Coolier - 新生・東方創想話

ひななゐロック 【人心照悪】(下)

2014/07/25 17:51:08
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 ――かくして、全ての部品は集まるの。

 この世は、白と黒に塗り分けられると偉い人が言った。悲劇は悲劇、喜劇は喜劇。世に善は有り、悪は蔓延る。
チクタクハクタクと時計の針が回る。じいっと見ていると、まるで世界がかき混ぜられて行くかの様ね。
悲しみも喜びも、善も悪も、人も妖も、天も地も。
Roll(回って)、Roll(転んで)、Roll(歌って)、Roll(流れて)、Roll(巻かれて)、Roll(くるんで)!
まだよまだまだ。私と一緒にダンスをしましょ。

 ――1、2、3時、4時。5、6、7時、8時。9、10、11時、12時!

 さぁさ、時計の針を回しましょう。ぐらぐら揺らして、ころころ転んで。

 そう――


 ◆◆ ◆◆


  11:夜が明けるまで


 「っ……たぁ……。何!? 何が起こってるの!」

 ズキズキと痛む頭を抑え、布団ごと揺れる床に爪を立てるようにして博麗霊夢は身を起こす。
手の平にべちゃあと感触が伝わって、霊夢は顔を顰めた。この揺れで、どうやら行灯が頭部に向かって倒れてきたらしい。
油が撒き散らされた布団の一部は、手の平と一緒にベタベタになっていた。頭の鈍痛もこいつの仕業だと思うと怒りが滲む。
しかしその後に、「もしこれに火が点いていたら」と思うと昇ってきた血の気も引いた。

 「地震……?」
 「っ、おい霊夢、危ないぞ!」
 「そんな事言ってる場合じゃないでしょ!」

 無理矢理起き上がり、今にも空を飛ぶ程度の能力を発動させようとする霊夢に八雲藍の叱責が飛ぶ。
それに構わず、霊夢は窓枠に足をかけ外に飛び出すと、街が一望できる程度に高く飛び上がり、辺りを見回した。

 「なにこれ、家が……」

 幾つかのしっかりした作りの建物こそ無事で有ったが、ひしめき合うようにして作られた長屋は既に屋根から崩れ落ちて家屋の体を成さない。
無計画に増築された建物は構造的に無理の有る箇所がこそげ落ち、下の平屋を押し潰している。
……何より最悪なのが、地底の街は常夜であり、常に灯りを絶やさぬ街であったと言う事だろう。
所々の倒れた街灯から火と油が漏れ出し、崩れた家屋の幾つかから、既に煙が上がっていた。
赤く染まった光は蛇のように舌を出し、ちろちろと辺りを照らす。

 「……まずい! もう火が出てる!」
 「何!?」

 密閉空間での火災についての危険性は、藍にも良く分かる。
煙や熱の充満もそうだが、何よりも燃焼は周囲の酸素を大量に持っていく。
つまり、火が燃え続けた結果、満足に呼吸も出来ない可能性が有るのである。
藍程度の霊格になればその程度「少し居心地が悪い」程度の物でしか無いが、力の弱い、特に動物や昆虫の化生である者達には致命的ともなり得る。
そして勿論、呼吸が出来なければ死ぬのは博麗の巫女とて例外では無い。

 「ちょっと、あんたの術でどうにか出来る物は無いの?」

 燃焼の理屈は分かっていなくても、この状況の危険性は本能で分かるのだろう。
いささか焦った様子で、霊夢は藍に問いかけた。

 「……火事に対して、多少の水を引っ掛けた所で文字通り焼け石に水。
  せめてもう少し川が近ければ……いや、それでも燃え移る勢いに勝てるかどうか」
 「間欠泉とか! 雨を降らすとか!」
 「よく考えろ、此処は地下水よりも下だ! それに幾ら私だって、空も無いのに雨を降らせられるか!
  あの天人が使っていた宝具なら、ひょっとするかも知れないが……」
 「だったら、それを出しなさいよ!」
 「縁の有る品を残す訳には行かなかったんだ、流石に燃やす訳にも行かないから、もう天界に返したよ!
  それに有った所で私達には使え無いんだ……すまない」
 「くっ……」

 霊夢の唇が悔し気に噛み締められる。巫女の力は有用だが、彼女の命をここで失う訳には行かない。
今からでも地上に戻すべきか。しかし目の前の巫女がそれを許すだろうかと、八雲藍は思案する。

 ――せめて、紫様に連絡がつけば……

 そう思って念話を送ってみても、応答する気配は感じられず。陰陽玉型の通信機もうんともすんとも鳴りはしない。
ジリジリと身を焦がす焦りに、藍は苛立たしげに舌を打った。

 「くそっ」
 「結界はどうなってるの? このタイミングでこの地震。嫌な感じがするわ」
 「なら地霊殿か? いやしかし、紫様からの指示を……」
 「良いから行くわよ!」

 顎に手を当てて思い悩む姿を取る藍の腕を、霊夢はぐいと掴んだ。
そのまま背負投げるかのように引っ張り、ずんがずんがと進んでいく。

 「なっ、おい、待て!」
 「待ってられるか! 理屈やめ、今は私に任せて起きなさいって」
 「分かった! 分かったから離してくれ。この体勢、結構痛いんだ」

 腕を振り払い、巫女の隣を並走、いや並飛する。
倒れた家の下から苦しそうなうめき声や子供が泣く声が漏れ出、梁や柱が炭化していく臭いに霊夢は顔を顰めた。

 「……ここに住んでるのは、殆ど妖怪なのよね」
 「ああ、勿論そうだが」
 「なら、直ぐに死ぬわけじゃない。死ぬ程熱いかも知れないけど、人間よりは長く持つ……
  どうせ、私は腕力じゃ大した事ないんだし。私がすべき事を優先しなきゃ」

 その様は、問いかけると言うより自分に言い聞かせるようで。
眼下の痛々しい光景に目を瞑りながら前に飛ぶ少女は、どこか危うさすら漂わせている。

 「今思い出したが、確か間欠泉地下センターなら八坂の神が作った大規模な排気装置も有るはずだ。
  あの地獄鴉なら、それを動かせるんじゃないか?」
 「なら、どっちにしろ地霊殿って訳ね。だったらこのまま、空から一気に……」

 そう、視線を定めた時だった。


 「「「「「「「DAAAAAAAAAAAAAAMMMMMMMMMMMMMMN!!」」」」」」」


 地霊殿の中庭から吹き出した"黒"が、怨霊が、墨汁の如き粘ついた穢れが一気に舞い上がり地底の天井を染める。
咄嗟に懐に入れた手を再び出す暇もなく、灰煙と混じった害する霧に捲かれ、霊夢は肺の空気を全て奪われて微かに意識をブラックアウトさせた。

 「霊夢ッ!」

 霊夢よりやや高い位置を飛んでいたからだろうか、間一髪で身を躱す事に成功した藍へも、蔦のように怨霊の手が襲いかかる。
そうこうしている間にも重力に引かれ落ちて行く霊夢の腕を掴み、藍は彼女と地面の間にどうにか滑り込んだ。
再び浮遊するまでの余裕は無く、八雲の式は何とか速度を殺しながら錐揉み回転で落ちる。
酒宴が開かれていたであろう卓に一度大きくバウンドし、皿を割りつつ落ちた料理の油や酒混じりの泥に身を汚していく。
二人分の落下の衝撃はそれなりの物であったが、そこは妖怪、被害は服や自慢の尻尾が何本が残飯に汚れるだけで済んだ。

 「……ふー、ナイスクッション」
 「お前、もう少しまともな礼が言えないのか……」

 抱き止められる形で地面とのキスを阻止された霊夢が、胸に顔を埋めながら呆然と意見を零していく。
あまりと言えばあまりな言い草に、自慢の尻尾が汚れた事も有り藍は青筋を立てながら答える。そのバストは豊満であった。

 「クソッ、誰が洗うと思ってるんだ」

 思ったよりも平気そうな巫女を跳ね除けながら辺りを見回すと、そこはやはり広場で有った。
地震が起きる直前まで、多くの者が卓を囲み酒に浸っていたのだろう。
藍は袖に貼り付いた獣肉の叩きらしき切れ端をひっぺがすと、怜悧な目で辺りを見回した。
一時の混乱から覚めたらしい地底の妖怪達が、ざわざわとこちらを遠巻きに覗いている。

 「げほっ……ま、火事の中に突っ込まなかっただけまだマシな方って思うしか無いわね」
 「火事?」「火事だって?」

 霊夢の呟きを耳ざとく聞きとったのか、遠巻きにしていた連中からざわめきが産まれた。
そんな事も想像出来ないのか、と藍が毒づく前に、巫女の指が天を向く。

 「あいつら、なんだって降りて来ないのかしら」

 霊夢の指差す先には、不協和音を奏でて蠢く怨霊たちの姿が有る。
その悪意はじっとりと、夏の湿気のようにこちらを包んでいるが、今直ぐに襲ってくる気配は無い。

 「……街が燃えているから、だな。火は天を向き、昇って行く物の象徴だ。地獄に落とされた奴等には眩しかろう」
 「つまり至る所で起こってる火事のお陰であいつらが街に入り込めないって事? ひっどい冗句ね」
 「不幸中の幸いと言う他無いだろうよ。とにかく、今の内に何とかしなければ」

 そう語りつつ、くるりと広場の外に向かって方向転換する足が、くしゃりと何かを踏みつけた。
無造作にそれを掴み上げ、八雲藍の瞳孔が開く。それは其処に有ってはならぬ物。絶対に在り得てはならぬ筈の。

 「……どうかした?」

 博麗の巫女が怪訝な表情で尋ねる。それすら煩わしいと感じそうになって、藍は必死に自制した。


 「……紫様の式が、剥がれた。これではもう、私に大結界は弄れん」


 ◆


 博麗大結界。外の世界と幻想郷を隔絶せしめる唯一にして絶対の法則であり、概念の壁。
そして今は、外界から侵攻せしめんとするカミへの唯一のボトルネックであり……最も死守すべき「急所」でも有る。

 「それって、紫の身に何か有ったって事?」
 「……確定は出来ない。だが……」

 そう考えるのが自然だと、藍には嫌でも理解することが出来た。
今、主人の意思で式を解除する事にメリットが有るとは思えない。
となれば、そうなっても仕方が無い程度に紫とのラインがズタズタにされたか、或いは一時的にしろ藍の式を剥がさなければ成らない程に、消耗戦に追い込まれたか。

 ――どちらにせよ、カミの調伏に向かった紫様達はご無事なのか?
 ――あのトンマめ! 紫様のお側に居ながら、何をしているんだ!

 最近、我が身を差し置いて主人の傍らに控える事の多い老人剣士に対して叱責も湧く。
勿論、それが"いざという時紫のスペアとして動ける"自分と、"ほぼ戦闘用、かつ前衛専門"の式であるあの男との適材適所である、と頭で理解しては居たが。

 「くそっ」

 悪態を一つ、上を見上げる。熱気に圧されてか、それとも煙の性質と入り混じったからか、吹き出した悪霊達が今直ぐに降りてくる様子は見られない。
だが、それは同時にあの悪霊共に制空権を取られたと言うことでも有る。唯でさえ入り組んだ地底の街を……更にこの騒ぎで、通行止めになっている箇所は有るだろう。
幾ら妖怪の足であれ、走り抜けるには、いかほどの時間がかかるか。

 「とにかく、ここでじっとしているよりは……ん、何よあなた達?」

 最適を探す思考の渦に入り込みそうになった藍の手を掴み取り、霊夢は――恐らく勘の赴くまま――進もうとした。
その行く手を、囲うように……あるいは縋るように、地底の妖怪たちがぐるりと取り巻く。
先程まで随分と酒に浸っていたのだろう。このような騒ぎがあった後でも顔は赤らみ、息には生臭さとアルコール臭が混じっている。

 「お、おい! どういう事だよあんた達!」

 混乱と恐怖に後押しされたのだろう。集団の中の一人が、ヒステリックに声を上げた。

 「地震はもう起きないんじゃ無かったのか!?」
 「そうだ、何が起こっているのかちゃんと説明しろよ、説明ッ!」
 「どうなっちまうんだよ! ……いや、どうしてくれるんだよ!」

 一人が声を上げれば、後は雪崩のように。口々に避難の言葉を浴びせる群集達の声に、霊夢も思わず顔を顰めた。
それでもこの広場に犇めいていた人数からすれば、随分と少なくなっている、と藍は気付く。
火事が起きている事を知り、それぞれ事を為しに駆け出したか。

 ――だとすると、こいつらは愚図か。

 未曾有の事態の中、己のするべき事も見定められず誰かを非難するしか無い無能ども。
大きな集団であれば確実に一定数存在する奴等と言えばそれまでだが、損失の保証や誰かの弔いといった「正義」を振りかざすようになった時、数を爆発的に増やし暴力に変わる。
放置はしにくい。だが、一刻も惜しい中どうしてこんな連中に割いてやる時間があろうか。

 じりじりとした焦燥は尚強くなる。大結界の維持。主の状態の確認。煙に入り交じる怨霊の対策。やるべき事は山積みであり、それを行える人材は殆ど居ない。
その状況で面倒を増やすような者は、今の藍に置いて最早「邪魔者」ですらなく明確な「敵」である。
なるべく殺すな、という命令を物理的に守らせる式札は、既に剥がれて丸められている。
もし藍に紫への忠誠心が無ければ、九尾の狐に楯突いたと言う理由で、纏めて黒焦げのハンバーグにされている所だっただろう。

 「だから、今からそれを何とかしに行くんでしょうが! ほら、あんた達邪魔なのよ!」
 「ち、地上から来た奴等なんか、信用できるかよ! そうやって逃げ帰るつもりなんだろ!?」
 「あーもう、どうして欲しい訳!?」
 「うるせぇ! 何とかしに来たんだろ! とっとと解決しろ!」

 霊夢は完全に目を釣り上げ、お祓い棒を振りかざして道を塞ぐ奴等を追い払おうとする。
その怒りに触発されて、妖怪達の態度もより堅くなり、言い合いは堂々巡りとなっていった。
騒ぎを聞きつけてか、共通の衣装を羽織った厄介者の集団までが声を荒らげ取り囲んでいる。

 「ふん、だから言っていたのだ! 地上から来た奴等なぞに、本気で俺達を守るつもりなぞ有るわけがないと!」
 「地上の妖怪の目的なんぞ、核とか言う新しいエネルギーに決まってる!
  カミが来たとか言いふらして、邪魔な我々を別の所に隔離するつもりだったんだろう!」
 「勝手な事言って……!」

 食って掛かりそうになる霊夢の袖を、藍が引き止める。
そうしている間にも、リーダー格である男は身を震わせ手を振り上げ、まるで聴衆に向けた演説のように叫びだす。

 「そう! 八雲紫は事件を解決するふりをして、地底を怨霊で満たすよう裏から画策していたのだ!
  カミとは何たるか具体的に示せなかった事、そして今に至っても顔すら見せない事こそその証左!
  しかし安心しろ! 我ら御廻組が来たからには地上の者共に勝手な事はさせん! 我らこそ英雄なのだ!」

 スラリと抜いた刀を霊夢に向け、男は宣言する。
その口角は――かつて霊夢の爪先に蹴り上げられた其処は――愉悦によって吊り上げられていた。
ワーッと欺瞞的な拍手が鳴り響き、不安げに立ち尽くすだけだった者達も、雰囲気に釣られ歓声を上げ始める。
男は不遜な態度で片手を緩く上げ、聴衆を下がらせていく。その姿は形だけ見れば悠然たる物だったが、どうしようも無い自己陶酔が鼻に付いた。


 「皆の者、恐れる事は無いぞ! 八雲紫など、所詮我らの力が恐ろしくて地底に放り出した腰抜けよ!
  彼奴らのような輩、今直ぐにこの地底から叩き出しでぐぎゅっ」


 しかして、その言葉から先が男の口から語られる事は永遠に無い。
有るのはただ、在るべき重しを失い、ぐらりと傾く下半身のみ。

 「え」

 聴衆達の視線が、まず地に倒れ伏し、ドス黒い湖を作る男の下半身へ。
そしてゆっくりと血の痕を辿り、三丈程もある妖狐へと視線を移す。

 「え」
 「……不味い」

 口腔の端からポタポタと血を垂らしながら、九尾の狐は男の頭と共に吐き捨てた。

 「恐ろしいだと? 笑わせるな。お前達如き、鬼族も含めて殺そうと思えば何時でも殺せる虫ケラに過ぎん。
  それでもお前達が生きているのは、紫様が幻想郷の住民であれば一寸の虫すら愛するお方故にというのを心得よ」
 「ひ、ひぃっ」

 小さく息を飲み込む音がして。見回してみれば、円をぐるりとなぞるようにして金色の尻尾が道を塞いでいた。
囲んでいた筈が、いつの間にか囲われている。何人かの腰がくたりと折れ曲がり、地に尻もちをつく。

 「思えば、お前達には随分と邪魔をされたな……?
  地蔵破壊に売り渋り、お陰で私も随分と恥をかかされたものだ。
  これ以上の邪魔が入らんように……もう一人位見せしめとしておくべきかね。ええ?」

 九尾の切れ長の目が、先程まで霊夢に罵声を浴びせかけ、今は腰を抜かした一人を睨みつけた。
その男に向かって一本の尻尾がシュルシュルと伸びていき、果物のように身体を掴み上げる。

 「い、嫌だ……俺は、俺は何もしてないぞ! 地蔵なんか触ってないし、あんたらに声をかけられた事もない!
  ただどうにかなっちまう気がして、八つ当たりしてただけなんだ! 反省してる! ごめんなさいぃ!」
 「そうかい。だったらお前は、そのまま目も耳も口も塞いでいりゃあ良かったんだ。
  口は災いの元とはこの事だな。妖怪ってのは舐められたら終わりってのは……理解してるだろう?」

 血塗れの牙が、生暖かい吐息が、段々と近づいていく。男が幾ら暴れても、より深く尻尾に飲み込まれて行くだけで。
その喉肉までしっかりと眺められる時になって、男はついに疲れ果て小刻みに震える事しかしなくなっていた。
嬲るように見せ付ける藍を、霊夢は半目で睨み上げた。

 「藍、あんたスペルカードルールを」
 「……なぁ霊夢。遊びじゃ無いんだ。あぁ、遊んでる場合じゃ無いんだよ。
  こんな馬鹿な奴等にな、これ以上関わられる暇なんぞ有るものか。結局、馬鹿を締め付けるには恐怖が一番なんだよ。
  紫様はこのような分かり易い暴力は好まないが……やらない訳じゃない。ましてや、私は最早八雲紫では無いのだ」

 あるいは八雲の式のままで在ったならば、九尾の狐はこのような手段を取らなかっただろうか。
しかし今や藍は式では無く、ただ八雲紫を信ずるだけの妖怪である。
霊夢は迷った。彼女にこの狐を止めるだけの権能は無い。スペルカードを用いない争いを止める事は有るが、この場合は刀を抜いたのが相手方である。何より、彼等は人間では無かった。
それに時間が無いのも確かなのだ。怨霊混じりの煙は刻々と増していき、手をこまねいていてはじきに街を覆い尽くすだろう。
かつて、神の依り代とすら謳われた獣の眼光が霊夢を刺す。苛立ちの奥に、確かな理性の光も含まれている。

 「凍り付いた灼熱地獄を見なかったか? 我々が地上にあのカミの侵攻を許せば、幻想郷全土がああなるのだぞ。
  大地は凍り、草は枯れ、人は死に絶え、やがて妖怪全てが消滅する。冬ではない。寒く澱んだ死の世界だ。
  その世界には橙も居る。そんな事が許せる物か。どんな路傍の石であれ、消し飛ばすに足りる理由だ!

  よく考えろ、霊夢。今は愚図の集団だけで済んでいるが、ここで中途半端に済ませれば次には子や友人を失った者共が
  弱者の理論を振りかざして私達に纏わり付いて来るんだ。そんな事に割く時間が私達に有ると思うのかね?
  今思わせるんだよ、『自分達はこうなりたくは無い』と!
  でなければ私達はまた蟻のように群がられて、今度こそ身動きが取れなくなるぞ!
  お前は地上全てと、この馬鹿一人どっちを救うんだ! 答えろ! 博麗の巫女!」

 答えろ、と問われて、答えに詰まる。それが迷いであると、巫女は分からない。
博麗霊夢は即断即決の女だ。何を問われても、「○○に決まっているじゃない」と断ずる事が出来る。普段なら。普段であれば。
それは自身の能力も有るが、仮に間違っていたとしても最後の最後に帳尻を合わせてくれる奴が居る、という信頼感でも有った。

 ……八雲紫が居ない。生きている、と断言する自信がない。無意識かどこかで甘えていたのだと気付いていて、目を背けた。
自分の答えに全てが掛かっている「かも知れない」。それがこんなにも戸惑いを産む事を、博麗霊夢は初めて知ったのだ。

 そしてその一瞬の迷いは、答えを知る機会を博麗の巫女から永遠に奪っていった。

 「そいつを離しな」

 男を抱え上げていた尻尾に爆炎が奔る。その人物は片手に凝縮していた「火気」を藍の九尾に投げつけると、燃え盛る家の一つに向けて手を振った。
ゴウ、と音を立て手の平に家屋一軒分の炎が萃まり、バレーボール大に……そして指の先ほどのサイズへと圧されていく。
親指サイズの業火を掌で揉み消すと、開放された空気が強い風となって長い琥珀色の髪をはためかせた。

 「伊吹萃香」

 藍か、霊夢か。何方ともなくその闖入者の名を口にする。
爆風の衝撃で尻尾から投げ出された男が、ひいひいと息を荒げながら群衆の中へと消えていく。

 「ああそうさ、今頃ノコノコと、ね」
 「何のつもり?」
 「そりゃあ勿論、あいつを守ったんだ。あんなのでも地底の仲間なんだよ」
 「暫く地底を開けていたのに、何時の間に帰ってきたの。古巣の焼ける臭いは雲の上まで届いた?」
 「……ついこないださ。あぁ、本当に酷い用事だった。
  その後動く気にもなれなくて、暫くだらだらしてたんだよ。その甲斐は有ったね」

 珍しく……本当に滅多な事に、友人に語りかけるような口調で、藍は喋った。
上は上に、下は下に。式で有りながら自尊心の強い彼女は、基本的に「同格」を認めない……幾つかの例外を除き。

 「酒を抜くと、嫌な事を思い出すんじゃなかったの」
 「……苦い茶を飲みたくなる時も有るさ。普段楽しくやってる分、尚更ね」

 藍の知る限りにおいて常に酔っ払った赤ら顔をしていた彼女は、酒気を払い豪然たる眼光で藍の顔を睨み上げている。

 「鬼の名に賭けて誓おう。『もう一人足りとも犠牲を出させない』……私に出来る、最後の手向けだ」

 赤銅色の瞳が、九尾の狐の眼を突き刺す。あぁ、こういう顔をされるのも随分久しぶりだな、と藍は思った。
これは、よせばいいのに必死に涙を堪え剣を向ける、夫を寝取られた初心な女の表情だ。男を便利に使う事も出来ぬ女の。

 「……愚図は嫌いよ。他人に責任を押し付ける事だけは機敏な輩は、特に」

 九尾の姿が白煙の中に一瞬溶け、次に目を向けた時には、巨大な獣の姿は朧に消えて何時もの導師服姿と戻っていた。
溜息だけを一つ吐き、藍はフサフサと揺れる九尾を向ける。

 「せいぜい自分自身がそうならないよう気を付けるとするわ」
 「あぁ、私も気ぃ付けるよ」
 「……行くぞ、博麗の。我々の任を果たす」

 傍らで警醒札に手を添え息を呑んで居た霊夢も、ゆっくりとそれに習い歩き出す。
……九尾の狐は、最後に一度だけ無機物めいた目を聴衆に向けると、吐き捨てるように宣言する。


 「――次は鏖(みなごろし)だ」


 弛緩した空気が一瞬で氷漬けになる中、萃香だけが呆れたように肩を竦め、誰にも気付かれない様小さく呟いた。

 「親バカ野郎」


 ◆


 旧地獄街道を疾る。地獄と言えど、妖怪と言えど、其処は思い想われし者達が生きていた街。
長年、酒の匂いを染み込ませた結果、赤く染まったかのような煉瓦作りの壁が在った。
物騒な騒動から甘く蕩ける物まで、幾千の思い出を刻んできたのだろう、年季の入った木目のベンチが在った。
つい先程生まれ変わったばかりと見える、まっさらな漆喰の塀が在った。

 その総てが、崩れ、壊れ、あるいは火に焼け爛れて黒く煤を付けている。

 この旧地獄に置いてなお地獄、母子の泣き声と火消の怒声が入り混じった混沌の中、霊夢達は一目散に翔ける。
地底の街の無秩序さは並大抵では無いが、霊夢にかかれば無いも同然である。

 「だけど、行った所で何をするの?」

 長い袖を地面と並行になるまではためかせながら、先行する藍に向かって霊夢は問う。

 「幸い、地霊殿は街と違って結界を敷く準備は整ってる。
  でも、紫が居る前提だったんだから私一人の霊力じゃカミは愚か悪霊さえ抑えきれるか怪しいわよ」
 「そんな事は解っている。しかし、それでもやらないよりはマシだ。
  何より排煙装置を動かせば、状況が多少改善される上に地上へ何らかの異常が起こっている事を伝える事が出来る」

 つまりそれは、地霊異変の再来。いや、状況的にはもっと悪いか。

 「地上に異変さえ伝えられれば、もし我々に万が一が有ったとしても……
  地上総てが犠牲になることは、山の二柱が、いや、洩矢諏訪子が阻止してくれるだろう。
  もっとも、その時には『楽園』は随分と様変わりしている事に成るだろうが」
 「なに、あいつ一人だけで何とかなるの? だったら四の五の言わず、とっとと連れてくれば良かったじゃないの」
 「馬鹿を言うな、今相対しているカミはそれでも祟り神の『なりかけ』だが、ミシャグジ様と言えば祟りの本家本元だぞ!
  今でこそ爪を隠して居るが、かの神が幻想郷全体のパワーを上回った時、果たしてどうなるのか本当に分からんのだ」
 「……あんたが其処まで言う物? 神様ってのは」

 霊夢からすれば、弾幕勝負とは言え一度倒した相手でしか無いのだろう。
少し大袈裟とも感じる藍の言い振りに、首を傾げる。

 「そうだ。神話に成ると言うのは、それ程の物なのだ。
  この幻想郷の守り神である龍神様とて、全盛期のミシャグジ様相手では歯が立たないだろう。
  そんな存在が突然現れて、私達がどれだけ頭を痛めたか……いや、それは良い。

  とにかく、川とダムのような物だ。
  私達は今、鉄砲水を止めるために四苦八苦しているが、洩矢神はそれを難なく堰き止め、自らに蓄える事が出来る。
  ただしダムの中身がほぼ空であるがゆえに、水はチョロチョロとしか出す事が出来ない……」
 「ふぅん……そう言う物……あ、そこ左」

 地を蹴り、細い裏道を直角に入る。その裏路地は塀が道を遮る袋小路で有るが、二人には関係が無い。
木樽を足場に、軒に手をかけ、少しだけ飛翔で加速を付け塀を超える。
しかし、その塀を超えた先に誰かが居る事はさしもの霊夢でも見抜けはしなかった。

 「やばっ」

 幾ら無重力の飛翔とは言え、咄嗟に慣性を殺したり亜空穴で避けたりする事は難しい。
体重はある程度軽減してあるので激突の衝撃は思ったよりは軽かったが、それでも背を向けてキョロキョロと辺りを見回す人物を霊夢ごと押し倒すのには十分すぎる程であった。

 「あ、ったた……私とした事が……」

 緊急の状況とは言え、完全な過失。
流石に詫びの一つは入れなければ不味いだろうと、霊夢は倒れた妖怪の姿を確認し、「うげ」と口から漏らした。

 「……」

 無言で起き上がり土を払う者こそ、地獄の橋姫、水橋パルスィである。
正直、この状況で当たるには最悪に面倒臭い相手を前に、見ないふりして逃げた方が良かったかと霊夢は頭によぎらせる。

 「あー、悪かったわね。文句なら後で聞くけど、今急いでるから……」

 相手の反応は俯いていて窺い知る事が出来ない。霊夢は爆発しない内に立ち去ってしまおうと、軽く謝罪をし足を早めた。

 「……けて」
 「あん?」

 その袖の端が、くいと引っ張られる。随分と相応しくない、弱々しい言葉を聞いた気がして、霊夢は首を振った。

 「助けて……子供が、子供が居ないの……ッ!
  白い尻尾の、白狼の子なの。確かに家に帰したはずなのに、私が、私がちゃんと見てなかったから……!」

 涙に濡れた唇からそれだけ吐き出すと、パルスィは再びずりずりと地面に崩れ落ち、泣きだした。
随分と走り、叫んだのだろう。声はガラガラにヒビ割れて、踝は赤く擦りむけ、パンパンに腫れていた。

 「あー……」

 その鬼気迫る様子に、霊夢は困った風に後頭部を掻く。
嫉妬されるなら振り払いようも有るが、ある程度頼み事を解決する事が習慣として出来ていると、どうにもやり辛い。

 「分かっているだろうがな、霊夢」

 自身も思う所は有るのだろう。やや同情を含んだ眼差しで、だが冷酷に藍は言う。

 「相手はしてやれんぞ。一人ならいい、同じような境遇の親子が恐らく何十、下手したら百を超えるかもしれんのだ。
  誰か一人を助けては、其処に『不公平』が生じる。全か零か(オールオアナッシング)だ。わきまえろよ」
 「……分かった、分かってる……」

 彼女の言う事は、間違いなく正しい。
しかしこの、首の裏がチリチリする感覚は。何かに引っ張られるようなこの感触は……

 ――勘が、働いてるのよね。

 それはまるで、此処だ、此処こそが"目的地"なのだと主張する金糸雀のように。
だが、地霊殿に結界を張り怨霊の流入を防ぐこともまた、霊夢にしか出来ない事なのである。
理性で語るのならば、地霊殿を放置しておく事はほぼ確実に取り返しのつかない事態に直行する事を意味していると言っていい。

 "道"が別れている。

 ふと、揺らめく陽炎のようにそんな幻覚が見えた。
普段の霊夢ならば、一も二も無く勘が導く通りに進めただろう。
「勘だ」と宣言すれば、藍も反対はするまい。八雲の名がつく者であれば、巫女の勘と言うのがどういう物であるか分かっている。

 ――けれど、もし只の勘違いだったら?

 普段なら在り得ない囁きに、ぐ、と身が竦んだ。
紫が居ないからか、それとも一度怨念の混じった煙の中に突っ込んだからだろうか?
そんな訳は無い、自分の勘は正しいと信じているのに、頭をよぎるその声を振り払う事が出来ない。

 「急ぐぞ。空を行けない以上、お前が便りなんだ」

 そうだ、付いて行けば良い。彼女の言葉はとても理論的で、何処も間違っているようには聞こえ無いのだから。
付いて行け。些細な違和感なんて無視しろ。正しい事の"白"の中に、私は居る。
彼女に従え。そうすれば。そうすれば――?


