Coolier - 新生・東方創想話

ラナウェイ・フロム・ジ・アゴニイ

2014/07/04 05:21:11
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Runaway from the Agony

 ――「航海をするだろうとか、冒険が待っているとか、ロックフェラー家のきれいな娘と縁組をするだろうなんていうのが、大切だと思うかい? どういうものか、ぼくにとって未来は興味がないんだ――ぼくはもっと別の時代に生まれてくるべきだったと、もうずっと昔から悟りきってるからね」
「でも、ぼくが知りたいのは未来なんだけど」とジョエル。
 ランドルフはかぶりを振った。じっとジョエルを見つめているその眠たげな空色の目は、しらふで真剣だった。「賢人の言葉を聞いたことはないかい?――未来のすべては過去に存在する、って」
――トルーマン・カポーティ『遠い声 遠い部屋』より。 


   #01

 声を掛けようとすると、彼女は消えてしまう。まるで初夏の風に溶け込んで、空の彼方に流れ去ってしまったかのように。今日も豊聡耳神子は、彼女の声を聴くことが出来なかった。肩を竦めて、その小さな滝から背中を向けた。散歩は終わりだった。
 道場の入り口、――昇り階段に蘇我屠自古が浮かんでいた。こちらに気づいて組んでいた腕を解き、頭を下げた。
「太子様、お帰りなさいませ」
「どうしました、怖い顔して」
「物部です。あいつの馬鹿でかい皿のコレクション、何とかなりませんか。倉庫が手狭になって困ります」
「後で専用の部屋を造りましょう」
 屠自古は地面に視線を落っことした。「太子様もひとが悪い」
「あの子の趣味に手は出せませんよ。私はうるさく云いたくないな」
 階段を登り、回廊に沿って歩き始めた。屠自古が後に付いて、落ち着かなげに左右を行き来する。
 ふと思いついて、神子は振り返った。
「――あれは、屠自古だったのかな」
「は?」
「この頃、散歩の度にある少女を見かけるのです。いつも逃げられてしまって、ちゃんと話せてはいないのですが。……弟子ではなかったですね。初めて見る顔でした。でも、何処か懐かしい」
「少女、ですか?」
「髪が黒い時分の、君に似ている」
「太子様、まだ安定していないのでは」
「幻ではありません。微かな欲が聴き取れました」
「小神霊ですか?」
「それに近いと思う」
 回廊を伝い、道場から離れた居住区に移る。渡り廊下に虚構の陽が差し込み、板敷に模様を描き出している。その板を軽やかな足取りで踏みしめながら、物部布都が角を曲がって現れた。
「只今、戻りました。太子様っ」
「おい物部」屠自古が進み出る。「何処をほっつき歩いてた?」
「云ったであろう? 無縁塚よ。面霊気と一緒にな、宝探しだ」
「その結果が、――そのガラクタか?」
 布都は古ぼけた壷を両手で抱えていた。取っ手の部分が欠けている。
「ガラクタとは失敬な。おぬしのために持って帰って来たのだぞ」
「要らねぇよ、そんなボロっちいの。ゴミと骨董品は別物だ」
「むう」壷の中を覗き込む。「おぬしが喜ぶと思って、せっかく苦労して運んで来たのに」
 屠自古は烏帽子を外して、癖のある髪をくしゃくしゃにした。
「分かった、分かったよ。邪魔にならないとこに飾っとくから」
「そうかっ」
 道士が笑顔を取り戻した。神子は笏で口元を隠しながら、二人のやり取りを黙って聴いていた。視線は仙界に新しく持ち込まれた陶器に釘付けだった。耳当ての奥に、微かな痒みを感じた。

   #02

 宵闇。居室。神子は耳にヘッド・フォンを装着し、システム・コンポから流れるクラシックに耳を澄ませていた。曲目はクロード・ドビュッシーの『夜想曲』だった。調べが小休止を挟む度に、グラスに注がれたカベルネ・ソーヴィニヨンの赤ワインを口に含んだ。
 岩場に腰かけて書を読んでいた少女の姿を、何度か思い返してみた。彼女は沢のせせらぎを聴きながら言葉の蝶を追いかけていた。紙に印刷されたインクではない。竹簡に筆で記された墨文字だった。
 三度目のリピートを聴き終えた頃、丸太を床にリズミカルに打ちつけるような音が近づいてきた。ヘッド・フォンを外して、耳当てを着け直す。石油ランプを片手に廊下を覗き込む。宮古芳香の姿が、とろけるような闇の中から忽然と浮かび上がった。
「どうしましたか?」
「お前」芳香は首をかくんと傾げた。「誰だっけ?」
「神子ですよ」
「みこ?」
「豊聡耳です。青娥に教えを」
「ああ、そうだった。豊聡耳様だな」
「思い出せましたか」
「おう」
 芳香は爪を引っ込めた。神子も剣の柄から親指を離した。壁や天井、床の暗がりに視線を配ってから、彼女に訊ねた。
「青娥は?」
「地下だ」
「研究室?」
「そうとも云う」
「久しぶりに帰って来たと思ったら、まだ籠もっているのですか」
「かれこれ七日七晩だな」
「好く覚えていましたね」
「偉いか?」
「ええ」
「そうかそうか」
「――邪仙の奴は、まだ“研究中”ですよ」
 屠自古だった。まるで曇り空から雨粒が降るかのように自然に、壁をすり抜けて現れた。輪郭がぼやけていて、左腕の辺りは向こう側が透けて見えた。
「あまり気を散らしてはいけませんよ、屠自古」
 彼女は答えずに、細めた瞳をこちらに向けた。耳当てを片方、外すべきか迷った。あまりに遠いのだ。彼女の声が。
「どうぞお構いなく、太子様」屠自古は云った。「……あいつ、死体をいじくるだけじゃ飽き足らなくなってきたみたいです。太子様の風聞にも関わります。早めに止めさせた方が」
「何か――」言葉を探す。「何か、非人道的なことでも?」
 彼女は苦笑を漏らした。「邪仙の奴が、仁(ひと)の道に沿ったことをするとでも御想いですか? とにかく、太子様からも云ってやって下さい。そろそろ痛い目のひとつでも見るべきです、あいつは」
 芳香が横槍を入れる。「……痛いのは厭だなあ」
「青娥のやることに干渉するのは、気が進みませんね」
「そこを何とかしなければ――」
「そもそも、どうして君は彼女の研究を知っているのですか。実際に見てきたような口振りだけど」
 屠自古は押し黙った。何かを口にしかけ、何かを押し留め、何かを諦めた。伏せられた睫(まつげ)の長さが視界に焼き付いた。彼女が行ってしまってからも、神子は屠自古の消えた壁面を長い間、見つめていた。
「私は、……不味ったか?」芳香が呟いた。「私は、何か余計なことを云ってしまったのか?」
「君のせいじゃない」
「蘇我様、哀しそうだった」
「分かるのですか」
「青娥が哀しむ時と、似てるんだ」
「ふむ」
 あごに指を当てて、時間を掛けて考えた。
「――そう云えば、どうして芳香はここに?」
「休憩だ。地上の空気を吸って来なさいって、青娥が」
「お腹は空きませんか?」
「大丈夫、おやつがある」
「おやつ?」
「おう」
 芳香は舌を伸ばして、赤黒い物体を露わにした。
 それは人間の耳だった。

