雪が降り積もるのを見た。
うだるように暑い、夏の日のことだった。
◇
「また今日も、迷子が一人」
この竹林では、どれだけ歩いても似たような景色が延々と続いている。複雑に傾斜した地面には、平衡感覚を狂わされる。真っ直ぐ歩いているつもりで元の位置に戻って来ているなんて、それくらいは日常茶飯事。天候によっては深い霧が立ち込め、視界は白く閉ざされる。
あらゆる構成要素が、この竹林の中で迷わせるために出来ている。妹紅に言わせれば、迷いの“まじない”が掛かっているとしか思えなかった。
竹林には妖怪と化した獣が棲み着いている。かさかさと揺れる繁みの中の、黒く塗り込めたような影の奥には、大抵、獣の唸り声と息遣いがあった。
つまりは危険な場所だ。人間が来るような場所ではない。
にも、関わらず。
迷いの竹林には、定期的に、どうしてか途絶えることなく、何かに誘われるようにして、迷子が迷い込む。
「まったく、なんで迷いの竹林と知ってて入り込むんだろうな」
かく言う妹紅も、やはり何かに誘われるようにして迷い込んだ口だけれど。
そりゃあもう、何度となく痛い目に遭いながら、地図に起こせるものじゃない、敢えて言うなら竹林の癖のようなものを、体当たりで覚えたのだ。
そして今の妹紅は、幾分か地理に明るいこと、腕っぷしに自信があること、この二つを活かして、迷子の道案内なんかをしている。最初は、人里に住んでいるお節介焼きへの義理立てだった。今では、感謝されることも悪くはないかな、なんて思うようにもなって来た。
「気を付けて帰れよ。良いか? ここ迷いの竹林は、誰だって迷うように呪いが掛けられているんだからな」
ぶっきらぼうに言う。照れ隠しだった。怯え切った人間に歩調を合わせることにも苦労する。気を抜くと、置いていってしまいそうになる。
助けた迷子にすごいと言われたけれど、誤解だ。浅瀬か、中ほどの所が精々で、竹林の道を把握しているわけではないのに。妹紅だって、迷う時には迷うのだ。
そして、本当の本当に深い場所まで迷い込んでしまえば、今でも、自力で帰って来られる自身は無い。
◇
以前に一度だけ、妹紅は深い場所まで迷い込んだ。
真夏日だったように思う。草の匂いと、網膜を焼く日光。叩き付けるように横殴りの蝉時雨。肌には、じわりと汗の玉が浮かぶ。確かに真夏だったはずだ。その暑い季節に、雪が降り積もるのを見た、ような覚えがある。あの時のことは、よく覚えていない。
適当に歩いていれば、その内、知っている場所に出るだろう。
だなんて、甘い見込みだったとしか言いようがない。つい先刻の自分を殺してやりたい気分だった。死なないけど。
迷った。冗談でも笑い事でもない、完全に、言い訳の余地無く、道に迷った。
ただでさえ薄暗い竹林が、辺りは更に一段と暗い。夜と紛うほど真っ暗で、肌寒くさえ感じる。竹の葉に守られた日陰は涼しいだとか、そういう風情を通り越している。流石にこれは異常だ。相当、竹林の奥底に来てしまったらしい。
空を仰げば、竹が深緑の手を伸ばし、光を遮っている。もちろん木漏れ日なんて優雅な光は差し込まない。一つ言っておくなら、上へ逃げても無駄とは既に試した結果だ。いくら逃げても竹は延々と追い掛けて来る。空を飛んだって、簡単には抜けられない。
鬱蒼とした竹藪と、光の届かない闇。これは死ぬな、と軽く覚悟した妹紅は、覚悟に見合った軽い溜め息を吐いて、灯りを用意した。翳した手の上に、ぼう、と炎が宿る。人類を猿から進化させた画期的なツール。獣よりは上等な生き物になった気分。