 ――誰かのせいにする事が出来るじゃない。


 パァァン、と、甲高い音が辺りに響いた。
打ち鳴らす音は周囲の灰と重々しさに満ちた空気を祓い、誰よりも霊夢自身に喝を入れる。
霊夢はヒリヒリと痛む両頬を、そしてそれを力強く叩いた手の平をひらひらと振ると、深く長い息を吐いた。

 「……馬っ鹿らし。らしくない事で悩んでたりなんかして」

 道を行く誰も――藍やパルスィまでも――が目を丸くして、呆気にとられていた。
霊夢がフンと不愉快気に鼻を鳴らし、「見せもんじゃないわよ」と辺りをじろりと睨むと通行人達はそそくさと去って行く。

 「霊夢、何をして……」
 「……パルスィの話を聞きましょう。何がどうなるかは分からないけれど、私達にはそれが"必要"なんだ」
 「おい、聞いていたのか! 誰か一人を助ければ、私も助けて貰えて当然と思う奴等が大量に出てくるんだ!
  大局を見ろ霊夢、私達はもっと大きく腕を広げられる。結果一人一人助けて回るより、もっと大勢を――」
 「勘よ!」

 弁を尽くして説得を試みる藍を、霊夢は一言で切って捨てる。

 「博麗の勘よ、藍。あなたのご主人様なら疑わない。
  どんなに突拍子も無くっても、一考位はするでしょうよ。私が信じれないって言うのなら、そっちを信じればいいわ。
  此処が目的地だったのよ。博麗の勘は最初から、此処に私達を導いていた」
 「……」

 導師服から零れた耳が微かに動く。尻尾が一つうねり、藍は辺りを見回した。
早い内から火が出たのだろうか。納屋のような建物が一つ完全に炭と化して燻っており、その周りは延焼を防ぐ為壊し崩されて敷地の半分を開けている。
とてもじゃないが何か特別な物が有るようには見えない。片面の壁を崩され部屋の断面図を覗かせた家が、妙に滑稽といえば滑稽であった。

 「此処に、何が有るというんだ……」
 「それが分からないから、聞くしか無いんでしょ」
 「……前々から思っては居たが、お前の非論理さは私と相性が最悪だ」

 藍が苛立たしげに踵を踏み鳴らし、霊夢が肩を竦める。
そして啜り泣くパルスィの肩に手を当てると、深緑の瞳と正面から向き合った。

 「さ、落ち着いて話して。あんたん所の……えーっと、シロだっけ?」
 「……タロよ。間違えないで」
 「ああ、そう、その子。それがどうしたって?」

 二人が言い争っている内に少し落ち着いてきたのだろうか。
今にも爆発しそうだった雰囲気は収まり、痛々しい涙の痕だけが残っている。

 「……私達、いつものように飲み会を開いていたの。そしたらあの子が眠そうだったから、一旦家に送ったのよ」

 彼女の口から語られた事は、そう多くも無かった。
一度家に帰ったものの、まだ夜半にもなっていなかった時間帯。
永江衣玖が一緒に居たと言う事実は二人を僅かに驚かせたが、それだけである。
飲み直そうとパルスィは再び家を開け、後はしこたま、地上であれば夜が明ける時間まで飲み明かし……あの、地震が起きた。
一瞬で酔いが醒め自宅に駆け戻ったが、幸いにして家屋は無事だったものの……

 「家はもぬけの殻だったって訳ね」
 「そうよ。寝ている筈のタロも、あの子に付き従ってる犬のジロも居なかったの」
 「ふぅん……」

 もっともらしく相槌を打つ霊夢を、藍が胡乱な目で見つめる。

 「なぁ、霊夢。お前の事を疑う訳じゃないが、やはり私達に何が出来るんだ?
  とりあえず話を聞くだけ聞いてついでに探す、と言うのが一番現実的だと思うのだが……」
 「まぁ、待ちなさいよ。私にだって分かってないんだから」

 それこそ、過程をすっ飛ばして結論だけ持ってくる弊害であった。
嫌そうな顔をする狐から目を逸し、霊夢はただただ勘を研ぎ澄ましていく。

 「……そういえば、あんたのお友達は? ついでに衣玖も」
 「手分けして探してるわ。ヤマメと、後、一応星熊様にも相談はしてあるけど……あまり期待は出来ないわね」

 悔し気に唇を噛みしめる橋姫を見るに、嫉妬するだけの余裕もなんとか持ち直せたようだ。
勇儀が忙しいのは、火消しの為に家を崩したり何だりしているからだろう。

 「一つ聞きたいんだけど。あんたが帰ってきた時って、扉は閉まってたの?」
 「扉?」

 何故そんな事をと言わんばかりの表情をされるが、霊夢は「いいから」と先を促した。

 「ハッキリとは覚えてないけど、確か……
  そう、家に入る前に何となく異常に気付いた位だから、開いてた筈よ。
  地震のせいで建て付けが悪くなって、戸を開けるのに億劫したわ」

 結局一度外してそのまま立てかけてあるとパルスィが言うと、霊夢の瞳がパッと見開いた。
せめてもの気休めに、と妖気で護符を作っていた藍が目を瞬く。

 「何か分かったのか?」
 「えぇ、とりあえず三つ。
  一つは、この二人……一人と一匹か? が家を出たのは、地震が起きる前って事。
  もう一つは、少なくとも戸を使って出入りしたのは、犬公が最後って事」
 「……成る程、確かにそうなるか。私からも聞くが、その犬はただのペットではなく介助犬だったのだよな?」
 「……ええそうよ。私にも分かるように説明しなさいよ、妬ましいわね……」

 緑の瞳に、俄に光が灯る。今にも突き刺しそうな剣幕を、霊夢は手を降って躱した。

 「簡単な事よ。先ず、地震で建て付けが悪くなったんでしょ?
  つまり最後に戸が開いたのは地震が起こる前だったってだけの話よ。まぁあんたの記憶が正しければだけど」
 「……確かにそうね。戸を外した事位、ちゃんと覚えてるわよ。大変だったし」
 「次に、"戸は開いてた"けど"人が通るのには億劫程度の開き方だった"ってトコね。
  一応聞くけど、引き戸よね? ……うん。だから考えられるのは、『閉められた戸を犬がこじ開けて出て行った』の。
  ひょっとしたら子供の体格ならその後でも通れるのかも知れないけど、そんな事する必要が感じられないわ。

  つまりあんたの所の子供が行方を眩ませたのは、それより前ね。
  と言う事は確定で地震が起きる前だから、其処からもう一つの分かった事。
  『タロとか言う子は、地震でビックリして慌ててあんたを探しに出かけた訳じゃない』」
 「……そっ、か」

 恐らく犬は、居なくなったご主人様を探しに出たのだろう、と藍が補足する。
しかし声は途中から、パルスィの耳には届かなくなっていた。パルスィは俯いたまま、段々とジリジリとした圧力を増している。

 「あの子は……タロは殆どの場合、ジロと連れ立ってしか出かけないわ。
  目が弱いのが分かってるから……幾ら鼻と耳でカバー出来ると言っても、限度があるもの。
  ちょっと水を汲みに行くのだって、必ず一緒に出かけてる」
 「そう。なら、分かった事もう一つ……いや、二つね」

 三白眼気味の目を吊り上げて霊夢は指を立てる。これで片手の指は全て開かれ、藍の口元で牙がぎらりと光った。

 「どうしてもジロを連れずに行く必要が有ったのでなければ、必ず其処には『誰かの介入が有った』。
  そして最後に……やっぱり『私の勘は、異変の黒幕を探す時に一番強く働く』。
  これはもう、只の昇神異変の続きなんかじゃない」

 異変、という単語を口に出した時、霊夢は自分の中でスイッチが切り替わるのをハッキリと感じた。
集中は研ぎ澄まされ、目に迷いの色は最早無い。鴉色の瞳孔が、キュッと縮んだ。

 「行くわよ、藍。私達が真に知るべき相手は、間違いなくこの"道"の先に居る!」

 ◆

 地底町外れ、深い地割れの下。
ほんの僅かとは言え、上を見上げれば地上の光が見える岩のクレバス。
崩れ落ちた跡に目新しさすら感じるそこで、ガタガタと一つの岩が動いた。
生き物の気配すらしないその場所に、果たして何が現れようと言うのか? ……その答えは、直に出る。

 ガコン!

 「うひゃっ、眩しい」
 「うー、ちょっと広い所に出た?」

 サッカーボールを平たく押しつぶした程度の大きさの石が一つ下へと落下していき、その隙間から黒い猫と鴉が現れた。
二匹は流暢な言葉でお互いの無事を祝いあうと、キョロキョロと辺りを見回し、ホッと息を吐く。

 「流石に狭いから上がってこないのかな、さっきの奴は」
 「全く、不意打ちなんてされなきゃ、わたしが焼きつくしてやったのに」
 「あんまり気落ちするんじゃないよ。怨霊の塊に逃げ道塞がれて、無事に脱出できただけでも良しとしようじゃないか」

 そう、かく言う二匹――お空とお燐――は地震が起こった時、丁度旧灼熱地獄跡から地霊殿へと戻る途中だったのだ。
その途中で噴出する怨霊塊に喰われかけ、慌てて動物の姿に化け小さな横穴へと潜って行ったのである。
かつては、地獄に通る何かしらの通り道として使われていたのだろうか?
小動物の姿でやっと入れる大きさの横道は、意外なほどにしっかりと奥まで繋がっていた。

 「それで、此処は何処なのかな?」
 「分からない。でも、なんだか焦げ臭いねぇ。随分と嫌な予感がするよ」

 髭をぴくぴくと揺らしながら、黒猫の姿となったお燐は言う。

 「急いで上に上がろう。なにか分かるかも知れない」

 お燐とお空は、小回りが効く動物の姿のまま岩肌を飛び上がり人間が通れる大きさの横穴へと向かっていく。
なぜ其処を選んだかと言えば、其処は最近まで人が通っていた跡が有ったからだ。
今や道の先は断崖絶壁だが、亀裂が進行する前は何かしらの空間が有ったのかも知れない。

 「こっちだ」

 微かに残る足跡を確かめながら、二匹は段々と広くなっていく道へ駆け戻る。
途中まで来れば、お空やお燐にも分かる地形へとなって行った。幸いな事に、そこまで街と離れては居なかったらしい。
しかし普段ならどこか安心する筈のシチュエーションは、崩れた家屋や甲高い悲鳴で台無しとなっていた。

 「う~……すっごい嫌な感じ……」
 「……あぁ、あたいもだ」

 上空で渦を巻く怨霊が入り混じった煙を見ながら、お空は不快感を露わにする。
野生の勘、とでも言うべきだろうか。ゲタゲタ笑う人骨の顔が映しだされる天に、本能的な場所が警鐘を鳴らす。
街からは怒声や轟音が絶えず鳴り響き、赤く舐めるような炎と黒い煙が幾筋も天井に向かって上がっていく。
一際目立つのは、最早筋ではなく奔流とでも言った方が良い程に黒い塊を吐き出している地霊殿だろう。
帰るべき家の無残な姿を見、お空の翼に力が篭った。

 「ダメだよ、お空! ……何か、何か危険だ。それに、あたいを置いてく気なの?」
 「……、……うん、分かった。いや分かんないけど、お燐の言う事聞くよ」

 わたしが下手に考えるよりそっちの方が良いよね、とはにかみお空は笑う。
お燐がほっと胸を撫で下ろすと、街の表通りから外れるように、見覚えの有る羽衣姿が顔を覗かせた。

 「燐さん、空さん? ……良かった、御無事でしたか」
 「あれ、えーと……えーと……」
 「永江さん! 永江衣玖さんだよ、ホラ。旧灼熱地獄が凍っちまった時に会っただろう?」
 「あぁ!……あぁ~?」

 お燐に指摘され、お空が一度分かったような顔をして、やはり首を傾げる。
衣玖が苦笑しながら「まぁ、燐さんが居るなら問題無いでしょうけど」と二人の側に屈み込むと、少し息を潜めた声で喋り出した。

 「……あの、白くてムクムクとした……白狼天狗の子を見ませんでしたか? 犬の方でも良いんですが」
 「んー? ごめん、知らないな……何かワケアリなのかい?」
 「いえ、知人の連れ子なのですが。どうやら行方不明らしく……まぁ、成り行きで私も探しているのです」

 流石に見捨てては目覚めも悪いですし、と嘆息する永江衣玖に向かって、お燐が不思議そうに問うた。

 「ただの行方不明ならなんでこんな内緒話をするようにするんだい?
  なんだか、話をするのが良くない事なのかと思っちゃったじゃないか。
  屈んでまで猫に話しかけるのはアンタだって窮屈だろう。取り敢えず人型に戻りたいんだけど……」
 「いえ、そのままで。実際に良くは無いのですよ、貴方達……特にお空さんが喋っている所を見られるのは」
 「ふぇ? わたし?」

 急な話に目を丸くするお空。
より詳しい事を話そうと衣玖が口を開こうとした時、其処につんざくような悲鳴が割り込んで来た。

 「うわぁー! 誰か、誰か助けてくれぇー!」

 三人が声の主に視線を合わせるのと、声の主が地獄鴉の鋭い嘴に額を割られるのはほぼ同時であった。
恐らく何かの妖怪で有っただろう青年は、十数匹の鴉の群れに襲われて、今やその屍肉を貪られる立場へと変わっている。

 「なに、あれ」
 「……こちらへ」

 茫然とする二匹を永江衣玖は素早い動きで拾い上げると、安々とは視認されにくい路地裏へと潜り込む。

 「一応聞いておきますが……あの、地獄鴉の行動は、お空さんや貴女の主が命じた事では有りませんね?」
 「な、なに言ってるの。当たり前じゃない! わたし、異変の時以外カラスにお願いした事なんて無いよ。
  灼熱地獄が寒くなった時でさえ、街に飛び出して誰かを襲ったりなんかしなかったのに……」
 「……ではやはり……彼等は取り憑かれたのでしょうね、怨霊に」

 衣玖は悲しそうに目を伏せて、そう結論付けた。
確かに、旧灼熱地獄跡には相当数の地獄鴉が住んでいた。それらの全てがお空達のように逃げ果せたとはとても思えず、取り殺された亡骸に霊が取り付いたとしても、何もおかしくは無い。

 「……でも、あんな風になるなんて」

 一段特別な存在になったとは言え、仲間意識まで消えきった訳では無いのだろう。
ショックを隠しきれない様子の空に、衣玖は更に追い打ちをかける。

 「……悪い事はそれだけでは無いのです。彼等の行動、そして怨霊の溢れ出した地霊殿の姿を見て、
  既に地底の街には『地霊殿の主がついに地底の街に対して攻撃を仕掛けてきた』と言う噂が流れています」
 「そんな!」

 沈痛な顔で語られる言葉に、今度はお燐が強く衝撃を受ける番であった。
確かに、未だ多くの住人から主で有るさとりが快く想われていない事は知っている。
しかし、自分達だって地底の街の顔馴染みなのに。

 「家を失った理不尽。友人や自身を傷つけられた理不尽。……その怒りの矛先が、向きやすい所に向いてしまったのですよ。
  故に、貴方達の姿はなるべく見られない方が良い。この街の住人の多くは冷静さを失っています」
 「い、急がないと! それじゃあ、さとり様が危ないんじゃ。
  死霊蔓延る地霊殿に居ても大変なのに、ま、街の奴等に襲われるなんて! ……あいた!」

 浮足立って今にも駆け出しそうなお燐の背を、お空が翼ではたいた。
恨めしげに「何をするんだ、お空!」と小声で睨みつけるお燐を、お空の目が覗き込む。

 「……ダメだよ、お燐。落ち着こう。さとり様を信じなきゃダメだ」
 「何言ってんだよ、落ち着いてる場合かよ、さとり様の身が危険かも知れないんだぞ!?」
 「お燐!」

 珍しく強く言い含めるようなお空の声に、思わず身を竦める。
お空の赤い瞳の奥に、どこか神々しい、温かみさえ感じる金の光が揺らめいていた。

 「信じるんだ。さとり様だって、ちゃんとした妖怪なんだ。
  勿論危険は有るかも知れないけど、それを避ける事だって出来る。
  私達はさとり様を信じて、別の所へ行こう。『それ』が出来るのは、私達だけなのかも知れないんだ」
 「お、空……?」
 「煙だ。この、穢れが混じった、ドス黒い煙を外に出さなくちゃ、街全体が……勿論さとり様だって危ないんじゃないかな。
  だから、私達はそれをしにいこう。私の力さえあれば、核管理センターを動かせた筈」
 「あ、ああ……分かった……」

 雰囲気に飲まれお燐がコクコクと頷くと、眼の奥で輝いていた金色の光がフッと消える。
何となく違和感を感じたのか、お空は小首を傾げ衣玖の方を向く。

 「あの……おねーさんも付いてきて貰っていい?」
 「え、ええ……そうですね。パルスィさんには悪いですが、私も街では良く無い空気を感じますし……――ッ!
  皆さん、隠れて!」

 言うやいなや、息を潜め周囲の様子を探る衣玖に、お燐とお空もスカートに潜り込んで口を塞いだ。

 カァー! カァー! カァー!
 ケェーー!

 家を二つ挟んだ先の路地で、地獄鴉達が死体を貪るのを止めけたたましく騒ぎ出す。
しかしその声も、地を震わせるような咆哮にすぐにかき消された。


 ――GRRRRRRRRRRRR!!


 カァー! カァ、ゲッ……

 警戒音を響かせていた地獄鴉の一匹から、喉ごと潰れたような断末魔が聞こえ、ガシャンパリンと物音が響く。
やがてそれは骨ごと噛み砕くような破砕音に変化して、ついには何も聞こえなくなった。

 「……終わった……?」

 口の中だけで衣玖がそう呟いた時、通りの方へ向けた視界の端を影がザッと過ぎ去っていく。
鉄の混じった赤を飛び散らしながら消え去った白い影に、衣玖は眉根を寄せる。

 「うにゅ……、怖かったよ。いったい何だったの?」
 「怖かったって……お世辞抜きに、妖怪の格としては貴方達の方が上なのでは?」
 「ううん、多分そうなんだけどね? それとは別の、なんて言うか、相性かなー……そう言うのがね」
 「ふむ……」

 あまり事を荒げたく無い故に身を潜めたが、其処まで恐怖を覚えるような力では無かった筈だ、と衣玖は思考する。
だとすれば違うのは、二人と自分の間に存在する妖怪としての性質か。

 「とにかく、余りぼやぼやしていると本当にボヤでは済まなくなってしまうので……
  あまり街の中心を歩かないように、進むとしましょうか」
 「……おねーさん、冗談飛ばすなら時と場合を考えてよ……」
 「これは失礼。余り暗くなりすぎるのも好みでは有りませんので」

 そうして三人……正確には一人と二匹は目的地へと向かい出す。
飛び散った血の跡が、同じ道の先へと伸びているのを視界の端に留めながら……。


 ◆


 『せーいの!』
 「「「せーいの!」」」
 『よいしょおー!』
 「「「よいしょおー!」」」
 『せーいの!』
 「「「せーいの!」」」
 『よいしょおー!』
 「「「よいしょおー!」」」

 鬼の星熊勇儀が出す威勢のいい掛け声に合わせて、幾人もの鬼が一斉に木槌を柱へと打ち込む。
若いとは言え、流石に鬼の膂力。頑丈な家の柱もあっという間にその身をへし折り、悲鳴を上げはじめる。

 「よーし! 倒れるぞー!」

 それを見計らい、勇儀は破壊活動に勤しんでいた鬼達を巻き込まれないように引き上げさせた。
と、言ってもこれはどさくさに紛れた火事場泥棒等の犯罪ではない。火の近くの燃えやすい家を撤去する、立派な消火活動である。
現に自重に負けた家屋は見事燃え盛る隣家と反対方向に倒れ、一同に安堵の息を吐かせた。

 「ほら、休んでる暇は無いよ! 瓦礫に燃え移っちまったら結局意味無いんだ!」

 どこか気の抜けたような顔をする若い鬼の衆を、声と胸を弾けさせ叱咤する。
勿論勇儀が行えば破壊自体はもっとスムーズに行われるのだが、家屋の瓦礫を狙い通りに誘導するには、点より面の、それもなるべく同じ程度の力が必要になる。
いくら鬼と言えど、勇儀の破壊力に付いていける物はそうそう居ない。結局指示役は必要なのだし、ならばこうして監督をしている方が有意義というものだ。

 「ほ、星熊様ぁ! 燃える家の中から鳴き声が聞こえるんです! 恐らく、子供が火の中に!」

 助けを呼ぶ為に走り廻ってきたのだろう。薄めの頭髪をじっとりと汗で湿らせ、やや年老いた風貌の男が道の角から現れて、勇儀の足元に縋り付く。

 「落ち着きな、今助けにいってやる。火の元は何処さね!?」

 それは三つ隣の角であった。鬼の四天王とも呼ばれる星熊勇儀であれば、火事如きの炎で怯みはしない。
勇儀は一も二も無く頷くと、この場で一番経験の有る鬼に指示役を引き継ぎ駆け出して行く。

 「水をよこしな!」

 しかし大多数の妖怪に取っては、長時間火に焼かれる事は致命的だ。
傷や火傷よりも、その痛みによる精神的ダメージが大きい。火と言う物はただそれだけで畏れるべき物なのだ。
幸い、子供が取り残されたという家は、未だ全てに火が回った状態では無さそうだった。手渡された桶をひっくり返し頭から被ると、勇儀は黒煙を吐き出す家の中へ乗り込んでいく。

 ――えぇぇん、えぇぇん、えぇぇん。

 バチバチと焼け焦げる音のせいで聞こえ辛いが、確かに子の泣く声が聞こえる。少しだが、肉の焦げる臭いも。
玄関口には既に火が回っているようだ。炎に臆すること無く燃える襖戸を開け、勇儀は目を見開いた。





 ……ぼたり。大粒の汗が一つ、額に貼り付いた前髪を伝って垂れてくる。
真犯人、とでも言うべき存在を掴むと意気込んだは良い物の、段々と真綿で首を締められていくような感覚に、意気込みが削り取られていく。

 「ハァッ……ハァッ……ハァーッ……」

 飛翔が主とは言えガッツには自信がある方なのに、路を一つ二つ駆けるだけで霊夢の息は上がり、体中を汗で濡らしていた。

 「……おい霊夢、やはり一度水を呑め! このままではお前の身体が保たないぞ!」

 ぼてぼてと遅れるようになった霊夢を気遣い、藍は足を止める。パルスィも不服そうな顔をしているが、霊夢が居なくては何処に行きようも無い事は理解しているのだろう。
竹筒に口を当て喉を鳴らす霊夢を、緑色の瞳でじっと眺めていた。

 「……くそっ! 博麗の巫女ともあろうものが、不甲斐ないわね……」
 「仕方有るまい。炎で空気が熱せられ、この気温だ。正直私ですら正装の導師服が暑苦しくて叶わん。
  おまけに燃焼は周囲の酸素まで奪っていく。密閉空間では段々と空気が薄くなっていくような物だろう。
  ……紫様のお力を借りれれば、もう少しカバーしてやれるんだが」

 つまり、最悪熱中症と酸欠のダブルパンチに掛かる可能性が有るという事。
かろうじて動かしていた足を止めてしまったせいでその場にへたり込む巫女に対し、藍は袖から白紙の符と筆を取り出すと、何事かをサラサラと書き写した。

 「……何、書いてんのよ……」
 「身体の熱を奪う札だ。呪術は細かい制御に向かず危険だからな、あまり頼りたくは無かったが」
 「便利な特技有るんじゃない……それ、私にもよこしなさいよ……妬ましい」
 「本当に危険なんだ。下手すると凍死の危険が有る」
 「……やっぱいい」

 流石の橋姫も、段々と上がっていく気温は不快なのだろう。霊夢程では無いが少し疲れた表情で嫉妬する様子を見せる。
藍の体感では有るが、地底の気温は四十度近くへ迫っていた。既に人間が活動し続けるには少々危険な温度である。
忌みし力では在る物の、蒸し焼きになって死ぬよりはずっと良いはずだ。
現に背中にペタリと貼り付けてやると、辛そうだった霊夢の顔色も少し良くなった。

 「……もう少し身体を休めろ。橋姫には悪いが、お前に"向かう意思が有る"限り何時かはたどり着けるのだ。
  どちらの身が大切かと聞かれれば、答えるまでも無い」
 「ブレないわね……まぁ、いいわ……今はあまり、妬む気力も無いの」

 そうは言いながらもガリガリと爪を噛むパルスィを、藍は気味が悪そうに横目で見る。
幸い、此処は火元からは少し離れた位置で有る。偶に吹く風は涼しくも何とも無かったが、乾いては居たので汗を乾かすには役に立った。

 そして、少しの時間が経過した。霊夢が竹筒の水を飲み干し、再び藍に投げ渡す。
それに藍が周りに感付かれないようこっそりと術で編み出した水を注ぎ直した、そんな時で有った。


 「パールスィ! パルスィ! 返事をしておくれ!」


 一つ通りを隔てた向こうから、叫ぶような声が聞こえた。
それが確かに連れの橋姫を呼ぶ声だと分かると、霊夢がパルスィに視線を向ける。

 「……あんた、呼ばれてるわよ」
 「悪いんだけど、代わりに返事してくれない? ホラ、大きい声が出る気がしないのよ」

 ガラガラにひび割れた喉は未だに砂塵のような声を響かせていて、近くにいても聞き取り辛い。
霊夢も其処まで体力が回復しきっている訳では無いので、藍に頼もうかと思った矢先、次の声が響いた。

 「パルスィー!? パルスィ、何処だー!?」
 「……ん、なによもう、尋常じゃないわね」
 「パルスィ! ……ああ、良かった、居たよ……」
 「居たって……もしかして、あの子が居たの!? ッ、ごほっ、ごほっ」

大きな声が出る気がしないと言うのは何処に行ったのだろうか。思い切り咳き込んでいる所を見ると、やはり少し無理をしたのだろうが。

 「あーあー……ほら、水を呑め」

 何だかんだ言いつつも世話人体質が抜けていない九尾の狐が、むせる橋姫に水を含ませる。
緑色の眼光に貫かれ、ややのけぞるように顎を引く闖入者は、やがてふるふると首を振った。

 「……ごめん、タロが見つかった訳じゃないんだ。それにあんまり良いニュースじゃ無いかも知れない……
  それにしても、霊夢じゃないか。どうしたんだい、パルスィと一緒だなんて」
 「……別に。そうした方がいいと思っただけよ」

 分かっては居たが、やはり当の人物は黒谷ヤマメであった。
生来のお調子者である彼女も流石に表情を引き締めると、一同を先導するように大きく手振りをする。

 「何にせよ、早く見てもらう方が先決だ。私だけじゃ判断つかなくて……とにかく、大変なんだよ!」


 ◆


 ……畳が、朱に染まっていた。
ヤマメに引っ張られるように連れて来られた屋内で、水橋パルスィは呆然とその光景を眺めていた。
赤黒くなり始めたばかりの液体はそれがばら撒かれてから一拍置いた時点である事を示し、ようよう黒く成り行くさまは、正しくこれから先を示しているようで人を恐ろしくさせる。
パチパチと未だ燻る火の粉が僅かに赤橙色に照らし、地面に長い影を創り出した。

 「……ジロ」

 物言わぬ躯となった愛犬の名が、吐き気に押し出されるようにして唇から漏れ出た。
幼年で在った頃に白狼の娘と共に拾ってから、十余年。妖怪でも無い只の犬にしては、よく生きた方だと言えるだろうか。
大往生で在ったと、言えるだろうか。


 こんな。
首から上を丸ごと切り落とされて、真っ白な腸(はら)にたっぷりの野菜と菓子を詰め込まれ。
端々の焦げた白いナプキンを血で汚し、聖夜に食卓に上る七面鳥の如き有り様と成ってなお「立派な生涯で在った」等と――!


 「何、よ。これは」

 異変と幻想のエキスパートで在る博麗の巫女をもってしても、その凄惨極まる発見現場に戦慄を禁じ得ない。
こぼれ落ちた腸は丸のまま差し込まれた人参に絡み付き、橙の残り火にちろちろと照らされ浅黒く変色している。
文字通り"食い散らかされた"跡でさえ、これ程の生理的嫌悪感は感じぬであろう。
きっちりと計算された演出の上で有りながら、全く意味が分からない薄気味悪さ。これぞ狂気とでも言うべき惨状が、何故か。

 「……この現場を発見した者は?」
 唯一冷静さを保った風体で、八雲藍が周囲に問いかける。
赤い星の付いた一本角の立派な体格をした鬼が、少し憔悴した面持ちで野次馬を掻き分けた。

 「……私だよ」
 「星熊殿か。いや失礼、疑ったつもりでは無いのだがな。正直、これは……何から手を付ければいいのか」
 「あぁ、そうだろう。私とて、顔を知っていたとは言え……たかが獣の死体で、どうしてこうも気味が悪く成るのか」

 鳥や魚、家畜だって死ねば肉と成るのは間違っていない筈なのに。
例え百年来の友人が死んだのを横目でじっと見た時でさえ、ここまで吐き気はしなかっただろうと勇儀は言う。
戦って死ぬなら誇りがある。喰われて死ぬなら意味がある。
この一匹の犬の死に、果たして何の意味が有ったのか。何も理解が及ばないからこそ、妖怪達は精神的に汚された気分になるのだ。

 「その……初めて見つけた時の、状況は」
 「……火事になった家から子供の泣き声がすると聞いて、一も二も無く飛び込んだんだ。
  そんくらいの火なら、私は何とも無いからね。それに、本当に子供が居たら放って置く訳にもいかん」
 「そうしたら、この状態だった、と……その、泣いていたと言う子供は?」
 「確かに声は聞いたはずなのに、綺麗サッパリ何処にも居ないんだ。ただ、そいつの……ジロの死体だけが置いてあった」

 手振りも交えて勇儀は証言する。勇儀に子供の泣き声を伝えたと言う妖怪も出てきて、――最初から疑ってなかったとは言え――自作自演だという可能性は九割九分在り得ないだろうと結論付けた。

 「いくら探しても泣いていた筈の子供が見つからないってんで、私まで呼ばれたのさ。
  火を消して、霧に成ってそこら中を探しても子供は見つからなかった。
  その内、余りに死に方が変ってんで野次馬が集まってきて……。その中に土蜘蛛が居て、橋姫を呼びに言った」
 「そうしたら、ついでに私達まで来たと言う事か……」

 勇儀の隣、煤で汚れた頬を擦って、萃香が肩を竦める。
早い再会を喜ぶような間柄でも無く、単に藍は目を伏せた。

 「……その時、血はもうぶち撒けられてた?」

 一瞬の混乱状態から自分を立て直した霊夢が、死体の側に跪く。
血の跡を指で擦れば、未だヌラリと艶を残していた。腹の中はもうしっかりと乾き切っているにも関わらず。

 「火事になる位高温で乾き切った空気にさらされていた筈なのに、血が乾いてない。
  きっと、誰かが後からやったのよ。……萃香が散々探し廻った後、多分、犯人がね」
 「なんだい、そりゃあ。そんな事して何の得に成るんだい」
 「其処までは知らないわよ。ただ、派手にしたかったか……或いは単に、アレを書いた余りを何も考えず処分したのか」

 指差す霊夢の先には、所々が焦げた漆喰の壁にでかでかと存在感を示す物があった。


 【ワンちゃんは『どうぶつえん』に!】


 乾き切っていなかった塗料が滴り、赤黒く変色した所々が掠れているが、それでも大きく書かれているだけ有って読み取るのに苦労はしない。
それこそ、人垣の向こうからでも楽にその内容を知る事が出来る程に。
そして、そのような野次馬達にとって、『動物園』とはある一つの逸話だけを指すのだ。

 ――『動物園』?
 ――『動物園』と言えば、あの妖怪の。
 ――じゃあ、やっぱり、これをやったのも……

 「馬鹿げた落書きだ!」

 ざわざわと騒ぎ出す声を静めるように、藍は大仰な手振りで宣言する。

 「ああ、馬鹿げた落書きだとも。死体を使った、悪趣味に演出されただけの! 不愉快な悪戯だ!」

 その言葉は隣の霊夢に掛けた物では有る、が、わざとらしく言って聴かせるような口ぶりでもあった。

 「大体、いくら鬼とは言えこの非常時に四六時中見張っていた訳じゃないだろう。悪戯小僧の入り込む隙なら幾らでもあった」
 「……ただの悪戯だって?」

 人好きのする笑顔を常に浮かべている彼女にしては珍しく、ムッと眉を寄せた表情でヤマメが呟く。

 「そんな訳が無いだろ! まだあの子が見つかっていないんだ。ああ、この言葉が示すのはタロの事かも、むがっ」
 「そんな事は分かっている!」

 声を出そうとした矢先に九本の尻尾に絡め取られ、ヤマメはあっという間に藍の口元まで寄せられた。
周りに聞こえないように怒鳴ると言う器用な真似をしながら、藍は血文字の描かれた壁を強く叩きつける。

 「しかし今お前達がそんな事を言い出せば、疑われるのは覚り妖怪なんだぞ。
  それとも、本気であの妖怪がやったと思っているのか!」
 「そ、そう言う訳じゃ無いけど……」
 「いいか、地底の奴等を変に刺激するなよ。
  私が嫌われるだけならともかく、覚り妖怪にはこれからも地底に居て貰う必要が有るんだ」

 苛立たしげに目を吊り上げる藍の剣幕に押され、ヤマメはすごすごと口を尖らせた。
しかし、正論は広がりかけた心の溝をじくじくと切り広げる刃のようでも在る。

 ――なんだよ、他人を道具のように。

 それはせぬ大妖の一角で有りながらその身を「式」と言う道具に貶めた彼女には、皮肉めいた言葉だろう。
そんなヤマメの胸中には一見もくれず、藍は藍で冷たく荒れた思考の海に潜り込んでいた。

 「でも、これで少なくともカミでは無い何者かの意図が絡んできてる事は分かった。
  おまけに、ご丁寧にメッセージまで残して。慰めに成るとは思えないけど……くそったれ、ね。」

 軽く手を合わせ、拝んでから霊夢は立ち上がる。その際気丈な心に不調を隠すようにして、一度強く目を瞑り、息を吐いた。

 「問題は」

 九尾がしなやかに揺れる。たったその動作一つだけで、八雲藍は全員の注目を己の元に集める。

 「我々が……いいや、相手を最大限に評価すれば、あるいは紫様までもが後手に回っている、と言う事だ。
  状況から考えて、恐らく相手の狙いの一つは『古明地さとりを追い落とす事』で有るのは間違いないだろう。
  しかし其処から先が全く見えてこない……わざわざ相手の誘導に乗り、わざとらしく残されたメッセージを見ても、だ!」

 瞳孔に光が入ったのか目を細める霊夢に、藍はつかつかと歩み寄ると影を落とした。
そして煩わし気に顔を上げる博麗の巫女へと、逆光気味に顔を傾け言葉を紡ぐ。

 「あえて言うぞ。……これだけか? これっぽっちの事実の為に、私達は『今出来る事』を後回しにしたのか?」

 しかして、霊夢の視線は揺るがなかった。迷いの無い表情で藍と向き合い、暫くの間視線をぶつけ合っていた。

 「……萃香、あんたが火を消した後、私達が来るまでにどの位あったの」
 「え? あ、おう……そうさな、そんなには経って無い筈だが」
 「勇儀、その間ここにはずっと誰か人は居た?」
 「……あぁ、私らがずっと張り付いて居られた訳じゃないが……これだけ奇妙な死体だと、結構野次馬もねぇ」

 二人の鬼の言葉に、九尾の狐はフンと鼻を鳴らした。
藍からすれば、これ程の非常事態の最中野次馬をしているだけの人物など、己は木偶だと宣言しているような物である。
勿論、不安に駆られただ人が多い所に自然と寄り集まっただけかも知れない。
それでも消火の手伝いに加わる等、手が足りない仕事は幾らでも有るだろうにそれを放って置く。非効率極まりない。

 大概の者が、そうだった。誇りだ等と嘯き大切にして置きながら、いざ局面に立ってみれば自ら働こうとしない。
実に腐らせやすくて結構な事だ、と一介の女狐として動き回っていた日々を思い出す。そういう連中は、正しく餌で有った。
故に、式が剥がれた今でも彼女は紫を主と仰ぐのだ。大妖怪として在りつつも、裏では常に手を汚している八雲紫を尊敬している。
面子だ何だと言い訳をし、その場で腐りゆく者を心の中で蔑みながら。

 「そう……だから……」

 頭のスイッチを切り替え、藍はブツブツと呟く霊夢に目を向ける。
後頭部をガリガリ引っ掻くその様子は、何かが喉元にまでせり上がって来ているようでも有った。

 「只の妖怪に……出来るわけが無いのよ……こんな事が。
  だって、誰かが見てたんだもの。全員じゃなくても、これだけ人数が居れば……誰かが気付く」
 「鬼の勘違いだ、と言う線は? ……いや、無いか。証言だけでは無く、生乾きの血液という物証が有る」
 「そう、だから……仮に、アンノウンXと置きましょう。動機とかアリバイとか無視で、とにかく犯行が"能力的に"可能なのは?」
 「先ず、十六夜咲夜。並び蓬莱山輝夜に、八意永琳、魔術に長けたフランドール・スカーレット……」
 「勿論、八雲紫もね」
 「む」

 しかし、主は当然ながら、他の連中も地底や覚り妖怪と関連してるとは思い難い。
いくら小説より奇なりと言った所で、余りに可能性の少ない話をしていれば当然時間は足りなくなる訳で。

 「すると……封獣ぬえはどうだ? 地底に封じられていた妖怪なのだし、覚り妖怪と何らかの因縁が有った可能性は有る」

 証拠と言える物は何も無いが、消去法で考えるには妥当な所で有ると言える。
しかし霊夢は納得行かない様子で再び顔を俯けると、こめかみを揉むように指を動かした。

 「そうね……やっぱその辺よね……。でもダメ、ぜんっぜんピンと来ないのよ。
  まるで、答えが書かれた硬貨が箪笥の裏側に落ちていっちゃったみたい。どうにかして拾いたいけど手が出ないの」
 「物の……いや、意識の裏側、か。」

 結局は、暗礁に乗り上げてる、と言う事だ。

 「……やはりもう一度、この犬の死体に隠された意味を探るしか無いのか……?」

 溜息混じりに藍が呟き、電球の芯が焼き切れる直前のように、バチリ、と翠の光が瞬いた。


 「…………もう、良いわよ」


 地獄のすり鉢をこぐような低く轟く声で、誰かが言った。
騒々と見回す辺りの視線が、自然、へたり込み顔も上げないままの橋姫へと移って行く。

 「さっきから、何なのよ、貴女達」

 その声は、泣いては居なかった。
ただ怨霊よりももっと妬み、嫉み、憎々しげな色を放ち、空気中を伝播していくだけで。
彼女を中心に何かが色濃く渦巻き、さながら台風のように辺りの空気を吸い込んでいく。

 「誰も彼も、どうでもいい事をピーチクパーチク囀りやがって。
  ええ、悲しくなんて無いでしょう。涙なんか出る筈も無いでしょう。本当、妬ましくって好きになりそうよ」
 「パルスィ」

 星熊勇儀か、黒谷ヤマメか。とにかく誰かが彼女に向かって声をかけた。
それは言うなれば、鋼に振り下ろされる火打石であった。


 「巫山戯んじゃねえぞッ!!
  黙って聞いてりゃあ、人の家族を弄くり回して、好き勝手ッ!!
  誰に出来ない!? 誰なら出来る!? 知ったこっちゃ無い!
  そんな物、何の慰めにもなりゃしないんだからッ!!