   #03

 秦こころは額に浮かんだ汗を拭った。
 散々に迷った末に、ようやく無縁塚に辿り着いた。忘れられた道具の墓場。布都に渡された地図を頼りに、自力でやって来ることが出来た。「福の神」を被って、空に回転式のガッツ・ポーズを放った。
 塚を再び散策する。外の世界から流れ着いた忘れ形見の他にも、白骨が土壌から顔を覗かせ、初夏の日差しに洗われている。「狐」を頭に掛けて、そのひとつひとつに合掌した。
 奥には先客がいた。耳の間に木の葉を乗せた狸達に囲まれて、二ッ岩マミゾウが道具を拾っては、あれこれと検分していた。こちらに気づいて、挨拶代わりにもふもふの尻尾を挙げてみせた。
「面霊気かい、どうしてここに」
「宝探し」
「無縁塚は、おぬしのような付喪神には危険じゃぞ」
「危険?」
 思わず「猿」を着ける。
「ただでさえ道具は境界を越えやすいからの。下手を打てば、二度と戻って来れなくなるぞい」
「それは困るな。でも、ここには面白い物が沢山ある」
「味をしめたのう」
「道士の物部と来たんだ、昨日。世話になった」
「この場所は……」マミゾウは煙管(きせる)を咥えた。「ここは追憶の香りに満ちておる。浮ついた心を持つ人間は引っ張られてしまう。付喪神は特にその傾向が強い。近づかない方が賢明じゃな」
「そうなのか」
 俯いて「姥」を被った。
 指先に灯した火を消して、マミゾウが輪っかの煙を吐き出す。「なに、珍しい物はここ以外にも沢山ある。落ち込むでない」
「うん」
「時に、昨日は何を拾った?」
「壷だ。なかなか綺麗だぞ」
 懐から陶器の欠片を取り出した。壷の取っ手だ。マミゾウの瞳が細まり、眼鏡が光った。受け取った欠片を太陽にかざし、煙管の火皿でノックするように叩いた。視線を合わせないままに、彼女は声を低めて云った。
「……壷の本体は?」
「布都が持って行ったよ。お土産にするんだそうだ」
「仙界か。面倒だのう」耳が震えるように揺れる。「まあ、儂がどうこうするような問題でもないか」
 化け狸は壷の欠片を袂にしまい込んだ。さも当然であるかのように。
 こころは「般若」を引っかけて彼女に詰め寄る。「――ちょっと!」
「これはいかん。おぬしが持っていても碌なことにならんぞ」
「返せってば!」
「仕様がない奴じゃのう……」
 マミゾウが代わりの物(団子屋のみたらし)を約束してくれるまで大立ち回りを演じた。狸達が腹太鼓を叩いて、二人の争奪戦を囃し立てた。

   #04

 布都の掛け声に、弟子達が応じる。
 修行の間は吹き抜けになっている。潤みを帯びた空気が、そよ風に乗って板敷に滑り込む。巣に帰る小鳥のように柔らかに、頬に流れる汗を乾かしている。
「気のせいでしょうか」
 隣に腰かけた茨木華扇が云った。
「以前お訪ねした時よりも、人数が減ってはいませんか?」
「好くお気づきに」神子は答えた。「面霊気の異変が結ばれて、人びとが生活を取り戻しましたからね。里の恋しさに、少なくない人数が道場を去りました」
「それは、……残念でしたね」
「この方が広々として好い。静かだ。篩いに掛けたおかげで、雑音も大分マシになりました」
 耳当てに指を触れた。広間の端に腰を下ろしていても、彼らの声は聴こえている。隣に座っている彼女の声も。
「――青娥のことですか?」
「え?」
「お話があるのでは?」
 持参したみたらし団子を口に含んで、華扇が庭先の松の木に視線を向ける。小鳥が一羽、枝先に止まっていた。啼いている。この仙人にも彼の声は聴こえているのだろうか。
「初めて伺った時はびっくりしました。あの仙人のお弟子さんだとか」
「正式に弟子入りして修行を請うた訳ではありませんが」
「……少し前、あの方に会ったことがあるんです」
 青娥は鬼神長のご訪問を受けたらしい。モグラのように博麗神社まで穴を掘って、辛くも危機から脱したそうだ。華扇はそう語った。
 これには苦笑するしかない。「……相変わらず無茶するなぁ」
「とても邪悪な仙人と、知り合いから聞きました。――っ、お気を悪くされたのでしたら、ごめんなさい」
「好いですよ。事実、彼女は邪仙ですから」
 華扇は考え込むように顔をしかめながら、またひとつ、持参の団子を抹殺した。
「……私には、あの方が本当に邪悪な仙人なのか分かりませんでした。実際に話をした限りでは、気の好い、自由奔放な方だと」
「自分の欲望に忠実なことが“悪”だと云うのなら、青娥ほど純粋な悪人はそうは居ないでしょうね」
「寿命に見合った徳を積まれていないと?」
「受難や苦痛でさえも、己の愉しみに変える。まるでお遊戯でもしているみたいに、嬉々としてすり抜けてしまう。それだけの力を彼女は持っています。――むしろ青娥こそが、仙人らしい仙人と云えるのかもしれません」
 華扇が落ち着きなく身じろぎした。
「青娥は好く“邪仙に堕ちた”と自嘲しますが、私には、彼女は彼女なりのやり方で“邪仙に昇った”ように聴こえます。卑屈も負い目もないんですね。誇りにさえ思っているのかもしれない」
 彼女は何かを考えているようだった。眉間に皺を寄せて、思索をまとめているように窺えた。笏で口元を隠す。いつもの癖で、つい問いかけてみたくなる。貴方にも、ひとに語れぬ負い目があるのですか、と。
「太子様」屠自古が顔を覗かせた。「菓子を焼きました。お召し上がりになりますか?」
「ええ、頂きましょう」
「お菓子ッ?」
 華扇が顔を跳ね上げた。眉間の皺は芸術的なまでに消えていた。
「山の仙人様も、どうぞこちらへ。お口に合えば好いのですが」
「私なら大丈夫です!」
 指導に熱心な布都は、独りだけ菓子にありつけなかった。

