ばーか、と。
そう捨て台詞を吐いてチルノは何処へと飛んでいった。先日ただ利用するのも具合が悪くて、蒲公英珈琲なんて飲ませたのが良くなかったらしい。まったく子供のように調子に乗った氷精は、あれから博麗神社を訪れれば美味しいものを飲ませてくれる場所と勘違いしたのだ。妖精らしい単純思考である。
居れば涼しいから、とあまり口煩く言わなかった霊夢にも問題はあるだろう。しかし神社は所詮甘味処ではなく、少女の寛容さが保たれていたのも採集した蒲公英の根の備蓄が潰えるまでだった。無い袖は如何に巫女であろうと振れないのだ。
また飲みたかったら黄色い花の根っこでも取って来なさい、と己を軽くあしらってお茶を啜る霊夢の様子は、たとえそれが事実だとしてもチルノからすれば意地悪としか思えなかった。斯くして妖精譲りの無鉄砲さで巫女に弾幕ごっこを仕掛けた氷精だったが、その結果は既に前述の通りである。
ここしばらく様々な妖精が集まって騒がしかった神社も、チルノが退治されると同時にいつもの静けさを取り戻した。残るのは変わらず縁側で呆とする霊夢だけである。久しぶりの静けさだった。――それにいささかの寂しささえ覚える。そんなことを気づけば考えていた己に、少女は変わらずお茶を啜りながらも内心驚いていた。
「…………これが、早苗が言ってた可愛いは正義ってやつかしら?」
妖精というのは誰も見目だけは可愛らしい幼子である。どれだけ騒がしかろうが、彼女らがきゃっきゃめいて戯れる姿は、霊夢にも少なからぬ癒しを提供していたらしい。だとすれば、惜しいことをした。しかしもう遅い。日常とは移ろいやすい、砂上の楼閣のようなものだ。人はいつだって失ってからその価値に気づくのである。
「まあ、二度と来るなって言ったわけでもないし。放って置いてもその内にまたひょっこり現れるでしょう」
いくらチルノでも蒲公英くらいは知っているはずだ。あれだけ執着していたのだから、まさかそう簡単に忘れはしないだろう。泥だらけの姿で根を抱えて持ってきたその時は、幾度目かの蒲公英珈琲を作ってやらんこともない。そう勝手に納得したことにして霊夢は三度お茶を啜った。いや、啜ろうとした。
かち、と前歯が湯呑を叩く音がする。見ればお茶はもうない。それに不思議と気恥ずかしさを覚えて霊夢の頬は〝かあ〟と熱くなった。博麗の巫女がなんという無様か、普段からお茶に慣れ親しんでいるだけに尚更に居た堪れない。何だかんだと取り繕って気づかないほどに、未練を感じているなんて――。
「……さ、酒よ! こうなったらお酒だわ!」
しばらくぷるぷると震えた後、誰知らぬ言い訳を呟きながら霊夢は立ち上がった。往々にして真昼間から行われるような一人酒には、当人にしかわからない苦悩やら懊悩やらがあるものだ。心身の穢れを祓うには酒が手っ取り早い。つまり酔って寝て忘れてしまおうという魂胆だった。
そうと決まれば霊夢の動きは素早かった。一刻もしない内に七輪を庭先に引っ張り出して、酒のつまみを焼いているほどだ。宴会で飲むような甘い酒には辛いつまみがよく合う。ならば一人で飲むような辛い酒には甘いつまみだろうと、そんな単純思考で少女が炊いたのは米だった。まだ小さかった頃、運松翁の知り合いに頼んで熊追いをしてもらったことがある。その爺さんに礼として辛口の酒を渡したときに教わった甘口の料理だ。
名はたんぽという。
特に味噌付けが酒のつまみに合うらしい。
作り方は簡単だ。まず炊いた米を適当な鉢に入れて七分づきにして、それを手で玉に捏ねたら割り箸に差して握り整えて七輪で万遍なく焼く。それだけでいい。ただしこれだと具なしの焼きおにぎりなので甘ダレを塗る必要があるのだが、これも味噌と砂糖と味醂を一緒くたに混ぜ合わせるだけと非常に簡単である。
そうして七輪で焼ける串の身に、好みに合わせて甘ダレを塗っていけば出来上がりだ。霊夢は程よく焼けた味噌付けたんぽの一つを摘み上げて齧ってみた。もちもちとした食感のあとに、焼けた味噌の好い香りと砂糖と合わさった甘塩っぱいタレが口一杯に広がる。続けて酒を煽ればカッと喉奥が熱くなった。とんとんと酒が進む、そんな上手く美味い組み合わせだ。
「ふんふん、ふーふふ♪ らんらーら、らららら♪」
斯くして昼下がりの境内に、巫女という酔っ払いは降臨した。その様子に恐れ戦き、来た道を慌てて逃げ戻った三匹の妖精がいたことなど、霊夢には知る由もなかった。酒が裏目に出るとき人は大抵が悪酔いである。賽の目さえ定める巫女の裏目だ。まさしく〝鬼面〟という他ないだろう。
◆
「……どうにも懐かしい匂いがすると思えば、貴方はまたこんな昼間からお酒なんて呑んで」
紅魔館に凄む吸血鬼に運命でも繰られたか、霊夢が酔っぱらってから少し、神社を訪れる影があった。行者は茨木華扇である。頬につうと線を引く滴りを見るに、どうやら仙人も汗は掻くらしい。
「なーによ、昨日も巫女をやっていれば今日くらいは休業する日だってあるわ」
「神職は商いとは違うでしょうに、……明日や来年が当たり前にあると妄信していれば鬼に笑われるのよ?」
「萃香も勇儀も基本笑ってるけどねえ……」
けらけらと己の軽口に笑う霊夢は彼の不羈奔放の鬼をも思わせる。どうやらしばらく顔を見ないでいる内に、すっかり夏の暑さでだらけてしまったらしいと華扇は正しく誤解した。
まあ無理もない。華扇の知る霊夢は巫女ではあったが、同時に子供っぽさが未だに抜けきらない少女であることもまた確かだったからだ。彼女から見れば二、三年の変化など誤差に等しく、少女はまだまだ小生意気な少女である。しかしそれ故に些細なことに悩んだりもする年頃なのだが、大人というのはともすれば己が童子の時の複雑怪奇な心持ちなど、すっかり忘れてしまうものなのだった。
「また屁理屈を……!」
「……まあ怒らないでよ、ただでさえ暑いのにあんたがカッカしたら余計に暑くなるわ。それよりもさ、ほら、知ってるかしら? これって美味しいのね、もっと早く食べてみればよかったわ」