  こいつの名前はね、『この犬』なんかじゃ無いの。
  "ジロ"って呼んでやれば、尻尾を振って答えてくれるのよ。
  ええ、そりゃあ寝ずに悩んでつけたような名前じゃないわ、悪い!?
  そうね、貴女ならもっと素敵な名前をお付けに成るでしょうね。
  気まぐれに橋の下で拾ったような子供にも、その慈愛の篭った胸でさぁッ!

  何なのよ、巫山戯んじゃないわよ、働き者で、犬の癖にいっつも自分が守ってやるんだって顔して、
  自分の事タロのお兄ちゃんか何かと勘違いしてるんじゃないかって、妖怪でもない奴がさぁ!
  そんな姿も知らない癖に! 分からない癖に! ドヤ顔で誰かの死に様解説してんじゃ無いわよぉッ!!」

 炭色の空間に、緑の焔が吹き荒れる。ギラギラとした液体が血涙のようにこぼれ落ちて、翡翠色の泥溜まりを作った。

 「……何でよ……何でこんな、訳の分からない殺され方してるのよ……?
  答えてよ。ねぇ、自分は特別ですって顔してさぁ、犯人が分かったらあの子は無事で戻ってくるのかよぉ!
  どうして私の家族が、こんな目に合わなきゃいけないのよ……
  分かってる、分かってるの……何が何だか、私、もう……」

 亡骸の側で蹲り、涙を流す彼女は。
水橋パルスィは、結局の所、どうしようもなく嫉妬の妖怪で在った。
永い時を生きながら、物差しから外れた存在で在りながら。他人を測り、自分と比べ、一つ一つ嫉妬をする程の想いが在った。

 ……嫉妬する程に他人に感情移入をする力がなければ。
他の妖怪達のように、命に対して擦り切れていく事が出来ていれば。
別れの度に身を千切られるような思いをしなくても、済んだかも知れないけれど――

 「…………名前……私が付けたの……私が、付けたのよ……」

 カンカンに燃えた後には、白い灰が残る。
灰かぶりの橋姫が抱き上げた骸から、パラパラと砂が落ち、直ぐに水を吸い込んで塊と成った。

 「土?」

 また、誰かが声を上げた。赤い巫女服に髪を大きなフリルリボンで括り、黒い眼(まなこ)を閃きに縮こまらせて居た。


 「――――ッ

  出て行け!
  出て行けッ!
  出て行けぇぇ!!」


 狂ったように声を張り上げる橋姫から、殺意すら滲んだ弾幕が発射され辺りを破砕する。
彼女の感情の大きさを示すように翡翠色に輝く弾幕は、鬼や結界に阻まれて誰かに傷痕を残す事は無かったが、彼女の友人以外の全てをこの場から立ち退かせる事には成功していた。


 ……


 「……ねぇ」

 騒々しく群衆が取り巻いて居た状況から一転し、静寂が包み込む小屋の中で、パルスィは己を羽交い絞めする友人に向かい囁く。
その姿は、磔にされた聖者のようでも在った。色彩の無い目を虚ろに向けて、肩から上の力をだらりと抜いていた。

 「何かさ、歌ってよ。何もかも、馬鹿らしく成る位に」
 「……な、何言ってんだよ。私だって、こんな時に……空気くらい読むよ」
 「そう」

 ギョッとするヤマメの腕を振り払い、パルスィは再び座り込んだ。

 「……じゃあ、良いわ…………貴女も、どこかに行って。消えてよ」

 最後まで残った友人に視線を向ける事すらせず、ほんの数刻前まで家族で在った物の、白い毛皮に付いた汚れを、パルスィはちくちくと取り除いていった。
ヤマメは多少ショックを受けたようで有ったが、立ち尽くす内にやがて圧力に負け、足を引きずりその場を去る。

 そして、彼女は独りと成った。


 ◆


 デコボコとした岩が露出した地面が、慌ただしく猫車を蹴り上げる。
ガツンと跳ねた荷台の上で、龍魚の羽衣を纏った女がキリリと折り目正しく体育座りをしていた。

 「キてますねー……これはかなりキてます、あっ、光った。あれはフィクストスターですかね?
  違うなぁ、フィクストスターはもっと、パァーっと光るもんなぁ……」
 「永江さん! もうちょい真面目にやっとくれッ!」
 「はいはい……あ、お空さんちょっと撃ち漏らしましたね。迎撃するのでしばらく直進でお願いします」
 「出来る限りねッ!」

 数秒後、稲光が輝いて背後から幾ばくかの断末魔が聞こえて来る。
羽音は、未だ地を疾る二人を取り巻きつつ上空で輪を描く。
時折爆音と焼け焦げた死体が落ちて来るのを踏みつけないようにお燐は駆けた。
人化しているのは、ここ迄くれば誰かに見られる心配も無いだろうと言う事と、本気で急ぐならその方が早いと言う理由がある。
そして本気を出した二人の走りをのたくさと追いかけていた天女は、今はこうして死体専用だった筈の荷台で固定砲台と相成っている訳だ。

 「クリアー。お空さんの方も、まっきんきんに光りながらこっちを追いかけてきてます」

 疾走するお燐の視界の端に橙色のナトリウム灯が尾を描き、辛うじて此処がただの横穴では無い事を告げていた。
そしてその天井付近には、怪しく紫色の目を光らせる地獄鴉が数百匹程。
間欠泉管理センターに向かう三人を見咎めると、何かに操られるかのように続々と集まってきている。

 「こいつら、あたい達をこの先に進ませないようにしているのかい?」
 「恐らくは。密閉空間で存在を圧縮できる地底ならばともかく……
  煙に取り付いたまま地上まで出てしまえば霧散するだけだと気付いてるんでしょうかね」

 左右の腕でバチバチと警戒音を鳴らし、帽子の触覚を油断なく揺らしながら、衣玖は背中合わせの――と、言える程格好良い構図ではないが――燐に向かって、返答する。
三人の中で一番最高速度が出せ、かつ煙にまかれない程の火力を持つお空は、上空で遊撃及び殿である。
衣玖としては、結果的に同類を殺す事になるともう少し渋るかと思ったのだが、案外その辺はドライなようであった。
勿論それは命の優先度に差が有ると言うだけで、全く何も思う所が無い訳では無いのだろうが。

 「しがみついてな、ちょいと跳ねるよ!」

 燐も燐で、もう四半刻の更に半分程を走り続けていると言うのに、息を切らす様子も無い。
大きめの岩を噛んで跳ね上がる車輪と、その度に揺すられる尻たぶの位置を必死にずらしながら、衣玖は感嘆の溜息を吐いた。

 「ところでお燐さん、私は何だかお尻が痛くて切なくなってきたのですが」
 「我慢しな! アンタ遅いんだから」
 「くすん」

 売られていく仔牛でも、もう少し穏やかで在っただろうなぁ、とふと思う。
それもその筈で、仔牛を乗せた馬車はこんな風に岩をも穿つ鴉の嘴に追い立てられたりはしないだろう。

 「だいぶ道がなだらかになって来た。河童の手が入ってるんだ、もう少しでセンター内に入れるはずだよ」
 「そうですか……しかし、ふと思ったのですが」
 「今度はなんだい……また何か、気が抜けるような冗句じゃないだろうね」
 「適度に肩の力を抜くのも戦いですよ。いえ、一つ考えたんですけどね」

 少しだけ視点を振り返ってみれば、その表情は思いの外真剣であった。
視線は前方、やや上を睨みつけるように。手振りで平と平を段々と近づけ、真摯な表情で語る。
目線の先、つまり進行方向の先からまた無数の羽ばたき音が響き始めていた。

 「彼等は私達を追いながら戦う。彼等は行かせたくない場所を守りながら戦う。
  つまり、挟み撃ちという形になるのでは……」
 「……もっと早く言えぇーッ!」





 ……重厚な扉が、音を立てて閉じる。
ガチャリ、と音を立ててかけられた閂は、一時の身の安全と、否応無しの不退転を意味する。
そう、後には引けないのだ。少なくとも相当数の悪霊と煙を地上に排気する事に成る以上、後に何かを言われるかも知れないが。

 「それにしても……やっと一息つけましたね」

 スカートに貼り付いた埃を払い、衣玖はチリチリと帯電する衣の電気を鉄の壁に流した。
三人の左右には先を見通せぬ程の長い廊下が続き、熱源のすぐ近くで有るにも関わらずひんやりとした空気が漂っている。
その隣では、地べたに座り込んだお空の所々解れたリボンをお燐が手慣れた仕草で巻き直していた。
かくいうお燐も、三つ編みが解け癖っ毛が燦々たる有り様に成っては居るが、結い直す時間も惜しいためこちらは二股に軽く纏めるだけで済ませるようだ。

 「まぁ、確かにここまで来れば鴉共は入っちゃこれないだろうけどさ」

 此処に来るまでの苦労も、結局はお空が最も多く受け持っている。
常に敵のまっただ中で同類撃ちを強いられていたお空と、迎撃を衣玖に任せ精々二人分の重量を抱えて逃げ回っていただけの自分では比べるべくも無い、とお燐は思う。
髪を人に任せ気持良さそうに目を細めている親友の姿には、緊張感もへったくれも残っていなかったが。

 「あんまり休んでいる時間も無いんじゃないのかい? 早く済ませて、さとり様も探さなきゃなんだし」
 「逸る気持ちは分かりますが、休める内に休んでおくのも大事です。この先に何も問題は無いとは限らないのですから」

 それは、お燐としても分かっているつもりではあった。
だからこそこうやって、解れた髪だけでも纏めているのだ。弾幕戦のような高速戦闘になった場合、バラバラになった髪はどうしたって気を散らさせる要素となる。

 理屈は解るが納得の行かない顔をしていると、下の方からクゥと腹の鳴る音がした。
あたいじゃ無いぞと見下ろしてみれば、親友の顔が仄かに朱に染まっている。

 「……ほら、お空さんもこのような具合ですし」
 「え、えへへ……」
 「もー、仕方ないな……でもあたい、食べる物なんて持っていませんよ?」
 「あぁ、それならば問題有りません。ここに丁度、こうして持ってきている物が有りますので」

 身を包む羽衣の中に手を入れて、衣玖が取り出したのは瑞々しさの残る生桃で在った。
財布を出すようなノリで取り出された桃を前に、お燐が胡散臭そうに表情を顰める。
秘密ですよ、と言わんばかりに口元に指を当て、衣玖は目を輝かせたお空の膝に桃を置いていく。

 「天界の人って、桃を持ち歩く習慣でもあるんっすか……?」
 「いえ、偶々ですよ。偶々荷物を整理していたら、底の方に眠っているのを見つけたので。
  おおかた、誰かのお土産にしようと思っていたのを忘れていたんでしょうね」
 「……それ、まだ食べれるんです?」
 「なにせ天界の桃ですから。そう簡単には腐りませんよ。
  その分とても水っぽくて甘くないんですけどね。手順を踏んで熟成させれば、非常に良い酒の元に成るんですが」

 いわゆる仙桃と呼ばれるマジックアイテムである。仙人が作ると言われている物だが、天人達も作る事があるらしい。
ひょいひょいと四つ取り出されたそれの内、二つをお空が食し、残り一つずつを衣玖とお燐で平らげた。
非常に固く、水っぽく、余り美味しくは無かったが薬効は確かに有るようで、水気が火照った体に行き渡るような心地良さが在り、全身に喝が入る。

 「……うにゅ、ごちそうさまでした」
 「ふう……確かに今、疲れを自覚しましたよ。いつの間にか、こんなに体力持ってかれて居たんですね」
 「そうでしょう。火事の影響か、妖怪であっても辛くなるくらいに気温が高まっていましたから。
  いくらあなた達が熱に強いと言っても、汗を掻かない訳では無いですし。
  さて、それでは先に参りましょうか。まあ私、道が分から無いのでお空さんが案内を――」

 出来るんですかね、と言いかけた所で、ゾクリとお燐お空の肩が怖気だつ。
本能的に何らかの危険を捉えたのだろう、二人はキョロキョロと視点を動かし辺りを警戒し始めた。


 ――GRRRRRRRR……


 それは、先程何処かで聞いたような唸りであった。
つるりと磨き上げられた壁に床にと反響し、何処からとも無く聞こえてくる。
地が鳴り響くのにも似たおどろおどろしい声に、衣玖も油断ならぬ面持ちで空気のレーダーを張り巡らせ、嘯く。

 「なん、だろ。さっきも思ったけどさ、やっぱこの声、生理的に無理」
 「うぅー……大丈夫よお燐、私が焼き尽くして上げるんだから」
 「そういうお空さんも声が震えてますけどね。ハテ、私は平気なのですが……」

 どうやら、路地裏で聞いたのとは訳が違うようである。
弦が張り詰めたような空気の裏から、ハッキリと敵意と害意が伝わってくるのが分かった。

 ――何故? 先の遭遇では、見逃してもらえた筈なのに……

 知らず知らずの内に、何かの琴線に触れたのか。或いは、先程の個体とは別物なのか。考えるには情報が足りず、相手の出方を待つしか無い状況。
幸いにして、永江衣玖は空気を読む事のプロフェッショナルで有る。何時でも迎撃出来るように……なるべくなら背後を取られないように壁に背を付けた。

 「永江さん、駄目だ!」

 咄嗟に飛び退く事が出来たのは、水の一滴も見落とさない様、感知範囲を最大限にしていたからだろうか。
右腕が熱い。恐らく牙らしき何かが食い込んで居るのだろう。悪鬼のような形相で、"それ"は衣玖の腕に齧り付いていた。

 「壁を……すり抜け、て……!」

 GRRRRRRRRRRRR!!

 腕を伝うようにして、その異形は衣玖の肉を喰い登ってくる。
巨大な顔に有る二つの目玉だった筈の部位は、針人形のように縫い潰され、異様さを更に際立たせた。

 「……これは……首だけオバケ、と言った所ですか……」

 大きく口が裂け首から下が無い貌は、見目麗しい少女等よりも余程分かり易い怪物の姿。
それが苦しみと憎しみに表情を歪ませて居るのだから、成る程随分と不気味な物で在り、嫌悪感も湧く。

 「確かに私の腕は良い出汁が出るかも知れませんが……危険が無いとも、限らないのですよ!」

 喰われかけた腕に巻かれていた緋の衣が、バチバチと蒼雷を纏う。
衣玖は、そしてそのまま異形の口腔を貫くようにして、雷を槍に発射した。

 ARRRRGGGGGG!!

 声ならぬ声が上がる。
予め、羽衣を厚めに巻いていた甲斐が有っただろうか。幸い腕は折れていると言う事も無くブンブンと振り回せる。

 「ちょっと、しゃっきりして下さいな。私は大丈夫ですから」

 生理的悪寒に身を竦ませていたお燐とお空が、ハッとした顔で遅ればせながら戦闘態勢を取った。
かの化物の叫び声は、どうやら二人の本能的恐怖を呼び覚ますのに十分な物で有るらしい。
先程の感触からして、そこまで圧倒的な霊格が有るという訳でも無い様だが……とすれば問題が有るのは、二人の方だと言う事に成るか。

 「……お二人とも、先に換気システムの方へ向かって貰えますか?」
 「な、何言ってるのさ。確かにさっきはちょっとビビっちまったけど、あたいやお空ならアレくらい……」
 「はい、お二人の力量に問題が有る、とは思っていませんよ。だとすれば、きっと問題は他の所に有るんです
  そう、例えば――種族なり、由来なり、伝承なり――そう言った、"縛られるべき物"に」

 妖怪にとって、いや、あらゆる幻想にとって「ルーツ」と言うのは非常に比重が重い物だ。
古明地さとりが焼き栗に苦手意識を持つように、黒谷ヤマメが豊聡耳神子を畏れるように、誰しも多かれ少なかれ「ルーツ」を大事に……悪く言えば、縛られて生きている。
だからもし、あの化物が「化け猫や化け鴉に強い」伝承を持っていれば。それは、グーがチョキに勝つような物だ。

 「深海魚まで範囲に含まれて居ないのは、まぁ不幸中の幸いですかね」
 「……いや、深海魚と面識が有るってどういう事だよと思うけどねぇ」
 「とにかく、このままではお二人が足手まといに成ってしまいます。
  どうせ管理センターの起動に私が必須と言う訳でも無いんですし、ちゃっちゃと済ませてきて下さいな」
 「うん……分かったよ。大丈夫なんだね?」

 心配そうに尋ねるお空に対して、衣玖はしずしずと頷いた。
先程、雷に焼かれた事で警戒しているのか、化物はまた壁の向こうに引っ込んでいるが、気配までは消えていない。
こちらを放って背中を追いかける可能性が無いわけじゃないが、それならそれでやり用は有る。
少なくとも、地力が怖い相手では無いのだ。少々手こずる事は否めないが。

 「やれやれ、ただの人探しの筈が随分とキャラに合わぬ事をする羽目に成った物です」

 厄介なのは、「空気は壁を超えない」と言う点だ。雷とて、空気中を通る以上鉄で覆われた壁は貫通しない。
そのため、本来ならばもっと広い範囲を持つ筈の空気レーダーが、精々三間程の射程に縛られている。
勿論伸びる廊下の進行方向側に限ればそんな制限は無いが、さて素直に真正面から飛び込んでくる獲物が居るかどうか。

 「合縁奇縁と言うのも悩み物ですねぇ」

 稲光で輪を作り、今度こそ何処から来ても対応出来るように陣を描く。
衣玖は、遠ざかって行く足音を耳に入れながら気怠げに力を抜き、しかし眼光は鋭く辺りを舐めまわした。


 ◆


 走れ、走れ、走れ、足を動かせ。

 舐めるような灯りが矢の如く伸びて行く。影法師が雑念を置き捨てて尾を描く。
己の心音すら遠く聞こえ、微かに頭の中をよぎった閃きを追いかける。
此処で見失ってしまえば最後だと、「私」の直感が囁いていた。

 ――怖い思いをしたのだろうか。角の先の先、子供が独り泣いている。
三軒向こうの隣道。母親らしき角の生えた妖怪が、子供の名前を叫びながら歩いてる。
進行方向は間違いじゃない、このまま子供がはぐれなければ直に合流できるだろう。
角を曲がる。子供の姿が視認できた。ワンワンと泣いて、居る。髪は黒。

 「大丈夫よ」

 全速力で隣を駆けながら、頭にそっと手を置いて髪を撫でた。
ポカンとした顔でこちらを振り向く気配。藍が今彼の前を通り過ぎる。
母親が同じ路に入った。名前を呼ぶ声。駆け出す足音。問題無し。次の角を左。

 「大丈夫」

 これが博麗。これが私。今までの不調が嘘のように、博麗霊夢は地底の町を足取り軽く突き進む。
八雲藍が憮然とした顔で追い付いてくる。「せぇーのぉッ!」ガラガラと、近くの家が一件崩れた――

 「藍、翔ぶわよ!」
 「何ッ!? しかし……」

 藍の手を引き、霊夢が飛び上がった瞬間である。
遠方から、ゴウンと何かが起動するような音が響き、地底の空気が動き出した。
そして生まれた風の流れは、怨嗟の声を上げる悪霊と煙を一気に吸い上げて行く。

 「風だぁ!」
 「煙が晴れていくぞ!」

 空に浮かび上がった霊夢の足元で、地底の人々が歓声を上げる。
九尾の狐が一瞬呆気に取られた表情を作り、霊夢と視線を合わせた。
雲を割るように無人の空を駆けると、汗でべたつく体が風で冷やされて心地良かった。

 「排気システムが動いたのか……」
 「だから言ったでしょ、すっごい大丈夫だって」
 「何と言うか……私には付いていけそうに無いな」

 消え入りそうな声で、ほんの少しだけ素が覗く。ちょっぴり哀愁も漂っていた気がして、霊夢は気まずそうに頬を掻いた。

 「失礼ねぇ。あんたの主に貰ったもんを使ってるだけよ」
 「……はぁ、そうだな。紫様が凄いのだ、紫様が」
 「ちょっと、その言い方だと私が凄くないじゃない」

 ギロリ、と何処か剣呑さが混じった瞳が霊夢を向く。

 「褒めて欲しければ、いい加減何に気付いたのか言え」
 「え、何? 私てっきりあんたも分かってるもんだと思ってたけど」
 「ぐっ……お前の、そう言う所がだなぁ……」
 「落ち着いてよ。とゆーか多分、本来はあんたの方が詳しい筈なんだから」

 思えば、おかしい所は幾つか有った。その全てが、超弩級の「おかしさ」に塗り潰されて、見え無くなっていたのだが。
鍵は、やはりあの犬の……ジロの死体だったのだ。博麗の勘は、何も、何も間違っては居なかった。
"実物を見て居なければ、霊夢達はきっと事態の裏側に気付きさえしなかった"。

 「そう、おかしいのよ。『首が切られて、腹を縦に真っ二つ』なんて酷い有り様で、あんなに死体が綺麗だって事が」

 ――『首から上を丸ごと切り落とされて、真っ白な腸(はら)にたっぷりの野菜と菓子を詰め込まれ』

 「状況として、先ず死体が見つかってその後に血がぶち撒けられてた。どうやって、とかはこの際置いておくわよ?
  あれがわざわざ別人の血を使ったんじゃ無ければ、んなもん切った時の血を桶かなんかに保存してた、って考える方が自然よ」

 ――『血の跡を指で擦れば、未だヌラリと艶を残していた。腹の中はもうしっかりと乾き切っているにも関わらず』

 「じゃあ、桶に貯めれる位に血が出た筈なのに、なんで体があんなに綺麗だったのか?
  ……確たる証拠が有る訳じゃないわ。でも私、これしか無いって思うのよ」

 ――『灰かぶりの橋姫が抱き上げた骸から、パラパラと砂が落ち、直ぐに水を吸い込んで塊と成った』

 「あの犬公……ジロは、"体の大部分を土に埋められながら殺された"。
  ねぇ藍。この先はちょっと、私うろ覚えなんだけど……確か有ったわよね、土に埋めた犬の首を切り落とす、何かの儀式が」

 其処まで言われてしまえば、思いつくのは簡単だった。
犬を頭のみ出して土中に埋め、そのまま久しく食を与えずに捨て置き、やがて餓死せんとする時。
美食を調え犬の頭より少し離れたところに置けば、犬はどうにか食べようと悶え苦み、その怨念が頭に集まると言われる。
その限界まで伸ばした首を打ち落とせば、頭は飛んで喰らい付く。即ち――

 「イヌガミかッ! イヌガミを作っていたのか、あの惨状はッ!」

 「……うん。多分、それね。なんで? とかは一端置いておくわよ。ややこしくなる。
  それでさ、イヌガミって確か、筋に"憑く"のよね」
 「ああそうだ。イヌガミは執念深く、憑いた者が死ねばその子供に、子が死ねば孫に、と血が滅ぶまで続くと言われている。
  そして憑いた家を富ませるが、それらは全て他所から持ってきた富なのだ。
  術者の意を受けて他者の持ち物を奪ったり、或いは傷つけ、病を起こすと言われ……」

 あちゃあ、と言わんばかりの顰め面で、霊夢がこめかみを揉む。
他に気付いた事が有るのかと藍が声をかけようとした所で、再び口を開いた。

 「行方不明に成った子ってさ、死んだ犬とずっと一緒だったんだっけ?
  だとしたら、憑いたのはその子供でほぼ決まりでさ、しかも多分、無自覚だと思うのよ。
  首を落とすのって結構力居るし。いくら妖怪でも、道具も無しじゃ子供には無理だわ」
 「それは……そうだが、何が言いたい?」
 「……生まれつき目が悪いのよね、その子。しかも、そのせいで両親にまで捨てられちゃってさ」

 霊夢の瞳が、地底の街を見下ろす。
瓦礫の中から助けだされたのであろう子供が、泣きながら母親に抱き付いて辺りの住人を涙ぐませていた。


 「この地底の街中だけでも、『欲しい物』なんて一杯有るんじゃない?」


 二人の間を、ビュウと風が駆け抜けて行く。
地底はこんなにも燃えているのに、何処か薄ら寒い、冷たい風であった。

 「それが……狙い、なのか?」
 「あくまで、仮定の一つよ。多分だけど……けれどそう考えたら、布石は既に打たれてる」
 「布石だと? ……まさか、あれは只の流言飛語、或いは撹乱じゃないのか?」

 ――お犬は『どうぶつえん』に!

 そう書かれた落書きは、まだ記憶に新しい。動物園、と言うのが地霊殿のスラングである事も理解している。
けれどそれは、真犯人から目を逸らさせる為のトリックに過ぎないと藍は考えていた。
しかしもし、それが本当だったとしたら。今までの過程が全て当たっているのであれば。

 「古明地さとりが本当に"憑かれ筋"の子供を懐に入れたのであれば。
  イヌガミの事を知っていたにしろ知らなかったにしろ、いずれ導火線に火は付くだろう。
  ……そうか、状況が真で在ったなら、あの挑発するような落書きも真だと見られてしまう」

 このままもし、イヌガミによる被害者が出れば。
さとりがゴアな方法で犬を惨殺し、その憑き物を使って地底の住人を子供に殺させているように見えなくもない。
そうなれば地底の住人の「恐怖」は爆発し、暴徒と化して地霊殿を襲っても何もおかしくは無いのだ。

 「街の様子、聞いた? 『この地震そのものが、覚り妖怪の仕業なんじゃないか』なんて噂も、もう出始めてる」
 「……仮に……仮に、この状況を裏から操っている者が居るとして、そいつを『アンノウンX』と置くが……
  Xの目的は、古明地さとりを……殺す事、なのか?」

 訝しむような言葉に、しかし霊夢は首を横に振った。

 「この状況、偶然と言うには出来過ぎてるけど、計画と言うには余りに杜撰と思わない?
  こんな『誰かの感情』の機微に左右され過ぎる計画、私ならシンプルに真正面から殺しに行ったほうがマシだと思うわ」
 「……そうだな、いくらさとりの能力が厄介と言っても……しかし、それでは一体何を狙って……」
 「感情に、左右されるんじゃなくて……」

 霊夢は、ただ真っ直ぐに物を見る。あるいは子供のように、時にはそれが真を穿つ矛で有る事も有る。

 「こういう『感情』に持って来ること、それ自体が目的だとすれば」
 「感情……確かに、覚り妖怪と地底の住人の溝は決定的に成るだろうが、それで誰が得をする?」
 「そりゃあ、『さとりを地底から追い出したがってる誰か』でしょう」
 「だからそれが分からんのだ! 覚り妖怪を追い出した所で、誰が地底の怨霊達の管理人なんてやりたがる?
  是非曲直庁とて、覚り妖怪を地上へ引っ張り上げる位ならまだ見えない所に押し込めていた方が安心だと思っているぞ」

 地霊殿の主は、ポストと言うには余りに閑職である。
いくら厄介者扱いしているとは言え、八雲紫が幻想郷の住人を野垂れ死にさせるとは思えないだろうし、さとりを押しのけてまでそんな場所に就きたがる酔狂な者が居るとはどうしても考え辛い。

 「……そこまでは分からないけど。案外、あいつの身内かも知れないし」
 「下克上だと? しかしそんな、まさか……」
 「動機はともかく、古明地さとりが何らかの歯車に加えられているのは多分、確実なのよ」
 「……それは、勘か?」
 「勘!」

 そこで霊夢は、初めてぎたりと八重歯を見せて笑いを作った。
飢えた獣が絶好の獲物を前にしたような、攻撃的な笑みである。

 「恐らくだけど、まだ街でイヌガミは暴れまわってない。そういう噂が全然立ってないしね。
  つまり先に古明地さとりを見つければ、初めてアンノウンXに対して先手を取れるかも知れないわ」
 「……分かった、良いだろう。一向に紫様とも連絡が付かない以上、私はお前の考えに全面的に乗ってやろう」
 「ええ、思えば随分好き放題されてきたけど、そろそろ私もストレスが溜まってるのよ」
 「そいつは同感だな。主の命ならともかく、ただやられっぱなしと言うのは全く性に合わない」

 同時に、どこかで土煙が登った。鬱蒼とした気分を吹き飛ばすような爆発音が僅かに遅れて聞こえてくる。
霊夢の目は、その中に濃桜めいた色を見つけたと思った。会心の笑みが更に深くなる。


 「さぁ行きましょう、藍。博麗の巫女にツケると言う事がどういう事か、領収書ごとのし付けて教育してやるわ!」


 ◆



 ……さて、時は丑三つ。大地が揺れ、旧地獄の地獄が始まるにはもう暫しの時を必要とする時まで巻き戻る。



 ――ガチリ、ガチリと牙が噛み合う音がした。

 噎せ返るような雄の臭いの中に、「彼女」の臭いが埋もれていく。
目は見えない。隠されたか、潰されたか、それすらも判断が付かない。
声は分からない。人の為す声は自分には理解が及ばない。けれど、そのニュアンスは何となく聞き取れた。
きっと「彼女」が上げさせられているであろう声が、余り良く無い類の物で有る事も。

 どれほどの力を入れようと、四肢は動かす事がかなわず、唯一千切れるように伸ばした首は、赤く滲むように染まっていた。
殺してやる。殺してやる。この、頭さえ。牙さえ届けば、その喉笛を噛み千切ってやるのにと、強く思う。


 「焼っけたかな♪ 焼っけたかな♪ のーみそコネコネ焼けたかなー♪」


 ふと、耳に「彼女」の物では無い、無垢な少女の声が聞こえた。
それと同時に、夢でも見ていたかのように周りの感覚がプツリと途切れた。
敏感な嗅覚を擽る匂いも、雄と雌のそれから土と甘く濁った物に変わる。暗闇だけは、一向に晴れる気配が無かったが。
気づけば、舌から涎が撒き散らされて、辺りの土が汚されている。我武者羅のままに、相当激しく暴れまわっていたのだろう。
彼は硬直した身体の痛みを唐突に思い出し、舌を出したままぐったりと頭を横たえた。

 「んー……? まだみたい。もう一回いこっか」

 少女の話す言葉の意味は分からなかったが、どうせ碌な物では無いのだろうなと言う事は分かる。
どれほどの時間が経ったのだろう。身体はとっくに壊れ始め、数日かも知れないし、まだ一刻にも至っていないのかも判らない。
今まで有った物を取り替えて、ことりと新しく目の前に甘い匂いを漂わせる小皿が置かれた。
この匂いだけは、いつも夢の中にまでついてくる。

 「うーん、何となく分かった気がしてたけど、気のせいだったり?
  じっけんは数だって偉い人が言ってたから、しょーがないのかもね」

 少女の手が頭を撫でた。認識がぐにゃりと形を変えて殺してやる。
今度の「彼女」はどんな目にあうの殺してやるだろうか?
殺してやる「彼女」は種族こそ違えど、自分にとって妹のような存在で殺してやる在った。それが殺す幾度も幾度も汚されていく様を殺してやる見せ付けられ、その度に自分は殺してやるに怒り狂い、首が千切れんほどに暴れ回る。

 目の弱い「彼女」を守る事に誇りを抱いていた自分に取って、それは酷く屈辱で有り、侮辱で有り。
この世の何よりも、悔しかった。


 そしてまた土に埋もれたまま、少女に導かれるままに彼は暴れ回る。

 殺してやる。
 殺してやる。
 殺してやる。

 首の届かぬ位置に置かれた甘い匂いが、脳まで焼いていく――


 ◆


 「こいし……」

 気が付けば、涙も鼻水も乾き果てていた。
大地が鳴動するままに身を任せていた古明地さとりが、ようやく顔を上げる。
両の目の周りに、目やにがべっとりと付いているのが分かる。きっと、酷い顔になっているだろう。

 「これも……貴女なの……?
  何処までが……貴女なのよ……」

 胸に抱きしめた鍔の広い丸帽子がその形を歪ませる。
この地上に残った、あの人の最後の縁。そして八萬の怨霊を従えるカミの「子との思い出」であり……災禍の遠因。
これさえ無ければ。訳の分からない怒りと八つ当たりじみた感情がベクトルを見失って、力が篭もる。
涙を堪える力のままに、手に持つそれを叩きつけようとして……出来ずに、崩れ落ちた。
そしてその代わり、もう一度だけさとりは酷く泣いた。

 「あっ……ぐ……う、あ……」

 声も上げず頭を垂れて、存分に啜り泣いた所で、古明地さとりはようやく朧気ながらも自分を取り戻す。
ざわざわ、ざわざわと、暗い色をした思念が視界に映り込む事に気が付いた。

 「地獄鴉達が、地霊殿の中に入り込んできている……?」

 奇妙な事ではある。地獄鴉は独自の生態を築いており、どちらかと言えば古明地さとり自身よりお空の方に従っている。
その為お空を除き旧灼熱地獄跡から出て来る事は滅多に無く、地霊殿のペット達とも殆ど接点が無い。
喧嘩でもしているのかと心配になったが、それ以前にペット達は根こそぎ地霊殿から避難していたようだ。
恐らく地震の影響だろう。道理で誰とも出会わなかった筈である。

 そうっと扉を開いて部屋の外を確認すると、屋内だと言うのに鴉達が編隊を組んで飛んでいた。
ガアガアと喚き散らしながら目は赤く光らせ、何となく薄青色をした霊気がその身を包む。

 「憑かれてる……!?」

 古明地さとりはぎょっと目を剥いて、慌てて扉を閉じた。
数も有るが、何よりあの異様な霊気。何かに取り憑かれているとしか思えない思念。

 ――欲シイ……欲シガレ……
 ――探セ……探、セッ……

 「欲せ」とは、ある種怨霊としての常套句だ。
奴等は取り憑いた先の思念に耳打ちするようにして自らを滑りこませ、欲を操り、段々と魂を奪っていく。
しかし、探せとは? 一体何を探している?