洞窟を探検しているのかと思うほど真っ暗な竹林の中を、当てもなく歩く。どれだけ進んでも鬱蒼とした竹藪が続くばかりなことも、もはやそれで当然のように思えてくる。ところが決して死なない体質に胡坐を掻いているせいで、闇雲な行進が続いていた。引き際ならあったかも知れないけれど、その線は大股で跨いで通り過ぎてしまっている。
遠く、風に乗ったしゃぼん玉のように、ゆっくりと横切る白い影があった。すぐに竹に紛れて見えなくなってしまったそれは、見間違いかと思ったけれど、追えば、案外簡単に追い付いてしまった。
半透明の傘状の体に、何本もの細い触手。クラゲのことは知っていた。海の生き物のはずだ。
その暗い闇が水の中と変わりないように浮いて、泳ぐでもなく流されていく。今度は、追わなかった。ほんの少し注意を他に引かれただけで、また、自分の現在位置が分からなくなる。取り返しの付かない失敗をしたような気がした。
獣道さえ見当たらない竹林を、少しでも繁みの薄い場所を選んで、掻き分けて、踏み入るように進んでいく。始めの頃は、まだ歩いて通れるだけの空間はあったのだが、歩みを進める度に、段々と取り返しが付かなくなっていく。もうほとんど、藪の中を泳いでいるのと変わらない。
不意に段差を転がり落ちて、少し開けた所に出た。痛みと言うよりはドジを踏んだ苛立ちに、顔を顰める。気を取り直して辺りを炎で翳せば、盲目的な暗闇は視覚的な暗闇に変化する。だから何だという話。
ふっ、と。
あまりにも静か過ぎることに気付いた。生き物の気配が無い。音というものを忘れてしまいそうな沈黙。
妹紅は、竹林の中にぽつんと存在する空き地の真ん中に、たった一人で立っていた。すると急に心細くなってくる。不老不死の自分が? 馬鹿な。そう笑い飛ばしたくても、できなかった。
地獄って、賑やかな場所だと思っていた。獄卒がいて、罪人がいて、阿鼻叫喚の地獄絵図。だったら妹紅は、魂の迷子だ。地獄には堕ちられないから、ただ暗いだけの、何も無い場所に来てしまったのかも知れない。
鼻で笑ってしまえば虚勢になると思ったから、固く唇を引き結ぶ。
そんな時だった。
深々と、雪に似た何かが降り積るのを見た。
暗い、暗い、ずっとずっと上の方から、淡く白い粒が、ふわりふわりと、たゆたうように、着実に。ひどくゆっくりとではあるが、降ってくる。普通の雪よりも、その速度は遅いようだった。
ゆらゆらと踊りながら、音も無く降り頻る。
ちらちら、ちらちら、と。音も無く、不思議な音を立てながら。
妹紅は我を忘れて、その白いものを見上げた。
炎で照らせば、赤く染め上げられる。幻想的に美しいと言って、差し支えない光景のはずだ。たゆたう白の粒子は、溜め息を禁じ得ない程に美しい。
そのはずが、妹紅は肌寒さを感じていた。雪に似た何かは、どうしようもない死の気配を纏っている。
幽邃。静謐。どこか空恐ろしい程の、静けさ。
手を上に伸ばして触れてみると、温度は無く、ひどく冷たい印象を受けた。氷のように冷たいのでなく、灰のように温度が無い。
確信する。
これはきっと、美しいものでは、ない。
◇
「あ、いたいた。どうしてこんなところまで潜って来ちゃうかなぁ?」
「えっ?」
聞き逃していた。いや、聞いてはいたのだが、空っぽの頭では、簡単な理解も追い付かなかった。
「前にもこんなことがあったよね。覚えてないの?」
「……前、だって?」
前とは、どういう意味だ?
今は、いつだ?