今日とて仙人らしい生真面目さから一つ説教でもしてやろうかと気炎を燻ぶらせた華扇だったが、霊夢が見せびらかすようにゆらゆらと揺らしたたんぽから香る甘い匂いに思わず口を噤んだ。ごくん、と唾を呑む。仙人としては弱点らしい弱点など見当たらない彼女ではあるが、当人の性情からして甘味の類には目が無かった。それが物珍しく懐かしいともなれば尚更である。
「ほう、これはまた…………はて、しかし何やら忘れているような……?」
「いらないの?」
「……し、仕方ないですね! 断るのも失礼でしょうし、せっかくですから一本頂きます」
物を食ってからでも説教はできる。そうしてたんぽを頬張る華扇は霊夢が再び笑ってしまうくらいに好い表情をしていた。こうも美味そうに食われれば、酔っぱらって実はもうわけがわからなくなっているとはいえやはり嬉しいものだ。
故に。
ここからはまったく無意識で以て、博麗の巫女は続けていた。
「あはははは、こうして〝マタギ〟の爺さんから教わった〝たんぽ〟で以て、巫女は喧しい仙人の説教を退けましたとさ、めでたし、めでたし」
「――――ッ、これは……!」
突如として存在しないはずの右腕に激痛が奔り、華扇は思わず目を白黒とさせた。慌てて齧っていた味噌付けたんぽを口元から退ける。そこでようやっと彼女は思い出した。まったく久しぶりに見たせいですっかり忘れていたのだ。人の食べ物とはただ食欲を満たすだけではなく、時としては妖怪退治の道具にもなり得るということを。
「……成程そうか〝又鬼の蒲英〟でしたか、私が喰いついてしまうのも道理ですね、…………こら、誰が喧しいですって! 霊夢、貴方はやっぱり巫女としての自覚が足りないわ!」
危なかった。霊夢に口先だけの文句を連ねながら、華扇は疼く右腕をこっそりと後手にした。包帯は解けてあやふやと空を漂っている。しばらくは収集つきそうもない。しかしそれを少女に悟られることを彼女は畏れた。
「あら、もう噺は終わったはずなのに説教を続けようっていうわけ?」
「現実がそう簡単には終わって堪るものですか! だいたい――」
本当は説教の必要もない。酔っぱらってもやはり霊夢は巫女ということだ。これが素面でなくて善かったとさえ今の華扇には思える。夏にしては嫌に冷たい汗が仙人の背筋を伝っていた。何故なら、先の一連の流れはまさしく〝鬼さえ忘れていた鬼の鬼退治〟だったからである。
霊夢はマタギのたんぽと言ったが、華扇はこれを又鬼の蒲英と称した。彼女は知っている。この幻想郷がかつて日ノ本と常識さえ分かつ前、東山道の奥深くに陸奥と出羽という律令国があった頃、奥羽から白神の山々までを駆けて生業とする〝鬼よりも強い鬼〟と言われた狩猟の民がいたのだ。
都を散々に荒らしまわった童子の鬼達とは起源さえ異なる古の血族、所によっては王とも神ともされ、時の朝廷に畏れられた異民族の成れの果て、それが華扇の言う又鬼だった。彼奴らは蝦夷と罵られ迫害されようともけして滅びず、山に凄み続けた強者の末裔である。
たとえ根無し草になろうとも、その文化水準は侮れなかった。その一端が、幻想郷の人々が鬼を忘れてまた思い出した、そんな今日の永き時までしかし脈々と受け継がれてきた鬼退治の蒲英なのだった。まさか、巡り巡ってまたも華扇の前に姿を現すとは――。
「……なんという執念か」
そこでやっと華扇の右腕は、右腕の形を取り繕った。にぎにぎと拳を握り感触を確かめる。いささか密度の方は薄まってしまっているが、しかしそこは長年と鍛えてきた鬼道仙術の出番である。たとえ巫女であっても容易には見破れまい。
思惑通り華扇の再び表だった右腕に、霊夢が注意を向けることはなかった。そうして改めて、彼女は横道なき鬼の性根を体現するかのように串の一本筋の通ったたんぽを眺めた。懐かしき面影は、しかし今一つ腑に落ちない点がある。しばしの躊躇の後えいやと、彼女は再びたんぽに喰らいついていた。
「――ふむ、やはり大丈夫なようですね」
「こら、あんたは人に説教かましといて呑気に物を食ってんじゃないわよ!」
「おや、私としたことが霊夢に説教されてしまうとは……」
「どーゆー意味よ」
ぱくりとたんぽを咥えたまま華扇は霊夢の赤らんだ顔を見やった。やはり先程の想像以上の痛みは、この巫女が無自覚に続けた〝めでたし、めでたし〟の連語によって物事の意味合いが強められた結果のようだ。過去の昔噺にて何人もの鬼が今生の幕をそう締めくくられてきた。言葉の力とはある種の様式美である。繰り返すことで意味を折り重ねていく。
そうしなければ、このたんぽの鬼退治の側面はその役割を一向に果たせないと、博麗の巫女は無自覚ながらに感じたのだろう。実際、鬼退治の決め手としてこれがまともに作用するのは秋なのだ。その作法も人はもう知らないと考えていた。だから華扇は懐かしいと言いながらも咄嗟には、これの厄介さを思い出せずに喰らってしまったというわけである。
(今日を知らず秋にこれを差し出されていたら――私は小町に連れられて川を渡っていたかもしれませんね)
秋の穢れ無き新米に、又鬼に見劣らぬ強者である博麗の巫女が手ずから握った味噌たんぽ、それを頬張り呑む〝本物の鬼殺し〟がどれだけ美味かろうか、と想像しただけでも唾が湧く。それはまるで勝ち目のない博打となるだろう。勝利の賽の目は常に人に傾く、蒲英とはそういう名前の食い物だからだ。
まあ喰えばまず助からない。悪鬼が孕む隠と荒が、新米の神々の和によって対滅させられれば、それはもう鬼ではいられないからだ。あとに〝めでたし、めでたし〟とでも文句が続けば終わりである。正々堂々と掛かるその豪気さよ、まさしく鬼をよく知る〝鬼のような人〟が人のためにと創りだした鬼退治なのだった。
「それにしても、……やはり貴方も妖怪ってだけで退治せずにはいられないわけですね」
華扇のいつもの冗談のような物言いには、しかし今だけは一抹の寂しさが含まれていた。普段は面倒臭がりなところもあるが、霊夢は歴代の巫女の中でも相当に温厚で理性的な性質だ。けれどもそんな少女をして時折ふと貌を覗かせる〝人〟という性状からは逃れられない。
