くすくすくす、と。
強い者は大抵が笑顔である。定説は定説であるが故に外れ少なく、彼女もまた例外ではなかった。そして夏空を奔った黄緑の怪光線は一際大きな入道雲をぶち貫き、次の瞬間には遅れて聞こえてきた轟音とともに文字通り雲散させる。
顕わになる蒼穹が向日葵畑に凄む者を照らした。一見しては人間の少女だが、しかし風見幽香は魑魅魍魎の類である。お嬢さん然とした恰好のまま今日も幽香は少し地面から浮いていた。その〝突きつけた〟日傘の先端からは紫煙が燻ぶり、先の一撃と同じ黄緑の前髪から覗く紅の眼光は吸血鬼が如く縦裂けている。端的にいうと彼女は今苛立っていた。
「だから……何度言えば貴方はわかるの? これは蒲公英じゃなくて向日葵よ!」
「えー、だって黄色いじゃん! 霊夢が言ってたんだもん、〝黄色い花の根っこ〟を持ってくればまた美味しい飲み物を作ってあげるって!」
「あの博麗の巫女――!」
先程から己が眼前で喚くチルノはこの調子である。氷精問わず妖精というのは、話は聞いているが通じないというから厄介だ。だから幽香はいつも面倒がって脅して苛めて追い払うのだが、どうにも今日の相手は執拗かった。
「あー、わかった! あんたもあたいと一緒で霊夢に飲み物を作ってもらうつもりなのね、それも沢山! だからその黄色い花を独り占めしようっていうんでしょう? そうはいかないんだから!」
何より中途半端に適当な警告をしたのが好くなかった。そのせいでチルノはどこか嬉々として弾幕ごっこに移る気満々である。お前には退くという概念はないのかと、幽香は言いたい。
「…………ってあるわけないか」
そう、ないのである。これには幽香も空を仰ぐしかなかった。妖精は大自然の具現、そして自然とはいつだって勝手気ままなものなのだ。幽香もまた自然の権化のため、その性状はよく理解できている。しかしそれとこれとは話が別だ。己が愛でていた向日葵を、まさかチルノと〝霊夢の〟飲料玩具になどされては堪らない。
「……頭が痛い、きっと暑さのせいね。だから貴方も巫女もどこかボーッとしてるのよ。いいわ、冷まさせてあげる」
「あたい氷精だけどね」
「喧しい、こんなときだけ反応するんじゃない!」
斯くして戦端は開かれた。氷華は裂帛し、飛び交う氷の弾幕のその尽くを、幻想郷で唯一枯れることのない花の弾幕が相殺する。たとえ的外れな一投一滴であっても、向日葵に触れることは許さぬと言わんばかりに、花守る花は蒼空を駆けるのだった。
「なによ! ちょっとくらい分けてくれたっていいじゃない。幽香ってばいやしんぼうね!」
「さっきから黙っていれば巫山戯たことばかり。まさか自分は負けないとでも思っているのかしら? だとしたらそれが思い違いだってことを今一度はっきりわからせてあげるわ、貴方に……そして巫女にもね!」
◆
さてチルノと幽香が弾幕ごっこを繰り広げているその頃、霊夢はしばらく振りに人里へとやって来ていた。あれまあ仙人になったのかと思ったよとは、途中に顔を見合わせた小野塚小町の言である。神社が道教に寝返るとはまた面白い冗談もあったものだ、勿論その場でスペルブレイクしてやった。というか三途の河で船頭をしているはずの死神が言っては洒落も洒落にならない。故に正当防衛だと嘯きつつ、どこかそそくさと少女は足を速めるのだった。
「あんたの肩書ってもんを考えて物を言いなさいよね……」
仙人を殺すのは死神である。それは死神が広めた嘘であり、実際はもっと怖ろしい鬼神がその命を奪いに向かうのだが、そんなことは霊夢の知るところではない。ただ死ねば死に損、生きれば生き得との言葉のままに少女の身体は勝手に動いていた。これも人間の性というやつだろう。今日に人里に下りたのもまたそのためだ。
備蓄がとうとう心許なくなってきた。博麗神社社務所で管理している帳簿を見る上では出費は相対して減っているというのに、だ。これで霊夢以外の誰彼がいれば横領を疑うところだが、生憎神社に住まうのは少女一人である。なれば原因は己にあるのは当然だろうし、少女はそういうところはしっかりと把握するように努めていた。
原因は代作料理にある。特に米の消費が激しい。米粉麺蕎麦に米粉煎餅に味噌付けたんぽ、さらには酒さえも原料が米とくれば、霊夢の日々の食事は、近頃すべて米料理といっても過言ではなかった。思いつきとはいえここまで極端に負荷がかかれば、備蓄の計算が狂うのもまた道理である。故に値上がる秋の新米を前に、古米と野菜と茶葉を買いだめようと訪れたのだった。
「……そんなわけだから私はまだ人間よ?」
「はあ、なるほど……お前さんは酔狂に見えて意外と考えてるってわけか。こりゃあ善い話を聞いたよ、映姫様もきっとお喜びになるだろうねえ」
「その前にあんたはきっと説教だろうけど」
違いないと、からから小町は笑う。気づけば隣を歩くあたり、死も神も確かに隣人には違いない。霊夢としては口が裂けても厄介と言えないのが辛いところだ。魔住職ならぬ魔巫女となれば神社が名実ともに妖怪神社に変わってしまう。そんな分業はごめんである。
「ところであんたはなんでさっきから着いてくるのよ? サボってるってなら今度こそ叩き返すわよ」
「手厳しいねえ。……まあ今日は仕事だからさ」
「それなのに説教はされるの? …………閻魔様もあんたも大変ね」