 「……この、黒帽子を?」

 さしたる根拠が有る訳ではない。只の、直感めいたなにがしかである。
けれども、間違って居ない気がした。この一連の騒動、怨霊と言えば荒ぶカミに繋がっているとしても、不思議ではあるまい。

 「八雲紫は何をしているのかしら……!」

 分かっている。本来あの人の形見である黒帽子は処分されて然るべき物だったのだ。
それがこの場にある事からして、誤算なのだろう。それも、修正をきかせる余裕も無いような状況に今は居る。


 ガガガガッ!!


 部屋の扉が激しく叩かれる。ノックと言うよりは、キツツキが木に穴を開けるような音だ。
気付かれたか、それともさっき部屋の外を確認した時に、既に見られていたか。
扉は館の様式に合わせた洋風の物で、落ち着いたダークブラウンの木目が自分なりに気に入っていた物だ
分厚い木製の戸に、穴が開こうとしている。

 「逃げなければ」

 黒帽子を一層強く抱きしめて、決意を固めた。
案外、素直に形見を渡せばカタは付くのかも知れないが……それを行う気には、どうしてもなれない。

 「窓は……」

 脱走防止と言う訳でも無いが、こいしの部屋の窓は開かないように作られている。叩き割るからだ。
まさかそれが自分を閉じ込める羽目に成るとは夢にも思わなかった。館を建てる頃の自分に教えてやりたい位である。

 「一応、何の変哲も無いガラスだし。私でも、勢いを付けて飛び込めば」

 ガラスの破片は危険では有るが、目にさえ入らなければこちらとて妖怪の端くれである。
段々と嘴の先が見えてきた扉から出るよりは、余程安全と言えるか。

 「――ッ!」

 大きく息を吸い込み、余り上手では無い浮遊術の勢いも使用して窓に向かって突き進む。
乾いた音がして、予想より呆気無く脱出口は開いた。暁のぼんぼりにガラスがキラキラと光を受けながら、さとりと共に落下する。
戯画か何かのワンシーンの様だな、と頭の片隅で独りごちる。直ぐに地面へ叩きつけられて、その思いは口角の隅でつり上がった笑いごと掻き消された。

 「あ、いたた」

 そりゃ精々二階が良い所なのに余韻に浸ってればそうなるわね、と僅かに頬を染めながら首を振る。
外にも数羽の地獄鴉が居る……いや、居たらしい。肥大した嘴を備えた灰色の鳥の足元で、一匹が羽をバタつかせ喘いでいた。

 「貴方……」

 さとりの瞳を持ってして、なお感情を覗かせない瞳で鳥はじっとさとりを見つめる。
その微動だにしない姿と人相から、何となく「仕事人」と言う単語が頭をよぎった。
最近外の世界から流れ着いたらしい……確かそう、ハシビロコウと言ったか。

 「逃げなかったの? ……そう、心配してくれていたのね」

 一度お辞儀をするように頭を下げて、ハシビロコウは飛び立って行った。義理は果たしたと言う事だろうか。
無事に戻ってきたら、鯉の一つでも与えてやろう。そう考えながら、さとりは地底の街へと走り出す。


 「「「「「「「DAAAAAAAAAAAAAAMMMMMMMMMMMMMMN!!」」」」」」」


 その背後で、爆発するかのように中庭から怨霊が溢れ出し、まるで柱のように天と地を結び付ける。
正しく、間一髪の所であった。


 ◆


 さとりが逃げ出した先は、燃えた空気がえがらく喉を刺激する煙の街である。
ちくちくと刺さる思念には混乱と疑念が色濃く混じり、少しすればベクトルを持った憎悪に変わってもおかしくは無い。

 「これは……火事?」

 人魂や鬼火も利用して、常に灯りを灯し続けている街だ。
其処から何かに燃え移ったとしても、不思議では無い。
何にせよ、変な敵意を向けられて歩く訳にも行かず。路地裏の隅に身を隠しながら、さとりは己の目的を検討する。

 ――この帽子を、誰かに渡したくない。

 それが、第一の目的。己の中で最も優先すべき事だ。
鍔の広い黒丸帽子は今、さとりとあの人を繋ぐ唯一のか細い縁なのである。
これを手放してしまえば、あの人は二度と自分の前に現れないのでは無いか。さとりは、そう感じてすら居た。

 ――その為に、まず怨霊の目から逃げ続ける事。
 ――お燐やお空達と居れば、多少は戦う事も出来るかも知れない……出来れば、早めに合流したいわね。

 思い返す限りではあるが、あの二人が居れば脱出する直前の地霊殿ももう少し騒がしかった筈だ。
となれば、早々と別の所に避難したか、或いは最初から違う場所に居たか……

 「もし、旧灼熱地獄跡の方に取り残されて居るなら、合流はほぼ不可能に近い……
  ふぅ、私ともあろうものが、祈るしか無いなんて」

 旧灼熱地獄跡に行くためには、地霊殿中庭の大穴を通るしか無い。
あの大穴から怨霊が噴き出している以上、虎穴に入らなければ行けない事になる。
可能性に賭けて相手の懐に潜り込むよりは、まだ別の所に居る事を祈った方が少しはマシだと思った。

 「やっぱり、合流を急ぐよりも……身を隠す方が先かしらね」

 地底の街の連中は、自分に好意的とは言い難い。
古明地さとりの姿とは、未だ街の連中にとっては暴力と恐怖に支配されていた時代の最たる象徴なのだ。

 平和に暮らしている者にとっては、姿を見るだけで「今日は誰が見せしめになるのか」と憂鬱になり、
暴力に傾いた者にとっては、何処までもうざったい目の上のたんこぶであろう。

 故に普段なら外套やら何やらで正体を隠すのだが、今日だけは着の身着のままで出てきてしまった。
このような状況下、街の住人がさとりの姿を見るだけで恐慌状態になってもおかしくは無い。
窮鼠が猫を噛むのは、猫が鼠を追い詰めたからだと言うのを古明地さとりは良く知っていた。

 「……外套を取りに行きましょう。もう使わないと思っていたけれど」



 ……とは言ったものの、ハッキリ言って出不精な方であった古明地さとりである。
平常時ならばともかく、普段とは全く違う様相の街を、それも裏道を行きながらとなればこれはもう迷うしか無いのであった。
人が来る度に道を変え、物陰に隠れ、それでも間に合わなければ催眠で誤魔化すなどとしていれば歩みは遅々として進まない。
熱と緊張、そして何よりも能力の乱用による疲れははじわじわと頭の芯を焼いて行き、眼の奥にはえも言われぬ鈍痛が走りだす。

 「ハァーッ……ハァー……」

 開けた胸元をパタパタと仰ぎながら、さとりは隠れた樽の影から顔を出した。
背丈こそ貧相な物だが、引き篭もりがたたって良からぬ肉が付いた胸元にするりと汗が落ちていく。
滂沱のように流れていた汗は既に乾き始め、喉ももうカラカラだった。

 「水が……欲しいわ……」

 生憎、第三の目でも水の思念は読む事が出来ない。
思念が読めれば水がある位置もわかるかしら、と無益な妄想が脳内で繰り広げられる。

 ――魚心あれば水心と言う以上、水の心だってきっと有る筈なのに!

 そんな願望混じりの皮肉が脳内で炸裂した頃、さとりは不意にカタカタと震える思念の波動を捉えた。
子供なのだろうか。思念に混じるニュアンスは若く、そう歳をとっていない事が分かる。
そしてその子は、泣いているようであった。喉をしゃくりあげ、自分の殻に閉じこもって悲しんで居るのだ。

 「この子……?」

 はっきり言って、関わるメリットはさとりには無い。
それでも目に止まったのは、何処かでその声を聞いたような気がするからだ。
それが何処でかまでは鮮明に思い出せないが、何処かで関わったのは事実の筈。

 下手なリスクを負う事は無い。無視して通りすぎるべきかと悩んだ時、胸に抱いた黒帽子が仄かに熱を帯びた気がした。
あの人なら、見過ごさないだろう。口ではぶつぶつ言いながら何だかんだと世話を焼くに違いない。
だってあの人は、私の伸ばして無い腕まで、わざわざ掴みに来てくれた人だから。

 「……そうね、せめて。せめてもう一度、会えるまででいい。この帽子を返すまででいい」

 変わらないで居る事は、とても楽で、簡単な行為。
だからこそ古明地さとりは、刻一刻と色を変える彼女に惚れたのでは無かったか。
涙を噛みながら一度「なかったこと」にしようとして、結局出来ずにここに居るのでは無かったか。

 「『貴女に触れた』私で居たい。極光に照らされていた私で居たい――」

 助ける理由が有るから助けるのではなく、助けない理由が無いなら助けに行こう。
たとえそれが残り香を掻き寄せて懐かしむような行為だったとしても、全くの無駄では終わらない筈だから。
さとりは抱きしめた帽子を被ると、目元を隠すように無理やり引き下げた。後は服の中に第三の目を隠せば、誤魔化す位なら十分だ。

 「そこの貴方!」

 さとりの声に反応し、ビクリと震えた影は、紅かった。
元が真っ白だったであろう服は何者かの血で染まり、所々黒く変色しかけている。
どこかで見た子供。ああそうだ、何度か橋姫と一緒に居る所を見た事が有る。確か眼が弱く、滅多に一人では出歩かないのでは無かったか。

 「あ……あ……」
 「……その姿、一体……?」

 さしもの古明地さとりも、この様相には戸惑った。
子供がたった一人で居る事もそうだが、その姿が――まるで、返り血か何かで――真っ赤に染まっているのである。

 「ちが……あたし、違います」
 「落ち着いて。心を冷静にしてくれれば、分かるわ。私は勘違いしない」
 「や、やめて。あたしかも知れない、そんな、そんなのは、怖くて。誰かに言うなんて」
 「何かあったのね。大丈夫、ほら、泣いたっていいわ。余り大きな声だと困るけれど」

 混乱してるのであろう。視線を虚空に向けたまま頭を抱えて震えるタロに対し、さとりは優しく抱きとめる。

 「聞かせて頂戴? 何かが起こってる、普通じゃない何かが」
 「うう、うぅ」

 呂律の回らない舌では有ったが、タロはしばしさとりの胸元を濡らした後、ぽつぽつと言葉をこぼしてくれた。
それと同時に、さとりはゆっくりとタロの記憶を探す。所々のイメージでは有ったが、状況の補強は出来た。

 「ゆ、夢を見てたんです。ぼうっと。
  夢の中で、あたしは歩き回ってました。そしたら段々疲れてきて、眠くなって。
  夢で寝るってのも変だなーって思いながらうとうとしてると、なんだか甘くていい匂いがして。
  遠くの方でジロが鳴いてるから、こっちにおいでって声を掛けたんです。だけど来なかった。
  しょうがないなーって思ってたら、段々寒くなってきて」

 震えるタロは、そこでゴクリと唾を飲む。

 「『火を下さいな』って言ったら、足元にゴロンと転がってきたんです。
  パチって飛ぶ火の粉が痛かったから、そ、そこで目が覚めました。そしたら」
 「……燃えていたのね? ジロさんの、生首が」
 「あ、あぁ。あたし、あたしどうしちゃったんだろう。目が見えないのに、そうだって分かったんです。
  肉が焦げる匂いがして、あたしこんなに、血塗れで。ジロは。ジロは……死んでた」

 その時のショックをぶり返したのだろう。さとりもまた、幼い少女の真新しい傷痕を穿らざるを得ない事に胸を痛める。
タロの瞳孔は見るも無残に開き切り、未だその場の凄惨さを映していた。

 「……それで。貴女は、どうしたの」
 「逃げたんです。どうしていいのか分からなくなって。その内大きく地面が揺れて、火事だって皆騒ぎ出して……
  もし、もしかしたら、あたしのせいなんじゃないかって。あたしが火付けしたんじゃないかって思ったら、怖くて。」
 「だから隠れていたのね」
 「火付けは、捕まったら死刑だから。ま、まだ死にたくないなって……ジロは死んじゃったのに。
  どうしよう、このままじゃ、お、お姉ちゃんにまで迷惑……」
 「橋姫さんなら、貴女の事を見捨てたりなんかしないわ」

 毅然とした表情で、さとりは断言した。
多くの事を喋り、力強く断じられた事で少しは気も落ち着いたのだろうか。タロもまた、虚ろで有った目をさとりに向ける。

 「たとえ地底中を敵に回したって、貴女の為に戦うわよ、彼女なら。
  それにまだ、貴女がやったって決まった訳じゃないじゃない」
 「でも、でも……他に、誰が、じゃあ」
 「逃げたいと言うなら、それでも良いわ。……私もあまり、表に顔を出したい妖怪ではないし」

 力無く震える指先を、さとりの手が柔らかく包み込む。
あの人のくれた温もりが、不思議と指先へ流れこんでいく。縁の残った黒帽子から、力が貰えているようでもあった。

 「私は貴女を助ける事は出来ない。……でも、一緒に逃げる事位は出来るわ」
 「ぐすっ、は……い」

 そうして二人は、手を繋ぎ地獄の街を駆けて行く。
それは奇しくも、霊夢の嫌な予感が当たった形である。


 ◆


 「疾ッ!」

 背後から襲ってきた化物の頭――頭しか無いが――を、鞭のようにしならせた羽衣で叩き落す。
普段ならここから壁にバウンドした相手に雷をぶち撒けたりするのだが、怪物は壁をすり抜けて飛んで行ってしまった。

 「有効打になりませんね……」

 どちらにせよ、雷が効いてるかと言うと首を傾げざるを得ない。
既に数発はばらまいた弾幕に当たっている筈なのだが、まだ天の気を纏った羽衣での打撃の方が効いている気がする。

 「うーん、これはひょっとして相性不利という奴では」

 前にも言った事だが、雷とは木行である。
木気に強いのだから、相手の属性は火か、金か。恐らく金だろうな、とあたりを付けた。殺気は金の気なのだ。

 ――さて、次は何処から来るか。

 これで頭の方も――頭しか無いが――獣並で、最短距離で来るだけなら楽で宜しいのに、と衣玖は考える。
いやまぁ、獣でも回りこむ位の知恵は持つだろうが、物の例えだ。
命が掛かった壁テニスのボールが四方八方に散らばるだとか、非常に面倒くさいのである。
相手もそろそろ焦れてきているだろう。そろそろパターンを変えてきてもおかしくは無い、と一人気合を入れ直した所で。

 GRRRRRAAAAA!!

 一際大きな咆哮が聞こえ、脚に鋭い痛みが走った。



 「油断、しました……ッ」

 なんて事は無い。化物は、衣玖の長いリーチを活かさせず、一方的に攻撃できる方向として「下から来た」のだ。
まったく、相手が壁をすり抜けられる事が解っていて、何故床を抜けてくる事が想定出来なかったのか。実に迂闊!
羽衣の巻かれた上半身と違い、下半身はそのままだ。弱点を狙って来るのは、戦闘の基本だろうに。
「美しい闘い」に慣れ過ぎた、と自分でも思う。では「命の奪い合い」の経験が豊富かと言われると、ただの公務員ですとしか言えないのだが。

 ミシリ、と骨の軋む音が聞こえる。生臭い吐息が脛を通り越して太股まで撫でた。痛みでそれ所では無かったが。

 「女性のスカートに潜り込むなんて……幾らケダモノとは言え、看過出来ませんよ」

 右手に纏った羽衣が、高速で回転し始める。バチバチと轟く雷光が、髪を数本焼いて風に散らせた。

 「離れな……さいッ!」

 鋭く尖った先端が、スカートごと化物を引き裂く!
流石の鉄面皮も朱に染まり、今着ているのが新しい方のスカートだと思うと涙も滲む。
唯でさえ、羽衣修繕の自己負担は避けられそうに無いのだ。例え何割か差っ引かれるとしても、修繕料は結構な値段になる。

 AAARRRRGGGGGG!!

 怪物の悲鳴が上がる。骨に食い込んだ牙が離れ、ふくらはぎから血が溢れた。
しかしそれでも、倒した訳では無いらしい。吹き飛んでいった廊下の向こうで、ゆらりと宙に浮かぶ姿が見える。
対してこちらは足を負傷。羽衣も損傷して空を飛ぶには不安が残る。
電圧のバリアーが有るので身を守れない訳では無い、が。

 「お空さん達はまだですかね……?」

 もし終わったのなら決して走らず急いで歩いてきて、そして早く私を助けてってなもんである。
威厳? プライド? そんな物で飯が食えるなら、是非あの怪物に喰わせてやってほしい。
そうすれば、少しは自分の体の一部を餌にされる可能性が減るかもしれないからだ。
命を奪わせてやる位なら、肉を切らせて骨を断つ程度の覚悟は持っている。

 「永江さんっ!」

 切り返し用のスペルカードを握り込み、化物が飛び込んでくるのを待ち構えていたが、どうやらその必要も無かったらしい。
火焔猫燐が赤いおさげを揺らし、少し焦った声でこちらに向かって駆け寄って来るのが見えた。

 「排気システムの起動は?」
 「今、お空がやってます。やれる事無いし、あたいやっぱりこっちが心配で」
 「そちらの方を……と、言いたいですけれど。正直有り難いですね」

 今のあられも無い姿を思うと少し恥ずかしい所も有ったが、衣玖は素直に援軍を受け入れる。
怪物は怪物で、グルルルと唸りながら戻ってきたお燐に視線らしき物を這わせていく。

 「こいつ……まだやるってのかい」

 いくら相手が傷ついていると言っても、生理的な嫌悪感は晴れないのだろう。
警戒と幾らかの怯えを混ぜた目で、お燐はステップを踏み戦闘態勢を取る。


 ――――RRRR……


 その時、化物の持つ空気がふと変わった事に、衣玖は気付いた。
形勢不利と受け取ったのか、不意に殺気を掻き消すと化物は風の如き速度で白い残像と化し、この場から消え去る。

 「に、逃げた……?」

 残されたお燐が、振り上げた拳の降ろす先に困って呆然と呟く。
鼻をひくひくと鳴らすと安っぽい金属の香りが鼻に付いて、くしゅんと一つくしゃみをした。

 「助かった……と言っていいのでしょうか」

 手早くスカートの一部を切り裂き、包帯代わりに止血を行った衣玖が言う。
ゴウン、ゴウ、ゴウゴウと建物全体が動き出し、低い音を響かせる。

 「お空の方は上手くやったみたいですね」
 「……化物の正体は気にかかりますが……合流を優先するべきでしょうね。
  お燐さん、この通り足をやられてしまったので猫車をお借り出来ますか?」
 「良いですけど……今度はお尻が痛くなっても我慢して下さいよ」

 衣玖は答える代わり、廊下の遥か向こうから熱風を感じ取った。お空も直に戻ってくるだろう。
一つの戦いが終わっても、状況は依然として良い物ではない。
羽衣を巻いた手からふと桃の香りがして、衣玖は雲海を懐かしんだ。


 ◆


 当初こそ、タロとさとりの逃避行は、概ね上手く行っていると言って良かった。
この後も二人は時にタロの鼻を使い、時にはさとりの能力を用いて街の住人達の目に触れないように裏道を進み続ける。
そうは言っても、視力の弱いタロを連れ、人を避けながら込み入った裏道を行くのである。歩みは自然、遅々とした物となった。


 ……
 …………
 ………………


 がさりと残骸を掻き分けて、建物の裏手へと男が一人入って来る。
フケだらけの髪を逆立て、いかにもな雰囲気で特徴的な衣裳を身に纏う。
少し地底事情に明るい者であれば、それが自警団にもなれぬ荒くれが反組織的に組んだ「御廻組」で有ると知るだろう。
刃引きした鋼刀で武装し周囲を威圧して歩く集団は、しかし今の地底においてそのシンパを増やし続けている。

 「あのう」

 キョロキョロと周囲を訝しげに見回す男に対し、消え入りそうな言葉が一つ掛けられた。
相手は鼠色のボロを身に纏い、灰だらけの地面を厭う事も無く地べたに座り込んでいる。
フードで目元まで隠れているが、声と華奢な体からして女であろうと予測は付いた。

 「み、水を……水を少し、わけてくれませんか。
  い、妹が目を開けないんです。お、お願いします、水を少しだけ……」

 よくよく見れば、ボロ布の中にもう一人、更に小柄なシルエットが浮かぶ。
姉妹だろうか。まだ若いだろうフワフワとした白髪は、今は血で真っ赤に染まり、そしてドス黒く固まっていた。

 「……おい姉ちゃん。残念だが、そいつはもう……」
 「お願いします……水、水を欲しがってたの。水さえ有れば、きっと……!」

 一瞬、男は嫌そうに顔を顰め、大きく舌打ちをして腰に括っていた竹筒を投げ渡す。
そして「ありがとうございます、ありがとうございます」と地に擦るように頭を下げ続ける女を見ないようにして、足早に其処を立ち去った。
暫くし、周囲に誰もいない事をしっかりと確かめて、女は存外素早い動作で竹筒を掴みとる。
そのまま女が浴びるように喉を潤して居ると、血で染まっていた筈の娘も目をぱちくりと開き、女から渡された水を注ぎ込むようにして飲んだ。

 「……ふぅ。生き返ったわね」
 「うぅー……も、もうやりたくないです……」
 「そうね。まさか御廻組にドンピシャで当たるとは……危なかったわ」
 「と言うかさとりさん、妙に堂に入ってましたよね……」

 鼠色の外套を暑そうに仰いで、女は特徴的なコードの伸びた桃色の髪を顕にする。

 「……昔、色々とね。ちょっと気狂いの真似をするのがコツよ」

 そう自嘲的に呟く顔には、物乞いで有った頃の面影は見えない。
掠れて消えそうだった声も随分と張りが戻り、どこか一つの館の主としての貫禄を滲ませる物だった。

 「けれど、危険を犯した甲斐は有ったわ。あの男からは色々な思念が読み取れた」

 元翁の家から引っ張り出してきた外套で再び目元を隠し、さとりは言う。
この極限状況下で、御廻組はまだ地上排斥の思いを諦めては居ないらしい。
と言うのも、混乱した状況の中地獄鴉達が街の住人を襲っているのを古明地さとりの仕業と断定し、火災への対応に追われる自警団を尻目に治安維持役としての釜を奪うつもりの様だ。
まさか血眼に成って探す覚り妖怪が、気狂いの物乞いを演じているとは思わなかっただろう。
そう考えれば、曇ったさとりの胸も少しは晴れると言う物。飲み干した竹筒をその場に置き、さとりは次の手を考える。

 「ごめんなさいね……出来れば黒谷さんや水橋さんを探したいんだけれど」
 「いえ、あたしの事は……その、気にしないで」

 あれほど取り乱していたタロも、水を口に入れた事で少し落ち着いたらしい。
それでも、心に付いた傷は深く、真相を知るまでは合わす顔がない、と言った思いを抱いて顔を曇らせる。
さとりはその思念を読み取って、励ますように背中に手を当てた。

 「貴女の鼻は頼りになるわ。守られるだけじゃない、パートナーとして。
  だから何か気付いた事が有れば、すぐに言ってちょうだい」
 「……ありがとうございます」

 未だぎこちなく、僅かながらとは言え心からの笑みを浮かべるタロ。
それを見て、さとりは再びタロの小さな体を抱き寄せる。その小さな体に、何かの面影を見るように。


 ……
 …………
 ………………


 「食べない?」

 差し出された安っぽい木の器を、タロはくんくんと嗅いだ。

 「食べれる時に食べておいた方が良いわ。いざと言う時に走れなくなるから」

 木の器に入っているのは、味噌を溶いた汁に出汁と人参、牛蒡、そして小麦粉を練った団子を入れた配給食で有る。
燃え滓を取り敢えず片付けただけの広場で、鬼の自警団が大鍋で作った物を外套で正体を隠したさとりが取りに行ったのだ。
星熊勇儀は上手くやっているのだろう。伊吹萃香も帰ってきたと言う噂だ。
ことさら、さとりが何か働きかけてやる必要は無い。

 「…………いい匂い」

 タロは迷いながらも、空腹にあらがえず危なっかしく器を握った。
しっかりと保持出来るまで、さとりの手は優しく支え続けてくれる。

 「……怖く、無いんですか。誰に狙われるかも判らないのに」
 「怖いわ。けれど、ここは山や森と違って人目に触れずに食べ物を取れる場所がないから」
 「やっぱり、お強いんですね」
 「慣れてるだけよ」

 妹の手を引いた、あの屈辱と後悔だらけの逃亡劇を語るべきだろうか。さとりは迷った。
疲れも有るのだろう。タロの心は殆どが白く塗り潰されており、残りの数割で食物の滋味を味わっている。
ならばそれを邪魔する事も無いかと、さとりは沈黙した。
人気の無い路地裏に、暫く汁を啜る音だけが響く。

 広場の向こう側では、燃えた家の跡から助けだされた子供が自警団の胸元に飛び込んでわんわんと泣いていた。
パチパチと燃え盛る火を見ながら、さとりは胸に抱いた黒帽子を抱きしめる。
助け出された子供は、直に父母と再会出来るだろう。自分は、そのシーンをあまり見るべきでは無いと思う。

 「騒動が落ち着いたら、墓場を作らないと行けないわね」
 「……お墓、ですか」
 「ただ埋めて土をかけただけじゃない、立派な奴。
  詳しい数までは分からないけれど、幾ら妖怪の生命力が強いとは言え死者は出ているでしょうから」
 「立派なお墓なんて、どんな物なんでしょう。想像つきませんね」
 「暫くしたら奏上するつもり。閻魔様なら推薦してくれるでしょうから。
  妖怪に墓なんてふさわしく無いと思われるかも知れないけど……貴女の家族も入るのだものね」

 ぶわ、と溢れそうになる涙を辛うじてタロは飲み干した。
そして代わりに、さとりへと質問を投げかける。

 「さとりさんは……家族が心配じゃ、無いんですか」
 「……それは、勿論、心配だけれど」

 少し言い辛そうに、さとりは言葉を濁らせる。

 「でも、私の理由はちょっと違うから」
 「理由?」
 「妹に関して言えば、もう数ヶ月も顔を見てないの。以前から放浪癖のある娘だったけど、最近は特にね」
 「それは……」
 「顔も出さないのは心配だけれど、逆に言えばこの地震には巻き込まれて無いかも知れない。
  地上がどうなってるかは分からないけど」
 「その……両親は?」
 「死んだわ」

 そう言い切るさとりの目には、迷いは無かった。
ただ、丸みを帯びたアメジスト色の瞳が、燃える火の粉を映していた。

 「私が殺した。永遠に」


 ……
 …………
 ………………


 「……? 風が」
 「風?」
 「なんだか、吹きだした、ような。空気の匂いが変わったんでしょうか」

 タロが、何かに気付いたように鼻を鳴らす。その言葉を受け止めて、ハッとさとりが天井を見上げた。
先程まで地底を覆い尽くさんばかりで有った怨霊の煙が、微かな断末魔を残して少しずつ薄れていく。
言われれば確かに、微弱な風が吹いているようであった。淀んだ地底の空気を、入れ替えるかの如く。

 「……誰かが、換気施設を動かしたんだわ」
 「かんきしせつ?」
 「お空の発電力に目を付けた山の神が作ったのよ。何か有った時の為にって」
 「……じゃあ、あたし達助かるんでしょうか?」
 「どう、かしらね。八雲も博麗の巫女も最初からこっちに居るし……
  けれど煙は妖怪の山に抜けるでしょうから、すわ何事かと妖怪の山の神や天狗達が……」

 そこまで呟いた所で、さとりは自分が余りにらしくないミスをしたと気付いた。
「妖怪の、山」と魂の抜けた声で呟くタロの手を、慌てて強く引っ張り、先導する。

 「行きましょう」
 「え?」
 「換気施設が動いたなら、それは誰かが動かしたと言う事よ。
  あそこはお空の為の設備なんだから、もしかしたらまだお空やお燐が居るかも知れない」
 「……そ、そうですね。早くしないと、入れ違っちゃうかも」

 多少乱暴な話題転換ではあったが、さとりの言葉には一理ある。
街から離れる事で多少は御廻組と遭遇する危険性も減るだろう。自分の都合に巻き込むようで申し訳無くもあったが、タロもまた親代わりの少女達に会いたがっていないのは好都合でもあった。

 「でも、急ぐんだったら」
 「『あたしを置いてった方が良いんじゃないですか?』 ……そうね、そうかも知れない」
 「分かってるなら、どうして」
 「恋をしたから」

 理由としては、余りに不鮮明である。
キョトンとしたタロの気配を、さとりは苦笑しながら受け止める。

 「好きだった人の真似を、してみたくなったの」
 「……恋人が居たんですか?」
 「どうかな。好きだって事は伝えたんだけど。結局最後まで、片思いだったかも」

 くるくると渦を巻くタロの想像に、少しイタズラをしてみたくなって、さとりは笑いかけた。

 「ちなみに、女の人よ」
 「……え、ええっ!?」
 「そんな顔をしないで。別に貴女をどうこうするつもりは無いわ?
  ただ、偶々好きになった人が女だったの。まぁ、男の人が苦手じゃないわけじゃ無いけど……」

 あの人が男だったとしても、きっと変わらず好きになっただろう、と。
一語一句を唱える毎に、心に溜まっていた澱が、消化されていくようで。

 「恋……かぁ」
 「憧れもある。冒険心もある。でも、『きっとそんな日は訪れないだろう』と考えているのね。
  私だって、同じような事を思っては居たけれど。貴女のそれは理由が違う」
 「……だって、あたし。目が悪いから」
 「例え、それを受け入れてくれた相手だったとしても?」
 「それは、そうですよ」


 「好きになった人に、好きになってくれた人に。
  一生迷惑をかけ続けながら生きていくなんて、あたしは出来ない」


 ピン、と繋ぐ手が伸び切って。二人の歩みが止まる。


 ……
 …………
 ………………


 さとりが背中ごと倒れ込むようにして地面に臥してから、少しの時間が立った。
赤く濁った視界を少しでも洗い流そうと、ゆっくり身を起こす。

 「ちょっと、無理が祟ったわね。目を酷使し過ぎたみたい」
 「……なんで言ってくれなかったんですか。ずっと前から、目が痛いって」

 ほんの僅かに手を離した隙に、卑劣にもタロを人質に取った御廻組の男は、さとりの能力でなんとか撃退する事が出来た。
心を握り潰し殺すまでの事は出来なかったが、側にタロが居る事を思えばそれで良かったのだろう。
やろうと思っても、既に全力で能力を使えばこうして倒れ伏す程度には、精神力が摩耗していたが。

 「言った所で、弱音にしかならないじゃない。騒ぎになりそうな度に逃げ出して居たら、私達はとうに追い詰められていたわ。
  吐いてもどうにも成らない弱音は、まだ言いたく無いの」
 「……あたしに言っても、しょうが無いからですよね」

 目から血みどろの涙を流し俯くさとりの足元に、わあわあと泣きながらタロが縋り付く。
さとりの言う事は正論で有ったが、再び傷付けられ壊れかけたタロの心を癒やすような言葉では無かった。
疲れと血の汚れが、さとりの第三の視界をも濁らせて居たのである。

 「や、やっぱりあたし、足手まといだ」
 「……そんな事無い。私だけだったら、もっと大勢に絡まれていたかも知れない」
 「でも、あたしが居るから逃げられないんだ。本当は一人なら、どうにでも出来るのに……
  だってさとりさん、本当はもっと強い妖怪じゃないですか」

 こればかりは、さとりだけを非難する事は出来ないだろう。
そもそもタロの抱える光への羨望と嫉妬は、たった数刻で癒せるような物では無い。
無償の愛に照らされれば照らされるだけ、闇もまた深く刻み込まれていく。それは時折、善良でしかない思いからとて、生まれるのだから。

 「待って、貴女は勘違いをしているの。私は本当に、心が読める以外は大した妖怪では無いわ。ずっと、弱い存在よ」
 「ならどうして! 誰かの助けになる事が出来るんですか!
  弱い妖怪は、どうしようも無い存在は! せめて『弱さ』を誇りにしないように、生きていくしか無いじゃないですか!
  なのに貴女のような人が、『弱い』なんて言葉使わないで下さい!」

 ぶわり、と毛を逆立てて声を荒げる。
ああ、こんな事を言いたく無いのにと言う後悔に塗れながら、それでもタロは胸から沸き上がってくる言葉の洪水を止める事が出来ないで居た。
そしてそれは、そんな心の内を知りながらも罵倒を受けるさとりも同じであった。
ああ、こんな時あの人ならどう答えただろうと煩悶しながら、吐出された言葉を前に右往左往する。

 「……いつだって同じだ。あたしだけが何も出来ない。もっともっと、色んな事をお返ししたいのに。
  あたしが幾ら弱さを気にしなくても、あたし以外の人があたしの『弱さ』を気に掛ける」

 それもまた、一つ一つで有れば小さな親切心でしか無い。
けれどそうして、無償の助けを受ける度に、タロの小さな心は、無視できない自分の醜悪さで一杯になるのだ。
気を使われる度に自分の弱さを突き付けられる気がして。そんな風に思ってる自分こそが、やっぱり弱いって認めてるようで。

 「ジロだけが、あたしの世界で、あたしとおんなじだった」

 熱に浮かされたように光無い目を向けるタロの向こう側で、男の悲鳴が一つ響き渡る。
タロの心を食い入るように見つめていたさとりは、はっと我に帰り周囲を取り巻く嫌な空気に気付く。
煙のように薄まった筈の怨霊達が、いつの間にか彼女の身の回りを取り巻くようにして囁いていた。

 ――欲シガレ……欲シガレ!