真冬、だろうか。違う。うだるように暑い真夏だったはずだ。取り戻したはずの現実感は、まだ覚束ない。しんしんと降り積もる雪が、夏の実感を忘れさせる。
「前は前。今は今。私の竹林の中で、気を抜いて歩くものじゃないよ?」
迷った時のことを回想するばかりに、また迷っていた、らしい。
「……お前、いつから」
「いつからと言うなら、最初から、かな」
ふわふわとした黒髪を揺らして、にこりと微笑む。
因幡てゐ。妹紅よりも長く、竹林に住んでいる少女。
てゐを見付けると竹林から抜け出せるとか、幸運の素兎などとも呼ばれているが……どうだか、というのが妹紅の正直な感想だった。迷いの竹林の道案内役は、妹紅しかやっていない。
むしろ、迷いの竹林が“迷いの”と冠している原因は、てゐの仕掛けではないのかと、妹紅は疑ってかかるどころか確信を抱いている。
「……あれ、雪……どうして」
まだ夢見心地。忘我のまま、そんなことを呟いていた。
確かに気温は涼しい。いや、寒い。しかし今は夏だということだけが、いやに頭に張り付いていた。冬に雪が降る分にはどこで降ろうと構わない。だけど今は真夏だ。夏に雪が降る道理は無い。
「雪?」
こてん、と。てゐは小首を傾げる。
予想していなかった、と言うよりも、予想して然るべきだったことを、当たり前過ぎて忘れていた、という風な首の傾げ方だった。
妹紅が雪と思っていたものは、てゐにしてみれば、雪という名前ではないらしい。
「それより、帰り道、分からないでしょ」
「いや、別に」
「あ、そう。じゃあ私はこれで」
「待った」
「ふーん?」
悪戯っぽく、微笑んで。
「迷子になりました。助けてください」
「頭を下げろと言ったわけじゃないけどね……まあ、顔が面白いから、良いことにしましょう」
普段、厭世家を気取っている分の気恥ずかしさだとか、普通に悔しさだとか、そういうものが綯い交ぜになって、妹紅の顔はちょっと面白いことになっていたらしい。
◇
ほぼ無音の世界。足を踏み出す度に、積もった白が宙を漂った。
大きな生物の背骨が沈んでいる。最初、その背骨には、赤い花が集まって咲いているように見えた。ただ、よく見れば花には似ても似つかない。
「落ちてるのはクジラの骨。赤い花は、ゴカイの仲間」
「クジラって、本当かよ」
「どうかな。海竜の類いかもね」
どちらにしても海の生き物だ。
「この竹林はね、何度か海に流された事があるんだよ」
「それ、聞いたことがある」
例えば、ひそひそと喧しい妖精たちの噂話。
『この竹林はね、昔は幻想郷じゃない別の場所にあったんだって。伝承では大津波に流されてここに流れ着いたとか……』
『竹林が津波で流された? しかも流されて幻想郷にって変じゃない? 海も無いのに……』
もちろん妹紅は妖精たちが噂していた伝承を、より詳しい形で知っている。迷いの竹林は、元は因幡の国高草郡と言う。
「本当は海に沈んでいる場所なんだな。本当なら、この世には、もう無い」
「そういうこと」
妖精たちの会話には、こんな続きがある。
『幻想郷は外の世界で消えた物が流れ着く事もあるのよ。魔法の森だって似たような伝承があるわ』
『時空の迷子になった場所ってことね。だから迷いの竹林って言うのかな』
「……お前もさ、迷子なのか?」
「私が? そんなわけないでしょ? 妹紅はもう気付いちゃってるよね? そうだよ、私は罠を仕掛ける側だよ?」
振り向いて嘲笑うてゐの笑顔は完璧で、嘯く口調に淀みは無い。
虚勢の張り方を見習いたいものだと、妹紅は素直に感心した。
「笑わせてくれるのは嬉しいけど、その冗談、あんまり面白くないな」
「そうかよ」
お前も、迷子なんじゃないか。