「お上ってのはいつだって勝手なものさ。なんせ摂理からして違っておられるからねえ。……けれど理不尽じゃない。何が慇懃で何が無礼かはちゃんと示してくれる。それを馬鹿正直に守るのも悪くないが、締めるところは締めて緩めるところは緩めて、そうやって丁度良く生きるのもまた下々に許された勝手ってわけさ」
たとえば死神にしても裁判の書記、地獄の受付嬢、それに三途の河の船頭と、就ける仕事はいくつも選択肢がある。それらに貴賤があるとは小町は思わないが、しかし現実としてエリート職の書記と人気の低い船頭という認識の差は存在しており、偶に同期の学友と会えば此方を一段下に見るような輩もいるわけだ。
仕方のない話である。実力と人格が伴っているかなどまた別問題で、社会的な徳の高さはまず間違いなくあちらの方が上なのは確かなのだから、零ではないが相対的に社会的な徳の低い小町は、あちらの価値観では悪といえば悪なのだ。もっともそれを最終的に裁くのは死神ではなくて閻魔なのだから、今日も彼女は気楽に過ごしていられる。だってあちらと此方じゃ結果として見ればとんとんだ。それを彼女は知っている。
「映姫様は心配性なのさ。なんせ人の不確かさをよくご存知だ。ある日に突然と罪を犯し、それまでの善行を投げ捨てて地獄に墜ちる、そんな馬鹿者を何人も見ていらっしゃる。だから貯蓄をするように、少しでも未来に向けて善行を貯めておけと最悪を慮って説教をなさるのさ」
「つまり怒られている内が華ってことね」
「そう。……まあ、こんな里中でする話ではなかったねえ。おかげであたいはまた説教を追加させられそうだ」
ちらりと横目に小町は苦笑した。他意はあるが退魔の巫女と大鎌を担ぐ死神の組み合わせは、やはり少女らといえども悪目立つ。さらに話す内容が内容とくれば、閻魔に説教をされたことのない者は青ざめたりもしていた。閻魔に説教をされない者には即ち二種類ある。説教する必要などないほど善行を積んでいる者と、説教をしても無意味なほど悪行を積んでいる者だ。
「ふふ、善きかな善きかな」
「……何だと言って似た者同士よね、あんたらって」
「おやおや、話の傍から悪行を積むんじゃないよ。……ってこりゃあ驚きだ、お前さんいったいどうしたんだい? とんとんかと思えば想像以上に徳が多いよ。最近、人命でも救ったのかい?」
「…………新聞に載ってた三尸の話って本当だったのね」
いささか嫌そうな顔をして霊夢は少し小町から距離を取った。彼女はしまったという顔を浮かべるがもう遅い。三尸とは人の体内に凄む虫である。それは死神の手によってすべての人に植えつけられ、年に幾度か、閻魔の元へ宿主の悪行を報告しに向かうという地獄の益虫のようなものだ。いつだったかそれが天狗の新聞に紹介され、四猿ちゃんなどという対抗策が生み出されるほどには、人には嫌われている存在である。まるでモーゼの奇跡の如く人波はさらに割れた。
(……ただ新聞とは違って善行で悪行の相殺は可能らしいけど)
それが少しばかり霊夢には意外だったが、確かに閻魔といえば白黒に平等な御方だと、少女はそこで口を噤んだ。こういう気遣いは神職となれば必要である。世の中、性善な人間ばかりではない。ただそれは死神もまた然りということだろう。小町はにやりとほくそ笑む。底知れぬ貌だ、まさしく人命繰る〝死の神〟である。
「……はあ。ただ買い物に来ただけっていうのに、どうしてこんな面倒に付き合わされるのよ」
「なあに、いいじゃないか。お前さんの善行は目に見えにくい、けれど独り占めするには勿体ないってことだよ。たとえ異変を解決したり妖怪を退治したりしなくても、巫女にはできることはいろいろ有る。それこそ宗教戦争よりもよっぽど地味で、しかし上等なことがね」
茶化すように片目を瞑ると小町は続けた。
「意識しないでそれを為すあたりがお前さんらしいが、暑くなってくると飯を食うのが億劫になるときってあるだろう。あれがどうしてか知っているかい?」
「そりゃ暑いからでしょ」
「ふむ、とんちを利かせろと言ったわけじゃないんだが、……まあ人の答えとしては妥当なところだね。そう。夏は暑いから食欲が失せる、しかしどうして〝欲〟が減退するのかまでは、人はあまり考えない。何故ならそれが性状というものだからさ。けれど神々が創りあげたこの世界には新古による歪みはあるが、基本的に無駄はないんだよ。映姫様の名に冠するが相応しく四季もまたそうなのさ」
摂理の違いとはこういうものか、と霊夢は思う。軽快に話を続ける今の小町はその人と見目変わらぬ長躯に宿す、しかし人にはけして持ちえぬ強大な力の如く〝遠かった〟。まるで妖精のようだとさえ感じる。聞いているが通じない、といったところだ。
「夏に食欲が失せるのは、我々がかつて行った人に対する救済措置の結果だ。よく血の味を覚えた妖怪は力を増すことがあるだろう? あれは喰い殺した人の中にある荒を妖怪が力として摂り込むからさ。神に和と荒があるように、神の〝ヒトガタ〟である人にもまた和と荒があり、それはわかりやすく言えば喜怒哀楽、つまり善行と悪行に密接と関わっている。それが意味するところは巫女ならば勿論わかっているね?」
「喜びや楽しみといった善行より、怒りや悲しみといった悪行の方が地上には溜まりやすいってわけね」
「そうだ、けれどそれじゃあ具合が悪い。しかしどうして食うことが悪行に繋がるのか? それは人や魑魅魍魎だけが、この現世で食に快楽を求めるからだよ。勘違いしないでほしいのは、それが必ずしも悪行に直結しているということではないんだ。ただ人は往々にして度が過ぎる、これが問題なのさ。本来は〝生きるため〟だけに許されていた他の生物を食らうという行為が、〝楽しむため〟だけに食らうという行為に侵され始めた。酒を飲み過ぎた宴会の次の日には、二日酔いになったりするだろう? そう、人は生存より快楽のための食事を行ったあとは疲れるんだ。それは身体に欲が溜まりすぎているからさ」