其は斯くも人を縛り、仙人等の魑魅魍魎との間に越えられない善良と邪悪という境界があることを、時として冷淡にも指し示すのだ。
「なーに、人が酒飲んでるとこに勝手に来ておいて…………勝手に沈み込んでるのよ」
そんな華扇の肩を酔っぱらった霊夢はぺしぺしと叩いた。
「霊夢……」
「まあ。理由はよく知らないけど、とりあえずあんたもここに座って酒でも呑んできなさいよ」
そうしてふらふらと千鳥足で台所へ消えた霊夢は、数秒後に盆に煎餅と酒を乗せて現れた。ご存知、米粉生地を叩いて伸ばして焼くのではなく揚げて一口大に砕いた程度の醤油煎餅である。最近はアリスを不自然なポーカーフェイスにさせる程度の能力も認められた。
「はい、これ。最近は見た目も味も大丈夫なはずよ、たくさん練習したんだから」
「……ん、少しつまみにしては辛いですね」
「だから合うように焼酎は甘口のやつを選んだわ、それじゃあ――特に何でもないけど乾杯」
「……乾杯、です」
少し前までは昼時の酒などと偉そうに説教を垂れていたというのに、気づけば華扇は霊夢と二人で酒を煽いでいた。一気に飲み干しておいてなんだが安酒だ、はっきりと言えば不味い。しかし今はこれでいい。
こうしてしばし無言の酒盛りが続いた。片方どちらかが酒を飲み干せば、もう片方が訥々と杯を安酒で満たす。まったく幻想郷にしては珍しい飲み方だろう。というより霊夢や華扇などの少女らにしては、と言うべきか。それは腹に一物抱えた人々が話を切り出す瞬間を淡々と見計らっているような、そんな静かな緊張感があった。
やがて。ことり、と霊夢が杯を置いた。辛酒に甘酒と、酔いに酔いを重ねた人の子の少女は、目をとろんとさせながらも想い確かに気炎を吐いて、何やら黙想を続けていた華扇に対してねえと声を絞る。
「だいたい、……あんたといいチルノといい、どいつもこいつも妖怪っていうのは好き勝手が過ぎるのよ。人が面倒だって言ってんのに、次から次へと異変を起こしてくれちゃってさあ、顔見知りだっていうのに退治しなきゃいけない私のことも偶には考えなさいよ、ええ?」
「それは……」
「いちいち消すのも気分が悪いから弾幕ごっこなんてものを考えてもみたけど、そうしたら次は恨み言じゃなくて泣き言って? ……冗談じゃないわ。そんな鬱陶しいものに、これからも巫女を引退するまで付き合っていくなんて私はごめんよ。だから――これ以上おいたが過ぎるようなら、こっちも出るとこ出るわよ?」
急に低くなった霊夢の声に、グイと近づけられた顔に、華扇は嫌な想像を掻きたてずにはいられなかった。取り繕うにも急に大きくなった話に咄嗟に言葉は出てこない。しかし今更耳を塞ぐことなど許されるわけもなく、仙人はふーふーと変わらず気炎を上げる酔っ払いの巫女の戯言を、いの一番に鼓膜に叩きつけられる次第となった。
「今度異変を起こすような馬鹿がいたら、そいつら全員――」
「ま、待って早まっては……」
「――神様にしてやるから」
「…………へ?」
「だから、神様にするって言ってんのよ」
霊夢はそう繰り返した。しかし華扇には二度聞かされてなお意味がわからなかった。神様にする? 誰を? そうしてしばしの沈黙が二人の間に舞い降りる。やがて言のぶっとび具合にわなわなと彼女は震えていた。
「しょ、正気ですか……霊夢?」
「勿論酔ってるわ。けれどやると決めれば酔狂じゃ終わらないわよ? 好い加減、里の御意見番気取りの婆にぐだぐだと言われるのも嫌いたのよ。こうなったら異変を起こした奴は片っ端から奉って、博麗神社の配祀神にしてくれるわ!」
例えば彼の怨霊〝雷神〟道真公のように、人が死後に御霊となり、その怒りを鎮めるために信仰されやがて神に為り変わることは実際にある。霊夢の主張はそれを人ではなく妖怪で行ってしまおうということだった。
「そ、そんな真似が可能だとでも……?」
「神様なんて八百万といるのよ? そこに何十の新米がいつのまにか加わったところで、誰も煩くなんて言わないわ。それに昨今は地蔵が閻魔に転職できる時代なんだから、前例がないっていうなら前例を作ればいいのよ」
「しかし……」
「そうすれば好き勝手しようとしたところで影響なんて知れているし、幻想郷縁起に書かれているから消滅の心配もない。……なんだ万々歳じゃない?」
矮躯に際限なく酒を流し込みながら楽園の巫女はそう続けた。何事にも縛られない、理性の枷さえ外れた霊夢は縁起に載った言葉に偽りなく自由そのものである。ふぁあ、と欠伸をしながらもまるで夢想家のように少女は語った。
「でも、そんな!」
「……そんな驚くことかしらね。一人一種族の妖怪が今すぐっていうのはともかく、鬼や天狗や河童はまず間違いなく神様になれるでしょう? あんたも見てたじゃない、玄武の沢の竜巻」
「……水鬼鬼神長のことですか」
「そう、死神の代理で来たっていうあの鬼神よ。姿は見えないし、初めは紫の繰る式神みたいなものなのかなって思ってたけど、あんたが〝奴〟って呼ぶからには藍のような人格はある程度残っていたってことでしょう?」
それは勘違いだったが、果たして華扇が霊夢に指摘できるはずもなかった。
「それもあるけど、あんたがたんぽを齧ってる時に、ふと爺さんの話の続きも思い出したのよね。なまはげや鬼神社の〝角のない鬼〟みたいな土着信仰ってやつを」
霊夢が語ったのは、それぞれが出羽と陸奥にある鬼信仰だった。
悪い子はいねがー、泣ぐコはいねがー、と。年の終わりに蓑を纏い、出刃包丁を片手に家々を訪れる冬の使者がいる。怠惰と不和の悪事を諌めて災いを祓う、そんな鬼神を爺婆が模した姿がなまはげだ。彼の祭事は赤と青の二対の鬼を人が演じることで鬼神に成り代わるという、霊夢の神下ろしにも似た信仰形態をとる。
