいると、心が落ち着く。預けた背中が、じんわりと暖かい。心地よい細波が、私を包み込んでくれる。そんな気持ちになってくるのだった。
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…………。
茶色い雨が降って来る。
ざんざんざんざん降って来る。
雨は止む気配などなく、私の体を容赦なく濡らしていく。
沈む。
体が、雨の中に。
もはや眼など開けていられなかった。
何も見えない。
真っ黒な冷たい闇に飲まれ、ただ耳に、雨音だけが乱暴に響いていた。
ざんざんざんざん。
体が冷たい。
意識が重い。
声。
声が聴きたかった。
優しく私を蝕んでいく、あの暖かい声。
そういえば。
あの声は一体、誰のものだったのだろう……。
…………。
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眼を開けても、まだ眠りの中にいるような気がした。重い頭をゆっくりと上げる。随分と眠ってしまっていたらしい。
欄干に預けた体をゆっくりと起こす。
まだ意識が定まらない。妙な夢を見た、気がする。
最近は、こういう事が多い。
まるで浅い眠りの中で、何かに絡め取られているようだ。
何か、なんて表現をする必要は、ひょっとしたら無いのかもしれない。原因は何となく分かっている。
あの鬼と、魔法使いだ。
彼女達が残していった匂いが、私の中に染込んでいたからかもしれない。
彼女達の笑顔は、私を優しく、残酷に抉っていく。
その度に、あいつが、眼を覚ましそうになる。彼女達とのやりとりで生まれた感情を、食べてしまおうとする。
(ああ、くそ……)
下品な言葉を胸の内で吐き、私は頭を振った。
意識はまだ重たく、私の体に纏わりついている。
頭上を見上げる。小さな光が、今は少し鈍く見えた。陽が傾いたのか、雲でも出たか。鉛色のどんよりとした空を想うと、溜息が出た。
(空、か)
一体いつだろう。最後に空を見上げたのは。
いや、そもそも。
私は、あの空の下に立ったことがあるのか?
見上げた先、空との間には、真っ黒な螺旋階段のように、暗闇が続いている。絶望的なまでの出口との距離に、眩暈がした。
ちりちりと、頭が痛む。
声を掛けられなかったという事は、鬼も魔法使いも、まだ戻ってはいないのだろうか。
あの鬼は今、あの空の下にいるのだろうか。それとも、どこかの屋根の下で、面白おかしく、盃を傾けているのだろうか。
魔法使いはどうか? 地霊殿で、妖怪さとりと語らっているのだろうか。
そう考えて、私は自嘲した。
(下らない……)
だったらどうした。私には関係ない。
それに、あの二人が私に必ず声をかける保証がどこにある?
いや、そもそも、私はあの二人の事を煩わしいと思っているはずだ。
(下らない……)
胸が、かき乱される。
(下らない下らない!)
橋の欄干から地底へと続く穴を眺める。
ひゅうひゅうと風が吹き上げたり吹き降ろしたり、その度に、嫌な臭気と湿気が頬を撫ぜる。
こうしていると、いつも思う事がある。
この穴は、私の中にいるあいつと、似ている、と。
何もかもが、この真っ黒な、ぽっかりと開いた口に吸い込まれ、そして。
知らず、奥歯が鳴った。
生ぬるく吹く嫌らしい風も、この地底も、そしてさらに下へと続くこの穴も。
全てが不愉快だった。
私は欄干にもたれかかるように、頭を垂れた。瞳が濁ったように、視界がぼやけた。生ぬるい水が頬を伝い、ぽたぽたと零れ、黒い染みになる。
何故、私が涙など流す必要があるのだ。
この涙はなんだ? 何故、流れていくのだ?
ぽろぽろと零れる雫を肌で、瞳で感じながら、自問する。
答えなど、分かるはずがないのだ。
何故なら、私は橋姫だ。
嫉妬にかられた鬼女。それが、私なのだ。
この体の中に渦巻く黒いものこそ、私の本質なのだ。
私は橋姫。
嫉妬に狂った、醜い妖怪。
それが私なのだ。
橋に体を預ける。
一つ、大きく息をする。
大丈夫だ、こうしていれば、大丈夫。
私は、私のままでいられる。
私は、私のままでいいのだ。
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「なんだか最近、辛気臭い顔してるわねえ、あんた」
「そうかい?」
「そんな顔して、自覚がないんじゃどうしょうもないわね。いつものあんたなら、あの乱痴気騒ぎの中心にいるってのに」
いいながら、博麗霊夢は境内の中心に眼をやった。視線の先は、さながら百鬼夜行の様相を呈していた。
最近は山の神に加え、地底の妖怪に、徳の高い僧侶まで混じる始末だが、まあ、概ねいつものような、酒宴の席であった。
だが、霊夢は目ざとく鬼の様子に眼をつけた。
なにせあの星熊勇儀が、少し離れた木の下で、腰を落ち着けしんみりやっているのだから、興味を惹かれないほうが嘘というものだろう。