   #05

 数日ほど経った頃、日課の散歩に例の壷を持参した。
 布都がせっせと磨いてくれたおかげで、表面は幾分の光沢を取り戻している。陽に当てて中を覗いてみたが、黒い染みのような物が底に見える他には何も無い。裏返してみても、模様に眼を凝らしても、尻尾を出してはこなかった。
 少女は今日も沢に居た。岩に腰掛けて書を読んでいる。水のせせらぎ。風の呼び声。草の竪琴。小鳥の唄。無可有の音色に耳を澄ませながら、しばらくの間、立ち止まっていた。
 大した期待は込めずに、やがて神子は呼びかけた。
「屠自古、――刀自古なのですか?」
 少女が顔を上げた。初めてのことだった。後ろの髪が逆立つのを感じた。正面に向き合い、ようやく悟る。屠自古ではない。
 息を吸い込んでから、耳当ての片方を外した。音の城壁に鼓膜を揺さぶられ、足を踏み替えて堪えた。それでも、彼女の声を聴き取ることは出来なかった。小さく溜め息をついて、耳当てを戻す。
 彼女の視線を追いながら、勘を頼りに壷を掲げてみた。
「……これが欲しいのですか?」
 少女が頷いたので、音を立てないようにして近づき、彼女に壷を渡した。言葉は無かった。表情も無かった。丸い瞳に陶器の輝きを映し込んでいた少女は、右手を壷の中にそろそろと入れた。
 次の瞬間、耳当てを手のひらで押さえつけた。永い永い、音の無い悲鳴だった。壷が地面に投げ出される。少女が泣きながら右手を滅茶苦茶に振る。壷の後を追って草の絨毯に落っこちたのは、真っ黒な皮をまとった蠍(さそり)だった。
 片膝を突きながらも、少女に駆け寄ろうとした。彼女は白目を向いて、地面に頭から倒れ込んだ。血の混じった泡が唇からこぼれ落ちていった。青ざめた肌は既に土気色に染まり始めていた。
 手を触れることさえ出来ずに、唐突に、少女は跡形もなく消え去った。蠍も姿を消していた。壷は割れることなく、そのままの姿で草の原に鎮座していた。
 耳当てから手を離して、震える息を吐き出す。
「すまない」呟きが爛れ落ちた。「そんな筈では」

   #06

 布都はいない。屠自古もいない。代わりに食事処で休んでいたのは霍青娥だった。屠自古お手製のアップル・タルトを、すこぶる高性能な掃除機のように口に放り込んでいる。布都の取り置き分の筈だったが、神子は何も云わなかった。
「――むぐ、あらら、豊聡耳様っ?」青娥はハンカチで口元を覆った。「これは見苦しいところを。お腹が空いて空いて、今にも穴が空きそうになってしまって……」
「構いませんよ、青娥」
 対面のカウチに腰かけた。胸の内に巣くう虫は去らなかった。背もたれに身を沈めて、腹の底から息を吐き出した。シーリング・ファンが終わることのない輪廻の運動を続けている。
「如何されました?」
「疲れたのです、少しだけ」
「お薬でも煎じましょうか」
「貴方の薬はもう御免です」
「それは残念」
 碧のような瞳が細められた。彼女がカップの紅茶を飲み干すところを、神子は眼を逸らすことなく見ていた。
「……貴方だったのですね、青娥」
「はい?」
「髪の色」姿勢を前かがみに倒して訊ねる。「昔からそのような色では無かったでしょう?」
「ええ、まあ」
「染めたのですか?」
 青娥は天井に視線を移した。「……幼い頃に、重い病気にかかりましてね。命まで危ぶまれたのですが、父の丹薬のおかげで助かりました。その代わりに、髪の色がごっそりと抜け落ちてしまったのです。――ええ、それで染めました」
「毒虫に刺されたことは?」
「そんなの覚えておりませんわ」
「例えば、蠍とか」
「それこそ生きてはおりません。蠍の毒は致命的です」
 青娥は右手の甲を左手の指でさすった。それは例の少女が蠍に刺された箇所である筈だった。傷痕らしきものは見当たらない。
「髪の色だけではありませんでしたね。肌の色も真っ白になりました。病み上がりの私を見て、周囲の人間は怖がりました。……私が父に憧れるようになったのは、思えば、――そう、あの時が、――でもその後、すぐに出て行ってしまいましたけどね。私は取り残されました」
 彼女の声は平板だった。壁に投げつけられた粘土みたいに扁平な音質で、何よりも静かだった。
 皿を片づけて、彼女が振り向く。
「豊聡耳様、少し歩きませんか。外の空気を吸いたいのです」