 「あたしと同じように、可愛がられて餌を貰う立場だったの」
 「……駄目よ、その声に耳を傾けては駄目」
 「あなただってそうなんでしょう? あたしが生きていくのに、誰かが血を流さなきゃ行けない。あたしが弱いせいで!」
 「その子から出て行きなさい、怨霊共! 私が、古明地さとりが怖いならば!」

 隠し持った黒帽子を胸に抱きながら、さとりは叫んだ。いつの間に目をつけられていたのだろうか?
生きている住人達を避けるのに必死で、こちらには全く気をやって居なかった。

 「そうだ。だからジロも死んじゃったんだ。あたしのせいで、あたしの弱さのせいで、血を流して死んじゃった」

 彼女はついさっき、自らの光を失ったばかりだと言うのに――!


 「……助けて」


 小さな心が、ぽきりと折れた音がした。

 「誰か、ジロの代わりに、あたしを助けてよ。
  あたしと同じ位に弱くなって、あたしと同じ立場で生きてみせてよ。
  もう嫌だ。どうして優しくされる度に、心配される度に、いつか捨てられるんじゃないかってビクビクしなきゃならないの?」

 悲鳴が消えて行った向こう側で、骨を砕くような音が聞こえる。
路地から顔を出し、タロの背後に姿を表したモノを見て、古明地さとりの顔は醜悪さに歪んだ。
背丈程も有る巨大な貌の縫い潰された目と、さとりの目が合う。怪物は、憎しみを毛先まで行き渡らせるかのように身震いをする。
異様な気配に気付いたタロが後ろを振り返り。その異形に、言葉を失った。



 「う、あ……?」

 ――GRRRRRRRRAAAAAAAA!!


 三つの影が、衝突し。路地を作っていた家の一つが爆発したような衝撃を受け、ひどい土煙が立つ。

 捻り曲がった地底の縁。少女の願いは、最悪の形で叶えられる。


 ◆


 ぐしゃりと身体がひしゃげる音を、さとりは聞いたような気がした。
散々思い知った事では有るが、この位では妖怪は死なない。勿論、当然のように痛いは痛いが。
妖怪の場合問題なのは、身体の傷よりも心の傷である。極端な話、生きる気力が無くなれば妖怪は死ぬ。

 だからこそ。

 その爆轟めいた突進力に反応出来ずに居たさとりを押し退けて白狼の少女が躍り出た時、一見、美談である話の裏で"生きる為可能性を完全に投げ捨てた"行動を取った時。
「ああ、この子は結局死ぬんだな」と、どこか覚めた部分でさとりは因果を受け入れた。



 「ケホッ、ケホッ……」

 地面に倒れ付したところで埃は容赦なく喉に絡み付き、焼き付かせる。
モウモウと立ち込める土煙は目に入ってくる光を奪い、代わりと言わんばかりに刺々しく痛みを寄越した。

 RRRAAAAAAAAAー――!!

 化物の声は、未だ近くから響く。
当然だろう、いずれ両方とも始末するつもりだったかも知れないが、少なくとも最初に狙った獲物がこうして生きている。
見えないながらもせめて足掻こうとさとりは身体を起こして、ふと、ある事に気付いた。

 「……この声……」

 AAAAAAAAAー――!!

 「悲しんでる? どうして……」

 あるいは視界が晴れれば、その心も分かるのかも知れないが。
さとりは状況を確認し、逡巡し、そして、一歩前へと踏み出した。
死んだかも知れないとは思ったものの、未だタロは死んだと決まった訳ではない。
せめてどうにも成らない所まで足掻いてからで無ければ、あの人に向ける顔も無いではないか。
さとりが動くのはタロへの情よりも行き場のない心の昇華と言う面が大きかったが、だからこそ彼女らしからぬ蛮勇を発揮した。

 「大丈夫!? 返事出来る!?」

 慟哭の叫びを上げる化物の側をすり抜けて、小屋の残骸へと手を伸ばす。
しかしてタロは、目立った外傷も無くぐったりと漆喰の壁で在った物の上で横たわっていた。
但しよくよく見ればその左腕は大きく捻り曲がっており、顔は土気色を通り越して白く、口からは血の泡が溢れて居る

 「……内蔵をやったんだわ。このままじゃ……」

 唯でさえ、怨霊に憑かれて精神をやられていた所にこの傷だ。特に内蔵の痛みは、長く残る。
怪異よりも生物の色が強い妖怪は、身体の異常から精神に病を残す事も多く有る。内蔵と言うのは、その典型だ。
医者に見せるか。だが動かせるのか。何よりもまず、この袋小路から出なければいけない。

 ――GRRRRRRRRRR

 土煙が晴れていく。白い巨頭の怪物が、姿を表す。
腰を据えて見ればその姿はどこか犬のようでも有り、憎悪で顔が歪む前は、あるいは愛嬌の有る顔をしていたのかも知れない。
憎悪。そうだ、幾ら表面の心を読んだ所で、それ以外の感情は浮かんでこない。
ならばさっき見せた悲哀は気のせいだったのか――? さとりは首を振った。考えるよりも先に、何とかしなければ。
……何を?


 「封ッ!」


 ジリ、と右足が砂を噛んだ所で、紅白の乱入者が現れる。
それはさとりの頭上に突如現れると、明らかに物理法則を無視した動きで縦回転し、針を撒き散らした。

 「穴ッ!」

 紅白の回転物体は再びパッと消え失せ、明滅して今度は化物の頭上に現れた。
回転を十分に乗せた踵を封魔針の突き刺さった額に叩き込み、発散しきらなかった回転エネルギーが脛と腿のバネで捻じれ、ぐりぃと音を立てて踏み躙る。
そのまま斜め方向に跳ね返るように飛んだ紅白は、案外軽い音を立てて古明地さとりの前に着地し、ようやく人の形を取った。

 「……まさか本当にまるっと釣れるとはね。ややこしい状況みたいじゃないの、覚り妖怪」
 「博麗の巫女……!」
 「その子、探されてたわよ。まぁちょっとそれ所じゃ無いみたいだけど……取り敢えずこれでも貼っといて」

 霊夢は懐から平癒と書かれた札を取り出すと、タロの丹田の位置へと貼り付けた。
柔らかな光に包まれ、苦しげだった呼吸が少し柔らかくなる。どうしようも無い筈の運命が、博麗に引き込まれていく。
地面に叩きつけられ横たわる怪物が、その隙にカッと目を開いて再び壁の向こうへと隠れる。

 「ええい、七面倒臭いな! 藍!?」
 『問題ない、直に仕上がる』
 「……ああ、懐かしいですね、それ」
 「そーいやあんたん時も使ってたんだっけね。何か最近色々有り過ぎて、だーいぶ前だった感じがするわ」

 陰陽球に向かって怒鳴りつけた向こうから、恐らく九尾の狐の声が聞こえる。
油断無く周囲を見渡す霊夢を見る限り、どうやら九尾の仕掛けで何かを起こすつもりの様だ。

 ――イヌガミ。それがあの怪物ですか。

 成程、それならばまさしくあれこそがジロの成れの果てなのだ。
憎悪で心を満たし、タロの持つ劣等感や嫉妬に反応して暴れ回る怪物。
犬であるが故に他の化け動物には強く忌避感を持たせ、動物霊でありながらカミを名乗る。

 ――そして、博麗……

 さとりは、そうと悟られぬ様そっと己の胸を撫でた。正確には、外套の中に隠した天子の帽子を、である。
この状況の中八雲紫がどうしているかは分からないが、巫女に悟られれば彼女に伝わるのにそう時間は掛からないだろう。
さとりは避難をするふりをして、霊夢がイヌガミと格闘し始める隙を見てタロの身体を背負い飛び上がる。

 「ちょっと! 押し付けていく気!?」
 「この子を放って置く訳にも行かないでしょう?」
 「それはそうだけど……うぎぎ、ああもう!」

 最後はイヌガミに腕を喰われそうに成って慌てて顎を蹴りあげた声である。
気を散らすのも危険と考えたのか、あるいは足手纏いが居なくなる事を良しとしたのかそれ以上抗議の声が上がる事は無かった。
ふらふらと覚束無く揺れながら、さとりはタロと共にその場を後にする……



 どすん、と霊夢が放った蹴りは、地面と言う壁に阻まれて固い音を立てた。

 「くっそ、相変わらず面倒な奴ね! さとり達も逃すし!」
 『焦るな霊夢、虻蜂取らずだ。今は危険度の高い方から対処する』
 「だったら早く準備してよ! こいつったら図体大きい癖にちょこまかと土の中に隠れて、やりにくいったら無いわ」
 『そう言うな、唯でさえ色々と場当たり的なんだ』

 霊夢達の言う準備とは、即ち火気を強くし金気(殺気)を剋そうと言う試みであった。
獣霊、それも最下級とは言え神霊で有るイヌガミを祓うと言うのは、いかに霊夢であっても難しい。
なぜなら彼等は力こそ弱くとも非常にねちっこく、特にイヌガミと言うのは術者が死んでもその血縁にまで取り付くような輩で有る。
これを正道で祓おうと思えば、ひと月からふた月は辛抱強くお祓いをせねばならず、当然、そんな時間的猶予は無い。
正道と言うのはカミに対して「お帰り頂く」、もしくは「お鎮まり頂く」と言う事で、言わば説得に近いのだ。
勿論正道があれば邪道もあり、こちらはより大きな霊が喰い殺すと言う物であるが、霊夢はこれを却下した。

 『私が喰らえば一発なんだがな。獣霊としての格は比べるまでもない』
 「止めなさいよ、可哀想でしょ」
 『本気か?』
 「半分本気、半分冗談ね。橋姫の様子、あんただって見たでしょ?
  祓うなら祓うにしたって、せめて敬意が必要よ」

 しかし、せめて縛り付けておかねばこれもまたどうなるか分からない。今の状況を摺り合わせた、せめてもの妥協点である。
道の通った広場の四方に赤銅の器と馬絵の札を置き、それぞれに鶏肉、干し杏、麦、魚の肝を混ぜた粥を乗せ即席の結界とする。
器と札については霊夢達の持ち物で用意が有るが、食物に関しては結局星熊勇儀に話を付ける必要があった。

 『これで三度目だ。また逃したらそろそろ無能の謗りも受け入れねばならんな』
 「だったら早く準備しろっての!」
 『今出来た所だ! 良いぞ、追い込んでこい!』
 「待ってましたぁ」

 霊夢が飛ばしたアミュレットはイヌガミが地に潜った事で掻き消える。
ここまでは先程と同じであったが、同時に霊夢は後ろに向かって滑るように動き出した。

 GRRRRR!!

 イヌガミが本能に任せ背を向けた獲物を追いかける。
霊夢の移動速度はそう早い物では無いが、その牙が彼女の影を掠めたと思った時、その姿は十数枚の札に分かれていた。

 ――ッ!?
 「こっちよ」

 僅かにたたらを踏み、イヌガミはその顔を醜悪に歪める。
確かに貫いた筈の紅白は、御串を肩に担いで不敵に笑う。

 GRAAA!
 「残念」

 GRRRAAAAAAAAA!!
 「外れよ!」

 突進を掛ける度に巫女の姿は札として分かれ、ビシビシと僅かな痛みを与えて来た。
次第に、土や壁に隠れるのも忘れ、イヌガミはその赤い目を爛々と光らせる。

 「そうよ、そのまま……そのまま来なさい…… ――藍!」
 『承知だ!』

 霊夢の肌がチリチリと乾く。グンと周囲の熱気が増したのを感じ取る。
もっと特化した風水師であれば、この程度の準備でも炎を出してみせたりするのだろう。
多少地震で崩れたとは言え、赤煉瓦で築かれた風景はこの惨状の中でもある程度の形を保っていた。

 ――ARRGG……

 「うわキツ……こりゃ、藍のくれた札に感謝ね……
  あんたも大分参って来たじゃないの。そんなに舌出しちゃってさ」

 絞り出されるように汗が落ちる。
釜石のように熱せられた石畳の上に落ち、ジュウと蒸発音を上げた。

 「さぁ、かかってきなさいな。カミと言うのがどういう物か、巫女自らが教えてあげる」


 ◆


 ぐらりと傾く身体を、さとりは歯を食いしばって持ち直した。
身体が重い。子供一人分を背負ってるとしても、地面が心地の良い布団に見える程である。
背中で感じる混濁した意識が段々と自分を取り戻していく様子は、コーヒーにミルクを掻き混ぜるのを丁度逆再生していく様子。

 「……喋れそう?
  いえ、無理なら言葉にしなくても良いわ。私なら、十分に分かるから」

 息を吐くタロの姿は、丁度生者と死者を混ぜた境界線の上にあった。
靴底が砂利を噛み、吐き出して、さとりは一歩一歩進んでいく。

 「……そう、よく判ったわね。確かにあれは、貴女が大好きなお友達だそうよ。
  あの後やってきた博麗の巫女がそう言っていた。今は彼女が、あのイヌガミの事を相手してるわ。
  ……ごめんなさい、それに関しては知らないの。でも、貴女に断りもなく殺しはしないんじゃないかしら」

 さとりもまた、自分の精神力が限界に近い事を察している。
灰の混じったむき出しの地面は固く、暗い路地の中でまだ燃えていない木の柵が、寄り道を阻むように左右を封じていた。
一方は暗く、一方は明るい。分かれ道は無く、一歩進めば進むだけ、そちら側に近づいて行く。
さとりは今、暗い所から出てきた所なのだ。疲れは糸のように絡み付き、さとりを引き戻そうとしている。

 「……一つだけ、聞いていいかしら」

 耳元で聞こえる呼吸音はか細く、意識が再び沈まぬように声を掛ける必要があった。

 「どうして、命を捨てるような真似をしたの?」

 問いが聞こえて、タロの身体はギシリと強張る。手も足も、この熱く濁った空気の中、驚く程に冷たい。


 「貴女は、まだ、生きたい?」

 さとりが、そう聞いて。

 「――……ぃ。
  生きたい……です……!」

 タロが、こう答えた。


 「そう」

 自分の首筋に涙が伝って落ちるのを、さとりは黙って受け入れる。
霊夢が貼った札の効果は、果たしてどれだけ持つのだろうか。この怪我人だらけであろう地底の中で、医者の手が回る時まで?
一歩、足を進めようとして、もう殆ど足に力が入らない事に気付いた。
この疲れが自分に向けられる悪感情から来るのなら、それはまさしく因果が絡み付いた糸だとさとりは思う。

 らしくない事をしているなと思うのは、これで何度目だろうか。生き方を変えたいと、思っては居た。
水を手に入れる際の小芝居で、御廻組の男から読み取った思念を思い返す。ああ言う事をしていた自分がずっとずっと嫌だった筈なのに、何時の間にか苦に感じなくなっていた。
生きたい。そう、誰だって生きたい。死に近くなればなる程尚更に。それは、さとりにも覚えがある。
前に進む道は明るく、一歩進む毎に足が沈んでいく。光を見つめ過ぎて、穴が開いていても気付かないのかも知れない。

 生きたかった。生き方を変えて生きたかった。それをあの人は、ロックンロールと呼んでいた。
正しい言葉は他にあるのだろう。けれど古明地さとりに取って、意味の有る言葉はそれ一つだ。
縁がこの世に有ると言うのなら、因果が結果を引っ張ってくると言うのなら、さとりはただあの人に会っても恥ずかしく無いように在りたい。この純粋で不純な「恋」と言う気持ちを、誰かの都合なんぞに持っていかれるのだけが、気に入らない。

 「……だったら、これもロックだ」

 崩れ落ちそうな膝に気合を入れながら、さとりは独りごちる。

 「本に載ってる物でも、誰かが歌ってる物でも無い。私だけのロックだ」

 背中で支える命の音は、一歩進む毎に小さくなっていく。何の理不尽か巻き付いた因果の糸が、彼女を「暗い方」へと持って行こうとしている。
だから、さとりは。大きく息を吸って、吐いて。そしてもう一つ、息を吸って。

 「――古明地さとりが居たぞぉぉッ!」

 因果を束ねたその糸を、逆に自分の方へと、思い切り引っ張ってやる事にした。





 「さ、さとり様が捕まったぁ!?」

 握り飯に入っていた梅干しの種を思い切り吐き出しながら、黒猫状態のお燐は尻尾を逆立て膨らませた。

 「しっ、静かに。誰かに聞かれますよ」
 「あ、にゃー」
 「やってる場合?」

 同じく鴉状態でお握りをついばんでいたお空が、ジト目でお燐を睨む。
まさかお空に突っ込みを入れられる日が来るとは思わず、お燐は黄昏れながらコロコロと梅の種を転がした。

 「瀕死の子供と、重なり合うようにして倒れていたのを御廻組が見つけたそうです。
  以前から流れていた話の事もあり、街はざわめいた空気で一杯でしたよ」
 「よりによって御廻組かい……嫌な奴らに目を付けられたね。
  そう言う永江さんは大丈夫だったんですか? わざわざあたいらの為に、配給まで……」
 「まぁ、私は赤貧の霊夢さんや倹約家の藍さんと違って、しょっちゅう遊びまわって居ましたからね。
  金を落として居た分顔は通ります。……ま、世の中コレですね」
 「うわぁ、ガッカリだなぁ、天女」

 人差し指と親指を丸めてくっつける天上の人に、お燐はあからさまに顔を顰めた。
さして気にした様子も無く、衣玖も自分の分の汁を啜る。

 「それでどうするか、ですが」
 「助けに行こう!」
 「……まぁ、待ちなよ。お空」

 翼を広げるお空を、お燐は留めた。あからさまに不満な表情で、お空はお燐の方を向く。

 「なんでさ。お燐だって、心配してた癖に」
 「そりゃあ心配だよ! でもさ、あたい達には守れる物と守れない物があるんだ。
  さとり様に襲い掛かった物が単純な暴力なら、一緒に居ればあたい達で守る事が出来る」

 わざとらしく襲いかかるジェスチャーをしながら、お燐は猫の姿で肩をすくめる。

 「でももう、噂として流れてくる位に状況は安定しちまった。そうなれば、力で解決出来る段階じゃないんだ。
  あたい達は力は有るけど、他はいまいち。せめてさとり様の考えが分かる位には情報を集めないと……
  あたい達のせいで余計こんがらがっちまっても仕方ないだろ?」
 「むー……」
 「まぁ、あたいはそう思うんだけどさ。その辺どうだい、永江さん」
 「そうですねぇ」

 口にあるものを飲み込んで、改めて衣玖は口を開く。
何故この何処かとぼけた天女に相談しようと思ったのか、それは分からない。状況だけ見ればここらで適当に「はいさよなら」となっても何処もおかしく無い相手だ。
けれど何となく、彼女は他人をそんな風に見捨てない気がしたし、お燐には彼女こそがこの中で一番「大人の戦い方」に慣れている人物で有ると思えた。

 「確かにお燐さんの言う通り、暴力に訴えるのは最終手段でしょうね。
  少なくとも、そうしても良い『空気』の味方を得なければ、仮に助けられたとしても地底には居られなくなるでしょう」
 「逆に言うと、口実があれば実力行使に出ても問題ないって事?」
 「要は大衆が味方に付くかどうかですね。不幸中の幸いと言うべきか、御廻組がさとりさんに何かするので有れば……
  そこにはある程度"見せしめ"的な意味がある筈です。乗り込むのなら自然と注目は集められる」
 「うー……? 結局どうすれば良いのさ」
 「まずは、話を聞きに行きましょう」

 カチャリ、と置かれた食器が音を立てる。小動物姿の二人は、衣玖のピンと立てられた指をジッと見上げた。
当の衣玖は相変わらず柔和な無表情で、なおかつ何処か得意そうな雰囲気を漂わせいそいそと羽衣の中に二人を隠す。

 「古来より、大衆を動かすのに必要な物は三つ有ると言われています。
  子供、スキャンダル、そして音楽……上手く行けば、その内の二つが手に入りますよ」


 ◆


 どぷん、と水に落ちる音がした。冷たい流れが身を包み、小さく震える身を運んでいく。
辺りは暗く、繁殖してるであろう藻以外に生物の匂いがしなかった。

 ――何も、見えない。

 だが全ての光を亡くした闇も、子供にとっては慣れたものである。生まれついて光を得る力が弱いこの目では、何もかもが黄昏時のようにぼやけて見えた。
むしろ幽暗の怪物が口を開けているとすれば、理不尽に立たされた人生の岐路での何処かであろう。
玩具のような船の上で、餞別のように置かれた子犬と一緒に流れに身を任せ降りていく。何処に行くのだろうと言う考えをする事は、無駄な事だと思いながら。
「どうしてこうなったんだろう」と言う言葉だけを、ずっと呪い続けて生くのだろうか。

 「怖いね」

 手の届く範囲に居る子犬をぎゅっと抱きしめると、ようやく暖かさを得る事が出来た。
波の音と水の匂いに紛れて、辺りの様子は分からない。暫くぶるぶると震えている内に、緑の光が子供を照らす。

 「……?」

 ふと顔を上げると、抱いていた筈の暖かさは空気のように四散した。
やっと立って言葉を喋れる程度の歳であった子供も少し育ち、匂いを嗅げば辺りは名も知らぬ赤い花が咲き乱れているのだろうと言う事が香りで分かる。
水の流れは信じられない程穏やかになり、そのままプカプカと浮かんでいると、突然、気配も無く声が掛けられた。

 「……あなたは、まだ生きたいと思ってますか?」

 不思議な声であった。耳から入ってきた熱が、ジンジンと残り続ける。そんな痛みがあった。

 「え?」
 「悲しいかな、この世は苦しみに満ちている。
  それでも生きたいのならば、ここにはまだ来るべきじゃありません。戻ると良いでしょう」
 「……生きていても、良いのでしょうか。あたしのような何も出来ない存在が」
 「それを知る所から、一歩は始まります。その人が為した事は、必ずその人の前に現れる」

 優しげな口調で有りながら、ふんわりと包み込むだけではない断固とした意思が感じられる。
妙に説得力を持った声は、時折こちらを打ちのめすようにも聞こえてくる。タロは顔を上げ、声が聞こえてくる方向へと答えた。

 「ならば、まだ生きたいです! その結果とやらを……あたしはまだ、受け取ってません!」
 「善き哉」

 そう言われたかと思うと、スウと辺りが明るくなる。それで「ああ、夢を見てたのだな」と気が付いて、タロは自らの暖かさを取り戻していった。





 「あ……」

 意識を取り戻したタロが、まず行ったのは呼吸である。
搾られきった体力を取り戻すかのように深く呼吸をすると、かさかさの喉がひりついて大きくむせた。
余りに咳き込むので、辺りに居る者達が皆目を剥いてこちらに注目している。目に頼らない生活をしていれば、そういうものは自然と分かった。

 「タロ」

 縋り付くように側に居た水橋パルスィが、信じられない程優しい声でタロの髪を撫でつける。
実際、タロはパルスィのそのような声を初めて聞いたので、一瞬誰の声か気付けない程であった。

 「……お母さん」
 「良かった」

 いつものようにがなりたてる事も無く、パルスィはタロを胸に抱き寄せ、周りの目など存在しないかのように泣き出した。

 「本当に、良かった……」
 「良く、無いですよ」

 胸の中で暖かい涙を流しながら、タロは身を震わせる。ぐうと力が篭もる腕には、ただ悲しみや安心だけではない理由があった。

 「……まだ、良く無いんです」
 「もう、良いのよ。もう良いの。貴女がこれ以上頑張る事なんて」
 「嫌だ!」

 タロは二つの手でパルスィの肩を引き剥がし、ガバリと顔を上げる。
タロがそのように声を荒らげたのは初めてなのだろう。目を白黒とさせて、パルスィの視線が呆けたようにタロを向く。

 「もう、嫌なんです! 勝手に奪われて、与えられて! それでも良いって思える日は、もうこない!
  ……せめてあたしが、あたしが責任を負わなきゃ。ジロは」
 「駄目」

 強い口調が帰る。回されたのは、優しく抱きしめるのではなく、捕えて離さない腕だった。
パルスィの翠色の瞳が、爛々と光る。飛ぶようにせっていた気持ちを、呪い、重し、縛り付ける。

 「駄目よ。許さないわ……もう、私から離れないで」
 「……」
 「そんなに、急がなくて良いじゃない。もう少しゆっくりだって、誰も怒らないでしょう?
  何より、貴女はまだ――」

 子供なんだから。
その、縋り付くような眼差しを。今にもまた泣き出しそうな声を、押しのける事が出来なくて。
タロは、しゅうしゅうと自分の中で膨張していた空気が抜けていくのを感じた。
願ってくれれば、欲してくれればと普段思っていただけに、いざ押し付けられた願いが心の海を濁らせる。


 「やぁやぁ、向こうの桶を綺麗な水に取り替えるのも終わったよ。……タロ! 目が覚めたのかい」


 一瞬、ずしりと重くなっていた空気を跳ね除けるように、努めて朗らかにした声が部屋を裂く。
しかし声の朗らかさもすぐに驚きに変わる。声の主は手に持っていた水差しを半ば放り投げるようにして、タロへと近づいた。

 「ヤマメ、さん」
 「そうか、そうかぁ。私はねぇ、本当にあんた、してやれる事が無くて……グスッ、ああくそ、大きい声じゃ言えないけどねぇ。
  生きてて良かったぁ……生きてて良かったよぉ……」

 生きてて良かった。何気ない言葉の重みが、ずしりとタロの小さな肩に伸し掛かる。
この命は、権利は、あのくしゃっとした覚り妖怪に譲って貰った物なのだと思うと、皆が唱える「良かった」が急にクチャクチャに萎んで見えて。
だけどそう、命を救おうと思えば、折角「良かった」命を再び賭ける事になりえるのだ。檻のように回された腕を払いのければ、橋姫はまた嘆き悲しむだろう。今度は自分自身の手で、叩き落とさなければならない。

 「やだよぉ」

 パルスィのトラス襟に潜り込んで、押し潰されるようにタロは涙を流した。
大きな声で喜べないと言う事は、この場で命を落とした者も居るのだろう。想像するのがまた堪らなく嫌で、駄々を捏ねるようにタロは泣く。

 「どうしてあたし、こんなに弱いの」

 吐き出されたのは、面の裏に負けん気を隠して歯を噛んでいた少女の折れたプライドの欠片である。
唾に溜まったのは、短刀を突き立ててでも言わなかったであろう言葉である。目を背けて居た、現実との対面。
それは少女を大きく傷つけ……


 「では、その弱さを活かして、貴女に頼みたい仕事があります」


 やがて、強く成長させる種となる。


 ◆


 暗い岩の裏に生える藻のような瞳が、永江衣玖を映し出した。
ドロリと腐ったような空気が再び辺りを包み、その重さたるや堪らず土蜘蛛が一つ咳をする程であった。

 「許さないわよ」

 ヤマメは、パルスィの感情が昂ぶる程その瞳の輝きが鮮やかになるのを知っている。
だが水橋パルスィの「本気」ともなれば、今度はその緑眼から一切の輝きが消え失せるのも、また同様に。
衣玖の胸元で、小さな何かがぶるっと震えた気配がした。

 「絶対に駄目」
 「飴でもいかがですか?」
 「ふざけてるの!?」

 その本気を、ひょいと肩を竦めるだけで躱した永江衣玖とは何者なのだろうか。
この一瞬でヤマメは三度首を振り、二回目を細めて、深く息を吐く事になる。

 「取り寄せるのに苦労したのですが」

 衣玖が呟きながら取り出したのは、透き通った色をした飴玉であった。
それを見て、微かにパルスィの瞳に光が戻る。ヤマメにはそれが何故か分からなかったが、衣玖が雰囲気からなんとなく悪戯に成功をした子供を彷彿とさせるのが気になった。

 「これは本当に何の変哲も無い薄荷飴ですけど」
 「……なんで、貴女が、それを」
 「さあ。誰かから話を聞いて、ついでに頼まれたような。実際の所さっぱりなのですが」

 彼女のお告げがあまり信用されないのは、本当か嘘か分からない所に有るのじゃないかとヤマメは思う。
あんな顔で何でも無いかのように重大な事を言われても、そりゃあ流してしまって仕方が無いだろう。

 「少し話を聞いていただけますか?」

 返答を待つまでもなく、衣玖はパルスィの口元に、長く白い指先で飴玉を放り込んだ。


 ……実際の所、状況説明の大半は後から入ってきた霊夢達がする事となった。
その内、作戦説明をするにあたって辺りの妖怪の目が退けたのを見計らって地霊殿のペット二人が顔を出し、段取りに鬼の力は必須と言う事で勇儀が呼ばれた。煙の怨霊が少なくなった事で、萃香も半分程霧になりながらその辺に漂っている。

 「実際、ここまで来ると大集合ね」

 茶化すように言う霊夢の言葉に同意は無いが、また反論もまるで無い。

 「状況はわかったよ」

 両手を突き出すように、それ以上の言葉を止めながらヤマメは言う。
その顔には困惑がありありと貼り付けられ、しきりに髪を掻き毟っている。

 「……タロは、助けたいんだよね。その、覚り妖怪をさ」

 一度唇を水で湿らせて、タロはこくりと小さく頷いた。

 「覚り妖怪が……あーなんだ、そんな話が分からない奴じゃ無いってのは……何となく知ってる気がするんだけどさぁ」

 俯いた瞳を上目遣いにして、ヤマメはチラチラと辺りの表情を伺っていく。

 「接点がどうしても思い出せないんだよ。なんで私、そんな実感が有るんだろうって……
  なぁ誰か、分かったりしない? 衣玖さんとか、どうなのよ」
 「さぁ……仮にもお偉いさんですし、仕事の時に一度くらいは会ったかも知れませんけども」
 「そういう表情してないんだってば、衣玖さんってばさ」

 普通に生きてりゃあ、黒谷ヤマメが古明地さとりと接触する機会は間違いなくゼロの筈だ。
だと言うのに、何故か黒谷ヤマメの頭には彼女の屈託なく笑う様子も酒で酔い潰れる姿も入っている……ような感じがする。
それがどうにも、小骨が喉につっかかったようで気持ちが悪く、ヤマメは一度目頭を揉んだ。

 「悪いけど」

 ピタリ、と伊吹萃香の静止が入る。

 「今はちょっと、後にしてくれ。やんなきゃ行けない用事が詰まってそうなんでね」
 「あ……すみません、伊吹様」
 「只の伊吹さ、今此処に居るのは、あんたらも何もかも投げ出した……情けない鬼だ」

 自嘲気味に吐き出して、萃香は自身の瓢箪を傾けた。

 「気が乗らないかい」
 「えー、いや……嘘ついちゃ駄目ですね。はい正直、自信が無いです」

 憧れの妖怪の前という事もあってか、答えるヤマメの背は微妙に縮こまっている。
萃香はその態度に苦笑いを浮かべ、あぐらをかく膝の上に肘をついた。

 「嘘が嫌いなんであって、正直でありゃあ良いってのも違うと思うけどね」
 「えぇー……でも実際、歌で争いが止まるとか、そりゃ凄いし王道な展開だと思いますけど……
  実際やれって言われても、その……ねぇ? アニメじゃないよホントの事さって?」
 「……出来ませんか?」

 タロの見上げる眼差しに穿たれ、ヤマメは笑顔を貼り付けたまま苦しそうな声を漏らす。
つついと視線を横にずらしながら、「まぁ、タロが行くなら行かない訳にも行かないけどさぁ」と言い訳じみた言葉を返した。

 「あたしは、行きたいです。あたしは弱いから。生きていくにはきっと、ここで逃げたら取り返しが付かない」
 「駄目よ」
 「パァールスィ……」

 目を光らせて即答するパルスィに、ヤマメは呆れたような声を出す。
当の仕掛け人で有る衣玖は、ここまで来ても特に何か口を挟むつもりは無いようである。
謎といえば、これも謎だ。地霊殿のペット達はともかく、永江衣玖がここまで積極的に動く理由は無いように思えたが。

 「私ゃそれよりも、この地震の裏で何かを企んでる"誰か"とやらの方が気になるね。
  ……こんだけの異変、いや、もう異変なんて遊びじゃ済まないよ。……命を、遊んでやがる」

 一見物静かに腕を組む裏で、業火のように憤るのは星熊勇儀である。地震発生直後から、少しでも多くの犠牲者を救うために走り続けた彼女こそ、この中で一番「傷痕」を見て回って来たのだ。

 「……さとり様の事はどうでも良いって言うのかい?」
 「悪い奴だとは思ってないがね、でも、あいつだって沢山の妖怪を"喰って"来たんだろう?
  自分だけは絶対そうなりたくないってのは、ちと虫が良いと思うけどね」
 「それは……!」
 「とは言え、それも"誰か"が糸引いてるってんなら気に入らねぇ。
  御廻組の奴らにゃ悪いが、ぶち壊すのもやぶさかじゃ無いさ」
 「……そうかい。なら、いいけど」

 尻尾を膨らませ立ち上がりかけたお燐も、ひとまずは満足して座り直す。
辺りが落ち着いたのを確認し、ふむ、と一度咳払いをして発言したのは、八雲藍であった。

 「どちらにしても、一度タロにはやってもらう事があるな」
 「……まぁ、そうね。軽く封じては居るけど、祓った訳じゃないから。
  あんたにゃ一回しっかりと対面して、ご主人様として躾けてもらわないとね」
 「ジロ……」

 これに関してはパルスィも否とは言えず、タロと一緒に顔をうつむかせる。

 「うー……なんかこんがらがって来たんだけど。鬼のひとはどうするの?」
 「……そうさな、私もちょいと、覚り妖怪の奴に関して気になる事がある」

 細く尖った視線が、布団代わりの布切れを胸に寄せたタロに突き刺さった。
ぞわり、とタロの肌が泡立つ。決して殺気のような物では無いが、何処か正体の知れない意思が萃香の視線には込められていた。

 「覚り妖怪は、恋をしたと言ったのかい? 想い人が居たと?
  ……一緒に暮らしてる二人は、そいつに心当たりは有るのかい」
 「いや……あたいは、全然。そんな素振りも無かったですし。
  あ、でも、最近良く目を真っ赤にしてる事は有ったな……」
 「うにゅ……さとり様、フラれたのかなぁ。それはショックだねぇ」