「そうして酔っぱらって気を大きくした馬鹿者が善行を投げ捨てるような真似をしたってことね、それも話を聞く限りじゃあ沢山」
うんうん、と小町は肯く。おそらくは船頭として仕事をしているときもこうして語っているのだろう。これなら幻想郷縁起に好きな人はとことん好きな仕事とも書かれるわけだ。見聞きしたことを忘れない阿求なら尚更強く印象に残ったことだろう。
「そうなんだよねえ、これは統計的にもわかっていることなんだが、夏はどうにも欲と悪行が増加するんだよ。一時の過ちとはいえ信賞必罰は道理だから、けれどこりゃあいかんって話にもなったわけさ。その当時はまだ幻想郷だけじゃなく日ノ本のあっちこっちに魑魅魍魎が蠢いていたからね。森の鬼人はともかく都の悪鬼が悪しきまま力を溜めて悪神にでも為っちまった日には、目も当てられぬ有り様になるとね。そこで〝夏負けの神〟が生まれたというわけさ」
「病は気からって言うけど……酷い話ね〝夏バテの神〟って……」
「おいおい侮っちゃいけないよ、〝風邪の神〟もそうだが明確な特効薬がない悪神っていうのは八百万の中でも中堅だ。悪を討つのはより深き悪なんていうと映姫様に説教されるが、必要悪とは言葉の通り伊達じゃないのさ。……ただねえ、それでも問題はあったんだよ」
「……強過ぎたってこと? そりゃ前年まで〝存在しなかった〟病気らしきものがいきなり村や里に蔓延したとあっちゃ巫女も住職も仙人も大忙しだろうけど……」
「ああ、そうだ。まさしく〝名無しの〟死神ってやつだねえ。確かに悪行の総量は減ったが、比例するように善行の総量も減っちまって、結局とんとんになっちまったわけさ。そういうわけでこの時期になると〝名有りの〟死神が各担当の地域を回って、対策なんかを広めて善行の総量を増やそうって活動しているわけなんだよ」
なはははは、と小町はまるで悪戯が見つかった童子のようにはにかんだ。そこでやっと霊夢は彼女の思惑の全容を悟ることとなる。ふと見ればもう眼前に米屋はあった。まるで突然と、現れたかのような違和感。しかし驚く店主の様子からして、どうやらいきなり現れたのは此方のようだ。距離を繰られた、それもこの博麗の巫女が気づかないような高度な業だった。
警戒を深める霊夢のことなど忘れたように、わざわざ大鎌を担ぎ直して、小町はまったく朗らかな笑顔のまま、唖然とする米屋の店主に声を掛けた。
「店主、握り飯が食いたいな!」
「は、はい?」
「聞こえなかったか、握り飯だ」
強い者は大抵が笑顔であるという。店主はぶわっと顔面から汗を拭き出すと、目を白黒とさせて店の奥へと引っ込んでいった。しばらく店内が喧騒に包まれる。その騒ぎを聞きつけて、人が集まり始めた。
「……ここは食事処じゃないのよ」
「知ってるさ。……ところで霊夢、お前さんはどんな食事が夏負けに効くか知っているかい? ヒントはこの店だ!」
よく響く声だった。霊夢だけが知っている。これが己ではなく、本当は周囲に聴かせるためにわざと大きな声で話していることを。死神の声は、その役職に相反することがまるで楽しく愉快だと言わんばかりの様子だった。
「……まあ、おにぎりよね」
「そうだ。……まあ蕎麦もパンも悪くはないんだがねえ。しかし歴史の重みというやつか、やはりこの国の人間には米が合うことは確かだよ。洋食、中華、和食とはあるが、これらが分類されている理由は、まさしくその地域に合わせて調理する食材と方法が特化してきたからさ。そうでなければ料理はただ料理としか呼ばれない、人ってのは本当に大切なことだけは今も昔も変わらず守り続けている、そういうものだからねえ」
あとは少しだけ背を押してやれば良いのだ、と死神は続けた。
「ただ近頃の和食というと、どうにも昔は現人神が食っていたような上げ膳据え膳が当たり前みたいになっちまってねえ。いや、生活の質が全体的に上がってるってことは飢え死にも少なくなってるってことだから、喜ばしちゃあ喜ばしいんだが、……ここらで基本をもう一度、人に教えておこうと思ってね。いいかい? そういうのはハレの日、つまり特別な日に食えれば嬉しい快楽の食事ってことだ。じゃあ逆にケの日、つまり普通の日に食うような生きるための食事ってのは何か。それはたとえば畑仕事の昼に食うような梅干し握りと漬物と緑茶、そういうもののことを言うんだ」
「……そんな当たり前のことで善いわけ?」
「そこで粗食とか言わないあたりお前さんはやっぱり巫女だよ、普段の一人飯と宴会のときの区別が白黒はっきりついてるからね。まあ、いささか酒を呑み過ぎの嫌いはあるが……、善行といえば善行だよ、なんせ最近は米で麺も煎餅も酒も作っちまうってんだろ? 三尸も驚きの質素堅実だ。宗教戦争が好い刺激になったのかねえ、まさかあたいが言い始めるより早く実践しちまうとは思わなかった!」
霊夢は感心したように話す小町を前に頬が引き攣りそうになるのを必死に堪えていた。――言えない。まさかその始まりが一人酒の席で適当に考えた怠惰からで、あとは日々の暇つぶしだったなんてとても言える雰囲気じゃない。なんせ背後から感心したような声が聞こえるのだ。ほう、とか。流石は、とか。博麗様は、とか!