その一言は、言わないでおいた。
「ところで、脈絡もなく海に流された話をしたわけじゃないよー?」
「ああ、雪っぽいのな。どう関係あるんだよ」
無音の暗闇は、まるで海の底。深海の雪原には、雪に似た何かが、絶えず、音も無く降り積もる。
雪に似ている。
けれど、雪ではない。
「形は変わっているけどね、妹紅も見たことのある物だよ。細かく砕けて、千切れて崩れて、その物がそういう変化をするってことも、ちゃんと知ってると思う。ちなみにこういうのは、微生物やバクテリアの働きによる分解なんだってね」
「はっきり何なのか言ってくれ。見たことあるのか無いのかも分からん」
「確かに土の中とは様相が違うかな。この場所のそれは、長い時間を掛けて、流れに巻かれながら、ゆっくりと沈んで、ゆっくりと、この一番深い場所まで降り積もるの。長い時間……千年とかそこらじゃないよ? もっとずっと長い時間を掛けて、ゆっくりと、ね」
千年より長いとは、一万年か、十万年か。妹紅には想像も及ばない、長過ぎる時間の距離だった。
「そろそろ分かると思うから、最後のヒント」
「…………」
「この雪らしきものは、温かい? それとも、冷たい?」
「冷たい」
それも、氷のように冷たいのでなく、灰のように冷たい。温度が無い。どうしようもない死の気配を纏っている。
「…………あっ」
舞い散る雪に似た白片は美しい。だけど、ただ美しいだけのものでは、ない。
「デトリタス。あとはそう、マリンスノーとか言うらしいけどね。要するに────」
上の方から降り積もる、白い何か。それは微生物に分解され尽くした成れの果てだと言う。確かにそれは、妹紅の知っているものだった。
「────死骸、だよ」
ふわり。
てゐは雪の日にそうするようにして、その細かな肉片を、差し出す手の平に受けた。
うだるように暑い、夏の日のことだった。
◇
「また今日も、迷子が一人」
この竹林では、どれだけ歩いても似たような景色が延々と続いている。複雑に傾斜した地面には、平衡感覚を狂わされる。真っ直ぐ歩いているつもりで元の位置に戻って来ているなんて、それくらいは日常茶飯事。天候によっては深い霧が立ち込め、視界は白く閉ざされる。
あらゆる構成要素が、この竹林の中で迷わせるために出来ている。妹紅に言わせれば、迷いの“まじない”が掛かっているとしか思えなかった。
竹林には妖怪と化した獣が棲み着いている。かさかさと揺れる繁みの中の、黒く塗り込めたような影の奥には、大抵、獣の唸り声と息遣いがあった。
つまりは危険な場所だ。人間が来るような場所ではない。
にも、関わらず。
迷いの竹林には、定期的に、どうしてか途絶えることなく、何かに誘われるようにして、迷子が迷い込む。
「まったく、なんで迷いの竹林と知ってて入り込むんだろうな」
かく言う妹紅も、やはり何かに誘われるようにして迷い込んだ口だけれど。
そりゃあもう、何度となく痛い目に遭いながら、地図に起こせるものじゃない、敢えて言うなら竹林の癖のようなものを、体当たりで覚えたのだ。
そして今の妹紅は、幾分か地理に明るいこと、腕っぷしに自信があること、この二つを活かして、迷子の道案内なんかをしている。最初は、人里に住んでいるお節介焼きへの義理立てだった。今では、感謝されることも悪くはないかな、なんて思うようにもなって来た。
「気を付けて帰れよ。良いか? ここ迷いの竹林は、誰だって迷うように呪いが掛けられているんだからな」
ぶっきらぼうに言う。照れ隠しだった。怯え切った人間に歩調を合わせることにも苦労する。気を抜くと、置いていってしまいそうになる。