霊夢は内心、いい酒の肴が出来そうだと思いながら、徳利片手に話しかけたのだった。
「ふむ……。私には別段、どうと言える事も無いんだがね」
勇儀は霊夢が手にした徳利をひったくると、ずいと霊夢の眼前に差し出した。
「ふぅん、本当かしらね」
注がれた盃を一気に干し、勇儀に手渡す。
「お前さんにしちゃ回りくどい言い方をするじゃないか、博麗の巫女殿」
「そうかもね、じゃあもうやめにするわ」
並々と酒を注ぎながら、少しだけ嬉しそうに霊夢は言った。
「それがいい。聴きたい事があるなら、分かりやすく簡潔に言うのが一番さ」
そう言って、勇儀が盃を煽る。
「何ていうのかな、最近のあんたって生気がないのよね」
勇儀は何も答えない。ただ、盃を傾けている。
「鬼の癖に、覇気もないし」
「ないない尽くしだな」
勇儀は苦笑した。
「それだけ、最近のあんたはおかしく感じるって事よ。私から見たら、だけどね」
ぴくりと、鬼の目尻が上がった。霊夢はそれを見逃さなかった。
「おかしいとは、随分な言い草だ」
自嘲気味に笑って、勇儀は盃を再び煽る。霊夢はその盃に眼をやる。
(たったこれっぽっちの酒を干すのに、こんなに時間が掛かるなんてね……)
ようやく飲み干して、鬼は口元を拭い、溜息を付くと、霊夢に盃を返す。
「最近、魔理沙をあんまり見ないんだけど、それと関係あるのかしら?」
勇儀の表情が曇った。霊夢は僅かに身を乗り出した。
「地底の橋の辺りですれ違った事は何度かあるがね。大方、地霊殿にでも遊びに行ってるんじゃないか?」
「地霊殿? さとりの所?」
勇儀はにやりと笑った。
「あの魔法使いが、地底に行って彼女に眼を付けないわけがないだろう?」
「まあ、確かに」
「魔法使いらしく、好奇心旺盛で結構な事じゃないか」
勇儀はごろりと寝転がり、霊夢に渡した盃に再び注いだ。
「手癖も悪いし、あそこまでいくと一種の病気ね」
霊夢がそっと盃を傾ける。
「病気か……」
肘を突き、勇儀は宴会の輪をぼんやりと眺めながら、思った。
同族である萃香はもちろんの事、集まっている連中は選り取りみどりの猛者ぞろい。その取り巻きも、早々お眼にはかかれない手練ばかりだ。木っ端に見える連中だって、かなり腕は立つだろう。
初めてこの宴会に参加したとき、胸が躍ったものだった。ここにいる誰とやりあったって、楽しめるに違いない。
だが、今はどうだろう。
こうして、喧騒の中で盃を傾けるのも、悪くはない。だが……。
ぴゅうと風が吹いた。頭上の緑が揺れて、かさかさと音を立てたが、宴の嬌声に飲まれ、かすかに耳に届くばかりで、勇儀にはそれが酷くもどかしく思われた。
脇でじっと様子を見ていた霊夢が、ちびちびと酒を舐めながら、ぽつりと言った。
「んー、よくわからないけど、なんだか重症ねえ」
「なにがだい?」
不思議そうな顔をして見上げる勇儀を見て、霊夢は溜息をつく。
(自覚がないっていうより、根本的にわかってないのかしら……)
「おーい、勇儀ぃ! なーにそんなとこでちまちまやってんのさ! こっちこっち!」
輪の中から、萃香が陽気な声を上げた。かなり呑んだのだろう、足元が若干覚束ないようで、時折体がふらりと揺れている。横には烏天狗が突っ伏して、ぴくりとも動かない。その奥で、山の神が声を上げて笑っている。
「あの天狗も中々の命知らずだね」
「いやあ、文が自分から萃香に挑むなんてちょっと想像がつかないわ。大方、萃香に無理やり呑まされたんじゃない?」
「違いない」
言いながら、勇儀は腰を上げた。
「一緒にどうだい?」
「やめとく。あんたらに付き合ってたら、血も涙も全部お酒になっちゃうわ」
「つれない事だ」
くっと小さく喉を鳴らして、勇儀は萃香の元へと向かっていった。後姿には、やはりどこか翳がある。
一人残された霊夢は、ぐっと盃を干すと、視線を上へと向けた。
「あんたもどう? 勇儀にはふられちゃったし、ちょっと付き合ってよ」
がさりと音がして、緑の中からするすると逆さの人影が降りてきた。
「気付いてるんなら、もっと早く声をかけておくれよ」
「盗み聞きとはお行儀の悪い事ね、土蜘蛛さん」
「何を言ってるんだい。あたしが木陰で涼んでる所に、あの姐さんとあんたが勝手に来たんだよ。出るに出られなくて困ってたとこさ」
黒谷ヤマメは冗談めかして言うと、くるりと反転し、腰を降ろした。霊夢から盃を受け取り、酌を受ける。
「しかし、よく姐さんの変化に気付いたもんだね。さすがは博麗の巫女ってところかい?」
言って、小さく盃を煽った。
「いや、普通気付くっての」
「ここに集まってる連中はどいつもこいつも普通じゃないからねぇ。そりゃあ気付かないわけさね」
顎をしゃくって盛り上がる連中を指すと、ヤマメは声を出して笑った。霊夢が呆れたように、視線を向ける。
「本当に、なんだってわざわざこの神社に集まるのかしら」