「ま、まあね! ほら、私ってば巫女だから! やっぱり他のお手本になるようにしなきゃいけないと思ってね!」
華扇曰く、霊夢は調子に乗ると失敗するのだという。この発言が後々に己に吉と出るか凶と出るか、それは今の〝上がった〟少女には判別つかなかった。ただ人知れずニィと笑う小町にとっては、それも計算の範囲内だったのかもしれない。彼女の聞こえの良い耳は店内の様子をまるで見ているかのように把握できていた。握り飯はもう少しでできる。ならばそろそろ此方も仕上げだ。
「ははは、そりゃあ頼もしいねえ。これからはお前さんに任せておけば、夏は大丈夫ってことかい?」
「え、ええ! そりゃあもう、任せておきなさいよ!」
「そうかい、まあ……この幻想郷にはもう人のお腹を満たす食料はあるからねえ。お前さんはそんなに気負わなくとも人里のハレとケとの釣り合いを〝今は少しでも〟意識してくれればいいさ。じゃあ――」
あたいはもう行くよ、と。
まるで何でもない調子で言って小町は霊夢の肩をぽんぽんと叩いた。咄嗟の事に、少女は待てとも握り飯はどうするのだとも聞けない。少女の耳元に顔を寄せているというのに、彼女は肩を触れ合わせることもなく。
「くれぐれも忘れないでおくれよ。……巫女は〝最初からこっち側〟だってことをねえ?」
そうとだけ言い残して、振り返ればもう死神の姿は消えていた。それを目撃した人々のざわめきだけが、その場に残る。そしてドタバタと店内から響いてくる店主の足音。それから数秒もしない内に顔を青くした店主が握り飯を盆に載せて現れた。
「お、お待たせしましたぁ…………っていねえ!」
「あ、小町ならたった今行っちゃったわ」
「ほ、本当ですか博麗様! どど……どうしましょう、こうして握り飯を作ったわけですが、あの死神様はもしかして遅いって怒っちまったわけですかい? あっしはどうしたら!」
店主の慌てっぷりは尋常ではなかった。どうしたらなんて霊夢が聞きたいくらいだったが、この〝流れ〟はあまり好くない。人里で商う人間にとって魑魅魍魎は時に大口の顧客でもある。それを怒らせてそのままとあれば店の信用にさえ関わるだろう。このまま我関せずとはいかなかった。なんせ任せておけと言ったばかりなのだから。
「まあ、そう慌てるもんじゃないわ」
務めて慎重に霊夢は言葉を選んだ。
「神様には和と荒があるって知ってる? わかりやすく言えば、人にとって善いか悪いかってことなんだけど、死神ってのは名前からして悪いイメージがあるじゃない? けれどあんたは今こうして私と生きて話してるし、それに周りを見ても死んでる奴なんて一人もいないでしょう。だからまずは大丈夫よ」
「…………。そ、そういやあそうか。……よ、よかったぁ……」
厭世観に苛まれた人にとって宗教とはこういう時頼りになる。帰依するということは、考えることを放棄するのと同じだからだ。人はどうしたって嫌な考えからは解放されたいと願うのである。この場合の巫女こと神社の御利益は妖怪退治。即ち人間以外の魑魅魍魎に対して店主の眼前に立つ霊夢は、まさしく頼りになる退魔のスペシャリストというわけだ。
「それで話を続ければ悪い事をするはずの死神が悪い事をしないってのは、どういう意味かわかるかしら?」
「……そ、その荒ってやつじゃあねえってことですよね?」
「ええ、そうよ。荒の反対は和、死の反対は生、つまり先までの小町は大鎌こそ持っていたものの善い神様だったというわけなの。そんな彼女があんたの店前まで来たっていう意味……この間も里で蕎麦屋が繁盛したんだからもうわかるんじゃないかしら?」
見る間に店主の顔色は良くなっていった。どうやら上手くできたらしいと霊夢は一息吐く。宗教の本義は心の安定である。しかしそれは信者という依存者を作り出すことではない。巫女は背を少し押すだけでいい。真実というのはいつだって己の胸の中にしかないのだ。都合よく考えていったい何が悪い。
「ふ、福の神って奴ですかぁ!」
「ええ、そして私はそんな幸運なあんたの一番客として米を買わせて貰うわ、……勿論、少しはまけてくれるんでしょう、福男さん?」
「ええ、ええ、喜んで!」
踊る阿呆に見る阿呆、同じ阿呆なら踊らにゃ損々、と。神々の言葉はいつだって人々には難しい。だから巫女のような者はいる。人に伝えるには人の言葉が一番なのだ。そうして米屋の古米は、新米収穫前の夏に売れに売れた。なにせ死神とはいえ神様と巫女のお墨付きである。また厄介な夏バテの対策になるとの宣伝も効いた。ちゃっかりと値引き交渉をした霊夢はおまけまで貰ってえびす顔である。
流行り廃りはどんな時代も色々とあったものだが、握り飯に代表されるような粗食とも呼ばれる食事が夏の流行として一世を風靡したのは、おそらく幻想郷の人里が初めてだろう。天狗の新聞記者の一部などはこれを神と巫女の新手の陰謀ではないかと訝しむ記事を発表したが、何週にもわたる張り込み調査の末、遂に涙して霊夢を天狗の宴会へと誘うこととなる。
果たして神の手とは見えないものなのだった。
強い者は大抵が笑顔である。定説は定説であるが故に外れ少なく、彼女もまた例外ではなかった。そして夏空を奔った黄緑の怪光線は一際大きな入道雲をぶち貫き、次の瞬間には遅れて聞こえてきた轟音とともに文字通り雲散させる。