助けた迷子にすごいと言われたけれど、誤解だ。浅瀬か、中ほどの所が精々で、竹林の道を把握しているわけではないのに。妹紅だって、迷う時には迷うのだ。
そして、本当の本当に深い場所まで迷い込んでしまえば、今でも、自力で帰って来られる自身は無い。
◇
以前に一度だけ、妹紅は深い場所まで迷い込んだ。
真夏日だったように思う。草の匂いと、網膜を焼く日光。叩き付けるように横殴りの蝉時雨。肌には、じわりと汗の玉が浮かぶ。確かに真夏だったはずだ。その暑い季節に、雪が降り積もるのを見た、ような覚えがある。あの時のことは、よく覚えていない。
適当に歩いていれば、その内、知っている場所に出るだろう。
だなんて、甘い見込みだったとしか言いようがない。つい先刻の自分を殺してやりたい気分だった。死なないけど。
迷った。冗談でも笑い事でもない、完全に、言い訳の余地無く、道に迷った。
ただでさえ薄暗い竹林が、辺りは更に一段と暗い。夜と紛うほど真っ暗で、肌寒くさえ感じる。竹の葉に守られた日陰は涼しいだとか、そういう風情を通り越している。流石にこれは異常だ。相当、竹林の奥底に来てしまったらしい。
空を仰げば、竹が深緑の手を伸ばし、光を遮っている。もちろん木漏れ日なんて優雅な光は差し込まない。一つ言っておくなら、上へ逃げても無駄とは既に試した結果だ。いくら逃げても竹は延々と追い掛けて来る。空を飛んだって、簡単には抜けられない。
鬱蒼とした竹藪と、光の届かない闇。これは死ぬな、と軽く覚悟した妹紅は、覚悟に見合った軽い溜め息を吐いて、灯りを用意した。翳した手の上に、ぼう、と炎が宿る。人類を猿から進化させた画期的なツール。獣よりは上等な生き物になった気分。
洞窟を探検しているのかと思うほど真っ暗な竹林の中を、当てもなく歩く。どれだけ進んでも鬱蒼とした竹藪が続くばかりなことも、もはやそれで当然のように思えてくる。ところが決して死なない体質に胡坐を掻いているせいで、闇雲な行進が続いていた。引き際ならあったかも知れないけれど、その線は大股で跨いで通り過ぎてしまっている。
遠く、風に乗ったしゃぼん玉のように、ゆっくりと横切る白い影があった。すぐに竹に紛れて見えなくなってしまったそれは、見間違いかと思ったけれど、追えば、案外簡単に追い付いてしまった。
半透明の傘状の体に、何本もの細い触手。クラゲのことは知っていた。海の生き物のはずだ。
その暗い闇が水の中と変わりないように浮いて、泳ぐでもなく流されていく。今度は、追わなかった。ほんの少し注意を他に引かれただけで、また、自分の現在位置が分からなくなる。取り返しの付かない失敗をしたような気がした。
獣道さえ見当たらない竹林を、少しでも繁みの薄い場所を選んで、掻き分けて、踏み入るように進んでいく。始めの頃は、まだ歩いて通れるだけの空間はあったのだが、歩みを進める度に、段々と取り返しが付かなくなっていく。もうほとんど、藪の中を泳いでいるのと変わらない。
不意に段差を転がり落ちて、少し開けた所に出た。痛みと言うよりはドジを踏んだ苛立ちに、顔を顰める。気を取り直して辺りを炎で翳せば、盲目的な暗闇は視覚的な暗闇に変化する。だから何だという話。
ふっ、と。
あまりにも静か過ぎることに気付いた。生き物の気配が無い。音というものを忘れてしまいそうな沈黙。
妹紅は、竹林の中にぽつんと存在する空き地の真ん中に、たった一人で立っていた。すると急に心細くなってくる。不老不死の自分が? 馬鹿な。そう笑い飛ばしたくても、できなかった。
地獄って、賑やかな場所だと思っていた。獄卒がいて、罪人がいて、阿鼻叫喚の地獄絵図。だったら妹紅は、魂の迷子だ。地獄には堕ちられないから、ただ暗いだけの、何も無い場所に来てしまったのかも知れない。