ヤマメはきょとんとした顔をして、まじまじと霊夢を眺めた。
「何よ?」
「いや、あんたも人の事は言えないなと思ってね」
ヤマメはくすっと笑うと、盃を霊夢に手渡した。
「私がどこかおかしいって言うの?」
「おかしかないさ。ただ、あんたは幸せだよ。それは間違いない。人も妖も、皆あんたに惹き寄せられているのさ」
霊夢はよくわからないといった風に、怪訝な表情を浮かべたが、すぐにそれを消し、
「ま、いいわ。それより注いでよヤマメ」
ずいと盃を差し出した。
「はいよ」
徳利を傾けながら、ヤマメが続ける。
「まあ、あんたにしてみりゃ、そんなことにゃ大して興味もないんだろうがね」
「そんなって?」
ヤマメが呆れたように笑った。
「言ってるそばからこれだ。敵わないね。地底の橋姫が見たらなんていうか」
「そういや、パルスィだっけ。彼女はちっとも地上に上がってこないのね。あんたや勇儀、地霊殿の連中だって、さとり以外は顔を出してるのに」
「そこだよ、霊夢」
不意に名前を呼ばれ、霊夢は思わず姿勢を正した。
「あたしは、姐さんの変化の原因は、それだとにらんでるのさ」
盃を最後まで傾けてから、霊夢が言った。
「それって、パルスィがってこと?」
ヤマメは苦笑すると、両の手で頭を抱え、木の幹に背中を預け、空を仰いだ。空に浮かんだ星達が、ぼんやりと霞んで見えた。
「姐さんはきっと、パルスィを地上に連れてきたいんだよ」
霊夢が怪訝な表情を浮かべた。
「そんなの、普通につれてくればいいじゃない。橋姫だからって、橋にへばりついてなきゃいけないってわけでもないでしょうに」
「それが出来ないから、ああなってるんだろうさ」
霊夢に注いでやりながら、ヤマメは呟くようにそう言った。
「……ふうん、そういう事ね」
納得がいったように、霊夢は小さく息をつく。
「あたしの推測でしかないけどね」
言い終えて、すっきりしたというように、ヤマメは大きく伸びをし、気持ち良さそうに眼を閉じた。
「それはちょっと、悪い事しちゃったかしら」
霊夢の言葉を聴いて、ヤマメは大きな笑い声を上げた。
「お前さんがそんなタマかね」
「そんなとは何よ、失礼ね」
「いや悪い、意外すぎる反応だったもんでね」
「どっちにしろ失礼じゃない」
「そう怒りなさんな。まあ、気にするこたぁ無いだろうさ」
ヤマメが輪の中へと視線を向ける。勇儀はその中心で、神奈子と向き合っている。
「中々見ごたえのありそうな勝負ね」
「あれに混じって、盃の一つでも酌み交わしてくれば、お前さんの気もちっとは晴れるかもしれないよ」
「だから、行かないっての」
意地悪そうな笑みを浮かべるヤマメに、霊夢はぶっきら棒に答えた。
「ま、あたしらが心配しても始まらない。姐さんのことだ、自分でなんとかするさ」
宴の中の勇儀を見るヤマメの瞳には、うっすらと感情の色が浮かんでいる。
「なんたって、彼女は鬼なんだからね」
酒で霞のかかった五体を通して、更けていく幻想郷の夜を感じながら、勇儀は不思議な孤独感を味わっていた。
目の前の神は陽気に酒を煽っている。
周りの歓声がそれを盛り上げる。
あちらこちらから、自分と神の名を呼ぶ声が聴こえる。
(ああ……)
盃を傾けながら、勇儀はそれをどこか冷めた心地で聴いていた。
(そうだ、私は星熊勇儀。山の四天王)
頭の中に、ぼんやりと浮かぶものがある。
小さくて、今にも消えてしまいそうな、儚い影。
一人、橋の上に佇む、華奢で愛らしい、小さな鬼。
周りは暗闇だ。まるで、あの橋の下に蠢く、地底への穴のように。
(だったら、お前さんは一体、何者なんだ……? 水橋パルスィよ)
眼の前に徳利が差し出された。
「ほら、まだいけるだろ?」
勇儀は盃を差し出し、受けようとしたが、神奈子の手が止まった。
「……どうしたね?」
手を止めた神奈子を見やり、勇儀は呟いた。
神奈子は勇儀の眼をじっと見つめながら、その盃に注いでやった。
「私は幻想郷に来てまだ日が浅くてね」
神奈子の言葉に、勇儀は眉をひそめた。
「知っているさ、そんな事は」
「まあ、聴きなよ」
にっと口の端を吊り上げ、神奈子は続けた。
「ここの事は、多少は知っているつもりだったが、来てみて驚いたよ。いやはや、なんでもありとはこの事さ」
徳利を置き、神奈子はぐるりと辺りを見回した。
「こうやって私と神であるお前さんが酌み交わしてるんだ。なにをかいわんやだろう」
「なに、私もあんたも、突き詰めていけばそう大差ない存在さ」
立てた片膝にもたれかかるようにしながら、神奈子が言った。
「うちの巫女がいるだろう?」
「ああ、確か早苗と言ったかい?」
「そうそう。早苗も、最初は戸惑ったみたいでね」
「とてもそういうタマには見えないがね」
神奈子は苦笑した。
「ま、アレはアレで、繊細な所もあるのよ、一応。まだ二十年も生きちゃいない娘なんだしね」
「それで、あの子がどうしたって?」
「ああ、ここに来たばっかりの頃だがね」