顕わになる蒼穹が向日葵畑に凄む者を照らした。一見しては人間の少女だが、しかし風見幽香は魑魅魍魎の類である。お嬢さん然とした恰好のまま今日も幽香は少し地面から浮いていた。その〝突きつけた〟日傘の先端からは紫煙が燻ぶり、先の一撃と同じ黄緑の前髪から覗く紅の眼光は吸血鬼が如く縦裂けている。端的にいうと彼女は今苛立っていた。
「だから……何度言えば貴方はわかるの? これは蒲公英じゃなくて向日葵よ!」
「えー、だって黄色いじゃん! 霊夢が言ってたんだもん、〝黄色い花の根っこ〟を持ってくればまた美味しい飲み物を作ってあげるって!」
「あの博麗の巫女――!」
先程から己が眼前で喚くチルノはこの調子である。氷精問わず妖精というのは、話は聞いているが通じないというから厄介だ。だから幽香はいつも面倒がって脅して苛めて追い払うのだが、どうにも今日の相手は執拗かった。
「あー、わかった! あんたもあたいと一緒で霊夢に飲み物を作ってもらうつもりなのね、それも沢山! だからその黄色い花を独り占めしようっていうんでしょう? そうはいかないんだから!」
何より中途半端に適当な警告をしたのが好くなかった。そのせいでチルノはどこか嬉々として弾幕ごっこに移る気満々である。お前には退くという概念はないのかと、幽香は言いたい。
「…………ってあるわけないか」
そう、ないのである。これには幽香も空を仰ぐしかなかった。妖精は大自然の具現、そして自然とはいつだって勝手気ままなものなのだ。幽香もまた自然の権化のため、その性状はよく理解できている。しかしそれとこれとは話が別だ。己が愛でていた向日葵を、まさかチルノと〝霊夢の〟飲料玩具になどされては堪らない。
「……頭が痛い、きっと暑さのせいね。だから貴方も巫女もどこかボーッとしてるのよ。いいわ、冷まさせてあげる」
「あたい氷精だけどね」
「喧しい、こんなときだけ反応するんじゃない!」
斯くして戦端は開かれた。氷華は裂帛し、飛び交う氷の弾幕のその尽くを、幻想郷で唯一枯れることのない花の弾幕が相殺する。たとえ的外れな一投一滴であっても、向日葵に触れることは許さぬと言わんばかりに、花守る花は蒼空を駆けるのだった。
「なによ! ちょっとくらい分けてくれたっていいじゃない。幽香ってばいやしんぼうね!」
「さっきから黙っていれば巫山戯たことばかり。まさか自分は負けないとでも思っているのかしら? だとしたらそれが思い違いだってことを今一度はっきりわからせてあげるわ、貴方に……そして巫女にもね!」
◆
さてチルノと幽香が弾幕ごっこを繰り広げているその頃、霊夢はしばらく振りに人里へとやって来ていた。あれまあ仙人になったのかと思ったよとは、途中に顔を見合わせた小野塚小町の言である。神社が道教に寝返るとはまた面白い冗談もあったものだ、勿論その場でスペルブレイクしてやった。というか三途の河で船頭をしているはずの死神が言っては洒落も洒落にならない。故に正当防衛だと嘯きつつ、どこかそそくさと少女は足を速めるのだった。
「あんたの肩書ってもんを考えて物を言いなさいよね……」
仙人を殺すのは死神である。それは死神が広めた嘘であり、実際はもっと怖ろしい鬼神がその命を奪いに向かうのだが、そんなことは霊夢の知るところではない。ただ死ねば死に損、生きれば生き得との言葉のままに少女の身体は勝手に動いていた。これも人間の性というやつだろう。今日に人里に下りたのもまたそのためだ。
備蓄がとうとう心許なくなってきた。博麗神社社務所で管理している帳簿を見る上では出費は相対して減っているというのに、だ。これで霊夢以外の誰彼がいれば横領を疑うところだが、生憎神社に住まうのは少女一人である。なれば原因は己にあるのは当然だろうし、少女はそういうところはしっかりと把握するように努めていた。
原因は代作料理にある。特に米の消費が激しい。米粉麺蕎麦に米粉煎餅に味噌付けたんぽ、さらには酒さえも原料が米とくれば、霊夢の日々の食事は、近頃すべて米料理といっても過言ではなかった。思いつきとはいえここまで極端に負荷がかかれば、備蓄の計算が狂うのもまた道理である。故に値上がる秋の新米を前に、古米と野菜と茶葉を買いだめようと訪れたのだった。
「……そんなわけだから私はまだ人間よ?」
「はあ、なるほど……お前さんは酔狂に見えて意外と考えてるってわけか。こりゃあ善い話を聞いたよ、映姫様もきっとお喜びになるだろうねえ」
「その前にあんたはきっと説教だろうけど」
違いないと、からから小町は笑う。気づけば隣を歩くあたり、死も神も確かに隣人には違いない。霊夢としては口が裂けても厄介と言えないのが辛いところだ。魔住職ならぬ魔巫女となれば神社が名実ともに妖怪神社に変わってしまう。そんな分業はごめんである。
「ところであんたはなんでさっきから着いてくるのよ? サボってるってなら今度こそ叩き返すわよ」
「手厳しいねえ。……まあ今日は仕事だからさ」
「それなのに説教はされるの? …………閻魔様もあんたも大変ね」
「お上ってのはいつだって勝手なものさ。なんせ摂理からして違っておられるからねえ。……けれど理不尽じゃない。何が慇懃で何が無礼かはちゃんと示してくれる。それを馬鹿正直に守るのも悪くないが、締めるところは締めて緩めるところは緩めて、そうやって丁度良く生きるのもまた下々に許された勝手ってわけさ」