鼻で笑ってしまえば虚勢になると思ったから、固く唇を引き結ぶ。
そんな時だった。
深々と、雪に似た何かが降り積るのを見た。
暗い、暗い、ずっとずっと上の方から、淡く白い粒が、ふわりふわりと、たゆたうように、着実に。ひどくゆっくりとではあるが、降ってくる。普通の雪よりも、その速度は遅いようだった。
ゆらゆらと踊りながら、音も無く降り頻る。
ちらちら、ちらちら、と。音も無く、不思議な音を立てながら。
妹紅は我を忘れて、その白いものを見上げた。
炎で照らせば、赤く染め上げられる。幻想的に美しいと言って、差し支えない光景のはずだ。たゆたう白の粒子は、溜め息を禁じ得ない程に美しい。
そのはずが、妹紅は肌寒さを感じていた。雪に似た何かは、どうしようもない死の気配を纏っている。
幽邃。静謐。どこか空恐ろしい程の、静けさ。
手を上に伸ばして触れてみると、温度は無く、ひどく冷たい印象を受けた。氷のように冷たいのでなく、灰のように温度が無い。
確信する。
これはきっと、美しいものでは、ない。
◇
「あ、いたいた。どうしてこんなところまで潜って来ちゃうかなぁ?」
「えっ?」
聞き逃していた。いや、聞いてはいたのだが、空っぽの頭では、簡単な理解も追い付かなかった。
「前にもこんなことがあったよね。覚えてないの?」
「……前、だって?」
前とは、どういう意味だ?
今は、いつだ?
真冬、だろうか。違う。うだるように暑い真夏だったはずだ。取り戻したはずの現実感は、まだ覚束ない。しんしんと降り積もる雪が、夏の実感を忘れさせる。
「前は前。今は今。私の竹林の中で、気を抜いて歩くものじゃないよ?」
迷った時のことを回想するばかりに、また迷っていた、らしい。
「……お前、いつから」
「いつからと言うなら、最初から、かな」
ふわふわとした黒髪を揺らして、にこりと微笑む。
因幡てゐ。妹紅よりも長く、竹林に住んでいる少女。
てゐを見付けると竹林から抜け出せるとか、幸運の素兎などとも呼ばれているが……どうだか、というのが妹紅の正直な感想だった。迷いの竹林の道案内役は、妹紅しかやっていない。
むしろ、迷いの竹林が“迷いの”と冠している原因は、てゐの仕掛けではないのかと、妹紅は疑ってかかるどころか確信を抱いている。
「……あれ、雪……どうして」
まだ夢見心地。忘我のまま、そんなことを呟いていた。
確かに気温は涼しい。いや、寒い。しかし今は夏だということだけが、いやに頭に張り付いていた。冬に雪が降る分にはどこで降ろうと構わない。だけど今は真夏だ。夏に雪が降る道理は無い。
「雪?」
こてん、と。てゐは小首を傾げる。
予想していなかった、と言うよりも、予想して然るべきだったことを、当たり前過ぎて忘れていた、という風な首の傾げ方だった。
妹紅が雪と思っていたものは、てゐにしてみれば、雪という名前ではないらしい。
「それより、帰り道、分からないでしょ」
「いや、別に」
「あ、そう。じゃあ私はこれで」
「待った」
「ふーん?」
悪戯っぽく、微笑んで。
「迷子になりました。助けてください」
「頭を下げろと言ったわけじゃないけどね……まあ、顔が面白いから、良いことにしましょう」
普段、厭世家を気取っている分の気恥ずかしさだとか、普通に悔しさだとか、そういうものが綯い交ぜになって、妹紅の顔はちょっと面白いことになっていたらしい。
◇
ほぼ無音の世界。足を踏み出す度に、積もった白が宙を漂った。
大きな生物の背骨が沈んでいる。最初、その背骨には、赤い花が集まって咲いているように見えた。ただ、よく見れば花には似ても似つかない。
「落ちてるのはクジラの骨。赤い花は、ゴカイの仲間」