次いで干ばつで苦しむ村を救うために、山を駆けおり一夜にして水路を作りあげた〝おにがみさま〟の話がある。普段は荒ぶり人を襲う力が転じて人を救い、神より神らしい行動によって前評判を覆した鬼がいたのだ。村人は危機を救ったその悪鬼を称えて地名までも変えてしまった。そうしていつしか信仰により農耕の神とまで為ったその鬼神の社の鳥居に、人々は感謝の意を込めて〝角のない鬼〟の字の神額を捧げたとのことだ。
以上から霊夢はある仮説を提唱する。
「その話を思い出した時にピンと来たのよ。もしかして鬼って神様になると角がなくなるんじゃないかって。紫の式神もそうだけど、鬼神が憑いたっていうのに藍にも橙にも外見の変化が現れないなんて可笑しくない? 女が鬼女になったら角が生えるじゃない。だからさ、鬼神にはもう角がないから角が生えないんだって考えるとしっくりきたのよね」
「………………」
そんな霊夢の主張に華扇は是とも否とも言えなかった。というより、まともに反応を返すような余裕などもう彼女にはなかったのだ。ドクドクドクドク、と。修行で汗を流しているときにも聞いたことのないような心臓の脈打つ音を感じていた。欠伸とともに少女は続ける。
「つまり神様に荒と和があるように、鬼にも荒と和があると私は考えたの。そしてそれを客観視できるのが頭に生える角なのよ。鬼は牙ならぬ角を無くして初めて神になるっていうわけ。……なんて、ここまで推測を並べ立てみたけれど、どう?」
「……どう、というと?」
「いやさ、あんたの見た鬼神長に――――結局、角は生えていたのかしらって。じゃないと、私の言い分が事実かどうかはわからないでしょう?」
口を開くべきか、噤むべきか。
開くとなれば言うは嘘か真か。
この瞬間における片腕有角の仙人の煩悶は余人には計り知れないことだろう。つう、と頬を汗が伝った。ミンミンミンミンと鳴く蝉とリグルさえ、己をどこか急かしているという錯覚を彼女が感じたのは単なる勘違いだとは断言できない。
霊夢の言い分は、まるで重ねれば重ねるほどに真実味を増していく、一概に否定するにはあまりに都合よい事実の羅列だった。無論、そうと少女が言葉を選んでいるから華扇にはそう聞こえているのだが、まるで巫女の話に合わせて答えの方が変化しようとしているかのような、そんな奇妙な居心地の悪さがある。
果たして神霊が妖怪の一つに過ぎないというのなら、昔噺の鬼が神に転じたように、異変を起こした妖怪が巫女と人々に奉られて神に転じることもまたあり得るのではないか。妖怪もまた神霊の一つに過ぎないとなれば、人妖のすれ違いとやらは是正できるのではないか、と。
そんな自論が、もしも己の一言によって霊夢の中で然りと肯定されたとしたら幻想郷はどう変わる? 華扇には見当もつかない。しかし決めろと言うのだ、巫女は己に。これは真昼間から行われていた一人酒に、余人が首を突っ込んだことへの対価というやつなのか。ともかく。適当に答えるには彼女に掛かる重圧はあまりに大きかった。
得てして人の括りを超えている存在というのは、大きな変化を畏れるものだ。特に妖怪ともなれば言葉や代用技術によって解き明かされるということは、下手をすれば消滅の危機ですらある。これが、新手の鬼退治や妖怪退治でないとどうして断言できようか?
(いや、しかしこの場合は霊夢の主張通りなら妖怪は神と為ってしまうわけで、別に死ぬわけじゃ……けれどそれは罰として与えるにはあまりに罰当たり……でも殺し殺されるような殺伐とした関係よりはよっぽど……)
無言とは広義に肯定の意味合いを持つことが多い。しかし今日に限って霊夢は華扇の煩悶に余計な口を挿むこともなく、ただただ黙って彼女の応答を待っていた。チクタクチクタク、と。時が無為に過ぎる音だけが確かだった。
そうして。
どうにも考えあぐねて、とうとう華扇がちらりと横目で霊夢の顔を窺うようになった頃――。少女は目を瞑り、うんうんと相槌を打つように首を傾げて。
「………………ふえ? ちょ、ちょっと!」
まるで居眠りしているようだ、いやいやそんな馬鹿なと。華扇がそう言葉を続ける隙も与えず、霊夢の頭はぱたんと彼女の膝上に落ち着いたのだった。…………。おいおい何事だよと、彼女は揺すってみるが、少女はむにゃむにゃとまるで要領を得ない。難題はまさかの時間制限付きだったのだ。
「……い、いったい妖怪はどっちだっていうのよ!」
どうにも好き勝手にした挙句、答えも聞かずに霊夢は酔い潰れたようだ。いや、華扇があまりに長く待たせ過ぎたからかもしれない。それにしたってあまりに唐突な幕引きだ。どれだけゾクリとするようなことを言っても所詮は酔っ払いである。話半分に訊かない彼女の生真面目さが結果として馬鹿を見ることとなった。勿論、視線の先にあった馬鹿とは少女の頭である。仕方なしにそれをぽんぽんと撫でながら溜息を一つ。
「目が覚めたら、またお説教しに来てやるんだから」
微かな憤りの胸中に、しかし確かな安堵の意味を込めて仙人はそう嘯く。停滞と曖昧は悪だと、普段からそう息巻いているだけに華扇の安心はある種滑稽ですらある。けれども結局答えなど出なくてよかった。今のままでも妖怪と人間は上手くやっているのだから、と。くすりと彼女は笑った。いつから己は未来を変わらないものと当然視するようになっていたのか。
「……まだまだ私も修行が足りませんね」
斯くして〝鬼面〟は無へと還る。そもそも巫女の裏目などあってならないのが、幻想郷だ。常世からなお浮かぼうとした泡沫夢幻は、右手無き右手という矛盾に鷲掴まれて文字通りに雲散霧消する。砂上の楼閣は儚いが故に強者の懐へと抱きなおされ、現が流れたとしても夢は今日も夢であり続ける。
やがて〝一人〟目覚めた楽園の巫女は――酔って眠ったということ以外、まったく何も覚えてはいなかった。ただ無為に一日を終わらせてしまったかと羞恥に身悶え、けれど霊夢は知り合いの誰にもこんな無様を見られなくて好かったと安堵する。
真実を知る仙人は黙して語らず。家路を急ぐ華扇の右手には、しかし齧りかけの焦げた味噌付けたんぽがしっかりと握られていたのだった。