たとえば死神にしても裁判の書記、地獄の受付嬢、それに三途の河の船頭と、就ける仕事はいくつも選択肢がある。それらに貴賤があるとは小町は思わないが、しかし現実としてエリート職の書記と人気の低い船頭という認識の差は存在しており、偶に同期の学友と会えば此方を一段下に見るような輩もいるわけだ。
仕方のない話である。実力と人格が伴っているかなどまた別問題で、社会的な徳の高さはまず間違いなくあちらの方が上なのは確かなのだから、零ではないが相対的に社会的な徳の低い小町は、あちらの価値観では悪といえば悪なのだ。もっともそれを最終的に裁くのは死神ではなくて閻魔なのだから、今日も彼女は気楽に過ごしていられる。だってあちらと此方じゃ結果として見ればとんとんだ。それを彼女は知っている。
「映姫様は心配性なのさ。なんせ人の不確かさをよくご存知だ。ある日に突然と罪を犯し、それまでの善行を投げ捨てて地獄に墜ちる、そんな馬鹿者を何人も見ていらっしゃる。だから貯蓄をするように、少しでも未来に向けて善行を貯めておけと最悪を慮って説教をなさるのさ」
「つまり怒られている内が華ってことね」
「そう。……まあ、こんな里中でする話ではなかったねえ。おかげであたいはまた説教を追加させられそうだ」
ちらりと横目に小町は苦笑した。他意はあるが退魔の巫女と大鎌を担ぐ死神の組み合わせは、やはり少女らといえども悪目立つ。さらに話す内容が内容とくれば、閻魔に説教をされたことのない者は青ざめたりもしていた。閻魔に説教をされない者には即ち二種類ある。説教する必要などないほど善行を積んでいる者と、説教をしても無意味なほど悪行を積んでいる者だ。
「ふふ、善きかな善きかな」
「……何だと言って似た者同士よね、あんたらって」
「おやおや、話の傍から悪行を積むんじゃないよ。……ってこりゃあ驚きだ、お前さんいったいどうしたんだい? とんとんかと思えば想像以上に徳が多いよ。最近、人命でも救ったのかい?」
「…………新聞に載ってた三尸の話って本当だったのね」
いささか嫌そうな顔をして霊夢は少し小町から距離を取った。彼女はしまったという顔を浮かべるがもう遅い。三尸とは人の体内に凄む虫である。それは死神の手によってすべての人に植えつけられ、年に幾度か、閻魔の元へ宿主の悪行を報告しに向かうという地獄の益虫のようなものだ。いつだったかそれが天狗の新聞に紹介され、四猿ちゃんなどという対抗策が生み出されるほどには、人には嫌われている存在である。まるでモーゼの奇跡の如く人波はさらに割れた。
(……ただ新聞とは違って善行で悪行の相殺は可能らしいけど)
それが少しばかり霊夢には意外だったが、確かに閻魔といえば白黒に平等な御方だと、少女はそこで口を噤んだ。こういう気遣いは神職となれば必要である。世の中、性善な人間ばかりではない。ただそれは死神もまた然りということだろう。小町はにやりとほくそ笑む。底知れぬ貌だ、まさしく人命繰る〝死の神〟である。
「……はあ。ただ買い物に来ただけっていうのに、どうしてこんな面倒に付き合わされるのよ」
「なあに、いいじゃないか。お前さんの善行は目に見えにくい、けれど独り占めするには勿体ないってことだよ。たとえ異変を解決したり妖怪を退治したりしなくても、巫女にはできることはいろいろ有る。それこそ宗教戦争よりもよっぽど地味で、しかし上等なことがね」
茶化すように片目を瞑ると小町は続けた。
「意識しないでそれを為すあたりがお前さんらしいが、暑くなってくると飯を食うのが億劫になるときってあるだろう。あれがどうしてか知っているかい?」
「そりゃ暑いからでしょ」
「ふむ、とんちを利かせろと言ったわけじゃないんだが、……まあ人の答えとしては妥当なところだね。そう。夏は暑いから食欲が失せる、しかしどうして〝欲〟が減退するのかまでは、人はあまり考えない。何故ならそれが性状というものだからさ。けれど神々が創りあげたこの世界には新古による歪みはあるが、基本的に無駄はないんだよ。映姫様の名に冠するが相応しく四季もまたそうなのさ」
摂理の違いとはこういうものか、と霊夢は思う。軽快に話を続ける今の小町はその人と見目変わらぬ長躯に宿す、しかし人にはけして持ちえぬ強大な力の如く〝遠かった〟。まるで妖精のようだとさえ感じる。聞いているが通じない、といったところだ。
「夏に食欲が失せるのは、我々がかつて行った人に対する救済措置の結果だ。よく血の味を覚えた妖怪は力を増すことがあるだろう? あれは喰い殺した人の中にある荒を妖怪が力として摂り込むからさ。神に和と荒があるように、神の〝ヒトガタ〟である人にもまた和と荒があり、それはわかりやすく言えば喜怒哀楽、つまり善行と悪行に密接と関わっている。それが意味するところは巫女ならば勿論わかっているね?」
「喜びや楽しみといった善行より、怒りや悲しみといった悪行の方が地上には溜まりやすいってわけね」
「そうだ、けれどそれじゃあ具合が悪い。しかしどうして食うことが悪行に繋がるのか? それは人や魑魅魍魎だけが、この現世で食に快楽を求めるからだよ。勘違いしないでほしいのは、それが必ずしも悪行に直結しているということではないんだ。ただ人は往々にして度が過ぎる、これが問題なのさ。本来は〝生きるため〟だけに許されていた他の生物を食らうという行為が、〝楽しむため〟だけに食らうという行為に侵され始めた。酒を飲み過ぎた宴会の次の日には、二日酔いになったりするだろう? そう、人は生存より快楽のための食事を行ったあとは疲れるんだ。それは身体に欲が溜まりすぎているからさ」