 想像もしていなかった飼い主の「恋愛」宣言に、ペット達も少なくない衝撃が有るようだ。
その言葉を聞き、萃香はフンと鼻を鳴らす。

 ――紫の奴、焦って荒っぽい手を使うから。らしくない……

 「なに萃香、あんたそれが動機で助け出そうっての?
  地上で霧になって出歯亀してるのは知ってたけど、流石にちょっと趣味が悪いんじゃない?」
 「違うって言ってやりたいんだけど、霧で色々見てるのは事実だから否定しにくいなぁ……」

 別にそういう物が見たくて霧に成ってる訳でも無いのだけれど。
スススと半歩距離を取る霊夢が悲しくて、ちょっとホロリとくる萃香であった。

 「まぁ、そんな意味じゃないけどさ。私は私で確認しときたい事が有る」
 「……そいつは、ひょっとして……」
 「『待った』だ、勇儀。その先はもうちょい黙っといてくれ」

 藍が訝しげに眉を顰めるのを、萃香はちらりと確認する。

 「まぁ、萃香さんに関しても概ね了解で良いのであれば」

 ザッと靴底で砂を擦り、永江衣玖が胸を張った。
その視線は、子の躰を締め付ける程に掴み、目に涙を浮かべて下唇を噛む橋姫と向けられる。

 「……何よ」
 「話は、終わりました」
 「駄目よ。絶対に許さない。この子にこれ以上、どうして危ない真似をさせろと言うの!?」
 「……」
 「もう良いでしょう!? こんな、訳の分からない事で、理不尽に子供が傷つけられるのはうんざりなのよ!
  何なのよ貴女は! どうして竜宮の使いが覚り妖怪を助ける必要が有るのよ!
  話も何も、肝心の貴女が何も語ってないじゃないの!」

 少し解れた衣玖の胸元を、パルスィは掴みかかって釣り上げた。
姿勢の差もあり、頭一つ分高い衣玖の目を、その翠の瞳で見上げ睨む。

 「なんとか言ってみなさいよ……!」
 「私にも、私なりの利害と目的はあります。しっかりと」
 「だからそれを!」
 「教える事は出来ません。社会人ですので」
 「ッ!」

 ドサリ、と靴底が土に付く。突き飛ばされた衣玖は、二、三歩たたらを踏んだ。

 「御免だわ!」
 「……声を、上げるべきです。何かを伝えるのなら」
 「話す事なんて、もう何も……!」
 「無茶が許されるなんて、子供の内の特権ですよ。大人になればなるほど、自分の行動なんてつまらなくなっていく」

 それは、パルスィに向けた言葉では無かった。一つ通り越した向こうに届けるべき言葉。

 「愉快に生きてやろうとしたって、ままならない物です」
 「口を! 閉じろ!」
 「子供である事を受け入れるには……まだ少し、子供過ぎやしませんか」

 水橋パルスィは、肩を震わせながら後ろを向く。そして、薄々と感づいては居たが涙が止められなくて、泣き崩れた。

 「お母さん」
 「あ、あ……」
 「……あたしは、いきます」

 光を移さぬ虚ろな瞳の中で、少年期はとうに終わっていた。
パルスィは、その頭を掻き抱いて、血で固まった髪を撫で付ける。興奮気味の熱が、腕を通して伝わってくる。

 「……あたしの苦しみを、苦しみだけを分け与えて、平気な顔をしていられるような相手は、もう居ないから。
  跳ね返って来た物を受け取らなきゃいけない。でなければ、弱いあたしはずっと甘えてしまう」
 「弱くて良いじゃない。甘えてくれたって、私は許すから」
 「分かったんです。目が見えないからじゃない、本当にあたしは弱いって。
  弱い事を言い訳にしたくなくて、でも本当は、ずっと何も見ない言い訳に使ってた」

 息を吸った。


 「他人と自分をしっかり見る事が出来るから妬めるんだって、お母さんが教えてくれました」


 ジッと、目が向き合って。やがてタロは、コクリと頷く。
悔しそうに瞼を閉じて、パルスィは煤けた頬に唇を近づけ。弾力の有る肌に、じっとりと吸い付いた。

 「若いって、羨ましいわ」

 耳元で熱っぽく呟くパルスィの声に、タロは擽ったそうに顔を振る。
線香の煙のようにか細い声は、今にも消え入りそうで、少しだけ干し草の匂いがした。

 「結局、いつも私は見送る側」
 「……ごめんなさい」
 「謝らないで。……でないと、私ただのワガママな大人じゃない。
  ……あぁ、それ以外の何者でも無いか……」

 とつとつと涙を流すパルスィの背に、小さな手の平が、永く置かれていた。


 ◆◆ ◆◆


  12/0:また日は巡る


 何とも念を入れたものだと、さとりは苦笑する。
伊吹の鬼が唱えたらしい、「胸に誇りさえ有れば覚り妖怪なんぞ怖くは無い」と言う論法に従えば、きっと彼等の胸にはすがり立つ志すら無いのだろう。
つい先日までただ汚らわしく感じられた心が、どうだ。余裕を持って見てみれば、むしろ可愛らしさすら浮かんでくるでは無いか。

 「……何を嗤っている、気色の悪い」
 「別に?」

 目隠しを付け、手を木板で拘束され、第三の目は特に念入りに布を巻かれながらもさとりは口元だけで笑ってみせる。
実際、第三の目から物理的に隠れる事に多少の意味が有る事は認めるが、こんな布切れでどうにかなる物ではない。
でもまぁ、それで彼等が安心するので有れば、いたずらに怖がらせてやる事も無いかとさとりは思う。
どうせ逃走防止に足の腱は切られ、殴られたり蹴られたりで身体中がガンガンに痛むのだ。完全に今日は目を酷使し過ぎて居る。灰混じりの乾いた空気も、瞳に悪い。

 「ちょっと、楽しい事を思い返して居ただけですよ。それで、この後どういう予定でしたっけ、隊長さん?」
 「……隊長は療養中だ。あの忌々しい八雲の狐に卑怯にも不意打ちを受けてな。
  故に今は副長である俺が皆を担う! 間違えるんじゃない!」
 「またまたぁ、どうせ内心はラッキーとか思ってるんでしょう? 男ならバリバリ最強ナンバーワンでしょう?
  あ、勘違いしないで下さいね。別に心を読まなくてもその位判りますよ。子供じゃなし」
 「思って無いと言っているだろうが! くそっ、忌々しい」

 これだけ縛り付けた状態であっても、さとりは緊張する様子すら見せずにこやかに会話を行おうとしている。
それが、御廻組にとっては不気味であった。如何な覚り妖怪であっても、力そのものは強い訳ではない。
処刑されるとあれば震える位の事はしても良い筈なのに、全くそれがないのだ。

 時期がほんの僅かに前で有れば、さとりのカリスマのメッキも剥がれ男達の溜飲も下がっていただろう。
今のさとりだって、恐怖が無い訳では無いのだ。だがどさくさに紛れて殺すのでは無く、こうして捕えている訳。
推測では有るが、地震が起こった問題の責任をさとりに押し付けて断固たる姿勢を見せる事で、鬼の自警団から実権を掠め取ろうと言う魂胆なのだろう。
こちらが煽った恐怖を利用して、それを倒す自分達を大きく見せよう、と言う訳だ。
見るからに脳筋っぽい彼らが考えたとも思えないから、後ろにはブレインが付いているとして。恐らくは、是非曲直庁。

 ――八雲紫に相当〆られたでしょうに。懲りない人達ですねぇ。

 それとも、当の八雲紫の不在を狙ったのか。どちらにせよ処刑を成功させようとまでは思っていなかった筈だ。
恐らくは、この機に乗じて八雲と地底の妖怪達の関係が親密になるのを嫌ったのだろう。御廻組は、亀裂の一つにでもなれば良い程度に思われている。
それがどうした因果か、古明地さとりの処刑が成功しかけているとなれば、図を描いたのが誰かは知らないが、今頃相当顔を青くしているに違いない。
このままさとりが処刑された所で、八咫烏が守矢の所へ行く格好の口実となるだけなのだから。

 「そう思えば、少しは胸の内もスッとしますね」

 誰に話しかけるでも無く、一人でククッと嘲笑う古明地さとりを御廻組の男達は気味悪そうに見つめた。
勿論さとりは、だからと言って大人しく見せしめにされるのを待つつもりはない。しかし、ここで逃げた所で何も精算されない。
そう、これもまた因果なのだ。かつて自らを虚飾の恐怖で飾り立て、言われるがままに妖怪を殺していた結果が、此処にある。
なれば古明地さとりは、自らの為した事から逃げるわけには行かないだろう。

 真っ向から迎え撃つつもりであった。
恐れず、竦まず。彼等が作る機に乗じ、怨霊も恐れ怯む少女と言う虚像を、真正面から打ち破るのだ。
そしてあの人を探しに行こう。妹が何かに噛んでるのは間違いないから、そちらが先かもしれない。
全くもって楽観的な、何の根拠も無い都合の良い妄想。

 「ロックですよね」

 あの人らしく行動しているつもりでは有るが、存外上手く行っているのでは無いだろうか。
現実だけ見れば犬死に直前と言うなんら旨くない状況な訳だが、其処はそれ。恋する女は強いのだ。
頼りになるペット達だって、そろそろ黙ったままでは居続け無いだろう。大きな噂もバラまかれている。因果も縁も集まって、こよりとなりて絡まり始めても良い頃だろう。
無根拠な自信を持つと言うのは、成程やってみれば案外楽しかった。

 「あぁそうだ、私と一緒に居た子供はどうなったか、知ってます?」

 心残りと言えば、それだけが心残りである。
これだけの騒ぎになったのであれば、取り敢えずは誰かが安心出来る場所に匿ってくれたと思いたいが。男達の返答は「知らん」と言うばかりで、まるで眼中に入ってない様だった。

 「副長、そろそろ」
 「ん、そうだな。群衆はどれ程集まっている?」
 「へぇ、十分でさ」

 首に掛けられた縄をぐいと引っ張られる。妖怪をどうやって殺すつもりなのかと思えば、この狭い地底で火炙りだそうだ。
確かにさとりは猿っぽい妖怪だし、猿と言えば金気では有るが、それにしても安直なのでは無いだろうか。
名目上は、「覚り妖怪の非道によって多くが亡くなった今回の異変と同じように、灼熱によって処刑」と言う事らしい。どうやら彼等にとって、此度の地震は覚り妖怪の陰謀である様子。

 「ついにやっちまうんですね、覚り妖怪を」
 「そうだ。俺達は断固としてやる。腑抜けた鬼とは違う! おら、とっとと進め!」
 「やあ、乱暴にしないで下さいよ。こっちは足の腱まで切られてるんですから」

 さとりの周りに藁が巻きつけられ、鉄を組んで出来た十字架にさとりの肉体が掛けられる。
わざとらしく足音を鳴らしながら、男は威厳で身体をパンパンに張らして壇の上に登った。
じきにさとりは壇上に上げられて炎に巻かれるのだろう。投げられた賽は因縁生の籠の中であおられ、ちんちろりんと音を立てた。





 「静まれーいッ!」

 鬼の大音声とは比べ物に成らないが、ざわざわと蠢いていた音の虫が次第に収まっていく。
今のところ壇上に居るのは副長と他数人であり、さとりは上げられていない。
さとりの周りには十数人の帯刀した男達がなおも警戒を続けており、ペット達の襲撃を予想しているのだ。

 「多くの者が焼け出され、苦しい状況に追い込まれている事だろう。
  これも博麗の巫女やそれに迎合する鬼達が不甲斐ないゆえと思うと、俺達としても憤懣やるかたない思いだ。
  しかぁし! 俺達御廻組から、喜ばしい報告が有る!」

 観衆の一部から、「おおっ」という声が上がった。さとりがゆらゆらと持ち上げられ、獲物を誇示するかのように掲げられる。
一段と高いところから眺める群衆の姿には、燻り続けた灰のような力の無い若造も多い。彼等が御廻組の主な支持層なのだろう。
閉塞し、しかし妖怪としてのプライドは捨てきれず、張り付けられたさとりをギラギラとした眼で見つめている。

 「この通り! 俺達は折が悪い時を見計らって地底を騒がした凶悪妖怪をこの手で捕らえた!
  彼奴の狙いは自らの配下に地底住人を見境無く殺させ、自身の恐怖支配を確立させる事であり、まったきの悪である!」

 そうだ! やっちまえ! と歓声が上がるのをさとりは冷めた目で見下ろす。
縛られていると言うのに、覚り妖怪の視線がそれ程に恐ろしいのか。見つめられた相手はみるみる声が小さくなり、振り上げた手も低く目線は逃げるように逸れていく。
サクラなんだからもう少し気合を入れるべきでしょうに、とさとりは子供じみた嫌がらせも程々に視点を宙に浮かばせた。
これから、この自ら膨らませ続けた悪評に立ち向かわなければならぬ。自分の首を締めるような真似をしていたって仕方がない。

 「一つ! 地底にみすみす地上の神や妖怪を入り込ませ、太古の条約を破った罪!」

 ドスリ、と華奢な下腹に砂のたっぷり詰まった袋がめり込んだ。重く鈍い、肺が捩れるような痛みに流石のさとりも色を失い、脂汗が吹き出る。肉体は勿論、精神を痛めつける衝撃。

 「二つ! 災害のどさくさに紛れ幼子を誘拐し、我らに対する人質として使った外道の罪!」

 繰り返し叩き付けられる砂袋を防ぐ手段は、今のさとりにはない。胃の物をまとめてひっくり返しそうになるのを、唾を飲んで誤魔化した。

 「そして三つ! 配下である地獄鴉や白頭の怪物に襲わせて、罪の無い者を殺して回った罪!
  地底の法に基づき、三つの極罪を犯した物は更生の余地無しとして、死刑だ!
  これら全ての罪によってこの女は火炙りの後、獄門とする! 皆、依存は無いな!」

 周囲からうぉーッ! と叫び声が上がるが、今度は辺りを見回す余裕は、さとりには無かった。ハラワタの痛みに息をか細く、しかし瞳だけは真っ直ぐに御廻組の男共を見続けている。

 「……なんだその目は」

 男が指示すると、またも砂袋がさとりへと叩き付けられた。堪らず咳き込むさとりに男共は嗜虐の目を向けて、嘲笑う。

 「何か不満が有るか? 命乞いが有るなら聞いてやろう。貴様の罪で死んでいった者達への手向けにもなる」
 「げほっ……ひゅー……馬鹿馬鹿しくて……何も言えませんよ。
  さしたる力も、道理も無く……妖怪が、正義ごっこだ。下らない」

 ぶぅんと唸る砂袋が、今度はさとりの頭部を打ち付けた。こめかみを強く揺らす衝撃に、一瞬さとりの意識が飛びかける。
荒い革が擦れたのか、だらだらと血も垂れてきた。だが、これならかつての父親の暴力の方が余程怖い。

 「誇り有る者にとって、覚り妖怪恐るるに足らず……
  貴方達の心には……はて、どんな志が埋まっているのでしょうかね」
 「ふん、お前のような阿婆擦れには分からんだろうさ。この俺達の、護郷の誇りは」
 「ええ、さぞ怖いのでしょうとも。このような少女を寄ってたかって殴りつけて。
  そう言う男、見た事有りますよ。口に出す"誇り"とやらが見せかけなのを薄々自覚していながら、鍍金を繰り返す男の人」

 がずり、と反対側のこめかみを強かに叩き、砂袋はゆらゆらと揺れた。
その後、今度は胸を殴り付けられる。肺の空気が全部絞り出されて、暫くは声が出せない程咳が出た。

 「火をくべろ!」

 副長が苛立たしげに指示を出すと、すぐに男の一人が松明を持って動く。
渡された煌々と燃える炎がさとりの足元に広がるのを想像し、愉快そうに副長は声を上げた。

 「お集まりの方々、ご安心めされよ! このようにして、地霊殿の魔女は俺達によって処刑される!
  御廻組は容赦しない! 腑抜けた鬼の自警団のような、地上の妖怪共にいいように縛られる事も無い!
  どちらが本当の誇り高き者か、この女の苦悶の悲鳴を聞きながらよく考えて見たまえ!」

 鉄棒に縛られたさとりの足元に薪が設置され、油が撒かれる。
火が近づく。さとりが唾を飲み込んで、目を瞬く。やがて煙が立ち上り始めるかと思った時、一つの「声」が全てを吹き飛ばした。


 「あいや、待ったぁぁー――!」


 その大音声は、高く青天井までも震わせ、集まっていた観衆を吹き飛ばし、松明の火や油や薪、その何もかもを掻き消した。
場に居る妖怪の全ての肝を吹き飛ばすまさに怪力乱神たる声が、湧き上がっていた歓声全てを上回り、飲みこんでいく。

 「やぁ、待った待った」

 まるで、宴会に乗り込んでいくような気安さで――しかし、存在として相応しい覇気を滾らせながら、星熊勇儀は人の波を掻き分けるかのように進んだ。
御廻組もこれには泡を喰ったようで、抜刀した男達がわらわらと壇の前に立ち塞がる。

 「随分好き勝手にやってるようじゃないか……ええ? 若造よぉ」
 「……散々腑抜けていた鬼が……今更何をしに来た!」
 「はん、地上の奴らから押し付けられたルールを、なぁんで私らが躍起になって守らなきゃ成らない。
  やりたいってんならやらしてやりゃ良いんだ。そんなのに吹き荒らされるような、星熊様じゃ無いんだよ!」

 対する勇儀は、ただ腕を組んで仁王立つだけである。だけであると言うのに、御廻組の男達はその覇気に気圧されて一歩二歩と後ずさった。
ぐるっと観衆を見回すと、最後に薄ら笑う古明地さとりと目を合わせる。

 「随分優雅そうじゃないかい、ええ? 勘違いしてもらっちゃ困る。私ゃ別に、あいつを助けに来た訳じゃない」
 「……ならば何だ」
 「ルールだよ。喧嘩するのは勝手だがね、ルールは守んなきゃいけねぇよなぁー……?」

 握り拳の中で、ポキポキと指が鳴った。

 「取り敢えずの間は、あまり派手にやっちゃあ居ないようだったから見逃してたがね。
  この地底じゃあ、火付けは見つけ次第私刑だ。ギリギリ未遂だったが、分かってんだろうが。ええ?」
 「何を馬鹿馬鹿しい! この女こそ、街の至る所で火が起きるに至った原因だろうが!」
 「んな『こいつは悪人だから奪って殺しても良い』なんて理屈は通らねえんだよ、がきんちょ!
  大体そいつはまだ取り調べの必要が有るが、お前らは現行犯だろうが!」
 「その態度が腑抜けているんだ! これから先は、お前達に変わって俺達が治安維持を行う! その法も決める!
  覚り妖怪は多くの民を苦しめた罪により死刑! 俺達に妥協は無い! 貴様らよりずっと、容赦無くやれるのだ!」

 鬼の怒号によって掻き消された松明に、新たな火が付けられる。
怒りを顕にする星熊勇儀の気当たりに圧されてか、今度は歓声も拍手も上がる事は無かった。

 「貴様の配下が殺した俺達の仲間の分まで、苦しみ悶えるがいい!」

 男の顔が復讐心に歪む。勇儀が一歩目を踏み出す。其処に割り込むように、小さな白い影が滑りこんだ。


 「それは違いますッ!!」


 その声は、先程の大音声と比べれば何もかもが小さい。声量も、覇気も、威厳も無い。だが透き通った声は、不思議と誰の耳にもするりと入り、辺りを一瞬キョトン、と戸惑わせた。

 「さとりさんは、あなたが言うような悪い事を考える妖怪では無い!
  地獄鴉があたしの目を啄もうとしてきた時も、貴方達が無闇に刀を振り回し始めた時も! あたしを、守ってくれました!」
 「……何だ、小娘。どんな理由が有って俺達の邪魔をする!」
 「分かりもしませんか。それが結局、貴方達が自分に有利になる事しか見ていない証拠なんですね」
 「なんだと?」
 「あたしは、貴方達が言う所の『誘拐された子供』です。
  貴方達が見向きもしていない、弱っちい被害者の一人です!」

 小さな体躯を精一杯に広げ、タロは吠える。「か弱い子供」の切なる声が、通り一帯に響き渡る。

 「……子供、だと」

 御廻組の副長は苦々しげに顔を歪め、鬼の形相と相対しても退かなかった足を、半歩たじろいだ。

 「おい、確かか」
 「……へ、へぇ。そう言われると、確かに。汚れは落ちてますが、あの時折り重なるように倒れていた子供っす」
 「チッ……そうか。それは大変だったな、お嬢さん。
  なおも薄汚れた女の側によるんじゃ無い。とっととお家に帰り給え」

 とても「思いやり」とは程遠い表情で、剣先で追い払うように男は刀を振る。
それに対しタロはむしろ一歩踏み込んで、静かながらもよく通る声を上げた。

 「……貴方は、子供をそんな風に扱うんですね」
 「あぁん?」
 「刀から漂う匂いで判ります。
  鬼の人達だって誰でも助ける訳じゃ無いけれど、燃える家屋に取り残された子供ならば、誰よりも勇敢に助けるでしょう!
  貴方達はそれをするんですか。出来るんですか!? 貴方達には何も無い! 誇りも、力すらも!」
 「このガキ……!」

 周囲を囲む、刀を構えた男の一人が額に青筋を浮かべて一歩前に出るが、星熊勇儀の眼光に当てられそれ以上は進めない。
まごまごしている内に、白狼の子供は更に言いたい放題を続けていく。

 「そんな人が、さとりさんの……人の恋路の、邪魔をしないで下さい!
  この人は今、恋をしているんです。こんな状況でも、一生懸命に誰かを思い続けてるんです!
  それは、あなた達程度が汚していいものじゃない! 何よりあなた達が唱える罪とやらは、間違いだらけじゃないですか!」
 「間違いだと!」

 御廻組の男達は、タロの言うことを鼻で笑うかのように吐き捨てた。

 「其処まで言うので有れば、証拠の一つ位用意しているのだろうな。
  出来んようなら、そこの鬼共々引っ捕らえてやる。それとも、尻尾巻いて逃げるか!」

 そして刀を――今度は追い払うように振るのではなく、はっきりと――タロの目の前に突き付ける。
いくら弱視とは言え、そのように突き出された剣先に気付かない筈も無い。だがタロは震えず、引かず、高らかに吠え続ける。

 「逃げません!」
 「あぁ、私もそれだって良いさ。子供一人こんな所にほっぽり出して行っちゃあ鬼の沽券にも関わる。
  どうやら散々脅しつけても恥じ入りもしない奴らが居るようだがね」
 「言っていろ……さぁ、どうする気だ?」

 この時、微かながらさとりとタロの視線がかち合った。
さとりはわずかに瞳を震わせて、気まぐれに助けた子供を、「あの人」が連れてきてくれた因果を見る。
タロもまたこの時、何か大きな流れの中に身を投げ込み、背中を押されているような気分であった。
長い長い一夜の全てが集結する「結果」のるつぼの中で、投げ込まれた石が転げ回り、ぶつかり合う。
その過程の一端に触れているのだと、意識の奥底で不思議と確信していたのだ。

 「覚り妖怪が、白頭の怪物に街を襲わせたなんて事は有りえません」

 意思を込める。身体の末端に、意識の外側に巣食う"同じ命"に、「此処に来い」と命令するかの如く。
自分の物だと強く意識して、支配下に置くのだと。自分より遥かに先輩である妖怪は、コツを伝授してくれた。


 「白頭の怪物は、あたしが遣う……あたしが暴走させてしまった、"犬神"なのですから!」


 毅然と手を伸ばす少女の横に、白い影が現れる。
彼は憎悪に染まっていた顔に凛々しさを取り戻し、忠誠を誓うかのようにタロの隣に傅いた。
対等であった彼らが「主」と「従」を得るに至るまでに、どれだけの被害が出たのだろう。よく見れば、タロの身体には霊札が包帯のように張り巡らされて、真新しい生傷を塞いでいた。
更に街への、他者への責任ともなれば、小さなこの身体では到底払いきれない程かもしれない。
けれどそれを含めなければ。結果を切り離しては、いけないのだ。都合の良い時ばかり弱い事を言い訳にする存在こそ、タロが軽蔑する、唯一の存在なのだから。


 「なん、だと?」
 「あなたは、覚り妖怪が裁かれるのは三つの罪によるものと言いました。
  この通り、その内一つの罪はあたしの物です。あたしが、払います!」

 半歩を踏み出して、ぐいと前を向いた。

 「誰が! あなたなんかに! 渡すか!」
 「ぐ……貴様……キサマァ……!」

 男の顔色が、赤から白に目まぐるしく変わる。口の端から泡を吹きながら、突きつけた刀をプルプルと震えさせた。

 「キサマ……キサマが、覚り妖怪の回し者だったのだな! 最初から! 我らを謀っていたのだな!」
 「そう思うなら、思えばいいでしょう!
  どちらにしろ、誘拐罪とやらが無くなるだけだ! 三つの物が二つになるのは変わらない!」
 「更に言えばさぁ、地上の奴らが好き勝手するのが嫌なら、そう正面から言えば良かったんだ。
  それを罪だと言うなら、止められなかった全員がしょうべきもんだろう?
  こんな小さな身体一つに乗せるにゃあ、筋違いじゃ無いのかね」
 「ウ、オオ……ウオオオオオッ!!」
 「最初から無い物を、無理矢理有ると言わせようとしたって……消えてなくなるのは、当たり前じゃないですか。
  あなた達にルールが無い! 最初から殺したい相手を殺そうとしてるのを、言い訳してるだけだ!」
 「罪人がァ……それを言うのかァ……!」
 「……確かにあたしは、自身の弱さをジロに押し付けて……何時の間にか、その思いが誰かを傷つけるまでになってました。
  でも、裁いてもらうのはあなた達にじゃない! あなたは、違うと言うんですか!」

 目の前で揺れる刃を、タロは払い除け牙を剥いた。首から白い炎のような物を吹き出して、犬神が赤い瞳を輝かせる。

 「自分の弱さを誰かに……覚り妖怪に押し付けているのでは無いとッ! 本当に言えるのですかッ!」
 「ま、そういうこったね」

 頭を丸ごと押さえ付けるような大きな手の平が、タロの頭頂を叩く。

 「当然、こんだけ色々有ったんだ。ケリはきっちり付けなきゃぁ成らないさ。
  そこの古明地さとりにだって色々聞きたい事が有る。……さぁ、引き渡しちゃあくれんかね」
 「ぐ……く……構う事は無い! 覚り妖怪を殺せぇ!」

 副長が金切り声を上げるるが、あまり動かない。御廻組の男達は混乱を起こしたようであった。
辺りの空気は、突然の事態の変遷に困惑している。ここで無理矢理に覚り妖怪を殺した所で鬼の自警団から信頼を奪えるかと言うとそうでは無い事は、馬鹿ながらに理解できる。
だが副長は、必死の形相でぼやっと立ち尽くす組員達を蹴りあげた。

 「何してやがる! 今更引けねえんだよ、お前達は! 後の事はどうとでもしてやる、早くしろ!」
 「"早くしろ"?」

 光線がピカリと煌めいて、群衆から遠い男の方から順に、方々で爆発音が上がる。御廻組の男達が混乱している隙を見計らい、側を駆け抜ける影によって腕が切り裂かれ、あちこちで刀を落とした音が聞こえた。
下手人とおぼしき妖怪が、鋭い爪でさとりを縛っていた戒めを一直線に引き裂く。振り切った爪の端から血が一筋こぼれ落ち、漆黒の尻尾がくなりと揺れた。

 「遅すぎた位だよ。こいつらも……あたいもね」
 「お、おま、お前は……」
 「火焔猫、燐」

 古明地さとりの小さな体躯を胸に抱き止め、女は高らかに名乗りを上げる。
そしてすぐに地に膝を付くと、さとりに向かって深々と頭を下げた。

 「すみません、さとり様。本当に遅くなりました」
 「いいえ……"家族"の事、信じてましたから。……お空は?」
 「すぐそこで射撃体勢を取ってますよ。本人としては、突撃したかったみたいですけどね。
  褒めてやって下さい、上空の煙をなんとかしたのはあいつなんです。皆の命を救ったんだ」
 「そうね。ええ、ええ、分かってるわ。……近くに居るのね?
  ケホッ……それじゃあ、聞いていって。貴女達も」

 煤けてくしゃくしゃになった猫耳を撫でると、さとりはフラつく足で壇の前の方へと向かった。
その足取りには、何ら恐るべくオーラは無い。副長の男だけが刀を構えて、さとりはそれを無視した。

 体力も、気力も、此処に至るまでで総て削ぎ落ちている。
古明地さとりの内側には、何も無い。不思議と、もう暗く冷たい気分には成らなかった。
さとりはタロを見る。勇儀を見る。お燐を見る。そして、群集達を。
きっと、これ以上のチャンスは無いだろうと。そう思った。


 「皆さん」


 第三の目なんて無くても、辺りがグッと固唾を飲むのが分かった。
多くの群衆は、また刃向かった者の心を握り潰す姿を想像しているのかも知れない。恐らくは、勇儀やお燐でさえも。


 「好きな人が出来たので、『怨霊も恐れ怯む少女』を辞めようと思います」


 その声は、小さくともよく通り……静まり返った広場の総てに、行き渡っていく。
タロだけが、涙をしゃくりあげてパタパタと尻尾を振っている。


 「今までご迷惑を掛けて、申し訳ございませんでした」


 さとりは、言うだけの事を言い切って、後はただ頭を下げ続けた。
 皆、ポカンとした。


 ◆


 「は、ははッ! はははははッ! あはははははッ!」

 この鬼は、何がそんなに可笑しいのだろう。ヤマメはわりと本気で敬称を付ける事も忘れ、空回りする思考を続ける。
あんな謝罪が、通る訳無いじゃないか。今まで一方的に抑え付けていたのは向こうなのに。
好きな人が出来ただとか、そんな身勝手な理屈で、皆許せる訳が無い。

 目の前では一瞬呆けていた伊吹萃香が、唾を飛ばして笑い転げている。
古明地さとりが頭を下げた事で、むしろ今まで燻り溜まっていた物が吹き出しそうになっている事が、ヤマメには分かった。

 ――アレじゃ、ダメだ。

 だけど、だけどあれ以上に、気持ちのいいやり方が有っただろうか。
「怨霊も恐れ怯む少女」が恐怖の象徴だと言うなら、その殻をあれほど見事に脱ぎ捨てる手段は。

 ああ、違う。違うのだ。これは怒りではない、嫉妬だ。

 頭を下げる事もまた勇気だと、漫談戯画の誰かが言った。誇りがあれば覚り妖怪など恐るるに足らないとは、きっとああ言う事を言うのだ。
「覚り妖怪」を一番怖がっていたのは、その実、古明地さとりだったのかも知れないと、そう気付いたが故の嫉妬。

 分かって。理解して。その上で出来るかどうか分からないが故に。

 群衆たちの心が、緑の目をした化け物に食い破られていくのが分かる。あんな物を見たら、誰しもそう有りたいと願ってしまうような。そんな相手が、既に敵意を向けている相手だとしたら。


 「「「「――Boooooooo!!」」」」


 醜い産声を上げて、物が飛ぶ。石だの、飲みかけの酒瓶だのと言った物がさとりに向かって投げられる。
覚悟の上だったのだろう。放物線を描くそれらに当たり、さとりは時折ゆらめきながらも頭を下げ続けた。慌ててお燐が前に立とうとして、手で押しとどめられる。

 「は、はは、そうだ。これが答えだ! 民意なのだ! 貴様らがなんと理屈を付けようと、望まれる正義は勝つ!
  安心せよ皆の衆! この女は即刻処刑! この俺が処――あばっ!」

 狂喜の声を上げていた御廻組の男が、勇儀の裏拳により人垣へと吹き飛ばされ、見えなくなった。
虚飾を脱ぎ捨てて、素直に頭を下げて、今のさとりの姿こそ自分の掲げていた"誇り"に近い。それが血と液体でみるみる汚れていくのが、ヤマメには悲しくてたまらない。汚しているのは、地底の住人達自身である。

 「やめろ」

 絞り出すように上げた声は、化物共の声に阻まれて届かない。

 「やめろよ……!」

 それが、群衆に対しての物か、それともさとりに対してなのかすら、自分でも分からない。
ああ、この無力感は、何度目だ。最後の時も、御廻組がライブをグチャグチャにして、それを博麗の巫女が諌めて……最終的に、こういう風に乱闘騒ぎになった事を覚えている。
私より強い誰かが、ずっと輝くスポットライトを浴びて。私は何とも自分がちっぽけに見えて、その場にうずくまる。


 「さぁ、あんたの番だ」


 何時の間にか笑い止んでいた萃香の声が、頭の上から降りかかった。
自分でも知らない内に、地に膝を付いていたらしい。

 「あの場を全部、あんたが食いに行くんだ」

 作戦では、そういう事に成っていた。丸く収めるのは、私の、黒谷ヤマメの役割だ。
なんてったって、私はアイドルだから。他の連中よりは、皆に話を聞いてもらえる筈だから。

 ――でも。

 アイドルじゃ無い私は、どうなんだろうか。
古明地さとりが偶像を脱ぎ捨てた所に、偶像(アイドル)がノコノコと顔を出して、何をすれば?

 「出来ないと思うなら、そう言っとけ。本当に、自分なら出来ると思って行かなけりゃ……道化に、なるだけだ」

 いいや、出来る。出来るさ。なんてったって私は、ロックの星になるんだ。
タロも、さとりも、最高にロックだったじゃないか。私が行かなくて、どうするんだ。
さぁ、奮い立とう。足を動かそう。前を向いて、最高の笑顔で。いや、笑顔はちょっとこの場にそぐわないかもしれない。
だから、えーと、とにかく。

 「……鬼の前で、嘘は、付くなよ」

 揺さぶって、転がして。皆を、私が……。

 私、が……ッ!