そう捨て台詞を吐いてチルノは何処へと飛んでいった。先日ただ利用するのも具合が悪くて、蒲公英珈琲なんて飲ませたのが良くなかったらしい。まったく子供のように調子に乗った氷精は、あれから博麗神社を訪れれば美味しいものを飲ませてくれる場所と勘違いしたのだ。妖精らしい単純思考である。
居れば涼しいから、とあまり口煩く言わなかった霊夢にも問題はあるだろう。しかし神社は所詮甘味処ではなく、少女の寛容さが保たれていたのも採集した蒲公英の根の備蓄が潰えるまでだった。無い袖は如何に巫女であろうと振れないのだ。
また飲みたかったら黄色い花の根っこでも取って来なさい、と己を軽くあしらってお茶を啜る霊夢の様子は、たとえそれが事実だとしてもチルノからすれば意地悪としか思えなかった。斯くして妖精譲りの無鉄砲さで巫女に弾幕ごっこを仕掛けた氷精だったが、その結果は既に前述の通りである。
ここしばらく様々な妖精が集まって騒がしかった神社も、チルノが退治されると同時にいつもの静けさを取り戻した。残るのは変わらず縁側で呆とする霊夢だけである。久しぶりの静けさだった。――それにいささかの寂しささえ覚える。そんなことを気づけば考えていた己に、少女は変わらずお茶を啜りながらも内心驚いていた。
「…………これが、早苗が言ってた可愛いは正義ってやつかしら?」
妖精というのは誰も見目だけは可愛らしい幼子である。どれだけ騒がしかろうが、彼女らがきゃっきゃめいて戯れる姿は、霊夢にも少なからぬ癒しを提供していたらしい。だとすれば、惜しいことをした。しかしもう遅い。日常とは移ろいやすい、砂上の楼閣のようなものだ。人はいつだって失ってからその価値に気づくのである。
「まあ、二度と来るなって言ったわけでもないし。放って置いてもその内にまたひょっこり現れるでしょう」
いくらチルノでも蒲公英くらいは知っているはずだ。あれだけ執着していたのだから、まさかそう簡単に忘れはしないだろう。泥だらけの姿で根を抱えて持ってきたその時は、幾度目かの蒲公英珈琲を作ってやらんこともない。そう勝手に納得したことにして霊夢は三度お茶を啜った。いや、啜ろうとした。
かち、と前歯が湯呑を叩く音がする。見ればお茶はもうない。それに不思議と気恥ずかしさを覚えて霊夢の頬は〝かあ〟と熱くなった。博麗の巫女がなんという無様か、普段からお茶に慣れ親しんでいるだけに尚更に居た堪れない。何だかんだと取り繕って気づかないほどに、未練を感じているなんて――。
「……さ、酒よ! こうなったらお酒だわ!」
しばらくぷるぷると震えた後、誰知らぬ言い訳を呟きながら霊夢は立ち上がった。往々にして真昼間から行われるような一人酒には、当人にしかわからない苦悩やら懊悩やらがあるものだ。心身の穢れを祓うには酒が手っ取り早い。つまり酔って寝て忘れてしまおうという魂胆だった。
そうと決まれば霊夢の動きは素早かった。一刻もしない内に七輪を庭先に引っ張り出して、酒のつまみを焼いているほどだ。宴会で飲むような甘い酒には辛いつまみがよく合う。ならば一人で飲むような辛い酒には甘いつまみだろうと、そんな単純思考で少女が炊いたのは米だった。まだ小さかった頃、運松翁の知り合いに頼んで熊追いをしてもらったことがある。その爺さんに礼として辛口の酒を渡したときに教わった甘口の料理だ。
名はたんぽという。
特に味噌付けが酒のつまみに合うらしい。
作り方は簡単だ。まず炊いた米を適当な鉢に入れて七分づきにして、それを手で玉に捏ねたら割り箸に差して握り整えて七輪で万遍なく焼く。それだけでいい。ただしこれだと具なしの焼きおにぎりなので甘ダレを塗る必要があるのだが、これも味噌と砂糖と味醂を一緒くたに混ぜ合わせるだけと非常に簡単である。
そうして七輪で焼ける串の身に、好みに合わせて甘ダレを塗っていけば出来上がりだ。霊夢は程よく焼けた味噌付けたんぽの一つを摘み上げて齧ってみた。もちもちとした食感のあとに、焼けた味噌の好い香りと砂糖と合わさった甘塩っぱいタレが口一杯に広がる。続けて酒を煽ればカッと喉奥が熱くなった。とんとんと酒が進む、そんな上手く美味い組み合わせだ。
「ふんふん、ふーふふ♪ らんらーら、らららら♪」
斯くして昼下がりの境内に、巫女という酔っ払いは降臨した。その様子に恐れ戦き、来た道を慌てて逃げ戻った三匹の妖精がいたことなど、霊夢には知る由もなかった。酒が裏目に出るとき人は大抵が悪酔いである。賽の目さえ定める巫女の裏目だ。まさしく〝鬼面〟という他ないだろう。
◆
「……どうにも懐かしい匂いがすると思えば、貴方はまたこんな昼間からお酒なんて呑んで」
紅魔館に凄む吸血鬼に運命でも繰られたか、霊夢が酔っぱらってから少し、神社を訪れる影があった。行者は茨木華扇である。頬につうと線を引く滴りを見るに、どうやら仙人も汗は掻くらしい。
「なーによ、昨日も巫女をやっていれば今日くらいは休業する日だってあるわ」
「神職は商いとは違うでしょうに、……明日や来年が当たり前にあると妄信していれば鬼に笑われるのよ?」
「萃香も勇儀も基本笑ってるけどねえ……」
けらけらと己の軽口に笑う霊夢は彼の不羈奔放の鬼をも思わせる。どうやらしばらく顔を見ないでいる内に、すっかり夏の暑さでだらけてしまったらしいと華扇は正しく誤解した。
まあ無理もない。華扇の知る霊夢は巫女ではあったが、同時に子供っぽさが未だに抜けきらない少女であることもまた確かだったからだ。彼女から見れば二、三年の変化など誤差に等しく、少女はまだまだ小生意気な少女である。しかしそれ故に些細なことに悩んだりもする年頃なのだが、大人というのはともすれば己が童子の時の複雑怪奇な心持ちなど、すっかり忘れてしまうものなのだった。
「また屁理屈を……!」
「……まあ怒らないでよ、ただでさえ暑いのにあんたがカッカしたら余計に暑くなるわ。それよりもさ、ほら、知ってるかしら? これって美味しいのね、もっと早く食べてみればよかったわ」