「そうして酔っぱらって気を大きくした馬鹿者が善行を投げ捨てるような真似をしたってことね、それも話を聞く限りじゃあ沢山」
うんうん、と小町は肯く。おそらくは船頭として仕事をしているときもこうして語っているのだろう。これなら幻想郷縁起に好きな人はとことん好きな仕事とも書かれるわけだ。見聞きしたことを忘れない阿求なら尚更強く印象に残ったことだろう。
「そうなんだよねえ、これは統計的にもわかっていることなんだが、夏はどうにも欲と悪行が増加するんだよ。一時の過ちとはいえ信賞必罰は道理だから、けれどこりゃあいかんって話にもなったわけさ。その当時はまだ幻想郷だけじゃなく日ノ本のあっちこっちに魑魅魍魎が蠢いていたからね。森の鬼人はともかく都の悪鬼が悪しきまま力を溜めて悪神にでも為っちまった日には、目も当てられぬ有り様になるとね。そこで〝夏負けの神〟が生まれたというわけさ」
「病は気からって言うけど……酷い話ね〝夏バテの神〟って……」
「おいおい侮っちゃいけないよ、〝風邪の神〟もそうだが明確な特効薬がない悪神っていうのは八百万の中でも中堅だ。悪を討つのはより深き悪なんていうと映姫様に説教されるが、必要悪とは言葉の通り伊達じゃないのさ。……ただねえ、それでも問題はあったんだよ」
「……強過ぎたってこと? そりゃ前年まで〝存在しなかった〟病気らしきものがいきなり村や里に蔓延したとあっちゃ巫女も住職も仙人も大忙しだろうけど……」
「ああ、そうだ。まさしく〝名無しの〟死神ってやつだねえ。確かに悪行の総量は減ったが、比例するように善行の総量も減っちまって、結局とんとんになっちまったわけさ。そういうわけでこの時期になると〝名有りの〟死神が各担当の地域を回って、対策なんかを広めて善行の総量を増やそうって活動しているわけなんだよ」
なはははは、と小町はまるで悪戯が見つかった童子のようにはにかんだ。そこでやっと霊夢は彼女の思惑の全容を悟ることとなる。ふと見ればもう眼前に米屋はあった。まるで突然と、現れたかのような違和感。しかし驚く店主の様子からして、どうやらいきなり現れたのは此方のようだ。距離を繰られた、それもこの博麗の巫女が気づかないような高度な業だった。
警戒を深める霊夢のことなど忘れたように、わざわざ大鎌を担ぎ直して、小町はまったく朗らかな笑顔のまま、唖然とする米屋の店主に声を掛けた。
「店主、握り飯が食いたいな!」
「は、はい?」
「聞こえなかったか、握り飯だ」
強い者は大抵が笑顔であるという。店主はぶわっと顔面から汗を拭き出すと、目を白黒とさせて店の奥へと引っ込んでいった。しばらく店内が喧騒に包まれる。その騒ぎを聞きつけて、人が集まり始めた。
「……ここは食事処じゃないのよ」
「知ってるさ。……ところで霊夢、お前さんはどんな食事が夏負けに効くか知っているかい? ヒントはこの店だ!」
よく響く声だった。霊夢だけが知っている。これが己ではなく、本当は周囲に聴かせるためにわざと大きな声で話していることを。死神の声は、その役職に相反することがまるで楽しく愉快だと言わんばかりの様子だった。
「……まあ、おにぎりよね」
「そうだ。……まあ蕎麦もパンも悪くはないんだがねえ。しかし歴史の重みというやつか、やはりこの国の人間には米が合うことは確かだよ。洋食、中華、和食とはあるが、これらが分類されている理由は、まさしくその地域に合わせて調理する食材と方法が特化してきたからさ。そうでなければ料理はただ料理としか呼ばれない、人ってのは本当に大切なことだけは今も昔も変わらず守り続けている、そういうものだからねえ」
あとは少しだけ背を押してやれば良いのだ、と死神は続けた。
「ただ近頃の和食というと、どうにも昔は現人神が食っていたような上げ膳据え膳が当たり前みたいになっちまってねえ。いや、生活の質が全体的に上がってるってことは飢え死にも少なくなってるってことだから、喜ばしちゃあ喜ばしいんだが、……ここらで基本をもう一度、人に教えておこうと思ってね。いいかい? そういうのはハレの日、つまり特別な日に食えれば嬉しい快楽の食事ってことだ。じゃあ逆にケの日、つまり普通の日に食うような生きるための食事ってのは何か。それはたとえば畑仕事の昼に食うような梅干し握りと漬物と緑茶、そういうもののことを言うんだ」
「……そんな当たり前のことで善いわけ?」
「そこで粗食とか言わないあたりお前さんはやっぱり巫女だよ、普段の一人飯と宴会のときの区別が白黒はっきりついてるからね。まあ、いささか酒を呑み過ぎの嫌いはあるが……、善行といえば善行だよ、なんせ最近は米で麺も煎餅も酒も作っちまうってんだろ? 三尸も驚きの質素堅実だ。宗教戦争が好い刺激になったのかねえ、まさかあたいが言い始めるより早く実践しちまうとは思わなかった!」
霊夢は感心したように話す小町を前に頬が引き攣りそうになるのを必死に堪えていた。――言えない。まさかその始まりが一人酒の席で適当に考えた怠惰からで、あとは日々の暇つぶしだったなんてとても言える雰囲気じゃない。なんせ背後から感心したような声が聞こえるのだ。ほう、とか。流石は、とか。博麗様は、とか!