   #07

 羽衣に乗って、青娥が斜め上を泳いでいる。日差しを浴びて初めて分かったことだが、彼女の眼の下には隈が浮いていた。研究のことを訊ねると、ようやく小閑を得たという返事が戻ってきた。
 屠自古の進言を思い出しながら、神子は口を開いた。
「今はどのような実験を?」
「刺激と苦痛の関連について、少し」
「僵尸は痛みを感じないはずでは」
「その筈なんですけどね」青娥は溜め息をつく。「苦痛を覚えずとも、ごく稀に怯んでしまいます。その隙こそが命取りになるのです。向こうの連中を相手にしている時などは特に。見かけは腐っていても、完全には神経が死んでいないのかもしれません。そこで、肉体に刺激を与える実験に乗り出したのです」
「……生きている人間に、それを?」
「ええ、必要があれば」邪仙は頷いた。「他にも、死体の頭蓋や脊髄を切り開いて、神経系に電圧を加えます。そうすれば、手足の先が雛鳥のようにぴくぴくと動きます。何処まで腐れば反応を示さなくなるか、――そのデータを取っているのですよ」
 神子は立ち止まった。笏を口元から離して、青娥の顔を凝視しながら、唇を動かした。
「……それで、屠自古が」
「その通りですわ。蘇我様には本当にお世話になりました」
「無理やり協力を取り付けたのですか?」
「いえいえ、昔から、――つまり豊聡耳様がお目覚めになるずっと前からですが、――蘇我様は実験に協力的でした。……でも、今回はちょっと手こずりましたわね。被験体が生きているのか、それとも死んでいるのか、たったそれだけの違いですのに」
「屠自古を解放しては頂けませんか、それも今すぐに」
「解放だなんて、そんな大げさな――」
「今すぐです」
 半歩、詰め寄った。青娥は笑みを深め、手に持った鑿(のみ)で額を小突いてきた。
「……豊聡耳様は、それに物部様は、千四百年の永さを、重みを、決してお分かりにはならないのでしょうね。蘇我様はもう悟り切ってしまわれたのですよ。かつては自分の中にあった確かなきらめきが、今はもうひとつ残らず溶け崩れてしまっていることを」
 好い機会ですから、――少し、お話し致しましょうか。
 青娥は背を向けて、夏の始まりの空を見上げた。
「どれだけ遠い部屋まで逃げ込んでも、人間は過去から逃れることは出来ませんわ。道士の求める“道(タオ)”とは何でしょう? それは宇宙の真理などではありません。生きることから遠ざかるための“逃げ道”に過ぎないと、私は考えております。豊聡耳様も例外ではない。貴方もまた、ご自身の命の重みから逃れている」
「それは、……それは青娥も同じではないですか?」
「仰る通りですわ。そう、仙人を志す者が本当に逃れなければならない存在とは、彼岸の連中からではなく、常に過去の自分自身からです。そして、どこまで逃れようとも、自分から身を隠すことなど永久に出来ません」
 地獄はここにあるのですから。
 青娥は鑿の先を自身の額に当てた。
「苦を捨てる代わりに快を捨て、死を捨てる代わりに生を捨て、過去を捨てる代わりに未来を捨て、――最後に残るものとはいったい何だと思われますか? ――……」
 神子は答えなかった。
 青娥の顔が視界いっぱいに広がった。
「――“無”ですよ。豊聡耳様。天道とは、すなわち“無”です」
 逆光で青娥の表情は影に隠れてしまった。それは彼女の“声”も同じだった。
 瞬きも出来ないままに、神子は青娥と向き合っていた。
「豊聡耳様は、あらゆる“声”を聴き取ることが出来ます。ですが、ご自身の“声”だけは拾い上げることが出来ずに、いつまで経っても満たされないままでいらっしゃるのではないですか? その理由は単純明快です。――貴方自身が“無”になったからですよ、豊聡耳様」
 神子は、言葉を絞り出した。
「それでは、青娥、貴方はどうして仙人を続ける」
「面白いからですよ。世界を知り尽くすには、人間の生はあまりに短か過ぎます。私はもっともっと、この宇宙の広さを味わいたい」
 どうせがどうせの、“無”の旅路。
 せめて、最期まで楽しまなければ損ではありませんこと?
 そうでしょう、――豊聡耳様?
 そうですよね、――……神子様。

   #08

「いったいどうしたことなのだ、あのご様子は」
 布都がカスタード・クリームをかき混ぜながら云った。
「ここ最近、すっかり塞ぎ込んでおられる。平気な顔を繕っておられるが、我には分かる。あの時と同じ、隠しておられるのだ。――のう、蘇我?」
 屠自古は熟れた苺を吟味しながら答えた。「太子様には太子様のお考えがあるんだ」
「なんだ、おぬし。不安にはならんのか?」
「私らが騒いだところで何も始まらん」
 布都が唇を尖らせる。「昔のおぬしは、我よりもずっと心配性だったではないか。事あるごとに宮(みや)に駆けつけるものだから、我の出番が無かったぞ」
「じゃあ、今から物部がお相手してやれよ。邪魔はしないからさ」
「我はそんな積もりで云ったのでは――」布都が手を止めて、こちらに銀灰色の瞳を向けた。「……どうしたのだ、蘇我。怒っておるのか?」
 廚(くりや)の窓から外を透かし見た。昨夜から降り始めた雨は、今も止む気配を見せない。雷鳴が遠くから胎動を伝えている。
「もう怒る気力もないさ。これだけ待たされればな」
 云ってしまってから、云うべきでなかったと思った。横目で様子を窺うと、銀髪の尸解仙は表情を落っことしてしまっていた。漂白されたみたいに、顔色まで真っ白に霞んで見えた。
「物部、その、――あれだ」正面に視線を戻す。「前にも云ったが、この身体は存外に便利だ。怨みも枯れた。蒸し返してしまったのは謝る。だからさ、もう私に構わないでくれないかな。見ていて気分が悪くなる。……こういう、粘っこいの、私は嫌いだ」
 布都が何かを云いかけた。唇が死にかけの鼠のように動いたが、言葉が発せられることはなかった。
「もう赦すとか、赦さないとか、そういう問題じゃないと思うんだよ。消毒は済ませたんだから、後は放っておくのが一番だろ。無理に瘡蓋を剥がそうとするのは、幼い子供のやることだ」
 彼女から背を向ける。廚の隅に置きっぱなしになっていた陶器の壷を拾い上げる。
「そういやこれ、磨いたら中々どうして、悪くないじゃないか。痰壷にするには惜しいくらいだ。花でも生けようか。紫陽花はどうだ? もう名前も覚えていないが、そう、あいつが好きな花だったな……」
 屠自古は壷の中を覗き込んだ。