 「…………ッ、…………出来、ません……」



 膝を地に付けたまま。岩のように、凝り固まって。ヤマメは肺の中の空気を苦しげに吐き出しながら、そう答えた。
暴力の嵐は、未だ収まる所を知らない。"覚り妖怪"への恐怖が塗り固めていたそれを、さとりは黙って受け入れている。
それに比べて、自分のなんと情けない事だろう。ヤマメは地面へ涙を流しがら、砂利を掴んだ。

 「……そうか」
 「ッ!」
 「いいさ、それも勇気だ。あんたは今、確かに一つ強くなったよ」

 その場の喊声が、全てが、この身を傷めつけてくるようで。タロを迎える事すら出来ず、ヤマメは此処から逃げ出した。

 「……ま、しゃーないか。さぁて、そうなるとどうして止めるかなぁ……」

 この場に集まる気を疎にしてやっても良いが、古明地さとりの"けじめ"にそうやって水を差すのも憚られる。
だが群集達の気が済むまでやらせるとなると、流石にさとりが死んでもおかしくは無さそうだ。
萃香はぽりぽりと頭を掻く。やはりこの世は好きなように出来ない事ばかりだ。気は進まないが、分からない程度に群衆から気を抜いていってやるか。そう思って手をかざす。

 ――…………ェェン …………ェェン

 「ん……?」

 何か、周囲に群衆が発するのとは別の……あまり、良く無い類のケが集まっているような感じがして、伊吹萃香は眉を顰めた。





 「うぅー……さ、さとり様がぁ……」

 お空はまんじりと制御棒を鳴らしながら、上空から叫喚の様子を見下ろしていた。
カチカチカチと落ち着きなく制御機構が動きまわり、打つべきか打たざるべきかの迷いを示す。

 「あーもう、るっさいわねぇ。そんなに気になるなら、助けに行って良いんじゃないの」
 「で、でもさとり様が止めろって言ってるし……うー!」
 「土蜘蛛はどうしたんだ? こういう場合に止める手筈に成っていたのでは……」
 「さーねぇ……さとり自身が招いた部分も有るんだし、様子見てんじゃない?」

 同じく上空待機組である藍と霊夢が、苛立たしげに口を挟んだ。
彼女らが群衆の前に姿を表した所でむしろ火に油を注ぎかねないと言う事で待機しているが、特に霊夢は不機嫌な様子で宙を眺めている。

 「霊夢。お前も何を苛々としているんだ?」
 「……分かんないけど、酷く気が散る音が聞こえると言うか……あ゙ー! もう! 蚊でも湧いてんじゃないかしら!」
 「こんな所に? まさか……」

 呟いて、藍もピクピクと耳を震わせ顔を顰める。

 「……いや、確かに……何か、聞こえる気がするな」
 「うん? なにが?」
 「分からんが……あまり、良い類の物では無さそうだ」
 「キナ臭いわねぇ……」

 そう言っている内に、眼下での混乱は加速していく。物を投げるだけで済んでいた筈が、口から泡を吹いて殴りかかる奴まで出てくる始末である。
流石にそうなってくるとさとりも頭を下げ続けている訳にも行かず、お燐と勇儀が壁になって止めていた。
あまつさえ彼らはお互いに因縁を付け、取っ組み合って喧嘩を始めるようになってしまっている。

 「おかしいと思わない? 一時的に爆発はしても、さとりがあの態度なのよ。
  沈静化していくならまだしも、どんどんヒートアップしてる」
 「確かに奇妙だが……しかし、それだけでは何とも言えないぞ」
 「いいえ」

 顎に手を当てて考えこんだ藍を、お空が遮った。
何時の間にかその虹彩は金色に光り、不思議と普段より顔がキリリと引き締まっている。

 「あっちの方を見て。あちこちで同じような乱闘が始まっている」
 「何……!?」

 言われた通り制御棒が差す方を見れば、炊き出しをしていた筈の自警団が女と掴みあっては殴りあっていた。
同じような光景が、まったく関係の無い筈の場所同士で行われている。まるで火が風に煽られ燃え広がっていくように、喧騒はどんどんと大規模になっていく。

 「これは、どうなっている!?」
 「分からないけど、嫌な予感がするわ!」
 「おい霊夢!」
 「あんた達も来なさい! 結界の準備が必要よ! イヌガミ相手に仕掛けた奴を、もっと大規模にする!」
 「これ以上火行を強くするのか!? 火気が収まらなくなるぞ!」
 「ほっとく訳にも行かないでしょ! まったく、誰の仕業よ!」

 上空の一点から三つの影が飛び立ち、郊外へと向かっていった。
感情のこもごもを全て溶かし、地底の坩堝はまだ、赤熱し続けている。


 ◆


 少し、血が抜けすぎただろうか。身体がふわふわと軽い。
濡れた服が容赦なく体温を奪っていって、こんなにも熱気が取り巻いているのに、身体の芯が凍えてしまいそうだった。
短い間、気絶してしまったのか。さとりは、気が付くとお燐の腕の中に抱えられ、騒乱の場から少し離れていた。

 「あ~……やって、しまいましたね」
 「しまいました、じゃ無いですよさとり様! ああもう、頭から血が……!」
 「大丈夫よ、額は血が出る物だから。見た目よりは、深く無いはず」

 さとりは己を晒した高揚感に包まれながら、ほうと熱い息を吐く。
重い荷物を全て三途の中に投げ捨てて、どこか晴れ晴れとした気分である。

 「まったく……あのまま行けば、全部収まってたってのに……なんだってあんな、馬鹿な真似したんですか」

 さとりがお燐によって半ば無理矢理引っ込まされてからと言う物、場の荒れ具合は悪化の一途を辿り、死者が出かねない勢いで殴りあう者も出る始末。
度が過ぎた者は星熊勇儀の手によって鎮圧されては居るが、これは明らかに妙だぞとお燐も訝しんでいた。

 「んー……"あの場は"、まぁそうですね」

 さとりの声は、ひやり、と耳に注ぎ込まれるような不思議な感覚を伴って。

 「けれど……一度、全部精算したかったんです。良い事も、悪い事も含めて。
  "私がやって来た事"の全てを、結果として受け止めて……。
  そうすれば、また会えるかも知れないなんて……これは、まぁ、都合の良い妄想でしか無いけれど」

 お燐の腕の中に抱えられ……しかし、一つ一つはいやにはっきりと。

 「もう誰かに会う度に、嫌われる必要なんかないんだって、そう思えるようになったから」

 そう言って笑うさとりは、本当に少女のような、憑き物のない笑顔であった。
お燐の尻尾がピンと膨れ上がり、頬に手を這わされた顔が熱気とは別の物で赤くなる。

 「……本当に、変わられましたね。偽物なんじゃないかって思う位です」
 「あら、貴女のお陰でも有るのよ? ……それとも、それも覚えて無いのかしら」
 「あたいが? ……ええと……」
 「いえ、責めるわけじゃ無いわ。仕方ない事だもの……」

 額から垂れる血が目隠しになり、さとりはロクに前を見る事も出来ない。
お燐は、さとりを建物の影に休ませる。混乱のせいか、広場からわざわざ追ってくる者が居ないのが不幸中の幸いだ。

 鬼はともかく、「ヤマメさんが来てくれるから」とあの場に残った白狼の子は大丈夫だろうか。お燐は不意に、強く恐ろしい者に気炎を吐いて向かっていく姿が誰かとダブって見えて、軽くうずいた。流石に、さとりを放っていく訳にも行かない。
まぁ、博麗の巫女の言う事が確かなら、今の彼女は犬神憑きの筈。今回の件だって、永江衣玖の声が無かったら一緒に行動する事も無かっただろう。無理に心配する事も無いかと首を振る。

 ――そういやぁ、当の永江さんは、今頃何をしてるんだかねぇ……

 場を整えるだけ整えて、用事がありますからと自分一人作戦から外れた龍宮の使いを考える。
悪い人では無いと思うのだが、どうにも捉え所がないと言うか。

 「……ま、とにかく今は、お空を安心させてやりますか」
 「そうですね。……ふふ、こんな状態であの子のタックルを受け止めたら、倒れちゃいそうだけれど」

 その様が容易に想像出来たのか。お燐は敬愛する主人を肩で運び、苦く笑った。





 タロを、さとりを、想いを置き去りにして、ヤマメは白黒に映る世界を走り抜ける。
だというのに地底の街はあちこちで怒号がひしめき合い、喧騒と現実だけが追いかけてくるようだった。

 「ハァーッ、ハッ、ハァーッ……」

 息が上がる。流れ弾だろうか、粥が入った器が頭の側を掠め、地面に白い液体をまき散らす。

 「何だよぉ……何だよこれ……皆、どうしちゃったのさ……!」

 先程までお互いの無事を喜び合っていた友人が、仲が良かった筈の夫婦が、親と子が、自警団と、その周囲が。
まるで人が変わったかのように罵り合い、殴り合い、憎みあう者同士かのように潰し合う。
それはまさしく、地獄絵図であった。この旧地獄において尚おぞましい、渦を巻く何かであった。

 「私が、逃げたからなのか……?」

 何の根拠も無い問いであったが、冷静さを失った頭には、まるで真理を悟ったかのようにスウと頭に入ってくる。

 「私、が……ちゃんと歌ってれば……」

 疑いは重く。まるで、この惨状全てが罰なのでは無いかとすら、疲弊した思考で考えた。
いいや、黒谷ヤマメに何が出来たと言い訳がましい自身が暴れる。私に出来る事は、結局実像の無いアイドルでしか無い。だから、形から入るしか出来ない。こんな歌に、全てを丸く収めるだけの力なんて、有るわけが無いと。

 だけど、それは逃げだ。例え道化になったって、人を笑わせる為の物だったなら、笑わせる事こそが本望だと言えたなら。
少なくとも、あの場に出る事位は出来たはずなのだ。結局、弱っちい自分を膨らませていた虚像が消えて無くなる事が怖くて。

 「ちくしょう……」

 古明地さとりはあんなにも、眩しく、美しくあったのに。普段からそれを悪者扱いしていた自分が、惨めに逃げ出している。
パルスィだって、自分が醜く映るのをわかった上で、あくまでタロの親として戦った。
自分は、どうだ。ヤマメは己に問いかける。口で言っていた以上に、本当にロックになりたかったのか。

 「ちくしょうっ! ちくしょうちくしょうちくしょう!」

 大粒の涙が、頬の端からこぼれていく。夢だけは誰にも負けないと、自負していた筈なのに。
見苦しくたって生きてやると、あの苦しい日々に思っていた筈なのに。
それでどうした。この有り様はなんだ。物事が軌道に乗り始めて、ちやほやされるようになって。何時、覚悟が緩んだ?


 ――……ェェン。


 「……?」

 今、何か。
そう思って振り返ったすぐ後ろに、見覚えのある金髪がちらついた。

 「パルスィ!?」

 目の下の隈を酷く浮き上がらせ、夢遊病者ような足取りで進む友人を、ヤマメは焦り押し止める。

 「どこ行くんだよ、お前、憔悴してるんだ。今日は寝ていなきゃ!」
 「……呼んでる……」
 「何?」

 呟くパルスィの頬はこけ、この期に及んで更に容赦なく上がっていく気温が、気力と体力を削ぎ落とす。
とてもじゃないが行かせられる状態じゃなかった。ヤマメは無理矢理にでも連れ帰ろうと、掴む腕に力を込める。

 「凄い……嫉妬の渦が……色んな魂を、引っ張ってるの……。私が、なんとかしないと……」
 「なに言ってんだよ、そんな顔で! 無茶してたら、今度こそ本当に……」
 「タロが居るのよ!」

 パルスィの双眸が光る。掴んだ腕を掴み返されて、ヤマメの顔が痛みに歪んだ。

 「あの渦の中に、あの子が居るの!」
 「……ッ、……駄目だ!」
 「ヤマメぇ!」

 ギリギリと、このこけた顔の何処にそんな力が有るのだと言いたくなる程に込められる力が強くなっていく。

 「パルスィ、痛いよっ……」
 「GAAAAAAAA――!!」

 腕を捻るパルスィの貌が、憎しみに当てられて変形していく。
街の住人と同じようにおかしくなっちまったのだと、ヤマメが息を引き攣らせた。

 「お前……! あがっ!」

 密着した状態で蹴り上げられた膝が、ヤマメの丹田をえぐる。
反射的に下げた額に、ひしゃげるような頭突きがめり込んだ。

 「やめろっ! パルスィ!」

 振り払われた腕を、とっさに伸ばす。痛みで滲んだ世界が、ブレて見えた気がした。


 ――なんだ、コレ。


 黒緑色の糸が、パルスィの身体から伸びて、何処かへ。
魂を引っ張っている? ああ、確かそう言っていたと、ヤマメは考える。地底一帯が、急に何かに釣られるようにしておかしくなり。そう、まるで、集団感染の如く。
指に引っかかったその糸を、ぐいと引っ張る。プチンと音がして、呆気無く糸は切れた。

 「うぁっ」

 小さく声を上げて、パルスィがくらりと傾いて、倒れ伏す。
まずいことをしてしまったかと一瞬肝が冷えたが、すぐに再び立ち上がった。その目は窪んだままであったが、鬼気迫る力は無く。

 「……あれ、私……」
 「パルスィ! 大丈夫なのか?」
 「ええ、でも……タロを、迎えに行かないと……?」
 「お前一人じゃ、駄目だ。行かせられない」

 呆然と立ちすくむパルスィを、ヤマメはぐっと抱きしめる。そして、己の手を見た。熱病を操る掌を。

 「"えれき"を、持ってきてくれないか」
 「……貴女……」
 「逃げたよ、一度逃げた。怖くて、足が震えて、何もかもほっぽって……お前みたいには、なれそうに無いよ。
  ……出来るだけ、バンドの連中に声掛けてみる。あいつらにとっちゃ、迷惑かも知れないけど」

 最初の時も、一人じゃ出来ないから、仲間という場を求めた。
何重にも言い訳して、もし仲間が集まらなかったら、とっとと諦めるためだけに。
きっとそれは、今でも変わってないのだろう。

 「やっぱ私じゃ、ロックスターは無理かもなぁ」

 諦めたように笑いながら、ヤマメはパルスィの首筋を涙で濡らす。

 「感動で人を動かすなんて、出来そうにないや。カッコ悪くてさぁ……じたばた足掻くだけで、精一杯なんだ」
 「……本当に。ええ、妬ましい」


 ◆


 「どうなってんだぁ、こいつは!?」

 最初はある程度余裕を持って踏ん張っていた星熊勇儀も、今や四方八方から押し寄せる人の波に苦慮している。
なにせ、殴っても殴っても痛みを感じないかのように立ち上がってくるのだ。それも、老若男女関係なしに。
白目を剥き唾を吹き出しながら向かってくる様は、まるで僵尸の如くで有る。

 「タロ! 流れてってないか!?」
 「わ、わう……はいっ!」
 「如何せん数が多すぎるな……萃香やヤマメの奴は何してんだい!」

 愚痴っても仕方がない。まさかこんな、群集達が生きる屍のように成ることは想定外であった。
萃香はともかく、ヤマメの知名度で話を聞いて貰うと言うのは、完全に不可能だろう。

 ――余裕ぶっこいてタロをこの場に残したのは裏目だったな……!

 今となってはもう、子供一人逃す隙間も無い。と言うかどう考えても、御廻組が演説していた頃よりも人が増えていた。

 「ジロ、"私達を守って"!」
 「GRRRR!!」

 もちろん彼女達も、なりたてホヤホヤの犬神遣いの割に奮闘はしてくれている。
だが、鬼の勇儀からすれば足手まといの域を出ていなかった。勇儀の本懐は無差別破壊である。被保護者が居る状況では、どうにもやり辛い。

 「んっとにもう、生きるってのは退屈させてくれないねぇ……」

 肩をグルグルと回しながら、幽鬼の如き住人達を見る。ストレスの貯まる要素はコレでもかと盛り込まれて居たが、それをそれとして楽しむ術は、長い地底生活の間に心得ていた。

 「生憎、わたしゃ大好きだよぉ、"縛りプレイ"って奴ぁ!」

 殺さぬ程度にぶん殴り、囲みを端から気絶させていく。普段自分に課している枷とは違ったが、その分真剣味が増していた。

 「おうおう、やってるねぇ」
 「萃香! 手前なぁにサボってんだい!」
 「嫌だなぁ、死神と一緒にしてくれるなよ。私は私でやる事が有るってんだ」

 犬一匹通れぬ隙間を、霧となった萃香がすり抜けてくる。
勇儀は早速霧に包まれた空間に拳を突き出して、それを小さな萃香達がさっと避けた。

 「せめてタロを逃がせる程度に、一端こいつらを疎にして欲しいんだがね!」
 「あー……悪ぃね、今こいつらをここに萃めてんの、実は私なんだわ」
 「んだとぉ!? 一体どんなつもりで……」
 「霊夢達に頼まれてね。『一網打尽にするため』だと」

 チッ、と聞こえるように大きく舌打ちをして、勇儀はタロに飛びかかる狒々達を拳圧で吹き飛ばす。

 「何時まで耐えりゃあ良い」
 「『四方に太陽が昇るまで』。……ああほら、あれだ」

 そう言って萃香が指差す向こうには、確かに煌々と輝く太陽が地底の空を照らしていた。

 「ありゃあ、地霊殿の鴉かい」
 「燻り出すつもりらしいねえ。
  私は私で、熱病に浮かされた奴らがお互い殴りあって死んじまわないよう、手加減出来る奴に回す仕事が有る」
 「そりゃ光栄だよ!」

 四人が一斉に襲い掛かってくるのを四本の指で弾きながら、勇儀は辺りを見回した。
ぐるりと取り囲む人数はますます増え、地底の住人すべてがこの広場に向かってきてるのでは無いかと錯覚する程である。

 「熱病ってのは?」
 「実は、暴れだしたのはここだけじゃ無いんだ。こいつはおかしいってんで霊夢達は動き出した。
  確かに、よくよく見ればこりゃあ変さ。さっきまで何とも無かった奴が、急に見境無く怒り出す……おっと!」

 ミニ萃香の姿で浮遊していたため、踏み潰されそうになったのを慌てて抜け出す。
萃香に狙いを定めていた屋台の主は、目標を見失って尚しつこく地面を踏みにじっている。

 「まるで病だ」

 窮地を脱したミニ萃香が、呆れたように肩をすくめた。
そして勇儀達が視線を向けた先で、新しい太陽が上がる。

 「向こうも向こうで、取り憑かれた地獄鴉達に襲われてる」
 「何処も彼処もって訳か。くそっ、なんだってこんな……」

 ――……ェェン。 ……ェェン。

 「誰が泣いてんだ、こんな所で!」

 耳に響く赤子の泣き声に驚いて首を回しても、それらしき姿は見当たらない。
表情をシリアスに纏めた萃香が、勇儀の様子を見て顔を険しくした。

 「赤子の泣き声か」
 「ああ……思えば、犬の現場を見つけた時にも似ている気がする」
 「気を付けろよ、ロクなもんじゃない」
 「お前さんが言うって事は、そうなんだろうが。肝心の気を付け方が分からないんじゃな」

 そうこう言っている内に、三つ目の太陽が上がった。
泣き声は依然として大きくなり続け、ハッキリと耳に残るほどになっている。

 エェェン! エェェン! エェェン!

 「くそっ……何だこりゃあ……耳が、キンキンする……おいタロ、大丈夫か?」
 「うう……頭、痛いです……」

 だが確かに、太陽が一つ上がる事に周囲の動きが鈍くなっていくのが助けであった。
今や地底の明るさはよく晴れた夏の地上にも匹敵し、ジリジリと照らす熱量で汗が垂れ、染みを作る。

 AAAAM! AAAAM! AAAAM!

 「間違いない……こりゃあ、居やがるね……おい萃香! 此処に来てる奴らは間に合いそうなのかよ!」
 「九割は萃まった! そこまで散らしてやりゃあ、後は自然になんとかなっていくだろ」
 「だったらもう、お前も準備しとけ! それとも、まだ見学かい?」
 「……まさか!」

 照り付ける日差しの中で、熱病に浮かれた住人達の中から黒いモヤが溢れだし集まっていく。
それは一見、橋姫のグリーンアイドモンスターにも似ているな、と勇儀はどこかぼんやりと思った。
第四の太陽が上がる。萃まったモヤがボコボコと泡だったかと思うと、赤子のように覚束ない手足が生えた。



 「「「「「MAAAAM!! MAAAAMAAAAA!!」」」」」

 穢れの寵児が、産声を上げる――



 「おいおい、コイツぁ……」

 涙の如くボトボトと、穢れを撒き散らす巨大な赤ん坊を見て、勇儀は数百年ぶりになる冷や汗を流した。
泥黒の肌に時折翠色の光が奔り、その鼓動を露わにする。

 「「「「「MANMAAAA!!」」」」」

 その身の丈は、伊吹萃香がミッシングパープルパワーを使って、なお二回り程大きいだろうか。
感情の赴くままに、赤ん坊はその掌で虚ろに宙を見る人垣を押しつぶそうとする。

 「くそっ、ヤバい!」

 慌てて走り込んだ星熊勇儀が掌に向かってアッパー気味の正拳を放つと、その拳圧で泥細工のように押し返され、びちゃあと辺りに穢れが飛び散った。

 「防いでも駄目とか、厄介すぎやしないかね!」
 「飛び散ったもんはある程度こっちで処理するけど……こりゃちょっと、予想外だったよ」

 泥人形のようにひしゃげた腕は、泥人形のように再び形作られていく。肘がゴボゴボと泡だって、再び新しい掌が現れた。

 「星熊様!」

 俯いた人の頭の中を、掻き分けるようにタロが飛び出す。

 「バッカ野郎、あんたは逃げるんだよ! この先はちょいと、庇い切れるか自信が無いんでね!」
 「でも!」
 「中途半端な奴が居ても、足手まといなんだ! 弱さを認められるようになったんだろう!?
  こんな状況じゃあ、ヤマメだって合流できるか分かったもんじゃない!」
 「……ッ、分かりました。必ず、ご無事で居てくださいね!」
 「ハッ、誰に向かって物言ってんだい!」

 ゴキゴキと関節を鳴らして、勇儀は声援に応えた。
目の前では、蛍光色の涙を漏らしながら赤子が癇癪のように腕を薙ごうとしている。

 「「「「「MAAAAANMAAAAAAAA!!」」」」」

 「うるさいガキだねぇ……私ゃ、あんたの為のおチチは出ないよッ! 萃香ァ!」
 「やれやれ、もうちょいリハビリにゃ優しくして欲しいんだけどなぁ!」

 萃香が手をかざすと、まさにボーリングのピンの如く人垣を薙ぎ倒そうとしていた腕が、ガチリと固まった。
急激に熱を奪われたその腕に向かい、巨大化した萃香の拳が迫る。

 「熱いばかりが能じゃ無いよォ!?」

 バキィンと高い音を立てて、赤子の腕が砕け散った。凍った破片が飛び散り、周囲の地面や壁に突き刺さる。
それらは辺りの火気によってそれはすぐに溶けると、当たり前のようにうぞうぞと蠢き赤子の元へ戻らんとする。

 「……キリが無いね」
 「こいつぁ、特別難儀だな。元に戻さないためにはどうすれば良いか、検討もつかん」

 二度、腕を破壊して、なおも堪えた様子の無い赤子を前に、二人は呆れたように呟いた。
そこに結界の作成を行っていた三人が、息を切らせて飛び込んでくる。

 「子供霊ね。善悪だの、道理と言った物に縛られない。おまけにしつこい、厄介な奴らだわ」

 開口一番、霊夢が告げた。

 「母様、母様って泣いてやがる。あいつら、いつの間にこんな所まで来たんだ。それもこんなに固まって」
 「……"ドレス"か」
 「何ィ?」
 「前に少しだけ、紫様に聞いた。本体と成るカミの周りに、服のように纏わり付く怨霊達が居ると。
  ……なるほど、母を求める子供霊だった訳だ。この執着の強さにも納得がいく」
 「てぇ事は、何かい。地底はもう完全にカミに食われちまったってわけかい?」
 「いや、奴らは恐らく核となるカミを失って、結界の隙間に隠れていたんだろう。
  その声が、時折こちらに漏れはしていたのかも知れないが……出てきたのは、誰かの感情に惹かれて、か?
  それも、カミの代わりが務まる程の……」
 「覚り妖怪の感情がああなるまで突き動かしてたってのか?」
 「どうだろうな。あの"ドレス"が求める感情とは、少し趣が違う気がするが」

 「なんだっていいよ!」

 会話を途切るように、お空がその丈のある翼を広げた。
マントの中で星が散り、彼女が抱える感情の強さを物語っている。

 「あいつがワガママを言って、これ以上さとり様を悲しませるって言うなら!
  私が出て行ってやっつけるんだ! こんどこそ!」

 バン、と昂ぶりによる金色の熱風が、辺りの者を焚きつける。
もろに顔で浴びた霊夢が、抗議の声を上げた。

 「わっぷ……ちょっと、熱意はあっちにぶつけなさいよ」
 「だがまぁ、そうだ。ここに居るモンはあいつに取り憑かれて無いんだろう?」
 「だったら私達でやるしかないよなぁ! はっは、まったく私も大変な時に戻ってきたもんだ」

 鬼二人が肩を回すと、ブゥンと衝撃波が起き辺り一帯の淀んだ空気を掻き消す。
勇儀が、萃香が、お空が、藍が、そして霊夢が、誰からとも無く拳を合わせた。
再生を終えた穢れの子が、ごぼごぼと音を立てて頬を膨らませていく。

 「取り敢えず、上にかち上げなさい。準備はしたし、なんとか周りに被害が出ないようにしてみせる」
 「後は?」
 「高度の柔軟性を維持しつつ、臨機応変にボコりなさい」
 「要は行き当たりばったりかい、痺れるねぇ」
 「本気出していーの?」
 「……まぁ、今回ばかりは仕方ないだろう」
 「じゃ、そゆことで。各自頑張ってね」
 「「応ッ!」」

 吐き出された大玉を回避しつつ、五人はそれぞれの方向に散る。
真っ先に赤子の方へと駆け出していった萃香が、ゆるく結んだ髪と鎖をバタバタと揺らして、一歩毎に巨大な鬼と化す。

 「こぉの、伊吹萃香様にぃ……」

 ついには六丈もある赤子と並べる程の大きさになると、無人の焼け跡を踏み潰してがっぷりと組み合った。

 「何時までもデカい面してんじゃないよぉ!」
 「「「「「DAAAAAAAAAAAAAM!!」」」」」

 そのまま、股間へと肩を入れると、ぐうらりと力を入れて持ち上げる。
苦悶の表情が背中や掌に慌ただしく移動しながら、赤子は腕をバタバタとさせて悲鳴を上げた。

 「勇儀ィ! 登れッ!」

 ジクジクと黒く変色していく腕と痛みに顔を歪ませて、萃香が叫ぶ。
人で言えば、酸で出来た海に手を突っ込んで居るような物だ。幾ら鬼とは言え、長く組み合っていては堪えもする。

 「あいっ、よぉー!」

 長く溜まっていた鬱憤を振り払いながら、勇儀の声は地底に轟いた。
地底の最も大きな構造物より、なお倍ほど大きい萃香の体を、高らかに音を響かせ駆け抜ける。

 「いぃち!」

 膝を蹴り、なお上に。

 「にぃい!」

 肩を足場に、地上まで突き抜けろと言わんばかりの加速を付けた。

 「さぁぁぁんッ!!」

 角を踏みしだき、拳が空気の壁を突き破って、雲の尾を引く。
まさしく必殺の力と化して、赤子の胴体をひしゃげさせ、伸びた四肢がくるりと丸まり、なおも収まりきらないエネルギーが熱を巻き込んで巻き上がる。龍の如き上昇気流であった。

 「ようし、落とさないでよ藍!」
 「お前に言われずとも分かっている!」

 今、街を覆っている結界は、結界としては即席だがその要には最上級の霊気を用いている。
何せまがい物とは言え、紛れも無い太陽だ。その四方の太陽を、霊夢と藍は結界を操り狭めていく。
するとそれぞれの太陽の中心に、ボクリと黒点が生まれた。やがて黒点は光と共に渦を巻き、また新しい光点を生む。
紛れも無い陰陽の象徴であるそれを、更に霊夢は二つに別けた。計八つとなった陰陽玉が、穢れを取り囲み焼き尽くす。

 「「神技『八方龍殺陣』ッ!!」」

 逃れようと藻掻く穢れの赤子を、八つの太陽・太陰を頂点に持つ立方体が、檻の如く押し止める。

 「行けっ、おくうー――ッ!!」

 声を上げたのは、火焔猫燐だろうか。お空は金色の瞳を輝かせ、三本目の足を立てた。
昂ぶりが、身体中を駆け巡る。赤い瞳の中から、一羽の鴉が朧に羽ばたいて、お空の身体を覆う。

 CAUTION! CAUTION! CAUTION! CAUTION!

 制御棒が煙を吹いて、警戒音が鳴り響く。普段なら何処か耳障りなそれが気にもならない程に、今のお空は滾っていた。
胸の内から湧き上がっていく熱を、テンションに任せて思い切り吐き出す。

 ――――――――――――――ッ!!

 鳥の鳴き声のような声ならぬ声は、されど何処か透き通った神性をもって穢れを突き抜けた。
暴れ蠢いていた手足が、ピタリと静止する。天に、金色の鴉が羽ばたいて往く。



 「『アビスノヴァ』ァァァー――――ッ!!」








 「「「「「MAAAAM! MAAAAM! MANMA! MANMAAAAAAッ!!」」」」」

 真っ白な空間の中で、赤子が泣く。親を亡くし、ただ原始的に突き付けられる冷たい死の刃の下で。

 「「「「「MAAMA! MANMAA!?」」」」」

 そんなものはもう居ないと、本能で理解していても。他にどうする事も出来ず、ただ。

 「「「「「MAMA! MAM……A――」」」」」

 温もりが、欲しかったのだ。泣いてでも、喚いてでも。
羨ましかったのだ、何よりも、「生きられる」と言う事が。

 「「「「「DA――M」」」」」

 掌が、ふと赤子を撫でた。真っ白な肌に、紅の刺青を掘り込んでいる……
光の中に、赤子が溶けていく。安らかな顔で、眠りについた。





 地底の誰もが、眩しさに目を覆い地底の太陽を見上げる。
その時、未曾有の地震に慌て戸惑う全ての幻想の命を導くように。地平の果てから、新しき太陽が顔を出した。


 ◆


 「なんと、まぁ」

 爛々と降り注ぐ太陽の光を受けて、霊夢は呆れたように息を吐く。

 「まさかご本人様降臨とは……やっぱあのバカガラスも大概デタラメよね」

 馬鹿は強しとは言うが、八坂の神もご大層なモンを無責任にホイホイ渡すものである。
一応幻想郷の秩序を守る側に居る者としては、またなんか有った時は私が相手せにゃならんのかと思うと実に頭が痛い。
溜め息を吐いて、気持ちを切り替えた。

 「さて、と」

 地底の妖怪達は、未だ呆然と太陽を眺めている。その様子はむしろ、茫然自失と言ったほうが良いかも知れない。
眩しいだろうに、目を焼かれても知らないぞ、と霊夢は腰に手を当てた。

 「ほら、しっかりしなさいよ。あんた達の為にやった訳じゃ無いけど、お礼くらいは言っても良いんじゃないの」

 とん、と肩を叩いた妖怪が、膝から崩れ落ちる。ぶつぶつ、ぶつぶつ、と何かを小声で呟き続け、地面に手をついた。

 「あン?」
 「燃えちまった……何もかも壊れちまった……もうお終いだぁ……」
 「ちょっと、なに気味の悪い事言ってんのよ、あんたらそんな簡単に死なないでしょ」
 「終わりだ……これからどうすりゃ良いんだ、何もする気しねぇよ……」

 その男だけで無く、辺りからも同じような呟きが聞こえる。霊夢は後頭部をガリガリと掻き上げて、苛立たしげに声を上げた。

 「あーもう! うじうじと、うっとおしいわねぇ」
 「妬み・怒りも過ぎたるは毒……だが、足りなすぎればそれは病と言う事だ」

 何時の間にか近づいてきていた藍が、もっともらしく肩を竦める。

 「あの規模の悪霊に巣食われていたのだ。多少なり魂が傷ついて居ても、おかしくは無いだろう」
 「……ちょっと、それって大丈夫な訳? 精神の病って、かなり致命傷なんじゃないの?」
 「勿論、放っておけば死に至るが……まぁ、今回は大丈夫だろうな」

 クイクイと指差す先を見れば、黒谷ヤマメ達が即席のステージにありったけの機材を持ち込む所であった。

 「やれやれ……ちょっと、遅刻なんじゃない?」
 「まぁ、良いさ。その分、頼りにはなりそうだ」





 ――あんなモンの後に出なきゃならんとか、ツキが無いよ、ほんと。

 黒谷ヤマメは、そう自嘲する。カンカンと照らされるスポットライトの下、緊張のせいか喉がカラカラに乾いた。
身体の芯が小刻みに震えて、ちゃんと声が出るかどうかも分からない。
けれどもう、舞台に立ってしまった。いつものような歓声も拍手も無い、ステージの上に。
観客はみんな呆けて空を見上げ、引き連れた仲間もどこか不安げにこちらを見ている。

 ――本当に、自分なら出来ると思わなければ。

 ああ、そうだ。信じろ。さっきパルスィを救い出せた、この私の右腕を。馬鹿な夢に付いてきてくれた仲間達を。
息を吸って、吐いて。眩しさだけが何時ものままのステージで。

 「何してんだい、みんな」

 拡声器を通して出た声が、辺り一帯に響き渡った。

 「デッケェのに好き勝手暴れられて。最後にゃ神サマに助けられて、それでお前ら、お礼も無しか」

 自分の不甲斐なさへの怒りと、どうにも成らない理不尽への怒りと。口を開けば、止まりそうに無く。

 「大体、なんだよ。地上の奴らは余計なお世話だとかさ、自分の尻は自分で拭くとかさ。
  カッコつけといて、そのザマかよ」

 シンと静まり返った空間に、ヤマメの声だけが、響く。

 「ああ、このザマさ。私も!」

 機材の上に足をかけ、ガン、と音が鳴り。ハウリングすら厭わずに指を差す。

 「お前らもだ!」

 キィィィン……と、響き渡る高周波に耐え切れずに、何人かが耳を抑えた。
更にヤマメは息を吸う。呼吸音が拾われて、拡散される。

 「ロックじゃない。全然ロックじゃ無いね!
  地上の奴らはああだとか! 地霊殿の奴らはこうだとか! そんなのはプライドでも、覚悟でも無い!
  ただの腰抜け野郎のカッコつけだ! そうさ、私だってそうだった!
  形だけでカッコつけて、プライドを持った気になっていた! だけど! もう、それも!」

 ヤマメはぐるりと、「熱病」に浮かされた妖達を見回した。その、窪んだ顔を。

 「――崩れちまったろう。本当に大事だった物と一緒にさ」

 熱に浮かされた者とそうでない者、その境界がどこなのか。
きっと彼らは、多かれ少なかれ何かを喪失したのだ。それが家族か、友人か、財産か。そこまでは分からない。
その心的外傷を、怨霊に付け込まれた。怒りによって立ち上がり、そして憎しみがすっぽりと無くなって、空っぽになった。

 ――それを救えるのは、結局「誰か」なんかじゃない。

 あそこに浮かんでる太陽のように、黒谷ヤマメは、誰かを救えるわけじゃない。
だからこそ、今、ここに居る。誰でもない、自分自身を、救うためだけに。
私は私で在りたいと、そう言い続けるためだけに。

 「……本当に大事な所で頭を下げるのは、誇りを捨てる訳じゃ無いよ」

 喋っている内に、随分と声の震えも収まってきた。

 「だから、礼くらいちゃんと言おうぜ。でなきゃ本当に、『助けられて当たり前』の誇り無い弱者になっちまう」

 俯いてきた視線が、幾らか集まって来るのを感じる。糸を束ねるように、ヤマメは手を握り、そして突き上げた。


 「自分一人じゃ無理だってんなら、私が隣に立ってやる!
  俯いて、しゃがみ込んで。誰かの手が伸ばされるのを、ただぼんやり待つ位なら――」

 太陽からぽつんと鳥のシルエットをした影が生まれて、それがヤマメに差し掛かる。
琥珀色の瞳が、影の中でキラキラと輝く。それは何処か神々しく、啓示的な瞬間であった。

 「私の歌を、聞いていけぇッ!」


 重々しいドラムの音が場を轟かせ、それはさながら、止まってしまった心の臓へ無理矢理血を流し込むポンプのように。
ギターとベースが始まる。ずっと付いてきてくれていた、釣瓶落としの子と、ウィンクをしあった。
ビックリするくらい下品な歌詞に、大音量の響きの塊。だから地底に、合うと思った。
異国の歌を、ドロドロに溶けた楽しさのスープを、無理矢理注ぎ込んでやる気持ちでヤマメは歌い出す――!