今日とて仙人らしい生真面目さから一つ説教でもしてやろうかと気炎を燻ぶらせた華扇だったが、霊夢が見せびらかすようにゆらゆらと揺らしたたんぽから香る甘い匂いに思わず口を噤んだ。ごくん、と唾を呑む。仙人としては弱点らしい弱点など見当たらない彼女ではあるが、当人の性情からして甘味の類には目が無かった。それが物珍しく懐かしいともなれば尚更である。
「ほう、これはまた…………はて、しかし何やら忘れているような……?」
「いらないの?」
「……し、仕方ないですね! 断るのも失礼でしょうし、せっかくですから一本頂きます」
物を食ってからでも説教はできる。そうしてたんぽを頬張る華扇は霊夢が再び笑ってしまうくらいに好い表情をしていた。こうも美味そうに食われれば、酔っぱらって実はもうわけがわからなくなっているとはいえやはり嬉しいものだ。
故に。
ここからはまったく無意識で以て、博麗の巫女は続けていた。
「あはははは、こうして〝マタギ〟の爺さんから教わった〝たんぽ〟で以て、巫女は喧しい仙人の説教を退けましたとさ、めでたし、めでたし」
「――――ッ、これは……!」
突如として存在しないはずの右腕に激痛が奔り、華扇は思わず目を白黒とさせた。慌てて齧っていた味噌付けたんぽを口元から退ける。そこでようやっと彼女は思い出した。まったく久しぶりに見たせいですっかり忘れていたのだ。人の食べ物とはただ食欲を満たすだけではなく、時としては妖怪退治の道具にもなり得るということを。
「……成程そうか〝又鬼の蒲英〟でしたか、私が喰いついてしまうのも道理ですね、…………こら、誰が喧しいですって! 霊夢、貴方はやっぱり巫女としての自覚が足りないわ!」
危なかった。霊夢に口先だけの文句を連ねながら、華扇は疼く右腕をこっそりと後手にした。包帯は解けてあやふやと空を漂っている。しばらくは収集つきそうもない。しかしそれを少女に悟られることを彼女は畏れた。
「あら、もう噺は終わったはずなのに説教を続けようっていうわけ?」
「現実がそう簡単には終わって堪るものですか! だいたい――」
本当は説教の必要もない。酔っぱらってもやはり霊夢は巫女ということだ。これが素面でなくて善かったとさえ今の華扇には思える。夏にしては嫌に冷たい汗が仙人の背筋を伝っていた。何故なら、先の一連の流れはまさしく〝鬼さえ忘れていた鬼の鬼退治〟だったからである。
霊夢はマタギのたんぽと言ったが、華扇はこれを又鬼の蒲英と称した。彼女は知っている。この幻想郷がかつて日ノ本と常識さえ分かつ前、東山道の奥深くに陸奥と出羽という律令国があった頃、奥羽から白神の山々までを駆けて生業とする〝鬼よりも強い鬼〟と言われた狩猟の民がいたのだ。
都を散々に荒らしまわった童子の鬼達とは起源さえ異なる古の血族、所によっては王とも神ともされ、時の朝廷に畏れられた異民族の成れの果て、それが華扇の言う又鬼だった。彼奴らは蝦夷と罵られ迫害されようともけして滅びず、山に凄み続けた強者の末裔である。
たとえ根無し草になろうとも、その文化水準は侮れなかった。その一端が、幻想郷の人々が鬼を忘れてまた思い出した、そんな今日の永き時までしかし脈々と受け継がれてきた鬼退治の蒲英なのだった。まさか、巡り巡ってまたも華扇の前に姿を現すとは――。
「……なんという執念か」
そこでやっと華扇の右腕は、右腕の形を取り繕った。にぎにぎと拳を握り感触を確かめる。いささか密度の方は薄まってしまっているが、しかしそこは長年と鍛えてきた鬼道仙術の出番である。たとえ巫女であっても容易には見破れまい。
思惑通り華扇の再び表だった右腕に、霊夢が注意を向けることはなかった。そうして改めて、彼女は横道なき鬼の性根を体現するかのように串の一本筋の通ったたんぽを眺めた。懐かしき面影は、しかし今一つ腑に落ちない点がある。しばしの躊躇の後えいやと、彼女は再びたんぽに喰らいついていた。
「――ふむ、やはり大丈夫なようですね」
「こら、あんたは人に説教かましといて呑気に物を食ってんじゃないわよ!」
「おや、私としたことが霊夢に説教されてしまうとは……」
「どーゆー意味よ」
ぱくりとたんぽを咥えたまま華扇は霊夢の赤らんだ顔を見やった。やはり先程の想像以上の痛みは、この巫女が無自覚に続けた〝めでたし、めでたし〟の連語によって物事の意味合いが強められた結果のようだ。過去の昔噺にて何人もの鬼が今生の幕をそう締めくくられてきた。言葉の力とはある種の様式美である。繰り返すことで意味を折り重ねていく。
そうしなければ、このたんぽの鬼退治の側面はその役割を一向に果たせないと、博麗の巫女は無自覚ながらに感じたのだろう。実際、鬼退治の決め手としてこれがまともに作用するのは秋なのだ。その作法も人はもう知らないと考えていた。だから華扇は懐かしいと言いながらも咄嗟には、これの厄介さを思い出せずに喰らってしまったというわけである。
(今日を知らず秋にこれを差し出されていたら――私は小町に連れられて川を渡っていたかもしれませんね)
秋の穢れ無き新米に、又鬼に見劣らぬ強者である博麗の巫女が手ずから握った味噌たんぽ、それを頬張り呑む〝本物の鬼殺し〟がどれだけ美味かろうか、と想像しただけでも唾が湧く。それはまるで勝ち目のない博打となるだろう。勝利の賽の目は常に人に傾く、蒲英とはそういう名前の食い物だからだ。
まあ喰えばまず助からない。悪鬼が孕む隠と荒が、新米の神々の和によって対滅させられれば、それはもう鬼ではいられないからだ。あとに〝めでたし、めでたし〟とでも文句が続けば終わりである。正々堂々と掛かるその豪気さよ、まさしく鬼をよく知る〝鬼のような人〟が人のためにと創りだした鬼退治なのだった。
「それにしても、……やはり貴方も妖怪ってだけで退治せずにはいられないわけですね」
華扇のいつもの冗談のような物言いには、しかし今だけは一抹の寂しさが含まれていた。普段は面倒臭がりなところもあるが、霊夢は歴代の巫女の中でも相当に温厚で理性的な性質だ。けれどもそんな少女をして時折ふと貌を覗かせる〝人〟という性状からは逃れられない。