神奈子は再び徳利を手に取ると、直に煽った。口の端から一筋、溢れたものが輝いている。再び、小さな歓声が上がった。
神奈子は満足そうに息をつき、続けた。
「私らは神だ。信仰が無くちゃ人の世には居れない。早苗は巫女として、私達のために、それはそれは張り切ってくれていたよ」
「結構な事じゃないか。あそこで土蜘蛛と呑んでる巫女にも、しっかりと聴かせてやるといい」
ちらりと勇儀が視線をやった先には、ヤマメと共にすっかり上気した霊夢の姿があった。
「あの巫女はあれぐらいのいい加減さで丁度いいのよ。むしろその辺を早苗にも見習って欲しいぐらいさ」
「いい加減よりかは、真面目な方がいいと思うがね」
勇儀は神奈子から徳利をひったくると、同じように、直に一口だけ煽った。
「何事にも加減ってもんがある。あの時の早苗は、頑張りすぎていたんだね」
勇儀が徳利を差し出した。神奈子は再び盃を手に取ると、鬼から酌を受ける。
「そうさね、それこそ霊夢達がうちの神社に来るまでは、危うい感じがしていたよ」
「根を詰めすぎたかい」
「ま、そんな所ね。空回りして、落ち込んで、それでも自分を奮い立たせて。そんな事を繰り返しているうちに、よく分からなくなってきたんだろう。一頃は外の世界の恋しさも手伝ってか、心ここにあらずという感じだったよ」
「ほう。そいつは難儀だったね」
勇儀は地面に肘をつくと、手を枕にしてごろりと横になり、神奈子を見上げながら、言った。
「で、それを私に話して、一体何が言いたいんだい?」
言葉の中からわずかに滲んだ感情の色が、神奈子にちくりと刺さる。
神奈子は待っていたかのように、まっすぐに勇儀を見据え、
「そう、まるで今のあんたに、似てると思ってね」
そういって、薄く笑った。
勇儀は体を起こし、神奈子の視線を正面から受け止めた。
「言っておくが、そう思っているのは私だけじゃないはずだよ」
神奈子の言葉に、先ほどの霊夢とのやり取りが甦る。勇儀は知らず、奥歯をかみ締めていた。よく分からない感情が、少しずつ体の中に湧き上がっていた。
「まあ、要するに私が言いたいのは、だ」
神奈子がずいと身を乗り出す。繋がった視線が短くなる。お互いの息遣いが感じられるような距離まで近づけ、言った。
「酒呑み同士、こうして膝突き合わせてるんだ。お酌するときぐらい、私の方を向いてもらいたいもんだね」
にやりと笑うと、神奈子は身を引いた。
「ま、うまく行かないからそうなってるんだろうが、なんぞ憂いがあるのなら、うちの神社で相談に乗るがね?」
冗談めかして言う神奈子に、勇儀は苦笑した。
「鬼を相手に勧誘かい?」
「あんたみたいなのから信仰を受ければ、それこそ鬼に金棒だからね」
「私は鬼だ。我々が信ずるは、我々の力のみよ」
「だったら、その道をさっさと歩いていけばいいのさ。迷う必要がどこにある?」
にかっと笑うと、神奈子は腰を上げた。
「さあ、次はもちっと楽しく酒を呑もうじゃないか」
--------------------------------------------------------------
…………。
雨が、体の中に入ってくる。
体が茶色に侵される。
体の中で渦を巻いて、ごうごうと音を立てている。
声。
声が聴こえない。
それでも。
手のひらだけが、ほのかに温かい……。
…………。
--------------------------------------------------------------
また、夢だ。
頭が重い。不愉快。
上から、何かが降ってきた。
きらきらと輝く光の粒を纏って、彼女が降りてくる。
(また来たのか……)
降り注ぐ粒が大きく、そして数も多くなる。
星を纏って、箒に乗った魔法使いが降りてくる。
「よっと」
箒から橋の上に飛び降りると、霧雨魔理沙はにっかと笑った。
「また来たぜ」
何か楽しい事でもあったかのように、彼女は快活に笑う。いつもの事だ。
いつもの、魔法使いの笑顔。
その笑顔を、私に見せるな。
「どうした、パルスィ?」
私の名前を、気安く呼ぶな。
頭が熱い。音叉が耳の中でめちゃくちゃに叩かれているかのように、不愉快な雑音が響いている。
何も考えられない。何も、聴こえない。
右手に鈍い痛みが走った。私は顔を歪め、右手へと眼をやった。
ああ、痛いはずだ。
小指と薬指の付け根から、手のひら側に白いものが見えていた。どうやら、折れた骨が外に飛び出てきたらしい。
自分の骨を眺めながら、思考は驚くほど冷静だった。
いつのまに攻撃を受けた?
視線を前に向ける。目の前の魔法使いは、驚いた表情を見せている。心なしか、顔が青い。
何かがおかしい。
彼女は手癖は悪いと評判だが、いきなりこれほどの怪我を負う攻撃をしかけるほど無礼な輩ではない。それは私も、今までの手合わせの中で理解している。
では、この右手は?