   #09

 文字が踊っている。読ませまいとしているかのように、視界の中で揺れている。追いかけるばかりで、少しも頭に入らない。手が届かない。諦めて巻物を閉じ、封をして横になった。
 取り留めのないことを考えている。かつて青娥から聞かされた話を、今になって思い返している。西洋にも“神の子”と呼ばれた男がいたらしい。聖人と讃えられたが、後に処刑され、約束の地で復活を遂げた。人びとは彼を信じた。つまり、神様の存在を信じた。
 神子は寝返りを打った。
「……貴方自身が“無”になったからですよ」
 雨音に呟きが紛れ込んだ。
 傘を差して、仙界を歩き回った。岩場を、林を、小川を、谷を。彼女は何処にもいなかった。言葉の一切は失われ、声を聴かせてくれる相手は煙雨ばかりだった。ぬかるんだ大地は余所者の跳梁を嫌う。靴はすっかり泥で汚れてしまった。深呼吸してから、我が家へと歩を向けた。
 階段に足を掛けたところで、叫び声が雨のカーテンを切り裂いた。稲妻が視界にぱっと閃き、活火山の噴火のような音が轟いて、足元がふらついた。神子は顔を上げて道場に駆け込んだ。回廊を突っ切り、土足で板の間を走り過ぎ、食事処に突っ込んだ。
 尻餅を突いた布都が、震えながら頭上を見ていた。身体中から電撃を迸らせながら、怨霊が腕をだらんと下げて、尸解仙の姿を見下ろしていた。耳の奥が強く痛み、片膝を突きそうになる。
「――屠自古っ!」
 布都がこちらを向いた。首を激しく横に振る。唇は震えるばかりで言葉にならない。烏帽子が床に落っこちる。屠自古の足元まで転がり、雷の直撃を喰らって引火した。
「屠自古、鎮まりなさい。屠自古!」
 呼びかけに答えはない。剣の柄に手をかけて詰め寄ろうとしたが、雷撃と、赤黒く染まった激情の渦にあてられて、神子の足は止まった。布都に覆い被さった怨霊は、無言でその首を絞め始めた。身体中に雷を流されて、尸解仙の手足の先が実験に使われる蛙のように痙攣した。
 もう意を決する他になかった。剣を引き抜き、耳奥の激痛に耐えながら足を引きずる。怨霊の横っ腹はがら空きだ。気をそらすことさえ出来れば。狙いを定め、柄を握る手を後ろに引いた。
 その腕を、誰かにつかまれた。
 宮古芳香だった。
「……騒々しい。何事ですか?」
 廚の入り口に青娥が立っていた。
「せっかく好い気持ちで眠っていたのに」
 足に括り付けていた呪符を抜き取り、唇に当てて、青娥は早口に呟いた。屠自古の身体が硬直し、言の葉が流れるにつれて力が抜けてゆく。着物の裾に無数に貼り付けられていたお札が、共鳴するように赤い光を放ち、彼女の雷(いかずち)を治めてゆく。終わりは呆気なかった。神の末裔の亡霊は、その場に崩れ落ちた。
 剣を放り捨てて駆け寄り、煙を上げている布都の身体を抱き上げた。
「太子様」彼女は黒煙を吐きながら云った。「我よりも、蘇我を」
「私に任せろ」
 芳香がその場に腰を落ち着けた。礼を述べて、彼女の膝に布都の頭を横たえる。次に屠自古の顔を覗き込んだ。彼女は春を迎えた羊のように深い眠りに落ちていた。
 別状は無さそうだ。
 マリアナ海溝よりも深い息が、自然と口から零れ出た。
 雨音が、ようやく世界に帰って来る。
 屠自古の“声”は、しかし、脳裏から去ってはくれなかった。
「……それですか、元凶は」
 青娥が陶器の壷に近寄った。鑿の先で検分するように叩き、微笑みを浮かべた後、薙ぎ払うように一閃した。壷は真っ二つに割れてしまった。断面から立ち昇った煙が青娥の手のひらに収斂し、最後には朧げな球の形になった。
「これは好いものですね」邪仙は云った。「豊聡耳様、私が頂いてもよろしいですか?」

   #10

 近場の部屋に二人を横たえて、後事を弟子達に任せてから、青娥の後を追った。回廊の角で追いつく。礼を云って頭を下げると、彼女は口元に手を当てて笑った。
「豊聡耳様、随分としおらしくなられましたね」
「今回ばかりは、己の無力を突きつけられました」
「私は構いませんわ。思わぬ収穫もありましたし」
 腰帯に括り付けた小袋を叩く。
「それよりも、――お怪我をされていますよ。ここです」
 頬を触れられて、初めて痛みを感じた。
「火傷、ですか」
「金剛不壊の仙人の身体も、あのような類の攻撃には脆いもの。連中はそうした弱点を突いてきます。手段を選ばない、姑息な手合いです」
 神子はその場で青娥に応急処置を受けた。消毒液とガーゼだ。その手つきは柔らかだった。死体を弄んでいるようには思えなかった。ガラス細工でも嗜みそうな、綺麗な指だった。
「しばらくは仙丹を控えた方がよろしいでしょう」
 頬に手を触れる。四角いガーゼを貼った有様は、まるで転んで怪我をした里の子供のように見えることだろう。神子はうつむいて、思いつくままに言葉を転がした。
「青娥」
「何です?」
「先程の私は、貴方にはどう見えましたか?」
「…………」
「――失望、しましたか?」
 青娥は神子の言葉を無視した。
「時々、ああいうことが起こりました。来る日も来る日も霊廟で独りきりですから、無理もないことでしょう。蘇我様が今も自分を保っておられるのは、決して心が強いからではありません。それを忘れないで頂けると、私としても手間が省けて助かりますわ」
「分かりました」神子は頷いた。「……教えられてばかりですね、貴方には。仙術はもちろん、政治についても、多くの助言を頂きました。もしかしたら――」
 一瞬だけ、押し黙る。
 雨足が強まった。
「貴方は、ひとの心を知っている。表も裏も、好い面も悪い面も、あらゆる点を熟知している。ずっと考えていたんです。ひとは貴方のことを外道だと罵るかもしれませんが、私にはそうは思えない。……青娥、貴方は仁(ひと)の道を知りながら邪仙になったのではないですか? なろうと思えば、貴方はいくらでも天人になれたのではないですか?」
 彼女の微笑みは崩れなかった。
「私はしがない邪仙ですわ。でも、一端(いっぱし)の自尊心くらいは持ち合わせているつもりです。だから豊聡耳様、どうか立ち直って下さいな。貴方が落ち込んでしまわれると、私まで惨めな気持ちになってしまいます」
 青娥が手を伸ばす。神子の黄金色の髪に触れる。耳当てが外されて、彼女の顔が近づいてくる。頬が触れ合う。神子の耳に、薄桃色の唇が寄り添う。引き延ばされた数秒間。囁きもない。呟きもない。唇から漏れた冷たい空気だけが、耳を撫でつけては消えていった。
「……もうひと眠りしてきますね」
 青娥は顔を離して云った。
「お大事に」
 彼女は去ってしまった。神子はその場に立ち尽くしていた。唇を当てられた箇所に指先で触れていた。沼の底のような沈黙に身を浸しながら、青娥の吐息に乗せられた想いについて、ひとしきり考えを巡らせていた。