 ♪(知ってるぞ、アツいのが好きなんだろ?)
 ♪(汗が噴き出てのたうつ位のをくれてやる)


 「随分と、言われちまったなぁ? 萃香」
 「馬鹿言えよ、お前の事じゃ無いのかい?」
 「どっちだって良いさ。あぁ、酒が飲みたいねぇ!」


 ♪(アンタはこいつを好きだと思うさ)
 ♪(次第に良くなるって言ってんだ)


 「……アイツ、本当にやってるのね。妬ましいわ」
 「前から思ってたんですけど、お姉ちゃんは一緒に行かないの?
  だって何時も、練習の時は合わせたりしてるのに」
 「……馬鹿言いなさいよ。そんな事出来るわけ無いでしょう?
  だってアイツ、あんなに楽しそうなんだもの。妬まずになんて、居られないわ……」


 ♪(手の平にはちっぽけな唐辛子)
 ♪(全身を震えさせてやろうじゃないの)
 ♪(揃って天国にいけそうな位)


 「やれやれ、これだけうるさいのは……正直趣味じゃないな」
 「あら、そういう割には身体がリズムとってるんじゃない?」
 「ぐ、む。……音が大きいから、仕方ないんだ。そう言う霊夢こそ、神に捧げる物がこれで良いのか」
 「いいでしょ、別に。結局神様だって、賑やかなのが好きなんだから」


 ♪(私は頑丈さ)


 「お空! 良くやった、カッコ良かったよ」
 「わっぷ、くすぐったいよ、お燐。でもなんか、不思議な気分だったなぁ。私の身体なのに、私じゃないみたいだった」
 「頑張ったから、神様が見てくれてたんじゃ無いのかい?」
 「神様よりさとり様が良いな。ねえ、さとり様は?」
 「ん、さっき其処に……」


 ♪(乱暴にしたっていい――)


 「あれ」

 「さとり様……――?」


 ◆


 「カハァーッ……キヒーッ……」

 腐臭すらする息が、首筋を撫ぞる。あまりのおぞましさに、さとりの背筋が怖気だった。

 「コロス……古明地さとり、殺ス……ふふ、ふ」
 「うぐっ……あな、たは……」

 広場から、少し離れた建物の裏。焦点の合わない瞳で、御廻組の副長はさとりの背後に周り肘で首を締め続けている。
その目からは既に正気が失われており、唾がだらだらと撒き散らされて異常な精神状態に有ることを表していた。
揃いであった衣裳もズタズタに引き裂かれて、無傷では無いことを示す。
お燐が居ても立っても居られずお空の元に駆け寄った一瞬の隙を付いて、男の狂気はさとりを害そうと、力を込めた。

 「どうし、て……そこ、まで……私の、事を……?」

 さとりの呼吸は既にヒューヒューとか細く、頼りない物となってきている。
混濁した意識の奥、因果の坩堝と成っていたこの地で、男がこうも"古明地さとり"に執念を燃やす理由が分からず、さとりは問う。

 「あなた達はただ、鬼に抑えつけられて燻っていた若い世代だった筈……
  ここで、私を殺したって……鬼から権利を奪える訳じゃないのに……」
 「知りてえってかぁ……? 良いだろォ、教えてやるよォ……キヒ、キキキキ……!」

 男の身体から、いや、耳や口といった身体の内部からモクモクと煙が立ち込めて、おどろおどろしい影を作り出す。

 「霧散しちまった身体のよォ……"煙"を集めるのに、随分時間がかかっちまった……
  あぁ!? ワカンだろ覚り妖怪ィ! テメェとあのジジイには随分とナメた真似されたよなァ!?」
 「……煙羅、煙羅……!」

 さとりを取り巻く黒煙となった影は、黄色の目と口を開いて、けたたましく嗤った。
奴は、翁……否、人鬼の放った成仏得脱斬によって霧散したのでは無かったのか? そう、霧散した。霧散したまま永遠に一つの姿には戻れず、やがて意識が消える筈だったのだ……地底中に煙が充満する、今日この時までは。

 「キキキ……身体に混じった怨霊が痒くて痒くて仕方ねえが、お陰で簡単に誰かの身体を借りる事が出来るようになった。
  まさか伊吹の鬼が帰ってくるとは誤算だったが……隊長がぶち喰われてからこっち、運が向いてきてよォ!
  御廻組とか言う奴ら使って、ブッ殺そうと思っちゃ居たが、まさかテメェが自分から殺されに来てくれるとは、エエッ?」
 「なんて、事……」
 「ツキに見放されたなぁ、覚り妖怪! キヒッ、当たり前だ! テメェの所になんぞ、ビタ一文の幸運も転がってくるかァ!
  ホトケさんは見てんだよォーッ! おで、俺に、旦那の仇討ちをしろってなぁー!」

 副長はもう既に意識が無く、魂をズタズタに引き裂かれて肉体だけを乗っ取られているようだった。
白目を剥き、肌は死体のように冷たいのに、力はそれこそ普段以上にギリギリとさとりを締め付ける。

 「あ、が……!」
 「じわじわと嬲り殺してやりてえが……いつ周りに気付かれるかも分かったもんじゃねえ。
  テメェは此処で! 完全に抵抗する力を削ぎ! その上でみじん切りにして確実に殺す!」
 「は……はは、は……」

 さとりの肺から絞り出されるような笑い声が出て、溢れてくる涙が頬を伝う。
愛しい人の幻想に囚われて、因果の前に首を差し出し、結局、それ程までに私の業は深かったと言う事か。
たったあれっぽっちの気まぐれな善意じゃ、蜘蛛の糸を垂らすにも至らないか。


 ♪(アンタもナカに入って、頭がぶち割れるまで叫べ!)
 ♪(ロックにやろうぜ、ガチガチの欲望が満足するまで!)


 ガンガンと響くボーカルが、霞がかった意識を揺らす。お陰で、多少音を立てた所で気付かれそうもない。
そして同時に……こんなに眠たいのに、耳に入ってくる歌が意識を手放す事を拒否させる。

 ――ああ、死にたくない。

 人目をはばかる事無く、中の良いペット達と一緒に、甘味屋にみんなで乗り込んで。
お洒落な服を来てみたりして、コンサートを聞いてはしゃいで。
そんな「普通の女の子」まで、もう少しだったのに。

 ――死にたく、無いなぁ……

 助かりたいと、思ってしまう。今まで幾つもの妖怪を、そうして踏み躙るように殺してきたのに。
ああ、そうか。これも因果か。煙羅煙羅が語る仇討ちも、地底に轟くこの歌も、全ての行動が繋がった先。
細く、けれど頑なだった心がポキリと折れて、身体の力がストンと抜けた。


 「お燐……お空……こいし……」


 もう、指先にも力が入らない。口が、回ったかどうかも定かではない。
刃紋の無い白刀が、副長「だった」男の腰から抜き放たれる。


 「たすけて……てん、し……」


 ゆっくりと、振りかぶって。刃が、迫る――





 「『死せる孔明、生ける仲達を走らす』」





 ガキリ、と。振り下ろす途中で食い止められた刀を見て、煙羅煙羅が表情を歪めた。

 「……なんだ、テメェ」

 帽子と羽衣で身体中を覆ったそのシルエットは、一見竜宮の使いのようにも見えた。
紅いフリルの羽衣が、掲げられた腕から力なく垂れ下がる。

 「永江、さん……?」

 朦朧とした視界の中で、特徴的なシルエットの人物をさとりはそう判断せざるを得ない。
そう言えば確かに、彼女はあの混乱の中に居なかったはずだ。
だけど、何かが違う気がする。それが何かは、具体的には言えないが……

 「……人は皆、死んでからも何かを残す。死とは決して、全てが断絶された終わりではない」

 喧騒の中でもよく通る、凛とした声。

 「けれど其処に縁が無ければ、例え生きていても人は何かを与えることは出来ない」

 羽衣の隙間から、さらさらと長い髪が漏れる。その色は、地底の日に透けて、どこか蒼く見えた。

 ――まさか。

 その時が来る事を、どこまでも望んでいた筈なのに。いざそうなれば、ぐしゃぐしゃに潰れて姿もよく見る事が出来ない。
乾いた目から余計に涙が溢れてくるのにも構わずに、目を見開いて、彼女を見る。さとりは今という時程、己の涙を疎ましく思ったことは無かった。



 「ありがとう、さとり。アンタが"縁"を抱えていてくれたから、私は今、此処に来れた」



 地底に吹いた熱風が、顔を覆っていた帽子を吹き飛ばした。
博麗の巫女の表情を、より研ぎ澄ました人形のような美貌。虚ろだった顔に芯が入り、より美しさを増したようにも感じる。

 「天、子、ざぁん……」

 それに比べたら、今の自分の表情の、どれだけ汚れている事だろう。
土と涙と鼻水で、見るも無残になっているに違いない。

 「お、ぞいでずよぉ……」
 「ごめんね」

 だけど、それでいい。全てを脱ぎ去った「古明地さとり」はそれでいい。
ただ、この顔だけを見たくて、見せたくて。あんなに必死に頑張ったのだから。

 「……アンタに、もう二度と『何も残ってない』なんて言わせたくないから」

 憎々しげに濃度を増す煙羅煙羅を、その肉体である副長を涼しげな顔で天子は見る。

 「あんな三下には、とっととご退場願うとするわ」

 地底の坩堝に、更なる一欠片が落とされて。
最後の歯車が、きしみを上げて動き出した。


 ◆


 「キヒィーッハハハァー――!!」

 響くドラムの音に合わせて、ギャリンギャリンと鉄のこすれ合う音が鳴る。

 「何処の誰かは知らねえがよォーッ」

 白目を剥き唾を吐きながら、御廻組副長は暴力的な速度で刀を振った。
プチプチと千切れる筋は、取り付く煙羅煙羅にとって何の痛みにも成らないようである。
上から下に振り下ろされる鋼の塊を、天子は受け流すのが精一杯のようであった。

 「そんな貧弱な膂力で! 人間の女が! 良く格好付けれたもんだなオイィ!?」
 「……るっさいわね……格好つけなきゃ行けない時位、有るに決まってんでしょうが」

 ガキィッ! と、一際大きな音を立てて刃と刃が火花を散らす。
ギリギリと軋み合う鉄の隙間を縫って、眼光がぶつかり合う。

 「それとも、ひょっとしてアンタ女に惚れられた事も無い訳? ハッ、童貞野郎ね」
 「ざけてんじゃねえよォ、クソ餓鬼がぁぁぁッ!」

 打ち合っては居るが、所詮天子の刀は白玉楼に転がっていた物を引っ掴んできた、練習用の刃引き刀。
それを見て取った煙羅煙羅が素手で獲物を引っ掴むと、体勢の崩れた天子に膝を打ち込み、吹き飛ばす。

 「天子さん!」
 「……ッ……げ、ほっ、何、大丈夫よ、これくらい……衣玖から無理矢理、羽衣ひっぺがしてきた甲斐があったわ」
 「ッ!? 永江さんは、この事を?」
 「まったく、何処で気付いたんだか。まぁ、お陰でスムーズにここまでこれたんだけどさ」

 妖怪の脚で蹴られたと言うのに、天子は未だピンピンしているようであった。
さとりがホッと息を吐く。しかしその安堵も、構える刀の剣先を見て萎れていってしまった。

 「キ、ヒヒヒ……おいおい嬢ちゃん、んなぶち折れた刀でどうする気だって?」
 「あら、アンタが言ってたじゃない、時間さえかければ誰かが気付くって。要は、時間が稼げりゃ私の勝ちよ」
 「アァそうかい……なら、速攻でぶち殺さなきゃなぁッ!」

 とどめと言わんばかりに大きく振りかぶる煙羅煙羅に対し、天子は折れた刀で青眼の構えを取る。

 「それとも一つ、私の師匠から有り難い言葉をくれてやるわ」
 「んだよォ」
 「『分相応、と言うもの』よ」

 ドン、と空気が震えた。足元を大きく開いた男に対し、天子はまるで地面と水平に飛ぶかのように加速する。
慌てて刀を振り下ろすも、無理矢理足元を狙った斬撃では大した威力にもならず、あっさりとくぐり抜けられた。
地面を踏み躙る音がさとりにも聞こえる。大地に根を張った足はバネのようにしなり、刀は音の壁すら纏って鳩尾へと叩き込まれる。

 「ご、ほっ――」

 唯でさえ口腔をだらしなく開けていた副長が、口から泡をまき散らして飛んで行く。
手足の肉を捩じり切った痛みを呼吸で堪えながら、天子は満足気に残心した。

 「魂魄流剣術……足運び位は、真似できたかもね」
 「天子さん、あなた……」
 「……さてさて、色々言いたい事、言わなきゃいけない事、有ったはずなのに……
  どうしたもんかなぁ、いざ目の前にすると、こんなに言葉って出てこない物なわけ?」
 「ゆっくりで良い、少しずつで良いんですよ。だってもう、やっと、こんなに近くに……」

 涙を零しながら天子の胸に縋りつくさとりを、天子は緩やかに抱きとめた。
その瞳は優しげで、けれど何処か寂しそうな光を混ぜながら、天子は沈黙を返す。

 「――天子さん……?」

 答えが帰ってこない事に不安がよぎったのか、さとりは充血で染まった目で上目遣いに顔を見る。
だが天子の表情を覗く前に、後方でうごめく瓦礫の方に、気が付いてしまった。

 「ッ、後ろ……!」
 「認めねぇ……認められるか……」

 剥いた白目からギラギラと、緑の光が漏れる。

 「テメェは! 奪った側の筈だ! 蹂躙した側の筈だ! 俺達と同じ、悪に喰らわれる悪の筈だ!
  何処が俺達と違う! テメエの何処に幸せになれる権利が有るッ、覚り妖怪ィィィー――ッ!」

 男の身体を乗っ取って、煙羅煙羅は吠えた。
嫉妬と、憎悪と、かつて為してきた負の因果が、覚り妖怪を責め立てようとやってくる。

 「幸せになるのに、アンタの納得なんぞ要るかッ!」

 その合間に、天子が立つ。古明地さとりが初めて惚れた"ヒト"が、穢れた自分の、盾となって。

 「オオオォォー――ッ!! モットだ! モット火を寄越せッ! 煙を寄越せ、力を寄越せ!
  悔しいだろう! 憎いだろう! 覚り妖怪をよォー、ぶち壊してえんだろうがァー――ッ!!」

 煙羅煙羅が吠えると、辺りの燻っていた火種が再び燃え盛り、黒々とした煙を吐き出した。
その煙を身に纏い、男はずんずくと肥大して醜さを増していく。
異様な身体が持つ圧力は、秒毎に増していく様だった。空張りの余裕をかましていた天子も、流石に冷や汗をかく。

 「作戦チェンジ」

 呟くと、天子はあっさりと握っていた折れ刀を投げ捨てると、膝を抱えるようにさとりの身体を抱いた。
格好の気恥ずかしさと鼻孔を満たす天子の甘ったるい程の芳香で、さとりの顔がみるみる赤らむ。
乙女のように身体を固まらせるさとりを見て、「ちゃんと捕まってなさいよ」と天子が苦笑した。

 「きゃぅ、あの、その」
 「……羽衣サマサマね、今の私でもなんとか飛ぶ事が出来るし」
 「あ、うう……天子さん、天子さん、天子さぁん!」
 「はいはい、ここに居るってば」

 肥大しきり、黒色に染まった腕を掻い潜り、さとりを抱いて天子は飛ぶ。
眼下には、荒れ果てた地底の街。だが地底の太陽の下、ぼんやりと空を見上げるだけだった住人はもう居ない。
ヤマメの歌に吸い寄せられて、まばらながらも声を上げる者も居る。
鬼達に連れられ、弱々しくも復興を始める者も居る。
地上の妖怪に頭を下げて、木材等の物資をどうにかかき集めようと動く者も居た。

 「……さとりの居場所は、まだ此処には無い?」

 かつて自分も住んでいた街が燃え崩れた様を見て、天子が小さく問いかける。
暁のように紅い目が、雲のように遠い何かを映し出した。
その質問の中に、何か大事な物が潜んでいる気がして……さとりはそっと、第三の目の瞼を塞いだ。

 「いいえ。……私はもう、"覚り妖怪"が怖くは有りませんから」
 「そっか」

 天子が笑う、その笑みは。本当の本当に、嬉しそうな物で。

 「じゃあ、私の仕事はアイツをぶちのめすだけね」

 いつかのように鼻を鳴らし、堂々と、彼女は挑んでいくのだ。





 「……どうにも、出来ませんか」

 岩が転がる地底の端、赤毛の死神に対し、永江衣玖は頭を下げる。
その格好に何時もの羽衣は無く、ブラウスとスカートだけの姿は目新しい。

 「無理だね。流石にちと、あたいの分を超え過ぎてる」
 「そこを、どうにか」
 「……どうにかしたのが、今なんだ」

 死神の鎌を支えに蹲踞の姿勢で座り込む死神は、名を小野塚小町と言った。
一見気怠げに見えるその姿も、空気を読めば人を案じているのだと分かる。

 「お前さん、勘違いしないどくれよ……望んだのはアイツ。あたいはただ、運んだだけさ」
 「……」
 「馬鹿だよなぁ。身近に、こんなに心配してくれる人が居るってのに……」

 煙管に口を付け、ふぅ、と紫煙を吐き出す。
空に溶けた煙は、すぐに闇の中に紛れて消えた。

 「そんな馬鹿な事を、押し付けなきゃなんねえのをさ、喜んでやってる訳じゃないんだよ」
 「……それはきっと、誰も彼もが」
 「ああ、誰も彼もが、自分で背負い込めたら良いと思ってる」

 本当に、ひん曲がってる癖に根がお人好しな奴ばっかりだよ、と。口を動かすだけで、小町は飲み込んだ。





 「キヒィィィ!!」

 煙を取り込みどす黒く変色した男の手が、漆喰の壁を障子戸のように引き裂く。
八尺にも届くだろう長い腕が、ついに高くは飛べぬ天子の背面を捉え鮮血を散らした。

 「天子さん!」

 庇われる形で抱えられるさとりが、悲痛な叫び声を上げる。

 「もういいです、もう……お願いだから、無理をしないで!」
 「痛ぅ……だい、じょうぶ、皮一枚よ」
 「嘘ですッ!」
 「みすみすアンタをあいつに差し出せっての? それこそ冗談でしょ」

 痛いくらいで丁度良いわ、と嘯いて、天子はさとりの背を、あやすように叩く。

 「たーぁーッ……! その邪魔くせえボロ布、引き裂いてやったぜェーッ……!
  おら、次はどうするよォ糞ガキ! 這い蹲って謝るかぁー!?」

 異形の肩をグルグルと回しながら、煙羅煙羅は地響きを上げて天子達の落ちた路地へと向かった。

 「はん、まさか……忘れてんじゃないでしょうね、私なんぞに手こずってる時点でアンタの負けなのよ」
 「口の減らねぇー……いや」

 男はその聴覚に、騒ぎを聞きつけて近づく忌々しいペット達の喧騒を捉える。

 「そうだなぁー……どぉーやら、確かに時間がねぇらしい」

 大きく舌打ちを一つ。この時間制限がなければ、嗜虐心に任せて覚り妖怪を甚振り回すと言うのに。
憎々しげに表情を歪ませる男の脳裏に、一つ妙案が浮かんだ。その光景を想像し、隠し切れない笑みを浮かべる。

 「だが、覚り妖怪! テメェの顔をもっと屈辱と憎悪に染める位の事はしてやれるよォ」
 「何する気よ……がぁッ!」
 「キッヒヒ……テメェの愛しい愛しい王子様の身体、俺が貰ってやる……」
 「そんなっ……」

 煙羅煙羅が操る丸太のような腕に、ささやかな抵抗ごと天子が握り潰された。
あんぐりと開いた口から、ドス黒く染まった煙が吐き出され、天子の身体に巻き付いていく。

 「うげ……ッ! ゴホッ、ゴホッ」
 「やめっ、やめなさいッ!」
 「キッ、ヒャヒャヒャヒャ! 嫌に決まってんだろうが、バァーカがッ!
  そうだ! その顔だ! まずはこの餓鬼の魂をズタズタに引き裂いて、こいつの身体を使って殺してやるよォ!
  そん時にゃあ、その目をひん剥いた顔をもっと良く見せろやァァァッ!!」

 汚染に苦しむ天子の身体が、指の隙間からボトリと落ちる。
弱々しく名を呼ぶさとりに向かって、苦しげに腕を伸ばす。その姿は、砂漠で行き倒れる旅人の如く無惨であった。
いきみ切ったさとりの第三の目から、血の涙がボトボトと零れ落ちる。

 「あ、ああ……」

 影に染まったさとりの瞳に、もがき苦しむ天子の姿が映る。瞳孔が、窄まって行く。
渇き切った涙の奥へ、確かな殺意の光が、差しこむ。

 「三下が……ッ! 殺してやる、もう一度殺してやる……!」
 「……そうだ、それでいい。テメェは既に人を踏み台にした側なんだ。
  憎しみで憎しみを呼びッ! 復讐の連鎖で因果となす! そういう側だろうがよォ!」
 「私を恐れろォォォー――ッ!!」

 絞り切った身体に残る、全身全霊を込めてさとりは叫び――


 その体を、ぎこちなく比那名居天子が抱き寄せた。
触れ合う程度に唇と唇を当て、身体を押して二、三歩離れる。


 「……あ」
 「良いのよ、さとり。もう良いの」
 「何がだ、オイ。なに勝手な事して……」
 「アンタの『こういう』部分、全部ひっくるめて私が持って行ってあげるから……『今日』を無駄にしちゃ、駄目よ」

 後ろ手に組んで、はにかみながら天子は笑う。本当に可愛らしい、笑顔を。

 「ごめんね。お別れの前に、ちゃんと答えを返してあげれなくて」
 「てんし、さ」
 「……ごめんね。あなたの気持ちに、最後まで応えてあげれなくて」

 彼女は何を言っているのだろう、と。本当に何も分からなくて……分かりたくなくて、さとりは首を振った。
それを、とても、暖かな……妹を見るように優しげな目を向けて。天子は、口を開く。

 「私、今日ね……ちゃんとあなたの事を、フリに来たんだ」
 「……どうして、そんな事を……」
 「だって、心残りだったから。最後まで、あなたに甘えたままで、不誠実な事をしたくなかった」

 だから、バイバイって。溢れる涙越しなのに、振られる手の動きが、嫌に良く分かる。

 「オイッ! なんだ、巫山戯んな! 俺を無視すんじゃねぇよォ!
  手前なんぞに何が出来る、負けっぱなしの小娘がぁ!」
 「何が出来るですって? ……決まってるじゃない!」

 柔らかだった相貌が、すっと「彼女」の物に変わる。
誰よりも我儘で、不満たらたらで、だけど何よりもこの世の中が好きだった、比那名居天子の物に。


 「私に結ばれた"死の縁"に、あんたを巻き込んでやる位は出来る!」

 そう、嗤って。天子は「永江衣玖の羽衣で隠していた」自分の身体を、世界の中に解き放った。


 「あ……? ああ? あああッ!? 手前なんて事してやがる! 巫山戯んな! 俺を巻き込むんじゃねぇッ!!」
 「あははははッ! さあ来い! 既に用意は出来てんでしょうがッ!!」

 ――その"匂い"に、最初に気付いたのは「彼」だった。

 あれは「敵」の匂いだ。嫌な思いを丹念に丹念に塗りこまれた、甘い匂いだ。
彼には既に主がいる。かつては守るべき妹であり、そして今は、守護するべき主である。

 ――だからこそ、「彼」は誰よりも早く飛び込んでいった。

 「おおおおッ! 離せ……! 離しやがれよォ……!」
 「……やだ、嫌だッ! 天子さん、天子さん! 天子ィ!」

 ――彼の主も、黒猫と鴉も。何もかも置き去りにして、白い影の如く。

 死してなお、傅いてなお、妄執の通りに歯車は回る。
主を守る為に、溢れ出す憎しみの為に、その牙を尖らした。

 ―― 一瞬、目と目が合い、受け入れるかのように、腕を開く。





 「GRRRRRAAAAAAAAAAAAAAAAAA!!」
 「やめてえええええぇぇぇぇぇー――ッ!!」





 そして、あばら屋の壁を通りぬけ、疾風のように現れたジロが。
己の衝動に任せるがままに、「敵」である「甘ったるい桃の匂いを撒き散らす物」を咬み潰した。

 牙に腹部を穿ち切られ、腸を撒き散らした比那名居天子が。
地面の上を、二転、三転跳ね回って。


 やがて、動かなくなった。


 ◆


 ――あ……ああ、そっか。

 私、まだ死んでないんだ。もう、声も満足に出せないのに。

 はは、人間も結構頑丈なのね……

 ……。


 ……ねえ。

 ねえ、聞こえる?

 最後に、ちょっとだけ、おしゃべりしましょうか。まあ、私喋れないんだけどさ。

 あの後、そう、紫の奴に、縁を切られてからね?

 色々、大変だったのよ。身体は勝手に動き出すし。魂の方は、なんか陶器みたいな人形に閉じ込められるし。

 そんで、その、母様にね。

 会ってきたよ。なにも、喋れなかったけどね。


 ……。

 ……怖かった。

 あの人は、ずっとずっと、暗い海の底で、私の事を探してたんだと思う。

 六百年近い間、成仏も出来ずに。

 海に引きずられた子供の魂を、見つけては、がっかりして。

 そうやっている内に、どんどん魂が摩耗していくんだね。

 ……私が、あの時に、死んでおけば……

 冗談よ。後悔してない。今はもう。


 え?

 なんで死ななきゃならないんだって?

 そうね、ちょっと、長くなるんだけど。

 母様はね、私が還俗した事で、私の事を見つけたの。

 その頃は私、なんも知らなかったんだけど。要は、私が天人である事で、私の事を見つけられないようになってたのね。

 それを、破ってしまったから。五衰が始まった頃にはもう、母様は幻想郷に入ろうとしてた。

 紫の奴が入り口隠したりして対応してたんだけど。

 ……覚えてる? あなたが、一人きりになろうとして、とんでもない物を想起させちゃった事。

 あれでね、誤魔化しきれないレベルになっちゃったんだって。

 一回は送り返したんだけど、やっぱり向こうも、諦めてないし。

 紫も、手段を選ばない位に色々やってたんだけど、結局とちっちゃって。

 ……だから、私が、もう一度天に昇らなきゃいけないの。

 ほら、「仏様」って言うでしょ?

 還俗した身だからね。その位しないと。



 違う?

 ……そんな顔、しないでよ。

 未練、残したく無かったからね。

 幽々子に、縁をつないでもらったの。

 死との縁を挟んで、むりやりにね。

 おかげで、あなたの事、助けられた。



 ……ううん、誰も悪くなんてない。

 皆が皆、良くなるように行動して。

 ただ、そうなってしまっただけなのよ。

 ……恨んでなんか無いわ。



 そうね、楽しい話をしましょ?

 ヤマメの歌、聞こえたわ。とっても、かっこ良くなってた。

 タロたちの事、恨まないでね。決めたのは、私だから。

 パルスィ、泣いちゃうかなぁ。情が深いもの……ああでも、覚えてないか。

 ねえ。

 ロックよ、さとり。

 ロックにはね、支えって意味も有るんだって。

 私が死んでも、あなたの心は、一緒に支えてるから。

 だから、また、人を好きになってね。

 ……うん、約束。

 ゆびきり、げんまん。



 ……手。

 にぎってて、くれる?

 あったかいわ。



 あなたが、覚り妖怪でよかった。

 ……ありがとう。



 なかないで。

 私、しっぱいばかりだったけど。

 あなたを助けることだけは、うまくできてたよね。

 だから、ねぇ。

 なかないでよ。



 ……。

 ……むりかぁ。

 そうだよね。

 ごめんね。

 こわいなぁ。

 わたし、転生できないんだって。

 また、おそわれるかもしれないから。

 ひみつにするつもり だったんだけどね。

 わたし、いっぱい べんきょうしてたけど。

 じごくにも、どこにもいけない魂のこと、しらないや。

 こわいなぁ。

 ごめんね。

 こんなこと、いうつもりじゃなかったのに。

 なかないで。

 ……むり?

 うん、だんだんくらくなってきた。

 て、にぎっててね。



 ……。



 …………。



 ………………くやしいなぁ。

 わたし……やくそく、まもれなかった。



 ……。



 ……だいじょうぶ。

 あなたは……ちゃんとだれかのこと……すきになれるよ……。



 ばいばい……――









 乾いた土の上を、泥炭のような物が這いずっていた。
自分を巫山戯た女ごと噛み砕いた犬神は、急に我に返ったようにだらし無く口を開けて呆けている。
覚り妖怪は、最早こちらになど興味が無い様だった。穴の空いた女の身体を膝に乗せ、時折コクコクと頷いている。

 「キッ……ヒヒ、ツキだぁ、俺ぁまだツいてる」

 まだだ。大部分を食い千切られはしたが、まだ核は残っている。
その辺のガキか何かに取り付いて、じわじわと自分を回復させれば、まだチャンスは有る。

 「首洗って待ってやがれ、覚り妖怪……! 次だ、次は絶対よォ……!」
 「……次なんて、来ないよ」

 地を這う煙羅煙羅の上に、ごすんと何か重たい物が落とされた。
何事かと見上げてみれば、長い黒髪の女がゾっとする瞳で見下ろしている。

 「へぁ」

 返答は、爆発音で。
神の炎に焼かれ、今度こそ煙羅煙羅は魂ごと完膚なきまでに蒸発した。


 「さとり様」


 赤いものが混じった涙を、滔々と流すさとりをいざ前にして。ペット達はどうして良いかも分からず、ただ硬直するだけで。

 「……あの……その方は、いったい?」
 「そうね……命の、恩人かしら」

 口にしてみれば、なんとも陳腐な物だと。熱く頬が震えるのも止められず、さとりは嘲笑う。

 「この人が持って行ったおかげで、私はまだ生きられる。
  この人が来てくれたおかげで、私は、また誰かを好きになれる」

 最初はまだ、怖がられるかもしれない。疎われてしまうかもしれない。
けれど私が、恐れも疎いもしなければ。いつかは。いつかは、また。

 「……だけどっ、それでも!」

 ありがとうと、お礼だけを言って。綺麗にお別れが出来れば良いのに――

 「貴女に居て欲しかった!
  貴女が隣に居てくれさえすれば、どんな勇気だって持てた!
  こいしとちゃんと向い合って、一緒に桜を見に行くことだって、きっと出来たのに!」

 ――溢れてしまった言葉は、もう二度と元に戻らない。

 「貴女だけなのよ! 好きでも嫌いでも無く、『恋しい』と思うようになったのは!
  英雄になんてならなくたって、一緒に居るだけで、私は救われていたのにッ!」

 顔が血に染まるのも厭わずに、心臓に顔を近づける。
ほんの僅かの痕跡で良いから、残っていてはくれないかと探してしまう。


 「……貴女を失った事を、私は誰にも憎めない。
  それは、きっと……とても酷いことだわっ……!」


 まだ暖かさの残る躯からは、ただ失われていく熱が感じられただけだった。
こんな事を口にしてしまう自分すらも、思い通りに出来なくて。





 「う、う……あああ……わああああああああああああ!
  あああああああああああああああああああああああー――!!」





 己が母を失った時から、ずっと被っていた仮面が剥がれ落ち。古明地さとりは、幾百年ぶりに子供の如く泣き喚いた。
【悉皆成狒】編に続きます。
はまちや
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コメント



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3.100絶望を司る程度の能力削除
うわああああ・・・・
7.100名前が無い程度の能力削除
ぐう…
8.80名前が無い程度の能力削除
なーがーいー
頭朦朧とする 日をまたいで読むべきか

>任せて起く  補助動詞「おく」 多分当て嵌める漢字はない?
>燦々たる有り様  〇惨憺たる △散々たる
9.60名前が無い程度の能力削除
ここまで読んで来た中ではこの回が一番面白かった。
ただ時折挟まれる性犯罪っぽい描写はやっぱり慣れないなぁ...
女が攫われたらとりあえず犯されるみたいなの
漫画なんかじゃテンプレだけど現実の性犯罪の悲惨さを
知ってるからあまり好きになれない...
14.100名前が無い程度の能力削除
ほんとおもしろい…