私は視線を右に移動する。先ほどまですがり付いていた、欄干。そこは血で染まり、赤黒く変色していた。どくんと、胸が蠢いた。
私は、何を、
「何をやってんだよ、お前!」
魔理沙の声がする。私の右手をじっと見ている。本気で心配して……いる。すぐそこに彼女はいるのに、その声はどこか遠くに聴こえた。
ぽつりと、何かが体に湧いた、気がした。
足音がする。あわただしい。駆け寄りながら少女は、懐を探り、小さな皮袋と手ぬぐいを取り出した。
「何でいきなり、欄干殴ったりしてんだよ!」
殴った? 私が、この欄干を? 自分で、この色に染めたというのか。
怒鳴られ、右手を取られ、また激痛が走った。
穴から、全てが噴出した。
「触るな!」
噴出したそれは、怒鳴り声となって、口をついた。
右手から、痛みが体を駆け巡る。どくんどくんと、血に乗って、体中の神経を掻き毟る。
傷つけられた神経が、暴れまわっている。熱い。
体中から、嫌な汗が噴出す。冷たい。
痛い。不愉快。気持ち悪い。
再び、穴が開く。全ての感覚が、感情が、吸い込まれていく。
ああ、そうだ。所詮、私は私なのだ。
魔理沙が体を震わせ、一歩後ずさる。先ほどまでの笑顔は消えうせ、ただ狼狽が浮かんでいた。
少しの間そうして、魔理沙の表情に火が点った。体が震えている。
「お前、ふざけんなよ! 弾幕ごっこもせずに怪我する奴も無いもんだぜ! どうすんだよ! 私、この橋渡っちゃうぞ!」
わけの分からない事を喚いている。彼女らしくない。
「聴いてんのかよ、おい!」
握った右の拳を振り上げながら、魔理沙が怒鳴る。その手は、私の血で染まっていた。
気がついたら、一歩前に出て、その手を握っていた。
「お、おい……」
その手のひらは、生ぬるくて。
「なんで……?」
じっとりと濡れていて。
「なんで私を、」
魔理沙が顔を歪める。
右手に力をこめてしまっていたらしい。
私の骨が彼女の手のひらに刺さって、血と血が混ざり合う。
「私を……」
頭が痛い。ぐるぐると中身を掻き回されているかのようだ。
「パルスィ、どうしたんだよ、お前……?」
両手で頭を抱える。
違う。こんなのは、私じゃない。私は。
「……何でもないわ」
「何でもなくないだろ、ちょっと見せてみろ」
再び魔法使いが右手を取った。皮袋から膏薬を取り出すと、傷口に塗っていく。激しい痛みが体を駆け抜ける。
「我慢するんだぜ、特製なんだからな」
そう言いいながら、膏薬を塗り終わると、手ぬぐいを巻いてくれた。
ありがとう。
そういうべきなのだろう。
だが、どうしてもその言葉が出てこなかった。
私を心配してくれているその顔が、眼が、声が。そうさせなかった。
「早く行きなさいよ……」
だって、そんな素振りを見せたって、あなたはどうせ。
「地霊殿に行くんでしょう?」
「そうだが……。なあ、パルスィ、一体全体、今日はおかしいぜ、お前」
「おかしくなんかないわ。私は私よ」
右手を欄干へとやる。私の血でじっとりと湿ったそれは、いつもと違うものに思えた。
「私は橋姫。この橋が、私の……」
声が出てこない。
「何でそんなに、この橋にこだわるんだよ」
苛立ちを交えた声で、魔法使いが言った。
「貴女にはわからないわ」
「ああ、そうかよ」
そう言って舌打ちし、魔理沙は皮袋を投げてよこした。
「数刻したらまた塗りな」
箒にまたがると、彼女はふわりと宙に浮いた。
そうして、鋭い視線をこちらに投げ、彼女は吐き捨てるように言った。
「何をうじうじいじけてるのか知らんし、知りたくもないが、そうやって一生、ここにいればいいのさ」
言うが早いか、魔法使いは地底へと降りていった。
たった一人。私を残して。
右手が疼きだした。
血の気の失せた手のひらは、青白く冷え切っていた。
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地底の底。豪奢な屋敷。
魔理沙はいつものように、正々堂々と正面玄関から侵入し、屋敷の主の元へと向かう。
広く、静まり返った廊下に、魔法使いの靴音だけが響いた。
いつもはここに来るたびにわくわくするのだが、今日はとてもそんな気分ではなかった。
「しっかし、」
赤と黒で彩られた市松模様の廊下。艶やかなステンドグラスの天窓。
「いつ見てもこの屋敷は……」
「相変わらず、家捜しをしたくてたまらないのね」
魔理沙は驚いて、声のほうに眼をやった。心を覗き見られた相手が、廊下の先にいた。
「『何かを借りていきたくなる』なんて、馬鹿な考えはそろそろ捨てて下さる?」
「よう、さとり」
魔理沙は悪びれもせずに笑顔を浮かべながら、挨拶を投げた。
受け取った少女、古明地さとりは苦笑を浮かべながら、投げ返す。
「ごきげんよう、魔理沙」
「珍しいじゃないか、お出迎えしてくれるとはな」
「たまにはこんなサービスもいいのではと思いまして」
さとりが口の端に笑みを浮かべた。
「立ち話もなんだし、いつもの席へどうぞ」
さとりは一つ溜息をつくと、先にたって長い廊下を歩き出した。
「毎度毎度悪いな」
響きあう二つの足音を楽しみながら、魔理沙が言った。
「思っても無い事、言わない方がいいわ」
「一々心を読むなよ」
「それぐらい、心を読まなくても分かります」
「ちぇ」