   #11

 梅雨明けの空は、眼に痛いくらいに青い。
 布都を散歩に誘った。彼女は傍らで眠り続けている屠自古に眼差しを配ってから、無言で頷いてみせた。まだ意識は戻っていないが、安らかに眠っている。
 仙界という名の箱庭を、懐かしき風景の中を、二人は歩き回った。盛りを迎えた若葉が、萌え立つ草原に水の雫を落としていた。濡れた夏草は陽光を浴びて、真珠のようなきらめきを視界に届けてくれた。空高くには小鳥が飛んでいた。そこには、いつか夢見た自由があった。
 小川に架かる、丹塗の橋を渡っていた時分のことだった。
「太子様。我は……」布都が呟いた。「我は、蘇我を。――屠自古を」
「ええ」神子は答えた。「私もです」
 布都は川の流れに眼を留めた。烏帽子は無く、髪留めを外した銀髪が背中を覆っていた。欄干を握りしめる手に力がこもっていた。
「贖罪に意味が無いことは、重々承知しているつもりです。しかし、我には他に方策が思い浮かばぬのです。それで、やり方が不味くて、いつも喧嘩になってしまいます。蘇我は『放っておくのが一番だ』と云いますが、それでも、我は――……」
 続く言葉は形となっては表れなかった。代わりに吐き出されたのは、嗚咽にも似た潰れた声だった。布都は空咳を転がし、色の無い笑顔をこちらに向けた。
「……ようやく、我にも納得がゆきました」彼女は云った。「待つことは、辛いものです。――本当に」
 頷きを返す代わりに、布都に歩み寄った。欄干に置かれた手を取り、その痩せた手を、痛くならないようにと気をつけながら両手で握りしめた。尸解仙の少女は、思っていたよりも体温が低かった。自分だって、そうだ。屠自古も、芳香も、青娥も、そうだろう。
 人間としてあるべき温もりを、永久に失ってしまっている。
 皆が皆、輪廻の環から逃れてきた、――その代償だ。
「太子様、お手を、――我には勿体ないです。どうか……」
 布都が膝を突いて手を解こうとする。同じように腰を落とし、指先に力を込める。その手を放すまいと、ただ抗う。こんなに簡単なことさえも、永い眠りの内に忘れてしまっていたのだ。

 橋を渡った先に、彼女はいた。書を閉じていた。始めからこちらに眼差しを注いでいた。神子は向き合う。正面から真っ直ぐに。小さな滝で。小さな少女と。遠い声で。遠い部屋に。
「何奴っ!」布都が前に飛び出した。「道場の者ではないな、名乗れ!」
 病み上がりの少女。頬がこけていて、髪は色が抜けて真っ白になっている。肌の色も同じだ。雪というよりは、まるで灰のような白さだった。彼女は布都の言葉に動じない。神子のことを見つめている。草の絨毯に立ち上がると、小鳥の羽を思わせる薄い笑みを浮かべて、小さく手を振った。彼女が感情らしい感情を表に出したのは、それが初めてだった。神子も笏から片手を離して、彼女に振り返した。
 少女が口を動かす。音は無く、風だけが吹く。次の刹那には、既に彼女は消えてしまっていた。始めから存在などしていなかったかのように、跡形もない。立ち尽くす二人と、葉擦れの音、夏草の香りだけが取り残される。
「……青娥、貴方は」
 呟きも風にさらわれた。空の高さを確かめると、既に先の小鳥の姿はなく、代わりに仙界には居ないはずの猛禽が翼を広げていた。神子は手のひらを彼に向かって差し伸ばした。声の届かぬ遥かな高みで、命を磨り減らしながら、彼は舞っているのだ。いつの日にか、羽が抜け落ち、疲れ果て、大地に墜ちゆく運命を知りながら。