「クジラって、本当かよ」
「どうかな。海竜の類いかもね」
どちらにしても海の生き物だ。
「この竹林はね、何度か海に流された事があるんだよ」
「それ、聞いたことがある」
例えば、ひそひそと喧しい妖精たちの噂話。
『この竹林はね、昔は幻想郷じゃない別の場所にあったんだって。伝承では大津波に流されてここに流れ着いたとか……』
『竹林が津波で流された? しかも流されて幻想郷にって変じゃない? 海も無いのに……』
もちろん妹紅は妖精たちが噂していた伝承を、より詳しい形で知っている。迷いの竹林は、元は因幡の国高草郡と言う。
「本当は海に沈んでいる場所なんだな。本当なら、この世には、もう無い」
「そういうこと」
妖精たちの会話には、こんな続きがある。
『幻想郷は外の世界で消えた物が流れ着く事もあるのよ。魔法の森だって似たような伝承があるわ』
『時空の迷子になった場所ってことね。だから迷いの竹林って言うのかな』
「……お前もさ、迷子なのか?」
「私が? そんなわけないでしょ? 妹紅はもう気付いちゃってるよね? そうだよ、私は罠を仕掛ける側だよ?」
振り向いて嘲笑うてゐの笑顔は完璧で、嘯く口調に淀みは無い。
虚勢の張り方を見習いたいものだと、妹紅は素直に感心した。
「笑わせてくれるのは嬉しいけど、その冗談、あんまり面白くないな」
「そうかよ」
お前も、迷子なんじゃないか。
その一言は、言わないでおいた。
「ところで、脈絡もなく海に流された話をしたわけじゃないよー?」
「ああ、雪っぽいのな。どう関係あるんだよ」
無音の暗闇は、まるで海の底。深海の雪原には、雪に似た何かが、絶えず、音も無く降り積もる。
雪に似ている。
けれど、雪ではない。
「形は変わっているけどね、妹紅も見たことのある物だよ。細かく砕けて、千切れて崩れて、その物がそういう変化をするってことも、ちゃんと知ってると思う。ちなみにこういうのは、微生物やバクテリアの働きによる分解なんだってね」
「はっきり何なのか言ってくれ。見たことあるのか無いのかも分からん」
「確かに土の中とは様相が違うかな。この場所のそれは、長い時間を掛けて、流れに巻かれながら、ゆっくりと沈んで、ゆっくりと、この一番深い場所まで降り積もるの。長い時間……千年とかそこらじゃないよ? もっとずっと長い時間を掛けて、ゆっくりと、ね」
千年より長いとは、一万年か、十万年か。妹紅には想像も及ばない、長過ぎる時間の距離だった。
「そろそろ分かると思うから、最後のヒント」
「…………」
「この雪らしきものは、温かい? それとも、冷たい?」
「冷たい」
それも、氷のように冷たいのでなく、灰のように冷たい。温度が無い。どうしようもない死の気配を纏っている。
「…………あっ」
舞い散る雪に似た白片は美しい。だけど、ただ美しいだけのものでは、ない。
「デトリタス。あとはそう、マリンスノーとか言うらしいけどね。要するに────」
上の方から降り積もる、白い何か。それは微生物に分解され尽くした成れの果てだと言う。確かにそれは、妹紅の知っているものだった。
「────死骸、だよ」
ふわり。
てゐは雪の日にそうするようにして、その細かな肉片を、差し出す手の平に受けた。
良い話です
それだけにオチにもう少し余韻が欲しかったなあと思います。
妹紅とてゐに案内されて見に行きたいなー。案内してくれそうにないけど。
とても幻想的というか、幻想郷的だと思いました
不思議な生物たちと普通に交流でているてゐも流石竹林の主といったところですね
千年生きたモコーでさえも見守り佐くてゐの底知れなさ。強さとは喧嘩の序列だけではないのです。