拗ねた顔を浮かべる魔法使いを見て、さとりは楽しそうに笑う。客間の扉が見えてきた。
「お前も意外と根性曲がってるよな。人をいじめて楽しいのか?」
「あら、私は貴女を笑ってるわけじゃないわ」
「ああん?」
魔理沙は両手を頭の後ろに組んで、怪訝な表情を浮かべた。
「だったら、なんだってそんな顔してんだよ」
「私はただ……」
そこまで言って、さとりは口をつぐみ、悪戯っぽく笑った。
「ただ?」
後ろから魔理沙が、覗き込むようにさとりを見ながら、先を促す。
扉に手をかけ、さとりは半分だけ魔理沙に振り向いた。
「その先は、自分で考えてみることね」
「なんだよそれ」
唇を尖らせる魔理沙をみながら、さとりは苦笑した。
「貴女に今、必要な事よ」
さとりが扉をあけると、暖かい空気が魔理沙の頬を撫でた。テーブルの上には、見慣れたティーセットが既に並べてある。
魔理沙はいつもの椅子に座ると、帽子をとって大きく伸びをした。さとりがティーポットを手に取る。
「あーあ、今日は何だか疲れたぜ」
白いティーカップに注がれる琥珀色の液体を眺めながら、魔理沙はわざとらしく呟いた。さとりは何も言わず、次に自らのカップに紅茶を注ぐ。魔理沙は小さく息をついた。
「どうぞ。冷めるわよ」
ティーポットをテーブルに置きながら、さとりが言った。促され、魔理沙はカップを手にする。紅茶の縁を彩る薄い金色の輪を見て、魔理沙は思わずほうっと溜息をついた。
カップを顔に近づける。立ち昇る濃厚な香りに、頭の奥がくらくらした。まるで上等な洋酒のようだと、魔理沙は思った。
ゆっくりと、一口含む。柔らかい渋味とほのかな甘みが絡み合って、滑り落ちていく。落ちた先が、心地よく火照った。
「相変わらず、いい葉っぱ使ってんなあ……」
彼女らしい率直な感想を口にする魔理沙を見て、さとりは苦笑した。
「少しは落ち着いたかしら」
言われて、魔理沙は沈黙するしかなかった。
「はあ……」
溜息が漏れる。紅茶の残り香が、辺りに漂った。さとりはそれを楽しみながら、言った。
「『馬鹿な事やっちまった』と思ってるのなら、さっさと謝ってくればいいでしょうに。ここでお茶なんか飲んでたって、何も始まらないわよ」
「そんな事、わかってる」
魔理沙は拗ねた顔をしてテーブルに突っ伏した。
「けどな、」
「そうね、確かに『あの態度は許せない』わね。それも、わからないでもないわ」
魔理沙は顔だけを動かし、微笑を浮かべるさとりを上目遣いに見上げ、何ともいえない表情を浮かべた。
「話が早いんだか筒抜けなんだか……」
「私の前にのこのこやってくる時点で、その疑問に対する回答は貴女の中で決っているのではなくて?」
優雅にカップを傾けるさとりを見ながら、魔理沙は小さく舌打ちした。
「だから、一々心を読むなよ……」
「さっきも言ったけど、こんな事、心を読まなくたってすぐにわかります」
「本当かよ」
「だって、魔理沙の事なら、もうほとんどわかるもの」
見た目相応の少女らしいさとりの笑顔を見て、魔理沙は思わず眼をそらした。頬の熱さをごまかすように、憮然とした表情を浮かべる。
「何を言ってやがるんだ。そんな能力を持っていれば、そりゃあ大体のことは分かるだろうよ」
「貴女は私の能力を買いかぶりすぎてるようね」
魔理沙が顔を上げ、さとりに向き直った。その瞳をみて、本当にころころと表情の変わる子だと、さとりは思った。
「だって、さとりは心が読めるんだろう?」
「ええ、そうね」
「だったら、そいつの性格とかなんだとか、把握するのは簡単な事だろ?」
「私も、昔はそう思っていたわ。少し前まではね」
「少し前? いつの話だ?」
魔理沙の問いに、さとりは小さく笑った。
「さあ、いつからかしらね」
微笑むさとりを見て、魔理沙はひとつため息をついた。
そうして、少しの間沈黙してから、言った。
「この頃、おかしいんだよ、パルスィのやつ」
がしがしと頭を掻いて、魔理沙は続けた。
最近のパルスィの様子、言動、表情……。
「ぼうっとしてて、まるで夢でも見てるみたいなこと言いやがる」
さとりは少しの間、考えるようにして、言った。
「実際に、夢を見ているんじゃない?」
「両目を開けて立ってるってのにか?」
「夢は眠ってるときにだけ見るものじゃないわ。特に、悪夢はね」
言って、さとりは立ち上がった。
「行きましょうか」
「どこにだよ」
魔理沙が眼を見開いた。
「おい、まさか」
「彼女を悪夢から、覚まさせてあげましょう」
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…………。
真っ暗。
体の外も、中も。
もう何も聴こえない。
もう何も感じない。
あの優しい声も、繋がれた手の温もりも。
どれくらいの時が流れたろう。
体の内外の黒は、得体の知れないモノになって。
そうして、私は、私になった。
…………。
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濁った意識のまま、私は膝を抱え、橋の上に座り込んでいた。
時折走る右手の鈍い痛みが、かろうじて意識を繋ぎ止めていた。
魔法使いが巻いてくれた手ぬぐいは、渇いた血で赤黒く染まっている。
「はじめまして」
降ってきた声に、私は顔を上げた。
薄紫の髪をした少女が、そこに立っていた。