   #12 Epilogue

 カタコンベのような、地下の研究室。陽が差さなければ、夜という闇は永遠だ。血の染み込んだ泥土を石油ランプが照らし、壁や天井に打ち寄せる影を焼き付けている。
 宮古芳香は、その墓地の番人だった。
 侵入者が現れたのは、匂いで分かった。芳香は首を起こすと、少女の前に進み出た。立ち止まった少女の帯に剣の鞘が擦れて、軽快な金属音が転がった。
「ここは通さんぞ。早々に立ち去れい」
「もう忘れましたか?」
「……うん?」
 相手の顔を凝視する。
「おー……、おう。うん。名前は思い出せないが、しかし、――」
「私のことは分かりますね」
「当然だ、任せろ。ちゃんと守っていたんだぞ」
「偉いですね。感心しました」彼女は朗らかに頷いた。「青娥は何処にいるのですか?」
「研究が終わって、今は休んでるんだ。静かにしないといけない。でも、私は小声で喋ることが出来ないんだ。だからいつも青娥を起こしてしまう」
 筋肉の調整が上手くいかないのだった。芳香は顔をうつむけて己の非力を恥じた。
「好く寝ていますか?」
「おう、地面に落っこちた小鳥みたいに眠ってるぞ」
「それは眠っているのではなくて、死んでいるのではないですか?」
 首を直角に傾けて答える。「そうなのか? 私がこれまで守ってきた者はみんな、死んだように眠っていたから、区別が付かないんだ」
「生きている者は、いずれは目覚めるものです」
「失礼な。私は死んでいるが、こうして目覚めているぞ」
 少女は口を半開きにして凍りついた後、突然に笑いだした。
「そうでした。私達はもう、……いえ」
 芳香は彼女を案内した。出来るだけ音を立てないようにと。僵尸の身体では、それもひと苦労だ。迷路のような通用口を抜けて、主人の寝室に辿り着いた。「娘々の仮眠室」と書かれた板が、入り口に打ち付けられている。
 少女が耳当てに指を触れた。「……この音楽は」
「青娥の好きな曲だ。何度も教えられたから、私も題名くらいは覚えているぞ」
 それは、クロード・ドビュッシーの『夜想曲』だった。
「この音楽を流していると、好く眠れるんだそうだ」
「そう、ですか」
「私もこの曲は好きだ。懐かしい気持ちになる」
 彼女の声が詰まった。「……私も好きですよ、心から」
 主人は寝台に身を横たえていた。傍らの丸テーブルの上で、蓄音機が調べを奏でている。残り僅かの蝋燭が命の灯火のように、暗い世界を照らしている。読みかけの本が、指の先で力尽きている。
 彼女は青娥の枕元に膝を落ち着けた。寝顔を眺めてから、手を握りしめる。挟まれる沈黙。呼吸音。鼓動を感じ取ってもらおうとするかのように、その手を、自身の胸に引き寄せる。
「……見つけましたよ。貴方の“声”を」
 主人の眼が開いた。
「と、豊聡耳様っ、どうして此処に?」
 半身を跳ね起こし、手元を探りながら叫びに近い声を上げる。
「――いえ、それよりも見ないで下さいまし。私は寝起きなのですよ!?」
「それがどうかしましたか?」
「鏡、ああ、鏡は何処に……」とうとう毛布で顔を隠してしまった。「恥ずかしいですわ。怨みますよ、……もう」
 記憶にある限りにおいて、頬を染めて悔しがる主人の姿を、芳香は初めて見た。
 少女は堪え切れずに、また笑いだした。「大丈夫ですよ。変なところはありません。いつも通りです」
「では、――では、どうしてそんなに笑ってらっしゃるのですかっ?」
 空色の眼が毛布から覗いた。頬は熟れたトマトのようだ。
 豊聡耳神子は、瞳を柔らかに閉じる。両手で耳当てを外す。
 言葉は渡りゆく。風のように。鳥のように。
「……聴こえていますよ、青娥」
 遠くから、遠くまで。
「聴こえています、青娥」


~ おしまい ~


(引用元)
 Truman Capote:Other Voices, Other Rooms, Random House, 1948.
 河野一郎 訳(邦題『遠い声 遠い部屋』)新潮文庫、1971年。

(原題)
 Die Flucht aus der Passion
 ご読了に感謝いたします。本当にありがとうございました。

 山桃氏がお話のイメージ・イラストを描いて下さりました。URL は以下になります。
 >“Utopianism” http://www.pixiv.net/member_illust.php?mode=medium&illust_id=44598893

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 以下、コメント返信になります。長文を失礼します。

>>5,7,11
 ご感想をありがとうございます。とっても嬉しいです。
 好い物語を書こうという想いは、これからも守り続けていきたいですね。
 コメントを頂くことで、次もやってやろうと、気持ちが改まります。

>>6
 素敵だなんて光栄です。どうもありがとうございます。
 大げさと思われるかもしれませんが、救われた気持ちになりました。
 これで、次のお話も頑張れそうです。またお会いしたいですね。

>>10
 コメントに感謝いたします。
 『神霊廟』のテキストでひと際眼に焼きついたのは、1400年という時間の隔たりでした。
 リスタートを始める彼女達の描写は、あらゆる意味において注意力と集中力が必要でした。
 再会の後も続いてゆく複雑な縁の道、それを辿ることは難しくも楽しかったです。

>>16
 どうもありがとうございます。
 物語を書いている中で、特に力を注いでいるのは、そして書いていて楽しいのは、
 やっぱり最後の場面ですね。エピローグという言葉の響きが、私は大好きです。
 なので、好きと仰って頂けて嬉しいです。重ねて感謝いたします。

>>17
 ご感想、ありがとうございます。
 登場させる以上は何かしらの印象を残したい、そんな想いでいつも書き綴っています。
 素敵と仰って頂けて有り難いです。『神霊廟』のキャラクターは謎めいた背景があり、
 台詞や行動の描写には苦労しました。その中で、芳香さんはシリアスに傾き過ぎた
 物語のバランスを整えてくれる、大切な役割を果たしてくれました。感謝ですね!

>>22
 ご感想を残して下さり、感謝いたします。ありがとうございます。
 二人と屠自古さんとの間に開いてしまった距離や空白を、どのように描写するか、
 とても悩みました。屠自古さんがあれこれと語ったりするのは違和感があったので、
 第三者である青娥さんにお頼みした形になりました。他人を省みない青娥さんも、
 ずっと霊廟を守り続けてきた屠自古さんには思うところがあるのかもしれません。

 少しずつでも好いので、胸に染みこんでゆくお話を書きたいと常々思っています。
 コメントを頂いたことで、もう一歩、前に進めそうです。改めて感謝いたします。

>>23
 コメントを下さり、ありがとうございます。嬉しい限りです。
 最後の青娥さんの恥ずかしがる姿から、見た目相応の人間の少女らしさを感じ取って、
 神子さんも少しばかり救われたのだと思っています。とうとう彼女を見つけたのですね。