其は斯くも人を縛り、仙人等の魑魅魍魎との間に越えられない善良と邪悪という境界があることを、時として冷淡にも指し示すのだ。
「なーに、人が酒飲んでるとこに勝手に来ておいて…………勝手に沈み込んでるのよ」
そんな華扇の肩を酔っぱらった霊夢はぺしぺしと叩いた。
「霊夢……」
「まあ。理由はよく知らないけど、とりあえずあんたもここに座って酒でも呑んできなさいよ」
そうしてふらふらと千鳥足で台所へ消えた霊夢は、数秒後に盆に煎餅と酒を乗せて現れた。ご存知、米粉生地を叩いて伸ばして焼くのではなく揚げて一口大に砕いた程度の醤油煎餅である。最近はアリスを不自然なポーカーフェイスにさせる程度の能力も認められた。
「はい、これ。最近は見た目も味も大丈夫なはずよ、たくさん練習したんだから」
「……ん、少しつまみにしては辛いですね」
「だから合うように焼酎は甘口のやつを選んだわ、それじゃあ――特に何でもないけど乾杯」
「……乾杯、です」
少し前までは昼時の酒などと偉そうに説教を垂れていたというのに、気づけば華扇は霊夢と二人で酒を煽いでいた。一気に飲み干しておいてなんだが安酒だ、はっきりと言えば不味い。しかし今はこれでいい。
こうしてしばし無言の酒盛りが続いた。片方どちらかが酒を飲み干せば、もう片方が訥々と杯を安酒で満たす。まったく幻想郷にしては珍しい飲み方だろう。というより霊夢や華扇などの少女らにしては、と言うべきか。それは腹に一物抱えた人々が話を切り出す瞬間を淡々と見計らっているような、そんな静かな緊張感があった。
やがて。ことり、と霊夢が杯を置いた。辛酒に甘酒と、酔いに酔いを重ねた人の子の少女は、目をとろんとさせながらも想い確かに気炎を吐いて、何やら黙想を続けていた華扇に対してねえと声を絞る。
「だいたい、……あんたといいチルノといい、どいつもこいつも妖怪っていうのは好き勝手が過ぎるのよ。人が面倒だって言ってんのに、次から次へと異変を起こしてくれちゃってさあ、顔見知りだっていうのに退治しなきゃいけない私のことも偶には考えなさいよ、ええ?」
「それは……」
「いちいち消すのも気分が悪いから弾幕ごっこなんてものを考えてもみたけど、そうしたら次は恨み言じゃなくて泣き言って? ……冗談じゃないわ。そんな鬱陶しいものに、これからも巫女を引退するまで付き合っていくなんて私はごめんよ。だから――これ以上おいたが過ぎるようなら、こっちも出るとこ出るわよ?」
急に低くなった霊夢の声に、グイと近づけられた顔に、華扇は嫌な想像を掻きたてずにはいられなかった。取り繕うにも急に大きくなった話に咄嗟に言葉は出てこない。しかし今更耳を塞ぐことなど許されるわけもなく、仙人はふーふーと変わらず気炎を上げる酔っ払いの巫女の戯言を、いの一番に鼓膜に叩きつけられる次第となった。
「今度異変を起こすような馬鹿がいたら、そいつら全員――」
「ま、待って早まっては……」
「――神様にしてやるから」
「…………へ?」
「だから、神様にするって言ってんのよ」
霊夢はそう繰り返した。しかし華扇には二度聞かされてなお意味がわからなかった。神様にする? 誰を? そうしてしばしの沈黙が二人の間に舞い降りる。やがて言のぶっとび具合にわなわなと彼女は震えていた。
「しょ、正気ですか……霊夢?」
「勿論酔ってるわ。けれどやると決めれば酔狂じゃ終わらないわよ? 好い加減、里の御意見番気取りの婆にぐだぐだと言われるのも嫌いたのよ。こうなったら異変を起こした奴は片っ端から奉って、博麗神社の配祀神にしてくれるわ!」
例えば彼の怨霊〝雷神〟道真公のように、人が死後に御霊となり、その怒りを鎮めるために信仰されやがて神に為り変わることは実際にある。霊夢の主張はそれを人ではなく妖怪で行ってしまおうということだった。
「そ、そんな真似が可能だとでも……?」
「神様なんて八百万といるのよ? そこに何十の新米がいつのまにか加わったところで、誰も煩くなんて言わないわ。それに昨今は地蔵が閻魔に転職できる時代なんだから、前例がないっていうなら前例を作ればいいのよ」
「しかし……」
「そうすれば好き勝手しようとしたところで影響なんて知れているし、幻想郷縁起に書かれているから消滅の心配もない。……なんだ万々歳じゃない?」
矮躯に際限なく酒を流し込みながら楽園の巫女はそう続けた。何事にも縛られない、理性の枷さえ外れた霊夢は縁起に載った言葉に偽りなく自由そのものである。ふぁあ、と欠伸をしながらもまるで夢想家のように少女は語った。
「でも、そんな!」
「……そんな驚くことかしらね。一人一種族の妖怪が今すぐっていうのはともかく、鬼や天狗や河童はまず間違いなく神様になれるでしょう? あんたも見てたじゃない、玄武の沢の竜巻」
「……水鬼鬼神長のことですか」
「そう、死神の代理で来たっていうあの鬼神よ。姿は見えないし、初めは紫の繰る式神みたいなものなのかなって思ってたけど、あんたが〝奴〟って呼ぶからには藍のような人格はある程度残っていたってことでしょう?」
それは勘違いだったが、果たして華扇が霊夢に指摘できるはずもなかった。
「それもあるけど、あんたがたんぽを齧ってる時に、ふと爺さんの話の続きも思い出したのよね。なまはげや鬼神社の〝角のない鬼〟みたいな土着信仰ってやつを」
霊夢が語ったのは、それぞれが出羽と陸奥にある鬼信仰だった。
悪い子はいねがー、泣ぐコはいねがー、と。年の終わりに蓑を纏い、出刃包丁を片手に家々を訪れる冬の使者がいる。怠惰と不和の悪事を諌めて災いを祓う、そんな鬼神を爺婆が模した姿がなまはげだ。彼の祭事は赤と青の二対の鬼を人が演じることで鬼神に成り代わるという、霊夢の神下ろしにも似た信仰形態をとる。
次いで干ばつで苦しむ村を救うために、山を駆けおり一夜にして水路を作りあげた〝おにがみさま〟の話がある。普段は荒ぶり人を襲う力が転じて人を救い、神より神らしい行動によって前評判を覆した鬼がいたのだ。村人は危機を救ったその悪鬼を称えて地名までも変えてしまった。そうしていつしか信仰により農耕の神とまで為ったその鬼神の社の鳥居に、人々は感謝の意を込めて〝角のない鬼〟の字の神額を捧げたとのことだ。