少女の薄く華奢な体には、大きな瞳が付いている。
「あなたは……」
「私は古明地さとり、地霊殿の主をさせてもらっています」
「あなたが……」
「いつも橋を守ってもらって、感謝していますわ」
そう言って、優雅に頭を下げる。
ぼんやりとしたままの私に、彼女は続けた。
「それに、魔理沙もお世話になっているようで」
「おい、さとり……」
古明地さとりの後ろから声が聴こえてきて、初めて魔理沙もいることに気付いた。二人で昇ってきたのだろうか。
「魔理沙、彼女に言うことがあるんでしょう?」
「あー、その、なんだ……」
古明地さとりにいわれ、ばつが悪そうに、魔法使いは口ごもる。
「って、パルスィ、お前、手ぬぐい替えてないのか?」
私の右手を見て、魔理沙が言った。近寄り、右手をとる。
何も感じなかった。
温もりも、湿り気も、痛みさえも。
「ちょっとしたらまた薬を塗れって言っただろ」
言いながら、手ぬぐいを解いた。白いものは見えなくなっていた。
「何も感じないの……」
ぽつりと呟くと、彼女の手が止まった。
「貴女はどうなの?」
「何を……」
ぼんやりとした意識の奥から、言葉があふれてくる。
「寒いのも、暗いのも、もう嫌……」
「おい、パルスィ……」
「どうしてこんな思いをしなくちゃならないの? 私はただ、ここにいるだけでよかった。ここにいて……」
ここにいて、うまくあいつと付き合っていけばよかった。
それなのに。
「どうして、どうして……」
今になって……。
カランと、下駄の音がした。濁った頭の中に、しずくが落ちた。
「こいつはちょっと、穏やかじゃないね。何事だい?」
その声は、いつも私に聴かせてくれる声とは違っていた。
静かな怒りを孕んだ、低い声。
「地底の主までお目見えとはね」
「ご無沙汰していますわ」
「なに、こちらこそ」
ゆっくりと、鬼が歩を進める。
「で、こんな所まで何用だい、古明地さとり殿」
「魔理沙の頼みで、ちょっとね」
私は星熊勇儀に目を向ける。私を気遣うような、鬼には似つかわしくない、優しい瞳。
「何故、貴女達は、私なんかにかまうの? 橋なんか勝手に渡っていけばいいじゃない。こんな所に足を止めているのは、私だけでいいのよ。貴女達には、他の場所があるじゃない」
私には無い、ここじゃない居場所が。
「パルスィ、貴女は夢を見ているだけなのよ」
言って、古明地さとりが私の額に手を当てた。その手は、陶器のように冷たかった。
「貴女の悪夢、見せてごらんなさい」
三つ目の瞳が、大きく開いた。
-------------------------------------
…………。
青く晴れた空の下。明るく眩しい太陽の下。
暗い暗い穴の中、連れられて、二人。
そう、私は一人じゃ無かった。
だからこそ、耐えることが出来た。
茶色い雨が降ってくる。
ざんざんざんざん降ってくる。
雨は体を容赦なくうつ。
ざんざんざんざん。
止む気配などまるでない。
体が徐々に、雨の中に沈んでいく。
暗くて、寒くて、冷たくて。
太陽の光が、小さくなっていく。
どんどんどんどん小さくなって、まるで、針の穴みたいになって。
そうして、消えてしまった。
光が消えるまで、優しい声が響いていた。
光が消えても、手の温もりだけは残っていた。
でも、それもいつしか消えてしまった。
暗く冷たい闇の中、一人。
どこへいってしまったの?
私は、一人で耐えているというのに。
もっと深いところ?
それとも、もっと高いところ?
声が聴きたい。手を繋ぎたい。
気がつくと、隣にあったはずの温もりは、得体の知れない何かに変わっていた。
貪欲で、底の知れない、真っ黒なモノ。
そうして、私は、私になった。
…………。
-----------------------------------
頭が割れるように痛い。
「やめて!」
私はさとりの手を振り払った。呼吸が乱れている。さとりが言った。
「さぞかし昔の夢を見ているようね」
「こんなの、知らない……。私は、私は……」
「貴女が見てる夢は、確かに貴女の一部よ」
はっきりとした声で、妖怪さとりは言った。
「でも、それは水橋パルスィのほんの一部分にしか過ぎない。そんな小さなことに縛られている理由なんて、どこにもないのよ」
ゆっくりと、力強く、さとりは私に語りかける。
「貴女がこの橋だけに縛られていないといけない理由なんて、もうどこにもないの」
背後から、下駄の音がする。心臓が高鳴った。
「さっきから話が見えないが、その言葉には同意だね」
鬼が快活に言った。私は彼女のほうに向き直った。
一筋、涙が零れた。
「なんだなんだ、相変わらず、しみったれた面してんなあ」
いつもの豪快な笑顔で鬼はそう言った。
「何なのよ、貴方達は」
視線をさとりと魔理沙へ向ける。
「私の何だっていうのよ……」
「私は単なる傍観者でしかないわ」
さとりが言った。
「でも、霧雨魔理沙と星熊勇儀は違う。そうでしょう?」
彼女の言うとおりだった。
二人が来て、私は変わってしまった。
そう、願ってしまった。
涙がぽろぽろと零れ落ちる。私は両手で顔を覆った。右手の傷口に涙が染みて、じんわりと痛んだ。
その右手を、魔法使いが手に取った。
彼女の小さな手は、いつかと違い、暖かく、優しかった。
「何ていうか、この前は悪かった」