 物語のテンポは保ちつつも、深みや重みを味わってもらえたらと思いながら書いています。
 過去の記憶を引きずりながら、彼女達は何処まで遠くに行けるのか、見守りたいですよね。
 唯一、肉体らしい肉体を持たない屠自古さんが抱える孤独は如何ばかりか、想像は難しいです。
 このお話を書いて、私も『神霊廟』のキャラクター達が持つ、仄暗い魅力に気づけました。

>>24
 お読み下さりまして、心から感謝いたします。
 直接的には過去のお話を取り扱わずに、説明を抜きにして、人物の台詞と行動だけで、
 何処まで読者の方々の想像力を喚起できるだろう、と執筆中は頭を悩ませていました。
 結果的には、その一端なりとも受け取って頂けたものですから、本当に嬉しく思います。

 二度目の人生を始めるための対価を引きずりながら、それでも彼女達は生きてゆくのでしょう。
 それを想い出に変えられるだけの時間が後どれだけ必要なのか、私にも想像がつきません。
 次はもっと素敵な物語を書きたいですね。重ねて感謝いたします。ありがとうございました。

>>26
 お褒めの言葉、本当に嬉しいです。物語のテンポを保つために分量を削ったはずが、
 それで却って内容が凝縮されることもあるようです。不思議ですよね。
 尸解仙になった経緯や、青娥さんの空白期間、芳香さんの生い立ちを始めとして、
 『神霊廟』には魅力的な物語が沢山隠れているように思います。

 作り込み過ぎた雰囲気作りは、逆に可読性を阻害するという欠点もあるみたいです。
 限界を越えない程度に独自の方向性を創り上げるのは、楽しくも難しい作業ですね。
 だからこそ、素敵と仰って頂けて本当に嬉しいです。どうもありがとうございました。

>>30
 ご読了に感謝いたします。
 私自身、神子さんや青娥さんを始めとした神霊廟の方々は、一般とは少し違った価値観を持っているように感じていました。
 特に謀略を駆使して仙人を目指した神子さんや布都さん、彼女たちに術を教えた青娥さんはそれが顕著だと思います。
 人間の味方をしているようで、実は妖怪と同じくらいに人間離れしている、そうした彼女たちの姿や、彼女たちが抱いた気持ちを、
 本作の『ラナウェイ~』というタイトルに込めたのだと思います。
 いろんな考察ができるのも、『東方Project』の大きな魅力ですよね。ご読了、重ねて感謝を申し上げます。

>>32
 ご感想をお寄せくださりありがとうございました。
 『求聞口授』で明かされた、屠自古さんが亡霊になった経緯を読んだときの驚きは今でも思い出します。
 仰る通り、彼女は神子さんにも愛憎入り混じった想いを抱いていそうで、気になります。
 『口授』には怨みはほぼ消えていると書かれていたので、このお話ではその後の微妙な距離を表現したいと思っていました。

>>33
 ご感想、ありがとうございました。
 私も青娥さんの自由奔放で欲望に忠実な姿は魅力的に映ります。
 天衣無縫な邪悪さはある意味でずっと天人らしいですね!
Cabernet
http://twitter.com/cabernet5080
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コメント



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5.100名前が無い程度の能力削除
とても良かったです。
6.100名前が無い程度の能力削除
素敵…!
7.100奇声を発する程度の能力削除
良いお話でした
10.100名前が無い程度の能力削除
醸成された時間のにおいがする。
11.100名前が無い程度の能力削除
良かったです
16.100名前が無い程度の能力削除
良いなぁ、エピローグが特に好きです
17.100名前が無い程度の能力削除
良い。全員素敵だが特に芳香が良い
22.90 削除
考えてみれば復活した二人にとっては「生前」はつい最近でも、
屠自古にとっては記憶が擦り切れるくらい昔の話なんですよね。
じんわりとした良いお話でした。
23.100名前が無い程度の能力削除
んもぅ、最後の娘々は反則でしょう…
過去があってこその日常、と言わせるだけの重みがあったと思いました
千年以上待ち続けただけでなく、邪仙の手伝いをさせられていた屠自古の心情たるや、月次な言葉ですが想像を絶するものだったのでしょうね
24.100名前が無い程度の能力削除
彼女たちの現世にいなかった時間を感じさせてくるSSはなかなか珍しいですね
おみそれしました
今の彼女たちを生きていると言ってしまっていいかわかりませんが
2つの隔たった時間を生きる感覚が感じられました
26.90名前が無い程度の能力削除
濃密な神霊廟ssでした。
神霊廟の設定は謎が多くて、色々と想像力をかき立てられますね。
独特な雰囲気とキャラクターのセリフが素敵でした。
30.70名前が無い程度の能力削除
まともな神子とかせんちゃんのように見えるけど
邪仙である青蛾をただ自分に対して礼儀がよかっただけでいいようにみていたり
倫理をわかっている上で悪いことしてるという普通ならドン引きするサイコパスっぽいそぶりをみせたのに逆に気にいるあたり
やっぱりふたりともそれなりに外道なんでしょうね
それに突っ込まないコメ欄もお察し
自分への些細な礼儀のみで人の善悪をはかるなら自分の些細な利益のために知らぬ他人はどんな迷惑をしようと構わないっていう利己心のあらわれだし
倫理をわかった上でふみにじれるなら化け物 本当の吐き気を催す悪意
彼らは邪仙がタクトをふれば簡単に食人鬼にされるだろう
それも脳死なゾンビじゃなくて脳がすこぶる働いている恐怖の頭でっかち最強食人鬼に

真面目そうにみえていやはや怖い人たちだ
そしてそういう真面目そうな小賢しい怖い人たちがいる限り
知識を餌に人を食人鬼にかえる邪仙は本当に恐ろしいものだ

もっともこの邪仙くんと真面目そうな食人鬼予備軍のおかげで人間は戦争ができるんだろう
まあ個人的にはそういう真面目そうな連中も邪仙みたいなやつも大嫌いだけど

32.100名前が無い程度の能力削除
普段あまり描かれない屠自古が見れて良かったです。もしかしたら、屠自古は布都だけでなく、神子にも知らず知らずの内に怨みを抱いているのかもしれませんね。
33.100名前が無い程度の能力削除
みんな魅力的だけどやっぱり青娥に一番魅力を感じますね
こんな存在になりたいけど 到底無理なので憧れるだけですね