以上から霊夢はある仮説を提唱する。
「その話を思い出した時にピンと来たのよ。もしかして鬼って神様になると角がなくなるんじゃないかって。紫の式神もそうだけど、鬼神が憑いたっていうのに藍にも橙にも外見の変化が現れないなんて可笑しくない? 女が鬼女になったら角が生えるじゃない。だからさ、鬼神にはもう角がないから角が生えないんだって考えるとしっくりきたのよね」
「………………」
そんな霊夢の主張に華扇は是とも否とも言えなかった。というより、まともに反応を返すような余裕などもう彼女にはなかったのだ。ドクドクドクドク、と。修行で汗を流しているときにも聞いたことのないような心臓の脈打つ音を感じていた。欠伸とともに少女は続ける。
「つまり神様に荒と和があるように、鬼にも荒と和があると私は考えたの。そしてそれを客観視できるのが頭に生える角なのよ。鬼は牙ならぬ角を無くして初めて神になるっていうわけ。……なんて、ここまで推測を並べ立てみたけれど、どう?」
「……どう、というと?」
「いやさ、あんたの見た鬼神長に――――結局、角は生えていたのかしらって。じゃないと、私の言い分が事実かどうかはわからないでしょう?」
口を開くべきか、噤むべきか。
開くとなれば言うは嘘か真か。
この瞬間における片腕有角の仙人の煩悶は余人には計り知れないことだろう。つう、と頬を汗が伝った。ミンミンミンミンと鳴く蝉とリグルさえ、己をどこか急かしているという錯覚を彼女が感じたのは単なる勘違いだとは断言できない。
霊夢の言い分は、まるで重ねれば重ねるほどに真実味を増していく、一概に否定するにはあまりに都合よい事実の羅列だった。無論、そうと少女が言葉を選んでいるから華扇にはそう聞こえているのだが、まるで巫女の話に合わせて答えの方が変化しようとしているかのような、そんな奇妙な居心地の悪さがある。
果たして神霊が妖怪の一つに過ぎないというのなら、昔噺の鬼が神に転じたように、異変を起こした妖怪が巫女と人々に奉られて神に転じることもまたあり得るのではないか。妖怪もまた神霊の一つに過ぎないとなれば、人妖のすれ違いとやらは是正できるのではないか、と。
そんな自論が、もしも己の一言によって霊夢の中で然りと肯定されたとしたら幻想郷はどう変わる? 華扇には見当もつかない。しかし決めろと言うのだ、巫女は己に。これは真昼間から行われていた一人酒に、余人が首を突っ込んだことへの対価というやつなのか。ともかく。適当に答えるには彼女に掛かる重圧はあまりに大きかった。
得てして人の括りを超えている存在というのは、大きな変化を畏れるものだ。特に妖怪ともなれば言葉や代用技術によって解き明かされるということは、下手をすれば消滅の危機ですらある。これが、新手の鬼退治や妖怪退治でないとどうして断言できようか?
(いや、しかしこの場合は霊夢の主張通りなら妖怪は神と為ってしまうわけで、別に死ぬわけじゃ……けれどそれは罰として与えるにはあまりに罰当たり……でも殺し殺されるような殺伐とした関係よりはよっぽど……)
無言とは広義に肯定の意味合いを持つことが多い。しかし今日に限って霊夢は華扇の煩悶に余計な口を挿むこともなく、ただただ黙って彼女の応答を待っていた。チクタクチクタク、と。時が無為に過ぎる音だけが確かだった。
そうして。
どうにも考えあぐねて、とうとう華扇がちらりと横目で霊夢の顔を窺うようになった頃――。少女は目を瞑り、うんうんと相槌を打つように首を傾げて。
「………………ふえ? ちょ、ちょっと!」
まるで居眠りしているようだ、いやいやそんな馬鹿なと。華扇がそう言葉を続ける隙も与えず、霊夢の頭はぱたんと彼女の膝上に落ち着いたのだった。…………。おいおい何事だよと、彼女は揺すってみるが、少女はむにゃむにゃとまるで要領を得ない。難題はまさかの時間制限付きだったのだ。
「……い、いったい妖怪はどっちだっていうのよ!」
どうにも好き勝手にした挙句、答えも聞かずに霊夢は酔い潰れたようだ。いや、華扇があまりに長く待たせ過ぎたからかもしれない。それにしたってあまりに唐突な幕引きだ。どれだけゾクリとするようなことを言っても所詮は酔っ払いである。話半分に訊かない彼女の生真面目さが結果として馬鹿を見ることとなった。勿論、視線の先にあった馬鹿とは少女の頭である。仕方なしにそれをぽんぽんと撫でながら溜息を一つ。
「目が覚めたら、またお説教しに来てやるんだから」
微かな憤りの胸中に、しかし確かな安堵の意味を込めて仙人はそう嘯く。停滞と曖昧は悪だと、普段からそう息巻いているだけに華扇の安心はある種滑稽ですらある。けれども結局答えなど出なくてよかった。今のままでも妖怪と人間は上手くやっているのだから、と。くすりと彼女は笑った。いつから己は未来を変わらないものと当然視するようになっていたのか。
「……まだまだ私も修行が足りませんね」
斯くして〝鬼面〟は無へと還る。そもそも巫女の裏目などあってならないのが、幻想郷だ。常世からなお浮かぼうとした泡沫夢幻は、右手無き右手という矛盾に鷲掴まれて文字通りに雲散霧消する。砂上の楼閣は儚いが故に強者の懐へと抱きなおされ、現が流れたとしても夢は今日も夢であり続ける。
やがて〝一人〟目覚めた楽園の巫女は――酔って眠ったということ以外、まったく何も覚えてはいなかった。ただ無為に一日を終わらせてしまったかと羞恥に身悶え、けれど霊夢は知り合いの誰にもこんな無様を見られなくて好かったと安堵する。
真実を知る仙人は黙して語らず。家路を急ぐ華扇の右手には、しかし齧りかけの焦げた味噌付けたんぽがしっかりと握られていたのだった。
チルノですか?蒲公英を取りに行く様子を書けばいいと思うよ!
人間と妖怪の戦いは本来こういうものなのかも知れません
チルノはなんか…… タンポポとは別のものを持ってきそうだなぁw