もごもごと口ごもりながらも、彼女はそう言った。
「言い過ぎたよ、悪かった」
そうして、薬を塗り、新しい手ぬぐいを巻いてくれた。
「でもな、お前だって悪いんだぜ。あんな態度取られたら、私じゃなくたって怒るってもんだぜ」
その瞳は、悪戯を咎められた少年のようで。
「とにかくな、お前にどんな事情があるかは知らんし、さとりが何を言ってるのかもよく分からん。でも、何かあるなら相談ぐらいは乗るぜ。お互い、知らない仲じゃ無かろうよ」
知らない仲なんてものじゃない。私と貴方は、一緒に……。
「それは違うわ、パルスィ」
さとりが言った。
「魔理沙は、その子とは違う。もちろん、星熊勇儀もね」
濁っていた意識が、だんだんと晴れてきた。
「そして、先程も言ったけれど、その記憶は貴女のほんの一部分でしかないのよ」
私は一つ息をついた。
「……心を覗かれるってのは、中々嫌な気分ね」
「申し訳ないわね」
「ついでに聴くわ。一体、私はなんだと思う?」
さとりの眼をじっと見つめながら、私は言った。
「貴女は、水橋パルスィよ」
いつかも聴いたような答えに、私は苦笑した。
「本当、仲がよくて妬ましいこと……」
穴が、口を開く。私の半身。
「そう、貴女は橋姫。だけど、それだって貴女の一部でしかないのよ」
さとりが続ける。
「そんなモノに頼らなくたって、貴女は貴女でいられる。ただ、一歩が踏み出せないだけ」
そう言って、彼女は小さく微笑んだ。
「……貴女も私も、まだまだ子供なのかもしれないわね」
言い終えると、さとりは一歩後ずさり、鬼のほうに向き直った。
「こちらの用事は済みましたわ。貴女も、彼女に用があるんじゃなくて?」
私は後ろを振り向いた。鬼はそこに佇んでいた。
少しの間、考えるような素振りをして、いつものように、盃を押し付けた。
なみなみと注ぎながら、ぽつりと呟く。
「この盃はお気に入りでね」
紅葉の描かれた、朱塗りの盃。
「滅多な事じゃ、こいつを人に貸したりしないんだよ」
「私にも貸してくれなかったもんな」
「貸したらお前さんが死ぬまで返ってこんだろう」
鬼が苦笑して、それから息をついた。
遥か地上にぽつんと輝く地上の光を見上げながら、鬼が呟いた。
「パルスィ、お前さんは、地上に出てみようとは思わないのか?」
星熊勇儀がこちらに向き直った。真っ直ぐな眼で、見つめてくる。
その瞳は、活力に満ち溢れた青年のようで。
でも、彼女はそうじゃない。
強く、雄々しく、勇ましい。豪放快活な、私を酔わせる、明るい鬼。
「私は……」
何と答えればいいのか、分からなかった。
「ふむ。じゃあ、しょうがないな」
彼女は盃を取り上げると、一気に傾けた。口の端から一筋、零れる。
そうして一つ大きく息をつくと、目の前の鬼は私の腰をつかみ、ひょいと肩に担ぎ上げた。
「ちょ、ちょっと! 何してんのよ!」
「何って、変なことを聞くね」
彼女はからからと笑った。
「攫うんだよ、お前さんを」
「攫うって……」
笑いが止まる。
「攫うんだよ。このじめじめした地底から。このしみったれた橋からね」
言うが早いか、鬼は地面を蹴った。ぐんと、体に重力がかかり、それから軽くなった。
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「行きましょう、魔理沙。お茶を入れ直すわ」
「おい、さとり……」
「貴女も、伝えたいことは伝えられたでしょう?」
「そりゃそうだが……」
「後はお邪魔になるだけよ」
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橋が遠く、小さくなってゆく。傍らの黒い闇と共に。
「離してよ」
つぶやきがこぼれる。
「嫌だね」
「離して!」
目一杯、耳元で怒鳴ってやった。
「嫌だ」
鬼の口調は変わらない。
「……そうね、貴女は、鬼だものね」
「鬼? ああそうさ、私は鬼だ」
一度言葉を切ると、彼女は息を吸い込んだ。
「だが、お前さんを攫うのに、そんな事はこれっぽっちも関係ない。私は、お前さんと、水橋パルスィと一緒に、あの日の下を歩いてみたい。それだけなんだ」
しっかりと光を見据えて、星熊勇儀はそう言った。
その言葉は私の胸の中にじんわり染み込んで、私の心をほのかに染め上げた。
鼓動が早い。頬が熱い。
「どうして、私なんかに……」
「お前さんに入れ込むのに、そんなに理由が必要かい?」
こちらを見ながら、鬼が言う。
彼女の鼓動が伝わってくる。 私の鼓動と、彼女の鼓動が、重なって、一つの波になる。
「私はお前さんを気に入っている。何度も言ってるだろう?」
腰に回された手に、力が篭もる。その大きな右手は、優しく、暖かかった。
私はほんの少し、その手を握り締めた。
「……地上に行って、どうするのよ」
「そうさなあ、お前さんはどうしたい?」
青く晴れた空の下。明るく眩しい太陽の下。
この鬼と、星熊勇儀と、二人。
「……お酒、さっき呑めなかったわ」
青く晴れた空の下。明るく眩しい太陽の下。
彼女と、酌み交わしてみたい。
私を、もっと酔わせて欲しい。
勇儀の顔が、ぱっと明るくなった。
「じゃあまずは、お天道さまの下で、一杯やるとするか!」
言うが早いか、勇儀は速度を上げた。光との距離が、ぐんぐんと近くなる。
地上はもう、すぐそこにある。