「ま、まあね! ほら、私ってば巫女だから! やっぱり他のお手本になるようにしなきゃいけないと思ってね!」
華扇曰く、霊夢は調子に乗ると失敗するのだという。この発言が後々に己に吉と出るか凶と出るか、それは今の〝上がった〟少女には判別つかなかった。ただ人知れずニィと笑う小町にとっては、それも計算の範囲内だったのかもしれない。彼女の聞こえの良い耳は店内の様子をまるで見ているかのように把握できていた。握り飯はもう少しでできる。ならばそろそろ此方も仕上げだ。
「ははは、そりゃあ頼もしいねえ。これからはお前さんに任せておけば、夏は大丈夫ってことかい?」
「え、ええ! そりゃあもう、任せておきなさいよ!」
「そうかい、まあ……この幻想郷にはもう人のお腹を満たす食料はあるからねえ。お前さんはそんなに気負わなくとも人里のハレとケとの釣り合いを〝今は少しでも〟意識してくれればいいさ。じゃあ――」
あたいはもう行くよ、と。
まるで何でもない調子で言って小町は霊夢の肩をぽんぽんと叩いた。咄嗟の事に、少女は待てとも握り飯はどうするのだとも聞けない。少女の耳元に顔を寄せているというのに、彼女は肩を触れ合わせることもなく。
「くれぐれも忘れないでおくれよ。……巫女は〝最初からこっち側〟だってことをねえ?」
そうとだけ言い残して、振り返ればもう死神の姿は消えていた。それを目撃した人々のざわめきだけが、その場に残る。そしてドタバタと店内から響いてくる店主の足音。それから数秒もしない内に顔を青くした店主が握り飯を盆に載せて現れた。
「お、お待たせしましたぁ…………っていねえ!」
「あ、小町ならたった今行っちゃったわ」
「ほ、本当ですか博麗様! どど……どうしましょう、こうして握り飯を作ったわけですが、あの死神様はもしかして遅いって怒っちまったわけですかい? あっしはどうしたら!」
店主の慌てっぷりは尋常ではなかった。どうしたらなんて霊夢が聞きたいくらいだったが、この〝流れ〟はあまり好くない。人里で商う人間にとって魑魅魍魎は時に大口の顧客でもある。それを怒らせてそのままとあれば店の信用にさえ関わるだろう。このまま我関せずとはいかなかった。なんせ任せておけと言ったばかりなのだから。
「まあ、そう慌てるもんじゃないわ」
務めて慎重に霊夢は言葉を選んだ。
「神様には和と荒があるって知ってる? わかりやすく言えば、人にとって善いか悪いかってことなんだけど、死神ってのは名前からして悪いイメージがあるじゃない? けれどあんたは今こうして私と生きて話してるし、それに周りを見ても死んでる奴なんて一人もいないでしょう。だからまずは大丈夫よ」
「…………。そ、そういやあそうか。……よ、よかったぁ……」
厭世観に苛まれた人にとって宗教とはこういう時頼りになる。帰依するということは、考えることを放棄するのと同じだからだ。人はどうしたって嫌な考えからは解放されたいと願うのである。この場合の巫女こと神社の御利益は妖怪退治。即ち人間以外の魑魅魍魎に対して店主の眼前に立つ霊夢は、まさしく頼りになる退魔のスペシャリストというわけだ。
「それで話を続ければ悪い事をするはずの死神が悪い事をしないってのは、どういう意味かわかるかしら?」
「……そ、その荒ってやつじゃあねえってことですよね?」
「ええ、そうよ。荒の反対は和、死の反対は生、つまり先までの小町は大鎌こそ持っていたものの善い神様だったというわけなの。そんな彼女があんたの店前まで来たっていう意味……この間も里で蕎麦屋が繁盛したんだからもうわかるんじゃないかしら?」
見る間に店主の顔色は良くなっていった。どうやら上手くできたらしいと霊夢は一息吐く。宗教の本義は心の安定である。しかしそれは信者という依存者を作り出すことではない。巫女は背を少し押すだけでいい。真実というのはいつだって己の胸の中にしかないのだ。都合よく考えていったい何が悪い。
「ふ、福の神って奴ですかぁ!」
「ええ、そして私はそんな幸運なあんたの一番客として米を買わせて貰うわ、……勿論、少しはまけてくれるんでしょう、福男さん?」
「ええ、ええ、喜んで!」
踊る阿呆に見る阿呆、同じ阿呆なら踊らにゃ損々、と。神々の言葉はいつだって人々には難しい。だから巫女のような者はいる。人に伝えるには人の言葉が一番なのだ。そうして米屋の古米は、新米収穫前の夏に売れに売れた。なにせ死神とはいえ神様と巫女のお墨付きである。また厄介な夏バテの対策になるとの宣伝も効いた。ちゃっかりと値引き交渉をした霊夢はおまけまで貰ってえびす顔である。
流行り廃りはどんな時代も色々とあったものだが、握り飯に代表されるような粗食とも呼ばれる食事が夏の流行として一世を風靡したのは、おそらく幻想郷の人里が初めてだろう。天狗の新聞記者の一部などはこれを神と巫女の新手の陰謀ではないかと訝しむ記事を発表したが、何週にもわたる張り込み調査の末、遂に涙して霊夢を天狗の宴会へと誘うこととなる。
果たして神の手とは見えないものなのだった。
面白かったです。あと幽香さん頑張れw
小町……仕事……むむむ。まあ、あれだ。お仕事がんば。サボんなよ
しかしコーヒーを気に入る妖精なんぞルナぐらいかとおもってたが。幽香も大変だね